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#大事なのは私たちはこの前例のないこの機会を利用して世界のイメージを描き直すべき
tecchaso1988 · 3 years
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#読書 #グレートリセット #ダボス会議で語られるアフターコロナの世界   1年前からこういった内容を書いてくれてる著名人がたくさんいらっしゃって それでも世界は想定悪の方向に向かっていて  世界には政治家だったり指導者だったり、自分よりずっと賢い人たちが溢れるほどいるはずなのに どうしてわざわざ足並み揃えて予測できる悪いシナリオの方向へ進めちゃうのだろうかって思ってしまうここ最近。 (グレートリセットに対抗しているのはオーストラリア、ロシアが有力馬とのこと)  (権威者たちがあえて崩しにいってるのはわかるんだけれども、ゲームストップ騒動は個々の力が逆にシナリオを再構築していく未来の一遍を僕らに見せてくれたことに可能性を感じたいなって思う)   #読書メモ #多くの人がいつになったらノーマルな生活に戻れるのだろうと考えているがシンプルな答えは何も元に戻らないだ #2020年初頭まで慣れ親しんでいた世界は書き消えた #変化の可能性その変化がもたらす新しい秩序は無限にありそれを良いほうにも悪いほうにも変えられるのは私たちの想像力だけ #大事なのは私たちはこの前例のないこの機会を利用して世界のイメージを描き直すべき #パンデミックの影響が2022年まで続くことを大前提として複数のシナリオに備えるべき #1930年代初頭の大恐慌や2008年の世界金融危機の時で数年かけてGDPが10%以上落ち込み失業率が10%を超えたが今回のパンデミックがマクロ経済に災害級の大打撃を与えた期間はわずか3週間 #アメリカは2020年3月4月の2ヶ月間で10年かけて積み上げてきた雇用増加を一気に失った #すでにアメリカ人の約30%が財産を失い負債を抱えているこの危機が終わったときに金も仕事もなく医療も受けられない人が増えそうした人々が自暴自棄になって社会に怒りをぶつけたらどうなるか #現在の経済は2020年以前と比べて8割程度しか動いていておらず豊かな国の要であるサービス産業がこの8割経済という新しい現実にどう対応していくか #経済の主要部門が1ヶ月丸々活動を休止した場合その影響で年間成長率は2%以上も下がる #準備通過としてのドルの地位が徐々に終焉を迎えるのではないか国が発行するデジタル通過を導入する試みのいずれかが長く王座に君臨してきたドルを引きずり下ろすかもしれない #パンデミック後の世界は社会の不平等がさらに拡大する #重大な危機は国家の権力を拡大させる #歴史的な課題に遭遇した指導者は危機をうまく管理しながら未来も創造していかなければならない #新しい世界秩序などないあるのは不確実性への混沌とした移行だけだ #G7やG20といった世界を牽引してきた時代から今は国際社会を主導する国が存在しないGゼロの時代かさらに悪いGマイナス2の時代に入っている #パンデミックはESGに配慮しなければ事業の大きな価値が破壊され企業の価値を脅かすことにつながるという教訓を世界の経営者に残した #保険業界では各政府のロックダウンが保険業界特有のリスクをもたらしており世界中の何十万もの企業が保険請求ができず数ヶ月から数年間は訴訟を続けるか破綻するかの瀬戸際に立たされている #試練は人を強くするという言い古された言葉があるがパンデミックを生き延びた人が必ず強くなるわけではなくむしろ現実はほど遠い #パンデミックが始まってから世界中で時間感覚が変わったと感じる人が増えた1日はのろのろと過ぎるのにある朝気付いたら1ヶ月が経っていることに気づき時間はいったいどこに行ってしまったんだと疑問に思う #パンデミックは社会を省み考え直しリセットする���いう千載一遇のチャンスを与えてくれている #グレートリセットに社会や経済が抱える根深い問題に対処せず解決せず放っておいたら結局は戦争や革命のような暴力的な出来事によって社会がリセットされる https://www.instagram.com/p/CPQJHR-LAsT/?utm_medium=tumblr
#読書#グレートリセット#ダボス会議で語られるアフターコロナの世界#読書メモ#多くの人がいつになったらノーマルな生活に戻れるのだろうと考えているがシンプルな答えは何も元に戻らないだ#2020年初頭まで慣れ親しんでいた世界は書き消えた#変化の可能性その変化がもたらす新しい秩序は無限にありそれを良いほうにも悪いほうにも変えられるのは私たちの想像力だけ#大事なのは私たちはこの前例のないこの機会を利用して世界のイメージを描き直すべき#パンデミックの影響が2022年まで続くことを大前提として複数のシナリオに備えるべき#1930年代初頭の大恐慌や2008年の世界金融危機の時で数年かけてgdpが10#アメリカは2020年3月4月の2ヶ月間で10年かけて積み上げてきた雇用増加を一気に失った#すでにアメリカ人の約30#現在の経済は2020年以前と比べて8割程度しか動いていておらず豊かな国の要であるサービス産業がこの8割経済という新しい現実にどう対応していくか#経済の主要部門が1ヶ月丸々活動を休止した場合その影響で年間成長率は2#準備通過としてのドルの地位が徐々に終焉を迎えるのではないか国が発行するデジタル通過を導入する試みのいずれかが長く王座に君臨してきたドルを引きずり下ろすかもしれない#パンデミック後の世界は社会の不平等がさらに拡大する#重大な危機は国家の権力を拡大させる#歴史的な課題に遭遇した指導者は危機をうまく管理しながら未来も創造していかなければならない#新しい世界秩序などないあるのは不確実性への混沌とした移行だけだ#g7やg20といった世界を牽引してきた時代から今は国際社会を主導する国が存在しないgゼロの時代かさらに悪いgマイナス2の時代に入っている#パンデミックはesgに配慮しなければ事業の大きな価値が破壊され企業の価値を脅かすことにつながるという教訓を世界の経営者に残した#保険業界では各政府のロックダウンが保険業界特有のリスクをもたらしており世界中の何十万もの企業が保険請求ができず数ヶ月から数年間は訴訟を続けるか破綻するかの瀬戸際に立た#試練は人を強くするという言い古された言葉があるがパンデミックを生き延びた人が必ず強くなるわけではなくむしろ現実はほど遠い#パンデミックが始まってから世界中で時間感覚が変わったと感じる人が増えた1日はのろのろと過ぎるのにある朝気付いたら1ヶ月が経っていることに気づき時間はいったいどこに行って#パンデミックは社会を省み考え直しリセットするという千載一遇のチャンスを与えてくれている#グレートリセットに社会や経済が抱える根深い問題に対処せず解決せず放っておいたら結局は戦争や革命のような暴力的な出来事によって社会がリセットされる
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dreamingtime96 · 3 years
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馬鹿げてる。
何でなったこともない、男性の体で生きたことがない経験したことがないのに自分は男だと確信をもってそう思えるのかわからない。
ジェンダーアイデンティティなんていうのは心理的な枠組みであって、心の中のものだ。それを身体という自分自身を形作る表面に放出したところで性別は変わらない。あなたの臓器や骨格や体内の水分量や臓器の脂肪分なども含めた性差は変わらない。性別は心で感じているものが全てで体を蔑ろにしたセルフIDの考え方が浸透しきっているから性別を変えられる、異性になって生きていくことはできると思い込んでしまう。そんなの間違いだ。心は体じゃない。今の社会は境界のないイメージの世界だとわたしは思う。何でもかんでも共感し合い、感受性も何もかも同じチャンネルを共有しているように思い込む。イメージの中で私たちは他者と共存していると思い込み、イメージの中の他者に怒り悲しみ絆を感じている。そのことを無視している。自分の境界も希薄であり、窮屈である。自分の感じているものの違和感や苦しみの正体を知ろうとせず、それを全て心の中に感じているぼんやりした何かやあるいは不安や疎外感から、原因を直接性別のせいだと思い込もうとする。それを形成する性役割やその生きづらさや生きにくさが
実体としての臓器や遺伝子を含めた身体があるのに、男性的女性的といった社会から要求される性役割やそれに応じた女性像男性像に従うことが苦痛である場合、逆の性別になれば解決できるだとか自分は望まない体で生まれてきてしまった異性なのだと感じ取り、そうして異性として扱われたり自認を尊重されることでその人がようやく安心感をえたり救われるという社会ってどうなのだろう?
自分の感じるジェンダーやジェンダー表現が噛み合わない、ジェンダー表現を受け入れない社会に苦悩することもあるだろうが、そもそも
しかし、そうした適合することに拒否感を覚えたり自身のジェンダー表現を受け入れようとしない社会をひもとくとそこにはミソジニーと女性差別、ホモソーシャリティの問題が基盤に存在する。男性主観で男性の感じ方のみが正しい社会の中で、女性がそうした差別の実態や構造にアクセスすることは難しい。
また、感じ方だけが全てであり、それを直接今感じている原因であるかのように
そもそもまず異性のジェンダー表現は身体性別に等しいものと見なすことは全くの間違いだ。
本当の性別人々が生きにくい枠組みがすでにこの社会に存在していて、その人たちが旧的な枠組みから外れた新しいトランス ジェンダーという枠組みを用意することも正しいと思えない。
なぜならばトランスジェンダーの人々は結局異性のジェンダー規範を再生産しているだけでジェンダー規範を強化しているからだ。
性役割をただ異性のものに交換しているだけ。その性役割というのは搾取や支配を正当化する構造であり、性役割そのものがそうした支配と隷属の関係と、それらの歴史を見えなくする蓋のようなものである。それらが差別であると認識されず、差別を受けている女性という当事者が軽んじられ、差別を受けていることや男たちは間違っていると告発するだけで「それはあなたの思い込みだ」「そんな言い方はないんじゃないか」「男性への差別だ」と言われる。トランス差別だ!を唱える人たちもこれと全く同じだ。
性の多様性だとかいっているけれど全く多様ではない。
異性の性役割やジェンダーに適合したいのに社会が云々、孤独だ孤立しているトランス差別だ云々と唱えている人たちをみていると、本当に無神経でさすが男だと言いたくなる。あの人たちはなぜセクシーな女性的な振る舞いがしたいのだろう。それが差別的な記号であると知らないからだ。そのような記号を踏襲した女性ヒロインやそれが好きな物なら尊重してあげようよと言っているのも男だ。それは女からしたら差別なのだ。それを求められ、そのような記号的な存在とみなされ、男にとって快い範囲内の振る舞いやあからさまな蔑視や使い捨ての性対象として私たち女は男に用いられてきたからだ。いまだに女性は金にがめつい、イケメンには股を開く、性犯罪加害者でもイケメンなら無罪だというような蔑視は至るところで見受けられる。女性差別を主張する女性は醜い年増で若い女に嫉妬している。男側に視野を広げて男性も辛いですよね、という配慮や優しさが無いと賢い女ではない。至るところで私たち女性は無知だという設定で上から目線の説教を食らわされたり事あるごとにマンスプレイニングを食らう。鬱病で苦しい時病院に行った時ほとんど話も聞かず、怪しい治療のセールスをされたり「その程度のことで苦しいのか」という対応をされる。女性の性犯罪被害の話や性的対象とみなされる苦痛を訴えても、怒りを直接語ると感情的だと嘲笑される。女性の痛みに対して医療は鈍感であり、医療の性差が考慮され研究されるようになったの。男が女性に対して接する時の親切の中にも、見下しや蔑視感情がある。自分の気持ちを満たしたいための感情の吐口である場合や、ただ女と話したい、気分良くなりたいという感情があることもしばしばだ。それは女性にしかわからない感覚だが、それは思い込みだ、繊細すぎる、病院に行ったほうがいいなどと言われる。常に女性の感受性はずれがあるものという前提があり、気に食わないものをただ非難したいだけだとか、イケメンなら許すんだろうなどという偏見を飛ばされる。女性はしたたかで計算高く、高飛車で、あるいは男をたぶらかし、コケティッシュな振る舞いで翻弄するファムファタール的な記号は都合よく従ってくれる、暴力によって屈服させられることが可能な男からしたら、許容する範囲でワガママに振るまう可愛い女(でも自分がいなければ生きられない弱い存在)は素晴らしい存在なのである。長くファッションではそのような被虐的な立場であることを喜ぶように見せる観念が女性ジェンダー服に染み込んでいる。それは男ウケのいい服装として堂々としている。胸元だけ穴が空いていたりオフショルダーだったり、肩だけ透けていたり、ホットパンツだったり。コルセット風ワンピースやボディハーネスだったりの類もそうだ。そうした適度に『扇情的』な要素を含んだ服が女性を縛り付ける価値観であることをかわいさで覆い隠している。女性は展示品である。自分の個性を表明するために、わざわざそのような隷属的な価値観の服装を可愛いもので個性的で自分らしく生きることを肯定してくれるものと思わされている。逆に自分の個性や癒しや自己表現が自身の才能や能力やバックボーンなどに由来するものではなく、ファッションやメイクなどの装飾でしか自信を得られない。それは全て女性が装飾、それも男目線で構築された女性を支配するための記号で作られた価値に沿っていなくては人間以下であると社会的に定められていることと同義である。私たちは差別のプールに浸かりながら、自らその水を自分たちで再生産するよう、プールから出られないように仕向けられている。
しかし、私の見たところトランスパーソンの自認女性はそうした扇情的な(男から見て)服装やロングヘアだったりといいったホットな女性像をまといたがる。そうした扇情的な服などを女性のみがきることを許された服だという思い込みがあるのか?そうした性的な意味も含めて男から見た男の価値観に沿った魅力に満ちた女性こそが本当の女性であるという発想があるからなのではないだろうか。つまり、かれらもまた同じように女性を固定化された家父長制に都合のいい支配の記号だけを抽出した存在として、表面だけを女性とみなしているのである。また、トランスパーソンの自認女性は完全な女性だと支持している人々にとっても女性とは着飾る生き物であり、性的魅力に溢れた姿が正しい女性の姿で、女性というのはファッションやロングヘアであるとみなしているからだ。そのような女性像はメディアや創作、映画にも氾濫している。しかしそうした表現こそが女性差別で女性憎悪だと公然と言われることがない。ドラマでは高飛車でヒステリックな金持ちの女性は面白おかしく描かれ、舌足らずで幼稚でワガママな女性が男性を振り回す。いつも考えが足りなくて幼く、考えが足りずに失敗を繰り返す。それすらも可愛さの中に収納される。ハニートラップをしかける女性や財産目当てで玉の輿を狙うしたたかな女性キャラクターや、マウントを取ることを生きがいにしている女性や、素顔を隠して女性は足りない方がいいという発想がある。逆に馬鹿な方がいい、男の前で馬鹿を演じている女性はしたたかで賢いという想像を生身の女性たちが演じている。そうしたあざとい女性を同性がいやがったり、逆にあざとさをうまく演出する女性を同性が素晴らしいと支持することもある。世の中は腐っている。それはアニメの中でも同じだ。女子学生の制服の胸や股間の線が生地から浮き上がった絵が普通に存在し、それらが表現の自由というマジックワードによって擁護される。そうした絵がどれほど女性の尊厳を害するものであるかそうした表現が表現として成立していることは正しいのか?女性が怒りを語るとそのような絵を描いている人たちの仕事をフェミニストは軽視しているだ、絵に込められた思いを馬鹿にしているだ、いやなら見るな、絵に人権はないことを理解していないだと男たちは反発する。そしてお決まりのお気持ちだお気持ちだの連呼である。女性が差別を発信するだけで嫌がらせの対象となる。個人情報をばら撒かれる。執拗に自分の納得できるデータを出せと要求され、粘着される。馬鹿フェミだキチフェミとよばれ、精神病院に行けと言われる。性犯罪と結びつけるな、被害者を自分の主張のために利用するなんておぞましい。やっぱりおんなの敵は女だと性犯罪被害に遭わない立場からものをい��。アニメの中では女性たちが胸の大きさを比べて嫉妬し合う様子が当たり前にベタなネタとして描かれる。お互いの体型で嫉妬し合い、体重で一喜一憂し、潰そうとしていて、承認欲求の塊で、知性がない存在のように描かれる。痴漢被害を告発した女性や夫のDVで苦しんでいたり、妻が家事全てをやるべきという価値観から夫の世話や片付けをしないことや全ての尻拭いを無償でさせられている妻がSNSで怒りを投稿すれば女性器呼ばわりされて『マンカスゴキブリ』『専業主婦は寄生虫』『養ってもらっている分際で文句を言うな』というコメントが相次ぐ。挙句発言者の女性アカウントの顔や他の日常の投稿なども掲示板で晒されて品評される。アイドルをプロデュースするゲームには女子小学生や中学生のアイドルまでいる。女性差別的な価値観は当たり前に蔓延し現実の女性もアニメキャラクターのように属性化された存在として分類されている。自分の「需要」を理解してあざとく振る舞う女性は喜ばれる。男性の立場になって発言する弁えられるエマワトソンのようなフェミニストが真のフェミニストとして讃えられ、そしてそれ以外の男に奪われた権利を取り戻そうとする女性は女性の敵で足りない存在で、恋人も結婚もできない負け組で嫉妬している哀れな存在だと笑っている。けれど、そうした表明をしないだけで男は皆そのような幻想の中の女の姿やステレオタイプで女は足りない存在なのだというふうにこの社会が決めた通りに女を人間以下の存在と見做しているし、自分が単に不快になった時に突然黙ってみたり突然不快な態度をとって女性に機嫌を取らせようとしたり、女性が差別を語るとその発想や発言は間違いだと自動的に決めつけて笑ったり、女性が間違っているという前提で呆れた態度を発露する。社会的にも優位な立場であることは知覚している。アニメの中にはなんでも男の主人公に頼って甘える幼馴染がいて、すぐキレるのに短絡的な発想で失敗ばかりを繰り返し、生意気な態度をとっても結局は愛情の裏返しなだけで、突飛で無理くりな理由をつけて幼稚な発想で女性キャラクターたちは男性主人公が自分に好意を持つように迫る。女性たちに生理はなく、妊娠や流産や死産や中絶、同性愛者や性犯罪被害者は存在しない。また、そのような露骨な差別に満ちたキャラクターやなんでもいうことを聞いてくれる服従が約束された二次元の女性たちはその設定だけでも差別の結晶である。また、そのようなコンテンツは女性憎悪を招く。アニメやドラマや映画のように女性とは未熟で感情をコントロールできず、男に守ってもらわなくては生きていけない寄生虫で感情的な生き物だというふうに学ぶのだ。反発しても結局主人公を愛し主人公のことを必要とする女性キャラクターの存在は男がいなければ自力では生きていけないのだ。けれど、男にとってみればそうした女性は当然のようにコントロール可能な対象である。女性の隷属や無条件的な男に対する同意や賞賛や感謝を前提とし、そうした精神的ケアも含めた男にとって都合のいい存在であるとみなした関係性の構築をより強化する。社会的に蔓延している女性をコントロール可能な対象とする価値観がまた濃縮されるのだ。ストーカーが絶えないのも好意があるのにわざと反発して主人公を女性が創作物に多く、女性がコントロール可能な存在として描かれ女性をコントロール可能な対象として物扱いする社会だからこそ憎悪犯罪が絶えないのだ。アニメやドラマ、その制作者たちも当然女性を商品として扱っている。演じる女性の尊厳ではなく、キャラクターのことも女性を生きている人間としてみなさなち。実体のある尊厳のある人間ではなく、胸や尻や脚や扇情的なキャラクターと言ったようにバラバラの属性として分断し切断している。妊孕性でさえ性的なパーツである。実際アダルト業界では膣内射精やいやがる実の娘や生意気な上司を無理やり強姦して膣内に射精したり監禁して輪姦すると言った内容のビデオがシリーズ化され、レイプや盗撮や女子高校生がジャンルとして存在されている。酔わせてレイプしたり、女性に写真をばら撒くと脅すリベンジポルノが題材になることも知っている。トランスパーソンの自認女性は性犯罪被害の危険があるから身体女性と共闘できるはずで分かち合うことができるというのは大嘘だ。実際女性は身体が女性であるから差別をされ妊孕性でさえ性欲や征服欲を満たす存在として性的な利用価値を見出され、女性の恐怖心や絶望に陥れる様を見て楽しむ映像が出回っていて、盗撮映像がインターネット上で売り買いされ、身体が女性であるがために感情ケアを当然のように男たちは自分の周囲の女性に無言で求めてくる。性犯罪被害者の人権は皆無だ。電車には乗ることができない。酒を呑んで酔って自分を誤魔化して乗り切っても駅構内でぶつかられるし街中で空いた道を歩いていても後ろから突き飛ばされたりすれ違い様にジロジロと体型や顔を見られる。その苦痛やそれらが全て差別から派生した女性憎悪が引き金になっていることなどを告発しても思い込みだ自意識過剰だお気持ちだと言われる。女性が結婚するとキャリアが絶たれることや不利な状況に追いやられることが覆い隠され、家事などを無賃でこなすことをもとめられ、体調不良だろうとなんでも家事を妻任せだ。会社の上司や友人にはしないのに、妻の話を遮ったり妻がつわりで寝込んでいても平気で食事を作るよう要求して起こしたり名もなき家事を全て妻にやらせるのだ。そうした夫の無関心には女性差別が根底に存在する。私の父が家族共用パソコンでそうした履歴やビデオを保存し、家族写真のフォルダの中にさえ女性を強姦しているビデオの画像を保存していたように、言わないだけで多くの父親が女性の家族を疎ましい存在として邪険に扱いながらも精神的なケアを求めている。妻の都合や感情に対する配慮どころかそれすらも夫の視界にはない。それ以下の存在で、都合のいい時にプレゼントをわたしたり愛を伝えたりすればいいと思っているか、勝手に些細なことで怒っているんだと自分を哀れんでいたりするのだ。妻は同意なく自分の好きなタイミングで体に触れてもいい存在で、同意を得る必要さえないと思っている。選択の権利も余地も最初からない。私が同級生から性的な加害を受けた数日後も父は女子高生逆ナンパというタイトルの動画を見ていた。
トランスパーソンの自認女性と身体女性は全く違うどころか、女性であると認識し、女性になろうとして行っているメイクや服装、女性的と社会でみとめられた振る舞いをすること自体が女性への差別なのである。また、身体男性であることで意見や主張を間違っているものと咎められたり懲罰されてきたことから意見を話すことを恐れずにすんできた。直接的な感情の発露を認められてきた。また、身体男性として生きた経験は女性差別の蓄積でもある。もし単に性別違和があるならそれは脳の病気だ。しかし、性別は変えられる(実際は臓器に性差があるからそんなことは絶対に不可能だが)という幻想は徹底的に粉砕するべきだ。性別役割が徹底した社会の中にいきぐるしさがある人が自身をトランスジェンダーだと思うのならそれはこの社会が間違っているだけ、ともいえない。それは家父長制の影響とその本流から細分化した支流を含めた差別の複雑さや複合的な差別を無視したことになる。トランスパーソンの身体男たちは男だと。家父長制の中で優遇されてきたのだから、女性をコントロール可能な対象とみなす文化も当然疑問なく受け入れることができ、現在だって感情的な女性としての規範的な金型に沿わない女性を懲罰し、暴力で支配することや暴力をちらつかせることがどれだけ女性に『効き目』があるかも彼らは理解している。女性差別に染まっていない人間はいない。男は誰でも女性差別に対して無関心でいることや無関心でも生きていける立場を守られている。ケア要員として努めることを要求している時点でトランスジェンダーの人々は被差別対象ではない。好きな格好をしているだけで偏見の目で見られるなんて言う甘っちょろい苦痛なんかではない。それを人によって感じ方が違うから苦痛に客観的な視点や重さはない、どの人も守られるべきだと言う主張で、差別のもたらす弊害や女性の死を曖昧にするな。誤魔化そうとするな。お前らの感情なんかで私たちは消されてしまう存在ではない。共生という耳障りのいい言葉を使って侵襲しようとするな。お前たちにとって心地よい共生の中に私のような性犯罪被害者など存ないのだろう。反吐が出る、何が共闘だ。感じ方なんていう個人によって尺度の違うものなんかで、実在している差別の重みは消えない。お前らの感受性や視野にもその基礎や道徳観の根にあるものは家父長制を培養した憎悪が刻まれている。男としてどれほど優遇されているか?それなのに自分は弱者だと思い込むのは傲慢だ。そして優位性に基づいた感覚で女を裁量するな。女を名乗るな、女を奪うな。彼らの枠組みを保護することは自分を女性と認めない女性を懲罰的に見つめる視点や暴力性を沸騰させるだけだ。そうして守ろうとして配慮して譲ってやればやるほどヒロイズムに浸ってシス女性には私たちの苦しみなんてわからないだなんだと悲劇ぶるだけだ。女性憎悪に満ちた社会に対抗するために女性はどれほど傷ついても戦うことを強いられる。その中で死を選ばず生きることがどれほど過酷か。女性憎悪は解決されたものであるとみなし、露骨な差別以外は全てを除外し、女性の性犯罪被害そのものを例外視し、コントロール可能な対象とみなされ発言も全てを男より劣った亜流の存在とみなされ、花柄やハートや心配りや親切といった女性ならではの発想や特性をことあるごとに求められ制限されてきた私たち女性を別席に置いてきた男たちから、全てを奪い返さなくてはいけない。家父長制のその首を切り落として、私たちが生きる権利を取り戻しにいかないといけない。時計の針を逆回しにすることはいつでもできる。男たちこそ変われ!と言って何もしないでいるくせに男が少し平等だなんだとポーズをとっただけで理解してくださってありがとうございますと尻尾を振って理解してくれる男性を立派だと神聖視して救世主のように扱って応援するのはやめるべきだ。男の言葉を持ち上げるのも男こそ正統であるという思い込みによるものだ。その価値観こそ家父長制が作り出した女を支配下に置くことを許してきた足枷である。足枷をありがたがるのをやめよう。男が変わっているならとっくにこの世は変わっている。それでもこの世は変わっていなかった。そいつらは性風俗店で女を買い、スマホで女を虐待するビデオを見ることもできれば妻を無賃で搾取していながらそれを当たり前と思っている男たちだ。彼らは性風俗で溢れかえる繁華街や日々女性が殺されるニュースを見ても物騒な世の中になったとしか思わないし、それを見てもなんとも思���ず素通りすることができる。そして電車の中では大股を開いて座り、大学進学は優遇され、高く設定された合格点に届かず志望校に行けなかった優秀な女性よりも劣った成績で進学し、妊孕性がないために就職や昇進も過大評価されている。男は無条件的にできて当たり前で成果を出せばそれは傘増しされる。女性の人権を奪ってあぐらをかいている男を見ながら男の認証や同意を求めようとするな。家父長制を処刑台に送り込まなければ私たちは殺され続けることを忘れてはいけない。差別を長らえさせることとは、私たちの今ある現実を無視することだ。
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ari0921 · 3 years
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櫻井よしこさんの論考をシェアさせていただきます。
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他人事ではない中国の「見えない手
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米国の歴代大統領は退任後すぐに回顧録を出すのが習性となっている。読 者は世界中に存在し、最初からミリオンセラーが約束されている。出版契 約料が日本の標準では考えられないほど高額なのも当然かもしれない。た とえばオバマ前大統領夫妻は6500万ドル(約68億円)を得た。私はこの余 りの高額に驚きを超えて笑ってしまったが、それでも各大統領の回顧録は 読んでみるのがよい。
歴代米大統領の中で中国の工作を最も深刻な形で受けていた一人は、間違 いなく民主党のクリントン氏であろう。ヒラリー氏があれ程頑張っても初 の女性大統領になれなかった原因のひとつに、中国マネーの影響があるの ではないか。クリントン夫妻の中国マネーにまみれたイメージが、ヒラ リー氏の道を閉ざした可能性は高いだろう。その中国の魔の手が民主党だ けでなく共和党にものびていたという衝撃的な事実を『見えない手』(飛 鳥新社)が見事に報じた。
著者はクライブ・ハミルトン氏とマレイケ・オールバーグ氏だ。ハミルト ン氏は豪州への中国の侵略を詳述した『目に見えぬ侵略』の著者である。
中国共産党の工作を描き尽くす作品第二弾としての『見えない手』は、侵 略の舞台を北米大陸と欧州に絞っている。どの国の事例も深刻だが、米国 共和党の取り込み、とりわけブッシュ家への工作は凄まじい。
ジョージ・W・ブッシュ氏の回顧録、『決断のとき』(Decision Points)には、両親の愛情を一杯に受けて育った素直な人物像がにじみ出 ている。大酒飲みで、失敗も仕出かした若きブッシュ氏が結婚し、40歳で 酒を断ち、キリスト教への信仰を深めていく姿は素朴で実直な人間像その ものだ。
ブッシュ氏の大統領としての評価には様々あろうが、私の疑問のひとつは ブッシュ家と中国の関係だった。父ブッシュは1974年から76年まで北京連 絡事務所長、76年から77年まで中央情報局(CIA)長官を務めた。レー ガン大統領に副大統領として奉じ、89年から93年まで大統領として、中国 の天安門事件に対処し、湾岸戦争を戦った。彼は天安門事件で中国が国際 社会の経済制裁を受け締め出されたとき、事件からひと月後の89年7月に 秘密の使節団を北京に送り込み善後策を話し合っている。
甘い誘惑
国際社会による経済制裁の輪を突き破ったのは表面上わが国の海部俊樹政 権だったが、実際はいち早く中国救済に動いたのは米国で、その立役者が 父ブッシュだった。
中国は父ブッシュを「古い友人」と呼ぶ。右の呼称は中国に多大な貢献を した世界的な人物に与えられるもので、キッシンジャー氏らが受けてい る。
このように父が中国と親しい関係にあったにも拘わらず、息子ブッ シュ氏は大統領に就任するや、前任のクリントン大統領による米中は戦略 的パートナーという定義を否定し、中国を戦略的ライバルと位置づけた。 米国の甘い対中政策を変えようとしたかに見えた息子ブッシュ氏の路線は 大統領就任1年目、2001年の9・11事件で大きく変更された。ブッシュ氏は 中国の江沢民国家主席をテキサス州クロフォードにある自分の別荘に招 き、ライバル路線から共にテロと戦う協調路線に切り替えていった。
その間中国側が息子ブッシュ氏の弟たちに注目していたことが、その後の 展開から見てとれる。フロリダ州知事だった弟のジェブ氏が16年の大統領 選挙に出馬したとき、中国は130万ドルを献金した。実際に献金したのは カリフォルニアの不動産開発会社経営者のゴードン・タンとシンガポール に拠点を置く陳懐丹で、二人はパートナーとされている。
ジェブは早々に選挙戦から脱落し、中国の当ては外れたかに見えた。しか し、二人の中国人富豪はそれ以前の13年から、ブッシュ家の三男、ニール 氏を彼らの会社「新海逸」の非常勤会長として囲いこんでいた。
ニール氏は「ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)中米関係財団」 を創設、会長に就任し、ブッシュ家の中国資産を引き継いだ(『見えない 手』)。財団は「中国人民対外友好協会」と連携関係にあるが、同協会は 中国共産党の統一戦線工作団体である。
ニール氏が中国側からさまざまな働きかけ、甘い誘惑を受けたであろうこ とは容易に想像できる。たとえば19年6月24日、中国共産党機関紙の「人 民日報」はニール氏の発言を熱狂的に報じたという。
伝えられるところによると、ニール氏は、1中国はより成熟しつつある が、米国の民主制度には欠陥がある2米国の政治家たちは米国人が中国を 問題視するように洗脳している3米国は貿易障壁を中国を責め立てるため の政治的武器として利用している、などと語っている。
エリートと娘を結婚
ハミルトン氏はニール氏のさらなる発言も紹介している。たとえば、国営 放送の中国国際電視台の取材で「中国の人々の自然な優しさと贈り物を贈 る習慣」に感嘆したと語ったが、これは自分を手なずけた中国の手法を白 状するものだ。
ニール氏はさらに「中国で人々が享受している自由の台頭を見れば、米国 人は中国に対する見方を変えるはずだ」などとも語っている。
ブッシュ家は共和党を支える名門政治家一族である。無論、米国の政治の 変化はダイナミックで、ブッシュ一族の影響力がどれ程大きく長く続くか は保証の限りではない。しかし、中国の浸透工作は極めて巧みに構築さ れ、注ぎ込まれる経済的資源は莫大である。米国のみならずカナダ、欧州 諸国の事例をみると、各国のエリート層を取り込む手法では巨額のカネと 利権に加えて女性が活用されている。これと見込んだエリートと娘を結婚 させる手法だ。
もちろん結婚には互いに愛情が必要だ。それにしても共和党のミッチ・マ コーネル上院議員のケースには考えさせられた。上院の与党リーダーとし て大統領に次ぐ強い力を持つ氏は、かつて対中強硬派だった。それが1990 年代以降、「有名な対中融和派」になったと分析されている。
氏は93年に中国系米国人で江沢民の同級生ジェームズ・チャオの娘、イ レーン・チャオ氏と結婚した。ジェームズ氏の所有する海運会社は中国の 国有企業と密接な関係にある。娘のイレーン氏は息子ブッシュ政権で労働 長官を、トランプ政権で運輸長官を務めた。ジェームズ氏は2008年、娘夫 婦に数百万ドルを贈与し、マコーネル氏は最も裕福な議員の一人となり、 共和党を親中路線に導くべく働いてきたと分析されている。
中国の深い企み、考え抜かれた戦術・戦略に、私たちが晒されているのは 明らかだ。しかし、世界を中国の価値観で染められてたまるものかと思 う。そして改めて日本の現実を見つめると、黒い不安が広がる。孔子学 院、千人計画、親中派議員と財界人。日本にも伸びているはずの「見えな い手」の実態を抉り出す時だ。
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laikalakugaki · 3 years
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闇の左手 女しかいない惑星ゲセン
SFの巨匠アーシュラ・K ・ル・グィンによる長編小説
冬(ゲセン)という名の異星にて、極寒の環境の中、特異な両性具有人類が形成している社会、という舞台設定のもと進むSF・ファンタジー冒険譚である。
遥かな未来では惑星間での外交が進歩発展しており、エクーメンという人類同盟が発足している。その使節である地球人のゲンリーアイはゲセンを勧誘しにこの惑星に送られきて、ゲセンの一国、カルハイド王国の政治闘争に巻き込まれ追放される。そしてその介助者であり、同じく追放されたカルハイドの宰相エストラーベンとともに氷原の荒野を行軍することになる。
なんと言っても両性具有人類である。それってなんなの?というのを最大の関心ごととして読むのだが、意外とその設定がプロットの主軸に干渉してこない。
登場人物のほとんどが政治家やら王族やらで、四六時中水面下の権力闘争を繰り広げている様子が伺える。フィクションに出てくる古代中国の去勢された宦官とか、このような感じではないのかな?イメージして書いたのかな?と想像した。
ゲセン人は地球の黒人男性であるゲンリーより基本的に小柄であるとされてあったり、オルゴレインという国では個の独立より集団の相互扶助が叩き込まれていて決断力が弱い人々が登場するなど日本っぽい。言語の違いからLの発音ができないなどゲセン人はアジア人.....なのか.....?感もある。歴史的にも西洋から見た東洋人、彼らに発見された存在が奇妙な両性具有者みたいに見えるというのはよくわかるのでそういうこととか連想されます。
三宅乱丈先生っぽい(pet、イムリ)絶対に読んでる。萩尾望都先生も影響を受けてると公言しており、そして宮崎駿氏が作者ル・グィンのファンである。(同作者の作品にゲド戦記があります)
もののけ姫の序盤でアシタカが村を去るシーンとか、ジゴ坊とちょっと旅路を共にするシーンとか、絶対に影響を与えているだろ、というか、もののけ姫を繰り返し見て宮崎駿氏がルグィンのファンと知った上で読むので自動的にそのようなイメージで脳内再生されてしまいます…という.....アシタカはエストラーベンだったのでは?感が非常にあった.....いやゲドかもわからんが....ゲドシリ��ズはこれから読みます.....
先述の通り両性具有者という前提は政治闘争や、氷河の上でソリを引いたりする内容に必要な要素というわけではない、にも関わらず文化の成り立ちやゲンリーとの差異など端々に言及があり物語全体に影を落としている。
それで両性具有人類のゲセン人の生殖ってどういうものなのっていうと、一年の6分の5は両性の器官を具備しているが、26日の周期ごとに発情期(ケメル)に入りパートナーを見つけるとお互いが男または女に変化するものだという。その際どちらの性になるのかは予測不能だし選択権もない。
どんな人も例外なくケメル期には抗えず、その時には発情してしまい働くこともままならないことになる......そのため文明のすべてがケメルを前提に成り立っており暦も26日周期だし街中にケメルのための部屋がいくつもあるという.....
特にこの、なにより発情期という概念や性行為を決定的にさせざるをえなくする感じってオイ!オイ!見たことあるぞ!?なぁ?pixivにいっぱいあるよな?!という感じなのですがあれよりはよっぽどマシというか遥かに善良というか、むしろ真逆である。というのは後述します。
性欲はなんとかする必要があるし子供も産まないとダメ、そのためには絶対相手が必要、と言わんばかりのセックス強制社会にカップル文化の思想が生んだアホエロワールドやん!....と言ってしまいたくなるけどケメルとそれ以外とが分かれているがゆえに平時の日常においては完全に性欲の無い生活が送られていると主張されている。(繁殖期のある魚類とかそのような感じだよね)アホエロワールドといえどその国の成り立ちから文化、単位、季節、気象まで徹底的に設定されており、ここまでやられたら揚げ足とか取れないよ.....アホエロワールド?.....誰ですか、巨匠の作り上げた完全な創造世界をそんな名で侮辱したのは?(誰ですかじゃあないんだよ)
ここまでして何を描いているのか、何が浮かび上がってくるのかというと、人類に性差がないとどうなるのか?ということなんです。両性具有者の世界というのは、全員同性の世界であり、生まれによる隔たりが一切ないという風に描かれていた。
カルハイドではいまだに中世みたいな封建制度が敷かれているらしく、ゲセンには空飛ぶものは鳥も飛行機も存在しない。宇宙を飛び回るほどの発展を遂げている地球人からしたら未開の惑星と捉えられている。ゲセンの極寒の気候が、生き延びるのに厳しく文明の発展を阻んでいると説明されているが、それは理由の1つでしかなく、もっと重大な要素があると感じる。
それはこの惑星の住人が平等に生殖に縛り付けられているということである。全員妊娠可能の人類であるゲセン人は、つまり両性具有というのは建前でしかなく、この惑星には女しかいないと言うべきなのではないか?これは、はっきり明記されてるわけでは無いが読めば普通に気づくこと(偏った思想で物語の真実から目を逸らそうと努めるトンマ以外は)
ゲセンには時速25マイル以上の速度で走る乗り物がない。それはゲセンの地が氷に包まれているからなのだが、彼らには未来へ向かって発展を急ごうという思想がそもそもない。そしてケメルの周期や氷に阻まれて戦争が起こらない。私利私欲による暴政や囚人への容赦ない仕打ちなど、憎悪や暴力はあるが、戦争だけは起こらない。
一考せざるを得ない、地球上に女しかいなかったらこのような世界になっていたのではないのか?他人に産ませた子孫の数を競い合うような暇人はゲセンにはいない。ゲセンでは家系は母方つまり’’肉親’’から受け継がれる。
自らが肉親を増やす当事者になり得るというのは、生殖に縛り付けられていると書いたが、それは果たして不自由を意味することなのか?
戦争が起こらないのは、ゲセン人が、地球の男がやったみたいに徒党を組んだり、自己実現のために他を制圧する必要がなかったからだろう。彼らはむやみに仲間を求めたり他所を侵略しなくても、誰もが自らの力で子孫が残せて種全体の発展を進められる。
国家や社会などの大きな集団に従わなくても、自ら増やした肉親と人間関係をやっていける。土地や先祖の概念を守らずともどこででも生きていけてしまう。結果として未来の進歩発展よりも現在が大切とされ、自然が豊かなまま守られている。
つまり女しかいない惑星は、通過儀礼や社会の形成に動員体制を必要とせず、各人がむしろ自由すぎるが故に、発展が先送りになるのでは?でもゲセンっていいな....ユートピアやん.....と素直に思った.....
...........ということについて連想することはできても物語の内容で直接言及されているわけではないのだが............
王自身が産んだ子なのか、王の交配相手が産んだ子なのかで王位継承の順番が変わることなどが一瞬語られていたりして、エッその辺のことで書かれた話が読みたいよ!?とめちゃ思ってしまった。闇の左手はそういう話じゃありません....というかより地獄みの強い人間性が強烈な方に興味を惹かれないでください....でも癖です....風の十二方位という短編集にその辺の話が収録されているらしいのでこれから読みます.....
しかし1970年では現代とは前提がかなり違ったことでしょうが当時そうまでしないと女性性を活劇や権力闘争の舞台に上げられなかったんですか!?みたいなことだと思うと気が遠くなる思いもある.....でも別に今もそうな気がする、いやでもモアナが村長なのに疑問を持つ輩はいなかったわけで(ディズニー・2016)たった50年前.....されど50年前......
後半に向けて加速していく朔逆者エストラーベンのヒロイック描写が凄まじく、フィクションの影響を受けやすい人間が用法をミスって浴びるとしばらくの間、オレはエストラーベン.....になってしまいます。
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cookingarden · 4 years
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ジェイ・ローチ監督『オールザウェイ JFKを継いだ男』 (その1:ケネディ暗殺から1994年公民権法成立まで) 原題:All The Way 制作:HBO Films, アメリカ, 2016. いまから56年前の1964年7月、アメリカ国内で人種差別を禁止する公民権法が制定された。独立宣言で「すべての人間は平等」とうたいながらも、いまなお激しい人種差別がつづくアメリカにとって、人種差別を法律で禁じた公民権法の存在は特別な意味を持っている。 映画『オールザウェイ』は、「昇格」大統領と言われたリンドン・ジョンソンが、公民権法制定の大義のもと、大統領の座を勝ち取るまでの政治闘争の内幕を描いた伝記である。アメリカの歴史に深く刻まれる公民権法はどのように成立したのか、本作はその真実を伝える貴重な映像資料と言えそうだ。本稿では史実を参考に、映画がどのように当時の実態を描いているかを辿った。 なお、今回取り上げる『オールザウェイ』はHBO films制作の劇場未公開のもので、ロブ・ライナー監督の『LBJ ケネディの意志を継いだ男』とは別物である。アマゾンのPrime videoで観ることができる。主演のリンドン・ジョンソンをブライアン・クランストンが素晴らしい演技で熱演している。
CONTENTS その1:ケネディ暗殺から1964年公民権法成立まで
昇格した大統領が抱いた大志
ジョンソンが公民権法成立を目指した背景
法案通過の鍵となった投票権
議事妨害に対抗するジョンソン
ジョンソンが行った「特別な接待」
映画には描かれなかった上院通過の様子
取り下げられた投票権の行方
その2:民主党全国大会から大統領選挙まで
大統領選挙に立ち塞がる二つの難題
公民権活動家殺害事件が生んだ新党
寝室で行われた民主党全国大会の舞台裏
大統領選を有利にしたジョンソンのメディア戦略
悲劇を招いた北ベトナム空爆
圧倒的な勝利となった大統領選挙
プライバシーに見るジョンソンの現実主義と映画のスタンス
映画『オールザウェイ』を振り返って
昇格した大統領が抱いた大志 この映画は、第36代大統領リンドン・ベインズ・ジョンソンがアメリカ大統領に就任してからの、およそ一年間の出来事を描いている。中心となる話題は、公民権法の成立とジョンソンが自らの実力で大統領の座に着くまでの二つの過程である。 映画は、凶弾に倒れたケネディ大統領の血痕が残るリンカーン・コンチネンタルの描写からはじまる。事件は1963年11月22日、テキサス州ダラスで起きた。凶弾はケネディの頭部を貫通、大統領は即死だった。こうして、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領の座に着き、ケネディの政策を引き継ぐことになる。 「昇格大統領、それが肩書きだ」というジョンソンに、妻のバード・ジョンソン1)が「そうね。でも来年の11月に変えましょう」と励ます場面がある。ジョンソンにとって大統領就任は、実力で大統領になるための戦いのはじまりでもあった。 ジョンソンは就任演説の際、その日がリンカンが奴隷解放宣言を出してちょうど100年目にあたることを念頭に、上下両院合同会議で次のように宣言する。
ジョン・F・ケネディの遺志であった公民権法の実現に向け、歩みを継続しましょう。100年以上にもおよぶ議論をさらに進め、前大統領が提出した公民権法に新たな章を付け加える時です。人種によるいかなる差別も、我が国から排除しようではありませんか。
演説でキング牧師が実現を訴えた公民権法は、ケネディ大統領によって法案作成が指示され、すでに議会で審議が行われていた。ジョンソンはその遺志を引き継ぎ、より確かな公民権法を制定しようと呼びかけたのである。
この演説にひときわに大きな期待を寄せる者がいた。マーティン・L・キング・ジュニア牧師である。キング牧師はちょうど三ヶ月前、「仕事と自由のためのワシントン行進」で演説を行ったばかりだった。「私には夢がある」と題された演説2) の反響は大きく、名演説として歴史に刻まれただけでなく、その後の公民権運動の支えとなった。映画には、そのキング牧師がジョンソンの考えに深く共感する様子が描かれている。 一方、ジョンソンの演説に万雷の拍手が鳴り響くなか、憮然とした表情の議員たちもいた。ジョンソンが師と仰ぐ南部出身のリチャード・ラッセル上院議員3) もその一人だ。ラッセルはかねてから人種差別主義と隔離政策を支持しており、公民権運動反対の陣頭指揮をとってきた。彼にとって朋友ジョンソンの考えは受け入れがたいものだった。ラッセルはその後、リベラルな姿勢を強めるジョンソンと対立を深めていく。 こうしてジョンソンは大統領就任と同時に、公民権法の制定を胸に民主党内部の右派議員の説得にあたり、さらには黒人層に気を配りながら自力で大統領の座に着くという、複雑で難しい道を歩みはじめることになる。次の大統領選までに残された猶予は1年間だった。 ジョンソンが公民権法成立を目指した背景 就任演説の翌日、黒人を読者層とする新聞が「2000万人の黒人が安堵した」と伝えるなか、あれは選挙対策の口上だろうとジョンソンの本心に期待する議員も多くいた。古参議員ラッセルも最初はそうだった。映画には、ジョンソンに疑問をぶつける右派議員を相手にラッセルが、「合衆国憲法の重大な危機だ。しかし彼にも事情がある。時がくれば公民権法を骨抜きにするはずだ。」と説得する様子が描かれている。ラッセルはラッセルで、南部出身の大統領を議会掌握に利用するねらいがあった。
共和党ではすでに、バリー・ゴールドウォーター上院議員が大統領候補者の指名を受けていた。彼は小さな政府と強硬な反共路線を打ち出していた。一方、大統領が交代したばかりの民主党には大統領候補を選ぶだけの余裕はなかった。「ゴールドウォーターなら楽勝ですよ」という上院議員のヒューバート・ハンフリーにジョンソンは、「手強いぞ。だが、自分が党候補になるのが先だな」と応じている。 翌年11月にジョンソンが大統領になるには、まず党の候補者指名を受ける必要がある。ケネディの弟、ロバート・ケネディが立候補する可能性もあった。ラッセルはそうなれば党内分裂だという。一方、ケネディが残した公民権法案は重荷になる。あるいはジョンソンは、大統領の権限で法案の審議���先延ばしにすることができたのかもしれない。しかし彼は、ケネディが死亡してすぐに法案と向き合うことを決意する。それは選挙戦を勝ち抜くための手段というより、大統領としての大義であり、困難をバネに選挙戦を乗り切ろうとする闘志の現れだっただろう。 ジョンソンのこの判断の背景には、公民権闘争の高まりがあった。その抗し難い機運がジョンソンに、公民権法の成立に掛ける決意をもたらした。映画のなかで彼は、「罪を犯してきた南部を救えるのは、南部出身の大統領だけだ」と心情を吐露している。しかしこれは、共和党の攻撃材料になるばかりか、下手をすれば党内右派との分断を招きかねない諸刃の剣だった。ジョンソンはラッセルから、リベラルの連中を付け上がらせるなと忠告を受けている。 法案通過の鍵となった投票権 ジョンソンに託された公民権法案は、1960年ごろケネディによって構想された。具体的には、「���票権の保護、行政的な対応、南部白人票の確保」を盛り込んだものだ。白人票の確保にケネディの政治姿勢が現れているが、投票権の保護は当時から人種差別対策の重要な柱だった。4) しかし黒人の投票権は、南部の保守的な人々には受け入れがたい、非常にリベラルな考え方だった。それだけに、このまま法案を通そうとすれば共和党からはもちろん、民主党内の反発も強くなる可能性があった。このころジョンソンは、「通らないような法案を全力で推進することは自分の政治的立場に大きな打撃を与える」5) と恐れていたという。 そこでジョンソンは、法案から投票権を除外することを考える。映画では、就任演説の翌日に行われたキング牧師との電話のやりとりに、その腹の内が描かれている。彼は投票権の重要性を訴えるキング牧師に「まさか私に説教かね」と疎ましがる。そして、H.R.1752(法案第7152号)と題された条文冊子から、投票権が記されたページを引きちぎるジョンソンの姿が描かれている。 投票権の除外というジョンソンの提案は、キング牧師には受け入れがたいものだった。側近のハンフリーも投票権を外そうとするジョンソンに、リベラル派も裏切りだと受け止めるだろうと反対する。しかし、ジョンソンは「お前が説得しろ。リベラル派の代表だろう」とハンフリーに詰め寄り、さらには副大統領候補の甘言を浴びせる。 ジョンソンはキング牧師に、「黒人を貧困から救う必要がある、保険や教育にも取り組みたい、この国を根本から変えたい、法案成立後には必ず投票権条項を追加する」と熱心に語りかける。それにたいしキング牧師は、「わたしは仲間に約束する必要がある。実現しなければ暴動も起こりかねない」とほのめかし食い下がる。これに対しジョンソンは、下院で確実に法案を通すためには君の協力が必要だと票の取りまとめを依頼する。結果的にキング牧師はジョンソンの提案を受け入れ、黒人指導者として黒人活動家を説得する協力的な姿が描かれている。 こうしたジョンソンの説得と活動が効いたのだろう。公民権法案は1964年2月、賛成290票、反対130票で下院を通過する。これによりジョンソンは当初の目的を達成するが、保守派のラッセルは落胆する。これまでラッセルに懐柔されてきた右派議員は、「これでもジョンソンを信じろというのか」と詰め寄る。これにたいしラッセルは、上院では議事妨害で食い止めてみせると応じている。一方、キング牧師はかろうじて仲間への体裁を保った格好だ。キング牧師には、選挙戦になればジョンソンは黒人票を欲しがるという読みがあった。 以上が映画に描かれた、公民権法案が下院を通過するまでの様子である。この一連のやりとりには、法案の通過を最優先に、人を選び報いることで自分の思いを達成していくジョンソンの姿が、実に丁重かつリアル描かれている。 議事妨害に対抗するジョンソン 法案の成立に危機感を抱いたラッセルは会見を開く。公民権法案は悪質で過激な憲法侵害に他ならないと訴え、我々有志は上院伝統のフィリバスター(議事妨害のための長時間演説)で戦うと宣言する。これを知ったジョンソンの妻バードは、「ディック(ラッセル)が語る愛国心には説得力があるわ。あなたは何のために闘うのか、国民に話すべきよ。」とジョンソンを鼓舞する。 妻の言葉に動かされたジョンソンは公邸の庭に記者団を集め、ラッセル上院議員の残念な決断に反応を示しておきたいと、小学校の教師だったころの思い出を語りはじめる。
テキサス州コチュラの古びた学校だった。コチュラは荒野の真ん中にある国境の町で、極貧のメキシコ移民であふれていた。教え子はかわいかった。毎日、朝飯抜きだから腹ペコで登校してくる。だが、みんな勉強が大好きなんだ。心が温まった。
しかし、子供たちはやがて変わる。キラキラ輝いていた瞳から光が消えてしまう。嫌われていることに気づくからだ。肌の色のせいで・・・
「慌てるな」と忠告されることもある。「政治生命が危険だ」と。だが私は言いたい。正しいと信ずることを行えないなら、大統領とは何だとね。
ジョンソンはテキサス州の貧しい農家に生まれ、苦学の末に教員養成大学を卒業した経歴を持つ。コチュラでの思い出は、その在学中に一年間休学して行った教員見習いの時のものである。6) こうした体験こそが、彼を公民権法の実現へと突き動かす原点になっている。ジョンソンという人物を考える上で重要なエピソードといえるだろう。 自身の苦しい過去を振り返るジョンソンに、メモを取る手を止めて話に聞き入る記者たちの姿があった。ジョンソンが打ち出すこうした親密で率直なメッセージは新聞に掲載され、人々の心を打ち、公民権法の善良なイメージを伝える広報活動として大きな効果を発揮したと考えられる。 ジョンソンが行った「特別な接待」 そうした努力にもかかわらず、議事妨害がはじまってすでに67日が経過していた。映画は荒び疲れた議場の様子を映し出す。そこではラッセルが、南部には黒人が集中しすぎている、黒人が全米で均等な比率になるように全州に振り分けるべきだ、と前代未聞の提案をしている。他にも、1500 ページのスピーチ原稿を持参した議員もいた7) というから、反対派の抵抗は相当なものだったのだろう。 長期化する議会妨害を利用し、公共施設での差別撤廃条項を骨抜きにしようとする共和党議員も現れる。譲歩しなければ妨害は続くというのだ。しかし、ジョンソンは要求をはねつけ、次のように説得する。
共和党は公民権法に反対するか、人種差別主義者に投票するかだ。われわれは歴史を作る、その歴史にどのように名を残すか考えるべきだ。アメリカの流れを変えた偉大な人物となるか、単なるおしゃべり男になるかだ。
コチュラのエピソードもそうだが、こうした会話の端々にジョンソンが人々を説得する巧みさが現れている。彼は自分に言い聞かせる形を取りながら、実際には相手が自分のこととして受け止めるように導いている。主張の正しさを押し付けるのではなく、相手がそう考えるように誘う巧みな話術だ。 そうこうするうちに、議会妨害は69日目に入る。この時点ではジョンソンはまだ劣勢だった。このままでは勝てない。彼は党派を超えて票の獲得に奔走する。あるときは、脳腫瘍で手術のため入院した議員向けに、「意識さえあれば投票はできる」と首席補佐官ウォルター・ジェンキンスにハッパをかけたりもする。さらに、法案通過に協力すると見た者には、大統領章が記された自分のカフスボタンを「世界にひとつしかないものだ」と言いながら押し付けたりする。 ジョンソンは別の場面で票の取りまとめについて、「大勢の女性を誘うようなものだ。遊ばないかと声をかけるといったんは断られる。ビンタを食らうこともある。しかし、大抵はイエスなんだ」と述べている。ジョンソンは、女性���声を掛けるのと同じ思いで、多くの議員を法案賛成へと引き込んだのだろう。映画のなかでジョンソンが「またカフスを頼む」と側近に伝える場面がある。彼はいったい、カフスボタンを幾つ作らせたのだろうか。 こうしたジョンソンの姿は、周りの人々に驚きをもたらしたようだ。ジョンソンのもとでホワイトハウス特別研究員を務めた歴史家のドリス・カーンズ・グッドウィンは、そうしたジョンソン特有のやり方を「特別な接待」と呼ぶようになったという。7) 熱心に説得を繰り返す彼のこうした姿勢はやがて、労働、宗教、公民権団体など、多くの団体のロビー活動に力を与えていく。 映画には描かれなかった上院通過の様子 議会妨害は74日目を迎え、法案はついに討論終結決議に持ち込まれる。映画にはこの最終局面の様子は描かれていない。しかし、本田創造氏の『アメリカ黒人の歴史 新版』8) によれば、この日の状況は次のようなものだった。
結局は討論打ち切り動議を採択するといった異例の白熱した審議をへて、6月19日──この日は、奇しくもケネディ大統領が政府原案を議会に提出してから、ちょうど満一年目にあたる──ついに賛成73票、反対27票で上院も通過し、それから十数日後の7月2日、ジョンソン大統領の署名を得て正式に連邦の法律として成立した。上院における反対27票は、その年の11月の大統領選挙で、共和党候補となって民主党候補のジョンソンに惨敗した、超保守主義者のバリー・ゴールドウォーターをはじめとする共和党議員6名と、南部民主党議員21名が投じた票である。(Kindle の位置No.2548-2554).
こうして「1964年公民権法」は苦難のうえ上院を通過する。ジョンソンの懸命の努力が難局を乗り切る原動力だったことは間違いない。まさにジョンソンは彼の信念に従い、アメリカの歴史に名を残す仕事をはたしたのである。 7月2日の法案署名の場面でジョンソンは、キング牧師に署名に使ったペンを贈呈している。一方、署名を前に退室するラッセルは「選挙に影響が出なければいいが」と言い残し、ジョンソンと袂を分つ様子が描かれている。去りゆくラッセルを見送るジョンソンは、「おめでとうございます」と声を掛けるハンフリーに、「私がいる限り南部は民主党を支持しないだろう。法案成立がそんなにめでたいか」とつぶやく。ジョンソンの気持ちはすでに大統領選挙にあった。 取り下げられた投票権の行方 ところで、こうして成立した「1964年公民権法」には別の正式名称がある。それは、「憲法上の投票権を実施し、公共施設における差別にたいする差止救済を与えるため、合衆国地方裁判所に裁判権を付与し、公共機関、公教育における憲法上の権利を保護するため、訴訟を提起する権限を司法長官に授権し、公民権委員会を拡大し、連邦援助計画における差別を防止し、平等雇用機会委員会を設置する等の目的のための法律」というものだ。9) この異様に長い名称を見て奇異に思う人もいるだろう。長すぎる名称のことではない。投票権の実施がうたわれているからである。ジョンソンは法案の成立を優先し、キング牧師に投票権の放棄を提案していた。この食い違いの詳細はWikipediaの「投票権法(1965年)」の記述で知ることができる。そこには、例えば次のように書いてある。
同法(1964年公民権法)には投票権の保護も幾つか入っている。登録官は、各投票者に書くことの識字試験を平等に管理することと、小さな誤りのある申請書を受領するように求めている。また6年生の教育を受けた者なら十分に投票できるだけの識字能力があるという「反証を許す推定」を創造した。しかし、公民権運動指導者からのロビー活動があったにも拘わらず、この法は投票時の差別の大半の形態を禁じることはなかった。10)
ジョンソンが1964年7月2日に署名した公民権法には、確かに投票権の保護が定められている。しかし、法案を通すことを優先し修正が加えられたことで、投票の際の差別を完全には排除できない不十分なものになっていたのである。しかしジョンソンは、前述のようにキング牧師との交渉のなかで「公民権法の成立後には必ず投票権条項を追加する」と述べている。はたしてこれは、法案の成立後履行されたのだろうか。 映画にはこの約束がどうなったかの具体的な描写はない。しかし、エンドロールに次の説明が加えられている。
(1964年11月の大統領選挙でジョンソンが当選した)翌年ジョンソンはキング牧師らと協力し、投票権法を制定。さらに「偉大な社会」を提唱し、福祉・教育・雇用などの分野で抜本的な改革を行った。
このとき制定された投票権法は「投票権法(1965年)」と記されるように、1965年8月6日にジョンソンの署名により法制化された。実はこの署名の際にもジョンソンは、国民に向けた次のようなメッセージを発している。11)
米国の文明の主流をなす基本的事実は、(中略)自由と正義と人間の尊厳はわたしたちにとって単なる言葉ではない、ということである。わたしたちはそうした概念を強く信じている。大きな発展や混乱、そして豊かさを体験しながらも、わたしたちはそれを信じている。従って、わたしたちの中に抑圧された人々がいる限り、わたしたちはその抑圧に加担しているのであり、それはわたしたちの信念を弱め、気高い目的の力を弱めるものである。
それ故に、これは米国のニグロの自由の勝利であるだけでなく、米国の国民の自由の勝利でもある。そして、皆さんが可決し、今日わたしが署名をするこの法律によって、探求を続けるこの偉大な国家に住むすべての家庭が、さらに力強く自由の中で暮らし、さらに素晴らしい希望を持ち、米国民であることをさらに誇りとすることができる。
こうして、法案の通過を優先して投票権が除外もしくは骨抜きにされた1964年の公民権法は、ジョンソンが約束した通り法案通過からおよそ1年後に正しく履行されたのである。これにより1964年の公民権法では限定的だった黒人の投票権の確保が拡大された。その効果は下記のように、まことに劇的なものだった。12)
1965 年末までに、深南部5州だけで新たに 16 万人のアフリカ系米国人が有権者登録をした。そして 2000 年までには、アフリカ系米国人の有権者登録率は、白人に比べわずか2%低いだけとなった。1965 年には、南部では連邦議会または州議会議員に選出されたアフリカ系米国人は2人にすぎなかったが、今日ではその数が 160 人に達している。
(その2へつづく)
(その1:ケネディ暗殺から1994年公民権法成立まで)
(その2:民主党全国大会から大統領選挙まで)
引用文献 1) バードは通称。本名はクローディア・アルタ・テーラー・ジョンソン。 Wikipedia「レディ・バード・ジョンソン」 https://bit.ly/2Z90Ekb 2) マーティン・L・キング・ジュニア「私には夢がある」American Center Japan, 米国国務省出版物, 1963. https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/ 3) Wikipedia「リチャード・ラッセル・ジュニア」 https://bit.ly/2QTRp2Z 4) 安東次男「ケネディと1963年公民権法案」立命館国際研究, 14-3, 2001.11. http://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/14-3_02ando.pdf 5) 安東次男「1964 年公民権法と大統領政治」立命館国際研究, 13-3, 2001.3. http://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/13-3_13ando.pdf 6) Wikipedia 「リンドン・ジョンソン」 https://bit.ly/2Dg4Map 7) アメリカンセンター Japan「ついに我らに自由を 米国の公民権運動」 https://americancenterjapan.com/wp/wp-content/uploads/2015/11/wwwf-pub-freeatlast.pdf 8) 本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波書店, 1991. 9) 本田創造, 上掲書, Kindle の位置No.2554-2558. 10) Wikipediaの「投票権法(1965年)」 https://bit.ly/2EGUxwF 11) アメリカンセンター Japan「ついに我らに自由を 米国の公民権運動」p.61. https://bit.ly/3h2L1Rr 12) アメリカンセンター Japan, 上掲資料, p.61. https://bit.ly/3h2L1Rr
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duckreunion · 4 years
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人間小観察①~「227大団結」について
 まず始めに、このアカウントを作ろうとしたのは、日ごろ読んだBL小説やBLマンガなどの書評と感想をポストするつもりだった。まぁ日本語の練習もその目的の一つなのだが、しかしまさか最初の一編となるものは、書評も感想でもなく、中国の同人圏の一大事件についての雑文だとは、思いもしなかったものだ。 
 ここに書いたのはただ個人の記録と感想なので、事件の全貌や真相などではない。間違いがあればお許しください。
 さて、誰でも否定できない事実から始めよう。2020年2月29日に、AO3が中国のGFWにブロックされ、中国大陸のインターネットユーザーがAO3に直接的にアクセスできないようになった。この事件の火元は政府側ではなく、「肖戦」というアイドルのファンによる告発だったそうだ。どうして肖戦のファンが政府にAO3を告発したのだろうか。そこには妙な原因がある。
1.「陳情令」とファンの構成
 近年中国では、IP(Intellectual Property)の開発の好景気に伴い、オリジナルBL小説に基づくドラマも多くなってきた。「陳情令」もその中の一つで、BL小説「魔道祖師」を翻案したドラマなのだ。そして「陳情令」の主役として、肖戦は「魏無羨」つまり受けを演じた。ちなみに攻めの「藍忘機」を演じたのは、王一博というアイドルだ。
 このドラマはSNSで話題になり、人気を博した。もちろん主役の二人も多くのファンを集客した。ただし、「陳情令」はBL小説に基づいてのものなので、そのファンの中にはBLの好きなファンも多い。更に、BLファンの中に、キャラクターではなく役者の二人の関係を恋愛関係だと想像しながら、二人をも応援している、通称「CP(カップリング)ファン」という人も少なくない。彼女たちはBLの力を発揮し、肖戦と王一博の仮想の恋愛関係を語り合ったり同人を書いたりしているようだ。
 一方、アイドルのファンには一人のアイドルしか好かないファンもいるに違いない(いや、むしろそのようなファンこそ一般的なファンだろう)。中国では彼らは「唯ファン」と呼ばれている。「唯ファン」とは、「そのアイドル=唯一」という意味だ。その言葉はそもそもアイドルグループの場合に、メンバーズの中で一人しか好みではないファンに対しての呼び名だが、今は広義的に使われるようになったそうだ。
 まあ細かいところには気にしなくてもいいのだが、とにかく、肖戦の「唯ファン」たちは彼らのアイドルを他の人とカップリングさせることを嫌がっている、というのは否定できないことだ。
2.同人小説と告発
 2020年2月24日、あるCPファンが、『落下(中国語:下坠)』というRPS(Real Person Slash、実在する人間に基づいてのBL同人小説)をAO3とLofter(たくさんの中国同人作者が活躍しているブログ)で発表した。もちろんそれは王一博と肖戦を主人公にした同人小説だ。小説では、「王一博」というキャラクターは未成年の高校生で、「肖戦」は女装している男である上、売春もやっている性同一性障害患者なのだ。一見危うい題材だが、読んだら意外にいい作品だと思う。官能的な描写もあるが、二人の主人公の切ない感情が繊細に描かれているところもあり、さらに主人公の身近の人たち、そのどん底に生きている人間の絶望と虚しさも、ゆっくりとしたタッチで語られている。私は普段オリジナルBL作品しか読んでおらず、同人作はあまり読んだことがなかったから、その文学性に驚いた。
 しかしその小説の反響があり、発表した後すぐSNSで広がっていき、CPファンだけではなく、唯ファンたちにも読まれだ。その結果、「肖戦」のキャラクターの設定に大変な物議を醸した。「唯ファン」は彼らの統領をはじめ、「未成年・売春・色情の内容が未成年たちに害する恐れがある」ことと、「アイドルを娼婦として描写することはアイドルのイメージに対しての損害」といった理由をもって、小説・小説作者・小説の発表されたサイト(AO3とLofter)三者を政府機関に告発することを仕掛けた。もちろんその行為を反対したり批判したりする人もいないわけではないが、告発を止めることはできなかった。こうして、ある見えない「戦争」の火種を灯した。そして数日後AO3がブロックされたことを機に、火種は燎原の火になった。
3.戦場の拡大
 この戦争は肖戦のファンの内部分裂で引き起こされたのだが、その影響は拡散したため、今はもうサイバースペースでの社会事件と言ってよいだろう。どうして今回の事件はこんなに大規模になったかについては、私の浅はかな考え方からすると、恐らくこの事件にはいくつかの問題が重なっており、それぞれの問題に対して、異なる人の回答と行動を要請し、結局思いもよらぬところまで波及していったのではないか。
 まずは同人圏からの反対と「227大団結」の誕生。
 もう慣例になってしまうが、中国のサイトが告発されたら、(不適切だとみなされた)内容への清掃は必ず付いてくる。この環境の下で、同人、特に性描写のある同人を創作する作者はいつも不安なままなのだ。だから告発の始まった後、Lofterでは大量の同人作品が読めなくなり、多くの作者も保身のため自分の作品を削除し、Lofterから遁走した。影響された作者とその作品は、肖戦の同人圏だけではなく、Lofterでほとんどすべての同人圏にも及んだ。それを見かねて、同人の支持者が集まって、肖戦のファンの行為に反対の声を上げはじめた。肖戦の熱狂的なファンの向こうに立っているのは、世界中の数え切れない作品とその同人、「ハリーポッター」から「文豪ストレイドッグス」まで、それぞれの愛好者たちによる戦線なので、その日(2月27日)は「227大団結」と名付けられたそうだ。
 次は論争の焦点、「告発の権利」と「表現の自由」だ。
 同人圏の反対に対して、肖戦のファンは「わいせつな物を告発するのは市民の権利だ。私たちには間違いなどない。そのような物を作った人こそ間違っている。」と主張した。それによって、告発の権利と表現の自由との関係も激しく討論された。
 中国では近年文芸上の制限が増え、書いてはいけない題材・表現が多くなる一方だ。また「告発」は制限の仕組みの一環となっている。読者が「不適切な」ものを発見→政府機関に告発→作品の封鎖/サイトに処罰を与える、という連鎖なのだ。この制限は同人圏より恐らく商業化されたオリジナル創作圏の人に嫌われているのだろう。いずれにせよ自分の作品が「不適切だ」と判断されると、作家自身の名にも酷く影響を与えることになるからだ。従って、今回の論争にはオリジナル作家も(もちろん彼らの読者も)「大団結」の側に立ち、同人圏の人を応援したのだ。大団結の支持者は徐々に増えてきている。
 最後は「ファン圏」とインターネットユーザーとの間の衝突。
 「饭(ファンの発音の当て字)圈」という言葉は今中国のSNSでよく見られる。元々「ファンダム」という意味だった。今は「ファン圏」と聞いたら忌まわしい印象があるので「ファンダム」とそのまま翻訳したらそのニュアンスがなくなることから、「ファン圏」というちょっと変わった言葉を使ってみることにした。
 アイドルがいればファンもいる、というのは言うまでもないことだが、中国の「ファン圏」という言葉が指したのは一般的なファンの集まりではなく、高度組織化されたファンの団体のようなものだ。
 普通のファンは好きなアイドルの歌を聞いたり、番組を見たり、ライブなどあれば行ったりする。しかし「ファン圏」の一員になったら、すべきことが多くなる。あらゆるランキングに投票する。アイドルのポストしたことをリツイートする。アイドルがある商品のイメージキャラクターになれば、その商品を買う。SNSで誰かがアイドルの悪口を言うと、「アイドルの風評被害を防ぐ」ために、そこに赴いて反論する等々。
 上述のことは、普通のファンもしたりするが、ファン圏であれば、そのようなことは割り当てられた任務になった。それをしなければファン圏の一員失格なので、他のメンバーズに見下されるようだ。さらに、ファン圏の者は頭領の指示に従い行動を一体化させるところもあるため、その影響力が拡大し、ファン圏以外の人物に多大な影響を及ぼすことが屡々ある。
 ファン圏による群体的行動にはだいたい二つの目的がある。アイドルの人気や商業上の価値を上げることと、アイドルのイメージ・風評を守ることなのだ。ネット上では、普通のユーザーがファン圏に嫌悪感を抱いているのは後者による行動だろう。
 ファン圏の人はアイドルに対するあらゆるツッコミ・不満・批評を、アイドルのイメージの損害と認識しているようだ。そのようなコメントが発見されるたびに、ファン圏は迅速に対応する。反論は基本中の基本だが、他の手段もある。例えば、アイドルに対する積極的なコメントを多く発表しネガティブな批評はコメント欄で閲覧できなくなる。さらに、それを不適切な発言があったと報告する。評論者の個人メッセージに「そのコメントを削除してください」などとお願いする。下手をするとお願いではなく過激な言論や悪口なども送ったりするのだ。Weibo(中国版のツイッターって言ってよいのかな)では検索機能がある。たとえ「○○(アイドルの名前)の演技下手過ぎて受けるわ~」というツッコミをしても、ファンに見つけられ囲まれいろいろ言われる恐れがあるから、今Weiboでは「ファン圏」という兵器を持っているアイドルに、他の人は彼らの頭文字だけ用いて語るようになった。つまり新垣結衣を「ay」と書く、という感じなのかな。
 もちろん異なるアイドルのファン圏の間でもよく「戦いあう」がそこまで言ったら収まらないだろう。とにかく、ファン圏の活動の拡大に伴い、一般的なユーザーは活動空間が侵食されつつあり、苦情も不満も溜まっている一方だ。今回の事件を契機として、AO3やLofterなどをよく知らない人もファン圏の過激なやり方を批判したりこれまでの苦情をこぼしたりして、大団結の戦線の一部となった。
 要するに、事件の直接的な被害者である者、表現の自由の擁護者である者、ファン圏のやり方の反対者である者、この三つの群体が、肖戦のファン圏と直接的に対峙している。まるで波紋が四方に広がっていくかのような状況なのだ。
4.AO3の陥落と攻防戦の開始
 政府機関に告発したのは26日だった。そして29日の夜、中国からAO3にアクセスすることができなくなった。同人圏に、「精神上の家が失われた」と嘆きながら涙を流した者は少なくなかっただろう。とはいえ、たとえどう願ってもAO3は戻ってこないのだということをつくづく感じ、彼らはすぐに自身の悲痛と憤りを肖戦のファン圏への恨みに変え、敵討ちしはじめた。
 肖戦の膨大なファン圏に反撃するため、「肖戦」を狙わなければいけない。肖戦を倒すのは反撃の一番重要な目標となった。ここでの「肖戦」は人間としての肖戦ではなく、アイドルとしての肖戦だ。資本に操られ、ファンに崇拝され、信仰を金銭に両替する一番重要な中枢というものなのだ。また、その目標には、「肖戦が芸能界から追い払われたら、肖戦のファン圏も自分の大好きなものが失われる苦味を味わわされるのだろう」という、肖戦の反対者の気持ちさえも含まれていた。
 反撃の計画は速やかに立てられた。肖戦の商業上の価値を消すのは計画の核心となった。肖戦が出演した作品のレビュー欄で反対の声を出し、これはドラマ・番組の制作会社に警告し、今後肖戦を役者として起用しないという手段だ。同時に、肖戦をイメージキャラクターに起用している商品をボイコットし、会社にイメージキャラクターの変更を訴える。それらの会社の中に、肖戦を支持する会社はいくつかある。そのような会社に対して、反撃者たちは「発票」というものを持って大手企業と対抗する。
 私は文系なので経理のことにはちっとも分からないが、ようするに「発票」とはレシートみたいなものだが、実は税務局の課税の対象になるそうだ。買い物した後、レシートをもらえるのは言うまでもないことだが、中国ではお店に「発票」を出してもらうことができる。発票を発行することでその部分の売り上げは税務局に知られ、そして税金は増えるようだ。発票による税金は会社が納める税金の全部ではないが、発票を多く出せば出すほど、納める税金は多くなるのだ。そこで消費者が発票を請求しなければ、普通の店舗は発票を出さない。
 しかし、取引が発生したら、消費者がその記録を保存し、将来いつでも販売店に発票を請求することができる。なので反撃者たちは消費者の権利を行使し、何年も前の消費記録を探し出し、肖戦を支持する会社に発票を出してもらうことにした。短時間に大量の発票を出すと、会社の経理部に大きな圧力を与えることができ、その会社は税務局に何か不審な行動があるのではないかとも疑われるそうだ。
 ボイコットと「発票」の策は効いている。肖戦のイメージキャラクターはだんだん他の者に取り替えられていった。しかし勝利にはまだほど遠いのだろう。肖戦を世論とトラブルから救い出したいのはファン圏だけではない。肖戦の所属する芸能事務所と、「肖戦」というブランドに投資した資本もこのブランドの価値を保つため動いている。時々肖戦を群体迷惑行為の被害者として、「227大団結」を加害者として描いた文章がWeiboで流布される。「227大団結」の参加者を香港の独立の擁護者、暴動者と同じように見なす評論も見られる。ちなみに「227大団結」というタグの閲覧数は一億を越えたが話題ランキングには全然見られない。このようなことは肖戦の後ろ盾である資本による仕業だとみなされている���更に、肖戦とは全く関係のない政府の公式アカウントが肖戦への同情の言論を発表したり、肖戦のスタジオの声明をリツイートしたりすることもある。この現象は「227」の立場からみると、まさに資本が政府の機構を蝕み、共謀している証拠なのだ。ゆえに肖戦側には「公権を私的に利用する」という罪名が加えられた。
 振り返ってみると、いつの間にか「表現の自由」というスローガンはこの攻防戦が始まったとたんに捨てられた。私にとっては残念なことだが、それはしょうがないことだと納得が付かないこともない。成人向けのレイティングのない中国では、あらゆる性描写のある内容がわいせつ物と視されがちだ。もちろん芸術的価値のある作品であれば性描写があってもわいせつ物の範囲には入らないが、どのような基準に則って芸術的価値の有無を裁定するかは、法律には書いていない。こういう状況である以上、「表現の自由」についての討論はこの戦争に役立たず、逆に話をややこしくし、敵に隙を付け込まれる恐れもあるのだ。従って「227」の人たちは本当の目的を明かさず、肖戦を倒すのにもっと役に立つ罪名を探し出した。「公権を私的に利用する」のはその一つだ。肖戦の昔のWeiboでの発言を探り、女性を見下すような品のないコメントを取り上げ、「女性を侮辱する」という罪名をつけた。また、ファン圏の行為を放任したせいで、ファンが狂気になりファン圏自体も邪教団体と化す可能性があるため、「ファン圏の邪教化」という罪名も加えられた。事件が起こった直後に、肖戦のファンがツイッターで自分の無実を訴えたりした。AO3がブロックされたのは中国政府のしたことで、肖戦に、彼らには関係ない、と。しかしそれらの弁解はそれぞれ微妙に差があり、元々偏っている話をさらに誤魔化し、結局傍観者に「中国政府がlgbtを迫害している」や「肖戦は新型コロナで死去した」といった印象を残してしまったようだ。もちろんそのような言論も227の人にピックアップされ、Weiboで暴かれ、もっと厳しい罪名がつけられた。国家の形象を損害することつまり「売国」という罪名なのだ。こういうふうに、227の人は肖戦と彼のファンを、国家と対立する立場に押し付け、社会の平穏を脅かす存在として語っている。
 5.政府筋の意見?
 227の人と肖戦のファンとの戦いが白熱化し、いよいよ政府が注意を喚起した。
 3月11日、中国の最高人民検察院に所属する機関紙『検察日報』が今回の事件について文章五編を登載した。文章の作者には検察日報の職員や、検察官や、法学の博士もいる。機関紙に出る文章は公的立場からの意見とされているので、この五編の文章も政府側の今回の事件に対しての見方だと見なされている。
 それらの文章をかいつまんで言うと、両方にも意見が表れていることが分かる。
 一つは同人側に対する意見。
 1.中国では、同人作品はオッケー。ただし、商業利用の目的であったら法律違反になりかねない(著作権侵害など)。また、同人にわいせつ的内容があったら法律違反だ。中国では「わいせつ物伝播罪」という罪名がある。わいせつ物をもってお金を稼ぐことはもちろんダメだが、ただわいせつ物を広げることだけで犯罪視される、ということだ。
 2.『落下』の小説について言えば、現実人物の肖戦と王一博の氏名権を犯す可能性はあるが、告訴の主体は肖戦と王一博に限る。
 3.中国ではレイティング制度はないので、AO3での一部の作品は中国の法律を犯したのかもしれない。外国のサイトであるAO3に対して中国は法律を執行できないなので、法律に従い措置をし伝播ルートを阻止するのもおかしくないのだ。
 次はアイドルとファン圏に対する意見。
 1.ファン圏の活動が一般人のインターネットの利用ないし生活にも影響を与えたということは否定できない。
 2.アイドルとファンの絡みが日に日に強くなる今日には、ファンの暴走に見て見ぬふりをするのもアイドルの失格だ。
 3.法律違反の行為や現象などを見たら政府に告発する権利を市民は持っているが、それを持って意見の不一致である反対者を排除することは認められていない。
 私に言わせれば、これは政府の本音に一番近い意見かもしれない。
 同人は大丈夫だけど色情はダメ。色情内容を削除できないとしたら排除する。アイドルが自分のファンを手先のように馴らしてもいいが、調子乗りすぎると締めてやる。まるで公正無私の父上が喧嘩し合っている兄弟を止める時の言い方のようだ。その文章を一通りに読んだら、今回の事件は価値観の対立している二つのコミュニティーの間の争いに見えるかもしれないが、事件の起こる要因の一つとしてのGFWは巧みに隠された。隠喩的に「法律に従い措置をし伝播ルートを阻止する」という言葉のみにとどめられている。さすが公正無私のお父様にも大人の事情があるのだ。
 6.一か月後の今
 これを書いたのは、「227」の一か月後、3月28日の深夜だ。
 いまだに「227」と肖戦のファン圏との戦いは続いている。いつ終わるかは、私にはさっぱり分からない。毎日SNSで関連情報をざっと目を通すことすら私は疲れてきた。現時点ではSNSで「227」の人の憤慨と悲痛の気持ちは多少治まったが、ボイコットの範囲は拡大しつつあり、「発票」を請求する対象となる商社も増えている。なぜなら、肖戦のファン圏を倒すためにまず肖戦を処罰しなければならず、またそのために、肖戦の後ろ盾としての資本・大手企業と戦わなければならない、という見方で彼らが一致したのだ。涙は御免で、大切なことが失われたその切ない気持ちを相手に味わわさせるこそ一番大事なことなのだ。
 面白いことに、事件が起こった頃から今まで、肖戦はネットでも現実でも全く姿を現さず、お詫びも申し開きもせず、まるでAO3と一緒にGFWにブロックされたかのようだ。ファンの保護の下に凌いでいる度胸のないやつだと言われることもあれば、しばらく鳴りを潜め復帰できる時を待っている企みだけだという推測もある。しかし私は、犠牲になったAO3が「227」の闘争の旗となったことと同じように、肖戦側も何かを抽象的に彼らの意志を託す象徴物を作らなければならないと思う。そうでないと戦争は始まらない。そこで肖戦は彼らの味方に選ばれ、軍旗の上の印にされたのだ。この戦争が終わらないうちは、肖戦は外に出られないのだろう。まるで保護対象が生贄になったようだ。まあそれはそれで一種の罰なのかもしれない。とはいえ、逆に言えば、肖戦自身が皆の前に現れるというのは、このもどかしいシーソーゲームの勝負がつくということだ。しかしながら、その時には、どちらが勝者どちらが敗者なのか、それを突き止める意味はまだあるのだろうか。「227」のほうが勝ったとしてもAO3は私たちの許へ戻れなくなったことに変わりはない。
(この雑文は私の日本語先生に添削していただきました。サクラ先生、どうもありがとうございました!)
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