Tumgik
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コロナ禍で初めてはや3年ですか。
振り返ってみればあっという間ですね。
北陸4県の謡曲古跡めぐりも中盤を過ぎました。
引き続きお楽しみください
Tumblrを始めてから3周年を迎えました 🥳
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】8箇所目 番外編その4 2021/6/28
能「楠露」「桜井駅」
楠正成公遺言状 《 南魚沼市雲洞<雲洞庵> 》 南北王朝期の武将・楠 正成(くすのき まさしげ)は、一族・郎党たちをかくまおうとして雲洞庵の座主に預けた。後醍醐天皇の懐刀として生きた。  彼の遺言状は、今も雲洞庵に保管されていてる。
当庵の開山として高僧、傑堂能勝禅師をお招きしました。
傑堂禅師とは後醍醐天皇に仕えた楠正成公の孫、楠正勝公です。
戦に明けくれた時代に無常を感じた正勝公は出家し、名を傑堂能勝と改め、禅僧としてその識見と道力は高く評価されていました。
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】7箇所目 番外編その3 2021/6/28
能「安宅」「烏帽子折」「船辨慶」「船弁慶」 「摂待」「正尊」「屋島」「八島」「碇潜」「橋弁慶」
源義経の写経「大般若」の経切 《 南魚沼市雲洞<雲洞庵> 》 明治期に平泉から譲られたという 義経公と家臣たちの大般若経
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】5箇所目 番外編その2 2021/6/28
見玉不動尊 《 中魚沼郡津南町秋成 》 見玉不動尊(正宝院) 見玉山(みだまさん)正宝院(見玉不動尊)町内の見玉にある、天台宗のお寺です。その由来は、文治元年、壇の浦の合戦で平家が滅びた翌文治二年、平清盛の家臣宮本清左ェ門がお告げによって平家の守護神である不動明王を奉持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院が誕生しました。したがって本尊は不動明王で、像の裏に「清盛内知見」の文字があったと伝えられています。 文政五年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より何をのがれました。その後不動堂も大正三年焼失、大正八年に現在の不動堂が再建されました。本尊・不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています 北方高所の中腹に登る石段七〇段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ二メートル半の金剛力士の仁王門を構えています 本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた、郡内屈指の霊地と言われています。
真夏はクーラーが聞いている部屋のように涼しいため、涼みにくる人が絶えません。 また、地元では隠れたパワースポットとして知られています。
【不動明王】 密教では如来が怒りの姿変じたのを教令輪真(きょうりょうりんしん)と呼び、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)が大日如来(だいにちにょらい)として現れた、その教令輪真が不動明王と説かれています。 その威厳に満ちた姿から、すべての災いを屈服させるといわれ、さらに難行苦行に立ち向かう修行者を守ると信仰されています。
【仁王門】 寺院の門で左右の金剛座に仁王(金剛力士)像が配されているものは、建築様式にかかわらず仁王門といわれています。
【金剛力士(仁王)】 上半身は筋骨隆々とした裸体で、下半身に裳をつけて裾をたくしあげて、手には金剛杵(こんごうしょ)とよばれる仏具をもっている一対の像。 口を開いているものを阿形(あぎょう)、閉じているものを吽形(うんぎょう)と呼び、いずれも発声する時の口の形によります。 密教ではすべての法の始まりを「あ」として、世の中の一切のものを発生させるとし、終りを「うん」として、一切のものの帰着する徳があるといわれています。日本の「五十音」の始めと終りでもあります。 「あ」と発し「うん」とうける「相向守護」ともいわれています。 一般的には威厳のある顔や力強い体格に憧れ、健康を祈る信仰が強く、俗信でちぎった紙を口中で噛んでつばでまるめ、仁王の自分の身体の悪い部分や発達させたい部分に投げつけ、当たるとなおったり、強くなるといわれている。見玉不動尊の仁王にもいたるところに、ちぎった紙が貼り付いています。※現在、投げつけは行っておりません。 また、仁王は健脚を守ると考えられ、大小のわらじが奉納されてます。
【大火渡り護摩(防災招福祈願)】 毎年11月3日に境内で開催される行事です。裸足で火渡りをする山伏の気迫溢れる表情を間近でご覧いただくことができます。 火渡り護摩への一般参加も可能ですが、その際は実行委員の指示に従い、ご参加くださいますようお願いします。
観光時期 通年(期間:4月~12月 冬期:一部閉鎖) 料金 無料 定休日 無休
秋山郷の入口見玉にある天台宗のお寺です。その由来は、文治元年、壇ノ浦の合戦で平家が滅びた翌文治2年、平清盛の家臣宮本清左衛門がお告げによって平家の守護神である不動明王を捧持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院(しょうほういん)が誕生したとされています。 文政5年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より難をのがれました。その後再び大正3年に焼失、大正8年に現在の不動堂が再建されました。本尊不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています。北方高所の中腹に登る石段70段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ2メートル半の金剛力士の仁王門を構えています。本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた霊地と言われています。 なお、この寺の本山は比叡山延暦寺です。
駐車場から歩いて1分、お土産屋を横目に鳥居をくぐり見玉不動尊の聖域へ入ります。
鳥居をくぐった左手が正宝院。見玉不動尊のご利益について住職のありがたいお話を聞きながら御礼受付。正宝院の上には大黒殿がそびえ建ちます。
大黒殿の上にある六地蔵とボケ除け観音 大黒殿の上にあるお願い地蔵 お願い地蔵の写真です お願い地蔵の説明看板です 一般的には威厳のある顔や力強い体格に憧れ、健康を守る信仰が強く、俗信でちぎった紙を口中で噛んでつばでまるめ、仁王の自分の体の悪い部分や発達させたい部分に投げつけ、当たるとなおったり強くなると言われています。仁王は健脚を守ると考えられ、大小のわらじが奉納されています。
上半身は筋骨隆々とした裸体で、下半身に裳をつけて裾をたくしあげて、手には金剛杵(こんごうしょ)と呼ばれる仏具を持っている一対の像、金剛力士像。口が開いているものを阿形(あぎょう)、閉じているものを吽形と呼び、いずれも発声する時の口の形によります。
仁王門をくぐって本堂へ向う。急勾配な70段の石段。途中には「延命水」というご利益の高い水で喉を潤すことができます。
石段と平行して流れる7段の滝。その優雅な姿が癒しの空間を演出してくれます。仁王門の大杉3本は樹齢700年余りの古木で、400~500年前からの杉も幾本かあり、その大杉の間をぬって7つの滝(7段の滝)が冷たい浄水をおしげなく流して、夏も涼しくすこぶる美観です。
本堂脇には、眼病治癒をはじめ、多くの参拝者の願いが書かれた絵馬が並びます。
見玉不動尊の脇にはお土産屋さんもあり、津南町、秋山郷の特産品などここでしか買えない一品を手に入れることができます。
眼病治癒の逸話が残る見玉不動尊にはメグスリの木があります。メグスリの木を煎じたお茶もお土産として販売されており、しぶみの効いたおいしいお茶です。
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】4箇所目  2021/6/28
能「松山鏡」「田村」
刑部屋敷 《 十日町市松之山中尾 》 越後国松之山に住む男は、妻の三回忌の命日に持仏堂へ向かう。すると、そこにいた自分の娘が何かを隠すので、世間の噂のとおり、新しく迎えた継母を呪詛しているのだと思い叱る。しかし隠したのは亡き母が遺した鏡で、娘は鏡の中に母の姿が見えると慕い泣く。鏡に映る自分の姿を母と信じていたのだ。  そこに、あまりの娘の心に感じて地獄から母の霊が戻って来、鏡にまつわる説話を語る。そのうち地獄から倶生神が現れ、母を連れ戻そうと鏡に娑婆での罪科が写っていると母に示すが、そこに写っていたのは菩薩の姿だった。娘の孝行心の故である。胸を打たれた倶生神は母を連れることなく、地獄へ戻っていったのだった。
 大伴家持が特に越後に住んだ史実がある証拠は見当たりません。隣の越中には国守として4年間赴任していますので、何かの機会に越後を訪れなかったとは言い切れませんが推測の域を出るものではありません。ましてや住み着いたとは言うことはできないでしょう。
 また晩年に蝦夷征伐のための陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍などに補されていますが、特に功績や失敗などは知られておらず、そのまま延暦4年(785)に没します。没した直後に当時造営中だった長岡京の建設責任者・藤原種継が暗殺された事件に関して首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が隠岐に流されました。この辺りのことが、伝説に影響はしているのでしょうが、伝説は伝説として考えるのが良さそうです。
雪深い旧・松之山町の中でも南西端部に位置するここ中尾地区に、平安時代歌人として有名な大伴家持の拠った「形部屋敷跡」がある。地元の区長さんの説明によれば、今でも4m以上の豪雪地帯で、地滑りの危険に悩まされている地域であるという。
 この館跡に関しては、謡曲・「松山鏡」として伝えられている。  「鏡ヶ池」と「形部屋敷跡」は、この中尾集落の奥部にあり、「鏡ヶ池公園」として駐車場を中に挟んで、北側に「形部屋敷」、南側に「鏡ヶ池」がある。更に、池の南上の台地には十二神社が祀られ、この地区も要害としての臭いが感じられる。十二神社の台地の北東端には、県の指定文化財であった中尾の大杉(亀杉)の大木があったが、平成23年の長野県北部地震と大水害によって倒木となり、当時の雄姿を見ることはできないが、今はその分身として、亀杉から再生された、さし木苗と、接ぎ木苗が倒木株の根元に植えられている。
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】3箇所目  2021/6/28
能「松山鏡」「田村」
鏡が池 《 十日町市松之山中尾 》 平安時代の話だという。歌人として有名な中納言大伴家持が、朝廷の命令で東夷征伐に向かった。文人として素晴らしい才能を持っていたが、弓矢を取っては素人の家持は、すっかり蝦夷に追いまくられて都に帰ったため、ついに引退を命じられた。
 家持はその後、諸国流浪の旅を続け、越後国松之山に落ち着いた。そして篠原形部左衛門と名乗って、ほそぼそと暮していた。
 形部左衛門には、妻と京子という娘があった。京子は気品のある美しい娘だった。一家は貧しくとも平和に暮らしていたが、そのうち妻が不治の病で倒れた。助からないと覚悟をした彼女はある日、娘京子を枕辺に呼んで、
 「母は、もう助かりません。この鏡を形見にあげますから、私を見たくなったらこの鏡を見なさい」
 といって、息を引き取った。
 ただでさえさびしい田舎暮らしに、母を失った京子は悲しみに堪えきれず、毎日鏡を持って近くの池のほとりにたたずみ、鏡に映る自分の顔を母の顔だと思って泣き悲しんでいた。
 その後、形部左衛門は、ある人の世話で地元から後妻をもらった。その後妻は悪い女で京子を憎み、夫の留守をねらって京子をいじめた。それでも京子は自分の尽し方が悪いのだと思い、一生懸命に真心をもって仕えた。しかし後妻の非道は、ますますひどくなるばかりだった。
 ある夜、恋しい実母が枕辺に立って京子を招いた。京子は、その後について行くと、池のほとりまで来た。
 ふと池の面を見ると、母の姿が水の上にありありと映った。京子はあまりのなつかしさに鏡を抱きしめ、池の中へ飛び込んでしまった。
 それから何年かたったある日、東夷征伐に来た坂上田村麻呂が、形部左衛門と名乗っている家持をたずねた。久しぶりに会った二人は、夜の更けるのを忘れて話し合った。その時、家持の詠んだのが、
  鵲(かささぎ)の渡せし橋におく霜の
     白きを見れば夜ぞ更けるにける
 という名歌といわれる。
 その後、都に帰った田村麻呂のとりなしで、家持も都に帰り重要な官職につくことができた。
後妻は京子が池に身を沈めてから自分の非を悟り、夫と別れてその地に残り黒髪を剃って尼になった。そして、家持が秘蔵していた観音像をもらって池のほとりに草庵を建て、京子の菩提を弔いながら読経三昧の生活を送り、六十六歳まで生きたという。
 今も、この物語を秘めた中尾集落に、「鏡ヶ池」「お京塚」「形部屋敷」などの古跡が残っている。
 また、京子が投身自殺した鏡ヶ池の浮き島に、京子が投身する時持っていた鏡の裏に彫刻してあった、赤い花の水仙が化生したと伝えられる水仙が繁茂していたが、明治の末ごろ、酒に酔った若者によって枯らされ今はないという。
この伝説が、明治時代にドイツ語に翻訳され、「世界童話集」に収録された。そして、後に尋常小学校の教科書に載り、また謡曲や落語「松山鏡」としても親しまれるようになった。 また、鈴木牧之も『北越雪譜』の中の「菱山の奇事」で「松山鏡」について触れている。 永い間に数度の地すべりによって変容し、当時の様子を変えてしまったが、「松山鏡」を後世に伝える為、池畔近くにある、樹齢約1000年の大杉(県指定文化財、通称亀杉)があり、その昔を物語っていたが、豪雨の影響などにより、平成23年(2011)8月2日 夜9時頃倒壊してしまった。
家持の万葉歌碑があって、三首の和歌が書かれています。
あしひきの山桜花 ひと目だに  君とし見れば吾恋ひめやも
吾が宿の萩咲きにけり 秋風の  吹かむを待たば いと遠みかも
かささぎの渡せる橋に おく霜の  白きを見れば夜ぞふけにける  この松山鏡の話は、能以外に長唄としてもあり、明治34年(1901)には「孝子の鑑」として、尋常小学校国語読本に紹介されています。
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】2箇所目  2021/6/28
能「田村」
松苧神社 《 十日町市松之山湯山 》 湯山の大ケヤキ跡
1974年(昭和49年)6月〜10月撮影写真 https://jpsearch.go.jp/item/cria-NM_P_062_012_01
湯山の松苧神社境内に、国指定天然記念物となった樹齢2000年の大ケヤキの御神木がありました。平成8年に根元が老化し亀裂も入り倒木の危険が増した為、伐採。 跡地には記念碑が建立されています。碑の土台は幹の大きさを、周りに伏せてある石は根張りを表しており、幹の直径は3mもありました。この大ケヤキには、平安時代初期の征夷大将軍 坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中に立ち寄り、愛馬をつないだという伝説が残されています。 なお、松之山公民館では、この大ケヤキで作られた「総玉杢の衝立���を見ることが出来ます。 また松苧神社境内には、石碑「松之山温泉記」がある。(本文要約)「天下に名高い草津、熊野、有馬の温泉に匹敵するのが北越一の松之山温泉であり、諸方より大ぜいの浴客が訪れている。山美しく水清く山合いの村は平和でのどか、花咲き霧立つ様は仙人の住む地と思われる。しかし道中は危険で難所も多く、村民協議して石を起こし岩を砕いて湯山から湯本への道を整備した。おかげで教養人なども多く訪れ、松之山温泉は益々有名になった。」
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】1箇所目 番外編その1 2021/6/28
能「安宅」
高谷大滝(弁慶滝) 《 上越市牧区高谷 》 国道405号沿いの牧区高谷集落から浦川原区に入る少し手前、道路すぐ右側にある落差十m、上部が四段になっている滝で、弁慶滝とも名付けられている。 降雨時や雪解け時以外の水量は、少ない。 地元の方の話によれば、数十年前までは単に「大滝」と呼んでおり、その頃はもっと水量も落差もあり、滝つぼの深さも1mはあった。しかし、土砂崩れと国道改修により、滝つぼは埋められ、路面も2mは高くなって現在のようになった。また、水源は滝上流のきれいな湧水であったが、そこも土砂崩れで埋まってしない、湧水量も少なくなってしまったとのことである。 別名である弁慶滝の由来については、滝壁の下から上まで馬の蹄ほどの穴が直線的に付いており、それは「弁慶が馬に乗って駆け上がった時に出来た穴」と言われていたことから、5年ほど前に地元の方々が名付けたもので、滝の標識はその時建てられたものである。 ――そうすると、義経もこのあたりを通ったのかな。
高谷大滝 滝型式 分岐瀑 落差 7m 所在地 緯度:37.087065/経度:138.439686
案内板の横に乗用車1台駐車出来るスペースがあります。高谷大滝は雪解けの頃や雨が続かないと水量が少なく、水流がほとんど無くなる事もあるようです。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】2日目2箇所目  2021/6/27-28
能「巴」
三丁字稲荷神社 《 上越市南城町 》 「巴御前」の墓として伝わる墓標がある上越市南城町4の三丁字稲荷神社で4月29日、春の��祭が開かれた。おそろいの法被を着た子ども、大人がみこしを担ぎ、町内を練り歩いた。  巴御前は平安時代末期、木曽義仲の側近として活躍した女性で、弓の名手として知られている。 上越タイムス社 2018.05.03
稲荷神社(東城)| 新潟県上越市東城町4丁目|JR北陸新幹線/妙高はねうまライン「高田」駅よりバスまたは徒歩20分くらい 上越市にある五社神社の北、高田城の東にある稲荷社境内にある宝篋印塔は巴御前の墓と伝えられる。木曽殿敗死後、尼になって高田に住み後生を弔ったと言う。笠の隅飾りの形は鎌倉期の様式で古そうだが基礎が華奢すぎるのが気になる。。。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】2日目2箇所目  2021/6/27-28
能「巴」
三丁字稲荷神社 《 上越市南城町 》 「巴御前」の墓として伝わる墓標がある上越市南城町4の三丁字稲荷神社で4月29日、春の例祭が開かれた。おそろいの法被を着た子ども、大人がみこしを担ぎ、町内を練り歩いた。  巴御前は平安時代末期、木曽義仲の側近として活躍した女性で、弓の名手として知られている。 上越タイムス社 2018.05.03
稲荷神社(東城)| 新潟県上越市東城町4丁目|JR北陸新幹線/妙高はねうまライン「高田」駅よりバスまたは徒歩20分くらい 上越市にある五社神社の北、高田城の東にある稲荷社境内にある宝篋印塔は巴御前の墓と伝えられる。木曽殿敗死後、尼になって高田に住み後生を弔ったと言う。笠の隅飾りの形は鎌倉期の様式で古そうだが基礎が華奢すぎるのが気になる。。。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】2日目1箇所目  2021/6/27-28
能「木曾」
姥堂 《 妙高市関温泉 》 新潟県妙高市には姥堂というお堂があって、子宝や母乳の神として多くの人から厚く信仰されています。 鎌倉時代の武将であった木曽義仲が妙高山を越えるために女人禁制の掟を守り、泣く泣く姥(うば)を関温泉に残していったと言い伝えられ、義仲と姥を祀ってあるお堂で、中には彩色された木曽義仲と姥の座像が安置されています。 木曽義仲と妙高山の関係はとても深く、寿永元年(1182)には木曽義仲が自らの守り本尊である阿弥陀如来像を妙高堂に奉納し戦勝祈願しましています。 その後も、義仲は家臣である五位野与左ェ門に4年毎に堂宇の建替造営を命じると義仲死後にも引き継がれ明治時代初頭に神仏分離令が発令されるまで続けられました。
木曽義仲は源義仲のことであり、源頼朝、義経兄弟の従兄弟です。平家物語にも登場し、北陸に勢力を広め平家と戦いました。以前妙高山頂にあったとされる金の仏像は、この義仲が祀ったものだと言われています。 伝説によると、寿永年間(1182~1184年)に平家討伐のため京都に向かう途中、祈願のため姥を伴って妙高山に登ることとしましたが、女人禁制のため途中までしか姥を連れていけず、泣く泣く関温泉に残して登ったところ、姥はそこで命を落としてしまったとのこと。 この姥、乳母だったのかそれとも実の母親だったのかどうかはわかりませんが、他界するときに、「乳なくば我を信ぜよ人の母 我は此地にくち果つるとも」との言葉を残しています。この言葉からか母乳に霊験があったようです。 その場所が姥堂のある場所であり、その姥の像を姥堂に祀っています。メインは姥の像であり、中心に置かれていますが、隣奥には義仲の像も祀られています。
姥尊像の像容をみると、目を見開き、口を空け、立ち膝で胸をはだけて乳房をあらわにしており、これまで紹介してきた一般の姥神像と同じような姿をしています。 義仲の母親は平家物語には登場せず、一説には遊女とも言われ、名前も一つに定まらないなど、母に伝わる伝承を残している寺はあるものの、それほど有名ではありません。 母だとしても、また、乳母だとしても、主役の義仲に乳をやっている頃ならともかく、義仲も大人になってからの老後の女性を祀っていますので、胸をはだけているのも疑問が残ります。 姥堂という堂の名前から想像すると、もともと姥神として祀られていた姥堂を木曽義仲と結びつけた、若しくは、母親の像として祀ったとしても、姥神像または奪衣婆像を使ったと考える方が自然ではないか���思われます。
戦国の時代には妙高山を信仰した上杉謙信の隠し湯として知られています。 関温泉旧関山の湯」は、上杉謙信は、妙高山の崇拝し「妙高山 雲上寺宝蔵院」 (現・関山神社)に厚く信仰しました。 姥堂の中には、五輪塔があり、上杉謙信の身内の墓とも言われています。 また、宝蔵院の鼻と呼ばれる小高い丘には、謙信の山城跡があります。
妙高山は日本百名山の一つで、山の品格・歴史・個性はまさにハイクラスに属しますす。 誰もが、そのスケールに圧倒され感動するゆえ、その姿は日本の山の中でも最上の人気を誇っています。 作詞家の荒木とよひさは、日大スキー部員としてこよなくここを愛し、「四季の歌」を作ったとも言われています。 妙高山の麓には7つの温泉がありますが、関温泉は弘法大師の発見とされ、お湯には鉄分が含まれており、空気に触れると酸化して赤くなるが、「湯冷めしない」と昔から評判が高いです。 昔は留め湯というならわしがあり、毎年5月から6月にかけての14日間、一般の人々の入浴が禁止されていたのです。 それは、この時期になると関山権現をはじめ、各山の神仏が湯につかりにくるためでした。 この神仏たちに随行して虫や獣たちも集まり、温泉場はもちろん辺り一面が虫獣で一杯になり、実に恐ろしい光景だったといわれています。 ですからこの留め湯の期間中、人間はまったく外出せず、ただひたすら神仏のお帰りを待っていました。 不動滝(別名・大滝)は落差20mの滝があり、すぐ近くには眼病に効果があるといわれる不動尊が祀られています。
上信越高原国立公園内にある関温泉と燕温泉は、古くから開けた温泉地である。  標高900mの関温泉は赤い湯である。温泉街左手の深い谷への遊歩道を一気に下って行くと、大滝と不動橋がある。滝のほとりにある不動尊は、大滝不動と呼ばれ、眼病のご利益で有名である。関温泉の町並みを過ぎると、右手に小さな川音が聞こえる。これが三途の川の名残りで、昔はこの川から奥は、女人禁制の霊地であったと言う。この川の橋を過ぎた所で、車道から右手上方への階段を登ると姥堂があり、木曽義仲と姥の像が祀られている。お乳の神・子宝の神として参詣者が多い。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目11箇所目  2021/6/27-28
能「竹雪」
真行寺 《 上越市中央 》 浄土真宗本願派・中戸山真行寺(直江左衛門真行の邸址)
端的に言えば継母子の悲哀物語である。が、越後という北国の暗く厳しい冬の風土を背景に、親族間の生々しい愛と憎悪の葛藤を素材とし、逃れることのできない人間の業を描いたこの作品は、心の奥底に深く鋭く染み込み、人としての有り様をしみじみと考えさせられる逸曲である。主人の直井左衛門(ワキ)と息子月若(子方)、離別した妻(シテ)と同行の娘(ツレ)、そして継母(役ナシ)、五人の相剋図は哀しい。後日譚として、左衛門は剃髪し、己が屋敷跡に一寺を建立したのが今の真行寺とされる
JR直江津駅から海岸に向かって500メートルほど、上越市中央にある真行寺は、ワキ直井左衛門の邸跡と伝えられる。本堂の白壁が美しい。庫裡の玄関前には、謡曲「竹雪」に因み「長松」と名付けたと説明されている、10メートルほど横に枝のびた黒松がある。その松の下には自然石に「謡曲竹雪旧跡」と刻んだ碑が建っている。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目10箇所目  2021/6/27-28
能「竹雪」
長昌寺 《 上越市大字小池字北畑 》 月若の母の実家は上越市小池にある長昌寺であるといわれる。かなり山奥の荒れた寺で、私が訪ねた時は人の気配はなかった。地図で真行寺と長昌寺との距離を測ってみたらおよそ20キロはあるようだ。月若は雪の山道をただ一人で母を訪ねてここまでたどり着き、また呼び戻されて元来た道を戻ったのである。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目9箇所目  2021/6/27ー28
能「壇風」「田村」
水俣観音堂 《 糸魚川市水俣 》 水保観音堂の創建は不詳ですが泰澄大師が養老年間(717~724年)に開いたとも弘法大師空海が大同元年(806)に開いたとも云われています。
その後、坂上田村麻呂が当地を訪れた際、境内が整えられ寺院として草創したそうです。当時は吉祥院に属し、信仰を広げ最盛期には七堂伽藍を備た大寺院として周囲にも大きな影響力を持ちました。古くから神仏習合し隣接する日吉神社の祭祀を担っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により吉祥院が廃寺となり日吉神社と観音堂だけが残され現在は宝伝寺の境外仏堂となり周囲の信者によって管理されています。
水保観音堂には棟札が残されていて明和5年(1768)に建てられ、棟梁が倉若七右衛門、脇棟梁が宮原与右衛門、下役が小杉久右衛門だったことがわかっています。水俣観音堂は木造平屋建て、寄棟、鉄板葺(旧茅葺)、桁行5間、梁間5間、平入、外壁は真壁造り板張り、四方浜縁、高欄付き、中世の密教寺院建築の特徴を残し地域に残る修験道場の遺構としても貴重な存在です。
寺宝には大正12年(1923)に国重要文化財に指定された「木造十一面観音立像」(平安時代中期~後期の作と推定、桜材の一木造、頭部の天冠台には様々な表情をした十一面が墨書、像高1.548m、鉈彫り、33年に一度の開帳、身をもって集落の火災を防いだという伝説が残っていて火伏の観音さまとして信仰の対象となり住民からは「水保の観音さん」と呼ばれています。)や男神像(2躯、室町時代作と推定、像高27㎝、23.5㎝)や鋳銅製鰐口(貞享3年作、鋳師:高田土肥藤右衛門藤原朝臣家次、施主:糸魚川高野清右衛門季林敬白)などがあります。 この仏像は、桜材の一木造りで、高さ1.548メートル。 平安時代中~後期(藤原時代)の作と推定されています。丸のみを横に用いて荒っぽく削る「鉈彫り」の技法で作られたものです。 この技法で彫られた例は新潟県には2例しかなく貴重な仏像です。 一般公開は33年に1回です。(平成16年8月27日~29日に一般公開されました)
又、水俣観音堂には鎌倉時代に後醍後天皇の倒幕に加担し佐渡に流され、本間一族に惨殺された日野資朝の子供阿新丸が十一面観音の霊力を受け父の敵を討ち果たし父の遺骨を境内に埋葬したという伝説があり資朝のもの思われる墓(五輪塔)もあります。毎年5月1日に行われる例大祭では日吉神社の神事の後、観音堂まで神輿渡御が行われ、さらに境内で神楽が奉納される神仏習合の名残が見られます。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目8箇所目  2021/6/27ー28
能「安宅」「蟻通」
弁慶の投げ岩 《 糸魚川市外波 》 投げ岩  この海岸の北東沖の「投げ岩」と「鬼けり岩」 弁慶が通りかかったときに、このあたりで悪事をはたらいていた鬼と力比べをした。 鬼が投げた岩は海の近くに転がり、あとから投げた弁慶の岩は鬼よりはるかに大きくて、海の沖に落ちた。 鬼は悔しがって岩を蹴り、二度と悪事を働くことはなかったという。 鬼が蹴った岩は鬼蹴り岩と呼ばれ、鬼の足跡がついているのだとか。
(大国主命という説も) 昔、大国主命が越後の奴奈川姫に求婚に訪れました時に、この浜で地元の鬼と力比べをしました。  大国主の命が投げた岩ははるか沖合まで飛び、二つに割れました。これが海岸から見える投げ岩なんです。  ところが、鬼が投げたのは海岸のごく近くに落ちました。鬼は悔しくて、この岩を蹴って海に沈んで行きましたので「鬼蹴り岩」と申します。鬼の足跡が残っているとのことです。沖にみえるのが大国主命が投げた投げ岩です。  投げ岩の方は親不知の海岸ピアパーク付近からよく見えます。高速道路の橋桁が沢山並んでいますので、海岸付近の鬼蹴り岩は見えにくくなりました。 この地の鬼と大国主命(おおくにぬしのみこと)が力比べをして、鬼の投げた岩は海ぎわに、大国主命が投げた岩は遠くへ落ち2つに割れ、負けた鬼は自分の投げた岩を蹴って海中に身を投じた、という伝説があります。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目7箇所目  2021/6/27ー28
能「安宅 」「奥の細道 」
親不知 《 糸魚川市外波 》
元禄2年(1689年)7月12日(陽暦8月26日)、芭蕉は旧北陸道の親不知子不知を越え、市振へ。
 今日は親しらず子しらず犬もどり駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に若き女の声二人計ときこゆ。
『奥の細道』
初代 … 旧北陸道 二代 … 天険開削道 三代 … 天険トンネル 四代 … 北陸自動車道
昭和47年(1972年)9月、阿波野青畝は市振を訪れている。
一つ家のその市振の月に吾
海の日のつるべ落しや親不知
『旅塵を払ふ』
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目6箇所目  2021/6/27ー28
新作能「奥の細道」
長圓寺 《 糸魚川市市振 》 謡曲詞章 初出 朝日新聞 昭和18年9月28日付朝刊
---------------------- 是は越中市振の宿の 旅籠屋の主にて候 ■も越後新潟の遊女とやらん 最前泊め申して候ひしが なお旅人を待たばやと存候 ----------------------
 『奥の細道』の芭蕉は、元禄2年(1689年)7月12日、この市振の宿に泊り、妙趣に香る遊女の句を詠んだ。  この句碑は、郷土の文豪相馬御風の書により、大正14年に建立されたものである。
一つ家に遊女も寝たり萩と月
 この句に登場する遊女は、2人で新潟から伊勢参宮の旅の���中で翁と同宿となった。  翌朝、旅の心細さから旅の道づれを切望されたものの修行の旅ゆえこれを断った。  しかし、別れてからも遊女の心情が思いやられ「哀れさしばらくやまざりけらし」と記している。
○十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。
『曽良随行日記』
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