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#新しい世界秩序などないあるのは不確実性への混沌とした移行だけだ
tecchaso1988 · 3 years
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#読書 #グレートリセット #ダボス会議で語られるアフターコロナの世界   1年前からこういった内容を書いてくれてる著名人がたくさんいらっしゃって それでも世界は想定悪の方向に向かっていて  世界には政治家だったり指導者だったり、自分よりずっと賢い人たちが溢れるほどいるはずなのに どうしてわざわざ足並み揃えて予測できる悪いシナリオの方向へ進めちゃうのだろうかって思ってしまうここ最近。 (グレートリセットに対抗しているのはオーストラリア、ロシアが有力馬とのこと)  (権威者たちがあえて崩しにいってるのはわかるんだけれども、ゲームストップ騒動は個々の力が逆にシナリオを再構築していく未来の一遍を僕らに見せてくれたことに可能性を感じたいなって思う)   #読書メモ #多くの人がいつになったらノーマルな生活に戻れるのだろうと考えているがシンプルな答えは何も元に戻らないだ #2020年初頭まで慣れ親しんでいた世界は書き消えた #変化の可能性その変化がもたらす新しい秩序は無限にありそれを良いほうにも悪いほうにも変えられるのは私たちの想像力だけ #大事なのは私たちはこの前例のないこの機会を利用して世界のイメージを描き直すべき #パンデミックの影響が2022年まで続くことを大前提として複数のシナリオに備えるべき #1930年代初頭の大恐慌や2008年の世界金融危機の時で数年かけてGDPが10%以上落ち込み失業率が10%を超えたが今回のパンデミックがマクロ経済に災害級の大打撃を与えた期間はわずか3週間 #アメリカは2020年3月4月の2ヶ月間で10年かけて積み上げてきた雇用増加を一気に失った #すでにアメリカ人の約30%が財産を失い負債を抱えているこの危機が終わったときに金も仕事もなく医療も受けられない人が増えそうした人々が自暴自棄になって社会に怒りをぶつけたらどうなるか #現在の経済は2020年以前と比べて8割程度しか動いていておらず豊かな国の要であるサービス産業がこの8割経済という新しい現実にどう対応していくか #経済の主要部門が1ヶ月丸々活動を休止した場合その影響で年間成長率は2%以上も下がる #準備通過としてのドルの地位が徐々に終焉を迎えるのではないか国が発行するデジタル通過を導入する試みのいずれかが長く王座に君臨してきたドルを引きずり下ろすかもしれない #パンデミック後の世界は社会の不平等がさらに拡大する #重大な危機は国家の権力を拡大させる #歴史的な課題に遭遇した指導者は危機をうまく管理しながら未来も創造していかなければならない #新しい世界秩序などないあるのは不確実性への混沌とした移行だけだ #G7やG20といった世界を牽引してきた時代から今は国際社会を主導する国が存在しないGゼロの時代かさらに悪いGマイナス2の時代に入っている #パンデミックはESGに配慮しなければ事業の大きな価値が破壊され企業の価値を脅かすことにつながるという教訓を世界の経営者に残した #保険業界では各政府のロックダウンが保険業界特有のリスクをもたらしており世界中の何十万もの企業が保険請求ができず数ヶ月から数年間は訴訟を続けるか破綻するかの瀬戸際に立たされている #試練は人を強くするという言い古された言葉があるがパンデミックを生き延びた人が必ず強くなるわけではなくむしろ現実はほど遠い #パンデミックが始まってから世界中で時間感覚が変わったと感じる人が増えた1日はのろのろと過ぎるのにある朝気付いたら1ヶ月が経っていることに気づき時間はいったいどこに行ってしまったんだと疑問に思う #パンデミックは社会を省み考え直しリセットする���いう千載一遇のチャンスを与えてくれている #グレートリセットに社会や経済が抱える根深い問題に対処せず解決せず放っておいたら結局は戦争や革命のような暴力的な出来事によって社会がリセットされる https://www.instagram.com/p/CPQJHR-LAsT/?utm_medium=tumblr
#読書#グレートリセット#ダボス会議で語られるアフターコロナの世界#読書メモ#多くの人がいつになったらノーマルな生活に戻れるのだろうと考えているがシンプルな答えは何も元に戻らないだ#2020年初頭まで慣れ親しんでいた世界は書き消えた#変化の可能性その変化がもたらす新しい秩序は無限にありそれを良いほうにも悪いほうにも変えられるのは私たちの想像力だけ#大事なのは私たちはこの前例のないこの機会を利用して世界のイメージを描き直すべき#パンデミックの影響が2022年まで続くことを大前提として複数のシナリオに備えるべき#1930年代初頭の大恐慌や2008年の世界金融危機の時で数年かけてgdpが10#アメリカは2020年3月4月の2ヶ月間で10年かけて積み上げてきた雇用増加を一気に失った#すでにアメリカ人の約30#現在の経済は2020年以前と比べて8割程度しか動いていておらず豊かな国の要であるサービス産業がこの8割経済という新しい現実にどう対応していくか#経済の主要部門が1ヶ月丸々活動を休止した場合その影響で年間成長率は2#準備通過としてのドルの地位が徐々に終焉を迎えるのではないか国が発行するデジタル通過を導入する試みのいずれかが長く王座に君臨してきたドルを引きずり下ろすかもしれない#パンデミック後の世界は社会の不平等がさらに拡大する#重大な危機は国家の権力を拡大させる#歴史的な課題に遭遇した指導者は危機をうまく管理しながら未来も創造していかなければならない#新しい世界秩序などないあるのは不確実性への混沌とした移行だけだ#g7やg20といった世界を牽引してきた時代から今は国際社会を主導する国が存在しないgゼロの時代かさらに悪いgマイナス2の時代に入っている#パンデミックはesgに配慮しなければ事業の大きな価値が破壊され企業の価値を脅かすことにつながるという教訓を世界の経営者に残した#保険業界では各政府のロックダウンが保険業界特有のリスクをもたらしており世界中の何十万もの企業が保険請求ができず数ヶ月から数年間は訴訟を続けるか破綻するかの瀬戸際に立た#試練は人を強くするという言い古された言葉があるがパンデミックを生き延びた人が必ず強くなるわけではなくむしろ現実はほど遠い#パンデミックが始まってから世界中で時間感覚が変わったと感じる人が増えた1日はのろのろと過ぎるのにある朝気付いたら1ヶ月が経っていることに気づき時間はいったいどこに行って#パンデミックは社会を省み考え直しリセットするという千載一遇のチャンスを与えてくれている#グレートリセットに社会や経済が抱える根深い問題に対処せず解決せず放っておいたら結局は戦争や革命のような暴力的な出来事によって社会がリセットされる
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xf-2 · 5 years
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デモで揺れる香港。
メディアはいろいろ報道するけれど、香港の”なかのひと”はどんな気持ちで何を考えているのだろうか。
香港に長いManCheeFMW(@Manchee902)さんにご寄稿いただいた。
それだけならまだしも、目撃/遭遇した市民が999(日本で言う110番通報)しても、対応した警官が「怖いなら家から出かけなければいい」などと言い放ったり、999が一時不通になったり、挙句の果てに直接所轄署まで出向いたところで警察署がシャッターを下ろして通報拒絶、などという見て見ぬフリ好き放題。
など現地は大変だったようだが、文章の最後に書かれた気持ちは非常に香港らしいと感じた。
悠久の歴史の北京に長い私には出てこない言葉である。
(レノンウォール。香港の反送中運動のシンボル。撮影 ManCheeFMW)
デモはあっても”フィジカルな危険”とは、
程遠かった香港が…。
 香港。ご存知の通り、世界で最も刻々と高速で変化を遂げる街のひとつだ。
 実はこの2ヶ月ほど、香港で次々沸き起こる出来事を一所懸命フォローし生きていくだけで気持ちが結構いっぱいいっぱいになっていたところである。これを書いている今でさえまだまだ浮き足立っている。
 最近、香港に住むわたしが外から最も多く受ける質問は「大規模デモが起こっているみたいだけど大丈夫?安全なの?」だ。
 香港。ご存知の通り、英国から中華人民共和国へ返還された1997年以降、50年間は維持可能と約束されたはずの民主主義(厳密には英国領地時代以来のレッセフェール)と、北からじわじわやってくる中国共産主義≒万事統制の狭間で、少しでも現在の自治、自由を維持しようと声を挙げる文化が根付いている。
 故に自ずと大なり小なりデモが頻発する背景があり、ある意味街も市民も“デモ慣れ“している。事前に実施の届出がなされ、参加者が何百万人になろうと基本的に秩序が保たれ(先日など人口750万人都市で200万人が参加、という記録的なデモがあったところだ*)、治安も乱れず日常生活を送るのに何ら支障を来たさない。
 この2ヶ月ほど香港で続いている一連の「反送中(香港政府が事件容疑者を中国本土に引き渡し可能にする“逃犯條例(逃亡犯条例)“改正法案採決に反対する運動)」デモも、デモ隊参加の市民に警察隊が負傷者を出すような攻撃を加えたり、法案を「撤回**」せず自国民への思いやりを見せない香港政府や未来に失望して自殺者が出るなど、市民(特に若い香港市民)への精神的な影響は大きいものの、フィジカルな危険などとは程遠く表面上は平和そのものに生活が回っていた。
 
 従ってわたしは当然ながら、冒頭の質問には「有難う、大丈夫。デモの際に政府施設の辺りで交通規制が出たり交通機関のアレンジが変わるだけで、全く普通に生活しているよ」と答えてきた。
 そう、7月21日の夜までは。
 そしてたった一夜明けただけで、わたしは来港予定の友人達に「今香港に来るのは見合わせたほうがいい」と言わなければならない状態になってしまったのだ。
(撮影 ManCheeFMW)
警察に通報しても、不通だったり、
「怖いなら家から出かけなければいい」
 7月21日、日曜日。
 相変わらず明確な「撤回」を約束することなく、一時デモを受けて法案裁決見送りと言ったり「(法案改正は)壽中正寢(老衰で自然に亡くなりゆくニュアンスで“死亡”≒自然消滅という意味)」というだけで中国政府への忖度一直線、そして市民に拳を振り上げたことへの謝罪も死者への哀悼もないままの香港政府に対し、継続的なデモが行われることになった。
 そのうちのひとつがこの日。
 「反送中」デモはこの2ヶ月近くで香港内各エリアに広がり、長期化して「反送中」以外へ思惑が分散し、デモの目的に「中国大陸からの旅行客にアピール***」という主旨まで加わってきたり、警官がデモの終結を暴力的に進めた挙句市民をショッピングモールに追い込み封鎖、というようなことが起こるなど事態は混沌とはしてきていたが、相変わらず物理的な日常生活に支障はなかった。
 結果、数十万人(10万だったのか40万近くだったのか。警察側とデモ団体側の発表で毎回差が出る)が参加し、わたしもこの日は、デモルート沿いの歩道橋の上から何の危機感も抱かずそれを見ていられるほどであった。基本的に平和裏に終了・・・するはずだった。
 基本的に夜になるとデモは終結する流れだが、毎回一部の部隊は夜になっても活動を続け、政府建物に闖入したりと過激化する。この日も確かに警察隊と市民の衝突があった。
 ただ、それとは別に、全くもって信じられないことが起こった。
 なんと、デモ現場から遠く離れた郊外の元朗 Yuan Longという街で、デモ帰りの市民を白シャツをドレスコードにしたおっさん軍団(ヤクザ関係と言われているが詳細不明)が待ち受けていた。デモ参加者=黒シャツがドレスコード、と見てMTR元朗駅で彼らの帰りを待ち伏せし、見境なく集団で殴りつける、という暴挙に。しまいには白シャツ軍団は駅構内、そして停車した電車にまで乗り込んでまで執拗に暴力を振るい続けたのだ。負傷者数十名、重体一名の惨事に。
 それだけならまだしも、目撃/遭遇した市民が999(日本で言う110番通報)しても、対応した警官が「怖いなら家から出かけなければいい」などと言い放ったり999が一時不通になったり、挙句の果てに直接所轄署まで出向いたところで警察署がシャッターを下ろして通報拒絶、などという見て見ぬフリ好き放題。漸く現場に来たのは白シャツ軍団の撤収後!
 しかもFacebook等のポストで、地元親中派の議員や警察が、現場に出動した白シャツ軍団にねぎらいの声をかけているところや、警察関係の車両が彼らを送迎している映像が続々暴露された。
 市民の味方であるはずの政府と警察が、市民の被害をガン無視。
 もう、「少林足球(周星馳の映画「少林サッカー」、覚えてますか?)」の悪徳審判さながら。
 そして翌日、元朗とその周辺の新界西エリアのいくつかの街でこれに関連した暴力沙汰が続くという情報が回り始め、危機管理能力の高い香港人が即刻反応。このエリアの商店や金融機関は軒並みシャッターを下ろし、西部劇によく出てくるような、強盗襲来前のゴーストタウンのような状態に。
 それだけではない、21日の事件を聞いた全香港市民が「昨日の元朗は今日の我が街」と個々に警戒レベルを引き上げ(例えば香港内のアップルストアは16時で閉店しスタッフを帰す、など)、街が自主的な戒厳状態へ。
 因みに香港は亜熱帯エリアに属し、台風の生まれるフィリピン辺りの真北に位置するため、台風の通り道。
 ゆえに災害対策がかなり整備されていて、警報レベルが一定まで上がると株式市場はじめ社会機能が止まるようになっているが、台風以外で社会機能がほぼ止まるようなことは十数年住んでいて初めての経験だ。
白い服のおっさん6名は、
一応「逮捕」されたが……。
 22日に香港政府は会見を開いたが、取り沙汰されたのは元朗事件ではなく、同じ晩に起きた警官隊とデモ隊の衝突についてで、何度となく繰り返された「香港政府強烈譴責暴力行為(香港政府は暴力行為に強く糾弾する、の意。この2ヶ月間使われて続けて市民は聞き飽きている)」を繰り返すだけ。負傷した市民への心ある言葉など皆無。自分達が被害者のように会見を進めようとし、記者団に元朗事件を突っ込まれると回答はあやふや。
 23日になり、漸く白いおっさん軍団のうち6名が「逮捕」されたと報じられたが、政府側シナリオに��込み済みなのだろう、下手すると誰を形式的に逮捕するかくらいまで決められていたのではないかとさえ思える白々しさ(事件が仕立てられたのが元朗なのにも、それなりの意味合いが含まれていると思われるがここでは取り上げない)。
 ますます政府への不信感は募るだろうし、それに対するアクションも暫く続くであろう。そしてはっきり言って、原因もうやむやで白シャツ軍団野放し状態が続くようなら、今後彼らがどの街に出没して狼藉を働いても全く不思議ではない。
玉虫色の街、
香港
 香港という玉虫色の街。万事に��いて中間的な役割を持つ街。例えば、政治的には語る者の視点や立場で何色にでもなり得るし、誰が語ろうが何となく「それっぽく」聞こえるので、土地勘のない受取り手はどの情報が正しいか、なんて言えないこともあるのが正直なところだろう。
 だが、安全面に関してははっきり言える。
 ここに移住して十数年来、女性ひとりで夜歩きできるほどの治安の良さを十分堪能してきた身として、香港の、たった一晩での治安変化が残念でならない。
 この状態のままでは、観光客の方が来港しても全く歓迎できない。
 一夜にして警察が裏社会のひとと繋がっていることをあからさまにするような、そして彼らが市民に無差別攻撃をしても警察が出動しない街など怖すぎる。安心して遊びにおいで、なんて言えやしない。
 状況変化の速い香港のこと、これを書いている間にもこれまた高速で以前の安全で自由な街に戻ってくれるのを祈るばかり。
 そして一方、実は香港の変化と同じくらい、我々市民自身が頭の切替え速いのも事実。
 次はどうなるだろう、そうなったらこうしてやろう、とたちまち開き直り、走りながら考える習慣がついているのは香港住民の長所だと信じている。
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thetaizuru · 4 years
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1969年10月5日 テレビアニメ『サザエさん』放送開始。
(1969年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4)
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 1969年7月20日、アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たした。  8月15日-17日、 米ニューヨーク州サリバン郡ベセルでウッドストックフェスティバルが開かれた。1960年代アメリカのカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。
 SF作品などを通して夢見ていたことが実現し、若者たちが共有した理想を高らかに歌い上げていた一方、8月9日、米ロサンゼルスで、狂信的カルト指導者チャールズ マンソンの信奉者3人組によって、女優シャロン テートが殺害された。
 第二次大戦終戦後、‘科学と民主主義’に夢と希望、理想を抱き、信じ、それは民主国家に限らず世界共通のはずだとも信じて、SFなどの作品や文化を通して楽しんでいた社会は、アポロ月面着陸とウッドストックのあった1969年に一つの到達点に至る。  しかし、ベトナム戦争は止められず、カルトは暴走、麻薬は蔓延。政治的敗北に打ち拉がれる。  何か大きな勘違いをしてたんじゃないかと困惑してたところに、「チャールズ・マンソンがビートルズのファンだった」という話と、その歪んだ愛が凶行にまで至ったということが追い打ちをかける。
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「ちょっとした愉快な解釈の違いは以前からあったけど、どれも無害で、くすっと笑えるものだった……でも、そういうささいな解釈のあと、とうとう最高に恐ろしい解釈が現れた。あの時点から全ておかしくなった。でも僕らのせいじゃない。僕らに何ができるって言うんだい?」
(殺人鬼チャールズ・マンソンの歪んだビートルズ愛「この音楽は無秩序な力を引き起こす」 ローリングストーン 2019/08/10 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31701/1/1/1)
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 日本では学生運動/大学紛争、新左翼運動が全国に波及、社会問題に発展していた。 1969年1月18日-19日 東大安田講堂攻防戦 10月21日 国際反戦デー闘争 11月16日-17日 佐藤首相訪米阻止闘争 11月17日 佐藤栄作首相訪米、11月21日 3年後の沖縄返還合意を取り付ける。
 1967年から続いた学生運動、新左翼運動の高揚に一つの終止符が打たれた。
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1970年3月31日 よど号ハイジャック事件
 犯人グループは出発時に「われわれは明日、羽田を発たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである」(原文そのまま) という声明文を残している。
(よど号ハイジャック事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%88%E3%81%A9%E5%8F%B7%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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1972年2月19日-28日 あさま山荘事件
 2月21日19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。 「私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 」
(あさま山荘事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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2つのニクソン・ショック: 1971年7月15日 第1次ニクソン・ショック; ニクソン訪中宣言、翌1972年2月 北京訪問 1971年8月15日 第2次ニクソン・ショック; ドル・ショック、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言、ブレトン・ウッズ体制の終結。
 1972年2月21日のニクソン大統領の中国訪問は、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換、冷戦時代の転機となった。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。また、「ニクソンが中国に行く」という政治用語も生まれた。
(ニクソン・ショック https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF ニクソン大統領の中国訪問 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F)
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 当時を知る人たちからは怒られっかもな勝手な解釈で言うと、カウンターカルチャー/ヒッピーカルチャーはビートルズの活動にレペゼンされていて、ビートルズ活動停止-解散のあたりでほとんど終焉。
 1970年 ビートルズ解散 (1971年3月12日ビートルズの解散が法的に決定された)。 (ビートルズの解散問題 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%95%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C)
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 何か大きな勘違いをしてるんじゃないかと省みることも困難になっていた。  「総括」という言葉はこの時、怖いものになっていた。
 総括とは、本来は全体を取り纏める事であり、1960年〜1970年代の左翼政治運動家の間では、活動を振り返ることで反省・改善策を見出す思考法として好んで用いられていたものである。工業界でいうところのPDCAサイクルの「C (チェック、点検・評価)」に相当する。  日本の新左翼党派である連合赤軍において、「真に総括させるために殴る」ようになりエスカレート、29名のメンバー中12名のメンバーを死に至らしめる要因となった。(山岳ベース事件: 1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件)
(総括 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%8B%AC_(%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D) 山岳ベース事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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 PDCAサイクルとよく比較されるフレームワークにOODAループ(「観察 Observe」「仮説構築 Orient」「意思決定 Decide」「実行 Act」) がある。  PDCAサイクルは明確な工程がある場合の業務改善に最適なフレームワークであるのに対し、OODAループは意思決定をするためのフレームワークであり、不明確で常に変化していく状況の中で、現状にあるものから最善の判断を下し、即座に行動を起こすことを目的としている。
 OODAループを発明したジョン ボイド(アメリカ合衆国の戦闘機操縦士、航空戦術家、軍事著作家)は、朝鮮戦争終戦後、アメリカ空軍戦闘機兵器学校においてF-100の教官を務めた。学生機との模擬空戦において、「不利な位置から開始して、40秒以内に位置を逆転させる(後方の攻撃位置を占位する)」との賭けをたびたび行ない、6年間/3000時間におよぶ戦闘訓練で無敗を誇った。このことから、戦闘機教官としてのボイドには、「40秒ボイド」という渾名が進呈された。
(OODAループとは?PDCAサイクルとの違いと具体例 https://achievement-hrs.co.jp/ritori/?p=2213 ジョン・ボイド https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%89_(%E8%BB%8D%E4%BA%BA))
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 「解釈で言うと~」みたいな言葉は、事実誤認が見つかった時や、状況が変わったときの修正/変更が可能/必要なポイントに印をつけとくためだったはずが、自分の解釈/思想/気持ちが優先されることで、修正不可能になり暴走、思考サイクル/ループは崩壊する。
 1970年代、過激な政治志向が消えた後の「シラケ」の時代になる。  表現においては、敗北後のPTSD(シェル ショック)の心理療法としての「プライマルスクリーム」と「無知のヴェール」に覆われた状態(ジョン ロールズ『正義論』1971年刊)の時代、バカを装って叫ぶ「パンク」の時代へと移行する。
(『正義論』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E8%AB%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA))
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戦闘ストレス反応( combat stress reaction, CSR)とは一般に戦闘によってもたらされる心理的な反応をいう。戦争後遺症とも称される。
軍事心理学や軍事医学の研究では戦闘ストレス反応は戦闘を経験した兵士が陥るさまざまな反応を含む幅広い心理的障害(心身症)として定義されており、例えば研究者のノイは戦闘において兵士が被る非物質的な損害であると定義している。
第一次世界大戦において兵士の戦闘ストレス反応を研究した軍医は爆音を伴う塹壕に対する砲撃によってこのような障害が生じると考え、このような症状をシェル・ショック (shell shock)(日本語で砲弾ショック、戦場ショックとも) と呼んだ。しかし後に砲撃に関わらず長期間に渡る戦闘によっても反応が見られることから戦争神経症 (war neurosis) へと呼称は変化する。この兵士達の観察を基にして、ジークムント・フロイトは反復強迫的な外傷性悪夢について研究した。
第二次世界大戦にかけて呼称はさらに戦闘疲労 (combat fatigue) とも呼ばれ、戦闘の期間があまりに長期間にわたると性格や能力に関わらず全ての兵士がこのような反応を示すことが明らかにされた。
朝鮮戦争では従来のような戦闘ストレス反応による損耗は減少し、精神病的損害 (psychiatric casualities) という名称で戦闘ストレス反応に関連する症状を示す兵士が評価されるのが通例となった。しかし研究の焦点は戦闘行動によって示す古典的な戦闘ストレス反応から新しく後遺症に移ることになる。
1980年代にかけてベトナム戦争からのベトナム帰還兵が、社会復帰後に深刻な心理的障害を示すことがアメリカ精神医学会で研究されるようになり、これは心的外傷後ストレス障害 (post traumatic stress disorder, PTSD) と命名された。
(戦闘ストレス反応 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%97%98%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E5%8F%8D%E5%BF%9C)
ベトナム戦争: 1973年1月27日 パリ和平協定調印 1974年8月9日 ニクソン米大統領辞任 1975年4月30日 サイゴン陥落
(ベトナム戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89)
 ベトナム戦争の終戦を、1969年に一つの到達点に至り崩壊を始めたカウンターカルチャーの「終わり」と見立て(1979年の映画『地獄の黙示録』で流れるドアーズの「ジ・エンド」)、そこから明るい文化がはじまる(『スター・ウォーズ』(新たなる希望)1977年公開)。  一方で、それまでのSFの流れや、暗い1970年代のイメージを汲んで、‘終末後の世界’を描いたものが「サイバーパンク」になっていく。「ロボット/レプリカント(模造品、量産品)の異常変異と反抗」や、「対立する価値観の間での葛藤」または「心理サイクル崩壊後の暴走」などがサイバーパンク作品のモチーフやテーマとして使われていく。
 1985年 プラザ合意。日本はバブル景気へ。1980年代は結構明るい時代。
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ざっくり言うと: 1960年代; ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (素敵) 1970年代; ニクソンが中国に行く (ショック) 1980年代; 星の王子ニューヨークへ行く (超おもしろい)
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 「サイバーパンク」のビジュアルイメージを強烈に打ち出した『ブレードランナー』(リドリー スコット監督、1982年)と『AKIRA』(大友克洋監督、1988年)という二作品が描いた‘2019年’の50年前である1969年に、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。
 SF作品ではテーマの一つとして「社会(都市)の変化により人の心はどう変わるか」という都市論的考察も多く描かれた。
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 1964年10月10日から10月24日までの15日間、日本の東京で開かれたオリンピック競技大会(第18回オリンピック競技大会、1964東京五輪)は、開催期間には、10月14日のソ連のフルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(東京五輪には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。  東海道新幹線(開会式9日前の10月1日に開業)や首都高速道路などのインフラや、国立競技場、日本武道館などの競技施設が整備され建設需要が高まった。またオリンピックを見るためにテレビを買ったりと、日本の都市と生活の一つの転換点でもあった。
 1964東京五輪開催が決まった1959年(5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された)、その年度の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」というフレーズに、感覚が伴い始めたのが1964年の東京五輪が過ぎた後だった。  1959年度白書の言葉は「もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」という事実認識だった。
「1964年以降の高度成長期後半は(1973年のオイルショックまで成長は続いた)、お父さんはバーやキャバレーやダンスホールで騒がず、ケーキとプレゼントを買って、郊外の家に帰っていった。 高度成長期は、暴力的だった祭りが、すこし人がましくなっていく時代だった。元気ではあるが、少しは文化的に暮らそう、と考える余裕が出てきたのだ。戦後の混乱期は、ようやっと1964年を境にきれいにおさまっていったのだろう。」 (2017.11.16 1964・東京オリンピックは「社会の熱気」を持ち去った…!? https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53500?page=3)
(1964年東京オリンピック https://ja.wikipedia.org/wiki/1964%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF#%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E9%96%8B%E5%82%AC%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF オリンピック景気 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E6%99%AF%E6%B0%97 2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた日本経済の課題 https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2015/05/201502-03_69.pdf)
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 戦後が終わり、東京五輪が終わり、‘戦争を知らない子供たち’が若者になり(『戦争を知らない子供たち』作詞: 北山修、作曲: 杉田二郎。1970年発表)、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。1969年は、時代の転換点の一つだった。
 その1969年のさらに50年前、ヴェルサイユ条約が締結された1919年、なんかやばいことめっちゃ起きてた。
(cf. 1919年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1919%E5%B9%B4)
 「ファシズム」と「共産主義」、「革命」と「戦争」、「20世紀の様相をかたちづくってきたもの」、「科学」と「民主主義」。  それぞれの時代や場所、その時の感情や取り巻く環境、そして言語によって、それらの言葉は何を連想させ、何を変え、何に変えられてきたのだろう。
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 新しい知識体系を学ぶということは、「隠されたもの」を語源とする「オカルト(秘学、神秘、超自然的なもの)」に近い側面がある。
 英語の「アルジェブラ(代数学)」の語源となる著書や、名前が「アルゴリズム」の語源となったことで知られる、9世紀前半のイスラム科学の学者、天文学者、数学者であるアル=フワーリズミーは占星術師でもあった。  天文学と占星術が分離されるのは17世紀科学革命後であり、分離後も占星術は現代に至るまで引き継がれ、1960年代のカウンターカルチャーにも影響を与え、現在もサブカルチャーのひとつとして残っている。
 科学と、疑似科学あるいはカーゴカルトのようなものを峻別するには困難がつきまとい、たとえ疑似科学、オカルト的言説であっても社会的な需要に応えることで残り続ける。  形だけを真似ただけの、正直さに欠ける行為が、本質からの逸脱を招く。
 逸脱を招かないため、逸脱してしまった時に戻るため、困難に打ち勝つため、正直さを失わないために重要な心の領域を分析する心理学的手法も、占星術は導入している。  さまざまな手法の上に独自の解釈を組み込みドグマ化していくというのは、疑似科学やオカルト的言説に限らず、絶対的指導者不在の自ら進んで設立または参加した集団でも、どんなところでも起こりうる。  かつての自分自身の考えと、今また考える自由に、引き裂かれもする。
(フワーリズミー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%BC 西洋占星術 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93 カーゴ・カルト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88)
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 ユング心理学で「布置」と訳されるコンステレーションという言葉がある。(constellation「星座」の意。 そこから転じて“点と線で連なっているもの”を表す語としても用いられることがある。)
 個人の精神が困難な状態に直面したり、発達の過程において重要な局面に出逢ったとき、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくることを、布置(コンステラツィオーン、独語:Konstellation)という。
(分析心理学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)
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 一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、それらが一つのまとまりとして、全体としての意味を持ったものに見えてくることがある。あるいは、新しい言葉を手に入れたり、新しい体験をしたことで、認知のパターンが変わり、今までも見ていたはずなのに認識できていなかったものが見えてくることがある。  一方で、混沌を秩序づけ世界を理解可能なものにしたいという感情が、ランダムな物事の中に何らかのパターンを認識させてしまう。データの違いを無視して類似性を強調することにより、誤った結論を推測するという誤謬に陥る危うさがつきまとう。
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 振り返ると、転換点ばかり。
 僕たちは回転している。
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2019年12月 プレリュード
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sylphy-bat · 5 years
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Batman: Eternal
バットマン75周年記念の一環として、2014年4月から1年間にわたって続いた、52 issuesからなる大作。最近とうとう翻訳された。75周年記念とあって、ライターも、アーティストも豪華な顔ぶれがそろっている。メインライターはScott Snyder, James Tynion IVなど、アーティストはJasonFabokをはじめ、Dustin NyguenやAndyClarkeなどなど。それぞれの表紙もまた見ものである。残念ながら私はリーフでは追わず、TPBをまとめて買ったものの、当時リーフを追っていた読者は、あまりにも先が読めないストーリー展開で、ハラハラドキドキだったようで。(と言って、私もTPB発売後、数時間で一���に読み終わったほどだが��実際また読み返してみたのだが、素晴らしい。そして、ヒーローから昔のヴィランまでキャラが勢揃いし、サブプロットが枝分かれしているものの、全く中心のストーリーがぶれず、ここまで一気に読みたくなるシリーズはなかなかない。確かに原書でもかなり分厚いし、邦訳でもちょっと高いと思ってしまうかもしれないが、これだけは読んでおいて損はない。ぜひ、手に取ってみることをオススメする。
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この長編をレビューとなると、かなりネタバレを含まざるを得ない。これは結末を知ってしまうと半分楽しみがなくなってしまうので、全部読み終わってから、このレビューを読んでいただければと思う。
まずは簡単なあらすじを触れておこう。冒頭にある男がデトロイトからゴッサムへ到着する。Jason Bardである。(実は彼は新しいキャラではなく、もともと1969年からゴッサムの警察官としてコミックには登場している)彼はゴードンの推薦を受け、ゴッサム警察で新しく働くことになった。その頃ゴードンは、プロフェッサー・ピッグの手下を追って地下鉄へ。ゴードンはその手下が銃を捨てなかったことから発砲。だが、手下は実は銃を持っていなかった。その一発の銃弾が、大爆発を引き起こし、162人が死亡。(実はこれは27で割れるのだが、これはやっぱり意図的だろうか笑)ゴードンは、Bardによって逮捕され、後ほどブラックゲートへ移送されることになる。バットマンとファミリーたちはゴードンの無実を証明しようと奔走するが、ゴードンの逮捕をきっかけにゴッサムは悪の連鎖を生み出していく。一旦ペンギンによってゴッサムを追われていたはずのファルコーニが帰還、市長と警察を裏から支配し、ゴードンの代わりに本部長になったForbesは組織的犯罪や普通の犯罪に対して背を向ける代わりにバットマンを逮捕しようとする。マフィアたちはこれを機に暗躍する。謎のNano-bot ウイルスがNarrowsで蔓延する。アーカムアサイラムではあの伝説的な(?)宗教指導者、Deacon Blackfireが復活を遂げようとし、アーカムアサイラムは崩壊する。そしてスポイラーは、このゴッサムの崩壊をたくらんだ者の秘密を知って追われる身となり、懸賞金がかけられる。Jason Bardは最初こそバットマンを支援していたものの、その後自分の計画を実行し、バットマンをより苦しめていくことになる・・・中盤ではハッシュにより、バットマンはブルースとしても追いつめられ、ウェイン・エンタープライズも全ての資産凍結、バットマンの活動さえ危うくなっていく。この全ての、バットマンとブルースの失墜を計画したのは誰か。それはバットマンでさえ思いもしなかった意外な人物だった・・・
たぶん全部のあらすじを書こうとすると、いくら書いても足りなくぐらいだが、人物にフォーカスしながら、気になったところを書いておく。
この作品のテーマは無論、「バットマンは永遠か?」。実はこのテーマは、作品の後半あたりで、ラーズがバットマンに投げかける疑問でもある。ラーズはEbeneezer Darrk, またの名をLord Death Man(実は日本のヴィラン)の力を借り、バットマンに未来の一部として、様々なバットマンの姿を見せている。自分がバットマンとして永遠に活動するか(まあ、これは後の作品でもクローン化の話はあるし)、またロビンがバットマンのマントを受け継ぐか(ナイトウィングでも、ダミアンでも)、またはBatman Beyondか・・・。バットマン自身、バットマンは常に存在するべきだ、と理解している。ゴッサムはバットマンが必要だ、と。ただ、もちろん、バットマンは人間である。Lazarus Pitなどの奇跡でもない限り、彼自身が永遠に存在することはできない。彼は不老不死ではないからだ。彼は、どんなに自分で努力しても、どれだけスキルを磨いても、人間としての限界は存在するのだ。
今回の作品は彼の限界がまざまざと見せつけられるものである。過去の作品でも、バットマンが追いつめられる作品は多くあるが、ここまでボロボロになる姿はなかなか見られない。特にこの作品全体にわたって繰り広げられる、バットマンを陥れる大いなる計画は、最後の最後までバットマンを悩ませるものである。冒頭のゴードンの逮捕で、バットマンはすぐにゴードンは無実だと確信しているものの、ゴードンをブラックゲートへ送り込んだ実際の犯人にたどり着くまでかなり時間がかかっている。一番の要因は、同時に、しかも見た目ではまったく無関係に見えた問題が次々と発生したことだろう。例えば、コミックHushでもヴィランは数多く出現するが、あの場合、一つの謎が次の謎へとつながることで、バットマンはそれを順序よく解決するだけでよかった。また、他のコミック作品でも、バットマンを倒そうとして、複数のゴッサムヴィランが一致団結、協力することはあるが、たいてい最後にはお互いの利益よりも自分の利益をどれだけ最大限にするかを考え、仲間を裏切ることが多い。そのため、打倒バットマン計画は多くは失敗することになるのだ。今回のバットマンを陥れる計画はある「招待状」から始まっている。ヴィラン、そしてバットマンに何らかの不満、憎しみを持つ者すべてに配られた。なぜ今回の計画がここまで成功したのか。それは、以前と同じようにある目的にそって「彼らが一緒に行動しなければならない」というわけではなく、今回は彼ら自身が自分たちのやり方で、バットマン/ゴッサムに対して攻撃をしかけたからである。彼らには確かに招待状を送った「名も知られぬ首謀者」はいるものの、その首謀者は彼らをコントロールしているわけではない。バットマンを傷つければそれでいい。それが一層バットマンたちを悩ませる。この時期に様々な事件が集中して起きていることで、何かしらバットマンたちに関連性があるのではないか、と疑わせるのだが、彼らそれぞれの目的は、実はばらばらである。事件が同時多発的に起こることで、バットマンの注目が削がれ、そしてファミリーもそれぞれの問題に追われ、また分散することになる。言うなれば少しWar Gamesにも近い。今回バットマンは早い段階からこの問題は自分一人の問題ではないということを認識し、ファミリーの手も積極的に借りることで、Death of the Familyで砕かれた絆を元に戻そうということも言えるのかもしれない。
最初に今回新しく加わったメンバーについて触れておこう。そう、Julia Pennyworthである。彼女は、バットマンがファルコーニの関連で、今は香港のマフィアのボスであるSheng Fangの元へ行くのだが、同じようにFangを追っていたのがJuliaであった。彼女はSRR(Special ReconnaissanceRegiment, イギリスの特殊偵察連隊)の一員で、しかもアルフレッドの娘であった。Fangの戦いで重傷を負い、ウェイン邸でアルフレッドと再会、その後アルフレッドがハッシュに襲われたことから、最終的にバットマン、ファミリーを支える「Penny-Two」として活躍することになる。彼女はフィールドでの経験もあることから、バットマンと一緒に活動することもしばしばだ。今回のアルフレッド、そしてJuliaなのだが、やはり一番ヴィランからは狙われやすいのだろう。全体的に交互に狙われている気がする。アルフレッドがハッシュにFear Toxinをこめかみから注射され入院したときには、全くわからないながらもJuliaが引き継ぐ。またJuliaがハッシュに狙われたときにはアルフレッドが支える。バットマンのサポートをする者はずっとアルフレッドのみだった。新しい者が入ることで、またバットマンとアルフレッドで当たり前だったことに違った疑問が投げかけられるのもまた面白い。(ケイブのコレクションの疑問とか)ただ、彼女とアルフレッドの共通点は多く、特に鋭い皮肉は間違いなく父親譲りと思われる。
Red RobinはNarrowsで謎のウイルスをハーパーとともに探ることになるが、ここではハーパーの成長にフォーカスしたい。彼女は、Narrowsに住んでいるからか、自分の身は守れるほどには強い。ヒーローには憧れを持っているが、彼女にはまだまだ犯罪者と戦うようなスキルはない。謎のnano-botウイルスにやはり感染した弟、Cullenを救うため、という目的で、スタンガンとITスキルを武器に、Red Robinと一緒に活動するようになる。(まあ、Red Robinにしてみればいい迷惑だったような気がするが)でも彼女はシリーズを通してかなり成長したように思える。原書のGraveyard Shift(真夜中の事件簿)の最後の作品として収録されているGothamEternal (Batman #28) は、そんな彼女の活躍を垣間見ることができる。(これはEternalシリーズが始まる前にpreviewとして発売されたものだ)バットマンはSpoilerがセリーナ(今は犯罪界を取り仕切る者に登り詰めた)のところにかくまわれていることを知り、ハーパーに、セリーナが経営しているカジノ、The Egyptianに行かせる。ここでバットマンとハーパー(コードネームはBluebird)は協力して戦うのだが、意外と息がぴったり合っており、相棒としても全く不自然ではなかった。残念ながら最新シリーズRebirthではヒーロー活動をやめているが。
またバットガールは父親の無実を晴らすため、ブラジルへ一人で行き、結局レッドフードやバットウーマンにも助けられながらも、最終的にゴードンに銃を持っている幻覚を見せたのがFalsarioだと突き止める。(ただ最後に彼はある者に殺されている)個人的にレッドフードとファミリーの関係は、New 52ではずっといまいちつかめていなかった。今回は一応バットマンの頼みでバットガールをサポートする役割をしているのだが、バットマンと一緒に何かを解決する、というよりも、彼はOutlawsもあるからか、バットマンやファミリーとはつかず離れずの距離を保っている。ただレッドフードの見せどころがある。バットマンがBardにゴードンの無実を証明する証拠を手渡したにも関わらず、Bardはゴードンを釈放しなかった。そのためバットガールは、Bardを捕まえ、屋上からつるし上げ、本気で殺そうとしていたのが、それを止めるのはレッドフードである。それは自分の仕事だ、と言い、本当にロープを離してしまうのだが、バットガールはようやく正気に戻り、Bardを助けるのである。追いつめられれば、人間はどんなことでも、やるのだが、追いつめられたときこそ真価が問われるのかもしれない。レッドフードはバットガールが止めると信じ、ロープを離したのだろう。今回のシリーズでは、レッドフードの信頼と機転がファミリーを何度か救っていると思う。ただ、彼はやはりファミリーに属することはなく、また同じくOutlawsへ帰っていく。やはりまだバットマンへのわだかまりは消えないままなのだろう。
またBatwingはCorriganと一緒にBlackfireが引き起こした超常現象を調べる。BlackfireはBatman: The Cult(1988)という作品に出てくる宗教者。バットマンを身体的・精神的に責めさいなんだ者である。今回のEternalでも言及があるが、The Cultでは最後にバットマンの一騎打ちでBlackfireはバットマンに敗れ、信者に集団リンチ状態で殺されている・・・はずだった。で、今回はMaxie Zeusの体を借りて、Joker’s Daughterなどを従えて復活をたくらむのである。個人的に、ここでBlackfireを出してくるとは本当に思わなかった(笑)BlackfireはCult以外にはそんなに出てきてはいないし、ゲームArkham Knightのサイドミッションで出てくるぐらいである。ただ、ここでEternalというテーマを考えてみると、バットマンが永遠であるならば、ヴィランもまた永遠であるということを証明する一つなのかもしれない。考えてみれば、バットマンが戦い続けられるのは、同じく戦い続けられる相手がいるからである。バットマンも歴史を通じ、死に新しく生まれ変わることで、新しい価値観を生んできた。Blackfireも生き返ることで、バットマンの長い歴史を支える一人のヴィランとしてとらえられるのである。ただ、面白いことに、バットマンは現実的なキャラであり続けるが、こういうオカルト系のヴィランもバットマンのヴィランとしてふさわしいのは、バットマンが逆にそういう力が持つ強さを信じ、自分で活用しているところもあるからである。Criminals are superstitious and cowardly lot. 彼は蝙蝠というものを纏うことで、人間ではないように思わせる。バットマンが理性的な存在であるのにも関わらず、そういうunnaturalで、supernaturalな世界にもうまく適合するのは、そのせいだろう。バットマンも、実は、理論だけで説明できないことがあることは理解している。Gentleman Ghostと戦うバットウィングを助けたときにも、Nth Metalのバタラングを使っているが、理由は説明できないが、効果的なんだ、と言っている。以前にゴッサムは謎だと書いたことがあるが、その理性的な、また普通では説明できないものも含めて謎なのだろう。ゴッサム���不自然なことが起こっても、それがゴッサムだから、というふうに一言で済ますことができる。ゴッサムでは、どんなことでもあり得るし、当たり前になるのである。昨日の驚きが、今日の普段になる・・・・とするとやっぱりゴッサムにはあんまり住みたくないという結論にはなるのだが・・・まあ、その問題については置いておこう・・・
BlackfireはThe Spectreによって復活を阻止されたのだが、その結果アーカムアサイラムは崩壊する。では、その「患者」たちはどこに行くのかというと・・・ウェイン邸、その名がArkham Manorへと変わるのである。実はBardはハッシュと組み、バットマンを支援していたウェインエンタープライズを陥れる作戦を実行した。Hushが知っていた、バットマンが町中に隠していたバットマンの武器庫。それをハッシュは遠隔で爆破したのだ。もちろんその武器はウェインエンタープライズによるもの。ウェインエンタープライズの評判を失墜させ、最終的にはPowers Internationalに吸収されるわけだ。
今回のハッシュの関わりはとても興味深いものだ。中盤で、突如アルフレッドを襲う犯人として登場し(しかもアルフレッドをアーカムアサイラムに移したのも彼)、Bardや、Bardが釈放したあのthe Architect (Gates of Gothamに登場した、Zachary Gate)と協力し、ゴッサムを文字通り崩壊させる戦略に打って出る。Architectこそ、ゴッサムは自分が建造したものであり、自分のものだと思っている。特にGates of Gothamでは、美しいゴッサムを作り出そうとしたが、結局ゴッサムの有力者に使われてしまった結果、彼が着るスーツによって少しずつ正気を蝕まれていった。今回の彼の「帰還」がハッシュとともにあるのは、Gates of Gothamの視点で考えてみても、偶然ではないのだろう。ハッシュは言うまでもなく、エリオット家に属するのだが、19世紀当時、エリオット家はウェイン家やコブルポット家と同様、ゴッサムの有力者に数えられ、Gates兄弟とともに初期のゴッサムを形作った者たちだった。ただ、エリオット家とコブルポット家は、考えてみれば、現在では廃れ、ウェイン家だけが残る。とするとやはり残る者に当然妬みが向けられるわけだ。ハッシュ、トミー・エリオットの人物の解釈は他のレビュー(特にHeart of Hush)で詳細に触れているのだが、彼の場合、バットマンというよりは、ブルースへの憎しみが強い。(特にエリオット家とウェイン家の確執と言ってもいいだろう)このシリーズでも、Juliaにトミーの過去を語るブルースの場面で、一部だけコミックHushの回想に似たものが挿入されているが、ここで一番興味深く思ったのは、トミーの両親の殺害の理由は、ブルースのように孤児になりたかったという解釈がされている。(要はここではブルースの両親の死がトミーの両親の死よりも先らしい)その後、トミーはとにかくブルース本人になりたくて、姿かたちまで真似するようになる。ここではトミーはブルースを「崇拝」し過ぎて、トミーにはブルースは理想の人物にしか映らないのだろう。ブルースの尊敬の念が妬みに変わり、憎悪へと変わるのに時間はかからなかった。彼らはやはり鏡の関係なのである。ひとつあげておくと、やはりトミーの回想シーンで、自ら鏡に自分の額をぶつけ、血を流しながら鏡の中のブルースを見つめる場面と、バットマンのMartha Wayne Foundation Hospitalの武器庫を爆破しようとしていたハッシュとバットマンが一対一で戦い、ハッシュがバットマンの別のスーツを着て戦うのだが、ハッシュの割れたマスクに鏡のように映るバットマンがいい対比になっている。彼らは境遇も似た存在でありながら、ここまで違うのだ。今回の機会は、ブルースへの恨みを晴らすための絶好の機会と見たのだろう。Bardを自分の手駒として使い、(しかも使い捨てだが)バットマンのガジェットを破壊し、バットモービルまでコントロールした上バットマンを殺す一歩手前までいったため、Eternal中でブルースもバットマンも一番追いつめたとすればハッシュだろう。ただ一番彼が今回の計画の首謀者と思いきや、彼も違った。
今回の計画で見えてくるのは「力」である。もちろん身体的に限らない。何を持つか、何を支配するかで優位性は変わってくる。ファルコーニは香港からゴッサムに帰還したが、彼はやはり昔のやり方でゴッサムを支配しようとした。警察と市長のコントロール、そして裏世界に幅をきかせコブルポットと支配権を争ったわけだ。ゴードンと実は一緒に監房に収容されていたLeoは実はRex Calabrese, the Lionで、ファルコーニの前にゴッサムを支配していた。彼はあるとき、娘のセリーナを呼び出し、この混沌に秩序をもたらすのはお前だけだと言う。セリーナは一旦断るものの、最終的にそれを運命と受け止め、ファルコーニとペンギン両人とも失墜しブラックゲートへ収容されたのちに、彼女は(しかも効果的に)上へ登り詰め、ゴッサムの裏社会を上手くコントロールすることに成功した。宝石泥棒からマフィアをまとめるトップへと。一人で活動するのが好きだった彼女が「群れ」を率いるリーダーとなったわけだ。よく考えればセリーナが自分の別人格として選んだキャットウーマンも、ライオンと同じ猫であるが、父親とやはり似たところがあったのだろうか。彼女の場合の力は、創造性と機転と決断力なのかもしれない。
Bardの視点での力もまた面白い。彼は、ゴッサムに来た時は普通の警察官であったのだが、早期からVicki Valeと親しくすることで、メディアを味方につけた。メディアを味方につけるということは、市民の力を手に入れること。Vickiは他が追うようなbig newsではなく、storyを追い、真���を見つけたいと思っていた。それにBardがつけこむような恰好である。最初Bardはゴードンの代わりに本部長になり、ファルコーニの支配下にあるForbesをいかにこき下ろすかで計画を練り、バットマンとともにファルコーニと関わっている者を次々と逮捕していく。そしてVickiも一緒に連れていくことで、Forbesとファルコーニの悪事の数々と同時に、自分がいかに本部長にふさわしいかと市民にアピールした。その後に実行した計画。新聞によってテロ事件が多発すると市民の不安をかきたて、戒厳令を敷き、その後全ての事件をバットマンのせいにしていく・・・彼の力は、市民と警察官をコントロールすること。それによって、何をしても、それがどんなに悪であろうとも、自分が言えば善になる・・・そういう力は、どんな爆弾よりも実は危険なのかもしれない。それは個人の思考力が奪われることでもあるから。Bardがここまでバットマンを憎むのはもちろん理由があった。デトロイトで彼はパートナーを失った。バットマンに憧れたある者のせいで。バットマンが危険な行動を生み出すのではと思った彼は、ゴッサムを、ゴードンを憎み、そしてその憎しみを利用したのがハッシュだったのである。
さてここで、Spoilerの話に移ろう。(実はけっこう好きなキャラだ。今回のコスチュームもカッコイイ)Spoilerはあるきっかけから父親のCluemasterがSignalmanやRatcather, Prankster, Lockupなど他の一味とともにたくらんでいることを偶然にも知ってしまい、父親から狙われ、しかも懸賞金までかけられることになる。彼らは間違いなく2級または3級レベルのヴィランたちなのだが、意外とゴッサムを混乱に陥れることについては一番効果的だったように思える。信号が全く機能せず、ゴッサムは万年渋滞、下水道にネズミが繁殖することで、水道管は爆発するわ、疫病も流行らせようとするわ、定期的に電気を止めるようにするわで、ゴッサム市民のストレスを上げることで、さらに混沌を巻き起こすわけである。SpoilerはSpoiler Alertというネットの掲示板で、父親とその一味の計画を発信し続けていた。ただヴィランがCluemasterなので、リドラーのモノマネしてたやつだろう、と全く相手にされず、しかもVickiも記事にしようとしなかった。Spoilerの武器は「情報」である。今考えてみると、War Gamesでも彼女がバットマンの計画を勝手に使ってギャング抗争を引き起こし、彼女が抗争の引き金ゆえにシリーズの鍵となっていることから、今回も一応同じような役割を果たしている。Spoilerの意味はネタバレと台無しにするという意味があるため、彼女が情報、秘密を重要視するのはもっともである。Spoilerはセリーナにつかまるが、セリーナはSpoilerにまた精神分析みたいなことを行っている。Spoilerが今のように「手がかり」を残しながら情報を発信するのは、父親より上になりたいから、と。父親に認めてもらいたいからではないのか、と。Spoiler自身は否定するが、でもCluemasterの娘であることは否定できない。彼女にはその血は流れているのだから。その後ハーパーのもとにかくまわれていたが、結局彼女は、この計画の黒幕はブルースだと言い張り、最後にゴッサムから去ろうとする。彼女が言う、黒幕がブルースだと思ったのは、ブルースに似ている(そして最後なぜかやっぱり?登場する)Lincoln March、またはハッシュと勘違いした可能性もなきしもあらずだが、実はブルースだというのももしかしたら、別の意味であり得るのかもしれない。バットマンに人生を奪われたブルースからすれば、バットマンを全面的に攻撃するのももっともだし、バットマンを良く知っている彼からすれば、この全ての事件を計画するのも可能だろうから。(まあ、R.I.P.のJazabel Jetもそのようなことを言っていたのだが)
で、結局この首謀者は最後の最後で明かされるわけだが、Spoilerが半分正しかったわけだが、Cluemasterであった。Fireflyによりゴッサムが燃え盛る中で、彼はバットマンをバットシグナルで呼び寄せ、処刑しようとする。彼の言い分は確かに少しは正しいだろう。バットマンは特にA級ヴィラン(ジョーカー、トゥーフェイス、キャットウーマン、リドラー、ペンギン・・・)にしかフォーカスしていないと。自分のようなB級でもバットマンと対等に戦える、いや実際により意表をつけるのではないか、と。でもこう考えてしまうと、ヴィランは結局やはりバットマンの注目を浴びたいのでは、そして自分がバットマンを殺す者になりたいのではないか、と思えるのだ。要は、自分が行動する意味はバットマンから生まれると言っても過言ではない。ヴィランはバットマンに依存することによって、生かされているのである。また、ここではCluemasterが自分のファイルなどバットコンピュータには存在しないだろう、そんな無名な者に殺されるのだ、とバットマンに言うが、おそらくバットマンであれば、全てのヴィランの記録をしているだろう。どれだけ無名であっても。バットマンはどんなにつまらない情報でも蓄えているだろう。そこはおそらくSpoilerと考えが共通なのかもしれないが、そこにどんなに関係ない情報でもつながりを求めるのだ。情報こそ価値あるものであって、そして誰も知らない情報であればもっと価値が上がり、それが「力」にもなる・・・
バットマンをどうすれば効果的に殺せるのかはよく話題にあがる。今回は当初から複雑な計画を練り、バットマンを疲れさせたうえで、最後にとどめを刺す・・・Knightfallも確かに当てはまるのかもしれない。結局はベインの作戦勝ちでもある。(ベインはただ筋肉だけで勝つのではない)または、普通に、名もなき市民によって殺されるのか。(B&W: An Innocent Guy)味方に裏切られ、自分の正体もばらされたうえで、殺されるのか。(Arkham Knightでスケアクロウがやろうとして失敗)バットマンは、冒頭言った通り、確かに人間である。彼を普通の人と同じレベルにまで落とせば、殺すのはたやすい。今回のCluemasterもその考えだった。彼はバットマンがブルースとは知らなかったものの、マスクをはぎとり、正体を知った。全てを失ったバットマン/ブルースは、もう伝説のヴィジランテでも何でもない。ただの、自分と同じ人間だと。ここで考えてみたい。バットマンはマスクをとったら死ぬのか?(もちろん修辞的意味だが)多くのヴィランはバットマンが誰か知りたがる。(ジョーカーは違う、と言いたいところだが、一応Endgameを参照されたい)でもバットマンはバットマンなのではないのか?バットマンのマスクの下はバットマンとは「違う」者だ。その者は「バットマン」ではない。なぜって、その者はそのマスクの下の素顔でバットマンの行動を行わないから。バットマンを定義するのは、その下の人間ではない。その姿、その行動、その行動によってもたされるもの、彼がずっと守り続けるポリシー、それがバットマンを構成する。私はバットマンはブルース・ウェインではないと思っている。バットマンはバットマンなのだ。その下に誰がいようが、先の要素がある限り、バットマンは存在できる。
だから最後のシーンに全てが集約される。バットマンはCluemasterを殺したあの例のブルースの弟(!)であるTalonと戦うが、その絶体絶命のときにゴードンの声が響く。そしてゴッサムはバットシグナルで包まれるのだ。我々は皆バットマンになるのだ。ゴードンのそのスピーチによってこのゴッサムの危機に立ち上がるのは、バットマンに感化された者たち、バットファミリーに限らず全ての者、Bardもキラークロックも、帰ってきたSpoilerもみんな、彼らこそバットマンの一員であり、「バットマン」であるのだ。バットマンの意志を持つ者がバットマン。彼らはみんなでTalonを地下へ追い払う。この長き作品は、「バットマン」たちの勝利で、やっと幕が下りるのである。
冒頭の問いに戻ろう。バットマンは永遠か?私の答えは無論Yesだ。その下にある人間が死のうとも、彼の意志を継ぐ者、彼の信念を理解し、貫く者がいればこそ、バットマンは生き続ける。もちろん、犯罪と戦うことが人々をバットマンにするものではない。何があってもあきらめない精神。常に高みを目指し続ける精神。彼の精神を少しでも持っている者でも、バットマンになれるはずだ。そうやって、人々の心の中にバットマンは存在し続ける。そのバットマンの精神があれば、どんな苦難でも乗り越えられるはずだ。人々がその精神を持ち続ければこそ、バットマンはいつの時代にも存在し続けるのだ。彼は単なる人間ではない。彼は、永遠に生き続けるシンボルなのである。
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uraniwa-harmas · 6 years
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日曜日の冒険3
東急文化会館前から新橋ゆきのバスに乗り込んだ。 上映中の映画の看板が見えたが、なんの映画がさっぱりわからなかった。
バスはゆっくりと、たゆたく街をズームし始めた。
座りながらローアングルで街の景観も観れるから、バスはまるでカメラのような乗り物。
その頃の僕たちは「わたしは慎吾」を狂信的に聖典のように読みふけていた。
粒子は真剣に東京タワーの天辺から飛び降りる計画を、念入りに周到に立てたが未だに実行されていない。
その理由は単純で、
僕たちは大人になり過ぎていたからだった。
東京タワーのエレベーターに乗り込んだ。
大展望台までは45秒で辿り着くとアナンスの後、
エレベーターは上昇を始めた。
室内はLEDのライトで装飾され、宇宙をイメージした電子音楽が流れ、僕は密かにはにかむ。
気圧の変化で鼓膜が喘ぎ声を唸った。
エレベーターに陽射しが入り込み、その瞬間、僕は眩しさのあまり瞼を閉じた。
暗闇の中、空へ吸い込まれるように上昇していった。このまま天へめされるのかと思っていたら、
時間の感覚も無秩序になっきて、瞼を開けようとする意識に何かが抵抗している気配を感じた。
上昇感覚も空間感覚も消え失せ、意識だけが空間に浮遊しているようだった。
僕の意識は空中で惨めに漂った。
もしも、意識だけが飛び廻る事ができるのなら、宇宙空間へ飛び出すのか?それとも世界の終焉へ向かうのか?そんな僕でも時間と空間を超越できるのか?
例えそれができたとしても、この意識は、きっとワンルームの部屋で燻っているんだと思う。この街にはそんな不甲斐ない魂が無数に漂っていては、自由や解放すら恐れている。そんな事は誰もが知っている。
旅やダイブする事すら恐れ、忘却てしまった、僕の自閉的で歯痒いココロは、水槽の中でゆらめくクラゲのようなものなのだろうか。それとも部屋の片隅で丸くなるダンゴムシのような存在なのか.......
案内係りの問いかけで僕は我に返った。
エレベーターは展望台に着いていた。
薄い水色に支配された東京の街が僕を待っていた。僕たちはこんな巨大な箱庭のような街で暮らしている。
粒子を探した。
すぐに彼女が背負う薄いピンクのザックパックが目に入った。
小柄な彼女が大きなザックパックを背負うと、ザックパックが粒子を背をっているようにも見えた。
「つぶこ!」
粒子は一心不乱に東京の上空を見詰めていた。ようやく僕の気配を感じとり振り返る彼女は、奇妙なメガネのようなものをかけていた。一見VRのゴーグルのようでもあったがそれとも違っていて、見かけからしても性能性や科学性も微塵も感じられなく、チープで手作り感覚で、どちらかというと仮装するための代物だった。
おまけに粒子の両目は電池式でカラフルにぐるぐると廻っていた。
「その、メガネのような装置はなに?」
彼女は問いかけに答えずに、
僕に会ったら吐き出そうと、ひっそりと秘めてい台詞を少し誇らしげに投げつけた。
「この街の光景はいつ見ても複雑ね。
でも私たちの意識が作り上げた結晶体のようなもよ!」
彼女説明によると、謎の装置は画家のブライオン・ガイシンが開発したドリームマシンという幻覚作用を誘発させる作品の応用と偏光フィルターを使って制作された、パラレルメガネという自称作品であった。
見えないものが見える可能性を秘めており、
電磁波が強い場所では体内の電子と共鳴して、その性能が一段度あがるとの事だった。
僕は半信半疑というより、それ以上に、装置の説明を上の空に聞いてきた。
粒子はある美大のデザイン科に通っていたが、今は心的な理由で休学中の身だった。
だから、ありあまる時間を使いこなし、常に謎の装置や道具を作っては(粒子は発明とか実験というが)時には僕を実験の被験者にもした。彼女の大きなザックパックの中には、最近開発された謎の道具たちが引き締め合っているはずだ。
「こんなに天気の良い日なのに、何処にも入口がみあたらないのよね。全く困ったわ!」
「なんの入口?」
「もちろん、あっち側へ行くための入口よ。
私の逃げたギターはきっと、あちら側の世界へと迷い込んでしまったのよ。可哀想に」
粒子はパラレルメガネを外しながら不満気に云った。
「ねぇ、光くんもパラレルメガネ付けてみてよ。つける人の意識状態で見えるものが違ってくるのよ」
僕は一瞬ひるんだが、仕方なくパラレルメガネを装着した。
「ねぇ、何か見える?」
粒子は僕の顔を覗き込むように云った。
偏光フィルターの効果で、東京の街はいつも以上に鮮明には見えたが、当然だが、いつもと変わらない穏やかで混沌とした風景でしかなかった。
「やっぱりあちら側へいくには、トンネルやウサギの穴を通らなければ、やっぱりダメなのかしら」
粒子は独り言のようにつぶやいた。
電池が切れたのかゴーグルの回転が止まった。その瞬間東京タワーが突き刺さるように揺れた。
おそらく震度4ぐらいの地震だと体感感覚が答えた。あの日の震災以来そんな感覚が身についていた。それにしても初めて体験する東京上空での地震。僕は咄嗟に粒子の手を握った。だが、彼女は怪訝な表情で僕を睨んでいた。
「地震だよ!」
僕は叫喚した。
「揺れてないよ。光くんちゃんと探してよ」
粒子はいつも以上に冷静だった。
パラレルメガネのおかけで、僕の平衡感覚がどうにかなってしまったのかもしれない。
それにしても大きな揺れだっが、僕の身にだけ地震が起こるはずがない。
もしそんな事があれば、それは、アイデンティティーの変革の兆しか。
パラレルメガネを外そうとした瞬間、僕は確かに見た。それは、展望台より上、つまり東京タワーのアンテナあたりから、七色に光���無数の物体が飛び散っていた。北アメリカでは越冬のためにオオカバマダラという蝶が、
数百万匹の大群で何千キロも集団飛行すると海外のドキュメンタリー番組で見た事がある。
それに似た現象を、東京の上空で僕は遭遇した。
しかし、大群の正体はテレビのカラーバーの電子の精霊だ。
アナログ放送を終え、その役目を全うし、いったい何処へ向かうというのだろう。この街にエレクトロニクスの森があるとすれば、そこで静かに暮らすのだろうか。それともデジタルの電子として蘇生して、スカイツリーにでも移住するのだろうか。
だが電子の精霊たちは、スカイツリーには向かずに、日比谷上空辺りで分散して地上に散っていた。
僕は展望台で唖然としながら蝋人形になるしかなかった。
その出来事は粒子には秘密にした。いや、秘密にするしかなかった。
それを聞いた彼女の行動がより一層と過激化するだろうし、僕自身の心理の状態やら生理学的な事を粒子が、理論的に説明する事を想像したら、ただ面倒くさく鬱陶しいからだった。
「やっぱり、あちら側の入口は空中ではなく地上の何処かにあるのね。それも最初からわかっていた事だけどね!」
彼女は自分を弁明するかのように云って、
パラレルメガネをザックパックに押し込んだ。
東京タワーが放つ電磁波と波動の周波数が、僕にはとっては解放の起爆剤であり、入口だったのかもしれないと後で気づく事になった。
「次は、瞬間トンネルへ行くわよ!」
粒子は東京の街に背を向けエレベーターへ向かった。
「何のトンネル?そんなトンネル何処にあるの?」
「着いてくればわかるわよ。早く早く。エレベーターが来てるわ」
この街には「うさぎの穴」は存在しないし「マントルピースに飾られた鏡」も見かけない。だから、粒子はアリスにはなれないのだろうか。
仮に2018年の東京でアリスが不思議な国へ向かうとしたら、
いったいどんな入り口を見つけ出すのだろうか。
そんな事が脳裏をかすめた。
僕は沈黙する東京の街を一瞥して、彼女の後を追った。
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mothermonika15 · 7 years
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札幌国際芸術祭に参加する鈴木昭男さんと宮北裕美さんのパフォーマンスを撮影するため舞鶴港から小樽港に向けて航海している 東舞鶴港に駅から向かう道すがら ジャック・スパロウ船長のポスターを見つけたから港に気のきいた映画館もあるものだと毎度この千代田会館のまえを通りたくなる
札幌国際芸術祭に限らず先頃閉幕した中西夏之展にしてもオープニングに集う人々はどちらかというと「美」を求めてわざわざ遠くまでやってくる人というより 遠くまで行って自分のところでできる話をする人たちで賑わう まずはオープニングのために話し そのあとは快く参加してくれた人と話す…その種の偽の切断が苦手なので私は極力そんなことには関わらないようにもしている
札幌まで芸術祭を求めて行くわれわれは本当の間抜けだけど 旅行を楽しむほどじゃないとしたら百台近いハーレーを積んだこの千トン近い船で北海道にツーリングに向かう軍団の祝祭性に近いものが大友良英さんの言う「祭」の似姿なのかもしれない 『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』もまたそうした「異界を見せる」仕掛けをふんだんに盛り込んだてんこもり映画だが 本作でスパロウ船長は脇に廻り若者たちが活躍するドラマ作りになっていた スパロウ船長のあの呑気さをまわりが絶えず助けて本人ではなくまわりにしゃべらせてしまう船長の役作りは イーストウッド並みのジョニー・デップ…どこか東映の「一心太助」シリーズの如く 近代スポーツの爽快感がパイレーツ・シリーズの醍醐味で 私は幾つになってもこうした映画を封切り日に見るのは好きな方だ
航海の魅力は 大海原の中でネット環境から遮断され 仕事からも解放された緩やかな時間経過だろう 本来時間とはこうした一枚のカーペットのことを言うのかもしれない…と思うより先に身体の疲れや痛みがすべてとれて行く
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熱帯低気圧に変わった台風5号の余波にブライアン・イーノの傑作『ザ・シップ』を重ねてみた ル・クレジオの「物資的恍惚」に近づいた感のあるイーノの指先に曇った声は 3メートルの波に揺られる船体という機械音だ 時代はドビュッシーの『海』よりも更に海の航行に近づいたと言えるだろうか イーノの指先はちょっといじると身体を越えた物質的な恍惚に近づく 波が音楽的な要素に還元されるというより機械の「声質」に応じて変化を遂げる音楽機械?
一方 鈴木昭男さんの場合は限りなく機械からは遠く電気さえいらない身軽な作品がその特徴だ 戸外から室内へと空間を変化させながら鈴木さんの音を録ったときだった 高速道路が真上に走る東京都内の雑沓に囲まれた大音響の環境で鳴る指笛の小さな音に合わせて耳がチューニングされ いつの間にか小さな音にズーミングする耳が散歩しながら室内に移行するときの内耳の変化は 不思議と忘れ難い体験だった そのときは宮北裕美さんや香港在のサウンドアーティスト フィオナ・リーによる「瀧の白糸」に似た水芸の音楽家も同じ道程を移動してのパフォーマンスだったが 屋外から屋内へという運動の反復は後に中西夏之の「2ツの環」を撮影したときにも「反復」した動きとなった
美術も音楽もそこは同じなのだろう 映画では この外から内へという運動の区分はない 同じように聴覚も外と内の区分が基本ないだけに漠然としているが それへの応答として鈴木昭男さんの半野外空間「日向ぼっこの空間」があり そのコンパクトな容の点音(オトダテ)が生まれたように思う
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見て聞こえる音とは違って 音が反響として聴こえる場合は見ていないことが多い 後者は鈴木昭男さんが耳を澄まして決めた位置だとしたら 宮北裕美さんはそのエコー・ポイントに佇むことから逸れて踊りへと移行する では今回のように札幌芸術の森に点在する彫刻群はどうだろう? 雨が降ったら? ダンサーでなくとも動きのポジションは減る=佇み雨だれの音を聴くように身体はじっとして動きは制限される 点音が停滞=淵に立つことだとしたら そこにやってくる音に対して当て所なき待機が宮北裕美さんのダンスとなり かつそれを脱するための身振りは 鈴木昭男さんの手振りと同期しながら挨拶を交す その合図に誘われたかのような宮北裕美さんのダンスは 鈴木昭男さんの発する高い声音と一風変わった結婚(マリアージュ)を催す アナラポスの内的な声と外面的光との表面における邂逅にしたがって形態から精神を解放させ配分するオドリは その瞬間に吹いた風と一緒に動いている 起伏のある腰とふっくらした胸をもった宮北裕美さんの身体を現場で取り押さえたかのような鈴木昭男さんの若々しい響きは 芸術の森がそこで育んだ彫刻の重み この現実的な詩に浸されていた 結婚もダンスとなり得ることを今回のパフォーマンスはおしえてくれた
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今年の札幌芸術祭で見た展示では北海道大学総合博物館で見た吉増剛造さんの石狩シーツ展が印象的だった テンポラリー・スペースの中森敏夫さんたちと吉増さんとが育んできた石狩という「近代の問題」の延長を新たな容でキュレーター(藪前知子さん)が空間構成した一室だった スクリーンやスピーカーの配置 朗読の音声の僅かにディレイがかった音の微妙な遅さから 幽かな声のゆれが聴こえた それは映し出される朗読映像以上に素晴らしかった まるで美術における「レリーフ」のように 朗読の内部に入ることができる展示空間なのだ
大気に落ちる星(シ)―静かな死 望来の丘に登る(投手もいないのに、……)
「石狩シーツ」
吉増さんが原稿用紙に口づけるようにして読む姿は 八戸在 モレキュラー・シアターの豊島重之さんがかつて行っていた所作だ 確かベケット劇だったと思う そのくちづける映像を正面 対して二体のスクリーンが並んで空間を斜めに切り裂いている この映像の配置からも複数の個別の場所から声が聞こえてくるわけではなく ヘッドフォン越しにスピーカーからの朗読音声を漏らして聴くのが 私の楽しみ方だった GOZO-CINEに望来(モーライ)の丘が映し出され 近くの廃棄処分されたバスが草によって再生化されている姿が フロントガラス越しに捉えられ 小樽に近いストーンサークルが微笑んでいると ズームレンズを楽しそうにいじる吉増さんのアマチュア映像が左隣に並置される 一つの場所がGOZO-CINEの視覚と朗読映像とで分断され 二つの時間が併置されることで見えてくるものがあった そして飴屋法水による焼いた映像は 石狩の廃棄物の焼却を模したもので 中には原稿用紙が海に漂う長いカットまである 竹橋の展示では印象の薄かったこれらの映像が 今回の展覧会のために撮られたハイスペックな朗読映像の左斜めに振り分けられる感じは同一空間に異質な映像を同一視野に入れられるくらいの距離で配置し得たからだろうか ある詩作の「断面」を覗いた気がした
余白が意味を脱臼させるからか 吉増さんのカリグラフィー的な書や映像に目が行く以上に 空間上の諸要素の配置の方に神経が集中する この空間の余白が詩への想像的な導入口になることを本展示のキュレーターは自覚しているとしか思えない そうした総体的な展示から見えてくる「石狩シーツ」誕生の裏側に 東日本大震災が起きてから吉本隆明の初期詩篇 とりわけ1950年の吉本(『日時計篇』)を注視する近年の吉増さんが1994年にまとめた「石狩シーツ」をその地で読む 「石狩」に特化した展示が近代の傷を謎として感じさせてくれた
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石狩川の河口付近こそ出てこないものの 露口啓二の写真集『自然史』の別名は「屠殺場」ではないかと思った その現代の大地に写真機を向けたのが露口啓二だ そこに写真家がたどり着きそれをカメラにおさめるのは台地のような盛土のゴミであり その中に埋もれた屠殺行為だ それこそが今の自然…絶滅危惧種となった人為の様態がカメラによって記録され 写真集は一種の屠殺場の静けさと化していた それらカラー写真は抽象絵画から遠くに位置し 大地の重みを忘れた抽象画の色彩とは違って 大地の重みがフレームのほとんどを占めている その重みとはつまり何よりも様々な矛盾であるとしたら 矛盾を抹消することなく露口は 人為が一度は引いた境界をも抹消せずに 抽象的な思考がしばしばその犠牲となる装飾過多の写真に陥る下品さを自らのシャッターに禁じる 露口のように写真を撮るには 様々な拘束があるのかもしれない ひとつに芸術的な「自我」に恵まれた光のもとで見せる機会はまったくないと言っていい 世界に写真家の個人的痕跡を刻みつけることも様々な様式を生み出すこともほとんどできない ただひとつ大切なことはカメラの前にあるものに対する謙虚さ…そしてこの点においてこそ 露口啓二の人となりが明らかになる おそらく露口はあらかじめ作られた主張なしに撮影に取り組む 現実が露口の意図のために操作されることはないように―当然そうでなければならないのに不幸にもそうなっていない事柄をわれわれは震災以後の写真にも多々見てきたのだが…
空白がそびえたつ 一度も触れられたことがなく 姿態を変えたことさえ一度もない そびえ立ちびくともしない 二回震動すると 一回息をつく 二回驚嘆すると 一つ裂け目ができる
リュウ・シャオボ「ニ音節の言葉―霞へ」
震災写真は逆説的に自然を搾取することから遥かに遠く 自然の胎内に可能性としてまどろんでいる創造の子らを自然がこの世に産み落とす産婆役を果たすものであることを「自然〈死〉」から贈り返されていることも知らずに…撮られ続けている
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これまで見た中で最高の写真展となったIZU PHOTO MUSEUMの「テリ・ワイフェンバック/The May Sun」展  1957年生まれのアメリカの写真家のカットには 生に対するあらゆる感情が通過していた
マリオ・ジャコメッリの言うように「わたしにとって写真は開け放つことのできる閉めかけの扉の様なもの、傷痕のようなものだ。一度開いてそれから癒着するが、また開きかねない肉である」としたら ワイフェンバックの写真 とりわけパレスチナに咲く花をX線で照射したような“The Politics of Flowers”はまさにそうした傷痕をプリントしながら融通のきかない扉のような開閉(シャッター)をパレスチナの「自然史(フビト)」は堪えていた この展覧会を見るとワイフェンバックの写真は 円やドルの紙幣と同じではなく それは真の価値をもったものだとわかる
革命とは太古の忘れられた事物にその場所を返し与えることを意味する―このシャルル・ぺギーの言葉を思い出すとき ワイフェンバックの写真は同時代の人々に人の見残したものを見るようにせよとは言わずに見せている
自然と社会との関連性においてワイフェンバックの表現は自然主義と言えるとしたら それは雲をもつかむ困難な仕事だろう これらの写真に人間の姿はない しかし 人間は自分たちの理想を実現するとき自然と同じように振る舞う 無秩序から統一へ 統一から無秩序へと散乱したもろもろの要素が雲を形作り その空隙に青空を見つけようとするのだろう 混沌とした存在がまるごと継ぎ目を塗り込めた空すれすれに蜜蜂が翔んでいるという清らかなイメージ…それははっきりと天使の姿に見える 或いは 長期滞在して撮られた柿田川湧水は舞踏に見える
心地よい日 とても涼しく 穏やかで うららかな 大地と空が一体になるような
シモーヌ・ヴェイユも好きだったジョージ・ハーバートの詩がワイフェンバックの写真集に引用され 彼女の写真は魔法の石板と化していた
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nebulatheorion-blog · 7 years
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哲学塾−宇宙を哲学する/伊藤邦武 岩波書店
無限宇宙の永遠の沈黙
 人間の盲目と悲惨さを目にし、沈黙する全宇宙を見つめるとき、また、人間が光なく打ち捨てられて、いわば宇宙のこの一角に迷いこんで、誰によってそこに置かれたのか、何をしにここへ来たのか、死ねばどうなるのかを知ることなく、何も認識する能力をもたずにいることを見つめるとき、私は恐怖に襲われる。ちょうど、眠っているあいだにどこかの無人島につれてこられて、目覚めたとき、そこがどこかも分からず、そこから逃れるすべもない一人の人間のように。��–パスカル「パンセ」より
  デカルトがガリレイとともに採用した機械論的自然観によれば、自然現象のなかにはアリストテレス主義に立つ中世のスコラ哲学者たちが認めたような、目的原因や形相的原因は存在せず、すべては自然法則にしたがったメカニスティックな運動を展開するのみである。そもそも、自然のうちに何らかの目的や意義を読み取ろうとすることは、その創始者である神の無限の知性における計画や意図を理解しようとするのに等しく、人間の有限な精神にとっては不可能なことなのである。 
  パスカルはデカルトのこの議論を認めたうえで、さらに、その当の創始者である神の「存在」そのものが、人間の有限知性によっては知りえないのではないか、と問いかける。デカルトは、神の存在が、自然の内なる目的性や調和の事実に頼らなくても、「考えるもの」としての私の存在から証明できると考えた。しかし、パスカルによれば、そのような形而上学的議論はあまりにもこみいっていて、「われわれのこころを打つことはない」。神はむしろ、徹頭徹尾われわれの知性の前から「隠れている」。その存在は証明されるのではなくて、われわれ一人一人の生を賭けた、不確実な幸福への飛躍によって信じられる他はない。その賭けは、永遠の沈黙を守る自然世界を前にしてなされるのである。 
  デカルトのいう精神は、延長体である自然世界と完全に断絶しながら、その自然世界を数学的に解析している精神である。この精神がまた延長体である身体というものをもちうるということは、彼の二元論にとっては解くことのできない謎として残される。パスカルも同様に、人間が精神と身体からなる二重的存在者であることを、われわれの知性にとっては理解できない神秘と見る。しかし、この神秘は知的レベルでの謎として終わることはできない。というのも、心身の二重存在者である人間はその心身結合のゆえに、情念というものをもつのであり、さらにこの結合体そのものが、無限大の宇宙を前にしてほとんど無に等しく、しかも無限小のミクロな存在者にたいしては無限大にも等しいという、さらに謎めいた二重性をもっているからである。人間が自分自身を心身の結合体とみなし、その結合体としての自己理解のもとで、自分自身がマクロとミクロの世界の中間にいわば宙吊りになっていると感じられるということが、パスカルのいう「不安」あるいは「恐怖」である。それは世界を数学的にのみ解析しようとしている純粋精神にとっては知りえない、身体と直結したなまなましい自己認識のレベルでの情念なのである。 
 時空をめぐる論争
 デカルトやパスカルは、宇宙の空間が無限である、もしくは無際限であると考えました。・・・しかし、彼らの機械論的な自然観が「ニュートン力学」という自然世界の普遍的な力学として完成されることになると、この世界全体が無限な大きさをもつのか、それとも有限な拡がりしかもたないものなのか、という問題はもっと具体的な、切実な問題として意識されるようになります。とくに、この空間がデカルトが最初考えたように、さまざまな大きさの粒子がびっしりとつまった物質界のものであるというのではなくて、パスカルが実証したように、そこには真空というものも存在すること、あるいはニュートンが明らかにしたように、空間とは質量をもつ物体同士の引力が働きあう場所であるということになると、そもそもこの空間とはどのような存在者なのか、ということが謎めいてきます。 たとえば、いかなる物体も存在しなかったとしても、空間自体は存在していると考えてよいのか。それとも、物体なしには空間もまた存在はしないのか。また、そうした空間の無限・有限の区別は、原理的に人間の知識によって理論的な決着がつけられるものなのか。
 ニュートンはその『プリンキピア』で、「時間」「空間」「場所」「運動」の四つの概念について、それぞれの相対的なものと絶対的なものとを区別する必要を説いた上で、自然のさまざまな現象を、ただ現象として記述するのではなく、その「真の原因」にまでさかのぼって説明するということは、これらの概念を絶対的な意味で用いて物体の絶対的な運動を明らかにすることであると主張しました。この考えによれば、いかなる物体も存在しないところにも、物体とは独立に空間が存在し、時間が流れていることになります。彼はさらに『プリンキピア』の後で出版した『光学』で、この絶対時間・絶対空間が、いわば神が世界を感覚するための「感覚器官」、あるいは「感覚中枢」である、という表現を用いました。
レヴォリューション–感覚か革命か
 コペルニクスでは、それまでの地球中心、すなわち人間中心の考えが逆転されて、人間は宇宙のローカルな一部に位置付けられることになったのにたいして、カントの哲学では逆に、人間認識の形式の方が客観性の中心にすえられて、対象である世界の方は、この形式を条件にして成立する条件であるというふうに、従属的な位置に移しかえられているということです。・・・つまり、神の視点を離れて、人間の認識能力の限界ということをまず明確にしようとした方向の重要性は理解できるが、そのことがかえって、われわれの知識の「観念性」や「主観性」を導くというのであれば、それは「科学」という概念を根底からくつがえすことになるのではないか。
ビッグバンの方へ
ケプラーやガリレイが目指した「コスモロジーの自立」がついに本当に実現したとき、私たちが味わった感興は、彼らが予想もしなかったほど複雑で、新鮮なものでした。しかし、三〇〇年におよぶ長い一つの「サイエンス」フィクションの終わりは、また新しい「サイエンス」フィクションの始まりの詩でもあります。アポロ十一号の月面着陸に先立つこと二〇年、一九五〇年前後には、私たちはすでに「ビッグバン宇宙論」という別の新しい一大物語を編みだしていて、それ以来、このフィクションをいかにしてノンフィクションへと転換するかという努力を積み重ねて、今日にいたっています。
 さて、私たちは現在、このように非常にエキサイティングであると同時に、ある意味ではかなり混沌とした科学の時代に生きています。しかも、これらの難問のすべてに高度に専門的な知識の理解が前提されています。こうした現状のなかで、これからの哲学的な反省や思案というものの役割はどうなるのでしょうか。哲学の営みには、これからも積極的に理論的な寄与を行う余地が残されていると考えることができるでしょうか。あるいは、この新しいコスモロジーの自立の時代にあっては、むしろさまざまな概念的困難の解決はすべて科学内部の問題へと移行したのであって、従来の哲学的反省はその役割を終えたと認めるべきなのでしょうか。
 こうした疑問は現代に生きるわれわれにとって、ごく自然に思い浮かぶ疑問であろうと思われます。そうした疑問をもつことなく、従来の哲学の伝統のなかだけに留まって、世界と人間とをめぐる謎の答えを探しもとめようとすることは、もはや不可能になっていると思われます、しかしながら・・・、私たちはこうした問題に性急な答えを求めるべきではない、ということも明らかだろうと思われます。
・有限説と無限説
 宇宙を貫く時間の流れは、無限の過去から始まって無限の未来へと続く永遠のものなのか。それとも、有限の過去のある時点から始まった、あるいは有限の未来において終結するような、有限のものなのか−。
 思想史のなかでこの問いをめぐる対立としてすぐに思いつくのは、神による「無からの創造」を根拠に基本的に世界の永遠性を否定するユダヤ−キリスト教思想と、さまざまな円環的時間や永遠の時間説を謳うギリシア思想との対立です。
 プラトンは時間というものが根本的に天体の回転運動と結びついたものであると考えたので、時間そのものを一種の円環運動として考えた。これに対してアリストテレスは、時間とは「運動の数」であるとして、「ものの変化を計る尺度」として考えた。つまり、プラトンは時間の観点からいってある種の有限宇宙を考えたが、アリストテレスは無限的宇宙を考えたということになります。また、プラトンの考えでは円環的な時間が考えられたけれども、その円環によって有限な時間の経過が何度も繰り返されて、まったく同じような世界が何度でも生じるという、いわゆる「永劫回帰」ということははっきりとは認められなかった。これをはっきりと標榜したのは、ストア派とピタゴラス派だとされている。そして、プロティノスやプロクロスなどのいわゆる「新プラトン主義」に立つ思想家たちは、プラトンの思想を最大限に重視し継承したのだが、こと時間の問題にかんしては、むしろアリストテレスにしたがって、無限の直線のようなものに考えていた、とされています。
 この時代の哲学者が宇宙の時間を無限と考えた基本的な理由は二つあって、一つは世界が神の創造によるとすれば、その被造物が有限であるはずがない、ということであり、もう一つは、世界が幾何学的な対象として表現できるならば、世界には限界がないはずである、ということです。
カントのアンチノミー
「世界は時間的、空間的に有限である/世界は無限である」
「世界はすべて単純な要素から構成されている/世界には単純な構成要素はない」
「世界のなかには自由が働く余地がある/世界に自由はなくすべてが必然である」
「世界の原因の系列を辿ると絶対的な必然者に至る/系列のすべては偶然の産物で、世界には絶対的必然者は存在しない」
 ところで、カントが『純粋理性批判』という著作で、そもそも「純粋理性の批判」ということを批判したのも、その第一の狙いは、理性がもっているこのような奇妙にねじれた本性というものを暴き出すことにありました。・・・理論理性はニュートンの成果にあらわれているように、科学的に非常に輝かしい成果を生み出す能力をもっている。しかしその能力を自分の限界を超えて適用し、感覚を通じて受容される経験的な事実を超えて、「世界全体」とか「存在一般」のような観念的にしか考えられないものについて語ろうとすると、必ずこのような自己矛盾的対立に陥ってしまう。
 まず、テーゼの説明の要点はこうです。宇宙の過去が無限に遡ることのできるものであるとすると、現在までに時間というものは無限の継起を経てきて、現在において完結しているということになる。しかし、無限なものの継起というのは、たとえば数の系列の例からも明らかなように、その本質からして、どこまでいっても完結しないということを特徴としている。したがって、無限に続いている継起が現在において完結しているという考えは、まったく不条理である。
 他方、アンチテーゼの証明の要点はこうです。宇宙が有限の過去の時点で始まったとすると、その宇宙の「始まり」以前には、何もない「空虚な時間」だけが流れていたことになる。そして、この空虚な時間のどこかの時点が、宇宙を生み出したことになる。しかし、空虚な時間というのは、その本質からして、どの時点にも特別の性質が属さないのっぺらぼうの時間であるということを本性としている。したがって、その継起のどこかの時点に宇宙を生み出すとくべ雨の性質が宿るというのは、まったく不条理である。
 ・・・よく考えるとこの議論は無限な時間が不可能だということとはまったく別の論理です。テーゼの証明がいっていることは、無限系列の完結は考えられないということだけで、無限な時間という観念に矛盾があるということではない。
 ・・・そもそも時間の流れや無限に続いているように見える「時間の継起」は、この時点において本当に「完結」しているのでしょうか。・・・たしかに現在は時点の継起をストップさせますが、実際にはこの現在というものがそれ自体流れていて、決して完結しているわけではない。無限の継起は、ちょうど自然数の継続のようにたしかに終点をもつことはない。・・・つまり、議論のコアは、現在という時間が無限の系列の完結のように思われるとき、そこには深刻な謎があるということであって、決して無限な時間が不可能だろいうことにはなっていない。そうであるとすると、カントの議論は結局のところ時間の無限性にまつわるさまざまな概念上の整理がついていないことを利用して、アンチノミーのようなものを作り出しているのであって、彼が確信しているほどには独断的理性の自己矛盾を暴き出すことに成功してはいない、
パースの宇宙論
 ここで取り上げようとする彼の理論は、一八九〇年代に彼がいろいろな形で発表した、いわゆる進化論的な宇宙論です(彼自身はそれを「数学的形而上学」と呼んでいました)。
 ビッグバン宇宙論はいくつかの観測結果と素粒子論との合体のようなものとしてできたものですが、パースの宇宙論は一九世紀後半の理論的産物ですから、そうした観測にもとづくものでも、量子論のような物理学に導かれたものでもありません。それが進化論的なスタイルを取った理由としては、一つにはダーウィンの進化論による影響も認められます。
 パースの答えは、自然界に見られる法則の成立を当の自然界全体の進化の結果と考えればよい、というものです。・・・彼は「ミクロのレベルでの非常に多くの不確定的な事象が、結果としてマクロのレベルでの規則的性格を形成する」という、確率統計的な視点の創始者の一人でした。
 パースの考えでは、真の無限からなる連続性の世界とはいくつもの連続体を包みこむ「物自体」のようなものであり、そこから有限な我々の時間(現象世界)が生まれてくる、ということになります。・・・無秩序で不規則で自発的な「質」の戯れの世界こそ、もっとも濃厚な可能性の連続性からなる世界であり、そこから実数によって表現できるような一つの「時間」の流れが生まれ、その時間の秩序のもとで現実の「この宇宙」が進行し、より体系的なものへと進化していく、・・・
 事物や実体のみならず、出来事もまた規則性によって作られる。時間の流れは、それ自身が規則性である。したがって、規則性のまったくないカオスとは、単なる不確定性の状態であり、何も存在せず、何も生じていない世界である。・・・とはいえ、原初の閃光から帰結したこの連続性の擬似的な流れは、われわれの時間と比較したとき、次のような決定的な相違をもっている。すなわち、複数の異なった閃光からは異なった流れが始まっていて、それらの間には共時性とか先後の継起性とかの関係が成立していないかもしれないのである。したがって、一つの流れが二つの流れに分離したり、二つの流れが一つに融合するかもしれないのである。とはいえ、習慣のさらなる結果として、長期間分離していたものは不可避的に完全に分離したものになり、しばしば共通点を示した流れはやがて完全な合一体へと融合するであろう。そして、完全に分離した世界どうしは互いにまったく知ることのない数多くの異なった世界となり、最終的にわれわれの目の前には、現実に知っている世界だけが現前しているということになるのである。-パースの未刊の形而上学論文からの引用
 すでに述べたように、今日の「真空のゆらぎ」にもとづく観察可能な宇宙の誕生に対応するものは、パースにとっては究極的な連続性の世界からの具体的な連続体の誕生です。つまり、時間が生まれるために生じている出来事とは、究極的な連続性の世界におけるさまざまな種類の連続体の発生ということであり、もしも時間が実数的な連続体からできているとすれば、時間の誕生によるこの宇宙の現出とは、母胎である究極の連続性の世界からの、実数の体系の誕生ということを意味します。
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96box · 7 years
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●神話と歴史 最初は無であった。 無の中に混沌が生まれた。混沌の中に「核」が生まれた。 創造神は、その「核」を基に世界を創った。 創造神は海を、大地を、空を創った。 世界の土台を創ったところで、創造神は疲弊してしまった。 そこで、創造神は、自分に似た姿の7人の子供を創った。 そして、彼らに自分の力の一部を与えると、世界を整えるよう命じ、眠りについた。 彼らは、世界に溢れる自然エネルギーを使い、風を、潮を生み出した。世界に「流れ」が生まれた。 秩序、霊魂、言霊、時空、意志、実り、感情を生み出し、また、彼らの間に子を成した。 こうして、最初の者たちは、創造神の創り出した土台を、自然エネルギーを用いて豊かにし、また整えていった。 ……これが、世界で語られる創造神話である。 のちに、最初の七人は「大七柱神」と呼ばれることとなる。 神話の時代の終わりは、混沌の大災害と共に訪れた。神々の力の使役により、エネルギーが暴走し、世界崩壊の危機が訪れたとされる。 しかし、大災害の後、世界は大災害が起こる前とほとんど同じ姿を保っていた。 大災害がどのようにして収まったのか、また、世界はどのようにして大きく変わることなく護られたのか。これらの謎は、未だ解明されていない。 ただ、残された者たちは、自らが「神」であったことを忘却しており、また、大災害以前ほどの力を持ってはいなかった。 世界に影響を与えるほどの力を持ち得なくなった人々のそれは、小さな現象を起こす程度にまで弱まった。 それでも、自然エネルギーを用いて、自在に火や水を起こすことができた。彼らは、それを「魔法」と呼び、一部の者たちは、これの研究・開発を始めた。 人の時代が幕を開けた。そして、伝承に残る旧時代の人々は、神として崇められることとなったのである。 さらに下った時代、ますます人々は神々の力を失っていった。そのような時代の最中、強力な魔法使いが七人誕生した。 彼らは、七賢者と呼ばれた。その魔法は神にこそ劣るものの、この時代には類を見ないほどの力であった。彼らは、その奇跡的な力で、時に民衆を助けていた。 彼らはまた、研究者でもあった。利己的であった彼らは、いかに自分が優れているかを示すため、強力な魔法を生み出すことに尽力した。 また、彼らは、生み出した、研究成果でもある魔法が朽ちてしまわぬよう、魔法をかけた。 これは、素質ある魔法使いに、自らが生み出した魔法が永遠に受け継がれていくというものであった。 かくして、彼らの死後、世界には彼らの魔法を受け継ぐ者が、必ず「7人」現れるようになった。 そして、現代。 七賢者の時代より、更に人々は力を失い、一部の人間は、ほとんど魔法を使えなくなってしまった。 しかし、素質ある魔法使いは、未だ当時と変わらぬ力を持っている。 ●パラディアム小大陸 七賢者が生まれたとされる大陸は、現在、三つの国と無数の集落で構成されている。 全ての国と集落では、大七柱神を信仰しているが、国では、それとは別に、国の守護神として崇める神が存在する。 気候は総じて温暖であり、また、四季のようなものも見られる。 危険な生物はあまり見られないが、山地が多く、山奥には凶暴な熊や猪などが生息している。毒をもつ生き物も見られる。 大きな国・集落は以下のとおり。 ・アルカメイディア聖王国(大陸北西部) ・エリュス王国(大陸北東部) ・オフィーリエ共和国(大陸南部) ・隠れ里トコセ(大陸中央部) 上記以外にも、無数の集落が存在するが、三国家に近い集落は、その国の影響を少なからず受けることが多い。 総じて、三国家での生活に比べると低い水準の生活をしているが、集落の民はそれで満足していることが多い。 アルカメイディア周辺の一部の集落は、深刻な貧困問題を抱えているといわれる。 三国家の法が適用されない地域がほとんどのため、悪いところでは治安が非常に悪い。 身体的特徴は、それぞれに近い国家のものに近い。 大陸中央部では、混血のためなのか、容姿的特徴が多様であることが多い。 ●魔法 魔法は「火」「水」「土」「風」の四属性から成る。 それぞれの属性の魔法は、簡単なものなら魔法適性さえあれば使うことができるが、強力な魔法や複数の属性を複合させた魔法(雷魔法や植物魔法のようなものもこれに含まれる)を使うためには、適性のみならず、類い稀なる才能あるいは不断の努力が必要となる。 また、魔法適性B級程度の場合、四属性にそれぞれ得手・不得手が生まれるが、魔法適性A級の場合はバランスよく使いこなすことができる。 なお、魔法適性を持たなくても、素質があれば訓練により魔法を使うことができるようになることもしばしば見られる。 七賢者の生み出した魔法が使える者たちを、特にアルカメイディア聖王国では「特A級」と呼び、危険視されている。 彼らの使う魔法は総じて強力である。また、七賢者に比べると、現代の魔法使いでは適性が低すぎるため、これらの魔法を使うときに、相応のリスクがある。(七賢者は代償なしでこれらの魔法を行使できた) ・創造魔法:あらゆる物を生み出すことができる。代償として、生命力を削る。 ・霊魂魔法:霊魂を操る。代償は唯一ほとんどないが、他者の魂を代償として捧げる。 ・言霊魔法:言霊によって求める現象を起こす。他者に命令する。代償は三代欲求に飢える。 ・空間魔法:空間を自由に移動できる。代償は異常な眠気。 ・強化魔法:肉体を強化する。代償は身体が疲弊しやすい。 ・火焔魔法:強力な炎を操る。代償は、術者は徐々に身体が灰になる。 ・誘惑魔法:相手を魅了する。また、特定の相手に魅了させる。代償は性的欲求。 ●神格、死生観 ・創造神 世界の基礎を創ったとされる。また、総ての神の親神と呼ばれる。 神(のちの人)を自分の姿に似せて生み出したとされており、今もどこかで眠っているといわれる。 ・大七柱神 最初の七柱の神。世界に「流れ」を創り出し、また、様々な要素を生み出したとされる。 それぞれの要素を司るとされ、崇められている。神々の名は以下のとおり。  秩序の神アロギア  霊魂の神アフェリア  言霊の神アヴィリア  時空の神アスディア  意志の神アコライア  豊穣の神アイフィア  感情の神アルティア また、これらの神々は守護神を持たない集落でも崇められている。 ・魔法の神メイディア アルカメイディアの守護神とされる神。 魔法は神の間では普遍的なものだが、彼女はとりわけ魔法の使い方に長けており、今のアルカメイディア聖王国の領域が豊かな土地であるのは、彼女のおかげとされる。 また、アルカメイディアでは、熱心に信仰する者に対し、優れた魔法の力を与える神であるともされている。 ・騎士神シュヴァリア エリュスの守護神とされる神。 世界に流れが出来始めた頃、不安定なエネルギーの塊により災害が起こり、それから民を護ったのがかの神であるとされている。 また、第七柱神を護る神の一人であったともされる。 ・自由の神リーヴィア オフィーリエの守護神とされる神。 自由を重んじ、あらゆるものに自由を与えた神とされる。 季節の移ろいなど、世界に多様性ができたのは、かの神の力によるものとされている。 ・死生観 生物は魂を持ち、その魂は混沌より生まれ出ずるとされる。 魂は、いわば生き物たちの「核」である。 死者の魂は、霊魂の神の力に導かれ、混沌の果てに眠る神の下に導かれるとされる。 そこで安らかな眠りにつき、いずれ混沌と同化するという。 そして、新たな生命が産まれるとき、再び混沌より新たな魂が生まれ出ずるのである。 時として、うまく混沌に還ることのできない魂がある。それらは亡霊(ゴースト)となり、現世をさまよっていることがある。 通常、うまく導くことができれば自然と還っていくが、混沌の流れの一部たる魂が現世に残っていることは好ましくなく、壊すことで強制的に混沌の流れへ落とすことも可能である。 ●交易等 それぞれの国では、それぞれの通貨が使われている。また、大陸共通通貨アールが存在する。 三国間の交易はないわけではないが、あまり高い頻度では行われない。 エリュスの技術はそれなりに需要があるようで、オフィーリエとエリュスは比較的交易を行なっている。 オフィーリエでは、大陸外との交易も盛んに行われている。そのために港も築かれている。 三国間に明確な国境は存在しない。また、領土は接触しておらず、それぞれの国の周辺には、無数の集落が存在している。 アルカメイディアは選民思想により傲慢で排他的であり、自国の領土、特に都市中心部以外にあまり関心がない。 エリュスは攻めることを良しとせず、力の及ぶ範囲のみを護る。 オフィーリエもまた、領土拡大に興味がないため、国家間に争い事が起こったことも現在のところない。 外部との交通では、稀に飛竜が利用される。 山地の多いパラディアム小大陸の生態系には、飛竜は存在せず、大陸の外の人間が飛竜に乗って訪れることがある。 飛竜に乗る人々を「飛竜使い」と呼び、彼らは主にオフィーリエ共和国に滞在している。 ●暦 人の営みが始まると同時に、暦は作成された。 神々に敬意を示した者たちが、神々への感謝の儀を定期的に取り行うことを決めたことにより、知識人たちが星を詠み、暦を作り上げたのである。最初にできた暦は、古代暦と呼ばれる。 現在、大陸において使われているものは、古代暦を改良して作られた現代暦だが、これは大陸外から持ち込まれ、普及したものである。 一年は『創造日』から始まる。この日から、新たな一年が『創造』されるという意味合いを持つ。また、創造神を祭る日であり、一年の中で最も盛大な祭事が執り行われる。 その翌日から一ノ月が始まるが、一月は暁(ぎょう)・宵(しょう)に分かれており、さらに、それぞれ26日から成る。一年は七月で成る。 (一ノ月暁→一ノ月宵→二ノ月暁→二ノ月宵→……→七ノ月暁→七ノ月宵) 暁の7日にはその月に対応する神が盛大に祭られ、宵の7日には静かに祈りを捧げることが習慣になっている。 なお、対応する神は以下の通り。 一ノ月=感情の神 二ノ月=言霊の神 三ノ月=意志の神 四ノ月=霊魂の神 五ノ月=豊穣の神 六ノ月=時空の神 七ノ月=秩序の神 ●単位 ・時間 日の出から次の日の出までを一日とし、 一日を十四等分したものを1ウルと呼ぶ(Ur/約1.7時間)。 日の出から日没までを特にソルル(Solur)、日没から次の日の出までをルヌル(Lunur)と呼ぶ。 1ウルを100等分した単位を1ミル(mir/約1分)、 更に100等分したものを1リルと呼ぶ(lir/約0.6秒)。 日の出頃の時間が1ソルル(0ミル0リル)、日没頃の時間が1ルヌル(0ミル0リル)である。 ・長さ 基本単位はマニ(mani/約20㎝)である。 これは、成人男性の手長をもとに考案された単位とされる。 ・重さ 基本単位はガル(gar/約10g)である。 これは、穀物100粒の入った袋の重さをもとに考案された単位とされる。 ●氏名 大陸全体として、命名はヨーロッパで見られる名前に似ている。 ただし、オフィーリエでは、外の大陸の言葉も混ざることが多く、 他では見られない、変わった名前をした者も多い。 貴族や騎士、富豪の者たちは、それぞれ固有の苗字を持つが、 多くの場合は初代当主の名前を由来とする場合が多い。 また、大きな家の場合、父親の名を併せて名乗る場合も多く、 その場合、(個人名)・(父親の名前)・(苗字)という形で名乗る。 工業や商業を生業にする者は、その生業にちなんだ苗字を持つことが多い。 稀に貴族等のように当主の名を由来として名乗ることもある。 (個人名)・(苗字/生業に由来)の形が多い。 アルカメイディア聖王国の農業区在住者や周辺集落では、 厳密には苗字を持たないが、個人の特定のため、 (個人名)・(父親の名前)という形で名乗る場合が多い。
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