Tumgik
#2020年初頭まで慣れ親しんでいた世界は書き消えた
usickyou · 2 years
Text
目次
Usick(カニ)の小説を保管しています
作品はジャンル→CP、キャラクター→時系列の順におおむね並んでいます
タイトルをクリックすると作品ページへ移動します
---
一次創作
ニーナの旅立ち:百合文芸4、おねロリ、ペドフィリア
イクサ:百合文芸4、人石、コーギー
ニーナの復活:百合文芸3、おねロリ、懐胎
世界に木はもうない:百合文芸、義手、サッカー
---
二次創作
〇アイドルマスターシャイニーカラーズ
・まどこい
円香ちゃんの瓶詰め:背中の穴、瓶詰め
小糸ちゃんと、町の小さな映画館:まどこい、TS
グッドガール! 小糸ちゃん!:まどこい、イヌ、とおまど
・にちみこルカ
subdominant:誕生日、手紙とクマのオルゴール、川
火を消して帰って:テニス、写真、灰
喜びの国:にちみこルカ、家
・other
さよならいろいろ:とおまど、ふっ飛ぶ歯、私たちのプロデューサー
通り雨だったね:市川雛菜、誕生日
ノクチルと、絶対に割れるガラスキュー:ノクチル、ガラスの球体
ノクチルと人形たちの森:ノクチル、ホラー
数えて:杜野凛世、怪奇幻想
目、口:まみきり、怪奇幻想
〇アイドルマスターシンデレラガールズ
・しきフレ
こんな夜:愛、受容
おお、マリア!:ねこ、ミア
きみとはニースで夏のあいだ暮らした:しきフレ合同誌「Coffret」寄稿、ニース、記憶
ラブランド:『一時間前までセッしてた合同「気持ちいいよね一時後!」』寄稿、幻想、ようこそ愛の国
バースデイ:背中の羽根、生きる
La La La:シンデレラガールズ×ララランド小説本「Stars Who Dream」寄稿、夢と愛
(till) vanilla twilight:ありがとうセレンディピティパレード
新世界より:鍵、隕石、メリークリスマス
Baby so long:「ベイビー」④、長いお別れ
ベイビー・コーリング・ユー:「ベイビー」③、兆し
ベイビー・マイ・スウィート:「ベイビー」②、過去
ベイビー・アイ・ラブ・ユー:「ベイビー」①、あたし宮本フレデリカ
What a wonderful worldend:ポストアポカリプス、旅
私の神様:殺害した
残光:一瞬の感覚
・奏周子
「寛容」:ビデオカメラ、記憶
あじさい②:快復、怖くなかった
ベイビー・イン・カー:のせ塩、あかちゃんが乗っています
ダンサー:出会い、ロストイントランスレーション
ラブラ:サメのぬいぐるみ、青い空
しずかに愛して(Love me softly):日々
もうくさくなっています:シャベル、埋める、氷
あじさい:日々、スイカ
恋愛映画:奏周子合同誌「群青ストライド」寄稿、青春
死体袋の記憶:デレマスマフィアパロ、ロシむす、「Galway Girl」
Sugar:おタバコ、電話、月
行ける:消失、幻想、愛になる
海と恋人:「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」
Arterial:吸血、夏、夕日
bullseye:ダーツ、魔性
・かなふみしゅーこ
鼻血:鼻血を拭う、見る
千年あとまで:鎌倉、メリークリスマス、永く続いた
ラブリー・ラブリー・フィーリング:絵を描く、絵を贈る
しおりづくり:「海の見える家」サブエピソード
海の見える家:鎌倉、家族、消滅、ポリアモリー
・なおかれ
窓をあけて:北条加蓮さんお誕生日、感染症
さよなら恋人:別れ、劇中劇、ずっと仲良し
四月になれば彼女は:渋谷、キットカット
私から生まれて:妊娠出産、おめでとう
恋のほのお:燃える、燃え上がる
融雪:列車、雪景色
・かえみゆ
抜け道:秘密の道、差し出す
ニーナ:三船美優さんとニーナちゃん
雪に花、愛には指環:ご実家、祝福、「The Rose」
結婚しよう:指輪、そこへ行きましょうね
星はどこへ落ちた?:深夜、お散歩
・うづりん
南ゆき: うづりん小説合同誌「カラフルドロップス」寄稿、南へ
散文詩:散文詩、光景
見て、雪が降ってるよ:回想、手をつなごう
グッドモーニング、あるいは一部の不幸も立ち入ることのない幸福:朝、幸福
・奏加蓮(モノクロームリリィ)
セカンダリ・ラバーズ:新生活、サーフィン、色のない都市
十七歳:女子寮、ごまかし、喪失
水の中の幸せの国:生理食塩水、溺水
わたしを葬くる:埋める、ウェディングドレス、誰も知らない
・かなふみ
いない:奏さんがいない
イルクーツクにて:喪失、逃避
よんで:読書会、私たちもそうだったの
・新田ーニャ
不治の星:2020と2016、私のかわいい
あなたは私の白い兎:デレマスマフィアパロ、雪、逃避行
スカイフォール:大人、盲目
・白菊ほたる
黒髪の奇蹟:カーゴカルト、ホタル
不幸な者へ:老婆、BLS、行け
白い:プロデュンヌさん、シンデレラガール
いつかのきみに:ご両親、お手紙
かがやき:全身不随のPさん、ステージ、連れていく
宝石: 右ひ骨遠位端及び脛骨遠位端の開放骨折、不幸
君は、幸福:賭け、オーディション、カスミソウのティアラ
君のための花:前プロデューサー、最後のステージ、スズラン
・北条加蓮
ジャンクフードをめぐる冒険:加蓮ちとせ志希、冒険、P字頭の狂人
顔のない女:怖い夢、過去
加蓮ママ:カンクンビーチ、ベイビー、マヤ民族文化
おもいでを聞かせてください:体育用具室、破る
ママ:しきかれ、看病
Dive(あるいはこの世界のヒロイン):ベッド、さまざまな北条加蓮
・other
りんみお浮気紀行!:りんみお、百合浮気、コヨーテ
Gon宮本フレデリカ:宮本フレデリカさんお誕生日、「ソ」の音
まるい角:りょううめ、角の夢
ゴオォォーーーン:ちと千夜、魔女、炎
いつでもおいで:のせ塩、飲酒、いつでも
あいびき:加蓮と楓、なおかれかえみゆ前提、フード理論
たくさんかわいがってね:しゅうさえ、金魚、心は
無題h:加蓮、ほたる、人殺しの邂逅
南���観測隊:焼きそばハロウィン、閉塞、ファンになる
『シネマ・パラダイス』:りょううめ、デレマスマフィアパロ、ロシむす
初恋:志乃礼子、怒り、ダンス、出会う
ペーパー・ムーン:志乃礼子、雨、最後のひと 
場面:デレマスマフィアパロ、ロシむす、カエデタカガキ
アテナイの幽霊:しきふみ、図書館、謎を追う
a Housework:家事、しきフレ、かえみゆ
羊たちの沈黙パロ:奏、文香、ありす、志希、フレデリカ
Sugar.Bride.Strawberry.:ときのりこ、ご結婚、嘔吐
Paradise(for life):周子、美嘉、ゾンビパロ
窓辺の花:タケバネ、名前
さよなら、かぶとむし:城ケ崎莉嘉、城ヶ崎美嘉、世界は変わる
〇ゾンビランドサガ
腕が旅をした話:純愛コンビ、消えた腕、引力
少女(リリィ):ゆうぎリリィ、ホラー、花火
少女(ゆうぎり):ゆうぎリリィ、かつての習慣
〇アイドルマスター
Inferno:ちはゆき、人魚姫
赤い糸:ゆきまこ、五年後の世界
Star,visual binary star:亜美真美、大人になっても
Kluuvikatu Helsinki Finland:あずりつ、フィンランド、雪だるま
運命の人:ひびたか、太陽と月、撫子
〇魔法少女まどか☆マギカ
Life, after life:ほむマミ、魔獣、離れない
白紙:雪原、ループ
〇らき☆すた
光の速さで1.2秒:かがみ、みゆき、月へ移住
2 notes · View notes
momijiasuka · 3 years
Text
Tumblr media
フリーランス一年目を振り返り今後やりたい事、自分の絵について考える✍
こんにちは、紅葉です。イラストレーターとして
フリーランス1年目の2020年12月の振り返り日記になります
―――
これまでのヘッダービシュアルについて思うこと
Tumblr media
上記はサイトTOPや名刺用に年明け最初に制作したイラスト請け負い用のオリジナル絵です。
ゲーム業界では主に背景とアイテム制作・キャラ彩色などを中心に制作していましたが、
個人的にはアニメ・デフォルメテイストのコミカルでポップな可愛い系の作風が好きな為
自分を親しみ易い絵柄で制作しヘッダーと名刺に使用していました。
Tumblr media Tumblr media
こちらが実際にデザインし1月にクリエイター交流会やイベント・セミナーで配り歩いた名刺になります。
イラストレーターとして名乗り、初めて制作した名刺の為
🍁『イラスト何でも描きます!!なんでも任せてください!!!!』
感が強く情報も多いのでちょっとバラエティー豊かですね。😅
(”デザインは余白が大事”と聞く中で詰め詰め賑やかに入れてしまっていますが色合いは今でも自分らしく好みです!)
――――
今年1年の月別概要
※私の略歴について
💡2018年年末務めていたゲーム会社倒産、失業を切っ掛けに2019年職業訓練校で新たにwebデザインを学んだ後イラスト受注会社にアートディレクター就職、残念ながら社内悪環境の為2019年年末をもって退職・フリーランスイラストレーターとして活動を始める。
2020年
1月  フリーランス準備 名刺にサイト、人生初のクリエイター交流会やSNS創作垢✊
2月  ストックイラストで新たな出会い・交流の楽しさや知識を沢山増やして行く😊
    ブランディングについて、自問自答の自己分析がはじまる
3月  WEB面接打合せなど初の体験、個人で色々請け負っていく📝
4月  コロナが蔓延し新規受注案件が0になり不安定に😓
5月  SNS経由でつながった方の攻撃的な言葉に傷付き人生を見つめ直す✍
6月  新たな継続案件クライアント様と出会い高評価と自信を得る😊
7月  イラストレーターとして大きなご案件ご相談・高評価を得る😳 
    🎊7月7日に個人事業主として正式開業致しました㊗💡
8月  コロナの影響でドタキャンが発生しだしまた不安定に。😭
9月  自身のやりたい方向性の仕事を平行で請け負いスケジュール帳が埋まり出す
10月 毎日何かしらの提出・納品日となり過労スケジュールに..😇(成果物評判は良好
  今後の為にクリエイターエキスポに下見に行きました💡 様々なイラストレーターの方々の活動がまた一歩良い刺激になりました
11月 仕事の合間に相場感や契約書・交渉・著作権利問題について知識を深める
 クライアントワークのみで直面する様々な問題、低単価案件や収入を見つめストックイラストの良さを改めて感じ検討しだす
12月 今後の活動、来年に向けて 今年の自己分析の結果、方向性をまとめる
――――
会社員時代の安定とは程遠い波乱万丈な感じに怒涛に過ぎ去った1年でしたが、
その分自分で考え、これまでの経験を活かしたり新しい出会いや先人のクリエイターの方々の経験談や知識を取り入れ学ぶ事で会社員時代では中々得られなかった部分の知識・行動力・視野が広がった1年でした😊
今年よく考える事になったテーマが自分の今後やりたいこと 自分の本心から目指したい目標についてでした。
いろいろ挑戦してみて伸ばしていきたいと見つけたやりたい事について、
そんな1年を振り返る目的でこの日記を記録しています。
1~2月
完成した上記の初名刺を持参しいざ!初の交流会やセミナーなどで名刺やポートフォリオを見て頂いて
様々な方とお話した際にお褒め頂き恐縮したりする中で(会社員時代は特に視野が狭かった為たとえお世辞でも褒められなれておらず、とても嬉しかったです😊💦)
Tumblr media
と質問いただく事が増えました。
企業勤めの���は自身の絵柄・オリジナリティでは無く企業の求める絵柄・要望に沿う物を制作し続けていたので、自分自身の好きなもの・やりたい描きたいと思う物を具体的に言えず、
言えても胸を張って心から【私はこうです!】という自信が無かった為、春先に出会った方々と対話する度に
Tumblr media
と、悩みながらもブランディングという言葉と出会い
今年は度々、今後自分はどういう風になりたいのかな..と自己分析と自分理解を深めるきっかけを頂きました。
3~5月
自分が本当にやりたい事、得意な事…
苦手だし、不得意な事      ×
好きな事、好きだけど不得意な事 △
得意だけどやりたいと思わない事 〇
得意で普通と思う事       ◎
得意であり好きな事       ◎
――――――
絵仕事はどれも苦痛なく引き受けていた為、
背景もアイテムもキャラもミニキャラもどれもこれも自身の中では好きな物の一部でありこれまでの成果物・経験は全て自分が歩んできた武器⚔です。
なので”やりたくないな..”というのがあまり湧かず、本心と向き合い自問自答していました🤔
――――――
そんな中、春先のある日SNSの知人からDMに
知人『あなた背景得意って書いてあるけど、正直パースも効いて無いしそのレベルじゃ生きていけないよ。』
と成果物や私の経歴についてわざわざ貶す事柄が送られてきました。。
(『あなたの事を心配してるんだよ』という趣旨であった為、私の事を想い送ってくれてるんだなぁ..としばらくはやりとりを続けていましたが、度重なる脅迫DM・ストーカー行為が悪化した為こちらからはご縁を断ちました。読んでも気分の良い話では無いので詳細は割愛します😓)
当時は悩みましたが、
よくよく考えると過去の仕事に対してクライアントとその顧客以外の第三者から下手だと罵られても(赤ペンなどの具体的なアドバイスではなく純粋なただの中傷です)
その方個人の主観であり他人評価な為、気に病む必要は無いと今では吹っ切れています
まぁでもその際SNSに絵を載せる事も嫌になったのですが、
なによりも否定された以降背景制作を請け負う気になれず
(あぁ…私背景好きだった訳では無いんだなぁ…)
とそこで1つ消去法で見つかりました..👀
――――
私が好きな事は誰かの役に立つ事!
褒められる事・助かったよと人の役に立ち喜ばれる事に自己肯定感と喜びを感じます😊
ゲーム会社内で背景担当が多かったのも、
そもそも背景を描こうと思うデザイナーが少ない(ほぼ居ない)
元からちょっと描ける&綺麗な背景を見るのが好き・キャラ同様に描ける様になりたいと憧れて居る
業務でやってみたら褒められ喜ばれた
⇒喜ばれると嬉しい(単純)⇒ゲーム背景担当者に落ち着く
という流れだったので、元から職人レベルの美麗背景職人までの実力は目指して居ませんでした。
それでもやはり、あまり知らない人に心無い言葉で否定されるのは良い気分しませんよね..😓
否定されるのが嫌・褒められるのが好き  なのは人間誰でも一緒の感情だと思います。
―――
どんな事でも上には上が沢山居るのも理解していますし
SNSでも背景制作の前線でご活躍なさってる方々と恐縮ですが相互フォロー頂いたり、美麗な背景の一枚を見る度に今でも感動します😊💕
(綺麗なご作品を制作されてる方々は皆さんリプ交流でもとてもお優しいです
ありがとうございます!)
🍁「受注自体は暫く控えてますが、背景に憧れ好きな気持ち自体は本物なんだろうなと思います。また自然に描きたくなってきたら仕事外でも挑戦します!🌱」
―――
6月~11月
―――
背景を一度置き(ついでにアイテムもきっと同様に得意で役立てただけで違うのだろうと置き)
自分の得意なこと・やりたいこと・好きなことを見つめ直しながら色々な絵に関するお仕事を頂いて経験しておりました📝
主な仕事
マンガ動画・広告漫画            (アニメ風・TL風)
教材キャラコンペ               (ミニキャラ)
PR用劇画風イラスト                (劇画風)
企業用ゆるキャラ制作           (ゆるきゃら・アニメ風)
企業用イケメンキャラクターデザイン・イラスト (乙女ゲーム風)
公式グッズデザイン(企画書~制作まで)
ソーシャルアプリ衣装制作            (女の子)
企業グッズ用ミニキャラ制作|数社         (~2頭身)
etc…
🍁『箇条書きにすると共通点まったく無くてビックリですね😲』
夏から秋に掛けて多種多様に活動し打ち合わせやご提案・交渉も徐々に慣れて行きました
ちなみに7月7日を開業日にし屋号:イラスト制作所もみじ亭として正式に個人事業主になりました
―――
褒められる事・助かったよと人の役に立ち喜ばれる事に自己肯定感と喜びを感じます😊
また、先に述べていたこちら、度を過ぎなければ良いんですが
他人評価に自己肯定感を委ねるのは危険と心理学でも言われているので、あまり依存し過ぎず
様々なクライアント様との案件経験を積んでいく事で、実績と共に自信と相場感や契約・著作権利についてなどの必要知識を平行で蓄えていきました📝(日々勉強です✎)
自己評価と自己肯定感はどんどん育てていきたい✊脱ネガティブwelcomeポジティブ
―――
12月⛄
―――
早いものでもう12月ですね
今年1年は本当にあっという間の一年でしたが未知への挑戦ばかりで成長する機会も多く、
またよく悩む年でもありました👀
が、悩むという事はそれだけ行動し頭を使っている結果なので良い事です💡
コロナ禍の中無事感染する事なく無事に年を越せそうなのにも安心しています。
12月にしている事
イラスト受注サイト作り(1つ前のサイト)
来年に向けてこれまでの振り返りと自己分析
書類、事務整理
――――――
やりたい事探しで見つけた自分の方向性
――――――
Tumblr media
①ミニキャラ・ゆるキャラ、ポップイラスト
私自身がゲーセンのプライズ景品やフィギュア収集が趣味の根っからのヲタクなのと過去にグッズ制作を趣味にしていたので、やはり可愛い系のモノが好きなんだと再認識しました。
ゆくゆくはアニカフェやコラボ商品などのグッズ用ミニキャラを手掛けたり出来るグッズイラストレーターになりたい、お菓子のパッケージ等の公式キャラデザインなどを手掛けたいと改めて思い1つの目標になりました😊
この絵柄で思い浮かぶ仕事
IP系グッズ用イラスト
LINEスタンプ
オリジナルPRキャラクター
書籍やwebの挿絵、カット
アプリ内ミニキャラクター(SD/ちびきゃら)
Tumblr media
②美形キャラクター制作・イラスト、マンガ
TRPG創作やイケメンキャラクターデザインなどを請け負う中で、やはり背景やアイテムも好きだけれどキャラクターをより魅力的に描ける様になる為の演出・手段の一つであり、
やりたい事は魅力的なキャラクター作り(デザイン制作・作画)だな..
昔からえがいたキャラクターがゲーム内や動画内でCVが付き喋って動き、生きている姿を見るのが夢で目標だったのを思い出しました。
この絵柄で思い浮かぶ仕事
企業キャラクターデザイン
Vtuber制作
ゲーム原画
ライトノベル表紙/挿絵
マンガ/カット
―――
と、こんな感じで明確に【今後これのみでいく!!】と絞りきった訳では無いですが、
来年に向けて今後強化していきたい絵柄の方向性、やりたい仕事が見えてきた様に思います😊
今後IP案件系の仕事も獲得していく為、ヘッダーのビジュアルも近々もう少しアニメ・ゲームタッチな絵柄に変更します。
今年を振り返って
2020年は行動力の年
去年末退職時に掲げた2020年の目標が上記だったのですが
トライ&エラー精神であちこち挑戦したり飛び込みに行った今年は自分の中では行動出来て居る方なのではないでしょうか。
(クリエポで誰にも話掛けず帰ったりもしたので『もう少しコミュ力発揮頑張りましょう🙅』とも思いますが😅)
コネも伝手も貯金も無いまま退職しイラストレーターとして1から始めた為、
今年人生初めての事だらけでしたが初体験の中でも下記は全てやって良かった事です🙆
―――
名刺制作、webサイト制作
交流会、セミナー、もくもく会、クリエポの下見
webセミナー、さぎょいぷ交流、オンラインコミュニティ、創作用SNS垢
ストックイラストの素材登録、やり方を学んだ事
エージェント登録
開業届、青色確定申告申請
メール営業
電話打ち合わせ、ビデオ通話での打ち合わせ、交渉
―――
交流会やオンライン通話で喋る度に、これまでの10年間会社では社内しか見えてなく外との交流(外部打合せ以外無く)を考える余裕もこういう物がある事も全く知らず;
無知なまま小さい世界に居たなぁ…と思うと共に
様々な人生経験を積んだ方々と対話する事で自分一人では知らなかった事も沢山知る事・学ぶことが出来て、また、フリーランスという道で生きて居る人が多い事も知り視野が広がり
とても心強く1年間が過ぎました😊
今年知り合いお話してくださった方々全てのご縁に感謝しています!😌
本当にただの日記なのでこの日記を最後まで読んでくださってる方が居るのかちょっと解りませんが、
まだクリエイター交流会や名刺交換会・セミナーなどに行った事が無い方がいらっしゃったら楽しいし視野も知識も広がるのでオススメですよ!
私もぼっちで特攻しましたがやらずに悩むよりやってみて実態を知ると案外想像より余裕なこともあるので、一歩ずつ頑張りましょう!
――――
🍁「まだまだ安定とは言いがたい不安定な収入ですが来年も引き続き自分のペースで頑張っていきます!」
2020.12.15 紅葉あすか
0 notes
tecchaso1988 · 3 years
Photo
Tumblr media
#読書 #グレートリセット #ダボス会議で語られるアフターコロナの世界   1年前からこういった内容を書いてくれてる著名人がたくさんいらっしゃって それでも世界は想定悪の方向に向かっていて  世界には政治家だったり指導者だったり、自分よりずっと賢い人たちが溢れるほどいるはずなのに どうしてわざわざ足並み揃えて予測できる悪いシナリオの方向へ進めちゃうのだろうかって思ってしまうここ最近。 (グレートリセットに対抗しているのはオーストラリア、ロシアが有力馬とのこと)  (権威者たちがあえて崩しにいってるのはわかるんだけれども、ゲームストップ騒動は個々の力が逆にシナリオを再構築していく未来の一遍を僕らに見せてくれたことに可能性を感じたいなって思う)   #読書メモ #多くの人がいつになったらノーマルな生活に戻れるのだろうと考えているがシンプルな答えは何も元に戻らないだ #2020年初頭まで慣れ親しんでいた世界は書き消えた #変化の可能性その変化がもたらす新しい秩序は無限にありそれを良いほうにも悪いほうにも変えられるのは私たちの想像力だけ #大事なのは私たちはこの前例のないこの機会を利用して世界のイメージを描き直すべき #パンデミックの影響が2022年まで続くことを大前提として複数のシナリオに備えるべき #1930年代初頭の大恐慌や2008年の世界金融危機の時で数年かけてGDPが10%以上落ち込み失業率が10%を超えたが今回のパンデミックがマクロ経済に災害級の大打撃を与えた期間はわずか3週間 #アメリカは2020年3月4月の2ヶ月間で10年かけて積み上げてきた雇用増加を一気に失った #すでにアメリカ人の約30%が財産を失い負債を抱えているこの危機が終わったときに金も仕事もなく医療も受けられない人が増えそうした人々が自暴自棄になって社会に怒りをぶつけたらどうなるか #現在の経済は2020年以前と比べて8割程度しか動いていておらず豊かな国の要であるサービス産業がこの8割経済という新しい現実にどう対応していくか #経済の主要部門が1ヶ月丸々活動を休止した場合その影響で年間成長率は2%以上も下がる #準備通過としてのドルの地位が徐々に終焉を迎えるのではないか国が発行するデジタル通過を導入する試みのいずれかが長く王座に君臨してきたドルを引きずり下ろすかもしれない #パンデミック後の世界は社会の不平等がさらに拡大する #重大な危機は国家の権力を拡大させる #歴史的な課題に遭遇した指導者は危機をうまく管理しながら未来も創造していかなければならない #新しい世界秩序などないあるのは不確実性への混沌とした移行だけだ #G7やG20といった世界を牽引してきた時代から今は国際社会を主導する国が存在しないGゼロの時代かさらに悪いGマイナス2の時代に入っている #パンデミックはESGに配慮しなければ事業の大きな価値が破壊され企業の価値を脅かすことにつながるという教訓を世界の経営者に残した #保険業界では各政府のロックダウンが保険業界特有のリスクをもたらしており世界中の何十万もの企業が保険請求ができず数ヶ月から数年間は訴訟を続けるか破綻するかの瀬戸際に立たされている #試練は人を強くするという言い古された言葉があるがパンデミックを生き延びた人が必ず強くなるわけではなくむしろ現実はほど遠い #パンデミックが始まってから世界中で時間感覚が変わったと感じる人が増えた1日はのろのろと過ぎるのにある朝気付いたら1ヶ月が経っていることに気づき時間はいったいどこに行ってしまったんだと疑問に思う #パンデミックは社会を省み考え直しリセットするという千載一遇のチャンスを与えてくれている #グレートリセットに社会や経済が抱える根深い問題に対処せず解決せず放っておいたら結局は戦争や革命のような暴力的な出来事によって社会がリセットされる https://www.instagram.com/p/CPQJHR-LAsT/?utm_medium=tumblr
#読書#グレートリセット#ダボス会議で語られるアフターコロナの世界#読書メモ#多くの人がいつになったらノーマルな生活に戻れるのだろうと考えているがシンプルな答えは何も元に戻らないだ#2020年初頭まで慣れ親しんでいた世界は書き消えた#変化の可能性その変化がもたらす新しい秩序は無限にありそれを良いほうにも悪いほうにも変えられるのは私たちの想像力だけ#大事なのは私たちはこの前例のないこの機会を利用して世界のイメージを描き直すべき#パンデミックの影響が2022年まで続くことを大前提として複数のシナリオに備えるべき#1930年代初頭の大恐慌や2008年の世界金融危機の時で数年かけてgdpが10#アメリカは2020年3月4月の2ヶ月間で10年かけて積み上げてきた雇用増加を一気に失った#すでにアメリカ人の約30#現在の経済は2020年以前と比べて8割程度しか動いていておらず豊かな国の要であるサービス産業がこの8割経済という新しい現実にどう対応していくか#経済の主要部門が1ヶ月丸々活動を休止した場合そ���影響で年間成長率は2#準備通過としてのドルの地位が徐々に終焉を迎えるのではないか国が発行するデジタル通過を導入する試みのいずれかが長く王座に君臨してきたドルを引きずり下ろすかもしれない#パンデミック後の世界は社会の不平等がさらに拡大する#重大な危機は国家の権力を拡大させる#歴史的な課題に遭遇した指導者は危機をうまく管理しながら未来も創造していかなければならない#新しい世界秩序などないあるのは不確実性への混沌とした移行だけだ#g7やg20といった世界を牽引してきた時代から今は国際社会を主導する国が存在しないgゼロの時代かさらに悪いgマイナス2の時代に入っている#パンデミックはesgに配慮しなければ事業の大きな価値が破壊され企業の価値を脅かすことにつながるという教訓を世界の経営者に残した#保険業界では各政府のロックダウンが保険業界特有のリスクをもたらしており世界中の何十万もの企業が保険請求ができず数ヶ月から数年間は訴訟を続けるか破綻するかの瀬戸際に立た#試練は人を強くするという言い古された言葉があるがパンデミックを生き延びた人が必ず強くなるわけではなくむしろ現実はほど遠い#パンデミックが始まってから世界中で時間感覚が変わったと感じる人が増えた1日はのろのろと過ぎるのにある朝気付いたら1ヶ月が経っていることに気づき時間はいったいどこに行って#パンデミックは社会を省み考え直しリセットするという千載一遇のチャンスを与えてくれている#グレートリセットに社会や経済が抱える根深い問題に対処せず解決せず放っておいたら結局は戦争や革命のような暴力的な出来事によって社会がリセットされる
12 notes · View notes
takahashicleaning · 3 years
Link
TEDにて
マチウ・リカール:幸せの習慣
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
幸せとは、何で、どうやったら幸せになれるのでしょうか?
生化学者から仏門を選んだマチウリカールは、我々の心を鍛えて満ち足りた状態を習慣にすることによって、心の奥底からの静かな充足を生み出すことができると言います。
これもグローバリゼーションのおかげなのでしょうね。
エベレストの山頂にコカコーラの缶、モントレーに僧侶(私はちょうど、2日前。皆さんのお招きに上がりヒマラヤ山脈から来ました。ですから、皆さんをしばらくの間。ヒマラヤ山脈に招待したいと思います)
そして、私のような修行僧がいる場所にご案内しましょう。
私はパスツール研究所の分子生物学者でしたが、山に入る道を選びました。さてと、幸福について語りましょう。私は、フランス人ですが、フランスには幸福に全く興味のない知識人が多いです。
では、幸福または満たされた状態について話しましょう。
まず、最初にフランスの知識人がなんと言おうと朝から「今日も一日苦しむだろうか」と考えながら起きる人は誰もいません!つまり、意識しようがしまいが、直接であれ間接であれ、すぐのことでも将来のことでも我々がすること。
望むこと。夢見ること。そういったこと全てが心の奥底で幸せを求めることにつながっているのです。
東洋や西洋の書物を調べれば、幸せの定義は驚くほど多彩でしょう。こう言う人がいます。「過去の記憶を信じて、将来を想像し、現在は念頭にない」こう言う人もいます。「幸せとは、今という瞬間。今という瞬間の新鮮さの度合いである」
そして、これは、フランスの哲学者アンリベルクソンにこう言わせました「すべての偉大な人文科学の思想家は、幸せを曖昧なまま残した彼らが自分達の言葉で幸せを定義できるように」
人生において幸せにそれほど関心がないならかまわないでしょう。しかし、幸せが人生のあらゆる瞬間の質を定めるものだとしたら?私たちは、それが何であるかを知り、はっきりした考えを持った方が良いでしょう。
そして、おそらく私たちが幸せについてよく知らないことが理由となって、しばしば、幸せを求めながらそれに背を向けてしまうのでしょう。
苦しみから逃れたいのに苦しみに向って走っているかのようです。それはある種の勘違いが原因かもしれません!
喜びを、幸せと思い込む事は、よくあります。
この2つの特徴をよく見てみると喜びは、時間、目的、場所に左右されます。その本質は相対的に変わりうるものです。チョコレートケーキの最初の一切れはおいしいです。二切れ目はそれほどでもなく、三切れ目には嫌気がさします。
それが人間の欲望の本質です。
飽きが来ます。私は、昔、バッハが大好きでギターで弾いたりしました。5回聴いても飽きません。もし、24時間休みなしで聴くことになれば飽きるかもしれません。寒いとき、火のそばに近づくのは気持ちがいいです。
そして、しばらくすると少し後ろに下がります。それからすごく熱く感じます。
喜びは経験とともに消費されるかのようです。
そして、それは、あなたから発せられるものではありません。あなたが強い喜びを感じることでまわりの人が大いに苦しむこともありえます。ゲーム理論のゼロ���ムゲームのこと
では、幸福とはいったいなんでしょう?
幸福というとあまりにも漠然とした言葉なので満ち足りた状態と定義しましょう。
仏教徒の見解から、最もふさわしい定義は、満ち足りた状態とは、ただ楽しいという感覚ではないということです。
それは心の奥底を静かに満たすものです。
人生におけるあらゆる心の働きや喜びや悲しみにも、しみ渡ってその根底に横たわっています。皆さんは驚くかもしれません。悲しみのさなかでも満ち足りていることは、ある意味可能です。なぜなら、私たちは別のレベルの話をしているからです。
岸辺に寄せる波をごらんなさい。波の谷間にいれば、海底に当たります。
堅い岩にあたります。波の上にのっているときは意気揚揚としています。海面は上へ下へと揺れ動きます。外洋をごらんなさい。そこには鏡のように美しく穏やかな海があるかもしれません。嵐の海かもしれません。
しかし、海の深さはそこにあり変わらないのです。どういうことでしょう?それは、つかの間の感情や感覚でなく、そのものの状態です。喜びもまた幸福の源となりえますが、誰かの苦しみを喜ぶというような邪悪な喜びもあります。
ではどのように幸せを探しましょうか?
たいていは外界から探し出そうとします。「幸せ」になるためにすべての状況。すべての条件を満たせば幸せになれると考えます。すべてを得ることで幸せになる!
こんな考え方の幸福には、崩壊が待ち構えています!!すべてを持つこと。何かが欠ければそれは崩れます。
何かがうまく行かないといつも外界を修正しようとします。しかし、私たちが外に及ぼす力は限られたもの。一時のもの。錯覚かもしれません。では、内部の状況を見てください。それらはより強くありませんか?
外界から幸福や苦しみを捉えるのは心ではないですか?心の影響が強くないですか?小さなパラダイスのようなところに住んでいてもまったく不幸せなこともあるのをご存知でしょう。
ダライラマがポルトガルに行ったとき、そこでは、至る所で建設工事が行われていました。ある晩、彼は言いました「立派な建物を建てるよりも、心の中に何か築き上げるのが良いのではありませんか?」
そして、こう言いました「もし、あなたが素晴らしくモダンで居心地の良いハイテクのマンションの100階に住んでいても内面でひどく不幸だったら飛び降りるための窓を探してしまうでしょう」
では、反対に非常に厳しい状況下でも落ち着き、芯の強さ、自由、信頼を失わない人が沢山います。では、内面の条件が強ければどうか?もちろん、外部状況は影響するでしょう。
そして、健康に長生きすることや情報が得られ。教育が受けられ、旅行が出来。自由でいられることは素晴らしいことです。大変望ましいことです。
しかし、これだけでは十分ではありません。補助的な条件に過ぎないのです。
すべてに解釈を与えるのは、心の中に存在する経験です。内面の幸せの条件をどうはぐくむかと自問していくと幸せを妨げるものが自らの内面に見出されたりもします。これを解るにはいくらかの経験が必要です。
ある種の心の状態があることに気付かなければなりません!
それは、この幸せ、この満ち足りた状態につながる心の状態でギリシア人がユーダイモニアと呼んだものです。
こんな満ち足りた状態の妨げとなるものもあります。自らの経験の中から探しても怒りや憎悪、嫉妬、ごう慢、しつこいほどの欲望、執着。そんな感情にとらわれた後はあまりよい状態とはいえません。
そのうえ、それらは他人の幸せにも有害です。これらのものが心に侵入すればするほど、連鎖反応のようにますます惨めになり苦悩を感じます。憎しみの連鎖とも呼ばれてます。
逆に、誰もが知っていることですが、献身的で、寛大な行為の奥底では、遠くからであっても、他の誰に知られることがなくても、子どもの生命を救い。誰かを、幸せにすることができます。
我々は、認識されることも、感謝されることも必要としません。ただ、そうする事が、心の深みにおいて、満ち足りたものを与えます。それは、常にそうありたいと思う「姿」です。
では、生き方を変えて心の在りようを変容させることが可能でしょうか?
生まれつき心が持っていた否定的な気持ちや破壊的な感情を?我々のムードや特徴。そして、感情を変化させることは可能でしょうか?そのためにはこう尋ねなければなりません。
心の性質とは何でしょう?
経験的な観点から見れば、意識の主な性質というものは、単に事実を認識し、気付くことなのです。
意識は、すべてのイメージを映し出す鏡のようです。
醜い顔も美しい顔も鏡は気にしません。鏡は汚されず、イメージによって変質する事もありません。同様にすべての思考の背後には、ありのままの意識。純粋な認識があります。
そういう性質なのです。意識は、憎悪や嫉妬によって損なわれるようなことはありません。全体が、染料で染められても、布は布であるように、常に、意識は、そこにあります。
我々は、いつも怒っていたり、嫉妬深かったり、気前がよかったりするわけではありません。意識という布地は、純粋に認識をするというその性質において、石とは違っていて、だから、変化の可能性があります。
すべての感情は過ぎ去っていくからです。それが、心の訓練の基盤です。
心の訓練は、2つの対立する精神要因が、同時に起こり得ないという考えに基づきます。愛から憎しみへ行くことはできます。でも、同じ時間に同じもの。同じ人に対し、害悪を願いながら、善を願うことはできません。あなたは、握手しながら殴ることはできません。
我々の内面が、満ち足りようとするのを妨げる感情に対して、自然の特効薬がある!!ということです。
そこに進むべき道があります。
嫉妬に対しては、喜び。貧欲な執着に対しては、内心の自由。憎悪に対しては、慈愛あふれる親切。もちろん、それぞれの感情ごとに、特定の解毒剤が必要です。
これは、仏教の最古の経典とされる南伝パーリ語のスッタニパータにもある「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」の克服方法です!!
もう一つの方法は、全ての感情の特質を分析することで、対抗手段を見出そうとするものです。
通常、我々が、誰かに対し、不快や憎しみ。動揺を感じたり、何かに執着すると我々の心は、その対象のことを繰り返し考えます。その対象に思いを寄せるたびに、執着心や不快感が増します。
その過程は、際限なく膨らみ、繰り返されていきます。今、我々が見るべきなのは、外を見る代わりに、内観するということです。
「怒り」そのものを「ああっ��分は怒ってるな〜」と注視してください。それは、非常に恐ろしげに沸き立つモンスーンか雷雲のように見えます。その雲に座ることすらできそうに見えますが、近づけばただの霧にすぎません。
同様に、あなたが怒りという感情を直視すると、それは、朝日のあたった霜のように消えます!!これもブッタのプラスサムの智恵です。
何度も繰り返して、怒りの感情を直視して、解消しているうちに、怒りの繰り返しは、解消するたびに、だんだん小さくなります。そして、ついには、たとえ怒りが生じても心をかすめるのみで、空を渡る鳥のように痕跡も残さなくなります。
これが心の訓練の基本であるウィパッサナー瞑想法です!!
時間はかかります!心の欠点や性癖を積み重ねるのに、時間がかかったように、それらを解きほぐすのにも時間がかかります。
しかし、それしか方法はありません!!
心の変容こそが、瞑想の意味することろです。新しい在り方やものの受け止め方を習熟することです。そのほうがより現実であり、相互に支えあい。流れのように連続的な変化であるもの。
それが、我々の存在であり意識であるのです。それでは、認知科学との接点について、この話をする必要があります。短い限られた時間で話さなければなりません。
脳の可塑性に関して、以前は、脳の機能は不変のものと思われていました。20年ほど前までは、すべての神経の接続の総数は、成人した後には、ほとんど変化しなくなるものと考えられていました。最近では、それは大きく変化しうることが解かっています。
10,000時間。バイオリンの特訓をしたバイオリン奏者の話を聞きましたが、指の動きを制御する脳の部分は大いに変化して、シナプス接続が強化されます。人間の品位において、愛あふれる慈悲や忍耐強さ。開かれた心によっても同じことができるでしょうか?
これは、それらの偉大な瞑想家が行っていることです。ウィスコンシンのマディソン。
または、バークレーの研究室に来た達人の中には、2万から4万時間も瞑想をした人がいます。彼らは、3年間ほどの隠遁生活を送り、その間、毎日12時間、その後も毎日3-4時間瞑想します。彼らは、心の訓練の真のオリンピック勝者です。
何が明らかになったでしょうか?
さきほどの話と同じです。研究に関しては、まだお話できないのですが、この研究では、無条件の慈悲について調べました。何年も何年もかけて、心の中に慈しみをあふれるさせることができるようになった瞑想家に実験をMRIにて手伝ってもらいました。
そこに至る訓練の途上では対象として、苦しんでいる人々のこと。愛する人々のことを考えますが、やがて、慈しみがあふれて、全てを覆い尽くすことができるのです。科学的な結果の全てを述べる時間はありません。またの機会があることを期待しましょう。
肝心なことは、この実験は、サーカスのように特別なことができる人を見せようというものではなく、精神鍛錬は、重要だと言いたいのです。これは、ただの贅沢ではなく、精神のビタミン栄養剤でもありません。
これは、我々の人生のすべての瞬間の品質を決定するものです!!
皆さん。教育には、すすんで15年を費やし、ジョギングやフィットネスなど、表面上の美貌を維持するためにあらゆる事を行います。しかし、心の動かし方、心の美貌などという最も重要なことには、驚くほど無関心で訓練に時間をかけません。
それは、我々の経験の質を決定する根本的なことなのです!!
宗教の��始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化されます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです!!
または・・・
皆さんにも、「イラっ」とした感覚が生じる瞬間があるはずです。これは、「憎しみ」と誤解して、表現する書物がたくさんある。
しかし、誤りです。ブッタによると、「憎くて憎くて、あんたが憎い!だから、私の最大の敵なんだ〜」として、「イラっという感覚」と「目の前の敵」をリンクさせたがる。
これも、誤りです。ブッタは「私は、おまえの敵ではない!おまえの敵は自分自身なのだ!」と言います。自分自身ほど手強いライバルはいないとも言います。つまり、人間の特質がそうさせる自我がライバルです!
アインシュタインの相対性理論によるとある時点で光が、トポロジー的に反転して、今、自分の見ている対象が、自分自身の姿として写って脳内が認識してしまう!という現象も計算で判明しており、鏡のようになってしまうこともあり得ます。
「イラっという感覚」と「他者を敵という概念」は、リンクせず、関連もない!ただ単に、自分自身の勘違いと言うこと。これが理解できれば、憎しみの連鎖は断ち切れます。他人に教えても減らないプラスサムのブッタの知恵です。
また、ネイティブアメリカンでも、「イラっ」とする感情は、慈愛、慈しみと言うらしいです。
そして、親、兄弟姉妹は、ウザいという感情表現は、最高の慈愛、慈しみを感じてるから!らしいです。最悪、感情を自分自身で消化できないなら、物理的な距離感を大事にすればいい。ということになります。
これと似た現象に、政府の陰謀?影の政府?誰かの陰謀と具体的でない言葉で発言して自分以外の責任になすりつける人物や団体には、盲点があります。
つまり、邪悪な影の政府は具体的に発信している本人自身ということ。
なぜ?言葉の定義もなく指摘も抽象的ならその人や団体自体が最も具体的だから!
自分自身が、真の影の政府になるというパラドックス
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(てんじく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
<個人的なアイデア>
2019年に日本では、元号も「令和」に変わっていくため、ここで記しておくことは、今後の人類の発展に貢献できるかもしれないためでもあります。
マインドフルネスという瞑想法が流行していますが、個人的には危険性が高いと思っています。まだ科学的とはいえ「魔境」の克服が解明されていません。
仏教は、長い年月で練られた瞑想法が確立されているので、克服法も適切な指導者にて行わないと日常生活に支障が生じる恐れがあります。
瞑想法は気軽にするものではなく、自己責任でどうぞ。警告として、記入しておきます。
続いて
2020年後半くらいから様々な占いで出てきてた時代の変わり目。それが、西洋占星術で具体的に「風」の時代という形で出てきました。
私が、感じとってたインスピレーションは、たぶんこれかな?
兆しは、世界的な金融ビックバンの1970年代、IT革命のミレニアムの前から出ていたけど。
これは、これまでの約200年間。物質やリアリティの影響力優位「土」の属性の時代から、量子コンピューター、ビットやインターネットなどといった物質ではないものに影響力が増していく「風」の属性の時代に。
そして、本格的に軌道にのっていく属性は、今後200年程続くことになるのです(2020年12月22日から、2100年当たりをピークに少しずつ衰退していく2220年まで)
<おすすめサイト>
ポール・ピフ:お金の独占が人と大企業を嫌なヤツにする?
ショーン・エイカー :幸福と成功の意外な関係
バリー・シュワルツ:選択の自由パラドックスについて語る
ダン•ギルバート:私たちが幸せを感じる理由
日本テーラワーダ仏教協会
仏教と物理学
ボブ•サーマン:私たちは、だれでも仏陀になれるという話
マチウ・リカール:慈しみと愛他性(アルトルーイズム)に導かれる生き方
カイラシュ・サティーアーティ:怒りの昇華で世界に平和をもたらす方法?
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
東京都北区神谷のハイブリッドな直送ウェブサービス(Hybrid Synergy Service)高橋クリーニングFacebook版
2 notes · View notes
xf-2 · 4 years
Link
新型コロナウイルス関連の報道では、数多くの医師がメディアに登場して、自身の知見を述べている。しかし、最前線で感染者たちと接している医師の話をじっくりと聞く機会は意外と少ない。実際にはその患者を診たことがない「専門家」(中には医師ではない者もいる)のオピニオンのほうが多く流布されている。現場からの声として紹介される多くは、治療現場の苦境といったところに限定されているようにもある。
 そこで今回、ある総合病院で新型コロナウイルスを実際に診察し、また現場の統括もしているベテラン医師に匿名を条件で本音を語ってもらった。匿名にした理由は「特におかしなことを言ったつもりはありません。同じように考えている医師も多いと思います。でも、ただでさえ忙しいのに、病院あてに抗議などが来るとたまらないから勘弁してください」というものである。
――お勤めの病院はどんな感じですか?
 現状をお話しする前に、平時の病院、医療がどうだったかを少しご説明させてください。
 もともと日本は国民皆保険ですし、東京は医療へのアクセスが極めてイージーになっていました。中学生までは医療費ゼロですし、救急車を呼んでもお金は請求されません。欧米なら数万円は確実に取られます。それゆえ、子供を昼間病院に連れて来られないというだけの理由で、救急外来を夜間に普段使いするような親までいたのです。
 だからいつも病院が混雑していることが問題になっていました。一方で、開業医の先生を含めて医療機関側もそれで儲けていた、という面もあったことは否定できません。「どんどん来てください」とやって、医療費は国に負担してもらえばいいのですから。
 ただ、新型コロナウイルスの影響で、普段は安易に病院に来ていた方が減ったので、全体としての患者数は減っています。
 感染症や救急を担当していない病棟や医師はむしろ時間に余裕ができているようです。不要不急の手術も延期にしていますから。
 1、2月に比べて3月の病院全体の収入は3割減というところでしょうか。病床の稼働率も10%ほど下がっています。
 おそらくこれは開業医などでも同様でしょう。「売り上げ」が落ちて困っているところもあるだろうと思います。
 一方で、私たち新型コロナの担当医たちだけは忙しくなっています。
 うちの病院では新型コロナの診察を救急医が受け持つようにしています。その担当医らの仕事は、大雑把にいって1.5倍になっているという感じです。ただでさえ忙しかったところに、仕事が急増しました。
 私が若い頃は救急を専門とする医師は月15日くらい当直というのが当たり前でしたが、さすがに今はそうはいかないので、当直は月6~8日くらい。週休2日は確保できるようにして、休日出勤の際には代休も取るように、という方針でした。
 これがさっき言ったように仕事量が増えているため、「当分、代休は取れません」という感じになっていて、実感としてかなりキツい日々が続いているのは事実です。
 私自身は現場の診療の他に、病院全体の感染症対策等々の仕事が増えました。省力化できたことといえば、テレビ会議が増えたので結果として会議の時短などが進んだことでしょうか。
――新型コロナに関しては、膨大な情報量が発信されています。こ���状況をどう見ますか?
 SNSで誰もが発信できるようになったことで、不安をかきたてる情報が溢れすぎている、という印象はあります。
 また地上波のテレビ、ワイドショーがセンセーショナルに伝える傾向があるのは良くないと思っています。たしかに政府の言う通りのことを流すのでは政府広報になってしまうので、良いことだとは言えません。
 しかし、恐怖を煽って,今の対応が危険だと強調しすぎているように思います。
 現政権が嫌いなのかもしれませんが、それと医学の問題は別です。
 現在の政府方針、専門家委員会の方針は、専門的な知見のある人たちが議論して打ち出したものであり、相応の合理的な判断だと現場の医師から見ても思います。
 ですから煽られておかしな行動をとるのではなく、とにかく今の対策を守ってもらわないと,収束できるものもできなくなると思います.
 にわか専門家のコメントが全部間違っているとは言いませんが、大事なことをうまく伝えられていないと感じます。自称専門家はもちろん、芸能人の方などの不用意な発言でも、視聴者は扇動されます。
 外国の例を簡単に紹介するのも問題です。「海外ではこうだ」というのですが、それぞれの国によって医療レベル、保険制度、国民性、文化など異なる背景があります。だから安易に「あそこがいい」「ここがいい」という話ではありません。
「アフリカの〇〇ではこうだ」と言われても、その国は常に様々な感染症の脅威が存在する国かもしれません。その国の政策を参考にする、といっても無理があるのではないでしょうか。
――「何もしないと42万人が死ぬ」というシミュレーションも恐怖を煽っていたのではないでしょうか?
 あれはあくまでも「何も対策を講じなければ」という前提で、最悪の事態を示したのですから、「ステイホーム」を訴えるという点では良いのではないでしょうか。
「エアロゾル」感染といった言葉が独り歩きしたせいで、ちょっと勘違いがあるように思うのですが、基本的には空気感染ではなく接触・飛沫感染です。だからちょっと話をした程度であれば、問題はない。
 空気感染だと思うと「じゃあ空気がいいところなら大丈夫」という勘違いが生まれます。ここが心配です。
 たとえば「空気がいい」ゴルフ場に行く、公園でジョギングをする、というのは問題ないように思っている方もいるでしょう。
 たしかにゴルフ場でプレーするだけなら感染はしないでしょう。しかし、その前後に外食をしないでしょうか。ジョギングの最中に無意識にガードレールを触って、その手で顔を触り……となっていないでしょうか。
 そういうリスクがあるからこそ、「ステイホーム」と呼び掛けているわけです。あくまでも個人的な、そしていささか楽観的な見方ですが、きちんと自粛をしていれば、あと1、2カ月のうちには良い状態が来るのではないか、と思っています。
――そうした報道に煽られて、検査や診察を求める患者さんが殺到していて、かえって病院が困っているとも聞きますが、どうなんでしょう? 
 確かに、必要とは思えない患者さんが検査を求めてくる事例はあります。直接こちらの病院には来なくても、かかりつけ医から紹介状をもらってきて、検査を求めるケースです。そういう人の中で検査を断られた人が、SNSやテレビで「検査も受けられない」と主張することもあるのでしょう。
 ただ、この間、数多くの新型コロナウイルス感染者を診てきた者として言えるのは、「この人は陽性だな」と思う人は検査に回さなくても、ほぼわかる、ということです。あくまでもその診断を確定させるために回すのです。病歴を聞き、問診をして、CTを撮り……といった診察の過程でかなりの確率でわかります。
 ところが、そうした経験のないお医者さんが、患者さんに強く言われたとか、あるいは患者さんサービスの一環で検査を求めるとどうなるか。結果として、本当に早く確定して欲しい人の検査スピードが遅くなります。
 これが問題です。
――テレビに出ている「専門家」の強い主張の一つが、「とにかくPCR検査を増やすべき」というものでした。これはどうなのでしょう? 
 これは絶対に間違いです。少しでも専門知識がある人は、全くこれを望んでいません。
 他国と日本が違うのはこの点で,本当に医師が疑った例にのみ検査をやっている点で感染の広がりをコントロールできていることは確実です。
 とはいえ確かに検査のスピードは遅かったから、そこは今改善を進めています。
 ただし、誰彼構わず検査をオーダーできるような状況を作らなかったことは100%正しかったと考えています。
 日本のように国民皆保険の国で、なおかつ感染症に詳しくない町のクリニックのようなところまでもが、自由にPCR検査をできるような環境を作っていたら、間違いなく院内感染が多発していたでしょう。おそらくニューヨークやイタリアの比でない状況になったと思います。
「かかりつけ医」に相談することは否定しません。しかし、そこに多くの人が押し寄せたら結局クラスターを発生させかねません。そういう状況を作らなかった点では、当初、検査を絞ったことは決して批判されるようなことではないのです。
 現在報告されている院内感染にしても、慣れてない人が普段使わないような感染���御具を適切でない使用をしたがために他の人や患者に感染させる例があとを絶ちません。
 ドライブスルーでのPCR検査を増やせ、という意見についても、乱暴に思います。病院外での検査体制は進めたほうがいいでしょうが、やり方を間違えるとかえって感染者を増やすことにもなりかねません。
 別の観点から補足させてください。
 毎年のインフルエンザの流行の仕組みをご存じでしょうか。
 PCR検査が注目されることで「偽陽性」「偽陰性」といった言葉もよく目にされるようになったと思います。前者は「本当は陰性なのに陽性と出ること」で後者は「本当は陽性なのに陰性と出ること」ですね。
 実はインフルエンザの検査でも「偽陽性」「偽陰性」は一定の確率で発生します。日本では「インフルエンザかな?」となったらまず病院に行って、検査をしてもらって、タミフルを飲んで、ということが当たり前に思われている方が多いかと思います。
 でも実は、こんなことをしている国はそんなに多くありません。一つには先ほどから言っているように、医療費が高い国では、そのたびに大変な料金が発生するので、いちいち検査しない、という人が多いのです。また、タミフルは病気を治す薬というよりは、よくなるまでの期間を短くする(7日が5日半になる)という性質のものです。
 アメリカならば、この検査とタミフルだけで下手をすると500ドルはかかるでしょう。だから多くの人は「家で寝て回復を待つ」のです。私もそうしています。
 ところが日本は医療費が安いことに加えて、「休むなら証明書を出せ」という習わしが学校や企業にあるので、こぞって病院に来て検査を求めるわけです。
 問題は、インフルエンザの簡易キットの感度は7割から8割なので、2~3割の人は本当は陽性なのに「陰性」という結果になります。
 その人たちは、病院のお墨付きをもらったということで、自由に動き回りますから、コミュニティの中で感染を広げます。実は、これが毎年のインフルエンザの流行の大きな原因なのです。今回のことを教訓に、「インフルの証明書がないと休めない」といったおかしな慣習はなくしてほしいものです。何にせよ具合の悪い人は休むべきです。結果としてそのほうが学校や職場のためにもなります。
 そして、今年、インフルエンザがあまり流行していないのは、多くの人が手洗い、うがいをして、なおかつちょっとでも具合が悪ければ、自ら行動を抑えるようにしたからです。その結果、「実はインフル」の人が感染を広めなかったわけです。
 話をPCR検査に戻せば、検査の無闇な拡充に反対している人たちが怖れているのは、インフル同様に、「お墨付きを得た、でも本当は陽性です」という人が感染を広めることにつながりかねないからです。
 よく韓国やイタリアのほうが日本よりも検査数が多い、といって日本を批判する人がいるのですが、これは話がまったく逆です。韓国やイタリアは最初に検査数を増やし過ぎたために、感染を広めてしまったのです。
「医療資源が無限にあり」「偽陽性の人でも全員どこかにちゃんと収容できて」「(偽)陰性の人が行動を慎んで他人にうつさないようにする」という前提がすべてそろっていれば、検査数をどんどん増やすのもいいでしょう。
 しかし、そもそも検査はそんなに簡単なものではありません。検査というのは少なくとも検体を取る人と、検体を検査する人の両者がいてはじめて検査ができるのです。仮に医師会の先生たちが頑張って検体をたくさん出しても、検査する人が増えなければ結果が出るのがより遅くなってしまいます。本当に必要な検査が滞るのです。
 もしも「やる気になればできる」と言い張る方がいるのなら、ぜひそういう人材がどこにまだ眠っているのかを教えていただきたいものです。
 検査の技術の習得は一朝一夕にはできません。だから長期的な観点では、もっと日本はこういう検査もスピーディにできるようになればいい、と言われれば「その通りです」と答えます。
 しかし、今まさに感染爆発を防ごうとしている時期に実現不可能なことを言っても仕方がありません。
 テレビに出ている中でも、自称「専門家」ではなくて、本物の専門家の先生方もいらっしゃいます。そうした方に、「日本のPCR検査数は少ないのでは」とか「より検査体制を充実させられるといいのでは」と問えば、「そうですね」と答えるでしょう。それ以外の答えをしようがありません。
 しかし、それで「それみろ、やっぱりPCR検査が足りないんだ」と言い張るのはやめてください。
 繰り返しますが、現場で本当にこの病気を診ている医者で、もっと検査数を増やせ、などと言っている人はいないはずです。
――ではなぜお医者さんの中で「PCR検査を増やせ」という声が根強いのでしょうか?
 例年、この時期はインフルエンザの患者さんで病院、特に開業医さんは混み合うのです。経営のことを考えると患者さんがたくさん来るのは悪いことではないと考える先生もいるでしょう。今年はインフルエンザ自体が流行していませんし、万が一新型コロナウィルスに感染している患者に検査をすれば、感染のリスクがあるためほとんど行われていません。現在、新型コロナの診察はあまりやっていないでしょうが、一部の人にとっては「検査は怖いから検査センターにお願いするとして、診察は引き受けたい」といったモチベーションがあるかもしれません。
 そういう人にとっては、かりに「PCR検査センター」のようなものが出来れば、都合が良いかも……というのは穿った見方でしょうか。
――「WHO」の関係者と名乗る方、ノーベル賞受賞者の方もPCR検査を増やすように主張していますが。
 海外にいて、どのくらい日本の事情をご存じなのかわかりません。また、たとえノーベル賞を受賞された素晴らしい先生方であっても、必ずしも感染症やこの病気の専門家ではないので、仰ることがすべて正しいとはいえないと思っています。
 医学はそれぞれの科や専攻の専門性が高い分野なので、たとえノーベル賞受賞者であっても、専門外のことには確証を持って発言していないのではと感じることもあります。
 なお、「検査、検査、検査」というWHOの事務局長の発言もいまだに曲解されている方がいます。あれはあくまでも発展途上国などで検査を軽視している国に対してのメッセージであって、日本などを念頭に置いているわけではありません。
――ただ、検査をまったくしないと不安だという気持ちもよくわかります。「37.5度が4日間続くまで様子を見る」と言われても、その間に急激に悪化したら……と不安になるのでは。
 気持ちはよくわかるのですが、熱だけが兆候とは限りませんし、本当に具合が悪くなったら救急車を呼ぶほうがいいと思います。新型コロナ以外でも、いろいろな病気がありえるのですから、本当に具合が悪い時はそうするべきでしょう。
 また、これからは「陽性だけれども症状がない」という方はホテルなどに入ることになりました。このメリットは単に隔離されるというだけではなくて、そこには医療スタッフが必ずいるということです。症状が悪化した場合には、そのスタッフが対応します。
 このところ脚光を浴びているのが血中酸素濃度を測って患者さんの状態を観察するというやり方です。入院患者や経過観察の対象の方の濃度をチェックするのは意味があるでしょう。ちなみに、その際に用いるパルスオキシメーターを発明した青柳卓雄さんが、先月亡くなられました。コロナの報道に紛れてしまい、あまり大きくニュースでは扱われませんでしたが、世界に誇るべき日本発の医療技術であることは知っておいていただきたいと思います。
――死者数や感染者数を見るとインフルエンザと大差ない、いやインフルのほうが深刻だ、といった意見についてはどうお考えですか。 
 たしかにウイルス自体の病原性や感染力は同等だと思います。空気感染はしないので、結核と比べると感染力は弱いともいえます。
 ただ、高齢者や合併症のある人への進行度合いは半端ではありません。日本は医療レベルが高いので、余り若年者は死んでいませんし、今後もそうでしょうが、感染した高齢者の一定数は救いようがないままに亡くなります。
 実際に診察しての実感を一言でいえば、「この病気はヤバい」です。
 多くのウイルス性肺炎は、自身の持つ免疫力で打ち克つことができます。
 新型コロナウイルスは、若い人と比べて高齢者が重症化しやすいことはよく知られていますが、では両者の違いは何か、といえば免疫力になります。肺炎が重症化しても、踏ん張っているうちに回復に向かえる。だからICUやECMOで治療をして、「もうちょっと頑張れる」ようにするのです。しかし、その間にダメージを回復できなければ最悪の場合、亡くなることになります。
 少なくとも私の病院では、例年、インフルで亡くなる人はまずいません。それまでにちゃんと治療をして、回復してもらっているからです。しかし今回は、すでに何人もの方が亡くなっています。だから「ヤバい」と感じるのです。
――世界的に見た場合、日本は死者数、重症者数が少ないのはなぜでしょうか。これを政府の陰謀のように言う方もいますが。
 実際に少ないと思います。それはいろんな理由が考えられるでしょう。
 まず衛生観念が高い、といったことがよく指摘されます。清潔な水が近くにある、靴を履いたまま家に上がらない、とか。そういうこともあるかもしれません。
 また、繰り返しお話ししているように、医療レベルの高さ、アクセスのしやすさは大きいと思います。
 多数の死者を出したアメリカでは、救急車を呼ぶのにも、病院にかかるのにもかなりのお金がかかります。そうすると、具合が悪くても病院に行かない、行けないといった人は一定数出てしまいます。今回亡くなった多くの人が貧困層だというのはそういうことでしょう。「日本でもタライ回しがあるじゃないか」と言われるかもしれません。確かにそういう問題は解消されていません。
 しかし、たとえば東京都では救急医療について「東京ルール」というものを10年前に定めています。「5つの病院に断られた」「30分以上搬送先が見つからない」といった場合には、東京都が定めた地域救急センターに搬送する、というルールです。他の自治体でも様々な取り組みが進められていると聞きます。「日本はダメだ」と言うのは自由ですが、他の国と比べて決して引けを取るようなシステムにはなっていないと思っています。
「BCGが有効」という説も聞きますが、これはまだよくわかりません。そういうこともわかればいいとは思いますが、少なくともそれは現場の私たちが判断できることではないのです。
 なお、「検査数が少ないから死亡者が目に見えていないだけ」といった主張は完全に陰謀論の類です。たとえば別の肺炎死だとか、謎の死者が急に激増しているというのであれば、そういう仮説も立てられるのでしょうが、そんなことはまったく起きていません。
――最前線にいる立場で、メディアや一般の人に言いたいことなどはなんですか。必要な支援はありますか?
 私たち医療従事者はいま別にお金が欲しくて働いているわけではなく、使命感で働いています。
 相当なストレスを抱えながら、普段以上に働いています。実際の担当ではない医師や看護師にも大きな影響を与えています。
 たとえば、陽性だけれども症状がない、といった患者さんを専門外の個室に入れることがあります。するとそこの看護師さんは慣れないながらも感染者の面倒を見て、しかもそれが他の患者さんにうつらないようにしなければならない。普段とはまったく異なるプレッシャーがかかっていて、精神的に追い詰められている関係者は数多くいます。
 私も今は家に帰れる日は限られていて、あとは病院が用意したホテルに宿泊するようにしています。
 また、精神的に追い詰められた職員らのための対策も考えなくてはならない状況です。最初に病院全体の患者数は減ったとは言いましたが、対応をしている病院のスタッフは本当に大変なのです。
 最近は家庭内感染が増えてきましたが、最初の頃は「夜のお店」近辺の感染者が非常に多くいました。
 そんな状況下で、テレビのニュースを見ると「自粛で大変。補償してほし��」といった「夜のお店」の声を紹介しています。もちろん当事者の方々が大変なこと、そういう感情を持つことは理解できます。でも、毎日ギリギリのところでやっている身からすれば「いま補償の話なの?」という違和感を抱いてしまったのも正直なところです。「これから大変な戦いが予想されるのに、もうお金の話? それもごく一部の業界の? 議論の優先順位がおかしいのでは」と感じました。
 どうか私たち現場の人間が日々、頑張っていることをご理解ください。そうしたお気持ちを持つ方が多いことは励みになります。医療従事者へのエールは素直にうれしく思います。
 そして、早くこのような状況を終わらせるためにも、とにかく皆さんは感染しないように、感染を広げないようにふるまっていただきたい。これは強く訴えたいことです。
 接触・飛沫感染に注意せよと言われても、具体的に何が大丈夫で何がダメか、わかりにくいことと思います。実際にその細かい線引きはできません。だからこそ「極力人との接触を避ける」「極力外出しない」という大きな方針を打ち出しているのです。それを守ったうえで、手洗いを丁寧にマメに行ってください。
 また、特にメディアの方にお願いしたいのは、善意や問題意識からなのでしょうが、常に「国(厚労省)や都のやっていることは間違いだ」といった論調の報道は考えていただきたいところです。
 先ほども申し上げたように、日本のこれまでの対応は決して間違っていません。死者数を見れば明らかです。「世界が疑問視している」といった報道ばかりが目立ちますが、海外では日本を評価する報道も出ています。単にそれがあまり紹介されていないだけです。
 死者数が少ないことをもっとポジティヴに捉える論調が増えてもいいのではないでしょうか。
 私たちは国や都の定めた方針の中で動いてお���、それに背くことはありません。しかし、国も都も、いろいろと考えたうえで方針を打ち出しています。その決定過程には私たちも関与しています。
 明らかに間違った方針が出れば、私たちも声をあげます。そういう判断ができないほど現場の医師たちは馬鹿ではないのです。
デイリー新潮編集部
2020年5月2日 掲載
123 notes · View notes
ats0101 · 3 years
Text
ネスターゲームズ(nestorgames)について その4
この記事は ボドゲ紹介 Advent Calendar 2020 の10日目の記事です。前日はリアルでも交流のあるキヌさんの記事でした。最近は九州でのモルック普及にも精力的に活動されてますね。
さてこのAdvent Calendarには2016年からの参加で今回が5回目。毎度毎度のnestorgames紹介です。
nestorgamesはアブストラクトゲーム (超ざっくり言うとテーマ性ほぼゼロ&運要素ゼロのゲーム、将棋やオセロなど) を中心にリリースしているスペインのパブリッシャー(メーカー)です。
nestorgamesの代名詞と言えば、下の写真中央にもあるペンケース型で統一されたケース。1ケース1ゲームのコンパクトさで、箱つぶれを気にせず鞄に放り込んでどこでもプレイできる優れものです。 この形以外にも写真左にある体積4倍のビッグケースや、巾着袋がそのまま盤面になったりするバッグタイプなどもあったりします。
Tumblr media
2年前から日本のショップで正式に取り扱いが始まり、今年は全国流通にも乗ったので見かける機会がさらに増えました。といっても何それ?という方は多いと思います。興味を持たれた方は過去の記事 (その1、その2、その3) も見てみてください。
ちなみに日本で直接取り扱われているのは、バネストさん(名古屋)、サニーバードさん(長崎)、ヒカリゲームズ堺さん(堺)、アグレットさん(福岡)、Jelly Jelly Cafeさん(全国) ですね。ジェリカフェさんから卸で置かれているショップもあって、東急ハンズなどにも置かれていたみたいです。 ここで取り扱われていないゲームは公式サイトで注文できます(到着まで1~2ヶ月はかかりますが)。
※2020/12/10現在、COVID-19の影響で材料が手配できないらしく、一時的に公式サイトのカタログからゲームが大幅に無くなっています。早く解消されるといいのですが今は待ちましょう。
ではようやく紹介に入ります。ルールや勝ち方が分かりやすいビギナー向けから、一見すると何をしたら勝ちにつながるのか分からないゲーマー向けまで色々と挙げてみます。
カバとワニ (Hippos & Crocodiles)
4 (Four)
ブリンク (Blinq)
ディヴォック (DIVOC)
エクシット (Exxit)
アライアンス (Alliances)
グザッツ (xats)
フィレンツェ (Firenze)
スラカルタ (Surakarta)
ミツドモエ (Mitsudomoe)
カバとワニ (Hippos & Crocodiles)
Tumblr media
さてさて最初はやっぱりビギナー向けがいいですね。 
各自が1種類の動物(タイル)を担当してそれを交互に置いていき、自分の動物を置くスペースがなくなったら負け。ルールのシンプルさはnestorgames堂々第1位。
各自、自分のタイルの形が決まっているので、自分だけしか置けないスペースをいかに作っていくかがポイントです。
小さい子と一緒に遊んで和むもよし、大人同士でひたすらイヤラシい手を打ち合うもよしです。
写真は今年出た3Dプリント版で、フルセットには追加の動物、色々なボード、障害物なども付いてきます。
このタイルが地味に良くて、適度に抽象的なデザインのうっすら2層構造。ずっと触っていたくなる感じです。実物のボードゲームならではのプラスアルファを感じることができますね。
4 (Four)
Tumblr media
もうひとつビギナー向けを。
4色×4形状のタイルを4つの配置ルールで置いていくという4だらけゲームで、これも目的は相手を手詰まりにさせるだけ。
配置ルールは
既存のタイルに隣接させること
相手が今置いたタイルと色も形も違うこと
同じ色や形のタイルに隣接させないこと
9×9マスに収まること
という1分で説明が終わるシンプルルールです。
手なりでプレイしてもまあOKなんですが、中盤以降に相手の残りタイルを見ながら先々の自分の逃げ道を確保しようとすると、結構考えどころが出てきて面白くなります。
1プレイも短いし、サクッとプレイしてみてはどうでしょう?
ブリンク (Blinq)
Tumblr media
お次は赤と黒のツートーンカラーがどことなく和を感じさせるコレ。
1人が赤、もう1人が黒を担当し、上から見て自分の色の対辺をつなげたプレイヤーの勝ち。いわゆるコネクションゲームです。
置いていくのは自分の色と相手の色が対になっているたった1種類のタイル。nestorgames通の方なら「あーあるある」となるパターンのやつですが、このゲームはそれを立体のピラミッド状に置いていきます。
相手を利さずに自分の対辺をつなげるのが悩ましく、上に置かれてルートが潰されることも加味しながら置いていく必要があります。
プレイしてみると盤面がコンパクトでスクエア型ということもあって案外分かりやすく、幅広い人にオススメです。
コネクション系と言えばヘックス(Hex)や最近日本語版が出たツイクスト(TwixT)、nestorgamesで言えばコンヘックス(ConHex)などがありますが、同ジャンルのそれらに比べるとかなり取っつきやすい部類ではないでしょうか。
写真にある4×4の上級版として5×5版もあります。バッグの片面が4×4、もう片面が5×5の盤面になっていて完全上位互換なので、コネクション系が好きな人は初めから上級版を入手した方がいいでしょうね。自分も最初4×4を買いましたが、面白かったのですぐ5×5にアップグレードしました。
ディヴォック (DIVOC)
Tumblr media
COVID-19によるロックダウン中に作られ、ソーシャルディスタンスと逆行する勝利条件から、タイトルはCOVIDの逆読みです。
手番では1個のピラミッド(重なっている場合は一番上だけ)を縦横の直線上にあるマスに移動させます(空いていても空いていなくてもOK)。手番終了時に上から見て自分のピラミッドが縦横につながる1集団になっていれば勝ち。
これもルールは超シンプルではありますが、手番を行うたびにどんどん終了へ向かっていくこれまでのゲームと比較すると、移動によって相手のピラミッドが解放されたり、つながっていた集団が分断されたりということがあるので若干先が読みづらいゲームです。思い通りにプレイするには一工夫必要という意味では少しだけ脱ビギナーくらいの人向けかな。
エクシット (Exxit)
Tumblr media
ここらで結構難易度高めのゲームに行ってみますよ。
このゲームでは、プレイヤーたちはヒンドゥー教のシヴァ神が持つ相反するパワーになりきり、破壊のダンスと天地創造によって外宇宙へ進出しながら世界を構築し、最終的に世界に浮かぶ島々をより支配しているプレイヤーが勝利します。
ん?何が何やらさっぱり? いやいやよく見てください。テーブルが宇宙、配置されたタイル全体が世界、同じ色で連続しているタイル群が島と思えばほら、見えてきますよね? 見えてきませんかそうですか。では皆さん想像力をフ���に発揮して、頑張って「自分たちは世界を造ってるんだ!」と思い込んでください。
じゃ、概要です。 赤プレイヤーと銀プレイヤーに分かれ、自分のディスクを配置・移動したり(=破壊ダンス)、盤面の外側(外宇宙)にあるディスクを自分のタイルに置き換えたり(=世界の拡張)して、タイルが全て配置されたらゲーム終了。 各自の一番広い島(タイル群)は2点、それ以外の島は1点で、得点の高いプレイヤーの勝ちです。
このゲームは一筋縄では行きませんよ。手強くさせているのが、特定の条件を満たすと強制的に発生するマンカラ移動。条件に一致したら、たとえやりたくなくても道中にディスクをポトポト落としながら移動して手番終了です。
これが発生しなかった場合に限って、自分のディスクを置いたり、2タイル以上に隣接する外側のディスクを自分のタイルに置き換えることができます。ちなみにタイルの置き換えは連鎖反応を起こすので、一気に自分の島が拡がったりします。
基本的に自分の行動で直接島を拡げることはできず(普通は相手に乗っ取られるので)、相手の強制移動を誘発させた後の自分の手番で島を拡大するというのが、このゲームの取っつきにくい点です。しかし、相手の動きをうまくコントロールして大量に自分のタイルを配置できたときは爽快ですよ。
相手をコントロールして間接的に点を取っていくプレイ感はGIPF projectのゼヘツ(ZÈRTZ)に似ており、このゲームは島が崩れていくゼヘツと違って島が次々拡がっていくことから一部で逆ゼヘツと呼ばれているのも納得です。
好き嫌いは分かれると思いますが、ゼヘツが好きな方はぜひプレイしてみてほしいですね。
アライアンス (Alliances)
Tumblr media
手前で紹介したブリンクと同じコネクション系ですが、こっちは中々ややこしいゲームです。コネクション系に慣れ親しんだ人以外にはあまりオススメできません。
1手番に1個ずつディスクを置いていって対辺をつなげるというヘックス(Hex)ベースのゲームなんですが、このゲームには自分の色というものがありません。上の写真は3人プレイではなく、あくまで2人プレイなんですよね。
コネクション系としてはそれだけで「え?」という感じなんですが、さらに各対辺はその色以外にもうひとつ別の色(同盟色)を一緒に使ってつなげることができ、その組み合わせが自分と相手で違います。手番ではどの色のディスクを置いても構わず、先に対辺を2色つなげた方の勝ち。ヘックスを知っている人なら「な・・・・なんだってー!!」となるところです(なってください)。
上の写真では、手前側のプレイヤーはオレンジと緑の2色でオレンジの対辺をつなげますが、奥側のプレイヤーがその2色でつなげるのは緑の対辺です。別の見方では、対辺と同じ色のディスクはどちらのプレイヤーのものでもある(共有色)とも言えます。
相手を利することがないようになるべく対辺の色ではなくその同盟色を置こうとしますが、一方でそれは60°回転した辺から見ると共有色(あるいは相手の同盟色)になるわけだから・・・??? 頭が混乱してきます。
二叉の配置や離れて攻めるといったヘックスの基本はここでも有効かつ大前提ではあるんですが、この独特の感覚に悩むこと間違いなし!
ヘックスに自信がある人にこそ試してほしいゲームです。
グザッツ (xats)
Tumblr media
さて、今度は小粒ながらピリッとしたこのゲームを。1タイルが親指の爪くらいでケースも手の甲+αくらいしかない、オインク小箱もビックリのミニマムコンポーネントです。
あ、でもアブストラクト好きの人じゃないと「んー、よく分からん、もういいや」で終わりそうなゲームなので、出す相手は選びましょうね。
そう前置きしつつルール説明です。各自トゲのある独特のタイルをもってスタートし、手番でやることはタイルの配置またはスタックの破壊です。
配置:手持ちのタイルを場のスタックに乗せます。ただし、スタックの一番上にあるタイルよりトゲが少なく、かつ全てのトゲがそのタイルからはみ出ない場合にしか乗せられません。どのスタックにも乗せられない場合はテーブル上に配置します(1段目)。
破壊:自分のタイル1個を破棄することで、そのトゲ数と等しい高さのスタックを破壊できます(トゲ3つを破棄したら3段のスタックを破壊)。破壊されたスタックのタイルは持ち主に戻ります。
ややこしいのが勝利条件で、「各スタックの一番上にある自分のトゲの合計数が、手持ちのタイル数と一致したら勝ち。手番開始時に手持ちがないなら負け」です。文章を見ただけでは何をすれば勝利に近づくのかよく分かりませんね。実際プレイしてみても多分同じ感想だと思います。
しかーし!ある程度アブストラクトに慣れている人なら何度かプレイすると「あーなるほどなるほど」となって、相手がどのタイルを置いても必勝する形に持っていく方法が見えてくるから不思議。そうなれば中々面白いハンドマネジメントゲームだと思います。
1プレイは短いですし、1回やって「ふーん、なんか微妙だね」で終わらせるのはもったいないので、何度か連続でプレイしてみてもらいたいですね。
フィレンツェ (Firenze)
Tumblr media
しばらくカオスなゲームが続きましたが、ここでホッと一息、見た目もポップな2020年新作、フィレンツェです。
このゲームは2~3人用で、各プレイヤーは1色を担当して3種類あるタイルのいずれかを置いていきます。タイルは必ず2色で構成されているため、少なくとも1色は自分以外の色も置くことになります。
手番順にタイルを置いていくのですが、置くタイルは3種類 (赤+白、白+緑、緑+赤) のどれでもOK。全てのタイルが置かれたらゲーム終了で、縦横に3マス以上つながったグループの数が一番多いプレイヤーの勝ちです。
当然、全員自分の色をつなげようとするのですが、自分の色は有限ですし、3���ス以上はどれだけつなげても点数が変わらないため、なるべく3マスちょうどでグループを作りたいところです。
しかし、そうは問屋が卸さない! 自分の色で任意の色の1マスを両側から挟むと、その1マスをピラミッドで潰すことができます(これをランプレドットと言います)。なので、ケチって3マスだけにしていたら1マス潰されて得点対象外になってしまうということが起こり得ます。
また、自分の色のタイルがなくなったら後は他のプレイヤーにいいようにされてしまうため、誰の色のタイルを消費していくかというのも重要です。
そのあたり含めた駆け引きが面白く、「このタイルでグループを作りたいけど、そうするとこの後でランプレドットされるし、でもこっちのタイルだとあいつの色の残数が多くなるし…」といったジレンマが楽しいです。
幅広くオススメできるゲームかなと思います。
スラカルタ (Surakarta)
Tumblr media
今度は捕獲ルールがかなり独特なインドネシアの古典ゲームです。  
ここまで紹介したゲームに比べるとだいぶアッサリした見た目のゲームです。ジェリカフェさんが日本で扱うという情報を見たとき、正直「え?売れそうなゲームなら他にたくさんあるのになぜコレを!?」と思いました、はい。
ゲームの目的は相手のディスクを全て捕獲(除去)すること。手番では自分のディスク1個を縦横斜めに1歩移動させるか、相手のディスク1個を捕獲します。
で、問題の捕獲ルールです。 ボードの線に沿って自分のディスクを移動させて相手のディスクに着地させることで捕獲するのですが(極々普通)、四隅にある丸いループを少なくとも1回は通る必要があります。他のディスクは飛び越えられません。そして、ループを何回通ろうがどこまで進もうが、最後に相手を捕獲できるならその捕獲移動はOK、というのがこのゲームの特徴です。
実際やってみると分かるんですが、ボード上をディスクがグルングルン回ります。そして予想外の方向から相手のディスクが飛んできて捕獲されます。前にいたはずの敵にいきなり後ろから切られた、みたいな。この感じは中々他のゲームにない気がしますね。
ミツドモエ (Mitsudomoe)
Tumblr media
最後にもう一つ2020年の新作です。デザイナーの山本光夫さんはLOGY GAMESとしてアブストラクトゲームを多数制作されている方で、その山本さんがnestorgamesから初めてリリースされたのがこのゲーム。2~4人用。
隅にある自分の色のボール3個を反対側の隅にいち早く移動させれば勝ちです(敗北条件もありますが割愛)。
手番は (1)新たなリングの配置か既存のリングの移動、(2)ボール1個の移動 の2ステップで構成されていて、動かせるのは自分のリング/ボールのみです。ボールの移動先には自分のリングがなければなりません。また、リングを移動させる際は敵のリングに乗せることができます(乗っかられたリングは動けなくなります)。
ポイントはボール移動時のジャンプルール。敵味方関係なく、間にボールがあれば何個でも飛び越して移動できます。当然1歩ずつ進むよりも効率がいいので積極的にジャンプしていくべきなんですが、飛び越すボールに敵のボールがある場合、その敵ボールを同色の空きリングに吹っ飛ばす(移し替える)必要があります。それができなければ飛び越せません。
別の言い方をすると、自分のリングをボードに投入すると移動先が増えるので有利と思いきや、吹っ飛ばされる先も増えてしまう(ゴールから遠のきやすくなる)ということでもあります。んージレンマ。
でも吹っ飛ばし先がゴールに近づく位置のリング1つしかなかったら?勘の良い方は気付かれたと思いますが、吹っ飛ばされたら逆に前へ進めることになります。そうなれば相手は安易に飛び越えることはできなくなります。うまい。
言葉で面白さを伝えるのが中々難しいんですが (まぁアブストラクトは大体そうですが…)、相手を利用して一気にゴールまで近づいたり、リングとボールの位置関係で逆に妨害したりと、攻防一体の動きが面白いですね。
ルールにはないですが、1人で2色担当する2人プレイも色々な作戦が取れて個人的にアリだったので、もし入手された方は試してみてください。
おわりに
今年も10個のゲームを一挙紹介してきましたが、やっぱり書くのが大変でしたね(毎年言ってる)。
この記事を読まれた方が興味を持って発信してくれれば日本に入ってくるnestorgamesも増えて、nestorgames好きが増えるかも?という淡い期待を抱きつつ、またどこかで紹介していければと思います。
2 notes · View notes
wearethekuuchann · 4 years
Text
       自己アピール 精神障害者スポーツ卓球 左のカットマン
 私は心身共にリハビリテーションと、趣味と、アマチュア(飯は食えないという意味)と、精神障害者統合失調症アスリート目指す事(希望)とを兼ねて、卓球に力を注いでいます。私の基礎疾患数は10を超えていますが、自分で自分をコントロールしながら、ピン球を追って練習や試合に挑戦しています。
 戦術は、カットマンです。現代では絶滅危惧種との放送があったぐらいです。しかもほとんどが右手でのカットマンですが、私は左手のカットマンです。稀です。私は、日本国内しか諸事情により行けませんが、国際的にみれば『印』の国では絶対に嫌われます。覚悟してます。何にせよ社会的習慣です。何故左手のカットマンを選んだのか、と申しますと、私が中学校(1979年)に入学し、1年生で卓球部を見学した時、カットマンの先輩に戦術として憧れ、『カットマンになろう』、と決心しました。最初は右手でするもの、と思っていましたが、ある日先生から右手打ちと左手打ちの両方ともさせて頂き、「両方出来るから左手でやれ」とアドバ��スを頂き、それをきっかけに、今日2020年の今でも左手のカットマンをしています。中学時代のある時、『卓球レポート』を拝見した時、『左手のカットマン全国3位』の記事と全体写真が掲載された事を覚えています。同級生のクラブメイトから私に「お前だけじゃないんやぞ。!」と励まされた事があり、覚えています。
 私は小学校高学年から精神病を発病し、幸か不幸か誰にも又自分にも気付かずに、大学入学まで行ってしまいました。身体科も小学校から通院をよくしましたし、入院も2回(扁桃腺切り手術と交通事故)しました。疣取りの診察は、地獄のように痛かった。学校で怪我を多くして公費からもよく出ました。家族には心配もお金も掛けました。特に習い事は、半端ではなかった。ピアノレッスンは、週2回。書道は、週1回。サッカー教室は、週1回。それにプラスして塾は、週2回。毎日2~3時間はピアノ予習。小学校5年生の秋の遠足まで、流行りの歌謡曲等ほとんど知らなかったのです。その頃から、ポピュラー音楽と古典音楽や民族音楽を、頭の中に叩き込もうとしました。そして発病の運命のグループレッスンで歌の練習全員しごかれ、先生が「あと1回。」と宣言された瞬間、私の頭の中で『ブチ』っと何かが切れました。それこそが私の人生『健常者』から外れた道を辿る運命だったのです。『ブチ』っと切れたといえば、高校2年生の2学期の基礎解析(数学)中間考査の時高得点狙ったつもり(勿論勉強したので)が、急に来たので低得点に変わりました。それからというもの、勉強の予習のやり方も何もかも解らず、偏差値は下がる一方で、授業だけ気力で食いついて定期考査だけ何とか赤点は避けたものの、宗教(道徳or宗教心)のノートはしっかり書いて、評定平均値3.0は、クリアし、3.2まで取れました。『ブチ』っと切れたといえば、ある某大学法学部一般論文入試の試験中、文章を読んで、『さあ書こうかなあ~』と思った瞬間来ましたので、何を書いて良いのか全く解らず、解答したら結果は案の定でした。幸運だったのは、高校入試の時『ブチ』っと来なかった事が幸いで、故M先生の教えを、今でも『あの時こんな事言ってたなあ~』っと思い返したりしています。故M先生は、私が高校生の時『今言っても分からないのです。何年も経ってからあの時こんな事言ってたなあ~。と思い出すのです。そういうものです。』っとはっきり仰られていました。それが今まで私の人生で唯一自分の心の中で、『反自殺行為』であり、『救い』でした。でも中学の部活終了からA県の大学入学まで、身体科通院は勿論、高校入試2ヵ月前にも手術もした。現在の診断書にも手術後である、と書かれている。幾つの診療科目通院したか思い出してもきりがない。学校から帰ってきたら、すぐ病院で『早く治したい』一心でした。大学入学したら、学生課に行って『肩が凝る。人と話が出来ない。』と訴えたら、臨床心理学の教授の『学生相談室(カウンセリング室)』に週1回通室してました。夏休みも春休みも時間を取ってくださって通室してました。病気(精神病か又それに近い状態)だといわれましたが私は、何の事か当時解らなかったので、平気で通ってました。先生は、陰で迷っていたらしく、精神科行きか自分のカウンセリングか厳しい選択だったらしいそうでした。先生の判断は、出来る限り自分の心理療法を行って、もしダメだった場合は精神科行きだったそうです。本当にあの時は、お世話になりました。本当の現場のプロだったと思います。故M先生の教えとか宗教心の話もクライアントとして話もしたと思いますし、禁恋愛崩れの話もしたと思います。反自殺の話もしたかなとも思います。卓球に関しては、高校生時代殆ど休部してましたし、大学時代は文科系で別の部活動してました。その部活では、優勝や特別賞を取りました。下宿生活は、1・2年生の時は、周り田んぼと畑ばかりで、自炊もせず夕食は1年生の時は大家さんの料理を有料で頂き、2年生の時は喫茶店や中華料理屋で夕食を頂いていました。3・4年生の時は、下宿を引っ越して電話線を引いて頂いた事、感謝してます。大家さんとの約束は、絶対に異性の人(家族・親族を除く)を下宿に連れてきては、いけない、という決まりがありました。電話も私用で異性の世帯にかけてはならない事も約束でした。下宿の電話は異性は公用のみ、私用は外の公衆電話でかけなければいけない、という決まりでした。懐かしい決まりでした。懐かしいと言えば、『かつ丼返せ事件』『会計ほったらかし事件』等で前部長に渡が付く程𠮟られた思い出等が多くあります。さすがに心理カウンセラーに言ったら、「絶対に言ったらダメよ。」と忠告されました。病気そのものであり、開放感に満ち溢れると、自分でも何を言うのか、何をするのか、自分で自分を見失う事もありました。立ち直るためには、血のにじむ思いもしました。それと学問の両立でしたから、現代の責任世代とは違う苦労も避けては通れない道でした。私達はバブル世代だったので、皆にご心配おかけしたと思います。私の友人は、私が本当に大学を卒業出来たかどうか、未だに疑っています。本当に自分で卒業論文を書いたのかどうか???成績は証明書では、GPAが3.3あり、『UCLA編入留学権』を持った成績だが、ちゃんと公平公正な単位取得と学力評価がされたかどうか???私の解答用紙は紙飛行機のように飛んだだけではないだろうか???等30年以上前の出来事が、未だに疑惑の成績証明書と言われています。!!!!!!!!
 このような珍人生を送り、向精神薬や抗精神病薬も滅茶苦茶服用してきた私にとって、薬の説明や入院6回体験や病気の話やアルバイトや就活の話すると大勢の人々も書いてる本人もが嫌気してきたりムカついてきたりするので、しかも長くなるので差し控えさせていただきますが、本来私の卓球の戦術は、稀であり日本でも世界でも現代卓球する人にとっては、カットをする技術は持つ事は、非常に重要だが、おそらく左手のカットを主体とする戦術の人は、まずいないだろう、と思われます。始めの方で述べたように、左でラケットを持つだけで嫌がる国や地方も世界ではある、と思われ、余計にそういう人は少ないだろうと思われます。又精神障害者だろうと他の障害者だろうと健常者だろうと、対戦相手との勝負は関係ありません。確かに立位選手と車椅子選手の場合のみ車椅子ルールが優先される事があっても、勝負には関係ありません。私も立位選手なので、もし車椅子選手と対戦しても真剣勝負しなければなりません。健常者との対戦では、駆け引きが精神障害者にとっては難しいです。それでも勝負は勝負です。障害があっても関係ありません。精神障害者同士でもお互い難しいのを感じています。私にとってもそういう事がリハビリテーションの一つであります。難病に近い疾病を持っていても、基礎疾患が二桁疾病名数超えても、勝負は勝負。その道は、厳しいものです。たとえどのような道でも厳しいものです。甘くて楽が出来て何も考えずに勝利の女神が微笑んではくれないものなのです。又一回微笑んだら次も微笑むとは限らないのです。それはどんな競技でも、どんなスポーツでも、どんな芸術でも、どんな学問でも、たとえ消費者側であっても、たとえ患者であっても、たとえ社会保障でくらしても、どんな道でも自立する事は厳しいものです。世の中、甘くて、楽で、おいしくても、どこかで人間として、踏ん張らなければならない事はどこかで、出てくるものです。
                          久郷克己、拝、
3 notes · View notes
cuttercourier · 4 years
Text
[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「���突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがあ���ました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
2 notes · View notes
Text
クスノキの木が芳しい
                                           クスノキの木が芳しい
——あろ
 二十九歳の足取りは地面いっぱいの落ち葉を踏んでいます。乾いた音とともに、記憶のクラクションを鳴らしています。瞳が潤んで、リュックサックをそっと下ろしたような淡々とした微笑は十年前に成長したと考えられています。青の渋い歳月の中で、思春期の美しさは歳月の洗浄を経て、その時のように執着することはできません。大人になってからは考えが多くなく、抱き合った記憶だけがあって、純粋にお互いに話ができなくて、簡単に心の声を語り合います。数年後、私は自分がまだ誰かを愛していると思います。記憶が軽くなり、涙が桜のように頬に落ち、また3月に微笑が咲きます。
「何をお願いしましたか?」私の十七歳の誕生日に、楊容疑者は私の前に顔を寄せて、優しく紳士的に聞きました。
私は簡単に彼に私の願いを伝えました。「愛を持ちたいです。簡単に生活し、一緒に奮闘し、幸せな生活を送りたいです。一緒に仕事をしながら景勝を見物したいです。」
彼は答えを聞いてにっこり笑った。彼は笑った時に国を傾けて城を傾き、このように頭に刻みつけた。
アブと過ごした八年間は、彼を楊真っ白雲の存在と見なしていました。彼は四月に出発する時、私はどこにいても、どこにもいません。
落さん、愛している人もあなたを愛していると確信しています。離れないで捨てないですか?布さんはいつもぼんやりとベッドのそばやソファーのそばに座っています。8月の週末、いたずらをして私に聞いてみてください。雨が舞い散って、花びらを打っています。深い思索を持っています。
「私たちは一緒にいられないと思います。顔がやつれています。クズだらけです。結果のない話が多くて古いです。」彼に一言返しました。
「いい芸術の答えです。ひげを剃る時はとても魅力的です。痩せたあなたがとても好きです。かっこいいです。あなたは私があなたを愛しないと思っています。桜が舞うのはあなたの季節です。いない日はお大事に!」彼はこの話を言い終わって、指で前髪をしごいて、手提げかばんを持って、足早に出発して、私はぼんやりと彼の立ち去る後ろ姿を見ていて、彼が遥か遠い空の果てで消えてなくなるまで。
今年は2020年になりました。長江のほとりでは、澄んだ水がとても親切に感じられます。靴を脱いで、服のポケットに靴下を入れて、足を水の中に入れてみます。氷があります。春の川の水はヒマラヤ山脈の温度を持っています。遠いところの存在を感じます。遠くの誰かの親しみを感じているようです。あの人は大丈夫ですか?」私は内心で自分に聞いていますが、答えのない疑問がおかしいと思います。
立ち上がって、前に向かって、江水は足首を漫然と過ぎて、澄みきって透明な水しぶきを蹴って、孤独と夕日の相互の呼応は私に更に時間の中で遥か遠い人を思い出させます。携帯を取り出して、自分の水しぶきのために記念写真を撮ります。子供の頃はスマートフォンがなく、多くの可能性を失っていました。一枚の写真で十分です。また元の場所に戻ってビデオを見てみます。同感の映像はどれも自制多情の代入です。彼は超能力で多くの人を踊らせたり、歌を歌ったりすることができません。私の携帯の画面に現れて対話します。よく考えてみると、話をしたり、ダンスを踊ったり、歌ったりする歌は私とあまり関係がありません。人を懐かしみます。彼は道の次の角に現れると思います。
引き続き前へ歩いて、語彙の熟知している場所を忘れに来て、地面いっぱいの落葉、私の白色のレジャーシューズはそっと入って、香樟の木の芬芳芳芳馥郁、マスクをつけていて依然としてかすかな香りをかぐことができて、風が吹いて私の前髪を吹いて、木の葉はざくざくと音を立てて、昔の事の雲と煙は軽やかに舞っています。
目じりは少し湿っぽくて、私は静かにクスノキを囲んでぐるぐる回って、そっと離れて、子供の時友達と一緒に下校する道を歩いて、たくさんの人の様子が目の前に浮かんで、かすかに笑って、あれは思春期に帰って、鹿がむやみに胸をときめかす年ごろです。
15歳の時、私は一人に会いました。彼の髪は日光の下で私の好きな茶色が現れています。濃い眉毛は故郷の山脈の曲線のようです。目は前方を見ています。彼の足取りはとても開けていて、私は彼のかっこいいことを凝視しています。神様は電柱にぶつかって、本は地面に落ちています。彼は声を聞いて、私に向けて、本を拾うのを眺めています。彼の両手が私の視線の中に現れて、感電のように彼を見ました。彼は私のために本を拾ってくれましたが、表情もなく、忘れ物を渡してくれました。
日照りが長く続いていますが、八月はアブのプールで水浴びが好きです。
アブさんは水泳が好きで、彼は言いました。「水の中を全く泳いでいて、外の音が聞こえません。水の流れ以外に、自分は自由自在な魚のように感じられます。いつも子供のころのようにのんびりしていたいです。」
布は水面をボーリングし、濡れた髪をしごいて乾かし、両手で顔を拭き取り、彼は向こうの池の壁にもたれかかっています。そばの飲み物を持って行きます。彼は額を覆って笑って言いました。「プールの中を行ったり来たりするのはおかしいです。」
「いつか水泳を教えてくれる人に会いたいです。たくさんのところに行きます。澄んだ水の中で泳いでいます。」私はアブの前に行ってジュースを一杯注いであげました。
布はジュースを持って、ストローをくわえて、彼のところを見て、私を見て、ジュースを吸って水面を見ていてぼんやりしています。彼は言います。
私は微笑んでジュースを置いて、「どこに行きますか?」
彼は首を振りながら、「遠いところにいる」と言った。
「えっ!」私は口から出任せに答えた。
「聞かないとまた会いますか?」彼は水面をスライドしている。
「ずいぶん前にも同じ質問をしましたが、今は幼稚だと思います。なぜですか?私に電話してください。」
両手で水面をたたき、水しぶきを上げて言いました。「プールがないと、夏は暑くてたまりません。」
以前のように、毎日水道の水が冷たいです。
アブはぽかんとしていました。私の目の前の光が彼に気づきました。「あなたはまだあの汚い部屋に帰りますか?」
水の中に手を置いて、コップの半分を水に浸して、太陽の光が点々と輝いています。大学に合格すれば、すべてがよくなる。いい仕事があります。ここを離れて私のほしい人生を追いかけます。お金があったら故郷に帰ります。その部屋はきれいに掃除します。
「あなたの話を見ていると、あなたは迷いの中にいます。」アブは突然にハハと笑い、彼は言った。
私は行くところがありません。
アブさんは私の話を中断してプールにコップを投げました。両手を私の頬に置いて、目つきをしっかりと教えてくれました。「自分の夢を追いかけて、華灯の初めのところで待っています。」
私はすばやくしゃがんで、水を全身に浸らせて、また水の中から立ち上がって、水しぶきが四方にあふれます。揺れている水滴が布の上にはねています。私も髪を拭いて、顔の水を消します。
アブは避けて、笑いながら言いました。「恋をしました。」
驚きのあまり、目を開けて、「いつ結婚しますか?」
彼の微笑みは恋の蜜壺に浸り、目つきには愛の甘さがあふれていた。首をひねりながら、口を尖らせて言いました。「彼女はきっといい娘です。」
「これからはあなたを愛する人が必ずいます。春秋冬夏!」
「最近出会った人の顔がとても綺麗で、着飾っていて、彼とすれ違いました。とても魅力的です。」私は思い出にうっとりしています。
「彼と同じ品位を持ちたいです。頑張ってください。あと五、六年であなたもかっこよくて魅力的です。」布さんはこぶしを握って応援してくれました。
これからの週末に射撃場でターゲットの練習をします。半年ほど訓練して、また出会った人に会って、彼の練習をぼんやり見ていました。
彼は防音イヤホンを外して、私を見ていて、隣に行って飲み物を一杯飲んでください。彼は言います。「四、五ヶ月です。いつも私を見ています。おかしいと思わないですか?」
ジュースを吸いながら、首をかしげて、「楊凱雲さん、好きです。」
「えっ!」彼は後ろにもたれていて、語気が長く引いています。彼は興味深く私を見ています。
名前は何ですか?彼はまばたきをしただけです。
私は楊真っ白な雲の目を見ていて、両足をベンチに曲げて、両手で膝を抱えて言いました。
彼の目はさっとまばたきして、微笑みは凝結して、続いてため息をついて、整然としている歯を現します:“昇原は阿落といいます!”
楊真っ白な雲が口を覆っています。彼は素早く振り返って聞きました。「彼女がいますよね。私のことが好きですか?」
私はジュースを飲みました。彼の目を迎えて、自分の悲しみを装って、「私のことが好きな人がいない」と言いました。
彼は首を振って、「夏休みはどこに行きたいですか?」
最近悲しいです。遠くに行ってリラックスしたいです。私は頭を下げてジュースコップを見ています。
ヤンさんは立ち上がって、顔を上げて彼を見上げました。「数日間出張します。私と一緒に旅行しませんか?」
私はうれしくてたまらなく椅子から飛び降りて、「はい」と言いました。
一週間後に、私は飛行機に乗りました。彼は私の右手に座っています。
飛行機がゆっくりと飛び立つのを見ていて、窓の外の翼が都市を走っています。飛行機が都市の電線と密接に接触するのを心配して、飛行機が早く雲に届くように祈ります。
楊容疑者は私の心配を察知して、「パイロットの運転能力を疑っていますか?」
すぐ口を開けて言いました。「いいえ、ありません。私は今までこんな飛行機に乗ったことがありません。ちょっと特別だと思います。」
「えっ!」ポプラ雲は目のカバーを下に置いて、位置に横になって、とても速くて、呼吸が均一になります。
彼が寝た後、私は窓の外の景色を見ていて、だんだんつまらなくなりました。運転室に行きました。
運転室の中のパイロットはハンサムでかっこいいです。痩せた体は私よりずっと高いようです。私はそばに座って、前の星空を見ています。
黒い幕のような空には無数の星がきらめいています。銀河のリボンが見えます。こんな素晴らしい景色は見たことがありません。遠くの空をぼんやり見ています。私は空の美しさに驚嘆しています。「わあ!」
大人になったら何が一番したいですか?
彼の横顔を見て、長い間考えてみました。「生活を良くしたい、望みがない、好きな人と一緒にお金を稼いで、人生の意味を体験したいです。」
好きな人はあなたが好きですか?彼は聞きます。
私はため息をついて言いました。「まだ会っていません。いつか私を愛している人に会って、魅力の都に行きましょう。」
目的地に着いたら、たくさん行ってみてください。
ちょっと長い間、私は運転席を離れて、タオルを二つ持って楊真っ白雲のそばに帰りました。夜は少し涼しくて、彼のために覆いました。自分で豆乳を一杯飲みました。口を綺麗に塗りました。タオルで彼の左手を覆いました。
放送で目を覚まして、窓の外の空はまだ夜です。私は操縦室に行きます。飛行機がゆっくりと路面に降りるのを見ています。
前に二人がいます。彼らは雑談しています。私はパイロットと一緒に飛行機から降りました。彼は私よりずっと背が高くて、話をしています。
私はパイロットに「一緒に買い物しませんか?」
パイロットは携帯を取り出して言いました。「明日の午後は出勤します。ゆっくり休んでください。」
携帯を取り出して彼と連絡先を交換しました。楊さんは地図とホテルの情報を教えてくれました。飛行機の前の人と車で離れました。
遠くに手を招いて、車に乗せられて離れました。ホテルに行って、部屋に入ると、素敵な内装に驚きました。
私は部屋の静かな体験が好きです。壁の絵は面白いです。ソファーに座って、天井を見ています。「いつか多くのお金を稼いで、毎日このような環境の中で、とても穏やかで、私を愛する人がいます。一緒に生命の繁栄を楽しみましょう。」
バスルームに行ってシャワーを浴びて、パジャマを着替えて、ベッドの上に飛んで、すぐに寝ます。
私は目を覚まして風呂に入り、服を着て、テレビ番組を見ていました。しばらくしたら、面白くないと思い、外に出て散歩するつもりです。帽子をかぶって、マスクをして、バッグの中に唐辛子の水を入れて、シャツ、ジーンズ、白い運動靴を鏡の前で左右に見ています。とてもきれいで、ドアから出たと思います。
大都会では故郷のようにあいさつもせず、デパートの近くを歩いて街を歩いています。いろいろな色の人が来ていて、驚きました。彼らのファッションは全部違っています。ジュースを売っているところに行くと、財布の中には楊真っ白雲から何百円もくれました。マスクを外してジュースを飲んでいたら、私のほしい生活だと思いました。
多くの人が振り返って私を見ています。帽子をかぶるのが忙しいです。持っている小さい鏡を取り出して、おしぼりで頬とおでこを拭いて、リップクリームを取り出して唇を潤します。私は地図を頼りに公園に行きます。そこには多くの人が芝生に座って遊んでいます。私も芝生に座って、みんなのジョギングと遊びを見ています。私は地面に横になって、ひと言を思い付きます:あなたと国際で大都、公園の日光を体験して、緑の木の葉と風はそっと揺れ動いて、光線はまだらで、あなたは私の側にいます。
広場のスクリーンに広告が流れています。人波で沸き返る大通りを散歩しています。孤独な感じで、しばらく付き合っていた人を思い出します。寂しいです。
夕方になってから、ホテルに戻って、楊容疑者は髪が濡れてソファーに座ってテレビを見ています。彼は「食べましたか?」
彼の顔を見て、「ハンバーガーを食べたばかりです。口の中にまだ味があります。」
早く洗面してください。
私は急いで服を脱いで、一日の汗を洗い、洗い終わった。パジャマを着て、楊騷雲のそばに来た。
彼は言いました。「これから使ったパジャマとタオルはホテルに取り替えてもらいます。きれいにしてください。」
私は急いでうなずいて言いました。「初めてあなたを見た時、あなたはとても遠いと感じました。あなたは今私の隣に座っています。夢のようです。」
彼は振り向いて私を見て、言いました。「今はまだ小さいです。あなたのだらしなさに耐えたいです。ずっとあなたのそばにいて、あなたが似合うかどうか見たいです。他の人に離れないようにしてください。あなたがどれだけ自分を愛しているかを見てください。」
私は目をぱちぱちさせながら言いました。「あなたが言ったことは考えられませんでした。自分を愛することを教えてください。」
髪の毛が濡れています。母が髪の毛を乾か��ないと脳卒中になりやすいと言っていますが、乾かないですか?彼の意見を聞いています。
彼は口もとを上に曲げてカーブを作って言いました。「あなたと私の関係はあまり良くないです。髪の毛を乾かしてください。」
浴室に行ってドライヤーを出して、彼の髪をふいてあげます。
ドライヤーを使うのは初めてですか?彼は優しく尋ねた。
髪の毛を洗ったら、乾かします。よく吹きませんでした。髪の毛が乱れてしまうのではないかと心配しています。
「髪を吹いてくれてとても楽しかったです。久しぶりにこんな感じを体験しました。」
「どんな感じですか?」
彼は軽く頭を振って,笑って答えない。彼のために髪を乾かしました。ドライヤーを元の位置に返します。
「今日は街をぶらつきに行きました。小さい頃は世界の街だと思っていました。市内が広いので、とても新鮮です。いろんな人種の人たちがいます。彼らの顔は私たちと違って、服も違っています。これからはここに住むことができると思います。」ソファーに座って、彼の右手を引っ張って話します。
あなたはお金をたくさん稼ぎます。帰り道が見つからないので心配です」一面の雲がゆるみ、けだるいように横たわっています。
これは私がもらった最高の卒業プレゼントです。
「三日間だけ滞在します。今回の旅行があなたの心の傷を癒してくれますように、楽しみにしています。」
「なぜ自分が悲しいのか分かりません。何かを食べて胸が痛くなり、涙がこぼれました。友情が招いたと勘違いしました。」
彼はしっかりと私の手を握って、私に言いました。「あなたは恋人が一人しかいません。恋人が一人しかいません。二人は長年あなたが持っていない友情です。あなたは大切にしました。あなたが愛したことがあります。どんなに多くの抵抗があっても仕方がないです。未来の道は孤独ですが、出会いを学びたいです。」
あなたは私の友達ですか?眉をひそめて聞く。
「眉をしかめると、眉の角に筋肉ができて悪魔のような顔になります。子供を騙したくないです。友達ではないです。いつか離れます。最近頭が混乱しています。自分で自分の面倒を見てほしいです。」
ずっとあなたを愛しています。ずっとあなたのことが好きです。初めて会ったところにいます。離れません。彼の手をしっかりつかんで、心臓の近くに置きます。
あなたは私の顔に惹かれますか?それとも私の服に惹かれますか?
全部ありますそれに、あなたの身長が羨ましいです。残念ながら、隣の人からもらった毒で、背が伸びることができなくなりました。身長が六、五メートルというのは一生耐えられないです。これからはおしゃれを習って、自分を綺麗にします。
今のあなたも醜くないです。
最近眠れなくなりました。未来はずっと眠れないかどうか分かりません。
「お供します。ベッドに入って、お話をします。」ヤングクラウドが私の王女をベッドに抱いて、彼の右側に横になって彼の話を聞いています。
この本を書いた時、哲理が分かりました。
「昔は子猫とウサギがいました。彼らは仲の良い友達です。子猫はいつも川で���りをしています。ウサギはいつも土の中で大根を掘っています。彼らは仲がよくて、いつも一緒に食事をします。ウサギは魚を食べません。猫は大根を食べないので、魚がなくなったり、大根がなくなったら一緒に他のところに行きます。「ある日、彼らは新しい場所に行きました。黒うさぎと黒猫を見ました。彼らは離れたことがなく、快適な大きな家に住んでいます。幸せな生活を送っています。うさぎちゃんとねこちゃんは美しい生活に一瞬で魅了されました。毎日のクロウサギは大根を掘るだけではなく、まめに大根を植えています。黒猫は池を手入れしています。このように彼らの食べ物は後を絶たず、ウサギや猫のようにあちこち移動しなくてもいいです。食べ物を探したり、道を移動したりする時間を多く使わなくてもいいです。家や垣根の園を作る時間がもっと多くなりました。家具もいろいろあります。
楊さんは私を見て、続けて言いました。ウサギちゃんと猫ちゃんは喜んで彼らを受け入れました。数年後、彼らは城を建てて、もっと多くの仲間ができました。彼らはこの上なく楽しく過ごしました。」
話が終わったら寝ます。
「あなたの前では子供のように感じられます。あなたがストーリーを話してくれてとても嬉しいです。この席ですぐ寝ます。今晩一緒にいてもいいですか?」
「うん」彼は肯定しています。私はすぐに甘い夢の中に入りました。
毎日散歩に出かけて、車に乗って窓の外の都市の風景を見ています。夜、私は楊蚯雲と夜景を見て、美しい都市を見ました。「自分の青春時代にマスクをしていました。いつか私の美しい顔がきれいにならなくて、もったいないと思う時があります。」
ヤンさんは私のこの感嘆を聞いて、思わず大笑いしました。「いつかあなたはブスになるかもしれません。」
「それは大変ですね。でも怖くないです。十分なお金を稼いだら、自分の顔を綺麗にしてくれるはずです。
マスクを外してもいいです。肌がそんなに白いです。誰もおかしいと思わないし、私がいます。何が怖いですか?
彼の話を聞いて、私も自分が安全だと思って、マスクを外して、通行人はいつも振り向いて私を見ています。あの時代はまだ「振り返る率」というネットスラングがなかったので、彼がそばにいると安心しました。
その日の夜、私たちはステーキを食べに行きました。もっと遠いところを回って、ホテルに帰りました。彼に聞きました。
楊さんは雲さんに頭をなでて言いました。「もう仕事を完成しました。もし新鮮さがあれば、何日間一緒にいられますか?」
「一日二十四時間は私のそばにいるという意味ですか?」
楊さんは雲をかぶってうなずいた。私は彼の懐に飛び込んで、「お兄さんがいて、とてもかわいがります。」
楊容疑者は私を懐に抱いて、「いつ自分の部屋に戻りますか?」
何ですかちょっと迷っています。
あなたの家は狭いですが、そこはあなたの部屋です。いつも実家に頼ってはいけません。
私は経済的に自立していません。両親のところに住んでいません。どのように服を着て食事をしますか?学校の授業料までです。自分で稼いだと思いますか?あなたは私があなたを探すことができると思います。このよく知らない国際大都市の中で、見知らぬ人はあなたと仲がいいと思います。私は年下です。あなたに頼ることができます。出張のついでに、私を連れて世間を見に来てください。」
あなたの話を聞いてとても嬉しいです。私もあなたに内緒にしないで、ここ数日で一緒に過ごします。楊容疑者の表情は少しぎこちないです。
あなたの仕事は分かります。相変わらず愛しています。またお会いしましょうか?」
分かりません。
「それはすべての縁です。長く付き合っていますが、おいくつですか?」
あなたが知っていると思いました。
私は頭を振って言いました。「分かりません。」
今年は二十三歳です。
「いい歳ですね。あなたの年齢で幸せになりますように。」
重慶に帰ったら、何をするつもりですか?一面の雲が私を抱いて聞きます。
「私の仕事を続けています。給料はそんなに高くないですが、まだ若いです。公務員になりたいと思っていましたが、この様子では、全員が私が最低で、基礎も壊してほしいと願っています。不可能です。私は本を読んで良い大学を試験して、良い仕事を探し当てて、私の小さい家を装飾して、自分で大きい部屋を買って、店をオープンして、企業をします。安定収入がよくて、あちこち歩き回っています。まだ世界を見たことがありません。見に行きたいです。余生を享楽しながら、シンプルに楽しく過ごします」
楊容疑者は慎重に私を見て、「あなたが欲しいのは鐘が鳴る生活です。」
「間違いない!」
もしある日あなたが本当にできたら、私を引っ張ることができますか?
私は30代のうちに目標を達成して、毎年200万円の利益を上げて、できるだけ毎年の利益を上げていきたいです。千万円がある時に来てくれれば、歓迎します。その時のこのお金は私たちの生活費に十分です。でも、私が本当にできるようにしないと、一緒に貧しい生活を送ります。
落さん、どうしてあなたが私をあなたに要求しましたが、あなたは私に要求しませんでしたか?
私はそっと言いました。「今のあなたは何を手伝ってくれますか?あなたの羽根が豊かな時に、もし私が思い付いた目標を達成するならば、あなたは私を助けてくれます。資金を起動して儲けるのは簡単ではないです。短期的に上昇することは難しいです。
もし私が助けられなかったら?楊容疑者は慎重に質問した。
「それはいいです。私もあなたの大切な人ではありません。何か予定がありますか?」
あなたの優しさに感謝します。あなたに出会ったのは私の幸運です。あなたの秘密は守ります。絶対に言いません。」
ありがとうございます実は秘密でもないです。もう慣れました。」
私は簡単なつもりです。綺麗な奥さんを探して、このまま過ごしました。
いい計画ですね。もう適当な人がいますか?
まだ追っています
成功を求めてほしいです。
「将来的に企業を成功させたいです。これからも故郷に帰りますか?」
彼らはまだそこにいます。私はいつも帰ります。老いても重慶に残ります。江津の冬は寒いです。南岸に住むかもしれません。
「お金があったら、暖房器具をつけて、お手伝いさんが世話してくれます。まだそこにいますか?」
「もちろん、毎日がシンプルでいいです。でも、大都市の生活を見ています。故郷のあっさりした人生に慣れるかどうかは分かりません。
「だから、未来は不安です。帰って、そこで暮らしたり、家族のお供をしたりするべきです。あなたが去ったら、帰りにくいと思います。」
「わかりました。あなたの言っていることも正しいです。私のような若僧は子供の時からどこまでも家です。卒業後、広州に行きます。お金を稼いで、だんだん発展します。いつか私の会社は深センの甲級オフィスビルにいます。そこで仕事をします。
私たちはもう二日間滞在しましたが、この二日間は一面真っ白な雲があって、私と一緒に幸せです。もっと遠くの観光スポットを回ってみましたが、写真を撮っていませんでした。
「ある日あなたは作文に成功しました。私たちが歩いたところと楽しみを文字にしました。」
若い私はまだ写真の記念の意味が分かりません。もし写真を撮ったら、今出しても懐かしいと思います。
帰りの飛行機で豆乳を一杯持ってきました。ありがとうございます。リュックサックからキャンデーを二つ取り出して、彼に一つを渡しました。
彼はキャンデーを持ったことがあります。私は自分のキャンデーの包装を引き裂いて口に入れます。「一人で好きになるのはとてもいい感じです。」彼は荷物を開けました。中にアルミの金属箱があります。渡してくれました。「プレゼントは何もありません。7歳の時に銃器の使い方がとてもよかったです。この中にはシミュレーションの銃があります。記念として残してください。」
彼のプレゼントを受け取って箱を開けたら、中は小さくて精巧な米国のカートM 9111の模型で、私は模型銃のベルトを解いて、銃身を触ります。「これは全部の金属ですか?」
「金属製品は長く保存されます。」
プレゼントをくれてありがとうございます。小さい年齢の私は分かりません。私は銃を置いて、アルミの金属箱を隣のテーブルに置いた。私は続けて言います。「初めてお会いしました。その感じは本当に素晴らしいです。」
楊さんは雲にぼーっとしていて、話をしていません。
飛行機が到着した後、もう夜明けです。楊蝓雲さんからのプレゼントを他の人に渡しました。「家に帰ってこれを持ってくるのは不便です。後でください��」私は楊鳔雲に乗り継ぎをして、飛行機の明かりが次第に上がるのを見ていて、だんだん消えていきます。
私はため息をついて、渝中区に行き、ケーキを買って部屋に入りました。
私はろうそくを取り出して、全部で16本をケーキの上に挿して、ろうそくに火をつけて、願い事をして、また一気に息を吸って、ろうそくを吹き消して、私は自分に言います。「今年は16歳です。誕生日おめでとうございます。」
鏡の前に行って、「これからは苦労しても、そんなに強いお酒を飲むな」と自分に言いました。
私は酒棚のワインを取り出して、自分のために小さなコップを注いだが、酒気をかいでいて、急に吐き気がして、グラスの酒をこぼしてしまった。
「しまった、胃の調子が悪くなりました。体を養生したいです。残念ですが、このバラフェです。」私は木の栓をしっかりと瓶の口を塞ぎました。「これからも飲んでほしいです。バカです。これは半年分の給料です。」
ケーキを分けて、自分で一つ食べました。食べきれないだけでお腹がいっぱいになりました。
横になって3時間以上休んで、車で江津の周辺に行きます。ヘリコプターが私を待っています。ロープを締めて屋上に降ります。
下に下りて、ドアを開けて、ベッドに横になって引き続きぐうぐう寝て、私は疲れきっています。夜、両親が家に帰っても分かりません。勝手に何かを食べました。
夜中に目が覚めて、ロッカーの中の小霊通を充電しました。誰も連絡してくれませんでした。
ベッドのそばに座っています。この都市はとても悲しいようで、突然眠れません。そこでテレビをつけて、音楽番組のランキング音楽を聞いて、だんだん心が落ち着きました。
その日の朝早くお母さんのところに行って、毎日何十斤の唐辛子をお客さんにつぶしてあげます。私はちょうど休みになりました。そこで手伝います。毎回鉄板を上げて唐辛子をつぶしている時、井山兄さんと天蕊を懐かしみます。
私は100元を使って、車屋で自転車を買いました。午後は用事がない時に広場で練習します。
母は顔をしかめながら、「安いから、壊れやすい」と笑った。
「まずは覚えておきます。壊れたら捨てます。どうせ高くないです。」彼女を慰めながら言った。
初日はなかなか上手になれませんでした。どうしてもバランスが取れなくて、翌日はおじさんのおばさんの助けで自転車を覚えました。四五メートルまで乗れるようになりました。
自転車を覚えた後、私は川のそばで自転車に乗るのが好きです。風が襟を吹いています。私は新しい出会いを迎えています。これらの美しい記憶はここで一段落しました。
私は川のそばに立って夕日を見ています。綺麗な落日に対して、「あなたと抱き合って、あなたがくれた最高のプレゼントです。」
まぶしいと、二十���歳で、大きな木を通って、心より静かに過ごします。
 終了:2020年5月18日月曜日
0 notes
Text
映画版『イン·ザ·ハイツ』に見るトランプ政権のインパクト
 試写で一足先に映画『イン・ザ・ハイツ』を見てきた。
 『イン・ザ・ハイツ』は、2008年にブロードウェイで上演されたミュージカルが元となっている。今やすっかり『ハミルトン』のイメージがついたリン=マニュエル・ミランダの、ブロードウェイ・デビュー作である。舞台版でも映画版でも、ミランダは作詞と作曲にクレジットされており、ブロードウェイ初演時には主人公ウスナビも演じた。脚本はキアラ・アルジェリア・ヒューズによる。舞台版ではアンディ・ブランケンビューラーが担当した振付は、映画版ではクリストファー・スコットへ変更となっている。
 以下、映画の内容に踏み込むので、読みたくない方は閉じてください。映画版の日本公開は2021年7月30日(金)となっている。
 
********************
********************
  楽曲やエピソードの順序、登場人物の数や役割が舞台版から変更が見られるものの、あらすじは映画版でも変わらない。
 7月3日から5日の3日間に起こる出来事。気の早い気温上昇で、停電の可能性がニュースでささやかれている。ウスナビはワシントン・ハイツでボデガ(キヨスクのような店だろうか)を営みつつ、故郷のドミニカ共和国に帰って亡き父のバーを再興する夢を仄かに抱いている。ウスナビは育ての親アブエラと年若い従弟ソニーを帰郷に誘うが、アメリカ人として生きているソニーは興味を持たず、アブエラは自分の楽しみのために生きることに慣れておらず、躊躇っている。地区は年々地代や家賃が上がり、店を畳み郊外へ引っ越す住人が出てきている。ダニエラの美容室は、あと数日でブロンクスへ移動となる。ダニエラの美容室で働くヴァネッサは、ファッション・デザイナーとして自立するためにダウンタウンへ引っ越そうとしている。ウスナビはヴァネッサに思いを寄せているが、シャイさを発揮して中々デートに誘えない。ウスナビの隣家にあるタクシー会社を営むロサリオ氏は、プリンストン大学に通う娘ニーナの学費に頭を悩ませている。そんなニーナは生活と学業の両立と偏見に悩み、1年目でドロップアウトし地元に帰ってくる。タクシー会社の従業員ベニーはニーナを励まそうとするが、ニーナは落ち込んでいる。そんな中、ボデガで売った宝くじの中から、9万6000ドルの当選が出る。誰も名乗りでず、誰だかわからない。さらに酷暑による電力消費で大規模停電が起こり界隈は混乱する。誰が宝くじを当てたのか。それぞれの夢は叶えられるのか、挫折は乗り越えられるのか…。
 舞台版はウスナビが観客に直接歌いかけて『イン・ザ・ハイツ』の物語を展開していくが、映画版ではウスナビが幼い子どもたちを前にして物語を語り聞かせる枠物語の形式をとっている。そのため、日常動作が音楽に合わせてダンスになり、語りがリズムに合わせてラップになる様子が、「ウスナビの昔語り」のスタイルとして正当化されることとなる。  このような映画版の監督は『クレイジー・リッチ!』のジョン・M・チュウが務めている。『クレイジー・リッチ!』を見た時に、撮り方がやけにミュージカル映画っぽい(というより、バスビー・バークリーっぽい)と感じていたので、納得のいく人選だと感じた。  ワシントン・ハイツで親密に生きる共同体の群舞や、重力やリアリズムから外れていく絵の作り方に思い切りの良さというか、「魅せる」ことに対する肝の座り方が伝わって高揚した。また、ダニエラの美容室で展開される楽曲 “No Me Diga” で、顧客がネイルによって整えられた爪でタップダンスを見せる場面など、ミュージカル映画としての遊び心が随所に見られるのも楽しい。  
 舞台版のブロードウェイ初日は2008年3月9日で、2011年1月9日にクローズした。オバマが大統領に当選し、第1期の期間におおよそ該当する。それに対し映画版は、2018年以降の世界へとはっきりと変更されている。時期をそのように判断できる根拠として様々な小ネタが散りばめられているが(見てからのお楽しみということに留めたい、あるいはどこか媒体に書けたらいいのだけど…)、最も大きな判断材料はソニーの不法移民としてのステータスが前景化されていることである。  舞台版でも、ワシントン・ハイツの共同体からただ一人大学へ進学し孤独に悩むニーナや、その名も”Ninety- Six Thousand”という楽曲で、宝くじが当たったなら移民の生活環境向上のために資金にすると歌うソニーの姿が描かれていた。が、映画版ではソニーが自身の進路が移民としてのステータスゆえに阻害されるのではないかと悩む場面が盛り込まれているのである。
 田原徳容『ルポ 不法移民とトランプの闘い』(光文社新書、2018年)によると、2012年6月にオバマ前大統領が不法滞在となった若者たちの強制送還を免除する措置(Deferred Action for Childhood Arrivals、通称DACA)が発令されたものの、トランプ前大統領が2017年9月にDACA撤廃を発表した。撤廃されると70万人以上が米国への滞在資格を失うこととなるため、影響は甚大である。結局、2020年6月に連邦最高裁がDACA撤廃を認めない判断を下した。舞台版閉幕から映画版公開までの間に起きたこの出来事が、ソニーというキャラクター描写に変化をもたらしている。
 映画内で、ウスナビはドミニカへの帰郷にソニーを誘う許可を叔父に取りにいくが、そこでソニーが不法移民の子どもであり銀行口座が開設できていないことが語られる。これはつまり、パスポート取得が非常に困難であることが遠回しに示している。また、ソニーはニーナを誘って移民の権利を訴えるデモに参加し、そこでカマラ・ハリスを彷彿とさせるスピーカーが語る不法移民であるがゆえに大学進学が叶わなかった姪の話を聞き、自身の将来の不透明さを思い知らされ打ちのめされる。さらに、舞台版では宝くじ当選者であるアブエラは賞金をアブエラ・ウスナビ・ソニーで三分割し、ウスナビとアブエラ2人の取り分でドミニカへ帰ろうと語るのだが、映画版では賞金は全てソニーの滞在資格取得費と信託預金のために使われることとなる。そして、大学で挫折を味わったニーナはソニーの苦境を知り、移民の権利獲得のために活動する未来像を固め、気持ちを立て直していく。
 『イン・ザ・ハイツ』では、経済的に余裕なく日々に不満を抱きながらも、隣人同士で支え合い、そのことを通じて共同体意識を高めていく姿が舞台·映画と変わらず描かれている。舞台版ではもっぱらキャラクター個人が手の届く範囲で援助を差し伸べ受け取る様子が描かれていたが(だからこそ、降って沸いた宝くじのインパクトが大きい)、映画版では政治や制度へ訴える回路を開こうとする気配が書き込まれている。
 『イン・ザ・ハイツ』は、トランプ政権の4年間がいかに移民社会にとって脅威であったかが推し量れるミュージカル映画となっている。
0 notes
trumpq · 3 years
Text
【パトリック・バーン】 2021/2/19 11:34 JST
Tumblr media
https://www.tabletmag.com/sections/news/articles/the-thirty-tyrants
タブレットマガジン サーティータイランツ(※30僭主せんしゅ) アメリカのエリートが中国との取引を選択したことは、アテネとスパルタの歴史の中に前例がある。……
※続きで、記事の和訳をしてみた。けっこう長文。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 
※オリジナル英文は元リンク参照。
サーティータイランツ(※30僭主せんしゅ) アメリカのエリートが中国との取引を選択したことは、アテネとスパルタの歴史の中に前例がある  2021年2月4日 リー・スミス による
『王子』の第5章で、ニコロ・マキアヴェッリは、征服した大国が戦争で敗北した人々をどのように扱うかについて、3つの選択肢があると述べた。第一は彼らを破滅させること、第二は直接支配すること、第三は「あなた方に友好的な状態を維持するために、少数者の状態を作り出すこと」である。
マキアヴェッリが最後の例として挙げるのは、紀元前404年の27年間の戦争の後、アテネを敗北させた際にスパルタが設立した友好的な政府である。すでに民主主義を軽蔑していたアテネの上流階級のエリートにとって、ペロポネソス戦争での敗北はスパルタのシステムが好ましいことを確認した。それは恒久的な召使階級、ヘロット、定期的に屠殺された彼らの人間以下のステータスを受け入れるためにそれらを条件とした上で、高奮発軍の貴族の支配であった。対照的にアテネの民主主義は下層階級にあまりにも多くの権力を与えた。親スパルタ派の寡頭制は、市民の権利を奪うためにパトロンの勝利を利用し、国内のライバルとの争いを解決し、彼らを追放して処刑し、彼らの富を没収することに成功した。
アテネの法律に不誠実で伝統を軽蔑するアテネ政府は「三十人の暴君」として知られており、その役割と機能を理解することは、現在のアメリカで何が起こっているのかを説明するのに役立つ。
前回のコラムでは、ニューヨーク・タイムズ紙のトーマス・フリードマン氏に、10年以上前のバラク・オバマ大統領就任1年目に彼が書いた記事について話を聞いた。彼の重要な記事は、アメリカのエリートが民主主義が自分たちのために機能していないと判断したまさにその瞬間を記録している。共和党のせいでアメリカ国民を蹂躙することができないと非難した彼らは、自分たちを豊かにしている関係を強化するために民主党に移った。
「グローバル化した世界で競争する必要性から、実力主義者、多国籍企業の経営者、東洋の金融業者、技術起業家は、共和党が何を提供するかを再考せざるを得なくなっている。原則として、彼らは党を離れ、現実的な連立ではなく、イデオロギー的な批判者の集団を残してきた」と、ある貿易コンサルタントはフリードマンに語った。フリードマンのコラムが発表されてから10年以上の間に、タイムズのコラムニストが特定した幻滅したエリートたちは、アメリカの労働者をさらに困窮させ、自分たちを豊かにしてきた。彼らが生きるようになった一言のモットーはグローバリズム、つまり、彼らがたまたま生計を立て、子供を育てている特定の社会の幸福に言及することなく、商業関係や社会的企業を構造化する自由であった。
グローバリスト企業を支えたのは、2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟したことである。何十年もの間、アメリカの政策立案者や企業クラスは、中国をライバル視していたが、フリードマン氏が述べたエリートたちは、啓蒙された中国の独裁政治を友人として、またモデルとしてさえ見ていた。なぜ彼らは権威主義的な政権と貿易をし、何百万ものアメリカの製造業の仕事を中国に送り込み、働くアメリカ人を困窮させたのだろうか。それは彼らを豊かにしたからです。彼らは、中国と取引する以外に選択肢がないと自分たちに言い聞かせることで、自分たちの良心を救ったのです。中国は大きく、生産性が高く、効率的で、中国の台頭は避けられない。それに、中国との取引で傷ついたアメリカの労働者は罰せられて当然だった。進歩のためには何が最善なのかを邪魔する反動的で人種差別的なイデオロギーの評論家を誰が擁護できるだろうか?
外国との戦争や不法移民を終わらせることと一緒に、これらの雇用をアメリカに戻すことは、ドナルド・トランプ大統領の大統領職の中心的な政策公約であり、2016年にトランプ氏が驚くべき勝利を収めた源でもある。トランプ氏は、企業や政界の確立された中国との貿易関係が一般のアメリカ人を売り渡したと主張したのは、ほとんど初めてではなかった。元民主党下院議員で1988年大統領候補のリチャード・ゲファードは、奴隷労働者を雇用している国家との貿易はアメリカの雇用を犠牲にし、アメリカの名誉を犠牲にすることになると警告した、重要だが最終的にはあまり影響力のない選出された民主党幹部や政策専門家のグループの第一線で活躍していた。トランプ氏の言うことを真に受けたのは、6,000万人以上のアメリカの有権者だけだった。
トランプ氏が「沼」と呼んでいるのは、最初は産業、機関、人物が無作為に集まっただけのように見えたが、それらが新大統領によって非難されているという事実以外には、何の共通点もないように見えた。しかし、トランプ氏の絶え間ないエリートへの攻撃は、彼らに集団的な自己認識と連帯のための強力な動機を与えた。彼らは、同じ偏見や憎しみ、文化的嗜好、消費習慣だけでなく、同じ重心である米中関係も共有している官民の利害の結びつきを代表していることがわかったのである。こうしてチャイナ・クラスが誕生したのです。
かつては、曖昧に見えた、あるいは存在しないように見えた関係が、トランプ氏の軽蔑と、トランプ氏を憎むエリートたちの相互の軽蔑の光の下で、鮮明になったのである。
10年前には、NBAのスーパースターであるレブロン・ジェームズとアップルのティム・クックCEOを同じファミリーアルバムに入れる人はいなかっただろうが、彼らは今、安価な中国の製造業(ナイキのスニーカー、iPhoneなど)と成長する中国の消費者市場のおかげで、素晴らしい富で結ばれている。デジタルサービスプロバイダーのテンセントとのNBAの15億ドルの契約は、中国の会社は、アメリカ以外のリーグの最大のパートナーになりました。感謝の意を込めて、これらの二股大使は無知な同胞に中国共産党の知恵を伝えた。NBAの幹部が香港の反体制派を擁護するツイートをした後、社会正義活動家のキング・レブロンはアメリカ人に「舌に気をつけろ」と言った。「たとえそうであっても、我々には言論の自由がある。それは多くのネガティブなことをもたらすことがある」とジェームズは言った。
トランプ氏が米中関係から贅沢な利益を得たアメリカ人に圧力をかけたため、これらの奇妙な相棒たちは、マルクス主義者が階級意識と呼ぶものを身につけ、反撃のために団結し、中国の後援者との関係をさらに強固なものにした。今では、これらの異質なアメリカの機関は、中国共産党が奴隷労働者収容所の囚人にどんな恐怖を与えようとも、中国のスパイサービスや人民解放軍が国家安全保障にどんな脅威を与えようとも、中国共産党からの小切手を現金化することについての慎重さや恥ずかしさの感覚を失った。大西洋評議会、アメリカ進歩センター、イーストウエスト研究所、カーターセンター、カーネギー国際平和基金、ジョンズ・ホプキンス高等国際問題研究所などのシンクタンクや研究機関は、中国の資金を食い物にしていた。世界的に有名なブルッキングス研究所は、中国の通信会社である華為技術を賞賛する中国の華為企業が資金提供した報告書を公表することに何の抵抗もなかった。
中国がアメリカの主要な研究大学、例えばスタンフォード大学に58,000万ドルのような数十億ドルを提供したことで、アメリカの法執行機関は、機密研究を盗むための中国の防諜活動に警告を発していた。しかし、これらの大学とその名の知れた教員は、実際にはその研究を販売するビジネスを行っていた。その多くは米国政府から直接支払われていた。
実際、学界の中国共産党とのペイ・フォア・プレイ取引の多くは、特に微妙なものではなかった。2020年6月には、1500万ドルの研究助成金を受けたハーバード大学の教授が、「中国の科学開発、経済繁栄、国家安全保障を促進する」ために、「ハイレベルな科学的才能を募集し、育成する」ために、中国共産党の機関に代わって月5万ドルの仕事をしていたと嘘をついたとして起訴された。
しかし、ドナルド・トランプ氏が米国と中国を切り離すことが、自分を憎み、米国の雇用を海外に送り出��た寡頭制を解体する方法だと考えていたとしても、そのビジョンを実行に移すことはできなかった。米国のエリートの腐敗の原因、中間層の貧困化の理由、米国の平和に対する内外の脅威を正しく特定した後、彼はアメリカ人に彼を選んで戦ってもらうように頼んだ戦争に勝つためのスタッフを配置し、準備をすることに失敗した。
そして、中国がチャイナクラスの力の源であることは事実だったので、武漢から出てくる斬新なコロナウイルスは、そのクーデターのためのプラットフォームになりました。つまり、アメリカ人は反民主主義的エリートの餌食となり、コロナウイルスを使ってアメリカ人の気力を奪い、中小企業を荒廃させ、盗み、焼き、殺すのが自由な暴徒に弱いままにし、子供たちを学校から遠ざけ、死にかけている人たちを愛する人たちの最後の抱擁から遠ざけ、アメリカの歴史、文化を冒涜したのだ。そして、アメリカの歴史、文化、社会を冒涜し、普通のアメリカ人が実際にはエリートの民間部門と公共部門の代理人がすでに用意していた地獄に値する理由を説明するために、この国をシステム的に人種差別主義者として中傷している。
約1年の間、アメリカの役人たちは、中国経済がアメリカの上に乗っかっている間に、より多くの権力を自分たちに横領するという唯一の目的のために、意図的に我々の経済と社会を荒廃させてきた。中国の封鎖は結果の違いとは何の関係もない。封鎖はウイルスの蔓延を抑えるための公衆衛生上の措置ではない。だからこそ、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ知事やシカゴ市長のローリ・ライトフット氏のように、長期にわたる封鎖を繰り返している民主党幹部は、トランプ氏が無事に去った今、直ちに封鎖を再開させることが急務だと公に表明しているのだ。
民主党の役人が意図的に命を破壊し、老人ホームで高齢者に感染させるために病人を送り込むことで何千人もの命を奪ったことは、アメリカ版「三十人の暴君」とは無関係である。仕事は、トランプを倒すためにコロナウイルスの犠牲者を増やすことであり、彼らは成功した。アテネの反民主主義派と同様に、アメリカの優秀な人材はとっくの昔に道を失ってしまった。30人の暴君の先頭にいたのはクリティアスであり、ソクラテスの最高の弟子の1人であり、詩人であり、劇作家であった。彼は体制の怒りからソクラテスを救うのを助けたかもしれないし、まだ哲学者は彼の方法、すべてに質問するために、伝統のためのクリティアスの広範囲の軽蔑を供給したことを後悔したようである。権力を握った後、クリティアスはアテネの彼の虚無主義を回し、都市を破壊した。
----- アメリカのエリートと中国の間の毒された抱擁は、約50年前、ヘンリー・キッシンジャーが、当時敵対していた2つの国の間に関係を開くことで、中国とより脅威的なソ連の間の溝の拡大を暴露することになるだろうと考えたときに始まった。2つの共産主義の巨人の間の衝突の中心にあったのは、ソ連の指導者がスターリンを拒絶したことであり、これを中国はソ連共産主義体制の終焉の始まりと見なし、彼らが犯してはならない過ちであった。
一方、キッシンジャーの地政学的な作戦は、彼の歴史的遺産の礎となった。また、キッシンジャーは中国の高官にアクセスを売る大金持ちにもなった。また、キッシンジャーは、ビル・クリントン政権の国防長官ウィリアム・コーエンのように、他の元高官の政策立案者が自らの対外影響力を利用した身売り作戦に従事する道を開拓した。コーエングループは、4つの海外事務所のうち2つを中国に構えており、トランプ前国防長官のジェームズ・マティス氏をはじめ、多くの元高官が参加しているが、彼は最近、社説でトランプ政権の中国に対する「我々と一緒か、我々に反対か」というアプローチを批判した際に、コーエングループでの仕事を公表しなかった。「米国の同盟国やパートナーの経済的繁栄は、北京との強力な貿易・投資関係にかかっている」と書いたマティスは、文字通り、まさにそのような立場を取るために中国から金をもらっていた。
しかし、1972年にリチャード・M・ニクソン大統領と一緒に欧米人が当時北京と呼んでいた中国の首都を訪れたとき、キッシンジャーが元アメリカ政府関係者のために中国を換金地にするとは考えられないだろう。「中国人は、毛沢東が死ななければ開国できないと感じていた」と、トランプ元政権関係者は言う。「ニクソンとキッシンジャーがいた時には毛沢東はまだ生きていたのだから、1979年に鄧小平の指導の下で始まったような改革を彼らが思い描くことはできなかっただろう」。しかし、1980年代になっても中国は米国と競争していたわけではない。中国が商業的なライバルになったのは1990年代に入ってからであり、「中国に貿易上の最恵国としての地位を与えることについて毎年議論が行われていた」という。
冷戦後の秩序の首席広報担当者はフランシス福山であり、彼は1992年の著書『歴史の終わり』の中で、ベルリンの壁が崩壊したことで、西欧の自由民主主義が最終的な政府の形になったと主張した。福山がベルリンの壁崩壊後に間違っていたのは、政治形態の強さの評価ではなく、彼の哲学的モデルの深さであった。福山は、半世紀近く続いた超大国の睨み合いが終わったことで、対立する政治モデルをお互いに対立させていた歴史的弁証法が解決されたと信じていたのだ。実際には、弁証法はまた別の方向に転じた。
ソ連で共産主義を破った直後、アメリカは生き残った共産党に新たな息吹を吹き込んだ。そして西洋の民主主義原理が中国共産党を変質させる代わりに アメリカの権威が東洋のテクノ独裁主義の味を手に入れたのです。ダイアン・ファインスタイン氏は、キッシンジャー氏に次いで、その後の20年間、米中関係を牽引した第二の影響力を持つ役人となった。
1978年、サンフランシスコ市長に就任したばかりのファインスタインは、当時の上海市長であり、後に中国の総統となる江沢民と親交を深めました。アメリカのハイテクの中心地の市長として中国との結びつきは、成長を続けるアメリカのハイテク産業に中国からの投資を呼び込み、中国を世界第3位の経済大国にしました。また、江氏との提携は、彼女の投資家である夫のリチャード・ブルムを大金持ちにした。上院議員として、彼女は中国の人権侵害を合理化して中国の最恵国待遇の恒久的な貿易地位の確立を推し進め、一方、友人の江氏は権力を強化し、天安門広場に戦車を送り込んで共産党総書記になった。ファインスタインは彼を擁護した。"中国には地元の警察がいなかった」と、ファインスタイン氏は江氏が彼女に語ったという。「それ故に戦車を送った。しかし、それは過去のことだ。人は過去から学ぶ。繰り返すことはない。中国は教訓を得たと思う」とカリフォルニア州の上院議員は安心して説明した。
しかし、実際には過去は、ワシントンのファインスタイン議員の聴衆に別の話を伝えるべきだった。米国はモスクワと貿易をしたり、ロシア人が多額の選挙献金をしたり、配偶者とのビジネス・パートナーシップを結んだりすることを許していなかった。冷戦時代のアメリカの指導者たちは、そのような行為がモスクワへの扉を開き、危険な方法でアメリカの政治や社会に直接影響を与えることを許してしまうことを理解していた。彼らの工場で私たちの商品を製造したり、私たちの商品を購入して海外に出荷したりすることは、技術や知的財産を脆弱なものにしてしまうことになる。
しかし、それは国家安全保障を危険にさらすだけではなく、アメリカの価値観に反するシステムにアメリカをさらすことにもなっていたのだ。この期間を通して、アメリカは、私たちが考えているソビエトに対する考え方とは反対の立場で自分たちを定義していた。ロナルド・レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と呼んだことで軽率だと思われていたが、第二次世界大戦末期から 1990 年までの通商・外交政策では、これがコンセンサスとなる立場であったことが反映されていた。
実業家のアルマンド・ハマーが有名だったのは、彼がモスクワと取引をしていたアメリカ人だったからである。彼の視点が役に立ったのは、ソ連社会、政治、ビジネス文化に関する彼独自の洞察力がアメリカのメディアとよく共有されていたからではなく、彼が政治局がアメリカの聴衆に広めたいと思っている見解を提示していたことが理解されていたからだ。今日、アメリカには何千人ものアーマンド・ハマーがいて、そのすべてが彼らの富、名声、権力の源を主張している。
それは、1994年にビル・クリントンが人権を貿易の地位から切り離すことを決定したことから始まった。彼は、ジョージ・H・W・ブッシュ政権とは対照的に、人権に焦点を当てることを約束してホワイトハウスに入り、就任2年後に顔を上げた。クリントン氏は「我々の関係をより大きく、より生産的な枠組みに置く必要がある」と述べた。アメリカの人権団体や労働組合は愕然とした。クリントンの決定は明確なメッセージを送った、と当時のAFL-CIO会長レーン・カークランドは言った。「アメリカが民主主義と人権について何を言おうと、最終的な分析では利益であって、人ではなく、最も重要な問題である」。当時の上院院内総務ジョージ・ミッチェ��氏のような一部の民主党員は反対し、ジョン・マケイン氏のような共和党員はクリントン氏の動きを支持した。クリントンの国家経済会議のトップであるロバート・E・ルービンは、中国は「これまで以上に大きく、より重要な貿易相手国になるだろう」と予測した。
それから20年以上が経過した今、中国の技術をアメリカの技術から切り離そうとするトランプ政権の措置に反対してロビー活動を行ったアメリカの産業や企業の数は、相反する価値観や慣行を主張する2つのライバルシステムがどれだけ密接に統合されてきたかを示す驚異的な指標となっている。フォード、フェデックス、ハネウェルなどの企業や、華為にチップを販売し続けるために争ったクアルコムなどの半導体メーカーは、片足をアメリカに、もう片足をアメリカの地政学的に重要なライバルであるアメリカにしっかりと植え付けて存在している。両者のビジネスを守るために、彼らは中国を競争相手と呼ぶことで、危険なライバルを後押ししている自分たちの役割を隠蔽するために、この問題をソフトに売り込んでいるのだ。
アメリカのほぼすべての主要産業が中国との利害関係を持っている。ウォール街、シティグループ、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレーから接客業に至るまで。マリオットホテルの従業員が解雇されたのは、彼がチベットについてのツイートを気に入ったことに中国当局が異議を唱えたためだ。彼らは皆、中国共産党のルールに従うことを学んだ。
ランプ政権の元幹部、ロバート・スポルディング元退役軍人は、「中国に縛られていない人に聞いた方がいい」と言う。
当然のことながら、かつては頼りにされていた共和党の米国商工会議所は、トランプ氏の中国政策に反対する先頭に立っていた。関税案だけでなく、パンデミックが発生した場合でも、米国企業が重要なサプライチェーンを別の場所に移動し始めるよう求めたのだ。全米防衛産業協会は最近、防衛関連の請負業者が特定の中国の技術を使用することを禁止する法律に不満を表明した。同団体のスポークスマンは「連邦政府と仕事をしているすべての請負業者は、それを止めなければならないだろう」と述べた。
トランプ政権でさえも、タカ派と融和主義者に分かれており、前者は『パンダハガー』と皮肉っぽく呼ばれていた。トランプ政権の高官の大半は後者の陣営に属しており、特に元ハリウッドのプロデューサーであるスティーブン・ムニューシン財務長官はその中でも特に注目されていた。映画業界は、中国が知的財産を盗んでいると最初に声高に訴えていたが、最終的には北京と手を組むようになり、北京をなだめるようになった。スタジオは、中国共産党のレッドラインを守らずに、中国の巨大な市場に参入することはできません。例えば、「トップガン」の続編では、パラマウント社がトム・クルーズの「マーベリック」のジャケットに台湾と日本のパッチをぼかして中国で公開することを提案したが、中国共産党の検閲官は、世界のどのバージョンでもパッチを表示しないようにと主張した。
トランプ政権時代には、「中国との疑う余地のない協力を続けようという非常に大きな後押しがあった。反対側には、反発を望む少数の人々がいた」とスポルディング元顧問は言う。
アップル、ナイキ、コカ・コーラは、ウイグル強制労働防止法に反対するロビー活動までしていた。トランプ大統領就任最後の日に、マイク・ポンペオ国務長官は、米国が「中華人民共和国が中国の新疆ウイグル自治区で、ウイグル族のイスラム教徒やその他の少数民族・宗教団体のメンバーを標的に、大量虐殺と人道に対する犯罪を犯していると判断した」と発表した。2020年のオー���トラリアの調査によると、ナイキ、アディダス、ギャップ、トミー・ヒルフィガー、アップル、グーグル、マイクロソフト、ゼネラルモーターズなど、ウイグル人の強制労働力を使用している多くのアメリカの主要ブランドがジェノサイドに加担していることになる。
基本的人権や民主主義を軽視している国が、アメリカの産業界から直接資金を提供され、アメリカ国民のものであるべきアメリカ政府の研究や技術の成果を特権的に利用できるようにすべきではないという考えは、党派的な考えとは言い難く、ドナルド・トランプ氏とはほとんど関係がない、あるいは関係がないはずである。しかし、歴史的な記録を見れば、アメリカと中国のエリートの融合はトランプ政権時代に頂点に達していたことがわかるだろう。ミッチ・マコーネル上院共和党党首の造船会社の億万長者の義父であるジェームズ・チャオ氏は、大学の同級生の江沢民氏をはじめとする中国共産党との関係から大きな利益を得ている。チャオ家からの贈り物は、マコーネルを、最も裕福な上院議員のリストの中で、ファインスタイン氏よりも数段下の地位にまで押し上げました。
トランプ憎しのメディアの津波に乗って、チャイナクラスは国家機関や安全保障官僚の中でその力を固めた。1990年代後半から続いている中国共産党政権の最悪かつ最も脅威的な側面への対応は、早送りになっていた。ナイキが中国の奴隷労働収容所でスニーカーを作っていたという話は、もはや流行らなくなった。中国がアメリカの科学機密や軍事機密を盗み、シリコンバレーで大規模なスパイ活動を行い、エリック・スワールウェルのような下院議員を危険にさらし、アイビーリーグのトップ教授に多額のリテイナーを払い、知的窃盗のプログラムを組織的に実施している、あるいは何らかの形で自国の国民や近隣諸国、さらにはアメリカの生活様式に危険をもたらしているというニュースは、トランプ支持のプロパガンダとしてミュートされ、却下された。
中央情報局(CIA)は、アメリカの制度を弱体化させようとする中国の努力を公然と保護していた。CIAの経営陣は、情報アナリストをいじめて、中国の影響力と私たちの政治プロセスへの干渉についての評価を変えるようにして、彼らがトランプ氏の政策に同意しない政策を支持するために使用されないようにしたのです。アメリカを守ることがCIAの経営陣にとって最も急務なことではないのは当然のことである。
中国の行動を実際に理解している人たちにとっては、党派性は明らかに二の次の関心事だった。中国の行動は、アメリカの中核的な安全保障機関がそれを真剣に受け止めていないように見えたことと同様に、真に憂慮すべきものであった。「1980年代までは、共和制政府の形態に反する考えを持つ外国勢力の利益を推進する人々は排除されていた」と、オバマ政権の元情報当局者は言う。「しかし、グローバリズムの出現で、彼らは中国を言い訳にし、自分たちの好みに合わせて情報を曲げた。ブッシュとオバマの時代、標準的な評価は、中国は青水軍を作る気がないというものだった。それは彼らの見方には不都合だった。中国は現在、第3の空母を生産中である。」
トランプ氏を憎むことは、彼らの政治的な言い訳になっているが、アメリカの安全保障と国防の確立は、中国を見て見ぬふりをすることに自分たちの利益を持っていた。ジョージ・W・ブッシュの「対テロ戦争」から始まった軍事作戦に人、金、名声を浪費してきた20年間は、米国にとって戦略的価値が低いことが証明されている。しかし、中東の殺戮現場にアメリカ人を派遣して安全を確保することは、北京にとって大きな利益となっている。先月、中国のエネルギー大手である善華は、イラク経済の低迷に乗じて、5年間の石油供給(日量13万バレル)に20億ドルを支払った。価格が上がれば、この取引で中国は石油を転売することができる。
アフガニスタンでは、大規模な銅、金属、鉱物の鉱山は、アメリカ軍が表向きの安全を確保しているが、中国企業が所有している。また、アフガニスタンは新疆ウイグル自治区と国境を接しているため、習近平は「米国がアフガニスタンから軍を撤退させた後、アフガニスタンやパキスタンの辺境に位置するテロ組織がすぐに中央アジアに侵入してくるのではないか」と懸念している。言い換えれば、米軍がアフガニスタンのような場所に海外展開しているのは、中国の「ベルト・アンド・ロード構想」のための安全保障よりも、アメリカの利益を守るためである。
「ソ連とのように中国とは対立しているわけではないという考えがある」とオバマ前大統領は言う。「しかし、我々はそうなっている問題は、民主党を中心としたアメリカの既成政党のほぼすべてが、断固として反対側にあるということだ。」
------ 2019年の夏の終わり頃、トランプ氏はホワイトハウスでの2期目に向かっているように見えた。経済が急騰し、失業率が記録的な低水準になっただけでなく、彼はまさに彼が選んだフィールドで対立候補と対決していたのだ。トランプ氏の北京との貿易戦争は、トランプ氏が本気でアメリカ企業にサプライチェーンの移動を迫ろうとしていることを示している。7月には、デルやHPのようなアメリカのトップテック企業が、生産の大部分を中国国外にシフトすると発表した。アマゾン、マイクロソフト、アルファベットもまた、製造の一部を他の場所に移す計画を立てていると述べた。
武漢の住民が通りを埋め尽くし始めたのは、2019年の6月下旬と7月上旬、まったく同じ瞬間だった、武漢の1100万人の健康と繁栄に責任を持つ役人が裏切ったことに怒りを覚えた。彼らは病気になり、病気になるのを恐れていた。高齢者は息を切らした。行進する人たちは、「毒されたくない、新鮮な空気を吸いたい」という横断幕を掲げていました。親たちは子供たちの命を心配した。病人が免疫系と神経系に永久的なダメージを受けていることを恐れていた。
当局はソーシャルメディアのアカウント、写真、抗議のビデオを検閲し、おとり捜査官はトラブルメーカーを監視し、最も声の大きい者を拘留した。企業は閉鎖を余儀なくされ、抗議者が隠れる場所はどこにもなかった。何人かはバンで運び出された。彼らは当局から「公安機関は悪質な扇動や挑発などの違法な犯罪行為を断固として取り締まる」と警告を受けていた。
当時、武漢の住民を街頭に送り出したのは、COVID-19ではなかった。2019年初夏、武漢の公衆衛生を脅かしたのは大気汚染の疫病だった。これは、アメリカの悲惨な最後の年の物語のこれまで語られてこなかった部分である。
大気を汚染するゴミの山に対処するため、当局はゴミ焼却場の建設を計画した(2013年、武漢では5つの焼却施設から危険な汚染物質が排出されていることが判明した)。他の都市でも同様に、2007年のシアメン、2015年の上海、2016年の成都、2017年の清原など、大気汚染に対する抗議行動が街頭で行われたが、その都度、中国共産党指導部にパニックの波が押し寄せた。不安が次から次へと広がり、14億人の国全体が制御不能に陥ったとしたらどうだろうか。
中国共産党は、騒動が流行らないようにする方法は、隔離することだと学んでいた。中国共産党は、中国の少数民族であるチベット人、そして最近ではトルコ系の少数民族であるイスラム教徒のウイグル人を、大規模な検疫や監禁によって無力化することに特に長けていたが、これは電子監視ネットワークによって管理され、刑務所や奴隷労働収容所への道を開いた。2019年までには、中国のウイグル人の悲惨な運命は、彼らの強制労働から大きな利益を得ている多くの人々の間でも、心からの関心事となっていたのか、それとも単に広報活動を重視していただけなのかを問わず、関心事となっていた。
新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)は、イランとほぼ同じ大きさの中国北西部に位置し、石炭や石油、天然ガスなどの資源が豊富な地域である。パキスタンと国境を接する新疆は、ベルト・アンド・ロード構想の重要な供給ルートの終着点であり、世界的な中国の利権圏を創造するための1兆ドルのプロジェクトである。BRIの潜在的な混乱は、中国の重要な利益への脅威を構成する。習近平は2014年4月、ウイグル族の戦闘員が駅で150人以上を刺した事件を、取り締まりの機会と捉えた。
「壊滅的な攻撃を備えよ」Xi は警察官および軍隊に言った。彼の副官は、一斉に命令を出した。「全員を切り上げろ」との命令が下された 情けをかけた役人は自ら拘留され、屈辱を受け、「新疆のための党中央指導部の戦略」に背くための手本とされた。
2019年11月のニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、中国当局が最も心配していたのは、省外の学校から帰宅したウイグル族の学生たちだった。学生たちは「国全体に広く社会的なつながりを持っていた」し、当局が恐れていた『影響力』が『広く、根絶するのが難しい』ソーシャルメディアを使用していた。任務は、収容所内で実際に起こっていることのニュースを隔離することだった。学生が愛する人はどこにいるのか、何があったのかと尋ねると、当局は「彼らの親族はイスラム過激主義の『ウイルス』に『感染』しているので、隔離して治療しなければならない」と学生に伝えるように助言された。
しかし、中国の封鎖政策の対象となったのは、テロ攻撃を実行する可能性の高い若い男性だけではなかった。文書によると、当局者は「暴力を振るうには年を取りすぎていると思われる祖父母や家族でさえも免れない」と言われたという。
2019年秋に本物のウイルスがヒットしたとき、中国当局は同じプロトコルに従い、問題を起こす可能性のある者だけでなく、武漢のすべての人を隔離し、わずか数ヶ月前に同じ都市で鎮圧したものよりもさらに大きな世論の反発を避けることを望んだ。
病気ではない者を隔離するロックダウンが、これまで公衆衛生対策として採用されてこなかったのには、それなりの理由がある。都市、州、または国の主要メンバーは、彼らが大規模な人口に集団的な罰を課していることを示すために意味がない限り、自分自身を投獄しない。政治的抑圧の手段として広く認知されているため、これまで公衆衛生対策として使われたことはなかった。
2019年12月末、中国当局は、新しいウイルスに言及したソーシャルメディアアカウントのロックダウンを開始し、それを警告したり、同僚とそれについて話したりした医師は叱責され、COVID-19に感染したとされる別の人が死亡しました。武漢を出入りする国内旅行はすべて停止されました。もし封鎖の目的が感染の拡大を防ぐことだったとすれば、国際便が継続していたことは注目に値します。むしろ、ソーシャルメディアの検閲と同様に、国内旅行の禁止は、政府の失態が中国全土に広がらないようにし、大規模な、おそらく制御不能な不安を招くことを防ぐためのものだったように思われる。
6月と7月に武漢の通りが埋め尽くされたのは、ある都市の人口を蝕む焼却炉の計画を隠していた当局の致命的な無能さに抗議するためだったとしたら、中国全土を蝕む運命にある呼吸器疾患の原因が、当局が主張するような湿った市場で起こった自然の偶然ではなく、中国共産党の武漢ウイルス研究所であることを知ったとき、中国国民はどのように反応するだろうか?
1月、トランプ政権の元国家安全保障副顧問マット・ポッティンジャー氏は英国当局者に、最新のアメリカの情報によると、COVID-19の最も可能性の高いソースは武漢のウイルス研究所であると語った。ポッティンジャー氏の発言を報じた数少ない欧米の報道機関の一つである英紙デイリー・メールによると、ポッティンジャー氏は、病原体が漏洩か事故によって逃げ出した可能性があると主張した。
1月に発表された国務省のファクトシートによると、米国は「武漢の研究室内の数人の研究者が2019年秋、最初に確認された感染例が発生する前に発病したと信じるに足る理由がある」としている。ファクトシートはさらに、中国政府の研究室が2016年からCOVID-19に最も類似したコウモリコロナウイルスの研究を行ってきたことを説明している。少なくとも2017年以降、WIVは中国軍に代わって機密研究を行ってきた。「米国は長年にわたり、中国の過去の生物兵器作業について公に懸念を表明してきたが、北京は生物兵器禁止条約の下で明確な義務を負っているにもかかわらず、文書化も実証もしていない。」
パンデミックが武漢の湿った市場で始まったのではないという証拠は、北京が1月23日に封鎖を実施した数日後の2020年1月に早くも発表されている。イギリスの医学誌「ランセット」によると、最初のものを含む41例のうち13例は市場との関連性がなかったという。5月には中国の疾病管理・予防センターの責任者が、COVID-19と湿潤市場を結びつけるものは何もなかったことを確認した。「新型コロナウイルスは、市場で発見されるずっと前から存在していた」と、中国の関係者���述べた。
ランセットの報告の後、トランプ政権に近い共和党当局者は、北京の公式アカウントに異議を唱えた。「我々はそれがどこで発生したかを知らないし、我々はそれの底を取得しなければならない」上院議員トム・コットンは2月に言った。「また、その食品市場から数マイル離れたところには、中国唯一のバイオ安全レベル4のスーパーラボがあり、ヒト感染症を研究していることも知っている。」コットン氏は、中国は二枚舌で不誠実だったと述べた。「私たちは、少なくとも証拠が何を示しているのかを確認するために質問をする必要があります。中国は今、その質問に対して何の証拠も提示していない」とコットン氏は述べた。
アメリカのマスコミは、コットンの答えを探す姿勢を軽蔑した。ジェフ・ベゾスのワシントン・ポスト紙は、コットンは「専門家によって何度も否定されてきた陰謀論の火種を撒き散らしている」と主張した。トランプ氏は、コロナウイルスが武漢の研究室で発生したものであると確信していると大統領が発言した時、アメリカのスパイサービスと矛盾していると嘲笑された。テッド・クルーズ上院議員は「パンデミックの起源についての明白な疑問を否定することで、マスコミは中国共産党のプロパガンダを作り出すために、ジャーナリズムのすべてのふりを放棄している」と述べた。
昨年の冬以来、トランプ氏とGOP当局者が行っていたのと同じケースを主張したニコルソン・ベイカー氏によるニューヨーク・マガジンの記事が1月に発表されたことは、有益な疑問を投げかけている。なぜジャーナリストたちは、北京のコロナウイルスの起源についてのトランプ政権の懐疑論を自動的に否定しようとしたのだろうか?なぜ選挙後まで待って、中国共産党の話が偽りであるという証拠の公表を許したのか。確かに、メディアはバイデン氏を好んでおり、何としてでもトランプ氏を追い出そうとしていたが、中国とCOVID-19についての真実をアメリカ人に伝えることが民主党の選挙にどのような影響を与えるだろうか?
中国はアメリカのマスコミに多くの友人を育ててきたからこそ、マスコミは中国政府の統計を素直な顔で伝えている。しかし、重要なのはこの事実である。中国共産党のナラティブを正当化する際に、メディアは主に中国のためではなく、中国から権力、富、威信を得ているアメリカ人階級のために報道しているのだ。いや、北京は悪者ではなく、国際的に責任ある利害関係者なのだ。実際、私たちは中国のリードに従うべきだ。そして3月までには、トランプ氏が最初に���意したことで、アメリカの当局者は、歴史上、独裁大国が自国民を黙らせるために使ってきたのと同じ抑圧的な措置をアメリカ人にも課した。
やがて、親中派の寡頭政治家たちは、封鎖がもたらした恩恵の全容に気づくようになった。ロックダウンは主要な寡頭政治家をより豊かにし、ベゾス単独の場合は850億ドルもの富を得たが、その一方でトランプ氏の中小企業基盤を困窮させた。市や州の当局は、不定法な規制を課すことで、独裁政治を正常化したのである。そして、少なくとも、アメリカの組織には、代議員の3分の1しか選ばれていない候補者に指名を与え、大統領選挙期間中は地下室に閉じ込めておくという、もっともらしい理由があった。しかし、ある意味では、ジョー・バイデンは、数十年続いた米中関係の軌道を正常に戻すことを意味していたのである。
----- バイデン氏の当選後、中国の外相は米中関係のリセットを求めたが、中国の活動家はバイデン氏の対中政策はすでに決まっていると言う。「私はバイデン政権に非常に懐疑的だ。なぜなら、彼が中国を21世紀のウイグル人の大量虐殺である正常な状態に戻すことを許すのではないかと心配しているからだ」と、ある人権活動家は選挙後、ニューヨーク・タイムズ紙に語った。バイデン氏が大統領になったことで、ある人権活動家は「ホワイトハウスに習近平氏が座っているようなものだ」と語った。
11月には、北京政府に近い中国のシンクタンクのトップが行った公開演説を記録したとするビデオがソーシャルメディア上で流通した。「トランプ氏は我々に対して貿易戦争を仕掛けてきた」と中国の聴衆に語った。「なぜ我々は彼に対処できなかったのか?1992年から2016年までの間、我々は常に米国との問題を解決してきたのはなぜか?それは、我々には上に人がいたからです。アメリカの中心的な権力の輪の中に、我々には古い友人がいるからです」と述べた。感謝する群衆は彼と一緒に笑った。「過去30~40年の間、私たちはアメリカの中心的な輪を利用してきました」と彼は続けた。「私が言ったように、ウォール街は非常に大きな影響力を持っています...私たちはかつてウォール街に大きく依存していました。問題は、2008年以降、彼らが衰退していることだ。最も重要なのは、2016年以降、ウォール街はトランプ氏をコントロールできなくなったことです...米中貿易戦争では、彼らは助けようとしました。アメリカの友人は、彼らは助けようとしたが、助けられなかったと言っていました。バイデンが選挙に勝った今、伝統的なエリート、政治的エリート、既成政党は、ウォール街と非常に密接な関係を持っています」
本当だろうか?ジャネット・イエレン財務長官がウォール街の聴衆の前で演説しただけで稼いだ小金は公の記録である。しかし彼女は先月の公聴会で北京に厳しい言葉を浴びせ、中国共産党のウイグル人に対する『恐ろしい人権侵害』を批判した。しかし、バイデン氏が国家安全保障のトップポストに指名した人物の履歴書は、別の話を物語っている。次期国家情報長官のアヴリル・ヘインズと国務長官のアントニー・ブリンケンは、選挙の直前に中国共産党のための仕事をウェブサイトから削除したWestExecというベルトウェイの会社で働いていた。
ペンタゴンの3番手に抜擢されたコリン・カール氏は、スタンフォード大学の研究所に勤務していた。この研究所は北京大学と提携しており、元中国共産党のスパイチーフが運営する学校で、欧米の諜報機関からは安全保障上のリスクがあると長い間見られていた。
アメリカ進歩センターのシンクタンクの責任者として、バイデンが管理予算局の長官に指名したニーラ・タンデンは、中国共産党の「政策と権威に対する潜在的な反対の情報源を共謀して無力化し、中国共産党の「海外の中国社会、外国政府、およびその他の行為者に影響を与え、北京を支持する行動を取るか、または立場を採用する」ための隠れ蓑として創設された米中交流組織と手を組んでいた。
バイデンの大統領人事特別補佐官トーマス・ジマーマンは上海社会科学院の研究員で、中国の国家安全保障省との関係があるとして欧米の諜報機関から注目されていた。
リンダ・トーマス・グリーンフィールド国連大使は、ジョージア州サバンナで開催された中国政府が出資する孔子学院で2019年の講演を行い、アフリカにおけるグッドガバナンス、ジェンダー・エクイティ、法の支配を推進する上での中国の役割を称賛した。「中国がこれらの価値観を共有できない理由はない。実際、中国はアフリカ大陸に強い足跡を残していることから、これらの理想を広めるためのユニークな立場にある」と述べた。
次期司令官の家族は、中国軍とつながりのあるビジネスマンから500万ドルの無利子融資を受けたと報じられ、バイデンの息子ハンターは中国のビジネスパートナーを『中国のスパイ長』と呼んでいた。ハンター・バイデンの中国共産党との結びつき疑惑の選挙前の報道をマスコミやソーシャルメディアが検閲したのは、彼を守るためではなかった-500万ドルは、ベゾスがパンデミックの間に毎時稼いでいた額よりも少ない。いや、親中派の寡頭制にとって、ジョー・バイデンを当選させたのは自分たちを守るためだったのだ。
バイデン政権はトランプ政権の積極的な中国の技術産業の巻き戻し努力を継続すると主張する報道は誤りである。新政権には、米中関係を軌道に乗せようと躍起になっているアメリカのハイテク産業のロビイストがいっぱいいる。バイデンのロン・クライン参謀長は、ワシントンのシリコンバレーを代表してロビー活動を行っている業界団体「テックネット」の元役員会メンバーでした。バイデンのホワイトハウス顧問はスティーブ・リチェッティで、弟のジェフは選挙直後にアマゾンのロビー活動のために雇われた。
イエレンは、「中国は明らかに我々の最も重要な戦略的競争相手である」と述べている。しかし、親中派の寡頭制は、富、権力、威信を得ている国と競合しているわけではない。中国の独裁政治が彼らのモデルなのだ。ワシントンD.C.全体に2万人以上の米軍メンバーを配備したことを考えてみよう。反乱やクーデターとされた散発的に暴力的な抗議デモ行進の結果、公の場ではほとんど姿を見せない大統領の就任式の警備のために、ワシントンD.C.に2万人以上の米軍メンバーを配備したこと、ソーシャルメディアからの反対の声の除去と、競合するソーシャルメディアのプラットフォーム自体の除去、トランプ支持者のアメリカの半分の人々が医療、クレジット、法的手段、教育、雇用へのアクセスから遠ざかるようにしたこと、現政権の政策への抗議を「国内テロリズム」として再定義するという究極の目標を持っていること、などを踏まえて考えてみてほしい。
明らかなのは、バイデン氏の就任は、中国との関係を自国の同胞に対する盾と剣と見なしているアメリカの寡頭制の覇権を示すものであるということである。アテネの「三十人の暴君」のように、彼らは、創造主によって与えられた全市民の自然権を認める政治システムを単に軽蔑しているのではなく、自分たちが支配している人々が、自分たちと同じ権利を持っているという考え方を特に軽蔑している。言論は、それを適切に使う方法を知っている賢明な少数の者だけが自由にできるものであるべきだ、という考えに対する彼らの新たな尊敬の念を見るといい。クリティアスや親パルタ派のように、新しいアメリカの寡頭制は、民主主義の失敗は自分たちの権力に対する独占的な権利の証明であり、自分たちの同胞を破壊するのを助ける外国の力と協力して統治することを喜んでいると考えている。
歴史はこの瞬間について何を教えてくれるのだろうか。悪いニュースは、30人の暴君がアテネの著名な民主主義者を追放し、アテネの人口の推定5%を殺害しながら彼らの財産を没収したこと。良いニュースは、彼らの支配は1年未満であったということだ。
[リー・スミスは、新たに出版された本『The Permanent Coup』の著者である。国内外の敵はどのようにしてアメリカ大統領を標的にしたのか』の著者である。]
0 notes
dz-xa · 4 years
Text
ここ半年くらいの雑記
皆さんこんにちは.リアルがようやく一段落した私です. 色々あったので文字に吐き出そうと思います.この半年を振り返る自分語り日記です.
いよいよ社会人になる時
私は理系大学院生です.ストレートなので,今年24歳で大学6年目です.もう人生の4分の1を大学で過ごしてることになりますね.入学した最初の一年目は一人暮らしが始まりこれまでとは一変した新生活だったり,新たな友人との出会いやサークル部活動だったり,初めての経験が色々あって長く感じました.2年目以降は慣れて一瞬でこの歳になりましたけど.感覚的には最初の1年とその後の4年はイコールです.
そんな私もついにM2(大学院2年.Master 2)になったので,いよいよ就活の事を考える時がきたわけです.
いきなり地獄だった
今年の就活は大荒れですね.原因は勿論コロナウイルス.就活シーズンは基本3月から始まるので,3月になると企業は一斉に会社説明会をやりだし,全国各地で合同企業説明会が開催されたりします.
が,その会社説明会が軒並み中止になったんですね.3月に入ってからは日本でも一日数十人単位で感染者が出ていて,ツイッターも連日コロナ関係のニュースで持ちきりでいわゆる「自粛ムード」に入った頃だったと思います.すると大学の掲示板に貼られていた無数の企業説明会のチラシを始め,メールで予告されていたものまで全てが無に還りました.説明会開催中止のメール多すぎてビビりましたもの.一番痛かったのは学内の合同説明会が中止になったことです.この学内合同説明会は大学側が用意した大学内部で開かれる説明会の事で,うちの大学の生徒を欲しがっている(と思われる)企業が参加します.規模も大きく数日間に渡って開催され,参加企業数は700以上になります.わざわざ大学にまで来て各会社が説明をするのですから冷やかしでもないでしょうし,学生側にとっても色々な企業を知る為の大きな機会でした.
私は昨年の夏にとある企業の2週間インターンシップに参加していて既に第一志望の企業はそこと決まっていたのですが,落ちた時や滑り止めの為にいくつか企業を見繕うつもりでいたので辛かったですし,ましてやその説明会で志望先を決めるつもりだった学生は絶望したでしょうね.勿論学内に限らず全国でこんな感じになったので,就活生は全員情報が少ないまま就活を始めることになりました.
裏を返せば,本来合説で知るはずだった企業を知る事なく選考が始まったことにより例年より競争率が減っていた,なんてこともあったのかなと今になって思いますね.未だに業界の先端を行くような大手企業から2次募集のメールが飛んできたりしているので本当なのかもしれません(2020年6月時点).
就活を語る前に
前提の為に先に私の人間的な価値をざっと書いておこうと思います.就活に置いて主に重視されるのは学歴,スキル,人間的スペック(コミュニケーション能力や人格など),この辺でしょうか.
冒頭でも言ったように私は理系の大学生です.偏差値は53~55ぐらいなので,「あの大学ですかスゲー!」ともならなければ,「ここはないわ」とまでもならない,良くも悪くもないといったところです.ただ九州内の企業ならばエース扱いされます.九州における最強の大学はまず間違いなく九州大学なので,そこには当然及びませんが,専門性の高さとブランドがあり,理系として技術職を志望するなら十分です.でも九州を出れば並でしょう.とりあえず学歴フィルタがプラスに働くことはないと思ってもらえれば結構です.
次に自分の持つ専門知識.理系ならば技術職を目指す人が多いとは思いますが,理系は面接で自分が大学でどういう専門知識を学んできたかを語れなければなりません.ことさら大学院生ともなれば企業に就職した際に初めから学部卒の人間よりも高い給料を貰うわけですから,余計に重視される部分ですね.学んだこと+研究内容が重要になります.これを上手く語れるかどうかはその人のプレゼン能力の高さがもろに影響するでしょう.面接ではアドリブ力が試されますからね.私は話下手なのと人前に立つと緊張で頭が回らなくなるので割とマイナス寄りです.声は大きくハキハキと喋れるタイプなので印象自体は悪くないと思いますが,頭がちゃんと回り内容がついてくるかどうか次第といったところ.
最後は自身のこと.いわゆる自己PRというやつです.面接における自己PRは「自分の長所」を「それに付随するエピソード」と共に「会社でどのように活かされるか」を1セットにして話すのが鉄板ですね.私は自己肯定感が割と低めの人間で,この手の文章を考えるのがめちゃくちゃ苦手なタイプです.しかし自分の魅力すら語れない人間を企業は雇う気になどなれませんから,どうにかして無理やり捻りだしました.ちなみに自己PRを考えるのが苦手な方は周りの人間を頼ると良いです.自分の周囲の人間は自分よりもその人の魅力を知っている可能性が高いです.そして聞く人間は親か,指導教員辺りを選ぶとベストでしょう.本音を割って話せる親友とも呼ぶべき友達が居れば,その人に贔屓目抜きで自分の評価をしてもらうのも良いと思います.
参考までに私が実際に面接で用いた自己PRを記すと,
運動部で培われた雰囲気や人となり.自分の受け持ちに対する責任感を持つ.
基本的に前向き.向上心や好奇心があり,失敗を恐れずに物事に取り組むチャレンジ精神がある.
素直でまっすぐな性格.プライドが高くなく,自分の考えに必要以上に拘らない.
学力が平均以上.
こんな所です.これを例えば,私は中高大で12年間ラグビーやってて主将や幹部の役職をずっと任されてきたとか,大学の留学プログラムに参加したとか,わからない事を素直にわからないと言えるとか,そういうエピソードと一緒に話します.するとやり取りをする中で面接官も更問いを出してきて,話が弾みます.私の場合どの会社でもラグビーの事を聞かれましたね.確かに私は中学と高校で両方キャプテンをやって,大学でも主務の役職についていましたし,中々珍しいタイプだと思います(弱小だったけど).ステータスだけ見れば折り紙付きの体育会系です.昔ほどではないと思いますが,まだまだ体育会系の人間は「肉体的,精神的な打たれ強さや忍耐力がある」とか,「礼儀正しく上下関係をわきまえている」とか,そのようなイメージを持たれている事が多いので就活市場ではプラスに働く要素だと思います.大学で運動部に所属している方はアピールポイントとして全面に押し出して良いでしょう.
以上が舞台です.
Dz'Xaの就活
いよいよ振り返りに入ります.えーとですね,結論から先に言いますとハッピーエンドです.3社目で受かりました.1社目は練習不足,2社目はコロナの経営不振による採用取り消し(まがいの事をされた),3社目で採用です.
1社目
最初に受けたのは当時第一志望だった会社です.私は昨年夏のインターンシップに参加していたので,早期の企業説明会を受けることが出来ました.その時はまだ自粛ムードじゃなかったので,普通に飛行機で都心に入りましたね.渋谷のタワレコでGrazcoreとDaft PunkのCDを買って帰りました.
3月の半ばぐらいにES提出&適性検査受験という流れだったんですが.適正検査はテストセンター型のSPI試験を受けました.福岡では天神にしかないので電車で行きました(マスクが売切れていた時期で,俺は入手できなかったのに皆マスクつけててビビった).余裕を持って40分ぐらい前に着いたら受付で「15分前ぐらいにまた来てくれ」と追い返されましたね.仕方がないので喫煙所で暇をつぶして5分前ぐらいに行ったら今度は遅いと怒られました.試験内容はというと,それなりに対策勉強はしてたんですが私の実力じゃ全然間に合いませんでした.その数か月前に受けた模擬試験では学内の偏差値が60以上ありましたし,それからも対策勉強をしたので中々のものだろうと思っていましたが,全体の8割ぐらいしか問題に答えられなかったと思います.試験はパソコンで問題が画面に表示されるのを手元に用意された紙と鉛筆で計算し,答えを複数の中から選ぶ選択式で,一度答えたら前の問題に戻ることはできません.残り時間と自分の回答数の割合が画面にゲージで常に表示されており,残り時間に合わせて間に合わなかったら適当に選択して次の問題へ進むというやり方もできますが,お勧めしません.このSPIテストは問題が初めから決まっているわけではなく,正答数に合わせて問題の難易度が変わります.正解すればするほど問題が段々難しくなり,間違えると簡単になります.視力検査をイメージしてもらえば良いです.それで偏差値を競っているらしいですよ?だから焦ってガンガン問題に答えようとするよりは間に合わなくても着実に正答数を増やす方が良いです.ソースは私と私の友達とインターネット.
そんなこんなでESと適性検査の選考は通りまして無事面接に進むことになりました.面接は全3回です.
最終で落とされた
一次と二次は通りましたが最終で落とされました.この間2か月ぐらいかかったんですが,結構絶望しましたね,第一志望だったので.5月はふさぎ込んでました.大学の仕様で,学校推薦を使うと他の企業を受けられなくなるのですが,私は大学の推薦を使ってその企業を受けていたので,これでまた振り出しに戻ったわけです.
面接は全てWeb上で行われました.恐らくどこもWeb面接だったと思うので今年の就活生は移動にかかるお金と時間がなくていいですね.コロナウイルスが私に与えてくれた唯一のメリットです.
Web面接は色々トラブルがありました.ただでさえ慣れていない面接なのに,それをWebでやるとなると,それはもう物凄いプレッシャーです.回線が悪すぎてまともに通話ができず開始が10分以上遅れたり,マイクの声がうまく入らず常にマイクを持って口に当てながら話したり,色々トラブルがありましたが,うまく捌けたので,そこは急なトラブルにも焦らず対応できる冷静さを持っていると思われ逆にプラスになったのかなと思います.
後は私の感覚ですが,Web面接の際にイヤホンを使うと閉塞感を感じるのか,余計に物凄く緊張をすると気づいたので,それに気づいてからはイヤホンでなくスピーカーで面接をするようにしました.
ちなみに落とされた理由は「志望動機と将来ビジョンの見えなさ」です.技術系で特に開発系の仕事に就きたい方は絶対に聞かれる部分ですが,10年後の自分を語れないと落とされます.「会社があなたに3億円を渡します.あなたは弊社にどのような貢献ができますか?」これに上手く答えられないとダメですね.1社目で不慣れなせいもあったのか研究不足,練習不足が祟りました.今の私なら受かると思いますし,練習を怠った事に後悔もしましたが,この最終面接で落とされた事で反省点を色々見つけられたことと,自分を見つめ直すいい機会にもなったので,今では落とされて良かったと思っています.
2社目
1社目で推薦を使い丸2ヶ月消費した私ですが,性懲りもなくまた推薦を使いました.丁度私が1社目を落とされてどうするか考えていた所に紹介が来たのです.就職担当の教授から「(私)君が落ちたその丁度数日後に,〇〇という企業から『あまり人が集まっておらずまだ募集しているので,うちの生徒が欲しい 』と連絡が来た.前の会社よりも大きいし,(私)君のスキルにも合ってると思う.興味を持ったら推薦の許可も出すのでメールをください」と言われました.その企業は業界の人間なら誰もが知っている大手企業で待遇も良く,業務内容も面白そうだったのでそのまま応募することにしたのですが....
最終で落とされた
はい.また最終で落とされました.ただ1社目と違い,今度の私は前回の反省を踏まえて結構ガチガチに対策をしていました.企業HPは勿論,日経のニュースや有価証券報告書も見て,何を聞かれても良いように準備していったのです.
それでも落とされた理由は「コロナが遠因の経営不振による部署規模縮小からの採用取り止め」じゃないかなと思いました.不審な点がいくつもあったんですよね.余り書きすぎると企業特定に繋がりかねないので適当にぼかしながら記します.
まず自由応募と違い推薦応募で就活を行う学生は大学の事務を通じて企業とやり取りをして選考を進めていきます.そして落選の場合は企業から落選の理由が大学に通達されるので大学から教えてもらえます.で,落とした理由が何だったかというと,「弊社に対する興味関心が薄いようでした」とのこと.要は志望動機なんですが,これが言い訳にしか聞こえなかったんですよね.面接では志望動機は一番初めに聞かれたのですが,「業界の志望動機」を答えて,「業界の中で弊社を選んだ理由」を更問いで誘発するような答え方を私はしました.その更問いで前回落とされた私は一番ここを対策していて,具体的な数字や事例を交えながら答えたので,ほぼ完璧に近い回答ができていたと思います.面接官の方も満足していたようでした.納得したのかその後の流れは人物評価に移り,またここでラグビー時代の事をたくさん聞かれました.コミュニケーションは得意かとか,周囲の友達や先輩と飲んだりするのかとか,プレッシャーに強いかどうかとか,ほとんど雑談みたいな感じでしたね.恐らくこの時点で志望動機や学力の事はクリアしていて,後は一緒に働きたいかどうかとか,忍耐力があるかどうかとか,そういう所を見ていたのかなと思います(SEや開発系の仕事は業種的に,体力的にキツイ仕事が多い).入社後の話も多く,結構望みを抱いていたんですが,落選理由が一番あり得ないと思っていた所だったので逆に拍子抜けしました.
事務の教授の見解によると,丁度その企業はコロナが原因か経営不振に陥っていて,私の面接が終わった後に社内体制をバッサリ変えてしまったようです (ニュースにもなっていた) .しかもその内容が丁度私が志望していた部署の規模を縮小するようなかなりドラスティックな変更だったので,それが本当の原因じゃないかと仰っていました.実際1週間以内に寄越すと言われた採用結果の通知は10日かかりましたし,面接が終わった時点では受かっていたけれど,後から上にダメだと言われてバタバタしていたのではとのことです.まああくまで可能性の話ですが,これなら全てに納得が行くので私もそう思う事にしました.
3社目
推薦に懲りた私は自由応募を使う事にしました.同時に複数社を受けられないのは本当に精神的にキツくて,これ以上落ちると後がないと思ったからです.まあいきなり受かったので何も心配はいりませんでした.これまでの2社で得た経験か,面接にも全く問題がなかったので特に追加で話すこともありません.面白かったのは,2時間半の筆記試験と,70分の実技試験があったことですね.45分で800字の小論文とか(これが結構きつかった),30分で10分の発表資料を作ってそれを面接官と社長の前で発表するとか,色々ありました.良く書けてると思いますと社長も褒めて下さったので,中々の出来だったんじゃないでしょうか.
病むと能動的な事が出来なくなる
これで無事に私の就活は終わりましたので,後は修論を頑張ろうと思います.この半年間,コロナで大学にも入れなくなりどうしてもこもりがちになってしまっていました.人に会う機会がなく誰とも話せないので精神的にとにかくキツかったです.どうしようもない自己否定のループに陥って眠れなくなったり,餓死を試みて5日ほど断食したりと,アホな事もしましたが,そんな中私を支えてくれた周囲の人たちに,そういえば随分精神的に助けられたなと今になって感謝しています.
とりわけ,推薦の就職活動でとにかくお世話になった就職事務の方と担当教授,めちゃくちゃ忙しいのに時間を割いて頂き私の良い所を客観的に褒めて慰めてくれた私の指導教員,業務内容や待遇など会社情報を調べるのに色々協力してくれたお父さん,私が落選して凹んでいた所にzoom飲みをするぞと誘って慰めてくれ,面接練習もしてくれた親友SとH.本当にありがとうございました.
また話は変わりますが.特に落選した直後などは物凄い病み期に入っていたのですが,精神的にネガティブになると能動的な趣味ができなくなりました.気力がなくなるんですよね.私のインドア趣味は主にゲームとDTMで,アウトドアだと勿論ラグビーなんですが,ゲームとDTM,全然しなくなりましたね.サンクラには作り置きしていた曲を上げていたと思いますが,ここ最近はずっとyoutubeで動画を見たり,amazon primeでアニメを見るなどしていました.本当に自分でもビックリしているんですが,これまでの人生で片手で数えられるぐらいしかクール制のアニメを見たことのなかった私がこの半年間で5本のアニメを見ました.
はたらく魔王さま!
バカとテストと召喚獣
かぐや様は告らせたい
乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…
虚構推理
全部面白かったです.ロリコアやマッシュコアを作る割に全然アニメネタの引き出しがない事を私は憂く思っていたので,面白いストックを見つけられたかなと思います.色々な声ネタ使ってまたMash On Parade!!みたいな曲をやりたいです.2年前の病み期ではニコニコで例のアレにハマってしまったので,あんな曲ができました.3年前ぐらいまでは「野〇先輩って誰?芸能人?」って本気で言っていたんですけどね.あれ同性愛者をバカにしているコンテンツなので,本当は良くないと思います.
アドバイスをするなら
もしこれから就活をやらなければいけない子達に私がアドバイスをするなら,上記に挙げた「10年後の自分」「生涯賃金3億円に対しその人が会社にできる貢献」を答えられるようにすると良いと思います.自ずと業界の事やその企業が作っている製品,業務内容などを調べることになるので,志望動機がきちんと答えられるようになると思います.
あと,志望動機には具体的な名前や数字を混ぜることです.例えば土木業界に進みたくて,その手の会社に応募する際にはきっと「近年豪雨による洪水の災害が頻発するなど,土木工事の重要性が改めて認識されているので,土木分野の技術向上は益々重要と感じた」とかそんな事を言うと思うんですけど,この時に「令和元年東日本台風」とかそういう固有名詞を入れると,説得力が増してより好印象です.
終わりに
我々とその下の世代はそのうち氷河期世代よろしくコロナ世代とか言われそうなんですが,どうなりますかね.経済ダメージが甚大すぎて何が起こるかわからないんですが,1番は今後の採用数が減るんじゃないかという不安だと思います.大学院の進学志望率高まりそうですね.というか今年既に高まってました.私が所属する専攻の今年の大学院進学志望者数が例年の1.5倍になっていて,余裕で定員オーバーしてます.まさに骨肉の争いともいうべき競争でした.
幸いにして私はコロナの影響で今すぐ失業したりする業種ではないんですが,これはある意味たまたまというかラッキーなだけです.本当に観光業とかインバウンド系の業界だったら呑気に在宅ワークとか言ってられないはずで,想像するだに恐ろしい.もし自分がその業界だったら今どうするべきか,何かやりようはあるのかとかを考えておくのは大事かなと思います.そういう事を考えられる人間になりたいです.
0 notes
skf14 · 4 years
Text
05242251
花吐き病に関する考察と経過観察について
2020年4月6日
日記は元々好きじゃない。というのも、子供の頃、戯れにつけていたこともあったが、内容の殆どが親や学校への不満不平だったため、記録として取っておく価値もない、と判断したからだった。その当時自分が何を思い、何を考えていたのかなんて、後付けでいくらでも説明がつく。それをわざわざ残して、読み返して、思い出す行為がひどく無駄なものに思えてから、日記という存在を忌避してきた。
ならなぜ、こうしていい年にもなって、日記をつけ始めているのか。それは、突然発症した奇病が理由だ。
この日記が私の死後、どのような扱いになるのか分からない。そのまま引受人もない死人の荷物として処分されるのか、貴重な症例の文献として世界に広まるのか、いずれにせよ、私に起こる変化を、飾らずありのままに書く必要がある、と思っている。それはある種の責務でもある。私と同じような病気にかかる人間が今後現れたときに、何かの役に立つように。これは偽善、だろうか。
どうもこの数ヶ月間、身体の怠さや虚無感、そして日中頭が働かずぼーっとするようなことが増えていた。健康だけが取り柄だった私にとって、その不調はとても不快なもので、運動や休息を取ってはみたが何も状況が変わらなかった。
そして今日、昼前に急な吐き気を催して、トイレに駆け込み嘔吐した。その日の朝は確か野菜ジュースを飲んでいたはずだったが、出てきたものは野菜ジュースの残骸でも胃液でもなく、真っ白な花びらだった。花びら、だろう。花の知識はないが、触れた感触や質感からして、恐らく生花の花びらが、確かに私の口から吐き出された。書く必要すらないとは思うが、花を食べたわけでもない。
とりあえず白い花一覧で検索をかけてみたら、断定は��来ないが、春に咲くクリスマスローズ、という花の花びららしかった。
奇妙なことが起こるもんだ、とスルーできれば良かったのだが、気になってしまう性分ゆえ、色々と調べてみた。が、参考になるようなことは何もわからない。ただ、創作の世界において、「花吐き病」なるものが生み出されていることを知った。
片思いを拗らせた人間がかかる病であり、治療方法は思いを遂げること。両想いになれば白銀の百合の花びらを吐いて完治し、そして思いが遂げられなければ、真紅の彼岸花の花びらを大量に吐いて死に至る。死に至るまでの期間は様々で、症例によって変わるらしい。
まさか、とは思ったが、他に思い当たる病気はない。片思い、が原因なんて、随分意地の悪い神がいたもんだ。
これから、どうしようか。
2020年4月9日
2度目の日記。いまだに慣れないが、仕方ない。先日の発病から、2度ほどまた嘔吐した。出てきた花びらはいずれも初回と同じものだったが、量に若干の差があった。コンディション次第で変わるのだろうか。最初はただの吐き気だと思ったからトイレに駆け込んだが、次からは袋に出すようにした。どうせ出てくるのはひらひらとした花びらだ。唾液すらも纏っていない、綺麗な花びら。どういう仕組みなのだろう、分からないが、事実として今私が発病している以上、何らかの対応をしてもらわないといけないだろう。
2020年4月12日
今日は、病院に行ってきた。そこは、少し前からお世話になっている、信頼出来る静かで物腰の柔らかい先生がいる郊外の病院だ。散々たらい回しにされて、行き着いた最後の砦だった。先生は私の話を一通り聞いた後、この日記に目を通して、そして私の持ち込んだ花びらを観察した。触れたら感染する可能性もある、と伝えたら、先生はゴム手袋をつけ、細心の注意を払って調べるからひとひら預からせてくれ、と言った。快諾したが、先生にその病気が移らないか、些か不安だった。
でも、何よりも、小馬鹿にせず信じてくれたのが嬉しかった。私が、「創作だと、架空の病気だと突っぱねたり馬鹿にしないのですか。」と聞くと、先生は、「今までそうやって新しい病気の発見が遅れた事例がありました。黒鳥だって、白鳥を黒く塗ったものだと長い間誤認され新種だと判別されませんでした。同じように、あり得ないことなどあり得ない。」と言い切ってくれた。嬉しかった。帰宅して、落ち着いたところでまた吐き気。今日の花びらは、色は同じ白だが今までとは少し違う形をしていた。恐らくカーネーションの花びらだろう。この口から、白銀の百合が出てくる日は、来ない。
2020年4月15日
2度目の通院。ここ数日は、1日に1度、2度ほど花びらを嘔吐するようになっていた。出てくる花びらは白いカーネーションのもの。しんどさはあまりないが、気分が重くなる。得体の知れない病魔に侵されているこの身が、どうなるのか。
先生は、出すべき薬や治療法が何も分からない、せめて栄養を取るように。と、ビタミン剤を処方してくれた。大方、胸焼けや吐き気でろくに食事を取れていないことを悟られていたのだろう。でもそれは、別に今に始まったことじゃない。ずっと、食事は不規則だ。
1週間後、また来るように、と言われた。次に会うまでに、この日記を進めておこう、と思う。
2020年4月17日
片思いが理由に発病する、この花吐き病。発端の片思い、私にとっては叶うはずのない思いだ。つまりは、不治の病。
私が思いを遂げたい相手とは、話すことが出来ない。会うことも、手を繋ぎ、桜並木の下を歩くことだって勿論出来ない。
当たり前だ。私が自分勝手な行動をして、彼女にひどく嫌われてしまった。彼女をひどく傷付けてしまった。性懲りもなく思い続けている気味の悪い諦めの悪い男に、神が天罰を下したんだろう。取り返しのつかないことが、世界には腐るほどある。それを、いつも身に染みて実感していたはずなのに、私は、彼女を、幸せに出来なかった。
これは罰だ。神罰。天罰。懲罰。悔い改めるべき罪への、罰。分かっているはずなのに、今日も吐き出した花びらの中に、白銀の百合を探してしまった。皮肉なものだ、とつくづく思う。君の好きな花が、完治の印で、わたしの好きな花が、死の知らせなんて。
百合は、君にとてもよく似合う花だ。私の胃袋から放り出されるには、あまりにも綺麗すぎる。
2020年4月22日
3度目の通院。先生に日記を渡し���私と彼女について、全てを話した。先生はただ相槌を打ちながら話を聞いて、そして、「不治の病、と言われているだけで、緩解することだってあり得なくはない。」と、静かな声で言った。苦し紛れのフォロー、と思いたかったが、私の弱った心には、優しい膝掛け、のように思えて、気付けば泣いてしまっていた。
先生は、とても優しい人だ。
今日の花びらは、月下美人。そうだ、この花も、彼女が好んで育てていた花だ。芳しい香りの、気品高い花。
2020年4月29日
代わり映えのない毎日に、花びらを吐き出すという作業だけが加わってから、1ヶ月ほどが経とうとしていた。今日も変わらずゴミを捨て、吐き出された花びらを一つ一つ並べて、見慣れない形を探したり、記録をとったり。不思議と、花吐き病に罹ってから、空腹を感じることがなくなった。吐き出してばかりなのに、何も摂取しようと思わない。死に近づく、というのは、こんなにも穏やかな、気持ちになるのだろうか。先生から処方されたビタミン剤はきちんと飲んでいる。だからかろうじて今日も生き、この日記を書いている。書き始めた頃は日記など嫌いだったが、こうして見ると、日記も悪くない、ように思う。
2020年5月1日
4度目の通院。先生とまたひとしきり話して帰路に着く途中、警察官に話しかけられた。人生で初めて、職務質問をされた。持ち物を全て見せて、ここで一体何をしていたのか、これからどこへ行くのか、一通り聞かれた。通院し、自宅に帰るだけだ。と伝えると、最近ここら辺で事件が起きたので、気をつけるように。と言われた。私の家にはテレビがない。時事には必然的に疎くなる。ご苦労様です、と一声かけて、自宅へと戻った。一応外で催した時のためにビニール袋を持ち歩いていたが、もしそれに花びらがいっぱい詰まっていたら、あの警察官はどんな顔をしただろう。
2020年5月6日
部屋が花びらで埋もれていく。所々腐り、乾き、茶色く変色している姿は、まるで美しい片思いの化身とは思えない。おかしな話だ。
彼女を思い出していた。鈴の鳴るようなころんころんした声で笑う彼女が、脳裏に焼き付いて離れない。彼女と幸せになることが出来たなら、どんなに良かっただろう。会いに行き、思いを告げ、抱きしめ合って私が百合を吐く。そんな未来があれば、どんなに幸せか。来世に願うしか、方法がないなんて。ああ、会いたい。早く。日記にも、だんだん書くことがなくなってきた。ただ毎日生命活動が維持され、体内からは花びらが吐き出される。それだけだ。落ちぶれた日常の中に唯一ある、美しい瞬間。それが嘔吐する瞬間だなんて、私か、もしくはこの世界、どちらかが狂ってしまっているとしか思えない。
2020年5月14日。
人間は罪深い。生まれながらにして数多の命の上に立つことが決まっている。そして、その数多の命を奪って、平然と生きている。そんなことをよく考えていた。だから、自分が幸せになることが、ひどく罪深い行為に思えて、私は幸せを意図的に遠ざけていた。そうすることで、エゴとは無縁な、高尚な人間として生きられる、と思っていた。いや、そうではなく、誰にも迷惑をかけず恨まれず、存在すら危ういまま世界からひっそり消えたい、と思っていた。結局彼女に出会ったことでその目論見は失敗し、浅ましくも幸せを求め、永遠に得られることがないと知らしめられたわけだけれど。どんな皮肉だろうか、これは。選択したのは自分だ。だから、責めるべきは自分で、他じゃない。分かってはいても、悔しい。見ないふりをしていた分岐点が、あったのかも知れない。今となってはもう、目の前にある道をただ進むだけ。来世来世。
2020年5月23日
吐き出した花びらの種類は、数えられないほどになった。真っ白なそれらを抱きしめて眠る瞬間だけ、世界の全てから解き放たれて自由になれる気がした。彼女を腕に抱いて眠った日のように、背中に羽が生えて、もしくは魔法の絨毯に乗って、雲の上まで昇って、大空を自由に飛べるような気がした。ただのまやかしだ。唯一救いがあるなら、彼女への思いが、綺麗な物だと客観視出来たことだ。最後だからきちんと書いておこう。私は、君が、心から好きだった。何故、とかどこが、とか、そんな野暮な話は出来ない。感覚的で、フィーリングで、ややこしいことは全て捨てて、君が好きだった。どんな不幸があっても、君となら乗り越えてみせよう、と思えた。どんな些細な幸せでも、分け合って2分の1を大切に抱きしめよう、と思えた。生きるのが下手だった私と君なりに、世界の片隅で、誰にもバレないようにキスをしたかった。衝動に突き動かされるなんて、私らしくもないことが出来たのは、君とだからだ。動物的な行為もとても苦手だったが、君となら出来る気がした。こうして、叶わなかった欲望を並べると、己がひどく醜く見えてくる。が、まあ、いい。醜いと思われたくないのは、君にだけだ。愛してる。さっきね、お迎えが来たんだ。真っ赤な、彼岸花。
待っててね。今会いに行くから。
「成る程、これが全てですか。」
「ええ。」
「そして、これを読んだ貴方は現場へと向かった。」
「はい。24日の午後に郵便で届いて、彼がたまに行くと言っていた場所に向かいました。彼はそこに生えてる珍しい白花曼珠沙華が好きで、昔からよく一人で眺めている。と言っていたので。そして、遺体と、手を繋いで横たわる彼を発見した次第です。」
「彼は失血死、そしてあの遺体の死因は今捜査中ですが、死後1ヶ月から2ヶ月ほど経過していました。日記をつけ始めた頃と被りますが。」
「そうですね。ただ、この日記から、それを読み取ることは出来ませんでした。僕が読み取れたのは、彼の世界が狂っていた、それだけです。」
1 note · View note
benediktine · 4 years
Photo
Tumblr media
【新型コロナウイルス「最前線の医師」が語った本音】 - デイリー新潮 : https://www.dailyshincho.jp/article/2020/05020632/ 2020年5月2日掲載
 {{ 図版 : 医師イメージ 新型コロナウイルス「最前線の医師」が語った本音とは(※写真はイメージ) }}
 新型コロナウイルス関連の報道では、数多くの医師がメディアに登場して、自身の知見を述べている。しかし、最前線で感染者たちと接している医師の話をじっくりと聞く機会は意外と少ない。実際にはその患者を診たことがない「専門家」(中には医師ではない者もいる)のオピニオンのほうが多く流布されている。現場からの声として紹介される多くは、治療現場の苦境といったところに限定されているようにもある。
 そこで今回、ある総合病院で新型コロナウイルスを実際に診察し、また現場の統括もしているベテラン医師に匿名を条件で本音を語ってもらった。匿名にした理由は「特におかしなことを言ったつもりはありません。同じように考えている医師も多いと思います。でも、ただでさえ忙しいのに、病院あてに抗議などが来るとたまらないから勘弁してください」というものである。
{{ コロナめぐる小池知事の不都合な真実 自宅療養・退院者まで「入院」扱いのごまかし : https://www.dailyshincho.jp/article/2020/05121700/ : https://benediktine.tumblr.com/post/617925533518446592/ }}
―――お勤めの病院はどんな感じですか?
  現状をお話しする前に、平時の病院、医療がどうだったかを少しご説明させてください。
 もともと日本は国民皆保険ですし、東京は医療へのアクセスが極めてイージーになっていました。中学生までは医療費ゼロですし、救急車を呼んでもお金は請求されません。欧米なら数万円は確実に取られます。それゆえ、子供を昼間病院に連れて来られないというだけの理由で、救急外来を夜間に普段使いするような親までいたのです。
 だからいつも病院が混雑していることが問題になっていました。一方で、開業医の先生を含めて医療機関側もそれで儲けていた、という面もあったことは否定できません。「どんどん来てください」とやって、医療費は国に負担してもらえばいいのですから。
 ただ、新型コロナウイルスの影響で、普段は安易に病院に来ていた方が減ったので、全体としての患者数は減っています。
 感染症や救急を担当していない病棟や医師はむしろ時間に余裕ができているようです。不要不急の手術も延期にしていますから。
 1、2月に比べて3月の病院全体の収入は3割減というところでしょうか。病床の稼働率も10%ほど下がっています。
 おそらくこれは開業医などでも同様でしょう。「売り上げ」が落ちて困っているところもあるだろうと思います。
 一方で、私たち新型コロナの担当医たちだけは忙しくなっています。
 うちの病院では新型コロナの診察を救急医が受け持つようにしています。その担当医らの仕事は、大雑把にいって1.5倍になっているという感じです。ただでさえ忙しかったところに、仕事が急増しました。
 私が若い頃は救急を専門とする医師は月15日くらい当直というのが当たり前でしたが、さすがに今はそうはいかないので、当直は月6~8日くらい。週休2日は確保できるようにして、休日出勤の際には代休も取るように、という方針でした。
 これがさっき言ったように仕事量が増えているため、「当分、代休は取れません」という感じになっていて、実感としてかなりキツい日々が続いているのは事実です。
 私自身は現場の診療の他に、病院全体の感染症対策等々の仕事が増えました。省力化できたことといえば、テレビ会議が増えたので結果として会議の時短などが進んだことでしょうか。
―――新型コロナに関しては、膨大な情報量が発信されています。この状況をどう見ますか?
  SNSで誰もが発信できるようになったことで、不安をかきたてる情報が溢れすぎている、という印象はあります。
 また地上波のテレビ、ワイドショーがセンセーショナルに伝える傾向があるのは良くないと思っています。たしかに政府の言う通りのことを流すのでは政府広報になってしまうので、良いことだとは言えません。
 しかし、恐怖を煽って,今の対応が危険だと強調しすぎているように思います。
 現政権が嫌いなのかもしれませんが、それと医学の問題は別です。
 現在の政府方針、専門家委員会の方針は、専門的な知見のある人たちが議論して打ち出したものであり、相応の合理的な判断だと現場の医師から見ても思います。
 ですから煽られておかしな行動をとるのではなく、とにかく今の対策を守ってもらわないと,収束できるものもできなくなると思います.
 にわか専門家のコメントが全部間違っているとは言いませんが、大事なことをうまく伝えられていないと感じます。自称専門家はもちろん、芸能人の方などの不用意な発言でも、視聴者は扇動されます。
 外国の例を簡単に紹介するのも問題です。「海外ではこうだ」というのですが、それぞれの国によって医療レベル、保険制度、国民性、文化など異なる背景があります。だから安易に「あそこがいい」「ここがいい」という話ではありません。
「アフリカの〇〇ではこうだ」と言われても、その国は常に様々な感染症の脅威が存在する国かもしれません。その国の政策を参考にする、といっても無理があるのではないでしょうか。
≫―――――――≪
―――「何もしないと42万人が死ぬ」というシミュレーションも恐怖を煽っていたのではないでしょうか?
  あれはあくまでも「何も対策を講じなければ」という前提で、最悪の事態を示したのですから、「ステイホーム」を訴えるという点では良いのではないでしょうか。
「エアロゾル」感染といった言葉が独り歩きしたせいで、ちょっと勘違いがあるように思うのですが、基本的には空気感染ではなく接触・飛沫感染です。だからちょっと話をした程度であれば、問題はない。
 空気感染だと思うと「じゃあ空気がいいところなら大丈夫」という勘違いが生まれます。ここが心配です。
 たとえば「空気がいい」ゴルフ場に行く、公園でジョギングをする、というのは問題ないように思っている方もいるでしょう。
 たしかにゴルフ場でプレーするだけなら感染はしないでしょう。しかし、その前後に外食をしないでしょうか。ジョギングの最中に無意識にガードレールを触って、その手で顔を触り……となっていないでしょうか。
 そういうリスクがあるからこそ、「ステイホーム」と呼び掛けているわけです。あくまでも個人的な、そしていささか楽観的な見方ですが、きちんと自粛をしていれば、あと1、2カ月のうちには良い状態が来るのではないか、と思っています。
―――そうした報道に煽られて、検査や診察を求める患者さんが殺到していて、かえって病院が困っているとも聞きますが、どうなんでしょう? 
  確かに、必要とは思えない患者さんが検査を求めてくる事例はあります。直接こちらの病院には来なくても、かかりつけ医から紹介状をもらってきて、検査を求めるケースです。そういう人の中で検査を断られた人が、SNSやテレビで「検査も受けられない」と主張することもあるのでしょう。
 ただ、この間、数多くの新型コロナウイルス感染者を診てきた者として言えるのは、「この人は陽性だな」と思う人は検査に回さなくても、ほぼわかる、ということです。あくまでもその診断を確定させるために回すのです。病歴を聞き、問診をして、CTを撮り……といった診察の過程でかなりの確率でわかります。
 ところが、そうした経験のないお医者さんが、患者さんに強く言われたとか、あるいは患者さんサービスの一環で検査を求めるとどうなるか。結果として、本当に早く確定して欲しい人の検査スピードが遅くなります。
 これが問題です。
―――テレビに出ている「専門家」の強い主張の一つが、「とにかくPCR検査を増やすべき」というものでした。これはどうなのでしょう? 
  これは絶対に間違いです。少しでも専門知識がある人は、全くこれを望んでいません。
 他国と日本が違うのはこの点で,本当に医師が疑った例にのみ検査をやっている点で感染の広がりをコントロールできていることは確実です。
 とはいえ確かに検査のスピードは遅かったから、そこは今改善を進めています。
 ただし、誰彼構わず検査をオーダーできるような状況を作らなかったことは100%正しかったと考えています。
 日本のように国民皆保険の国で、なおかつ感染症に詳しくない町のクリニックのようなところまでもが、自由にPCR検査をできるような環境を作っていたら、間違いなく院内感染が多発していたでしょう。おそらくニューヨークやイタリアの比でない状況になったと思います。
「かかりつけ医」に相談することは否定しません。しかし、そこに多くの人が押し寄せたら結局クラスターを発生させかねません。そういう状況を作らなかった点では、当初、検査を絞ったことは決して批判されるようなことではないのです。
 現在報告されている院内感染にしても、慣れてない人が普段使わないような感染防御具を適切でない使用をしたがために他の人や患者に感染させる例があとを絶ちません。
 ドライブスルーでのPCR検査を増やせ、という意見についても、乱暴に思います。病院外での検査体制は進めたほうがいいでしょうが、やり方を間違えるとかえって感染者を増やすことにもなりかねません。
 別の観点から補足させてください。
 毎年のインフルエンザの流行の仕組みをご存じでしょうか。
 PCR検査が注目されることで「偽陽性」「偽陰性」といった言葉もよく目にされるようになったと思います。前者は��本当は陰性なのに陽性と出ること」で後者は「本当は陽性なのに陰性と出ること」ですね。
 実はインフルエンザの検査でも「偽陽性」「偽陰性」は一定の確率で発生します。日本では「インフルエンザかな?」となったらまず病院に行って、検査をしてもらって、タミフルを飲んで、ということが当たり前に思われている方が多いかと思います。
 でも実は、こんなことをしている国はそんなに多くありません。一つには先ほどから言っているように、医療費が高い国では、そのたびに大変な料金が発生するので、いちいち検査しない、という人が多いのです。また、タミフルは病気を治す薬というよりは、よくなるまでの期間を短くする(7日が5日半になる)という性質のものです。
 アメリカならば、この検査とタミフルだけで下手をすると500ドルはかかるでしょう。だから多くの人は「家で寝て回復を待つ」のです。私もそうしています。
 ところが日本は医療費が安いことに加えて、「休むなら証明書を出せ」という習わしが学校や企業にあるので、こぞって病院に来て検査を求めるわけです。
 問題は、インフルエンザの簡易キットの感度は7割から8割なので、2~3割の人は本当は陽性なのに「陰性」という結果になります。
 その人たちは、病院のお墨付きをもらったということで、自由に動き回りますから、コミュニティの中で感染を広げます。実は、これが毎年のインフルエンザの流行の大きな原因なのです。今回のことを教訓に、「インフルの証明書がないと休めない」といったおかしな慣習はなくしてほしいものです。何にせよ具合の悪い人は休むべきです。結果としてそのほうが学校や職場のためにもなります。
 そして、今年、インフルエンザがあまり流行していないのは、多くの人が手洗い、うがいをして、なおかつちょっとでも具合が悪ければ、自ら行動を抑えるようにしたからです。その結果、「実はインフル」の人が感染を広めなかったわけです。
 話をPCR検査に戻せば、検査の無闇な拡充に反対している人たちが怖れているのは、インフル同様に、「お墨付きを得た、でも本当は陽性です」という人が感染を広めることにつながりかねないからです。
 よく韓国やイタリアのほうが日本よりも検査数が多い、といって日本を批判する人がいるのですが、これは話がまったく逆です。韓国やイタリアは最初に検査数を増やし過ぎたために、感染を広めてしまったのです。
「医療資源が無限にあり」「偽陽性の人でも全員どこかにちゃんと収容できて」「(偽)陰性の人が行動を慎んで他人にうつさないようにする」という前提がすべてそろっていれば、検査数をどんどん増やすのもいいでしょう。
 しかし、そもそも検査はそんなに簡単なものではありません。検査というのは少なくとも検体を取る人と、検体を検査する人の両者がいてはじめて検査ができるのです。仮に医師会の先生たちが頑張って検体をたくさん出しても、検査する人が増えなければ結果が出るのがより遅くなってしまいます。本当に必要な検査が滞るのです。
 もしも「やる気になればできる」と言い張る方がいるのなら、ぜひそういう人材がどこにまだ眠っているのかを教えていただきたいものです。
 検査の技術の習得は一朝一夕にはできません。だから長期的な観点では、もっと日本はこういう検査もスピーディにできるようになればいい、と言われれば「その通りです」と答えます。
 しかし、今まさに感染爆発を防ごうとしている時期に実現不可能なことを言っても仕方がありません。
 テレビに出ている中でも、自称「専門家」ではなくて、本物の専門家の先生方もいらっしゃいます。そうした方に、「日本のPCR検査数は少ないのでは」とか「より検査体制を充実させられるといいのでは」と問えば、「そうですね」と答えるでしょう。それ以外の答えをしようがありません。
 しかし、それで「それみろ、やっぱりPCR検査が足りないんだ」と言い張るのはやめてください。
 繰り返しますが、現場で本当にこの病気を診ている医者で、もっと検査数を増やせ、などと言っている人はいないはずです。
≫――――――≪
―――ではなぜお医者さんの中で「PCR検査を増やせ」という声が根強いのでしょうか?
  例年、この時期はインフルエンザの患者さんで病院、特に開業医さんは混み合うのです。経営のことを考えると患者さんがたくさん来るのは悪いことではないと考える先生もいるでしょう。今年はインフルエンザ自体が流行していませんし、万が一新型コロナウィルスに感染している患者に検査をすれば、感染のリスクがあるためほとんど行われていません。現在、新型コロナの診察はあまりやっていないでしょうが、一部の人にとっては「検査は怖いから検査センターにお願いするとして、診察は引き受けたい」といったモチベーションがあるかもしれません。
 そういう人にとっては、かりに「PCR検査センター」のようなものが出来れば、都合が良いかも……というのは穿った見方でしょうか。
―――「WHO」の関係者と名乗る方、ノーベル賞受賞者の方もPCR検査を増やすように主張していますが。
  海外にいて、どのくらい日本の事情をご存じなのかわかりません。また、たとえノーベル賞を受賞された素晴らしい先生方であっても、必ずしも感染症やこの病気の専門家ではないので、仰ることがすべて正しいとはいえないと思っています。
 医学はそれぞれの科や専攻の専門性が高い分野なので、たとえノーベル賞受賞者であっても、専門外のことには確証を持って発言していないのではと感じることもあります。
 なお、「検査、検査、検査」というWHOの事務局長の発言もいまだに曲解されている方がいます。あれはあくまでも発展途上国などで検査を軽視している国に対してのメッセージであって、日本などを念頭に置いているわけではありません。
―――ただ、検査をまったくしないと不安だという気持ちもよくわかります。「37.5度が4日間続くまで様子を見る」と言われても、その間に急激に悪化したら……と不安になるのでは。
  気持ちはよくわかるのですが、熱だけが兆候とは限りませんし、本当に具合が悪くなったら救急車を呼ぶほうがいいと思います。新型コロナ以外でも、いろいろな病気がありえるのですから、本当に具合が悪い時はそうするべきでしょう。
 また、これからは「陽性だけれども症状がない」という方はホテルなどに入ることになりました。このメリットは単に隔離されるというだけではなくて、そこには医療スタッフが必ずいるということです。症状が悪化した場合には、そのスタッフが対応します。
 このところ脚光を浴びているのが血中酸素濃度を測って患者さんの状態を観察するというやり方です。入院患者や経過観察の対象の方の濃度をチェックするのは意味があるでしょう。ちなみに、その際に用いるパルスオキシメーターを発明した青柳卓雄さんが、先月亡くなられました。コロナの報道に紛れてしまい、あまり大きくニュースでは扱われませんでしたが、世界に誇るべき日本発の医療技術であることは知っておいていただきたいと思います。
―――死者数や感染者数を見るとインフルエンザと大差ない、いやインフルのほうが深刻だ、といった意見についてはどうお考えですか。 
  たしかにウイルス自体の病原性や感染力は同等だと思います。空気感染はしないので、結核と比べると感染力は弱いともいえます。
 ただ、高齢者や合併症のある人への進行度合いは半端ではありません。日本は医療レベルが高いので、余り若年者は死んでいませんし、今後もそうでしょうが、感染した高齢者の一定数は救いようがないままに亡くなります。
 実際に診察しての実感を一言でいえば、「この病気はヤバい」です。
 多くのウイルス性肺炎は、自身の持つ免疫力で打ち克つことができます。
 新型コロナウイルスは、若い人と比べて高齢者が重症化しやすいことはよく知られていますが、では両者の違いは何か、といえば免疫力になります。肺炎が重症化しても、踏ん張っているうちに回復に向かえる。だからICUやECMOで治療をして、「もうちょっと頑張れる」ようにするのです。しかし、その間にダメージを回復できなければ最悪の場合、亡くなることになります。
 少なくとも私の病院では、例年、インフルで亡くなる人はまずいません。それまでにちゃんと治療をして、回復してもらっているからです。しかし今回は、すでに何人もの方が亡くなっています。だから「ヤバい」と感じるのです。
≫――――――≪
―――世界的に見た場合、日本は死者数、重症者数が少ないのはなぜでしょうか。これを政府の陰謀のように言う方もいますが。
  実際に少ないと思います。それはいろんな理由が考えられるでしょう。
 まず衛生観念が高い、といったことがよく指摘されます。清潔な水が近くにある、靴を履いたまま家に上がらない、とか。そういうこともあるかもしれません。
 また、繰り返しお話ししているように、医療レベルの高さ、アクセスのしやすさは大きいと思います。
 多数の死者を出したアメリカでは、救急車を呼ぶのにも、病院にかかるのにもかなりのお金がかかります。そうすると、具合が悪くても病院に行かない、行けないといった人は一定数出てしまいます。今回亡くなった多くの人が貧困層だというのはそういうことでしょう。「日本でもタライ回しがあるじゃないか」と言われるかもしれません。確かにそういう問題は解消されていません。
 しかし、たとえば東京都では救急医療について「東京ルール」というものを10年前に定めています。「5つの病院に断られた」「30分以上搬送先が見つからない」といった場合には、東京都が定めた地域救急センターに搬送する、というルールです。他の自治体でも様々な取り組みが進められていると聞きます。「日本はダメだ」と言うのは自由ですが、他の国と比べて決して引けを取るようなシステムにはなっていないと思っています。
「BCGが有効」という説も聞きますが、これはまだよくわかりません。そういうこともわかればいいとは思いますが、少なくともそれは現場の私たちが判断できることではないのです。
 なお、「検査数が少ないから死亡者が目に見えていないだけ」といった主張は完全に陰謀論の類です。たとえば別の肺炎死だとか、謎の死者が急に激増しているというのであれば、そういう仮説も立てられるのでしょうが、そんなことはまったく起きていません。
―――最前線にいる立場で、メディアや一般の人に言いたいことなどはなんですか。必要な支援はありますか?
  私たち医療従事者はいま別にお金が欲しくて働いているわけではなく、使命感で働いています。
 相当なストレスを抱えながら、普段以上に働いています。実際の担当ではない医師や看護師にも大きな影響を与えています。
 たとえば、陽性だけれども症状がない、といった患者さんを専門外の個室に入れることがあります。するとそこの看護師さんは慣れないながらも感染者の面倒を見て、しかもそれが他の患者さんにうつらないようにしなければならない。普段とはまったく異なるプレッシャーがかかっていて、精神的に追い詰められている関係者は数多くいます。
 私も今は家に帰れる日は限られていて、あとは病院が用意したホテルに宿泊するようにしています。
 また、精神的に追い詰められた職員らのための対策も考えなくてはならない状況です。最初に病院全体の患者数は減ったとは言いましたが、対応をしている病院のスタッフは本当に大変なのです。
 最近は家庭内感染が増えてきましたが、最初の頃は「夜のお店」近辺の感染者が非常に多くいました。
 そんな状況下で、テレビのニュースを見ると「自粛で大変。補償してほしい」といった「夜のお店」の声を紹介しています。もちろん当事者の方々が大変なこと、そういう感情を持つことは理解できます。でも、毎日ギリギリのところでやっている身からすれば「いま補償の話なの?」という違和感を抱いてしまったのも正直なところです。「これから大変な戦いが予想されるのに、もうお金の話? それもごく一部の業界の? 議論の優先順位がおかしいのでは」と感じました。
 どうか私たち現場の人間が日々、頑張っていることをご理解く��さい。そうしたお気持ちを持つ方が多いことは励みになります。医療従事者へのエールは素直にうれしく思います。
 そして、早くこのような状況を終わらせるためにも、とにかく皆さんは感染しないように、感染を広げないようにふるまっていただきたい。これは強く訴えたいことです。
 接触・飛沫感染に注意せよと言われても、具体的に何が大丈夫で何がダメか、わかりにくいことと思います。実際にその細かい線引きはできません。だからこそ「極力人との接触を避ける」「極力外出しない」という大きな方針を打ち出しているのです。それを守ったうえで、手洗いを丁寧にマメに行ってください。
 また、特にメディアの方にお願いしたいのは、善意や問題意識からなのでしょうが、常に「国(厚労省)や都のやっていることは間違いだ」といった論調の報道は考えていただきたいところです。
 先ほども申し上げたように、日本のこれまでの対応は決して間違っていません。死者数を見れば明らかです。「世界が疑問視している」といった報道ばかりが目立ちますが、海外では日本を評価する報道も出ています。単にそれがあまり紹介されていないだけです。
 死者数が少ないことをもっとポジティヴに捉える論調が増えてもいいのではないでしょうか。
 私たちは国や都の定めた方針の中で動いており、それに背くことはありません。しかし、国も都も、いろいろと考えたうえで方針を打ち出しています。その決定過程には私たちも関与しています。
 明らかに間違った方針が出れば、私たちも声をあげます。そういう判断ができないほど現場の医師たちは馬鹿ではないのです。
デイリー新潮編集部
0 notes
honryu-report · 4 years
Text
《あなたの知らない奔流中国の旅》
前書き:                                      
前から奔流の参加者の思いが募る文集を作りたいと思っていた。張さんは旅に生きていた。自分の思想を人に押し付けることなく、いつも自分らしく自由闊達に生きていた。その生き様は、一つの芸術作品のようでもある。私たちも張さんから受け継いだ精神というべきかその思想を何らかの形で残したいのだが、文字にしてしまうとそれはとても小さく見える。私たちの旅は書き尽くすことができない。しかし、今は奔流にとって大変な時。自分たちの青春の中でもっとも素晴らしい思い出を、生涯の誇りを守るために、ここで一丸となり、形のない、奔流という旅を語り合いたい。奔流は人の流れ、私たちの中への流れでもあるのだ。
そうして気づいたことは、自分を深く見つめ、深く知り、世界を深く見つめ、深く知り、世界と自分を深く思索することで、奔流の旅は私たちの未来にもつながる。 この旅の意義を社会に証明し、あなたの今まで見ることのできなかった世界とも出会ってほしい。
そんな世界を提示してくれた張宇氏に感謝!
奔流中国 参加者 2020年1月
~~~~~~~~~~~~~
旅は芸術
私は旅をしたくありません。世界各国をめぐられた私の仲間たちには申し訳ないのですが、旅を積み重ねたところで善い人生を    送れることなどなく、また優れた人格を形成できるわけでもありません。むしろ若く貴重な時間を無駄にし、虚しく偽りの自信に捉われる危険性を持つ旅を、私たちは忌避すべきです。このことはアウグスティヌスが鋭く言い表しました。
「人びとは外に出て、山の高い頂、海の巨大な波浪、河川の広大な流れ、広漠たる海原、星辰の進行などに賛嘆し、自己自信のことはなおざりにしている」
(『ルネンサンス書簡集』近藤恒一編訳より抜粋)
 まさしくこの言葉の通りで、我々人間は自然の現象ではなく自らの精神の鍛錬、つまり日々の生活こそを大切にし、より善く過ごせるように努めるべきです。成し遂げたい目標があったり、大きな夢がある場合は、なおさら時間と金銭の浪費となる旅は避けるべきではないでしょうか。だから私は、旅をしている時間があるのなら、日々の日課に打ち込み、与えられた仕事を精一杯こなした方が遥かに自分のためになると考えています。それをせずに旅ばかりにうつつを抜かしているとすれば、それは現実逃避以外のなにものでもありません。
 ところで、今このように述べ上げたことは、これから私が話す内容とは無関係です。この話はここで忘れて頂きたい。私がどうしても話したいことはもっと別の問題なのです。
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラーという人物をご存知でしょうか。彼は二十世紀を代表する伝説的指揮者で、クラシック音楽界に与えた影響は計り知れず、死してなおその威光は輝き続けています。彼の演奏は心の奥底に響き、魂を揺さぶり、ひと度その演奏を体験すれば、人は音楽そのものの意味を再考せざるを得ないと言います。彼の著書である『音と言葉』には、その偉大なる人物の心に汪溢する音楽への愛念が滲み出ています。自著の冒頭にて、彼は「すべて偉大なものは単純である」という箴言を用います。この言葉こそ私がこれから拠って立つ原点であります。
 なぜ偉大なものは単純でなければならないのか。この言葉は芸術家のためのものです。単純とは「全てを見通して正しくその全体をつかむ」という意味で、ここでの全体とは「この世界を全様態において反映する、世界の分離した一部分」です。つまり、この世界の一部分の全てを正しく見通している作品が、偉大だということです。このように世界を作品の中に単純化することは容易ではありません。不断の努力から得られる強靭な力と、意識の変化を鋭く読み取る直観がなければそれを成し遂げることはできません。芸術家にとっては、作品は単純であるからこそ偉大たりえます。
 ・・・・・・
 ところで、私は2011年9月、奔流中国グレートキャラバンの旅に出ていました。バインブルグ草原やゴビ砂漠を、時には馬で駆け、時にはギターを弾き歌を歌いました。そこでの生活は至極単純で、本当の意味での旅がそこにありました。朝起きて、日中は馬に乗り、夜は食事を火を囲みながらとり、歌や踊りを楽しみながら目的地を目指す。その生活の中にいったいどれだけの苦痛と喜びが混在していたことか!
この旅行の引率者でありNPO法人の代表である張宇氏は、「旅とはアートである」と言います。旅が芸術だと一般的には受け入れ難いでしょうが、まさに旅とは芸術そのもので、世界のさまざまな要素を時間と空間に閉じ込めて、人びとに体験させるものです。私たちが体験した場合では、圧倒的な自然やそこで暮らす人びと、馬や遊牧民たち、歌や踊りとそれらの全てを通じて私たちの心の中に湧き上がる感情を要素として、限られた時間と場所に旅の芸術が集約されていました。音楽が時間の芸術と言われるに対し、旅は時間と空間の芸術と言えます。もっと突き詰めて言えば、旅とは人生そのものを有限的な世界に表現する芸術です。青く広大な空やその中を飛ぶ白鳥も、また雄大な草原やその中で咲くエーデルワイスも、あの旅の要素の一つでした。
ですから、この場合も芸術として旅を見るならば、それは単純であるべきではないでしょうか。古代シルクロードはまさに旅を人生とした人たちによって作られていきました。もちろん彼らは日々を生活する人間であり、決して旅を創り出す芸術家ではありません。ですが、私たちが体験した古代人が創り出したシルクロードへの旅は、なんと芸術的だったことか!そこには人間の人生そのものが、単純に集約されていました。人が生きていく上で求める最初の根源的なものと、日常生活を善く生きるために必要な知恵や力を、私たちは擬似的に体験したのでした。あの旅は張宇氏の人生そのものでもあり、私たちの人生そのものでもありました。思うに、全ての芸術において最も大切な始源はこの点にあります。
 つまり、どんな芸術も、最初はそれを創り出す人、または体験する人の人生そのものでした。それこそが偉大なる単純さの源であり、私たちに感動をもたらす泉です。そこから芸術は大いなる奔流となって人びとの生活を満たしていったのです。
 私ははじめに、旅などしたくはないと言いました。しかし今となっては、声を大きくしてこう叫ぶことができます。
旅をしよう。記憶に新しいあの旅が私たちに教えてように、日常を旅しよう。それが芸術にとって、また人間にとって大切なことなのだから。
~~~~~~~~~~~~~
奔流の旅                               
奔流の魅力は旅、そのままの姿を体験できることだと思う。予定外想定外のことが起こるのが旅だ。人生だって同じ、予定表なんてない。思い通りにいかない事もあるし、思いがけない幸せもある。 馬が来なかったり、6時間飲まず食わずでぶっ通しで砂埃の中を走ったり、氷点下の中で寝たり、肉体的精神的苦痛が伴った。だからこそ普通の旅行では味わえない絆が生まれる。
この旅は素材であり、それを使っていかに自分の求めるものを創りあげるか。そこに他人からの評価はいらない。上手く出来たら誇らしげにその喜びを仲間と共有すればいい。上手く出来なかったら取り組むべき課題を見つけられたと喜べばいい。いずれにしろ昨日の自分よりは一歩前に進んでいる。 毎年の事ながらこの旅は参加者各個人の内に秘めた力を見事に開放させる。旅を終え、皆キラキラした目でやりたい事を語り、出発前より元気になって帰ってくる。 奔流の旅は、ひと夏の草原の思い出ではなく、新たなスタートである。
私は今年、以下のインスピレーションを頂いた。私はこの牧場を必ず設立させる。私の旅は始まったばかりだ。
それに向けてのまず第一歩は、日々の仕事を着実に頑張ること。夢を大切にし素直に生きる張さんからそれを学んだ。
  『奔流牧場』 【コンセプト】”創造”、"絆"、”国際交流”、”楽しい!”、”人材育成”、”挑戦” 【概要】日本の若者に情熱と感性を与え続けてきた奔流。たくさんのエネルギーとインスピレーションを頂き、たくさんのことを学びました。そんなパワーステーションを日本にも作りたいといこうことで設立したのがこの牧場です。忙しい日常から離れリラックスするとともに、時代に流されない美しさ強さを再認識し、新たなスキルを習得できるような牧場です。週末に家族連れて気軽に遊びに来てください! 【設立】20XX年 【場所】湘南国際村(東京から近い、古都鎌倉から近い、海が近い、富士山が見えるetc)
【施設概要】 ・牧場:乗馬 ・農園:organicな感じで。 ・Cafe/Restaurant:牧場・農園からの食材で。 ・Lounge:暖炉を囲み、夜通し語ろうぜ! ・Lodge:基本は青空ゲル(寝袋/銀紙シート提供有)。希望者はlodgeに泊まれます。 ・Dormitory:世界からの留学生が短期/長期滞在できるように。 ・Studio: Language:各国の留学生から直接指導。 Fitness:乗馬/ジム/武道/ダンス/ヨガ/水泳/ゴルフ/テニス/サーフィンetc Art:���真/映画/絵画/音楽etc Japanese culture ”道”:茶道/書道/華道etc 世界に誇る日本の”道”。 Business:第1線で活躍しているbusiness person(君達のことです。)によるセミナー講座。 料理教室:各国の食文化の継承と創造。 ・温泉/プール ・大富豪ルーム ・Gallery: 奔流中国の歴史と変遷。 遊牧民の文化や生活を写真/映画/音楽で保存。  ・茶室:日本芸術の粋。 ・図書館:世界の絵本・各種専門書・自習室。 ・診療所:健康講座・人間ドッグetc ・国際協力:海外留学・留学生の受容。そこから生まれる新たな発想とそれらが生かせるような仕事の創造。 ”医療チーム派遣”:世界の無医村へ医療提供キャラバン。 【リンク】奔流中国主催者張宇氏による”パインブルグ乗馬基地”:シルクロードの中央に位置し、世界の若者や芸術家たちが集い、旅の心を知り馬のスピリッツを共有できる奔流の本山。東方騎馬文化の保全とともに騎馬文化から生まれたファッションブランド基地でもある。
~~~~~~~~~~~~~
「人馬一体」に生きる
「切り撮る」×「切り開く」=「突き抜けMAX」…!?
旅の3A,それは人生の3Aでもある―Adventure・Amazing・Art。
冒険心をもって自分自身を世界に投じるところに美しき発見があり,驚嘆がある。それは写真活動にも似て,限りない可能性から,かけがえのない意味とエネルギーに満ちた絵(私自身)をフレーミング(創造)してゆく営み(Art)でもあろう。……(略)……大学を卒業してちょうど10年,社会実践(職場)と研究活動(大学院)に股をかける両立生活は今,自分の中で間違いなく大きな節目を迎えている。「苦悩と渇望」にあって,そこにどんな風景を,どのように切り撮って焼きつけることができるだろうか?(参加動機書より)
キャラバン前に綴った私の思いである。なんとも浮き足立った感が否めない。けれども,少なくとも何かはこの旅に求めていた。頭でアレコレ空想してもダメだ,とにかく自分の足と体を動かそう,そうしたら頭と心も働くはず…そんな思いでついに奔流へ飛び込んだ。
キャラバン中,そしてキャラバン後,心の中にずっと離れず残り続けた,あるおぼろげな風景があった。この文章(旅の証)をまとめるプロセスは,その風景にピントを合わせ,できる限り見通しよく視覚化し,時を得てシャッターを切る(言葉化する)機会となった。あえて最初に屁理屈な結論を先取りすれば,私はこの旅を通じて,ある究極的な華々しい「何か」を得たというよりは,その何かに到達するための,「術」とか「コツ」というものを身につけたように思う。そのために切り撮られた風景は,全くもって想定外だったが…。
さて,中国の表玄関・上海を皮切りに,我々キャラバン隊の進路はひたすら西へ,西へと向かった。奥行きの深い壮大な自然と,そこに堆積する時の厚みにひたすら圧倒された。その我々を運ぶ列車やバスも,強い風雨や泥にまみれ,険しい地形とうまく格闘しながら,黙々と邁進し続けた。その時々の思いは,まるで流れゆく雲のように,旅仲間の思いとくっつき,変化しつつ膨らみ,ゆっくりと漂い,やがて心地よく彼方へと消え去ってゆく…そんな繰り返しだった。そしてついに,この旅の珠玉の乗り物である「馬」にありついた。
乗馬初日から,しかも初めて乗る馬で,いきなり草原を颯爽と駆け回ったあの感慨は,奇跡だと思った。そして小高い丘から見渡す蛇行川,またそこに強く差し込む夕刻の斜陽の照り返しは,ただただ雄大で,豊かで,固唾を呑むしかなかった。そんな心地に導いてくれたその馬に,私は躊躇なしに感謝と愛着を抱いた。
事態が急変し始めたのは,舞台が砂漠に移ってからのことだった。事情あって私の乗る馬は日替わりとなり,馴れない悪戦苦闘の繰り返しが余儀なくされるということもあったが,さてここからは,砂漠上の事故と二次被害を防ぐ策としてとった「基本,並足一列」のキャラバン隊の風景に,話の焦点を絞っていきたい。
容赦なく照りつける直射日光。そこは気候と地形の条件が実に厳しかった。何の潤いも楽しみもない。ただひたすら,相も変わらず馬に乗って進むだけ。次第に疲労感と徒労感に包まれる。皆,口数も少なくなる。引き戻せない辛さ。せっかく馬に乗りに来たのに…。喉カラカラ。命カラガラ。荒涼殺伐~まさにそこは「無味乾燥」地帯!
そして次のような自問自答が,自分の頭を支配し始めた。
「360度見渡す限り,一体どこに方向を定めればここを切り抜けることができるのか?」
「そもそも自分は一体,何のために今ここにいるのか?」
しかし,しばらくしてふと,同じ頭の中でこんなシミュレーションもしてみた。
「この“空虚”な状況下で,ただ一人取り残されたら絶望的だ。だが,もしもここから切り抜けられる可能性があるとしたら,それは一体どのような仕方においてか?」
この問いにおいて,自分にとって絶対不可欠と実感するものが,大きく三つあった。
①キャラバン隊であるということ:【心のシャッター】
実は自分だけが苦しいのではない。皆たいてい辛かったはずだ。にもかかわらず,否,だからこそ,そこには労り合いや励まし合い,分かち合い(特に水!)が自然発生した。
やがて互いの心に動きが起こり,潤いが生じる。他人同士だった者が仲間となってゆく。そこに,先を目指すための燃料と何某かの風景が,胸の内に「切り撮られ」ていった。
②馬の存在~馬とのリズム:【人馬一体】
とはいえ,仲間の力だけで切り抜けられるほど甘くはない。何らかの術が必要である。そこであらためて,「馬」である。今ここに,途方に暮れる私と共にいる馬。その意味で,馬ははじめ私を目的地へと運んでくれる「道具」であった。しかし,自動ではない。故に手綱をしっかりと握り締め,馬を技術的に支配し,甘えさせることなく走らせるのだ。
ところが言うまでもなく,一方的な支配関係ではダメだ。馬にも体力や性格,そして心がある。こちらが縦になおも鞭打てば,そのうち馬にも限界が来る。反抗的にもなろう。だがそうかといって,そこで安易に無為に甘やかせすぎてもいけない。馬も人を見ている。いつの間にか,今度は自分が馬に支配されてしまう落とし穴と,隣り合わせなのだ。
この,支配か-被支配かの次元を超えて,馬をうまく乗りこなすというのは実に難しい。そしてキャラバン内でのこの見えざる孤独な葛藤…それは馬の数だけあったことだろう。しかしそれだけに,馬に乗るという動作には,異次元の奥深さがあるということでもある。
ところで今,「馬に乗るという動作」と言ったが,これは果たして,「人が,技術的に(うまく),馬に乗る」というだけの意味だろうか。ここで少し見方を変えれば,それは「馬が人を乗せる」,あるいはこれを,なお自らを主体として表現し直すなら,少なくとも,「馬に乗せてもらっている」という謙虚さが伴うはずの次元とも重なり合いはしないか。
馬との関わりの困難さ=奥深さが突きつけられた今,もはや私の側のvisionに沿った思惑だけで推し進めることはできない。それを相対視し,それを実現してくれるはずの馬の側の心情や呼吸に沿うこと,ひいては,馬の魂の域にまで触れ合うような私自身の息遣い,心遣いが求められるのではないか。馬は人を見ているのである。いみじくもここのところ、張氏は「なるべく馬は乗り換えず,一つの馬に乗り続けるように」と何度も強調し続けた。そしてそのことに忠実に成功した何人かの参加者の感慨は,実に豊かで,何かを見通せるほど透き通っていた。馬と格闘し,「変化」と「一体」をものにしたかれらの言葉は,心からの喜びそのものだった。馬との不可抗力的な相性の良し悪しを超え,時宜に叶ったタイミングや仕方で馬と呼吸を合わせ,「手綱」の意味を豊かにし,新たなリズムを生み出してゆくこと。この馬との共鳴,あるいはもはや,主体と客体が未分化した境地でまさに文字通り「馬が合う」こと。果たしてこれが,古より受け継がれてきた「人馬一体」の神髄に,幾ばくかでも迫るものとなるだろうか…。
③鐙(あぶみ):【足場の確保】
「人馬一体」への補足として、本能的に常に不可欠としていたものに,「足場感覚」がある。初めての乗馬。スピード感覚よりもバランス感覚に慣れない。死の恐怖がよぎる。そんな時,再び張氏の言葉で印象的だったのは,足場を担保する「鐙」への足のかけ方に関する助言だ。「足は鐙に深く入れない。いざという時,足が外れにくくかえって危険だから。けれども,  
単に足を飾りのように「置く」とか「乗せる」というのでもない。踏ん張るのだ」。
この絶妙な言い回し。力みすぎず,油断もしすぎず。心身の安定を支える「足場」は,実際私にとっては何よりの拠り所だった。しかしそこには,‘絶妙なほど加減’なるものがあるようだ。おそらくそれは,馬と私との間の,身体的・精神的な関わりや呼吸において初めて独自に見出され得る,これ以上ない相応しい着地点としての足場感覚,ではないか。
短い時間で実際に得たものは僅かだが,感じるものはとてつもなく重厚で,大きかった。キャラバン半ば,私がほんの一瞬だけ,馬と共に颯爽と駆け巡っていると体感できたある場面を今思い起こすと,私はあの時,馬に「乗る」というよりは,馬に身を預けつつ「立つ」ていた。あるいはより比喩的に表現するなら,私はあの時,大地の上を,何かに導かれながらも,「親指感覚」程度に,自らの足で一歩ずつ踏み出していたようだ。
以上の三つを,砂漠上で,馬上で,考えていた。そして次第に,このシミュレーションとその前提は,自分のこれまで/これからの生き方とも重なってくる事柄のように思えてきた。「この砂漠上で抱く空虚感は,現実の己が既に抱いてきた心の風景ではないか?」
仕事と研究の両輪を回転させてきた自分。だがその二輪車は,いつしか,ある地点から先へと進むことができなくなっていた。思うにそこには,社会における比較や評価という,値踏みの巨大モノサシが立ちはだかり,自らもその既成の枠の中で「自分の力で,(結局は)自分の満足のために」突き進もうとし,一喜一憂しながら振り回されていた姿がある。
否,もしかしたら,そのはるか前から己の内に通底していたであろう,総じて言えば,これまでの「自己拡張」的な生き方が,今や完全に頭打ちとなり,自らをある一定以上に,大きく突き破らせることができなくなったばかりか,ただただ,孤立感と虚無感という,足場無き深淵の闇に突き落としてしまったのだとさえ言える。そしてこうした自己分裂,ひいては自己無化という結末の境地は,無味乾燥にしか映らずただ徒労感に打ちひしがれていた,「あの」砂漠上での心地にピタリと重なり合ってゆくのを禁じ得なかった。
根こそぎ足元をすくわれ,もはや拠って立つ足場が失われつつある危機にあってなお,何にも揺さぶられず,流され得ない確固たる基盤や自分自身の根本的あり方に飢え渇く日々。これ自体,私の中に「生きんとする志」が��んでいることを示しているのだろうか。けれどもこの期に及んでは,よもや己の力になおもしがみつこうとする自己執着(我執),ましてや,己の生命やそこに隠された神秘の意味を徒に投げ捨ててしまうような自己放棄,といった極端なあり方に右往左往する愚かさには,もはや甘んじられまい。
…では,どうすればよいか?
それは,苦悩(渇望)をちゃんと「苦悩する」,ということに尽きるのではないか。新たな足場は,どこか他に予め用意されているのではなく,自らの態度のあり方においてこそ,その足元から自ずと築かれてゆくのではないか。そしてそのヒントは,あの「親指感覚」にある。力みすぎず,油断もしすぎず。自ら踏み込んで「立つ」(自力)感覚と,自らを超えるものに身を「任せる」(他力)感覚。自問自答でなく自己拡張でもない,この,ある種緊張を伴う絶妙なる呼応関係。こうして,空虚な深淵にあって「苦悩」はその足場となる。
ところで,「足場」とか「親指感覚」とは,そもそも「馬」の話から出たものだ。そしてその馬は,今や私を単に楽しませ,目的地へと運んでくれる道具のみではあり得ない。私自身の足場を常に問い,確保させた先に,私の夢や信念を叶えてくれる導き主である。否,「人馬一体」の域にあっては,既に馬は私の信念そのものであり,辿るべき道そのものだ。
今回の旅の舞台となったシルクロード,また草原と砂漠を分け隔てた天山山脈にしても,その厳しく壮大な自然条件に我々は幾度も驚嘆し,愕然とした。それまでに抱いていた,ある種のロマンティックな空想は,あの実像を前にしては音を立てて見事に崩れ去った。果てしないのである。とはいえ,我々は既にある程度備えられたコースを,主催者側の最善の配慮のもと安全に導かれていた。その意味で,旅ではあったが真の冒険ではなかった。しかし思うに,この地に初めて足を踏み入れた先代達は,いかにしてあの大地を駆け抜け,あの山々を越えて行けたのであろうか。予め用意された道など無かったはずだ。おそらく,孤独を分かち合う同志と共に描いて切り撮った希望や物語を胸に,まさに未だ知られざる「未知(みち)」なる地平を切り開いていった跡に,自ずと「道(みち)」はできたのだろう。「人馬一体」となって突き抜けたであろう,その真の冒険精神は,今回の旅から響いたメッセージであり,来るべき自らの人生の冒険に向けて,かけがえのない贈りものとなった。
「親指感覚」を起点とした乗馬奮闘記,自己探訪記,歴史追随記,未来設計図…なんとGreatなCaravanだったことか!そして今,確かな手応えとして感じている自由。現実のしがらみに束縛されつつも,真に束縛され得ない境地としての自由。かつまた真に現実へと立ち向かってゆく自由なる冒険心。この旅は非日常ではありながら,しかし,現実逃避した幻や夢物語ではない。冒険という名の私の人生そのものとして,風景を変えてこれからも続いていくのだ。
この旅を導いてくれた人、張宇氏に感謝。
~~~~~~~~~~~~~
「〜過去への回帰 そして未来へ〜
 奔流中国グレートキャラバンに参加して」            
自分自身にとって「グレートキャラバン」の旅に参加するということは
まずは、「過去への回帰」でもあったかもしれません。
2011年5月6日。
私はこの日に大切なものをなくしました。
人生がちょっと複雑になってしまった瞬間。
「生きる」ことがちょっとめんどうくさくなってしまいました。
「記憶を消せるなら消してしまいたい。忘れよう。忘れよう。」
一方、「忘れたい記憶があるから忘れた記憶を取り戻したい。」
そんな欲求にかられていました。
2011年6月23日。
そんな中、14年前、まだ大学2年生だったころ、
奔流のシルクロードの旅で出会った張さんをはじめとする仲間と再会。
14年前と変わらない、でもちょっと大人になった人たちの笑顔。
忘れていたものをまず1つ取り戻した瞬間がありました。
そして、聞かされた、「グレートキャラバン」という旅のこと。
「馬で旅をする」しかも
「かつて商人たちがアジア、ヨーロッパ間を馬で走っていたであろうシルクロードを馬で駆け抜ける」
「この21世紀になんておかしな旅なんだろう」
「張さんってば最高じゃん!」
私にはちょっとした非日常が必要だったみたいです。仕事の都合をつけて参加することにしました。
そして、記憶にケリをつけるためにあることをしようと、心に誓いました。
2011年9月18日。
トルファンで合流したら、電車の中から出てくる出てくる
たくさんの学生さんたち。
14年前の記憶が一瞬で戻りました。
「おーこの感じこの感じ。19歳のときは、とにかくなにもかも新鮮ではしゃいでいたっけ」
19歳のときに初めて参加した奔流は、その後の私の人生の大きな起爆剤になりました。「あこがれの中国に初めて行けた。しかもあこがれのシルクロード。」
その後、私の学生生活といえばさらに西へ西へ。中国の隣の国、そしてまた隣の国。シルクロードをひたすら旅して、思春期をすごしたヨーロッパへ。
そこで出会った、宗教にからむ紛争、でもその状況下でも笑顔を絶やさない人々。
「この人々のことを伝えたい。」
忘れていたもの、2つめを取り戻した瞬間。
さすがに33歳になった今、あのころみたいにはしゃぐことはできなくなっていましたけど。。。心の中でちょっと興奮状態。
2011年9月19日。
さて、興奮状態さめやらぬままバインブルグ草原で出会った 
額には白い三日月の模様、そして背中につむじのあるステキな馬、
つむじちゃん。つむじちゃんは兄弟の馬とつねに寄り添っていました。
もう一目惚れ。なんてかわいいんだろう。
「運動神経ないけど乗れるのかな」
そんな恐怖、不安はなんのその。気づいたら草原を駆け抜けていました。
つむじちゃんの走るときの体温、息づかい、汗、、、
そしてちょっと張り切りすぎて自分一頭だけになってしまったとき、
兄弟を探している不安げな表情、いななき、そわそわとしている足取り。
最初は顔を近づけても全然そっぽをむいてしまうつむじちゃん。
でも1日、1日しつこくつむじちゃんを探しては乗っているうちに、そして私も兄弟を探して常に寄り添っているうちに、家族みたいな気分。最後は顔を近づけてくれました。
「かけがいのない存在」「家族」「寄り添う」「体温」「息をするということ」
「生きる」「生きている」「必死で生きて行く」
つむじちゃんにとっての「日常」。
つむじちゃんから学んだちょっとしたこと。
一方、草原は人間を寄せ付けない圧倒的な美しさと厳しさが容赦ない。
圧倒的な静寂。圧倒的な朝日そして夕日。圧倒的な星空。圧倒的な寒さ。
でも、そこに住んでいる人々、そして馬たちにとってはこれが「日常」。
私なんか1人でいたら一晩で死んでしまう。私にとっては「非日常」。
ある日見た、草原のさきにそびえる雪をかぶった山脈。南の方角。
そのさきにかつて訪れたチベットが。。。 
「ここにはなにもない」
「でもすべてがある」
忘れていたもの、3つめを取り戻した瞬間。
その瞬間、悪夢のような記憶にケリをつけるのをやめました。
一生私はこの記憶とともに生きて行く。
そしてまたここへ戻ってくる。
そして帰国後、東京である日。こんなことを感じました。
店がオープンする30分前の街のざわめきが好き。いつものざわざわ。

いつものデスクまわりのざわつきが好き。
いつものざわざわ。

日常に感謝。

日常がそこにあるから、生きていく。なんのために生きてるのかわからなくなったなんて考えちゃダメだ。

日常をこなすのが生きて行くことなんだ。
これが私にとっての日常。
そしてちょっとした非日常、奔流にありがとう。
~~~~~~~~~~~~~
備忘録
大学2年生の4月、偶然youtubeで西安からウズベキスタンを旅した方のスライドショーを見た。炎のような火焔山、キルギスの石人、サマルカンドの青いモスク・・世界にこのような美しい場所があることを初めて知った。中国には青い目を持つ人々が住んでいることを知り衝撃を受けた。私の中国とシルクロードへの憧れはこのとき初めて生まれた。
私は観光目的でグレート・キャラバンに参加してしまった。そのためがっかりさせられることも多かった。寝台列車の遅延や馬の到着が遅れたせいか、楽しみだったベゼクリク千仏洞や羊さらいを見ることができなかった。このことは今でも心残りだ。
しかしあるとき、私は間違っていることに気付いた。
~シルクロードの旅は観光ではない~
シルクロードという言葉は美しい響きがあるが、私の見たシルクロードはそうでなかった。草原の昼は汗をかくほど暑くなるが、朝は霜が降りるほど寒かった。映像で見た美しい天山山脈も、実際登ると吹雪と霧で前が見えなかった。横を見るとそこはもう崖だった。 シルクロードには多くの国が現れては消えた。多くの血も流れた。旅人も盗賊に襲われることもあっただろう。この旅でシルクロードはデスロードであることを悟った。
それでも古来の旅人は死ぬ覚悟でシルクロードを旅した。何故なら彼らには命をかけても成し遂げなければならない使命があったからだ。
ローマ帝国を目指しシリアまで辿り着いた後漢の甘英
仏教の経典を求めインドへ向かった三蔵法師
莫大な富を求めフビライ・ハンの元へ向かったヴェネツィアのマルコ・ポーロ
この他にも多くの旅人がシルクロードを歩いた。勿論、志半ばで倒れた名もなき旅人も大勢いるだろう。シルクロードを旅するというのは、観光などという甘い気持ちで旅してはいけないのだ。砂漠越えでの喉の渇きと腹痛が、私に教えてくれた。
馬は現代では娯楽のための生き物だが、古の時代はそうでなかった。カザフ人の遊牧民スタッフと相撲を取ったが、相手は屈強な体で私は勝つことが出来なかった。モンゴル人と握手した時、彼らの手の皮がとても厚いことに気付いた。寒暖の激しい草原に住んでいるからだろうか。遊牧民スタッフは皆人懐っこかったが、彼らには勇敢な騎馬民族の血が流れている。火器や戦艦が登場するまで、騎馬民族は世界最強の戦士だった。高速移動しながら矢を浴びせ、高い場所から敵を切り裂く。敵の反撃が始まる前に瞬時に離脱する。馬を操れるというのは、今でいえば戦車や戦闘機を操れるようなものなのだろう。騎馬民族が歴代の中国王朝を苦しめ、ヨーロッパまで攻め上がりユーラシア大陸を支配できたのも何となく理解できた。
~奔流中国~
奔流中国最大の存在意義は、自分の道を自分で創り切り開く人材を世に送り出している点だと思う。大学を長年留年したり、定職につかず、会社を退職し留学へしたり・・張さんや奔流の先輩方を見てみると、社会の枠組みにはとらわれない人が大勢いて驚かされる。先輩方の表情はとても明るく、今の自分に後悔しているという感じは見られない。
彼らは中国の雄大な大地を知ることで、そしてシルクロードを旅することで気付いたのだろうか。
 道無き道を旅したシルクロードの旅人のように自らの人生の道を創り全力で駆け抜け、そして歴史に名を残すような偉業を成し遂げる素晴らしさを。
奔流が教えてくれる、我々は確かにシルクロードを旅したのだ。
~~~~~~~~~~~~~
昔から女性のハイヒールのコツコツという音が好きだった。
朝の通勤ラッ��ュ時の渋谷駅で、私は無限の行軍に耳を傾ける。
何故この音は心地よく体に響くのだろう。
今日、前を颯爽とゆく女性の足音を聴きながら、もしかして、と思い当たる節があった。
これは、馬のひづめの音に聞こえはしないか。
面白いことに、音だけでなくそのリズムまで、女性と馬のそれは同じに思えるのだ。流石に人にはギャロップは出来ないだろうけど。
何人ものOLが行き交うコンコースで目を閉じると、大都会でキャラバンしているように感じる。
一方でそう思うと、競うように高いヒールを履き合う女性たちが少し滑稽に思えるのだった。
東京でのキャラバンは、灰色の天井と疲れた二酸化炭素ばかりだ。
エスカレーターは一定の速度で人を運んでいく。
私は朝だからご飯を食べ、昼だからご飯を食べ、夜だからご飯を食べ、そして25時を過ぎたので眠りにつく。
私は日々螺旋階段を一定の速度で登ってゆく。
あの旅は違った。
無秩序という秩序。
例えばゴビ砂漠へ向かう道中。天山山脈越え。
身体が「ここは知らない」「ここは知らない」と呟いている。
髪もゴワゴワ。服も4日間同じ。それでも生きてる。
痛む背中と凍てつく寒さに震える。それでも眠りにつく。
お腹がすいたからご飯を食べる。身体が砂だらけだからシャワーを浴びる。
私はそんな環境の中で、飽きのきていた自分という存在を変えたかった。
変わらないことを恐れた。
しかし、そうしたある種の極限状態の中で私が気づいたことは、私は絶対に変われないということだった。
私はどんな場所にあっても、私として生きなければならない。
空っぽのままだ。
それでも、草原のただ中で、星空を見上げつつ、死にたい?と問いかけると、まだいい、と答える声がある。同時に、でも、死んでもいい、という声も。
それが「生きる」ということだと思った。
プランに沿って、完結しない限りは不満足な人生ではなく、一瞬一瞬をスライスしたときに、それだけでいいと思えるような。
何より、張さん、遊牧民の人たち、そして80人の素敵な仲間に出会えたことに感謝感謝。
愛している、
そう思えた旅だった。
~~~~~~~~~~~~~
私は旅が好きだ.でも,旅にトラブルは必ずといってついてまわって,でもそのトラブルからの産物も必ずといっていいほどある.極論を言えば,私はそれが楽しくて毎回旅に出ているのかもしれない.
今回だってそうだった.馬運車が速いスピードで走れないこと,草原には鍵付きの厩舎があるわけではないこと,天候,移動中の諸問題.60人規模の団体旅行と聞いただけでも十分トラブル要素は満載なのに,それに生き物である馬が旅に付随した時,例えば馬が予定通りにこないことも,馬が夜逃げ出すことも,裕に想定の範囲内だった.
草原や砂漠での生活と,衣食住の充実が当たり前な日本での生活を比べた時,草原や砂漠でのそれは,私たちにとって決して豪勢で満足いくものとは言えなかったかもしれない.けれど皆,毎食のご飯の時,ぬるいミネラルウォーターを飲む時,腹の底から「ありがてーー」「うめーーー」と迸るような声をあげていた.極寒の中,明らかに人数と面積があっていない狭いゲルの中で「足を伸ばして眠れることって本当に幸せだよね」と話す声が聞こえた.薪ともいえぬ木々を自ら集めて火を焚いて,ギター片手に仲間たちとただ声を合わせる,それだけのことを皆すごく幸せとしていた.
何時間も草原で待ったからこそ,ご飯を何倍も美味しく感じることができたのではないか.仲間のことをより深く知ることができ,また,このようにトラブルに対する自分の反応を通してより一層の自己覚知ができたのではないか.もし日本で,大都会東京で,同じことを体験したならば,一瞬でも心底“幸せだ”“満たされている”と考えることができる人は何人いたのだろうと,そんなことを何度も考えた.
キャラバン中,馬を乗り替わった時に現地スタッフに「その馬はもう走らせないで」と言われた時があった.馬の疲労は明らかで,出来ることならすぐさま降りて休ませてあげたかった.けれど,「馬で旅をする」このキャラバンでは,休ませては,馬も人も目的地には辿り着くことはできない.馬をどう操つるかも,どの道を選ぶかも全ては乗り手次第なのだ.放牧中に馬が逃げて,皆より少し遅れて出発した日があった.常に仲間の群れが視界の中にいたこれまでとは異なり,見渡す限りの砂漠に現地スタッフ2人と私だけしかおらず,この時ばかりはまるで自分たちで道を切り開いているかのようだった.馬と自分たちだけしかいないこの状況で,馬を信じることは言うまでもなかった.馬に“乗せてもらう”のではなく,“共に歩む”感覚を覚えた.普段から馬に敬意をもって接しているが,この時ほど馬に感謝したことはない.
キャラバン中は,馬上で見える世界が多くあったように,地上にいなければ見えない世界もまた多くあった.キャラバン最後の2日間,私は仲間よりも馬に乗る時間が少なかった.馬に乗らずにいた間,私が目にしたものはゲルを手際よく片づけ,私たちの荷物をトラックに積んで何往復もしながら次の場所に運んでくれているスタッフの姿と,60人分の食事をたった2人で作るスタッフの姿だった.主催者をはじめとする見えないところでうごいてくれている多くの人の支えがあったからこそ,私たちは,「馬で旅をする」ことが実現できたのではないのだろうか.毎日気付いた時には,ご飯もゲルも荷物も私たちの目の前にある状況.「馬で旅をする」上では決して当たり前なことではないはずなのに,その状況を私たちは勝手に当たり前と捉え,甘んじていた人も少なくないのではないか.参加者のうち何人が,この“当たり前”と思わせる環境をつくってくれていた人々に,直接感謝を伝えていただろうか.私だってきっと十分にはできていない.
これまでのキャラバンで得たものとは明らかに違う今回3回目の参加.これまで同様,あの広大な大地を馬で駆けることができることに激しい興奮と達成感を覚えたのはもちろんで,3回目の参加にして,初めて「馬で旅をする」という実感が掴めたのも事実だ.しかし今回私が「馬で旅をする」ことで得たことは,自分自身の乗馬の技術上達でも,馬で駆けたいという自分の欲への満たしでもなかった.改めて自分は周りの人々に支えられて初めて生かされているのだということ,五感を奮い立たせながら生きるという困難さと大事さ,そして何より,自分の跨っている馬を,横で一緒に駆けている馬を,一緒に参加している仲間を,そして自分自身を思いやることを自然と意識することができたことだった.それは目にみえた収穫ではなかったが,きっと自分にとっては何よりも大きな収穫だったと考えている.
10日間,喉も身体もカラカラだったけれど,心だけはずっと満たされていた.もしかしたら日本にいる時の私は,喉も身体も全て満たされているけれど,心だけどこか満たされきれていないのかもしれない.
今年も奔流を提供してくれた張さんに、ありがとう!
~~~~~~~~~~~~~
旅をする時は、いつも日記をつける。本当は家を拠点に生活している時も毎日つけたいのだが、そうはいかないのは私の怠惰によるものか。けれども、もう少し考えると本当の理由はそこにはなくて、どうやら思考に終着点を求めているか否かの違いらしい。普段の生活では頃愛を見計らって考えることをやめて、ひょっとすると次の日か、はたまた何カ月も先にその続きを始めることが少なくない。それでいいと思っているので、いつも思考の気まぐれに身を任せる。対して非日常の世界では少しだけ意図的に自分の脳みそを支配する。光をあてたい側面を意識して、そこがはっきりと見えてくることを目標に旅の毎日を過ごす。留学であれ、旅行であれ、一人旅であれ、全て同じ。ここを消化したい、これが何なのか知りたい、等、自分の中に何かしらのテーマを掲げて出かけるようにしている。だから、日記をつける。文字に起こさないと無意識のうちに考えることを放棄して、残された曖昧なものは全て美化されていくから。何かを見聞きし、感じ、考え、文字に起こし、そしてありのままを留めておくのが、私なりの旅の味わい方である。
 およそ三分の一を前置きに費やしてしまったが、私にとってのこの旅のテーマは「リベンジ」であった。そして、それを達成できたことによる深い安堵が旅の記憶の多くを占めている。この文章を書くにあたり、17日間の日記を読み返した。そこには驚きから喜び、それからちょっとした不満や焦りの気持ちまで、今読むとむずがゆく感じるような表現が並んでいた。ただ、そこには一貫した安堵の念があった。
 リベンジには大きく分けて二つの意味があった。一つは乗馬に対して、もう一つは自分に対してのリベンジである。前者は至って単純である。昨年乗馬キャラバンに参加した際、馬に乗せられている感覚を拭えないまま帰国したのが悔しかった。もう一度馬に乗り、今度こそ「私が」操って草原を駆けたいと思った。その思いをぶつけに今回の企画に参加して、自分の意思で手綱を引き、膝で胴をしめ、草原を走る感覚を知ることができた。
 後者については少し説明を要する。私は何度か短期留学を経験したり複数のサークルや団体に所属したりと、顔を出すコミュニティが比較的多い。そのどれにも愛着があり、活動中か否かに関わらず、たとえ細くとも末長い繋がりを持っていきたいと思っている。しかし前回参加したキャラバンは例外的にそう思うことができなかった。理由は「当時の自分が苦手だから」。背景は色々あるのだが、要は全く自分らしさを出せなかったため、メンバーに再会して当時の自分を思い出すのを避けていたのである。もう一度奔流に参加して、この煮え切らない思いを拭い去りたかった。そして、それは意外なほど簡単に達成された。この17日間は細かいこと抜きに本当に全力で楽しかったし、帰国後の自分は驚くほど身軽で、前回のメンバーとも約1年振りに気持ち良く会うことができた。あの馬が、大地が、空気が、食物が、星空が、仲間が、そして少し変化した自分がこれを叶えてくれた。
 主催者が意図しているものはもっと違うところにあるのだろう。けれども、今回の旅は私にとって間違いなく克服を意味していた。「理由」というものは、自分の中に見出し、向き合い、そして乗り越えうるものだということ。自分は今までそうやって生きてきたし、きっとこれからも同じように生きていくのだということを教えてくれた旅だった。
~~~~~~~~~~~~~
幼い頃から他人の目が怖かった。いつだって「いい子」「いい人」で居たくて。自分がどんな風に思われているかばかりが気になって仕方がなかった。100点を取って褒められたいから勉強した。そのまま大学に入り、訳も分からず履歴書を書いて就活に失敗した。自分の中に誇れるものが何一つ無いと、漸く気が付いて愕然とした。そして私は大学を出させて貰っただけの社会不適合者になった。
中身がない。それを取り繕うための建前が日々増えていく。隣の芝が青く見えても「あれはああいう品種だから」と、常に心が壁を作る。でも本当はそうじゃない。隣人の庭が輝いて見えるのは、彼らがそれに見合う努力をしたからだと知っている。比べて私は何もしていない。自業自得だ。わかりきっていた。独り言が増えた。ちくしょう、こんなんじゃないのに。ちくしょう。本当は、本当はこんなんじゃないのに。
…じゃあその「本当」は、どこにあるのか。
1年前。内モンゴルの大草原で見た景色が心に浮かんだ。そして、旅に出ることを決めた。
旅の間私は、心に一切の嘘を吐かないことを自身に課した。くだらない自尊心に塗れ、奥底で眠ってしまった自分の感情を取り戻さなければならない。
誰からも嫌われたっていい。いい人なんて思ってくれなくていい。
自分の心のままに、生きていける場所に行きたかった。
蒙古馬に乗るということは、魂と会話することだ。
膝に力を入れ、馬のリズムに乗る。鞍や鐙の金具が当たっていても、痛みに気を取られれば落馬する。躊躇なく手綱を引ける意志と腕力がなければ馬を走らせることはできない。そこでの優しさとは、厳しさとほぼ同義語だ。生きようとする力が闘争心を生む。妬みや怒りを乗り越えた先に思いやりや協調性がある。
物言わぬ魂に触れていると、自分の心の動きが見えてくる。全ての感情が生まれ、消える瞬間が手に取るようにわかる。苦痛や寂しさ、憤りを感じている時ですら心が満たされていた。叫びたい時に叫び、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣く。そんな当たり前の行動がどんなに幸福だったことだろう。
ヒトは一個の受精卵から胎児に至るまでに母親の子宮の中で進化の過程を辿る。有性生殖を始めた原始生物から今に至るすべての歴史が、私たちのDNAには流れているという。
人間を野生動���と同じく考える場合、その��命は約30年とも言われるらしい。
私の動物としての生が終わるまであと7年。
人間としての生を授かる前に用意された準備期間のうちに、私はどれだけ本能を研ぎ澄ますことが出来るだろうか。
さあ360度。「本当」を探しに。どこへ向かって走ろう。
~~~~~~~~~~~~~
「しぜんと」
中央にそびえる白亜の城、回るメリーゴーランド、人々の笑顔。キラキラと輝く遊園地は、幼い私を異世界に誘ってくれる唯一の空間で、大きくなってからも暫く憧れを抱きつづけていた。しかし、旅を終えて久しぶりにその遊園地に遊びに行くと、何か違和感を覚えた。以前感じていた面白みを実感できなかった。乗り物に乗るための長蛇の列に並びながら思い描いていたのは、砂埃の中で馬を走らせていた私自身の感覚だった。
キャラバンの旅は自分の体ひとつで、異世界に飛び込んだようなものであった。視界の限り何処までも続く草原、ゴビ砂漠そして澄み切った空。耳には馬の駆ける音と風を切る音、遊牧民の声。馬の振動や体温、目に入る流砂、降り注ぐ日光。この旅では常に自分の五感と体で、世界と向かいあっていた。
だからこそ、良いことばかりではなかった。様々なことがあったが特に印象に残っているのは、速馬に乗ったときにバランスが上手く取ることが出来ず、尾骶骨周辺が裂けて出血したことだ。乗馬の最中には傷と鞍が擦れ痛む一方で馬を降りる訳にもいかず、その苦行に奥歯を噛み締めながら乗り続けた。馬は大変不便であり、車もバイクもあるこの近代に文明に逆行してまで馬での移動をする、この旅への参加を何故決心したのか自分でも分からなくなっていた。
次の日、傷休めをするため遊牧民の車で移動をすることになり、快適な車内で私は車が如何に優れているか理解した。車は運転手に従順であるし、基本的に運転の際の運転手の負担はそれほど無い上、快適である。そのように車を賛美していた時、私の乗っていた車が皆のキャラバン隊の横を追い越した。その時の車窓の光景は今でも目に焼きついている。広大な空と大地を背景に馬を駆けさせている、みんな。そのあまりの躍動感や美しさに、見知ったはずのみんなが知らない人の様に見えた。その時に私は、あの集団の一部に私も入りたいとぼんやりと思った。キャラバンは一人ではなくて、他の仲間が居て成り立つ隊列だ。自然が相手の過酷な旅路を仲間と支えあって、目的の地へ向かう。このグレートキャラバンはその様なキャラバン隊を体験できる機会で、そんな掛け替えのない経験を積みに私は参加したのを思い出した。そう考えると尾骶骨の怪我も此処でしか体験できない貴重な事柄のように感じ、遊牧民の人と一頻笑い種にしながら次の日からまたキャラバンに再参加する決意をしていった。
あの場所で起きたことは全て自分の身に直結していた。だから、こんなに生活環境の整った日本に帰ってきても、瞼を閉じれば不便で過酷であったあの旅がしぜんと思い出されて仕方ないのだ。愛している、と言える人たちに出会い、自然と己の身ひとつで向かい合う旅なんて滅多に体験できない。この旅で様々な事象に出会って、私は一回り成長した。そう確信している。
~~~~~~~~~~~~~  
奔流の旅で私が得たものは、乗馬体験、見知らぬ土地の旅、それらを差し置いて人々とのつながりだ。
私は無類の漫画好きである。にも拘らずアウトドア大好きな人間である。そんな裏表な人間は少数派なのではないかと思っていたが、参加初日にしてその考えが間違っていたことに気づいた。参加者の多くが漫画などに理解があったり、美術や音楽が好きだったり、文化を愛する方達で、そうした、普段から夢や理想を描いている人達だからこそ旅に惹かれる傾向があるのかもしれない、などと根拠のない考察をしてしまった位だ。日本では普段、「漫画好きなオタクキャラ」として生き、またそうした自己を過度に演出するばかりな自分は、ここに来てその云わばアイデンティティのようなものを剥奪されてしまったわけである。そんなもの普通じゃないか、と。それよりもお前の本質は何だ、と。旅の間、同行していたモンゴル遊牧民の一人が、ゴビ砂漠キャラバンの休憩中に、砂で自分に似せた埴輪のような人型を作っているのを手伝った。「これ、貴方?」と身振りで聞くと、さぁ、分からない、と言われた。ただ作っているだけ。自分かもしれないし、誰でもないかもしれない。私もそのようなものなのだろう。だだっ広い砂漠に棒人間一人書いて、これが私です、と定義すれば、それが私になる。わけもなく。
変な話だが、私は私としてではなく、定義されない一個体として、参加者や現地で出会った皆と関われたように思う。
~~~~~~~~~~~~~
中国はでっかい!世界はもっとでっかい!!         
 もともと、夏休みには海外旅行に行くつもりでいた。旅行会社のパンフレットを物色していたある日、学校でポスターを見かけたのが奔流中国との出会いだった。観光地を巡るだけのツアーなら爺さんになっても行ける。どうせなら今しか行けないようなツアーに参加したい。そう思って、奔流中国、その中でも特に異彩を放っている馬の旅、キャラバンへの参加を決めた。
 今回の旅のメインイベントは、シルクロードでの乗馬キャラバンだ。世界一の大陸、ユーラシアを西から東へ横断するシルクロード。古代の人々の冒険心が切り拓いたこの道を馬で駆け抜ける、というロマン溢れる旅なのだ。
 このように書くと何だか格好いいが、キャラバンの間は、普段とは比べ物にならないほど辛いことが多かった。日差しが強いのに夜は凍えるくらい寒い。馬はなかなか思い通りに進んでくれない。体中の関節が痛くなる。パンフレットに「旅に慣れている人だけ参加してください」というようなことが書いてあるだけのことはあった。正直、最初はここまでとは思っていなかった。シルクロードの開拓者たちも、これと同じような、いや、それ以上の困難を味わったことだろう。
 それでも、キャラバン最終日の本当に最後だけだったが、馬を完全に乗りこなせたような気がした。馬の走るリズム、呼吸の音、風の匂い、全てが混ざり合って、不思議な感覚を覚えた。もしかしたらこれが、張さんの言っていた「馬との一体化」の入り口だったのかもしれない。この一瞬があっただけで、辛かったことも全て楽しい思い出に変わってしまうほどだった。
キャラバンを通して、分かったことがある。現地の空気は現地でしか味わえない。草原の風景を作っているのは、テレビや写真でもわかる要素だけではなかった。音、風、気温、匂い、時間、景色の移り変わり、全て合わせて一つの草原が出来上がっている。世界はでっかい。このような場所、このような体験が世界のあちこちにまだまだ眠っていると思うと、ワクワクしてきませんか?
 これからもたくさん、あまり人の行かないような所へ行き、誰もやったことのないようなことがしたい。ただ、その原点として、奔流中国は一生忘れないだろうな、と思う。張さん、ありがとう!
~~~~~~~~~~~~~
・馬、自由
旅から帰った。
バックパックを広げると、舞い上がる砂埃とともに、旅から持ち帰った様々なモノが溢れ出た。
くたびれた乗馬ブーツ。
何かの骨。
石。
この旅に彩りを添えた、形あるモノ達は
今は家の片隅で少し居心地悪そうにしながら、日常に溶け込もうとしている。
帰国から少し時が経ち、この旅を形に残す機会に恵まれた。
そして、気づく。バックパックでは持ち帰れない、形のないものを持ち帰ってきたことに。
今やっと、おぼろげながらそいつの輪郭が見えてきている。
2010年、夏。
カラダは痛むし、馬は言うことを聞かない。不自由しか感じなかった、初めての乗馬キャラバン。
何もしなくても勝手に群れの先頭を走る馬。周りが言うほど実は楽しくなかった、馬の旅。
見渡せば歩く気すら起きないほどだだっ広いモンゴルの大草原で
もし馬がいなければ、と思うと途端に突きつけられる、人間のちっぽけさ。
いつ暴走し出すかわからないこの馬に頼るしか、此処で生きる術はないと知った時、覚悟は出来た。
そして、知った。
勇気を出して前に進む、ということ。
命をかけて手綱を握る、ということ。
切り裂く風の中で聞いた「生きたければ、前へ進め」
まさに人生のように。
いや、そこには23年間のどんな場面よりも、はっきりとした輪郭をもって迫ってくる「実感」があった。
持ち帰ったものは、大きかった。
2011年、夏。
「グレートキャラバン」というものがあるのは知っていた。
それが復活すると聞いた時、震えた。
ここに挑戦の場がある、と思った。
今度こそ、「自らの意志」によって馬で駆けよう。
願わくば、人馬一体の境地まで。
「自由」を得るために流す血を、今度こそ厭わない。
「本当に馬で駆けるという事を知る旅に出よう。」そう、決めた。
そして、何を思うか。
今度はどんなものを持ち帰れるか。
天山山脈麓。古の隊商路。草原というより、高原。
ここにいる意味を問う。
正直に答える。
行く手を遮る馬の群れ
群れの先頭から出ようとするのを制止する声
すべてが、ひどく邪魔だった。
それらを全て蹴散らして、地上の流れ星になりたかった。
とことん、我儘になってやろうと決めていた。
それは、「自分の意志」で「全力」で駆けることでしか、ここにいる意味を確かめられなかったから。
真摯に、馬と、自分と、向き合うためにとった不器用な手段だった。
ある方法を知った。
手綱をギリギリと引き続け、群れの後方に下がり距離をとる。
駆けるのに十分な距離ができたら、手綱を一気に緩める。それがGOサイン。
一瞬で空間が縮んでいく。
キャラバン隊で進む限り、駆け足で存分に駆けるには、この方法しかなかった。
勢い余って前方の群れに突っ込んで、ひんしゅくをかうこともあった。一向に構わなかった。
ふと周りをみると、同じようにのろのろと後ろに下がる奴らがいる。
自由に駆ける味をしめ、よからぬことを企んでいる目をした、迷惑な奴ら。
なぜか、嬉しくなった。
~~~~~~~~~~~~~
自由。
その言葉の意味するところ、考えてみたことはありますか。
本当の自由を、感じようとしたことはありますか。
70人が東を向いても、おれは西へはなむける。
70人が早足なら、おれは駆け足を。
別に、人と違うことしたからって、自由でいるとは少しも思わない。
でも、人と違うことするときってのは、それなりの覚悟がいる。
それだけの力がいる。
帰国後、参加者の一人が馬について語っていた。
馬に乗りながら、他の参加者の安全に気を配っているという。
鞍を縛る紐が緩んでいないか。鐙に足を深く突っ込みすぎてないか。
金網などの障害物が無いか。地面にでかい穴はあいてないか。見つけたら、即座に周りに伝える。
それは、ただの優しさから来るお節介じゃない。単なるコミュニケーションの手段じゃない。
馬が好きで、自分の意志で共に駆けたくて、血を流しながらやっと得た、力。そして、自由。
そいつは、やっと得たそれを、自分ではなく他人のために使えるやつだった。
力と自由に裏打ちされた、本当に人のためになることだった。
「お前とは格が違うんだよ」と冗談っぽく言うけれど、それは本当かもしれないと思った。
歩く度、今でも違和感を覚える右の足首。
握ると、少しだけ厚みが増した気がする手の平。
それに対し、確実に厚みが増した尻の皮。
自由に駆けたくて足掻いた跡。
自由が拠って立つものは、いたるところに刻まれていると気づいた。
強烈な、願いや切望。
手を伸ばし、足掻き、追い求める、何か。
そこに感じる、力の無さ。
不自由の塊である自分を自覚した時、血を流す覚悟はできる。
ワレモノ注意の五体を、馬に完全に委ねる決心ができる。
わかりきった事、なんかじゃない。
心からほんとに何か為したいと思わないと、自分を縛る鎖はそもそも見えない。
不自由を自覚する機会は生まれない。
おれはそれを、馬から教わった。カラダに叩き込まれた。
頭じゃなくて、心で感じた。
そうして手が届く、自由のかけら。
もしも、あなたが馬で自由に駆けたいと思うなら
おれは、絶対に追いつけないと思わせるスピードで後ろから抜き去ってやります。
「追いついてこい」と笑顔の中ギラついた眼をして訴えます。
あなたの不自由さを、わからせます。
この四肢を賭けるに値する何かを、背中で示します。
馬と人を隔てる境界線が溶けてなくなる、この何物にも替え難い喜びを、全力で見せてやります。
今までただ目の前の行く手しか見ていなかったこの視界を、少しだけ左右に広げて。
それがおれにできる精一杯の伝え方。
次に草原に帰ってくるときは
「馬で自由に駆ける喜びを知ってもらう旅に出よう。」そう、決めた。
旅から帰った。
心の中を覗くと、もう一人の自分が真っ直ぐにこちらを見ていた。
問うている。
この旅は、何だったのか。
狂乱のあとに、残るものは何か、と。
これは、答えのない問いに答え続ける、心の中の、もう一つの旅。
~~~~~~~~~~~~~
これから・・・。
 嫌で嫌で仕方なかった。
 日本に帰りたくて帰りたくて仕方なかった。
 一刻も早く故郷の地を踏みたくて毎日イライラだけが募っていった。
 退屈で平凡な大学生活に嫌気がさし、少し別の世界を見てみたいと思っていたころに
 見つけた「馬と旅する 奔流中国」のポスター。
 このキャッチフレーズに引かれて参加する人たちはきっと変わっているに違いない。
 私のこの平凡な毎日に刺激を与えてくれるだろう。
 深くは考えずに勢いで思い申し込んだ。
 旅が始まってみるとこれまでに受けた事の無いような衝撃の連続だった。
 リアルを見ていない人に説明する事もままならない衝撃を受けつづけた。
 参加者の皆が皆、「我」をはっきりと意識してた。
 自分の中では今まで20年間それなりに色々な経験をしてきたと思っていた。
 いじめ、中学受験、登校拒否、起業、不登校、高校中退、海外生活、大学受験。
 けれどここではそのどれもが意味をなさなかった。
 肩書きは関係ない。過去も関係ない。あるのはただ「今」だけ。恐怖だった。
 その仲間達と見た中国は偉大だった。
 経済発展のまっただ中、上海の町は「希望と自信」に満ちていた。
 そして、内地では雄大な自然に人間の小ささを感じさせられた。
 山や湖、人間の手が加えられていない自然に久しぶりに出会った。
 乗馬に関しては私は何も述べる事が無い。
 ただ馬達には「おつかれさまでした。」その一言を送りたい。
 この旅の最中「馬の気持ち」というのを考え続けた。
 けれども途中で見えなくなってしまった。私に気持ちの余裕がなくなったから。
 自分の小ささに気がつかされた旅だった。
 精神的にも肉体的にも限界を超えていた。
 自信という自信は打ち砕かれ、
 私はいったい何のために生きているのかと考える日々が始まった。
 これから先私はどの道をどのように歩いていけばいいのだろう。
 「参加するんじゃなかった。」それが私の感想。
 ただ、この今感じている孤独と苦しみとむなしささえ乗り越えれば
 この旅に参加した意義が手に入り、実りのある人生が待っているのではないか。
 そのように感じる。日本に帰ってきた今、私がすべきことはなんなのだろうか。
~~~~~~~~~~~~~
もともと私はモンゴルとか中国の歴史とか、そういった文化的な類のものには詳しくなくて、 今回奔流中国グレートキャラバンに参加したのも、単純に大草原で馬に乗ってみたかったからだった。
 でも草原や砂漠を延々と馬で走っている時に、少しシルクロードに想いを巡らせてみた。そこで、初めてシルクロードを渡った人たちは、もっと遠くのものを見てみたい、何があるのか知りたいという単なる好奇心から、あの長い長い道のりを越えて行ったのかなと、ふと考えた。  道なんてないから迷うかもしれないし、馬はいつ死ぬか分からないし、下手すれば自分だって死んじゃうかもしれない。そんなリスクを負ってまで、好奇心の赴くままにシルクロードを行く。正直最初は、命を賭ける必要なんてあるのかって思った。だって死にたくないもん。でもさ、実際自分が大草原と砂漠を馬で走っていると、もっと遠くに行きたいって思っちゃうらしい。  乗馬2日目のこと。「この先は岩場で危ないし、何時間かかるか分からない。遊牧民も進むことを反対している。もし落馬しても助けてくれるジープはない。そんな道を行きますか?それとも来た道を引き返しますか?みなさんが決めてください。」
そう言われて私は即座に、引き返すのだけは嫌だ!と思った。それと同時に、道が危険と聞いてわくわくしている自分がいた。リスクを楽しむなんておかしい。でも何時間かかったとしても、危険だとしても、前に進みたいと思った。戻ることはしたくなかった。  その先にどんな素敵な場所があるのだろう、どんな達成感を味わうのだろう・・・そう考えると、早く前に馬を走らせたくなるのだ。  その時、ああ、この気持ちこそがシルクロードを渡った人たちの原動力だったのかって思った。彼らにとって大事なのは、行けるかどうかじゃなくて、行きたいかどうか。そしてその行きたいところへ自由に馬を走らせることが、どんなに気持ちのいいことか。  私はまだまだ未熟で、完全に馬を乗りこなすことはできなかった。でもあの快感はやみつきになる。ずっと馬に乗って、もっと奥地へ、もっと人が足を踏み入れない場所へ行きたいと思った。人間の好奇心というのは、いつの時代も共通しているらしい。  私はシルクロードに触れて、何にも縛られない自分の純粋な好奇心を発見した。そしてこの気持ちを、日本でも大切にしたいと思った。
私たちが暮らす今の社会では、やりたいことがあっても、リスクを怖れてどうしても制限がかかってしまうことがある。でもその中を突き進んで何かに辿り着こうとすることは、命懸けでシルクロードを渡るのと同じでわくわくすることなのではないか。とりあえず行ってみよう、やってみようってすごく大事。奔流はこのことを教えてくれた。  日本人はどちらかというと保守的な人が多い気がする。だから私は、この好奇心のままに動くというわくわく感をもっと多くの人に伝えたい、そう思ってこの文章を書かせてもらった。少しでも多くの人が、奔流に興味を持ってくれますように。
~~~~~~~~~~~~~
剥ぎとる
シルクロードが好きだった。日本を出てみたかった。知らないことを知り、見たことのないものを見たかった。大学3回生の春、この夏が最後だと思い、参加を決めた。「感じる」旅にしようと思った。先入観とか知識とかプライドとか、余計なものは捨てて、ありのままの自分で勝負したい。初めての海外、知らない人たち、中国語も分からなかった。他のどんな感情よりも怖さが先行していた。出港して、海の色が変わっていくにつれ、固く緊張していた心がだんだんほぐれてい��た。大きな世界の小さな自分を感じていた。
まるで自分が子どもにかえったようだった。素直に喜び、歌い、踊った。そして、子どもになった私は、草原や砂漠に、人の心に、美しいものに触れるうちに静けさを求めるようになった。聞いて感じているだけで満足だった。一言でも言葉を発したらうるさいような気がした。砂漠の風の音が心に染みた。自分の中で燃えている炎があった。
乗った時急に背が高くなった気がした。視点が高い。遊牧民はこれを毎日見ているのか。自然を征服したような気がする。馬で駆ける。心地よい緊張感が体をまとっている。ぴりりとした空気。油断は許されない。砂ぼこりがもうもうと巻き上がる。圧倒的な迫力。すごい。馬の脚が砂にめりこむ。穴を飛び越え、よける。躓きそうになる。しかし馬はどんなに疲れていても止まらない。走り続ける。すごいことをやっている実感があった。馬とともに何かを飛び越えた気がした。叫びたかった。ためらいや躊躇など遥か遠くに行ってしまって、そのときやるかやらないかだけしかなかった。それまで馬と私の間にはなにもなかった。そこでつながりができた。張さんに、私が乗って馬は重くないのかと聞いた。張さんはふっと笑って、「重いよ」と言われた。そうか、重いのか。馬は私の重さを引き受けた。私はその重さを分かって乗っていただろうか。
私の馬は1日目、全く走ろうとしなかった。それは私が馬がかわいそうだと思って接していたからだろう。馬が痛いだろうと手綱を緩め、出発の時も腹を強く蹴ることはしなかった。馬を心の底で怖がる気持ちを「馬がかわいそう」という態度で覆い隠していた。しかし、一日走って分かったことがあった。馬は犬や猫のようなペットではない、中途半端な感傷や動物愛護の視点からは何も見えてこない。態度を変えた。何よりも指示を明確にしようと心がけた。甘さを捨てた。2日目、馬は見違えたように指示に従うようになった。同じ馬とは思えないほど。馬の目。優しく、そしてさびしそうな目。静かに遠くを見つめている目。馬には私の気持ちなど全てお見通しだったのだ。未熟な心の乗り手になど従うものかと。冷静に、しかし情熱的に、自分のはやる心を抑えて手綱を引く。
多くのことを気がつかないままセーブして生活していたことに気がついた。感動することを、そのまま受け止めることを忘れていた。できないと思ってやらなかったことが多すぎた。最後なんかじゃなかった。もう始まっていた。始まりだった。やりたいことをやるために生きているんだと分かった。もっともっと自由に生きたいと思った。
本当に生活に必要なものってもっと少ないのかもしれない。ただ頼りになる自分があればいい。旅はまだ終わらない。
~~~~~~~~~~~~~
旅と日常
 結局、奔流は自分に何を教えてくれたのか、それについて綴っていこうと思うのですが、この文章から私の考える馬との旅の意義、そしてそこから浮かび上がる日常での生の有り様を汲み取って頂けると幸いです。
 日常とは飽きるものです。私は生活の中での刺激のなさにうんざりしていましたし、何に対しても無感動のきらいがありました。生きている実感がないというのが適切であり、自分が存在しているといえるのかわかりませんでした。でも、それが他者への不信から生じる私の反応だということは自分でもわかっていました。今のままでは無感動の日々が続いてしまうため、何かに能動的に関わらなければと思い、偶然にも参加することとなったのがこのグレートキャラバンだったのです。馬や中国にこだわったわけではないのですが、結果としてこの旅は強い影響を与えてくれました。
 「馬に乗ると見える世界が変わる」と旅の中で何度か耳にしましたが、ただ物理的に視点が高くなるというわけではありません。馬上での視点は遊牧民やシルクロードの商人の視点であり、そこにおいて私は日常の自己を超越しています。つまりこの自己の他者化、相対化が可能となっているのです。新疆での馬の旅は、日本で生活を送る私を見つめる良い機会となりました。遊牧民としての可能性にある私、もはや旅の生活を新鮮な刺激とは認められない私はいたのです。しかし興奮させる刺激とは感動に必要なのでしょうか。いえ、そうとはいえません。旅の中で私は懸命に食べ、馬に意志を伝え、仲間と語りました。食事、乗馬、団欒、睡眠の繰り返しの中でも私は生きている実感をもつことができました。これは馬との旅の中でだけの感覚では決してないはずです。
 旅は普段の倦怠から逃れるリフレッシュの場ではなく、むしろ日常を見つめる時間を提供する積極的な意味をもった場であり、逆説的ですが普段よりも自分の日常に近寄れたように思えます。食事、勉学、音楽、睡眠に満たされた毎日に自覚的、能動的に生きることが実存感覚と密接しており、行動の内容よりも自分の主体的な在り方こそが重要なのだと、馬の背中で気付きました。他者から受け取るときも然りです。他者から伝達されるというのではなく、他者から受け取るといった主体性が肝要であるはずです。馬と同様に世界はそれに語りかけることなしに乗りこなせません。世界の中にあっても、その美しさを感じるには能動性が必要不可欠なわけです。
~~~~~~~~~~~~~
中国の夜から
 中国でわたしは闇に包まれた。光といえば星以外に見当たらず、目を開こうが閉じようが大差はなかった。そこにあったのは恐怖と同居する心地よさであった。
 人はわたしを他の誰でもないわたしとしようとする。ここにいるのが自分でなければいけない理由、すなわち他人に決して取って代わられることのない自分の確証を欲するのだ。なぜなら、その確証を得られなければ、わたしとしての存在を否定され、何者でもない誰かであることを認めざるを得なくなるからだ。この欲求に基づく行動は光を求める行為といえよう。より強い光の中に自己を置くことで、わたしの輪郭はより鮮明に浮かび上がり、外界とわたしとの差異をよりはっきりと確認することができる。ここに今確かにいるという感覚は得られるだろう。
 ところで、奔流の重要な語句の一つに「人馬一体」というものがある。「自分の行きたいと思うように馬が進んでくれた」と誰かが言っていた。しかし、騎手と馬との意志の一致という意味は、この言葉に似付かわしくない。この言葉が指し示すのはもっと高度な次元での「一体」ではないのかと考えた結果、「人と馬との存在の一致」と説明する考えに至った。
 人の視点からすると、人は自己であり、馬は他者である。だが不思議なことに乗馬を媒介としてそれらは溶け合う。ここにおいて人は乗馬中にも関わらず、馬に乗っていない。自己も他者もいなくなっているが、代わりに「自己と他者」という一つがいる。この状態こそが「人馬一体」ではないか。わたしはもはや自己ではなくなっている。冒頭で闇について触れたが、この存在の溶け合いは闇に身を置くことを比喩としても差し支えないだろう。闇の中では自分の手すら見えず、自己と他者には境界が見当たらない。自己と他者は混ざり合っているのだ。その時、確かに自己を保持し続けられない恐怖はあるが、同時に世界に拡散されるような快感すらある。
 大衆社会、没個性、一般人などの言葉に対してわたしは悪い印象を抱いていて、人は何者でもない自分であるべきだと考えていた。そして今もそう考え続けている。だが、ただ単に光を求め、それを浴びて生きるというのも違うように思えてくる。「人馬一体」が代表するような自己と他者との存在の関わりの肝要さを発見したからだ。ここで注意したいのは、闇にある自己と他者の関係は自己の埋没とは区別されなければならないところである。溶け合いと埋没という語からもその相違は歴然としている。埋没の際には自己は自己としてあり続けるのだが、世界でそれは覆われ視界に入っていないだけのことなのだ。この状態の快楽と闇での快感もまた区別しておきたい。快楽は自己を埋没させることで得られた、これもまた自己を表面的に覆う快に過ぎないが、快感は自己と他者という一つの存在で湧き上がり、その存在の内部で揺蕩っている快である。エピクロスが唱える「心境の平静」は、わたしがここで述べた快感から基づくものであると認識し、わたしは彼に賛同の意を表する。
 蓋し、存在は自己の唯一性を追求するものであり、その活動の結果として自他をより強烈に色分けしてゆく。そのことについて反対はしないし、わたしも例外でなくそのような存在であることを否めない。問題はその自他の完全な分離から感じる不快である。ここでいう不快とは疎外や孤独を感じていることなど、状況に応じて生じる好ましくない感情を指していると考えてもらいたい。自ら望んだ結果であるにも関わらず、不快を感じるとは皮肉なものだ。わたしはこの不快を見てみぬ振りをする仕方ではなく、根本から快に覆す可能性を「人馬一体」の中に見た。逆説的ではあるが、存在が自己を自己とあらしめんとする際には、同時に自己と他者の綜合が存在の精神の涵養という面において必要となっているのである。
絹の闇は優しく、世界は一つとなる。
~~~~~~~~~~~~~
旅が好きになった。
この安全で,快適な日本を出て,旅に出る。それは非常に馬鹿げていて,非常に贅沢なことなのかもしれない。
でも,旅は人を強くする。
どんなトイレでも使えるようになるし,並の不潔さには慣れる。どこででも眠れるようになるし,寒さだって我慢できるようになる。つまり,不自由さに直面して,それを乗り越えられるようになる。
文化交流とか,他者の理解ってこういう所から始まるのかな,とふと思うことがあった。自分が感じている不自由さも,原地の人にとっては既に「住めば都」状態なのだ。そんな生活は不自由なようで,実は意外な喜びに満ちている。食事のおいしさ,水の気持ちよさ,音楽の美しさ,本当にたくさんあった。だから,社会の教科書を開くだけでは違う国の生活は理解できないのだと感じた。そこは,ただの不自由な汚い世界ではないし,ロハスで優雅な自然生活,というのももちろん幻想だ。現場で自分が感じる様々な感覚が積み重なって初めて,文化は交流し,現地の人を少しは理解できるようになるのかな。とにかく,自分から一方的に持ったイメージなんて大した物でないのだと思った。
現場主義の重要性,なんて表現をしてしまうと思い出は一気に乾燥して,変なゼミ資料みたいになってしまうのだけれども。でも,グローバル,なんてキーワードのもとにズームアウトしすぎると,案外こういう所から足下を掬われるのかもしれない。
ここまでだったら,別に一人旅でも感じられたかもしれない。でも,集団の旅だからこそ起こる出来事だってある。
精神的,肉体的疲労の前ではその人の持つ内面の多くが表に出てしまう。集団生活の中で,強さ,弱さ,色々な側面が,乱暴に暴きだされる。テント移動,薪集め,緊急の対応。どれだけ状況を良くしたいのか,全体の中で自分には何ができるのか。リーダーとかフォロワーとか,さんざん講義され,勉強してきたかもしれない。でも案外,乱暴で粗野な形をとってそれらは試されるのだ。都会のビルのなかでは,なかなかその人の内面なんて閉じ込められたままだ。だから,一回旅に出て,自分の内面,他人の内面がぶちまけられる様子を目にうつして,(すごく恥ずかしくなったりして),そしてまた成長できたらいいのかなと思った。
そして,その人の内面がさらけ出される状況では本当に暖かい触れ合いだってあるのだ。
疲れて,自信も持てず,旅に不安を感じていた時。自分にできることはないのかと探して,それはあまりに小さい気がしてどうしようもなかった時。そんな時に,ふと一緒に食事を食べてくれたり,お茶をもってきてくれたり,そういう経験の中で僕はとても人間的な暖かさを感じた。
誰かにそんな暖かさを,僕もあげられるのだろうか。
なんて原始的な強さ,優しさなんだ。
旅に出て,感じて,そして帰ってきて研鑽する。また旅に出て,感じて・・・
とても健康的で,生産的な生活だと思う。
どうやら,本当に旅が好きになってしまったようだ。
~~~~~~~~~~~~~
馬と人との関係は何か。 馬は私達に何を与えてくれるのか。 現代社会での日本の馬の役割は昔のように移動や仕事としてではなく、ほとんどが人間社会に組み込まれ、人間によって飼育され管理されている。馬といったら何を想像するかと日本人に聞けば、ほとんどの人が競馬か乗馬と答えるだろう。それは、私達が身近に馬に接することができるのは競馬や乗馬くらいしかないせいではないか。「馬で旅にでる」という感覚は交通機関が発達している日本で持つのは難しい。魅力的でちょっと好奇心をくすぐるこの言葉、「馬で旅をする」これだけを頼りに私はこの旅に参加した。それは想像を超えるものであり、期待以上の満足感と喜びで満たされた。 今回のキャラバンはかつて交易の路シルクロードに添って歩んでいく。それは、日本のコンクリートではなく、道があるわけでもない。ゴールもなく右や左、振り返っても前も後ろもない世界であった。道無き道を自ら決めて進んでいくのである。ひたすら自分の信じた道を進み行き、道標となっていくのだ。バインブルグ高原では遠くの小高い山々に囲まれ馬で群れとなり、時には馬の腰まで浸かる川を渡り、時には息を飲むほど美しい川に映る夕日を見た。ゴビ砂漠では越えても越えても続く砂漠の山を、埃を被りながら何十頭もの馬で一列になり、何時間もの間進み歩いた。この中で馬と自分だけの道を切り開いていくのだ。 このキャラバン中は何十頭の馬の群れの中でも乗り手は馬のことも考えながら、各々のペースで進み行く。馬を休ませるのも走らせるのも自分次第なのである。 これは日本の乗馬クラブでは決して出来ないことである。まず、馬の数をそろえることから難しいだろう。 もちろん日本の乗馬クラブの外乗も素晴らしい点はいくつもあるが、ある程度決められた大きな柵の中を、誰かが何度も通った補正された道を歩いている気がしてしまう。しかし、ここは違う。キャラバンは全く異なる。何も囲われていない地を自分で決め進んで行く。しかも自分だけのペースで。また、このキャラバンでは決められた馬に乗るわけもなく、同じ乗り方を教わることもない。乗る姿勢や馬をきれいに見せることを習うわけでもない。 参加者全員が自分の道を自ら決め、馬から乗り方を教わり、身につけていく。ただ、自分の好きな道を好きな乗り方で馬と決めていく。それだけだ。たとえ初日に馬に乗る事が困難であった人も時を増すごとに自分の持ち馬を知り、試行錯誤しながら人馬一体に近づいていく。ここも日本の乗馬と異なる点である。一時間ほど馬に乗り、また午後に他の馬に乗るというのではなく、同じ馬に1日中朝から夕方まで縦の揺れの中にいるのだ。しかも数日間。だからこそ、人からではなく馬から教わることで身体を通して学ぶことができる。私はこれがグレートキャラバンにしかないもので、一番の魅力な点だと思う。大自然の中で人が自然と馬に慣れて、乗り方も道筋も自分と馬で決めていくのだ。今までずっと出来無かったことで、挑戦したいことの一つが叶えられたのだ。
この感覚は一ヶ月、二ヶ月経った今も覚えている。このキャラバンに参加して馬の大切さと騎乗の楽しさと喜びを再び実感することができた。想像以上の実体験があったからこそ帰国してからの寂しさと空虚感は大きかった。見えるようで見えない道を進む乗馬と普段の生活を照らし合わせて日本の日常生活に戻った。いつかまたこのキャラバンが開催されれば参加したい。完全にキャラバン中毒になってしまったようだ。
~~~~~~~~~~~~~
なんで今私ここにいるんだろう?って自問自答しながら旅を続けて
時には酒におぼれた夜もありました。
でも最終日、ハッと気付いたんです。これは“トキメキ体験ツアー”だと。
��流にはいろんな人間が集まる。入れ替わりもあるが最大で70人の人間が
同じ土地で、同じ空気を吸い、同じ飯を食べ、同じ生活をする。
70人の人と一気に知り合えるなんてそうそうない。
旅で出会った全員と仲良くなれたわけじゃないし、
一言二言しか話さないでよく知らないままの人もいるけど、
とにかく奔流にはいろんな人間、いろんな考え方、いろんな知識を持った人がいるなぁ、ってすごく刺激になった。
70人も集まれば、その中でそりゃあ魅力的な人もいたし、気が合う人が現れ、
彼らと話していると楽しくって嬉しくって、毎日トキメキだらけだったように思う。
帰国後facebookで友人ポチからの質問に
「自分が失ったらいけないものは何?」という項目があったんだけど、
それ、自分の場合は“トキメキ”かな、と。
トキメキって恋愛感情ももちろんあるけど
人間として好きになったり、見た景色にときめいたり、
羊のお尻にキュンキュンしたり、いろんなものにときめくことが
私の中ですごく大切なことなんじゃないかって考えた。
ときめくって言葉を辞書で引いてみた。
“期待や喜びなどで胸がどきどきする”“心が躍る”
ドキドキしたり、ワクワクするようなことが無くなった毎日だったら
楽しくないじゃないか。生きているのに。旅行はドキドキワクワクが倍増する。
しかもツアーは奔流。ときめかない訳がない。
お金に換算するのはえげつないけど、結局自分の勘違いでこの旅に20万という大金を払って良かった、と思う。
旅が終わってからも、ときどき集まって遊んでもらって、ずっとつながっている感じ。
今もすごく楽しい。奔流友達大好きです。
一言で言うと、
奔流中国、ありがとう!!
~~~~~~~~~~~~~
一人対一頭
馬は私をドキドキさせるのだ。
自分を乗せて歩き始めたとき、ものすごいスピードで駆け出したとき、馬が止まらないとき、馬上で出発を待つとき、
馬上だけではなく、馬のそばにいるどの瞬間にも心は高揚していた。
一方でケガや死に対しても警戒している。相手は動物なのだから。
調教によってある程度の扱い方や性質は把握できているため、「乗り物」として支配することは可能であるが、自動車や自転車とはわけが違う。個々の性格も違う、替えの部品なんてない乗り物の中では危険性に溢れた存在なのだ。
そんなリスクと同時に、生きた彼らとやりとりにドキドキするのだ。
乗れば彼らが呼吸をし、熱を持っていることがわかる。生きているのだから当たり前なのだけど馬に乗ることが同じ生物とのやりとりであることが実感できて嬉しいのだ。
乗馬キャラバン一向を後ろから眺めていると、一人対一頭とのやりとりが50以上の群れをなして走っている光景は圧巻だった。
もちろん自分の力だけで馬を走らせていたわけではない。馬の習性をよく利用した遊牧民達の下でキャラバンは統率されていた。
遊牧民の人が走りだせばまわりの馬が走りだし私の馬も勝手に走り出す。そんなときはいつもぐっとたずなを後ろに引き、減速の指示をする。 もっと一人対一頭のやりとりをしたいからだ。
群れの後方まで下がったところで走れと馬のおなかを蹴る。「待ってたぜ」と言わんば��りに馬はスピードを上げて駆け出す。
草薮や他の馬に激突しないようにコースを考え指示して、減速させないように馬の跳ねるテンポに合わせて体を動かす。
スピードへの恐怖はいつだってあるけれど、スピードを恐れたら姿勢が乱れて馬の走りを阻害するので走る速度を上げることに集中する。
自分の体が限界を超えたっていいからもっと走れと感じていた。
駆け足の間は否が応でも馬と自分のやりとりが激しくなるのだ。
広い砂漠の真ん中で群れから離れ、物理的にも精神的にも一人対一頭になれる機会があった。
この馬はこの砂漠を抜けるために必要な手段であるし、私は馬にとって最適なルートと走りを選択しなくてはいけないことを感じて馬で旅をしている実感が深まった。
そんなドキドキさせる行動と環境がこの旅に求めていたものなのだ。
~~~~~~~~~~~~~
奔流とは (張宇氏のFBより) 奔流は毎回必ずしも同じ形でない。だけど、奔流は目指す形がある。屈折しながらもいつか必ずそれに成るように努力する頑な姿勢が、それが奔流である。 奔流の理解は必ずしも同じものでない。そこにそれぞれ人間の生い立ちがある。だけど、泥でも沼でも、奔流を汚すことができない清らかなところ、それが奔流である。 奔流に求めるものは必ずしも同じものでない。奔流が求められるものを応えるために存在したわけでもない。だけど、奔流は、もっとも大切なものに気づかせてくれる。「人」の中のなにかを呼び起こすことができる。 奔流が必ずしもすべての人は必要とは感じない。大樹でも、野薔薇でも、弱草でも、必要とする人もしない人も居ると同じように。だけど、そもそも奔流がだれかが必要のために存在しているわけではない。奔流は尊厳のために存在している。 奔流は自由である。社会主義の崩壊と同じように、奔流の自由は、人々はより強い人間を目指す、より賢い社会を目指す、ことが絶対必要条件である。だから、自己堕落が奔流じゃない。 奔流はまた必ずしも自由ではない。自由を選択する人には最大の自由がそこにあると同時に、自由を選択しない人にも自由でなくても生きていける道はそこにある。 奔流は、傲慢、貪欲、堕落愛、原始的、保守的、非民主的である。 奔流は、尊厳、渇望、ブラトン式愛、固執、超時代的、反政治的でもある。 奔流は一種の無為の中で為したものである。
~~~~~~~~~~~~~
記憶は草原の風のように、砂漠の砂のように消えていく。 もう忘れてしまったことがたくさんある。 音も、景色も、日程も、遊牧民の名前もすべて曖昧になってしまった。 しかし、形のない大きな感動は、今も心に焼き付いて離れない。 いつかまた同じ場所に戻ったとしても、同じ記憶は蘇らないだろう。 生きものは、常に変わってゆくのだから。 人間であっても、動物であっても、植物であっても。 自分が変わる。仲間が変わる。自然は秒単位で移り変わり、二度と同じ景色を作り出さない。 馬と私、息を切らせて駆け抜けた。愛おしくなったりいらついたり、まるで人間同士のように。 人間と人間、音楽や景色を通じて、ことばに出来ない感覚を共有した。ぐっと本能的に、まるで動物のように。 まためぐり合うとき、私たちは必ずどこか変化していて、同じような感覚は戻らないかもしれない。 それでもまた、新鮮な喜びを見つけ合えるようなお互いでありますように。 キャラバンは終わらない。
~~~~~~~~~~~~~
世界で一番海から遠い場所               
 焚き火を囲む宴会の活気を遠くに聞きながら、地平線の彼方まで広がる草原の暗闇に一人ぽつんと仰向けになり、広大な星空を眺めていると少し離れた暗がりからぬっと人が現れて宴の方へと帰っていった。どうやら用をたしていたようだ。キャラバンの旅では男女問わず青空トイレが基本、とはいえとうとうライトも持たず星の明りのみを手がかりに用を足せるようになったんかぁ、なんてその人の耐性にいたく感服してしまう。しかし暫くしてから「柵の近くでしたから踏まないようにね!」っと大声で後発のトイレ隊に注意を促すのが向こうから聞こえると、ドキっとしながらつくづく思う「ちょっと遠いし汚いが便所はあるからそこでしたらいいのに。」と。言語を絶する大草原、彼方に霞む荘厳なる山々、息をのむ満天の星。ここはバインブルグ、トイレからも最も遠い場所。
 この旅に参加しようとした動機が何だったのか忘れてしまった。というよりそんなもの端からなかったと言ったほうが正しいかもしれない。別段見たいものがあったわけでもやりたいことがあったわけでもない。ただどっかに行きたかった。だから道中で知り合った仲間が堅牢で明確な参加理由を持っていることを知って感心しつつも幾分ばつが悪かった。この旅で生まれて初めて馬に乗った、数日乗っただけでえらそうなことは言えないけれど馬を操ることは自分自身をコントロールすることのように思える。不安や恐怖、焦燥や慢心といった雑念を心から取り去り馬に心を開くことが重要で、それが上手くいかないと馬も言うことをきかない、しゃくしも馬もとはよくいったもの。もしかしたら乗馬は禅のようなもので張宇氏の言う「人馬一体」とはその一つの境地であるのかもしれない。馬との旅はこれまでの自分の旅の中でも最も自己と向き合った旅だったかもしれない。
帰ってきた今、今回の旅を思い返せば旅に出る前に思っていた以上のものを得られたと思う。美しい風景とか異文化体験はもちろん、乗馬の感動、個性豊かな人達との新たな輪、信じられない程険しい山道を車で十時間かけて越えても折れない心、腹ブレーク。キャラバンでは信じられないようなハプニングが平気で起る。追い詰められたら人間誰でも地が出るもんで、そこでホントの自分に気付く。本性を鍛えるには、安全でルーティンな日々や紋切り型の海外ツアーでは決して成し得ない。やっぱり追い詰められなきゃいけないと思う。
驢馬が旅に出たところで馬になって帰ってくるわけではないと言う。例え驢馬は驢馬でもきっと旅に出る前よりもたくましい驢馬になって帰ってくる。そんなお金じゃ買えない価値がある、自分だけの旅は是非奔流中国で。
「驢馬が旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけではない。」そんなアイロニカルな
0 notes
yurulog · 4 years
Text
2019年にヤったえっちげを振り返る。
この記事はアドカレの記事ではありません。参加してませんし。なんか書きたくなったので殴り書きしているだけです。
もう今年も残り10日程度と言うことで、月並みだけど今年もあっという間。だけどえっちげの消化は去年より少ないんじゃね…?と思っているところです。実際のところどうだろうね、振り返りながら数えていきたいと思います。
・プレイしたえっちげ
1. ハピメア -Fragmentation Dream-@Purple software
動機:遠野そよぎさんのキャラが相当人気あるから。
ぼくはえっちげ声優の遠野そよぎさんが大好きです。ハピメアに出てくる舞亜ちゃんが相当人気があるキャラで、そよぎさん好きなのにやったことないなぁと思い、原作をまず去年の10月頃にプレイした気がします。
ちなみにハピメア-Fragmentation Dream-は頭文字通り、Fan Discです。
主人公はある事件以降、夢の中で夢と気づいてしまう現象、明晰夢に悩まされるお話で、現実世界の明晰夢の2つの世界線で話が進んでいきます。そんな難しそうなハピメアも、難しいことは難しいけど、属性で言うと妹ゲーです。
実妹の舞亜、幼馴染の咲、後輩の景子と、年下の妹感あふれるキャラが3人もいます。そしてみんなおっぱい大きくないし、ロリっぽいし、ぼくにとっては最高のヒロインたちでした^_^
ネタバレになり過ぎるからうまく書くのは難しいけど、FDと言うよりも、原作の続編みたいな感じで、ボリュームも凄い凄い。Purple softwareのゲームは、ハピメアしかやったことないけど、これ以外にもプレイしたいなと思った。
2. ソーサレス*アライヴ! ~the World's End Fallen Star~@Fluorite
動機:体験版は低調な評価も、光るポイントを感じたため。それに花澤さくらさん。
FluoriteはDMM GAMESですね。この作品にも遠野そよぎさんがいらっしゃいますが、花澤さくらさんがいらっしゃるのもプレーした1つの理由です。
ただ、体験版は低評価で、誰も話題にしていない…そして1度だけ3ヶ月の発売延期(10月→翌年1月)しながら、12月上旬にはマスターアップと、「おいおい工程大丈夫か?納期長めにとったのはライバル作品避ける為か?」とオタクを不安にさせた記憶があります。
何故体験版が低調だったかと言うと、このゲームは2部制を敷いていて、面白くなったのは全員のルート終わった後の第2部のアライヴ編からで、第1部のソーサレス編の評価は正直そこまで高くありません。が、まぁ多少話長ったらしいところはあったけど、ソーサレス編も言うほど嫌いではないな…。
主人公が現代から古代の世界へタイムスリップする異世界転生ものですが、別に苦手ではなかった。文字通り、光るポイントがあり、後半戦で大化けしました。体験版やってみて、自分の中で良いポイント見つけることが出来れば、絶対面白い作品です。
基本的にメインヒロイン4人が魔法の団体競技で絆を深めていくお話だけど、この4人の行く末を見守りたくなったのも大きい。ただ、アライヴ編で驚きの展開が待っています。
キャラで言うと、花澤さくらさんが演じたユーミ・オーリエトちゃんが可愛すぎてもうダメ。白髪黄色目は性癖過ぎてダメだって。それでちょっと高飛車で、自信家で最強のキャラを演じたユーミちゃんが1番好きです。ちょっとSなところもあるし、花澤さくらさんって演技の幅広いなと思った作品です。
3. Sugar*Style@SMEE
動機:SMEEはラブラブルから全作プレイしているため。
自分が好きなえっちげブランドはSMEEと言うことは特に誰も知らないと思うのですが、1番好きです。ですが、今回は色々ケチをつけて、発売日にはSugarStyleではなく、ソーサレスアライヴ!を購入して、実際プレイしたのは発売から3ヶ月遅れでした。 
SMEEと言えば、宅本うとさん&早瀬ゆうさんのタックが強くて、早瀬さんがシナリオを担当する場合が多かったのですが、今回はモーリーさん&岸田ソラさんと言うシナリオライター2人体制で、ちょっとどうかなぁと思うところがありました。早瀬さんは一応いることはいるのですが、今回はディレクションに回ったので…。
悪くなかったのですが、SMEEでは案の定あまり評価していない作品になってしまいました。主人公が専門学校の女性寮に入る凄いお話でしたが、主人公としてそこまで魅力的に描いているとは感じなかったし、主人公が結構スレスレなボケかましているため、結構嫌われてない?なんで好きになったの?と思うところがありました。
ちなみにこのゲームにも花澤さくらさんがいて、勿論真央ちゃんも好きなのですが、それ以上に叶芽枢さん(一応新人えっちげ声優扱いです)が演じた冬月かなめさんが良かった。ビューティープリンセスながら可愛いものが好きで、だけどしっかり年下に当たる主人公の主導権は握っていて、とても羨ましい関係性だなと…。 
導入部分に疑問符はあるものの、イチャラブゲーとしてはやっぱりクオリティ高いのがSMEE。笑えるところも多々あり、しっかりSMEEの作風のゲームにはなっています。
ただ、初めてSMEEに手を出すなら、Sugar*Styleはおすすめしないかなぁ…。まぁ、かなめさんのおかげでそこまで低調な評価ではないです。
4. アオナツライン@戯画
動機:戯画っぽいところ。音楽にぬきたしやプレカノ作品で名を上げたえびかれー伯爵がいた。
今年プレイしたえっちげで1,2争うくらい好きです。なのに、発売日に体験版で光るポイント見つけることできず、購入を5月くらいにずらしたのは最大の失敗でした。
湘南が舞台のゲームで、海辺の学校を舞台とした学園ものえっちげです。まず、絵と雰囲気が最高に良かった。平凡なヒューマンドラマですが、学生男女グループの甘酸っぱい三角関係や人間関係の衝突など、人間臭さをうまく表現していたと思います。
最初は主人公、男幼馴染、ヒロイン幼馴染の3人だったけど、後輩、お嬢様を加えて、5人グループで夏を過ごすわけですが、ヒロイン幼馴染の海希ルートでは3人が仲良くなる生い立ち、共通ルートでは5人グループになる生い立ちがリアルさを交えて丁寧に描かれています。スクールカースト下位扱いの主人公と上位扱いの海希と男幼馴染の千尋。ここの話はスクールカーストの残酷さをうまく描いていると思います。
Blue,Summertime Blue.サブタイトルにもなっていますが、ED担当した紫咲ほたるさんが歌った「Blue,Summertime Blue.」も最高でした。実際、自分はプレーする前にライブイベントで聞く機会があり、感動して周りのオタクが泣いていました。正直、これもプレー��る動機に繋がったと言えます。この歌の背景にあるストーリーってなんだろう、って。体験版で購入スルーしたものの、ライブイベントの後、すぐアオナツライン購入した良い思い出です。
5. 抜きゲーみたいな島に住んでる貧乳はどうすりゃいいですか? 2@Qruppo
動機:前作がシンプルに面白かった。綾瀬理恵さんもED担当として続投になった。
おそらく末代でぬきたしの存在を最初に示したのは自分と言う自負があります。なぜなら、原作のOP担当が大好きな綾瀬理恵さんになったと同時に注目していました。しかし、ここまでキチガイな体験版から話題を呼び、スプラッシュヒットを噛ますまでは想像できず、まさかFDではなく、ぬきたし2が発売されるとは…。
無印の勢いを考えれば、よく2の最後の最後まで突き抜けたなと言うのが感想で、全然マンネリ化を感じませんでした。ハイセンスな下ネタに磨きがかかる、流行りの異世界転生ものをまさかの形で使う、新キャラもメインどころで目立ったなど、とりあえずプレイヤーを飽きさせない趣向が存分に見てわかるゲームでした。
不満点と言えば、ビック3ルートのお話…なんだけど、これ突っ込み過ぎたらネタバレになるな。まぁ、できれば一部の結末の描き方をそれぞれ違った形にしてほしかった。まぁ、これはわかる人にわかってもらえればと思います。そのせいで、勿論評価は高いけど、アオナツラインほど評価は高くないです。今年プレイしたえっちげのなかでは、3番目にきます。あと、スス子攻略させろ!
無印のことが考えると、音楽にはえびかれー伯爵先生がいるし、声優は花澤さくらさん、そらまめ。さん、沢野ぽぷらさん、伊ケ崎綾香さんなどいて、アーティストも綾瀬理恵さんに綺良雪さん、そしてもはやえっちげーまーの間では全国区になった夢乃ゆきさんと、知る人ぞ知る実力派の方が多くて、キャスティングも100点満点と言えるゲームです。
そしてシナリオライターの倉骨治人さん、神近ゆうさん、企画のナガトサチさんはQruppoの方で、ぬきたしだけでは終わらない雰囲気がプンプンしています。次が1番難しいと思いますが、2作目のえっちげも全身を勃起させながら待っています。
6. 恋愛、借りちゃいました。@ASa Project
動機:大好きなアサプロだから。
HOOK系列のアサプロのなかでは賛否両論が1番別れるゲームで、最初はそこまで評判良くなかった記憶がありますが、批評空間で平均値と中央値照らし合わせても、比較的評判が良いかりぐらし恋愛が1,2点上回っている程度で、プレイする人は選ぶけど、良作に十分入る作品と言えると思います。
主人公の性格が嫌だ。なんで惚れたかわからないと言うのが合わない人の理由ですが、その背景を踏まえながら、高評価をつけた自分的には納得できるポイントがあります。
まず、主人公からヒロインまで常識人を探すことが難しいです。主人公は特殊な家庭環境から歪んでしまい、金を妹を幸せにすると信じ、一部ヒロインから金の亡者呼ばわりされます。高額バイトを探す中、レンタル人材派遣の仕事をする主人公ですが、本作のヒロイン4人から共通ルートから全員の仕事依頼を受けます。
その内容からしてヒロインから常識人を探すのほうが難しい気がして…。
・クラスメイトの絵未は彼氏の振りをして欲しいため、主人公に金銭を渡す。 ・同じくクラスメイトで絵未の幼馴染でお嬢様である八純はお友達が欲しくて、お友達料を主人公に渡す。 ・ちなつはお兄ちゃんが欲しいからって理由で、主人公に兄役の依頼として金銭を渡す。(妹のこなつはそれをひっかきまわす) ・予備校で講師をしている年上の椿は親に適当に男遊びしていると思われるために、主人公と愛人契約をする。
と、まぁ常人では理解できないお金の使い方をしているヒロインがたくさんいるわけです。歪んだ主人公vsキチガイな思考を持ったヒロインの構図で、主人公自体容姿は整っているので、ちょっと優しくされただけでバカ女が勘違いする要素は結構あると思います。  
現に絵未と八純はちょっとお花畑っぽいところあるし、双子のこなつは特に突き抜けている。こんな環境だから、主人公の人の悪さは別に気になりませんでした。
これが前途の通り、4人の依頼同時進行で進むわけだから、結構話のつじつま合わなかったりするかなと思いきや、そんなことも見受けられず、よくまとまったと思います。今回はシナリオライターが八日なのかさん1人体制だったので、ちょっと心配な点もありましたが、この作品で良い印象に変わりました。
そして、八純と絵未ルートに入る前のある選択肢は一見の価値ありです。札束と通帳。
7. 和香様の座する世界@みなとカーニバル
動機:みなと系信者だし、安く手に入ったのでとりあえずやっとこうと思った。
久々のタカヒロ作品。そしてRewriteぶりの田中ロミオさん。凄い組み合わせですよね。前作のみなとカーニバル作品である姉小路直子と銀色の死神は体験版から終わっていて、案の定オタクから凄い不評でタカヒロ限界説がささやかれていましたが、和香様は素晴らしい出来でした。
まず、このゲームの価格はミドルプライスで税別6800円とは思えない厚いボリュ��ムで、絶妙な尺の長さ加減だったと思いました。基本的に1本道で、話の結末はTRUE ENDのみで、分かり易い道筋です。日本神話を基にした珍しいゲームで、タカヒロさんお得意の神奈川県が舞台。今回は鎌倉で、地の利を活かしている辺り、タカヒロさんらしいなと。
日本神話を基にしていて、神である和香様は人外的な能力を持ちますが、数千年封印されていて、それを解いた主人公が、和香様のお世話する流れです。これだけ聞くと王道ラブコメっぽいの連想しがちですが、さすが田中ロミオさんで、和香様が現代生活に慣れていく日常の描写とか、日本神話の妖怪についてうまく描いたり、これらがすべてテンポのがよかったので、スイスイテキストを読み進めることが出来ました。
アマテラスとかスサノオとか聞いたことある神について少しは詳しくなれたんじゃないかなと思います。それらと戦う和香様…。凄いスケールが大きい話なので、説明がいまいち難しいです。とりあえず、和香様の世話がしたいなと思ったゲームだし、オタクと和香様の聖地巡礼(鎌倉・江の島観光)するのが楽しみです。
8.どっちのiが好きですか?@HOOKSOFT
今年1番面白かったえっちげです。SMEEの宅本うとさん信者のくせに、HOOKは初挑戦でしたが、内容がほぼSMEEのゲームと変わりなかったので、すぐに馴染めて、一杯笑えて、イチャラブっぷりを堪能することができました。
1ヒロイン2ルートあって、共通ルートは多少短めですが、その代わりルートがリードする・リードされるの2種類あって、ヒロインの魅力を余すことなく描くことが出来ていると感じました。  
特に同じクラスで生徒会長の英摩耶ちゃんは本当可愛かった…。主人公は風紀委員・クラス委員長と言う立場で、摩耶ちゃんとは優等生同士として凌ぎを削り合います。摩耶ちゃん、ドSなのに打たれ弱いところが結構あって、ギャップにやられてしまいました。この行だけやけに長いな。長くなっちゃうんです。
昔、HOOKのゲームで『HoneyComing』と言うゲームがあったらしいです。そのゲームのキャッチコピーが『純愛は、HOOKが完成させる。』と言うことで、これ聞いた瞬間、『あぁ、アイスキで純愛は完成したんだ…。』って真剣に感じました。
自分が求めるえっちげ象に本当に近いです。学校やバイト先でヒロインと笑って、仲を深めて、イチャイチャして、自分が学生時代成しえなかったことをほぼ全部やってくれる素晴らしいゲームです。不治の病である青春コンプレックスの処方箋として、HOOK系列のゲームはずっとプレーするんだなって思いました。
ちなみに、宅本うとさんが携わったHOOKのゲームは全部購入したので、来年は優先的に消化したいなと思っています。
最後に
今年プレイしたミドルプライス・フルプライスのえっちげは8作品と、去年と比べて4作品少ない寂しい数でした。個人的に新生活を迎えたことと、他の趣味が思ったより白熱してしまったり、2つの要因でどうしてもえっちげに時間を割くことが出来ませんでした。
ただ、来年は最低でも12作品プレイできればなと思っていて、どんなに忙しくても、1日30分最低プレイする習慣を再びつけることができれば、達成できると信じています。
現に去年は仕事と他の趣味と折り合いつけながら、最低1日30分ずつプレイはしていたので、そのおかげで月1本は消化することが出来ていました。現代ではえっちげは尺が長いし、PCがないとプレイできないので、手軽にプレイが出来ないと言う欠点を抱えています。そして、どうしても昔と比べると作品も減っていて、どんどんユーザーが減少してしまっているのが現状です。
それでも、昨年現れたぬきたしのように、やっぱり面白いえっちげには尺が長かろうとユーザーが着くんだなと再確認することができ、イベントに参加したときも、やっぱりまだまだ死んでないなと実感することができたのは凄いよかったです。
18禁ゲームにしか表現できないことって、まだまだたくさんあると思うんです。それが去年可能性を見出したぬきたしのように、この世には出てない18禁ゲームでしか表現できない面白いアイディアがまだまだあると思います。SMEEやアサプロの下品で笑えるテキストも、これもやっぱり18禁ゲームでしか表現できないと思うし。
いくら業界的に下火とは言え、システム的には進化しているし、シナリオ見ても、面白いゲームはあるし、HOOKのように16年連続発売延期なしと言うしっかりとしたブランドもあります。悪いニュースだけ見て、えっちげを貶されるのは仕方がないのことですが、やっぱり残念に感じてしまいますし、良い物を作っているブランドにはしっかり報われてほしいなと常に思っています。
最後のまとめ、全然まとまりのない文章だし、お前死ぬのかみたいな硬い文章でしたが、まぁあんまり自分は面白みがある人間ではないので…wここまで最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
追記 2020/1/1
9.アメイジング・グレイス -What color is your attribute?-@きゃべつそふと
動機:おわたんが推しているし、キャスト・制作陣から想像する作風が自分に合致と感じたから。
発売からほぼ1年遅れの2019年12月末にプレイ。そして、2020年1月1日に攻略完了し、1週間足らずでクリアしてしまった。そのくらいテンポよく進みました。
きゃべつそふとの処女作である星恋*ティンクルが低調な出来で低評価に繋がり、2作目であるアメグレの体験版プレイしても何故か自分の中で期待値が上がらず、プレイが1年もずれ込んだのは大きな間違いでした。そもそも、ランプのMagical charming!でお世話になった冬茜トムさんがいる時点で見送るのはちょっと…って感じです。
アメグレは表向きは異世界転生ものです。個人的に、最近のえっちげは異世界転生ものは外れがあまりないと思います。それでいて、トムさんはしっかり物語に伏線を忍び込ませ、驚きの伏線回収方法で、プレイヤーのことを楽しませることに長けています。実際、アメグレもその調子で物語が進んでいきます。
それに加え、伏線を忍ばせるポイントにタイムリープと言う手法を用いていて、少し景の海のアペイリアに近い雰囲気を彷彿とさせました。ただし、難解なアペイリアと違い、要点をまとめた遡り方なので、何層になっても難解にならないし、すっきりとした仕上がりです。
(アペイリアは普通に好きだし、難解と感じるわけにはすぐに理解できなかったら自分の飲み込みの遅さに原因があります。)
ちなみに、どのような世界かと言うと、日本のある寒い地域を模した所で、オーロラに包まれている町が舞台です。その町の住人はオーロラの外に出ることはなく、世界はこの閉鎖的な町しかないと言い伝えられています。なので、現代社会とは遠くかけ離れた所が舞台です。
原画は梱枝りこ先生だけど、最近のりこ先生の絵より昔のほうが好き…と思っていた勢ですが、プレイしていくうちに慣れました。そしてやっぱり可愛いです。サクヤが好きです。そして、お話進めていくうちに驚きの設定が明らかになるのではないかと思います。
アメグレは今年プレイしたえっちげの中では4番目に好みです。話の組み立て方だけ見たら、今年1番の出来かもしれません。良さを伝えようとするとネタバレに接触するから、気になる方はまず体験版プレイしてほしいです。
0 notes