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#変化の可能性その変化がもたらす新しい秩序は無限にありそれを良いほうにも悪いほうにも変えられるのは私たちの想像力だけ
ari0921 · 5 months
Text
我が国の未来を見通す(92)
『強靭な国家』を造る(29)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その19)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
 久しぶりに私的なことを書かせていただきます。
4日の土曜日、神保町まで足を運び、開催中の「神
田古本まつり」で手当たり次第に古本を物色したと
ころ、いつものように“即決”を繰り返し、なんと
12冊もの書籍を一挙に購入してしまいました。
“秋の夜長”などと悠長なことは言っておれない日
々を送っているのですが、ジャンルも違い、著者も
発刊年次もばらばらな書籍をみて、改めて自分の
“好奇心の旺盛さ”に驚くほどでした。
実は書きたかったことは別にあります。どの書店を
訪れても、古書ではありますが、それぞれの分野の
“専門書”が小説や雑誌などに交じって“所狭し”
と陳列されていました。改めてそれぞれの分野の研
究に一生を捧げ、書籍のような形でその職責を残さ
れた専門家の皆様のご苦労とか責任とか愛情とかが
伝わってきて感慨深いものがありました。
そして、古本だけによけいに時代の流れとか歴史を
感じ、その積み重ねの延長に“現在社会”があるこ
とを再認識し、改めて自分の浅学菲才を恥じ、敬意
を表するばかりでした。
最近は、必要な古書はほとんどアマゾンで買ってし
まいますので、本当に久しぶりの神保町でしたが、
もう少し時間の余裕ができれば、足を運ぶ回数が増
えそうです。
5日の日曜日は、「ゴジラー1.0」の映画を観賞
しました。これから観られる人たちのためにあらす
じの紹介は省略しますが、終戦直後の東京にゴジラ
が上陸するというシーンでした。
ゴジラ自体はフィクションなのですが、ゴジラに立
ち向かった主人公をはじめ、関係者の勇敢さはみご
となものでした。しかし、それ以上に、製作者がこ
の映画を通じて訴えたかった、当時の「日本人の精
神」のようなものが手に取るようにわかり、「日本
もまだこのような映画が作れるのだから“捨てたも
のではない”」と安堵しつつ、本映画の製作自体に
感動して涙が流れました。この“捨てたものではな
い”の続きは、本論で取り上げましょう。
▼「国家意思」として目指したいこと
 さて前回の続きです。一般的な意味で「伝統」と
か「文化」などと言っても、具体的なことがわから
ないと実際に「誇り」を持つことなどできないでし
ょう。
しかし我が国は、実際には、他の国にはなく、日本
(人)独特の「良さ」とか「利点」とか「強み」な
ど表現される、いわば“本質的特性”のようなもの
がたくさんあります。それらが実際の「伝統」や
「文化」を形作っているのでしょうし、「誇り」の
対象にもなり、かつ個人の意思や精神の集大成とし
て「国家意思」のコア(核)として“目指す方向”
にも直結するものになると考えます。
戦後の“行き過ぎた教育”のせいもあって(その細
部はのちほど触れましょう)、多くの日本人の頭が
消え去ってしまっている、日本(人)の“本質的特
性”のようなものについて、有識者が紹介している
ものを列挙してみましょう。
まず、ケント・ギルバート氏は、「日本で左派思想
に惹かれる人々の中にも、実は驚くほど『伝統的な
価値観』なるものを持った人がいる」として、安倍
総理の『美しい国、ニッポン』に猛反発しても、日
本という国や郷土に対しては、何の嫌悪感を持たず、
むしろ絶対的な信頼と愛着を持っていることを強調
し、つまるところ、彼らも“純粋すぎる日本人”で
あると結論づけています(『ついに「愛国心」のタ
ブーから解き放される日本人』より)。
この指摘のように、巷には、(偏ってはいても)強
いプライドとシャイさが同居しているような“純粋
すぎる日本人”がたくさん存在することは事実です
ので、ケント氏のこの結論にこそ “彼らをしてその
気にさせる”大いなるヒントが含まれているのでは
ないでしょうか。
保守層がよくやっている、“上から目線でたたみか
ける”ような物言いでは彼らの反発を強くするだけ
で、心を動かすことは難しいと考えます。知的レベ
ルの高い人(特に高齢者)ほど自分自身(の考え方)
に自信を持ち、プライドも高く、信念も強いでしょ
うから、これを“軟化”するのは簡単でないことを
知る必要があるのです。
加瀬英明氏は、「日本は『和』の国である。日本の
『和』の心は他国には存在しない。日本の『和』は、
人々が合意することによって成り立っているもので
はなく、人々が意識することなく存在している」と
語ります(『新しい日本人論』〔加瀬英明、石平な
ど共著〕より)。
加瀬氏は、その「和」は“性善説”に基づいている
として、国内的には大きな強みだが、“性悪説”を
とっている他国には通ぜず、国外に対しては大きな
弱点になることも指摘しています。
これこそが、これまで再三述べてきた“孤立国・日
本”の限界でもあり、「和」の考え方が、人類社会
の理想に近いものであっても、これを世界の隅々ま
で普及させるのは永遠に不可能であると悟り、“で
はどうすればよいか”を詰めていく必要があると考
えます。
数学者の藤原正彦氏は、「この国は再生できる」と
して「美意識と武士道精神で、危機の時代を生き抜
く」、あるいは「『日本人の品格』だけが日本を守
る」ことを強調しています(『日本人の真価』より)。
その卑近な例として、このたびのコロナ禍において、
「人権に気を取られている民主主義より全体主義の
方が人の命を救う点で優れている」と主張しつつ
“強権”を最大限に活用した中国と違い、あるいは、
国民の自由に任せたところ、大パニックに陥って膨
大な犠牲者を出す結果になった欧米列国とも違い、
日本は、医療従事者の献身をはじめ、国民の高い公
衆衛生意識、規律や秩序など高い公の精神などの
“高い民度”を活用して、自粛要請という静かな決
意でコロナを抑え込んだことを取り上げています。
この事実は、世界的意義のあること結論づけます。
以前にも紹介しましたが、『「見えない資産」の大
国・日本』(大塚文雄、R・モース、日下公人共著)
は、中国やアメリカにはない強みとして、日本は、
「インタンジブルズ」の宝庫であると強調します。
つまり、「日本人には美を求める心や平和を尊ぶ心
や愛の心がたくさんある。また『道徳心』『好奇心』
『忠誠心』『愛国心』などが、どこの国にも見られ
ないほど豊かである」として、これら“無形のも
の”が、場面場面で「一生懸命」とか「工夫する」
とか、「約束を守る」「仕上げに凝る」「仲間を助
ける」などの“形になって現れる”と強調していま
す。
私が尊敬する奈須田敬氏は、東日本大震災の直後の
平成23年に『天下国家を論ず』と題して、30年
にわたって発刊し続づけた『ざっくばらん』巻頭言
20選を取りまとめた1冊を上梓しました。
本書の最後に「何百年に一度かの天変地異に見舞わ
れて、現実は見るとおりの悲惨さ、というほかはな
い。こうなっては総理大臣、一市民のちがいもない。
与党、野党のちがいもない。日本国民は肩をこすり
あわせていきのびていくほかあるまい。─そう腹を
決めたころから、新しい日本国民の芽生えを見出す
ことができそうだ。その芽は『ボランティア』とい
う形ですでにかいまみせている」として「90年の
生涯もけっして無駄ではなかった」と結んでいます。
ガザ地区などでも現に起きているように、他国なら
略奪が発生してもおかしくないような悲惨な状況の
中で、被災者は食べ物を分け合い、文句を言わず長
蛇の列に並び、そして多くのボランテイアが被災地
に入って、泥だらけになりながら様々な活動を続け
ました。奈須田氏は、そのような日本人の姿を“芽
生え”としてとらえ、安堵されたのでした。
保守の論客・中西輝政氏は、自書『強い日本を目指
す道』の中で、「グローバル化した世界だからこそ、
その中で日本はむしろ、つねに『フルセット自前主
義』の文明伝統に立ち返り、多極のなかで、『一極
として立つ』という気概を示さねばならない。多極
化世界でこそ、「自立の日本」を求められ、また可
能となるのである」と提言しています。
この続きは、読む人が読めば感動ものでしょう。
「この気概に気がつけは、再び日本が世界を引っ張
っていく存在になることは不可能なことではない」
として、「安定した時代の日本人は、皆『和魂(に
ぎみたま)』の持ち主で、『荒魂(あらみたま)』
は眠り込んでいる。『和魂』は『目的喪失』危険も
背中合わせなのである。だがひとたび危機の時代が
到来すると、必ずや『荒魂』が眠りから覚め、『目
を覚ませ日本!』と訴える。そして、世界の人々も、
その声に耳を傾ける」と訴えます。
そしてこうしたリズムを繰り返すのが日本文明の一
大特徴なのであり、「もはや途絶えた」と見えても
「地下水脈」として日本人の奥深くに流れている。
これこそが日本文明の核心たる「大和心」であり、
「日本の底力の源泉」であると結論づけています。
さらに、「このことのもつ、ただならぬ重要性に気
づいて、教育の場やマスコミでどんどん論じられる
ようになれば、日本人は急速に力を発揮する・・・
それは各時代の日本人が証明してきたことだ」と付
け加えます。中西氏もまた、日本は“豹変”する国
であることを分かっているのではないでしょうか。
▼「国家意思」を表明することがスタート
いかがでしょうか。これらはほんの一例に過ぎない
と考えますが、冒頭の「ゴジラー1.0」で述べた
ように、私が「日本はまだまだ捨てたものではない。
まだまだ明るい希望が持てる」との想いを強く持て
るのは、まさにここに紹介したようなところです。
しかし、“希望を現実のものにする”には大ナタを
振って荒治療する必要があることも事実でしょう。
顧みますと、戦後のわが国は、GHQの巧妙な「対
日戦略」に何ひとつ逆らうことなく国家を運営して
きました。講和直後の「吉田ドクトリン」などはそ
の典型と考えますが、それからしばらく経って、G
DPが戦前を上回った1956年頃から「もはや戦
後ではない」との言葉を一人歩きしました。また、
安倍元総理は、「戦後レジームから脱却」を掲げ、
「教育基本法」の改正にも着手しましたが、その成
果が上がっているとは言えないことはすでに取り上
げました。
これらを総括するに、戦後世代の最大の過失は、
「国家100年の計」といわれ、後に続く世代の
「教育」に特段の関心を持たないまま放置してきた
ことにあると言えるのではないでしょうか。
つまり、GHQによる強制的な“墨塗り”教科書の
内容を見直すことなく、70数年あまり、“行き過
ぎた教育”を継続してきました。その結果、ここに
紹介したような、日本の“本質的特性”を若者に教
え、多くの日本人に認識させることができないまま
時が流れました。
このような状況を創った最大の要因も終戦直後まで
さかのぼると考えます。少し補足しましょう。少し
前の調査結果によれば、「自衛隊は憲法違反だ」と
答える憲法学者は約6割を数えるそうですが、素人
の私などからみても、憲法第9条を正確に読めば、
この数字は法理論的には納得できない数字ではない
と考えます。問題はそれから先です。この6割の学
者のほとんどが「だから自衛隊を解体しろ」の方に
走ってしまい、「自衛隊抜きでは国防が成り立たな
い。これは一大事だ。憲法を改正しよう」と声を上
げている人は数えるほどしかいない状態が続いたの
でした。
言葉を代えれば、最も高い知性を有すべき法学者を
して、法理論の解釈を先行するあまり、「国防」と
か「国のあり方」などに疑問や関心を持たない程度
の“知的レベル”に留まってしまいました。
戦前の反省や軍への反発などについて理解できない
わけではないですが、極端な話をすれば、「こちら
から泥棒に入らなければ、我が家に入る泥棒はいな
い。よって、戸締りをする必要はない」と言ってい
るようなものなのです。そのようなことになぜ疑問を
持たないのか、私は長い間、理解不能でした。
そして、このような恩師(達)のもとで、同じよう
な思想や法理論を叩きこまれ、自らの知性や主義主
張になんら疑問を持たないまま拡大再生産された多
くの大人たちが、やがて法曹界、教育界、経済界、
さらには政治家、官僚、有識者、マスコミ人などそ
れぞれの分野を“牛耳る”ようになりました。最近、
政府の有識者懇談会による「日本学術会議に社会貢
献要求」との記事を見つけ、当会議はこれまで“社
会貢献すらしなかったのか”と呆れました。
このような状態では、「国家100年の計の教育を
見直そう」との雰囲気などできるわけがなく、70
数年余りの長きにわたり「教育」は放置されたまま
になってしまいました。私たち大人世代は、最近の
「Z世代」を批判する資格はないと言えるでしょう。
自分たちが「Z世代」を生んできたのですから。
さて、話を戻しましょう。周辺国が“日本をこのま
ま眠らせておき、覚醒しないように”と歴史問題な
どを蒸し返す狙いは、紹介したような日本(人)の
“本質的特定”に“こわさ”を感じているからなの
かも知れないのです。その考えが過剰防衛に走り、
軍事力の拡大路線を走らせている要因の一つになっ
ていると言えるでしょう。
私たち日本人は、認識しているか否かは別にして、
日本文明の「心」あるいは「コア(核)」とも言え
るような特性を依然として保持しています。保持し
ていることが日本人のアイデンティティそのもので
しょうから、これらを「誇り」として、今こそ、個
人の意思や精神の集大成として「国家意思」の“目
指す方向”に掲げることを求められていると考えま
す。
戦後の「教育」によって造成された価値観に凝り固
まっている人たちにとっては、“思いもよらない”
「国家意思」のたたき台を提示されても、にわかに
賛同することはないでしょうから、我が国の無形の
「資産」として後世に残すべき日本文明の「心」を
謳うことについては譲れないとしても、どのような
言葉や文章をもって表現すればよいか、などについ
ては最大限の工夫が必要でしょう。
そのような内容を包含する「国家意思」を表明する
ことがスタートであり、それを受けて、中西氏の言
うがごとく、政界や教育界やマスコミ界で活発な議
論を展開して頂きましょう。その結果、本質さえ変
わらなければ若干の修正は“良し”としましょう。
いずれにせよ、「国家意思」の表明がスタートであ
り、「国家戦略」とタッグを組むことによって、輝
かしい未来をつかみ取ることができると私は確信し
ています。今回はこのくらいにしておきます。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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tecchaso1988 · 3 years
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#読書 #グレートリセット #ダボス会議で語られるアフターコロナの世界   1年前からこういった内容を書いてくれてる著名人がたくさんいらっしゃって それでも世界は想定悪の方向に向かっていて  世界には政治家だったり指導者だったり、自分よりずっと賢い人たちが溢れるほどいるはずなのに どうしてわざわざ足並み揃えて予測できる悪いシナリオの方向へ進めちゃうのだろうかって思ってしまうここ最近。 (グレートリセットに対抗しているのはオーストラリア、ロシアが有力馬とのこと)  (権威者たちがあえて崩しにいってるのはわかるんだけれども、ゲームストップ騒動は個々の力が逆にシナリオを再構築していく未来の一遍を僕らに見せてくれたことに可能性を感じたいなって思う)   #読書メモ #多くの人がいつになったらノーマルな生活に戻れるのだろうと考えているがシンプルな答えは何も元に戻らないだ #2020年初頭まで慣れ親しんでいた世界は書き消えた #変化の可能性その変化がもたらす新しい秩序は無限にありそれを良いほうにも悪いほうにも変えられるのは私たちの想像力だけ #大事なのは私たちはこの前例のないこの機会を利用して世界のイメージを描き直すべき #パンデミックの影響が2022年まで続くことを大前提として複数のシナリオに備えるべき #1930年代初頭の大恐慌や2008年の世界金融危機の時で数年かけてGDPが10%以上落ち込み失業率が10%を超えたが今回のパンデミックがマクロ経済に災害級の大打撃を与えた期間はわずか3週間 #アメリカは2020年3月4月の2ヶ月間で10年かけて積み上げてきた雇用増加を一気に失った #すでにアメリカ人の約30%が財産を失い負債を抱えているこの危機が終わったときに金も仕事もなく医療も受けられない人が増えそうした人々が自暴自棄になって社会に怒りをぶつけたらどうなるか #現在の経済は2020年以前と比べて8割程度しか動いていておらず豊かな国の要であるサービス産業がこの8割経済という新しい現実にどう対応していくか #経済の主要部門が1ヶ月丸々活動を休止した場合その影響で年間成長率は2%以上も下がる #準備通過としてのドルの地位が徐々に終焉を迎えるのではないか国が発行するデジタル通過を導入する試みのいずれかが長く王座に君臨してきたドルを引きずり下ろすかもしれない #パンデミック後の世界は社会の不平等がさらに拡大する #重大な危機は国家の権力を拡大させる #歴史的な課題に遭遇した指導者は危機をうまく管理しながら未来も創造していかなければならない #新しい世界秩序などないあるのは不確実性への混沌とした移行だけだ #G7やG20といった世界を牽引してきた時代から今は国際社会を主導する国が存在しないGゼロの時代かさらに悪いGマイナス2の時代に入っている #パンデミックはESGに配慮しなければ事業の大きな価値が破壊され企業の価値を脅かすことにつながるという教訓を世界の経営者に残した #保険業界では各政府のロックダウンが保険業界特有のリスクをもたらしており世界中の何十万もの企業が保険請求ができず数ヶ月から数年間は訴訟を続けるか破綻するかの瀬戸際に立たされている #試練は人を強くするという言い古された言葉があるがパンデミックを生き延びた人が必ず強くなるわけではなくむしろ現実はほど遠い #パンデミックが始まってから世界中で時間感覚が変わったと感じる人が増えた1日はのろのろと過ぎるのにある朝気付いたら1ヶ月が経っていることに気づき時間はいったいどこに行ってしまったんだと疑問に思う #パンデミックは社会を省み考え直しリセットするという千載一遇のチャンスを与えてくれている #グレートリセットに社会や経済が抱える根深い問題に対処せず解決せず放っておいたら結局は戦争や革命のような暴力的な出来事によって社会がリセットされる https://www.instagram.com/p/CPQJHR-LAsT/?utm_medium=tumblr
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インターネットからの脱出
2018/4/25発行 ZINE"霊界通信 2018 S/S Issue"収録 by gandi
Escape from the Internet
ぼくが初めてインターネットに触れたのは15年ほど前のことだ。ちょうど21世紀になりたてくらいの頃だろうか。当時出来たての情報カリキュラムの授業での出来事だ。少し起動に時間のかかる箱型の機械のスイッチを入れると、テレビ型のモニターの向こう側から世界中のあらゆる情報が飛び込んでくる。その斬新さに、ぼくは舌を巻いた。しかもその情報がすべて生々しい。なにかがテレビとは明らかに違う。 ぼくはテレビが嫌いな子供だった。今でこそ落ち着いてきたものだが、当時のテレビの演出はとにかく過剰で、ギラギラした悪趣味なセットの前で空疎な会話をする芸能人たちの姿にはとにかくウンザリするばかりだった。人の車を壁にぶつけて壊して喜ぶようなノリにも全くついていけなかったし、ディレクターの指示で拉致同然に、突然半年間も海外を旅させるような嗜好にも「こんなことが許されるのか」と子供ながらに怒りを覚えた(たとえそれが口裏合わせ済みのことだったとしてもだ)。そしてそれらの行動に何一つ意味はない。彼らの行動原理は「ノリ」だけで、洞察に基づいたものがない。徹底的に空疎なのだ。 空疎なテレビの世界の中でも、群を抜いて空疎だったのはひな壇の芸人たちだった。彼らは空疎さという一点において洗練されつくしていた。「なんでやねん」と投げられる言葉に、タイミングよく再生される乾いた観客の笑い声。「なんでやねん」。彼らが本当にそう思っているのか、かなり疑わしかった。「なんでだよ?」でもその「なぜ」を正面切って考えようとする人間は、そこには一人もいないように見えた。 (※もっとも、その空疎さこそなんでも重苦しく考えたがる彼らの前の世代への���図的反抗なのだと分かったのは、ずっと後になってからの話だ) しかしインターネットは違った。誰もが手作りの簡素なホームページを作り、それぞれが勝手なことを論じていた。そこには「なんでやねん」というツッコミを入れる人間はいない。それゆえ誇大妄想としか思えないことを100ページ以上に渡って、延々と書き連ねているような人も少なくなかった。誇大妄想。 テレビだったら芸人の「なんでやねん!」の一言でかき消されたに違いない。しかし人の誇大妄想の中には、社会を抜本的に変革してしまうような考えがしばしば含まれている。たとえば革命家。革命家は周囲の冷笑を意に介さず、空気も読まずに延々と妄想を深め続ける。すると次第に感化される賛同者が出てくる。保守派からすれば狂人に思えない賛同者たちが。 息苦しい日々の中で、ぼくはインターネットに光を見出した。 ぼくはテレビと同じくらい学校の雰囲気というものが嫌いだったが、それは教室がテレビの相似形のように見えたからだ。 端っこの席で、目立たないが誰も思いつかないようなことを考えているヤツの考えは、いつだって声がデカくてノリがすべての野球部の声にかき消される。その身も蓋もない事実に、ぼくはホトホトウンザリしていた。この構造はずっと変わらないに違いない。きっと大学でもそう。社会に出てもそう。死ぬまでそう。いつか全部叩き壊す。そうでなければ刺し違える。そんな風に自分に何度も言い聞かせなければ、グレてしまっていただろう一少年に、インターネットはこっそりナイフを渡してくれたのだ。ぼくは友人たちへ 「テレビよりインターネットの方が全然面白いぞ」と触れ回った。友人たちは興奮するぼくの話を、肯定するでも否定するでもなく聴いてくれた。インターネットが面白いということは少しずつ広まり始めていた。 率直に言って、ぼくはインターネットの「世界中の情報がリアルタイムで入ってくる」という側面は、そこまで重要ではないのではないかと思う。それは既存のメディアでも出来ていたことなのだ。インターネットの本当にクリティカルな点は「人間の生々しい声が、誰にも検閲されないまま聞ける/言える」という点にある。それも平等にだ。どんなに虐げられていた者にも、数千円のスマートフォンさえあれば平等にその機会はやってくる。
誰がジャンクな記事を量産しているのか
だから生々しい声が聞こえなくなったら、そこでぼくのインターネットへの関心は尽きる。聞いたこともないような考えや、社会によって巧妙に隠された呼び声を聞くために、ぼくらは本を読みネットを見る。決して誰かが仕込んだ一般論を聞くためじゃない。ぼくは「失敗しない生き方をするための十の方法」なんて記事を見かけるたびにいつもウンザリしているが、こういう記事は一体誰が書いているのだろう?全く失敗しなかった人だろうか。それとも派手に失敗した人だろうか。 あまりに不思議に思って周囲にこぼしていたら、知人の大学生が書いていた。同級生やサークルの仲間も結構な割合でやっているという。 バイト感覚で家計の足しにしているのだそうだ。 1文字0.1円。2000文字程度の記事を10個仕上げて2000円貰うんです、と彼は言う。プロのライターが最低1文字3円からということを踏まえると信じられない値崩れだ(もっとも最近はプロの現場でも1文字1円というケースが珍しくなくなったが)。 そんな金額ならスーパーでレジ打ちした方がずっと効率がいいように思えるのだが、仲間内のパーティに出席できたり、就活のときネットメディアに関わっていたことが有利に働いたりと、色々とメリットはあるらしい。「ちょっとした承認欲求や仲間内で意識の高さを演出するために、」 場合によっては損得度外視で引き受けることもあるという。 しっかり見ていれば分かることだが、中には高校生が書いているケースもある。記事の最後に「この記事を書いた人」というツイッターリンクが付いていて、そこに行くと高校生だということが分かる。 なるほどこれらの記事は(誰もがうすうす気づいてはいるだろうが)プロではなく文章の素人がタダ同然で書いているものなのだ。インターネットの記事が人に見てもらえるようにするには、内容よりもグーグルのロボットから高い評価を受けるためだけにとにかくコストを抑え、量産することが大事だ。そして言うまでもないことだが1文字0.1円では、一つ一つの記事に真剣に向き合う時間はない。 必然的にすでにインターネットに載っている文章をコピー&ペーストし、適当にリライトするという作業になる。もちろん直接取材や、図書館に行って原典を確認するなんてことはあり得ない(つまり、何かのきっかけで一度間違った情報がインターネットに掲載されると、永遠に誤情報がコピーされ続けるということになる)。著者は自分の考えを述べようにも、記事が問題としている内容に、真剣に向き合って考えているヒマはない。そもそも書かせている側が、著者に対して端から何も期待していないのだ。 こうした記事が、毎日数千、数万とインターネット上にアップされている。多くの場合は記事と見せかけた広告で、そうでなければ広告収入のために書かれたテキストだ。記事の書き方はこう。「ランキング形式のまとめ記事にしてください。まず1位と2位に、定番のA社とB社のアイスクリームを挙げます。そして3位くらいにクライアントさんのこの新作アイスクリームをランクインさせてください。1位だと広告だって思われてしまうので、3位くらいがよいでしょう。4位以降は適当でいいです」。もちろん、ぼくは必ずしも広告が悪いと言っているわけではない。問題は企業が、あたかも主流的意見であるかのような記事もどきを、ジャンクのように量産することにある。 ぼくらは日々これらの量産されたジャンク記事に囲まれて生活している。好もうと好まざろうと、スマートフォンにニュースアプリやツイッターをインストールしている限り、絶対に目にすることになる。グーグルで何かを検索しても、個人のサイトやブログにたどり着くケースは今や稀だ。インターネットの笑ってしまうような(しかしひょっとすると社会を揺るがすかもしれない)誇大妄想は、十年の月日をかけて、当たり障りのない一般論を装った、どこかの企業広告へとすり替えられたのだ。 こうしたゴミのような広告の山から逃れたい人はひょっとするとインスタグラムのような、社会性とあまり関係のないメディアだけを見るようになるのかもしれない。インスタグラムはアカウントのジャンク化を恐れて、拡散機能をあえて弱めにするなどの対策をしているようだ。だが言ってしまえば、それは騒がしい広告記事から耳を塞いだだけのことで、決して生々しい声を取り戻したというわけではない。 そしてこうしたジャンクな記事は、恐らくあと五年もしないうちに人工知能が書くことになるだろう。人工知能なら、もっとうまくやるに違いない。ビッグデータから得た集合的無意識──当たり障りのない一般論や、何かのきっかけでセレブが発言した、流行の考え方──を、それらしい言葉でまとめて無限に生産するのだ。しかしそれは、あの、テレビや雑誌といった旧メディアが作っていた空疎な時間と、一体何が違うというのか。
メリークリスマス!と言えないアメリカ
ジャンクな記事が生まれる要因は他にもある。世界的なポリティカル・コレクトネスの流行だ。ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)とは「 政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと(Wikipedia)」とある。 ポリティカル・コレクトネスの観点からすると、たとえば「看護婦」という言い回しは男性がその職業につけないイメージを与える可能性があるので間違っており、男女ともにイメージすることができる「看護士」と言い換えるべきということになる。同様に「保母」は「保育士」とすべきだし、「肌色」は人種的配慮に欠けるので「ペールオレンジ」に言い換えるべきとするのがポリティカル・コレクトネスの考え方だ。 この考え方は確かにある程度まで間違っていないように思えるのだが、少し考えると行き過ぎは文化を破壊しかねないということが安易に想像つく。例えば「メリークリスマス」という言葉は、宗教的配慮に欠けるという観点からすでにアメリカでは 「ハッピーホリデイズ」と言い換えられている。 クリスマス飾りににキリスト像やマリア像などを持ち込むのもご法度だ。十字架なんて問題外。宗教色を一切葬り去らねば、イスラム教徒や仏教徒に失礼じゃないか、というわけだ。そのうちクリスマスに赤色を使うのもNGになる��もしれない。赤はキリストの血を表すからだ。 しかしそのようなものを果たしてぼくらはクリスマスと言えるのだろうか。これは「政治的な正しさ」を盾にした、キリスト教文化への破壊行為ではないのだろうか。なぜポリティカル・コレクトネスの人たちはこんなに偏屈な考え方をするのだろう?これではまるでポリティカル・コレクトネス原理主義だ。ポリティカル・コレクトネス教以外のあらゆる宗教は絶対に認めないという原理主義的一神教だ。 たとえあなたが仏教徒だっとしても、笑顔で「メリークリスマス!」と言えばよいではないか。実際日本人はずっとそうだったのだ。キリスト教の人たちが宗教的に大事にしている行事ならば、わざわざそれに目くじらを立てることはない。むしろ「楽しそうだからぼくらも参加させてほしいのだが、仏教徒なんだけど構わないかね?」と言うのが本当の寛容ではないだろうか。それとも一神教徒の人たちには、そういう考え方は難しいのだろうか。 しかしポリティカル・コレクトネスの人々はそうは考えない。頑固に公の場でメリークリスマス!ということを許さない。「そんなに偏狭な態度をとっていれば、かえって息苦しい社会になってしまわないだろうか」「むしろ反動が起こって事態はよっぽど悪くならないだろうか」などと考えていたら、案の定バックラッシュがやってきた。2016年のアメリカ大統領選の時にドナルド・トランプ現大統領が「自分が大統領になったら再びメリークリスマスと言えるようにする」と公約したのだ。大統領選の結果はご覧の通りだ。トランプ大統領は、メリークリスマス!すら堂々と言えなくなってしまった息苦しい社会に不満を持つ人たちの支持を得て当選したのだ。 言うまでもなく、本来あらゆる文化的伝統行事は民族性や宗教性と密接に関わりあっているのであって、そこから宗教色を徹底して排除しようとすれば、ただの無味乾燥で無秩序な騒ぎになってしまう。宗教や民族にまつわる文化的行事が、現代的価値観からすれば理不尽としか言いようのないものを含んでいるのは当然のことだ。伝統行事は、むしろ常にその時代の価値観と全面的には折り合わなかったからこそ、時代が変わったからといって廃止されることはなく、時代を超えてずっと尊敬され続けてきたのだ。それを現代人の価値観にそぐわないからと言って安易に排除をしようとするのは、今の時代の価値観が未来永劫続くと考える現代人の傲慢であり、次の世代への想像力の欠如ではないだろうか。 日本よりはるかに多民族・多文化社会であるアメリカでポリティカル・コレクトネスの考え方が発展したということはある程度理解できなくもない。あまりに価値観が多様過ぎて、「寛容」や「思いやり」でカバーできる範囲をとっくに超えているのだ。ある人々にとって帽子を被ることが礼装であり、またある人々にとって帽子を脱ぐことが礼装である社会では、ポリティカル・コレクトネスがなければ一方的に少数派が追いやられるばかりなのかもしれない。だが、日本は全く状況が違う。常に周囲と価値観を合わせたがり、少数派になることを恐れがちな日本人は、アメリカとは性格が逆で、少数派が自ら少数派であることを捨て、自発的に多数派になりたがる傾向がある。そのような価値観だから世界的にも類をみない寡民族・寡文化社会になってしまったのだ。 有り体に言えば、我々の社会は空気を読むことが大好きだということだ。互いに周囲の顔色を見回して、自分が人とズレてはいないか、誰かが変わった考え方をしていないか、絶えず監視し続ける。今のインターネットは、テレビのような旧メディアと変わらない。これはもはや「ムラ」社会だ。特異な考え方は、誇大妄想が広がる前に「ツッコミ」をして「修正」する。これをポリティカル・コレクトネスの考え方が加勢する。今時の言葉で言えば「炎上」というのかもしれない。そして最後には「まとめ」として「総括」されるのだ(なるほど「総括」とはどこかで聞いたような言葉だ!)。 「炎上」は一見、正しい意見が間違った意見を修正する、社会の自己浄化作用のように見えなくもない。しかしその一方で、特異な発想の芽を潰していると言える。この調子だとそのうちわざと「ボケ」る者が出てきて、毎度お約束のように「炎上」させるようになるかもしれない。人と違うことが怖い私たちは、そうやって永遠に続く終わりのない日常に「お祭り」というリズムを��るのだ。やがて「ボケ」と「ツッコミ」は、「なんでやねん!」(=なぜなのか)という言葉本来の意味を失い、次第に儀礼化していくことだろう。その裏で、本当に特異な考えをする人の声はどんどん見えなくなっていく。社会は変化することなく終わらない日常となり、まるであのバラエティ番組のように、空虚な戯れが延々と続いていくのだ。
本物の共産主義社会が到来する
更に悪いことに、こうしたインターネットの記事たちは各ユーザーに合わせ最適化され、そのユーザーが関心を持っていそうなことばかりをサジェストするように出来ている。例えばあなたがあるニュースアプリでLGBTについての記事を読んだとしよう。そのアプリは次からLGBTについての話題で一杯になるのだ。するとあなたは思う。「今、社会はLGBTに相当な関心を持っているに違いない」。こうしてそれぞれが勝手に「北朝鮮問題が」「仮想通貨が」「アイドルが」「ネコ画像が」社会的関心事の中心であると考え始めるのだ。自分でフォローする人を選べるSNSはもっとひどい。「反安倍政権の世論が盛り上がっている」ように見える人と「安倍政権の高支持率が続いている」ように見える人のタイムラインは永遠に交わることがない。一体なんでこんなことが起こるのだろう。 本来、インターネットというプラットフォームは、「インターネットエクスプローラー」という名前が示す通り、欲しい情報を自分から「探検」することによって手に得るというツールだった。インターネット全体の記事が少ないときは、確かにそれで機能していた。欲しい情報に達するためには色んなページを回らなければならなかったし、必ずしも耳に聞こえのよくない情報も触れなければならなかったからだ。まさにそれは山あり谷ありの探検のようだった。今はどうだろう?ネットには異常な量の記事が溢れかえっている。ぼくらはそれを、到底すべて読み切ることはできない。こんな状況では、誰も冒険などしたがらないだろう。探さなくても、自分にとって気持ちのいい(都合のいい)当たり障りのない情報にすぐ触れることが出来るのだから。 こうした理由から、インターネットの記事が爆発的に増加することに反比例して、ぼくらが新しい世界に触れる体力は日に日に減っていっているように思われる。誰も好き好んで不都合な意見を聞きに行ったりはしない。大量の記事が出回ってあれもこれも読まなければならない中で、誰かの言葉と真剣に向き合う時間も多くはないだろう。ぼくらは気付かぬうちに少しずつ心の体力を奪われているのであって、自分を肯定してくれる安全・安心な言葉だけを聞き続けるようになっている。 そしてそんな世界すらももうすぐ終わる。もうすぐ人工知能がぼくらを真綿にくるんで、いびつな現実を視界から追いやってくれるに違いないからだ。近い将来、ぼくらは全く違う価値観の人と話して不愉快になることも、ほとんどなくなるだろう。アルゴリズムが話の合わなそうなフォロワーを、初めからミュートしておいてくれるからだ。イラストや音楽の才能のなさに思い悩むこともない。内輪のコミュニティの住人、いわゆる「界隈」と呼ばれる人々が、あなたを先生、先生とどこまでもチヤホヤしてくれるからだ(もっともそのアカウントの「中の人」が本物の人間であるという保証はどこにもないのだが)。当然恋人ができないと思い悩む必要もない。本物の人間よりずっと美しいホログラムと恋愛をするのは、今や普通のことだからだ。しかもその恋人は、あなたの過去の発言をデータベース化しているから、絶対にあなたの嫌がることを言わず、あなたが喜ぶことしかしないのだ。 さらに言おう。恐らく近い将来、人間は一切の仕事もする必要がなくなる。人工知能が自己発展する農場や工場を作り、自動運転カーで勝手に出荷してくれるからだ(驚くべきことに、アメリカのGM社はすでにこのシステムを運用し始めているという)。レジも無人だからバイトもいらない。経営も人工知能がビッグデータに基づいてやるのが一番効率的だ。 機械に職を奪われ、失業率は上がるのに生産力も上がり続けるから、先進諸国はベーシックインカム導入を余儀なくされるだろう。なんのことはない、共産主義社会の到来だ。それも前世紀の不完全な共産主義ではなく、マルクスが予見した本物の共産主義だ。ほとんどのことを機械に任せ、人はクリエイティブな仕事、もとい「趣味」しかしなくなるのだ。そのクリエイティブな「趣味」だって、本当に行われるのかどうか随分怪しいように思える。全てが満たされた世界で、クリエイションをしようと思う人間なんて本当にいるのだろうか。 まるで夢物語だが、そういう世界は必ず来る。それも数十年以内に。その世界では人間にどこまでも優しくて都合の良いコンピューターという名の天使が、寿命が来るまでぼくらを甘やかし続けるのだ──まるで真綿で首を絞めるように。そんな世界では、特異な意見も、ラディカルな発想も必要ない。誰一人不満がないので、そもそも社会が変革する必要がない。 怒りも悲しみもなく、誰一人傷つかない世界。そこで天使のような、あるいは幽霊のようなホログラムが、残り少なくなった人間たちに奉仕している。人間は恋愛対象に何かと面倒な同じ人間よりも人工知能を選ぶようになり、人口もどんどん減ってゆくだろう。
"BLACK IS BEAUTIFUL."
建築家であるぼくの父はもう80を超えているのだが、生まれつきの難聴で、ぼくが幼いころから話がなかなか通じなかった。どのくらい聞こえないかというと、ちょうど携帯電話の着信音が聞こえない、というくらいだ。大きな声で向き合って話すと半分くらい伝わる。ハッキリ言うと、身体障害者だ。 しかし父は一度も自分を障害者だと認めなかった。確実に貰えるはずの障害手帳も障害年金も、絶対に受け取らなかった。破産して、収入がゼロになり、家族の食い扶持を繋げなくなった時でさえだ。「なに、誰だってハンディキャップの一つや二つあるんだ、それをいちいち騒ぎ立てるなんてみっともないことだ」それが父の口癖だった。そして父は自分を「ツンボ」であると自称していた。「ツンボ」は差別用語だからやめなさい、といくら母が言っても「ツンボがツンボで何が悪い!」と絶対に聞かないのだ。 父の発言は無茶苦茶だ。第一、本当に障碍で苦しんでいる人に対するシンパシーがない。それに「ツンボ」なんて言ったら、ポリティカル・コレクトネスの人々からは避難轟々だろう。 だが、一方で父は障碍者に対して全く差別的ではなかった。車椅子で困っている人がいれば助けたし、その一方で車椅子でも態度が悪ければその場で怒鳴り合いの大喧嘩していた。外国人に対してもそうだ。父には中国人の友達がたくさんいた。酒が入れば毎回、歴史問題の議論で怒鳴り合いになるくせに、ずっと仲良しだった。二、三か月すると、何事もなかったかのようにまた飲んでいるのだ(そうしてまた喧嘩になるのだが)。 父は女性に対しての考え方も、世代から考えれば相当リベラルだった。あれだけ父権的なくせに、結婚当初、父が食べるまで食事に手をつけようとしなかった母に対して「そんな下らないこと今すぐやめろ」と叱りつけたのだという。家族の風呂に入る順番についてもそうだ。ぼくが生まれてからはいつも父と母は喧嘩ばかりしていたが、よく考えれば父と母はずっと対等だった。父はいつだって対等な喧嘩相手が欲しかったのかもしれない。 当時はわからなかったが、父が「ツンボ」を自称していた理由が、今ならなんとなく分かるような気がする。父はきっと「ツンボ」を忌避するのではなく、自分が「ツンボ」を格好いいものにしてやる、と考えたのではないだろうか。 この考え方はマルコムXの言う「 Black is beautiful. 」に似ている。かの有名なアメリカ黒人公民権運動の活動家だ。マルコムは、黒人は白人と平等、とは言わなかった。そうではなくて「"黒"こそ美しい」と言ったのだ。 話によると、幼いころは「ツンボ」のことで相当ひどくイジメられたらしい。しかし父は社会に同情を買うような態度を取りたいとは思わなかった。思うに父は「ツンボ」である自分が圧倒的に凄い建築を作ることによって「ひょっとしてツンボだったからこそ、この人はすごい建築家になれたのではないか?」と、人に思わせるような、価値観の転倒を引き起こそうと企んだのではないだろうか。 ポリティカル・コレクトネスの人たちにとっては「ツンボ」は永遠に良くないものであって、忌避されることはあっても、凄いものとして日の目をみることは未来永劫ない。果たしてそれで問題は本当に解決したと言えるのだろうか。「ツンボ」な自分を「ツンボ」と断言する父のやり方は、テレビではもちろん流せないし、インターネットだったら炎上間違いなしだ。けれどもぼくは、ハッキリ言ってテレビよりも、今のインターネットよりも、父のやり方は圧倒的に「クールなやり方だ」と感じてしまう。
インターネットからの脱出
しかしこのような「クールなやり方」は決してインターネットでは出来ないだろう。 ぼくらは薄々気づき始めているが、インターネットにはそのシステム自体に欠陥がある。リンクシステムが、情報のシェアを容易にしすぎたため、一人ひとりが考えることを放棄し始めたのだ。このような社会では父やマルコムXのような革命家気質の強力な個人はお呼びではない。むしろ自分では考えず、薄い情報をまき散らし続けるような人間(インフルエンサー)が影響力を持つ。集団主義の時代だ。多数派はポリティカル・コレクトネス一神教を盾に、他のあらゆるマイノリティが、自分の力で立ち上がろうとする膝を折ろうとする。「『黒は美しい』なんて言わなくていいの、黒も白もなく、みんな平等なの」と。それは「ブラックの血が流れていることに誇りを持つな」と言っているに等しいということに、彼らは気づかない。その考えは、ぼくには、すべての人間を根無し草にしようとしているようにすら思える。そうしてこのように作られた一見当たり障りのない「正論」が、「拡散」機能によって無限に増殖してゆくのだ。 抵抗する方法がある。全てのリンクを一度切ってしまえばいい。インターネットには「罪」もあるが、それ以上の「功」がある。インターネットは個人の発信したいという欲望を爆発させ、流通経路を用意し、個人が本をつくるハードルを劇的に下げた。だったらもう一度紙の本にすればいい。紙の本にはRTもシェアもない。ただ、一対一の読者と書き手がいるだけだ。書き手は読者に差し迫ってくる。逃げ場はどこにもない。RTして他人に共感を求めることはできない。目の前の相手と一対一で対峙するしかない。もしも読んでいて、本当に思うところがあるならば、自分で、自分なりのやり方で発信するしかない。やり方は文章でも動画でも音楽でもなんでもいい、ただ自分だけの力で、やり遂げるしかない。 ぼくはアナタと一対一で話したいのだ。隣の誰かに「ねーどう思う?」なんて聞いてほしくない。ぼくは今、他ならぬアナタと話しているのだ。(了)
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hochagera · 2 years
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フィクションを立ち上げるー場とその場からの解放ーライブと映像の出会い直し
フィクションを立ち上げる、ということについて考える。(『フィクションを立ち上げる』という表現は演劇界隈ではよく聞かれる言葉で、舞台を創る上でそのフィクションが客前で違和感なく(あるいは意図的に異物として)むくむくと起き上がる感覚があるかどうかでそのパフォーマンスの良し悪しが判断される。日常生活では全く意識されない感覚ですが、しかし日常においてもフィクションを扱う瞬間はたくさんある。舞台創作者はその根源的な”演じる”ことの意義を噛み締めつつフィクションが立ち上がる場、そのあり方、その行為の視点に最も興味を注ぐ。人と人が絡み、場所が絡み、時間をも絡めてある場所にフィクションが立ち上がってゆく。それが、舞台作品を創るということ。)
わたしはテント芝居を創っています。テント芝居においてフィクションとはその劇の内容であり、またはその借景と共におかれているテント構造物の存在そのものでもあり(夢遊するように突如現れ消えてゆく物質)、またその内部の空間のことでもある。テントは空間を保有している。つまり、ある環境、具体的にはある町のとある場所に”線を引くこと”が重要になる。 この点を野外劇と最も差別化していて、野外劇では一応に”その環境に馴染むこと”を重要視してきた。市街劇でも実際の街を使って演じられたわけで、私がやっていた駅前でゲリラ的に行う芝居も飲食店を循環して行う流し芝居も実際の環境を利用して行なっている。役者の身体をまずは起点に、舞台装置も美術も舞台と客席の境目すらないところから始まる。それが野外劇。 そんな野外劇から、徐々に規模を広げテント芝居に移行していく自らの活動を鑑みて、自分たちは空間に線を引くことができるだろうか、そもそも線を引く必要があるのかどうかを考えた。 ”線を引く”ということ、それはその空間は”劇場になる”ということを意味する。それは間違いなく野外ではない。たとえ野外に程近いテントという空間であったとしても、そこは劇場という固有の場所になる。芝居は劇場で上演されるのが往々にして好まれる。しかし劇場でなくとも芝居ができることは証明されている。それなのに何故、劇場を求めるのか。劇場という場所。
(”劇場”、”舞台”、つまり)”場"の捉え方。 芝居に限らず、人は集まる必要がある。家、学校、会社、公園、喫茶店、クラブ、愛好会、委員会。社会的な集団を都合よく一気に運用するために何かしらの共通項を持って集まって(集められて)個別ではなく集団で対処する。時代に応じて変革を遂げながらそのあり方は更新され続けている。いつも正解はどこにあるのかわからず、時に時代に出遅れながらその集団のあり方は変容していく。身近な血縁関係として家族の在り方は変わり、大きすぎて見えない公としての学校の在り方も変わり、公共とは何か、共有するとはどういうことか、平等に与えられているものとその土地特有のもの、その土地が誰のものなのか、そこに漂う空気やそこに差す光にまで線を引くのか。 ぎゅうぎゅうに押し詰められて次第に窮屈になってくるテリトリー。誰のものでもない場所がなくなっていく。大きな力で小さな存在をコントロールし、それは徐々に管理の性質を強め、効率が良過ぎるほどにより高度に振り分けられ、”自分たち”と”それ以外”を区別し、そこから漏れでる感情や事情には無頓着になる。これが、現代を生きている上での雑観で(”現代”だけが抱える問題なのかは不明。しかし今はこのことがより高度に、あまり気がつかないうちに蔓延しているように感じる。)、それゆえこの構図に対するカウンターアクションも方々から噴出する。テーマは”多様性”。平等に、他者を認め、共にあることを認める。 そんな心地よい場づくりが求められた。どこかから漏れ出てしまった、行き場を失った者が集まれる場所。そしてその存在を認め合う意識を得られる場所。(意識の変革こそが最大に重要で尚且つ困難なグローバル化であって、形や制度があるから解決できるものではない。白人が作った映画に黒人を出演させれば多様性が生まれるわけではない。男が配偶者を”妻”と呼んだから多様性が認められるわけではない。重要なのはその抑圧されている側の現実を知ることとそれを理解する手立てを得ることだろう。それを会得するには時間がかかる。”有意義な”時間が。自分と向き合う必要があるし、そもそもその個人が置かれている状況、経験に基づく必要があるわけで、島国の日本人に身近に感じられる多様性は欧米のそれとは全く別の内容であるはずで、それでいて半径5m以内にあることを理解するという意味においてはなんら変わらない。それ以上外のことを持ち出して理解する必要はない。)長い時間をかけて構築された集団のあり方はいつも、その”場”を設けることに始まり、そしてその”場”から解放する動きにより次第に国境を越え、人種を越え、男女の壁を越えてよりスーパーフラットにグローバル化された新たな”場”を形成する。
舞台芸術においてのその場とは”劇場”。では、”劇場”とは何か。そのルーツを野外に持つ芸能は多い。本来人前でフィクションを立ち上げるために劇場は必要なかったはずで後発的に集まる場として開発された装置が劇場であり、その劇場には、観劇にふさわしい装備が備えられ、舞台芸術は当たり前にその劇場で上演される。劇場の形式がその後の舞台のあり方を規定し、その結果、劇場の形式に乗れる舞台芸術が残り、乗れないものは力を失ってゆくことになる。集団として効率よく処理するための痕跡。 驚くほどに手仕事の集積である舞台芸術は効率化を図ることが難しく、維持するにはコストがかかりすぎるため公的な援助を受けることが多いし街の機能の一部として守られている劇場も多い。つまり、劇場を扱うとはそもそも公共性を扱うということであり、経済的価値を扱うことでもある。この、公共性という性格を帯びた”場”において、その劇場は効率性や経済性等の判断によってあらゆるフィクションに価値をつける(線を引く)というジレンマを内包していると言える。 劇場は空間。空間を保有している以上、その中に収められるもとそうでないものが発生してしまう。 何事も、なんらかの価値判断で淘汰されることはいささか已むを得ず、名もない芸能や辺境の芸能が消滅していくことは仕方のないことでもあるが、それが”劇場”の持っている機能の側面であると考えるとやるせない。目的と手段がてれこになっている。だが、グローバリゼーションというのはこういった芸能にも光を当てる。 人、物、コトが飛び交う現代の中で、限りなく近くなった辺境の土地の見知らぬ”フィクション”。それに触れる、異国の地の大学生など。グローバリゼーションとは創造的破壊で、スーパーフラットに情報を消費できるようになったことにより軽視される伝統と受け継がれなくなったその土地特有の価値が、一見文化的価値の破壊を及ぼしているように見えるものの、思わぬところで再発見されまた受け継がれることにも繋がっている。 国境を越え、人種を越え、男女の壁を越えてよりスーパーフラットにグローバル化された新たな”場”を形成する。 本来の意味での”劇場”とは、立派な建造物としての”人が入って鑑賞できる場所”ではない。あくまでも”フィクションを立ち上げる場所”をベースに考えるべきである。 つまり、箱がそうさせるのではなく、舞台上に上がる当事者そのものがフィクションとして立ち上がれば、そこが劇場となる。
”場”の捉えから派生して。人は、”記録”もしくは”保存”することが可能な人智を超越した技術を開発する。それが、舞台芸術においては”カメラ”ということになる。 映像の世紀は早過ぎ去りし今、当たり前に存在する映像媒体とそうでないもの。それぞれの手段はお互いにその存在を脅かしつつも食いつぶすようなことはなくそれぞれの道を辿っているように見える。演劇、映画、テレビ、ネット配信。 ”フィクションを立ち上げる場所”として、その場所からの解放が劇場やそれ以外の場所で起こっていると考える時、今、このカメラが残す映像の中にも同様の変革が起こっていると強く考えるべきである。映像(という”場”)が、従来のあり方から解放されようとしている。それが、”ライブと映像の出会い直し”によるものである。
これはコロナ禍が発端ではないものの大きく起因している。その速度を早めたとか、止むに止まれぬ状態にしたという印象。 本来ならばこれまで推移してきた舞台芸術の”場”のあり方とそこからの解放の動きが今後もゆっくりと推移するのかと思いきや、昨今の状況で地殻変動が一気に起こり、場の解放を凌駕する新たな場所作りが舞台芸術においても起きている。これまで拓かれた様々なフィクションを立ち上げる場所、そのそれぞれの道の変遷を越境して構築される新たな場。それは舞台芸術のカメラとの出会い直しによって起きている。キーワードは、新たな技術の開発によるものではなく”出会い直し”によるということ。
岡田利規”映像演劇”ー長久允”(死なない)憂国ー濱口竜介”偶然と想像”にみるフィクションを立ち上げる場所の変化。
人は集まれなくなった。かつて集まり、そこに組織ができ規格が生まれることによって秩序が保たれ、またそこからはみ出したものが別の場所に集まる離合集散を繰り返していた人が、強制的に集まれなくなった。それは、”場”を形成することができなくなった事を意味し、従来の方法が成り立たなくなったということ。それでも人は集まる方法を考えた。 舞台芸術においても、それはいくつもの実践が試されており、その多くが”カメラ”を用いて行われた。 これまで舞台芸術が”フィクションを立ち上げる場所”のために必要としてきたのは、まず舞台に上がる本人の身体。そしてそれを起点として構築される環境、多くの場合それが劇場。この場作りが実現できなくなった時、その”場”創りはカメラを用いた映像の中に求められた。 これ自体はコロナ禍が無くとも今までに起こり得ていたことで、事実、舞台作品を映像として観ることは少ないことではない。しかし、絶対的に集まることができなくなった状況下で行われるそれは、今までのそれとは全く異質のものであって、今までの思考とは別のプロセスや想いを含んでおり、”カメラ”という技術を扱う上で、その扱い方の違いと最終的に目指される”フィクションを立ち上げる場所”の意義の違いが、従来の映像が目指した場所の形成(多くは映画)のそれとは大きく異なっている。
今起こっている”ライブと映像の出会い直し”によって目指されるものは、あくまでも”映像”としての表出であるものの、しかし、その映像を作っている人たちはその映像の中身がどこでどう起こっているかという”場”を重視していたり、もしくは、映像を視聴する”場”(映画館やテレビやパソコンでは無く)を公演という舞台芸術に類似した特異な形で創出することにその創作の重きを置いている。 これが本来カメラを手に入れた人々がやってきた映像によるフィクションがもたらす場所作りとは一線を画すもので、場所作りから始まる映像を用いた新たな作法となっている。
映像は恐ろしい。カメラは恐ろしい。本来”生”(”ライブ”)である媒体を扱う舞台芸術において往々にしてカメラというものは忌み嫌うべき存在である。その技術を取り入れることは表現として別々の道を歩むということになる。”ライブ”と”映像”、これらはこれまでに別々の発展を遂げてきた。そのどちらの道にもフィクションを立ち上げる場所がある。 人は身体性の拡張として道具を生み出して使用する。道具によって人の限界を超えた力やスピードが生み出され、それをコントロールして日々生活をしている。その道具の中でも単に身体能力を拡張したものと、そうではなく(疑似的に)時空をも超越したものとで道具��や知恵)の種類が大別できると思っている。(単に肉を切ることのできる石の使用と、肉を瞬時に老朽させる火の使用との違い。またその時々の実りを採集する籠の使用と、実りを前もって準備し掌握する田畑の使用との違いなど。)そしてこれまで、この時空をも超える道具の力によって、歴史は大きく転換しその時代の価値観を揺さぶったのではないかと想像する。 舞台芸術において、その時空を超える道具とは”カメラ”である。カメラとは記録装置で目の前にあるものをそっくりそのまま記録することに使われる道具である。カメラによって人は忘れたものを呼び起こし、複製し、保存し、そして繰り返すことができる。カメラは”ライブ”とは全く違う性格を要している。 ”フィクションを立ち上げる場所”を命題に掲げて進めてきた思考ですが、その多くはその他のシーンの事象にも応用できることと感じます。 目的から手段が生まれ、そこに技術の発明が起こり袂を分かって平行線に歩んできたそれぞれの”場”創り。共存可能な今まで、氾濫する革新のもと推し進められてきたその解放の上塗り。ここから先、まだこの平行線を辿ってどこまでも見えない地平線に突っ走っていくのか。その真っ只中で今回コロナ禍が起こした一端の行き止まり。立ち止まることが求められた今、舞台芸術において新たな場作りが始まったと感じた。それが奇しくもカメラという”ライブ”が最も大切にする核心とは全く性格の異なった道具によって。でもそれは、何か今まで人が知らなかった示唆を与えてくれている。カメラは新たに発明した道具ではない。自らの目的と手段を見つめ直し、尚且つ時代の潮流に乗った今だからこそ、かつては見えなかった方法を編み出すことができている。 ”出会い直し”。人は何かを手にする。それを眺めて答えを出す。でも今、色々な場面でもう一度、新たな再会が求められているのかもしれないと思った。
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xf-2 · 6 years
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議場にて「朝鮮学校」について言及し答弁を求めることがどれほどの覚悟を要するか、想像できるだろうか。言うは易しだが、”様々な圧力”がある中、公式の場で発言することがどれほどのことか理解できるだろうか。 自らの意思で選挙を戦い、皆様のお力添えを頂いてバッチをつけているわけだが、それに相応しい覚悟を持っている者は多くはない。また、能力も併せ持っている人材となると、さらに人数は限られてくる。
東京都において【朝鮮学校への補助金がカット】された。これは議会において一般質問が行われたからなのだが、その時にタイトルは『朝鮮学校への補助金全額削除を』というもの。これは、東京都議会の議事録に未だ公開されている。その際に質問に立った都議会議員が、吉田康一郎氏である。
6月3日告示の中野区長選に出馬の意向を示している。
吉田康一郎、その能力は凄まじく、行政側としても充分に通用するものだ。私のように、質問側で斬り込むことのみに長けた者は(つまり突破力や攻撃力、専門色)、議員が似合っている。だが、答弁する側の行政となると、また異なる能力(総合力や防御力)が求められてくる。保守系において、この能力を有する者は少ない。 実際に、朝鮮学校の予算が凍結された際の議事録を紹介する。
その伝説の質問は、平成22年第4回定例会 一般質問にて行われた。 警視庁とは、東京都を管轄する警察組織だ。そのため、東京都議会では答弁者には警視総監が立つわけだが、「朝鮮総連及び朝鮮学校に関する警視庁の認識」を引き出している。警視総監の答弁とは、警視庁の意向となる。対北朝鮮政策にも強い影響を与えたと推察され、いまだ有名な議事録だ。
朝鮮学校の補助金削除は、その後、知事が何人変わっても今も続いている。 ここが実は重要です。後の知事まで縛る事ができた立論だったということです。 当時、朝鮮学校の補助金の削除は議論はされていたが、実際の削除は初めてであり、首都東京都の実施は、全国の自治体に影響を与えました。北朝鮮の度重なる暴挙もあり、ついには国が通達を出すにまで至りました。今回、紹介するのは、その議事録になります。
質問においては【公安調査庁が提出した答弁書が閣議決定されましたが、その答弁書によると、朝鮮総連と朝鮮学校の関係について、密接な関係にあり、学校の教育内容や財政、人事に影響を及ぼしていると認識しているとされており、もとより朝鮮総連は北朝鮮政府がみずからの出先機関として取り扱っています。
そこで、こうした閣議決定などを踏まえ、治安責任を有する警視庁の北朝鮮、朝鮮総連、朝鮮人学校に対する認識を伺います。】という、斬り込み方。
議会慣れした方からすると、上手いな!と感嘆するだろう。ここは、吉田氏の個人の考えではなく、あくまで閣議決定された資料を踏まえた形とし、ここまでのことを述べつつも半身ずらして被弾を避ける。あわせて行政には、国が決めた内容を踏まえて、と回答を迫るわけだ。ここで回答を求めた行政とは、警視総監である。
ネットが今ほど台頭する前のこと。ここまでのバトルが、確かにあったんだよ。古参の保守は、この名をよく覚えているだろう。吉田康一郎が、中野区長選に出馬予定。
楽観はできない。相手は現職ゆえ相当な苦戦が予想される。だが、仮に奇跡を手に入れることができたならば、東京都全体に、そして日本全体に激震が走るだろう。僅か一議席を与えれば、朝鮮学校の予算を全額削除した男だ。彼が政界に戻ってくれば、どれほどの衝撃を与えるだろうか。仮に区長になれば、その職権においては「外国人の生活保護」を撤廃したり、パチンコに地方税をかけたりと、やれることは無限にある。
政治家は、たらればの話はすべきではないと前置きはするが、我々に奇跡を与えて頂けたならば、私は吉田区長に「要望活動」を行うだろう。そして、吉田氏は、それを受けてくれると信じる。
余談になる。私と吉田康一郎をつないだ国会議員は、実は西村眞悟先生だ。 当時のエピソード、私が市議になる前の、古い古い話もしていこう。思えば、あれは九年ほど前になる。
追伸) ちなみに、先ほどまで吉田さんと一緒にいた。
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(OGP画像)
朝鮮学校への補助金全額削除を伝説の一般質問、朝鮮学校の予算を全額カットしてしまった、最強の名を欲しいままにしたと議会議員の議事録をご覧いただきたい。
平成22年第4回定例会 一般質問、である。
冒頭では、閣議決定資料を用いて行政を追い込んでいき、答弁を固めてのち自論展開や要望を出していく。 オーソドックスな手法だが、このレベルでやれる議員は限られている。
しかも、この質問は8年ほど前のものであり、ネットからの援護射撃などなく、単騎特攻で答弁をもぎ取ってきているのだ。 そもそも答弁を求めた相手は、警視総監である。この答弁は、警視庁の意向そのものを方針づけるものであり、のちの対北朝鮮政策にも多大な影響を与えたと推察される。
質問1 吉田康一郎君
 次に、朝鮮学校への公金補助問題について伺います。
 公安調査庁は、「内外情勢の回顧と展望(平成二十二年一月)」の中で、「朝鮮人学校の思想教育について」と題し、次のように記述しています。
 朝鮮総��は、朝鮮人学校での民族教育を「愛族愛国運動」の生命線と位置付けており、学年に応じた授業や課外活動を通して、北朝鮮・朝鮮総聯に貢献し得る人材の育成に取り組んでいる。
 朝鮮人学校では、一律に朝鮮総聯傘下事業体「学友書房」が作成した教科書を用いた朝鮮語での授業を行っている。
 例えば、高級部生徒用教科書「現代朝鮮歴史」では、北朝鮮の発展ぶりや金正日総書記の「先軍政治」の実績を称賛しているほか、朝鮮総聯の活動成果などを詳しく紹介している。
 朝鮮総聯は、このほか、教職員や初級部四年生以上の生徒をそれぞれ朝鮮総聯の傘下団体である在日本朝鮮人教職員同盟や在日本朝鮮青年同盟に所属させ、折に触れ金総書記の「偉大性」を紹介する課外活動を行うなどの思想教育を行っている。
 また、報道によれば、朝鮮学校の教員の人事権は金総書記が握っている、朝鮮学校校長は最重要ポストであり、朝鮮総連内の最重要幹部である中央委員でなければならない、中央委員の人事は、北朝鮮本国の朝鮮労働党の承認のもと、金総書記の決裁が必要とされる、高校の校長は、北朝鮮にとって信じるに足る教育革命家だということです。
 また、朝鮮労働党の対南工作部署である統一戦線部に所属していた元幹部の張真晟氏は、朝鮮学校で使用されている教科書は、日本の朝鮮大学校で作成された草案が北朝鮮に送られ、修正された上で、金総書記が目を通してサインして決裁すると明言しています。
 先般の公安調査庁が提出した答弁書が閣議決定されましたが、その答弁書によると、朝鮮総連と朝鮮学校の関係について、密接な関係にあり、学校の教育内容や財政、人事に影響を及ぼしていると認識しているとされており、もとより朝鮮総連は北朝鮮政府がみずからの出先機関として取り扱っています。
 そこで、こうした閣議決定などを踏まえ、治安責任を有する警視庁の北朝鮮、朝鮮総連、朝鮮人学校に対する認識を伺います。
答弁1
警視総監  北朝鮮、朝鮮総連及び朝鮮学校に関する警視庁の認識についてお答えいたします。
 初めに、北朝鮮についてでありますが、北朝鮮は過去に、ビルマ・ラングーン事件や大韓航空機爆破事件等の重大な国際テロ事件、あるいは拉致容疑事件を引き起し、さらには依然として「よど号」ハイジャック事件の犯人グループがとどまっていることなどから、十分な警戒が必要であるものと認識しております。
 次に、朝鮮総連についてでありますが、朝鮮総連は、北朝鮮を支持する在日朝鮮人等で構成された団体であり、その綱領等から見て、北朝鮮と密接な関係を有する団体であると考えております。
 最後に、朝鮮学校についてでありますが、朝鮮総連と密接な関係があり、教育内容、人事及び財政について、朝鮮総連から影響を受けているものと認識しております。
 警視庁といたしましては、公共の安全と秩序の維持という観点から、こうした北朝鮮及び朝鮮総連の動向について重大な関心を払っており、具体的な刑罰法令に違反する行為があれば、これに対して厳正に対処してまいります。
質問2 吉田康一郎君
 朝鮮学校で行われている教育は、金日成、金正日を極端に神格化し、朝鮮戦争や北朝鮮のテロなどをすべて韓国や米国の責任とするなど、著しい虚偽の偏向教育であり、特に、北朝鮮による拉致問題については、現代史の教科書で、二〇〇二年九月、朝日平壌宣言発表以後、日本当局は拉致問題を極大化し、反共和国、反総連、反朝鮮人騒動を大々的に繰り広げることで、日本社会には極端な民族排他主義的雰囲気が醸成されていったとだけ記し、金正日が拉致を認めて謝罪したことや、朝鮮総連が拉致はでっち上げだと強弁してきたことに謝罪したことを全く取り上げず、家族らの被害者救出への努力を反朝鮮人騒動、民族排他主義だと非難しています。
 このような朝鮮学校の教育が、教育基本法第二条の教育の目標、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと、北朝鮮人権法第二条、国は、北朝鮮当局による国家的犯罪行為である日本国民の拉致の問題を解決するため、最大限の努力をするものとする、に明白に違反しており、公的補助には適さないという議論が与党民主党内を含め多数出ているのは当然です。
 また、朝鮮学校が、実質的に日本の公の支配ではなく、北朝鮮の支配に属していることは明白です。朝鮮学校に対する知事の認識を伺います。
答弁2
知事  朝鮮学校に対する認識でありますけれども、北朝鮮は、いまだに解決の道筋が見えない拉致問題を初め、先日の韓国の延坪島への砲撃など、その行動は常軌を逸しているというか、言語道断であります。それを正当化するような教育も朝鮮学校で行なわれているとすれば、これは本当に看過できない問題でありまして、やはり彼らが過去の歴史のトラウマを抱えているのはわかりますけれども、しかし、この時代になお日本に在住しながら、その子弟に、自分が在住している国に敵意を持つような、そういう教育をもし続けているならば、これは決して好ましい存在とはいえないと思います。
質問3 吉田康一郎君
 東京都は、昨年度、二千三百五十七万円の補助金を都内の朝鮮学校に支出しています。九月七日、知事は、拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表が朝鮮学校に教育内容を問わないまま補助金が支出されている問題の見直しを要請したことに対し、家族の心中を察するに余りあることだ、反日教育をやっているのに補助金を出すなんて信じられない、反日教育を今でもやっている学校に日本人の学校並みに手当を出すなど外国じゃ考えられない、都は考え直すと明言されました。
 他方、政府は、高校無償化事業について、北朝鮮に制裁を行っていることなどを理由に、朝鮮学校への適用を先延ばしにしてきましたが、十一月五日、教育内容を問わずに適用を決めるという理解しがたい基準を文部科学大臣名で公表する一方、公金補助の決定前に、拉致問題に関する部分など明らかにおかしい教科書記述の改善を求めるとしました。
 ところが、その手続が始まる直前の十一月二十三日、北朝鮮が韓国への無差別砲撃を行ったことを受け、手続を停止いたしました。この砲撃についても、関係者によれば、朝鮮学校では、砲撃は南から始めた、韓国の民間人に死者が出ているというのはでっち上げだとの教育を行うよう、総連から指示が出ているとのことです。
 このような現状を踏まえ、都の来年度予算の中で朝鮮学校への補助を全額削除すべきだと考えますが、知事の見解を伺います。
答弁3
知事  ですから、この朝鮮学校への補助金についても、平成二十三年度予算については、現在まさに編成段階にありまして、補助金の扱いに関してはしかるべき時期に判断いたしますが、何よりも朝鮮学校への補助金は、都議会の要望を受けてかつて創設された経験がありまして、まず、議会の方でしっかり議論していただきたい。そうした議論を踏まえながら、これからも都として判断をしていきたいと思います。
上手いやり方だなと思ったのは、知事から「議会が決めたんだ、議会で先に話したら?」という答弁をとっている点。こんなことを言われれば、議会だって怒るだろう。
だが、知事がこんなことを言い始めるにあたっては、議員として質問内容で「相手を煽る」とか「答弁せざるを得ない」状況に追い込むしかない。この短い質問で、”オーソドックス”な手段が、超高速で網羅されているわけだ。
私は東京都議ではないので、中で何があったのかは知らない。 だが、以下の報道を紹介しておこう。
報道の紹介 2010/12/24付。
東京都、朝鮮学校への補助金を凍結
 東京都は24日までに、都内の朝鮮学校に対する今年度分の補助金の交付を当面凍結することを決めた。北朝鮮による韓国への砲撃事件後、国が朝鮮学校への高校授業料無償化制度の適用に必要な審査手続きを一時停止したことなどを踏まえた。凍結の解除は知事が判断するという。
(後略)
東京都、朝鮮学校への補助金を凍結 東京都は24日までに、都内の朝鮮学校に対する今年度分の補助金の交付を当面凍結することを決めた。北朝鮮による韓国への砲撃事件後、国が朝鮮学校への高校授業料無償化制度の適用に必要な審査手続きを一時停止し 日本経済新聞 電子版  60 tweets
結末だけを知る者は多いと思うが、その背景にあった議員の戦いを知る者は少ない。 このような議事録が公開されている事実すら、知らぬ者がほとんどだろう。
吉田康一郎のキャリア保守として知る者も多いだろう。
本人のHPより抜粋する。
議会外 ・アジア自由民主連帯協議会 副会長 ・日本沖縄政策研究フォーラム 理事 ・北朝鮮に拉致された日本人を奪還する地方議員の会 ・チベット自由人権日本100人委員会 委員 ・日本ウイグル地方議員連盟 副会長 ・草莽地方議員の会 会員 ・国民の知る権利を守る自由報道協会 理事 放送法・電波法の改正問題にも取り組んでいます。
都議会内では、北朝鮮による日本人拉致問題の完全解決を図る議員連盟 幹事、防災都市づくり推進計画・促進議員連盟、防衛議員連盟に所属。
保守派は、ここだけ見れば納得するのだろう。 だが、吉田氏の「本当の価値」は、ここではない。 実務能力に長けている点だ。
行政の長に求められるのは、まずもって「高い実務能力」であると確信する。 はっきり言うが、「①保守で低レベル」か「②左翼だが数字に強い」で選ばねばならぬなら、首長選挙に限定すれば、(仮に左翼であっても)数字に強い実務者を選んだほうがいい。
その町が崩壊してしまうからだ。
その能力とは凄まじく、行政側としても充分に通用するものだ。私のように、質問側で斬り込むことのみに長けた者は(つまり突破力や攻撃力、専門色)、議員が似合っている。だが、答弁する側の行政となると、また異なる能力(総合力や防御力)が求められてくる。保守系において、この能力を有する者は少ない。
攻撃(質問能力)には長けていても、防御(答弁能力)には欠ける。 保守陣営のジレンマと言ってもいい。単に激しいだけでは駄目なのだ。
都議を二期つとめており、常任委員会(厚生委員会)にて委員長も努めている。 キャリアとしては、経団連事務局(現日本経団連)。無論、新自由主義者のマッカッカな男ではない。だったら友達になってない。
一緒に意見書(案)を書いたことがあるが、吉田氏の文章校正能力は凄まじく、頭がいいとか悪いとか、速いとか遅いとか、そういう次元を超越している。これが経団連で10年も鍛えられた男のSPECなのかと驚嘆した。
出身大学は、慶応大学経済学部卒。 のち都議選、元法務大臣のもとで政策秘書として3年間、政策立案に参画。 そして都議として二期の当選。
基礎の力が、段違いなのだ。
西村眞悟との出会い私はかつて、府広報テレビの開設に関する請願を提出しています。
これは国会法に基づくもので、現職国会議員が紹介議員にならねば提出できません。
その紹介議員の一人が、西村眞悟先生でした。
この請願は、ネットを発祥とした大規模請願の「はじまり」であり、私が初めて提出した請願です。171国会、いまより9年前の国会のこと。
クリックして下さい!(請願の要旨 国会HPより。)
当時、まだネットの力は弱く、私と吉田さんが直接に知り合うことは難しかったように思う。
請願の紹介議員になって頂いた御礼を伝え、西村眞悟先生に「私にできることはないか?」と尋ねたところ、まさに行われていた東京都議選に応援に入ってくれ、と言われました。その候補こそが、吉田さんだったのです。
実は、民主党の候補でした。 ゆえに、朝鮮学校の予算が凍結された質問も、民主党の都議として行っています。
私のBlogを読んでいる方には常識でしょうが、当たり前と言えば当たり前なのです。 ネットが誕生して以降の歴史では、「民主党=左翼集団」でありますが、かつては民社党という『労組を支持母体とした、自民より遥かに右』の政党が存在したからです。
西村先生が拉致問題を国会で追及した際も、民社党の議員として、でありました。 (※ 社民党ではありません。)
のち党勢を失っ���民社党は、野党の離合集散において「民主党に吸収」されます。 ゆえに、吉田氏の経歴として、特に触れるべきは【東京民社協会 副会長 (-H24.11.20)】かと思います。
吉田さんは、民社協会の、まさに秘蔵っ子として大切に育てられた、まさに政治家として戦うために英才教育を施されてきた一人であると思います。
最初の選挙は、自由党から。 保守として政界に飛び込んだのに、左翼の民主党に吸収合併されてしまう。 維新、満を持しての次世代への移籍、 そして、待ち受けていたのは、地獄。
ここまでの人材を、ここまで国家に尽くした者を、 保守派は忘れ去り、在野に置こうというのか。
あの日、眞悟先生は、まだ若かった。 のち何度もお会いしたが、徐々に年を感じさせるようになりました。 私は、まだ市議にもなっておらず、保守系のロビイストとして。
もう、あれから10年になります。 ご縁を頂いた西村先生もご子息が出馬、その名誉を守るべく私が立ち向かったり。 時代は随分と変わりました。
吉田さんの事務所に初めて行ったとき、「応援に行くように言われたんですが」と言ったのですけど、話が通っていなくて、「誰?」からスタート。最終日まで残って、自転車とか乗ってた姿を
私が行橋市議に当選した際、とても喜んでくれましたね。最初は、いぶかしげな眼で見ていたのですが、とても仲良しになっていきます。
赤旗問題を追及する過程で、私が爆破予告を受けた際、そして行橋市議会が謎の決議を下した際、とても怒ってくれましたね。 偶然だと思いますが、行橋市議の関係でいくと、関東圏、特に経団連などの大手とのビジネスが「軒並み、大失敗」になっているという噂がありますが、きっと気のせいでしょう。 何かの呪いがあるのだとすれば、それは向こう10年は継続するように思います。
吉田さんと喧嘩は、したことはありません。 ずっと仲良しです。
ですが、模擬戦ならばしたことはあります。 吉田さんからも殺気を感じましたし、私もとる気で挑みました。 議員とは、相手の思考を読みつつ、いかに後ろに回り込んで撃ち抜くか。 誤解のないように言えば「性格の悪いほうが勝つ」みたいなところもある。
頭脳戦と言うか、知識戦というか。 目の前に三次元の盤面があり、艦隊決戦を挑むかのように。 叩き潰そうと思って全力で撃つんですが、なかなか撃破できません。 後ろをとられて、やられかけたこともある。
仮面ライダーの1号、2号、戦い方が違うように、吉田さんと私も戦闘手法が相当に異なる。 それぞれに得意分野もあるが、戦略的にスナイパーのように動く吉田さんに対し、手数で負荷をかけていく乱打戦みたいな私。 互いの抽斗を全力であけ、撃ち合うと本当に楽しい。
本気で頭脳戦みたいなものを、模擬戦闘でやれる相手も少なくて(恐らく互いに。) 時間を見つけては、「議会ごっこ」みたいな、質問の練習みたいなものをやるのですが、どっと疲れます。
見ていた人は、νガンダムとサザビーが、ファンネルを100発ぐらい出しながら死闘を演じているようだと言っていました。
きっと、私は、吉田康一郎と同じ時間を過ごしてきた。 いま「最強の地方議員」として名を馳せさせて頂いておりますが、私にもかなわぬ存在というものはある。
特に、書類作成能力において、吉田さんにはかなわない。 外国人の扶養控除の意見書、最終的には党内の○×会議を突破し、会計検査院までが動いたあの件だが、あの意見書の校正作業をやったのが吉田康一郎です。
保守色がどうとかいうレベルではなく、(もちろん保守ですけれど)単に実務能力が高い。 それは異常なレベルと言っても、過言ではありません。
本日、吉田さんと会っていたのですが、私は彼の資質を強く再確認しました。
保守系の議員ならば、いまはかなりの人数がいます。 ですが、保守系の政治家で「行政の長」として通用しそうな人材は、実はほとんどおりません。 私も、その適正は欠けています。立法側に、自らの適性を感じています。
吉田さんは、確実に「行政でもやれる」存在です。
ここまで書きましたが、状況は厳しい。
中野区長選に出馬予定とのことだが、現職の区長もいる。 自民区議も出馬ということで、保守派は3つに割れる。 結果として、立憲など左派が優勢という見立てもある。
”政治家ならば、大人になれ”という声が、どこかから聴こえそうですけれど、 友人が一世一代の大勝負に出るとき、動けないやつには、政治なんてできないと思うんだ。
行政トップの力は、絶大だ。 例えば外国人の生活保護だが、最高裁や国の動きを鑑みるに「地方自治体が勝手にあげてる」みたいな解釈になっているようだ。
ならば、行政の長となれば、廃止にすることも可能だろう。 もし区長に当選「したら」、私は要望に伺いたい。 ゲームをしよう、いざ尋常に勝負だ。 (と言っても、双方の意見が合致してしまって、議論がスタートしない可能性もあるけれど。)
パチンコに地方税をかけることも、首長となれば現実味を帯びてくる。 こちらも要望してみたい。
古参保守ならば、知らぬ者はいない。
あの男が、政界に帰ってくる。
朝鮮学校の補助金全額削除を求め、
実際に東京都の予算が凍結された、あの政治家。
ネット上でも、すでに左翼の攻撃が始まっている。
朝日新聞なんて「吉田さんだけ匿名」にして報じようとした。
それだけ驚異的な能力を持っているんだ。
単に保守色が強いというだけではない。
実査に行政を動かす、その力を持った男。
「やる」と決めたら、確実に実行する信念。
見た目は優しそうなのだが、
まさに最強の名に相応しい、保守派の切り札が、吉田康一郎です。
朝鮮学校の補助金凍結、その背景を伝えたい方は、FBでのイイネ・シェア、Twitterでの拡散をお願いします。
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takahashicleaning · 3 years
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TEDにて
グラディ・ブーチ: 人工知能が人間を超えるのを怖れることはない
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
新たな技術は新たな不安を呼び起こすものですが、非常に強力で感情のない人工知能を怖れることはないと、科学者であり思想家であるグラディ・ブーチは言います。
我々は、人工知能をプログラムするのでなく、人間の価値観を共有するように教えるのだと説明し、超知的なコンピューターに対する(SF的な)最悪の恐怖を和らげた上で、ありそうにない人類存亡の危機を怖れるよりも、人工知能が人の生活をどう良くするか考えるようにと促します。
さらに話を進めましょう。私は、そのような人工知能を作ることに怖れは感じません。
それは、人間の概念や価値観を体現することになるからです。認知システムを作るのは、従来のソフトウェア中心のシステムを作るのとは根本的に異なります。プログラムするのではなく教えるのです。
システムに花を認識させるために、私は自分の好きな何千という花を見せます。システムにゲームの遊び方を教えるには、私だってゲームはしますよ。皆さんもでしょう?
花だって好きだし、らしくないですか?碁のようなゲームの遊び方をシステムに教えるには、碁を何千回も指させ、その過程で良い盤面・悪い盤面を識別する方法を教えます。
人工知能の弁護士助手を作ろうと思ったら、法律も教えますが同時に法の一部をなす、慈悲や公正の概念や感覚を吹き込むでしょう(数値で教えられればですが・・・)
具体的には、数値化できるなら、慈悲アルゴリズム、公平アルゴリズム、平等アルゴリズム、公正アルゴリズムなども。
科学用語では、これをグランドトゥルースと言います。重要なのは、そういう機械を作るとき、我々は、自分の理解できてる概念や価値観を教えることになるということです。
それだから私は、人工知能をきちんと訓練された人間と同様に信頼するのです。
でも、悪いことをする工作員やある種の資金豊富な非政府組織なんかの手にかかったなら?一匹狼の扱う人工知能には、怖れを感じません。
あらゆる暴力から身を守れるわけではありませんが、そのようなシステムには、個人のリソースの範囲を大きく超えた膨大で精妙なトレーニングが必要になります(そんなに賢いなら、悪いことをする工作員やある種の資金豊富な非政府組織ではなく社会システム内でとっくに大成功しているはずですが・・・)
さらに、それは単にインターネットへウィルスを送り込むより遙かに大変なことです。ウィルスならボタン1つでそこら中のパソコンが突然吹き飛んでしまうでしょうが、そういうたぐいの実体は、ずっと大きく、それがやってくるのは確かに目にすることになります。
そういう人工知能が全人類を脅かすのを怖れるか?
「マトリックス」「メトロポリス」「ターミネーター」みたいな映画や「ウエストワールド』みたいな番組を見るとみんなそのような恐怖を語っています。
「スーパーインテリジェンス (Superintelligence)」という本で思想家のニック・ボストロムは、このテーマを取り上げ、人間を超える機械の知能は危険なだけでなく、人類存亡の危機につながり得ると見ています。
ボストロム博士の基本的な議論は、そのようなシステムはやがて抑えがたい情報への渇望を抱くようになり、学び方を学んで最終的には人間の要求に反する目的を持つようになるということです。
ボストロム博士には、多くの支持者がいてその中には、イーロン・マスクや故人のスティーヴン・ホーキングもいます。
そのような聡明な方々に恐れながら申し上げると彼らは、根本的に間違っていると思います。
検討すべきボストロム博士の議論は、沢山ありますが、全部見ていく時間はないのでごく簡単に1点だけ挙げるなら「すごく知っている」のと「すごいことができる」のとは違うということです。
HALは、ディスカバリー号のあらゆる面をコントロールする限りにおいて、乗組員にとって脅威でした。スーパーインテリジェンスもそうです。それが、世界全体を支配している必要があります。
スーパーインテリジェンスが人の意志を支配する「ターミネーター」の世界でスカイネットは、世界のあらゆるデバイスを操っていました。
実際のところ、そんなことは起こりません。天気を制御したり、潮の干満を決めたり、気まぐれで無秩序な人間を従わせるような人工知能を我々は作りはしません。
もし、そのような人工知能が存在したら、人間の経済と競合することになり、リソースを人間と取り合うことになるでしょう。
最終的には、Siriには内緒ですが、我々は電源プラグを引っこ抜くことができます。そ���いう機能を取り付けることはデザインの観点からも絶対必要です。
私たちは機械と共進化していくものすごい旅の途上にあります。
今日の人類は、明日の人類とは違っています。
人間を超えた人工知能の台頭を懸念するのは、コンピューターの台頭自体が引き起こす対処を要する人間や社会の問題から注意をそらすことになり危険です。人間の労働の必要が減っていく社会システムをどうすれば上手く運営できるのか?
理解と教育を地球全体に広げつつ、互いの違いに敬意を払うことはどうすれば可能か?認知システムによる医療で人の生涯を長く豊かなものにするにはどうしたら良いか?星々に到るためにコンピューターはいかに役立てられるか?
これはワクワクすることです。
コンピューターを使って人間の体験を発展させられる機会が、今、手の届くところにあり、それは始まったばかりです。
MITの物理学者であり、AIの研究者であるマックス・テグマークの言うように・・・
ロケットの話と似ていて技術が単に強力になれば良いというものではなく、もし、本当に野心的になろうとするなら、コントロールの仕方と、どこへ向かうべきかも理解しないといけません。
エリエゼル・ユドカウスキーが、「友好的なAI」と呼ぶものです。そして、これができれば素晴らしいことでしょう。病気、貧困、犯罪など苦痛というマイナスの経験を無くすことができるだけではなく、様々な新しいプラスの経験から、選択する自由を与えてくれるかもしれません。
そうなれば、私たちは自分の手で運命を決められるのです。そして、準備がないままにつまづきながらアジャイル(=機敏さ)で進んで行くとおそらく人類史上最大の間違いとなるでしょう。
それは認めるべきです。冷酷な全世界的独裁政権が可能になり、前代未聞の差別、監視社会と苦しみが産まれ、さらに、人類の絶滅さえ起こるかもしれません。
しかし、注意深くコントロールすれば、誰もが裕福になれる素晴らしい未来にたどり着くかもしれません。貧乏人は、金持ちにより近づき、金持ちはさらに金持ちになり、みんなが健康で夢を追い求めながら自由に人生を送れることでしょう。
その他に、行政府自身が社会システム全体の資源配分の効率化を目的とする保証はないため政治家や官僚は自らの私的利益のために行動を歪め、市場の失敗を矯正するどころか資源配分をより非効率にする可能性すらあります。
ヨーロッパでの一般データ保護規則(GDPR)でも言うように・・・
年収の低い個人(中央値で600万円以下)から集めたデータほど金銭同様に経済的に高い価値を持ち、独占禁止法の適用対象にしていくことで、高価格にし抑止力を持たせるアイデア。
自分自身のデータを渡す個人も各社の取引先に当たりデータに関しては優越的地位の乱用を年収の低い個人(中央値で600万円以下)に行う場合は厳しく適用していく。
キャシーオニールによると・・・
思考実験をしてみましょう。私は、思考実験が好きなので、人種を完全に隔離した社会システムがあるとします。どの街でも、どの地域でも、人種は隔離され、犯罪を見つけるために警察を送り込むのは、マイノリティーが住む地域だけです。すると、逮捕者のデータは、かなり偏ったものになるでしょう。
さらに、データサイエンティストを探してきて、報酬を払い、次の犯罪が起こる場所を予測させたらどうなるでしょう?
あら不思議。マイノリティーの地域になります。あるいは、次に犯罪を犯しそうな人を予測させたら?あらら不思議ですね。マイノリティーでしょう。データサイエンティストは、モデルの素晴らしさと正確さを自慢するでしょうし、確かにその通りでしょう。
さて、現実は、そこまで極端ではありませんが、実際に、多くの市や町で深刻な人種差別があり、警察の活動や司法制度のデータが偏っているという証拠が揃っています。実際に、ホットスポットと呼ばれる犯罪多発地域を予測しています。さらには、個々、人の犯罪傾向を実際に予測しています。
ここでおかしな現象が生じています。どうなっているのでしょう?これは「データ・ロンダリング」です。このプロセスを通して、技術者がブラックボックスのようなアルゴリズムの内部に醜い現実を隠し「客観的」とか「能力主義」と称しているんです。秘密にされている重要で破壊的なアルゴリズムを私はこんな名前で呼んでいます「大量破壊数学」です。
民間企業が、私的なアルゴリズムを私的な目的で作っているんです。そのため、影響力を持つアルゴリズムは私的な権力です。
解決策は、データ完全性チェックです。データ完全性チェックとは、ファクト(事実)を直視するという意味になるでしょう。データのファクトチェックです!
これをアルゴリズム監査と呼んでいます。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
なお、ビックデータは教育や医療に限定してなら、多少は有効かもしれません。それ以外は、日本の場合、プライバシーの侵害です。
通信の秘匿性とプライバシーの侵害対策として、匿名化処理の強化と強力な暗号化は絶対必要です!
さらに、オープンデータは、特定のデータが、一切の著作権、特許などの制御メカニズムの制限なしで、全ての人が
望むように再利用・再配布できるような形で、商用・非商用問わず、二次利用の形で入手できるべきであるというもの。
主な種類では、地図、遺伝子、さまざまな化合物、数学の数式や自然科学の数式、医療のデータやバイオテクノロジー
サイエンスや生物などのテキスト以外の素材が考えられます。
こういう新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて個人のプライバシーも考慮)
(個人的なアイデア)
さらに・・・
勝手に警察が拡大解釈してしまうと・・・
こんな恐ろしいことが・・・
日本の警察は、2020年3月から防犯カメラやSNSの画像を顔認証システムで本人の許可なく照合していた!
憲法に完全違反!即刻停止措置をみんなで要求せよ。
日本の警察の悪用が酷いので、EUに合わせてストーカーアルゴリズムを規制しろ!
2021年に、EU、警察への初のAI規制案!公共空間の顔認証「原則禁止」
EUのAI規制は、リスクを四段階に分類制限!
禁止項目は、行動や人格的特性に基づき警察や政府が弱者個人の信頼性をスコア化や法執行を目的とする公共空間での顔認識を含む生体認証。
人間の行動、意思決定、または意見を有害な方向へ操るために設計されたAIシステム(ダークパターン設計のUIなど)も禁止対象にしている。
禁止対象の根拠は「人工知能が、特別に有害な新たな操作的、中毒的、社会統制的、および、無差別な監視プラクティスを生みかねないことは、一般に認知されるべきことである」
「これらのプラクティスは、人間の尊厳、自由、民主主義、法の支配、そして、基本的人権の尊重を重視する基準と矛盾しており、禁止されるべきである」
具体的には、人とやり取りをする目的で使用されるAIシステム(ボイスAI、チャットボットなど)
さらには、画像、オーディオ、または動画コンテンツを生成または操作する目的で使用されるAIシステム(ディープフェイク)について「透明性確保のための調和的な規定」を提案している。
高リスク項目は、法人の採用活動での利用など違反は刑事罰の罰金を売上高にかける。
など。他、多数で警察の規制を強化しています。
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
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ATMの機能停止時に
保険業界にできること
黒い白鳥
金融の世界ではほぼ7年から10年の周期で「考えられない」ことが定期的に起きています。そのたびに必ずと言っていいほど幹部達は不意打ちを食らいます。このような「考えられない出来事」は「ブラック・スワン(黒い白鳥)・イベント」と呼ばれるようになりました。ナシム・ニコラス・タレブは彼の著書「ブラック・スワン~不確実性とリスクの本質」の中で命名したものです。
ナシム・ニコラス・タレブ
ブラック・スワン理論
 これらのイベントが確実に起きることは分かっているけど、問題は「いつ起きるか」だけだという人もいるでしょう。リーマンショックに関しても、問題の深刻さは2007年や2008年始め頃にすでに浮かび上がっていたのに、世界の銀行業界は誰も表向きでは心配を示しませんでした。
 いまとなって、やっと人々はそれを認めはじめました。あの頃、「大きすぎてつぶせない」という言葉は殆ど使われていませんでした。でもいまは普通に使われる言葉になりました。
 2016年に早送りしてみると、前回の危機を引き起こした問題に関して、銀行・保険業界・投資ファンドなどの金融セクターでは、自画自賛の声明がたくさん出ています。リスク・マネージメントがいかに改善されたかについての議論に留まらず、自慢話まで日常的に飛び出しています。「もうそんなことは二度と起きないよ」と。
 重要な変化としてもてはやされたのは、今のTBTF(大きすぎて潰せない)銀行はリスク・マネージメントの一環として、「生前遺言」を作っておく必要があるという規制です。もし、いまのシステムにとって重要な機関が破綻寸前になったときにそれを適用すれば、現実に危機が起きても、それが伝染することは防げるという主張です。
Living Will Requirements for Financial Institutions
日本語関連記事の一例:規制当局が大手行の「生前遺言」公表
 しかし、次のリンクにある記事によると、リスク管理者はいまだに「前の戦争と戦っている」そうです。しかも、彼らが解こうとしている問題は、差し迫った最大のシステム的脅威からはほど遠いのです。
Cyber attacks could be bigger threat to our banking system than bad debts
 もしあなたがある企業のCRO(最高リスク管理責任者)だとしたら、現実の世界で現れた問題には対処済みと伝えることは簡単です。実際に起きた出来事のシナリオをモデルとして作り上げ、そのシナリオの中で自社がどのように耐えうるか、ストレスの幅を多少広げて、ストレステストを行うだけで済みます。それから、それらをまとめて、パワーポイントでプレゼンテーション資料を作り、自社がそのリスクにどう対処するかを自己宣伝すればいいのです。
 でも、真実をありのままに彼らに伝えるとなると、それは全く別の話になります。
 「我が社のITインフラを、毎晩眠れないほど心配しています。下手するとそれが我が社を破滅させるだけでなく、世界全体の経済を破壊するかも知れません。我が社の技術を改良し、各システムを統合させるために何百万ドルも投資する絶対的な必要性があるのです。」
 しかしながら、真実をありのままに伝えると、その場でいとも簡単に首を切られかねないのです。
困りましたね。
「まあ、一通りのシナリオを検証した結果、我が社の場合は同じ結果に収束しているようです。」ということになりそうです。
 問題のシナリオはこの上にリンクされたガーディアンの記事に述べられています。ある都市銀行で起きたITインフラの機能不全もしくはそれに対するサイバー攻撃により、それが電子金融システム全体の機能不全を引き起こす、というシナリオです。
 2008年9月、リーマンブラーザースが破綻を宣告した時、それがドミノ効果を引き起こしました。システムの中の、たった一つの重要な機関が機能不全になるだけでも、連鎖反応が起きることをすでに私たちは目撃しました。では、もし複数の巨大多国籍金融機関で、上記のインフラ機能不全が一斉に起きた場合、どうなるでしょうか。
 私は保険数理士として20年近く働いています。この職業にとって、リスク管理は極めて重要な専門分野です。この記事が指摘しているように、投資を怠って時代遅れのITインフラを長期間使い続けていると、システムがいつ完全な機能不全に陥っても不思議ではありません。しかも、その脆弱さ故に、様々なサイバー攻撃で、様々な手段で停止させることが容易であることを意味します。これは巨大なシステム・リスクです。でも歴史的に見て、この問題の是正に一体どれだけの投資が行われてきたのでしょうか。時代遅れのITインフラの問題を究明して解決するための研究企画部隊はどこにいるのでしょうか。最後に、これらのシステム的な懸案事項への取り込みに対して、該当の金融機関の責任問題を追及するための規制当局は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
 悲しいことに、問題を本気で修正する意思は存在しません。いまの指導体制の監視下で大きな故障が起きないように、絆創膏を貼る程度の資金しか投入されていません。短期的な金融実績を求める圧力によって、いつかやってくる「歴史を書き換えるような出来事」に対する有意義な備えは殆どなされていません。国家、大陸あるいは世界全体の経済を完全に停止させうる雪崩式の伝染を避けるために、先を見越した対応策を考えておくことは必要不可欠です。そういう意味では、現状でそれが怠っているのは紛れもない事実です。
 従って、単にストレステストのモデルという限定された構造から得られた結果に依存するより、現実世界の制約内でできることを考慮する必要性があります。現実世界の中では、出力された数字だけではなく、人間の死活問題も掛かっているのです。もし、問題が大陸全体に蔓延して、しかも十分長く留まった場合、社会全体の完全機能停止を招く恐れがあります。
 保険数理士からみれば、「リスク管理」は社会全体への自分の専門職としての責任です。でも、企業や監視機関のこのような冷ややかな反応を見ていると唖然します。私の職業教育と訓練の中で、財産を守る社会的必要性を説明するのに多くの時間が費やされています。これは自分の雇用主の顧客だけに留まらず、社会全体に対しても言えることです。
 たとえ一日や二日程度の比較的に短い期間でも、電子金融システムの機能不全は社会の資産に対して壊滅的な影響を与えます。商業が広範囲にわたって継続できるように、実行可能な回避策を速やかに立てる必要があると思います。最低限でも、生活必需品や不可欠なサービスを、必要とする人たちに提供されなければなりません。
 もし、保険の原理を活かして、独創的でしかも合法的な手段を考えて、基本的な商業を維持できれば、命を救ったり、住民への被害を最小化する基本目的は達成できそうです。こんな危機の中でも、人々よりも利益優先を主張する人は流通システムを維持すれば、相当の金銭的な利益は得られるでしょう。単純に考えれば、もし文明が崖っぷちに追い詰められたら、投資の見返りはどうなるでしょうか。おそらく自分の命まで含めて、すべてを失うでしょう。そう考えると、投資の見返りという意味では、ビジネスを正常に機能させるための負担共有によって、多少の金銭損失が生じても、それは最終的にはずっと優れた選択肢でしょう。
 ちょっとからかっているだけですよ。もしこのシナリオ通りのことが起きた場合、この危機の規模を考えれば、雇用主のバランスシートの最終損益を見通すのは絶対必要でしょう。この記事は、困難な時期に公共の利益になるように、ある目立たない保険商品を活かして改良することについて書かれているのです。金融は民衆のためにあるものです。民衆が金融の犠牲になってはいけないのです。
私たちには、従来の考え方にとらわれずに創意工夫できるチームが必要だ。
発想の飛躍が必要です。
以下の記事では、複数の金融機関を狙う攻撃について、かなり詳細に検討されています。ある監視官の提案が示されています。でも、これが発表されたのは 2015年2月とあって、また日が浅いためか、その規制に対する大きな取り組みはまだないようです。
Regulator warns of 'Armageddon' cyber attack on banks
 
 
これはアメリカ固有の懸案事項ではありません。次の記事に示されたように、発表された後も目立った取り組みはありません。
CYBERSECURITY: THE ROLE OF CENTRAL BANK AND BANK SUPERVISORS
 現時点で議論されている解決策は、IT危機の「自己申告」と「自主管理」へのさらなる依存にすぎません。本格的な危機が起きた場合に対して、本当の意味での革新的な行動計画は作られていません。
 私が提案する解決策は、戒厳令の導入よりも簡単で、民衆にとってもずっと安全になるでしょう。利害関係者全員の友好的かつ速やかな合意が得られれば、最終的な実施コストも大幅に下がるでしょう。武器や外出禁止令や軍用食への依存は生じません。それより、社会の全階層からの協力に依存します。BII(事業中断保険)というある種の損害保険の補償範囲がモデルになっています。でも、標準の保険契約で適用される範囲より遥かに広いです。理由は進めていくと明らかになってくるでしょう。事業中断保険の仕組みについては、入門書としては次の記事をお読み頂ければ幸いです。
http://www.propertycasualty360.com/2009/12/03/lost-business-income-101?page_all=1&slreturn=1466738214
http://www.nieinsurance.com/loss_of_business_income.html
https://www.irmi.com/articles/expert-commentary/business-income-losses-three-column-approach
 さらに、次の保険に関連する記事の中では、部外機関が委任した法的措置の潜在的な影響力と、管轄地域横断による協力と、最終的に社会の中における保険業界の役割について、面白いコンセプトが提起されています。
https://www.marsh.com/us/insights/research/business-insurance.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Business_interruption_insurance
http://www.insurancecompact.org/documents/member_resources_gao_response.pdf
https://www.ciab.com/uploadedfiles/resources/roleofinsint.pdf
 上のリンクでは、多くの情報を消化しなければなりません。要約すると、それらは基本的に次の命題を支持するために作られた資料です。「保険業界は現代の経済システムの中では、商業にとっては必要不可欠です。ゆえに、保険業界は企業として、公共利益のために働く責任があります。」
 「考えられない」事態が起きたとき、保険業は常に支払い義務を持っていることから、それが顕著に表れます。直接的な金融損失にしろ、間接的な名誉毀損にしろ、大きな損失が保険によって回避できているのです。保険金を支払わなければ、誰もその保険会社と契約しなくなるからです。さらに、もし電子金融システムが世界規模でたった数日間停止しただけでも、長期的にどんな経済的な影響が出るでしょうか。いろんなシステムがすべて復旧したところで、最悪の結果として地球規模の恐慌が起きるかもしれません。また、金融セクター全体が破綻に巻き込まれ、強制合併・企業買収・訴訟によって、本来なら危機から世界の実体経済を回復させるために広く投入可能な資金を凍結させてしまうかも知れません。
 電子金融システムに関連したインフラへの広範囲な攻撃によって生じうる結果を考えたら、社会の完全な機能不全への対策として、問題解決するための独創的なアイデアが必要���もしれません。
 次の節では、ベーグルと事業中断保険がいかに世界を危機から救うかについて話します。
「あなたの見解に一ペニー、あなたの正直さにベーグル一つ。」
 2005年、Freakonomics という本が出版され、ミクロ経済に関するいくつかの従来の常識をひっくり返しました。ベーグル・マンという愛称で呼ばれるポール・フェルドマンを主役にした物語から、とりわけ物事の本質を垣間見せる視点が、消費者の心を掴みました。
 以下のリンクは、フェルドマンの経済実験の結果の詳細について説明しています。
http://understandingcriminology.pbworks.com/f/bagel+story.doc
https://www.youtube.com/watch?v=WlZtBlvIL9A
 実験では、回収した売掛金の割合に応じて報酬が支払われるという自己申告システムの中で、人はいかに正直かを示しています。実験内容をおさらいすると、ポール・フェルドマンは毎日ベーグルと木箱を配達時に置いていきます。昼ごろに売掛金を回収しに木箱を取りに戻ります。通常、回収率は100%にはなりません。それでも87%以上の回収率を達成しました。上の動画の1分37秒のところでは、9/11事件のあと、支払い率が2%上昇しました。そして、その実験に関する彼の著書の初版発行まで、上昇率は通常より最低でも+3~4%のままでした。
 当日の4~6時間内の自己申告システムによる支払いだけで、簡単に実現できました。しかも、すべて一回のみの回収で済ませており、残りの11%~13%を取り返すための複数回にわたる試みに一切時間をかけませんでした。彼が適度に稼ぐために必要なのは、その13%の未払い率を打ち消すための売値の上乗せだけでした。
 代金の回収率に影響を与えた興味深い要因がいくつかあります。
9/11のような、社会を奮い立たせる(一時的な)事件は支払い率を引き上げます。
従業員人数を基準にして、小さい企業のほうは支払い率が高いです。
幹部職などの高収入従業員の支払い率が低いです。
天気が悪いと支払い率が下がります。季節外れの好天では支払い率は基準値以上に跳ね上がりがちです。
休日を判断基準とすると、個別に受けるストレスの相対的な減少が結果的に高い支払い率に結びつくことが観測されました。「長い週末」になるとさらに顕著になります。反対に、短めの休日では支払い率は下がります。
上記の YouTube のリンクが示したように、もし、人々は責任を求められていることに気付けば、支払う人は大幅に増えそうです。これは農家が案山子(かかし)を抑止力に使った場合に似ています。
 このデータはリスク管理と大いに関係があるのです。なぜなら、私たちは次の二つの情報を手に入れました。
小売業者と卸売業者が安心して営業を続けるための有力な代替策
 事業中断保険の補償原則を大幅に導入することで、「支払紛争が生じた場合の最終解決策」として、第三者による支払責任が確立されれば、企業に安心感を与え、ビジネスを公正かつ合法的に実施できます。
 著者の注釈: このような「第三者の支払い責任者」の体制については多くの選択肢があります。この記事の場合、この補強の仕組みに必要な資金は管轄区域によって異なります。戒厳令を布告せずに、部外機関によって導入・施行されることが可能であることを仮定しています。
消費者の振るまいに関する重要な情報が分かったので、それを活かして、金融面と物流面の代替策を作成し、広範囲で速やかに適用させることが可能になりました。
 前に説明したインフラの機能不全シナリオの中で、電子金融システムは数日から数週間の機能停止になることが考えられます。この期間が長引く場合、消費者の行動心理に変化が起きるかもしれません。購入時の支払いの代わりに、自己申告システムの活用で、大半の人の購買行動は品良くなる結果が期待できます。ずっと支払わない人がいる場合、追加措置としてその人たちを催促し、最終的な支払い率を上げれば、停止期間が長引いてもなんとかなるでしょう。
 広く速やかに導入する方法として有力なのは、あらゆる金融取引に使われる基本書類である領収書です。領収書をある種の仮通貨として使うのです。
(編者注) 仮通貨を使う仮の案は以下のリンクで紹介されています。電力や通信が一時的に止まった場合に活用できます。支払い不能で起きるクレームにも利用できます。
生活必需品に関わる製造・流通・小売業界の業務継続計画
 続いて、これをいかに広く導入するかについて詳細に説明します。地域の商業リーダー・政治家や、文民による部外期間との間の連携と迅速な反応が要求されます。
仮通貨としての領収書~今も完全に機能するはず
ここでは、特定の管轄区域内において、小売業者や卸売業者に限らず、あるゆる物とサービスの購入に特定の通貨が使用される個人取引について、その基本法則を説明します。なお、これはあくまでも叩き台にすぎません。特定の管轄区域内で、平和かつ公平な商業の維持という目的が達成されるのなら、ここに示された基本概念を必要なら改良や修正を行って下さい。
導入方法について~小売業者の場合
現金による支払いを原則とします。
領収書を二通作成します。これは借用証書として使われます。それによって、電子金融取引が再開されたら、消費者が小売業者に該当代金を支払うことを誓約します。
顧客は両方の領収書にサインし、日付を記入しなければなりません。レジ係もその領収書に捺印をし、日付を記入します。
一定額、たとえば5000円以上の購入について、買い物客は住所や電話番号などの連絡先情報を知らせなければなりません。
回収不可能な領収書に示される金額は、既存の事業中断保険による損失補填として申し立て可能です。もし定められた商業保険契約の補填条件に該当しない場合、これを第三者機関に申し立てて賠償してもらうことが出来ます。(上記の著者の注釈を参照)
既存顧客とのネット取引について: 顧客とネット小売業者の間にすでに取引関係が確立済みの場合、金融システムが再開されれば、すべての電子システムによる資金移動は自動的に実行されます。言い換えれば、銀行口座やクレジットカードやデビットカード情報がすでに両者の間に交換されているため、ビジネスは従来通りに進めても問題ありません。
新規顧客とのネット取引について: 電子金融取引システムが停止中では、銀行は閉鎖されているため、銀行口座番号などの情報の認証はほぼ不可能です。そのため、新規顧客とのネット取引は難しいでしょう。もし、銀行はその時点での顧客口座情報を使って営業を続けていれば、小売業者が直接に銀行の顧客サービス担当に口座情報の認証をすることで、可能かも知れません。
卸売業者とその他の企業間取引の場合の導入方法:
こちらはもう少し簡単に導入できます。すべての購入は「支払い可能な口座」による通常処理で扱えるし、物品の売却やサービスの提供は「信用できる口座」による通常処理で簡単に扱えます。取引は単純に信用の延長です。電子金融取引システムが再開されれば、すべての取引の金銭的解決は自動的に行われます。すべての取引の必要書類、信用の「承認」、物流への考慮、取引相手とのやりとりなど、各企業はそれぞれの方針や施策に各自の責任を負うことになります。
主な懸念として、キャッシュフロー問題によって生じる企業の破産や支払い不能に関する一時的な支払い猶予があります。再開後、閉鎖期間中の全取引が処理され、消費者からの支払いが済み、既存の商業保険(事業中断保険)または第三者による補償が完了するまでは、すべての企業はビジネスを続けることを強いられます。これらが完全に決着がついてから、はじめて通常の法的、金融的な手続きによる破産または支払い不能の宣言ができます。
連携と導入の普及に関する考慮事項 以下の主な利害関係者はすべて重要です(順不同)
自治体首長(市長)
自治体議会(市議会)
商工会議所
保険規制機構
(アメリカの場合は NAIC 全米保険監督官協会)
(日本では金融庁・日本損害保険協会など)
公益事業法人
注意: 地域の法執行機関の人員や国家警備隊は流通システムの継続運用への従事を特に要求されていませんが、緊急必需品の運搬車両や食品、水、医薬品などの配布において、助けが必要な状況であれば、交通維持などに手を貸すことも出来るでしょう。このような危機的状況では、戒厳令への危惧を和らげるために、目立つ行動を控えたほうがいいでしょう。
即時必要な人員
追加のレジ係当番と小売り店員
小売店での友好的な「監視員」
店先で来店者に挨拶する従業員を想像してみてください。任務は各取引において名前を記入してもらい、買い物客が店を出る前にきちんと支払いを済ませ、市民としての義務を果たしてもらうように声をかけることです。
臨時的な会計担当
公共への告知を作成し、あらゆるメディアで広めること
状況を誰でもわかるような言葉で説明します
個人や企業として何が必要かについて人々に教えます
レジでの待ち時間を短縮するために臨時小売り店員を雇います
年寄りや障害者への戸別訪問によるサポートと、犯罪防止のための近隣パトロール隊へのボランティア募集
便乗値上げや不当営利行為が起きないように、民衆による監視を勧めます。たとえば、仮通貨での支払いに対して5%か10%の追加料金を要求するのは不当営利行為に該当します。逆に、現金で支払う場合を5%割引にするなどの場合もそれに該当します。
緊急必需品の確保ができるようにするための追加手段として、慈善活動、物品交換会、フリーマーケット、直接取引や物々交換による個人間取引を奨励します。
長期的に必要な人材
保険の申し立てを検討し、処理できる経験者
申し立ての合法性について調査する法廷会計士
臨時の会計担当者
便乗値上げや不当営利行為の報告例を検討する会計監督者
金融システムの停止中に特定の団体が有害な活動を行い、個人・企業・または地方政府に金銭損失をもたらした場合、被った損失についての弁償を求めるように、保険代位を立てます。集団訴訟の結果で得た賠償金を補償ファンドとして設立するといいでしょう。この場合、支払金の監督と管理には、誠実で資格を満たす人間が求められることは言うまでもありません。
終わりに
 この記事は、ITインフラの機能不全またはサイバー攻撃に由来する広範囲で深刻な未曽有の金融危機というシナリオについて説明しています。上記に書いた行動手順は一つの基本計画を表します。地域、文化、法体制またはその他の取り上げていない特殊な状況によっては、重大な変更が必要になる場合もほぼ確実に存在するでしょう。
 この記事の主旨は、このようなシナリオが訪れても乗り越えられることを強調しています。重要なのは、物事が展開されていく前に所定の準備をしておくことです。
 文民や企業リーダーがメディアを通して、速やかに実現可能な解決策の提起や明確な対話を行い、さらに迅速な導入で民衆を安心させることが要求されます。これを達成できれば、社会の不安は最小限に抑えられ、法や秩序の維持よりも、実際の物やサービスの分配に人員を割くことが出来るようになります。すべてのシステムが復帰されるまで、最初の48時間から72時間に民衆を落ち着かせることが、銀行閉鎖の残り期間を無事に乗り切るために肝心なのです。
翻訳: Shigeru M
/ PFC-JAPAN Official Group
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madeggeggs11112 · 6 years
Text
memo
Boris Groys Art, Technology, and Humanism http://www.e-flux.com/journal/82/127763/art-technology-and-humanism/ <抜粋と適当な翻訳のメモ>
ハイデガーはこれを明確に述べていないが、 技術は彼にとって第一に時間の流れの中断であり、時間が未来への流れを停止する貯水池の生産なのである。よって過去の瞬間への回帰が可能になるのである。
ハイデガーによると、技術の目的は人間をまさに変化に対して免疫化することであり、「フュシス」、運命、予期せぬ事故への依存から人間を解放することである。 なぜそれが危険なのか、ハイデガーは以下の様に説明する。 すべてが保存され利用可能な資源になると、人間も資源と見なされる… 安��性と安全性の探求のなかで、人間は自分自身を物に変える。
ハイデガーは芸術だけがこの誹謗から人間を救うと信じている。 なぜならハイデガーは「芸術作品の根源」のなかでこのように説明するからだ。芸術は我々の物の使い方の暴露以外の何者でもなく、あるいは望むなら、私たちが物事による使われ方の暴露であると ここで重要なのは、ハイデガーの場合、アートワークは単なる物ではなく、アーティストを存在の開示(clearing of Being)へと開くヴィジョンである、とうことである。
芸術作品が特定のある「物」としてアートシステムに入った瞬間、芸術作品は販売、購入、輸送、展示などのために利用できる「作品」というオブジェクトに固着する。ここで存在への開かれ(clearing of Being)は閉じてしまう。 言い換えれば、ハイデガーは芸術的なヴィジョンの「物」への変形を好まない。 したがって、彼は人間の「物」への変化も好んでいない。 ハイデガーの人間を物へと変形させることに対する嫌悪感の理由は明らかだ。ハイデガーは「技術に関する問い」「芸術作品の根源」のなかで、我々の世界では、物は道具として存在すると主張している。 ハイデガーにとって、オブジェクト化や商品化その他は、使用されることを意味している。 しかし、物とツールとの間のこのような方程式は実際に有効であるだろうか?
私はアートワークの場合、そうではないと主張するだろう。 もちろん、アートワークは商品や道具として機能することは事実だ。 しかし、商品としては、作品は他の種類の商品とは異なる。基本的な違いは、原則として、我々は商品を消費するとき、消費の行為を通じて商品を破壊する。パンが消費されるとき、すなわち食べられれば消滅し、存在しなくなる。水も同じく飲むと無くなる。(消費は破壊である ー「家は炎によって『消費』される。」)衣類や車などは消耗され最終的には使用中に破壊される。 しかし、作品はこのようにして消費されることはない。それらは使用されず破壊もされない、単に展示されたり、見られたりするだけである。そして作品は良好な状態に保たれ、修復される。したがって、美術作品に対する私たちのふるまいは、通常の消費/破壊の行為とは異なる。芸術作品の消費は、それらへの観想(contemplation)である。観想(contemplation)は、芸術作品を破損から遠ざける …
古典的な観想的態度(contemplative attitude)は、論理の法則(プラトン、アリストテレス)または神(中世の神学)の法則のような不滅の永遠の物体に向けられた。 すべてが変化のなかで一時的で、有限であり、死する物質世界は「観照的生活」の場ではなく、「活動的生活」の場として理解された。 したがって、芸術の観想(contemplation)は、真理や神への観想(contemplation)と同じように、存在論的に正当化されていない。 むしろ、芸術の観想(contemplation)は、保存と保管の技術によって可能になっている。この意味で、ハイデガーによれば、美術館は、人をオブジェクトに変えることによって危険にさらす技術の単なる一例にすぎない。
『人間に対して限定的にある種の有機的な性質を停止するよう、 美 術 館 は 要 請 し 、そ れ を 基 本 的 な 前 提 条 件 と し て い る と い う こ と が 言 え る で し ょ う 。つ ま り こ こ で 、美 術 館 は 仮 設 的 に も 立 ち 上 げ る「 美 」に よ り 、あ る 種 の 有 機 性 を コ ン ト ロ ー ル し 、そ の 意 味 で鑑賞者も作品も無 機 的 に し て し ま う 事 と 無 関 係 で は あ り ま せ ん 。』
(サルトルによると) 他者の眼差しは、新しい、予期せぬ行動を含んだ、私たちの可能である未来の行為を除外する。それは私たちをすでに完結したオブジェクトと見なす。 『地獄とは他人のことだ』 I try to objectify the other and the other tries to objectify me. 芸術の目的は、この眼差しを非活性化し、それを観想的で受動的な眼差しに変換するために、他者の眼差しを引きつけるのではなく、むしろ逃れることになる。
ー マレヴィッチやマリネッティなどのイタリヤやロシアの未来派は博物館や歴史的建造物の破壊を求めた。彼らの要点は「活動的生活」の名目のもと、芸術のシステムそのものに反対するのではなく、観想的な態度(contemplative attitude)を拒否することであった。 古典的アバンギャルドは、世界を変えるという目標と共に、過去と現状の美的保護を打ち破りたかった。 過去に対するこの闘争は、芸術的前衛によって芸術に対する闘争とも理解された。しかし、芸術はそもそも、その始まりから過去への闘争という形式をとっていた。美化とは消滅の一形態をとるのだ
フランス革命による転換 キュレーションの起源
教会や貴族によって使用されていたものを芸術作品、すなわち美術館(元々はルーヴル美術館)に展示されるオブジェクトに転換した—objects only to be looked at. フランス革命の世俗主義は最高の目的としての神(contemplation of God )を廃止し、それを物質的対象の「美」への観想(the contemplation of “beautiful” )へと置き換えた。 言い換えれば、芸術そのものは、革命的な暴力によって生まれたものであり、当初からイコノクラスムの現代的な一形態であった。実際、近現代以前の歴史においては、宗教や政治制度を含む文化的レジームや慣習の変化は、以前の文化的形態や信条に関連する物の物理的破壊という過激なイコノクラスムにつながる。しかし、フランス革命は過去の貴重な物に対処する新しい方法を提案した。破壊される代わりに、これらのものは機能を停止させられ(defunctionalized )、芸術として提示された。
フランス革命は新しいタイプの物を導入した。つまり「機能不全の道具」(defunctionalized tools)である。 したがって、人間にとって、物になることはもはや道具になる事を意味しない。それどころか、物になることは今や、芸術作品になることを意味する。 そして、人間にとって、芸術作品になることは正に、奴隷制からの脱却と暴力に対して免疫化されることを意味している。
確かに、芸術作品の保護は、人体の社会政治的な保護と比較可能である。 すなわちフランス革命によって導入された人権によって与えられた保護と比較することができる。 芸術とヒューマニズムの間には密接な関係がる。ヒューマニズムの原則によれば、人間は、積極的に利用されたり、殺されたり、暴力を振るわれたり、奴隷化されたりすることなく、ただ観想される(contemplated)のみである。カントは彼の有名な主張のなかで、人道主義のプログラムを、啓蒙された世俗的な社会では、人は手段としてではなく結果として扱われなければならないと基礎付けた。これは我々が奴隷制を野蛮な行為であると見なす理由である。 しかし、私たちが他の物や商品を使うのと同じ方法で芸術作品を使うことは、同じく、野蛮なやり方で行為することを意味する。 ここで最も重要なことは、世俗的な眼差しが人間を、特定の形態をもつオブジェクトと定義することである。すなわち人間の形態をもつオブジェクトとして。 人間の眼差しは人間の魂を見ない。それは神の特権である。人間の視線は人体だけを見る。したがって、我々の権利(ヒューマンライツ)は、私たちが他者の眼差しに提供するイメージに関連している。これが私たちがこのイメージに興味がある理由である。 そして、それが私たちが芸術と芸術による保護に関心がある理由でもある。人類は最も偉大な芸術家によって作られた芸術作品として他人に知覚される限り、保護されている。 もちろん、人類は自身の作品としての地位を十分に認識しており、この地位を改善し、安定させようとする。人類は伝統的に、特に貴重な芸術作品であるように、望まれるものでありたいし、尊敬されたいのである。
アレクサンドル・コジェーヴは、望まれたいという望みが、社会的に認められ、賞賛されることへの野心が、私たちを人間にしてくれるものであり、動物から私たちを区別していると信じていた。
… しかし、同時に他者の欲求への欲求は対象をオブジェクトへ、究極的には死体へと変換するものである。コジェーヴは次のように書いている「純粋な威信(pure prestige)のためのこのような死との戦いがなければ、地球上に人類は存在し得なかった。」 欲求への欲求の主体は「自然」ではない。なぜなら、それらの自然な必要性も、認識上の抽象的概念における「自然な」存在さえも全て犠牲にする準備ができているからでる。
ここで人間は、社会的に保護され、少なくとも公に法的に保護されている芸術である限り、潜在的に不滅な身体といえる第2の身体を創造する。 私たちはここで、芸術によって、技術的に生み出された不滅への人体の拡張について話すことができる。 実際、重要なアーティストの死後、彼らの作品は収集され、展示されているので、博物館に行くときは、「レンブラントとセザンヌの作品を見てみよう」というより、「レンブラントとセザンヌを見観に行こう」と言う。 このような意味で、芸術の保護は芸術家の生命を拡張し、芸術作品に変身させる。自己美化の過程で、彼らは自身の新しい人工的な身体を、決して使用されず、ただ観想される(contemplated)ことのみを許容する、貴重で価値のあるオブジェクトとして作り上げる。
もちろん、コジェーヴは、思想家、革命家、芸術家といった偉大な人物たちだけが、次世代の人々の認知と賞賛の対象になると信じていた。しかし、今日、ほとんどすべての人が自己美化、自己デザインを実践している。
コンテンポラリーアーティストはインターネットを使用して活動する。 これは、現代の美術の経験を明らかに変えることになる。 グーグルでアーティストの名前を調べればその作品を見る事ができる。かれらは、私にバイオグラフィー、他の作品、政治的活動、批評、私的な側面をみせてくる。 ここで私は、架空の、作者の懇意的な主題と、解釈学的に解読させられることで明らかになる意味が含まれている疑いがある作品について指摘するのではない。このような作者の主題はすでに解体され、何度も死んだと宣言されている。 そうではなく、私はインターネットのデータが指しているオフラインの現実に存在する実際の��物のことを意味している。この作家は、アートを制作するだけでなく、チケットを購入したり、レストランの予約をしたり、ビジネスを行うなど、インターネットを利用している。これらの活動はすべてインターネットの同じ統合された空間で行われ、すべてが他のインターネットユーザーに潜在的にアクセス可能である。
アートは特定の活動(オフラインの現実世界で実際に行われる作業のプロセスのドキュメンテーション)としてインターネット上に提示される。 グーグルが示す様に、インターネットには壁がないので、インターネット上の芸術は軍事計画、環境事業、資本中通などと同じ空間にオペレートされている。 インターネットユーザーは普段の使用のなかで、無関心な観想(contemplation)へと切り替えたりしないので、アートを世界のその他全ての普通の情報とおなじように使用する。 ここで、ついに、芸術の活動は「普通の」現実における活動(そのほかの有用な、あるいは有用でない活動と同じく)になる。芸術はすでに人生の一部となっているため、有名なスローガン「芸術を人生の中へ」は失われる。なぜなら、すでに芸術は他の実質的な活動の合間にある人生の一部であるからである。 ある意味で、芸術はその起源に戻った。アーティストが「単なる普通の人(手芸作業者もしくはエンターテーナー)」であった時代に。同時に、インターネット上では全ての普通の人がアーティストになり、自画像やそのほかの画像、文章を作成し、送り合う。今日、自己美化の実践には何億人もの人が関わっている。
人間自身だけでなく、生活空間もますます審美的に保護されている。 博物館、モニュメント、都市の広い地域であっても、所与の文化遺産に属するものとして美化されているため、変化から保護される。 これは、都市や社会に多くの変化の余地を残してはいない。確かに、アートは変化を望んでいない。芸術は保存と保護に関するものである。これが芸術が深く保守的である理由である。 …
いずれにしても、現代の経済と技術の発展(「ターボ資本主義」または「新自由主義」と呼ぶ)は審美的に動機付けられた保護の政治に反する。ここでは、芸術がより(具体的には政治的に)活発になる。 ここで私たちは抵抗の政治について語る事ができる。つまり、芸術的保護が抵抗の政治へと変化するということについて。抵抗の政治は抗議の政治である。 ここで、芸術は観想(contemplation)から行動(action)へと移行する。 しかし、この意味での抵抗は、観想(contemplation)の名の下にある行動であり、観想(contemplation)を不可能にする政治的、経済的変化の流れに対する反応である。
この抵抗の意味は何だろう? 私はすでにユートピアが到来していることを照明しているというだろう。 これはつまり、ユートピアが将来的に我々が想像する必要があるものではないということを既に指し示している。むしろ、ユートピアは既にここに存在しており、守られるべきものであるのだ。では、ユートピアとは何なのだ? それは審美的な停滞であり、むしろ全体的な審美の結果としての停滞である。 確かに、ユートピアの時代は変化の必要のない時代である。変化は常に暴力と破壊によって引き起こされる。したがって、ユートピアの変化が可能ならば、ユートピアではないだろう。何者かがユートピアについて語るとき、それは変化についてである事が多い、しかし、その変化は最終的な、究極的な変化である。その変化は変化から無変化(no change)への変化である。 ユートピアは、搾取、暴力、破壊が不可能になる芸術作品の総体である。この意味で、ユートピアは既にここにあり、永久に成長している。ユートピアは技術開発の最終段階であるといえる。この段階で、技術は自己反映型になる。
… ハイデガーは他の多くの著者と同様、このような自己反映の機転の見通しがある事に驚愕した、なぜなら、それは人間存在の全面的な歯車化(インストゥルメンタリゼーション)を意味すると信じていたからだ。 しかし、私が示したかったように、自己客観化(self-objectivation)は必ずしも自己功利主義につながるわけではない。それはまた、それ自体の外に目標のない自己審美化につながる可能性があり、したがって歯車化(インストゥルメンタリゼーション)の反対である。このようにして、世俗的なユートピアは真に勝利している。つまり、これは、技術の究極の閉鎖であり、人生はその不滅と同時に始まり、時間の流れは、その静寂と同時に始まる。
しかし、技術動向( technological dynamic)のユートピア的な逆転回は、その存在論的保証の欠如のため不確実なままである。確かに、20世紀の最も興味深い芸術は世界の完全破壊の終末論的可能性に向けられていたと言えるだろう。初期のアヴァンギャルドの芸術は、親近なる世界の爆発と破壊を何度も現前化させようとするものであった。だから、それはしばしば世界の週末を楽しんで祝うと非難された。代表的なものとしてベンヤミンの「複製技術時代の芸術」がある。ベンヤミンはファシズムを審美主義の最高点、究極の暴力と死の審美的な楽しさと定義している。ベンヤミンは、マリネッティによって実践された様な、世界の終演の祝福をファシストであると信じていた。確かに、我々はマリネッティによる、身近な世界の破壊を審美と祝福するテキストをたくさん見つけることができる。そしてまた、マリネッティはイタリアのファシズムに接近していた。 しかし、世界の終末と死の審美的な楽しさは、カントの崇高についての理論ですでに議論されていた。そこでカントは、死の危機の瞬間と自己破壊の視点を美的に楽しむことがいかに可能かを問う。 カントは多かれ少なかれ次のように述べている。 この楽しむ主体はこの主体が合理的に、無限で不滅の理性はたとえどのような終末を迎えて人体が滅びようとも生き残ると知っている。まさにこの内的確実性(如何なる個別の死も克服するという理由)が死の危機と来るべき終末を美化する能力をこの主体に与える。
ポストスピリチュアルな現代人はもはや理性や魂の不滅を信じていない。しかし、コンテンポラリーアートは物質世界の不滅を信じるため、終末を美化するする傾向が依然としてある。言い換えれば、たとえ太陽が爆発したとしても、素粒子、原子、分子が伝統的な宇宙秩序への帰順から解放され、それによって世界の物質性が明らかになることを意味すると考えている。 ここで終末論は、世界の終わりは単に宇宙のプロセスの中断ではなく、真に自然の性質の開示であるという風に理解されているという意味で依然として黙示録的である。
中略
リオタール「身体なしで思考することは可能か」(『非人間的なもの──時間についての講話』(1988)) リオタールは、太陽は45億年後に爆発する科学的な予測を参照して、このエッセイを始めている。
the sole serious question to face humanity today. In comparison everything else seems insignificant. Wars, conflicts, political tensions, shifts in opinion, philosophical debates, even passions—everything’s dead already if this infinite reserve from which you now draw your energy … dies out with the sun.
人類の滅亡の視点はいまだ遠くにあると思われるが、しかし、それはしでに我々を害しており、そして我々の努力は無意味なものとなる。つまり、リオタールによれば、真の問題は人間の身体に取って代わることのできる新たなるハードウェアを作り出す事であり、これは人間のソフトウェア、すなわち新しい支持体に思考を上書きすることができることである。このような移植がもたらす事実は、「テクノロジーは人間によって発明されてはいなかった」ということである。技術の発展は人間が物語として含まれる唯一の宇宙的なプロセスである。このようにして、リオタールは、ソフトウェア(態度、意見、イデオロギー)からハードウェア(生物、機械、それらの組み合わせ、宇宙プロセス、そして出来事)に焦点を移すような方法で、ポストヒューマンまたはトランスヒューマンを考える方法を開いた。
リオタールは人類は、完璧な動物(超人the Nietzschean Übermenschen)になるのではなく、しかし思考と、無機的な、否人間(つまり動物ではない)の記録可能な支持体との間の新しい結合へと超越する必要があると述べている。 human animalの自然な再生は、その機械的再生によって置き換えられるべきである。ここで、伝統的なヒューマニストのアウラの喪失を嘆く事は可能である。しかし、ウォルター・ベンジャミンはすでに、世界の全面的な破壊のアウラ的瞬間の代わりに、アウラそのものの破壊を受け入れていた。
古典的アヴァンギャルドの芸術的実践や対話は、現代のメディアワールドに、私たち自身の第二の自己生成される人工的な身体が存在する条件を事前に前提としたものだった。これらの身体の要素 - 芸術作品、本、映画、写真 - は、世界中に分散した形式で流通する。この分散は、インターネットの場合に顕著である。もし、インターネットで一つの特定の名前を検索すれば、如何なる照合も認める事のできない何千もの参照項を見つける事ができるだろう。したがって、この第二の、自己設計された、人工的な身体はすでに、まるでミケランジェロ・アントニオーニの砂丘のラストシーンのような、爆発のスローモーションの状態にあるという感覚にいたる。あるいは、それらは恒久的な分解の状態にあるのかもしれない。 ニーチェによる、ApolloとDionysusの間の永遠の闘争は、ここでは奇妙な結果につながる。 自己設計された身体は、分解され、分散し、偏心し、さらには爆発する。しかし、依然として仮想的な結合を保存する。が、この仮想的な結合は人間の眼差しにたいしてアクセス不可能な状態(not accessible )である。グーグルのような監視、検索プログラムたちのみがインターネットをその全体として分析可能であり、ゆえに死者を含む第二の身体を識別する事ができる。ここでマシンはマシンによって認識され、アルゴリズムは別のアルゴリズムによって認識される。おそらく、これはリオタールの警告に対応する、人類が太陽の爆発の後も存続する予兆の状態であるだろう。
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itokenichiro · 7 years
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トロールに関する書籍のLondon Review of Booksによる書評の和訳:"Schadenfreude with bite"
(お願い)改善中です。あきらかな誤訳、不正確な点、アドバイス等がありましたら遠慮なくご指摘ください。よろしくお願いします。英語できる人は原文にあたるのがてっとり早いです
London Review of Books, 15 Dec.2016
Whitney Philips, Why We Can’t Have Nice Things:Mapping the Relationship between Online Trolling and Mainstream Culture Karla Mantilla, Gendertrolling:How Misogyny Went Viral Benjamin Radford, Bad Clowns John Lindow, Trolls:An Unnatural History
原文リンク http://www.lrb.co.uk/v38/n24/richard-seymour/schadenfreude-with-bite
(訳文) トロールはネットにおける「いたずらっ子」を自称し、スキのある獲物を挑発することに関しては機会を逃さない。そして奴らは引き起こされた憤激をみて歓喜するのである。ミネソタ州出身の12歳の少年ミッチャル・ヘンダーソン君が2006年に自殺した際、トロール達は、少年の友人や親類らの悼辞が並ぶMy Spaceのページに襲撃をかけた。トロールらは特に、自死の数日前に少年がiPodを紛失していた事実に着目し、彼の死を軽薄で消費者的な欲求不満と示唆するような投稿をおこなった。彼の死は「裕福な資本主義的な問題群(first-world probles)」というわけだ。ある書き込みは少年の墓石の横にiPodが配置されたコラージュを含むものだった。
トロール行為(trolling)の何がそんなに面白いのか。「すべてのジョークはそれ自体の公衆を作り出す。同じジョークに笑うということは、精神的な一体性の広がりの証左である」とフロイトは語った。あるジョークを理解することは文化を共有することである。より正確には、それは任意の敵対関係において同じサイドに属することを意味する。トロールの行動の目的は、launghing out loudを意味すLOLが転化した「lulz」に置かれている。lulz=嘲笑とは、他人の不幸から派生するような楽しみのひとつの形である。複数年に及ぶ、トロールの参与観察を経たWhitney Phillipsの研究によると、嘲笑(lulz)とは 他人の不幸を楽しむ感覚に攻撃性が加味されたもの(shadenfreud with more bite)である。ミッチェル少年の家族が憤怒すればするほど、トロールはそれを面白いと感じるのである。
2011年、そのような「RIPトロール」〔訳者注:RIPとは、「安らかに眠れ」を意味するRest in Peaceの略語〕の一人であるレディング出身のSean Duffy(25歳)は、亡くなった10代の少女らに関する複数の投稿によって刑務所送りとなった。彼は、15歳で自殺したNatash MacBrydeを「売春婦」と呼んだ。また、14歳で癲癇症で亡くなったLauren Drewの追悼サイトに「ママ助けて!地獄はとても暑いわ!」と母の日に書き込んだ。しばしば、トロール達はターゲットに群がる。著者のPhillipは、レイプ殺人の被害者であるカリフォルニアの10代女性Chelsea Kingの事例を取り上げ、彼女の親戚らがトロールの格好の獲物になったこと、また義憤を感じて介入してきた協力的な人々らもそれぞれ身元を「特定」され、「狩られた」様子を詳細に記述した。
RIPトロールは悲哀を搾取可能な状態と見なす。トロールは死んだ人を何らかの形で気にかけているわけではない。むしろ、彼らは何らかの対象を気にかけすぎること自体を、罰されるべき失敗(a fault deserving punishment)と考えているのである。この点に関する証拠は、トロール行為のサブカルチャー(trolling subculture)の全域を通して、――より他愛もないケースにおいても――見出すことができる。ある事例では、トロール行為の参加者らは複数のゲーム販売店に電話をかけ、とある時代遅れのゲームのありもしない続編の在庫の有無を問い合わせた。彼らがあまりにもしつこく電話をかけるので、店員らはそのゲームの名前を聞いただけて怒り出すようになる。トロールらはその様子を楽しむのである。トロール行為の至高の通貨は搾取可能性であり、最大の悪徳はものごとをシリアスに考え過ぎることである。悲哀にくれる親、というのはもっとも容易に搾取できる対象である。彼らの悲しみや怒りは極めて明白である。とはいえ、弱みのない人間などいない。
計算ずくの冷酷な嫌がらせ、というものは別にトロールが発明したものではない。とはいえ、インターネット以前の時代においてはそれらは少しは無邪気に見えたかもしれない。Jeremy Beadleは『Candid Camera』で不運な人々をだました。不注意な被害者の抑えきれない怒りは、ある種の人にとっては常に滑稽であり、そういった楽しみの中には、サディスティックで冷笑的な態度(sadistic detachment)がどうしても存在する。トロールが新しいのは、計算された非論理性、意図的なスペルミス、文化的な憧憬の再利用、幾重にも積み重なった隠微な参照や内輪ネタといったナンセンスでどうしようもない事柄に、歓喜の感覚delightを付け加えたことである。Phillipsによれば、トロール行為とは、ポピュラーカルチャーの「ラトリナリア」(latrinalia)すなわち便所の落書きなのである。
トロールはまた、限度を知らないように見受けられる点において、彼らの先人とは異なる。嘲笑にはある種の反社会的な力がある。馬鹿にされると人はたいてい黙り込む。なので、会話やコミュニティを継続させるためには、ジョークにもある一定の限度というものが存在する。ジョークはどこかで終了せねばならなず、そこで被害者は笑いの種を明かされる。一方で、トロールは、オフラインの人格の境界を超えた逸脱的なサディズム(transgressive sadism)のまさにその延長上にコミュニティを形成する。このことは、そうしたコミュニティがほぼ完全に匿名の個人(anons)によって構成されている事実からも部分的に了解される。あたかもトロールにとって、個々のトロールの笑いは副次的であり、もっとも重要な目的はその匿名の集団(anounumous collective)の享楽を維持することにあるかのようだ。
大半のよく組織化されたトロールにとって、はっきりとした政治な関与や道徳的な理想を持つことは、嘲笑(the lulz)以外の対象に向けての傾倒を胡散臭いものとする彼らの基幹的な原則と矛盾する。しかしである。Karla Mantilaの造語である「ジェンダートロール」は反フェミストであることを明確に標榜している。彼らの目的は、群衆的な嫌がらせや女性差別的な侮辱(たとえば「まんこ」や「あばずれ」などの罵倒語)、晒し行為、殺人やレイプの脅迫などによって、公然と主張を行う女性を黙らせることである。Mantilaが考察するように、そうした行為に一切の独創性はない。これは「インターネット」とは無関係であり、「男が、潜在的な競合相手である女を周辺化するべく、嫌がらせや侮辱を行うという長い歴史」の延長に位置付けられるべき事象である。それは、「それまで男性優位的であった領域に女性が進出してきたことに対する、「ひとまとまりの文化的な反応」なのである。
明らかにインターネットに由来する新しい変化とは、オフラインの「リアル」な自己とネット上の匿名性との間に厳密な境界線をひくことによって、トロールらが道徳的な責任を否認することが可能となるような環境を創出したことである。ネット上であれば、私のしていることは私とは関係ない、というわけである。しかし、トロールらは、彼らが自称するように「誰でも平等に攻撃対象としている」わけではない。Phillipsが指摘するように、ほとんどの嘲笑は「とくにアフリカ系アメリカ人などの有色人種、女性、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー、クイア」に向けられており、トロール共同体は歪なほどに高い比率で英語圏や北欧の若い白人の男性によって構成されている。Phillipsは、オバマ大統領に対するレイシスト的なトロール行為や、彼らがしょっちゅう使う「おかま」といった言葉などを挙げ、トロールらが自身の白人性やある特有の男性性を行使する様子を詳しく記述している。男性優位主義はトロール文化に埋め込まれている。トロールの非-道徳性を、男性の揺るがない優位性に関する男権主義者らのお馴染みの幻想と結びつけたとしても、拡大解釈ではない。何はさておき、すべてのトロール達はジェンダートロールであるかも知れないわけである。
仮にそうであるなら、Phillipsが真剣に論じるところの「トリックスター」としてのトロールの自己像は批判的な検証に耐えることができないだろう。トリックスターとは、善と悪との境界を帳消しにしたり、価値を破壊することが唯一の価値であるような存在である。Phillipsがそのアナロジーに説得されたのは、おそらく彼女がトロールらのジョークを理解したからであろう。「私は彼らのあるタイプのトロール行為を面白いと感じる。そして場合によっては正当化可能であるとも思う」と彼女は書いている。たしかに、サイエントロジーなど、トロールの攻撃対象の中には明らかに同情できないものあり、その際のトロール行為はある種の熱意とともに実行される。しかし、Phillipsがトロールの意図を既存の道徳的秩序を「転覆させる」あるいは少なくともあれこれいじくり回すものとして描写する際、彼女は道徳的秩序を崩壊させる事と、その秩序を転覆させる事と、いじくり回す事の違いはそれほど大きくないかのように語っている。
もしトロール行為が不当な扱いに憤慨した者たちが上げる抗議の声から発生するのだとしたら、それはまったく価値の保全に依存していることになる。トロールたちは、十分に多くの人々が十分に多くの事柄について真剣に考えているという状況に依存している。そこでは、興味なさ気に肩をすぼめる仕草が失敗を意味するからだ。被害者の選択は、ほとんどの場合、多かれ少なかれ 何に対して思いやりを示すのが適切であるかについての道徳的な立ち位置を教えてくれる。(→本文:The choice of victim almost always conveys a moral position on what it is more or less appropriate to care about. )RIPトロールらは明らかに、裕福な白人層の自殺に対してもっとも強い怒りを表す。彼らはそうした死を自己陶酔的なものとし、人々による悲哀の表現をうわべだけのものとみなす。あるトロールはそうした営みを「退屈さと注目を浴びることへの病的な渇望」のため、と語った。一方で、たとえば国家安全局による大規模な盗聴が暴露された後に起きた組織的なトロール行為などは、彼らにとっての極めて重要な罪とは、情報を抑圧したり誤用することであることを示唆している。
トロールは相反する二つのことを同時に行う。トロールは、彼らが嘲笑のために侵犯するところの社会的な規範に対して見事なまでに無関心であると同時に、執念深い懲罰人でもある。その意味で、トロールはジョーカーであり、バッドマンでもある。Benjamin Redfordによるとトロールはピエロや道化師に連なる「自称文化評論家」として行動しつつ、一方では「もっともらしく、すべては楽しいジョークなので(あんまり)本気にしないように」とも主張する。John Lindowのトロールの「不自然な歴史」によると、北欧神話に出てくる本来のトロールは、不適切な行いに罰を与え、社会的規範を擁護する存在である。仮にあなたが冷笑(lulz)の行動原理を真に受けて、社会規範への一切のコミットメントを消し去ったとして、残るのはより純化した形での糾弾のロジックである。悲嘆にくれる者さえも罰しうるのだとしたら、一体誰を罰することができないというのだろう。「誰も我々ほどまでに冷酷にはなれない」、これが彼らの決めゼリフである。この原則こそがトロール共同体のアイデンティティの核となる。「われわれはアノニマスである。そして我々は決して許さない。」そして彼らが許さないのものとは、とりもなおさず「弱さ」なのである。
ネット上の逸脱性に関する社会学的分析は、そうした特徴をマキャベリズムやナルシシズム(自己愛)、病理学的な��状、サディズムなどの特性などに注目しがちである。Phillipsはこうしたすべての見解の誤りを指摘する。それらは、「逸脱」や「性格型」といったカテゴリーの意味深さを当然のことと見なすように読者に要請しつつ、特定の道徳的なアクセントでもって現象を記述しなおしたに過ぎない、とPhillipsは主張する。むしろ彼女は主流文化の影響を強調する。トロールとは「文化的な消化吸収作用の代理人」( ‘agent of cultural digestion’  )なのである。
トロール行為というサブカルチャーの分裂症的で超然としたユーモアは、おそらく9.11に関する膨大な種類のジョークやミーム(文化的遺伝子)に最もよく現れているであろう。Phillipsは、こうした事態をアメリカの極めてメディア化された文化に浸透したシニシズムの必然的な結果だと考えている。9.11とその余波に関するTV報道は、引き伸ばされた一連の「ゴミ」に挟まれた15秒間の恐怖と悲惨の断片的映像によって構成されていた。この状況はアイロニーに満ちた無関心を引き起こさずにはおれない。ブッシュ政権はこの分裂状態へと人々を誘い入れる役割を果たした。たとえば、ラムズフェルドは、占領下のイラクで起きたカオス的な混乱状態について、病的なまでの機嫌の良さで「いろんなことが起こるもんだ」と語った。ブッシュは、ゴルフ場でのインタビューでテロとの戦いの必要性に関する真面目な調子の演説を行ったのちに、スイングに戻り「では、このショットをご覧あれ」と言った。「道徳的な真剣さ」の隙間的な時間が終了するや、ブッシュ政権は肌の色によってコー���化されたテロの危機を煽りつつ、人々に娯楽とショッピングへと戻ることを促した。この時期に形成された情感的な分裂はトロールらによってさらに拡張されたかも知れない。しかし、分裂を創出したのはトロールらではないのである。
2015年4月、Tiziana Cantoneと呼ばれる31歳のナポリの女性が、自身のセックス映像を少数の友人らに送信した。そのうちの誰かが動画をネットに上げ、動画は急速に拡散した。動画からは顔が見えないセックス相手に向かって彼女が発した「あなた、撮影してるの?いいね。」というフレーズは、SNS上で大人気のパンチラインとなった。そのフレーズは、Tシャツになり、携帯カバーになり、広告のスローガンにも用いられた。誰もが自分のことを知り、政治家によっても非難されるようになったCantoneは仕事を辞め、名前も変え、トスカーナに引っ越し、ネットからの件の動画の削除を求める法廷闘争を開始した。彼女はFACEBOOKから自身の明示的な写真を消す事には成功したものの、すでに何千回もコピーされ配信されていたポルノサイトの映像を消す事はできなかった。複数のサイトに合計20000ユーロを支払うことを命じられた彼女は、9月に自ら命を絶った。
冷笑的なあざけり、すぐさまビジネス化されるミーム、道徳的な装いの悪意など、Tiziana Cantoneへの対応は、まさに集団トロール行為そのものである。Jon RonsonがSo You’ve Been Publicly Shamedにおいて教えてくれているように、こうした行動パターンというのはインターネットに特有なものではない。電話盗聴スキャンダルによって倒産するまで、News of the World紙は定期的に匿名の個人の性生活を暴露する記事を掲載しており、何人かを自殺に追い込んでいる。イギリス人シェフのBen Strangeは、仮に自身の破廉恥行為が公開されてしまったら二度と子供らに顔向けできないと考え、同紙に懇願した。しかし結局、記事にされていまい、氏は自殺した。同じような目にあったウェールズ人の教師Arnold Lewisは、NoW紙のレポーターにもし暴露されるとしたら自殺すると告げた。しばらくして彼の記事が掲載されると、氏は一酸化炭素中毒で自殺した。
SNSはこうした種類の捕食行動の可能性を大きく拡大している。Justine Saccoに対する粘着的な行為は、Ronsonが伝えるもっとも有名な事例だ。南アフリカへのフライトの直前に、Saccoはツイッターで「アフリカに行きます。エイズにならないといいな。冗談よ、私は白人だからね」と投稿した。わずか170人のフォロワーいない彼女は、まさかこのツイートが注目を集めるとは思いもしなかった。しかし、彼女が現地に到着する頃には、白人の愚かさを笑うジョークとしてではなく、文字どおりにレイシストの発言として受け取り、彼女を糾弾する意見でツイッターは炎上していた。到着と同時に、心配した友人から知らせが届き、彼女は事態を把握した。新聞やテレビが報道した。Rupert Murdochが経営するNew York Postは彼女を尾行するためにジャーナリストを派遣した。彼女の過去のツイートから意図的に悪趣味なジョークの数々もBuzzFeedによって掘り起こされた。ある下手に言葉選びをした、あるいはあまりにも言葉を選んだがゆえに逆に的確に対象を攻撃してしまったツイートによって、彼女は仕事を失うことになり、数ヶ月にわたってジャーナリストにつけ回された。
Ronsonは、彼女が破滅に向かっている様子を楽しみにしながらツイッターを眺めていた人々の中のシャーデンフロイデschandenfreudeを認めている。彼自身の当初の感想は、「他愛もないちょっとした「あぁ、誰かがやらかしたな」」というほどのものであった。彼はまた、懲罰的なほくそ笑みの背景にある超然とした感覚(detachment)についても指摘している。「集団狂気だろうが何だろうが、その時の激しい喜びは圧倒的なもので、そうした楽しみには代償が付き物であるという事実と向き合う事で、その楽しみをダメにしようとする奴なんていないんだ」ということである。ネット上のシェイマー(道徳的な叱責を繰り返す人々)を偽善者とみなすことには、抗い難い魅力がある。そうすることで、人は憤りか喜びのいずれかを感じることができる。しかし、別の視点から見るなら、個々のツイッターユーザーの憤りというものは、副次的で代理的なものであり、彼らの主要な役割とは、とりもなおさず匿名集団に燃料を投下することなのである。この場合、トロールとシェイマーとの違いは、前者が自分たちは道徳的な責任を持っていないと間違って理解しており、後者は自分たちが道徳的な責任を持っていると間違って理解している点に求められることになる。
Saccoは比較的穏健な小規模のトロールとして活動を開始した。しかし、彼女がその対象となった糾弾の合唱は、いくつくかの点で、大規模なトロール作戦のように見えた。おそらく、このトロール行為と魔女狩りの間の相互作用がダイナミックであり、その光景にわれわれが大きな喜びを感じるのは、それはすでに私たちが私たち自身に向けて行使する事柄の変形であるからだろう。フロイト的なうっかり発言や失言というのものは、私たちのうちなる魔女狩り将軍の怒りを刺激し、その怒りを楽しむという意味で、まさに自分自身をトロールするひとつの方法なのではないだろうか。あるいは、別の言い方をするなら、トロールは、われわれが日頃あまりにもシリアスに捉えている諸アイデンティティや諸価値への無意識の反感によって駆動されているのではないか、ということである。一方で、ネット上のウイッチハンターは、私たちがすでにそうした反感でもって自身を罰している方法を、過剰な形で肥大化させているのである。この視点からすると、トロールは単なるサディストではなく、人を惑わすマゾヒストである。「トロールに餌をやるな」とは広く流通したネットの知恵である。その論理的な帰結はおろらく「道徳家に餌をやるな」であろう。トロールと道徳家は同一の螺旋構造の部分なのだ。
新聞等による、個人に対する破滅的な嫌がらせの事例は数え切れないほどあるにも関わらず、インターネットは今や、これまでは抑制されてきた攻撃性を解放したことの責任をしきりに問われている。ネット上の底レベルの書き込みは悪意の代名詞となっており、メディアが提供してきたコンテンツの副産物ではなく、ネットの民主化のダークサイドと見なされている。新しいメディアはまた、ヨーロッパや米国での支配的なコンセンサスの崩壊の責を負わされてもいる。ドナルド・トランプの成功や彼のポストトゥルース政治(post-truth politics)は、他の何にも増して、旧来のイデオロギー的な独占が崩壊し、人々がそれぞれが抱く偏見に迎合した情報や意見を探すようになるにつれ、既存メディアの編集部が担保してきた基準が崩壊するといった事態の影響と見なされている。そうした状況下で、政治的な言説は事実ではなくて感情に訴えかけることによって形成される、という風に議論は進められることになる。とするなら、トロール行為は理性的な議論を邪魔するための方法がひとつ増えただけ、ということになる。仮にトロールやネットの性差別主義者か陰謀論者に共通点を探すとするとしたら、それは、彼らが「笑いのため」か「女を黙らせるため」あるいは「自身の妄想を押し付けるため」に会話を脱線させる点であろう。これは、トロールが必然的に「右翼」であるということを意味しないし、実際、多くの場合トロールは右翼ではない。しかし右翼がますますトロール的になっていることは確かである。租税回避が彼の賢さのアピールになるのか否かにせよ、抵当流れから利益を得ようとする計画が「なんっていうか、アメリカのためになる」のか否かにせよ、あるいは戦死者の母親を侮辱することにせよ、トランプ自身が嘲笑(the lulz)のために放った言葉から、いかにして切り抜けるのが良いかを探っているような印象を受けるのである。オルターライトのある著名な支持者らがガーディアン紙に語ったところによると、「われわれはトロールの軍団だ。われわれは勝利する!われわれは獰猛だ」ということである。
極右が、真実の劣化から最も利益を得ることができる政治傾向であると考えらているのには理由がある。PhillipsはFOXニュースとトロールらとの共生関係について詳述している。FOXは道徳的混乱(moral panic)を煽ると同時に、トロールが繁栄する文化的な培養基を提供する。ラディカルは右派は常に、人々を行動に向かわせるようなコミュニケーションの積極的な部分に敏感であった。増殖を目的としたコミュニケーションの一形態であり、トロールをされる人々に対するトロールの権力としてのトロール行為は、そうした戦略にまさしくぴったりなのである。
そうした意味で、6月にTwitter社によって下された、人種差別的罵倒で有名なもっとも悪質なユーザーのひとりのアカウントを凍結するという決断は、そうした流れを食い止めるにあたって効果があるか否かは別として、最初の一歩であり、象徴的な意味を持つものであろう。そのユーザーとは若いオルターライトのコラムニストのMilo Yiannopoulosである。彼は彼の注意深い炎上マーケティングのためのニュース番組のレギュラー出演者であった。彼は映画『ゴースト・バスターズ』の女性チームの中の唯一の黒人メンバーを演じたLeslie Jonesに対して、人種差別的嫌がらせを率先したことを理由としてアカウントを凍結された。Twitter社の前CEOであるDick Costoloは、彼はツイッターのユーザーが減少していることや株価の下落の理由のひとつに、こうした弱者への攻撃をしっかりと撃退できなかったことを挙げ、「われわれは虐待やトロールの扱いに失敗した。長年に渡って失敗し続けたのだ。」と語った。
Yiannopoulosは自覚的にトロールであり、なおかつイデオローグであり、オルターライトの典型的な産物であり、その模範である。アカウント凍結に対する彼の反応は下手に隠された喜びを表明しつつ、「自分たちと違う意見を受け入れることのできない、感情的な左翼のガキども」に対する怒りをぶつけることであった。彼はBusiness Insiderに「私のしたことは、ちょっとジョークを言っただけだ」と語った。彼は、「女は新しいルールに同意する時に限り、男のインターネットへの入場を許される」という彼の提案に対する評判を聞くためにChannel 4ニュースのCathy Newmanを番組に招くなど、大統領選でのトランプの勝利以降、同じ決まり文句を繰り返した。表向きは「嘲笑」lulzのためにやっているという表明によってシリアスな政治的な議題をはぐらかす、という計算された両義性において、オルターライトの心理的秩序(psychic economy)にトロール行為はぴったりと適合する。ヤノプロスが定期的に見解を発表する媒体であるBreibartは、トランプ政権の効果的な前哨地となっている。Breibartニュースの代表Stephan Bannon氏は、FOXニュースの前経営者Roger Ailesがトランプのアドバイザーに就任した翌日、選挙戦をたたかうトランプ陣営と契約を結び、近々、新大統領の「主席戦略官」に就任する予定である。
Breitbartの最もよく知られている二つのスクープは、2009年のAcornというリベラルなNGOに対してのものと、2010年の農務省のアフリカ系アメリカ人従業員であるShirley Sherrodへのバッシングである。いずれの場合においても、Breibartは取材記録を不正に加工している。最初のケースに関しては、Acornの従業員らへのおとり捜査を通して、第二のケースについては、SherrodがNational Association for the Advancement of Colored Peopleでおこなった演説を操作し、あたかも黒人が白人社会の敵であるかのような印象を作り出そうとした。Acornは資金を失い、1年後に債務整理に追い込まれた。Sherrodは失職し、政府役人やNAACPから厳しく叱責されたが、実のところ彼らはダマされていた。ホワイトハウスは謝罪し、農務省は彼女に新たな職を用意した。一連のAcornの事例に責任を負う保守派の活動家は、Acornが「あらゆる手段が正当化されうるような、革命主義的で、社会主義的で、無神論的な世界にいる」とし、であるがゆえに、それに対抗するために彼ら保守派にはあらゆる手段を用いることが許されると主張した。Andrew Breitbartは、NAACPにティーパーティをレイシスト呼ばわりする権利はないと主張するためにSherrodのスピーチを「レイシスト」認定し、また、そうであるからこそ、ティーパーティに存在意義があると力説した。
この、トロールとウィチハンターの双方の役割をこなす能力――あるいは欲望――こそがトランプ主義の情感的な基盤のひとつである。そしてトランプ自身がそもそも最大のトロールである。巨大で、皮が分厚い攪拌者であり、ベルルスコーニ級に屈託がなくそして反道徳的である。多くのトロールと同様に、彼はターゲットを熟知しており、リベラルの粗悪な良心に狙いを定める。ヒラリーとの大統領候補者討論の際、トランプは――ほかの共和党候補はそうはしないであろう――オバマはこれまでのどの大統領よりも多い250万人の人を国外追放にした、と主張して自身の国外追放政策を擁護した。普段はあまり大っぴろげに言われていない事を言う、というはトランプ主義の逸脱的なスリルを形づくっている。これこそ、「ポストトゥルース政治」の批判者が見落としている点である。トランプが飛んでもない嘘をつく時でさえも、トランプはメディアの欺瞞を暴露しながら重要な真実を表明しているに違いない、とトランプの支持層は考える。その一方で、オルターライトはトランプ主義に、興隆しつつある新しい白人ナショナリズムの基盤を発見している。ここで言う白人ナショナリズム(white nationalism)とは、搾取可能な人々――つまるところ「保守的で裕福な白人男性」以外のすべての人――をニヤニヤしながら攻撃する態度を指す。彼らは権力を握ろうとしている。とはいえ、彼らこう言うだろう。「ホワイ・ソー・シリアス?」〔訳者注:"Why so serious?” は映画『ダークナイト』の悪役ジョーカーのセリフである。〕
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wenoog · 7 years
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2008/1/9 (Wed.) 11:39:06 高遠優子は多重人格である。誰もそれを知らない。 「高遠」の中には、シリアルキラーの高遠、吝嗇家の高遠、拒食症の高遠、ペドフィリアの高遠、普通の高遠などがいる。 しかしそれらのどの人格も、(頭の中はどうあれ)、普通の高遠らしい振る舞いのみをする。 例えば、菜食主義者やムスリムの高遠でも、「高遠」にとって食べることが自然な場面では、豚カツでも豚の丸焼きでも我慢して食べる。 お風呂に入るときは肩まで湯につかるし、吝嗇家でなくてもシャンプーのむだ使いはしない。 ただしシリアルキラーの高遠だけは、高遠らしくなく人を殺すことをしてしまうが、それでもなるべく高遠っぽい殺し方を選ぶ。 このように高遠たちの高遠が常に普通の高遠である、という偽装はおおむね完璧なので、 誰も高遠の正体に気付くことは出来ないのだ……という夢をしだり川が見た。 2008/1/11 (Fri.) 10:33:11 連続猟奇殺人犯の高遠、そしてその犯行を目撃してしまうしだり川。 しだり川は高遠を問い詰めるが、解離性同一性障害を患っている高遠には、自ら手にかけた遺体を前にしても状況を理解することはできないのであった。 しだり川は記憶のない高遠を救うため、匿ったり現場を隠蔽したり、わりと親身に行動する。 一方で高遠はそんなしだり川の思いも知らず、新たな人格ばかり発現させて周囲を困惑させる。 そして現れる第二の殺人鬼…。 現場から消えた靴下の謎。 ヒストノ=エチオピクス、僕殺魔法少女、そしてコナミルクとはいったい? 果たして彼女たちは凛ちゃんによるアルマゲドン(最終戦争)の恐怖から人類を救うことができるのか……!? 多くの登場人物をあっさり殺しつつ、「生きる」とはなにかを読者に説き続ける青春活劇。 そういう内容のモリタが描いた漫画。 基本的にしだり川がひどい目にあうだけ。 2008/1/12 (Sat.) 03:40:05 「自らを神と呼ぶ者は、我以外須らく呪われるべし」 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ それは特に何の変哲もない夕方の事だった。しだり川はバイトに行く途中に、突然自分に天啓が降ってきた事に気付いた。 「そうだ!何故今まで考えつかなかったんだ!メタ・マニュアル!」 それまで、しだり川は、散発的事象に対応するためのマニュアルの整備に専心してきたのだが、同時にその作業に行き詰まりを覚えつつもあった。 なぜならそのようなマニュアル作成は、どうしても事態の後手に回りがちであったからである。 「しかし…マニュアル作りのマニュアルをしっかりと持っていれさえいれば、いかなる事態にも迅速な対応が可能となります。 言い換えれば、今までの一次的マニュアルたちの統合と止揚によるメタ・マニュアルの作成こそが! 真のマニュアル作成への正しい第一歩と呼べるのです」 しかしこの時まだ彼女は知らなかった…メタ・マニュアルの完成はさらなる上位メタメタ・マニュアルへの入り口に過ぎないこと、 ついに統一マニュアル理論を完成し、全世界のマニュアリストから賞賛を受けること、 さらにはその活躍ぶりをモリタが伝記漫画にして一儲けすることなどを… 2008/1/16 (Wed.) 02:44:18 「爆弾を仕掛けただって!?」 「貴様らのファニーボーンに爆弾を仕掛けた。  後ろの席の人と話そうと振り向いたが最後、椅子に肘をぶつけ、ボン!!だ。」 「なんということを・・・」 そのとき高遠は、ふと、ある事を思い出しました。 シェイクミックスの携帯の待ち受け画面は・・・チェ・ゲバラ! 2008/1/22 (Tue.) 00:07:40 本の執筆に励むエチオピクス。 クロコダイルは、博士に質問をした。 「今書いているのは、ある特殊な心理学についての本よ。 心理学って何かですって? それはねえ......」 エチオピクスが、割にやさしく、わかりやすく解説する。クロコダイルは、心理学の概念を知って、震えあがる。 (そんな......そんなものを真壁さんが知ったら、どうなることだろうか! きっと、毎日私の行動を分析したり、変な解釈をつけるんだろうな。毎日毎日...... 考えただけでもやりきれないよ...... 隠さなければ 隠すんだ......) その後、そこらじゅうに心理学の参考書をばらまくエチオピクスと、 それらを真壁マリの目に触れないように、必死で片付けるクロコダイルのドタバタシーンが入る。 何回かニアミスがあるが、何とか誤魔化すクロコダイル。しかし、ほっとした瞬間に、マリに本を見つけられてしまう。 「なにこれ」 (ああ......) しかし、意外にも、マリは心理学に興味を持たなかった。 「私は、占いとかそういうばかばかしいことは、もう卒業したのよ」 逆にクロコダイルが心理学にはまってしまい、夜な夜な、好きなバンドの歌詞を分析したり、変な解釈をするようになる。 (こ...これって何の象徴なのかしら......うわー!) ヒストノ=エチオピクスの著書「改造人間の心理、または人間心理の改造についての考察Ⅰ」は、 その長きに渡る執筆にもかかわらず、いまだ未完であり、完成が待たれています。 2008/1/23 (Wed.) 14:01:59 "ヤマダの独占欲がカズサを襲う!" カズサは子供達の人気者。 それを見ていたヤマダは カズサを独占しようと考えある殺人兵器を使用する... カズサはひどい目に遭う。 ------------------------ 私は、兵藤カズサのような人間になりたかった。 いや、なりたい。よし、なろう。なってやる。 知識を得ることで得られる純粋な悦びを味わいたい。 カズサのように勉強することによって得られる純粋な喜びに夢中になりたい。 だが"勉強する"の定義が分からん!分からないのだ! それは私が無知であるからだろうか? そうだ!そうに違いない! まずは自覚するんだ! 自分の無知を知るべきなんだ! 2008/1/29 (Tue.) 22:04:10 「嫌悪戦隊イヤレンジャー」 生理的に不快なヒーロー。 5人それぞれが違ったスタイルで嫌悪感を演出している。 「アンケート:悪の組織に聞く、一番戦いたくないヒーロー」で、5年連続一位。 「あいつらだけは見るのも嫌だ。特にピンク。」 「奴らが現れると、部下も市民も逃げ出すので戦いどころではない。ほんとにおぞましいよ。特にピンク。」 「ピンクが出てきただけで部下達が泣いて謝ったよ。」 「ピンクが怪人にウインクしただけでそいつの所属する組織が壊滅した。」 「グリーンはまだマシな方。」 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ イヤなグリーン「グゲッ、グゲゲゲッ。」 ガーパイク「うひぃ・・・お、俺、あいつ苦手なんだよう。」 イヤなグリーン、近くのガラクタを投げつけてくる。 クロコダイル「こ、この爬虫類めっ!!」 ガーパイク「お前もだろ・・・。」 2008/2/2 (Sat.) 16:49:23 彼女たちの学校で昔の携帯ゲームが流行する。 ケイタイのゲームじゃなくて、ポケットに入れて携帯できるようなやつのことだ。 それもインベーダーとかテトリスとかいう正規のやつじゃなくて、著作権的に危ういネイミングの、つまりパクりのやつが受け入れられた。 一つの機械に平均十種類ほどもミニゲームが入っているという手軽なうさんくささに惹かれたのだろう。 休み時間になると皆で一つのゲームを奪い合う。 モリタは頻りにコナツを勧誘する。 「ほら…コナツ、やりたいんだろう」 「別に」 コナツは本当は少しだけ興味があったのだが、興味のない者まで無理に仲間に引き込もうとする周囲の雰囲気が嫌で、無関心をきめこんでいた。 モリタはコナツがいらだっているのに気付かぬ様子で、しつこくゲームを押し付ける。 「我慢するな、ほらほら」 「うるさい!」 コナツは我慢出来ずにモリタを怒鳴りつけてしまう。 モリタははじめびっくりしたような顔をしていたが、やがてひどく落ち込んだ様子でうなだれてしまった。 コナツはその顔を見て罪悪感を感じたが、一度怒鳴ってしまったものは取り返しがつかない。 それから、その場面を偶然目撃していたしだり川は、家に帰るとすぐにそのことを自分の感想を添えて日記に書いた。 2008/2/4 (Mon.) 20:46:17 朝、モリタは授業が始まる前の浮いた時間を、自分の席でぼーっとして過ごしていたところ、 携帯電話が制服のポケット内で小刻みな振動を始めたことに気づいた。 振動を続ける携帯電話を取り出し、発信主を確認すると、モリタはぎょっとした。 (小夏!?古名瀬小夏から電話だと?) 普段、滅多に電話などかけてくることの無い小夏から電話がかかってきたのである。 非常にめずらしいことなので、モリタは緊張しながら電話に出た。 「・・・・・・私だ」 「はは、何それ(笑)私、小夏だけどさ、モリタはもう学校に着いてるかな?」 「ああ、もう一時限目の準備まで終わっているぞ・・・何かあったのか?」 「いや、ちょっと寝坊しただけで、大したことは無いんだけどさ、  運が悪いことに、今日は日直なんだ・・・  おそらく、学校に着くのは一時限目が始まる直前になると思う。  ・・・だからさ、悪いんだけどモリタ、私の代わりに日直の仕事しておいてくれないかな?  もちろん朝の分だけでいいんだ・・・頼まれてくれるかい?何かお礼はするからさ・・・」 お礼、と聞いてモリタはこの取引が自分にとって有益なモノであると感じた。 (あの小夏が、わざわざ借りを作ってくるなんて、  寝起きで頭が回っていないのか知らないが、これはチャンスだ!) モリタはこの取引によって生じるであろう見返りを空想し、思わず笑みがこぼれていた。 「そ、それじゃあ、私の言うことを一つだけ聞く、という条件でどうだ・・・?」 続かない 2008/2/6 (Wed.) 18:52:42  2月6日(水) 今日、学校のあとで、モリタは繁華街のカラオケにくりこもうと提案した。 その計画には気がすすまなかったが、彼女の嘲弄の的になるのがいやさに承知した。 わたしたちは、シェイクミックスと一緒に行った。店を出しなに、ひとりの改造��間にぶつかった。 モリタは、少々ラリッていたのだろう、その女をつきとばした。その女は、わたしたちの行く手をさえぎって言った。 「通りたい奴は、この怪光線を越えて行くんだな。」 入口の闇のなかに、義眼がぎらりと光ったのをおぼえている。モリタがふるえあがって後へさがる。 わたしとてこわかったが、マニュアルが恐怖を克服した。武器を引きだすふりをして、胸元のポケットに手をやると、きっぱりと言った。 「通りでかたをつけましょう。」 見知らぬ女は、今度は口調を変えて、答えた。 「気に入った。あんたらをちょっと試してみたかったのさ、ダチ公。」 そして親しげに笑った。 「ダチ公とおっしゃるのはそちらのご勝手ですがね」と答えて、わたしたちは通り抜けた。 義眼の女は一人でカラオケボックスにはいっていった。 あとで聞いたところでは、それはクロコダイルとか、獣王クロコダインとか、なんでもそんな名前で、気の弱いので有名な改造人間だった。 通りへ出てしまうと、それまで黙っていたシェイクミックスが、わたしをぴしゃりとぶって、大げさに叫んだ。 「三人いて、銃士がひとりか。よお、マニュアリスト!」 モリタは、自分のひるむところを見られたことで、決してわたしを許さなかった。 2008/2/11 (Mon.) 03:03:12 まるで病院の通路のような場所を、小夏は二人の男に連れられて歩いていた。 (あれ?どうしてこんな事になってるんだろう。今までの過程が思い出せない・・・。  夢・・・なのか?だとすれば、ずいぶん変わった夢だなぁ。) 通路の先に大きな扉があった。その扉を抜けるとさらに大きな扉があった。 扉が開くと、そこにはモリタが待ちかねた様子で座っているのだった。モリタが言った。 「ようこそ小夏!突然連れてきてすまない。ちょっと強引だったかな。  しかし、これには理由がある。実は、もうすぐ世界中が炎に包まれて  この世から人類が消滅する・・・この地下シェルターに居る人間以外はね。  ねぇ、小夏。ここでは私の好きな人たちだけを集めて住ませてあげてるんだよ。  その中でも、小夏は特別なんだよ。私と一緒にこの世界を作り直そう!  きっとみんなが幸せになるし、みんな小夏の事も好きになると思うよ!  そうだ、小夏が好きなファミレスもこの中に作らせたんだよ!後で一緒に行こうね!」 小夏はモリタの背後の壁に掛けられた掛け軸を見る。 (ウェルカム トゥ マイナイトメア・・・そういうことか!これは確かに夢だ。  それも、モリタが見ている夢・・・モリタは現実の世界を夢の世界と挿げ替える気なんだ!  あの掛け軸はそれを私に気付かせる為に残した、彼女の最後の良心なのだ・・・。  かわいそうに、モリタは自分を他人とは違う特別な人間だと思い込んでいたけれど、  世の大勢の人々と同じ生き方を自分もしている事が許せなかったんだろう。  それでこんなちんけな世界に君臨して・・・そんな世界も面白いかもしれないな。  でも、モリタをそんな大悪党にする訳にはいかない。あの子とあたしが親友だというのなら!  やるしかない。あたしの手で、あの子を始末してやろう。  思えば、あたしはこの時の為に魔法少女になったのかもしれないなぁ。) 2008/2/11 (Mon.) 20:44:21 家族が皆死んだせいで、主人公の少年が狂ってしまい 世界に復讐を試みるライトノベルを先日読んだ。 複雑な家庭環境や幼少時のトラウマで動機を説明しようとするのは、 話としては分かりやすいが、なんだか浅い。 逆に、先日読んだある漫画では、主人公の少女には家族がおらず 遠い親戚のおばあさんと二人で暮らしているのだが、 おばあさんが死んだときに少女は全く悲しまない。 これは上のような物語に対する一種のアンチテーゼとして機能しているが、 やはり少女の超然とした態度の原因を家庭環境に求めてしまうのは 私が俗物だからだろうか。 古名瀬は以前、人が死ぬのを悲しむのは その人を失う自分自身を悲しんでいるというような事を言っていたが、 (何の話だったかよく覚えていない。私は記憶力がすごく悪い) もし父が死ぬようなことがあって、全然悲しくなかったなんて言ったら 古名瀬はどんな顔するだろう? そもそも父の話自体したことがなかったか。 話す機会がないし。古名瀬は私に何も質問しない。 だいたい、唐突に身の上話なんか始めたって、 引かれるぐらいならまだ良い方で、古名瀬の事だから こちらの思惑なんか見透かして安い不幸自慢ぐらいにしか捉えないだろう。 ……父が死んだら悲しいだろうか? ……想像もつかない。 いや、そんなことは想像しなくて良いのだ。だいたい、 こんなことを考えるなんて不謹慎だぞ。お父さん、ごめんなさい。 でも毎日看病してあげてるんだから、これくらい許してくれるよね? 2008/2/12 (Tue.) 21:01:50 小夏「こんな話があるんだ。ある村に都会から男の子が引っ越してきた。村の人達は優しくて、友達もすぐ出来た。  ところが、村で恐ろしい殺人事件が起きてしまう。しかも村の人達はそれを村の神様の祟りだと思い込んでいて、皆が大パニック。  これは祟りに見せかけた殺人事件に違いない、一体誰が犯人なんだ!?  ・・・と思っていたけど、実は本当に神様の祟りだったんだ。」 昨夜「それで、どうなったの?」 小夏「さぁ、知らない。そこで読む気失せちゃって・・・。」 昨夜「あー、なんかわかるわ、その気持ち。」 2008/2/15 (Fri.) 15:41:21 「バレンタイン終了を祝ってチョコレートを食べる風習が日本にはあります。」 カズサはもちろん、高遠さんからチョコを貰えませんでした。 誰からも貰えませんでした。 「ふん、バレンタインだなんてばかばかしい」という主張を繰り返しているので、態度には表せませんが、微妙な気分です。 ユズルとか顔可愛いし案外もらってるんじゃないか?とか、 シュンはどうせ水谷香歩とかから貰うんだろ?とか、 そういえば川林は女と同棲して…みたいなことが頭をよぎりますが、 「何を考えてるんだ! 他人のことなんて関係ない!」と思い直す。 でもなんかモヤモヤして…。 一方シュン君は前髪が邪魔で前が見えません。 2008/2/17 (Sun.) 18:42:19 カズサ達のクラスで、音楽鑑賞の授業があった。 有名な現代音楽作��で、打楽器のみのアンサンブルで構成されていた。 シェイクミックスは、演奏が始まって1分もしないうちに、 ことさら大きな音を立てて席を立ち、教室を出て行ってしまった。 カズサは、その曲を一聴してかなり気に入った。 彼は、姉に対する反動もあって普段ほとんど音楽を聴かなかった。 また、音楽を聴いて何となく気に入ることはあったが、 その感動を的確に表現する言葉を持たないので、 中途半端に感想を表明するべきではないと考えていた。 ただ、彼は授業に対しては真摯に取り組むべきだと考えていたので、 無理して感想を書き提出したが、自分の感想の稚拙さに辟易してしまった。 悔しくて、クラスメイトに感想を求めてみたところ、 「良く寝れた」とか「芸術って感じだった」とか 「先生手抜きじゃねーの」とかの答えしか返ってこず、 誰も正面切って自分の意見を表明しないことに落胆した。 そこで、高遠優子なら真面目に感想を述べてくれるのではないかと思い、 さっきの曲をどう思うか訊いてみた。 高遠は、特に何の感想も抱かなかったので、困ってしまった。 他の生徒は、何らかの感想を持ちながらそれを表明しないだけだったが、 高遠は、本当に何とも思わなかった。 2008/2/26 (Tue.) 21:13:29 悪の組織ギガンダー(仮称)もいよいよ追い詰められ、 正義のヒーローっぽい五人組にアジトを襲撃されて窮地に立たされた。 そこで博士は、クロコダイルに巨大化光線(もちろん失敗作!)を浴びせて形勢逆転を図った。 何故か上手いこと巨大化したクロコダイルは、誰もの予想を裏切るほどの圧倒的強さを見せ、 正義のヒーローっぽい五人組をいとも簡単に蹴散らし、撃退に成功した。 なんだか今日はいけそうな気がしたクロコダイルは、 そのまま正義のヒーローっぽい五人組の本拠地を潰しに行った。 しかし、不幸なことに、正義のヒーローっぽい五人組の本拠地の間近で、 クロコダイルの好きなバンドがライブを行っていたのである。 過去に、自分に関わった好きなバンド(と、言ってもたまたまそこに居た、とかそういう類) を何度も戦闘に巻き込まれて死んでしまっていたので、 今回も戦闘に巻き込んで死なせてしまうのではないか、 とクロコダイルは思い侵攻を躊躇していると、 自衛隊と思わしき戦闘機や戦車がたくさん出てきて、攻撃してきた。 攻撃は全然効かなかったが、撃墜した戦闘機がライブ会場に墜落したり、 流れ弾が飛んでいくといけないので、クロコダイルはライブ会場を守るように座り込み、無抵抗に徹した。 最初のうちはたくさん攻撃を受けたが、そのうち相手も分かってくれたのか、 攻撃を止め、ライブ会場に居る人達の避難を指揮するようになった。 それを見て、クロコダイルはあたたかな気持ちになり、今日はもう帰ろうと思った。 しかし、ここで帰って来た正義のヒーローっぽい五人組のニューウェポンによる必殺技が炸裂。 それを後頭部にまともに受けたクロコダイルは、ライブ会場へ前のめりに倒れこんでしまった。 その衝撃で両目の義眼が取れ、その義眼はもちろんクロコダイルの好きなバンドのメンバーを直撃。 地面と義眼の隙間から真っ赤なアレが染み出したところでコマーシャル。後半に続かない。 2008/2/27 (Wed.) 15:13:05 お前がいた頃は 目を合わせることも出来なかった お前はまるで天使だ その柔肌には涙が出るよ お前は羽根のように 清らかな世界を舞う あたしも特別ならよかった お前は最高に特別だよ でもあたしはしらみだ あたしにはモリタ程の才能もない こんなとこで一体何をやってるんだ ここはあたしの居場所じゃないのに 2008/2/27 (Wed.) 19:03:22 広大なネットのことだ、たまには間違いも起こる。つまりはデータの配送ミスというわけである。 郵便物において起こることが、ましてデジタルの世界で起こらぬわけがない。 2進数32桁もの数値の組み合わせからなる膨大なアドレスへ向け、ほとんど無秩序に毎秒発信されるパケット群。 それらのすべてがすべて、きちんと宛先に届くなどと期待する方が土台無理があるというものだ。 気付いていないだけで、案外しょっちゅう君のデータは間違った場所に届いているのかもしれない。 また、君も毎日不要なデータを受け取っているわけだ。 ただそれが、例えばファイルの一部とか無意味な符号とか、重要でないものだから気付いていないだけかもしれないのである。 そういうわけで、コナツのディスプレィに「しだり川の裸足を写した画像」がそっくり届いた。これも当然考慮されるべきことだったのである。 2008/2/28 (Thurs.) 00:03:10 最近は知り合いに勝手に通り名をつけるのが流行っている。 「そうねぇ、彼女には『水色アルカイダ』とか、『国産舶来アンテナ』なんてどう?」 「かっこいい! 私も普通と違うような名前ほしいな」 期待の眼差しを向けられているのに気付いて、コナツはわざと視線を外した。 「……。」 「通り名に皮肉を入れるのは……その、えっと、古名瀬さんらしくて面白いと思います…」 コナツはその言葉に振り向くと、今度は無言で見つめて少し笑う。 (指摘しようとしたくせに自信ないもんだから言いよどんで、逆に皮肉を言ってしまうなんて。 気付いてないんだろうな。面白いから後で教えてあげよっと) 「コナツのために私も考えたよ!『詩的殺戮者の不機嫌(キリング・ワーズ・ジェノサイド)』 『善悪不一致』『The Lust Future』『ツンデレエイローネイア』……いっぱい考えたよ!」 「うわぁ…やっぱりアンタはこういう厨二っぽいの得意よね。でも多分それスペル間違ってるし……ツンデレじゃねえ!」 「えへへ。それで、私もコナツに何かかっこいい名前を付けてほし……(ry」 その時、急に扉をひらいてやってきた小柄な少女はまっすぐに一同の元へと歩み、 会話をさえぎるようにして誇らしげにノートを掲げて見せる。 「皆さん! かっこいい通り名を作れるマニュアルができました!」 「……何それいらない」 「!?」 「……あのね、私もかっこいい名…(ry」 2008/3/5 (Wed.) 02:28:08 「りつりんって、ニックネームじゃないのか」 「なんか、そんな感じの名前の芸能人、いたよねー」 「ええ…次は何をにぎりますか?」 「まだ考えてない!魚以外!」 「あたしはエビ!」 「またエビかよ…たまには他のにしろよ…」 「じゃあ、この灰色のエビっぽいの!」 「蝦蛄ですね」 「そうそう、こういう話、知ってるか?」 「知らない!」 「まだ聞いてないだろ!」 「嵐があったとする。 船がいっぱい沈没する。 すると、その辺りでは蝦蛄だの蟹だのが沢山獲れて、しかも味がいいんだ。 何故だと思う…?」 「わかんない!」 「…考えたくない」 「へへ、りつりんちゃんはどう?ヒントは、食物連鎖」 「えーと…」 (なんだか変なお客さんだなあ…早く帰らないかなあ…) 2008/3/6 (Thurs.) 19:08:51 少女A(女子高生。少女Bを崇拝している) 少女B(少女Aと同じ学校に通う生徒。フランス文学が好き) 少女C(昨夜) A「古名瀬さん、こんなところでどうしたんですか?」 C「あれ? えーと、誰だっけ? そうそう、し��り川さん」 B「やあ、奇遇だね。バイト?」 A「ええ」 C「ねえ、これから二人でバリに行くんだけど、しだり川さんも一緒に行かない?」 A「パ、パリ?」 C「それはフランスでしょ」 A「すみません、濁点が読みにくくて」 B「そんな話はしてない」 A「古名瀬さん、どうしたんですか? 顔色が」 B「一杯引っ掛けてきた、これからもう一軒いくところ」 C「そんな話はしてないでしょー」 B「英語で言うとバンコクビックリショー」 A「(なんだこの二人、か、からみにくい)」 B「しだり川、しだり川って綺麗な髪の毛してるね。うなじとかも」 A「えっ? あっ、ちょ……はうっ」 C「お、いいねいいねー」 A「何が!?」 この後むりやり一行に参加させられるしだり川。数時間後、 酔いつぶれた二人を自宅に連れ帰ることになる。 はたしてコナツは裸足を見られてしまうのか! 2008/3/6 (Thurs.) 21:46:53 裏をかき、裏をかきしているうちに、犯人が無差別になっていき そのうちに本当に好きなものを書こうと思っても書けなくなってしまう。 未熟な自分をさらけ出すのが怖くて、 無様な自分をさらけ出すのが怖くて、 奇をてらうのは、愚かしい。 かわいそうに。 2008/3/7 (Fri.) 20:58:24 美巡「おろかなニーチェが狂った理由は、常識を疑いすぎたからだったそうだが、  私は素直に常識を信じてるが、狂ってしまったぜ・・・。」 -- 美巡ちゃんはまれに自分で料理することがある。 今日の料理は味噌抜きの味噌汁、タイトルは「汁」。味噌の代わりに塩を1kg使っている。 「じゃあ『塩汁』でいいんじゃない?」という考えも頭によぎる。 具はキャベツの葉一枚。実際に食べるかは本人の自由意志。 2008/3/9 (Sun.) 23:54:24 「フハハハ…!」 モリタの静かな嗤いが彼女の部屋に響いた。 研ぎすまされた刃の爪。その先端まで神経が巡り、空気のほんのわずかな揺らぎさえも感じられるほどに鋭利な輝きを放っている。 ついに我が腕は鉄の爪と一体化し、無敵の凶器と化したのだ。 もはや誰の手も及ばぬ至高の存在。何人たりとも立ち寄れぬ境地へと至ったのだ! これでコナツに振り向いてもらうことができる。 あの冷たい瞳を。寂しい眼差しを。その細く白い手に手をつなぎ、毎日一緒に帰ろう! ──嗚呼モリタ! しかしお前はあまりにも無知! 確かにお前は非凡。だが! お前の真実の才能は決してその爪にあるのではなかった。 少女はその部屋の外にある絶望を知らない。己が信じる爪の鋭さに狂うことはできても、その脆さを知らない。 そして少女は扉を開く。 2008/3/11 (Tue.) 04:58:06 マニュアル・ライフのアニマル アベレージこそがハッピー ポリシーははがれおちても OK 2008/3/12 (Wed.) 14:30:29 コナツが怪我をした。 その日、モリタとコナツは廊下で喋っていた。その日コナツは上機嫌だったので、モリタは嬉しくなり、気分が高揚していた。 しだり川はそれを嫌そうに遠巻きに見ていた。 それでコナツがふざけたことを言ったとき、モリタはコナツの肩を叩いて笑ったのだが、いささか力が入りすぎてしまい、コナツはバランスを崩した。 コナツはよろめき、廊下を走っていた男子生徒と激しく衝突した。モリタは慌てて駆け寄った。コナツは肩が痛いと言った。 モリタは何回も謝ったが、コナツが痛そうなふうでもなくその謝罪を聞き流しているのを見て、大したことはないと思い、またおしゃべりを始めた。 コナツはずっと眉をしかめていた。モリタの肩を叩く手は少しは優しくなった。しだり川はそれを嫌そうに遠巻きに見ていた。 翌日、コナツは学校を休んだ。モリタは怯えた。しだり川はそれを嫌そうに遠巻きに見ていた。 モリタがケーキを持ってお見舞いに行くと、善良そうな妹が出迎えた。コナツの部屋に通された。 その部屋はなんだか甘い匂いがした。コナツは包帯を巻いてベッドにいた。 「やあ、モリタか」 モリタはその痛ましい姿に怯え悲しんだ、それと同時になんだかそれを綺麗と思った。 モリタが恐る恐る休んだ理由を聞くと、昨日帰宅しても肩の痛みが消えず、医者に行きレントゲンを撮ったところ鎖骨が折れていたという。 腕が使えないので、学校はしばらく休むそうだ。 「ごめん、ほんとにごめんね、コナツ……」 「ああ、いいんだよ、モリタ……」 モリタは嫌われただろうという思いでほとんど泣きそうになり、 コナツはもしかしてこの子はわざとやったのだろうか、いやこの子にそんな勇気などない、と逡巡していた。 モリタはケーキをコナツに渡した。しかしベッドサイドのテーブルに、明らかにケーキを食べた痕跡があった。 皿と、クリームのついたフィルムと、フォークである。 「ああ、さっき、ぶつかった男子が母親と謝りに来て、ケーキ持ってきたんだよ。馬鹿だよねえ、ケーキなんかあったって治らないのに」 モリタは何も言えなかった。 モリタは帰宅した。コナツの怪我の一因は自分にもあると、母親に告白してその男子のように正式に謝りに行かなければいけないかもしれないと思ったが、怖くてできなかった。 2008/3/13 (Thurs.) 15:01:07 昨夜「当時のマネージャーの川林は、『こんなバンド名じゃ契約が取れない』って言ってたけど、     ボクは『OK、じゃあバンド名を川林竹光にしよう。川林竹光か銀河最強・究極2号かどっちかだ』と言った。     すると3ヵ月後には契約を取ってきたよ。銀河最強・究極2号でね。」 2008/3/17 (Mon.) 15:01:14 私には家族がいない。恋人も友人もいない。 居るのはサイボーグとワニだけだ。 サイボーグに名前をつけて妄想の世界で敵と戦わせるのが唯一の楽しみだ。 そんなサイボーグ工場も先月不渡りを出し次で倒産となる。 酒の量は増え妄想の世界に逃げる時間も長くなった。 もうだめかもわからんね。 この前私の妄想がTV番組になったものを子供が喜んで見ていた。 地球が粉々になればいい。 2008/3/21 (Fri.) 15:48:15 モリタが みじかいくつしたを はいてきた コナツ「なんだそれは!」 モリタ「痛た・・・なにも殴ること」 コナツ「うるさい! お前がわるい! だいたいそんなの校則違反だぞ!」 モリタ「いいじゃん」 コナツ「よくない!」 しだり「どうかしたんですか?」 コナツ「しだり川もちょっと見てくれ、こいつの靴下を!」 しだり「え・・・あっ!」 モリタ「な、なに?」 しだり「そ、そんなの・・・! モ、モリタさん、おかしいですっ!」 コナツ「そうだ、モリタはおかしい!」 モリタ「そうかなぁ・・・」 2008/3/26 (Wed.) 00:41:19 誕生日だというのに、モリタは、一人だった。素敵な友人達はみんなどこにいるのだろう。 コナツ、昨夜、高遠、シェイクミックス、カズサ、ユズル、メケコ、めぐみ、凛、チート、あとしだり川たち。 今日、みんなはどこにいるのだろう。 他の所に住んでいる父親から来たバースデー・カードを、モリタは悲しそうに見た。モリタの所に届いた唯一のバースデー・カードだった。 「自分のまわりに友人の一人や二人当然いてもよさそうなこの日にこんなふうに一人ぼっちでいるのが納得いかない」と、モリタは思った。 とにかく彼女はバースデーケーキの火を吹き消していった。そしていきなり、ドアに楽しげなノックの音が聞こえた。 今このドアにノックする人は、一体誰だろう。彼女はドアを開けてみた。 そして、そこに立っていたのは、誰あろう、彼女の友人達だった。 コナツ、昨夜、高遠、シェイクミックス、カズサ、ユズル、メケコ、めぐみ、凛、チート、あとしだり川たちではないか。 入ってきておくれ旧友たちよ親友達よ。大きな微笑をうかべて、モリタはよろこんで友人達を部屋の中に迎え入れた。 冗談を言っては笑い合いながら部屋の中に入ってきた友人達は、「ハッピー・バースデー、モリタ」と叫び、更に心からなるあいさつをした。 そして彼らは全員がモリタに飛びかかり、「これまでずっと、お前は嫌いだったのだ。 お前のことを友人だと思ったことは一度だってなかったのだよ」と叫びつつ、たいへんな勢いでモリタの頭を殴りつけていった。 みんなはモリタを殺してしまったのですが、とにかく彼女は友人達に囲まれて死んでいったわけですよ。 昔からのつきあいである友のモリタよ、ハッピー・バースデー。 2008/3/26 (Wed.) 16:05:07 ひょんなことから、小夏と昨夜の仲が気まずくなった。 具体的に言うとエッチな事件だったので、たいへん気まずくなった。 2008/3/27 (Thurs.) 14:33:32 しだり川。あのこもつまらんことをしたなあ! なんだって、あんな下らない真似をしでかしたんだ。へん、自分が英雄のつもりだったのかね?  アタシは別に死んでもよかったのに、いや、つまらんことを考えるな、コナツ、よせよせ! ばかばかしい。まったくどうかしてるんだな。 ふん、だけど、彼女が自分に酔ってたことは確実だな。いい気なもんさ、こっちは大迷惑、迷惑千万! これが僕の愛、これが僕の心臓の音、とかね。 さてもさても、へっへ、お涙ちょうだいって訳だ。おやおやこれは。よくよくのことだぞ。 だけどね、アタシは酔わないよ。そんなことは許しません、アタシは酔わない。彼女がどう死のうが、さうです、かのぢよは死にました、これで仕舞いさ!  まあ、なに、だけど今日一日くらいは悲しいふりもしといてやろうか、たれびとも世人に倣いてなりふり決める、それも世塵の処し方なれば、へへ。 モリタのやつ、同情するだろうな。案外怒るかしら。昨夜は何か気付くだろうさ。 しだり川。だけど、本当に死んだのかな。騙されてるかもしれない。あいや、もしか、あれは夢か。 へええ、どうした古名瀬小夏、ふん、お前もつまらん人間だな。責任逃れか何かのつもりか、関係ないさ。下らん。 えいえい、止めだ止めだ、いやなこった。まったくいやだ。いやだ、いやだ。いやだ。本当に、アタシはいやだよ。 しだり川。 2008/3/31 (Mon.) 01:09:42 クロコダイルが、真壁マリと、仲良さそうに話している。 **************************************** 「ねえ真壁さん、博士って、何の実験をしてるの?」 「さあ…でも、前やってた実験の話なら、聞いたことがある。 エチオピクスダイヤルってあるでしょ? 胸につけて回せば…」 「何をされても、しあわせ!」 「そうそう、それそれ。  で、その実験の時にねずみを使ってたんだけど、どこかの調節が不完全で、一匹ずっと幸せなままになっちゃったの」 「別に、いいんじゃないの?ずっと幸せなら、それはそれで——」 「不完全なままじゃ、製品にはならないでしょ」 「そ、そっか」 「そんなわけで、博士はちゃんと不幸せも感じるように、ダイアルを調節したんだ」 「あ、わかった。調節が失敗して、ねずみは、ずっと不幸せになっちゃったんでしょ?」 「残念、ねずみは幸せも不幸せも感じられるようになったんだよ。でも、確かに調節は失敗しちゃったんだけど……」 「どういうこと?」 「何をしたら幸せで、何をしたら不幸せかが、アトランダムになっちゃったの。  満腹になっても、幸せになるとは限らないし、電気ショックを受けても、不幸せな気持ちになるとは限らない。  全く同じことをしてても、それは同じで、喜びと絶望が不規則にやってくる。  だから、ねずみは自分が何をしたいのかが分からなくなって、ご飯も食べなくなって、死んでしまいました」 「うええ……」 (ねずみさん、可哀相だなあ。でも、待てよ。これは本当にねずみの話なんだろうか……) 2008/4/3 (Thurs.) 22:12:46 深夜に父から電話があったらしい。 なんでも近々こっちに一時的に帰ってくるだとか・・・。 朝食を食べているとき、母が姉とそんな話をしていたのだ。 (金にしか興味がないやつがなんでまた・・・) カズサはそんなことを考えていた。 母親は「うれしい」だとか「よかったぁ」とか頻繁に言う。 (度が過ぎている気がする・・・) カズサはそ���思った。 これは、以前コナツが言っていた"認知的不協和"ではないだろうか。 つまり、母はあんな醜男と繋がりを持ったという不協和を下げるため 「結婚してよかった」と認知を変えて その不協和を解消しようとする。 カズサは悲しくなった。 (母さんはやっぱり・・・、 いや、だからこそオレがしっかりしないと駄目だ。) それから、カズサは学校へ行くため靴を履き 父親がいるであろう方向を、じっと睨んだ。 「いってきます」 そう言うと、カズサは玄関を出た。 ---------------------------------- 兵藤カズサのような人間を見ていると 葛藤こそがこの世で最も美しいものではないだろうか・・・ と思えてきました。 そんな人間に私は成りたいのです。 2008/4/4 (Fri.) 23:10:05 しだり川は、映像の為のアイディアをまとめて山女めぐみのところへいきました。 するとそこで山女めぐみが以前製作したという映像を見せてもらうことになりました。 それは簡単にいうと、さまざまなものが泥で汚れてゆく様子を撮影し、それを逆再生したものでした。 泥まみれのものから泥だけがきれいに落ちてゆくように見えます。 (出来ることなら、古名瀬さんの足を、はだしを、こんなふうに撮れれば。きっと美しい絵になる。  ああ、でも、いけない、彼女の足を汚してしまうことに!  例え一瞬でも、なんてことを考えてしまったんだろう!) その日の夜は、まんじりともしていられなかったしだり川、翌日コナツを見て何かうしろめたいところがあったりするの���、どうなのか。 2008/5/5 (Mon.) 12:17:42 「羞恥は高慢の外套である」 「愚者もその愚に徹すれば賢くなるだろう」 「人間のいない所、自然は不毛である」 「過剰は美である」 「愚者の非難を聞け! それは kingly title だ!」 「他の人が愚かでないなら、われわれが愚かなのだろう」 「女性の裸足は神の作品である」 2008/6/12 (Thurs.) 23:55:35 モリタに対する自論の展開 モリタが普通じゃないと言われてこうも喜ぶのは 天才願望があるからだ と推測する。 つまりモリタは天才になりたいのだ。 天才と呼ばれる人はなにかが欠落している。 私は、変人こそが天才にもっとも近い存在だと信じている。 常人と呼ばれる人はその普通と呼ばれる範囲を超えない。 いや、超えようとしない。超えると失笑が待っているからだ。 社会からの他人からの冷たい視線を浴びたくないからだ。 もし浴びてしまうと社会的な地位が下がってしまうからだ。 そういう教育を受けてきたからかもしれない。 惰性で生きましょう。周りに合わせましょう。 その方が企業にとって、社会にとって都合がいいのです。 なにかがぶっとんだ人間は扱いにくいのだから だからこそ普通じゃないと言われると喜ぶのだろう。 「ふふふ!私は遂に常人の域を超えたのだ!」と喜んでいるモリタが目に浮かぶ。 それに、欠落した存在の方がモリタにとって都合がいいのである。 なぜかというとそういう存在はやはり目立つのだ。 目立つことができればコナツの目を惹くことができるからだ。 そうすると結果的にモリタにとって利になる。 なんだか、あまり目立たない子が虚言によって人から注目を浴びる現象に似ている。 なぜ私はこんなことを書くのだろうか なぜなら私も普通じゃないと言われるとうれしいからなのである。 2008/6/18 (Wed.) 10:40:30 「たいへんなことをしてしまったぞ」 しだり川は興奮していて、心底困り果てていました ポケットのなかには古名瀬さんの靴下・・・しだり川はあたりを見回します 「ふう・・・ひとまずはばれてないようだ。  しかし、これからどうしよう」 そっとポケットのなかに手を入れてみて、その温もりに驚いて、狼狽して手を引き抜きます しかし、やがてすぐにばかばかしい、と思い直しました ポケットに入れていたから、温まってしまったのだ。なにも彼女の体温というわけではない しかし、理性ではそう認識できても、高まる心臓の鼓動はそう簡単に御せません 今しがた、彼女の一部分に触れたばかりの自分の右手から、彼女のオーラが漂ってくるような気がして・・・ 「しかし、わたしがこれほどのへんたいだったとは」 2008/6/24 (Tue.) 10:43:36 (今日はお腹もペコちゃんだし、焼肉屋にでも入るか) 店の戸を開けると店員がやってきて「お一人様ですか?」と詰め寄る。 (別に来ようと思えば友達誘って来れるが、今日はたまたま一人だっただけだ・・ほっといてくれ) しだり川は「はい」とだけ答えた。 店員が威勢良く「ご新規一名さま入りまーす!」と声を張り、奥の座敷に案内する。 正直、座敷とは予想外だが、靴下までならOKという覚悟で来ていたため、 物怖じせずに靴を脱ぎ、座敷へと上がる。 「カルビ定食とオレンジジュースください」 「カルビ定食なに?」 聞こえずらかったのか店員が聞き返してくる。(どうもタイミングが合わないな) なんとか注文を頼み終えると落ち着いたのか、あたりを見渡す余裕ができた。 (休日のお昼時だからか?結構混んでるな) 後ろにしきりを隔てて家族連れが。左壁にメニューが貼ってあり、 正面に自分と同い年ぐらいの三人組が店員に案内されていた。 (なにやら姫とか呼ばれているが、あだ名だろうか?) そして右側が通路になっていて、座敷下に自分の靴が置いてある。(それにしても遅い) 回りがワキワキと食べ続ける中、自分の注文がなかなか来ない事に苛立ち始めていた。 すると店員が皿を持ち、こちらに向かってくる。(やっと来た) しかし店員は横を通り過ぎ、さっき来たばかりの三人組のテーブルへ行ってしまった。 「海老のチリソース、お持たせしました−」 「わ−い、海老大好き」 この事に対し若干怒りが沸いたが、すぐに自身をたしなめた。 (マニュアルを思い出せ。怒りは無謀によって始まり、後悔によって終わる・・。 早く仕上がった品がたまたま向こうにいっただけじゃないか) しかし、決定的な事件は起きた。 「そしてこちらカルビ定食になります♪」三人組に出されるカルビ定食。 ついにしだり川の怒りは頂点に達した。 (空腹な中、待った仕打ちがこれか! 私の存在はどうとでも良いというのか! 店長に掛け合って・・いやいや、それだけでは済まさない! 店を潰してもらうよう本店の社長に掛け合って・・) 「カルビ定食大変お待たせ致しました」 「あ・・はい」 皿を抱えながら声を掛ける店員。 「すいませんねぇ、お待たせしてしまって」 「いえ・・」 カルビの乗った皿をテーブルに置き、忙しそうに立ち去る店員。 (ま、まあいい。私が本気になればクレームを出して店を潰す事もできるが、 忙しかったようだし、ここで働く人も養う家族がいるだろうし、 今日のところは私が大人になれば済む話だ) 肉を焼いて食べ始めるしだり川。しかし今度はご飯がなかなか来ない。 (何をやってるんだ。焼き肉といったら白い飯だろうが。 よし、アンケートにマニュアルを見直ししてもらうように書こう。 もしかしたらこの秀抜な意見が社長の目に止まり、全店舗に私のマニュアルが採用されて、 一億円ほどの報酬が私の・・) 「ご飯お待たせしました−!」 「あ・・はいぃ・・」 ご飯がテーブルの上に置かれた。 正面をみると、三人組はもういなかった。うーん、どうもさっきからタイミングが合わないな。 靴を脱いだせいで歯車がズレたか・・。 帰り支度を始める家族連れを横目に、ひとりご飯と肉を頬張った。 2008/6/25 (Wed.) 12:29:42 (マニュアルがあれば・・。いや、よそう。 こんな普通じゃない発想は。もうそんな歳じゃない。) ただ惰性で生きる毎日を過ごしていた。 そんな折りだった。上司に客先説明用のマニュアル作成を頼まれたのは。 こんなに気持ちが高ぶったのは何年ぶりだろう。楽しい。 今日は上司に渡してあるマニュアルを評価してもらう事になっていた。 嬉々として上司と対面すると待っていたのは激しい怒鳴り声だった。 何を言われたのか良く覚えていない。 ただ自分の中にあった唯一の自信が無くなっていた。もともと仕事ができるわけではない。 周りとの能力の差に打ちのめされていく中、悲観的にならなかったのは心のどこかでマニュアルが支えになっていたのだろう。 できそこないの自分自身を保つためには、そうせざるを得なかった。 いま最後のストッパーが壊され、しだり川には何も残っていなかった。薄々感じつつも、意識したくなかった事実。 (私は何の役にも立たない人間だ) 結局、マニュアルは後輩が作る事になったらしい。 (私は本当に無価値な人間だ。今までの私の人生は何だったんだろう・・) できる事ならまた高校時代に戻りたかった。 (小夏さん、懐かしいな。モリタはいま何をしているんだろう。高遠・・) 高遠とは今でも会っている。高校の頃はバカにしていたが、 大人になるにつれ次第に彼女を尊敬するようになっていき、 いまでは唯一親友と呼べる存在になっていた。 自分は今まで悩みがあっても人に打ち明けた事はない。 相談する事は弱い行為だと思っていたからだ。 だがこの日ばかりは気が滅入っていた。考えなしに高遠に電話をかけた。 就職してからは2か月に一回会う程度になってしまったが、それでも彼女との会話は楽しかった。 今日あった事は一切話さなかった。 (高遠に自分が悩んでいる事を知られるのは恥ずかしい) ただ週末に遊ぶ約束をした。 電話を切った後、心が軽くなっていたのが、ハッキリとわかる。 高遠がいて良かった。 ふと携帯を見るとメールが一件入っていた。 見ると高遠からで[あなたの良いところ]という件名で私の長所がいっぱい書いてあった。 どうしてわかったんだろうとは考えなかった。ただその夜は声を出して泣いた。 2008/6/27 (Fri.) 19:01:12 学校の会議室に行くと、室内で小夏と昨夜が話していた。 昨夜は私に気を使ったのだろう。会話も途中で部屋を出ていった。 慌てて自分も出ようとすると、小夏が気がついた様子で、私に語りかける。 (まさか小夏さんの方から話しかけてくるなんて) しだり川は夢中で話していた。モリタの漫画のこと・・小夏の作品のこと・・。 どうやら彼女は門限があるらしく少しの時間しか話せなかったが、 彼女が作品に対して熱意を持っていた事が何より嬉しかった。 その事とは別の話になるが、芸術家は少なからず評価に左右されるように思う。 優れた芸術家には正しく作品が評価される場所が必要なのであろう。 そのためには芸術家は評価される場所を知らないとするのが1番良かったのかも しれない。 モリタの一件もそうだと思っていた。あの時はモリタの意図が知りたいと思った が、結局は卑怯な不意打ちになってしまった。モリタは普通ではないと見せてい るが、本当はただ作品が存在していれば良かったのかもしれない。それは嘘であ るが、もっとシンプルな話で作者と読者の間には余計なコミュニケーションなど 必要としていなく、作品に込められたメッセージを読者が読み取れば十分なのか もしれない。 私は彼女(小夏)の作品だからではなく、作品の作り手が彼女だから応援したい と思った。素直な気持ちとして、私の人生の中で一番の作品だ。 2008/6/28 (Sat.) 22:33:37 私には彼が何を言わんとするか具体的に理解できないし、 彼もそれ知ってて解り辛い表現を使っている以上、理解されないことこそ本望なのであろう。 難しくしたものを解いたからって真実に近くなるわけではなし、 そんな真実だって、それは難しさを理解するために己が生み出した妄想であって、 それを己の都合よく真実だと誤認し感動するのは愚かしいことである。 だから、これでいいのだ。 2008/7/2 (Wed.) 01:48:16 『暗号文解読マニュアル』 絶版となっておりました。 2008/7/4 (Fri.) 22:32:49 「不愉快だ!!」 金魚姫は激昂した。 あまりの怒りに我を忘れて暴れまくる。 水槽(もちろん空で、金魚はまだ入っていない) を手当たり次第に破壊しつくした上に、 水槽(こちらには金魚が入っている) を丁寧に机から降ろして、安全を確保したのちに 叫びながら丸裸の机を自分の武器で真っ二つにした。 ・・・それでも、彼女の怒りはおさまらない 「不愉快極まりない!!」 ただただ、彼女は叫んだ。 怒りの理由なんか、どうでもよかった。 2008/7/5 (Sat.) 20:17:54 撮影その1 とおまけの話 山女めぐみの召集で集められるメンバーたち。 どうやら山女が撮る映像作品の役者に選ばれたらしい。 小夏さんと兵藤カズサは室内での撮影になるので、 私たちとは別グループだ。 そういえば作品の内容を知らされていなかったな。 どうも、途中で終わっていた作品を完成させたいらしいが、 なんだろう? 外に出てウォームアップを始める高遠と昨夜。 見覚えのある光景に戦慄が走る。 まさか・・・。 ------------------------------------------------ ☆おまけの話☆ 「噂のマニュアルを注文したいんですが」 「鋭い方がいるようですが、ダメなものはダメです」 2008/7/7 (Mon.) 00:58:44 「なっ・・・何ですか この化け物は・・・?」 「これか?もちろんこれこそ我がテロ部の秘密兵器だ。 何でも破壊し、何でも食う。 好き嫌いしない。とてもいい子だよ。」 「まさか・・・最近町で行方不明者が頻発してるのは・・・」 「君がこの学校を爆破しようと地雷を設置しているのは知っている。 でもあの隠し方じゃすぐにバレてしまうよ・・・。 僕が特別に教えてあげる。 ただし テロ部への入部が条件だけど・・・」 「!?そんな・・・なぜそれを!?」 「見くびらないで欲しいな 僕はテロ部なんだ。 さて、そろそろお昼の時間だよ。 答えを聞かせてもらおうか もう 戻れないよ。」 2008/7/8 (Tue.) 21:21:20 撮影その2 山女めぐみとの会話 「最後のシーン。どうしてもイメージ通りの一枚絵が撮れなくて」 「いや・・なんていうか・・言葉では表現しずらいんだけど・・」 「フルーチェを食べながら空を飛んでる昨夜を、シェイクミックスが武器を乱射 しながら追い掛けている図というのを・・・」 2008/7/21 (Mon.) 00:15:44 ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて そしてたちまち降り注ぐ、見知らぬ人からの寵愛に次ぐ寵愛!! 2008/7/30 (Wed.) 02:12:46 「ねーねー博士、いいこと思いついた。 私はさー、手を改造したでしょ? クロコは目、セネガルズは耳…あとなんだっけ?? まあいいや、とにかくいっぱいいるけど! これ全部あわせて、完全改造人間とか作ったらどうかな!? 体全部改造しちゃうの!絶対強いよ!絶対!」 …実際、過去に彼女はそれをやろうとしたのだ。 しかし結果は、無残な失敗だった。 改造人間達はそれぞれ色々なものが欠落している。 お箸は使えないし、傘の差し方を知らないし、起こされるまで目が覚めなかったりする。 そして体のほとんどの部分を改造された「完全改造人間」は、 実に、人間性という人間性を全て失ってし��っていた。 仕方なく、博士はそれをロボットとして使うことにしました。 **************************************************** 改造人間は、もう人間ではない。 エチオピクスは人間たちにダイアルを与えた。 ダイアルを回したものは、人間ではなくなってしまう。 **************************************************** 「へえ、どうしてまがい物の宝石を集めてるの?」 「芸術とは、内なる神への叫びであるべきだ!それがなきゃ屑だ」 「クローンのイチゴだっけ?あのでっかいの。そういうのもボク好きだよ」 (これは改造人間とは関係ない) 2008/8/4 (Mon.) 20:07:54 「粉砕!玉砕!大喝采−!!ワハハハ−!」 モリタの猛攻の前に崩れ落ちるモンスター。 (やったぞ!ついに難関とされるあのモンスターを倒したぞ。 ククク・・かわいそうにしだり川。隅っこの方で震えてやがる。 だが安心しろ。あの怪物はこの私が葬ってやったのだ。 それにしてもこれほど上手くいくとは・・!いつだったか、実は私はどこかの国 の王女で今くすぶってるのはみんなが私を騙して演技しているから、と思った事 があるが本当なのやもしれぬ。くくく・・今日は誕生日だ! この新生・モリタの誕生日だ!ワハハハハ−!) ---------------------------------------- (くそう・・モリタめ、調子に乗ってるな。 これではまるで、私が怯えて何もしなかったかのように見えるじゃないか。 だが、落ち着け。あの場はあれで良かったのだ。 私が攻撃される事でリタイアになる事だってありえたのだ。 すべてはマニュアルに従った私の・・・知的で冷静な判断の結果といえよう。 BE COOL・・BE COOL・・。そう、私はCOOLだ。) 2008/8/8 (Fri.) 17:21:20 悪い夢でした。 人間が金魚を飲んでいる! 御風ちゃんは顔を覆って目を逸らしたかったのですが、身体のどこかでだいじな神経が断絶してしまったようで、目を閉じることもできません。 事の次第はこうです。ご両親も出かけていて、一人でのお留守番に退屈していた御風ちゃんは、何というつもりもなく、テレビの電源をつけました。 一人の男が金魚鉢を抱えて登場します。何事か叫んだ後、その鉢の中に手を突き入れると…いえ、もうこれ以上はいえません。 それで終わりではありませんでした。いっそのこと、そこで終わっていた方がよかったかもしれません。 一度飲み込んだ金魚を、醜い動作で吐き出すと、男は得意げに微笑んだのです。 「ちょっとした冗談さ」とでもいうみたいに。 何がなんだか分かりませんでした。だけど、心の内側で御風ちゃんは期待していました。 画面の中のすべての人間、その外側の人間、観客席の者らまでが、わずかな沈黙から我を取り戻し、怒りの声を発しながら、 雷鳴のような素早さでその男をステージから引き摺り下ろし、当然の制裁を加えることを。その義憤を、常識人の、理性人のあるべき正義を。 しかし、いつまで経ってもそのような進みゆきにはなりませんでした。放送局の操作により画面が暗転し別の映像にすりかわるということすらもありませんでした。 和やかな雰囲気がそのスタジオには溢れています。拍手をする者さえいました。いえ、すべての者が拍手をしていました。 いったい御風ちゃんに想像することができたでしょうか。 人間は金魚を飲み込んでまた吐き出す、というあそびが大好きな生きものだったのです。魔物…魔物です。 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。 御風ちゃんは自分の金魚に謝り続けました。そうするより他になかったのです。 もちろん、飲まれたのはこの金魚ではないし、飲んだのもけして自分ではありません。けれど、そうするより他になかったのです。 「私にもあの男と同じ血が流れている……一度飲まれて、その後吐き出された憐れな金魚を嘲笑っていた人間らと同じ血が……」 2008/8/10 (Sun.) 22:47:11 misson:Save the goldfish!! 「では、この金魚たちを全てすくうのだ」 「よしきた…ってこれ全部かよ!怒られるぞ!」 「話はつけてあるから大丈夫だ。シュンはこっちのたらいに、金魚たちを移すだけでいい。はいどうぞ」 「うう…しかもポイ一個かよ…」 「お前ならできる。自分を信じろ!誰も信じるな! 万が一出来なくても、殺しはしないから安心してね」 「ほ、ほんとか?」 「ちょっとしぼるだけ」 「やめろ!」 **************************** 「エビおいしー」 「それ、イカ焼きじゃないか…」 「ふふふ…まさか本当にやってのけるとはな、よくやった」 「いやそれほどでも…ところで姫、最近痩せてないか? 暑いからって食べないと体に毒だぞ」 「ちゃんと食べてる!栄養たっぷりだ!」 「ねーねーみんなでご飯たべよーよー」 「エビ子は食べすぎ!」 「よし、では褒美だ。晩飯をおごろう。家に行くぞ」 「うーなんだか、嫌な予感…」 2008/8/21 (Thurs.) 21:47:28 「えー?  まあ…要するに、小説なんてつまらないことなのさ。  (中略)  …そのことを私は自分の小説で実証するんだ。  そのためには凡そくだらないものを書かなきゃならない。  ばかばかしい、屑のような小説を。  人々が小説など全く読まなくなるようにね」 2008/10/17 (Fri.) 04:24:59 モリタ「こんな世界にはうんざりだ!もう死んでやる!」 コナツ「はいはい、死にたい、死にたいって、何回目だ。もう聞き飽きたよ・・・。」 モリタ「今度は本気だよ!絶対死んでやる。一体何人が、どれくらい悲しむか楽しみだ。」 コナツ「じゃ、せいぜい頑張って死んでね。私は帰りますので・・・。」 モリタ「・・・」 モリタ「どうして止めてくれないの・・・?」 モリタ「何か悩みでも、とか聞いてすらくれない・・。」 モリタ「・・・決めた。私は今からコナツのせいで死ぬんだ!」 モリタ「コナツが一生トラウマ背負い込むくらいの、どぎつい遺書も書いちゃうもんね。」 モリタ「そしてコナツは鬱病になって、私の後を追って自殺するんだ!」 モリタ「・・・でも、こんな私は地獄行きだろうな・・・。 い、いや、死ぬぞ。死ぬと決めたんだから。 今死ななきゃ格好つかないぞ、ああ、もう・・・。」 翌日、モリタは普通に学校に来た。おしまい。 2008/11/3 (Mon.) 02:21:19 「みてみなよ、モリタ。あれが彼なりの『けじめ』の付け方なんだそうだ。 まったく、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない!! 滑稽だ!お笑い草だ!思考回路がいかれてる! あれじゃあ、ただの道化師とかわらないね。 おかげでさっきから笑いが止まらなくて困ってしまうよ。 ・・・うう・・・!・・くそ・・・!! ・・・なんだってあんなことをするんだろうか。 くだらない、くだらない、 ああ、もう まったく!!人間ってやつは!!!」 ・・・そんなコナツの激昂を聞きながら モリタはコナツのうなじのことを考えていた。 2008/12/11 (Thurs.) 00:55:48 ■アウター能力 世界を隔絶する程度の力。 正式名称は精神順応性事象疎外能力と呼ばれ、自分の意志(精神力)により目前に迫りつつある脅威から目をそらす、 あるいは認識すらせずに雑務を行うことができる。一時的な精神安静が得られるが、使いすぎれば最後には我が身を滅ぼす諸刃の剣。 「できるできないが問題じゃねえ 、やらないんだよ!!」 2009/4/12 (Sun.) 00:48:32 「あたしはしらみだ・・・!」 ------------------------------ 厭世的なコナツ 1 プレイヤーセレクト画面で"コナツ"にカーソルを合わせる。 2 R1ボタンを押しながら、十字コントローラーの右を6回押す。 3 ×ボタンを押しながら、キャラクターを決定して下さい。 コマンド入力が成功すれば、 厭世的なコナツが使用可能になります。 2009/4/12 (Sun.) 03:11:45 コナツは丘の上で磔にされた。 狂った女が槍を彼女に突き付ける。 丘に真っ赤な夕焼けが沈み、友人たちは皆泣いている。 と、コナツが「モリタ」と呼んだ。 モリタは驚いた。 自分などコナツの友達の中でも下の下だと思っていたのに、 彼女が最後に自分の名前を読んでくれるなんて! 驚きの後に深い感動があった。 「コナツ」と一声応えて丘を登っていくと、 狂った女が無残にもその両足を切り落としてしまった。 モリタはそれでも両手で匍って丘を登っていく。 すると狂女は彼女の両の腕までも切り落とした。 これでもう近づけまいと見ていると、モリタは顎を上下して必死に架台にずり寄っていく。 そのあまりに凄絶な姿を目にして、さすがの狂女も呆然としていると、 モリタがようやく架台の下へ辿り着き、コナツへ声を掛けた。 「…コナツ、何だい?」 「モリタ、ここから君の家が見えるよ」 2009/6/22 (Mon.) 05:02:22 わたしのような薄弱者が白鳥の衆に飛び入るなどとそんな馬鹿な真似をするからわたしは薄弱なのだ!! 2009/7/2 (Thurs.) 01:52:19 瞼を閉じよ。 それは神経の底に標されているもの。 つまらない幻。 死せる咎人の夢。 笑わない少女は扉を開かなくてはならない。 2009/7/5 (Sun.) 00:19:04 彼女の物語の孤独なステージ。 彼女以外の登場人物は彼女自身が消しました。
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lostsidech · 6 years
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5: ワン・アイ・ラヴ、トゥー・アイ・ラヴ
 濁流のように流れ込んできた「感情」が、景色をつくってばちばちと瞬いていた。
「ぁ……………………」  声にならない呼気が肺から溢れ出す。ひりひりと変に矮小に疼いている傷口から一緒になにかがこぼれているのがわかる。  なんで。かちかちと信号が頭の中で明滅する。  わからない。  「あの子」……あの子から、瑠真も知っている場面が流れ込んでくる。これは記憶なのだろうか。記憶が見えている。あの夏、前の冬、見慣れた研修教室。そこには幾つもの感情が紐付いていて、花火みたいに次々と弾けて瑠真にあのときのともだちの見ていたものを教えてくれる。  なのに。 (わか、らない……)  理解できない。  何も理解できない。  あの子が生まれて、育って、瑠真に出会って別れたことをどんなに知っても。その過程を内側から、その時抱いた感情まで受け取っても。  瑠真にはその繋がりが、有機性が、意味が、あの子の考えていることが、理解できない、何もわからない、受け入れることができない。  視界の端に見えた「あの子」は、赤い髪で、快活な笑顔で、だけど、何かが、絶対に、違って。 「おまえ…………ッ」  背後から掠れた声があった。  空中に縫い留められたまま目だけで振り向いた。掠れて当惑した、それでも反発の意思を込めた言葉。  後輩が寿々を守るように抱きしめて相手を睨んでいる。 「おれに電話した奴でしょう」 「あぁ、久しぶり。翔成くん」  やっぱり、と翔成が唇を噛む。  答えた少女は、奇妙な服を着ていた。短いスカートに季節外れなブーツスタイル、背中に何か大きな機械のようなもの��背負っていて、そこから一つの線が瑠真へと伸びている。  顔はあの子と似ていても、絶対的に別人に感じさせるなにかがそこにはあった。 「カノ……」  反対に、妙に抑えたりゅうとした声音が別の方向からあがる。 「お前……お前、『華乃』は」  ペアからだった。ベンチから立ち上がって少女を睨んでいる。くすりと笑った少女がスカートの裾を持ち上げてみせる。新しいお洋服を見せびらかすように。  記憶の中のあの子より少し背が伸びただろうか。声音はやはり違うと思う。  あの子はこんな楽しそうな甘い声を出さない。 「カノはわたしだよ」 「お前の話を聞いてるんじゃない」 「『華乃』も"わたし"だよ。瑠真もしかすると見たかな。"わたし"は『わたし』と『あたし』の半分こなの。ねえ証明してあげようか、『望夢くん』」  少女はとんっと地を踏むと、一歩望夢のほうに近寄って手を差し出した。芝居みたいな動作に望夢のほうは一歩下がった。  悪寒がする。腹に重い『これ』のせいかもしれない。  彼女はすうっと喋り方を変えると、 「『最後くらいきちんときみの先生になりたいんだ』」  女優さんがセリフを読むみたいにそう言った。  聖女みたいな完璧な笑顔で。  ペアはぴくりとも動かなかった。  意識は濁流に押し潰されていて、だけど片隅で思う。  ああ、このときのペアの顔が見えていなくて良かった。 「つまり」  重々しくペアが口を開く。乾いて圧し殺した声。 「お前が、華乃を殺したのか」 「あの子」は含み笑いで顎を引いて後ろに手を引いた。  瑠真の視界が七色に眩んでいる。 「強情。たしかに形としては『わたし』は『あたし』を殺したかもしれない。だけどね、『お姉ちゃん』は最初から『わたし』のコピーなの。『わたし』は『お姉ちゃん』を回収してね、一つにこうやって」 「分かった」  ペアが遮った。その声音は冷え切っていた。いや、反対だ。煮えたぎっていたのかもしれない。 「もういい。黙れ」  朦朧とした瑠真の意識でも、息が止まるような声だった。  膠で固めたように空気は凍る。瑠真の突っかかる呼吸音、ペアの鋭い警戒、後輩のとまどった気遣いで空間が満ちる。  その隙間にまるで萎縮した様子もなく、 「カノ」  重ねるように、別の声がその場に呼びかけた。  高い、たぶんそれは少年の声だった。 「カノ、結局出ていっちゃったの。まだ試作だって言ったじゃない」  割り込む声はビー玉をばら撒くようにその場を動かす。  瑠真の正面から、小学生と思しい少年が近づいていた。堤防にのぼる階段をあがって、臨海公園の小道に佇んでいる。人形みたいな容姿。髪を銀色に染めていて、ライトブルーのゴーグルを頭の上にかけている。小綺麗なシャツに半ズボンをサスペンダーで釣った胸元には、じゃらじゃらとストラップのついたスマホをふたつ下げている。同じく奇妙な……いっそ、異様な少年。  少女が応じた。 「ホムラグループに通ったじゃない。なら、もういいかなって」  ホムラグループという呼びかけで莉梨のまぶたがぴくりと動いた。少年は構わず、首から下げたスマホのひとつを忙しなく弄りながら、話題を変える。 「スズどうする、カノ」 「あぁ、あの子」  少女が視線を転じる。完全に忘れていた、とでも言いたげな声だ。当惑した顔の後輩が、それでも寿々を譲らないとでも言いたげに抱き上げたまま背中にかばった。  少女はひとつ頷いた。 「回収しよ」 「回収してどうするの」 「そうね、わたしが話をする」 「勝手に話を進めないでっ……」  後輩が食って掛かった。が、その声が途中で途切れる。視線が斜めに動く。  小さな女の子がひとり、眠る寿々の浴衣の袖を不思議そうにちょんと摘んで立っていた。水色のワンピースに大きなひまわりのワッペンをつけた、たぶん小学校にあがって間もないか、それくらいの女の子。  女の子は大きな目をぼんやりさせて翔成を見上げる。 「あ……」  翔成が何かを言いかけた。表情が一瞬の間に目まぐるしく入れ替わる。  迷い込んだ女の子。そう思ったのかもしれない。瑠真は何も考えられない。だが、翔成が迷うように手を伸ばして、その子に触れようとしたとき、ペアが冷然と制止した。 「やめろ翔成。そいつ、いちばんヤバい」 「え」  翔成は戸惑ったように手を止める。望夢の感知能力がこの中で群を抜いていることは全員が把握している。  怯んだようにその肩がこわばる。その隙を見たのだろう。女の子が寿々の手を引っ張って尻餅をついた。  引っ張られた寿々は眠ったままベンチの下に引きずり落とされ、慌てた翔成が手を伸ばす前に別の手に引き取られた。いや、手というのは表現の一つだ。一行の隙間を縫ってぎんと伸びたのは、瑠真に伸びているのと同じ無数の金属アームだ。  尖った端のパーツが四つ又に割れて寿々の腕を掴み、腰の下に滑り込んで持ち上げ、空中をしゅるしゅると巻き上げる。振動が伝わって身体を揺さぶられた瑠真は歯を食いしばる、電流のような不快感が走り汗がぼたぼた伝う。  あっと言う暇もなく、瑠真と莉梨の二人で浴衣を着せたおさげの少女が遠くへ持ち去られた。ついでに寿々の傍にいたひまわり少女も猫の子のように釣り上げられてくるくると回転しながら回収される。  足元に寿々と女の子を降ろした少女は、アームの動きに満悦らしかった。 「うん。上出来だわ。じゃあ、そろそろ帰ろうか」 「待てよっ」  ほとんど語尾を食うようにペアと後輩が同時に声を荒げた。  ペアはさらに食い下がって、 「勝手に終わらせんな。お前は何なんだ」 「あぁ。いいわ、ほんとうは答えなくたっていいんだけど。『きみ』に聞かれると話したくなっちゃう」  少女はことことと声を立てる。近くを取り巻く少年少女は、まるで姫君を見守るように愛情をこめた目でカノを見つめていた。 「わたしはね、わたしたちは、世界を終わらせる子供たち(ホーリィ・チャイルド)。あなたたちが無邪気に信じ切っている世界解釈から弾き出された子羊の群れ」  大仰な言い回しが耳の上をつるつる滑っていく。 「きみたちに言ったって仕方ないんだけどね。わたしたちは、世界の終端(ワールドエンド)からやってきて、世界の終末(ワールドエンド)を待っているの。早い話が、」  少女は両手を広げ、 「こんな世界、なくなっちゃえばいい」  その言葉の残響がまだ、風に吹き散らされる前に。  別の少女が素早く跳ね起きた。きらりと金髪が宙を泳いだ。  いつから目覚めていたのか。帆村莉梨だった。彼女は素早く何かの歌を詠唱し、その手をカノに向ける。  カノは少し驚いたように目をぱちくりした。無数のアームが莉梨の手の動きに合わせたみたいに力を失って、がちゃがちゃと地に落ちる。一瞬引きずられた瑠真が苦痛の呻きをあげるが、莉梨の操作に従ってアームはひとつだけが元の位置に残った。  莉梨は眉尻を下げて優しく言った。翠眼が振り向いていた。 「瑠真ちゃん、ごめんなさい。抜いたらきっと出血するから、少しだけ我慢して」  彼女の洗脳か。ひりついていた脳内が徐々に平常に戻り、爆発していた感覚が落ち着いていく。かえってそれゆえに妙にリアルな金属と接触の感覚が気持ち悪く伝わってきた。たぶん気が付かないうちに吐いていたけれどなりふり構う余裕はない。 「……あぁ」  伏し目でカノが呟く。身動きが取れないみたいに直立したまま。  莉梨はりんと両脚で立っていた。さっきまで、泣いた痕も鮮明に眠っていたちいさなお姫様が、再び女王として屹立していた。カノに相対して、高らかに声をあげて。 「私はホムラグループの跡継ぎ。時を待たず長になるものです。あなたたちのように人を操り、愚弄し、人の思いを軽視する人々を、許してはおけない」  どれだけ心強い言葉か。それなのに、嫌な空気は拭われない。 「そうねえ」  カノは笑っていた。妙に昏い、魔性に似た顔で。 「莉梨ちゃん。あなたは思念ベース、わたしは感情ベース。どっちが強いと思う?」 「……なに」  莉梨が眉をひそめる。 「ううん、質問を変えよっか」  カノの表情はあでやかだ。その微笑みが、頭ががんがんするほど、瑠真の知る女の子には似つかわしくなくて、やっぱりここにいるのは別人なのだと、気持ち悪さが体内を掻き回す。  カノは嘘っぽい笑顔を貼り付けたまま、 「恋破れた女の子と恋をしている女の子、どっちが強いと思う?」  そう言った。 「え」  頼りなげに莉梨の表情が揺れた。何を言われたのか、今ひとつ理解しがたいという表情。それでいて、直観的に不利を悟ったように。  低い声でカノが呟いた。 「大人になりすぎた女は嫌ね」  莉梨が、悲鳴をあげた。  落ちていたはずのアームの一つが蛇のようにうねって莉梨の目の前でぱかりと鏃を開き、その真ん中で不規則に色のついた光がまたたいた。別のアームが妙に紳士的に彼女の背中を支えたが、それが離れると莉梨の腰がへたりと地面に崩れる。 「や……だ、違う、ごめんなさい……」  それまで聞いたこともない、怯えたような莉梨の声があった。  後輩とペアもぎょっとして莉梨を見つめた。ごめんなさい、と肩を抱く莉梨の表情が、叱られた子供みたいに歪んでいく。  構う暇もなかった。カノは足音を立てて向き直り、 「じゃあ、せっかくだから、一人ずつに餞別をあげようか。まず、翔成くん」  薄く笑った。 「は……」 「あなたに教えてあげたいのは、あなたが身を呈して守ったものになんの意味もなかったということ」 「何を言いたいんです」  翔成の表情がこわばる。 「ホムラグループは長くを待たず分裂するわ。そしてその引き金にいたのはあなた、それからあなたの家族だって。覚えておくといい」  少年の肩がびくりと震える。背負わされたものの大きさにふと思い至ったらしい。  チカ、光が瞬く。カメラのシャッターを切るように、映画のフィルムを回すように。 「望夢くん」  少女は歌うように節をつけて次の標的を呼んだ。キャラメル色のものうい双眸がペアをとらえた。 「あなた。あなたにはね、言いたいことがたくさんある。『あたし』からも」 「……華乃の名前を使うな」  低く少年が応じる。カノはかまわなかった。 「あのね、『お姉ちゃん』は聖女だから言いやしないんだけど。良い妹が代弁してあげよう。『あたし』は『きみ』のことがずっと怖かったわけ」  小さく、ペアの背中が動く。瑠真は口を出したくて唇をぱくぱくする。でも出てくるのは細い呼吸ばかりだ。 「『きみ』には何かが欠けている。自分で分かっているのかな。あのね、逃げられなかったのは、『きみ』のせい」  誰も動かない。カノの言葉に縛りつけられたように、時間そのものが止まっている。 「『あなた』もね、『わたし』と同類なんだよ」  それは溶けるような囁き。人をまどわす悪魔の。  ペアは黙りこくっていて、カノの言葉をどう受け取ったのかは分からない。  瑠真は薄靄の意識の向こうで必死に呼びかけている。実際に声は出ないのだけれど。  聞いちゃダメだ、「そいつ」の言葉なんか。  階段から、ざ、とひとつ足音が響く。 「……お主」  それが、この場にいなかった最後の一人の足音だと、気づいたときには瑠真の視界には彼女が映っている。  神名春姫。異変に気づいたのだろう、遅れての到着だった。  彼女の目は冷徹に、平板に、なんらの表情を映すこともなく、カノを見据えている。  金色の瞳の女の子。瑠真たちの長。時に味方として、時に制止役、時に憎まれ役として、常に目の前にいてくれた友達。 「……春ちゃん」  なのに、心強さが足りない。小さな声で、カノが呼ぶ。 「春ちゃんにも、ご挨拶だね」  一人一人に餞別をと言った、その言葉の続きなのだろう。その声は、瑠真たちに対するときの不遜な調子に比べ、春姫に対してだけかすかな敬意のようなものを孕んでいる。  答える、春姫の声音は静かだった。 「聞こえた言葉が間違っておらぬなら。お主ら、協会秩序の転覆をはかっておるのじゃな」  そう応じていいのは、ある意味で彼女だけだっただろう。現況の世界の守り人である彼女だけ。 「妾の作り上げた世界にあだなすと。お主はそう言うておるのじゃな?」  一瞬でも、背筋が震えるような圧力だった。  カノは動じなかった。蕾の綻ぶようにずっと笑ったまま。 「あなたがやってくれたこととおんなじでしょう?」  長いこと言いたかったとでも言いたげな感慨が口ぶりに籠もっている。春姫は伺うようにじっとカノを見つめた。 「意味を問おう」 「ねえ、春ちゃん。わたしはこうして暮らしていて気づいたの。ひとつの世界をつくるということは、ひとつの世界を壊すということだよね。色んな人は、そういうふうに世界を描いてきたんだね。あなたも」  言い含めるような、姉のような言い方。それはまるで、歴史の教科書を生徒に教え込む家庭教師の優しい女の子みたいな口調で、瑠真の頭がぐちゃぐちゃになって吐き気がした。  少女はそのまま少しだけ頭を振り向けて、別の人物に呼びかける。 「そうだよね、望夢くん。壊された側ならわかるよね」  望夢は瑠真の見たこともない鋭い目で少女を睨んだ。  その表情を眺めてか。ふふっと、どこか場所のわからない近くから、新しい笑い声が聞こえた気がした。カノのものではない。付き従っている子供た��のものでもない。ハスキーな少女のような、あるいは声変わり期の少年のような、性別が曖昧な声音だ。まだだれか仲間を連れているのか。 『春ちゃん』  その声が呼んだ。どこか電子音みたいなノイズを混ぜながら。  春姫の顔色が変わった。その変化が何を示すものなのか、まだ瑠真たちには分かり得ない。 「お主」  信じられない、とでも言いたげな声で春姫が呟いた。いや、信じたくない、かもしれない。  そのときの春姫は、年相応の、小さな子供に見えた。  中性的な声は歌うように続ける。 『いつまでも待ってるって言ったでしょ? いつまでも、地獄の底で』  ぞくぞくと、嫌な予感が、場の足元からせり上がってくる。 『君は果たしてくれるのかな。あのときの約束を』  その言葉は、瑠真たちには到底意味も前提も分かり得ない、不可解な響きを帯びていた。  考える前に、春姫が声にならない咆哮をあげた。  その手が目にも止まらぬ速さで拳をつくってがんと振りまわしたかと思うと、名前も判別できない無数の花が棺を埋めるように夜いっぱいに咲いて、それがすべて一斉にカノたちのほうへ落ちていった。  落ちる、というのは正しいだろうか。落とす、爆弾をばら撒くように、星を夜空に走らせるように。苦悶の声をあげた瑠真の身体の中で銀のアームがズっと音を立てた。カノの防御の動きに引きずられたのだ。いくつものアームがカノたちの上にドーム状に寄り集まって先端を開いている。  チカ、とフィルムが回った。それでまるで映像を消すみたいに、花々が降り注ぐ傍から掻き消えていく。  限りなく美しいのに、涙も忘れるほど絶望的な光景だった。 『あはははは! だめだよ、春ちゃん!』  高い声は笑っている。 『これはね、クオリアフィルタっていうんだ、もとはといえば君をサンプルに作った反装置だからね! 敵うはずがないのさ! シロガネ、試作にしちゃやるじゃない。お手柄だよ』 「えへ」  呼ばれて照れたように微笑んだのは銀髪の少年だ。  「ありがとう、ホマレ」 「ほまれ? 誉(ほまれ)と言うたか?」  手を差し向けたまま、春姫はぶるぶると震えていた。その唇から漏れるのは、疑惑か、怨嗟か。 「殺した、お主はこの手で殺した。相対してその心臓を突いて、刺し殺したはずじゃ。その肉を斬りその血を浴びたはずじゃ! あ奴が生きておるはずがないッッ!!」 『今の『俺』が生きてるのか死んでるんだか、俺にもわかんないんだけど』  誉と呼ばれた声は楽しげだった。ごろつく地面に頬をつけながら、瑠真は微かな既視感を覚える。  誰かに、似ている。 『それでもね、『俺』はずっと君を見ていたよ』  愛情深く、あるいは性根悪く、どこまでも歪(ひず)んで壊れた言葉。  その歪んだ形をもし真っ直ぐに伸ばせたら。元の形に戻すならば―― 「……誉?」  望夢がぽつんと呟いた。風に吹かれるように呟いた。 「『高瀬誉』?」  ――この少年に、似ている。  空気は凍っていた。こちら側にとってだけ冷たい時間が流れていた。  相手の一行は我関しない。 「さぁ、『わたし』からのお別れがまだだったね。瑠真」  少女が仕切り直すと、軽やかに地を踏んで、同時に跳ね上がった。がちゃがちゃと地に突いたアームがぐんと持ち上がって、少女の身体を宙に舞わせる。  一瞬で目の前に少女が迫る。スカートがはためく。「あの子」によく似た顔。汗だくの瑠真の頬に少女の指が愛おしげに触れる。 「ねえ、『あなた』のことが好きだったって『わたし』が言ってるよ。こっちの"わたし"のことはまだきちんと分かってないけど。あのね、わたしは『わたし』のためにこういうことを思うの。あなたがもう二度と戦わなくていいようにしたいって。あなたが拳を握る理由を、あなたが魅せられたナイフを取り上げて守ってあげたいって」  穏やかに清らかに、少女はわけのわからない言葉を囁きかける。瑠真の思考能力をぐずぐずに溶かす。 「だからね、今はさよなら。いつかあなたのために世界を作るわ」  そうして、とどめに。  少女は愛おしげに頬を擦り寄せて、その花のような唇が一瞬触れて。  きっと真っ青に乾いていただろう瑠真の唇では、何らの感触も受け取ることができなくて。ただ『友達だった』と思っていた誰かの顔が視界いっぱいに近づいてそのまま離れていった。  誰もが髪の毛一本だって反応する余裕がないままに、カノは可愛らしくきゃらっと笑って身をひるがえすとアームを伸ばしてぐんと身体を持ち上げ、同時にヘリポートのほうから夜間の低空飛行で近づいてきたヘリの一台からばらばらとハシゴ紐が投下されてきた。カノは片手で紐を掴んでアームを伸ばし、お母さんに抱っこをねだるように両手を挙げている少年少女をアームで掴んで引き上げる。 「さよなら!」  カノが叫び、悪魔じみた別の笑い声が重なる。  最後の最後に瑠真の背中を串刺していた鏃が雑に引き抜け、ぬらりと色も分からない光沢を夜間灯に照らしながらヘリに追随していった。  ようやく意識を失うことを許されたように体が地に落ちる。かえって安心したみたいに身体の中心からどくどくと力が一斉に抜けていくのがわかる。  いちばんに反応して駆け寄ってきたのは意外か順当か、後輩の少年だった。いっぱいいっぱいの顔で瑠真を覗き込み、 「おれのかじっただけの貧相な治癒系じゃなんともなりませんっ。誰が何をできるんですか、しっかりして!」 「……ホムラグループは医療ビジネスですっ。灯火記念病院よりも、ここから近い病院に顔がきく」  続いて莉梨が真っ青な顔で再起して、 「春ちゃんっ。動転するのはわかります。私だって情けないです。でも」  自分も目にいっぱいに涙を溜めながら、それでも気丈に別の少女を呼んだ。 「一般治癒含め技術がいちばん高いのはあなたです。全力でサポートします、動いてください!」  そこから先のやり取りは混濁してしまって何一つ思い出せない。  けれど、薄く落ちていく意識の中で、ひとつだけ瑠真の網膜に最後まで焼き付いていたものがあった。  ペアの少年の後ろ姿。瑠真の救護に走る一行に何故だか参加しようとせずに、夜闇に光って遠ざかっていくランプをずっと見つめている。  後輩が一度拳を握って何をしてるんだよと掴みかかっていって、それでようやくきょとんとした目で振り向いてあぁ、とかそういう反応をしたのじゃないかと思う。ごめん。ぼうっとしてた、と。ぼうっとする場面じゃないでしょと後輩が噛みついていたような気がするが、瑠真には不思議に望夢の抱いているものが分かっていた。  あなたもね、わたしと同類なんだよ。  そうだよね、望夢くん。壊された側のきみなら分かるよね。  否定すればいい、と瑠真は思う。だけどずっと隣で戦ってきたペアの少年がここで首を横に振らないことを、瑠真はおぼろげに知っている。
×××
 ヘリコプターの操縦席から戦果を問われて、報告している間に倉持寿々が目を覚ました。カノは座席から振り向いて、後ろの寿々に笑いかけた。 「寿々。ありがとう」  ぼうっとしていた寿々の目が、ぱっと色を帯びて頬を朱に染めた。単純なくらい分かりやすい変化。 「カノっ。私、あなたの課題に合格したわ。ホムラグループを騙して、クオリアフィルタを一度使ったわ。……これで、私も一緒に行っていいかな」  うっとりと、こっちを、カノだけを視界いっぱいに見つめる両目。それは酷く冷静を欠いた瞳だ、とカノは笑う。わたしの言ったことを、なんでも信じる子。 「あのね。あなたには感情がありすぎるの」  だからまず、突き放した。 「え……」  寿々は肩をちょっと固くして戸惑った。  カノは安楽椅子みたいに座席の背中を揺らしながら、 「わたしたちはね、基本的に感情の死滅をベースに仲間を探してくるの。あなたにもその素養があった。だけどあなた、いつからかわたしのこと『好き』になったでしょう。そのせいで、あなたの心には、喜怒哀楽のすべてが復活してしまったの」  寿々に意味が分かるだろうか。恋する少女なら分かるだろう、とカノは思う。恋はいつもそれまでの自分の世界を終わらせ、その残骸の上に新世界を創造する。 「そういう存在は、危険すぎる。予想できないからね。『ふつうの』存在というのはね、わたしたちの、立ち向かうべき敵であり、わたしたちを虐げてきた支配者なの」  理論的なことは何も分かっていないはずの、寿々の顔がそれでも絶望に落ちていく。カノが寿々を拒絶し、試しているのが直観的に分かるのだ。 「待って。まだ、私あなたと一緒に……」  世界を作りたい、だろうか。あるいは、世界を壊したい。壊したいなら歓迎できる。 「だから、寿々、あなたが信頼できることを知りたい」  ぱちんと、カノは指を鳴らした。  取り外していたクオリアフィルタ発生装置が動いて、後部座席のシロガネが持っていた大判タブレットにアームの一本を伸ばした。鏃が割れて収納されていた接続端子がくるりと回り、タブレットに映像を投影する。  カノはその画面を寿々のほうに向けてやりながら、ナレーションを付けた。 「あなたのお母さま、事故に遭うんだって」 「……え」  寿々の目が映像に奪われる。たぶんそこには、彼女にだけ見える母親の姿が映っているだろう。ホムラグループの少女に人の悪意を凝縮して見せたときと同じように。 「事故時刻は��夜八時二十分。今は何時? そう、もう数分になるわね。仕事帰りのお母さんを大型車の側輪が巻き込むんだわ。想像できる? 見えてる? これは実際に起こる未来だからね」 「カノ、何を……」 「あなたは、お母さんに支配された自分の人生が嫌だって言った。それを理由にわたしたちに合流した。そうだったよね?」 「……」  茫然と寿々がこちらを見る。カノは指を揺らして画面を切り替えていく。 「あなたがそれまでの『世界』を捨てるつもりだったなら、それほどまでに『わたしのことが好き』なんだったら。平気だと思うわ、お母さんなんてもう要らないでしょう? あなたはお母さんの満足のために進学校に入れられて、やりたくもないのに勉強をしてくすぶっているのだっけ。そんな世界、もう捨てちゃいましょう。全部捨てられるって、あなたはそう言ったはずなのよ」 「や……」 「嫌? それなら、あなたのことはここから放り出すしかないね」 「違うっ、そうじゃない!」  寿々は血相を変えた。口角から唾が飛び、その瞳はいっぱいに見開かれて身を乗り出す。 「いいわ、捨てていい、お母さんなんてもう要らない! ――死んじゃえばいい!」  その言葉を待っていた。  ギイイィっと、不吉な、ブレーキ音と悲鳴がカノの耳にも聞こえた。  この瞬間、映像は現実とリンクする。ばちりと画面が切り替わり、寿々にだけ見える抽象的な景色ではなくてカノたちにも見て取れる実際の交差点の景色が映し出される。 「平気、大丈夫、大丈夫。すぐにお母さんが死ぬわけじゃないからね。わたしたちがきちんと病院を手配するからね」  甘い調子でカノは言う。寿々は己の口にした言葉に打たれてぼうっとしている。 「あなたの覚悟が分かればそれでいいのよ。『好き』は強いよね。たとえ自分がいるのにふさわしくない場所でも、『好き』だから頑張れるっていうのなら、わたしはそんなあなたを大切にしたいの」  席を立って、寿々を抱き寄せて、その前髪をそっと撫でる。少女の反応はない。 「そうやって、『わたし』たちは生きてきたのだから」  少女の頭越しに窓が見える。  闇空が青い。カノの好きな色。口角があがる。新たな世界の始まりに胸が高鳴る。
×××
「……わか、らない」  治療を受けているのを感じ取って何度か目が覚めた。そのとき、自分がうわごとを言っていることに気が付いていた。 「また自己完結して、なんにも説明しないで、ゆるさない。許さない、絶対に追いかけてやる……!」  こんなに全部がぐちゃぐちゃで、こんなに頭も身体も動かないのに。  その感情だけは明晰だった。怒り。いつだってこのエゴがここにある。それがずっと瑠真の真ん中の支えだった。  なのに、納得できない。説明できない。この怒りすらもなぜか、さっきの襲来で、カノと名乗る少女に奪われてしまったような。まだ整理がつかない、だけどそんな気がしてぼろぼろと涙が零れる。喪失感があった。もう顔を汚している液体がいったい何なのか考える余裕もなかった。友人たちの声が鼓膜の遥か上を飛び交っている。  私は、いったい、何者なのだ。何を携えてここまで歩いてきたんだろう。
×××
 シロガネの掲げたタブレットに、その風景は映し出されていた。  青い青いあの子。彼女を傷つけ放り出したのは、いつだって『わたし』のことを覚えていてほしいからだ。  あの子は『わたし』のことをなんにも知らなくて、分かってくれない。それでも『わたし』しか『友達』を知らなかったから、そこになんとか満足を見いだしてきたのだ。  なのに、とカノは思う。あの子が『わたし』を忘れないように仕掛けたいくつかの事件で、ことごとく彼女は別の誰かと仲良くなってしまった。  ずるい、と思う。いつだって『わたし』が根っこにいることを、あの子は忘れないでほしい。 『……わか、らない』  映像の中のあの子が言っている。 『また自己完結して、なんにも説明しないで、ゆるさない。許さない、絶対に追いかけてやる……!』  分からない。絶対に許さない。  いつだってあの子が繰り返してきた言葉だ。その瞳は綺麗な炎に燃え、そうやって抱いた怒りが彼女の軸になる。  カノは知っている。あの子はいつだって、ふにゃふにゃの自分自身をなんとかものごとに対する怒りだけで保って生きている。怒りそのものが、彼女の存在意義になってしまうくらいに。なんて愛おしいんだろう。矮小で、愚かな瑠真。 「あぁ、可愛い。ほんとうに可笑しい」  カノは、くすくすと、くすくすと笑いを堪えていっぱいに肩を震わせる。こうやって笑うとき、自分の声があの悪魔に似ていることはとっくに自覚している。 「その『怒り』だって、『わたし』があげたものなのにねえ!」
 それは、いつか『わたし』の教会で、悪魔が教えてくれた言葉。 『だって、あの子は、君の呪いのせいで、怒りしか抱けなくなったんだ』  あのとき、その言葉は、大切な友達を歪めてしまったっていう絶望として耳に触れた。  だけど、今は違う。あのときの『わたし』はしょせん文字通りの半人前で、未熟きわまりなかった。世界をマイナスにしかとらえることができなかったのだ。  カノはものごとを楽しむことを覚えた。どうせ壊れる世界だとしても、楽しめるならそのほうがいい。  あの子の怒りがわたしのものだと言うのなら、それはすなわちあの子はゆくゆくわたしのものになるってことだ。
 ずっと背後で、倒れたあの子の傷を塞ぐために慌ただしい作業が開始されたのが分かった。
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kiitatakita · 6 years
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#inlaw2017 聴講メモ 情報ネットワーク法学会第17回研究大会2日目
聴講時に入力したメモです。断片。配布資料からのメモも引用符はありません。 聞き取り間違い等、あります。おかしな部分は記録者のせいです。
ツイートまとめがありますので、そちらもご覧ください。
#inlaw2017  #inlaw 情報ネットワーク法学会第17回研究大会ツイートまとめ https://togetter.com/li/1170971
1日目のメモはこちら
#inlaw2017 聴講メモ 情報ネットワーク法学会第17回研究大会1日目 https://kiitatakita.tumblr.com/post/167427678947/inlaw2017-%E8%81%B4%E8%AC%9B%E3%83%A1%E3%83%A2-%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%B3%95%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E7%AC%AC17%E5%9B%9E%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%A4%A7%E4%BC%9A1%E6%97%A5%E7%9B%AE
2017年11月11日(土)~11月12日(日) 名古屋大学 東山キャンパス 主催 情報ネットワーク法学会 共催 名古屋大学法学研究科(大会記念講演のみ) 後援 (一社)情報処理学会コンピュータセキュリティ研究会 (CSEC) 大会HP http://in-law.jp/taikai/2017/index.html
【A 11月12日(日)9:00-11:25 個人情報、セキュリティ、法情報】 会場221カンファレンスルーム 司会:蔦大輔理事 A-1  9:00-9:25 地理空間情報を一例とした「個人情報」定義の再検討 〇加藤 尚徳(KDDI総合研究所)、村上 陽亮(KDDI総合研究所)
国土地理院ガイドラインに気になる点があった。
地理空間情報における個人情報保護
「地理空間情報」は基本法で定義されている。 平成15年法の下でのガイドライン。 単体データ→他の情報と重ね合わせ・照合を行った場合の判断→保有個人情報の利用目的以外の利用・提供の判断 このフローで大丈夫? 2段階目の「他の情報」の範囲は? 地番や住居番号等の特定の場所や建物は閲覧が可能→重ね合わせたときの評価は? 電話帳と照合したら? 照合性の議論 「モザイク・アプローチ」情報公開条例上の考え方 行政機関個人情報保護法では「容易」抜きの「照合」 通説的解釈と比較した場合は妥当 実質的には、広範な地理空間情報が個人情報と判断される余地  むしろ個人情報でない情報の要件を定立する方が困難?  実質的にほとんどすべての地理空間情報が個人情報になり得ると判断?
ほかの手段と組み合わせないと有効に機能しない?  何らかの方法で他の情報との組み合わせを禁止する  統計情報のような形で他の情報との組み合わせが性質として制限
事前規制・外形判断としての個人情報保護  意義に反する?  組み合わせ先の性質で決まってくるのは趣旨に沿っているのか?  過大な責任を、個人情報を取り扱うものに課すことにならないか?
行政機関等、特に地方自治体が有している個人情報保護条例がそれぞれ違う2000個問題 匿名加工情報と非識別加工情報の定義の際から生じる民間への情報提供の際の問題
会場 個人情報の定義について一つ飛ばしている。「個人に関する情報」でないものまで入れていないか?ただ、履歴等がついていると変わってくる。
「個人に関する」情報でないものはフローからはじかれるのか、評価されるのか、ガイドラインには記述されていない。両方の可能性を含めて判断している。
た どういう情報を対象としているのか
「地理空間情報」とされているもの
会場 利用目的によるチェック機能が法的には重要なのでは?
オープンデータ政策では目的外のものを公開することになってしまう。
質問者 利用目的を再度出すことで対応できないか?
A-2 9:30-9:55 個人情報保護法の執行に関する考察 金子 啓子(情報セキュリティ大学院大学)
A-3 10:00-10:25 加欧PNR協定案CJEU大法廷意見(1/15)の分析 丸橋 透(明治大学)
航空会社の予約システムから政府に提出するもの
民間業者が自分のために取得したデータに司法当局、諜報機関、外国当局がアクセスする どのような統制を働かせるか
予約システムからデータを抜く
メタデータのアクセスは統制をかける
マス・サーベイランス メタデータ中心 定義ははっきりしていない
ターゲティングの先にはプロファイリング
どうやれば容認できるか  政治的判断が必要
機微情報  機内食  介助 等
会場  EUJの立ち位置。司法裁判所が立法に意見をするのはよくあるのか?
判決に拘束力。
会場  カナダ十分性認定は民間分野のみ。カナダ欧州のみのPNR協定の実効性は?  多国間協定の話はあるか?
A-4 10:30-10:55 法令プログラミングによる立法支援環境構築へむけて 角田 篤泰(中央大学研究開発機構) A-5 11:00-11:25 「サイバーテロ」の3D的法分析 高橋 郁夫(株式会社ITリサーチ・アート) 【B 11月12日(日)9:00-11:25 インターネット上の権利侵害】 会場209レクチャールーム1 司会:松田誠司理事 B-1  9:00-9:25 開示関係役務提供者の発信者情報把持義務 小倉 秀夫(東京平河法律事務所) B-2 9:30-9:55 アイデンティティ権の理論と活用 中澤 佑一(弁護士法人戸田総合法律事務所) B-3 10:00-10:25 裁判情報のインターネット公開による不法行為の成否 星野 豊(筑波大学)
B-4 10:30-10:55 インターネット上の人格権侵害についての国際裁判管轄及び準拠法に関する考察 〇壇 俊光(北尻総合法律事務所)、板倉 陽一郎(ひかり総合法律事務所)
原告は区内、被告とサーバーは外国の事例で考察
参考判例  東地平成281130など
民訴第3条の3  括弧書きも重要
「不法行為があった地」  加害行為地と結果発生地の両方が含まれる 加害行為地はどこ? 日本で閲覧できれば結果発生地?
結果発生地には損害発生地を含まない
東京地判平成28年11月30日  日本語ではない  日本国内の話題  読者が日本人か?
結果発生の予見可能性
東京地裁平成28年6月20日  不法行為が成立すると判断することができる場合
法の適用に関する通則法
19条と20条
東京地判平成28年6月20日  読んだり書いたりしたのが日本人なので、外国の投資の話でも日本が管轄
準拠法は明確になっていても、管轄は明確になっていないのではないか?
会場 準拠法で原告の住所地が選択できないのは名誉毀損の場合が多いのだが、原告住所べったりでいいのか? 外国に居住していても、ビジネスは日本で行っている場合は?日本での名誉が問題になっているのに、米国法とかでいいのか?
名誉毀損以外でも、著作権法などでも管轄は問題になっている。 削除の実務では人格権でくくっていることが多い。管轄がずれていて、双方でやるのはしんどい。
会場 猫ひろしについてカンボジア法に準拠するのは意味があるのか?
会場 海外企業が日本のローカルな問題に引きずり込まれるのがどれくらい負担か。あと準拠法が外国法の場合はよくあるのか
離婚や海事関係ではある。
B-5 11:00-11:25 インターネットを通じて国境を越えて提供されるサービスに対する日本法の適用 濱田 佳志(濱田佳志法律事務所)
特許法と刑法を主とする。
サーバーがどこにあってもサービス提供が可能
サービスの提供と利用が別々の国ということはよくある。
属地主義 刑法
海外のサーバーで実施されているものに、日本の特許権侵害が成立するのか。  日本国内でサービスが利用できる場合に損害賠償請求が可能か。  特許権の効力は日本国内にとどまる→認められない
サーバーがどこにあっても、提���されているプログラムは日本国内で同じように利用できるのに、おかしくないか?
日本国内で利用できることをもって、国内提供とみなせないか 日本で利用できるプログラム全てに日本の特許権が及ぶということになってしまう。
提供行為はサーバーの所在地で行われているとみるべき。
複数主体が関与している場合  全員が特許権を侵害しているとみる考え方(共同正犯的)  主体の中に国内行為者がいれば、国内に侵害行為があるとみなす 客観的共同関係と主観的共同関係が必要
エピクロロヒドリン事件
刑法の適用が問題となる場合  国外犯処罰の規定がない場合には国内犯のみ。
犯罪地 「日本国内において罪を犯した」
実行行為の一部が国内とは?  国外サーバーに不適切な画像を保存し、国内から閲覧できるようにした場合は?
国内から見えることは「結果」か  日本国内から見えるサーバー全てに日本の警報を適用できるのか?
国内から海外のサーバーにデータを送信  実行行為の一部が国内で行われた。
アップロードを日本で行った場合のみ。
国内からアクセスできる国外のサーバで火葬通貨交換業のサービスを提供する場合 国外サーバーにおける商品サービスの不当表示 国外サーバーにおける商標の使用 国外サーバーで行う旅行業
会場 中国の製造業者を委託で使っている場合にも適用できないのか?
委託ならば可能なケースもあると思われる。
会場 画像解析を海外で行っている場合はどうなるか?個人の生体情報が海外に渡り解析される。
条文に基づき、ここに検討が必要。
平成29年3月特許庁委託研究報告書あり。
【C 11月12日(日)9:00-11:25 手続法、消費者契約】 会場222レクチャールーム2 司会:斉藤邦史理事 C-1  9:00-9:25 プロファイリングからの自由―契約交渉過程を中心に― 佐々木 智康(新潟大学)
C-2 9:30-9:55 民事訴訟における医療情報の取扱い―電子カルテの法的課題を中心に― 長島 光一(帝京大学)
医療情報の変化  カルテの電子システム化  看護記録、紹介状、診療情報提供書、医局内のサマリ等と関連付け
これまでの議論は紙媒体を前提としたもの
電子媒体特有の問題  原本  完全性  真正性  顕読性
情報法と医事法の側面  プライバシー保護  公益性
医療情報の一つとしての電子カルテ
紙媒体での診療録の法的性質  カルテの情報は誰のものか 備忘録説 開示義務なし アクセス可能説 患者自身の情報 開示義務あり
電子カルテ  汎用性なし  メーカーによるシステムの違い  医療機関・医師によるカスタマイズ 一般的な法的性質は紙と同様と考えられてきた
昭和63年に「医師の責任が明白」ならOA機器による診療録作成可  真正性 見読性 保存性 を満たせば良し
平成29年5月にガイドライン第5版  更新履歴の保存を要求  5版ではセキュリティ、個人情報保護法への対応
ガイドラインを守るには一定のシステムが実装されていないと使用不可  カスタマイズ  ID使いまわし  大病院と中小の病院の環境の違い
医療情報をめぐる対象分野が医事法の想定範囲を超えて拡散しうる可能性
今までは  診療  医学研究
社会保障法の観点  介護関係者、ソーシャルワーカー  ビジネス ビッグデータ 創薬、遺伝子ビジネス 行動分析
情報法の観点
保存場所の問題  クラウドサービス 委託管理
取り扱い主体、管理主体が変わってくる
情報をどう裁判で使うのか
主体の変容による開示主体・保全の相手先
改ざん防止 真実擬制  証明妨害
ドイツ 協力義務違反説
ログによって改ざんの有無が客観的に判明  悪意の管理者の問題はある 後から手を加えることのできないシステムによる真正の担保
会場 デフォルトがどうなっているのか、改ざん防止の観点で。
医師の注文によってかなり変えているので、デフォルトはガイドラインに沿っていても、カスタマイズ後は? 中小の医療機関ではシステムが弱い
会場 医療現場ではログの取得と保管にはリソースが足りない。何か効果的な取り方は?
今後議論が必要。訴訟上はどのような手立てをとったかが問われるのでは。
C-3 10:00-10:25 最高裁平成29年3月15日大法廷判決における「私的領域への侵入」の意義について 尾崎 愛美(KDDI総合研究所) C-4 10:30-10:55 パーソナルデータ取引における告知と同意の限界に関する考察 吉田 智彦(筑波大学博士後期課程) C-5 11:00-11:25 米国消費者契約法リステイトメントの策定からみるプライバシーポリシー 赤坂 亮太(国立研究開発法人 産業技術総合研究所) 【D 11月12日(日)9:00-11:25 人工知能、プラットフォーム、情報法総論】 会場214レクチャールーム3 司会:酒井麻千子理事 D-1  9:00-9:25 レベル5自動運転者の人身事故状況における法益判断のありかたについて ~人間と機械の法「ius machinarum atque hominum」に向けて 下條 秋太郎(情報セキュリティ大学院大学) D-2 9:30-9:55 グーグルに対するEU競争法上の異議告知事案と制裁金支払命令 中島 美香(情報通信総合研究所) D-3 10:00-10:25 オープンソースライセンス理解のための法務知財部門向けのIT用語解説ドキュメントについて ○杉本 等(オープンソースライセンス研究所)、大堀 健太郎(ライツ法律特許事務所)、藤本 亮(名古屋大学) D-4 10:30-10:55 航空管制と人工知能(AI)―管制自動化に関する法的諸問題― 寺田 麻佑(国際基督教大学) D-5 11:00-11:25 米IT企業の躍進を支える情報法 城所 岩生(国際大学グローバルコミュニケーションセンター)
第7分科会 11月12日(日)12:45-14:15 会場221カンファレンスルーム 【インターネット投票の実現に向けた法的課題】 主査:湯淺 墾道(情報セキュリティ大学院大学) 市ノ澤 充(株式会社VOTE FOR) 河村 和徳(東北大学) 茨木 瞬(横浜市立大学)
第8分科会 11月12日(日)12:45-14:15 会場209レクチャールーム1 【AI社会における個人情報保護とプライバシー保護】 主査:藤村 明子(NTT セキュアプラットフォーム研究所) 寺田 麻佑 (国際基督教大学) 生貝 直人(情報通信総合研究所) 板倉 陽一郎 (弁護士 ひかり総合法律事務所) 中川 裕志(東京大学)  ※ 中川先生のプレゼン資料はこちらで閲覧できる。     https://www.slideshare.net/hirsoshnakagawa3/8-81928990
鈴木 正朝(新潟大学)
AIの活用を前提とした社会におけるデータの保護と活用の議論
中川 裕志(東京大学) 人工知能倫理指針におけるプライバシーの扱い
法律の一歩手前でグダグダとしている状況
総務省  6 プライバシーの原則 あらかじめ影響評価を行う B29を竹槍で撃墜するようなもの 人間にはできない。AIにAIを評価させるようなもの 本人同意の在り方等が問題となる可能性 知財制度上の取扱いが問題となる可能性
人工知能学会 他者のプライバシーの尊重 研究者倫理止まり。
Future of Life Institute ASLOMAR AI PRINCIPLES 自らアクセスし、管理し、制御する権利 自由とプライバシー 個人が本来持つまたは持つはずの自由を不合理に侵害してはならない GDPR22条「プロファイリングに対抗する権利」強化版
IEEE Global Initiative for Ethical Considerations in Artificial Intelligence and Autonomous Systems 具体的。開発目的明確で、AIが実現する機能も見えやすい。 IEEEP7002 等 自分のデータに対するアクセスと制御が国境を越えてできなくてはならない PIIの定義の明確化が必要 GDPR尊重 個人は信頼できるID認証にアクセスできること PIAを分析、確認するツールをAIで実現 同意の取り方 意味のある同意 1回こっきりではない 情報弱者が置いてきぼりを食わないような同意ないし利用監視システムをAIを利用して構築
倫理指針なので法制度とは趣が違う。 個人情報とAIの関係には、法制度の側からも着目しておく必要あり
板倉 陽一郎 (弁護士 ひかり総合法律事務所) 国内のAI政策・法制度に関する動向
官民データ活用推進基本法  人工知能関連技術に言及 個人及び法人の権利利益を保護しつつ情報の円滑な流通の確保を図る
生貝 直人(情報通信総合研究所) データポータビリティと「AI社会」
データポータビリティ(の権利)とは何か 再利用しやすい機械可読なフォーマットで取り戻す
GDPRデータポータビリティ県の主な論点 IoT機器等で観測されたデータも含む
GDPR以外のデータポータビリティ  改正決済サービス指令
ポータビリティの意味  個人データに対するコントロールの強化
AI社会的なものと人間の位置付け ルチアーノ・フロリディ『第四の革命』
データポータビリティがなければ、何が問題か?  情報社会では「データとしての自己」をプラットフォームに囲い込まれるだけで済む  現実とデータが高度に連動するAI社会では、その囲い込みが現実全体に直接影響する
パーソナルデータのポータビリティ
PDS 情報(信託)銀行
寺田 麻佑 (国際基督教大学) AIと行政組織・行政規制
地域行政組織におけるAIの活用  行政で規制が必要か  人員の欠如を補完できるか
NHKニュース特集 川崎市の事例 サンケイ 九月二日 AIは自治体の救世主!?
住民の監視と見守りの難しい環境
AIを活用するスキームの中で活躍できる仕組みづくりが必要
藤村 明子(NTT セキュアプラットフォーム研究所) HRテクノロジー
インプットするデータには従業員の個人情報やプライバシーにかんするじょうほう 労働法学的な観点
HRテクノロジーコンソーシアム
AIネットワーク社会推進会議報告書
個人情報保護法との関係  法の適用  基本的な情報と紐づいた人事情報は当然に対象  要配慮個人情報の取得と推知  利用目的の特定 利用目的と取得データの妥当性
労働法学上の問題  本人からの収集要件(職業安定法)  アプリカント・トラッキングシステム
地裁レベルで判例あり
解雇の意識決定での紛争
鈴木 正朝(新潟大学) 医療データ連携と個人情報保護法制2000個問題
個人情報の定義
医療等ID登録法
会場 HRは推知ではなく、自動決定ではないか。人間社会のことを機械に全部決めさせることへの問題視
日本のプライバシーの議論にはほとんど出てこなかった。
フェアネスを技術的にどう実現するかが問題だが、日本ではほとんど課題としてとらえていない
第9分科会 11月12日(日)14:25-15:55 会場221カンファレンスルーム 【Fintech(仮)】 主査:落合 孝文(弁護士 渥美坂井法律事務所) 森下 哲朗(上智大学) 板倉 陽一郎 (弁護士 ひかり総合法律事務所) 生貝 直人(情報通信総合研究所)
第10分科会 11月12日(日)14:25-15:55 会場209レクチャールーム1 【IoT・ビッグデータ・AI時代の情報法の可能性と課題(仮)】 主査:成原 慧(東京大学) 『アーキテクチャと表現の自由』 林 紘一郎(情報セキュリティ大学院大学)『情報法のリーガル・マインド』 松尾 陽(名古屋大学) 『アーキテクチャと法』 水野 祐(弁護士 シティライツ法律事務所)『法のデザイン』
サイバー空間と物理空間が融合する時代に情報法は何ができるのか?何をすべきなのか? サイバー空間と物理空間の融合により情報法は存在意義と方法論について見直しを迫られている
「自由」サイバー空間と「安全」物理空間の衝突
ICTの深化と法学の立ち遅れ 林先生 「情報法のリーガル・マインド その日その日」
林 紘一郎(情報セキュリティ大学院大学) 『情報法のリーガル・マインド』 情報は誰のものか、どこまで排他性を主張できるのか?
有体物の法と情報法 情報財の経済的特性を把握する必要 電磁的記録という概念で有体物の法と無体物の法を繋いだ 情報の特性  不確定性  非専有性  非移転性(複製移転性)  流通の不可逆性
『社会学理論応用辞典』「情報の所有と専有」丸善  ど��に複製物があるのか分からないので、削除の効果は薄い
「所有権」という妖怪
「所有」に替わる「帰属」の概念  情報が人の属性を決定する DNA情報等
所有(排他)から利用(帰属的関係)へ
「占有権とはどのような権利か」
松尾 陽(名古屋大学) 『アーキテクチャと法』 アーキテクチャと情報法
コンテンツ ロジカル フィジカル 意図せざる結果として規制としての機能を果たしてしまう アーキテクチャ
代替性(非代替性)問題 事後規制/事前規制 正当性問題 プライバシー不要論 正統性問題 民主的な同意と政策形成のための知識の収集
サイバー法懐疑論  イースターブルック 落とし込みこそが大事  レッシグ 落とし込み方こそ大事 企業のアーキテクチャによる市民の権利の無化  私法的思考 公法的思考  法と法律家の区別 リスク回避思考/構築型思考 ハクティビスト/アーキテクト
水野 祐(弁護士 シティライツ法律事務所) 『法のデザイン』
ブロックチェーン、分散台帳技術に見られる契約、法律の自動執行をどのように捉えるべきか オプトアウトを法学的にどのように整理すべきか 自律性と責任の問題をどのように考えるか 21世紀の社会契約論とはどのようなものか
パネリストによる事前質問への回答
は 伝統的な法学には余白があったという指摘に異論はないが、インテリジェンスとの絡みもある。 契約過程における情報の非対称性のみがクローズアップされた。情報財を市場で評価するのは誰がするべきだったのか。 概念に差があることが分かっている上で議論をする。
ま 割れ窓理論等の犯罪予防論、リアルスペースを扱っていた。 真っ当な道に戻す 抑圧ではないのか? 状況により変わる。 意識的な秩序形成には限界がある。ハイエク 自生的秩序論 社会契約型、功利主義型、自生的秩序型の相互関係
み CCという仕組みに法律だけで全て動くわけではないということを学んだ 法学を批判する。でも、法学でやる。 誰がデザインするのか 権力者がいないように見えても、媒介者がハブとして機能している みんなでやる 意思決定のリソースは意外に少ない 手続的な適正さ
な 民主主義、個人の自由などの原理は維持しつつも、翻訳する必要があるのでは。
会場 行政をinforgとして定義した時、行政行為概念はどうなるのか
は 自分たち自身が情報処理装置だと認識した方が、まして法人をや。霞が関などは世界最大の情報処理装置ではないか。行政法分野はどう考えているのか。
会場 リスク工学等とはどう付き合うのか。どう情報をインプットしていくのか。
ま 行政が内部化して技術官僚として行うこともあれば、第三者機関を通して行うこともあるだろう。 専門地だけでなく、局所的知識、分散知識の収集も重要。規制には至らない、DBとして一元化して、市民の学習ツールとする。
会場 電子記録は証拠として信頼できるのか、情報を扱う人間自体を信頼できないと信頼できないのでは。証拠のみならず、アーキテクチャ、情報への信頼としては?
は セキュリティクリアランスをやらなければ。ノーマルプロセスが分からなければ、異状はわからない。
会場 FD改ざん事件などを考えると、もっと素朴なレベルで考えてもいいのでは。
会場 日本は著作権の扱いでオプトインに固着している。
み 手続的、アーキテクチャ的なものを噛ませて、事前同意に近い形を担保している。ヨーロピアーナなど。
第11分科会 11月12日(日)16:05-17:35 会場221カンファレンスルーム 【医療個人情報(仮)】 主査:湯淺 墾道(情報セキュリティ大学院大学) 鈴木 正朝(新潟大学) 藤田 卓仙(慶應義塾大学) 粂 直人(京都大学)
粂 直人(京都大学) 次世代医療基盤法と専念カルテ
千年カルテプロジェクト 全国の病院からカルテを集めてくる。  医療情報の収集と利活用が目的  病院  EHR  PHR  法律  利活用者
二次利用は匿名の利用と記名の利用の二通りになると考えられる。 どういう事業者に情報を提供していいのか? 委託先をどこまで追うのか?
どこで何を決めたらいいのか? 収集・保管・利用のどの段階で、誰に同意を取らなければならないのか?
丁寧なオプトアウト 認定されていない事業者d
藤田 卓仙(慶應義塾大学)
同意に関して  どのようなレベル・形式のものが求められるか 臨床 目次の同意 研究 原則1C オプトアウトも それ以外 一般的な個人情報保護法のルール 目的に依る?情報の種類による? プロファイリングの扱いは?
判断能力に支障がある人はどうする?
難民、移民のためのPHR
医療ID
本人中心の仕組み
倫理審査委員会
データの扱いに関して  匿名化・非保人可についてk
ゲノム情報の扱い
鈴木 正朝(新潟大学) 医療情報連携と個人情報保護条例2000個問題
国会の厚労委員会は法案が2年分溜まっている。 告示が法律・条例を上書きしていいのか。
学術研究  (1)医療学術研究の自由 適用除外条項 やるかやらないかは学術系が自ら判断すること 次世代産業の苗床  (2)医薬品事業者の研究開発 適用除外の可否 学問の自由には入らない 立法政策の問題
医療等データの連携  ほとんどのステークホルダーが集まってきている。  集まってきているのにスタックしている 課、省をまたいでいる 学の分野は周辺情報を提供する
国内動向は少子高齢化対応としての医療情報の利活用
個人情報の定義が条例でバラバラ
M&Aで日本が医療情報、ゲノム情報流出のバックドアに
案  個人情報取扱事業者の定義に(国公立)の医療機関、(国公立)の学術研究機関を含めることを検討する。  個人情報保護法のきほんほうぶぶんにいっていのぎむきていをそうにゅうすることをけんとうする  医療等ID法の制定を促し、  ・医療等学術研究の適用除外条項  ・その他必要な条項 の挿入を検討
第12分科会 11月12日(日)16:05-17:35 会場209レクチャールーム1 【AI・ロボットの利用と刑事法分野における課題】 主査:新保 史生(慶應義塾大学) 石井 徹哉(千葉大学) 稲谷 龍彦(京都大学) 平尾 覚(弁護士 西村あさひ法律事務所) 深町 晋也(立教大学)
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サピエンス全史 概要1
かつてアフリカ大陸の一隅で捕食者を恐れて細々と暮らしていた取るに足らない動物がこの21世紀までたどってきた道のりを振り返り、将来を見据える。
「取るに足らない動物」というのは、私たち、現生人類に他ならない。ホモ属多くの人類史の1つで、「取るにたらない動物」だったその私たちが、一体どうやって食物連鎖の頂点に立ち、万有の霊長を自称し、自らを(厚かましくも)「ホモ・サピエンス(「賢い人」の意)」と名付け、人地球を支配するに至ったのか。
それは多少の見知らぬ者同士が協力し、柔軟に物事に対処する能力をサピエンス(著者は他の人類種と区別するために、現生人類であるホモ・サピエンスを「サピエンス」と呼んでいる)だけが身に付けたからだ、と著者は言う。
ハチやアリも多数が協力するが、それは近親者に限られ、彼らの行動は進化によってプログラムされており、柔軟性を書く。狼やチンパンジーはある程度の柔軟性を持っているが、ごく親しい少数の仲間としか協力しない。
このサピエンスならではの力を可能にしたのか、想像力だ。サピエンスだけが、約70,000年前の「認知革命(新しい思考と意思疎通の方法の登場)」を経て、虚構、すなわち架空の物事について語れるようになった。客観的な現実の世界だけでなく、主観的な世界、それも大勢の人が共有する「共同主観的」な想像の世界にも暮らせるようになった。伝説や神話、神々、宗教を見出し、それを共有するものなら誰もが柔軟に協働する能力を獲得した。虚構を作り変えればすぐに行動パターンや社会構造も変えられるので、サピエンスは遺伝子や進化の束縛を脱し、変化を加速させ、他の生物を凌げたのだ。
なお、こうした虚構は、伝説や神話にとどまらない。企業や法制度、国家や国民、さらには人権や平等や自由までもが虚構だと言うから驚く。
こうしたものに、あまり慣れきっている私たちには意外かもしれないが、やはりこれはすべて虚構なのだと著者は指摘し、私たちの価値観を根底から揺るがす。
さて、サピエンスを歴史は、約10,000年前に始まった「農業革命」で新たな局面を迎える。農耕によって単位面積当たりに暮らせる人の数が爆発的に増加し、かつて狩猟採集をしながら小集団で暮らしていたサピエンスが定住し、統合への道を歩み始める。やがてその動きを早める原動力となったのは、貨幣と帝国と宗教(イデオロギー)と言う3つの普遍的秩序だった。特に、「これまで考案されたものたうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ」と著者は言う。これまで、お金については悪いことが多々言われてきたが、例えばアメリカと政治、軍事、イデオロギー、宗教などの面で対立している国や個人さえ、ドルは受け入れられている例を考えれば、その普遍性は認めざるを得ない。「貨幣は人類の寛容性の極みでもある」わけだ。
やがてサピエンスは、人類の運命だけではなく、おそらく地上のあらゆる生命の運命をも変えることになる革命起こした。約500年前に始まった「科学革命」だ。サピエンスが空前の力を獲得し始めるきっかけが、自らの無知を認めることだったと言うのだから面白い。それまでは、知るべきことは全て神や賢者によって知られていると言う考え方が主流で、ほとんどの文化は進歩と言うものを信じていなかった。一方、科学は自らの無知を前提に、貪欲に知識を求めて行った。
知識の追求には費用がかかる。したがって、科学がどの道を進むかは、イデオロギーと政治と経済の力に影響される。そのうちでも、特に注意を向けるべきなのか、帝国主義と資本主義で、科学と帝国と資本の間のフィードバック・ループが、過去500年にわたって歴史を動かす最大のエンジンだ���た、と著者は主張する。進歩は、科学と政治と経済の相互支援に依存しており、政治と経済の機関が資源を提供し、そのお返しとして、科学研究は新しい力を提供する。政治と経済の機関はその力を使って、新しい資源を獲得し、その一部が、またしても科学研究に投資される、と言うループだ。アジアが遅れをとったのは、テクノロジーが欠けていたからではなく、西洋のような「探検と征服」の精神構造と、それを支える価値観や神話、司法の組織、社会政治体制を持たなかったためだ。
進歩の概念は資本主義と相性が良かった。将来はパイ拡大する(富の総量が増える)と信じることで、投資に弾みがつき、それが劇的な経済発展につながり、無尽蔵と言えるエネルギーと原材料が手に入るようになり、物質的に豊かな社会が実現した。
このように述べると、サピエンスの歴史は良い事作りだったようにみえるが、果たして、そうだろうか?地球上の生物を工夫と言う尺度で評価すると、様相は一変する。「私たちの祖先が自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない」と著者は警告する。サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動物種を絶滅に追い込んだ、生物史上最も危険な種なのだ。そして、サピエンスが直接あるいは間接的に絶滅に追い込んだ可能性がある種には、ネアンデルタール人など、私たち以外の人類史も含まれている。こうした生物や、家畜化されて不自由で短い生涯を送っている動物の幸福度の観点からは、サピエンスの歴史は参事の連続となる。
サピエンス自身にとっては、どうなのか?確かにサピエンスは、かつてないほどの数に増えているのだから、生物種としては大成功だが、個々のサピエンスの幸福が増したとは決して言えない。人口の爆発的増大を可能にした農業革命のせいで、サピエンスの暮らしの質は、資料採集時代よりも落ち、未来への不安も招いたと言うのが実情だ。大規模な協力を可能にした虚構は、人種や性別等に基づく格差や差別、搾取も生んだ。また、進歩や物質的な豊かさと幸福が相関すると言う証拠もない。国家や市場の台頭は、家族とコミュニティの衰退を招いた。「進歩」に伴って起こった地球の温暖化や広範な汚染が自らの生命環境を悪化させている可能性も高い。
もっとも、著者は時とともに全て悪くなる一方だと言ったいった極端な見方は取らない。近代に入り、小児死亡率が大幅に低下したし、大規模な飢饉もほぼ一掃された。現代は暴力に満ちた時代なのと言う言説は、歴史的事実に反する。もちろん、暴力は今もあるが、これほど安全の時代はかつてなかった。国家間の武力紛争も、これまでになく減少している。戦争は採算が合わず、平和の利益はあまりに大きく、国際関係の緊密化によって、各国の独立性が弱まっているから、そして、次第に多くの人が、特定の民族や国籍の人でなく全人類が政治的権力の正当な源泉であると信じ、人権を擁護して全人類の力を守ることが政治の指針であるべきだと考えるようになってきているからだ。たとえ虚構ではあっても、自由や平等、人権の概念が以前よりも受け入れられて差別や搾取が減っている。
いずれにしても、過去の出来事が、他の生物種や個々のサピエンスの幸せや苦しみにどのような影響与えたのかについては、これまでほとんどかえりみられなかった。著者はこれを「人類の歴史理解にとって最大の欠落」とし、「この欠落を埋める努力をを始めるべきだ」と提案する。
「サピエンス全史 下」2016/267〜271p
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ポリティカル・コレクトネスの台頭
〔訳注:コデヴィッラは二〇一七年アメリカ大統領選にポリコレの一つの節目を見出し、そのルーツの一つとしてグラムシを研究する。英語圏ポリコレとグラムシの関連性について、Sean Gabb, Cultural Revolution, Culture Warを見よ、いわく、マルクス主義的共産主義の仮説「は虚偽である。……プロレタリアの貧窮化も一般的過剰生産危機も存在しない。……二十世紀初期、この問題に対する二つの反応が現れた。……一つ目は……レーニンを見よ……。二つ目は本来のイデオロギーから経済的決定論を削ぎ落としつつもその救世主的な熱狂を保ったまま仮説を救出することだった。その最も重要な企画者三人はアントニオ・グラムシとルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコーであった」。イギリスでは「教師はグラムシとアルチュセール、フーコーの作品を読書、討論し、そうして吸収することを要求される」。〕
アンジェロ・M・コデヴィッラ[1]
Angelo M. Codevilla, “The Rise of Political Correctness,” Claremont, Vol.xvi, No.4, Fall 2016.
 「同士、あなたは事実上間違っています」
「ええそのとおり。でも政治的には正しいんですよ」
 ポリティカル・コレクトネスの概念は一九三〇年代に共産党員の間で、党利とは現実それ自体を超えた現実として扱われるべきものであるという半ば滑稽な催促として使用されるようになった。共産党員含む進歩派はみな新人類の現実を創造しつつあると主張するから、彼らは自然の法則と制限に対する永続戦争の構えにある。しかし現実は屈するものではないから、進歩派は行き詰まって、彼ら自らこれらの新現実を体現している振りをするようになった。それゆえ、進歩主義運動の名目的目標はいずれも、運動それ自体の力に関する喫緊で最も重要な疑問の下におかれてしまう。その力は進歩主義者が彼ら自身と世界について言っていることを他人が質疑できるかぎり不安定であるから、進歩主義運動は、約束上の新現実を創造することより、あたかもそれらが現実であるかのように――すなわち、政治的に正しいこと、党利に奉仕する思考が、事実として正しいかのように――人々を喋らせ行為させるための強制の方で努力することに終わる。
共産主義諸国家はそのような未遂の集団思考の最も顕著な事例を差し出すにすぎない。彼らの親指の下で彼らの歌を歌うか、それとも黙るかを人々に強いるため、進歩主義政党はどこでも教育制度と文化制度を独占しようと努めてきた。しかし彼らのイデオロギーが宣伝する繁栄や健康、知恵、幸福の逆を生み出してきたから、彼らはポリティカル・コレクトネスと現実の間のギャップを無視するよう民を強いることができなかった。
特にソビエト帝国の内破以来、左翼は共産主義がユートピアを創造し損ねたのは軍事的経済的権力の不足ではなくこのギャップに打ち勝てなかったせいだと論じるようになった。したがって、今の進歩派にとっての教訓は、ポリコレをかつてより厳しく押し付けること、反対者への処罰を一層苛烈にすることではないか? ソビエト型の抑圧力を揮うことはできないと知っているが、なお彼らの企画に対する増大中の大衆的抵抗を叩き潰す意志をもって政府と社会の管制高地に居座る、現在のもっと識別力に富んだヨーロッパ・アメリカ進歩主義者の多数は、文化的抵抗を粉砕するためのもう一つのアプローチを探し求める。彼らはますます、「文化的覇権」をその闘争の主な手段のみならず目的そのものともした華々しい共産主義理論家アントニオ・グラムシ(1891–1937)の名を引く。彼の著述が思い描くのは進歩主義への文化的抵抗の可能性それ自体が除去された全体主義である。しかし彼の著述はマルクスやレーニンよりマキャヴェリに負うから、手段に関して少なからず複雑であり、ソビエト帝国が実施した生硬な文化権力と同一とは言いがたいし、ついでに言えば、それは今我々の間で飛び交っているものである。
私の本稿の目的は進歩主義者がレーニンの日から彼らの文化戦争をどう理解し実行してきたか、彼らが我々の時代と境遇でその戦争を行う際に直面する選択肢――わけても現在の文化戦争でのポリティカル・コレクトネスに関するもの――がグラムシ自身の曖昧な著述でどう例証されるかを説明することである。
文化戦争
あらゆる形態の進歩主義は、人間性の何が間違っているかとそれをどう直せばいいかに関する特殊な、「科学的」な知識の主張に基づく。その定式は率直だ。すなわち、世界はあるべきすがたではない、なぜならば社会の基本的「構造的」特色が悪く秩序立てられているからだ。他のすべては「上部構造」である、というのは、それは単に社会の根本的特色の反映をしているにすぎないということを意味する。マルクスと彼の追随者にとって、その特色とは「現在社会」の生産手段をめぐる紛争である。時代の始まりから、この階級闘争は「矛盾」へと導いてきた。労働の種類の矛盾、都市と田舎の矛盾、迫害者と被迫害者の矛盾などだ。この紛争でのプロレタリアートの勝利はあらゆる矛盾を粉砕して滅ぼすことで新現実を確立するだろう。進歩主義の他の諸部門は別の構造的問題を指摘する。フロイディアンにとっては性的不適応であり、ルソーの追随者にとっては社会的束縛であり、実証主義者にとっては科学的方法の不十分な適用であり、その他にとっては或る人種による他の人種の迫害である。いったん社会の支配が専ら適当な進歩主義者の集まりの手に渡されたら、基本的構造的問題が直されるにつれて各セクトの矛盾が消滅するに違いない。
しかし進歩主義者が権力を握ったところではどこでも、あらゆる種類の矛盾がそのまま残っており、新しい矛盾まで生まれている。進歩主義運動はそれら自体の存在理由になることでこの失敗に反応してきた。理論的には、かの革命とは人類を再創造する権力と必要のことである。それは実践では、ほとんどすべての進歩主義運動にとって、革命家が権力を得ること、邪魔者と戦争することである。たとえば、労働者/農民プロレタリアはその核心的な主唱者ではなかったが、それと同じだけ、私有財産と分業、政治的迫害を超越することは決してマルクス‐レーニン主義の核心的動機ではなかった。実際、共産主義とはこれらのイデオローグ自身に権力を与え、彼ら自身を褒め称えることに終わるところの、イデオローグによる、イデオローグの、イデオローグのためのイデオロギーである。これはマルクス主義に当てはまるのと同じだけ進歩主義の他の諸部門にも当てはまる。
レーニンの種子的な貢献は革命的政党の比類なき至上性を明示的に認識し、政党の権力と威信を革命への手段から革命のあからさまな目的に変えたことであった。レーニンの著述はマルクスのそれと同じく将来の経済的配置の積極的記述を含まない。ソビエト経済はその非能率性にもかかわらず、スイス製じみた精密さでもって、幾人かにとっては特権のエンジンとして、それ以外の人々にとっては殺人的な剥奪と困窮のエンジンとして機能した。共産党は共産主義を超越していたのである。政権の座の進歩主義政党がすることを理解する鍵は、どんな組織の実際的目標も結局はその指導者の利害関心と悪い性癖に奉仕するようになるという、ヴィルフレド・パレートとガエタノ・モスカのような「エリート理論家」が強調した概念である。
進歩的革命家の利害関心に奉仕するのが何であるかは疑問の余地がない。進歩主義の各部門は社会の「構造的」罪科をどう定義するかにかけて異なっているけれども、十九世紀から我々の時代までの進歩主義は、克服しようとする人間的現実の名称それ自体と、その目的を達するための手段にかけて、彼らの一人格的偏愛において――彼らが何を愛するかよりも、彼らが何を、誰を憎悪するかについて――ほとんど同一性を保っている。彼らはマルクス主義者が「ブルジョワ道徳」と呼ぶ文化を彼らのアイデンティティと権威の否定であると見る。このアイデンティティ、彼らのアイデンティティは、この文化に対する永続的な闘争によって永続的に促進されなければならない。こういうわけで、さもなくば相異なるはずの諸々の進歩主義の文化的キャンペーンはかくも似ていたのである。レーニン主義ロシアは多様な西洋民主主義者に劣らず宗教を根絶するため、男女と子供が家族として存在するのを困難にするため、そして彼らのアイデンティティを反映する新秩序を褒め称えるところに彼らの国民が参加することを要求するために、努めてきた。注意――文化戦争の実質的目標は戦士自身のアイデンティティの肯定よりは重要ではない。これこそが文化戦争を行ってきた進歩主義者のアニムスを説明するものである。
けれども、個人の心は社会の基本構造を反映するにすぎず、ゆえに独立して真偽、善悪を推理することはできないという進歩主義の前提にもかかわらず、現実はやはり、諸個人がどう思考するか、どう行為するかの「構造的」基礎を欠きつつも、しばしば思考と行為を選択しているし、あるいは進歩主義理論が人類を分断する経済的、社会的または人種的「階級」に逆らって行為していると認めるよう進歩主義者たちを強いる。彼らは人の心のこの自由を「虚偽意識」と呼ぶ。
虚偽意識と戦うことは共産党員と他の進歩主義者が想定場では「上部構造」であるはずの文化的問題をあたかも構造的で基礎的であるかのように扱ってしまうことの理由の一つである。彼らは人々につねに圧力をかけて、進歩主義の理論に批准させ、誰が誰に何を言うかに対し支配力を揮うことで歴史の流れに「逆」行する者に対する勝利のミサに加えることでそうするのである。
ソビエト・モデル
ソビエト政権は全体主義権力を最大限行使することでの「ブルジョワ文化」の強制的超越を目指した。ブルジョワ文化の拒絶を支配階級での出世条件にするのはもちろん、ほとんどすべての協会を破壊し、ほとんどすべての司祭を殺害し、かすかな反対の兆候さえ処罰することで、この古い文化を破壊も同然まで追いやることに成功した。しかしこの歩みは、最終的で最善のはおろか、新しくてもっと良い文化を確立するのではなく、むしろソビエト権力の基礎そのものを破壊してしまった。
進歩主義諸政権が要求するには、仕事や特権を失ったり――たとえ犯罪者としては扱われなくとも――政権支持者の忌避や憤怒を蒙ったりしたくなければ、公共(はおろか私事)に表れる人物は政権のアイデンティティに相応しい一切合財を肯定しなければならない。しかし全体主義政権でさえ一時に褒章したり処罰したりできる人数は多くない。唇を噛み締める数百万人の暗黙の協力は、贔屓漁りの数千人のリップサービスよりはるかに本質的である。それゆえ、少なくとも受動的な協調を刺激するため、政党は「みんな」がすでにこちら側にいるという印象を与えることに励む。
しかしそしたら、なぜ共産党はつねに、わずかながら教会を残していたのか。なぜ国外からの党自身への批判を報告したのか。なぜ党はときおり反体制派の人々を公表したのか。党が文化政治的な大義のためにキャンペーンを始めるとき、それはいつでも、反対を少数の人々に象徴せしめ、社会的に容認可能な機関と広報をすべて差し向けて、彼らに反対派の最悪のものを押し付けるだろう。ソビエト連合から中国とキューバまで、党学校はなぜ、貧者、老人、社会的に不快なアウトカーストたちが通う礼拝を、若い中核に観察させ、あざ笑わせるのだろうか? 理由の一部としては、文化的な敵に襲い掛かることが中核のアイデンティティを再強化したからである。それで彼らは好い気持ちになって、もっと強い気分になった。古い社会や反対派の名残がなくなれば、党がそれらを製造することはできるかもしれなかった。
しかし人々に党の代用現実を賞賛させて、彼らが知っていることは真実ではないと肯定させ、彼らが知っている以外のことを真実であると否定させるための継続的な努力には、彼らを仲違いさせて恐ろしい孤立の感覚に突き落とし、彼らの自尊心と他人を信頼する度量を破壊することが要求される。ジョージ・オーウェルの小説『1984』はこの文化戦争の目的と手段をドラマにした。すなわち、人間の感性と理性が伝える現実を政党の権威に置き換えることにほかならない。ビッグ・ブラザーのエージェントは、社会の命令より彼自身の見解を好むかどでウィンストンを叱責しながら、四本の指を挙げながら五本の指が見えると認めさせることでウィンストンの精神の壊しおおせた。
かくてソビエト政権は冷笑的で怨恨を抱いた機能不全の国民を創造する。かの共産主義は「ブルジョワ文化」の破壊を文化的征服と混同したから、あらゆる文化闘争で勝利を収め、そのかたわらで政治的に崩壊するはるか前から文化戦争には負けていた。人民の心で共産党員が虚偽と詐欺に同定されるにつれて、人民は真理を公務員以外の一切、彼らの学説以外の一切と同定するようになった。彼らとそれらを腐敗と窮乏に同定することも避けられなかった。そしてそれは、当局の権威者が大収穫だったと公表したら人民がポテトを買いだめするということであり、当局の権威者に呪詛を吐かれているとしかキリスト教のことを知らない人民はいよいよ十字架を身に着け始めるようになったということである。
ゆかれなかった道
ソビエト経験を理解して「ブルジョワ」文化を彼ら自身のものと置き換えるより良い道を探すほど謙虚な進歩主義者は少なかった。アントニオ・グラムシはそのような道しるべをつけたが、その曖昧さのせいで、進歩主義者はまったく異なる方向を追っていった。
グラムシは混合的な哲学的前提から始めた。第一に、正統派マルクス主義から。彼は「固定的で不変な『人間本性』のようなものはない」と記す。むしろ、「人間本性とは歴史的に決定された社会関係の総体である」。近現代の君主の仕事はこれを変えることだ。しかしながら、彼のまったき非正統性は、経済要素が根本的で他をすべて上部構造とするマルクス主義の強弁への嘲りだった。いな、「そういうのは庶民向けのもの」で、「頭を使いたくない中衛知識人」用の「矮小な決まり文句」である。グラムシにとって、経済関係は社会的現実のほんの一部分にすぎず、その主要部分は知的で道徳的なものだった。彼はアリストテレス主義のルーツを忘れない。彼にとって、物理科学とは「目的論」と「終局因」が存在する「不変の現実の考察」である。しかし正統派マルクス主義とアリストテレスは、彼が「弁証法」と称したもの、古い現実から新しいそれを創造するという点において一緒にやっていく。
グラムシは一九二一年に共同でイタリア共産党を結成した。一九二六年、ムッソリーニは彼を投獄。十一年後に亡くなるまで、彼は十二冊の『獄中ノート』を著した。彼は私的所管ではスターリンの文芸判断を批判し、彼のレフ・トロツキーへの攻撃を「無責任で危険」と考えた。しかし彼は公的にはソビエトの党是転換をすべて支持した――彼の党の上司パルミロ・トリャッティに、彼の著述を修正する権威さえ与えている。彼は投獄されて健康を害したので、彼の仲間をかくも多く殺した共産党内の粛清に晒されるよりは知的に自由で肉体的に安全だった。
グラムシの「文化的覇権」の概念もまた両方に振れる。敵をすぐ殺すよりは変えることへの強調は、共産党のブルートフォース・アプローチとは相容れなかった。彼の文化問題への集中は、構造と上部構造を標準どおり区別しつつも引っくり返しており、心の自律への信念を仄めかしていた。他方、自然に照らして真偽と善悪を推理するのではなく歴史的新現実を創造することで心を説得するという理念それ自体はまさに彼がマルクスその他の進歩主義者と――実に、近現代思想の源泉たるニコロ・マキャヴェリと――共有するものであった。
グラムシは既存秩序を置き換えてその置換を保障する最善の方法を発見するためにマルクスよりもマキャヴェリに頼る。マキャヴェリの『君主論』の第五章は自分たちの法律の下で生活することに慣れきった人々を支配する「唯一確実な方法」は破壊することであると述べた。しかしマキャヴェリの目標は彼らを破壊することではなく、彼らの心を介して人々を支配することであった。彼が『君主論』第六章に記すには、「新しい様式と秩序」を確立するより難しいことはなく、これは人々に一定の事柄を「説得」することが必要であり、それは「彼らが力で信じさせられたとはもはや信じないとき」必要であり、これは「非武装預言者」にとっては特に難しい。しかしマキャヴェリはまた、そのような預言者は新しい信念の集合を教え込むことに成功したら「強力、安全、栄誉、幸福」を期待できるとも記した。彼はこの洞察を『リウィウス』第二巻第五章で明晰化した。「新宗教の創始者が異言語を話すようになるとき、古い宗教は簡単に破壊される」。そしたら、マキャヴェリ派の革命家は新しい言語に相応しい新しい考え方と話し方を教え込まなければならない。マキャヴェリは『言語論』において、敵の思想に浸透するための彼自身の言語の使用を、同盟軍を支配するためのローマの自軍の使用と比較した。これはグラムシが共産革命の問題に重ね合わせる雛形である――他人の使用のために「非武装預言者」が拵えた雛形だ。
マキャヴェリはグラムシの『獄中ノート』での、政党が「近現代の君主」としてどう支配すべきかを記す一節の出発点である。しかし近現代の君主の任務は、彼が「行為を介して自覚的になった集合的意志としてすでに結晶化し始めた社会の複雑で集合的な要素、有機体」と定義する、政党(約五十回の言及において、彼は「共産」という言葉を省いている)しか真剣に引き受けることができないほど多い。この君主、この政党は、「経済的綱領とは結びつき得ない……道徳的及び知的改革の組織者兼能動的表現」たるべきである。むしろ、経済改革が道徳的及び知的改革から、「普遍的かつ全体的になりがちな集合的意志の芽生え」から成長するとき、それはあらゆる生活と習慣の世俗化の基盤になることができる。
政党君主は「歴史的概念的な意味での」ジャコバンであることによりこれを成し遂げる。グラムシは記す――「これこそマキャヴェリが民兵改革で意味したことであり、ジャコバンがフランス革命で実行したことである」。自分の生き方とは急進的に異なる生き方を考えたこともなかった人々を、そのような生き方に参加するよう説得――誘導――することで、党は社会の離散的な諸部分から合意を集めなければならない。党は「その組織的な力」を、「果てしない量の書籍と冊子、雑誌と新聞の記事に表れる、細心の注意を払った分子的、毛管的な過程、無限に繰り返される私的な討論」によって開発し、それは「その巨大な全体において、一定の同質性が備わった集合的意志を生むものによって成り立っている。しかし刮目せよ、ジャコバンは「軍事国」を達成するためにちっとも文字通りの強要を用いなかった。
グラムシはどちらに賛成か? 政党は、合意を鼓吹する――ことによると丸め込むか、それとも強制するか。彼の答えは曖昧だ。「マキャヴェリは美徳ある市民が恣意的な処置に対して安全に暮らせるような��定的な原理によって国家が運営されることをかなり明快に肯定する。しかしながら、マキャヴェリはいみじくも、彼らの永遠の合意を保証する統治者の技術に、つまり政治に万事を還元する」。彼が記すには、問題は「マキャヴェリのケンタウロスの二重の本性、獣性と人間性、強制と合意、権威と覇権……戦術と戦略に応じて……『二重の視座』」から考えられなければならない。実際、「なんとしても」こそはマキャヴェリの要点である。
グラムシの一般性と機微の鍵は、政党とキリスト教の関係に関する彼の用心深い議論に見出されるべきだ。「他の政党はもはや存在しないかもしれないが、そこにはつねに事実上の党や傾向性が存在するだろう……そのような、文化的な問題が重要な党においては……政治的討論は文化的形態をとり、そのようなものとして、解決不可能になる傾向がある」。解説:進歩主義政党国家(政府として振舞う政党、政党として振舞う政府)は文化問題に関わる社会的紛争の権威的――おそらく強制的――仲裁の役割を避けることができず、自らの仕方でそれらの責任を引き受けなければならない。
具体的には:グラムシが記したとおり、ムッソリーニのバチカンとの一九二九年コンコルダート(政教条例)は彼の最も上出来な政治工作であることが分かった。教会とフランス革命後国家の公式の敵意を解消し、カトリック教を国家宗教としてそのヒエラルキーに施しをすることで、ムッソリーニはイタリアの最も浸透的な文化的制度を敵から友好的な配下に変えてしまった。数千人の司祭と数百万人の信徒が、思想を、言葉を、行動を、政党国家の良い市民の定義に適うように曲げたものだ。グラムシはコンコルダート以降の教会を「自らの独占をもっと良く維持するため、教会に代表される市民社会の部分の支持をもって自らの下に教会を集約した一定の特権的集団に独占される政治的社会の、つまり国家の、統合的部分になった」と記述した。ファシスト国家の手で道徳的にも知的にも妥協した教会、ムッソリーニが望み、グラムシが恐れた教会は、その教えと社会的圧力をファシスト仕様に再定義した。この転覆――ファシズムの名において教会を誹謗し規制すること――に代わるものは、多くのカトリック教徒を駆り立てて、この政党に対してつねに厳しく反対していた彼らの教理の根本を信奉させることになった。コンコルダートはムッソリーニが企業国家と称した残りの部分の効果的な雛形になった。
グラムシは同じ現象をblocco storico(ブロッコ・ストーリコ)――「歴史的ブロック」と称した。これは社会の多様な諸部門を政党国家の指導の下に集約する。グラムシは知識人がこのブロックの指導的要素であると言う。所与のどんな時代においても、彼らは労働者と農民、教会などの集団を、人民が生活し、運動し、存在するところの一つの単位、それ以外を想像することは不可能ではなくとも困難であるような一つの単位に溶接する。権力は、賢明に使われれば、太陽がヒマワリに作用するような仕方で人民に作用する。このブロックの中では、新言語が有機的に成長するかたわらで、理念は実質を変えながらもその名前を保つかもしれない。グラムシが書き留めたとおり、マキャヴェリは言語が意識支配の鍵であると論じた――実力のみでなしうる何かより安全な支配の鍵である、と。しかしマキャヴェリの言語闘争の比喩はみな暴力に言及することに注目せよ。この歴史的ブロックを密着させて、その中に強情な抵抗者を押し留めるには、どれほどの実力行使がいるだろうか? グラムシの沈黙は「必要とあらば、なんとしても」と言っているようだ。結局、ムッソリーニは彼が必要と考えたかぎりを行使した。
要するに、スターリンではなくムッソリーニ、強姦ではなく強制的誘惑こそが、「文化的覇権」に関するグラムシの実践的助言である。彼はこの選好をマキャヴェリに転嫁する。マキャヴェリは「新しい力関係を創造したがっており、自らしかるべき場所を占めなければならない」。しかしこれは「恣意的な選択ではないし、単なる願望や現実離れした愛でもない」。マキャヴェリのような政治家は「無からは創造しないし、願望と夢想のうつろな渦には立ち入らない」創造者にして煽動者である。「彼は自らを効果的な真理……恒常的な運動と均衡の力の関係に基礎付ける」。グラムシは西洋文化と戦うよりも、それに自らを再定義させること、転覆することでそれを置き換えるつもりなのである。
グラムシの選択
グラムシ派の対文化覇権のビジョンは万能薬ではない。実際、今の進歩的知識人はマルクスやレーニン、ムッソリーニと同じ苦境に陥っている。すなわち、「労働者」がマルクス主義革命の破城槌となるために突進していってはいないのと同じだけ、社会の社会経済的な力はグラムシ派の「歴史的ブロック」に加わるほどにはドアを打ち破っていない。文化闘争に深く携わる今日の進歩的知識人はレーニンやムッソリーニと同じ選択に突き当たっている。社会のそれぞれ異なる文化的な諸部門を、賢く権威的に溶接するか、それとも破壊するか。この選択肢は基本的にはこうだ。ムッソリーニの誘惑か、レーニンの強姦か。
この選好の違いは大陸ヨーロッパのグラムシ派をアングロ=アメリカのそれとざっと分け隔てるものである。
一九七〇年代までには、ヨーロッパの社会主義政党は政治的権力の独占に似た何かを達成していた。しかし「労働階級」は不満足な政府への怨恨に加えて社会主義者が押し付けた文化的選好にも怨恨を抱くようになった。現在、ヨーロッパ社会主義政党は十幾つか一桁の票を集める。幾人かの進歩的政治家はグラムシ――主としてグラムシ政治のムッソリーニ版――に言及することでその理由と改善を求めてきた。フランス社会主義者ガエル・ブリュスティエと彼の本À demain Gramsci(『さよならグラムシ』2015)が原型的である。
ブリュスティエは著す。「左翼はもはや文化的覇権の立場にはない」。なぜならばそれは「グラムシが『常識』と称したもの、人々が当然と思う理念と信念の複合体」を手放したからだ。それを手放したのは、権力それ自体を征服してきた力の在り処を誤解したからである。それゆえ、左翼が「自分に関する幻覚を育んだ」かたわら、右翼は普通の人々の「階級身分の衰退と喪失に刺激された集団的苦悶から利を得る」ことで「精力的な文化戦争に勝って」いた。ブリュスティエは「もはや誰も信じない政治システムにおいて何をすべきなのか」と問うことで締めくくる。
彼の同士のツラに対するこのビンタは事実上、左翼の文化的政治的覇権の遺産である形式的非形式的「一党」連合を拒む脱文化的大衆と右翼を混同する点でしか間違っていない。事実、前ソビエトの地においてと同様、ヨーロッパの進歩的覇権は何も信じない人々を生み出した。にもかかわらず、これらの人々は左派知識人が生きる世界とはとても異なった世界に住んでいる。ブリュスティエは進歩派がこの文化的相違を「虚偽意識」のせいにしないよう警告した。彼はグラムシの教えを思い出させる。「人々は盲目でなければ馬鹿でも奴隷でもない」。ブリュスティエが同士に思い出させたとおり、グラムシの核心は、知識人とは異なる階級をして知識人を信奉させることであった。「したがって、価値観に対する闘争はそれ自体が文化的覇権の否定である」。彼の苦情によれば、彼の仲間は「インターナショナル」を歌って好い気になっていると苦情を言うが、現在の問題への答えには「服従」しか差し出さない。この行動は反生産的である。
ブリュスティエは「社会党が〔文化的覇権の好機をすべて台無しにしながら〕カトリック世界を〔典型的な過ちと〕考える尊大さ」を引用する。彼が言うには、これは数百万人のフランス人が社会主義政権の二〇一三年と十四年の同性婚拡張に対しパリの路上デモで抗議する前から左翼にとって明らかでなければならないはずだった。左翼はこの法律を広めながら、「世界がそのメンバーの日々の経験に意味を与えるときの意味の与え方」を侮辱した。それは数十万人もの若者を「古い偏屈者」と呼ぶことで、かつては敵でなかった人々を敵に回した。彼は訝る。強要できない人々を相手にイチャモンを付けるとはどういう了見だ。あの法律は社会主義者を好い気分にした。しかし、そのための戦いは社会主義革命を前進だったのか? グラムシ派の標準では、あの法律は愚かである。
しかしこの標準によれば、ブリュスティエが記すには、アメリカの同士は一層愚かである。アメリカ左翼はノーム・チョムスキーのような人のアドバイスに従って「『帝国』(アメリカ合衆国)の敵の数を潜在的な仲間の数と認識する」ところまで行ってしまった。「これは確実にアメリカ人民の多数派の感情とは対応しない」。ブリュスティエはアメリカ左翼がそのようなことをして自分を「政治的周縁」にしていると論じる。
しかしながら、アメリカ進歩的知識人はアメリカ支配階級を率いる民主党の精髄を自認する。ヨーロッパの片割れが経験した種類の拒絶をまだしらないから、彼らは過去半世紀でにアメリカ文化を変化させた成功体験に舞い上がって、グラムシ派の文化的覇権の概念を、彼ら自身の文化的アイデンティティをアメリカに強いる実践の確証と考えている。民主党の得意客はすでに、社会の残りを納得させるのではなく制圧するという知識人の狙いを是認している。彼らにとっては、これが革命である。彼らはムッソリーニの代替案よりむしろレーニンを選択したのだった。
彼らはアメリカの社会政治的秩序が経済的搾取と同じだけレイシズムと家父長制、虐殺的帝国主義に基づいていると推論する。グラムシの「歴史的ブロック」は人種的正義とジェンダー正義、経済的正義、反帝国主義の合同追求で起こすことができる。革命とは要は、被迫害の各人が切望した報復を迫害者に課すための被迫害階級の団結である。この間主観的共同体はそのアイデンティティがアメリカ文化――宗教、人種、性癖、経済――を一片でも否定する集団を含む。彼らは集まって、その何もかもを否定する。社会の残りの人々を転覆し変貌させるために文化的制度への政党国家権力の行使についてグラムシが何と書いたか、何を意味したかにかかわらず、アメリカ左翼にとっての文化的覇権とは、ユダヤ・キリスト文明をその揺り篭の中で窒息させるため、公的談話で政党構成諸集団のアイデンティティに奉仕する思考しか許さないため、そしてその他の全員を中傷し、脱正当化し、ことによっては無法者と宣するためにこの権力を使うことを意味する。それは要するに、我々が知るとおりの、ポリティカル・コレクトネスを意味するのである。
ポリティカル・コレクトネス
グラムシの文化的覇権の概念を耳にしたアメリカ人のほぼ全員にとって、それはポリコレの目的、窒息を意味する。しかしポリコレとはまさしく、グラムシが完全には支配できない人々の常識へのイチャモン付けと非難したものから成り立つから、アメリカ左翼の文化的覇権の理解はその意図のとおり、その文化戦争が終わらないことを暗示している。
一九六〇年代初頭、ボストンからバークリーまでにおいて、アメリカの教師の教師は新しいクリフスノート式の新しい神聖な歴史を吸収し、教育した。すなわち、アメリカは生まれながらにして西洋文明の原罪で穢れていた――偽善的な自由と平等の約束に基づいてすべて宗教的蒙昧主義に包まれた、レイシズム、セクシズム、強欲、原住民と環境へのジェノサイド。レイシストでセクシストだが結局は馬鹿なアメリカ大衆からの抵抗に直面してなお、ハーバート・クローリーとウッドロー・ウィルソンからフランクリン・ルーズベルトとバラク・オバマまでの世俗の聖人は、アメリカを偉大な正義の道に乗せて、これらの約束の罪を償った。そのような人物を同じ理由で目上と考えるのは、オバマ大統領が言ったとおり、「偽の等価」であろう。そのように信任状を授かって、型に嵌められ、自説に固執して、均一な階級がいまや、ほとんどすべての連邦及び州政府官僚を、メディアを、教育機関を、大企業を統括している。それは友愛と同じように、正しい側に就いていると示す「内輪」言語を話すことを要求し、そのメンバーと衝突する「アウトサイダー」アメリカ人を酷い目に合わせる。デイヴィッド・ダライデンとサンドラ・メリットのように、政府出資のプランド・ペアレントフッドによる中絶胎児の身体部位の違法取引映像を公開したら重罪で起訴されてしまう。支配階級は映像が映したことを映さない世界のことを語るからだ。
アメリカ進歩派支配階級が真善美のビジョンや社会の残りの人々を自分に惹きつけるための強みを差し出さないのはヨーロッパの片割れと同じである。アメリカ進歩主義が差し出したのは、ヨーロッパの同類と同じように、ポリティカル・コレクトネスに施行されての支配階級への隷属である。共産主義に終わりがなかったのと同じだけ、政治的な正しさにはエンドポイントがない。それは今やここでは落ちぶれて、いつものとおり、どこでも同じように、党を祭り上げ残りの人々を卑しめるものになっている。
もしも文化的覇権とは支配階級のアメリカ文化制度のほとんどの独占を意味するにすぎないならば、かかる紛争は一世代前に終わっていただろう――支配者の勝利で。しかし支配階級は、古い文化の強情な名残があたかもその粉砕のためのさらに激しい努力に値するかのように振舞うから、ポリコレでの文化的覇権とは紛争の永続性を保証する永久的な侮辱と怨恨のサイクルを意味するのである。対照的にも、(マキャヴェリに倣う)グラムシの文化的覇権の概念は明確な勝利を求める――幾つもの文化的階層を、もう誰も振り返ることができないほど超越した何かにするような、社会の変貌と総合だ。たとえば、キリスト教がローマと野蛮人の神々を除去したような。もっと重要なこととして、グラムシが従うマキャヴェリは、文化的覇権の権力密閉をもっと大いなる目的への手段と考えていた。マキャヴェリにとって、それはローマのそれのような政治的威厳を意味したのである。それはグラムシにとってはマルクス主義ユートピアの達成を意味した。
なぜアメリカ左翼はつねに新しいポリコレへの服従を要求するのか。アメリカ法に安置されたとおりに一男一女の結婚を定義することが、罰金の対象にしてほぼ無法者の地位に置かれる「ホモフォビア」とかいう不埒な心理に動機付けられる人々としての烙印を押されるだろうとは、二〇一二年には誰も考えなかっただろう。二〇一五~一六年までは、男性用公衆便所を使うために男性の配管工事を求めることが同じ病理の印だったとは誰にも思われなかった。なぜ以前はこれらがポリコレの要求の一部にならなかったのか。いったん埋められたら更なる追加を要求しないポリコレのカノンがないののあなぜか。
なぜならばポリコレの要点は、それが押し付ける諸項目のいずれでもないし、そのようなものをもったこともない――押し付けることそれ自体が要点だからである。ましてや定義可能な共通文化を創造したり定義可能な善を達成したりすることではない。それは小売りの水準では、民主党の得意客から投票者の参加を最後の一滴まで搾り取るアメリカ支配階級のニーズに関するものである。卸売りの水準では、アイデンティティ政治に耽るための、文明に対する戦争である。
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ポリコレの押し付けは論理的な決着がつかない。なぜならば他人に罪を告白させ、辱めて傷つけることで好い気持ちになるのは中毒的な快感で、満足するたびに燃え上がる欲望の類だからである。わたしはお前の中に落ち度を見出すほどお前より尊くなる(あるいは少なくともトレンディーになる)。お前が悪であるほどわたしは善になり、わたしはもっとお前に対する権力をもつべきなのである。アメリカの支配階級はアメリカの残りの人々が再教育営の収容者として扱われなければならないという見解を採用したようだ。ハーバードの法学部教授マーク・タッシュネットが今年の早い頃にブログの投稿で論じたとおり、これが意味するのは、「リベラル〔英米リベラル〕がちっとも規範的引力を認めないような立場を擁護したし今なお擁護している敗者を収容する試み〔ではない〕。敗者に優しくする試みは、内戦後にはうまくいかない」。
しかしながら、この内戦勝者の代理的な権力切望は、決してマキャヴェリと心を一つにしてはいないグラムシには関わらなかった。彼は、屈辱を味合わせて敵の精神を挫くことの享楽ではなく、むしろ殺せない敵の転覆という観点で考えた。彼が記すには、人々は「愛撫されるか、それとも絶滅させられるべきもの」である。永久に無力化されたとわけではない人々を侮辱するのは楽しいが、危険で高くつく楽しみである。なぜならば、それは服従と同じだけ陰気と反逆を生むからである。ガエル・ブリュスティエがフランス社会党に尋ねたあの質問はアメリカ支配階級にも尋ねることができる。あなたがたは、あなたがたがしていることを、何だと思っているのか。あなたがたは、潜在的な同盟へのかつてなく侮辱的な条件を要求することで、あなたがたのために順調に進んでいる転覆キャンペーンを危うくしている。なぜ敵に武装するよう求めているんだ?
大敵たる宗教のことを考えてみよ。アメリカの本線たるプロテスタントの宗派は長らく、彼らの(減少中の)信者を支配階級の進歩主義的なプライオリティーに明け渡してきた。
教皇フランシスコは、聖職者への殺害も含む西洋文明への攻撃について、判断することの拒絶を公言した。彼が七月に〔ポーランド〕クラクフの世界青年日で述べたとおりの、「新人類」を作ることへのカトリック教会の関与は、カトリック教会がキリスト教を進歩主義の用語での進歩主義の伝道と再定義するための道を開いた――かつてはアメリカ・カトリック教の砦だったが今ではアメリカ進歩主義の砦になったジョージタウン大学とノートルダムなどでは、すでに達成された伝道だ。福音派の指導者は遅れを取らないよう熱心である。支配階級のもっと大きなプライオリティーのためのアメリカの宗教的体制派の徴用に、ムッソリーニが一九二九年に支払ったほどの費用をかける必要はなかったのに、とグラムシは助言しただろう。核心への正面攻撃を控えても十分に足りるだろう。
アメリカの進歩派はそうではなく、同性結婚と同性愛、「地球温暖化」などを押し付けることで、危害に侮辱を加えた。なぜならば、彼らには本当は彼ら自身を超えたプライオリティーなどなかったからである。アメリカの進歩的支配者は、フランスのと同じく、支持を集める政治家としてでではなく、テーブルがひっくり返るのを気にせず捕虜の処罰を楽しむ征服者として振舞っている。
しかし進歩的文化覇権の転機は、他所と同じくアメリカにも訪れているように思われる。良い市民が恣意性からの安全を感じられるような王国について、グラムシはマキャヴェリの『君主論』と彼自身の『新君主論』のことを���した。しかし恣意性こそは我らがポリコレご主人さまがアメリカの政治システムにしっかりと組み付けてきたものなのである。
我々の支配階級の最新の要求を考えてみよ。アメリカ人はペニスの付いた女性がありうること、ワギナの付いた男性がありうると同意しなければならない。そのような恣意に従うことは人間の度量を超えている。オーウェルの『1984』ではビッグ・ブラザーのエージェントが指を四本挙げながらウィンストンに五本見えていると認めさせる。しかしこれはアメリカ支配階級が自由民に要求していることに比べればチャチなもんだ。宮廷と官庁は説得の試みに悩むことなくただ彼らの命令を押し付けるだけで、安定性を重んじるタイプの数百万人の市民が、次に何が起こるのかも気にせず、なけなしのアメリカ共和国に鉄球をぶち込むのも本意になってしまっているのだから。
二〇一五~一六年において我々の支配階級がドナルド・トランプに驚いたのには驚かされる。彼はポリコレの具体的要求のほとんどに従順なままで、概してリベラル[左翼リベラル]な民主党派のままだったが、彼としてはポリコレ一般を嘲ってその仕出し屋を侮辱すれば十分だった。トランプにとっては、リベラリズムのパブリック・エネミー・ナンバーワンになれば十分だったのである。『ウォール・ストリート・ジャーナル』のウィリアム・ガルストンの社説は彼の階級のレーニン主義的なアメリカ文化奪取がどうして不発に終わったのかを感じ取り始めている。
〔トランプの〕キャンペーンは教養中流階級――わたしのような人々――の幻想を無慈悲に暴露した。我々は法律と公的規範の変化が諸々の党派とイデオロギーの路線に行き渡る私的態度の変化を漸進的にもたらしてきたと信じていた……。
トランプ氏は我々が間違っていることを証明した。彼のポリティカル・コレクトネス批判は多くのタブーを破壊し、彼の支持者に対し、彼らが本当に考えていることを言うライセンスを与えた。我々が嘲ってきた信念がいまや、世界で最も古い政党の一つで、ときには有権者全体において、多数派を集めている。
要点はトランプではなく、支配階級は西洋文明を追いやってもグラムシ‐マキャヴェリ派の意味での文化的覇権に取って代わりはしなかったという事実にある。進歩派はむしろ、侮辱の押し付けと定義されるとおりのポリコレを押し出すことで、一切合財の権威の正統性を、何にもまして、彼ら自身の正統性を破壊したのだった。
『アメリカン・スペクテーター』での私の二〇一一年の記事「支配階級と革命の危機」は、「アメリカ人のおよそ三分の二――わずかな民主党投票者、ほとんどの共和党投票者、すべての無党派――は選挙政治の捌け口をもたない」と論じた。支配階級がポリコレによる文化戦争に伴ってアメリカ人の生活に行き渡らせた、あからさまな憲法と法律の軽視への鬱憤は、「遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ、多数派の代表要求でいっぱいになるだろう」ことを意味していた。「あいにくと宮廷や官公の不正行為を嫌う者にとっては、全政党を真理の基盤に引き戻すよりも他の不正行為でこれに反撃することの方が簡単である」と書き留めた。
アメリカの多数派は――憲法と法律が彼らの生き方を絶え間ない名誉毀損から保護するのをやめてしまったと気づいており、「イリディーマブル」(「救いようのない」)「ディプローラブル」(「惨めな」)レイシストだのセクシストだのと侮辱されて怒り、その緩和を、ああ、利子の払い戻しを求めながらも、支配階級が下々とみなす者からの議論を締め出していることを知っていて――支配階級も同じ種類の侮辱的迫害を受ければ自分が他人に取り成されたいのと同じように他人を取り成す価値を学ぶかもしれないと期待してテーブルを引っくり返すしか選択肢がない。あるいはもっとありそうなこととして、これは革命の典型である報復の螺旋の一巡りなのであろう。けれども、これの避け方があるようには思われない。
もはや誰も信じない政治システムにおいて何をすべきか。これは革命的な問題である。なぜならばアメリカの支配階級は、それ自体の信憑性を破壊するに伴って、真理への尊敬を大いに破壊し、アメリカ人民を自由と繁栄の独特の世話人にしてきた制約の文化を大規模に破壊したからである。文明から疎外された片意地な大衆はみな、実に自然に革命の自然な指導者へ向かう。ドナルド・トランプは「ライオンの家族、鷲の部族」に属するとエイブラハム・リンカーンが警告した、手に負えない男たちの前兆にすぎない。
要するに、支配階級が想像したとおり(そしてグラムシが承認したであろうとおり)に「諸々の党派とイデオロギーの路線に行き渡る私的態度の変化を漸進的にもたらしてきた」ではなく、むしろ支配階級がアメリカの残りの人々に押し付けた「法律と公的規範の変化」(ガルストンの再引用)、ポリコレは、革命を引き起こしたのである――それは綺麗ごとにはならないだろうとしか、我々には分からない。
[1] アンジェロ・M・コデヴィッラ(Angelo M. Codevilla)はクレアモント研究所の上級研究員兼ボストン大学国際関係の名誉教授である。
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