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#推しの選手は腰痛で離脱
sayasaan · 2 years
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#ライオンズクラッシック2022 #くまこさんの浮気 先日は地元!ベルーナドームへライオンズを応援に行ってきました。 いつもぼっち観戦ですけど、今回は職場の先輩方たちに付き合ってもらいました〜😊 連敗続きのライオンズ。この日もチャンスを点数に繋げられずまけほ⤵︎😭 勝ちゲームが見たかった😭 栗山様も代打だったし。けど見れただけで幸せやったわ。 CS行けるかなぁ。 #地元の盛り上がりはすごい #推しの選手は腰痛で離脱 ─・・─・・─・・─・・─・・─・・─・・─・・─・・─ #ライオンズ #ライオンズファン #ライオンズファンと繋がりたい #ライオンズ愛 #西武ライオンズ #ライオンズ好き #ライオンズ大好き #ライオンズ頑張れ #推しは登録抹消中 #イケメンは代打のみ😭 #まけほ #まけほー #まけほー😭 #翌日は勝ったよ #中日くまこの浮気 (ベルーナドーム) https://www.instagram.com/p/CiY4migP5Qm/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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guragura000 · 4 years
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自殺未遂
何度も死のうとしている。
これからその話をする。
自殺未遂は私の人生の一部である。一本の線の上にボツボツと真っ黒な丸を描くように、その記憶は存在している。
だけど誰にも話せない。タブーだからだ。重たくて悲しくて忌み嫌われる話題だからだ。皆それぞれ苦労しているから、人の悲しみを背負う余裕なんてないのだ。
だから私は嘘をつく。その時代を語る時、何もなかったふりをする。引かれたり、陰口を言われたり、そういう人だとレッテルを貼られたりするのが怖いから。誰かの重荷になるのが怖いから。
一人で抱える秘密は、重たい。自分のしたことが、当時の感情が、ずっしりと肩にのしかかる。
私は楽になるために、自白しようと思う。黙って平気な顔をしているのに、もう疲れてしまった。これからは場を選んで、私は私の人生を正直に語ってゆきたい。
十六歳の時、初めての自殺未遂をした。
五年間の不登校生活を脱し高校に進学したものの、面白いくらい馴染めなかった。天真爛漫に女子高生を満喫する宇宙人のようなクラスメイトと、同じ空気を吸い続けることは不可能だと悟ったのだ。その結果、私は三ヶ月で中退した。
自信を失い家に引きこもる。どんよりと暗い台所でパソコンをいじり続ける。将来が怖くて、自分が情けなくて、見えない何かにぺしゃんこに潰されてしまいそうだった。家庭は荒れ、母は一日中家にいる私に「普通の暮らしがしたい」と呟いた。自分が親を苦しめている。かといって、この先どこに行っても上手くやっていける気がしない。悶々としているうちに十キロ痩せ、生理が止まった。肋が浮いた胸で死のうと決めた。冬だった。
夜。親が寝静まるのを待ちそっと家を出る。雨が降っているのにも関わらず月が照っている。青い光が濁った視界を切り裂き、この世の終わりみたいに美しい。近所の河原まで歩き、濡れた土手を下り、キンキンに冷えた真冬の水に全身を浸す。凍傷になれば数分で死に至ることができると聞いた。このままもう少しだけ耐えればいい。
寒い!私の体は震える。寒い!あっという間に歯の根が合わなくなる。頭のてっぺんから爪先までギリギリと痛みが駆け抜け、三秒と持たずに陸へ這い上がった。寒い、寒いと呟きながら、体を擦り擦り帰路を辿る。ずっしりと水を含んだジャージが未来のように重たい。
風呂場で音を立てぬよう泥を洗い流す。白いタイルが砂利に汚されてゆく。私は死ぬことすらできない。妙な落胆が頭を埋めつくした。入水自殺は無事、失敗。
二度目の自殺未遂は十七歳の時だ。
その頃私は再入学した高校での人間関係と、精神不安定な母との軋轢に悩まされていた。学校に行けば複雑な家庭で育った友人達の、無視合戦や泥沼恋愛に巻き込まれる。あの子が嫌いだから無視をするだのしないだの、彼氏を奪っただの浮気をしているだの、親が殴ってくるだの実はスカトロ好きのゲイだだの、裏のコンビニで喫煙しているだの先生への舌打ちだの⋯⋯。距離感に不器用な子達が多く、いつもどこかしらで誰かが傷つけ合っていた。教室には無気力と混乱が煙幕のように立ち込め、普通に勉強し真面目でいることが難しく感じられた。
家に帰れば母が宗教のマインドコントロールを引きずり「地獄に落ちるかもしれない」などと泣きついてくる。以前意地悪な信者の婆さんに、子どもが不登校になったのは前世の因縁が影響していて、きちんと祈らないと地獄に落ちる、と吹き込まれたのをまだ信じているのだ。そうでない時は「きちんと家事をしなくちゃ」と呪いさながらに繰り返し、髪を振り乱して床を磨いている。毎日手の込んだフランス料理が出てくるし、近所の人が買い物先までつけてくるとうわ言を言っている。どう考えても母は頭がおかしい。なのに父は「お母さんは大丈夫だ」の一点張りで、そのくせ彼女の相手を私に丸投げするのだ。
胸糞の悪い映画さながらの日々であった。現実の歯車がミシミシと音を立てて狂ってゆく。いつの間にやら天井のシミが人の顔をして私を見つめてくる。暗がりにうずくまる家具が腐り果てた死体に見えてくる。階段を昇っていると後ろから得体の知れない化け物が追いかけてくるような気がする。親が私の部屋にカメラを仕掛け、居間で監視しているのではないかと心配になる。ホラー映画を見ている最中のような不気味な感覚が付きまとい、それから逃れたくて酒を買い吐くまで酔い潰れ手首を切り刻む。ついには幻聴が聞こえ始め、もう一人の自分から「お前なんか死んだ方がいい」と四六時中罵られるようになった。
登下校のために電車を待つ。自分が電車に飛び込む幻が見える。車体にすり潰されズタズタになる自分の四肢。飛び込む。粉々になる。飛び込む。足元が真っ赤に染まる。そんな映像が何度も何度も巻き戻される。駅のホームは、どこまでも続く線路は、私にとって黄泉への入口であった。ここから線路に倒れ込むだけで天国に行ける。気の狂った現実から楽になれる。しかし実行しようとすると私の足は震え、手には冷や汗が滲んだ。私は高校を卒業するまでの四年間、映像に重なれぬまま一人電車を待ち続けた。飛び込み自殺も無事、失敗。
三度目��自殺未遂は二十四歳、私は大学四年生だった。
大学に入学してすぐ、執拗な幻聴に耐えかね精神科を受診した。セロクエルを服用し始めた瞬間、意地悪な声は掻き消えた。久しぶりの静寂に手足がふにゃふにゃと溶け出しそうになるくらい、ほっとする。しかし。副作用で猛烈に眠い。人が傍にいると一睡もできないたちの私が、満員の講義室でよだれを垂らして眠りこけてしまう。合う薬を模索する中サインバルタで躁転し、一ヶ月ほど過活動に勤しんだりしつつも、どうにか普通の顔を装いキャンパスにへばりついていた。
三年経っても服薬や通院への嫌悪感は拭えなかった。生き生きと大人に近づいていく友人と、薬なしでは生活できない自分とを見比べ、常に劣等感を感じていた。特に冬に体調が悪くなり、課題が重なると疲れ果てて寝込んでしまう。人混みに出ると頭がザワザワとして不安になるため、酒盛りもアルバイトもサークル活動もできない。鬱屈とした毎日が続き闘病に嫌気がさした私は、四年の秋に通院を中断してしまう。精神薬が抜けた影響で揺り返しが起こったこと、卒業制作に追われていたこと、就職活動に行き詰まっていたこと、それらを誰にも相談できなかったことが積み重なり、私は鬱へと転がり落ちてゆく。
卒業制作の絵本を拵える一方で遺品を整理した。洋服を売り、物を捨て、遺書を書き、ネット通販でヘリウムガスを手に入れた。どうして卒制に遅れそうな友達の面倒を見ながら遺品整理をしているのか分からない。自分が真っ二つに割れてしまっている。混乱しながらもよたよたと気力で突き進む。なけなしの努力も虚しく、卒業制作の��出を逃してしまった。両親に高額な学費を負担させていた負い目もあり、留年するぐらいなら死のうとこりずに決意した。
クローゼットに眠っていたヘリウムガス缶が起爆した。私は人の頭ほどの大きさのそれを担いで、ありったけの精神薬と一緒に車に積み込んだ。それから山へ向かった。死ぬのなら山がいい。夜なら誰であれ深くまで足を踏み入れないし、展望台であれば車が一台停まっていたところで不審に思われない。車内で死ねば腐っていたとしても車ごと処分できる。
展望台の駐車場に車を突っ込み、無我夢中でガス缶にチューブを繋ぎポリ袋の空気を抜く。本気で死にたいのなら袋の酸素濃度を極限まで減らさなければならない。真空状態に近い状態のポリ袋を被り、そこにガスを流し込めば、酸素不足で苦しまずに死に至ることができるのだ。大量の薬を水なしで飲み下し、袋を被り、うつらうつらしながら缶のコックをひねる。シューッと気体が満ちる音、ツンとした臭い。視界が白く透き通ってゆく。死ぬ時、人の意識は暗転ではなくホワイトアウトするのだ。寒い。手足がキンと冷たい。心臓が耳の奥にある。ハツカネズミと同じ速度でトクトクと脈動している。ふとシャンプーを切らしていたことを思い出し、買わなくちゃと考える。遠のいてゆく意識の中、日用品の心配をしている自分が滑稽で、でも、もういいや。と呟く。肺が詰まる感覚と共に、私は意識を失う。
気がつくと後部座席に転がっている。目覚めてしまった。昏倒した私は暴れ、自分でポリ袋をはぎ取ったらしい。無意識の私は生きたがっている。本当に死ぬつもりなら、こうならぬように手首を後ろできつく縛るべきだったのだ。私は自分が目覚めると、知っていた。嫌な臭いがする。股間が冷たい。どうやら漏らしたようだ。フロントガラスに薄らと雪が積もっている。空っぽの薬のシートがバラバラと散乱している。指先が傷だらけだ。チューブをセットする際、夢中になるあまり切ったことに気がつかなかったようだ。手の感覚がない。鈍く頭痛がする。目の前がぼやけてよく見えない。麻痺が残ったらどうしよう。恐ろしさにぶるぶると震える。さっきまで何もかもどうでも良いと思っていたはずなのに、急に体のことが心配になる。
後始末をする。白い視界で運転をする。缶は大学のゴミ捨て場に捨てる。帰宅し、後部座席を雑巾で拭き、薬のシートをかき集めて処分する。ふらふらのままベッドに倒れ込み、失神する。
その後私は、卒業制作の締切を逃したことで教授と両親から怒られる。翌日、何事もなかったふりをして大学へ行き、卒制の再提出の交渉する。病院に保護してもらえばよかったのだがその発想もなく、ぼろ切れのようなメンタルで卒業制作展の受付に立つ。ガス自殺も無事、失敗。
四度目は二十六歳の時だ。
何とか大学卒業にこぎつけた私は、入社試験がないという安易な理由でホテルに就職し一人暮らしを始めた。手始めに新入社員研修で三日間自衛隊に入隊させられた。それが終わると八時間ほぼぶっ続けで宴会場を走り回る日々が待っていた。典型的な古き良き体育会系の職場であった。
朝十時に出社し夜の十一時に退社する。夜露に湿ったコンクリートの匂いをかぎながら浮腫んだ足をズルズルと引きずり、アパートの玄関にぐしゃりと倒れ込む。ほとんど意識のないままシャワーを浴びレトルト食品を貪り寝床に倒れ泥のように眠る。翌日、朝六時に起床し筋肉痛に膝を軋ませよれよれと出社する。不安定なシフトと不慣れな肉体労働で病状は悪化し、働いて二年目の夏、まずいことに躁転してしまった。私は臨機応変を求められる場面でパニックを起こすようになり、三十分トイレにこもって泣く、エレベーターで支離滅裂な言葉を叫ぶなどの奇行を繰り返す、モンスター社員と化してしまった。人事に持て余され部署をたらい回しにされる。私の世話をしていた先輩が一人、ストレスのあまり退社していった。
躁とは恐ろしいもので人を巻き込む。プライベートもめちゃくちゃになった。男友達が性的逸脱症状の餌食となった。五年続いた彼氏と別れた。よき理解者だった友と言い争うようになり、立ち直れぬほどこっぴどく傷つけ合った。携帯電話をハイヒールで踏みつけバキバキに破壊し、コンビニのゴミ箱に投げ捨てる。出鱈目なエネルギーが毛穴という毛穴からテポドンの如く噴出していた。手足や口がばね仕掛けになり、己の意思を無視して動いているようで気味が悪かった。
寝る前はそれらの所業を思い返し罪悪感で窒息しそうになる。人に迷惑をかけていることは自覚していたが、自分ではどうにもできなかった。どこに頼ればいいのか分からない、生きているだけで迷惑をかけてしまう。思い詰め寝床から出られなくなり、勤務先に泣きながら休養の電話をかけるようになった。
会社を休んだ日は正常な思考が働かなくなる。近所のマンションに侵入し飛び降りようか悩む。落ちたら死ねる高さの建物を、砂漠でオアシスを探すジプシーさながらに彷徨い歩いた。自分がアパートの窓から落下してゆく幻を見るようになった。だが、無理だった。できなかった。あんなに人に迷惑をかけておきながら、私の足は恥ずかしくも地べたに根を張り微動だにしないのだった。
アパートの部屋はムッと蒸し暑い。家賃を払えなければ追い出される、ここにいるだけで税金をむしり取られる、息をするのにも金がかかる。明日の食い扶持を稼ぐことができない、それなのに腹は減るし喉も乾く、こんなに汗が滴り落ちる、憎らしいほど生きている。何も考えたくなくて、感じたくなくて、精神薬をウイスキーで流し込み昏倒した。
翌日の朝六時、朦朧と覚醒する。会社に体調不良で休む旨を伝え、再び精神薬とウイスキーで失神する。目覚めて電話して失神、目覚めて電話して失神。夢と現を行き来しながら、手元に転がっていたカッターで身体中を切り刻み、吐瀉し、意識を失う。そんな生活が七日間続いた。
一週間目の早朝に意識を取り戻した私は、このままでは死ぬと悟った。にわかに生存本能のスイッチがオンになる。軽くなった内臓を引っさげ這うように病院へと駆け込み、看護師に声をかける。
「あのう。一週間ほど薬と酒以外何も食べていません」
「そう。それじゃあ辛いでしょう。ベッドに寝ておいで」
優しく誘導され、白いシーツに倒れ込む。消毒液の香る毛布を抱きしめていると、ぞろぞろと数名の看護師と医師がやってきて取り囲まれた。若い男性医師に質問される。
「切ったの?」
「切りました」
「どこを?」
「身体中⋯⋯」
「ごめんね。少し見させて」
服をめくられる。私の腹を確認した彼は、
「ああ。これは入院だな」
と呟いた。私は妙に冷めた頭で聞く。
「今すぐですか」
「うん、すぐ。準備できるかな」
「はい。日用品を持ってきます」
私はびっくりするほどまともに帰宅し、もろもろを鞄に詰め込んで病院にトンボ帰りした。閉鎖病棟に入る。病室のベッドの周りに荷物を並べながら、私よりももっと辛い人間がいるはずなのにこれくらいで入院だなんておかしな話だ、とくるくる考えた。一度狂うと現実を測る尺度までもが狂うようだ。
二週間入院する。名も知らぬ睡眠薬と精神安定剤を処方され、飲む。夜、病室の窓から街を眺め、この先どうなるのかと不安になる。私の主治医は「君はいつかこうなると思ってたよ」と笑った。以前から通院をサポートする人間がいないのを心配していたのだろう。
退院後、人事からパート降格を言い渡され会社を辞めた。後に勤めた職場でも上手くいかず、一人暮らしを断念し実家に戻った。飛び降り自殺、餓死自殺、無事、失敗。
五度目は二十九歳の時だ。
四つめの転職先が幸いにも人と関わらぬ仕事であったため、二年ほど通い続けることができた。落ち込むことはあるものの病状も安定していた。しかしそのタイミングで主治医が代わった。新たな主治医は物腰柔らかな男性だったが、私は病状を相談することができなかった。前の医師は言葉を引き出すのが上手く、その環境に甘えきっていたのだ。
時給千円で四時間働き、月収は六万から八万。いい歳をして脛をかじっているのが忍びなく、実家に家賃を一、二万入れていたので、自由になる金は五万から七万。地元に友人がいないため交際費はかからない、年金は全額免除の申請をした、それでもカツカツだ。大きな買い物は当然できない。小さくとも出費があると貯金残高がチラつき、小一時間は今月のやりくりで頭がいっぱいになる。こんな額しか稼げずに、この先どうなってしまうのだろう。親が死んだらどうすればいいのだろう。同じ年代の人達は順調にキャリアを積んでいるだろう。資格も学歴もないのにズルズルとパート勤務を続けて、まともな企業に転職できるのだろうか。先行きが見えず、暇な時間は一人で悶々と考え込んでしまう。
何度目かの落ち込みがやってきた時、私は愚かにも再び通院を自己中断してしまう。病気を隠し続けること、精神疾患をオープンにすれば低所得をやむなくされることがプレッシャーだった。私も「普通の生活」を手に入れてみたかったのだ。案の定病状は悪化し、練炭を購入するも思い留まり返品。ふらりと立ち寄ったホームセンターで首吊りの紐を買い、クローゼットにしまう。私は鬱になると時限爆弾を買い込む習性があるらしい。覚えておかなければならない。
その職場を退職した後、さらに三度の転職をする。ある職場は椅子に座っているだけで涙が出るようになり退社した。別の職場は人手不足の影響で仕事内容が変わり、人事と揉めた挙句退社した。最後の転職先にも馴染めず八方塞がりになった私は、家族と会社に何も告げずに家を飛び出し、三日間帰らなかった。雪の降る中、車中泊をして、寒すぎると眠れないことを知った。家族は私を探し回り、ラインの通知は「帰っておいで」のメッセージで埋め尽くされた。漫画喫茶のジャンクな食事で口が荒れ、睡眠不足で小間切れにうたた寝をするようになった頃、音を上げてふらふらと帰宅した。勤務先に電話をかけると人事に静かな声で叱られた。情けなかった。私は退社を申し出た。気がつけば一年で四度も職を代わっていた。
無職になった。気分の浮き沈みが激しくコントロールできない。父の「この先どうするんだ」の言葉に「私にも分からないよ!」と怒鳴り返し、部屋のものをめちゃくちゃに壊して暴れた。仕事を辞める度に無力感に襲われ、ハローワークに行くことが恐ろしくてたまらなくなる。履歴書を書けばぐちゃぐちゃの職歴欄に現実を突きつけられる。自分はどこにも適応できないのではないか、この先まともに生きてゆくことはできないのではないか、誰かに迷惑をかけ続けるのではないか。思い詰め、寝室の柱に時限爆弾をぶら下げた。クローゼットの紐で首を吊ったのだ。
紐がめり込み喉仏がゴキゴキと軋む。舌が押しつぶされグエッと声が出る。三秒ぶら下がっただけなの���目の前に火花が散り、苦しくてたまらなくなる。何度か試したが思い切れず、紐を握り締め泣きじゃくる。学校に行く、仕事をする、たったそれだけのことができない、人間としての義務を果たせない、税金も払えない、親の負担になっている、役立たずなのにここまで生き延びている。生きられない。死ねない。どこにも行けない。私はどうすればいいのだろう。釘がくい込んだ柱が私の重みでひび割れている。
泣きながら襖を開けると、ペットの兎が小さな足を踏ん張り私を見上げていた。黒くて可愛らしい目だった。私は自分勝手な絶望でこの子を捨てようとした。撫でようとすると、彼はきゅっと身を縮めた。可愛い、愛する子。どんな私でいても拒否せず撫でさせてくれる、大切な子。私の身勝手さで彼が粗末にされることだけはあってはならない、絶対に。ごめんね、ごめんね。柔らかな毛並みを撫でながら、何度も謝った。
この出来事をきっかけに通院を再開し、障害者手帳を取得する。医療費控除も障害者年金も申請した。精神疾患を持つ人々が社会復帰を目指すための施設、デイケアにも通い始めた。どん底まで落ちて、自分一人ではどうにもならないと悟ったのだ。今まさに社会復帰支援を通し、誰かに頼り、悩みを相談する方法を勉強している最中だ。
病院通いが本格化してからというもの、私は「まとも」を諦めた。私の指す「まとも」とは、周りが満足する状態まで自分を持ってゆくことであった。人生のイベントが喜びと結びつくものだと実感できぬまま、漠然としたゴールを目指して走り続けた。ただそれをこなすことが人間の義務なのだと思い込んでいた。
自殺未遂を繰り返しながら、それを誰にも打ち明けず、悟らせず、発見されずに生きてきた。約二十年もの間、母の精神不安定、学校生活や社会生活の不自由さ、病気との付き合いに苦しみ、それら全てから解放されたいと願っていた。
今、なぜ私が生きているか。苦痛を克服したからではない。死ねなかったから生きている。死ぬほど苦しく、何度もこの世からいなくなろうとしたが、失敗し続けた。だから私は生きている。何をやっても死ねないのなら、どうにか生き延びる方法を探らなければならない。だから薬を飲み、障害者となり、誰かの世話になり、こうしてしぶとくも息をしている。
高校の同級生は精神障害の果てに自ら命を絶った。彼は先に行ってしまった。自殺を推奨するわけではないが、彼は死ぬことができたから、今ここにいない。一歩タイミングが違えば私もそうなっていたかもしれない。彼は今、天国で穏やかに暮らしていることだろう。望むものを全て手に入れて。そうであってほしい。彼はたくさん苦しんだのだから。
私は強くなんてない。辛くなる度、たくさんの自分を殺した。命を絶つことのできる場所全てに、私の死体が引っかかっていた。ガードレールに。家の軒に。柱に。駅のホームの崖っぷちに。近所の河原に。陸橋に。あのアパートに。一人暮らしの二階の部屋から見下ろした地面に。電線に。道路を走る車の前に⋯⋯。怖かった。震えるほど寂しかった。誰かに苦しんでいる私を見つけてもらいたかった。心配され、慰められ、抱きしめられてみたかった。一度目の自殺未遂の時、誰かに生きていてほしいと声をかけてもらえたら、もしくは誰かに死にたくないと泣きつくことができたら、私はこんなにも自分を痛めつけなくて済んだのかもしれない。けれど時間は戻ってこない。この先はこれらの記憶を受け止め、癒す作業が待っているのだろう。
きっとまた何かの拍子に、生き延びたことを後悔するだろう。あの暗闇がやってきて、私を容赦なく覆い隠すだろう。あの時死んでいればよかったと、脳裏でうずくまり呟くだろう。それが私の病で、これからももう一人の自分と戦い続けるだろう。
思い出話にしてはあまりに重い。医療機関に寄りかかりながら、この世に適応する人間達には打ち明けられぬ人生を、ともすれば誰とも心を分かち合えぬ孤独を、蛇の尾のように引きずる。刹那の光と闇に揉まれ、暗い水底をゆったりと泳ぐ。静かに、誰にも知られず、時には仲間と共に、穏やかに。
海は広く、私は小さい。けれど生きている。まだ生きている。
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hirusoratamago · 4 years
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【QN】ある館の惨劇
 片田舎で依頼をこなした、その帰り道。  この辺りはまだ地方領主が収めている地域で、領主同士の小競り合いが頻発していた。  それに巻き込まれた領民はいい迷惑だ。慎ましくも回っていた経済が滞り、領主の無茶な要求が食糧さえも減らしていく。  珍しくタイミングの悪い時に依頼を受けてしまったと、パティリッタは浮かない顔で森深い峠を貫く旧道を歩いていた。
「捨てるわけにもなぁ」  革の背負い袋の中には、不足した報酬を補うためにと差し出されたパンとチーズ、干し肉、野菜が詰まっている。  肩にのしかかる重さは見過ごせないほどで、おかげで空を飛べない。  ただでさえ食糧事情の悪い中で用意してもらった報酬だから断りきれなかったし、食べるものを捨てていくというのは農家の娘としては絶対に取れない選択肢だ。  村に滞在し続ければ領主の争いに巻き込まれかねないし、結局考えた末に、しばらく歩いてリーンを目指すことに決めた。  2,3日この食料を消費しつつ過ごせば、この"荷物"も軽くなるだろうという見立てだ。
 この道はもう、殆ど利用されていないようだ。  雑草が生い茂り、嘗ての道は荒れ果てている。  鳥の声がした。同じ空を羽ばたく者として大抵の鳥の声は聞き分けられるはずなのに、その声は記憶にない。 「うげっ」  思わず空を仰げば、黒く分厚い雨雲が広がり始めているのが見えた。  その速度は早く、近いうちにとんでもない雨が降ってくるのが肌でわかった。
「うわ、うわ! 待って待って待って」  小雨から土砂降りに変わるまで、どれほどの時間もなかったはずだ。  慌てて雨具を身に着けたところでこの勢いでは気休めにもならない。  次の宿場まではまだ随分と距離がある。何処か雨宿りできる場所を探すべきだと判断した。  曲がりなりにも街道として使われていた道だ、何かしら建物はあるはずだと周囲を見渡してみると、木々の合間に一軒の館を見つけることができた。  泥濘み始めた地面をせっせと走り、館の玄関口に転がり込む。すっかり濡れ鼠になった衣服が纏わり付いて気持ちが悪い。
 改めて館を眺めてみた。立派な作りをしている。前庭も手入れが行き届いていて美しい。  だが、それが却って不審さを増していた。
 ――こんな場所に、こんな館は不釣り合いだ、と。思わずはいられなかったのだ。
 獅子を模したドアノッカーを掴み、館の住人に来客を知らせるべく扉に打ち付けた。  しばらく待ってみるが、応答はない。 「どなたかいらっしゃいませんかー!?」  もう一度ノッカーで扉を叩いて、今度は声も上げて見たが、やはり同じだった。  雨脚は弱まるところを知らず、こうして玄関口に居るだけでも雨粒が背中を叩きつけている。  季節は晩秋、雨の冷たさに身が震えてきた。  無作法だとはわかっていたが、このままここで雨に晒され続けるのも耐えられない。思い切って、ドアを開けようとしてみた。 「……あれ」  ドアは、引くだけでいとも簡単に開いた。  こうなると、無作法を働く範囲も思わず広がってしまうというものだ。  とりあえず中に入り、玄関ホールで家人が気づいてくれるのを待とうと考えた。
 館の中へ足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉める。背負い袋を床におろし、一息ついた。  玄関ホールはやけに薄暗い。扉を締めてしまえばいきなり夜になってしまったかのようだ。 「……?」  暗闇に目が慣れるにつれ、ホールの中央に何かが転がっていることに気づいた。 「えっ」  それが人間だと気づくのに、少し時間が必要だった。 「ちょっ、大丈夫で――」  慌てて声をかけて跪き命の有無を確かめようとする。 「ひっ」  すぐに答えは出た。あまりにもわかりやすい証拠が揃っていたためだ。    その人間には、首が無かった。   服装からして、この館のメイドだろう。悪臭を考えるに、この死体は腐りかけだ。  切断された首は辺りには見当たらない。  玄関扉に向かってうつ伏せに倒れ、背中には大きく切り裂かれた痕。  何かから逃げようとして、背中を一撃。それで死んだか、その後続く首の切断で死んだか、考えても意味がない。  喉まで出かかった悲鳴をなんとか我慢して、立ち上がる。本能が"ここに居ては危険だ"と警鐘を鳴らしていた。  逃げると決めるのに一瞬で十分だった。踵を返し、扉に手をかけようとした。
 ――何かが、脚を掴んだ。    咄嗟に振り向き、そして。 「――んぎやゃあぁあぁぁぁあぁぁぁああぁッッッ!!!???」  パティリッタは今度こそあらん限りの絶叫をホールに響かせた。
「ふざっ、ふざけっ、離せこのっ!!!」  脚を掴んだ何か、首のないメイドの死体の手を思い切り蹴りつけて慌てて距離をとった。弓矢を構える。  全力で弦を引き絞り、意味があるかはわからないが心臓に向けて矢を立て続けに三本撃ち込んだ。  幸いにもそれで相手は動きを止めて、また糸の切れた人形のように倒れ伏す。
 死んだ相手を殺したと言っていいものか、そもそも本当に完全に死んだのか、そんな物を確認する余裕はなかった。  雨宿りの代金が己の命など冗談ではない。報酬の食糧などどうでもいい。大雨の中飛ぶのだって覚悟した。  玄関扉に手をかけ、開こうとする。 「な、なんでぇ!?」  扉が開かない。  よく見れば、扉と床にまたがるように魔法陣が浮かび上がっているのに気づいた。魔術的な仕組みで自動的な施錠をされてしまったらしい。  思い切り体当りした。びくともしない。  鍵をこじ開けようとした。だがそもそも、鍵穴や閂が見当たらない。 「開ーけーてー! 出ーしーてー!! いやだー!!! ふざけんなー!!!」  泣きたいやら怒りたいやら、よくわからない感情に任せて扉を攻撃し続けるが、傷一つつかなかった。 「ぜぇ、えぇ……くそぅ……」  息切れを起こしてへたり込んだ。疲労感が高ぶる感情を鎮めて行く中、理解する。  どうにかしてこの魔法陣を解除しない限り、絶対に出られない。
「考えろ考えろ……。逃げるために何をすればいいか……、整理して……」  どんなに絶望的な状況に陥っても、絶対に諦めない性分であることに今回も感謝する。  こういう状況は初めてではない。今回も乗り切れる、なんとかなるはずだと言い聞かせた。  改めて魔法陣を確認した。これが脱出を妨げる原因なのだ。何かを読み取り、解錠の足がかりを見つけなければならない。  指でなぞり、浮かんでいる呪文を一つずつ精査した。 「銀……。匙……。……鳥」  魔術知識なんてない自分には、この三文字を読み取るので精一杯だった。  だが、少なくとも手がかりは得た。
 立ち上がり、もう一度ホールを見渡した。  首なしメイドの死体はもう動かない。後は、館の奥に続く通路が一本見えるだけ。 「あー……やだやだやだ……!!」  悪態をつきながら足を進めると、左右に伸びる廊下に出た。  花瓶に活けられた花はまだ甘い香りを放っているが、それ以上に充満した腐臭が鼻孔を刺す。  目の前には扉が一つ。まずは、この扉の先から調べることにした。
 扉の先は、どうやら食堂のようだった。  食卓である長机が真ん中に置いてあり、左の壁には大きな絵画。向こう側には火の入っていない暖炉。部屋の隅に置かれた立派な柱時計。  生き物の気配は感じられず、静寂の中に時計のカチコチという音だけがやけに響いている。  まず、絵画に目が行った。油絵だ。  幸せそうに微笑む壮年の男女、小さな男の子。その足元でじゃれつく子犬の絵。  この館の住民なのだろうと察しが付いた。そしてもう、誰も生きてはいないのだろう。   続いて、食卓に残ったスープ皿に目をやった。 「うえぇぇっ……!」  内容物はとっくに腐って異臭を放っている。しかし異様なのは、その具材だ。  それはどう見ても人の指だった。  視界に入れないように視線を咄嗟に床に移すと、そこで何かが輝いたように見えた。 「……これ!」  そこに落ちていたのは、銀のスプーンだ。    銀の匙。もしかすると、これがあの魔法陣の解錠の鍵になるのではないかと頬を緩めた。  しかし、丹念に調べてみるとこのスプーンは外れであることがわかり、肩を落とす。  持ち手に描かれた細工は花の絵柄だったのだ。 「……待てよ」  ここが食堂ということは、すぐ近くには調理場が設けられているはずだ。  ならば、そこを探せば目的の物が見つかるかもしれない。  スプーンは手持ちに加えて、逸る気持ちを抑えられずに調理場へと足を運んだ。
 予想通り、食堂を抜けた先の廊下の目の前に調理場への扉があった。 「うわっ! ……最悪っ」  扉を開けて中へ入れば無数のハエが出迎える。食糧が腐っているのだろう。  鍋もいくつか竈に並んでいるが、とても覗いてみる気にはなれない。  それより、入り口すぐに設置された食器棚だ。開いてみれば、やはりそこには銀製の食器が収められていた。  些か不用心な気もするが、厳重に保管されていたら探索も面倒になっていたに違いない。防犯意識の低いこの館の住人に感謝しながら棚を漁った。 「……あった!」  銀のスプーンが一つだけ見つかった。だが、これも外れのようだ。  意匠は星を象っている。思わず投げ捨てそうになったが、堪えた。  まだ何処かに落ちていないかと探してみるが、見つからない。 「うん……?」  代わりに、メモの切れ端を見つけることができた。
 "朝食は8時半。   10時にはお茶を。   昼食・夕食は事前に予定を伺っておく。
  毎日3時、お坊ちゃんにおやつをお出しすること。"
 使用人のメモ書きらしい。特に注意して見るべきところはなさそうだった。  ため息一つついて、メモを放り出す。まだ、探索は続けなければならないようだ。  廊下に出て、並んだ扉を数えると2つある。  一番可能性のある調理場が期待はずれだった以上、虱潰しに探す必要があった。
 最も近い扉を開いて入ると、小部屋に最低限の生活用品が詰め込まれた場所に出た。  クローゼットを開けば男物の服が並んでいる。下男の部屋らしい。  特に発見もなく、次の扉へと手をかけた。こちらもやはり使用人の部屋らしいと推察ができた。  小物などを見る限り、ここは女性が使っていたらしい。  あの、首なしメイドだろうか。 「っ……!」  部屋には死臭が漂っていた。出どころはすぐにわかる。クローゼットの中からだ。 「うあー……!」  心底開きたくない。だが、あの中に求めるものが眠っている可能性を否定できない。 「くそー!!」  思わずしゃがみこんで感情の波に揺さぶられること数分、覚悟を決めて、クローゼットに手をかけた。 「――っ」  中から飛び出してきたのは、首のない死体。
 ――やはり動いている!
「だぁぁぁーーーっ!!!」  もう大声を上げないとやってられなかった。  即座に距離を取り、やたらめったら矢を撃ち込んだ。倒れ伏しても追撃した。  都合7本の矢を叩き込んだところで、死体の様子を確認する。動かない。  矢を回収し、それからクローゼットの中身を乱暴に改めた。女物の服しか見つからなかった。    徒労である。クローゼットの扉を乱暴に閉めると、部屋を飛び出した。  すぐ傍には上り階段が設けられていた。何かを引きずりながら上り下りした痕が残っている。 「……先にあっちにしよ」  最終的に2階も調べる羽目になりそうだが、危険が少なそうな箇所から回りたいのは誰だって同じだと思った。  食堂前の廊下を横切り、反対側へと抜ける。  獣臭さが充満した廊下だ。それに何か、動く気配がする。  選択を誤った気がするが、2階に上がったところで同じだと思い直した。    まずは目の前の扉を開く。  調度品が整った部屋だが、使用された形跡は少ない。おそらくここは客室だ。  不審な点もなく、内側から鍵もかけられる。必要であれば躰を休めることができそうだが、ありえないと首を横に振った。  こんな化け物だらけの屋敷で一寝入りなど、正気の沙汰ではない。  すぐに踵を返して廊下に戻り、更に先を調べようとした時だった。
 ――扉を激しく打ち開き、どろどろに腐った肉体を引きずりながら犬が飛び出してきた!   「ひぇあぁぁぁーーーっ!!!???」  素っ頓狂な悲鳴を上げつつも、躰は反射的に矢を番えた。  しかし放った矢がゾンビ犬を外れ、廊下の向こう側へと消えていく。 「ちょっ!? えぇぇぇぇっ!!!」  二の矢を番える暇もなく、ゾンビ犬が飛びかかる。  慌てて横に飛び退いて、距離を取ろうと走るもすぐに追いつかれた。  人間のゾンビはあれだけ鈍いのに、犬はどうして生前と変わらぬすばしっこさを保っているのか、考えたところで答えは出ないし意味がない。  大事なのは、距離を取れないこの相手にどう矢を撃ち込むかだ。 「ほわぁー!?」  幸い攻撃は読みやすく、当たることはないだろう。ならば、と足を止め、パティリッタはゾンビ犬が飛びかかるのを待つ。 「っ! これでっ!!」  予想通り、当たりもしない飛びかかりを華麗に躱したその振り向きざま、矢を放った。  放たれた矢がゾンビ犬を捉え、床へ縫い付ける。後はこっちのものだ。 「……いよっし!」  動かなくなるまで矢を撃ち込み、目論見がうまく行ったとパティリッタはぴょんと飛び跳ねてみせた。    ゾンビ犬が飛び出してきた部屋を調べてみる。  獣臭の充満した部屋のベッドの上には、首輪が一つ落ちていた。 「……ラシー、ド……うーん、ということは……」  あのゾンビ犬は、この館の飼い犬か。絵画に描かれていたあの子犬なのだろう。  思わず感傷に��りかけて、我に返った。
 廊下に残った扉は一つ。最後の扉の先は、納戸のようだ。  いくつか薬が置いてあっただけで、めぼしい成果は無かった。  こうなると、やはり2階を探索するしかない。 「なんでスプーン探すのにこんなに歩きまわらなきゃいけないんだぁ……」
 慎重に階段を登り、2階へ足を踏み入れた。  まずは今まで通り、手近な扉から開いて入る。ここは書斎のようだった。  暗闇に目が慣れた今、書斎机に何かが座っているのにすぐ気づいた。  本来頭があるべき場所に何もないことも。  服装を見るに、この館の主人だろう。この死体も動き出すかもしれないと警戒して近づいてみるが、その気配は無かった。 「うげぇ……」  その理由も判明した。この死体は異常に損壊している。  指もなく、全身至るところが切り裂かれてズタズタだ。明確な悪意、殺意を持っていなければこうはならない。 「ほんっともう、やだ。なんでこんなことに……」  この屋敷に潜んでいるかもしれない化け物は、殺して首を刈るだけではなく、このようななぶり殺しも行う残忍な存在なのだと強く認識した。  部屋を探索してみると、机の上にはルドが散らばっていた。これは、頂いておいた。  更に本棚には、この館の主人の日記帳が収められていた。中身を検める。
 その中身は、父親としての苦悩が綴られていた。  息子が不死者の呪いに侵され、異形の化け物と化したこと。  殺すのは簡単だが、その決断ができなかったこと。  自身の妻も気が触れてしまったのかもしれないこと。  更に読み進めていけば、気になる記述があった。 「結界は……入り口のあれですよね。ここ、地下室があるの……?」  この館には地下室がある。その座敷牢に異形の化け物と化した息子を幽閉したらしい。  しかし、それらしい入り口は今までの探索で見つかってはいない。別に、探す必要がなければそれでいいのだが。 「最悪なのはそのまま地下室探索コースですよねぇ……。絶対やだ」    書斎を後にし、次の扉に手をかけてみたが鍵がかかっていた。 「ひょわぁぁぁっ!?」  仕方なく廊下の端にある扉へ向かおうとしたところ、足元を何かが駆け抜けた。  なんのことはないただのネズミだったのだが、今のパティリッタにとっては全てが恐怖だ。 「あーもー! もー! くそー!」  悪態をつきながら扉を開く。小さな寝台、散らばった玩具が目に入る。  ここは子供部屋のようだ。日記の内容を考えるに、化け物になる前は息子が使用していたのだろう。  めぼしいものは見当たらない。おもちゃ箱の中に小さなピアノが入っているぐらいで、後はボロボロだ。  ピアノは、まだ音が出そうだった。 「……待てよ……」  弾いたところで何があるわけでもないと考えたが、思い直す。  本当に些細な思いつきだった。それこそただの洒落で、馬鹿げた話だと自分でも思うほどのものだ。
 3つ、音を鳴らした。この館で飼われていた犬の名を弾いた。 「うわ……マジですか」  ピアノの背面が開き、何かが床に落ちた。それは小さな鍵だった。 「我ながら馬鹿な事考えたなぁと思ったのに……。これ、さっきの部屋に……」  その予想は当たった。鍵のかかっていた扉に、鍵は合致したのだ。
 その部屋はダブルベッドが中央に置かれていた。この館の夫妻の寝室だろう。  ベッドの上に、人が横たわっている。今まで見てきた光景を鑑みるに、その人物、いや、死体がどうなっているかはすぐにわかった。  当然首はない。服装から察するに、この死体はこの館の夫人だ。  しかし、今まで見てきたどの死体よりも状態がいい。躰は全くの無傷だ。  その理由はなんとなく察した。化け物となってもなお息子に愛情を注いだ母親を、おそらく息子は最も苦しませずに殺害したのだ。  逆に館の主人は、幽閉した恨みをぶつけたのだろう。 「……まだ、いるんだろうなぁ」  あれだけ大騒ぎしながらの探索でその化け物に出会っていないのは奇跡的でもあるが、この先、確実に出会う予感がしていた。  スプーンは、見つかっていないのだ。残された探索領域は一つ。地下室しかない。    もう少し部屋を探索していると、クローゼットの横にメモが落ちていた。  食材の種類や文量が細かく記載されており、どうやらお菓子のレシピらしいことがわかる。 「あれ……?」  よく見ると、メモの端に殴り書きがしてあった。 「夫の友人の建築家にお願いし、『5分前』に独りでに開くようにして頂いた……?」  これは恐らく、地下室の開閉のことだと思い当たる。 「……そうだ、子供のおやつの時間だ。このメモの内容からしてそうとしか思えません」  では、5分前とは。 「おやつの時間は……そうか。わかりましたよ……!」  地下室の謎は解けた。パティリッタは、急ぎ食堂へと向かう。
「5分前……鍵は、この時計……!」  食堂の隅に据え付けられた時計の前に戻ってきたパティリッタは、その時計の針を弄り始めた。 「おやつは3時……その、5分前……!」  2時55分。時計の針を指し示す。 「ぴぃっ!?」  背後で物音がして、心臓が縮み上がった。  慌てて振り向けば、食堂の床石のタイルが持ち上がり、地下への階段が姿を現していた。  なんとも形容しがたい異様な空気が肌を刺す。  恐らくこの先が、この屋敷で最も危険な場所だ。本当にどうしてこの館に足を踏み入れたのか、後悔の念が強まる。 「……行くしか無い……あぁ……いやだぁ……! 行くしか無いぃ……」  しばらく泣きべそをかいて階段の前で立ち尽くした。これが夢であったらどんなにいいか。  ひんやりとした空気も、腐臭も、時計の針の音も、全てが現実だと思い知らせてくる。  涙を拭いながら、階段を降りていく。
 降りた先は、石造りの通路だった。  異様な雰囲気に包まれた通路は、激しい寒気すら覚える。躰が雨に濡れた��らではない。
 ――死を間近に感じた悪寒。
 一歩一歩、少しずつ歩みを進めた。通路の端までなんとかやってきた。そこには、鉄格子があった。 「……! うぅぅ~……!!」  また泣きそうになった。鉄格子は、飴細工のように捻じ曲げられいた。    破壊されたそれをくぐり、牢の中へ入る。 「~~~っ!!!」  その中の光景を見て思わず地団駄を踏んだ。  棚に首が、並んでいる。誰のものか考えなくともわかる。  合計4つ、この館の人間の犠牲者全員分だ。  調べられそうなのはその首が置かれた棚ぐらいしかない。    一つ目は男性の首だ。必死に恐怖に耐えているかのような表情を作っていた。これは、下男だろう。  二つ目も男性の首だ。苦痛に歪みきった表情は、死ぬまでにさぞ手酷い仕打ちを受けたに違いなかった。これがこの館の主人か。  三つ目は女性の首だ。閉じた瞳から涙の跡が残っている。夫人の首だろう。  四つ目も女性の首。絶望に沈みきった表情。メイドのものだろう。 「……これ……」  メイドの髪の毛に何かが絡んでいる。銀色に光るそれをゆっくりと引き抜いた。  鳥の意匠が施された銀のスプーン。 「こ、これだぁ……!!」  これこそが魔法陣を解錠する鍵だと、懐にしまい込んでパティリッタは表情を明るくした。  しかしそれも、一瞬で恐怖に変わる。    ――何かが、階段を降りてきている。   「あぁ……」  それが何か、もうとっくに知っていた。逃げ場は、無かった。弓を構えた。 「なんで、こういう目にばっかりあうんだろうなぁ……」  粘着質な足音を立てながら、その異形は姿を現した。  "元々は"人間だったのであろう、しかし体中の筋肉は出鱈目に隆起し、顔があったであろう部分は崩れ、悪夢というものが具現化すればおおよそこのようなものになるのではないかと思わせた。  理性の光など見当たらない。穴という穴から液体を垂れ流し、うつろな瞳でこちらを見ている。  ゆっくりと、近づいてくる。 「……くそぉ……」  歯の根が合わずがたがたと音を立てる中、辛うじて声を絞り出す。 「死んで……たまるかぁ……!!」  先手必勝とばかりに矢を射掛けた。顔らしき部分にあっさりと突き刺さる。  それでも歩みは止まらない。続けて矢を放つ。まだ止まらない。  接近を許したところで、全力で脇を走り抜けた。異形の伸ばした手は空を切る。  対処さえ間違えなければ勝てるはず。そう信じて異形を射抜き続けた。
「ふ、不死身とか言うんじゃないでしょうねぇ!? ふざけんな反則でしょぉ!?」    ――死なない。    今まで見てきたゾンビとは格が違う。10本は矢を突き立てたはずなのに、異形は未だに動いている。 「し、死なない化け物なんているもんですか! なんとかなる! なんとかなるんだぁっ!! こっちくんなーっ!!!」  矢が尽きたら。そんな事を考えたら戦えなくなる。  パティリッタは無心で矢を射掛け続けた。頭が急所であろうことを信じて、そこへ矢を突き立て続けた。 「くそぅっ! くそぅっ!」  5本、4本。 「止まれー! 止まれほんとに止まれー!」  3本、2本。 「頼むからー! 死にたくないからー!!」  1本。 「あああぁぁぁぁっ!!!」  0。  最後の矢が、異形の頭部に突き刺さった。    ――動きが、止まった。
「あ、あぁ……?」  頭部がハリネズミの様相を呈した異形が倒れ伏す。 「あぁぁぁもう嫌だぁぁぁ!!!」  死んだわけではない。既に躰が再生を始めていた。しかし、逃げる隙は生まれた。  すぐにねじ曲がった鉄格子をくぐり抜けて階上へ飛び出し、一目散に入り口へ駆ける。  後ろからうめき声が迫ってくる。猶予はない。 「ぎゃああああもう来たあああぁぁぁぁ!!!」  玄関ホールへたどり着いたと同時に、後ろの扉をぶち破って再び異形が現れる。  無秩序に膨張を続けた躰は、もはや人間であった名残を残していない。  異形が歪な腕を、伸ばしてくる。 「スプーンスプーン! はやくはやくはやくぅ!!!」  もう手持ちのスプーンから鍵を選ぶ余裕すらない。3本纏めて取り出して扉に叩きつけた。  肩を、異形の手が叩く。 「うぅぅぐぅぅぅ~ッッッ!!!」  もう涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだった。  後ろを振り返れば死ぬ。もうパティリッタは目の前の扉を睨みつけるばかりだ。  叩きつけたスプーンの内1本が輝き、魔法陣が共鳴する。 「ぎゃー! あー!! わーっ!! あ゛ーーーッッッ!!!」  かちゃり、と音がした。  と同時に、パティリッタは全く意味を成さない叫び声を上げながら思い切り扉を押し開いて外へと転がり出た。
 いつしか雨は止んでいた。  雲間から覗いた夕日が、躰に纏わり付いた忌まわしい物を取り払っていく。 「あ、あぁ……」  西日が屋敷の中へと差し込み、異形を照らした。異形の躰から紫紺の煙が上がる。  もがき苦しみながら、それでもなお近づいてくる。走って逃げたいが、遂に腰が抜けてしまった。  ぬかるんだ地面を必死の思いで這いずって距離を取りながら、どうかこれで異形が死ぬようにと女神に祈った。
 異形の躰が崩れていく。その躰が完全に崩れる間際。 「……あ……」    ――パティリッタは、確かに無邪気に笑う少年の姿を見た。    翌日、パティリッタは宿場につくなり官憲にことのあらましを説明した。  館は役人の手によって検められ、あれこれと詮議を受ける羽目になった。  事情聴取の名目で留置所に三日間放り込まれたが、あの屋敷に閉じ込められた時を思えば何百倍もマシだった。  館の住人は、縁のあった司祭によって弔われるらしい。  それが何かの救いになるのか、パティリッタにとってはもはやどうでも良かった。  ただ、最後に幻視したあの少年の無邪気な笑顔を思い出せば、きっと救われるのだろうとは考えた。 「……帰りましょう、リーンに。あたしの日常に……」
「……もう、懲り懲りだぁー!!」  リーンへの帰途は、晴れ渡っていた。
 ――ある館の、惨劇。
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tinyexpertcowboy · 5 years
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シートベルトを外して、しかし滑らかに次の動作へ続けることが出来なかった。 ガレージに停めた愛車の運転席。すでにエンジンは完全に静まり、シャッターも降り切って、あたりには静けさがあった。 帰着の物音は家内にも届いているはずで。 であればグズグズとためらってはいられない。初手から、弱みを見せるわけにはいかない。 フウッと、深い息をひとつ吐いて、逡巡をふり払う。 助手席に置いた鞄を引き寄せながら、ルームミラーを見やる。一瞬だけ視線を止めて、映った貌をチェックする。それは習慣通りの行為、それだけのこと。 ドアを開け、怜子は車から降り立った。 今日の装いは、銀鼠色のスーツに黒の開襟シャツ。いわば定番の仕事着姿だったが、シックな色合いが豊かな身体つきを際立たせるのもまた、いつものごとく。黒いストッキングのバックシームが艶やかだった。 ヒールを鳴らして歩き出せば、もうその足取りに迷いはなかった。 エントランスの柔らかな灯り、見慣れた光景が、この家の主を迎える。いつものとおりに。 そう、なにも臆することなどない。我が家へと、自分の城へと、帰ってきたのだ。
リビングから微かにテレビの音が聞こえる。 いつも通り、直接キッチンへと入った。 「ああ、おかえりなさい」 ソファに座った志藤が、明るい声をかけてくる。テレビを消し、こちらへと向き直って、 「帰ってきてくれたんですね」 嬉しそうに言った。礼儀のつもりなのか、立ち上がって。 「……ええ」 これも習慣のとおり、鞄を食卓の椅子へと置きながら、素っ気なく怜子は返した。“なにを、そんなに喜ぶことがあるのか”という冷淡さを、志藤を一瞥した視線にこめて 志藤は、そんな義母の態度も気にする様子はなく、ゆっくりと歩み寄りながら、 「お食事は? ビーフシチューがありますけど」 などと、心遣いをしてくる。 確かにコンロには鍋があり、あたりにはその匂いも漂っていた。今夜は帰らぬという英理が作りおいていったものに違いない。その献立も、温めるだけという簡単さと、食べ残しても問題がないものをという配慮からの選択だろう。例によって行き届いたことだとは思いながら、娘のそんな主婦としての熟練ぶりに、素直に感心することが出来なかった。いまは。 「僕は、もう済ませてしまったんですけど。すみません、もしかしたら、お帰りにならないかと思ったんで」 「……構わないわ。私も済ませてきたから」 別に謝られる筋合いのことではない、と疎ましさをわかせながら、志藤に返した言葉は、嘘ではないが正確でもない。急に入った商談のために、昼食をとったのが夕方近くになってからだった。いま空腹を感じていないのは事実だった。とにかく、英理の用意していった絶品の(と呼ぶべき味わいであることは知っている)シチューを食べる気にはならなかった。 ならば、すぐに自室へと引き上げてもよかったのだが。 キッチンに佇んだ怜子は、リビングとの境のあたりに立った志藤を見やった。 改めて、その背の高さを認識する。170cmを実は少し越える怜子に見上げる感覚を与えてくる相手は、普段の生活の中でそう多くはいない。その長身ぶりに見合った、軟派な雰囲気からはやや意外な、がっしりとした肉づき。 いまの志藤は、仕事帰りの装いから上着とネクタイを取り去った姿だった。いつものように湯上りの姿で迎えられるかと身構えていて、そうでなかったことには密かな安堵を感じた怜子だったが。二つ三つボタンを外したワイシャツの襟元から覗く硬そうな胸板へと吸い寄せられた視線を、すぐに逸らした。 上着とネクタイは、ソファの上に雑に脱ぎ捨てられてあった。常にはないことだ。夕食をひとり先に済ませていたことや、入浴もせず着替えもしないまま寛いでいたらしき姿から、本当に怜子が今夜は帰宅しないと考えていたようにも思えて。 微かな憤慨を覚える。それは、自分がこの突発的な状況から逃げるものと決めつけていたのか、という憤り――であるはずだったが。 そんな怜子の思考の流れは、時間にすればごく僅かな間のことだった。そうですか、と頷いた志藤は、 「じゃあ、お酒に付き合ってもらえませんか?」 そう言った。なんの屈託もない調子で。 「たまには、いいじゃないですか。ね?」 「…………」
「じゃ、乾杯」 杯を掲げてみせる志藤を無視して、グラスを口に運んだ。 志藤も、特に拘ることなく、ひと口飲んで、 「ああ、美味い。上等な酒は、やっぱり違うな」 そう感心してみせる。大袈裟にならぬ程度の言い方で。そのへんの呼吸が、この若者は巧みだった。 ソファで差し向かいのかたちになっている。テーブルに置かれた氷や水は、すべて志藤が用意した。チーズとナッツを小皿に盛った簡単なつまみまで。その並びの中のボトルに目をやって、 「社長は、スコッチがお好きなんですね」 と、志藤は言った。 「あの、初めて付き合ってくれた夜も、同じものを飲まれてましたよね? 確か、銘柄も同じものを」 「……そうだったかしら」 冷淡に、ではなく、不快さを隠さずに怜子は答えた。よくも、しゃあしゃあと“あの夜”のことを口にするものだ、という怒りがわいて、 「……違うわよ」 と、つい洩らしてしまう。 え? と聞き返す志藤の間抜けな顔に、さらに感情を逆撫でされて、 「スコッチでも、銘柄は違うと云ってるの」 結局、そう指摘することになる。最初の返答の、“もう、そんなことは覚えていない”というポーズを、自ら無意味なものにして。 「ああ、そうでしたか。こりゃ、恥ずかしいな。知識もないのに、わかったふりなんてするもんじゃないですね」 「…………」 頭なぞ掻いてみせて、実のところ恥じ入るふうでもない志藤の反応を目にすれば、揚げ足をとってやったという快味など生じるはずもなく。逆にまんまと乗せられたという苦さだけがわいて。 「昔の話は、おやめなさい」 「ああ、すみません」 居丈高に命じて、志藤に頭を下げさせても、その苦味は消え去ることなく。 それを流し去り、気を鎮めるために、怜子はまたグラスに口をつける。 飲み慣れた酒の味わいが、今夜は薄かったが。それでいいのだ。 上質のモルトを水と氷で薄めているのは、無論のこと警戒心からだった。怜子は、いまだスーツの上着も脱がず、まっすぐ背を伸ばして座った姿勢も崩そうとはしない。 そうしてまで、この場にあらねばならない理由がある。怜子は、そう思っている。この機会に、志藤に、この娘婿に、言っておかねばならないこと、質しておかねばならないことがある、と。ことに、今夜のこの突然な状況について。 それを、どう切り出したものか、と思案したとき、 「……社長」 と、志藤が呟いた。呼んだのではなく、ひとりごちるようにそう言ってから、 「いえ、つい以前からのクセで、社長と呼んでしまうんですが。本当は、“お義母さん”と、お呼びすべきですよね? ただそれも、どうも慣れない感じで。どちらがいいですか?」 「……どちらでも、いいわよ」 嘆息まじりに返したぞんざいな答えには、しかし呆れよりも苛立ちがこもった。そんなどうでもいいことで、また思考を妨げられた、と。 率直に云うなら、“社長”も“お義母さん”も、どちらの呼び方も不快だったが。 「……慣れないというなら、無理に変える必要もないでしょう」 数拍の間をおいて、そう付け加える。不機嫌に。そちらのほうが、まだマシだ、と。 苛立ちが記憶を呼び起こす。いつも、この調子だったと思い出させる。 このふざけた若い男は、いつもこんなふうにのらりくらりとした言動で、怜子のペースを乱してきた。それは怜子の周囲の人間の中で、志藤だけが容易くやってのけることで。相性が悪い、とはこういうことかと怜子に感じさせたものだったが。いまはそんな苦い記憶を噛みしめている場合でもないと、 「なにを企んでいるの?」 直截に、そう問い質した。鋭く志藤を睨みつけて。 「企む、ですか? そりゃあ、また穏やかじゃないですね」 空っとぼける志藤の反応は予測どおりだったから、 「慎一を連れだして。英理は、どういうつもりなのかと訊いているのよ」 「それは、姉弟の親睦を深めようってことじゃないですか? ずっと、じっくり話す機会もなかったみたいですし」 「…………」 じっと疑念と探りの目を向ける怜子を見返して、志藤は“ああ”と理解したふうに頷いて、 「英理が、我々のことを慎一くんに話すつもりなんじゃないかって、社長はそれを案じてらっしゃるわけですね? なるほど」 「……なにか聞いているんじゃないの?」 「いえ、それについてはなにも。確かに英理は、いずれ慎一くんにも“真実”は伝えるべきだとは考えているみたいですけど」 「必要ないわ、そんなこと」 「ええ。僕もそう思うんですけどね」 微かに苦笑を浮かべて。“自分に言われても”と言いたげに。 「とにかく僕が英理から聞いてるのは、久しぶりに姉弟ふたりだけの時間を持ちたいって意向と、それによって、僕と社長にも、ゆっくりとふたりで話す機会が作れるだろうって見込みです。それだけですよ。で、見込みのほうは、僕としては、どうかな? って半信半疑だったんですけど。結果として、こうして社長とお酒を酌みかわせてるわけですから、英理の考えが正しかったってことですね」 そう云って、今度は邪まな笑みのかたちに口許を歪め、怜子へと向ける視線をねっとりと粘ついたものに変える。どちらも意識的にそうしたに違いなかった。 「それで。こういう状況になれば、僕も思惑が生じてくるわけですよ。企む、っていうなら、いまこの場になって、いろいろと考えを巡らせてるところです。このあと、どうやって怜子社長と“昔”のような親密さを取り戻そうかって」 カランと氷が鳴った。怜子が手にしたグラスの中で。 またひと口あおった、そのグラスをテーブルに置いて、 「……笑えないわね」 と、怜子は云った。 「そうですか? じゃあ、何故帰ってきたんです? 待っているのは僕だけだと知りながら」 「だから、それは、」 「英理の真意を突きとめるため、ですか。けど、それだったら直接英理に電話して訊くべきでしょう。英理の暴走を危ぶみ、止めたいと思うなら、なおさらそうすべきですね。でも、それはしてないんでしょう?」 「……ここは私の家よ。帰ってくることに、なんの問題があるというの?」 低く抑えた声に、微かにだが苛立ちがこもっていた。 「もちろん問題なんてないですよ。最初から、それだけの話なら。ただ、ついさっきまでは、不本意ながら帰ってきたって言い方だったでしょう? こうして、酒の誘いには応じてくれながら、ピントのズレた理由を口にしたり。ひとつひとつがチグハグで矛盾していて、どうにも明晰な怜子社長らしくもない。だから、僕はこう考えるわけです。その矛盾を突き崩してあげることこそが、いま僕に期待されてることなんじゃないかと」 「……馬鹿ばかしい」 嘆息とともに、怜子は吐き捨てた。 「なにを言うのかと思えば。自惚れが強くて、都合のいい解釈ばかりなのは変わってないわね」 きつい口調できめつけながら、その目線は横へと逸らされていた。 「そうですかね? まあ、願望をこめた推測だってことは否定しませんが」 志藤は悪びれもせずに。 怜子は、顔の向きを戻して、 「あなた、いまのお互いの立場を本当に解っているの?」 そう難詰した表情は険しくこわばり、声にももはや抑えきれぬ感情が露わになっていた。憤りと、切羽詰った気色が。 「義母と娘婿、ってことですかね。まあ、世間一般の良識ではNGでしょうけど、僕たちの場合、ちょっと事情が特殊ですからね」 ぬけぬけとそう云って、そのあとに志藤は、「ああ、そうか」と声を上げた。 「そこが、最後の引っかかりですか。英理が僕の妻だってこと、いや、僕の妻が英理だってことが。なるほど」 なにやら言葉遊びのような科白を口にして、しきりに頷くと、グラスを手に立ち上がった。テーブルを回って、怜子の隣りに腰を下ろすと、わざわざ持ち運んだグラスはそのままテーブルに戻して。やにわに腕をまわして、怜子の身体を抱きすくめた。 「やめてっ」 怜子の抵抗は遅れた。唐突な志藤の行動に虚を突かれて。しかし抗い始めると、その身もがきは激しく本気なものとなって。大柄な男の腕の中で、豊かな肢体が暴れた。それでも強引に寄せようとした志藤の顔を、掌打のような烈しさで押し返すと、両腕を突っ張り精一杯に身体を離して。眉を吊り上げた憤怒の形相で叫んだ。 「英理を選んでおいてっ」 叫んで。自ら発したその言葉に凍りつく。厚い封印を一気に突き破って臓腑の底から噴き上がった、その感情に。 打たれた顎の痛みに顔をしかめながら、愕然と凝固する怜子の貌を覗きこんだ志藤は、納得したように肯いて。そして耳元に囁いた。せいぜい優しげな声音で。 「あれは、社長より英理を選んだってことじゃあなかったですよ」 「…………」 無責任な、身勝手な、傲慢な。人として、母親として、さらなる憤激を掻きたてられるべき台詞。 なのに、怒りも反発も、どうしようもなく溶け崩れていく。ぐったりと、総身から力が抜け落ちていく。 そして、そうなってしまえば。身体にまわされたままの固い腕の感触が、そこから伝わる体温が。鼻に嗅ぐ男の体臭が。酩酊にも似た感覚の中へと、怜子の心身を引きずりこんでいく。 ああ、駄目だ……と、胸中に落とした嘆きには、すでに諦めがあった。わかっていた、と。こうなってしまえば、もう終わりだということは。 志藤が再び顔を寄せてくる。 怜子は、ゆっくりと瞼を閉じた。 接触の瞬間、反射的に引き結ばれた唇は、しかしチロリと舐めずった舌先の刺激に、震えながら緩んだ。 すかさず舌が侵入する。歯列を舐め、口蓋の粘膜をひと刷きしてビクリとした反応を引き出すと、その奥で竦んだ女の舌を絡めとった。 抗うことなく怜子は口舌への蹂躙を受け容れた。馴染みのある、だが久しいその刺激に、意識より先に感覚が応えて。結び合った口唇には押し返す力がこもり、嬲られる舌がおずおずと蠢きはじめる。流しこまれた男の唾液を従順に嚥み下せば、喉奥から鳩尾へとカッと熱感が伝わって胴震いを呼んだ。一気に酩酊の感覚が強まる。 無論、端然と座していた姿勢はしどけなく崩れている。スリッパを落とした片脚はソファの上へと乗り上がり、斜めに流したもう一方の脚との間に引き裂けそうに張りつめたスカートは、太腿の半ばまでたくし上がっていた。両手は志藤のシャツの腹のあたりをギュッと縋りつくように握りしめている。 その乱れた態勢の肢体を志藤の手が這いまわる。よじった脇から腰を、背中を、腕を、スーツの上から撫でさする掌のタッチはまだ軽いものだったが。触れていく箇所に粟立つような感覚を生じさせては、怜子の脳髄を痺れさせるのだった。泣きたくなるような懐かしさを伴って。 ようやく口が離れたときには、怜子の白皙の美貌は逆上せた色に染まって、うっすらと開けた双眸はドロリと蕩けていた。ハッハッと荒い息を、形のよい鼻孔と、涎に濡れて官能的な耀きを増した紅唇から吹きこぼして。 その兆しきった義母の貌を、愉快げに口許を歪め、しかし冷徹さを残した眼で眺めた志藤は、 「感激ですよ。��たこうして、怜子社長の甘いキスを味わえて」 甘ったるい囁きを、血の色を昇らせた耳朶に吹きこんだ。 ゾクッと首筋を竦ませた怜子は、小さく頭を横にふって、それ以上の戯言を封じるといったように、今度は自分から唇を寄せていった。 さらに濃密なディープ・キスがかわされる。荒い鼻息と淫猥な唾音を響かせながら、怜子は娘婿たる若い男の舌と唾液を貪った。その片手はいつしか志藤の腰から背中へとまわり、もう片手は首を抱くようにして後ろ髪を掴みしめていた。より密着した互いの身体の間では豊かな胸乳が圧し潰されて、固い男の胸板を感じとっていた。 背徳の行為に耽溺しながら淫らな熱を高めていく豊満な肢体を愛撫する志藤の手にも、次第に力がこもっていく。指を埋めるような強さで、くびれた腰を揉みこむ。さらによじれた態勢に、豊熟の円みと量感を見せつける臀丘を、やはり手荒く揉みほぐす。かと思えば、たくし上がったスカートから伸びる充実しきった太腿の表面を、爪の先で軽く引っ掻くような繊細な攻めを繰り出す。どの動きにも、この熟れた肉体がどんな嬲りに反応するかは知り尽くしているというような傲岸な自信が滲んでいて。実際、その手の動きの逐一に鋭敏な感応を示しながら、怜子の豊艶な肢体は発情の熱気を溜めこんでいくのだった。 上着の中に入りこんだ志藤の手が、喘ぎをつく胸乳を掴みしめ、ギュッとブラジャーのカップごと揉み潰せば、怜子は堪らず繋いでいた口を解いて、ヒュッと喉を鳴かせて仰け反った。 グッタリとソファにもたれ、涎に汚れた口から荒い呼吸を吐く。常には決して見られぬしどけない姿を愉しげに見下ろした志藤は、 「シャワーを浴びますか? それとも、このまま部屋に?」 優しい声で、そう訊いた。 「…………」 怜子は無言で首を横に振った。 ソファに落としていた腕をもたげて、志藤のシャツを掴んだ。脱力しているかに見えたその手にグッと力がこもって、志藤を引っ張るようにして、 「……このまま……ここで……」 乱れた息遣いの下から、怜子はそう云った。 「それはまた、」 思わずこみ上げた笑いをこらえて、志藤の表情が奇妙なものとなる。そこまで切羽詰っているのか、と。だが怜子の言葉には続きがあった。 「一度だけよ。それで、なにもなかったことにするの」 志藤を睨みつけて、有無をいわせぬといった口調で宣言した。淫情に火照った貌では、その眼光の威力は大幅に減じていたと言わざるをえなかったが。必死の気概だけは伝わった。 「……なるほど」 僅かな間を置いて返した志藤の声には、呆れとも感心ともつかぬ心情がこもった。 つまり、行きずりとか出会いがしらの事故のように“こと”を済ませるということだ。だから、シャワーを浴びて準備などしないし、ベッドへと場所を移したりもしない。 それが、せめてもの英理への申し訳なのか、己が“良識”との妥協点がそこになるということなのか。 いずれにしろ、よくもまあ思いつくものだ、と胸中にひとりごちる。まさか、事前に考えていたわけでもあるまいに。さすがは切れ者の須崎怜子社長、と感嘆すべきところなのか? しかし、その怜子社長をして、このまま何事もなく終わるという選択肢は、すでにないということだ。そこまで彼女を追い詰めたのは、今しがたのほんの戯れ合いみたいな行為ではなくて、一年の空白と、この二ヶ月の煩悶。 つまりは、すべてこちらの目論見どおりの成り行きということだが。 それでも、 (やっぱり、面倒くささは英理より上だな) 改めて、そう思った。その立場や背景を考慮すれば仕方のないところだし、それだけ愉しめるということでもある。 「わかりました」 だから、志藤は真面目ぶった顔で頷いてみせる。ひとまずは、怜子の“面倒くささ”に付き合って、そこからの成り行きを楽しむために。 まずは……“一度だけ”という自らの宣言を、その意志を、怜子がどこまで貫けるか試させてもらう、といったところか。 志藤はソファから立って、スラックスを脱ぎ下ろした。 引き締まった腰まわりを包んだビキニ・ブリーフは、狭小な布地が破れそうなほどに突き上がっている。なんのかんの云っても、久しぶりに麗しき女社長の身体を腕に抱き、芳しい匂いを鼻に嗅いで、欲望は滾っていた。 その巨大な膨張を一瞥して、すぐに���子は顔を横に背けた。肩が大きくひとつ喘ぎを打って、熱い息を密やかに逃した。 “このまま、ここで”と要求しながら、ソファに深くもたれた姿勢を変えようとはしなかった。スーツの上着さえ脱ごうとはしない。 なるほど、と納得した志藤は、テーブルを押しやって空けたスペースに位置をとると、怜子の膝頭に手を掛けた。しっとりと汗に湿ったストッキングの上を太腿へと撫で上げると、充実しきった肉づきには感応の慄えが走って、怜子の鼻からはまた艶めいた息が零れた。ゆっくりと遡上した志藤の手は、スカートをさらにたくし上げながら、ストッキングのウエスト部分を掴んで引き剥がしにかかる。怜子は変わらず顔を背けたまま、微かに臀を浮かせる動きで志藤の作業に協力した。 白い生脚が露わになる。官能美に満ちたラインを見せつけて。 むっちりと張りつめた両腿のあわいには、黒い下着が覗いた。タイト・スカートはもう完全にまくれ上がって、豊かな腰の肉置に食いこんでいるのだった。ショーツは瀟洒なレースのタンガ���タイプ。 「相変わらず、黒がよく似合ってますね」 率直な感想を口にして、“ちょっとおとなしめで、“勝負下着”とまではいかない感じだけど”とは内心で付け加える。まあ、急な成り行きだから当然かと、ひとり納得しながら、手を伸ばした。 やはりインポートの高級品であるに違いないそのショーツの黒いレース地をふっくらと盛り上げた肉丘に指先を触れさせれば、怜子はビクリと首をすくませたが、即座に頭を振って、志藤の手を股間から払いのけた。懇ろな“愛撫”なぞ必要ない、親密な“交歓”の行為などする気はないという意思の表明だった。 「……わかりましたよ」 怜子の頑なさに呆れつつ、志藤は戯れかかる蠢きを止めた指をショーツのウエストに引っ掛けて、無造作に引き下ろした。あっ、と驚きの声を上げる怜子にはお構いなしに、荒っぽい動作で足先から抜き取ったショーツを放り捨てる。 これで怜子は、下半身だけ裸の状態になった。 横へと背けた頸に、新たな羞恥の血を昇らせながら、反応を堪えようとする様子の怜子だったが、 「ふふ、怜子社長のこの色っぽい毛並みを見るのも久しぶりですね」 明け透けな志藤の科白に耐えかねたように、片手で股間を覆った。隠される前に、黒々と濃密な叢の形が整っていることまで志藤は観察していた。処理は怠っていないらしいと。 まあ、これも淑女としての身だしなみってことにしておくか、と内心にひとりごちながら、志藤はビキニ・ブリーフを脱ぎ下ろす。解放された長大なペニスが隆々たる屹立ぶりを現す。 その気配は感じ取ったはずだが、怜子は今度はチラリとも見やろうとはしなかった。ことさらに首を横へとねじって。隆い胸を波打たせる息遣いが、深く大きくなる。 怒張を握り、軽くしごきをくれて漲りを完全なものにすると、志藤は怜子へと近づく。ワイシャツはあえて残した。半裸の姿の怜子に釣り合わせ、その意思に応じるといった意味合いで。 上半身には全ての着衣を残しながら、腰から下だけを剥き出しにした女社長の姿は、どこか倒錯的な淫猥さがあって、これはこれで悪くないという感興をそそった。スカートすら(もはや全く役目は果していないが)脱がず、ストッキングとショーツという、交接に邪魔な最小限のものだけを取り去った姿で、いまでは義理の母親たる女は待っているのだ。すり寄せた裸の膝と、股間に置いた手に、最後の、いまさらな羞恥の感情を示して。 志藤は両腕を伸ばして、腰帯状態になっているスカートを掴むと、重みのある熟女の身体をグイと引き寄せた。巨きな臀を座面の端まで迫り出させて、 「横になりたくないって云うなら、こうしないとね」 窮屈で、よりはしたない態勢へと変えさせた怜子に、そう釈明する。こちらは、あなたの意思に応えているんですよ、といった含みで。怜子は顔を背けたまま、なにも言わなかった。 次いで、志藤は怜子の両膝に手をかけると、ゆっくりと左右に割っていった。抵抗の力みは一瞬だけで、肉感的な両の腿は従順に広げられて、あられもない開脚の姿勢が完成する。 「手が邪魔ですね」 「…………」 簡潔な指摘に、数秒の間合いを置いて、股間を隠していた手が離れる。怜子は引いた手を上へと上げて、眼元を隠した。じっとりと汗を浮かべた喉首が、固い唾を嚥下する蠢動を見せた。 「ちょっと、キツイかもしれませんよ」 中腰の体勢となって、片手に怜子の腰を押さえ、片手に握りしめた剛直を進めながら、志藤が警告する。それは気遣いではなく、己が肉体の魁偉さを誇る習性と、それを散々思い知っているはずなのに入念な“下準備”を拒んだ怜子の頑迷さを嘲る意図からの言葉だった。“だったら、改めて思い知ればいい”という、残虐な愉楽をこめた脅しだった。 視界を覆っていた手の陰で、怜子の瞳が揺動する。まんまと怯えの感情を誘発されて、指の間から見やってしまう。 だが、その怖れの対象をはっきりと視認するだけの暇も与えられなかった。 熱く硬いものが触れた、と感じた次の刹那には、その灼鉄の感覚は彼女の中に入りこんで来た。無造作に、暴虐的に。 「ぎっ――」 噛みしめた歯の間から苦鳴を洩らして、総身を硬直させる怜子。秘肉はじっとりと潤みを湛えていたが。規格外の巨根を長いブランクのあとに受け入れるには、湿潤は充分ではなかった。 構わず志藤は腰を進めた。軋む肉の苦痛に悶える怜子を、“それ見たことか”という思い入れで眺め下ろしながら、冷酷に抉りこんでいった。 やがて長大な肉根が完全に埋まりこめば、怜子は最奥を圧し上げられる感覚に深く重い呻きを絞って、ぶわっと汗を噴き出させた喉首をさらして仰け反りかえった。裸の双脚は、巨大な量感に穿たれる肉体の苦痛を和らげようとする本能的な動きで限界まで開かれて、恥知らずな態勢を作る。 「ああ、相変わらず、いい味わいですよ」 志藤が満悦の言葉を吐く。未だ充分に解れていない女肉の反応は生硬でよそよそしさを感じさせたが、たっぷりと肉の詰まった濃密な感触は、かつて馴染んだままで。長い無沙汰を挟んで、またこの爛熟の肉体を我が物としたのだという愉悦を新たにさせた。 「でも、こんなものじゃないですよね? 怜子社長の、この熟れたカラダのポテンシャルは」 という科白に、すぐにその“本領”を引きずり出してやるという尊大な自信をこめて動き出そうとすると、 「ま、待ってっ、」 反らしていた顎を懸命に引いて、難儀そうに開いた眼を志藤へと向けた怜子が焦った叫びを上げた。この肉体の衝撃が鎮まるまでは、といましばしの猶予を乞うたのだったが、 「待てませんね」 にべもなく答えて、志藤は律動を開始した。ぎいっ、とまた歯を食いしばり、朱に染まった顔を歪めて苦悶する怜子に、 「こういうやり方が、お望みだったんでしょう?」 と皮肉な言葉を投げて、長く大きなスラストで責め立てていく。接触は、繋がり合った性器と、太腿に掛けた手だけという、即物的な“交接”の態勢を維持したまま。 頑なに、懇ろな“情交”を拒んだことへの懲罰のような暴虐的な行為に、怜子はただその半裸の肢体をよじり震わせ、呻吟するばかり……だったのだが。 単調な抽送のリズムを変じた志藤が、ドスドスと小刻みに奥底を叩く動きを繰り出すと、おおおッと噴き零した太いおめきには苦痛ではない情感がこもって。 どっと、女蜜が溢れ出す。まさに堰を切ったようなという勢いで湧出した愛液は、攻め立てられる媚肉に粘った音を立てはじめる。 あぁ……と、怜子が驚いたような声を洩らしたのは、その急激な変化を自覚したからだろう。 「ようやくカラダが愉しみ方を思い出してきたみたいですね」 「ああああっ」 そう云って、それを確認するように志藤が腰を揺すれば、怜子の口からは甲走った叫びが迸り出る。ぐっと苦痛の色が減じた、嬌声に近い叫びが。満たし尽くされたまま揺らされる肉壷が、引き攣れるように収縮した。 (……ったく。結局こうなることは、わきりきってるってのに) 内心に毒づいて、じっくりと追い込みにかかる志藤。ようよう、絡みつくような粘っこさにその“本領”を発揮しはじめた熟れ肉の味わいを愉しみながら。あえて性急さは残した動きの中に、知悉しているこの女体の勘所を攻め立てる技巧を加えていく。 怜子は尚も抗いの素振りを見せた。唇を噛みしめて、吹きこぼれようとする声を堪える。窮屈な態勢の中でのたうつ尻腰の動きも、志藤の律動を迎えるのではなく、逆に少しでも攻めを逸らし、肉体に受け止める感覚を減じようとする意思を示した。 「ふふ、懐かしいな」 と、志藤が呟いたのは、そのむなしい抵抗ぶりに、ふたりの関係が始まった頃の姿を想起したからだった。長い空白が生んだ逆行なのか。或いは、やはり義理とはいえ親子の間柄になったことが、この期におよんでブレーキをかけるのか。それとも……長く捨て置かれた女の最後の意地なのか。 いずれにしろ、甲斐のない抗いだった。こうして深く肉体を繋げた状態で。 両手に掴んだ足首を高々と掲げ、破廉恥な大開脚の態勢を強いてから、ひと際深く抉りこんでやれば、引き結ばれていた怜子の口は容易く解けて、オオゥと生臭いほどのおめきを張り上げた。そのまま連続して見舞った荒腰が、もたがった厚い臀肉を叩いて、ベシッベシッと重たく湿った肉弾の音を立て、それにグチャグチャと卑猥な攪拌音が入り混じる。ますます夥しくなる女蜜の湧出と、貪婪になっていく媚肉の蠢きを明かす響きだった。 「ああっ、ひ、あ、アアッ」 もはや抑えようもなく滾った叫びを吐きながら、怜子が薄く開けた眼で志藤を見やった。その眼色にこもった悔しさこそが、心底の感情だったようだが。その恨みをこめた一瞥が、怜子が示しえた最後の抵抗だった。 「アアッ、だ、ダメぇっ」 乱れた髪を打ち振って、切羽詰った叫びを迸らせ、腰と腿の肉置をブル…と震わした。と、次の刹那には弓なりに仰け反りかえった。 「……っと。はは、こりゃあすごい」 動きを止めて、激烈な女肉の収縮を味わいながら志藤が哂う。脳天をソファの背もたれに突き立て、ギリギリと噛みしめた歯を剥き出しにして、硬直する怜子のさまを見下ろして。 「もったいないなあ」 と、呟いた。怜子に聞こえていないことは承知だから独り言だ。 筋肉を浮き上がらせてブルブルと震える逞しいほどの太腿を両脇に抱え直して、志藤は律動を再開した。 「……ぁああ、ま、待って、まだ、」 忘我の境から引き戻された怜子が重たげな瞼を上げて、弱い声で懇願する。まだ絶頂後の余韻どころか震えさえ鎮まっていない状態で。 「駄目ですよ」 しかし今度も志藤は無慈悲な答えを返して、容赦なく腰の動きを強めていく。 「久しぶりに肌を重ねての、記念すべき最初の絶頂を、あんなに呆気なく遂げてしまうなんて、許せませんよ。ここはすぐにも、怜子社長らしいド派手なイキっぷりを見せてもらわないと」 「あぁ……」 怜子の洩らした泣くような声には、敗北と諦めの哀感がこもった――。
どっかとソファに腰を落とすと、志藤はテーブルのグラスを取って、ひと口呷った。 氷は半ば以上溶けて、上等なスコッチの味は薄まっていたが。“ひと仕事”終えて渇いた喉には丁度よかった。 ふうと息を吐いて、額に滲んだ汗の粒を拭った。深く背を沈めて、改めて眼前の光景を眺める。 志藤はもとの席に座っている。だから、その前方には、たった今まで烈しい“交接”の舞台となっていたソファがあって。そこに怜子が横たわっている。 グラスの中の氷は完全には溶けきっていない。経過した時間はその程度だったということだが。その間に怜子は三度、雌叫びを上げて豊かな肢体を震わした。性急な激しい交わりだった。 いまの怜子は横臥の姿勢で倒れ伏している。三度目の絶頂のあと、志藤が身を離したときに、ズルズルと崩れ落ちた態勢のまま。しどけなく四肢を投げ出して。 半裸の姿も変わっていなかった。最後まで志藤は怜子の腰から上には手を触れなかった。抱えた裸の肢を操り、微妙に深さや角度を変えた抽送で怜子を攻め立て続けた。最後は、その豊かな肢体を折りたたむような屈曲位で最奥を乱打して、怜子に断末魔の呻きを振り絞らせ、彼岸へと追いやったのだった。その刹那の、食い千切るような媚肉の締めつけには一瞬だけ遂情の欲求に駆られたが。ここは予定の通りに、とそれを堪えて。激烈な絶頂の果て、ぐったりと脱力した怜子から剛直を抜き去った。 だから今、僅かに勢いを減じて股間に揺れる肉根をねっとりと汚しているのは、怜子が吐きかけた蜜液だけということになるのだが。そんな汚れた肉塊を丸出しにして、いまだ上半身にはシャツを残した間抜けな格好で、悠然と志藤は酒を注ぎ足したグラスを口へと運んだ。美酒の肴は、無論、たったいま自分が仕留めた女の放埓な姿だ。 乱れたブルネットの髪に貌が隠れているのは残念だったが。横向きに伏した姿勢は、膝から下をソファから落とした剥き出しの下半身、ムッチリと張り詰めた太腿から肥えた臀への官能的なラインを強調して、目を愉しませる。なにしろ、先刻までの忙しない“交接”では、その肉感美を愛でることも出来なかったのだから。いまの状態も、豊艶な熟れ臀を眺めるのにベストなポージングとも視点ともいえなかったが。なに、焦る必要はない。この艶麗な義母の“ド派手なイキっぷり”を見たいという欲求が、まだ充分には叶えられていないことについても同じく。最後の絶頂の際に、怜子はついに“逝く”という言葉を口走りはしたが、それは振り絞った唸りのような声で。彼女が真に快楽の中で己を解放したときに放つ歓悦の叫び――咆哮はあんなももではない、ということを志藤は経験から知っているのだったが。それもまあ、このあとの楽しみとしておけばいい。まだ、ほんの“口開け”の儀が終わったばかり。夜は長いのだ。 と、そんな思索を巡らせていると、向かいで怜子の身体が動いた。 思いの他、早い“帰還”だった。完全に意識を飛ばしていたのではなかったらしい。深い呼吸に肩を上下させて、のろのろと上体を持ち上げる。垂れ落ちた髪に、顔は見えなかった。膝を床に落とし膝立ちになってから、ソファに手を突いて、よろりと立ち上がった。数瞬、方向に迷うように身体を回してから、出入口を目指して歩きはじめる。少し、ふらついた足取りで。途中、床に投げ捨てられてあったストッキングと���ョーツを拾い上げて。リビングを出る直前になって、ようやく腰までたくし上がったスカートに気づいて引き下ろす動作を見せながら、廊下へと姿を消した。最後まで志藤には顔を向けず言葉も掛けなかった。志藤もまた無言のまま見守り見送った。 ほどなく、遠く聞こえたドアの開閉音で、浴室に入ったことがわかった。 なるほど、と志藤は頷いた。浴室へと直行して、肌の汚れとともにすべてを洗い流すということか。そうして、この一幕をなかったこととする。確かに、それで首尾は一貫するわけだが。 もちろん、志藤としては、そんな成り行きを受け容れる気はなかった。受け容れるわけがないことは、怜子も理解しているはずで。だったら、やるべきことをやるだけだ、と。 それでも、グラスの酒を飲み干すだけの時間を置いてから、志藤は立ち上がった。半ばの漲りを保った屹立を揺らしながら、ゆっくりと歩きはじめる。浴室へと向かって。
熱いシャワーを浴びれば、総身にほっと蘇生の感覚が湧いて。 だが、そうなれば、冷静さを取り戻した思惟が心を苛む。 胸元に湯条を受けながら、宙を仰いだ怜子の貌には憂愁の気色が浮かんだ。 悔恨、罪悪感。しかし一番強いのは、慙愧の想い、己が醜態を恥じる感情だった。 ――“英理を選んでおいてっ”。 志藤の腕の中で叫んでしまったその言葉を思い返すと、死にたいような恥辱に喉奥が熱くなる。自らの意志で関係を絶った男に向けるのは理不尽で身勝手な恨み。ずっと心の奥底に封じこんで気づくまいとしていたその感情を吐き出してしまった瞬間に、怜子は自身の意地も矜持も裏切ることになったのだった。 あとは、ただ崩れ流されただけだった。その済し崩しな成り行きの中で、怜子が示した姑息な抵抗、場所を移すことを拒み、裸になることを拒み、愛撫の手を拒んだことなど、無様に無様を重ねるだけの振る舞いだった。いまになって振り返れば、ではなく、即時にその無意味さ馬鹿馬鹿しさは自覚していたのだったが。 それでも尚、こうして浴室へと逃げこんで。肌を汚した淫らな汗を流すことで、辻褄を合わせようとしている。 そうしながら、しかし怜子の手は、己が身体を抱くようなかたちをとったまま動こうとしないのだった。最前までの恥知らずな行為の痕跡を洗い流すことで全てを消し去ろうとするのなら、真っ先に洗浄の手を伸ばすべき場所に向かってはいかないのだった。 そこに蟠った熱い感覚が、触れることを憚らせる。燠火を掻き立てる、という結果を招くことを恐れて……? 結果として怜子は、その豊満な裸身を熱く強いシャワーに打たせて、ただ佇んでいた。 ……なにをしているのか、と、ぼんやりと自問する。無意味な帳尻合わせの振りすら放擲して。心に悔しさや恥ずかしさを噛みしめながら、身体ではついさっきまでの苛烈な行為の余韻を味わっているかのごとき、この有様は、と。 だが、長くそんな思いに煩う必要はなかった。 浴室のドアの向こうに足音と気配が近づいてきた。磨りガラスに人影が映る。 ちらりと横目に、その長身の影を認めて。もちろん怜子の顔に驚きの色は浮かばなかった。 断りも入れずガラス戸を開け放って。志藤はしばしその場で眼前に展けた光景に見惚れた。 黒とグレーのシックな色合いでまとめられた、モダンなデザインのバスルーム。開放的な広さの中に立つ、女の裸身。 まるで映画のワン・シーンのような、と感じさせたのは、その調った舞台環境と、なによりそこに佇立する裸体の見事さによるものだ。 フックに掛けたままのシャワーを浴びる怜子を、志藤は斜め後ろから眺めるかたちになっている。今夜はじめて晒された完全な裸身を。 四分の一混じった北欧の血の影響は、面立ちではなく体格に顕著に表れている、と過去にも何度か抱いた感想をいままた新たにする。優美なラインの下に、しっかりとした骨格を感じさせる肢体は、どこか彫刻的な印象を与えるのだった。高い位置で盛り上がった豊臀の量感、その中心の深い切れこみの悩ましさも記憶にあるままだったが。腰まわりは、英理が評していたとおりに、以前より少し引き締まっているだろうか。 怜子は振り向かなかった。志藤の来襲に気づいていないかのように、宙を見つめたまま。さっきまでは止まっていた手がゆるゆると動いて、肩から二の腕を洗う動きを演じた。いかにもかたちばかりに。 暖色の柔らかな照明の下、立ち昇る湯気の中、濡れていっそう艶やかに輝く豊艶な肢体を、志藤はなおもじっくりと眺めた。一年と二ヶ月ぶりに目の当たりにする、いまでは義理の母親となった年上の女の熟れた裸身に、ねっとりとした視線を注ぎ続けた。 すると堪えかねたように怜子の裸足の踵が浮いて膝が内へと折れた。重たげな臀が揺れる。執拗な視線を浴びせられる肌身の感覚までは遮断できなかったようだった。 その些細な反応に満足して、志藤は浴室の中へと足を踏み入れる。ピシャリと音を立ててドアを閉めれば、閉ざされた空間の中、立ち昇る熱気に混じった女の体臭を鼻に感じた。深々と、その甘く芳しい香りを吸いこむと、股間のものがぐっと漲りを強めた。 ゆっくりと回りこむように、豊かな裸体へと近づく。それでも怜子は振り返ろうとしなかったが。 自分もシャワーの飛沫の中へと入った志藤が、背後から抱きしめようと両腕を広げたとき、 「もう終わりといったはずよ」 冷淡な口調でそう云った。顔は向こうへと向けたまま。 「まさか」 軽く受け流して、志藤は腕をまわした。怜子は後ろから抱きすくめられた。 その瞬間、身体を強張らせ首を竦めた怜子が、 「……やめなさい」 と、掣肘の言葉を繰り返す。感情を堪えるような抑えた声で。 しかし、志藤はもう拒否の答えさえ返さずに、 「ああ、感激ですよ。こうしてまた、怜子社長の柔らかな身体を抱くことが出来て」 陶然とそう云って、ぎゅっと抱擁を強めた。裸の体が密着して、怜子の背は男の硬い胸を感じ、腰のあたりにも熱く硬いものが押しつけられる。 ね? と、志藤が耳元に囁きかける。 「一度だけって約束だと言っても、僕はまだ、その一度も終わってはいないんですから」 「……それは、貴方の勝手な…」 怜子の反駁、素気なく突き放すはずの科白は、どこか漫ろな口調になって、 「やっぱり、あんな落ち着かないシチュエーションではね。最後までという気にはなれなかったですよ。一年あまりも溜めこんだ怜子社長への想いを吐き出すには、ね。でも、本当は怜子社長も同じ気持ちなんじゃないんですか?」 甘ったるい口説と問いかけに、違うと怜子は頭を振って。そっと胸乳に滑ろうとした志藤の手を払いのけた。 と、志藤は、 「それは、葛藤されるのは当然だと思いますけど」 口調を変えてそう切り出した。 「いまだけは、余計なことは忘れてくれませんか? もう一度、貴女の本音を、本当の気持ちを聴きたいですよ」 「……やめて…」 と零した怜子の声は羞恥に震えた。もう一度と志藤が求めた“本音”“本当の気持ち”が、彼女のどの言葉を指したものかは自明であったから。 羞辱に震えて、そして抗いと拒絶の気配が消える。 やはりそれは、取り返しのつかない発言、発露だったと噛みしめながら。 怜子は、再び胸乳へと滑っていく男の手を、ただ見やっていた。 剥き身の乳房に今宵はじめて志藤の手が触れる。釣鐘型の巨大な膨らみを掌に掬い乗せ、その重みを確かめるようにタプタプと揺らしてから、広げた指を柔らかな肉房に食いこませていった。 ビクッと怜子の顎が上がる。唇を噛んで零れようとする声を堪えた。それに対して、 「ああ、これ、この感触。相変わらず、絶品の触り心地ですよ」 志藤の感嘆の声は遠慮がなく。その絶品の触り心地を味わい尽くそうというように、背後から双の乳房を掴みしめた両手の動きに熱がこもっていく。柔らかさと弾力が絶妙に混淆した熟乳の肉質を堪能しつつ、そこに宿る官能を呼び起こそうとする手指の蠢き。 ねちこく懇ろな愛撫、リヴィングでは拒んだその行為を、いまの怜子は抵抗もなく受け容れていた。抱きしめられたときに志藤の腕の中に折りこまれていた両腕は、いまは力無く下へと落ちて。邪魔がなくなって思うがままの玩弄を演じる男の手の中で、淫らにかたちを歪める己が乳房を、伏し目に薄く開いた眼で見つめながら。唇は固く引き結んだまま、ただ鼻から洩れる息の乱れだけに、柔肉に受け止める感覚を示していたのだったが。 「……痛いわ…」 ギュウッと揉み潰すような強い把握を加えられて、抗議の言葉を口にした。寄せた眉根に苦痛の色を浮かべて、視線は痛々しく変形する乳房へと向けたまま。 「ああ、すみません。つい、気が逸ってしまって」 そう謝って、直ちに手指の力を緩めた志藤だったが、 「まだ、早かったようですね」 と付け加えた科白には含みがあった。すなわち、もう少しこの熟れた肉体を蕩かし官能を高めたあとでなら、こんな嬲りにも歓ぶのだろう、という。 そんな裏の意味を、怜子がすぐに理解できたのは、過去の“関係”の中で幾度もその決めつけを聞いていたからだった。その都度、馬鹿げたことと打ち消していた。 いまも否定の言葉を口にしようとして、しかし出来なかった。わざとらしいほどにソフトなタッチへと切り替わった乳房への玩弄、やや大ぶりな乳輪をそうっと指先でなぞられて、その繊細な刺激に思わずゾクリと首をすくめて鼻から抜けるような息を洩らしてしまう。さらに硬く尖り立った乳首を、指の腹で優しく撫で上げられれば、ああッと甲走った声が抑えようもなく吹きこぼれた。 「なにせ、さっきはずっとお預けだったのでね。不調法は、おゆるしください」 なおも、くどくどと連ねられる志藤の弁解には、やはり皮肉な響きがあった。むしろ、“お預け”をくらって待ち焦がれていたのは、この熟れた乳房のほうだろう、と。玩弄の手に伝わる滾った熱、血を集めて硬くしこった乳首の有りさまを証左として。 怜子は悔しさを噛みしめながら、一方では安堵にも似た感情をわかせていた。志藤の言動が悪辣で下卑たものへと戻っていったことに。 赤裸々な己が心の“真実”などを追及されるよりは、ひたすら肉体の快楽に狂わされるほうがずっとましだ、と。そんな述懐を言い訳として、肉悦へと溺れこんでいく自らをゆるす。 「ああ、アアッ」 抑制の努力を捨てた口から、悦楽の声が絶え間なく迸りはじめる。熱く滾った乳房を嬲る男の手は、執拗さの中に悪魔じみた巧緻がこもって。久方ぶりに――どうやっても自分の手では再現できなかった――その攻めを味わう怜子が吹き零すヨガリの啼き声は、次第に咽ぶような尾を引きはじめて。 胸乳に吹き荒れる快楽に圧されるように仰け反った背は、志藤の胸に受け止められる。女性としては大柄な体の重みを、逞しい男の体躯は小揺るぎもせずに支えて。その安定の心地も怜子には覚えのあるものだった。 背後の志藤へと体重を預けて、なおも乳房への攻めに身悶えるその態勢を支えるために、床を踏みしめる両足の位置は大きく左右に広がっていた。ムッチリと肥えた両の太腿が、あられもない角度に開かれて。 そうであれば、ごく当たり前に、次なる玩弄はそちらへと向かっていく。 志藤の片方の手が、揉みしだいていた乳房を離れ、脇腹をなぞりながら、腿の付け根へと達する。 濡れて色を濃くした恥毛を指先が弄ったとき、ビクッと怜子の片手が上がって、志藤の手首のあたりを掴んだが。それはただ反射的な動きで、払いのけるような力はこもらなかった。 愉悦に閉ざしていた双眸をまた薄く開き、顎を引いて、怜子は下を、己が股間のほうを見やった。いつの間にか晒していた大股開きの痴態も気にするどころではなく、濡れた叢を玩ぶ志藤の指先を注視する。 うっ、と息が詰まったのは、無論のこと、指がついに女芯に触れたからだった。 「アアッ、だ、ダメッ」 甲高い叫びを弾けさせて、くなくなと首を打ち振る。引いていた顎を反らし、志藤の肩に脳天を擦りつけるようにして。はしたなく広げた両腿の肉づきを震わして。 もちろん、女芯を弄う指の動きは止まらない。怜子の叫びが、ただ峻烈すぎる感覚を訴えただけのものであったことは明らかだったし。 (……ああ、どうして……?) 目眩むような鮮烈な刺激に悶え啼きながら、怜子は痺れた意識の片隅に、その問いかけを過ぎらせていた。 やわやわと、志藤の指先は撫でつけを続けている。その触れようは、あくまで繊細で優しく、しかしそれ以上の技巧がこもっているようには思えないのに。 なのに、どうしてこんなにも違うのか? と。 乳房への愛撫と同じだった。どれほど試してみても、その感覚を甦らせることは出来なかった。 そう、そのときにも怜子はその言葉を口にしたのだった。“どうして?”と。いまとは逆の意味をこめて。 深夜の寝室で、ひとり寝のベッドの上で。もどかしさに啜り泣きながら。 「ふふ、怜子社長の、敏感な真珠」 志藤が愉しげに呟く。その言いようも怜子には聞き覚えがあった。宝石に喩えるとは、いかにもな美辞なようで、同時に怜子の秘めやかな特徴を揶揄する含みのこもった科白。実際いま、充血しきって完全に莢から剥き出た肉豆はぷっくりと大ぶりで、塗された愛液に淫猥に輝くさまは、肉の“真珠”という形容が的確なものと思わせる。そしてその淫らな肉の宝玉は、くっきりと勃起しきることで“敏感な”女体の泣き��ころとしての特質も最高域に達して、いよいよ巧緻さを発揮する男の指の弄いに、つんざくような快感を炸裂させては総身へと伝播させていくのだった。 「ヒッ、あっ、あひッ、アアアッ」 絶え間なく小刻みな嬌声をほとびらせながら、怜子は突き出した腰を悶えうねらせ続けた。自制など不可能だったし、その意思も喪失している。股間を嬲る志藤の腕にかけた片手は、時おり鋭すぎる刺激にキュッと爪を立てるばかりで、決して攻め手の邪魔だてはしようとせずに。もう一方の手は、胸乳を攻め続ける志藤の腕に巻きつけるようにして肩口に指先をかけて。より深く体の重みを男へと浴びせた、全てを委ねきるといった態勢となって、その豊艶な肉体を悶えさせていた。否応なしに快感を与えられ、思うが侭に官能を操作されて、指一本すら自分の意思では動かせないようなその心地にも、懐かしさを感じながら。 「ヒッ、ああっ!? ダ、ダメッ、それ、あ、アアッ」 嬌声が一段跳ね上がったのは、ジンジンと疼き狂う肉真珠を、ピトピトと絶妙な強さでタップされたからだったが。切羽詰まった叫びは、数瞬後に“うっ!?”と呻きに変わる。急に矛先を転じた指が、媚孔へと潜りこんだからだった。 熱く蕩けた媚肉を無造作に割って、男の指が入りこんでくる。息を詰めて、怜子はその感覚を受け止めた。 「さすがに、ほぐれてますね」 志藤が云った。それはそうだろう、この浴室へと場所を移す前、リヴィングではセックスまで済ませている。熟れたヴァギナは、今夜すでに志藤の魁偉なペニスを受け入れているのだ。 だが今、怜子は鮮烈な感覚を噛みしめるのだった。男らしく長く無骨とはいえ、その肉根とは比ぶべきもない志藤の指の蹂躙に。 リヴィングでの交わりは、やはりどうにも性急でワンペースなものだった。怜子がそう望んだのだったが。結果として、久しぶりに迎え入れた志藤の肉体の逞しさ、記憶をも凌駕するその威力に圧倒されるうちに過ぎ去った、というのが実感だった。短い行為の間に怜子が立て続けに迎えた絶頂も、肉悦の高まりの末に、というより、溜めこんだ欲求が爆ぜただけというような成り行きだった。 いま、こうして。裸体を密着させ、乳房を嬲られ女芯を責められて、羞ずかしくも懐かしい情感を呼び覚まされたあとに改めての侵略を受ける女肉が、歓喜して男の指を迎え入れ、絡みつき、食い締めるのを、怜子は感じとった。そして、深々と潜りこんだ指、その形にやはり憶えがある指が、蠢きはじめる。淫熱を孕んだ媚肉を、さらに溶け崩れさせるために。そのやり方など知り尽くしている、といった傲慢な自信をこめた手管で。 「ああっ、ん、おおおっ」 また容易く官能を操られれば、怜子の悶えぶりも変わる。口から洩れる声音は、囀るような嬌声から低く太いおめきへと変じて。尻腰は、媚孔を抉り擦りたてる志藤の指のまわりに円を描いて振りたくられるのだった。その豊かな肉置を揺らして。 グッチュグッチュと粘った濡れ音を怜子は聴く。しとどな潤みにまみれた女肉が男の硬い指に掻きまわされて奏でる淫猥な響き。実際には、いまもまさにその下腹のあたりに浴び続けるシャワーの音に隠れて聞こえるはずはなかったのだが。耳ではなく身体を通してその淫らな音を怜子は聴いて。湧き上がる羞辱の感情は、しかしいっそう媚肉粘膜の快美と情感の昂ぶりを煽って、脳髄を甘く痺れさせるのだった。 「アアッ、ダメッ、そこ、そこはっ」 蹂躙の指先が容赦なく知悉する弱点を引っ掻けば、早々と切迫した叫びが吹き上がった。あられもなく開かれた両腿の肉づきにグッと力みがこもったのは、叫びとは裏腹に、迫り来るその感覚を迎えにいこうとするさまと見えたのだったが。 しかし、ピークは与えられなかった。寸前で嬲りを止めた指がズルリと後退していけば、怜子は思わず“あぁっ”と惜しげな声を零して。抜き去られた指を追って突き上げる腰の動きを堪えることが出来なかった。 両脇に掛かった志藤の手が、仰け反った態勢を直し、そのまま反転させる。力強い男の腕が、豊満な肢体を軽々と扱って。 正対のかたちに変わると、志藤は至近の距離から貌を覗きこんできた。蕩け具合を確認するような無遠慮な視線に、顔を背けた怜子だったが、優しくそれを戻され口を寄せられると、瞼を閉じて素直に受け入れた。 熱いキスが始まれば、怜子の両腕はすぐに志藤の背中へとまわって、ひしとしがみつくように抱きついていった。白く豊満な裸身と浅黒く引き締まった裸体が密着する。美熟女の巨大な乳房は若い男の硬い胸に圧し潰され、男の雄偉な屹立は美熟女の滑らかな腹に押しつけられる。その熱にあてられたように白い裸身の腰つきは落ち着かず、シャワーを受ける豊臀が時おりブルッブルッと肥えた肉づきを震わした。 と、志藤が怜子の片手をとって、互いの腹の間へと誘導した。もちろん即座にその意図を悟っても、怜子の腕に抗いの力はこもらず。 口づけが解かれる。密着していた身体が僅かに離れた。怜子の手に自由な動きを与え、そのさまを見下ろすための隙間を作るために。 涎に濡れた口許から熱い息を吐きながら、怜子はそれを見やった。長大な剛直を握った自分の手を。己が手の中で尊大に反り返った隆々たる屹立を。 逆手に根の付近を握った手に感じる、ずっしりとした重み、指がまわりきらぬほどの野太さ、強靭な硬さ、灼けるような熱さ。一度触れてしまえば、もうその手を離せなくなって。見てしまえば、視線を外せなくなった。 深い呼吸に胸を喘がせながら、怜子は凝然と見つめ続けた。 そんな怜子の表情を愉快げに眺めていた志藤が、つと肩に置いた手に軽い力をこめて、次の動きを示唆する。 怜子は、視線を下へと向けたまま、一度は首を横に振ったが、 「おねがいしますよ」 「…………」 猫撫で声のねだりとともに再度促されると、詰るような眼で志藤の顔を一瞥して。 ゆっくりと膝を折って、その身体を沈みこませていった。 濡れた床に膝をつけば、その鼻先に、雄渾な牡肉が鎌首をもたげるというかたちになって。怜子は我知らず“……あぁ”とあえかな声を洩らして胴震いを走らせた。 改めて端近に眺める、その魁偉なまでの逞しさ、凶悪なフォルムは、直ちに肉体の記憶と結びつく。今夜すでに一度その肉の凶器を迎え入れ、久方ぶりにその破壊力を味わわされていた怜子だったが。このときにより強く想起されたのは、もっと古い記憶だった。突然の英理の介入によって志藤との関係が途絶する直前の頃の。ずるずると秘密の逢瀬を続ける中で否応なくこのはるか年若な男の欲望に泥まされ、長く眠らせていた官能を掘り起こされて。毎度、酷烈なほどの肉悦に痴れ狂わされていた頃の。 結局……自分は、その記憶に呪縛されたまま。それを忘れ去ることが出来ず、逃れることも出来ずに。 その呪縛のゆえに、愚かな選択を重ね、醜態を繰り返して。無様さを上塗りしつづけて。 挙句、こうしてまた、この男の前に跪いている。いまや娘の夫となった男の前に。 救いがたいのは、そんな自責を胸に呟いて、しかしそこから脱け出そうという意志が、もう少しも湧いてこないことだった。自ら飛びこんだ、この陥穽の底にあって。無益で無様なばかりの抗いを捨て去ることに、開き直った落ち着きさえ感じて。 こんなにも――自分の堕落ぶりは深かったのだと、思い知ってしまえば。 「……これが…」 恨めしさを声に出して呟いて、眼前の巨大な肉塊を睨みつける。すべての元凶、などとはあまりに下卑た言いようだし、またぞろな言い訳になってしまうようだが。まったくのお門違いでもないだろう。その並外れた逞しさを見せつける男根が、須崎怜子を、有能な経営者たる才女を、破廉恥な堕落へと導いた若い牡の力の象徴であることは間違いなかったし。 ギュッと、握り締めた手指に力をこめる。指を跳ね返してくる強靭さが憎らしい。その剛さ、逞しさが。 その奇怪な感情に衝き動かされるように、顔を寄せていった。そのような心理の成り行きでは、まずは唇や舌で戯れかかる、という気にはならずに。切っ先の赤黒い肉瘤へと、あんぐりと大開きにした口を被せていく。 「おっと。いきなりですか」 頭上から志藤の声が降ってくる。がっつきぶりを笑うという響きを含ませて。 そんなのじゃない、と横に振られる首の動きは小さかった。口に余るようなモノを咥えこみながらでは、そうならざるを得ない。そして意識はすぐに口内を満たし尽くすその肉塊に占められていく。目に映し手指に確かめた、その尊大なまでの逞しさ凶悪な特長を、今度は口腔粘膜に味わって。 浴室に闖入してきてから、ほとんど怜子の身体ごしにしかシャワーを浴びていない志藤の股間には、微かにだが生臭いような匂いが残っていた。リヴィングでの慌しい交わりの痕跡。それを鼻に嗅いでも怜子に忌避の感情は湧かず、ただその身近な質の臭い、鼻を突く女くささを疎ましく感じて。別の臭気を嗅ぎ取ろうとするように鼻孔をひくつかせながら、首を前後に揺らしはじめる。 やはり一年数ヶ月ぶりの口戯。往時の志藤との関係においても、数えるほどしか経験しなかった行為だ。狎れを深める中で、執拗な懇請に流されるという成り行きで、幾度かかたちばかりにこなしたその行為を、いまの怜子は、 「ああ、すごいな」 と、志藤が率直な感嘆を呟いたほどの熱っぽさで演じていた。荒く鼻息を鳴らし、卑猥な唾音を響かせて。まさに、咥えこむなり、といった性急さで没入していって、そのまま熱を高めていく。抗いがたい昂ぶりに衝き動かされて淫らな戯れに耽溺しながら、その激しい行為が口舌にもたらす感覚にまたいっそう昂奮を高めるという循環をたちまちのうちに造り上げて。 いっぱいに拡げた唇に剛茎の図太さ強靭さをまざまざと実感すれば、甘い屈従の情感に背筋が痺れた。��り出した肉エラに口蓋を擦られると、やはり痺れるような快美な感覚が突き上がった。えずくくらいに呑みこみを深くしても、なお両手に捧げ持つほどの余裕を残す長大さを確かめれば、ジンと腹の底が熱くなって、膝立ちに浮かせた臀をうねらせた。唾液は紡ごうと意図するまでもなく止め処もなく溢れ出て、剛茎に卑猥な輝きをまとわせ、毛叢を濡らし、袋にまで垂れ流れた。唾の匂いと混じって色濃く立ち昇りはじめる牡の精臭を怜子は鼻を鳴らして深々と嗅いで、朱に染まった貌に陶酔の気色を深くした。 シャワーは志藤の手で向きをずらされ、ふたりの身体から外れて、空しく床を叩いている。その音を背景に、艶めいた息遣いと隠微な舐めしゃぶりの音がしばし浴室に響いて。 うむ、と快美のうめきを吐いた志藤が手を伸ばして、烈しい首ふりを続ける怜子を止めた。そして、ゆっくりと腰を引いて、剛直を抜き出していく。熱い口腔から抜き取られた巨根が、腹を打つような勢いでビンと反り返った。 野太いものを抜き去られたかたちのままぽっかりと開いた口で、新鮮な空気を貪るように荒い呼吸をつきながら、怜子は数瞬己が唾液にまみれた巨大な屹立を見つめて。それから、上目遣いに志藤の顔を見やった。 「このままだと、社長の口の中に出してしまいそうだったんで。素晴らしかったですよ」 「…………」 賞賛の言葉を口にして、そっと頬を撫でてくる志藤を、疑いの目で見上げて。また、鼻先に揺れる肉塔へと視線を戻す。 確かに……若い牡肉はさらに漲りを強めて、獰猛なまでの迫力を見せつけてくる。 (……ああ……なんて…) 畏怖にも似た情感に、ゴクと口内に溜まった唾を呑みくだして。そのさまを見れば、志藤が自分の口舌の行為にそれなりの快美を味わったというのも事実なのだろうが、と思考を巡らせて。 そこでやっと、その懇ろな愛撫の褒美のように頬を撫でられているという状態に気づいて、はっと顔を逃がした。それから、これも今さらながらに、夢中で耽っていた破廉恥な戯れを突然中断された、そのままの顔を見られ続けていたということに思い至って。俯きを深くして、乱暴に口許の涎をぬぐった。 やはり、そういうことなのだ、と悔しさを噛みしめる。これも、この男の悪辣な手管のひとつなのだ。我を忘れた奔騰のさなかに、急に自意識を呼び覚まさせる。意地の悪い、焦らし、はぐらかしだった。 と、理解して。しかしその悔しさが、反発や敵意に育ってはいかない。ズブと、また深く泥濘へと沈みこんでいくような感覚を湧かせて。 そも、その中断を、焦らされた、はぐらかされた、と感ずること自体が、志藤の手に乗っているということだった。ジリジリと情欲を炙られ続けるといった成り行きの中で。 涎を拭った指先は、そっと唇に触れていた。そこに宿った、はぐらかされたという気分――物足りなさ、を確かめるように。そして、横へと逃がされていた視線は、いつしか前方へと舞い戻っていた。魁偉な姿を見せつける牡肉へと。 そんな怜子のさまを愉しげに見下ろしていた志藤が、つと腰をかがめ、両手を脇の下に差しいれて立たせようとする。その腕に体の重みを預けながら、怜子はヨロリと立ち上がった。 立位で向かいあうかたちに戻ると、志藤は怜子のくびれた腰から臀へと、ツルリと撫でおろして、 「このままここで、ってのも愉しめそうですが」 「…………」 「やっぱり、落ち着かないですね。二階に上がりましょう」 怜子の返答は待たずにそう決めて。シャワーを止めた。この場での一幕を伴奏しつづけた水音が止む。 さあ、と片手をかざして、志藤が怜子を促す。次の舞台への移動を。 「…………」 無言のまま、怜子はそれに従って、ドアへと向かった。
脱衣所に出て。 おのおの、バスタオル――英理によって常に豊富に用意されている清潔なタオル――で身体を拭いて。 しかし着替えまでは用意されていない。今夜の場合は。怜子の着衣一式、皺になったスーツとその中に包みこまれた下着やストッキングは、丸めて脱衣籠に放りこまれてあった。 仕方なしに、もう一枚とったタオルを身体に巻こうとした怜子だったが、 「必要ないでしょう」 そう言った志藤にスルリと奪い取られてしまった。 「今夜は、僕らふたりきりなんですから。このままで」 「…………」 一瞬、詰るように志藤を睨んだ怜子だったが。微かな嘆息ひとつ、ここでも指示に従って。素足を踏んで、裸身を脱衣所のドアへと進めて。 そこで振り返った。湯上りの滑らかな背肌と豊臀の深い切れこみを志藤へと向けて、顔だけで振り向いて、 「今夜だけよ」 そう云った。せいぜい素っ気ない声で。 「ええ。わかってますよ」 志藤が答える。失笑はしなかったが、笑いを堪えるという表情は隠さずに。 それが妥当な反応だろう。怜子とて、その滑稽さは自覚しないわけがなかった。この期におよんで。こんな姿で。 それでも彼女としてはそう言うしかなかった。どれだけ無様な醜態を重ね、ズルズルと後退を続けたあとだろうと、すべてを放擲するわけにはいかないではないか、と――。 薄笑いを浮かべる男に、怨ずるような視線を送って顔を戻すと、怜子は脱衣所のドアを開け放った。
ひんやりと殊更に大きく感じた温度差に竦みかかる足を踏み出して、廊下に出た。 裸で共用スペースに出るなど、かつて一度もしたことのない振る舞いだった。家にひとりきりのときにも。羞恥と後ろめたさに胸を刺されながら、覚束ぬ足取りで玄関ホールへと進む。ペタリペタリと、湿りを残した足裏に床を踏んでいく感触に不快な違和感を覚えながら、より明るい空間へと。高い天井からの柔らかな色の照明が、このときには眩いような明るさに感じられて。その光に照らし出されたホールの景色、日々見慣れた眺めを目にした怜子が思わず足を止めたのと、 「ああ、ちょっと、そのままで」 少し距離を置いて後をついてくる志藤がそう声を掛けたのは、ほぼ同時だった。 日常のままの家内の風景の中(それも玄関先という場所)に、一糸まとわぬ裸身を晒しているという非現実感が怜子の足を止めさせた。志藤の指示は、無論その異常な光景に邪まな興趣を感じて――なにしろ、豊艶な裸身を晒しているのは、平素はクール・ビューティーとして知られる辣腕の女社長であり、この家の女主人なのだ――じっくりとその珍奇な絵図を鑑賞しようとする意図からだった。 そんな思惑は見え透いていたから、怜子はそれを無視して歩みを再開し、階段へと向かった。 指示を黙殺された志藤も、特に不満を言うこともなく後を追った。怜子が西側の階段、自室へと向かうルートを選んだことにも、別に異議はなかった。多分、そうなるだろうと思っていた。足取りを速めたのは、もちろん階段を昇り始めた怜子を、ベストな位置から眺めるためだった。 「……おお…」 急いだ甲斐があって、間に合った。狭く、やや急角度な階段を上がっていく怜子の姿を、数段下のまさにベスト・ポジションから仰ぎ見て、感嘆の声を洩らした。 どうしたって、まず視線はその豊臀へと吸い寄せられる。下から見上げる熟れた巨臀は、さらにその重たげな量感が強調されて、弩級の迫力を見せつけてきた。そして、はちきれんばかりの双つの臀丘は、ステップを踏みのぼる下肢の動きにつれて、ブリッブリッと扇情的に揺れ弾んで、そのあわいの深い切れこみの底の暗みを覗かせるのだった。 陶然と志藤は見上げていたが、その絶景を味わい尽くすには階段はあまりに短かった。粘りつく視線を気にした様子の怜子が途中から動きを速めたので、鑑賞の時間はさらに短縮された。その分、セクシーな双臀の揺動も派手になったけれど。 ああ、と思わず惜しむ声をこぼして、志藤も後を追った。足早に階段を昇りきった怜子の裸の足裏の眺めに目を引かれた。働く女として長年高いヒールを履き続けている影響なのか、怜子の踵はやや固くなっているように見えて。今さらのようだが、その些細な特徴に気づいたことも、またひとつこの美貌の女社長の秘密に触れたってことじゃないか、などという自己満足を湧かせながら。 階上に上がって、通路の奥の怜子の私室へと向かう。手前の慎一の部屋の前を行きすぎるとき、怜子は顔を逆へと背けた。志藤は、無論なんの感慨もなく、今夜は無人のその部屋の前を通過する。 逃げこむ、というような意識があったのだろうか、自室に辿りつくと怜子は逡巡もなくドアを開けて中へと入った。志藤も悠然とそのあとに続いて。 入室すると、やけに慎重な、確実を期すといった手つきで、ドアを閉ざした。閉じられた空間を作った。 間接照明に浮かび上がった室内を見回して、 「社長の部屋になってから入るのは、初めてですね」 と云った。同居の開始以前、ここがまだ英理の部屋だった頃に一度だけ入室したことがあった。 入れ替えが行われて、当然室内の様相は、そのときとは変わっている。置かれているインテリアもすべて移動したものだし。物が少なく、すっきりとまとめられているところは似通っているが。 なにより、はっきりとした違いは、 「怜子社長の匂いがしますね。当たり前だけど」 広くとられた空間を、うろうろと裸で歩きまわりながら、志藤が口にしたその点だろう。両手を広げ、うっとりとその馥郁たる香りを吸いこんで。 「…………」 その香りの主は、むっつりとそんな志藤を見やっていた。壁際に置かれたドレッサーの側らに佇んで。暖色の照明が、その見事な裸体に悩ましい陰影を作って。その肢体を、三枚の鏡がそれぞれの角度から映している。チラリと、その鏡面に怜子の視線が流れた。 「ああ、さすがにいいクッションだな」 志藤が言った。断りもなく怜子のベッドに触れながら。セミダブルのサイズのベッドは、簡単に整えられた状態、怜子が今朝部屋を出たときのままだった。同居が始まってからも、この部屋の掃除は(立ち入りは)無用だと、英理には通達してある。 志藤が、大きく上掛けをめくった。現れ出たシーツは皺を刻んで、さらにはっきりと怜子の昨夜の痕跡を示す。その上に、志藤が寝転がる。ゴロリと大の字に。 その傍若無人な振る舞いに眉をしかめても、怜子に言うべき言葉はなかった。裸の男を部屋に招じ入れておいて、ベッドに乗られたと怒るのは馬鹿げているだろう。 志藤が仰向けのまま腰を弾ませて、マットの弾力を確かめる。恥知らずに開いた股間で、やはり恥知らずに半ばの漲りを保った屹立が揺れる。滑稽ともいえる眺めだった。 うん、と満足げに頷いて。顔を横に倒して、深々とピロウの匂いを嗅いだ志藤は、 「ああ、怜子社長の香りに包まれるようだ」 と、またうっとりと呟いた。 「向こうの、いまの僕らの部屋にも、最初の頃はこの香りが残ってたんですがね。いまでは、さすがに消えてしまいましたが」 そう続けて、首を起こして怜子を見やった。先ほどからの志藤の行為と科白に、不快げに眉根を寄せている怜子にもお構いなしに、 「その最初の頃に、英理が“残っているのは、香りだけじゃないわ”って云うんですよ。香りだけじゃなくて、怜子社長の、この一年間の……そのう、色々な感情、とか」 言い出しておいて、途中から奇妙に言いよどむ様子を見せる。その志藤に、 「……だいたい、想像がつくわ」 冷ややかな声で怜子はそう云って。 それから、傍らのドレッサーを見やった。体をまわし上体を屈みこませて、鏡に映した顔を覗きこんだ。ベッドの志藤のほうに、剥き身の臀を向ける態勢で。化粧の崩れを確認する。 本当は、部屋に入ってきたときから、それをしたかったのだ。タイミングを探していた。いまの志藤とのやりとりが切欠になったというなら、自分でも不可解だったが。 さほど酷い状態にはなっていなかった。常に控え目にと心がけているメイクは、見苦しいほどに崩れてはいない。ルージュだけは、ほとんど剥げ落ちてしまっていたが。 そもそも……シャワーを浴びたといっても、顔は洗っていなかった。髪も濡れているのは毛先だけだ。 なんのことはない、という話になってしまう。志藤の来襲までに、それをする時間がなかったわけではないのだから。 結局、唇に残ったルージュを拭い、鼻や額を軽くコットンではたいただけで、手早く作業を終えた。見苦しくなければそれでいい、と。 態勢を戻して、振り向く。愉しげに観察していた志藤と目を合わせて、 「……この一年の、私の恨みや後悔が残っている、部屋中にしみついている、って。そんなことを、あの子は言ったんでしょう?」 やはり、冷淡な声で怜子はそう訊いた。 「ええ? すごいな。さすが母娘ってことですかね」 志藤が感心する。一旦は言いよどんでおきながら、あっさりと怜子の推測が正解だと認めて。 「わかるわよ」 不機嫌に怜子は答える。同居を始めてからの英理の言動を思い出せば、そのくらいは容易に察しがつくと。“さすが母娘”などと、皮肉のつもりでないのなら、能天気に過ぎる言いようだ、と。 だが、意地悪くか、ただ無神経にか、持ち出された英理の名が、怜子の心に水を差し制動をかけたかといえば……そんなこともなかったのだ。改めて、いまの英理がどんな目で自分を見ているのかを伝えられ、この二ヶ月間に繰り返されてきた挑発的行動を思い返せば、現在のこの状況への罪悪感は薄れていく。 そもそも、その状況、今夜のなりゆき自体が、英理の企みによるものであるのならば――と、弁解じみた呟きを胸におとす。その前提を確認すれば、疎ましさと反発が湧き上がったけれど。 「実際、どうなんです? この寝心地のいいベッドは、怜子社長の哀しみや寂しさを知ってるんですか? この部屋にも、」 「知らないわ」 まくしたてられる志藤の言葉を遮った声には、不愉快な感情が露わになった。 「ああ、すみません。はしゃぎすぎましたね」 志藤が上体を起こして頭を下げた。居住まいを正す、というには、股間をおっぴろげたままの放埓な姿勢だったが。 「こうして、社長の部屋に入れたのが嬉しくて、つい。以前は殺風景なホテルの部屋ばかりでしたから」 「……当然でしょう、それは」 「そうなんですけど。だからこそ念願だったわけでね。いつか、怜子社長のプライベートな空間で愛しあえたらっていう思いが。それが叶って、はしゃいでしまったんです」 「……それはよかったわね」 冷ややかに。志藤の大袈裟な喜びぶりに同調することはなく。それでも、そうして言葉を返すことで、会話を成立させてしまう。 この狎れ合った雰囲気はなんなのか、と怜子は胸中にひとりごちる。この部屋に入った瞬間から、それまでの緊迫した感情が消えてしまったことに気づく。それは、裸で家中を歩かされるという破廉恥な行為の反動でもあったのだろうが。 同じような心理の切り替わりを過去にも経験していた。一年以上前、志藤との密やかな関係が続いていた頃だ。周到に人目を警戒した待ち合わせからホテルに到着し、“殺風景な部屋”に入ってドアを閉ざすと、怜子はいつもフッと張り詰めた緊張が解けるのを感じたものだった。どれだけ、はるか年若な男との爛れた関係に懊悩と抵抗を感じていようと、その瞬間には、ほっと安堵の感情を湧かせていた。無論それは、なんとしても事実を秘匿せねばならないという思いの故だったわけだが。 そう、当時とは状況は変わってしまっている。もはや、閉ざしたドアに、守秘の意味はないというのに。 「それに、あの頃と違って、今夜は時間を気にする必要もないわけですからね。朝まで、たっぷりと愉しむことが出来るんですから」 「…………」 愉しげな志藤の科白に、体の奥底のなにかが忽ちに反応するのを感じる。“朝まで、たっぷりと”という宣告に。かつての限られた時間の中の慌しい行為でも、毎回自分に死ぬような思いを味わわせたこの剛猛な牡が、と戦慄する。 つまりは、肉体の熱は少しも冷めてはいないのだった。浴室での戯れに高められたまま、裸での行進という恥態を演じ、この部屋での志藤の振る舞いに眉をひそめ、不愉快な会話に付き合うという中断を挟んだあとにも。 であれば、この部屋に入ってからの奇妙な心の落ち着きも、単に最も私的な空間へ逃げこんだという安心感によるのではなくて。ついに、ここまで辿り着いたという安堵がもたらしたものということになるのではないか。迂遠な、馬鹿馬鹿しいような段階を踏んで――クリアして――ようようこのステージに到着したのだ、という想いが。あとは、もう――――。 さあ、と志藤が手招く。ベッドの上、だらしなく脚を開いて座ったまま。その股座に、十全とは云わぬが屹立を保った肉根を見せつけて。 「……我が物顔ね…」 詰る言葉は、どこか漫ろになった。双眸に、ねっとりとした色が浮かんで。 ざっくりと、ブルネットの髪を手櫛で一度掻き上げて、怜子は足を踏み出す。豊艶な裸身を隠すことなく、股間の濃い叢も、重たげに揺れる巨きな乳房も曝け出して。ゆっくりと、娘婿たる男が待ち構えるベッドへと歩み寄った。 乗せ上げた裸の膝に、馴染んだ上質の弾力がかえってくる。スウェーデン製のセミダブルのベッドは、六年前の離婚の際に買い換えたものだ。だから、このベッドが怜子以外の人間を乗せるのも、二人分の重みを受け止めるのも、今夜が初めてということになる。 抱き寄せようとしてきた志藤の手をかわして、腕を伸ばす。その股間のものを掴んで、軽くしごきをくれた。 「おっ?」 「……続きをするんでしょう…」 そう云って、体を低く沈めていって、握りしめたものに顔を寄せた。 「なるほど。再開するなら、そこからってわけですか」 そう言いながら、志藤の声にはまだ意外そうな気色があった。そんな反応を引き出したことは小気味よかったが、それが目的だったわけではない。 先の浴室での行為で知りそめた口舌の快美、突然の中断につい“物足りない”と感じてしまった、その感覚を求めて、というのも最たる理由ではなかった。 あのときに怜子が飽き足りぬ思いを感じてしまったのは、“このままだと、口の中に出してしまいそうだったので”という志藤の言葉が、まったくのリップサービスであることが明白だったからだ。 当然な結果ではあった。そのときの怜子は、ひたすら己が激情をぶつけるばかりで、男を喜ばせようという思いもなかったのだから。だが、たとえ奉仕の意識が生じていたとしても、繰り出すべき技巧など、彼女にはなかった。無理もないことだ、数えるほどの、それも形ばかりにこなしたという経験しかなかったのだから。 もし……過去の志藤との関係が途絶することなく続いていたなら、違っただろう。最初の峻拒から、済し崩しに受け容れさせられたという流れの延長線上に。怜子は徐々に馴致を受けて、男への奉仕の技巧を身につけることになっただろう。 その練達の機会を逸してしまったことを、まさか惜しいとは思わない。思うはずがなかった、のだが。 だったら……と、怜子は考えてしまったのだった。自分が無我夢中で演じた狂熱的な行為にも悠然たる表情を崩さない志藤を見上げたあのときに。瞬間的に、直感的に。 だったら……その時間を――自分が思いもかけぬ成り行きで、この男と訣別してからの一年間を、彼のそばで過ごしたあの子は。日々の懇ろな“教育”を、過去の自分とは比ぶべきもない熱心さで受け入れたであろう、あの子は。いまではどれほどの熟練した技巧を身につけたのだろうか? と。 さぞかし……上達したことだろう、と確信する。こんな男に、それだけの期間、じっくりと仕込まれたならば。 そう、じっくりと。ふたりだけの濃密な時間の中で。自分が、ひとり寂寥を抱いて過ごしていた間。 か黒き感情が燃え立つ。ずっと、この発露のときを待っていた��いうように腹の底で燃え上がって、怜子を衝き動かす、駆り立てる。 鼻を鳴らして、深く牡の匂いを嗅いで。舌を伸ばしていく。長い脚を折って、志藤の両脚の間に拝跪するような形になって。 赤黒い肉瘤の先端、鈴口の切れこみに舌先を触れさせる。伝わる味と熱にジンと痺れを感じながら、舌を動かしていく。我を忘れてむしゃぶりつくだけの行為にはしたくないのだ、今度は。 ああ、と頭上で志藤が洩らした快美の声、それよりもググッと充実ぶりを増していく肉根の反応に励まされて、怜子は不慣れな舌の愛戯を続けていく。たちまち漲りを取り戻した巨根は、再び多量の唾液に塗れて、淫猥な照りと臭気を放った。 懸命に怜子は舌を蠢かせた。少しでも、競合相手との“差”を縮めたくて。なればこそ殊更に拙劣に思えてしまう己が行為に、もどかしさを噛みしめながら。 志藤が怜子の髪を掻きあげて、顔を晒させる。注がれる視線を感じても、怜子は“見ればいい”という思い入れで、いっそう行為に熱をこめていった。 はしたなく伸ばした舌で男性器を舐めしゃぶる痴態、初めて見せるその姿の新奇さを味わうのであろうと。普段の取り澄ました顔と、いまの淫らな貌とのギャップを愉しむのであろうと。娘婿のペニスにしゃぶりつく義母、という浅ましさを嗤うのだろうと。とにかく、この姿態を眺めることで志藤が味わう感興が、自分の稚拙な奉仕を少しでも補うのであれば、という健気なほどの思いで。 それなのに。 「ああ、感激ですよ」 と志藤は嬉しげに云って。それまではよかったのだが、 「でも、どうしたんです? 以前は、あんなに嫌がっていたのに」 今さら、そう訊いて。さらには、 「もしかして……他の誰かの、お仕込みですか?」 「…………」 舌の動きを止めて、怜子は志藤を見上げた。 「いや、そうだとして、別に僕がどうこういう筋合いじゃないですけど。ただ、もしそうなら“部屋やベッドに怜子社長の寂しさが染みついてる”なんて、とんだ見当違いな言いぐさだったな、って」 志藤は言った。拘りのない口調で。 「………さあ。どうかしらね」 曖昧な答えを、不機嫌な声で返して。怜子は視線を落とした。知らず、ギュッと強く握りしめていた剛直に目を戻して。 あんぐりと大開きにした唇を被せていった。ズズッと勢いよく半ばまで呑みこんで、そのまま首を振りはじめる。憤懣をぶつけるように。 「おお、すごいな」 聴こえた志藤の声は、ただ快感を喜ぶ気色だけがあった。追及の言葉を重ねようともせずに。 そもそも、さほど本気の問いかけでもなかったのだろう。怜子の変貌ぶりを目にしてふっと湧き上がった、疑念というよりは思いつきを口にしただけ。だから深刻な感情などこもらず。 それが怜子には悔しかったのだった。疑われたことが、ではなく、ごく気軽にその疑惑を投げかけられたことが。“他の誰か”と云った志藤の口ぶりに、嫉妬や独占心の欠片も窺えなかったことが。 自分は常に志藤の向こうに英理の存在を感じては、いちいちキナ臭い感情を噛みしめているというのに――。 “僕がどうこういう筋合いじゃない”などと、弁えたような言いぐさも気に入らなかった。正論であれば余計に。今さら、この期におよんで、と。 悔しさ腹立たしさを、激しい首振りにして叩きつける。突っ伏した姿勢で、シーツに圧しつけた巨きな乳房の弾力を利用するようにして。 口腔を満たし尽くす尊大な牡肉。灼けつくような熱と鋼のような硬さ。たとえ悔しまぎれに歯を立てようとしても、容易く跳ね返されてしまうのではないかと思わせる強靭さが憎たらしい。 憎くて、腹立たしくて、悔しくて。どうしようもなく、肉が燃える。 いつしか、苛烈なばかりだった首振りは勢いを減じて。怜子の舌は、口中で咥えこんだものに絡みつく蠢きを演じていた。 えずくほどの深い呑みこみから、ゆっくりと顔を上げていく。ブチューッと下品な吸着の音を響かせながら、肉根の長大さを堪能するようにじわじわと口腔から抜き出していって。ぷわっと巨大な肉笠を吐き出すと、新鮮な呼吸を貪るいとまも惜しむようにすかさず顔を寄せていった。多量に吐きかけた涎が白いあぶくとなって付着している肉根に鼻頭を押し当てて直に生臭さを嗅ぎながら、ヴェアアと精一杯に伸ばし広げた紅舌を剛茎へと絡みつかせていくのだった。淫熱に染まった瞼の下、半ば開いた双眸に、どっぷりと酩酊の色を湛えて。 「ああ、いいですよ。怜子社長の舌」 熱烈な奉仕を受ける志藤はそんな快美の言葉を吐きながら、己が股座に取りついた麗しい義母の姿を眺めおろして。豊かな肢体を折りたたむようにした態勢の、滑らかな背中や掲げられた臀丘を撫でまわしていたが。 やがてゆっくりと、股間は怜子に委ねたまま、上体を後ろに倒していって、仰臥の姿勢に変わった。 「僕からも、お返ししますよ。そのまま、おしりをこちらにまわして、顔を跨いできてください」 「…………」 意図を理解するのに時間がかかった。 いわゆるシックスナインの体勢になれと志藤は指示しているのだった。それも、女が上になったかたちの。 「……いやよ」 短く、怜子は拒絶の言葉をかえした。かつての志藤との関係の中でも経験のない行為だった。その痴態を思い描くだけでも、恥ずかしさに首筋が熱くなる。 「今さら恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか、僕と社長の間で。やってみれば愉しめますよ、きっと。社長の熱い奉仕の御礼に、僕の舌でたっぷり感じさせてあげますよ」 ペラペラとまくしたてて、長く伸ばした舌の先で、宙に8の字を描いてみせる。その卑猥な舌先の動きに、怜子は目を吸い寄せられた。 「英理も、このプレイが好きなんですよ。愛を交わしてるって実感が湧くと言って。だから、怜子社長もきっと気に入りますよ」 「……なにが“だから”よ」 そう呟いて。しかし、のろのろと怜子の身体は動き始める。淫猥な舌のデモンストレーションと、科白の中に盛りこまれた気障りなひとつふたつの単語と、より効果を及ぼしたのは、どちらであったか。 突っ伏していた裸身がもたげられ、膝が男の脚を跨ぎ越して。そのまま、下半身を志藤の頭のほうへと回していく。 顔を跨ぐ前には躊躇をみせたが、さわりと腿裏を撫でた志藤の手に促されて、思い切ったように片脚を上げた。オス犬のマーキングのごとき恥態を、ニヤニヤと仰ぎ見る志藤の眼にさらして、 「ああっ」 淫らな相互愛撫の体勢が完成すると、怜子は羞辱の声をこぼして、四つ這いに男を跨いだ肢体の肉づきを震わした。 「ああ、絶景ですよ」 大袈裟な賛嘆の声を志藤が上げる。怜子の、はしたなく広げた股の下から。 「ふふ、大きな白い桃が、ぱっくりと割れて」 「……いやぁ…」 弱い声を洩らして、撫でさすられる臀丘をビクビクと慄かせる。戯れた喩えに、いま自分が晒している痴態を、分厚い臀肉をぱっくりと左右に割って秘苑の底まで男の鼻先に見せつけているのだということを、改めて突きつけられて。 「こんなに濡らして。おしゃぶりしながら、社長も昂奮してくれてたんですね?」 「……あぁ…」 「ああ、それにすごい匂いですよ。熟れたオンナの濃厚な発情臭、クラクラします」 「ああっ、やめて」 ネチネチとした言葉の嬲りにも、怜子はやはりか弱い声をこぼして、頭を揺らし腰をよじるばかり。志藤の意地悪い科白が、しかし偽りではなく、観察したままを述べているのだと判ったから。自覚できたから。 そして、恥辱に身悶えながら、怜子はその恥ずかしい態勢を崩そうとはしなかった。ひと通りの約束事のように言葉での嬲りを済ませた志藤が首をもたげて、曝け出された女裂へと口を寄せるのを察知すると、アアッと滾った叫びを迸らせて。男の顔を跨いだ逞しい太腿や双臀の肉づきをグッと力ませる。 息吹を感じた、その次の瞬間には、ピトリと軟らかく湿ったものが触れてきた。あられもない開脚の姿勢に綻んだ花弁に柔らかく触れた舌先が、複雑な構造をなぞるように這いまわって、纏わる女蜜を舐めずっていく。まずは、と勿体をつけるような軽い戯れに、 「……あぁ…」 怜子は蕩けた声をこぼして、涎に濡れた唇を震わした。男を跨いだ四肢から身構えの力みが消え、ぐっと重心が低くなっていく。 クンニリングスという行為自体が、これまでほとんど味わったことがないものだった。無論、怜子が拒んでいたからだったが。なれば、いま破廉恥な態勢で無防備に晒した秘裂に受ける男の舌の感触は、新鮮な刺激となって、すでに淫熱を孕んだ総身の肉を蕩かす。指とも違った優しく柔らかな接触が、ただ甘やかな快美を生んで、気だるく下肢を痺れさせるのだった。 だが、そのまま甘ったるい愉悦に揺蕩っていることを許されはしなかった。 ヒイッと甲走った叫びを上げて顎を反らしたのは、充血した肉弁を舐めずり進んだ舌先が女芯に触れたからだった。やはりぷっくりと血を集めた大ぶりな肉芽を、根こそぎ掘り起こすように、グルリと舌を回されて。峻烈すぎる感覚に、咄嗟に浮かし逃がそうとした臀の動きは、男の腕力に封じこまれて。容赦ない舌の蹂躙に、怜子はヒイヒイと悶え啼くばかりだったのだが。つと、志藤は、真っ赤に膨れ上がった肉真珠から舌先を離して、 「お互いに、ですよ」 と、優しげな声で言った。 云われて、難儀そうに眼を開く怜子。その眼前に、というより、男の股間に突っ伏した顔のすぐ横に、相変わらず隆々と屹立する長大な男根。ふてぶてしく、尊大に。獰悪な牡の精気を放射して。 両腕を踏ん張り体勢を戻して、大きく開いた口唇を巨大な肉瘤に被せていく。途端に口腔を満たす熱気と牡臭。反射的に溢れ出す唾液と、剛茎に絡みついていく舌。 「そう、それでいいんです」 傲岸にそう告げて、自身も舌の動きを再開する志藤。忽ち、怜子の塞がった口中で弾ける悦声。 ようよう、その態勢にそぐった相互愛撫が始まって。しかしそれは、拮抗したものにはならない。互いの急所に取りつきながら、攻勢と守勢は端から明らかで。 この娘婿の、女あしらいの技巧、女のカラダを蕩けさせ燃え上がらせる手管のほどを、怜子はまたも存分に思い知らされることになった。緩急も自在に秘裂を嬲る志藤の舌先は、悪辣なまでの巧緻さを発揮して。ことに、ひと際鋭敏な肉真珠に攻めが集中するときには、怜子は健気な反撃の努力さえ放棄して野太い剛直を吐き出した口から、はばかりのない嬌声を張り上げるのだった。そうしなければ、肉の悦楽を叫びにして体の外へ放出しなければ、破裂してしまうといった怖れに衝かれて。 そして、受け止めきれぬほどの快楽に豊満な肢体を悶えさせ、嫋々たる啼泣を響かせな��ら、怜子はその胸に熱い歓喜の情感をも湧かせていた。“愛を交わしてる実感”と、英理がこの痴戯を表したという言葉を思い起こし噛みしめて。確かに、互いに快楽の源泉を委ねあって口舌の愛撫を捧げあうこの行為には、そんな感覚に陥らせる趣向があった。懇ろな、志藤の舌の蠢きには“愛”とはいわぬまでも、確かな執着がこもっていると感じられて、怜子の胸に熱い感慨を掻き立てるのだった。 そんな心理のゆえだったろうか、 「……ああ……いい……」 ねっとりと、舌腹に包みこむように、また肉珠を舐め上げられたとき、怜子は快美をはっきりとした言葉にして吐き出していた。我知らず、ではなく、意識的に。 フッと、臀の下で志藤が笑う気配があって、 「言ったとおり、気に入ってくれたみたいですね」 愉しげにそう云って、 「ここも凄いことになってますよ。いやらしい蜜が、後から後から溢れ出して。ほら」 ジュル、と下品な音を立ててすすることで、溢出の夥しさを実証して、 「ああ、極上の味わいですね。濃厚で、芳醇で。熟成されてる」 「……あぁ…」 大仰で悪趣味な賞賛に、怜子は羞恥の声を返して。ブルリと揺らした巨臀の動きに、またひと滴の蜜液を、志藤の口へと零した。 淫情に烟った双眸が、鼻先にそそり立つ肉塊へと向けられる。赤黒い肉傘の先端、鈴口の切れこみからトロリと噴きこぼれた粘液に。 あなただって、と反駁の言葉を紡ぐ前に、口が勝手に動いていた。先端に吸いつき、ジュッと吸い上げる。その瞬間に鼻へと抜ける濃厚な精臭に酩酊の感覚を深めながら、剛茎を握った手指にギュッと力をこめて扱きたてる。もっと、と搾り出そうとする。 志藤が洩らした快美の呻きが怜子の胸を疼かせ、淫猥な作業にいっそうの熱をこめさせた。だが、そのすぐ後には、またジュルリと蜜汁を吸われる刺激に、喉奥でくぐもった嬌声を炸裂させることになる。 互いの体液を、欲望の先触れを啜りあうという猥雑な行為に耽りながら、怜子はまた“英理の言葉は正しい”という思いを過ぎらせていた。悔しさとともに。“あの子は、この愉悦を、ずっと――”と。そんな想念を湧かせてしまう、己が心のあさましさは、まだ辛うじて自覚しながら。そのドス黒い感情に煽り立てられて、いっそうの情痴に溺れこんでいく己が心と体を制御することまでは、もう出来ずに。
ともに大柄な体躯を重ね合った男女の姿を、壁際のドレッサーが映していた。汗みどろの肌を合わせ、互いの秘所に吸いつきあって、ひたすら肉悦の追求に没頭する動物的な姿を。 白く豊艶な肢体を男の体に乗せ上げた女が、また鋭い叫びを迸らせる。甲高い雌叫びの半ばを咥えていた巨大な屹立に直に吐きかけ、半ばを宙空に撒き散らした。隠れていた面が鏡面に映る。この瀟洒な化粧台の鏡が毎日映してきた顔、しかしいまは別人のように変わった貌が。淫情に火照り蕩け、汗と涎にまみれた、日頃の怜悧な落ち着きとはかけ離れたその様相を、鏡は冷ややかに映し出していた。 「……あぁ…」 男の顔の上で、こんもりと高く盛り上がった臀丘にビクビクと余韻の痙攣を刻みながら、怜子は弱い声を洩らした。 幾度目かの快感の沸騰をもたらして、志藤の舌はなおも蠢きを止めない。息を継ぐ暇も与えられず、怜子は目眩むような感覚に晒され続けた。これほどの執拗な嬲りは、かつての関係の中でも受けた記憶はなかった。当時のような時間の制限のない今夜の情事、“朝まで、たっぷりと”という宣告を志藤はさっそく実践しはじめたのだ、と理解して。どこまで狂わされてしまうのか、という怯えを過ぎらせながら、怜子は中断や休息を求める言葉を口にはしなかった。 爛れた愛戯に、際限なく高められていく淫熱、蕩かされていく官能。だが、その中心には虚ろがあった。 肉芽を嬲り続ける舌先は、しかしその攻めによって発情の蜜液を溢れさせる雌孔には触れようとしない。浴室での戯れ合いでそこに潜りこみ掻きまわした指は、悶えを打つ双臀を掴んだまま。 であれば、怜子の肉体に虚ろの感覚はいや増さっていくばかり。表層の快感を塗り重ねられるほどに、内なる疼きが際立っていって。無論すべて男の手管であることは承知しながら、怜子は眼前に反り返る尊大な剛肉に再び挑みかかっていくしかなかった。また唇に舌に味わう凶悪な特徴に、さらに肉の焦燥を炙られることまでわかっていても。その獰悪な牡肉こそが、それだけが、我が身の虚ろを満たしてくれるものだと知っていれば。 そうして、健気な奮戦は、あと数度、怜子が悦声を振り絞り肢体を震わすまで続いて、 「……ああっ、も、もうっ」 そして予定通りに終わった。ついに肉の焦燥に耐え切れなくなった怜子が、べったりと志藤の顔に落としていた臀を前へと逃したのだった。混じりあった互いの汗のぬめりに泳ぐように身体を滑らせて、腰に悩ましい皺を作りながら上体をよじり、懇願の眼を向ける。快楽に蕩けた美貌に渇望の気色が凄艶な迫力を添えて。 「いいですよ」 口許の汚れを拭いながら、志藤が鷹揚に頷く。頷きながら動こうとはせずに、迎えるように両腕を広げて。 その意味を理解すると、即座に怜子は動いた。反発も躊躇もなく。横に転がるように志藤の上から下りると、向きを変えて改めてその腰を跨いだ。示唆のとおり、騎乗位で繋がろうとする態勢になって。あられもなくガニ股開きになった両腿を踏ん張って、巨大な屹立へと向けて腰を落としていく。差し伸ばした手にそれを掴みしめ、照準を合わせるという露骨な振る舞いも躊躇なく演じて。灼鉄の感覚が触れたとき、半瞬だけ動きが止まったが、グッと太腿の肉づきを力ませて、そのまま巨臀を沈めていった。 「ああッ」 ズブリと巨大な先端を呑みこんで滾った声を洩らした、その刹那に、 (――たった、これだけのこと) そんな言葉が脈略もなく浮かび上がってきた。 「……あ……おお…」 沈みこませていった臀が志藤の腰に密着し、魁偉な肉根の全容を呑みこむと、怜子は低い呻きを吐いて。次いで、迫り上げてきた情感を堪えるために、ギッと歯を食いしばった。 臓腑を圧し上げられるような感覚。深く重い充足の心地。 身体を繋げるのは、今夜二度目だ。すでにリヴィングで、この長い夜の始まりの時点で情交を行い、怜子は絶頂にも達していた。 それなのに、いま“やっと”という感慨が怜子の胸を満たす。 と、志藤が、 「ああ。ようやく、ひとつになれたって気がしますね」 と云ったのだった。実感をこめた声音で。 「ああっ」 怜子が上げた声は歓喜の叫びだった。重たげな乳房を揺らしながら前のめりになって、両手を志藤の首にしがみつかせて、 「誰とも、してないわ」 泣くような声で、そう告げた。それは、さきの志藤の問いかけへの答えだった。“他の誰か”などという無神経な問いへの。そのときには、憤慨のままに返した曖昧な答えを、いまになって怜子は訂正したのだった。懸命な感情をこめて。 「嬉しいですよ」 志藤が笑む。そんなことは先刻承知といった顔で、 「ずっと、僕のことを待っていてくれたってわけですね」 傲慢な問いかけに、怜子は乱れた髪を揺らして頭を振った。縦にとも横にともつかず曖昧に。そのまま誤魔化すようにキスを求めた。 だが志藤は軽く唇を合わせただけで顔を逸らして、体を起こしていく。繋がったままの体位の変更、強靭な肉の楔に蕩けきった媚肉をゴリッと削られて、ヒッと喉を反らした怜子の身体を片手に抱きとめながら、対面座位のかたちをとる。やや不安定な態勢への変化に、怜子はさらに深く腕をまわして志藤の首にしがみつき、より強くなった結合感に熱い喘ぎを吐いた。志藤が顔を寄せれば、待ちかねたようにその口にむしゃぶりついていく。 卑猥な唾音と荒い鼻息を鳴らしての濃密なキスの最中に、志藤が大きく腰を弾ませた。上質なマットレスの反発を利した弾みは、直ちに繋がりあった部分に響いて、 「アアッ、ふ、深いぃっ」 生臭いようなおめきを怜子に振り絞らせる。 「ふふ、悪くないでしょう?」 愉しげに言って、志藤は両手に抱えこんだ巨臀を揺らし腰を跳ね上げて、深い突き上げを送りこむ。 「ん、ヒイッ、お、奥、刺さってっ」 「ええ、感じますよ。怜子社長の一番奥。オンナの源」 生々しい実感の吐露に、さらに煽り立てる��詞をかえして。双臀を抱えていた両手を、背と腰に撫で滑らせて、 「それに、このかたちだと、より愛しあっているって実感がわくでしょう?」 「ああっ、志藤くんっ」 歓喜に震える叫びを放って、ぎゅっと抱きついた腕に力をこめた。志藤が口にしたその実感を確かめるように抱擁を強くして、巨きな乳房を圧しつけ、背中や肩を愛しげに撫でまわす。若い男の逞しい体躯や硬い筋肉を、総身の肌を使って感じ取ろうとしながら、また口付けをねだっていく。 美しい義母の熱い求めに応じながら、志藤は“その呼び方も久しぶりだな”などと冷静な思考を過ぎらせて。熱烈に口に吸いついてくる怜子の頬越しに、壁際のドレッサーへと視線をやった。 鏡面に白い背姿が映し出されている。豊満で彫りの深い裸の肢体。ねっとりとした汗に輝く背中に乱れた髪を散らして。くびれた腰からこんもりと盛り上がる巨きくて分厚い臀が、淫らな揺れ弾みを演じている。男の腰を跨いだ逞しい両腿を踏ん張って、あられもなく左右に割った双臀の肉づきを、もりっもりっと貪婪な気色で歪ませながら、女肉を貫いた魁偉な牡肉を食らっている。不慣れな体位でありながら、淫蕩な気合を漲らせた尻腰の動きには、もう僅かにもぎこちなさは見受けられず。 戯れに、志藤が抱え直した巨臀をグリリとまわしてやれば、怜子の涎にまみれた口唇から音色の違った嬌声が噴きこぼれて。そして忽ちに、そのアクセントを取り入れていくのだった。鏡に映る熟れ臀の舞踊が、いっそう卑猥で露骨なものになっていく。ドスドスと重たげな上下動に、こねくるような円の動きを加えて。 「ああっ、いいっ」 自らの動きで、グリグリと最奥を抉りたてながら、怜子が快美を告げる。ギュッと志藤の首っ玉にしがみつき頬を擦りよせながら。 「僕もたまりませんよ。怜子社長の“中”、どんどん甘くなっていって」 偽りのない感覚を怜子の耳朶へと吹きかけながら、志藤は自分からの動きは止めていた。交接の運動はまったく怜子に任せて、その淫らな奮戦ぶりと溶解っぷりを眺め、実際にどんどん旨みを増していく女肉の味わいを堪能していた。 だから、 「――ああっ、ダメ、も、もうっ」 ほどなく、切迫した声を洩らして、ブルと胴震いを走らせはじめた怜子のさまを“追いこまれた”と表するのは適切ではなかっただろう。 「いいですよ。思いっきり飛んでください」 鷹揚に許しを与えて、だが志藤はそれに協力する動きはとらない。最後まで怜子ひとりの動きに任せて。 男の胡坐の中に嵌りこんだ淫臀の揺動が激しく小刻みになる。ひたすら眼前に迫った絶頂を掴みとろうとする欲求を剥き出しにして。そして、予兆を告げてから殆んど間もなく、 「あああっ、イクわ、イクぅッ――」 唸るような絶息の叫びを振り絞って、怜子は快楽の極みへと飛んだ。喉を反らし、汗に湿ったブルネットの髪を散らして。爆発的な愉悦、まさに吹き飛ばされそうな感覚が、男の体にしがみつかせた四肢に必死の力をこめさせた。 志藤もまた快美の呻きを吐きながら、熟れた女肉の断末魔の痙攣を味わっていた。この夜ここまでで最高の反応、蕩け爛れた媚肉の熱狂的な締めつけを満喫しながらであれば、ギリギリと背肌に爪を立てられる痛みも、腰を挟みこんだ逞しい両腿がへし折らんばかりの圧迫を加えてくるのも、愉快なアクセントと感じられた。ついに“本域”のアクメに到達した艶母が曝け出す悶絶の痴態、血肉のわななきと滾りを堪能して。 そして、その盛大な絶息の発作が鎮まりきらぬうちに、大きく腰を弾ませて突き上げを見舞った。 ヒイイッと悲鳴を迸らせて、志藤の腕の中で跳び上がるように背を伸ばした怜子が、 「アアッ、ま、待って、まだ、イッて、待ってぇッ」 「いいじゃないですか。何度でも」 くなくなと頭を揺らして、しばしの休息を乞うのには、声音だけは優しく冷酷な答えを返して。膂力にものをいわせて、抱えた巨臀をもたげては落としを繰り返した。 無慈悲な責めに、忽ちに怜子は追い詰められた。ほぼ連続しての絶頂に追い上げられ、獣じみた女叫びを振り絞り、総身の肉置を痙攣させた。それからガクリと、糸が切れたように脱力して、志藤の肩に頭を落とした。 そこでようやく志藤は攻め手を止める。怜子の乱れ髪の薫りを嗅ぎながら、荒い喘ぎに波打つ背中を労うように撫でて。重たくなったグラマラスな肢体を、丁重に後ろへと倒させていく。半ば意識を飛ばした怜子は、されるがままだったが。背中がベッドを感じると安堵したような息を吐いて、さらに身体を虚脱させた。 態勢の変化に浅くなった結合、そのまま志藤は剛直を抜き取った。その刹那、朦朧たる意識の中で艶めいた微妙な色合いの声を洩らした怜子を愉しげに見下ろしながら、その膝裏に手を差し入れ、長く肉感的な両肢を持ち上げ、さらに腹のほうへと押しやる。 大柄で豊かな裸身が屈曲位の態勢に折りたたまれて、情交直後の秘苑が明かりの下に開陳される。濃密な恥毛は汗と蜜液にベットリと絡まり固まって肉土手にへばりついていた。熟れた色合いの肉弁は糜爛の様相��ほどけ、その底まで曝け出している。媚孔は寸前まで野太いモノを咥えこんでいたという痕跡のままにしどけなく拡がって。そこから垂れ零れる淫蜜の夥しさと白く濁った色が、この爛熟の肉体の発情ぶりとヨガリっぷりをあからさまにしていた。まるですでに男の射精を受け止めたかのような有様だが、立ち昇る蒸れた臭気には、熟れきった雌の淫猥な生臭さだけが匂って。 「……あぁ…おねがい、少し休ませて…」 窮屈な態勢に、ようよう彼岸から立ち戻った怜子が懇願の言葉を口にした。薄く開いた双眸で志藤を見上げて。 「まだまだ。これからじゃないですか」 軽く怜子の求めをいなして、志藤が浮かせた腰を前へと進める。無論のこと、隆々たる屹立を保ったままの剛直を、開陳された女苑へと触れさせる。貫きにかかるのではなく、剛茎の腹で秘裂をヌラヌラと擦りたてながら、 「ようやく怜子社長のカラダもエンジンがかかってきたってところでしょう? 僕だって、まだ思いを遂げてませんしね」 「……あぁ…」 辛そうな、しかしどこか漫ろな声を零して。そして、怜子の視線はどうしようもなくそこへと、卑猥な玩弄を受けている箇所へと向かう。はしたない態勢に、これ以上なくあからさまにされた秘裂の上を、ヌルッヌルッと往還する肉塊へと。 「……すごい…」 思わず、といったふうに呟きが洩れた。その並外れた逞しさを改めて目に映し、淫らな熱を孕んだ部位に感じれば、つい今さっきまでの苛烈なまでの感覚も直ちに呼び起こされて。 「今度は僕も最後までイカせてもらいますよ」 「…………」 そう宣言した志藤が、片手に握った怒張の切っ先を擬して結合の構えをとっても、怜子はもう休息を求める言葉は口にしなかった。 膝裏を押さえつけていた志藤の手が足首へと移って、さらに深い屈曲と露骨な開脚の姿勢を強いた。羞恥と苦しさにあえかな声を洩らしながら、怜子の視線は一点に縫い止められていた。 真上から打ち下ろすような角度で、志藤がゆっくりと貫きを開始する。怜子はギリッと歯を噛みしばって、跳ね上がりかける顎を堪え、懸命に眼を凝らして、巨大な肉塊が己が体内に潜りこんでいくさまを見届けようと努めるのだったが。 休息を求めた言葉とは裏腹、ほんの僅かな中断にも待ち焦がれたといった様子で絡みついてくる媚肉の反応を味わいながらじわじわと侵攻していった志藤が、半ばから突然に一気に腰を叩きつけると、堪らず仰け反りかえった喉から獣じみたおめきをほとびらせて、 「ふ、深いぃッ」 生々しい実感を、また言葉にして吐き出した。宙に掲げられた足先が硬直して、形のよい足指がギュッとたわめられる。 「ええ。また奥まで繋がりましたよ。ほら」 そう言って、志藤が浮き上がった巨臀の上に乗せ上げた腰を揺する。それだけの動きに、またひと声咆えた怜子が、やっと見開いた眼で傲然と見下ろす男の顔を見やって、 「んん、アアッ、深い、ふかいのよっ、奥、奥までぇっ」 そう振り絞りながら、片手で鳩尾のあたりを掴みしめる。そこまで届いている、とは流石にありえないことだったが、それが怜子の実感であり。それをそのまま言葉にした女叫びには、その凄絶な感覚をもたらす圧倒的な牡肉への礼賛の響きがあった。そして、それほどに逞しく強靭な牡に凌される我が身への満悦、牝の光栄に歓喜するといった気色も滲んでいたのだった。忙しく瞬きながら、男の顔を仰ぎ見る双眸には、甘い屈服の情感が燃え立っていた。 そんな怜子の負けこみぶりを愉しげに見下ろして、志藤は仕上げにかかる。 最奥まで抉りこんだ剛直をズルズルと引き抜き、硬い肉エラで熱く茹った襞肉を掻き擦られる刺激に怜子を囀り鳴かせてから、ひと息に貫き通して、低く重い呻きを絞り出させる。べしっべしっと厚い臀肉を荒腰で打ち鳴らして、改めて肉根の長大さを思い知らせるような長い振幅のストロークを見舞えば、昂ぶりつづける淫熱に見栄も恥も忘れた義母はヒイヒイとヨガリ啼きオウオウと咆えながら、窮屈な姿勢に極められた肢体を揺らし、溶け爛れた女肉をわななかせて、必死に応えてきた。 だが、志藤の攻めが、深い結合のままドスドスと奥底を連打するものに切り替わると、 「アアッ、ダメ、私、またぁ」 もろくも切迫した声を上げて、もたげられた太腿の肥えた肉づきをブルブルと震わしはじめた。 と、志藤は抽送を弱めて、 「もう少し我慢してください」 そう言って、怜子の両脚を下ろし屈曲の態勢を直させて、体を前へと倒した。正常位のかたちに身体を重ねて、すかさず首を抱き唇を寄せてくる怜子に軽く応じてから、 「僕も、もうすぐなんで。一緒にイキましょう」 「……アアッ」 耳元に囁かれた言葉に、怜子は滾った声を放って、志藤の首にまわした腕に力がこもった。腰が震え、媚肉がキュッと収縮して咥えこんだモノを食い締めた。 だが志藤は、怜子が総身で示した喜びと期待に直ちに応えようとはせずに、 「ああ、でも、どうですかね」 と、思案する素振りを見せて、 「もちろん、いつものピルは用意してますけど。でも、いまや義理とはいえ母親になった女性に……ナカ出しまでしてしまうってのは、さすがに罪が深いかな?」 「ああっ」 と、怜子が上げた声は、今度は憤懣によるものだった。この期におよんでの見え透いた言いぐさ、底意地の悪さに苛立ったように頭を揺らして。そうしながら、素早くその身体が動いている。腕にはさらに力みがこもって、男の硬い胸を己が胸乳へと引き寄せ。解放されてベッドへと落ちていた両脚は、志藤の下半身へと絡みついていって、尻の後ろで足首を交差させたのだった。がっし、と。決して逃がさぬ、という意思を示して。 「わかりました」 志藤が頷く。すべて思惑どおりと満悦の笑みを浮かべて。 抽送がまた苛烈なものへと戻っていく。女を攻め立てよがり狂わせる腰使いから、遂情を目指したものへと気配を変じて。その変化を感じ取った怜子が高々と歓喜の叫びを張り上げて、 「来て、来てェッ」 あられもない求めの言葉を喚き散らした。娘婿たる男の精を乞いねだって、激しい律動へと迎え腰を合わせ、ぐっと漲りを強めた剛根を疼き悶える媚肉で食い締めるのだった。 「一緒に、ですよ」 ようよう昂ぶりを滲ませ、息を弾ませた声に念を押されれば、ガクガクと首を肯かせながら、 「は、早くぅっ」 切羽詰まった叫びを振り絞った。ギリギリと歯を食いしばって、臨界寸前にまで追い上げられた情感を堪える。男に命じられたから、ではなく、怜子自身の欲求、なんとしてもその瞬間を合致させたいという切実な希求が、僅かな余力を振り絞らせた。その必死の尽力が間断なく洩れ続ける雌叫びを異様なものとした。瀕死の野獣の唸りに、渾身の息みに無様に鳴る鼻音まで加わって。 平素の理知の輝きなど跡形もなく消失した狂態は、それほど長くは続かなかった。遂情を兆しているという志藤の言葉は偽りではなかったのだ。怜子の懸命の努力は報われ、願望は叶えられた。 低く重い呻きと同時に、最奥まで抉りこんだ剛直が脈動する。熱い波濤が胎奥を叩いて、その刹那に怜子が迸らせた咆哮は、やはり野獣じみて獰猛ですらあった。遠吠えのように長く長く尾を引いた。志藤の体にしがみつかせた両腕両脚が筋を浮き立たせて硬直する。 今夜ここまで欲望を抑えてきた志藤の吐精は盛大だった。熱狂的な雌孔の反応がさらにそれを助長した。揉みしぼるような女肉の蠕動を味わえば、志藤もまた“おおっ”と獣声を吐いて肉根を脈動させ、その追撃が怜子にさらなる歓悦の声を上げさせる。そんな連環の中に、こよなき悦楽を共有しあって。 やがて、ようやく欲望を吐き出し終えた志藤が脱力した体を沈ませた。重みを受けた怜子が微かな呻きを吐いて、男の背にまわした腕に一度ギュッと力がこもり、また弛緩していった。両脚も力を失って、ベッドへと滑り下りていった。 汗みどろの裸身を重ね、今度はしばし虚脱と余韻のときを共にして。 「……最高でした」 乱れ散らばったブルネットに顔を埋めたまま志藤が呟いた。率直な実感をこめた声で。 応えはない。 首を起こして見やれば、熱情に火照り淫らな汗に濡れた義母の面は、瞼を閉ざして、形のよい鼻孔と緩んだ唇を荒い呼吸に喘がせている。意識があるのかどうか判然としなかったが。 つと、その眦からこめかみへと、滴が流れた。 口を寄せ、チロリとその涙の粒を舐めとれば、ビクと微かな反応がかえって。 「これまでで、最高でしたね」 「…………」 今度は問いかけにして繰り返せば、うつつないままにコクと肯いた。 そっと唇を重ねる。強引な激しさも悪辣な技巧もない、ただ優しく触れるキスを贈れば、艶やかな唇は柔らかく解けて。 いまだ肉体を繋げたまま、義理の母親と娘婿は、快楽の余韻を引いた吐息を交わし合った
英理の特製ビーフシチューは今日も絶品の出来だった。 形ばかり志藤に付き合うつもりが、口をつければ空腹を刺激されてしまった。 「……こんな時間に食べてしまって」 結局少量とはいえ取り分けたぶんをほぼ食べ切って、日頃の節制を無にする行動だと後悔を呟く。 「いいじゃないですか。たっぷり汗をかいたあとだし」 「…………」 こちらは充分な量をすでに平らげた志藤が、ワインを飲みながら気楽に請け合う。いかにも女の努力を知らぬ男の無責任な言いぐさだったが。 不機嫌に睨みつけた怜子の表情は、志藤の言葉によって呼び起こされた羞恥心の反動だった。 たっぷりと激しく濃密なセックスに耽溺し、汗をしぼり体力を消耗して。そのあとに、空腹を満たすべく食事を(量はどうあれ、濃厚な肉料理を)摂っている。まるで動物の行動ではないか、と。欲求の充足だけを原理とした。 いまは、その爛れた媾いの痕跡を洗い流し、一応の身なりを整えていることが、せめてもの人がましさといえるだろうか。食事の前に再びシャワーを使って、いまはともにバスローブ姿で食卓についていた。 「……英理は主婦として完璧ね」 卓上に視線を落として、怜子はそう云った。美味しい料理は英理が作り置いていったもの。身にまとう清潔で肌触りのいいローブも英理が用意したものだ。 「そうですね」 「あなた、幸運だわ」 「それはもう、重々わかってますよ。いつも英理に言われてますから。こんな出来た嫁を手に入れた幸せを噛みしめろって。才色兼備で家事も万能、その上――」 ニッと、志藤は愉しげな笑みを浮かべて、 「美しくてセクシーな母親まで付いてくるんだから、と」 「…………」 「今夜こうして、その幸運を確認できたわけで。僕は本当に果報���ですよ」 ぬけぬけとそう言い放って満悦の表情を見せる志藤を、怜子はしばし無言で睨んで。ふうっと息を吐いて、感情を静めて、 「……今夜のことは」 軋るような声で言い出した。いま、やや迂遠な切り出しから告げようとしていた言葉を。 「弁解する気もないし、あなたを責める気もないわ。性懲りもなく、また過ちを犯した自分を恥じるだけよ。でも、こんなことは今夜かぎりよ」 「どうしてです? これは英理も望んでることなのに」 だから、別に“不義”を犯しているというわけでもない、と。 「……おかしいわよ、あなたたち」 「そうですかね? まあ、多少特殊な状況だとは思いますけど」 「……もう、いいわ」 嘆息まじりにそう言って、怜子は不毛な議論を打ち切った。 とにかく、告げるべき言葉は告げた、と。今夜の成り行きを、志藤との関係の再開の契機にするつもりなどないということ、志藤と英理の異常な企みに乗る気などないということは。 志藤は軽く首を傾げて、考える素振りを見せたが。その表情は、あまり真剣なものとは見えなかった。怜子を見つめる眼には、面白がるような、呆れるような色があった。 仕方がない、とは納得できてしまった。今夜、自分がさらした醜態を振り返れば。なにを今さら、と嘲られることは。 だが、他にどんな決断のしようがあるというのか? 狂乱のときが過ぎて、理性を取り戻したいまとなっては。 「本当にそれでいいんですか?」 志藤が訊いてくる。優しげな、気遣うような声で。 目顔で問い返しながら、その先の言葉はおよそ察しがついた。 「いえ、久しぶりに怜子社長と肌を合わせて、離れていた間に貴女が抱えこんでいた寂しさを、まざまざ感じとったというつもりになったもので。また明日から、そんな孤独な生活に戻ることを、すんなり受け容れられるのかな、って」 あくまで慇懃な口調で。いかにも言葉を選んだという婉曲な表現で。 「…………」 怜子は無言で侮辱に耐えた。やはり、受け止めるしかない屈辱なのだと言い聞かせて。志藤の挑発を無視することで決意を示そうとした。 志藤は、しばし怜子の表情を観察して、 「……そうですか」 と、嘆息して、 「それが怜子社長の意思なら仕方ないですが。僕としては残念だな。今夜あらためて、カラダの相性の良さを確認できたのに」 「……それが、決まり文句なのね」 怜子は言い返していた。沈黙を貫くはずが。声に冷笑の響きをこめはしたけれど。 かつての関係の中でも、幾度となく聞かされた台詞だった。それも、この男の手管のひとつなのだろうと怜子は理解していた。その圧倒的な牡としての“力”で女を打ち負かしたあとに、僅かばかり自尊心を救済して。そうすることで、よりスムーズに“靡き”へと誘導する。きっと、これまで攻略してきた��には決まって投げかけてきた言葉なのだろうと。 「そんなことはありませんよ。本当に、これほどセックスが合う相手は他にいないと思ってるんです」 「…………」 「だから、今夜かぎりってのは本当に残念ですけど。まあ、仕方ないですね」 そう云って、グラスに残ったワインを飲み干した。その行動と気配に、次の動きを察した怜子が、 「もう終わりにしてちょうだい」 と、先回りに頼んだ。 「もう充分でしょう? 私、疲れきっているのよ」 「まさか。夜はこれからじゃないですか」 あっさりと受け流した志藤が壁の時計を見やる。時刻は0時を三十分ほど過ぎたところ。 まだそんな時間なのか、というのが怜子の実感だった。この数時間のあまりに濃密な経緯に。 「シャワーを浴びてリフレッシュもしたし、お腹を満たしてエネルギーも補充できたでしょう? やっぱり時間の制約がないのはいいですね。こうしてゆっくりと愉しめるのは」 そう言って笑う志藤の逞しい体躯からは、若い雄の獰猛な精気が発散されはじめていて。 「もう無理よ、これ以上は」 その気配に怖気を感じて、怜子は懇願の言葉を続けた。 「本当に、クタクタに疲れ果てているのよ。若いあなたに激しく責められて……何度も……恥ずかしい姿をさらして……」 そう言ってしまってから、こみ上げた悔しさに頬を歪めた。それは自分の無惨な敗北ぶりを認める科白であったから。転々と場所を変えながらの破廉恥な戯れのはて、辿り着いた寝室で立て続けに二度、志藤の欲望を受け止めたという成り行きの中で、その行為の苛烈さだけでなく、それによって味わわされた目眩むような快楽、幾度となく追い上げられた凄絶な絶頂が、心身を消耗させたのだと。 だが表白することで改めて噛みしめた悔しさ惨めさが、何故か怜子を衝き動かして、 「わかってよ、志藤くん。私、若くはないのよ。……英理とは違うのよ」 そんな言葉を吐かせた。わざわざ、英理の名まで持ち出して。 「そんな弱音は怜子社長らしくないですね」 気楽に志藤は云って、 「英理は意外にスタミナがないんですよ。いつも、割と早々に音を上げてしまうんです。比べたら、怜子社長のほうがずっとタフだと思いますよ。相性がいい、セックスが合うというのは、それもあるんですよ」 「……なによ、それは」 それで賞賛のつもりなのか、と。単に、自分のほうが英理より淫乱で貪欲だと云っているだけではないか、と志藤を睨みつける。 つまり、戯言だと撥ねつけられずに、受け取ってしまっているのだった。妻の英理よりも義母である自分とのほうが肉体の相性がいい、などという不埒な娘婿の言葉を。 「御気に障りましたか? 率直な気持ちなんですが」 悪びれもせずに、志藤は、 「それを今夜かぎりと言われれば、名残を惜しまずにはいられませんよ。また後日って約束してもらえるなら、話は違いますけど」 「しつこいわよ。聞き分けなさい」 にべもない答えを返して。そうしながら、腕組みして考えを巡らす様子の志藤を、怜子は見やっていた。 「……やっぱり、なにか気障りなことを言っちゃいましたかね?」 窺うように志藤はそう訊いて、 「“美人の母親が付いてくる”なんて、確かに失礼な言いぐさでしたね。でもそれは、英理らしい尖った言い回しってだけのことですよ。もちろん僕は、怜子社長を英理の余禄だなんて思ってません。思うはずがないじゃないですか」 「……どうでもいいわよ、そんなことは」 深い溜め息とともに。どうしようもなくズレていると呆れ果てて。 だが、まるで見当違いの角度から宥めすかして、かき口説こうと熱をこめる志藤のしつこさを、疎ましいものとは感じなかった。 そも、それはまったく的外れな取り成しだったか? 件の英理の言葉を聞かされたとき、その逸脱ぶりに母親として暗澹たる思いをわかせつつ、女としての憤りを感じたことは事実。たった今の志藤の弁明に、その感情が中和されたことも。 ……不穏な心理の流れであることは自覚できた。だから怜子は、 「ねえ、明日には、あの子たちも帰ってくるのよ。英理はともかく、慎一には絶対に気取られるわけにはいかないわ」 あえて、その名前を口に出した。今夜ここまで、考えまい思い浮かべまいとしてきた息子の名を。 遠く離れた場所で、姉弟がどんな時間を過ごしているのかは、今は知りようがない。怜子としては、慎一を連れ出した英理の行動が、ただ自分に対する“罠”を仕掛けるためのものであったことを願うしかなかった。まさか、慎一にすべてを明かすなどと、そこまでの暴挙には出るまい、と祈る思いで。 とにかく、明日――日付としては、もう今日だ――帰宅した慎一に、異変を気づかれることだけは絶対に避けなければならない。たとえ……帰ってきた慎一が、すでに“事実”を知らされていたとしても。いや、そうであれば尚更に、今夜自分が犯した新たな過ちまで知られるわけにはいかない。すべての痕跡を消して、何事もなかった顔で、息子を迎えなければ。これ以上、際限もない志藤の欲望に付き合わされては、それも困難になってしまうだろう。 なんて、ひどい母親か、と深い慙愧の念を噛みしめる。性懲りもなく過ちを繰り返さなければ、こんな姑息な隠蔽に心をくだく必要もなかったのだ。 「ああ、慎一くん。なるほど」 名を出されて、存在を思い出したといったふうに志藤は呟いて、 「確かに、彼には今夜のことは知られたくないですよね。ええ、もちろん僕も協力しますよ」 と、軽く請け負って。 すっと立ち上がった。テーブルを回って怜子の傍らに立つと腕を掴んで強引に引き上げた。 ほとんど、ひと呼吸の間の素早い動きだったが。唐突な行動とは云えまい。先ほどから志藤は、しばしの休息を終えての情事の再開を求めていたのだから。 「放してっ」 振り払おうとする怜子の抗いは、男の腕力を思い知らされただけだった。 「まあまあ。ふたりが帰ってくるにしても、午前中ってことはないでしょう。まだもう少し愉しめますよ」 「ダメよっ」 “もう少し”などという約束を信じて、ここで譲ってしまえば。この獰猛な牡獣は、朝まででも欲望を貪り続けることだろうと正確に見通して。なにより、そんな予見に怯えながら、瞬く間に熱を孕んでいく我が身の反応が怜子には怖ろしかった。腰にまわった強い腕に引き寄せられ、さらに体熱と精気を近く感じれば、熱い痺れが背筋を這い上がってきて。その自らの身中に蠢き出したものに抗うように身もがき続けたのだったが。その必死の抵抗をあしらいながら顔を寄せた志藤が、 「いっそ、英理にも秘密にしましょうか?」 耳元に吹きかけた言葉の意外さに、思わず動きを止めて、その顔を見上げた。志藤はニンマリと愉しげに笑って、 「今夜は、なにも起こらなかった。怜子社長は普段通り帰宅したけれど、僕からのアプローチは断固として撥ねつけられて。その身体には指一本触れることが出来なかったって。明日帰ってきた英理にそう報告するんです」 「…………」 まだ意図が掴めず目顔で問い返す怜子に、志藤はさらに笑みを深め、声をひそめて、 「そうしておいて。僕らは、また秘密の関係を復活させる。どうです?」 「――なに、をっ」 瞬時、率直な驚きを浮かべた貌が、すぐに険しく強張る。睨みつける視線を平然と受け止めた志藤は気障りな笑みを消して、 「怜子社長は考えたことはありませんか? もし、あのとき英理に気づかれなかったら、あんなかたちで英理が介入してこなかったら。いまの僕と貴女の関係はどうなっていたかって」 「…………」 「僕は何度も考えましたよ。考えずにはいられなかったな。だって、本来僕が、なんとしても手に入れたいと望んだ相手は、須崎怜子という女性だったわけですから」 それは、この夜の始まりに口にした言葉に直結する科白だった。一年前の成り行きは、けっして怜子を捨てて英理を選んだということではなかった、という弁明に。静かだが熱のこもった声で、真剣な眼色で。だが繰り返したその表白に、いま志藤がこめる思惑は、 「だから、また貴女とあんな関係に戻れたらって。思わずにはいられないんです」 つまりは、改めて密かな関係を築こうという恥知らずな提案なのだった。怜子が、英理からの“招待”をどうしても受ける気がないというのであれば。その英理を除外して、またふたりだけの関係を作ろうじゃないか、と。 ぬけぬけと言い放った志藤の眼には、身勝手に思い描いた未来への期待の色が浮かぶように見えた。またその口ぶりには、それならば英理の構想する“三つ巴”の生活よりはずっと受け容れやすいだろう、という極めつけが聞き取れた。 「……呆れるわね」 短い沈黙のあとに怜子が吐き捨てた言葉には、しごく真っ当な怒りがこもった。どこまで節操がないのか、と。志藤を睨む眼つきが、さらに強く厳しいものになって。 しかし、その胸には混乱も生じていたのだった。英理への背信というべき提案を持ち出した志藤に。この若い夫婦は、自分を陥れ取り込むために結束していたのではなかったか。 無論、その厚顔な告白を真に受けるなど馬鹿げている、と心中に呟きながら、怜子は志藤へと向けた剣呑な視線の中に、探る意識を忍ばせてしまうのだった。冷淡な義母の反応に微かな落胆の息をついて、 「でも、それが僕の正直な想いなんですがね」 「…………」 尚もそう重ねた娘婿の瞳の奥に、その言葉の裏付けを探そうとしてしまうのだった。 志藤が口を寄せた。ゆっくり近づいてくるその顔を、怜子は睨み続けていた。唇が触れ合う寸前になって顔を横に逃がそうとしたが、意味はなかった。唇が重なりあってから、怜子は瞼を閉じた。 優しく丁重なキスを、ただ怜子は受け止めた。舌の侵入は許しても、自らの舌を応えさせはしなかった。 急にその息を乱させたのは、胸元から突き上げた鋭利な刺激だった。バスローブの下に潜りこんだ志藤の手が、たわわな膨らみを掬うように掴んでジンワリと揉みたてたのだった。 「は、離してっ」 「無理ですよ。もう手が離れません」 身をよじり、嬲りの手をもぎ離そうとする怜子の抵抗など歯牙にもかけずに、志藤が答える。弱い抗いを封じるように、ギュッと強く肉房を揉み潰して、怜子にウッと息を詰めさせると、またやわやわと懇ろな愛撫に切り替えて、 「この極上の揉み心地とも、今夜かぎりでまたお別れだなんて。どうにも惜しいな」 そうひとりごちて、せめてもその極上の感触を味わい尽くそうというように、手指の動きに熱をこめていく。 怜子はもう形ばかりの抵抗も示せずに、乳房への玩弄を受け止めていた。繊細な柔肉の、それにしても性急に過ぎる感応ぶりが抗いの力を奪っていた。瞬く間に体温が上昇して、豊かなブルネットの生え際には、はやジットリと汗が滲みはじめている。豊かな乳房の頂では、まだ直截の嬲りを受けない乳首がぷっくりと尖り立っていた。クタクタに疲れ果てていると、志藤に吐露した弱音は嘘偽りのない実感からのものだったが、疲弊した肉体の、しかしその感覚はひどく鋭敏になっていることを思い知らされた。 そんな我が身の異変に悩乱し、胸乳から伝わる感覚に背筋を痺れさせながらも、怜子は、 「でも、正直自信がないですよ。明日からまたこれまで通りの生活に戻っていけるかは」 半ば独り言のように喋り続ける志藤の声に、耳をそばだてていた。 すでに仕掛けている淫らな接触のとおり、これで解放してくれという怜子の懇請は完全に黙殺していたが。しかし、今夜かぎりにすることは受け容れた言いようになっている。つい先ほどまで“英理に隠れてでも”と関係の継続を迫ってきた位置から、あっさりと引き下がって。その唐突な距離の変化が怜子を戸惑わせ、耳を傾けさせるのだった。なにか……割り切れぬような尾を引いて。 「今夜、あらためて身体の相性のよさも確認できたっていうのに。それを、一夜だけの夢と納得しろだなんて。切ないですよ」 「…………」 志藤も、じっくりと聞き取らせようとするのだろう。乳房への嬲りを緩めた。そうされずとも、思惑は察することが出来たが。しかし口上を制止する言葉が出てこなかった。 身体――セックスの相性のよさ。この不埒な若い男の手に触れられただけで――たった今がそうであるように――情けないほどにたやすく燃え上がり蕩けていった己が肉体。淫猥な攻めの逐一に過剰なほどに感応して、振り絞った悦声、吹きこぼした蜜液。そして……かつてのこの男との記憶さえ凌駕してしまった、凄絶な情交――。 「だって、これからも僕らは、この家で一緒に暮らしていくわけですからね。怜子社長……いや、もう弁えて、お義母さんと呼ぶべきかな。とにかく、貴女の姿がいつもすぐそばにあるわけで。それじゃあ、今夜のことを忘れることなんて、とても」 「…………」 そう、同居生活は続いていく。今夜、なにもなかったと方をつけるなら、同居暮らしも何事もなく続いていくしかない。“ただの”娘婿に戻った志藤は、これまでのように妻である英理との仲睦まじさを見せつけるのだろう。その傍らにいる自分には、あくまで慇懃な態度で接し、“お義母さん”という正しい呼称もすぐに口に馴染ませて……。 「お義母さんが不在のときだって、同じことですよ。リビングのソファに座っていても、シャワーを使っていても、玄関ホールに立って、あの階段を見上げるだけでも、思い出さすにはいられない���しょう」 「……やめて」 やっと振り絞ることが出来た。 転々と、場所を移しながら繰り広げた痴態。我が家のそこかしこに刻んでしまった記憶。それを明日からの生活に引き摺っていかねばならないのは、無論志藤ひとりではない。 数瞬だけ志藤は黙って。そして付け加えた。 「まあ、お義母さんの寝室だけは、僕は二度と立ち入ることはないでしょうけど」 「…………」 そう。その場所は、また怜子だけのスペースになる。何処よりも濃密な記憶が蟠る、あの部屋は。 毎日の終わりに、たとえば湯上りの姿で戯れ合う志藤と英理を階下に残して、或いはすでにふたりが夫婦の寝室に引き上げたあとに。怜子はひとり階段を上り、あの部屋へ、あのベッドへと向かうのだ。 毎晩、ひとりで。 もちろん志藤は自らの嘆きを口にするというふりで、怜子に突きつけているのだった。頑なに拒絶を貫くのであれば、そんな毎日が待っているんですよ、と。 怜子はなにも言えなかった。並べ立てられた状況、情景のすべてが、あまりにも生々しく思い描けてしまって。 「僕にも、怜子社長のような強い意志が持てればいいんですけど。見習うのは難しいですね」 気まぐれにまた呼び方を戻して、やはりそちらのほうがよっぽどマシだと怜子の耳に感じさせながら、志藤は念を押してくる。その意志の強さ、矜持の高さによって、この一年あまりの時間を耐え抜いてきた怜子だが、その“実績”には感服するが。明日からも同じようにそれを続けていくことが本当に出来るのか、と。今夜を越えて、この一夜の記憶を抱えて。 と、志藤は無言で立ち竦む怜子の腰を強く引き寄せた。身体を密着させ、ローブ越しに硬く勃起した感触を押しつけて怜子に息を詰めさせ、乳房を揉み臀を撫でまわしながら、 「やっぱり、考え直してもらえませんか? ふたりだけの関係を再開すること」 未練を露わにした口調でそう問いかけた。またも突然に距離を詰めて。 「ダ、ダメよ」 荒々しい玩弄に身悶えながら、怜子は忽ちに弾む息の下から、 「英理に気づかれるわ」 そう口走って、即座に過ちに気づいた。違う、そうじゃない、と頭を振って、たった今の自分の言葉を打ち消そうとする。 だが志藤は、その怜子の失策に付け入ろうとはせずに、 「……そうですか」 ふうっと嘆息まじりにそう言って、両手の動きを止め、抱擁を緩める。密着していた腰も離れた。 「だったら、未練な気持ちが残らないように、このカラダを味わい尽くさせてもらいますよ」 今度こそ割り切って切り替えたといったような、どこか冷静な響きをたたえた声でそう言った。 「……ぁ…」 そんなふうに言い切られてしまうと、奇妙に切ないような情感が胸にわいて。怜子は無意識に伸ばしかけた手を力なく下へと落とした。 乳房と臀から離れた志藤の手がバスローブの腰紐を解くのを、怜子は沈黙のまま見下ろしていた。次いで、襟にかかった手が、肩を抜いて引き下ろしていくのにも抵抗しなかった。 ローブが床に落ち、熟れた見事な裸身が現れ出る。今度はダイニングを背景に、食卓を傍らに。その状況を意識せずにはいられないのだろう、怜子は羞恥の朱を上らせた顔を俯け肘を抱いて膝を擦り寄せるようにしていたが。その挙措とは裏腹に、爛熟した豊かな肢体は、迫り出すような肉感を見せつける。照明に照らされる白磁の肌には憔悴の陰りは窺えず、むしろ精気に満ちて艶やかな輝きを放つように見えた。 その義母の艶姿へと好色な目を向けながら、志藤は自分も脱いでいった。裸を晒すには、こちらもローブ一枚を取り去ればよかった。深夜の食卓で、そんな姿で義母と娘婿は向き合っていたということだ。 露わになった精悍な裸形へと奪われた視線をすぐに逸らした怜子だったが。すでに���ば以上の力を得た肉根を揺らしながら、志藤が再び腕を伸ばしてくると、 「ここではいやよ」 そう云って、後ずさった。もはや解放を願おうとはしなかったが、これ以上こんな場所で痴態を演じるのは嫌だと。 「じゃあ、部屋へと戻りますか」 あっさりと聞き入れて、さあ、と怜子を促しながら、志藤は唯一足元に残ったスリッパを脱ぎ捨てる。怜子も、裸にそれだけを履いた姿の滑稽さに気づいて、そっとスリッパから抜いた素足で床を踏んで。促されるまま踵をかえし歩き出して。ダイニングから廊下へと出かかったところで歩みを止め振りかえると、僅かな逡巡のあとに、 「……今夜だけ、よ…」 結局その言葉を口にした。まるでひとつ覚えだと自嘲しながら、あえてその台詞を繰り返したのは、志藤より自分自身に言い聞かせようとする心理だったかもしれない。その一線だけは譲ってはならないと。 それとも……まさか“今夜だけ”なのだからと、朝までの残された時間の中で自らのあさましい欲望を解放しきるための口実、免罪符として、という意識が働いたのか。 そんなはずはない、と打ち消すことは、いまの怜子には出来なかった。己が肉体に背かれるといったかたちで、無様な敗北を重ねた今夜のなりゆきのあとでは。 或いは――と、怜子は思索を進めてしまうのだった。自分の中の暗みを、奈落の底を覗きこんで。この期におよんでも自分からは放棄できないその防衛線を、圧倒的な牡の“力”で粉砕されることこそを、実は自分は望んでいるのではないか、と。 どうあれ、志藤には失笑されるだろうと思っていた。だが違った。志藤はじっと怜子の目の奥を見つめて、 「ええ」 と簡潔に頷いたのだった。その口許に、不敵な笑みを浮かべて。 眼を合わせていられずに、怜子は顔を戻した。己が鼓動を鮮明に感じた。 廊下に出る。再び怜子は、そこを裸の姿で往くのだ。二階の自室へと向かって。一度目と違ったのは、志藤がぴったりと隣りに寄り添ってきたことだった。横抱きに義母の腰を抱いて。歩きながら、その手が腰や臀を撫でまわしてくるのにも怜子は何も言わず、させておいた。すると志藤は、怜子の片手をとって、ブラブラといかにも歩くには邪魔くさそうに揺れている股間の逸物へと誘導した。怜子は抗わなかった。視線も前に向けたままだったが、軽く握るかたちになった己が手の中で、男の肉体がムクムクと漲りと硬さを増していくのは感じ取っていた。ほんの一、二時間前の二度の吐精など、この若い牡の活力には少しも影響していないことを確認させられて、忍びやかな息を鼻から逃がす。撫でまわされる臀肌がジワリと熱くなる。 かつての関係においての逢瀬は、裏通りのラブホテルの“ご休憩”を利用した、時間的に忙しないものだった、いつも。だから、この先は怜子にとって未知の領域だ。今から朝が来るまでの長い時間、若い英理でさえ音を上げ半ばでリタイアしてしまうという志藤の強壮ぶりに自分はつき合わされて、その“本領”を骨の髄まで思い知らされることになるのだ。中年女である自分には、到底最後までは耐え切れぬだろうが。それとも……英理よりもタフだろう、という志藤の無礼な見立てが、正しかったと証明してしまうことになるのだろうか? 胡乱な想念を巡らせているうちに、玄関ホールを通りすぎ階段に辿り着いた。腕を離した志藤が、先に上るように促す。確かに、ふたり並んで上るには窮屈ではあったが。 前回と同様に背後を気にしながら上りはじめた怜子の悩ましい巨臀の揺れ弾みを、今度はより近い距離から見上げていた志藤だったが、 「ああっ!?」 「堪りませんよ、このセクシーなヒップの眺め」 階段の途中で、やおらその揺れる双臀を両手で鷲掴んで怜子を引き止めると、滾った声でそう云って、スリスリと臀丘に頬を擦りつけた。 「な、なにっ!? いやっ、やめなさい……ヒイッ」 前のめりに態勢を崩して、上段のステップにつかまりながら、後ろへと首をねじった怜子が困惑した叫びを上げる。唐突な、志藤らしくもないといえる狂奔ぶりに驚きながらの制止の言葉が半ばで裏返った声に変わったのは、深い臀裂に鼻面を差しこんだ志藤が、ジュルッと卑猥な音を鳴らして秘芯を吸いたてたからだった。 「アッ、ヒッ、い、いやよ、やめてっ」 「怜子社長がいけないんですよ、あんなに悩ましくおしりを振って、僕を誘うから」 双臀のはざまから顔を上げ、かわりに揃えた二指を怜子の秘肉へと挿し入れながら、志藤が云った。 「ふ、ふざけないで、アアッ、イヤァッ」 「ふざけてなんていませんよ。ホラ、こんなにここを濡らして。この甘い蜜の匂いが僕を誘惑したんです」 そう言って、実証するように挿しこんだ指先をまわして、グチャグチャと音を立てる。 「ああ、いやぁ、こ、こんな場所で」 段差に乳房を圧し潰した態勢で、上段のステップにしがみついて、なんとか狼藉から逃れようとする怜子だったが。その身ごなしはまったく鈍重だった。掻きまわされ擦り立てられる媚肉から衝き上がる快美と、耳に届く淫猥な濡れ音が煽りたてる羞恥が、身体から力を奪うのだった。すでにそんなにも濡らしていたのだと、ダイニングでの手荒い玩弄も、また素っ裸でここまで歩かされたことも、自分の肉体が昂奮の材料として受け容れていたのだと暴き立てられることが。 やがて、秘肉を嬲る指の攻めが知悉した泣きどころに集中しはじめれば、怜子はもう形ばかりの逃避の動きさえ放棄して、ヒイヒイとヨガリの啼きに喉を震わせていた。ただ怜子は途中から、唇を噛んで声が高く跳ね上がるのを堪えようとした。こんな開けっ広げな場所で、という意識が手放しに嬌声を響かせることをはばからせたのだった。家内にはふたりだけという状況において無意味な抑制ではあったのだが、惑乱する心理がそうさせた。だがその虚しい努力によってくぐもった啼泣は、逆に淫らがましい響きを帯びて、妖しい雰囲気を演出していた。そして、悦声を堪える代わりといったように、裸身ののたうちは激しくなっていく。捧げるように高くもたげた巨臀を淫らに振りたくり、抉りたてる指のまわりに粘っこく回し、ボタボタと随喜の蜜汁をステップに垂れ零して。重たく垂れ落ちて揺れる乳房、時折段差に擦れる乳首から伝わる疼痛が、状況の破廉恥さを思い出させても、もうそれが燃え上がる淫情に水を差しはしなかった。裸で階段にへばりつき、むっくりと掲げた臀の割れ目から挿しこまれた男の手に秘裂を嬲られ淫らな蜜液をしぶかせている、といまの自分の狂態を認識することで、昂奮と快感はどこまでも高まっていくのだった。 だから、 「……ああ、部屋で、部屋に…」 嫋々たる快美の啼きにまじえて怜子が洩らしたその言葉には、さほどの切実さもこもらず。せいぜいが、はや迫りきた絶息の予感によって掻き起こされた理性の燃え滓の表出、といった程度のものだった。実情とすれば、怜子はもうこのままこの場でアクメの恥態を晒すことも――それを指ではなく、志藤の魁偉な肉体によって与えられることさえ、受け容れる状態に追いこまれていたのだったが。しかし、 「……そうですね」 ほとんどうわ言のような怜子のその言葉を、待っていたというように志藤はそう応じて。そして、彼女の中に挿しこんでいた指をスルリと引き抜いてしまったのだった。 ああ!? と驚愕の声を発して振り返った怜子に、照れたような顔を向けて、 「つい、ガキみたいに血気に逸ってしまいました。すみません」 そう謝ると、上げた足を突っ伏した怜子の体の横に突いて、そのままトントンと段飛ばしに、身軽に怜子の傍らをすり抜けて階段を上がった。 忙しく首をまわして怜子が見上げた先、数段上で振り向いて、 「さあ、早く部屋へ行きましょう。僕はもう待ち切れないんですよ」 朗らかにそう言って、とっとと階段を上っていく。怜子を助け起こしもせずに。こちらは硬く引き締まった尻を怜子に向けて。 「……あぁ……待って……」 呆然と虚脱した表情のまま、怜子は弱い声を洩らして。ようやくノロノロと動きはじめる。両手を突いたまま、這うようにして階段を上っていく。前腕や脛には赤くステップの跡がついて、逆に臀を掲げていたあたりのステップには転々と滴りの痕跡が残っていた。 また玩ばれたのだ、とは無論ただちに理解して。しかし今は怒りもわいてこなかった。怜子の感覚を占めるのは、燠火を掻き立てられて放り出された肉体の重ったるい熱さだけだった。意識には、仰ぎ見る視点のゆえに殊更に逞しく眼に映った志藤の裸身だけがあった。力の入らぬ足腰を踏ん張り態勢を起こしても、片手はステップに突いたまま、危うい足取りで上っていく。志藤のあとを追って。 志藤は待たない。速やかに階段を上りきると通路を進んで、最後に一度振り向き、クイクイと手招きしてみせて。そのまま部屋の中へと入っていった。 ようよう二階まで上がった怜子が、開け放たれたドアを目指し、のめるような足取りで進んでいく。追いたてられるのではなく追いかけて、自分の寝室へと向かっていく。 白く豊艶な裸身が室内へと消えていき、その勢いのままに引かれたドアがバタンと不作法な音を立てて閉ざされた。その場は、束の間、深更の静かさを取り戻した。閉ざされたドアの向こうから、艶めいた音声が洩れ聴こえはじめるまでの僅かな間――。
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toshihikokuroda · 3 years
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2021とくほう・特報 カジノ解禁 突き進む自公政権 自治体申請来月1日から 国民の猛反対無視 2021年9月22日【3面】
最悪の新自由主義 破たん  カジノを中核とする統合型リゾート(IR)をめぐり、政府は誘致自治体の国への認定申請を10月1日から行うとしています。カジノ反対の強い民意に背き、決まったスケジュールをそのまま進むかのような自公政権に批判が広がることは必至です。(竹腰将弘)
 カジノをめぐり、この間、二つの大きな出来事がありました。
 一つはカジノ誘致の最有力候補とされてきた横浜市にカジノ反対の市長が誕生(8月22日)したこと。もう一つは、カジノ汚職事件で秋元司衆院議員(自民党離党)に東京地裁が実刑判決(7日)を言い渡したことです。
 市民の力でカジノ誘致構想をはね返した横浜市、金まみれ・利権まみれのカジノの実態を示した東京地裁判決は、いずれもカジノ推進勢力に痛打を与えるものでした。
 内閣のIR担当である赤羽一嘉国交相(公明党)は記者会見でそれへの受け止めを問われました。しかし、まともなコメントはせず、「今予定されているスケジュールに沿って、必要な準備を進めてまいりたい」(8月27日)、「国会の審議を経て成立したIR整備法(カジノ実施法)に基づいて、プロセスに従い、着々と必要な準備を進める」(7日)と従来方針通り、カジノ解禁への国のスケジュールを進める考えを示しただけでした。
矛盾次つぎ  カジノ誘致は、誘致を希望する自治体の「手あげ」方式になっています。誘致自治体は提携先となるカジノ事業者を選定し、IRの事業計画である「区域整備計画」を策定したうえ、議会の議決を経て、それを国に申請します。(図参照)
 国は当初、申請期間を今年1月からとすることをもくろんでいました。しかし、新型コロナ感染症の拡大などで9カ月先送りせざるをえなくなり、10月1日からになりました。期限までに申請があったものについて、国が審査し、国土交通相が3カ所までを認可するという仕組みです。
 現在、誘致を正式に表明しているのは大阪府・市、和歌山県、長崎県の3自治体。いずれの自治体もカジノ事業者の選定をほぼ終えています。
 選定作業の最終段階で候補事業者の脱落が相次ぎ、和歌山、長崎で決まった事業者は、IRの運営能力があるのか疑問視されています。
 大阪府・市の場合も、コロナの影響で事業者の財務状況が悪化し、事業計画の提出が遅れに遅れるなど、さまざまな矛盾が指摘されています。
“賭博政治”  刑法が禁じる賭博場であるカジノの解禁は、「もうかるなら何をやってもいい」という最悪の新自由主義政策です。
 安倍晋三前首相は、「日本の成長戦略の目玉」(2014年5月30日、視察先のシンガポールで)と、カジノ解禁を国策に位置付けました。米国のカジノ企業を最大の支援者とするトランプ大統領の圧力を受けながら、カジノ解禁推進法(16年12月)、カジノ実施法(18年7月)のカジノ2法を自民、公明、維新の多数で強行しました。
 菅義偉首相は「わが国が観光先進国となる上で重要な取り組みである」(20年10月28日、衆院本会議)と安倍路線を引き継ぎ、カジノ推進の旗を振り続けました。
 新型コロナ感染症拡大のなか、世界のカジノは閉鎖、入場規制が続いています。典型的な“3密”空間のカジノに客を詰め込み、賭博を続けさせるというビジネスが、すでに過去のものになりつつあります。
 ギャンブル依存症、多重債務、汚職・腐敗やマネーロンダリング(資金洗浄)など反社会的な勢力の介入など、多くの社会的害悪をまき散らすカジノを成長戦略に位置付ける“賭博政治”との決別が求められています。
法制廃止の議論いまこそ 全国カジノ賭博場設置反対連絡協議会事務局長 吉田哲也弁護士  日本のカジノは、海外観光客呼び込みに役立つということを大義名分にして構想されました。ところが、コロナ禍により海外観光客数の回復は絶望的であり、また、オンライン時代の到来によりそもそも大型観光施設を目玉にしたビジネスモデルの優位性にも疑問が生じています。
 カジノ事業者が次々と撤退するなかで、顧客安全を重視した競争原理は期待できず、足元をみられている誘致自治体はカジノ依存対策の安売りをせざるをえない状況が発生しています。また、以前から懸念していたカジノ利権に基づく汚職事件も発覚しています。
 カジノ法成立時には想定していなかった事態が生じているのですから、ここでいったん立ち止まって、カジノ合法化のデメリットを再検討し、カジノ法制の廃止の議論をしてほしいものです。
(しんぶん赤旗、2021年9月22日)
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yo4zu3 · 5 years
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やさしい光の中で(柴君)
(1)ある日の朝、午前8時32分
 カーテンの隙間から細々とした光だけがチラチラと差し込む。時折その光は強くなって、ちょうど眠っていた俺の目元を直撃する。ああ朝だ。寝不足なのか脳がまだ重たいが、朝日の眩しさに瞼を無理矢理押し上げる。隣にあったはずの温もりは、いつの間にか冷え切った皺くちゃのシーツのみになっていた。ちらりとサイドテーブルに視線を流せば、いつも通り6時半にセットしたはずの目覚まし時計は、あろうことか針が8と9の間を指していた。
「チッ……勝手に止めやがったな」
 独り言のつもりで発した声は、寝起きだということもあり少しだけ掠れていた。それにしても今日はいつもに増して喉が渇いている。眠気眼を擦りながら、キッチンのほうから漂ってくる嗅ぎ慣れた深入りのコーヒーの香りに無意識に喉がこくりと鳴った。
 おろしたてのスウェットをまくり上げぼりぼりと腹を掻きながら寝室からリビングに繋がる扉を開けると、眼鏡をかけた君下は既に着替えてキッチンへと立っていた。ジューという音と共に、焼けたハムの香ばしい匂いが漂っている。時折フライパンを揺すりながら、君下は厚切りにされたそれをトングで掴んでひっくり返す。昨日実家から送ってき��荷物の中に、果たしてそんなハムが入っていたのだろうか。どちらにせよ君下が普段買ってくるスーパーのタイムセール品でないことは一目瞭然だった。
「おう、やっと起きたか」 「おはよう。てか目覚ましちゃんと鳴ってた?」 「ああ、あんな朝っぱらからずっと鳴らしやがって……うるせぇから止めた」
 やっぱりか、そう呟いた俺の言葉は、君下が卵を割り入れた音にかき消される。二つ目が投入され一段と香ばしい音がすると、塩と胡椒をハンドミルで少し引いてガラス製の蓋を被せると君下の瞳がこっちを見た。
「もうすぐできる。先に座ってコーヒーでも飲んどけ」 「ん」
 顎でくい、とダイニングテーブルのほうを指される。チェリーウッドの正方形のテーブルの上には、今朝の新聞とトーストされた食パンが何枚かと大きめのマグが2つ、ゆらゆらと湯気を立てていた。そのうちのオレンジ色のほうを手に取ると、思ったより熱くて一度テーブルへと置きなおした。丁度今淹れたところなのだろう。厚ぼったい取手を持ち直してゆっくりと口を付けながら、新聞と共に乱雑に置かれていた郵便物をなんとなく手に取った。  封筒の中に混ざって一枚だけ葉書が届いていた。君下敦様、と印刷されたそれは送り主の名前に見覚えがあった。正確には差出人の名前自体にはピンと来なかったが、その横にご丁寧にも但し書きで元聖蹟高校生徒会と書いてあったから、恐らくは君下と同じ特進クラスの人間なのだろうと推測が出来た。
「なんだこれ?同窓、会、のお知らせ……?」
 自分宛ての郵便物でもないのに中身を見るのは野暮だと思ったが、久しぶりに見る懐かしい名前に思わず裏を返して文面を読み上げた。続きは声に出さずに視線だけで追っていると、視界の端でコトリ、と白いプレートが置かれる。先程焼いていたハムとサニーサイドアップ、適当に千切られたレタスに半割にされたプチトマトが乗っていた。少しだけ眉間に皺が寄る。
「またプチトマトかよ」 「仕方ねぇだろ。昨日の残りだ。次からは普通のトマトにしてやるよ」
 大体トマトもプチトマトも変わんねぇだろうが、そう文句を言いながらエプロンはつけたままで君下は向かいの椅子に腰かけた。服は着替えたものの、長い前髪に寝ぐせがついて少しだけ跳ねあがっている。
「ていうか同じ高校なのになんで俺には葉書来てねぇんだよ」
 ドライフラワーの飾られた花瓶の横のカトラリー入れからフォークを取り出し、小さな赤にざくり、と突き立てて口へと放り込む。確かにクラスは違ったかもしれないが、こういう公式の知らせは来るか来ないか呼びたいか呼びたくないかは別として全員に送るのが礼儀であろう。もう一粒口に含み、ぶちぶちとかみ砕けば口の中に広がる甘い汁。プチトマトは皮が固くて中身が少ないから好きではない。やっぱりトマトは大きくてジューシーなほうに限るのだ。
「知らねぇよ……あーあれか。もしかして、実家のほうに来てるんじゃねぇの」 「あ?なんでそっちに行くんだよ」 「まあこんだけ人数いりゃあ、手違いってこともあるだろ」 「ったく……ポンコツじゃねぇかこの幹事」
 覚えてもいない元同級生は今頃くしゃみでもしているだろうか。そんなどうでもいいことが頭を過ったが、香ばしく焼き上げられたハムを一口大に切って口に含めばすぐに忘れた。噛むと思ったよりも柔らかく、スモークされているのか口いっぱいに広がる燻製臭はなかなかのものだ。いつも通り卵の焼き加減も完璧だった。
「うまいな、ハム。これ昨日の荷物のか?」 「ああ。中元の残りか知らないけど、すげぇいっぱい送って来てるぞ。明日はソーセージでもいいな」
 上等な肉を目の前に、いつもより君下の瞳はキラキラしているような気がした。高校を卒業して10年経ち、あれから俺も君下も随分大人になった。それでも相変わらず口が悪いところや、美味しいものに素直に目を輝かせるところなんて出会った頃と何一つ変わってなどいなかった。俺はそれが微笑ましくもあり、愛おしいとさえ思う。あとで母にお礼のラインでも入れて、ああ、それとついでに同窓会の葉書がそっちに来ていないかも確認しておこう。惜しむように最後の一切れを噛み締めた君下の皿に、俺の残しておいた最後の一切れをくれてやった。
(2)11年前
 プロ入りして5年が経とうとしていた。希望のチームからの誘いが来ないまま高校生活を終え、大学を5年で卒業して今のチームへと加入した。  過酷な日々だった。  一世代上の高校の先輩・水樹は、プロ入りした途端にその目覚ましい才能を開花させた。怪物という異名が付き、十傑の一人として注目された高校時代など、まだその伝説のほんの序章の一部に過ぎなかった。同じく十傑の平と共に一年目から名門鹿島で起用されると、実に何年振りかのチームの優勝へと大いに貢献した。日本サッカーの新時代としてマスメディアは大々的にこのニュースを取り上げると、自然と増えた聖蹟高校への偵察や取材の数々。新キャプテンになった俺の精神的負担は増してゆくのが目に見えてわかった。
 サッカーを辞めたいと思ったことが1度だけあった。  それは高校最後のインターハイの都大会。前回の選手権の覇者として山の一番上に位置していたはずの俺たちは、都大会決勝で京王河原高校に敗れるという失態を犯した。キャプテンでCFの大柴、司令塔の君下の連携ミスで決定機を何度も逃すと、0-0のままPK戦に突入。不調の君下の代わりに鈴木が蹴るも、向こうのキャプテンである甲斐にゴールを許してゲーム終了、俺たちの最後の夏はあっけなく終わりを迎えた。  試合終了の長いホイッスルがいつまでも耳に残る中、俺はその後どうやって帰宅したのかよく覚えていない。試合を観に来ていた姉の運転で帰ったのは確かだったが、その時他のメンバーたちはどうしたのかだとか、いつから再びボールを蹴ったのかなど、その辺りは曖昧にしか覚えていなかった。ただいつまでも、声を押し殺すようにして啜り泣いている、君下の声が頭から離れなかった。
 傷が癒えるのに時間がかかることは、中学選抜で敗北の味を知ったことにより感覚的に理解していた。君下はいつまでも部活に顔を出さなかった。いつもに増してボサボサの頭を掻き乱しながら、監督は渋い声で俺たちにいつものように練習メニューを告げる。君下のいたポジションには、2年の来須が入った。その意味は、直接的に言われなくともその場にいた部員全員が本能的に理解していたであろう。
『失礼します、監督……』
 皆が帰ったのを確認して教官室に書き慣れない部誌と共に鍵を返しに向かうと、そこには監督の姿が見えなかった。もう出てしまったのだろうか。一度ドアを閉めて、念のため職員室も覗いて行こうと校舎のほうへと向かう途中、どこからか煙草の香りが鼻を掠める。暗闇の中を見上げれば、ほとんどが消灯している窓の並びに一か所だけ灯りの付いた部屋が見受けられる。半分開けられた窓からは、乱れた黒髪と煙草の細い煙が夜の空へと立ち上っていた。
『お前まだ居たのか……皆は帰ったか?』 『はい、監督探してたらこんな時間に』
 部誌を差し出すと悪いな、と一言つけて監督はそれを受け取る。喫煙室の中央に置かれた灰皿は、底が見えないほどの無数の吸い殻が突き刺さり文字通り山となっていた。監督は短くなった煙草を口に咥えると、ゆっくりと吸い込んで零れそうな山の中へと半ば無理やり押し込み火を消した。
『君下は……あいつは辞めたわけじゃねぇだろ』 『お前がそれを俺に聞くのか?』
 監督は伏せられた瞳のまま俺に問い返す。パラパラと読んでいるのかわからないほどの速さで部誌をめくり、白紙のページを最後にぱたりと閉じた。俺もその動きを視線で追っていると、クマの濃く残る目をこちらへと向けてきた。お互いに何も言わなかった。  暫くそうしていると、監督は上着のポケットからクタクタになったソフトケースを取り出して、残りの少ないそれを咥えると安物のライターで火をつけた。監督の眼差しで分かったのは、聖蹟は、アイツはまだサッカープレーヤーとして死んではいないということだった。
 迎えの車も呼ばずに俺は滅多に行かない最寄り駅までの道のりを歩いていた。券売機で270円の片道切符を購入すると、薄明るいホームで帰路とは反対方向へ向かう電車を待つ列に並ぶ。間もなく電車が滑り込んできて、疲れた顔のサラリーマンの中に紛れ込む。少し混みあっていた車内でつり革を握りしめながら、車内アナウンスが目的の駅名を告げるまで瞼を閉じていた。  あいつに会いに行ってどうするつもりだったのだろう。今になって思えば、あの時は何も考えずに電車に飛び乗ったように思える。ガタンゴトンとレールを走る音を聞きながら、本当はあの場所から逃げ出したかっただけなのかもしれない。疲れた身体を引きずって帰り、あの日から何も変わらない敗北の香りが残る部屋に戻りたくないだけなのかもしれない。一人になりたくないだけなのかもしれない。
『次はー△△、出口は左側です』
 目的地を告げるアナウンスで思考が現実へと引き戻された。はっとして、閉まりかけのドアに向かって勢いよく走った。長い脚を伸ばせばガン、と大きな音がしてドアに挟まる。鈍い痛みが走る足を引きずりながら、再び開いたドアの隙間からするりと抜け出した。
 久しぶりに通る道のりは、いくつか電灯が消えかけていて薄暗く、不気味なほど人通りが少なかった。古い商店街の一角にあるキミシタスポーツはまだ空いているだろうか。スマホの画面を確認すれば、午後8時55分を指していた。営業時間はあと5分あるが、あの年中暇な店に客は一人もいないであろう。運が悪ければ既にシャッタは降りているかもしれない。
『本日、休業……だあ?』
 計算は無意味だった。店のシャッターに張り付けられた、チラシの裏紙には妙に整った字でお詫びの文字が並んでいた。どうやらここ数日間はずっとシャッターが降りたままらしいと、通りすがりの中年の主婦が店の前で息を切らす俺に親切に教えてくれた。ついでにこの先の大型スーパーにもスポーツ用品は売ってるわよ、と要らぬ情報を置いてその主婦は去っていった。こうやって君下の店の売り上げが減っていくという、無駄な情報を仕入れたところで今後使う予定が来るのだろうか。店の二階を見上げるも、君下の部屋に灯りはない。
『ったく、あの野郎は部活サボっといて寝てんのか?』
 同じクラスのやつに聞いても、君下のいる特進クラスは夏休み明けから自主登校となっているらしい。大学進学のためのコースは既に3年の1学期には高校3年間の教科書を終えており、あとは各自で予備校に行くなり自習するなりで受験勉強に励んでいるようだ。当然君下以外に強豪運動部に所属している生徒はおらず、クラスでもかなり浮いた存在だというのはなんとなく知っていた。誰もあいつが学校に来なくても、どうせ部活で忙しいぐらいにしか思わないのだ。  仕方ない、引き返すか。そう思い回れ右をしたところで、ある一つの可能性が脳裏に浮かぶ。可能性なんかじゃない。だがなんとなくだが、あいつがそこにいるという確信が、俺の中にあったのだ。
『くそっ……君下のやつ!』
 やっと呼吸が整ったところで、重い鞄を背負うと急いで走り出す。こんな時間に何をやっているのだろう、と走りながら我ながら馬鹿らしくなった。去年散々走り込みをしたせいか、練習後の疲れた身体でもまだ走れる。次の角を右へ曲がって、たしかその2つ先を左――頭の中で去年君下と訪れた、あの古びた神社への道のりを思い出す。そこに君下がいる気がした。
『はぁ……はぁっ……っ!』
 大きな鳥居が近づくにつれて、どこからか聞こえるボールを蹴る音に俺の勘が間違っていない事を悟った。こんなところでなにサボってんだよ、そう言ってやるつもりだったのに、いざ目の前に君下の姿が見えると言葉を失った。  あいつは、聖蹟のユニフォーム姿のままで、泥だらけになりながら一人でドリブルをしていた。  自分で作った小さいゴールと、所々に置かれた大きな石。何度も躓きながらも起き上がり、懸命にボールを追っては前へ進む。パスを出すわけでもなく、リフティングでもない。その傷だらけの足元にボールが吸い寄せられるように、馴染むように何度も何度も同じことを繰り返していた。
『ハッ……馬鹿じゃねぇの』
 お前も俺も。そう呟いた声は己と向き合っている君下に向けられたものではない。  あいつは、君下はもう前を向いて歩きだしていた。沢山の小さな石ころに躓きながら、小さな小さなゴールへと向かってその長い道のりへと一歩を踏み出していた��俺は君下に気付かれることがないように、足音を立てないようにして足早に神社を後にした。  帰りの電車を待つベンチに座って、ぼんやりと思い出すのは泥だらけの君下の背中だった。前を向け喜一、まだやれることはたくさんある。ホームには他に電車を待つ客は誰もいなかった。
(3)夕食、22時半
 気付けば完全に日は落ちていて、コートを照らすスタンドライトだけが暗闇にぼんやりと輝いていた。  思いのほか練習に熱中してしまったようで、辺りを見渡せば先輩選手らはとっくに自主練を切り上げて帰路に着いたようだった。何の挨拶もなしに帰宅してしまったチームメイトの残していったボールがコートの隅に落ちているのを見つけては、上がり切った息を整えながらゆったりと歩いて拾って回った。
 倉庫の鍵がかかったのを確認して誰もいないロッカールームへ戻ると、ご丁寧に電気は消されていた。先週は鍵がかけられていた。思い出すだけで腹が立つが、もうこんなことも何度目になった今ではチームに内緒で作った合鍵をいつも持ち歩くようにしている。ぱちり、スイッチを押せば一瞬遅れて青白い灯りが部屋を照らした。
 大柴は人に妬まれ易い。その容姿と才能も関係はあるが、自分の才能に胡坐をかいて他者を見下しているところがあった。大口を叩くのはいつものことで、慣れた友人やチームメイトであれば軽く受け流せるものの、それ以外の人間にとってみれば不快極まりない行為であることは間違いない。いつしか友人と呼べる存在は随分と減り、クラスや集団では浮いてしまうことが常であった。  今のチームも例外ではない。加入してすぐの公式戦にレギュラーでの起用、シーズン序盤での怪我による離脱、長期のリハビリ生活、そして残せなかった結果。大柴加入初年度のチームは、最終的に前年度よりも下回った順位でシーズンの幕を閉じることになった。それでも翌年からも大柴はトップに居座り続けた。疑問に思ったチームメイトやサポーターからの非難や、時には心無い中傷を書き込まれることもあった。ゴールを決めれば大喝采だが、それも長くは続かない。家が裕福なことを嗅ぎつけたマスコミにはある事ない事を週刊誌に書き並べられ、誰もいない実家の前に怪しげな車が何台も止まっていることもあった。  だがそんなことは、大柴にとって些細なことだった。俺はサッカーの神様に才能を与えられたのだと、未だにカメラの前でこう言い張ることにしている。実はもう一つ、大柴はサッカーの神様から貰った大切なものがあったが、それを口にしたことはないしこれからも公言する日はやって来ないだろう。
「ただいまぁー」 「お帰り、遅かったな」
 靴を脱いでつま先で並べると、靴箱の上の小さな木製の皿に車のキーを入れる。ココナッツの木から作られたそれは、卒業旅行に二人でハワイに行ったときに買ったもので、6年間大切に使い続けている。玄関までふわりと香る味噌の匂いに、ああやっとここへ帰ってきたのだと実感する。大股で歩きながらジャケットを脱ぎ、どさり、とスポーツバッグと共に床へ投げ出すと、倒れ込むように革張りのソファへとダイブした。
「おい、飯出来てるから先に食え。手洗ったか?」 「洗ってねぇ」 「ったく、何年も言ってんのにちっとも学習しねぇ奴だな。ほら、こっち来い」
 君下は洗い物をしていたのか、泡まみれのスポンジを握ってそれをこちらに見せてくる。この俺の手を食器用洗剤で洗えって言うのか、そう言えばこっちのほうが油が落ちるだとか、訳の分からない理論を並べられた。つまり俺は頑固汚れと同じなのか。
「こんなことで俺が消えてたまるかよ」 「いつもに増して意味わかんねぇな。よし、終わり。味噌汁冷める前にさっさと食え」
 お互いの手を絡めるようにして洗い流していると、背後でピーと電子音がして炊飯が終わったことを知らせる。俺が愛車に乗り込む頃に一通連絡を入れておくと、丁度いい時間に米が炊き上がるらしい。渋滞のときはどうするんだよ、と聞けば、こんな時間じゃそうそう混まねぇよ、と普段車に乗らないくせにまるで交通事情を知っているかのような答えが返ってくる。全体練習は8時頃に終わるから、自主練をして遅くても10時半には自宅に着けるように心掛けていた。君下は普通の会社員で、俺とは違い朝が早いのだ。
「いただきます」 「いただきます」
 向かい合わせの定位置に腰を下ろし、二人そろって手を合わせる。日中はそれぞれ別に食事を摂るも、夕食のこの時間を二人は何よりも大事にしていた。  熱々の味噌汁は俺の好みに合わせてある。最近は急に冷え込んできたから、もくもくと上る白い湯気は一段と白く濃く見えた。上品な白味噌に、具は駅前の豆腐屋の絹ごし豆腐と、わかめといりこだった。出汁を取ったついでにそのまま入れっぱなしにするのは君下家の味だと昔言っていた。
「喜一、ケータイ光ってる」 「ん」
 苦い腸を噛み締めていると、ソファの上に置かれたままのスマホが小さく震えている音がした。途切れ途切れに振動がするので、電話ではないことは確かだった。後ででいい、一度はそう言ったものの、来週の練習試合の日程がまだだったことを思い出して気だるげに重い腰を上げる。最新機種の大きな画面には、見覚えのある一枚の画像と共に母からの短い返信があった。
「あ、やっぱ葉書来てたわ。実家のほうだったか」 「ほらな」 「お前のはここの住所で、なんで俺のだけ実家なんだよ」 「知るかよ。どうせ行くんだろ、直接会った時に聞けばいいじゃねぇか」 「え、行くの?」
 スマホを持ったままどかり、と椅子へと座りなおし、飲みかけの味噌汁に手を伸ばす。ズズ、とわざと少し行儀悪くわかめを啜れば、君下の表情が曇るのがわかった。
「お前、この頃にはもうオフだから休みとれるだろ。俺も有休消化しろって上がうるせぇから、ちょうどこのあたりで連休取ろうと思ってる」 「聞いてねぇ……」 「今言ったからな」
 金平蓮根に箸を付けた君下は、いくらか摘まんで自分の茶碗へと一度置くと、米と共にぱくり、と頬張った。シャクシャクと音を鳴らしながら、ダークブラウンの瞳がこちらを見る。
「佐藤と鈴木も来るって」 「あいつらに会うだけなら別で集まりゃいいだろうが。それにこの前も4人で飲んだじゃねぇか」 「いつの話してんだよタワケが、2年前だぞあれ」 「えっそんなに前だったか?」 「ああ。それに今年で卒業して10年だとさ。流石に毎年は行かねぇが節目ぐらい行ったって罰は当たんねーよ」
 時の流れとは残酷なものだ。俺は高校を卒業してそれぞれ違う道へと進んでも、相変わらず君下と一緒にいた。だからそんな長い年月が経ったことに気付かなかっただけなのかもしれない。高校を卒業する時点で、俺たちがはじめて出会って既に10年が経っていたのだ。  君下はぬるい味噌汁を啜ると、満足そうに「うまい」と一言呟いた。
*
 今宵はよく月が陰る。  ソファにごろりと寝転がり、カーテンの隙間から満月より少し欠けた月をぼんやりと眺めていた。月に兎がいると最初に言ったのは誰だろうか。どう見ても、あの不思議な斑模様は兎なんかに、それも都合よく餅つきをしているようには見えなかった。昔の人間は妙なことを考える。星屑を繋げてそれらを星座だと呼び、一晩中夜空を眺めては絶え間なく動く星たちを追いかけていた。よほど暇だったのだろう。こんな一時間に何センチほどしか動かないものを見て、何が面白いというのだろうか。
「さみぃ」
 音もなくベランダの窓が開き、身体を縮こませた君下が湯気で温かくなった室内へと戻ってくる。君下は二十歳から煙草を吸っていた。家で吸うときはこうやって、それも洗濯物のない時にだけ、それなりに広いベランダの隅に作った小さな喫煙スペースで煙草を嗜む。別に換気扇さえ回してくれれば部屋で吸ってもらっても構わないと俺は言っているのだが、頑なにそれをしようとしないのは君下のほうだった。現役のスポーツ選手である俺への気遣いなのだろう。こういう些細なところでも、俺は君下に支えられているのだと実感する。
「おい、キスしろ」
 隣に腰を下ろした君下に、腹を見せるように上を向いて唇を突き出した。またか、と言いたげな顔をしたが、間もなく長い前髪が近づいてきてちゅ、と小さな音を立てて口づけが落とされた。一度も吸ったことのない煙草の味を、俺は間接的に知っている。少しだけ大人になったような気がするのがたまらなく心地よい。
 それから少しの間、手を握ったりしてテレビを見ながらソファで寛いだ。この時間にもなればいつもニュースか深夜のバラエティー番組しかなかったが、今日はお互いに見たい番組があるわけでもなかったので適当にチャンネルを回してテレビを消した。  手元のランプシェードの明かりだけ残して電気を消し、寝室の真ん中に位置するキングサイズのベッドに入ると、君下はおやすみとも言わないまま背を向けて肩まで掛け布団を被ってしまった。向かい合わせでは寝付けないのはいつもの事だが、それにしても今日は随分と素っ気ない。明日は金曜日で、俺はオフだが会社員の君下には仕事がある。お互いにもういい歳をした大人なのだ。明日に仕事を控えた夜は事には及ばないようにはしているが、先ほどのことが胸のどこかで引っかかっていた。
「もう寝た?」 「……」 「なあ」 「……」 「敦」 「……なんだよ」
 消え入りそうなほど小さな声で、君下が返事をする。俺は頬杖をついていた腕を崩して布団の中に忍ばせると、背中からその細身の身体を抱き寄せた。抵抗はしなかった。
「こっち向けよ」 「……もう寝る」 「少しだけ」 「明日仕事」 「分かってる」
 わかってねぇよ、そう言いながらもこちらに身体を預けてくる、相変わらず素直じゃないところも君下らしい。ランプシェードのオレンジの灯りが、眠そうな君下の顔をぼんやりと照らしている。長い睫毛に落ちる影を見つめながら、俺は薄く開かれた唇に祈るように静かにキスを落とした。
 こいつとキスをするようになったのはいつからだっただろうか。  サッカーを諦めかけていた俺に道を示してくれたその時から、ただのチームメイトだった男は信頼できる友へと変化した。それでも物足りないと感じていたのは互いに同じだったようで、俺たちは高校を卒業するとすぐに同じ屋根の下で生活を始めた。が、喧嘩の絶えない日々が続いた。いくら昔に比べて関係が良くなったとはいえ、育ちも違えば本来の性格が随分と違う。事情を知る数少ない人間も、だからやめておけと言っただろう、と皆口を揃えてそう言った。幸いだったのは、二人の通う大学が違ったことだった。君下は官僚になるために法学部で勉学に励み、俺はサッカーの為だけに学生生活を捧げた。互いに必要以上に干渉しない日々が続いて、家で顔を合わせるのは、いつも決まって遅めの夜の食卓だった。  本当は今のままの関係で十分に満足している。今こそ目指す道は違うが、俺たちには同じ時を共有していた、かけがえのない長い長い日々がある。手さぐりでお互いを知ろうとし、時にはぶつかり合って忌み嫌っていた時期もある。こうして積み重ねてきた日々の中で、いつの日か俺たちは自然と寄り添いあって、お互いを抱きしめながら眠りにつくようになった。この感情に名前があるとしても、今はまだわからない。少なくとも今の俺にとって君下がいない生活などもう考えられなくなっていた。
「……ン゛、ぐっ……」
 俺に組み敷かれた君下は、弓なりに反った細い腰をぴくり、と跳ねさせた。大判の白いカバーの付いた枕を抱きしめながら、押し殺す声はぐぐもっていてる。決して色気のある行為ではないが、その声にすら俺の下半身は反応してしまう。いつからこうなってしまったのだろう。君下を抱きながらそう考えるのももう何度目の事で、いつも答えの出ないまま、絶頂を迎えそうになり思考はどこかへと吹き飛んでしまう。
「も、俺、でそ、うっ……」 「あ?んな、俺もだ馬鹿っ」 「あっ……喜一」
 君下の腰から右手を外し、枕を上から掴んで引き剥がす。果たしてどんな顔をして俺の名を呼ぶのだと、その顔を拝みたくなった。日に焼けない白い頬は、スポーツのような激しいセックスで紅潮し、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。相変わらず眉間には皺が寄ってはいたが、いつもの鋭い目つきが嘘のように、限界まで与えられた快楽にその瞳を潤ませていた。視線が合えば、きゅ、と一瞬君下の蕾が収縮した。「あ、出る」とだけ言って腰のピストンを速めながら、君下のイイところを突き上げる。呼吸の詰まる音と、結合部から聞こえる卑猥な音を聞きながら、頭の中が真っ白にな��て、そして俺はいつの間にか果てた。全て吐き出し、コンドームの中で自身が小さくなるのを感じる。一瞬遅れてどくどくと音がしそうなほどに爆ぜる君下の姿を、射精後のぼんやりとした意識の中でいつまでも眺めていた。
(4)誰も知らない
 忙しないいつもの日常が続き、あっという間に年も暮れ新しい年がやってきた。  正月は母方の田舎で過ごすと言った君下は、仕事納めが終われば一度家に戻って荷物をまとめると、そこから一週間ほど家を空けていた。久しぶりに会った君下は、少しばかり頬が丸くなって帰ってきたような気がしたが、本人に言うとそんなことはないと若干キレながら否定された。目に見えて肥えたことを気にしているらしい本人には申し訳ないが、俺はその様子に少しだけ安心感を覚えた。祖父の葬儀以来、もう何年も顔を見せていないという家族に会うのは、きっと俺にすら言い知れぬ緊張や、不安も勿論あっただろう。  だがこうやって随分と可愛がられて帰ってきたようで、俺も正月ぐらい実家に顔を出せばよかったかなと少しだけ羨ましくなった。本人に言えば餅つきを手伝わされこき使われただの、田舎はやることがなく退屈だなど愚痴を垂れそうだが、そのお陰なのか山ほど餅を持たせられたらしく、その日の夜は冷蔵庫にあった鶏肉と大根、にんじんを適当に入れて雑煮にして食べることにした。
「お前、俺がいない間何してた?」
 君下が慣れた手つきで具材を切っている間、俺は君下が持ち帰った土産とやらの��を開けていた。中には土の付いたままの里芋だとか、葉つきの蕪や蓮根などが入っていた。全て君下の田舎で採れたものなのか、形はスーパーでは見かけないような不格好なものばかりだった。
「車ねぇから暇だった」 「どうせ車があったとしても、一日中寝てるか練習かのどっちかだろうが」 「まあ、大体合ってる」
 一通り切り終えたのか包丁の音が聞こえなくなり、程なくして今度は出汁の香りが漂ってきた。同時に香ばしい餅の焼ける香りがして、完成が近いことを悟った俺は一度箱を閉めるとダイニングテーブルへと向かい、箸を二膳出して並べると冷蔵庫から缶ビールを取り出してグラスと共に並べた。
「いただきます」 「いただきます」
 大きめの深い器に入った薄茶色の雑煮を目の前に、二人向かい合って座り手を合わせる。実に一週間ぶりの二人で摂る夕食だった。よくある関東風の味付けに、四角く切られ表面を香ばしく焼かれた大きな餅。シンプルだが今年に入って初めて食べる正月らしい食べ物も、今年初めて飲む酒も、すべて君下と共に大事に味わった。
「あ、そうだ。明日だからな、あれ」
 3個目の餅に齧りついた俺に、そういえばと思い出したかのように君下が声を発した。少し冷めてきたのか噛み切れなかった餅を咥えたまま、肩眉を上げて何の話かと視線だけで問えば、「ほら、同窓会のやつ」と察したように答えが返ってきた。「ちょっと待て」と掌を君下に見せて、餅を掴んでいた箸に力を入れて無理矢理引きちぎると、ぐにぐにと大雑把に噛んでビールで流し込む。うまく流れなかったようで、喉のあたりを引っかかる感触が気持ち悪い。生理的に込み上げてくる涙を瞳に浮かべていると、席を立った君下は冷蔵庫の扉を開けてもう2本ビールを取り出して戻ってきた。
「ほら飲め」 「おま……水だろそこは」 「いいからとりあえず流し込め」
 空になった俺のグラスにビールを注げば、ぶくぶくと泡立つばかりで泡だけで溢れそうになった。だから水にしとけと言ったのだ。チッ、と舌打ちをした君下は、少し申し訳なさそうに残りの缶をそのまま手渡してきた。直接飲むのは好きではないが、今は文句を言ってられない。奪うように取り上げると、ごくごくと大げさに喉を鳴らして一気に飲み干した。
「は~……死ぬかと思った。相変わらずお酌が下手だなお前は」 「うるせぇな。俺はもうされる側だから仕方ねぇだろうが」
 そう悪態をつきながら、君下も自分の缶を開ける。プシュ、と間抜けな音がして、グラスを傾けて丁寧にビールを注いでゆく。泡まで綺麗に注げたそれを見て、満足そうに俺に視線を戻す。
「あ、そうだよ、話反らせやがって……まあとにかく、明日は俺は昼ぐらいに会社に少し顔出してくるから、ついでに親父んとこにも寄って、そのまま会場に向かうつもりだ」 「あ?親父さんも一緒に田舎に行ったんじゃねぇの?」 「そうしようとは思ったんだがな、店の事もあるって断られた。ったく誰に似たんだかな」 「それ、お前が言うなよ」
 君下の言葉になんだかおかしくなってふふ、と小さく笑えば、うるせぇと小さく舌打ちで返された。綺麗に食べ終えた器をテーブルの上で纏めると、君下はそれらを持って流しへと向かった。ビールのグラスを軽く水で濯いでから、そこに半分ぐらい溜めた水をコクコクと喉を鳴らして飲み込んだ。
「俺もう寝るから、あとよろしくな。久々に運転すると疲れるわ」 「おう、お疲れ。おやすみ」
 俺の言葉におやすみ、と小さく呟いた君下は、灯りのついていない寝室へと吸い込まれるようにして消えた。ぱたん、と扉が閉まる音を最後に、乾いた部屋はしんとした静寂に包まれる。手元に残ったのは、ほんの一口分だけ残った温くなったビールの入ったグラスだけだった。  頼まれた洗い物はあとでやるとして、さてこれからどうしようか。君下の読み通り、今日は一日中寝ていたため眠気はしばらくやって来る気配はない。テレビの上の時計を見ると、ちょうど午後九時を回ったところだった。俺はビールの残りも飲まずに立ち上がると、食器棚に並べてあるブランデーの瓶と、隣に飾ってあったバカラのグラスを手にしてソファのほうへとゆっくり歩き出した。
*
 肌寒さを感じて目を覚ました。  最後に時計を見たのはいつだっただろうか。微睡む意識の中、薄く開いた瞳で捉えたのは、ガラス張りのローテーブルの端に置かれた見覚えのあるグラスだった。細かくカットされた見事なつくりの表面は、カーテンから零れる朝日を反射してキラキラと眩しい。中の酒は幾分か残っていたようだったが、蒸発してしまったのだろうか、底のほうにだけ琥珀色が貼り付くように残っているだけだった。  何も着ていなかったはずだが、俺の肩には薄手の毛布が掛かっていた。点けっぱなしだった電気もいつの間にか消されていて、薄暗い部屋の中、遮光カーテンから漏れる光だけがぼんやりと座っていたソファのあたりを照らしていた。酷い喉の渇きに、水を一口飲もうと立ち上がると頭痛と共に眩暈がした。ズキズキと痛む頭を押さえながらキッチンへ向かい、食器棚から新しいコップを取り出して水を飲む。シンクに山積みになっていたはずの洗い物は、跡形もなく姿を消している。君下は既に家を出た後のようだった。
 それから昼過ぎまでもう一度寝て、起きた頃には朝方よりも随分と温かくなっていた。身体のだるさは取れたが、相変わらず痛む頭痛に舌打ちをしながら、リビングのフローリングの上にマットを敷いてそこで軽めのストレッチをした。大柴はもう若くはない。三十路手前の身体は年々言うことを聞かなくなり、1日休めば取り戻すのに3日はかかる。オフシーズンだからと言って単純に休んでいるわけにはいかなかった。  しばらく柔軟をしたあと、マットを片付け軽く掃除機をかけていると、ジャージの尻ポケットが震えていることに気が付いた。佐藤からの着信だった。久しぶりに見るその名前に、緑のボタンを押してスマホを耳と肩の間に挟んだ。
「おう」 「あーうるせぇよ!掃除機?電話に出る時ぐらい一旦切れって」
 叫ぶ佐藤の声が聞こえるが、何と言っているのか聞き取れず、仕方なくスイッチをオフにした。ちらりと壁に視線を流せば、時計針はもうすぐ3時を指そうとしていた。
「わりぃ。それよりどうした?」 「どうしたじゃねぇよ。多分お前まだ寝てるだろうから、起こして同窓会に連れてこいって君下から頼まれてんだ」 「はあ……ったく、どいつもこいつも」 「まあその調子じゃ大丈夫だな。5時にマンションの下まで車出すから、ちゃんと顔洗って待ってろよ」 「へー」 「じゃあ後でな」
 何も言わずに通話を切り、ソファ目掛けてスマホを投げた。もう一度掃除機の電源を入れると、リビングから寝室へと移動する。普段は掃除機は君下がかけるし、皿洗い以外の大抵の家事はほとんど君下に任せっきりだった。今朝はそれすらも君下にさせてしまった罪悪感が、こうやって自主的にコードレス掃除機をかけている理由なのかもしれない。  ベッドは綺麗に整えてあり、真ん中に乱雑に畳まれたパジャマだけが取り残されていた。寝る以外に立ち入らない寝室は綺麗なままだったが、一応端から一通りかけると掃除機を寝かせてベッドの下へと滑り込ませる。薄型のそれは狭い隙間も難なく通る。何往復かしていると、急に何か大きな紙のようなものを吸い込んだ音がした。
「げっ……何だ?」
 慌てて電源を切り引き抜くと、ヘッドに吸い込まれていたのは長い紐のついた、見慣れない小さな紙袋だった。紺色の袋の表面に、金色の細い英字で書かれた名前には見覚えがあった。俺の覚え違いでなければ、それはジュエリーブランドの名前だった気がする。
「俺のじゃねぇってことは、これ……」
 そこまで口に出して、俺の頭の中には一つの仮説が浮かび上がる。これの持ち主は十中八九君下なのだろう。それにしても、どうしてこんなものがベッドの下に、それも奥のほうへと押しやられているのだろうか。絡まった紐を引き抜いて埃を払うと、中を覗き込む。入っていたのは紙袋の底のサイズよりも一回り小さな白い箱だった。中を確認したかったが、綺麗に巻かれたリボンをうまく外し、元に戻せるほど器用ではない。それに、中身など見なくてもおおよその見当はついた。  俺はどうするか迷ったが、それと電源の切れた掃除機を持ってリビングへと戻った。紙袋をわざと見えるところ、チェリーウッドのダイニングテーブルの上に置くと、シャワーを浴びようとバスルームへと向かった。いつも通りに手短に済ませると、タオルドライである程度水気を取り除いた髪にワックスを馴染ませ、久しぶりに鏡の中の自分と向かい合う。ここ2週間はオフだったというのに、ひどく疲れた顔をしていた。適当に整えて、顎と口周りにシェービングクリームを塗ると伸ばしっぱなしだった髭に剃刀を宛がう。元々体毛は濃いほうではない。すぐに済ませて電気を消して、バスルームを後にした。
「お、来た来た。やっぱりお前は青のユニフォームより、そっちのほうが似合っているな」
 スーツに着替え午後5時5分前に部屋を出て、マンションのエントランスを潜ると、シルバーの普通車に乗った佐藤が窓を開けてこちらに向かって手を振っていた。助手席には既に鈴木が乗っており、懐かしい顔ぶれに少しだけ安堵した。よう、と短く挨拶をして、後部座席のドアを開けると長い背を折りたたんでシートへと腰かけた。  それからは佐藤の運転に揺られながら、他愛もない話をした。最近のそれぞれの仕事がどうだとか、鈴木に彼女が出来ただとか、この前相庭のいるチームと試合しただとか、離れていた2年間を埋めるように絶え間なく話題は切り替わる。その間も車は東京方面へと向かっていた。
「君下とはどうだ?」 「あー……相変わらずだな。付かず離れずって感じか」 「まあよくやってるよな、お前も君下も。あれだけ仲が悪かったのが、今じゃ同棲だろ?みんな嘘みたいに思うだろうな」 「同棲って言い方やめろよ」 「はーいいなぁ、俺この間の彼女に振られてさ。せがまれて高い指輪まで贈ったのに、あれだけでも返して貰いたいぐらいだな」
 指輪という言葉に、俺の顔の筋肉が引きつるのを感じた。グレーのパンツの右ポケットの膨らみを、無意識に指先でなぞる。車は渋滞に引っかかったようで、先ほどからしばらく進んでおらず車内はしん、と静まり返っていた。
「あーやべぇな。受付って何時だっけ」 「たしか6時半……いや、6時になってる」 「げ、あと20分で着くかな」 「だからさっき迂回しろって言ったじゃねぇか」
 このあたりはトラックの通行量も多いが、帰宅ラッシュで神奈川方面に抜ける車もたくさん見かける。そういえば実家に寄るからと、今朝も俺の車で出て行った君下はもう会場に着いたのだろうか。誰かに電話をかけているらしい鈴木の声がして、俺は手持ち無沙汰に窓の外へと視線を投げる。冬の日の入りは早く、太陽はちょうど半分ぐらいを地平線の向こうへと隠した頃だった。真っ赤に焼ける雲の少ない空をぼんやりと眺めて、今夜は星がきれいだろうか、と普段気にもしていないことを考えていた。
(5)真冬のエスケープ
 車は止まりながらもなんとか会場近くの地下駐車場へと止めることができた。幹事と連絡がついて遅れると伝えていたこともあり、特に急ぐこともなく会場までの道のりを歩いて行った。  程なくして着いたのは某有名ホテルだった。入り口の案内板には聖蹟高校×期同窓会とあり、その横に4階と書かれていた。エレベーターを待つ間、着飾った同じ年ぐらいの集団と鉢合わせた。そのうち男の何人かは見覚えのある顔だったが、男たちと親し気に話している女に至っては、全くと言っていいほど面影が見受けられない。常日頃から思ってはいたが、化粧とは恐ろしいものだ。俺や君下よりも交友関係が広い鈴木と佐藤でさえ苦笑いで顔を見合わせていたから、きっとこいつらにでさえ覚えがないのだろうと踏んで、何も言わずに到着した広いエレベーターへと乗り込んだ。
 受付で順番に名前を書いて入り口で泡の入った飲み物を受け取り、広間へと入るとざっと見るだけで100人ほどは来ているようだった。「すげぇな、結構集まったんだな」そう言う佐藤の言葉に振り返りもせずに、俺はあたりをきょろきょろと見渡して君下の姿を探した。
「よう、遅かったな」 「おー君下。途中で渋滞に巻き込まれてな……ちゃんと連れてきたぞ」
 ぽん、と背中を佐藤に叩かれる。その右手は決して強くはなかったが、ふいを突かれた俺は少しだけ前にふらついた。手元のグラスの中で黄金色がゆらりと揺れる。いつの間にか頭痛はなくなっていたが、今は酒を口にする気にはなれずにそのグラスを佐藤へと押し付けた。不審そうにその様子を見ていた君下は、何も言わなかった。  6時半きっかりに、壇上に幹事が現れた。眼鏡をかけて、いかにも真面目そうな元生徒会長は簡単にスピーチを述べると、今はもう引退してしまったという、元校長の挨拶へと移り変わる。何度か表彰状を渡されたことがあったが、曲がった背中にはあまり思い出すものもなかった。俺はシャンパンの代わりに貰ったウーロン茶が入ったグラスをちびちびと舐めながら、隣に立つ君下に気付かれないようにポケットの膨らみの形を確認するかのように、何度も繰り返しなぞっていた。
 俺たちを受け持っていた先生らの挨拶が一通り済むと、それぞれが自由に飲み物を持って会話を楽しんでいた。今日一日、何も食べていなかった俺は、同じく飯を食い損ねたという君下と共に、真ん中に並ぶビュッフェをつまみながら空きっ腹を満たしていた。ここのホテルの料理は美味しいと評判で、他のホテルに比べてビュッフェは高いがその分確かなクオリティがあると姉が言っていた気がする。確かにそれなりの料理が出てくるし、味も悪くはない。君下はローストビーフがお気に召したようで、何度も列に並んではブロックから切り分けられる様子を目を輝かせて眺めていた。
「あー!大柴くん久しぶり、覚えてるかなぁ」
 ウーロン茶のあてにスモークサーモンの乗ったフィンガーフードを摘まんでいると、この会場には珍しく化粧っ気のない、大きな瞳をした女が数人の女子グループと共にこちらへと寄ってきた。
「あ?……あ、お前はあれだ、柄本の」 「もー、橘ですぅー!つくちゃんのことは覚えててくれるのに、同じクラスだった私のこと、全っ然覚えててくれないんだから」
 プンスカと頬を膨らませる橘の姿に、高校時代の懐かしい記憶が蘇る。記憶の中よりも随分と短くなった髪は耳の下で切り揃えられていれ、片側にトレードマークだった三つ編みを揺らしている。確かにこいつが言うように、思い返せば偶然にも3年間、同じクラスだったように思えてくる。本当は名前を忘れた訳ではなかったが、わざと覚えていない振りをした。
「テレビでいつも見てるよー!プロってやっぱり大変みたいだけど、大柴くんのことちゃんと見てるファンもいるからね」 「おーありがとな」
 俺はその言葉に対して素直に礼を言った。というのも、この橘という女の前ではどうも調子が狂わされる。自分は純粋無垢だという瞳をしておいて、妙に人を観察していることと、核心をついてくるのが昔から巧かった。だが悪気はないのが分かっているだけ質が悪い。俺ができるだけ同窓会を避けてきた理由の一つに、この女の言ったことと、こいつ自身が関係している。これには君下も薄々気付いているのだろう。
「あ、そうだ。君下くんも来てるかな?つくちゃんが会いたいって言ってたよ」 「柄本が?そりゃあ本人に言ってやれよ。君下ならあっちで肉食ってると思うけど」 「そうだよね、ありがとう大統領!」
 そう言って大げさに手を振りながら、橘は君下を探しに人の列へと歩き出した。「もーまたさゆり、勝手にどっか行っちゃったよ」と、取り残されたグループの一人がそう言うので、「相変わらずだよね」と笑う他の女たちに混ざって愛想笑いをして、居心地の悪くなったその場を離れようとした。  白いテーブルクロスの上から飲みかけのウーロン茶が入ったグラスを手に取ろとすると、綺麗に塗られたオレンジの爪がついた女にそのグラスを先に掴まれた。思わず視線をウーロン茶からその女へと流すと、女はにこりと綺麗に笑顔を作り、俺のグラスを手渡してきた。
「大柴くん、だよね?今日は飲まないの?」
 黒髪のロングヘアーはいかにも君下が好みそうなタイプの女で、耳下まである長い前髪をセンターで分けて綺麗に内巻きに巻いていた。他の女とは違い、あまりヒラヒラとした装飾物のない、膝上までのシンプルな紺色のドレスに身を包んでいる。見覚えのある色に一瞬喉が詰まるも、「今日は車で来てるから」とその場で適当な言い訳をした。
「あーそうなんだ、残念。私も車で来たんだけど、勤めている会社がこの辺にあって、そこの駐車場に停めてあるから飲んじゃおうかなって」 「へぇ……」
 わざとらしく綺麗な眉を寄せる姿に、最初はナンパされているのかと思った。だが俺のグラスを受け取ると、オレンジの爪はあっさりと手放してしまう。そして先程まで女が飲んでいた赤ワインらしき飲み物をテーブルの上に置き、一歩近づき俺の胸元に手を添えると、背伸びをして俺の耳元で溜息のように囁いた。
「君下くんと、いつから仲良くなったの?」
 酒を帯びた吐息息が耳元にかかり、かっちりと着込んだスーツの下に、ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。  こいつは、この女は、もしかしたら君下がこの箱を渡そうとした女なのかもしれない。俺の知らないところで、君下はこの女と親密な関係を持っているのかもしれない。そう考えが纏まると、すとんと俺の中に収まった。そうか。最近感じていた違和感も、何年も寄り付かなかった田舎への急な帰省も、なぜか頑なにこの同窓会に出席したがった理由も、全部辻褄が合う。いつから関係を持っていたのだろうか、知りたくもなかった最悪の状況にたった今、俺は気付いてしまった。  じりじりと距離を詰める女を前に、俺は思考だけでなく身体までもが硬直し、その場を動けないでいた。酒は一滴も口にしていないはずなのに、むかむかと吐き気が込み上げてくる。俺は今、よほど酷い顔をしているのだろう。心配そうに見つめる女の目は笑っているのに、口元の赤が、赤い口紅が視界に焼き付いて離れない。何か言わねば。いつものように、「誰があんなやつと、この俺様が仲良くできるんだよ」と見下すように悪態をつかねば。皆の記憶に生きている、大柴喜一という人間を演じなければ―――……  そう思っているときだった。  俺は誰かに腕を掴まれ、ぐい、と強い力で後ろへと引かれた。呆気にとられたのは俺も女も同じようで、俺が「おい誰だ!スーツが皺になるだろうが」と叫ぶと、「あっ君下くん、」と先程聞いていた声より一オクターブぐらい高い声が女の口から飛び出した。その名前に腕を引かれたほうへと振り返れば、確かにそこには君下が立っていて、スーツごと俺の腕を掴んでいる。俺を見上げる漆黒の瞳は、ここ最近では見ることのなかった苛立ちが滲んで見えるようだった。
「ああ?テメェのスーツなんか知るかボケ。お前が誰とイチャつこうが関係ねぇが、ここがどこか考えてからモノ言いやがれタワケが」 「はあ?誰がこんなブスとイチャつくかバーカ!テメェの女にくれてやる興味なんぞこれっぽっちもねぇ」 「なんだとこの馬鹿が」
 実に数年ぶりの君下のキレ具合に、俺も負けじと抱えていたものを吐き出すかのように怒鳴り散らした。殴りかかろうと俺の胸倉を掴んだ君下に、賑やかだった周囲は一瞬にして静まり返る。人の壁の向こう側で、「おいお前ら!まじでやめとけって」と慌てた様子の佐藤の声が聞こえる。先に俺たちを見つけた鈴木が君下の腕を掴むと、俺の胸倉からその手を引き剥がした。
「とりあえず、やるなら外に行け。お前らももう高校生じゃないんだ、ちょっとは周りの事も考えろよ」 「チッ……」 「大柴も、冷静になれよ。二人とも、今日はもう帰れ。俺たちが収集つけとくから」
 君下はそれ以上何も言わずに、出口のほうへと振り返えると大股で逃げるようにその場を後にした。俺は「悪いな」とだけ声をかけると、曲がったネクタイを直し、小走りで君下の後を追いかける。背後からカツカツとヒールの走る音がしたが、俺は振り返らずにただ小さくなってゆく背中を見逃さないように、その姿だけを追って走った。暫くすると、耳障りな足音はもう聞こえなくなっていた。
 君下がやってきたのは、俺たちが停めたのと同じ地下駐車場だった。ここに着くまでにとっくに追い付いていたものの、俺はこれから冷静に対応する為に、頭を冷やす時間が欲しかった。遠くに見える派手な赤色のスポーツカーは、間違いなく俺が2年前に買い替えたものだった。君下は何杯か酒を飲んでいたので、鍵は持っていなくとも俺が運転をすることになると分かっていた。わざと10メートル後ろをついてゆっくりと近づく。  君下は何も言わずにロックを解除すると、大人しく助手席に腰かけた。ドアは開けたままにネクタイを解き、首元のボタンを一つ外すと、胸ポケットから取り出した煙草を一本口に咥えた。
「俺の前じゃ吸わねぇんじゃなかったのか」 「……気が変わった」
 俺も運転席に乗り込むと、キーを挿してエンジンをかけ、サンバイザーを提げるとレバーを引いて屋根を開けてやった。どうせ吸うならこのほうがいいだろう。それに今夜は星がきれいに見えるかもしれないと、行きがけに見た綺麗な夕日を思い出す。安物のライターがジジ、と音を立てて煙草に火をつけたのを確認して、俺はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
(6)形も何もないけれど
 煌びやかなネオンが流れてゆく。俺と君下の間に会話はなく、代わりに冬の冷たい夜風だけが二人の間を切るように走り抜ける。煙草の火はとっくに消えて、そのままどこかに吹き飛ばされてしまった。  信号待ちで車が止まると、「さむい」と鼻を啜りながら君下が呟いた。俺は後部座席を振り返り、外したばかりの屋根を元に戻すべく折りたたんだそれを引っ張った。途中で信号が青に変わって、後続車にクラクションを鳴らされる。仕方なく座りなおそうとすると、「おい、貸せ」と君下が言うものだから、最初から自分でやればいいだろうと思いながらも、大人しく手渡してアクセルに足を掛けた。車はまた走り出す。
「ちょっとどこか行こうぜ」
 最初にそう切り出したのは君下だった。暖房も入れて温かくなった車内で、窓に貼り付くように外を見る君下の息が白く曇っていた。その問いかけに返事はしなかったが、俺も最初からあのマンションに向かうつもりはなかった。分岐は横浜方面へと向かっている。君下もそれに気が付いているだろう。  海沿いに車を走らせている間も、相変わらず沈黙が続いた。試しにラジオを付けてはみたが、流れるのは今流行りの恋愛ソングばかりで、今の俺たちにはとてもじゃないが似合わなかった。何も言わずにラジオを消して、それ以来ずっと無音のままだ。それでも、不思議と嫌な沈黙ではないことは確かだった。
 どこまで行こうというのだろうか。気が付けば街灯の数も少なくなり、車の通行量も一気に減った。窓の外に見える、深い色の海を横目に見ながら車を走らせた。穏やかな波にきらきらと反射する、今夜の月は見事な満月だった。  歩けそうな砂浜が見えて、何も聞かないままそこの近くの駐車場に車を停めた。他に車は数台止まっていたが、どこにも人の気配がしなかった。こんな真冬の夜の海に用があるというほうが可笑しいのだ。俺はエンジンを切って、運転席のドアを開けると外へ出た。つんとした冷たい空気と潮の匂いが鼻をついた。君下もそれに続いて車を降りた。  後部座席に積んでいたブランケットを羽織りながら、君下は小走りで俺に追いつくと、その隣に並んで「やっ���寒い」と鼻を啜る。数段ほどのコンクリートの階段を降りると、革靴のまま砂を踏んだ。ぐにゃり、と不安定な砂の上は歩きにくかったが、それでも裸足になるわけにはいかずにゆっくりと海へ向かって歩き出す。波打ち際まで来れば、濡れて固まった足場は先程より多少歩きやすくなった。はぁ、と息を吐けば白く曇る。海はどこまでも深い色をしていた。
「悪かったな」 「いや、……あれは俺も悪かった」
 居心地の悪そうに謝罪の言葉がぽつり、と零れた。それは何に対して謝ったのか、自分でもよく分からない。君下に女が居た事なのか、指輪を見つけてしまった事なのか、それともそれを秘密にしていた事なのか。あるいは、そのすべてに対して―――俺がお前をあのマンションに縛り付けた10年間を指しているのか、それははっきりとは分からなかった。俺は立ち止まった。俺を追い越した、君下も立ち止まり、振り返る。大きな波が押し寄せて、スーツの裾が濡れる感覚がした。水温よりも冷たく冷え切った心には、今はそんな些細なことは、どうでもよかった。
「全部話してくれるか」 「ああ……もうそろそろ気づかれるかもしれねぇとは腹括ってたからな」
 そう言い終える前に、君下の視線が俺のズボンのポケットに向いていることに気が付いた。何度も触っていたそれの形は、嫌と言うほど覚えている。俺はふん、と鼻で笑ってから、右手を突っ込み白い小さな箱を丁寧に取り出した。君下の目の前に差し出すと、なぜだか手が震えていた。寒さからなのか、それともその箱の重みを知ってしまったからなのか、風邪が吹いて揺れるなか、吹き飛ばされないように握っているのが精一杯だった。
「これ……今朝偶然見つけた。ベッドの下、本当に偶然掃除機に引っかけちまって……でも本当に俺、今までずっと気付かなくて、それで―――それで、あんな女がお前に居たなんて、もっと早く言ってくれりゃ、」 「ちょっと待て、喜一……お前何言ってんだ」 「あ……?何って、今言ったことそのまんまだろうが」
 思い切り眉間に皺を寄せ困惑したような君下の顔に、俺もつられて眉根を寄せる。ここまで来てしらを切るつもりなのかと思うと、怒りを通り越して呆れもした。どうせこうなってしまった以上、俺たちは何事もなく別れられるわけがなかった。昔のように犬猿の仲に戻るのは目に見えていたし、そうなってくれれば救われた方だと俺は思っていた。  苛立っていたいたのは君下もそうだったようで、風で乱れた頭をガシガシと掻くと、煙草を咥えて火を点けようとした。ヂ、ヂヂ、と音がするのに、風のせいでうまく点かない。俺は箱を持っていないもう片方の手を伸ばして、風上から添えると炎はゆらりと立ち上がる。すう、と一息吸って吐き出した紫煙が、漆黒の空へと消えていった。
「そのまんまも何も、あの女、お前狙いで寄ってきたんだろうが」 「お前の女が?」 「誰だよそれ、名前も知らねぇのにか?」
 つまらなさそうに、君下はもう一度煙を吸うと上を向いて吐き出した。どうやら本当にあのオレンジ爪の女の名前すら知らないらしい。だとしたら、俺が持っているこの箱は一体誰からのものなのだ。答え合わせのつもりで話をしていたが、謎は余計に深まる一方だ。
「あ、でもあいつ、俺に何て言ったと思う?君下くんといつから仲良くなったの、って」 「お前の追っかけファンじゃねぇの」 「だとしてもスゲェ怖いわ。明らかにお前の好みそうなタイプの恰好してたじゃん」 「そうか?むしろ俺は、お前好みの女だなと思ったけどな」
 そこまで言って、俺も君下も噴き出してしまった。ククク、と腹の底から込み上げる笑いが止まらない。口にして初めて気が付いたが、俺たちはお互いに女の好みなんてこれっぽっちも知らなかったのだ。二人でいる時の共通の話題と言えば、サッカーの事か明日の朝飯のことぐらいで、食卓に女の名前が出てきたことなんて今の一度もない事に気付いてしまった。どうりでこの10年間、どちらも結婚だとか彼女だとか言い出さないわけだ。俺たちはどこまでも似た者同士だったのだ。
「それ、お前にやろうと思って用意したんだ」
 すっかり苛立ちのなくなった瞳に涙を浮かべながら、君下は軽々しくそう言って笑った。  俺は言葉が出なかった。  こんな小洒落たものを君下が買っている姿なんて想像もできなかったし、こんなリボンのついた箱は俺が受け取っても似合わない。「中は?」と聞くと、「開けてみれば」とだけ返されて、煙が流れないように君下は後ろを向いてしまった。少し迷ったが、その場で紐をほどいて箱を開けて、俺は目を見開いた。紙袋と同じ、夜空のようなプリントの内装に、星のように輝くゴールドの指輪がふたつ、中央に行儀よく並んでいた。思わず君下の後姿に視線を戻す。ちらり、とこちらを振り返る君下の口元は、笑っているように見えた。胸の内から込み上げてくる感情を抑えきれずに、俺は箱を大事に畳むと勢いよくその背中を抱きしめた。
「う゛っ苦しい……喜一、死ぬ……」 「そのまま死んじまえ」 「俺が死んだら困るだろうが」 「自惚れんな。お前こそ俺がいないと寂しいだろう」 「勝手に言ってろタワケが」
 腕の中で君下の頭が振り返る。至近距離で視線が絡み、君下の瞳に星空を見た。俺は吸い込まれるようにして、冷たくなった君下の唇にゆっくりとキスを落とす。二人の間で吐息だけが温かい。乾いた唇は音もなく離れ、もう一度角度を変えて近づけば、今度はちゅ、と音がして君下の唇が薄く開かれた。お互いに舌を出して煙草で苦くなった唾液を分け合った。息があがり苦しくなって、それでもまた酸素を奪うかのように互いの唇を気が済むまで食らい合った。右手の箱は握りしめたままで、中で指輪がふたつカタカタと小さく音を立てて揺れていた。
「もう、帰ろうか」 「ああ……解っちゃいたが、冬の海は寒すぎるな。帰ったら風呂炊くか」 「お、いいな。俺が先だ」 「タワケが。俺が張るんだから俺が先だ」
 いつの間にか膝下まで濡れたスーツを捲り上げ、二人は手を繋いで来た道を歩き出した。青白い砂浜に、二人分の足跡が残る道を辿って歩いた。平常心を取り戻した俺は急に寒さを感じて、君下が羽織っているブランケットの中に潜り込もうとした。君下はそれを「やめろ馬鹿」と言って俺の頭を押さえつける。俺も負けじとグリグリと頭を押し付けてやった。自然と笑いが零れる。  これでよかったのだ。俺たちには言葉こそないが、それを埋めるだけの共に過ごした長い時間がある。たとえ二人が結ばれたとしても、形に残るものなんて何もない。それでも俺はいいと思っている。こうして隣に立ってくれているだけでいい。嬉しい時も寂しい時も「お前は馬鹿だな」と一緒に笑ってくれるやつが一人だけいれば、それでいいのだ。
「あ、星。喜一、星がすげぇ見える」 「おー綺麗だな」
 ふと気づいたように、君下が空を見上げて興奮気味に声を上げた。  ようやくブランケットに潜り込んで、君下の隣から顔を出せば、そこにはバケツをひっくり返したかのように無数に散らばる星たちが瞬いていた。肩にかかる黒髪から嗅ぎ慣れない潮の香りがして、俺たちがいま海にいるのだと思い知らされる。上を向いて開いた口から、白く曇った息が漏れる。何も言わずにしばらくそれを眺めて、俺たちはすっかり冷えてしまった車内へと腰を下ろした。温度計は摂氏5度を示していた。
7:やさしい光の中で
 星が良く見えた翌朝は決まって快晴になる。君下に言えば、そんな原始的な観測が正しければ、天気予報なんていらねぇよ、と文句を言われそうだが、俺はあながち間違いではないと思っている。現に今日は雲一つない晴れで、あれだけ低かった気温が今日は16度まで上がっていた。乾燥した空気に洗濯物も午前中のうちに乾いてしまった。君下がベランダに料理を運んでいる最中、俺は慣れない手つきで洗濯物をできるだけ綺麗に折りたたんでいた。
「おい、終わったぞ。お前のは全部チェストでいいのか?」 「下着と靴下だけ二番目の引き出しに入れといてくれ。あとはどこでもいい」 「へい」
 あれから真っすぐマンションへと向かった車は、時速50キロ程度を保ちながらおよそ2時間かけて都内にたどり着いた。疲れ切っていたのか、君下は何度かこくり、こくりと首を落とし、ついにはそのまま眠りに落ちてしまった。俺は片手だけでハンドルを握りながら、できるだけ眠りを妨げないように、信号待ちで止まることのないようにゆっくりとしたスピードで車を走らせた。車内には、聞き慣れない名のミュージシャンが話すラジオの音だけが延々と聞こえていた。  眠った君下を抱えたままエントランスをくぐり、すぐに開いたエレベーターに乗って部屋のドアを開けるまで、他の住人の誰にも出会うことはなかった。鍵を開けて玄関で靴を脱がせ、濡れたパンツと上着だけを剥ぎ取ってベッドに横たわらせる。俺もこのまま寝てしまおうか。ハンガーに上着を掛けると一度はベッドに腰かけたものの、どうも眠れる気がしない。少しだけ君下の寝顔を眺めた後、俺はバスルームの電気を点けた。
「飲み物はワインでいいか?」 「おう。白がいい」 「言われなくとも白しか用意してねぇよ」
 そう言って君下は冷蔵庫から冷えた白ワインのボトルとグラスを2つ持ってやって来た。日当たりのいいテラスからは、東京の高いビル群が遠くに見えた。東向きの物件にこだわって良かったと、当時日当たりなんてどうでもいいと言った君下の隣に腰かけて密かに思う。今日は風も少なく、テラスで日光浴をするのには丁度いい気候だった。
「乾杯」 「ん」
 かちん、と一方的にグラスを傾けて君下のグラスに当てて音を鳴らした。黄金色の液体を揺らしながら、口元に寄せればリンゴのような甘い香りがほのかい漂う。僅かにとろみのある液体を口に含めば、心地よいほのかな酸味と上品な舌触りに思わず眉が上がるのが分かった。
「これ、どこの」 「フランスだったかな。会社の先輩からの貰い物だけど、かなりのワイン好きの人で現地で箱買いしてきたらしいぞ」 「へぇ、美味いな」
 流れるような書体でコンドリューと書かれたそのボトルを手に取り、裏面を見ればインポーターのラベルもなかった。聞いたことのある名前に、確か希少価値の高い品種だったように思う。読めない文字をざっと流し読みし、ボトルをテーブルに戻すともう一口口に含む。安物の白ワインだったら炭酸で割って飲もうかと思っていたが、これはこのまま飲んだ方が良さそうだ。詰め物をされたオリーブのピンチョスを摘まみながら、雲一つない空へと視線を投げた。
「そう言えば、鈴木からメール来てたぞ……昨日の同窓会の話」
 紫煙を吐き出した君下は、思い出したかのように鈴木の名を口にした。小一時間前に風呂に入ったばかりの髪はまだ濡れているようで、時折風が吹いてはぴたり、と額に貼り付いた。それを手で避けながら、テーブルの上のスマホを操作して件のメールを探しているようだ。俺は残り物の鱈と君下の田舎から貰ってきたジャガイモで作ったブランダードを、薄切りのバゲットに塗り付けて齧ると、「何だって」と先程の言葉の続きを促した。
「あの後女が泣いてるのを佐藤が慰めて、そのまま付き合うことになったらしい、ってさ」 「はあ?それって俺たちと全然関係なくねぇ?というか、一体何だったんだよあの女は……」
 昨夜のことを思い出すだけで鳥肌が立つ。あの真っ赤なリップが脳裏に焼き付いて離れない。それに、俺たちが聞きたかったのはそんな話ではない。喧嘩を起こしそうになったあの場がどうなったとか、そんなことよりもどうでもいい話を先に報告してきた鈴木にも悪意を感じる。多分、いや確実に、このハプニングを鈴木は面白がっているのだろう。
「あいつ、お前と同じクラスだった冴木って女だそうだ。佐藤が聞いた話だと、やっぱりお前のファンだったらしいぞ」 「……全っ然覚えてねぇ」 「だろうな。見ろよこの写真、これじゃあ詐欺も同然だな」
 そう言って見せられた一枚の写真を見て、俺は食べかけのグリッシーニに巻き付けた、パルマの生ハムを落としそうになった。写真は卒アルを撮ったもののようで、少しピントがずれていたがなんとなく顔は確認できた。冴木綾乃……字面を見てもピンと来なかったが、そこに映っているふっくらとした丸顔に腫れぼったい一重瞼の女には見覚えがあった。
「うわ……そういやいた気がするな」 「それで?これのどこが俺の女だって言うんだよ」 「し、失礼しました……」 「そりゃあ今の彼氏の佐藤に失礼だろうが。それに別にブスではないしな」
 いや、どこからどう見てもこれはない。俺としてはそう思ったが、確かに昨日会った女は素直に抱けると思った。人は歳を重ねると変わるらしい。俺も君下も何か変わったのだろか。ふとそう思ったが、まだ青い高校生だった俺に言わせれば、俺たちが同じ屋根の下で10年も暮らしているということがほとんど奇跡に近いだろう。人の事はそう簡単に悪く言えないと、自分の体験を以って痛いほど知った。  君下は短くなった煙草を灰皿に押し付けると火を消して、何も巻かないままのグリッシーニをポリポリと齧り始める。俺は空になったグラスを置くと、コルクを抜いて黄金色を注いだ。
「あー、そうだ。この間田舎に帰っただろう、正月に。その時にばあちゃんに、お前の話をした」 「……なんか言ってたか」
 聞き捨てならない言葉に、だらしなく木製の折りたたみチェアに座っていた俺の背筋が少しだけ伸びる。  その事は俺にも違和感があった。急に田舎に顔出してくるから、と俺の車を借りて出て行った君下は、戻ってきても1週間の日々を「退屈だった」としか言わなかったのだ。なぜこのタイミングなのだろうか。嫌な切り出し方に少しだけ緊張感が走る。君下がグリッシーニを食べ終えるのを待っているほんの少しの時間が、俺には気が遠くなるほど長い時間が経ったような気さえした。
「別に。敦は結婚はしないのかって聞かれたから答えただけだ。ただ同じ家に住んでいて、これからも一緒にいることになるだろうから、申し訳ない��ど嫁は貰わないかもしれないって言っといた」 「……それで、おばあさんは何��」 「良く分からねぇこと言ってたぜ。まあ俺がそれで幸せなら、それでいいんじゃないかとは言ってくれたけど……やっぱ少し寂しそうではあったかな」
 そう言って遠くの空を見つめるように、君下は視線を空へ投げた。真冬とは言え太陽の光は眩しくて、自然と目元は細まった。テーブルの上に投げ出された右手には、光を反射してきらきらと輝く金色が嵌められている。昨夜君下が眠った後、停車中の誰も見ていない車内で俺が勝手に付けたのだ。細い指にシンプルなデザインはよく映えた。俺が見ていることに気が付いたのか、君下はそっとテーブルから手を離すと、新しいソフトケースから煙草を一本取りだした。
「まあこれで良かったのかもな。親父にも会ってきたし、俺はもう縛られるものがなくなった」 「えっ、まさか……昨日実家寄ったのってその為なのか」 「まあな……本当は早いうちに言っておくべきだったんだが、どうも切り出せなくてな。親父もばあちゃんも、母さんを亡くして寂しい思いをしたのは痛いほど分かってたし、まあ俺もそうだったしな……それで俺が結婚しないって言うのは、なんだか家族を裏切ってしまうような気がして。もう随分前にこうなることは分かってたのにな。気づいたら年だけ重ねてて、それで……」
 君下は、ゆっくりと言葉を紡ぐと一筋だけ涙を流した。俺はそれを、君下の左手を握りしめて、黙って聞いてやることしかできなかった。昼間から飲む飲みなれないワインにアルコールが回っていたのだろうか。それでもこれは君下の本音だった。  暫くそうして無言で手を握っていると、ジャンボジェット機が俺たちの上空をゆっくりと通過した。耳を塞ぎたくなるようなごうごうと風を切り裂く大きな音に隠れるように、俺は聞こえるか聞こえないかの声量で「愛してる」、と一言呟く。君下は口元だけを読んだのか、「俺も」、と聞こえない声で囁いた。飛行機の陰になって和らいだ光の中で、俺たちは最初で最後の言葉を口にした。影が過ぎ去ると、陽射しは先程よりも一層強く感じられた。水が入ったグラスの中で、溶けた氷がカラン、と立てたか細い音だけが耳に残った。
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meromeron74 · 7 years
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大魔法博覧会の話。長いです。
少し時間が出来たので書いてみようとPCをたちあげてみました。 話は昨年に遡ります。初めて足を運んだポタオンリーでたくさんの出会いがありました。会場にいる間は終始楽しく、素敵なレイヤーさんを見たり気になったスペースでお買い物したり知り合いと直接言葉を交わせる機会に恵まれもう興奮しっぱなしです。 オンリーの熱は引くことなく次回の開催が発表され、また一年死ねないなとオタクの延命措置代わりになりました。
発表されたはいいものの、学生さんも多く活動される同人界隈に、割と遅咲きで参入した私は正直ビビって一般でもいいかな…と考えもしたのですがどうにかしてまだ見ぬジェスネ民をあぶり出したい気持ちに勝てずポタオンリーの先輩でもあり心のスタメン日記さんに相談して一緒に合同スペとして参加することになりました。ありがたい~~! オンリーは本を一冊以上だすことが参加条件だったのでお互い背水の陣で原稿を頑張りました…(一緒にゴールしようねのはずがもぐみ選手まさかの早期脱稿の裏切り行為発覚) スペースはどうする?など女オタクらしい可愛らしい会話でキャッキャしながらとうとう迎えたオンリー当日。 お互いの生存確認をラインでしつつ最寄駅手前の駅で乗り込んできたのがこれから一緒のスペースに座るはずの日記本人で、ビックリして声も出ませんでした。この長い電車で!!二、三分おきにくる東京の電車で!!!なんという悪運というか…心がしばらく落ち着きませんでした。
同じ会場だったため去年のカンを頼りに会場入りし楽しい楽しいオンリーが始まりあっという間に終わるという。記憶がない。サークルナンバーがS13だったんですがS島は鎖国しまくりの私でも知ってるひとばかりで心強かった~。一年ぶりの再会があったり今年は残念ながらお会い出来なかった方もいて、でも熱量は変わらず!最高なオンリーでした。オンリーの後はジェスネアフターに誘っていただきめちゃくちゃ同人イベント活動っぽい!とアホ丸出しでした。(actさんありがとうございました!moeさんとの推しCPマイクバトル最高でした!)
初めてのサークル参加で、あまりプラス思考でない私は自分の本が誰の手にも渡らず終わるのではないかと胃が痛かったのですが想像以上にお嫁にいってくれて生んだ身として感謝の一言に尽きます。手に取ったいただけた皆様に少しでも楽しんでもらえれば本望です。 「ALPHABET MARCH」のタイトルは恋愛初心者のジェスネが少しずつ順番に距離を詰めていくドタバタうるさい日常にぴったりかなと思いつけました。 スネイプ少年のほの暗い学生生活がジェームズの参入により良くも悪くも色づく瞬間があったらいいな。逆もしかり。
平和ボケした自分のジェスネをまさか本にして出すとは、ポタ描き始めたばかりのあの時には思いもしませんでした。そして多分日記がいなければサークル参加もしていなかったでしょう。知らず知らず心の支えになってくれていた彼女に本当に感謝しています。一緒に出てくれてありがとう。これからもおんぶにだっこでお世話になります。あといまきたばかりの道もう間違えないでね。
再来年のポタオンリー開催発表されています。楽しみ繋がるのがありがたいですね。もしも次があるとしたらどんなジェスネを形に残そうかと考えるのが楽しいです。予定は未定。
十日も経って長々と振り返ってみましたがカオスだったな。イベントもこのブログも。文字綴るの本当にへったくそなので~~でも文字でちゃんと残すべきだと思いました。だって楽しかったんだもん。イベント後怒涛の日々をすごしていたのでやっと腰を落ち着けて更新できました。無様なブログですみません。
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ohmamechan · 7 years
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沖をゆく青い舟
 ※大昔に出した本の、短編を中途半端に再録です。  夏合宿の前に、一日だけ実家に戻った。  母が物置をひっくり返して大騒動をしているので何かと思えば、遺品の整理をしているのだと言う。 「来年はお父さんの十三回忌でしょう?久しぶりに、色々片付けようかと思って」  そう言いながらも、母が何一つ父に関わるものを捨てる気が無いのを知っている。七回忌の時もそうだったからだ。  仕舞い込まれていたものを取り出しては並べ、天日に干して、また元通りに収める。  各種大会で取ったメダルや額入りの賞状。トロフィー。くたびれた皮のジャケットやジーンズ、ぼろぼろのスニーカー。色あせた大漁旗。古びたランタン。  とりとのめのない、父を思い起こさせる物ものたち。  それらは、普段は目のつかないところに収められているけれど、その物ものたちの存在を忘れることは決してない。母は特にそうだろう。普段の食事や、居間で和んでい る時、ふとした会話の端々に、父の存在を滲ませる。父がいたこと、父が今はもうこの世にはいないこと、そのどちらも当たり前にしている。母はそんな話し方をする人だ った。 「このTシャツなんか、もうあんたにぴったりじゃない?」  時代を感じさせるスポーツメーカーのTシャツを、背中にあてがわれる。靴を脱ぎ終わらないうちから、母が玄関に飛んできてそんなことを言うのだ。  江は、居間にテーブルにアルバムを広げて、色あせた写真を眺めていた。 「いっつも思うんだけど、私もお兄ちゃんも、ちっともお父さんに似てないのよね。花ちゃんのとこは、みんなお父さんに似てるのよ。娘は父に似るって言うけどうちは違 うわね。全部、お母さんに寄っちゃったみたい」  などと、一人で何やら分析している。  そこへ母が戻ってきて「ほら、このTシャツよ。みんなで海へ出かけた時に着てたのよ」と手にしていたTシャツとアルバムの写真を交互に見ながら言う。どちらも見比 べてみた江が、ほんとだ、と感激する。  以前は、このやり取りを見ているのが苦痛だった。二人が、父の話を和気あいあいとする中に、うまく混ざることができなかった。父の写真を持ち歩きながらも、本当は 写真の中の父と目を合わせるのはこわかった。母に会えば、父の思い出や存在に嫌でも向き合わなければならなくなる。あからさまに避けていたわけではないけれど、あれ これと理由を付けて帰らなかったのは事実だ。  それなのに母は、いつも子ども部屋を出て行ったままにしておいてくれた。小学生の時に使っていた机も椅子も本棚も洋服箪笥も。そう広くもない平屋住まいなのだから 、ほとんど帰らない息子の部屋を物置にするぐらいのことをしても誰も咎めやしないのに。  荷物を自分の部屋に置いて居間に戻った。  アルバムを熱心に覗き込んでいる姉妹みたいな二人に自分も加わる。  どれどれ、と覗き込むと、 「お兄ちゃんは見ないで。この頃の私、太っててやだ」  と江がアルバムの左上のあたりを手のひらで覆い隠した。写真は見えなかったが、指の間から書きこまれた文字だけはなんとか読めた。日付からして、江が二歳、凛が三 歳の頃の写真が収められたページのようだ。 「お前、食っては寝てばっかだったもんな」 「そうね、江はおっとりしていてまったく手がかからなかったわ。おやつをあげればご機嫌で、あとはすやすや寝てたもの。お兄ちゃんがちょこまか動いて忙しかった分、 助かったものよ」 「そうだっけ」  おやつを食べかけたまま寝こける江の姿は記憶にあるのに、自分がどうだったかなんて、まる��覚えていない。 「そうよ。走り回るあんたをおっかけて、ご飯を食べさせるの大変だったんだから。一時もじっとしてなかったのよ」  ふうん、と頷きながら、するりとアルバムに置かれた江の手をスライドさせる。 「あっ、お兄ちゃんだめったら」  露わになった写真に写っていたのは、浜辺に佇む家族の姿だった。祖母の家があるあの町の海岸かもしれない。母に抱えられた江はベビービスケットを頬張っている。腕 はふくふくとしていて、顔はハムスターの頬袋のようにまるい。とてもかわいらしい赤ん坊だと思うのに、江は顔を真っ赤にして「見ないでよ」と憤慨している。  同じく写真に写っている自分はというと、父の肩にまるで荷袋のように抱えられて笑っている。浅黒く日焼けした父も笑っている。こうして顔が並んでいるところを見れ ば、つくりは多少違うけれど笑い方は似ている気がする。 「これ、お父さんが外海に出る前に撮った写真ね」 「全然覚えてないわ」 「おれも」 「まだ小さかったもんね。外に出れば一ヶ月は戻れないから、大変だったのよ。お父さんが」 「大変って?」 「離れてる間にあんたたちに忘れられちゃうんじゃないかって、不安がるのよ。お見送りの時はいっつもさめざめと泣いてたわ」  お父さんかわいい、と江が小さく噴き出した。  中にはいくつか風景写真もあった。眺めているうちに、見覚えのある海岸線が写っているものを見つけた。 「これは、おとうさんの船で島まで渡った時のものね」 「あ、ほんとだ」  母と江がそろって覗き込んで来る。小さいながらも、父は自分の船を持っていた。青い船体に赤い縁取りの漁船。普段は大型漁船の乗組員として沖合や外洋に出ていたが 、禁漁で船が出せない期間は、よく自分の船に乗せて近海に連れ出してくれたものだ。小島を渡って、釣りをしたり、磯で生き物を探したりした。  小学生の時も、オーストラリアにいる時も、父を思わない日は無かった。けれどそれは、こうして思い出に浸るようなものとは少し違っていた。自分が何のために泳ぐの か、今なぜここにいるのかを確かめるための座標のようなものだった。そこに、感傷はあるようで無かった。感傷を背負い込む余裕すらなかったのだ。 「今度、江も凛もここに合宿に行くんでしょ?」 「うん」 「まさか、またあのコーチに船出してもらうのか?」 「いいじゃない!結構楽しいよ」 「お父さんが生きていたら、喜んで船を出してくれたでしょうねえ」  ゆっくりと母が言った。  昨年の夏、あれほどの問題を起こしたのに、鮫柄高校水泳部と岩鳶高校水泳部は頻繁に合同練習を行い、大会前は対抗試合を行うほど親交が深まった。  許してくれる人間もいればそうではない人間もいる。部内には、凛に対して風当たりの強い部員も当然いる。岩鳶高校と交流を持つことをよく思わない部員もいる。そん な中でも、御子柴部長は率先して岩鳶高校を自校へ招待したし、自分たちも岩鳶へ遠征した。今春から後を引き継いだ新しい部長が今回の合同夏合宿を持ちかけたのも、O Bの意見を取り入れたからだ。  彼の言動というよりも人柄が、凛が水泳部に居座ることを不快に思う部員たちの意識を変えていった。 「だって、江くんと会える絶好の機会じゃないかあ」  などと茶化してはいたが、彼がどれだけ気を遣い、部内の雰囲気を良好に保つために力を割いてくれたのか、側で見ていた凛には痛いほどよく分かる。  自分にできることと言ったら、泳ぐことしかなかった。御子柴の厚意に甘えるばかりでは、何も示せない。ひたすら、どんな時も、誰よりも真剣に泳いで見せた。泳ぐこ との他には、先輩に礼を尽し、後輩を支えた。それは部員として当たり前のことばかりだったが、その当たり前を一心にやり通すこと。それが素直にうれしくもあった。  六月末、島へ渡り、例年通り屋内プールを貸し切っての合宿が始まった。昨年と異なるのは、岩鳶高校と合同だという点だ。  合宿の中日は、午前中のみオフタイムとなり自由行動が与えられた。五日間のうち、四日間は泳ぎっぱなし。合宿後はすぐに県大会に向けて最終調整に入る。ではここぞ とばかりに休もう、ではなく、遊ぼう、と考えるのは、まさに渚らしかった。 「ねえねえ、凛ちゃん。明日のお休み、みんなで海で遊ぼうよ」  合宿二日目、専門種目の練習の最中、隣のコースに並ぶ渚がのん気に話しかけてきた。そういう話は後にしろ、とたしなめても、彼はにこにこしながらなおも言った。 「絶対行こうよ。おもしろい景色、見せてあげるから!怜ちゃんが!」  そんなことを大声で言うので、やや離れたところでフォームのチェックをしてもらっていた怜がぎょっとしていた。  渚の言う「おもしろい景色」とは、まさにおもしろい景色だった。 「お前、なんだそのナリは」  晴天の下、焼け付く白砂の上に降り立った怜を見て、凛は顔をしかめた。 「し、仕方ないでしょう。これがないと、ぼくは海へ出ちゃいけないって、真琴先輩が…」  しどろもどろな怜の腰、両方の上腕にはヘルパーが取り付けられ、腕には浮き輪を抱えている。浮き輪はピンクの水玉模様。先日、江が押入れから取り出して合宿用の荷 物の中に加えているのを確かに見た。まさか、怜のためのものだったとは。 「おもしろいでしょ?怜ちゃんてば、去年色々やらかして大変だったんだから、まあしょうがないよね」  何をやらかしたかについては、大体聞いている。夜の海に出て溺れかけたらしい。一歩間違えれば大変なことになっていた危険な行為だ。だからと言って、これはあんま りだろう。 「お前、ほんとに水泳部員かよ」 「どこからどう見ても、水泳部員です!昨日見ましたか、ぼくの美しいバッタを!」 「あ?全然なってねえ。せっかく俺がじきじきに教えてやってるのに、もうちょっとましになったらどうだ」 「知識・理論の習得と実践の間には時間差があるものです。だから昨日あなたに教わったことはですね…」 「もうまた始まった!バッタの話になると長いんだからやめて、二人とも!」  そうして三人で波打ち際で騒いでいると、 「まあまあ、三人とも、とりあえず泳ごうよ」  やわらかい声がすんなりと差し込まれた。真琴がにこにこしながら海を指差す。 「ハル、待ちきれずにもう行っちゃったよ」  見れば、遙が波打ち際から遠く離れた場所をすいすいと気持ちよさそうに泳いでいた。 「なんて美しい…海で泳ぐ姿は、本当にイルカや人魚のようですね」  怜がうっとりした顔をしていた。男のくせになんつう比喩だ、と毒づきたくなるが、あながち外れてもいない。 「僕もあんな風に海で泳ぎたいものです」  怜が唯一泳げるのはバッタのみで、他の泳法は壊滅的にだめなのだそうだ。一年をかけて少しずつ特訓してきたが、どうしても上達しない。合同練習で会えばバッタの練 習しかしないので、遙と同じく「ぼくはバッタしか泳ぎません」というスタンスなのかと思っていたが、違うらしい。 「鮫柄の皆さんにカナヅチがばれてしまうのも時間の問題です」 「いや、ばれてるよ、怜ちゃん」 「怜…残念ながら」  渚と真琴がそろって悲しげな顔を作った。 「諦めんなよ。練習しろ」  とりあえず励ましておくことにすると、怜は「でも…」と暗い顔で俯いてしまった。その背中を渚が押して、「そうそう、練習しよう!」と無理やり水辺へと引っ張って 行く。 「さあ、特訓だ!松岡教室開講~!」 「いやです!今はオフです!」 「秘密の特訓をして、みんなを驚かせたくないの?」 「それは…」 「いいから来いよ、怜」 腰が引けているその手を取ると、怜は恐る恐る波に足を浸けた。 「やさしくしてください…」などと、目を潤ませ、怯えた小鹿のように言うので、笑いをこらえるのがやっとだった。 「たぶん大丈夫だろうけど」と言いつつ遙を一人で泳がせておくのが心配になったらしい真琴は、遙の後を追って沖へと泳いで行った。遙の姿はもう小さな点にしか見えな いくらい遠のいていた。一人で遠泳でもするつもりなのだろうか。  そういえば、遙とは昨日も今日もろくに言葉を交わしていないことに気付いた。練習中は専門種目が違うのでウオーミングアップやリレーの練習の時ぐらいしか接点がな い。オフだからと浜辺に集まった今朝は、黙々と一人で体をほぐしていた。 小島まで泳いで渡るつもりなら自分も行きたい。前もって伝えておけばよかったな、と思った。別に、必ず遙と一緒でなければならない理由ではないのだけど。 胸のあたりまでの深さのところで、怜の特訓が始まった。 潜ることは抵抗なくできるというので、とりあえずヘルパーを外して自分の体だけで楽に浮く練習から始めた。だるま浮きだの大の字浮きだの初心者向きの手ほどきは散々 やって来たことらしいのだが、それすら怪しいのだと言う。 「海水は水より浮力があるからな。少しは浮くんじゃねえの」  本当は波のないプールの方が断然初心者には向いているし、浮力が問題ではないと思われた。けれど、慰めにそう言ってみると、怜は「なるほど」と素直にうなずいてい た。なんだかすっかりその気のようだ。  怜はすう、と大きく息を吸って水に潜った。だるま浮きから水面近くに浮いて来たところでじわじわと手足を伸ばす。水面下10cmあたりのところで怜の体がゆらゆら と揺れる。 「わあ、海水マジック!浮いてるよ怜ちゃん!プールの時よりもずっと!」  渚が歓喜して大げさに拍手する。とても浮いているう��には入らないような気がするのだが。  次、バタ足を付けてみろよ、と指示を出すと、怜は恐る恐る水を蹴った。ぱちゃぱちゃとバタ足を数回繰り返したところでその体がずぶずぶと沈んでいく。 「おいおい」  掌を掬い上げて浮力を助ける。ぶはあ、と怜が苦しげに息を吐いて体を起こした。 「はあ…途中まではいい感じだったんですが」 「うんうん、進んでたよ」 「潜水艦みたいにな。もう一度やってみろ」  再度バタ足にチャレンジする怜に「もうちょっと顎を引け」と伝えると、すぐに言われたとおりにしてみせた。怜は理屈っぽいところがあるが、素直だ。力を伸ばすのに はそれは大切な要素だ。  顎を引いた分だけ浮力を得て、わずかなりとも浮きやすくなるはずだ。しかし、怜の場合は逆効果だった。頭の方から斜めに沈んでいく。まさに、潜水艦のごとくだ。 「わあ、頭から沈んでいく人、初めて見たあ」  渚の遠慮のないコメントに笑ってはいけないのに、こらえきれずに小さく噴き出してしまった。 「ちょっと!笑わないでください!ひどいです!」  びしょびしょに濡れた髪を振り乱して怜が喚く。 「わりい…いや、ちょっとした衝撃映像だったから」 「動画、とっとけばよかったね!」  渚と二人で笑い合っていると、怜はもう泣きそうな顔をしていた。 「しょうがねえよ。体質だ」  怜の肩に軽く手を置いて慰めた。 「体質?」 「お前、陸上やってたんだろ?」 「はい」 「筋肉質で体脂肪が少ない上に、骨が太くて重いんじゃねえの。ついでに頭も」 「怜ちゃん、頭いいもんね。脳みそ重いんだね」 「なるほど…」 「もうどうしようもなく浮くようにできてねーんだよ。そういうやつ、たまにいるぜ」 「そうなんですか?僕だけじゃなく?」  凛はしっかりと頷いて見せた。 「極端に痩せた人はもちろん、筋肉をがちがちに鍛えた人も当然浮きにくいよな」 「物理の法則からするとその通りですね。僕の体は、そもそも水に浮くようにできていない…」  しょんぼりと肩を落とす怜を、渚が心配そうに覗き込む。 「怜ちゃん…楽に浮けるようになりたかったら、脂肪を蓄えるしかないね。ドカ食い、付き合うよ」 「いや、脂肪は付きすぎると水泳にとっては邪魔なものです」 「そうだっけ?」 「ようはバランスだな」 「カロリー、体脂肪率、筋肉の質…僕の体にとってのこれらの黄金律を導き出さなければ…!」  怜はかけてもいない眼鏡のツルを押し上げる身振りをして、ぶつぶつとつぶやき始めた。 「ま、でもバッタが泳げりゃいいんじゃね?」  あまり思いつめるのもどうかと心配になったのでそう軽い調子で言うと、怜は切実そうに訴えた。 「あなたまで皆さんと同じことを。ここまで焚きつけておいて」 「だってよ、ここまでとは思わなかったからな」 「ひどいです。僕だって、みなさんと同じように泳げるようになりたい」  顔をくしゃりと崩す怜を見ていると、ふと幼いころを思い出した。こんな風に、父と海で泳ぐ練習をした覚えがある。海育ちは、潜るのは得意だが、わざわざフォームを 整えて浮いたり泳いだりはしない。潜って魚を捕ったり、磯で生き物をいじって遊んだりするのがほとんどだった。だから、幼稚園のプールでいざ泳いでみて、ショックだ った。潜水したままプールの床底を進む凛に、友だちが「それ泳ぐのと違うんじゃない」と言ったのだ。スイミングスクールに通っている同じ年の子どもが、それなりに様 になったクロールを披露してくれた。水の中にいるのなんて息を吸うように当たり前にできるのに、あんな風に泳ぎ進む、ということがどうやったらできるのかわからなか った。  しょげかえる凛を見かねて、父が特訓してくれた。当時は祖母の家の隣の長屋に住んでいて、目の前は海だった。幼稚園から帰ってすぐに海へ駆け出して行って、ひたす ら泳いだ。「がんばれ」と両手を広げる父まで、辿り着こうと必死で水を掻いた。毎日練習を繰り返して泳げるようになったとき、父はうれしそうに笑っていた。  もうずっと昔のことが鮮明に思い出されて、懐かしさで胸がいっぱいになった。  だからなのか、肩を落とす怜に思わず言っていた。 「わかった。とことん付き合ってやるから、がんばれよ」  怜が顔を上げて、その目を輝かせた。ええもう遊ぼうよお、と渚が後ろに倒れ込みながらぼやいた。  それから小一時間練習して、休憩に入った。  怜は、沈みがちではあったが、バタ足で10mほど進めるようになった。クロールのストロークはもとより様になっていたので、特に言うことは無かった。推進力はある のだから、ブレスでなるべく浮力とスピードを落とさないようにすれば、それなりに泳げそうだった。あくまでも、それなりにだったが。  三人で丸太のように木陰に転がり、ほてった肌を冷ました。 「感動です…ぼくでも何となく形になりました」 「怜ちゃん、感動したよぼくも!」  わざわざ凛を挟んで、渚と怜が会話する。凛は浮き輪を枕にして、二人のやり取りを聞いた。 「渚くんは、途中から変な顔をして僕を笑わせようとしていたでしょう!手伝っているのか邪魔しているのかわかりません!」 「心外だなあ。リラックスさせようと思ってやったんだよ。緊張したら体が硬くなるでしょ?怜ちゃんぷかぷか作戦の一つだったのに!」 「そ、そうだったんですか」 「なんてね」  渚はそう言うや、跳び起きて海へと駆けだして行った。怜からの反論を見越していたのか、見事な逃げっぷりだった。 「ぼくも、向こうの島まで行って来るねー!」  ぶんぶんと手を振り、あっという間に波間に消えて行った。 「あの人は、いつもああなんです」 「楽しそうだな」 「疲れます」  それには頷くしかない。 「あなたも、泳ぎに行かなくていいんですか?」 「ああ、いいんだよ。ちょっと、疲れも溜まってるし」 「…すみません。オフなのに疲れさせてしまって」  怜が顔を曇らせる。 「いや、お前のせいじゃねえよ。ついオーバーユースしちまうから、オフの日はなるべく休めってコーチに言われてんだよ」 本当は島まで遠泳できるならしてみたかったが、心残りになるほどでもなかった。ひんやりとした木陰の砂の上に転がって、潮風を受けていると、とても気持ちがいい。瞼 の裏に枝葉をすり抜けてきた光が差して、まだらにかぎろった。 「あなたが、ぼくに泳ぎ方を教えてくれるのは、昨年のことを気にしているからですか?」  まるで独り言のような小さな呟きが耳に届いて、凛は瞼を起こした。  怜が生真面目な顔でこちらを見ていた。 「なんだよ急に」 「すみません、確かめておきたくて」  怜が言っているのは、昨年の地方大会のことに違いなかった。彼を差し置いて、岩鳶高校の選手としてリレーに出た。彼らの厚意に乗っかって、大事な試合をふいにして しまった。得ることの方が大きかったけれど、負い目を感じないわけがない。しかし、負い目があるから怜に泳ぎを教えているのではない。それははっきりと、違うと言え る。 「あなたがいつまでも、ぼくに負い目を感じる必要はありません。ぼくが決め、あなたたちが選んだ。それだけのことです。そりゃあ、問題になりましたが、いつまでも引 きずっていても…」 「待て待て、怜」  怜の言葉をやんわりと止めて、上半身を起こした。乾いた白い砂の粒が、はらはらと肌の上を滑って落ちる。怜も体を起こして凛と向き合った。きちんと居住まいを正す ところが、怜の真面目で誠実なところだ。 「負い目って言われるとどうかと思うけど、それは一生無くならない。失くせって言われても無理だ。そういうもんなんだ。でも、罪滅ぼしのために、お前に泳ぎを教えて んじゃねえよ」 「ではなぜですか」  面と向かって問われると、答えざるを得ない空気が漂う。凛はがしがしと後ろ頭を掻いた。 「お前が一生懸命だからだ」 「一生懸命?」 「一生懸命練習しているやつがいたら、手伝いたくなるだろ。そういうもんだ」 「敵に塩を送ることになっても?」 「一人前なこと言うな、お前」 「だって、そうでしょう」  凛は口端を上げた。自然に笑みが湧いた。 「一にも二にも努力努力っていうけどよ。努力すらできないやつだって、ごまんといるんだよな。努力する才能ってやつも必要だ。お前にはそれがある。それは…すごいこ となんだ。そういうやつを、俺は尊敬してる」 「尊敬、ですか」  怜がしみじみと噛みしめるように言った。 「あんだけ見事な潜水艦だったのに、さっきの特訓では一度も音を上げなかったしな。俺だったら三分で逃げ出してる」 潜水艦って言わないでください、と怜はむっとした顔を作った。けれど、すぐにそれを解いて微笑んだ。 「ぼく、とても楽しみなんです。今度は、ぼくもあなたたちと一緒に泳げる。いつだってこうして楽しく泳ごうと思えば泳げるけど。試合で泳ぐのは、特別な気がします」 「確かにな」 「緊張もするけれど、わくわくします」  わくわくします。それはいい言葉だった。長らく自分が見失っていた感情に近い気がした。 「あなたは勝ち負け以外の何があるんだって、言っていましたが」 「どうしたって、勝ち負けはあるんだぜ」 「知っています。でも、ぼくはわくわくするんです。勝つかどうかもわからない。勝��たらどんな感情を抱くのか。負けたらどんな自分が出て来るのか。それは理論では計 り知れない。そういう未知なる気配が、おもしろいと思えるようになったんです」 「俺もそう思う」 「わくわくしますか」 「ああ、する」 「一緒ですね」  怜がふわりとはにかむ。隙だらけのあどけない顔をするので、思わずその頭をわしわしと撫でまわしてしまった。 「なんだよお前。ガキみたいな顔しやがって」 「だって」  怜は泣き笑いのように顔をくしゃくしゃにした。 「僕にも、皆さんと同じ景色が見られるんじゃないかって、今、すごく思えたから」 「そうかよ。楽しみにしてろよな」 「はい」 「怜、ありがとな」 「はい…えっ?」  まさか礼を言われるとは思っていなかったらしい怜は、戸惑っていた。妙に照れくさくなってしまって、そんな怜を置いて弾みをつけて立ち上がった。 「やっぱ泳ぐかあ。あいつら、どこまで行ったんだ?」  木陰から一歩踏み出ると、目が眩むほどの強い日差しに、何度か瞬きをした。  そこへ「せんぱあーい!」と似鳥の甲高い声が聞こえてきた。防風林の向こうから駆けて来る姿があった。 「自主練終わりました!ぼくも仲間に入れてください!」  そういえば、似鳥も海水浴に行きたいと言っていた。わざわざ断ってくるところが彼らしい。 「愛ちゃんさん、自主練をしていたんですね。見習わなければ」 「お前も自主練みたいなもんだろ」  似鳥はあっという間に、なだからかな浜を駆け下ってきた。 「御子柴ぶちょ…あ、元部長が差し入れにいらしてましたよ」 「暇なのか?あの人」 「そんなこと言ったら泣いちゃいますよ。ちゃんと後であいさつしてくださいね」 「わかってるよ」  怜を連れ出して沖まで行くか、と相談しているところに、今度は「おにいちゃーん!」と江の声が届いた。  見れば、ビニール袋を提げた両手をがさがさと振っている。言わずもがなのアピール。  「手伝います」という後輩たちを置いて、パーカーを羽織ると江のもとへ浜を駆けのぼった。怜は真琴の言いつけ通りの完全防備で、似鳥に浮き輪ごと曳航されて沖へと 出て行った。 「のんびりしてたのに、ごめんね」と江は詫びつつも、しっかり凛に重い荷物を譲り渡した。買い出しのために顧問に車を出してもらおうとしていたら、鮫柄の顧問から呼 び出しがかかってしまったらしい。 「ったく、買い出しくらいあいつらにさせろ。それか、マネ増やせ」 「そうね、マネも増やしたいなあ。時々、花ちゃんが手伝ってくれるんだけどね」  麦わら帽子をちょんと被りなおした江が、それにしても暑いねえ、とのんびり言う。  岩鳶高校が宿にしている民宿は、浜からそれほど遠くない。ビーチサンダルで砂利を踏みながら、江と並んで歩いた。太陽はますます高く、縮んだ濃い影が、舗装された 白い道に焼き付いてしまいそうだった。 「あ、ねえ、お兄ちゃん、見て」  江が白い腕を伸ばし、海のかなたを指した。 「あの船、お父さんの船に似てるね」  見れば、はるか沖を行く船たちの姿が、ぽつぽつとあった。マッチ箱ほどの小さな船影の中に、確かに、父の船と似ているものがあった。青い船体に、白い縁取りの漁船 だ。青い船は、白波を立てて水平線を滑るように進んでいく。やがてその姿は、小島の向こうに消えて見えなくなった。  二人で船を見送ったあと、わたしね、と江が言った。 「一つ、思い出したことがあるの」 「何を?」 「お兄ちゃん、お父さんが死んじゃったあと、よく海に出かけて行ってたでしょ?ひとりで」 「そうだったか?」 「そうだったよ。お母さんが、夜になっても戻らないって、すごく心配してたの。あの時、お兄ちゃんは、何をしに行ってたのかなあって」 「海に行くのは、いつものことだっただろ」 「そうなんだけど。お父さんが死んだあとのことよ。毎日、毎日、お兄ちゃんが帰って来ないって、お母さんが玄関の前でうろうろしてた。それを見て、わたしはすごく不 安だったことを思い出したの」  突然、遠い昔の話を出されて困惑してしまう���確かに、父が亡くなったあと、毎晩のように浜辺へ通っていた覚えがある。けれど、何のためにそうしていたのか、よく思 い出せない。 「でもね、お兄ちゃんは、ちゃんと帰って来た。お兄ちゃんが海から家に帰って来たら、ああ、よかったあ、ていつも思うの。待つことしかできなくて、とっても不安だっ たけど、ああよかった、お兄ちゃんは、どこへも行かずにちゃんと帰って来てくれて、って安心するの。そういう記憶」  沖をじっと見つめていた江が、また歩き始めた。歩調を合わせてゆっくり歩いた。 「お父さんが死んだとき、私はまだ小さかったから記憶はおぼろげなんだけど、最近は、よく思い出すんだ。お父さんが死んだ時の、お母さんの顔とか、海に出て行ったお 兄ちゃんが庭に放りだした自転車とか、お父さんの大きな手とか、声の感じとか、色々、ごちゃまぜに」 「そうか」 「なんでかな、今まで忘れてたわけじゃないんだよ。毎日、仏壇にお線香上げるし、お花の水も換えるし、お祈りもする。けど、そういう決まったことのように亡くなった 人のことを思うんじゃなくて、勝手に湧いてくるの。ふとした時に、お父さんの気配みたいなものが」  それは、凛にもわかるような気がした。さっきだって、怜に泳ぎ方を教えながら、それを感じたばかりだからだ。もう形を持たないはずの父が本当にそこにいるかのよう な感覚。五感のどこかに残っている父の記憶のかけらが、不意に集まって形作るような。 「海にいるからかな」 「そうかもな」 「お兄ちゃんが、お父さんの話をするようになったからかもしれないよ」 「どっちだよ」 「どっちもよ」  江がそう言うのなら、そうなのだろう。  並んで歩きながら、沖を行く船の姿を探した。けれど、もうあの青い船の姿は見えなかった。その名残のように、小さな白波がいくつもいくつも、生まれては消えた。太 陽の高度はますます上がり、水面に踊る光の粒がまばゆく目を刺した。  江を送り届けて海岸に戻ると、遙がぽつんと遊歩道に立っていた。もう海から上がっていたらしい。  江から、あと小一時間ほどしたら宿に戻って食事を摂り、午後からの練習に備えて休むように言ってほしい、と頼まれていた。それを伝えようと軽く手を振ると、遙はふ い、と顔を背けて再び浜へ下りて行ってしまった。なんだよ、とつい零したくなるような態度だ。迎えに来てくれていたわけではないのは分かっていたが、あまりにも素っ 気ない。まあ彼としては珍しくもない振る舞いなので、まあいいかとすぐに思い直した。  真琴や渚たちも沖から戻っていた。彼らは屋根付きの休憩所で水分補給をしていた。 「怜がちょっと泳げるようになってたから、俺、感動しちゃったよ」  真琴が声を弾ませて言う。怜はその隣ですっかり得意げな顔だ。 「浮く練習なら深いところがいいって愛ちゃんさんが言うから、やってみたんです。そしたらできました」 「へえ、やるじゃねえか」 「はい。…しかしまあ、愛ちゃんさんがすごく怖くて。ヘルパーも浮き輪も容赦なく外してしまうし」 「愛ちゃん、スパルタだったよ!」  渚の隣で、似鳥は恐縮したように肩をすくめた。 「凛先輩ほどじゃありませんよう」 「いや、おれよりお前の方がえげつない練習メニュー考えるよな。この合宿のメニューだってさ、一年が、青ざめちまってたもんな」 「え、そうですかあ?ぼく、もしかして、後輩にびびられてますか?」  似鳥が困惑顔で腕に縋り付いてくる。いや、それはない、とすぐに否定しておく。童顔な彼は、どうかすると後輩に舐められてしまいがちだが、面倒見が一番いいのでよ く頼られている。 「似鳥、俺たちはそろそろ戻るか」 「もうですか?」 「午後連の前にミーティングと、OBに挨拶があるんだろ?」 「そうですね…。もうちょっと、皆さんと泳ぎたかったですけど」 「え~、愛ちゃんも凛ちゃんも行っちゃうの?」  似鳥の縋った腕とは反対の腕に、渚がぶら下がる。重い。 「しょうがねえだろ。OB様は、大事にしておかねえとな」  残念がる似鳥を促して、荷物の整理をしていると、それまでベンチの隅にしゃがんでいた遙が、急に立ち上がった。もの言いたげにこちらを見るので、「なんだよ」と思 わず言ってしまう。そのくらい、視線が重い。何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。 「なんか言いたいことあるなら言えよ、ハル」 「別に」  何もない、と遙はまたそっぽを向く。明らかに何もないわけがない態度だったが、もう放っておくことにした。 「お前らもぼちぼち戻れよ。江が、メシ作ってるって」  ちえ、バカンスは終わりかあ、と渚は盛大にこぼし、真琴は部長らしく「手伝いに戻ろっか」とお開きのひと声を発した。まるでそれを待っていたかのように、ぷしゅ、 と空気の抜ける音がした。遙が水玉模様の浮き輪の空気を抜く音だった。無言のまま、ぎゅうぎゅうと体重をかけて押しつぶしている。むっと口を結んでいるところを見る と、やはりご機嫌ななめらしい。 ほんと、よくわかんねえやつ。  手伝うよ、と真琴が遙に歩み寄る。その様を見ているのがなんとなく癪で、凛は「帰るぞ」と似鳥を連れて宿に向かって歩き始めた。  明け方の白砂は、潮を含んで重かった。  少し足を取られながらも、波打ち際を流すようにゆっくりと走った。連日の猛練習の疲れは残っているが、だらだらと眠るよりも、こうして体を動かしている方がすっき りする。  夜の間に渡って来たらしい雲が、東の空から羽を広げるようにたなびいている。それを、水平線に覗いた朝日がうっすらと赤く染めている。波も、同じ色に染まっている 。  朝日の中を行く船があった。まばゆい光の中にあって、色はわからない。  ゆるやかな海岸線の中ほどで、凛は足を止めた。上がった息を鎮めながら、沖合に目を凝らした。  なぜ、父が亡くなった後、毎日海へ出かけたのか。  昨日、江にたずねられたことを改めて考えているうちに、あることを思い出した。昨夜、眠りに落ちる前に、ふとおぼろげな記憶の中から浮かび上がってきた。   父は、凛が五歳の時に亡くなった。夏の終わりの大時化で、船と共に沈んでしまった。船そのものも、遺体も上がらなかった。何日も捜索が続き、母は毎日、港に通った。 何かしら知らせが来るのを待ち続けたけれど、ついに父は戻らなかった。船長を含めた十数人が行方不明のまま、捜索は打ち切られてしまった。だから今も、墓の下に父の 骨は無い。墓石や仏壇に手を合わせる時、どこか空虚な気がするのは、そのせいかもしれなかった。 飛行機に乗って世界中のどこへでも行けるし、ロケットに乗って月へも行けるのに、たった沖合3kmのところに沈んだ船を見つけることができないなんて、おかしな話だ 。捜索を打ち切って、浜から上がって来るゴムボートを眺めながら、そんなことを思っていた。 父が戻らないことを凛と江に告げる母は、やつれて生気を失ったような顔をしていたが、どこかほっとしているようでもあった。何か一つの区切りを迎えなければ、母は限 界だったのだろうと思う。毎晩、祖母に縋り付いて泣いているのを、凛は知っていた。江と一緒に仏間の布団に寝かされ、小さくなって眠る振りをしながら、母の細い嗚咽 を聞いた。母は、泣いて泣いて泣き伏すうちに、いつか細い煙になって消えてしまうんじゃないかと心配だった。朝になると、母は気丈に振る舞っていたので、その不安は 消えるのだけど、夜になって母のすすり泣きが聞こえてくると、家全体が薄いカーテンの中に包まれて、そこだけが悲しみに浸かっているような気がした。 捜索が打ち切られた数日後、形ばかりの葬儀が行われた。遺体の上がらなかった何世帯が一緒に弔いをすることになり、白い服を着た大人たちに連なって、海沿いを延々と 歩いた。波は嘘のように穏やかだった。岬で読経を上げる時、持たされた線香の煙がまっすぐに天へ昇っていったのをよく覚えている。  葬儀が終わると、生活のすべてがもとに戻り始めた。母には笑顔が戻った。友だちと外で遊び、お腹が空いたらつまみ食いをした。江は勝手に歌を作って歌い、ちょっと 転んだだけで泣いた。いつもと同じ毎日だった。  けれどもそれは、凛にとっては、大きく波に揺り動かされて、遠くへ投げ出されてしまったかのように強引で、拭いようのない違和感に満ちていた。誰もかれも、日常の 続きを演じているような奇妙さがあった。  四十九日が済むと、海辺の家を離れて、平屋のアパートを借りてそこで三人で暮らすことになった。父の船は、知り合いに引き取ってもらうことになった。新しい家も、 父の船が人の手に渡ってしまうことも、嫌だった。けれど、決まったことなのよ、と母に泣きそうな顔をされると、何も言えなかった。  引越しをする少し前から、毎日海へ通うことになった。  行き慣れた海岸は、潮が引くと、磯を渡って沖まで行くことができた。ごつごつとした岩場を歩き、磯の終わるところまで足を運ぶと、そこに座り込んで海を眺めて過ご した。  せり出した磯は、ずいぶん海の深いところまで伸びていて、水面から覗き込んでも海底は見えない。もっと小さい頃は、一人では行くなと言われていた場所だった。磯か ら足を滑らせれば、足の着かない深みにはまって危険だからと。  しかし、磯の岩場には、釣り人もいたし、浜辺には船の修理をする近所の大人の姿もあったので、凛は構わず出かけた。  手にはランタンを提げて行った。父が納屋で網を繕う時に、手元を照らすためにいつも使っていた、電池式のランタンだ。凛は、暗くなるとそれを灯して、いつまでも磯 にいた。  父が戻らないことは、幼心にもわかっていた。これから、父のいない生活を送らねばならないことも。  もう二度と、あの青い船に乗せてもらえないこと。泳ぐのが上達しても、大げさなくらい喜んで、頭を撫でてもらえないこと。大きな広い背中に抱き付いて、一緒に泳ぐ こと。朝霧の中を、船で進む父に手を振ること。お帰りなさい、と迎えること。そんなことは、もう、ないのだとわかっていた。  わかっていたけれど、誰も父を探そうとしてくれないことが、誰もが当たり前の顔をして日常に戻ってしまうことが、悔しかった。かなしかった。  海へ通い続けたのは、ぶつけどころのない感情を、なんとか収めようとしていたからなのかもしれない。海はただそこにあるだけで、凛に何も返さない。何を投げても、 すべてを吸い込み、飲み込み、秘密のままにしてくれる。父を飲み込んだ海なのに、憎いとか恨めしいとか、そんな感情は浮かばなかった。むしろ、誰よりも、そばにいて くれている気がしていたのだ。  ある風の強い日だった。その日も、いつものように海へ出かけた。波は荒く、岩にぶつかっては白い泡になって弾けていた。大きな雨雲の船団が、どんどん湧いては風に 押し流されていた。空は、黒い雲と青い晴れ間のまだら模様で、それを移す海も同じ模様をしていた。  嵐の日と、その次の日には海へ行くなと言われていた。嵐の後には、いろんなものが流れ着くからだ。投棄されたごみならよくあることだが、時に死体が流れ着くことが ある。入り組んだ海岸線が、潮の吹き溜まりを作っていたのだ。  父と海に出かけた時に、一度だけ水死体が岩場の端に引っかかっているのを見つけたことがあった、凛は離れているように言われたので、遠目にしか見えなかったが、白 くてふくふくとした塊を、父や漁協の仲間が引き上げていた。あとで父は、凛に諭すように言った。 「嵐の後の海には、こわいものがいる。海に引きずり込まれるかもしれないから、近寄ってはいけない」と。  あの時の教えを忘れたわけではなかったけれど、凛は横風に煽られながら磯の際を歩いた。いかにも子どもらしい発想だ。本当に見つけたとして、どうしていいのか何も わかっていなかったというのに。  雨雲の隙間から、光が差していた。波に洗われて、日に照らされた岩肌は、滑らかに光っていた。海面にはスポットライトのようにまるく光が差し込み、まるで南海のよ うにエメラルドグリーンに透き通って見えた。雨上がりの海の景色の美しさにすっかり心を奪われた。深い深い海の底に、何かもっと美しい景色や生き物がいるのではない か。凛は、父を探すのも忘れて、磯の際に手と膝をつき、夢中で覗き込んだ。きらきらと光のかぎろう碧が美しくて、ため息が漏れた。鼻先が海面に付くかつかないかとい うところで、びゅう、と背中から風が吹いた。ど、と勢いよく押されて、体が前に倒れ込んだ。あぶない、と気付いた時には遅かった。頭から海に落ちてしまう。海にはこ わいものがいる。引きずり込まれるかもしれない。近寄ってはいけない。あれほど言われていたのに。恐怖に体の自由を奪われて、抗えないまま海へ落ちてしまう寸前、後 ろから、ぐい、と強く腕を引っぱられた。 「危ないよ」  と声がした。  慌てて振り返ってみたが、誰もいなかった。ただ、小雨に濡れて黒々とした岩場が広がっているだけだった。  少し遅れて、心臓がばくばく鳴り始めた。  たった今、海に引きずり込まれそうになったこと。それを誰かが助けてくれたこと。その誰かの姿は、どこにも見当たらないこと。  なにか、今、不思議なことが起きたのだ。  凛は泣きそうになりながら、家へ駆け戻った。とにかく、怖かったのが一番。次には、懐かしいようなうれしいような気持ちでいっぱいだった。  危ないよ、という声が、父の声のように思われたからだ。  不思議な出来事は、その一度きりだった。二度と海が不思議な光を放つこともなかったし、助けてくれた声の主と出合うこともなかった。  海辺の家を離れて、母と江と三人で暮らし始めると、そんなことがあったことすら忘れていた。  あれはなんだったのだろうと思う。海面が光って見えたのは見間違いかもしれないし、引きずり込まれそうになったと感じたのは、ただの風のせいだったのかもしれない 。本当はあの時、通りすがりの釣り人がいて、海に落ちそうになっている子どもに声をかけただけかもしれない。  とにかく、奇妙な体験だった。海では不思議なことが起こるものだと感覚で知っている。言い伝えや昔話も多くあり、それを聞いて育つからだ。でも、自分の体験したこ とをどう片付ければいいのか、わからない。  今は、朝日を浴びて美しいばかりの海は、暗くて深い水底を隠し持っている。この海は、父の命を飲み込んだあの海とつながっている。このどこかに、今も父がいるのだ 。 「凛」  不意に声をかけられて、身をすくめる。  気づけば、足元を波にさらわれていた。慌てて、波打ち際から離れる。 「そのままで泳ぐつもりだったのか?」  遙だった。凛と同じようにロードワークに出ていたのか、汗ばんだTシャツが肌に貼り付いていた。  返事ができずにいる凛を、遙は不審そうに見ている。 「いや、泳がねえよ」  首を振ってこたえると、遙の視線が凛の足元に落ちた。 「濡れちまった」  波に浸かってぐっしょりと重くなったランニングシューズを脱いで、裸足になった。砂の付いたかかとを波で洗う。 「どこまで走るんだ?」  気を取り直すようにたずねると、遙は「岬の方まで」と答えた。答えたものの、凛の顔をじっと見つめたまま走り出そうとしない。  昨日は、午後練になってもろくに口を利かなかったからか、どこか気まずい。 「何を見ていたんだ」  遙が言った。 「何って…海しかないだろ」  凛の答えに納得したようではなかったけれど、遙は海を向いた。 「お前も、真琴みたいに海がこわいのか」 「そんなわけねえだろ。俺は海育ちだぞ」 「そうか。真琴みたいな顔をしてた」  相変わらず言葉足らずで要領を得ないやりとりだったが、どうやら心配してくれているらしい。  遠くから霧笛が響いた。大きなタンカーが沖へ向けて港を出て行く。 「船が…あっちの方に、船がいたから、見てた。それだけだ」  そう付け足すみたいに言うと、遙は船の姿を探して、沖合に目を凝らした。潮風にあおられて、彼のまっすぐな黒髪がさらさらと揺れた。遙の目は、「本当にそうか?」 と不思議そうにしていた。遙の目は雄弁だ。誤魔化さずに本当のことを言わなければならないような、そんな気がしてくる。だから、というだけではないけれど、凛はほと んど独り言をつぶやくみたいに、小さく言った。 「船、見てたらさ。俺、思い出したことがあんだよ。昔のことなんだけどさ」  遙を見ると、彼はまだ遥かな沖合に目を向けていた。凛の話を聞いているようでもあるし、波音や風の音に耳を澄ましているようでもあった。 「親父が死んだあと、毎日海に行ったんだ。何をするのでもなかったんだけど。ランタンなんか提げてさ。暗くなるまで海にいた。それで…嵐が来た次の日にも海に行った らさ、おかしなことがあったんだ」  遙がこちらを見ないことをいいことに、一方的に語った。昨夜ふと蘇った、海での不思議な出来事の記憶を。  遙にこんなことを話しても仕方がない。誰かに聞いてほしかったわけでもない。でも、船の姿を探しているような遙の横顔を見ていると、ほろりと漏れだしてしまったの だ。  彼にとってはどうでもいい話。きっと聞いたからといって、何をどうしようとも思わないだろう。  そういう気楽さがもどかしい時もあれば、救われることもあることを知っている。 「あれは、一体なんだったんだろうな」  話終えると、心の中も随分片付いていた。昔のことだから、記憶はおぼろげだし、端から消えていくように心もとない。事実とは異なるところもきっとあるのだろう。  けれど、あの時、海に落ちそうになった自分を助けてくれたのは父だったと思いたがっている自分がいる。  どうしようもない、独りよがりの感傷かもしれないけれど。 「俺も、見たことがある」  遙がふと口を開いたのは、いくらか時を置いてからだった。ごくごく小さく呟くので、凛が語ったことへ返されたものだとはすぐに気が付かなかった。 「見たって、なにを?」  たずねると、遙は、「海が光るのを」と言った。 「一人で遊んでいる時に。海が、とても美しい碧色をしていて、水底まで透けそうだった。子どもの頃の話だ。あの頃はまだばあちゃんが生きていて、話したら、近づくな って言われた」 「どうしてだ」  遙は少しだけ横目でこちらを見て、すぐにまた海へと視線を戻した。 「死は、時々美しい姿で扉を開くんだって言ってた。小さかったから、よくわからなかったけど」 「そんなの…迷信かなんかだろ」 「そうかもな」  でも、と遙は言い添えた。 「お前の親父さんだったかもな」  不意に父の話に繋がって、けれども相変わらずタイミングはちぐはぐで、理解するのにひと呼吸、必要だった。けれど、遙が言おうとしていることは分かった。凛の気持 ちを汲んで、そう言ってくれたことも。  あの海での不思議な体験は、幼かったので、本当はどうだったかわからない。けれど、それでいいのだと思えた。父が、海に落ちそうになった凛を助けてくれた。そう思 いたければ思えばいい。遙のまっすぐな言葉が、不確かだった記憶をすとりと凛の中に収めてくれる気がした。 「…んじゃあ、そういうことにする」  素直にうなずくと、遙はちらりと意外そうな顔をした。朝の美しい海を前に、わざわざ意地を張る必要もない。  凛は頬をゆるめて、遙かに向かって言った。 「あっちまで走るつもりだったんだろ。行って来いよ」 「お前は?」 「俺は、足、こんなだし。散歩でもして戻るわ」 「じゃあ、俺も散歩する」  一緒に波打ち際を歩き出しながら凛は言った。 「ハル、お前、昨日はなんで怒ってたんだよ」 「べつに、怒ってない」  遙が小さな波をぱしゃりと蹴り上げる。その態度が、すでに、なのだが。 「いーや、むすっとしただろ。言いたいことがあんなら言えよ」 「べつにない」 「べつにって言うのやめろ」 「べつにって言っちゃいけない決まりなんかないだろ、べつに」  ついさっきまで、たどたどしくも心がつながったような、そんな気がしていたのに、もういつもの言い合いが始まってしまった。陸に上がると大概そうなってしまう。  はあ、とわざとらしく長いため息をついて見せると、遙はやや口を尖らせて、ぼそりと言った。 「…島に、行きたかったのに」 「行っただろ、真琴たちと」 「いや、行ってない。泳いだけど、すぐに引き返した」 「行けばよかったじゃねえか」  そんなに行きたい島があったのだろうか。 「お前も、連れて行きたかったのに」 ※このあと、二人で海辺を散歩して、微妙ななんだかそわそわする雰囲気に雰囲気になって、宿の手前で、みんなに会う前にハルちゃんが不意打ちでチューをかまして・・・みたいな展開でした。中途半端な再録ですみません・・・
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kissenn-blog · 5 years
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スタートレック・トラベラー
STAR TREK TRAVELER
■第1話・生存者
●1.襲撃  周囲の空間には、線上に流れる星々の光が見える。長さ350メートル程のイントレピッド級の航宙艦がワープ航行している。艦体には『USS アトカ NCC74789』記されていた。『アトカ』の船体には点々と窓の光が見える。
 ブリッジの艦長席には、ジェフリー・ウィドマック艦長、隣の副長席にはリリィ・ホイ副長が座っていた。 「艦長、コース上ではないですが、前方に妙なものがあるようです」 操舵席に座るナカタは、コンソールの画面から目を離さないで言っている。 「妙なもの?、ポレック、何だかわかるか」 艦長は、科学部士官コンソールに向かって言う。ポレックは、素早くキーボードを叩く。 「何らかのエネルギーの集合体ではないかと推察されます」 「そうか、副長、どう見る。緊急停止する必要があるかな」 「別に急ぐ旅ではないですし、行方不明になったヴォイジャーの手掛かりになるかもしれませんから」 「そうだな。ナカタ、ワープ解除、インパルス推進で接近してくれ」 艦長は、ブリッジにある大型の主スクリーンに映る、光の点のようなエネルギー集合体を注意深く見ていた。
 『アトカ』は、ゆっくりと星雲のような光の渦に接近していく。太陽フレアのように時折、光のリボンを放射していた。赤から黄色、緑から黄色、青から赤と色が目まぐるしく変化している。
 ブリッジの主スクリーンにも、エネルギー集合体が映っている。次の瞬間、ドミニオン船がワープを解除して姿を現した。 「ドミニオン船が次々にワープ解除。8隻が現れました」 ポレックは冷静に言っていた。 「なんでまた、アルファ宇宙域のこんな所まで来たんだろう」 ウィドマック艦長は、腕組をしていた。 「今の所、敵意はないようですが、あぁ、武器システム作動。エネルギー集合体に発射しています」 アジア系クリゴン人女性のロムガが言っていた。 「ロムガ、念のためフォースフィールドを張れ」 「了解」
 エネルギー集合体は、攻撃を受けると、一部の光が、黒っぽくなる。その後、すぐにフレアのような光のリボンを伸ばして、次々にドミニオン船を破壊していった。
 「ドミニオン船のフォースフィールドは、全く役に立たないようです」 ポレックは自分のコンソールのモニター画面を見ながら言っていた。 「我々のも、多分役立たないでしょうね」 ロムガは、ぼそりと言う。艦長は唾をごくりと飲んでいた。 「ドミニオンを倒したということは、敵ではなさそうだが、どうも味方とも思えんな」 艦長は、艦長席のひじ掛けを指で軽く叩いていた。 「艦長、集合体が近づいてきます」 ポレックが静かに言う。 「ナカタ、ワープ2で離脱」 ナカタは、コンソールのキーを叩く。 「集合体はワープ速度で接近中」 ポレックは立ち上がり、艦長の方を見て言っている。 「ナカタ、ワープ7」 「了解」 ナカタが言った直後、艦内が激しく揺れた。照明が明滅する。 「艦長、集合体の光のリボンに接触しました」 ポレックは、しっかりと立っていた。 「バーンズ、���害状況を」 艦長は、マシューに呼びかける。白人男性のマシューの顔は、青白くなっていた。 「後部船体に亀裂。機関部に損傷あり」 「ナカタ、ワープ解除」 ブリッジの主スクリーンには、エネルギー集合体が映っている。 「ポレック、交信は可能か」 「わかりませんが、やってみます」 ポレックが言った直後、再び艦内が激しく揺れる。照明が消え、緑色の非常灯に切り替わった。さらに激しく 揺れ、船体がきしむ音が、聞こえてくる。 「フォースフィールド20%、全く通用しません。ダメだわっ」 ロムガはかなり感情的になっていた。
 急にブリッジ内の重力がなくなり、ポレックは少し浮き上がった。ナカタは息苦しさを感じ始めていた。ブリッジ内に嵐のように空気の流れ出す。ブリッジ内に光のリボンが侵入し、人間を次々に黒焦げにしていく。ポレックが黒焦げになり、人形のように倒れた。ロムガは光のリボンに立ち向かおうと手を伸ばすが、その手から黒焦げになり全身が包まれた。  ナカタが振り向くと、艦長と副長の席は、黒い残骸になっていた。ナカタはとっさにコンソールデスクの下に潜り込む。ブリッジ各所、通路から悲鳴が聞こえていた。ナカタは息苦しさに喉を押さえていた。ナカタはコンソールの下から這い出し、周りを見る。もう光のリボンはなくなっていた。  科学部士官コンソールの後ろに、緊急用酸素ボンベがあった。ナカタは、浮遊しながら、かつてポレックだった黒い塊の辺りまでくる。ナカタが、酸素ボンベを取り出そうとするが、周りの支柱が曲がり、引っかかって取り出せなかった。ナカタは力任せに引っ張ろうとするが、ビクともしなかった。何か使えるものはないか、周りを見る。ポレックの腰のあたりにフェイザー銃が見えた。半分近く焦げている。ナカタは、それをつかんで支柱に向けて発射する。支柱は弾け飛んだが、ほぼ同時に手が火傷してしまった。火傷していない手で酸素ボンベをつかみ、マスクを口に装着した。
 ナカタは寒さに震えていた。酸素ボンベは後1時間でゼロになると表示されていた。ブリッジの主スクリーンは、ちらつきながら、被害状況を表示している。ナカタは、スクリーン上に目が留まった。『生存者1名』とあり、空気漏れがないのは天体測定ラボだけとなっていた。
 天体測定ラボの中は、破滅的な襲撃以前のままであった。ナカタは、呆然として半球状のドームから宇宙を見ていた。エネルギー集合体はなくなっているが、光のリボンが1本だけたなびいている。穏やかに波を打ち、攻撃をいる意図はなさそうだった。ナカタは天体測定ラボで使えそうなものを探している。無線装置以外は全てオフラインになっていた。マイクを持つナカタ。スイッチを入れてもスピーカーからは空電ノイズしか聞こえてこない。マイクのスイッチを切るナカタ。 「…オォマエ…お前らは私たち追う、なぜぇ」 たどたどしい言葉が聞こえてきた。ナカタは、スピーカーを見つめていた。 「お前らは、なぜ我々を追うのだ」 明瞭な音声になった。ナカタはマイクのスイッチを入れる。 「あんた、誰だ」 「ri kfppXY…」 意味不明の音声がする。 「誰だか知らないが、宇宙連邦の船をここまで破壊するということは、宣戦布告に等しい」 「お前らはドミニオンの仲間だろう。エネルギー生命体ではないからな」 「仲間なわけないだろう」 「お前らが現われて、すぐにドミニオンが現われたではないか」 「バカな、ずーっとあんたらを追っかけてたんだろう。たまたま俺らが出くわしただけだ」 「お前らのハイブリッド神経回路AIとやらを調べる」 薄い光のベールが一瞬、船内を包む。 「お好きにどうぞ。嘘は言ってないからな」 「確かに、ドミニオンではないようだ」 「だいたい、あんたらは何なんだ」 「エネルギー生命体だが、細かいことを言っても理解できんだろう。トラベラーと認識しろ」 「旅人だってか。さっさとどっかに消えちまえ」 「しかし初歩的とは言え、超光速で移動できる乗り物には郷愁がある。気に入った」 「乗っ取る気か」 「直す必要がある」 「好き勝手な野郎だな。壊して直すのか。人命を奪っておいて」 「このまま放って置いても、良いのだがな。お前は確実に死ぬだろう」 ナカタは押し黙った。 「うっ、待った。ワープコアなどの機関部だけでなく、空気も満たすというのか」 「当たり前だ。しっかりとオリジナル通りに復元してこそ価値がある。高く売れるのだ」 「え、この『アトカ』を転売しようっていうのか」 「たいていの場合、きれいに破壊してしまうので、形として残っているものは珍しいのだ」 「だろうな」 「お前は、お前らの時間でいう5日間はここにいろ。そうすれば、今まで通りになる」 「仲間はどうなる。生き返るのか」 「それは無理だ。しかしお前は死ぬことはない。まずは宇宙服を着て残っている食べ物など集めて5日間を食い つなげろ」
●2.奮闘  誰もいない艦内の通路を歩くナカタ。亀裂が入っていた内壁は、どこにも見当たらなかった。黒焦げの死体があった場所は、きれいになっている。ナカタはジャンプしてみるが、すぐに床に着地した。 「おい、トラベラー、聞こえているか」 ナカタは、天井に向かって語りかける。 「修理したようだが、今どこに向かっているのだ」 返事は全くなく、通路にはワープ駆動の微かな音が聞こえている。 「これを売る前に、俺を人類の居る所に下してくれ。俺が居たんじゃ高く売れないだろう」 「この先、人類の居る所はない。お前込みで売る」 「そうかい。それで、いつ頃、あんたらの市場に到着するんだ」 「12.81年後だ」 「そんなにかかるのか。となると、天井を見つめて話すのを12年以上もするのかよ」 「つまらぬことを口にする奴だ。ホロ技術を用いるとする」 艦内の通路の空間の一部が揺らぎ、次の瞬間、ダヴィンチが現われる。 「これでどうだ。お前から見れば、私は万能だからこの姿が相応しいのではないか」 「ゼウスじゃないのかい。船のデータバンクには、あったろう」 「今は、これが気に入っているのだ」 トラベラーはナカタと並んで歩き、ターボリフトの前まで来る。 「それじゃ俺はブリッジを見させてもらうよ」 ナカタはターボリフトに乗った。
 ナカタは、ブリッジに入る。科学部士官コンソールの後ろにある支柱は真っすぐになっていた。新しい酸素ボンベが備え付けられ、支柱の重力表示計が『1.05G』を表示していた。ナカタは、ブリッジを見回しながら、操舵士のコンソールに座ってみる。座り心地に変化はないようだった。立ち上がるとターボリフトに向かった。
 ターボリフトの扉が開くと、シャトルベイが目の前にあった。普段はあまり使わない、シャトルが置いてある。気配を感じてナカタが振り向くと、ダヴィンチ姿のトラベラーが立っていた。 「逃げるつもりか。そうは行かないぞ。お前も含めて大事な売り物だからな」 「お前と一緒に、こんな所に12年以上もいられるわけないだろう」 ナカタはシャトルベイのハッチの前に駆け寄った。 「仲間を殺されたんだぞ、お前の言いなりにはならない。なるくらいなら死を選ぶ」 ナカタは、ハッチの緊急手動開閉レバーに手をかける。ハッチが少し開き、警報が鳴り出す。 「愚か者、死ぬ気か」 「俺は不死身だ。こんな茶番では死なないぞ」 ナカタはハッチを完全に開けきった。 「訓練生の異常行動により訓練シュミレーション終了」 自動音声が流れる。  シャトルベイは、揺らいで消えると、ホロデッキの支柱がむき出しになった。 「俺が、こんなホロデッキに騙されるか。ボロボロになったイントレピッド級の航宙艦を5日かそこらで直せる わけないぞ」 ナカタが叫んでいると、トラベラーは軽く拍手をしている。 「良く分かったな」 「重力1.05Gは訓練用の設定なんだよ。直せたのは、電源区画とホロデッキだけだろう」 「お前を甘く見ていたが、全艦をコントロールしているのは、この私だということを忘れるな」 トラベラーは姿を消した。
 ナカタは、緊急用の簡易宇宙服を着て、ホロデッキの外に出た。黒くひしゃげた支柱があり、通路の所々に亀裂が入っていた。ナカタは宙に漂いながら通路を進む。船内カメラやセンサーは機能していない。トラベラーは全艦コントロールしていると言っても、ホロデッキを出たナカタの動きは、把握できないはずだと、ナカタは思ったが。はたと気が付く。宇宙服にマーカービーコンが付いている。ナカタは、肩口にあるワッペンを引きはがし、手近の支柱に張り付けた。    ナカタはバックアップ用の司令室にたどり着いた。機能は全て乗っ取られたハイブリッド神経回路AIによってコントロールされていた。ナカタは宇宙服を脱いで、いろいろとキーボードを叩いてみるが、どれも受け付けられなかった。  ナカタは気配を感じて振り向くと、ダヴィンチ姿のトラベラーが立っていた。 「だから言ったであろう。私がコントロールしている。救難信号など発信できないぞ」 トラベラーはニヤニヤしていた。 「何様のつもりだ」 「殿さまというところかな」 「ふざけるな」 ナカタはトラベラーにつかみかかる。トラベラーは、物凄い力でナカタを放り投げる。ナカタは司令室の壁に激突し、壁にひびが入る。ふらふらと立ち上がるナカタ。 「これだから、身体を持つ生命体はひ弱なのだ」 「お前には、人の心がないのか。これだけ大勢の乗組員を殺してニヤつきやがって」 ナカタは飛びかかろうとするが、足がふらついていた。 「血迷ったか。私は人ではない」 トラベラーはナカタを再び放り投げる。床に落ちたナカタは、必死になってすぐに起き上がり、駆け寄って、 トラベラーの顔にパンチを繰り出す。もろに受けたトラベラーはよろけるが、またニヤニヤする。 「私はホロ投影像だぞ、なんの痛みもない」 トラベラーは笑い出す。ナカタは、サンドバッグに打ち込むように連打している。トラベラーは大笑いをする。 「人の感情とは、こういうものなのか。実に興味深い」 「糞っ」 息の荒いナカタは、パンチを止めた。 「どうしたもうやらんのか。私はワープコアを修理しなければならないので失礼するぞ」 「ん、そうかまだこの船は動いていないのか」 「だからどうした」 「何の連絡もなしに5日以上も緊急停止している。遭難船と認識されているはずだ」 「だとしても、私に歯向かえると思うのか」 トラベラーは姿を消した。
 天体測定ラボにいるナカタは、無精ひげが伸びていた。ラボの測定装置は自由に使え、現在位置を割り出して見ると地球から3852光年の宙域と表示されていた。ナカタはワープが使えなければ、自力帰還はほぼ不可能だと感じていた。暗い気持ちになりながら、数少ない空気がある場所のホロデッキに向かった。
 ナカタは窓を開け、ドイツ・ローテンブルクの街並みを眺めている。空腹に腹が鳴り、宿の階段を降りていく。 「マルクト広場近くのレストラン」 ナカタが天に向かって言うと、周囲の景色が変わった。レンガ造りの内装のレストランになっている。ナカタは奥まった席に座った。  店員が料理を持ってナカタのテーブルの所にやってくる。 「こちらが当店自慢のシュニッツェルとアイスパインでございます」 店員はテーブルに料理を置いて行く。  ナカタは食べてみるが、口の中に入れると消えてしまった。何かホロデッキのデータが欠落しているようだった。空腹は全く満たされなかった。残りの携行食料をポケットから出して食べていた。  突然、全てが真っ暗になった。何の音もしなくなり、重力もなくなった。ナカタはどちらが上か下かもわからなくなっていた。急激に不安感が増してくるナカタ。 「どうした。修復に失敗したか」 ナカタの言葉はホロデッキに虚しく響いていた。 「問題はない」 ホロデッキの重力が戻り、照明が点灯した。 「修理は進んでいるのか」 「いや」 「いやって、お前らしくないな」 「資材が調達できない」 「あんたらの、素晴らしいテクノロジーでもか」 「この劣ったAIの仕業だ。お前が細工したのか」 「かもな」 「バカな、そんなことをしたらお前も私も死ぬぞ」 「ええっ、実際に俺は何もしていないぜ」 「資材が調達できなければ、このままの状態が永遠に続く」 「何にもしいないのに、脅しか」 「私のエネルギーデータがこのAIから抜け出せなければ、近隣の小惑星にある資材が調達できないのだぞ。なぜ閉じ込める」 「おいおい、あんた、この船のAIに捉われたってわけか。笑えるな」 「修復技術があっても、手足がなければ…、これは比喩だが、直すことはできない」 「もしかして、俺に手足になってくれとでも言うのか」 「これに選択の余地はない。やらなければお前も死ぬのだ」 「でも、手足になったとしてもだ。この船を直したら転売するんだろ。あんたしか得をしないよな」 「考える時間を38年与えよう」 「時間のスパンが全然違うんだけどな」 ナカタは周囲の空間に向けて言っていた。
 ナカタは21世紀前半の渋谷のスクランブル交差点にいた。通りに車はなく、歩道にも街にも人は誰もいなかった。強い日差しが降り注いでいる。ナカタは交差点のド真ん中に置いてある革張りのソファに座っている。 「何をやっている」 ソファの前に立つトラベラー。  「気晴らしに、一度やってみたかったことをやってみただけだ。昔は地上を車が走っていたから交差点というものがあったんだぞ、知ってるか」 「原始的なことだな。それでどうだ、私の手足になるのか」 「それには、まずシャトルを直さないとな」 「シャトルだと、魂胆は見え透いている。まずは転送装置を直す」 「勝手にしてくれ。あんたも俺も捕らわれの身ってことは同じだからな」 「抵抗はしないのだな」 「お前に一時的に協力するが、お前を許したわけではない」 ナカタは、渋い顔をしていた。 「良かろう」 「それで、必要な資材を調達できそうな所が近場にあるのか」 「浮遊している小惑星がまもなく近くを通過する。それがそうだ」 「転送装置の修理は間に合うのか」 「間に合わせる」
 宇宙服を着ているナカタは、小惑星の表面に転送された。掘削レーザーを肩から下げている。 「どうだ。聞こえてるか。無事に転送完了だ」 ナカタは宇宙服の無線の感度を調整する。 「その周囲にレーザーで穴を10メートルほど掘れ、そしてそこにある鉱脈から『errrxy』同位体297が含まれてい る岩石を採取する」 「そのなんとか同位体ってなんだ」 「説明している時間もないし、理解はできない。黙って作業をしろ」 「偉そうだな」 ナカタは渋々レーザー光を小惑星の地面に向けた。
 宇宙服を着ているナカタは、小惑星の表面に転送された。 「今日で何日目だよ。いつまで続くんだ」 「7日目だ。後2日で終わる」 「あの変な物質で本当に船が直るのか」 「死にたくなかったら、作業を実行しろ。待て、不測の事態の可能性がある。作業を中断しろ」 「なんだよ、やれって言ったり、止めろって言ったり」 「お前を船に戻す」
 ナカタは、転送室に立っていた。トラベラーが出迎えている。 「あの小惑星はおかしい。位置が変化しない」 「浮遊しているんだろう」 「それなのに、位置が変化していない。我々も一緒に動いている可能性が高い」 「引力か何かに引き寄せられているんだろう」 「エネルギー集合体にあったデータバンクを思い出しのだが、放浪星系というものがある。それに飲み込まれた可能性が高い」 「何を言っているか、良く分からないんだけど」 「無理はなかろう。とにかく危険なものだ」 「別に超光速で動いているわけではあるまいし、急ぐことはないだろう」 「移動速度は不安定で、時速56.4089キロから光速の2896倍まで変化するとされる」 「あんたも迂闊だったんじゃないか」 「それに異論を唱えるつもりはないが、一刻も早く出た方が良いに決まっている」 「出ると言っても、壊れかけのインパルス推進しかないぞ」 「インパルス推進を最大限に活用すれば、何とかなるはずだ」 「スウィングバイでもするのか」 「その通り。まずは採取した『errrxy』同位体297で、インパルス推進を直す」
 『アトカ』のインパルス・ドライブ装置の周囲に光のリボンが目まぐるしく動き回り、少しずつ黒焦げの部分がなくなって行く。周囲の宇宙空間の色は、薄っすらとグレーがかっていた。
 ブリッジの操舵士席に座るナカタ。後ろの艦長席には、ダヴィンチ姿のトラベラーが座っている。 「お前の操舵の腕にかかっている。慎重にやってくれ」 「俺を頼りにしているのか。なんか随分と立場が変わったな」 「つべこべ言わずにやれ」 「黙っていると落ち着かないものでな」 ナカタは、切り替えた手動用のレバーをしっかりと握っている。『アトカ』はインパルス推進で航行し始めた。  一番近くの小惑星の横をすり抜け、その先にある木星程の惑星に向かった。その途中に小惑星群が散らばっている。  ナカタは機敏に操作して、小惑星群の間をすり抜けた。 「センサー類が使えなくても、何とかなりそうだな」 トラベラーが言った直後に艦内が少し揺れた。 「おーっと小さいのが当たったようだ」 「気を付けろ」 「わかってるよ」 ナカタは、レバーを操作している。
 木星程の惑星のそばをかすめると、一気に加速した。『アトカ』は、速度を増して、星系の重力圏を振り切ろうとしている。
 「上手く行ってないか」 ナカタはレバーから手を離していた。 「まだわからんぞ」 トラベラーは、主モニターを見つめていた。  艦内は小刻みに揺れてから、安定した航宙になった。 「脱したようだぜ」 艦長席に振り向くナカタ。 「そのようだな」 トラベラーはそう言うと、姿を消した。
●3.修復  天体測定ラボでデータを分析しているナカタ。 「今どこにいるのか、全く不明だ。トラベラー聞いているのか」 「それはそうだろう、放浪星系と共に移動したからな」 声はするが姿はどこにもなかった。 「お前の転売市場に行くにも、俺の地球に行くにも、ワープドライブを直さないと、どうにもならないだろう」 「お前だけでは手が足りない。ホロで人手を増やそう」 「ダヴィンチの分身をいくつも作る気か」 「ミケランジェロの方が良いか」 「ちょっと待て。お前が殺した乗組員のデータはあるよな」 「ある」 「ポレックやバーンズ、ロムガなんかをホロで再現してくれよ。その方が気が利いている」 「その方が、お前のやる気を高めるのか」 「当たり前だ。百倍高まる」 「調整に時間が53.86時間ほどかかるがすぐだ」 「頼んだぜ」
 ナカタがターボリフトをから出てくると、ブリッジ内には、艦長、副長、ポレックらが動き回っていた。ナカタは、ブリッジ内をゆっくりと見回す。 「みんな、復活している…」 息を詰まらせるナカタ。 「目が赤いぞ。何らかの感染症か」 ブリッジの端に立っていたダヴィンチ姿のトラベラーが言っていた。 「まるで本物じゃないか」 「本人のキャラクター設定に基づいて行動するようプログラムされている」 「トラベラー、ありがとう…、なんて言えるか。このバカ野郎」 「人間の感情というものは、複雑だな。実に興味深い」 トラベラーは平然としてブリッジ内を歩いている。  「ナカタ、君の席はここだ」 艦長がナカタを艦長席に案内する。 「艦長、それは恐れ多いですよ」 ナカタは、躊躇していた。ポレックが科学士官コンソールから歩み寄って来る。 「ナカタ大尉、君は唯一の生存者だ。今ここで指揮を執るのが最も論理的である。座りたまえ」 「しかし…」 「我々はホログラムだ。それを気にするのは非論理的だ」 「トラベラー、艦長と副長は、再現しなくていい。気持ちの整理がつかない」 ナカタが言うと艦長と副長は姿を消した。  ナカタは、ゆっくりと艦長席に座わり、座り心地を試していた。 「想わぬ、大出世をしたものだな」 ナカタはひじ掛けを指で軽くさすっていた。 「さて、ナカタ艦長。やることが山積みだぞ。インパルス推進で行ける範囲で…」 トラベラーは言いかけたが、ナカタに遮られた。 「なんたら、同位体を探すんだろう。格好良くエンゲージとは行かないよな」 「誰と婚約するのだ。女性もホログラムだぞ」 トラベラーは不思議そうな顔をしてナカタを見ている。 「気にするな」
 医療部の診療台を直し終えたナカタ。診療用の精密機械は部品が足りないので、半分ぐらいしか機能していない。ナカタは手の火傷がだいぶ自然治癒したので、作業がしやすくなっていた。それでも皮膚は赤くただれた傷跡として残っている。 「医療部はある程度使えるようになったが、肝心の医者いない。トラベラー聞いているか」 ナカタは天井に向かって言う。  トラベラーが姿を現す。 「医療部長のスミスを作れば良いのだな」 「ん、どうせなら彼よりもジェシカ・ムーアの方が良いな。彼女もかなりの医療知識を持っているから」 「それでモチベーションが上がるのだな。お前の感情を考慮する。しかし独自のキャラクターで艦内を自由に行動する人間並みのホログラムの投影は5人が限界だ」 「5人になるか」 「ポレック、ブラウン、バーンズ、ロムガ、それにムーアの5人だ」 「トラベラー、あんたは含まれないのか」 「私は別格だ」 トラベラーは姿を消した。
 ナカタは診察台に腰かけて医療部を見回している。天井の化粧パネルは、ナカタがパテで補修した後がハッキリと見えていた。 「ナカタ大尉、どうしました。怪我ですか」 ナカタが振り向くと、白人女性のジェシカ・ムーアが立っていた。 「あっ、変わりがない」 「大尉、何でそんなに私を見るのですか。さては気があるのね」 「えぇっ、気が…」 「ジョークよ。その手、診せて」 ムーアはナカタの手を取り、触診している。  いつの間にかニヤニヤしているトラベラーが立っている。 「どうだ。本物と同じだろう」 「そう言えば、トラベラーから聞いたわよ。あなたが唯一の生存者で指揮を執ることになったって。昇進おめでとうございます。ナカタ艦長」 「艦長だなんて、まだ慣れていないけど」 ナカタは頭をかいていた。 「艦長、」 トラベラーが水を差すように言う。ナカタは自分のこととは思わず聞き流している。 「ナカタお前の事だ」 「なんだよ」 「意外なことが判明した」 「あんたでも意外にことがあるのか」 「インパルスドライブの修復に使った同位体297だが、再分解して、ワープドライブの修復に回せば、ワープ1で航宙できるようになる」 「できても、どこに行くのだ。ワープ1では知れてるぞ」 「私の推測が正しければ、ワープ1で行ける範囲内に同位体297などが豊富にある星系があるはずだ」 「あるばずということは、もしなかったらどうする」 「この状況を考えると、そうなる確率が格段に高い」 「確率ねぇー。ヴァルカン人みたいな言い草だな」 「とにかく、細かな作業を手伝ってくれ」
 空気のないインパルス・ドライブ区画。ナカタは宇宙服を着て、機器コンポーネントの間を浮遊していく。光のベールが機器コンポーネントの一つを取り囲むと、形が溶けて、ドロドロの状態になる。それが、雷のような光を受けると別の機械部品になった。 「これをワープドライブ区画に持っていけば良いのか。艦内の重力はオフにしてくれよ」 ナカタは宇宙服の無線を通してトラベラーに言っていた。 「お前だけでは、手が足らんだろう。ブラウンも手伝わせる」 トラベラーが言うと、ブラウンが姿を現した。 「艦長は前を持って、俺は後ろを持ちますから」 ブラウンがぶっきら棒に言う。 「艦長、あ、俺か。わかった」 ナカタとブラウンは機械部品を引っ張って行った。
 与圧され空気があるワープドライブ区画では、ロムガが作動していないワープコアをセンサーで調べていた。 「本体そのものは、取り換えなくても使えそうね」 ロムガは少し安心したような顔になっていた。近くで作業をしているポレックはうなづいている。  宇宙服を着たままのナカタとブラウンが漂ってくる。 「お待たせ。これを付ければ、ほぼ完成だろう」 ナカタはフェスプレートを開けてロムガに言う。 「艦長、何言ってるのよ。まだこれで半分ぐらいなんだから」 「まだ何往復もしなければならないのか」 ナカタはうんざり顔であった。
 ブリッジの主スクリーンには、木星型の惑星を背景にしている氷で覆われた白い衛星が映っている。 「スキャンした結果、『errrxy』同位体297があの衛星には豊富にあります」 ポレックが科学士官コンソールから報告している。 「トラベラー、ワープ1で行ける範囲に、これがあると良く分かったな」 艦長席に座るナカタは、副長席に座っているトラベラーに言った。トラベラーは無表情であった。 「トラベラー、もっと喜べよ。言う通りになったじゃないか」 「艦長、とにかくお前しか転送できないから降り立ってもらう」 「また、同位体を取って来るんだろう」 「同位体の鉱脈の正確な位置を測定してくるだけで良い。後は転送で回収する」 「わかった。艦長が自ら行くなんて、あまりないよな」 「文句を言うのも感情の現れだな。覚えておこう」
 氷原がどこまでも続く衛星表面に転送されたナカタ。宇宙服の姿のナカタはトリコーダーを地面に向けている。ナカタは、軌道上から探査したデータと照合しながら、詳細な位置を記録していた。トリコーダーによると、同位体以外にも、鉄やニッケルなども確認できた。  「トラベラー、ここは宝の山じゃないか。ここで修理したら『アトカ』は新品同様になるぜ」 ナカタの宇宙服の無線に返答はなかった。 「おい、トラベラー聞いているんだろう」 「艦長、我々はしばらく滞在することになる」 「トラベラー、あんたに感情はないのはわかるが、もっと喜べよ。転売市場や地球へワープ艦速で自由に動ける ようになるんだぜ」 「黙っていても、仕方ないから言おう」 「言いたいことがあるのか」 「こんな近くに別の星系があるのは不自然なのだ。あるということは、…説明してもわかるか…」 「もったい付けるなよ」 「放浪星系と思われた外に放浪星団があり、その中にいるはずだ」 「ええっ、放浪星団。動いている星団か」 「お前も私も捕らわれの身なのだ。この星団をコントロールしている存在に会わなければ、出られないだろう」 「存在って」 「身体を持つ種族かエネル��ー生命体か不明だ、星団の広さや移動速度もわからない」 「あんたでも、わからないものがあるのか」 「その存在に出会えても、脱出できる保証はない」 「だとしら、こうやって勝手に資源を採掘していたら、その存在とやらが、文句を言いに来ないか」 「その可能性はある。しかしいつ来るかは見当もつかない」 「あんたのお得意な50年後とかか」 「数秒後ということもある」
 天体測定ラボにナカタとトラベラーがいた。 「今日で7日目だが同位体の採取は順調に進んでいる。ワープドライブは完璧に使えるようになるだろう」 「トラベラー、ワープドライブが使えても、放浪星団から抜け出せるのか」 「このラボで観測した星団内の星系の間隔を考慮すると238光年から319光年の間と推察できる」 「そんなものなら、ひとっ飛びで脱出できるぜ」 「星団を維持するために境界面の重力場はかなりのものだ。簡単にはいかんだろう」 「それじゃ、ここの管理者に一刻も早く会うしかないな」 「それも、いればだが…」 「何日もここで採掘して、誰も来なかったら、そういうことになるか」 ナカタは頭上に広がる星々を見ていた。
 衛星に広がる氷原には、ドーム状の建物が見える。その建物の遥か上を『アトカ』が周回していく。この惑星系にはある人工物はこれらしかな��った。  ドーム状の建物の窓から氷原を眺めているナカタ。制服のコミュニケーターをオンにする。 「トラベラー、あんたらの同位体を使った技術は、部品とか機械が作れるが、俺らのレプリケーター技術と同じようなものなのか」 「見た目は、その遅れたレプリケーター技術と似ているが、もっと高度なものだ」 「あんたらの技術を習得したら、特許で儲けられそうだぜ」 「勝手にしろ。それもここから脱出できたらの話だがな」 「それでトラベラー、そろそろ、ここは引き払うのか」 「『アトカ』の修復は121日で完了した。補給物資も積み終えた。後は艦長のお前次第だ」 「そんなにここに居たか。俺は誰にも邪魔されない、ここが気に入っているがな」 「艦から離れられるのは、お前だけだからな」 「しかし、どこへ行く。管理者が居そうな惑星はあるのか」 「少なくとも、ここから2光年の所に星系がある」 「やっぱり近いな。取りあえず、ここはそのままにして、そこに向かうか」
●4.模索  惑星降下用のシャトルは、『アトカ』を飛び出し、目の前の惑星に降りていく。雲が少ない惑星の表面は、陸地と海がほぼ半分ずつであった。  ナカタは、操縦レバーを楽し気に操作している。 「トラベラー、こいつは、以前のものに比べて操縦性が増したぞ。こうなると自動ではなく手動の方が断然楽しい」 「今、見えている下の海に降りろ」 「わかったが、テスト飛行の性能を試すためにも、この辺りをもう一周してから降りるよ」 ナカタはグイッとレバー引いていた。
 水深60センチ程の浅い海が広がる地帯にシャトルは着陸していた。空気が薄いのでナカタは簡易酸素マスクを装着してシャトルの外に出た。空を見上げると、大中小と太陽が3つ出ていた。ナカタの影は、いろいろな方向に薄っすらと伸びている。ナカタは、海水のサンプルを採取し、手にしている分析器で調べる。モニター画面に赤い表示が点滅する。急いで、シャトル内に戻るナカタ。  ナカタはシャトルの通信機をオンにする。 「トラベラー、ここの海水は硫酸の濃度が高過ぎる。まともな生命体はいないだろう。希硫酸の雨も降っている」 「艦長、サンプルは採取したな。すぐ戻れ」 「了解」 ナカタは、通信をオフにした。その直後、シャトルが激しく揺さぶられた。  ナカタはコックピットの窓から外を見ると、地割れが各所で発生していた。ナカタは、素早くコンソール飛び込み、シャトルを上昇させる。
 あたり一帯の地面が地割れして、海水が地面に滲みこんでいき、浅い海は消えてしまった。その上空を飛ぶシャトルは角度を変え、一気に大気圏外に向かった。
 ブリッジの艦長席に座るナカタ。その隣の副長席にはトラベラーが座っていた。 「あの惑星は、身体を持つ生命体には相応しくないが、エネルギー生命体なら快適で問題はない」 「確かに、海には小魚も見えなかった」 「そこから推察すると、管理者はエネルギー生命体ではないと言える。あそこを利用していないのだから」 「隠れているのかもしれないぞ」 「地殻の下にか。あり得なくはないがな」 トラベラーはヒゲをさすっていた。 「艦長、シャトルベイに異様なエネルギーサージを感知しました」 ポレックが冷静に言う。 「攻撃を受けたのか」 「それが、かなりのエネルギー量なのですが、どこにも被害はないようです」 「ポレック、シャトルベイに行こう」 ナカタはターボリフに行きかけると、トラベラーが急にしかめ面になる。 「艦長…、ハイブリッドAIに何者かが侵入した」 トラベラーの言葉に足が止まるナカタ。ナカタはポレックだけ、先に行けと合図する。 「貴様は何者…ertyo.ggopy…、立ち去れ」 トラベラーは、憤怒の表情で叫んでいる。のたうち回るトラベラー。その場に居合わせたロムガ、バーンズもナカタと共に様子を見ていた。トラベラーの姿が薄れ、光が体から漏れる。 「立ち去れ」 トラベラーが大声で叫ぶと、トラベラーの姿は安定した。 「艦長、お前がシャトルで、変なものを連れて来てしまったようだが。私が追い払った」 トラベラーは冷静さを取り戻していた。 「言葉が発せられるぞ。実に面白い。久しぶりに身体と言うものが体験できる」 リリィ・ホイ副長が立っていた。声は男の声になっている。 「貴様、まだ、そこにいたのか」 トラベラーは、副長を見ている。 「お前らは何者だ。身体を持つ者と、エネルギー体ばかりではないか」 「トラベラーだ」 「また迷い込んだのか」 副長は、困り顔になった。 「あんたはここの管理者なのか」 ナカタがブリッジの真ん中に立っている副長に尋ねる。 「管理者!?なんの管理をする者だ」 副長はナカタの方を見る。 「この星団をコントロールしているのは、あんたか」 「そんなものは、いない。様々な生命体の寄合所帯と呼べるものだ」 「いないって、どうしてわかる」 「我々が探したからな。それよりもこの船を私に使わせろ。お前らは出ていけ」 「それは無理な相談だ。私は、このAIから出られないのだ」 トラベラーは、その後、ニヤニヤする。 「たぶん、お前も出られないぞ」 「バカな、うむ、…」 副長のホロが消えかかるが、完全に消えなかった。
 ポレックはブリッジに戻っていた。副長は黙ったまま動かなくなっていた。 「私が奴の動きをデータ的に封じ込んでいる。今のうちに何とかしろ。いつまで持つかわからんぞ」 トラベラーは歯を食いしばっていた。ナカタはポレックにトラベラー以外のデータの特定を急がせていた。 「ホロであろうとも、押さえつければ、多少は気が済むといものだ」 ロムガが副長に飛びかかるが、体を通り過ぎて床に落ちる。副長をつかむことはできなかった。 「ロムガ少尉、無駄なことはしない方が良いのではないか」 ポレックは、科学士官コンソールのモニターから、ほとんど目を離さずに言っている。 「多少は気が済んだわ」 ロムガは自分の席に座った。
 「艦長、ハイブリッドAI内にある侵入した新規データをマークアップすることに成功しました」 「主スクリーンに出してくれ」 ナカタは艦長席から立ち上がる。 「ロムガは無駄が多いが、ポレックのキャラクターは使えるな」 トラベラーはポレックを見ている。 「ポレック、新規データを消去しろ」 ナカタが叫ぶと、副長は青白い顔になる。  主スクリーンいっぱいに表示されていたデータ表示アイコンが、次々に消えていく。10×10のマトリックスが半分以上消えると、副長の姿が揺らぎ消え始めた。 「やめろ、あぁ」 副長は声が途切れていく。 「私のデータは消すなよ」 トラベラーは心配そうになる。 「あんたが、いくなっては今の所困るからな。ポレック注意してくれ」 「艦長、完了しました」 ポレックが言うと、主スクリーン上のマトリックスは全てなくなっていた。
 ワープからインパルス推進に切り替えた『アトカ』は、火星ような惑星にゆっくりと近づいていく。周回軌道に入り、地表をスキャンしていた。
 ブリッジにはナカタ、ロムガ、バーンズ、トラベラーが主スクリーンを見ている。スクリーンには、洞窟のよう場所が映っている。 「ポレック、モバイルエミッターの調子は良さそうだな」  ナカタは無線を通じて呼びかけていた。 「今の所は、問題がないようです。今後、モバイルエミッター使えるようになれば、艦長だけが惑星降下しなくて済みます」 ポレックは喋りながら歩いている。 「空気がない所を宇宙服なしで歩けるんだから、便利だよな」 「ホログラムですから、当然のことです。特に驚きには当たりません」 「ポレック、もうその辺りが高エネルギーの発信源になるはずだ。カメラを回してくれ」 トラベラーは主スクリーンを食い入るように見ている。 「エネルギー生命体がいるのかな」 ナカタ、カメラが捉えている映像をくまなく見る。 「ポレック、その先に何かある近づいてくれ」 トラベラーが指示を出す。 「了…」 通信が途切れ、主スクリーンがノイズだけになった。 「ポレック。どうした大丈夫か」 ナカタが呼びかけるが、通信は途切れたままであった。 「ポレックの安否が気になる」 「艦長、安否など気にするな。あれはホロだ。艦内でまた再生できる」 「いや、せっかく作ったモバイルエミッターに問題があったのかもれないし、何者かいたのかもしれない。ここは俺が行くしかないだろう」 「確かにモバイルエミッターの回収は必要だな」
 ナカタは宇宙服を着て洞窟内を歩いている。 「どうやら、これは溶岩流が流れた跡らしい。人工物ではないな」 「艦長、そろそろポレックが消息を絶った辺りだぞ。カメラをゆっくりとパーンさせてくれ」 「わかった。これでどうだ。トラベラー何かわかったか」 「そのまま、真っ直ぐ歩けそうか」 「あ、モバイルエミッターが落ちている」 ナカタはモバイルエミッターを拾上げるとカメラの前に持ってくる。 「使えそうか」 「全然、無傷だ。それにポレックと違って、生身の俺は、どんどん奥へ進めるぞ」」 「艦長、お前は今、エネルギー波の発信源のすぐそばにいるはずだ」 「そう言われてもな。それらしいものは見当たらない」 ナカタは、宇宙服の照明を広角にしていた。
 「何か小さな箱のようなものがある。これが多分発信源だな。これを持ち帰って分析しよう。 トラベラー、転送してくれ」 「わかった」 「どうした」 転送されるのを待っていたナカタは、通信機で呼びかける。 「出来んのだ。転送ビームが到達できない」 「出来ないだと、ポレックのモバイルエミッターが落ちていた所の外まで戻ってみる」 ナカタは、小箱を持って、軽くジャンプしながら戻っていく。  ナカタはモバイルエミッターが落ちていた付近まで来ると、透明の壁のようなものにぶつかり、弾き飛ばされた。 「トラベラー、何らかのフィールド内に閉じ込められたようだ。出られない」 「ん…」 「トラベラー、あんたのテクノロジーで何とかならないのか」 「残念ながら無理だ」 「本当はできるのに、やらない気か」 「バカな。身体を持つ生命体のお前がいなくなることは、私にとって致命的なことになる。待て、考えさせろ」 「ここで、50年ぐらい待つのかい」 ナカタは手にしている小箱を放り投げる。ナカタは、洞窟内を見回す。急に恐ろしさを感じたナカタ。 「こんな所に閉じ込められるなら、フィールドに思いっきりぶつかって死んだ方がマシだぜ」 ナカタは、走り出しフィールドに向かってジャンプする。ナカタは、そのまま、通り過ぎるこの惑星の弱い重力 によって、数メートル先にゆっくりと着地した。ナカタはさっきまで小箱を手にしていた手を見ている。  「トラベラー、あの小箱を手放したら、フィールドの外に出られた」 「艦長、今なら転送できるぞ」 トラベラーが言い終える途中で転送が開始された。
 艦内の科学部の分析室に、ナカタ、トラベラー、ポレックがいた。3人の前にある分析台には、カメラとトリ コーダーで記録したデータを元に作られた小箱が置いてあった。 「これは、救難信号ポッドの可能性がきわめて高いと言えます」 ポレックは小箱を指さしている。 「誰のものか特定できるか」 トラべらーは、ポレックに向き直っている。 「それは無理です」 「とにかく我々以外にも捉われた者がいっぱいいるんだろう」 ナカタは小箱を見つめていた。 「あのフィールドの組成はわかるのか」 「トラベラー、それはあなたの方が詳しいのではありませんか」 ポレックに言われたトラベラーは、黙っている。 ナカタは、トラベラーとポレックがホロ同士のはずなのに、気まづい雰囲気があるように見えた。 「俺を閉じ込めたフィールドも込みの救難ポッドってところか」 「そうでしょう。フィールド内から持ち出せないようになっているようです」 「あのフィールドはポレックを消してしまったら、一時はびっくりしたよ」 「驚く必要はありません。あれはホロですから」 「そうは言ってもなぁ。あんたら、やっぱり人間の感受性に乏しいな」 ナカタはトラベラーとポレックを交互に見ていた。 「それよりも艦長、ブラウン少佐の発案によるモバイルエミッターは使えそうです」 「他所の船で誰かが発案しているかもしれないぜ」 「それはわかりませんが、私以外のモバイルエミッターも作った方が良いと思います」 「また消えてしまうのは怖いか」 「艦長、それは論理的ではない」 ポレックは、肩眉を軽く上げていた。
 ブリッジには、ロムガ、ポレック、バーンズが所定のコンソール席に座っている。ナカタの座る艦長席。その隣の副長席にはダヴィンチ姿のトラベラーが座っている。  「医療部は異常なよな。行くのは俺だけだしな」 「艦長、問題はありません」 「機関部、ワープコアは安定しているか」 「艦長、いつでもワープ艦速が出せます」 「エンゲージと言いたいところだが、俺には向いていない。トラベラー、ワープ4で前進させてくれ」 「艦長、私は操舵士の役割もあるのか」 「そうだろう。コントロールしているんだから」 「トラベラー、ワープ4で隣の星系に向けて前進」 ナカタは、真っ直ぐ主スクリーンを見ていた。
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montagnedor · 7 years
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ストロベリームーン
過去にも同タイトルでストロベリームーン日に一発ネタしてましたがhttps://www.pixiv.net/novel/show.php?id=6924220 今回は7ネタです。よってすさんでます。2017年6月10日深夜up 支部への7準拠作品は、これよりもっと希望の少ないのを先に投下したくて下手なりに推敲しています 。というか本音=仁の項目にエロコラがしつこく来るので埋め埋めw;; just a flush button to the repetitive filthy and boring collage for Jin, gah!! +++++++++. ストロベリームーン 今夜はそんな名の満月が昇るという。 北米での苺の収穫期だからそんな名前がついたというが、本当は赤いというのでもなく、せいぜいが琥珀色だ。 そう、最近はもうすっかり見慣れたあの色。――別に宝石になじみがあるわけでもないし、そんな原石が流れ着くというバルトの殺風景な黒い海岸をわざわざ訪れたこともないのだが。 だが、環境番組で見たあの真っ黒な砂浜に足を下ろすのは、何やら不吉な感じがする。いっそ取り返しがつかないような。 月がとても低く南中する頃、男は基地に戻った。 深夜とはいえ24時間白々とした照明の光に満ちた通路には時間感覚というものがなく、然るべきタイミングで入れ替わる彼の兵士たちも、顔を持たないその装備ゆえに、いつまでも眠ることをしないかのように錯覚させる。よく訓練された結果、個を主張せずしかし最良の状態であることだけを伝えるきびきびとしたいくつもの敬礼の前を、男は通り過ぎた。 広い主要通路から何度か脇に折れ、施錠された扉の向こう、現れた細い階段を降りて行く。 "it"の――世話する一部兵士達の連絡の際には「あれ」との呼び方をする取り決めになった人物の部屋は、半地下にあった。 xxxxx 別に核廃棄物と同じ扱いでいいとその人物は言った。皮肉でもない態度で。 深い深い地の底に、ですか?そこにいたら仁の悪い所も減るのでしょうか?と無邪気な声が尋ねた。人物の当面の生活の場所を決める時のことだった。銀髪の紳士はおやおやスポンサー泣かせな事を言うじゃないか、と大袈裟に肩をすくめ、男の方に視線を���越し、彼の判断を���した。その間、かの人物は、最初から男の方を見たまま何も変化がなかった。なんの自虐も恐れも痛みも恥じ入る様子も、どれもなかった。 結果、今、その人物の部屋は半地下にある。至って簡素で清潔、天井近くに数十センチの明り取りの窓。そこはこの基地を偽装すべく作られた運送会社の中庭であり、たまにサッカーやバスケットボールの勝負が本気で行われ、歓声が聞こえることもある。部屋は中からも外からも施錠可能だが、中からの施錠は外から開錠可であり、外からの施錠は中から開けられない。そんな仕様だった。 男のそんな処断に人物は異を唱えるでもなく感謝するでもなく、だが銀髪の紳士は半笑いして言った。 ふと思い出したのだがね、あの君のせめてものひとごころからであろう明り取りの窓なのだが 断頭台に行く前にフランス王妃が過ごした最後の部屋もああいう設計だったのを知っていたかね? そんな半地下の部屋の扉を、男は今開けた。 xxxxx ハンガードアが音もなく開き、閉じれば、通路の光とは真逆の闇と、非常灯の小さな灯りだけがある。スイッチを探しかけ、しかし男は、先程までの目の奥まで焼けていきそうな光のないその空間に、ひとつ息をついた。 扉に凭れ、目が闇に慣れるのを少し待てば、トイレも洗面台もすべて一つの空間にある分広い、隔離室タイプの部屋の奥、自傷や自殺対策でどこもつるつると円い部屋のベッドの上で、丸くなる人影が判別できるようになった。 歩み寄ってみれば、静かな寝息がする。小さく上下するそこからは肌の匂いと温度。先程まではずっと感じなかったものだった。 これが"it"だった。今の風間仁だった。 xxxxx そうする事を選んだのは彼であり彼等であり、受け入れたのは風間仁だった、なんの自虐も恐れも痛みも恥じ入ることもなく。 だが時折、不思議とそれは男の中に湧き出す事がある。自嘲と恐れと痛みと恥となって。 この世界の「システム」へと変化か進化かを続けていく仁からはそぎ落とされてしまったかもしれないそれが、彼を生贄として差し出す者の所へ戻って来るのかもしれない、などと埒も無い事をときに男は思う、いっそ恐れる。その恐れる者の視線の先、琥珀色の輝きがふたつ、音もなくあらわれた。 「ラースか」 「……ああ」 ああ。 xxxxx 「満月だというから、変調は無いか様子を見に戻ってみた」 だけだ。それだけだ。 そう言いベッドに腰掛けるのに、文句は言われなかった。少なくとも。 今年の満月では一番小さく見えるらしいから、遠くて大丈夫かとも思ったが。一応。 「ああ問題ない」 ベッドの上身を起こす仁は、与えられたパジャマに着替えるでもなく、ただ上半身はジャケットを脱ぎ捨て、肌着のようなやわらかそうな黒いインナーだけにしていた。身動きして片膝を胸元に引き寄せた分、そこからまたかすかな肌の匂いとぬくもりが立ち上がる。それはとても、人の匂いだった。 だがその一方、その双眸は琥珀色の輝きを帯びたままだった。 腕や背中の皮膚が黒ずみ破れ、異形と化すでもない、蟀谷を血飛沫と共に引き裂いて真っ黒い角が突き出るでも正気を失い鳴き喚くでもないが、そんなふうに「人ではない」部分がたやすく顕れるようにもなっていた。 ストロベリームーンというんだそうだ、赤くまではならないが…… 「ここから見えるのか?」 いや、南中位置も一番低い満月らしいから、この窓からは多分無理だろうな、よければこの時間帯だ、見に出てみるなら 「いや、いい」 仁から返る言葉は簡潔だった。 求められるものは、なにもなかった。せめてほんのわずか何かしてやりたくとも、何一つ。 xxxxx 月の見えない夜、代わりに暗い室内には同じ琥珀の輝きがあった。 琥珀 貴石 その意味するものは 抱擁、至上の慈心、帝王 それがゆるやかにまじろぐ。その間だけは部屋が闇に包まれる。 闇、黒、どこまでも広がる異国のもの悲しく黒い浜辺。それはどこに続くのか。 今、自分は取り返しの付かない計画を進めようとしているのかもしれないと男は思う。 そこにラース、と彼を呼ぶ小さくも落ち着いた声があった。そして続いたのは 「せいぜいつとめろ、お前の描いた絵を本当にしたいなら」 死刑執行を待つ部屋の住人が、そんな事を言った。 満月の夜。 (了)
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kurihara-yumeko · 5 years
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【小説】真夜中の暗殺者 (上)
 孤独で優しい魔法使い
   Ⅱ.真夜中の暗殺者 (上)
 何かが砕けたような乾いた音と共に、大きな影が宙を舞ったのを見た時、リックは薄汚い路地裏の、排水が溜まった窪みに身を潜めていた。
 ある物理学者は果実が木から落ちるのを見て万有引力を思いついたと言うが、その黒い影が数メートル先のところに落下し、脳味噌を石榴のようにぶちまけたのを見たところで、リックに理解できたのは、落ちてきたそれが人間であるということ、そして、その人間が身に着けている闇に溶け込むような黒衣は、自身が身に着けている物とまったく同じ物であるということだけだった。
 つまりは、落ちてきたのは自分と同じ「組織」に所属する人間で、標的の部屋に侵入していた仲間だ。その体格から、落ちてきたのが今回同じ任務に配属されていた男であるとわかったが、何度か同じ任務に就いたはずの彼の名前までは思い出せなかった。
 上へとすばやく目をやると、アパートの四階の窓が割れていた。部屋のカーテンが風に吹かれてたなびき、小さなガラス片がきらきらと光りながら落ちてくる。遅れて、部屋に灯かりがともった。窓辺に近付く黒い人影に気付き、リックは頭を下げるようにして息を殺す。
 部屋には標的ひとりしかいないはずだった。人影は一体、誰なのか。リックは頭に叩き込んだ部屋の見取り図や標的の情報を脳内で復唱しながら、頭をもたげて頭上の人物の顔を視認したいという欲求を抑え込む。迂闊に動いてはいけない。任務は失敗したのだ。ここは一度、身を引くしかない。
 標的が侵入者を撃退したということは、事前に奇襲することが把握されていたに違いない。暗闇の中、標的自身が刺客を返り討ちにできるとは考えにくい。先に手を打たれていたのだ。部屋に用心棒でも待機させていたのか。
 窓辺から人影が消えた。リックは音を立てずに身を起こす。アパートでは他の部屋にも灯かりが点き始めていた。物音を聞いて目を覚ました住民がいるのだ。見つかる訳にはいかない。逃げなければ。
 覚えた地図を頭の中に広げながら、あらかじめ計画していた逃走路を足早に通り抜ける。
 細い路地を何本も抜け、飲み屋ばかりがずらりと並ぶ大通りへと出た。そろそろ日付が変わるという時間であったが、通りに面したバーのネオンはまばゆく、出歩いている人々の姿も多い。金曜の夜だからだろう、仕事帰りを思わせる服装のまま、赤ら顔で上機嫌な男たちが目立つ。リックは何食わぬ顔をして、通行人たちの中へと混ざり込んだ。
 人々の様子に異変はない。この街の片隅で惨劇が起こっているということなど、誰も知らない。
 まだサイレンの音も聞こえてこない。あの路地の住民が死体を発見して警察に通報するのはもう少し先だろうか。リックは左手首の腕時計を一瞥し、作戦通りであれば任務を終え、上司に一報を入れなければならない時刻になっていることを確かめる。
「組織」の人間は予定通りにことが運ばなかった場合、最悪の事態を想定して次の行動へ移る。リックからの連絡がないことで、任務遂行中に予想外の何かがあったということは上司にも伝わるだろう。もしくは、どこかに待機している他の仲間から連絡がいっているはずだ。もう次の手は打たれている。そう思いながらも、リックは頭の中の地図から、公衆電話が設置されている通りを探し出す。
 連絡しなければ。任務が失敗し、現場から離脱し、仲間の死体を置いてきたことを伝えなければ。
 大通りから一歩、再び細い路地へと足を踏み入れた、その時だった。
 ぞわり、と背筋が凍るような感覚がした。
 しまった、見つかった。
 直感的にそう思ったが、リックは決して振り返らなかった。立ち止まることも引き返すこともできない。見られている。自分は今、どこからか、何者かに監視されている。リックにはそれがわかる。だが、見られているだけだ。恐らく、判断しかねているのだろう。殺すべきか泳がせるべきか、まだ迷っている。この先、少しでも怪しまれる行動を取れば、リックは殺されるだろう。よって、足を向けた路地の奥へと進んで行くしかない。来た道を突然引き返すのに、自然な理由がないのであれば。
 路地は静まり返っており、誰の姿もない。表の喧騒が嘘のようだ。リックは表情ひとつ変えることなく、しかし、心の内で溜め息をつく。背中に刺さるように向けられているこの冷たい視線がなくなるまでは、電話をかけることもできそうにない。頭の中の地図から公衆電話の位置をかき消し、リックは新たな逃走路を探す。
 道の角を曲がる際、来た道へ横目を向けると、大通りからこの細い路地へ、数人の人間が入って来るのがちらりと見えた。背の高さや体格からして大人の男だ。それが複数人。それに対してリックはひとりだ。路地の奥で迎え撃つには分が悪い。だが撒くにも相手が多すぎる。
 一体どこへ逃げればいいのか。脳内の地図をめくり、逃走経路に思考を巡らせていたその時、リックの背筋で再び冷たい感覚がした。思わず身体に緊張が走り、はっとして足を止めたその瞬間、リックは戦慄した。
 目の前に、ひとりの男が立っていた。
 いつからそこに立っていたのか、どこからその男が現れたのか、リックにはまるでわからなかった。人がやって来る気配はなかった。向こうから誰かが歩いて来たのであれば、それに気付かないはずがない。途中の脇道から出て来たのだろうか。それにしても、足音ひとつしなかった。
 否、とリックは考える。足音も立てず気配さえ感じさせないということは、この男はただ者ではない。同業者なのだ。
 リックは反射的に半歩身を引いた。目の前に立つこの男から距離を取らねばいけないと、身体は瞬時のうちに理解していた。深く思考しなくても、肉体は常に最適な解答を求め躍動する。「組織」の人間は、そうでなければならない。リックは幼い頃から繰り返し、そのための訓練を受けてきていた。
 しかし、この時リックが身を引いたのは、もっと本能的な反応、つまりは恐怖心からだった。突如として目の前に出現したかのように見えるこの男の存在に、リックは恐怖していたのだ。
 男は首元からくるぶしまで、全身を覆い隠すように黒一色の外套を纏っていた。裾からは黒い靴の爪先がちらりと覗いている。顔は深く被っているフードに覆われ、鼻から顎までしか露出していない。その姿は、まるで影法師が肉体を得て立っているかのようだった。
 異様だ。
 リックは直感的にそう思う。この男は、同業者にしては異様すぎる。
 身体のラインをほとんど隠しているため、正しい目測はできないが、見たところ、男の身体つきは訓練を積み鍛え上げた肉体という訳ではなさそうだ。その外見から、男だということは判断できるが、年齢までは推測できない。老人なのだろうか。衰えて皮膚がたるんでいるような、そんな印象をこの男からは抱く。だが背筋はぴんと伸びており、少しも曲がっていない。
 同業者にこんな男はいない。こんななまくらな肉体で、業務が務まる訳がない。
 だが一般人でもない。一般人が、存在を感じさせることなく、突然リックの目の前に姿を現すといった芸当ができるはずもない。それは熟練した同業者であっても容易いことではないからだ。
 一体、こいつは何者だ。追って来る男たちの仲間なのか。
 リックに悩む時間はない。背後から追手の気配が音もなく近寄って来る。追いつかれたら殺される。それだけは避けなければならない。任務のためでも、「組織」のためでもない、自分の命が惜しいからだ。リックの右手は自身の左手首の袖口の辺りを探る。一か八か、やるしかない。
「――止まれ」
 その声は凛として路地裏に響き、そしてリックの身体は、そのままぴたりと静止した。目の前に立つ男の唇が小さく動いたのを視認していなければ、それがこの不気味な男の声だと認識できなかったに違いなかった。その声はリックの想像よりも遥かに若かった。そして、恐ろしいほど冷酷な声音だった。
 その声を耳にした時、リックの肉体は反射的にどんな動きもやめてしまった。何ひとつ反応することができなかった。見抜かれたのか。リックが今から何をしようとしているか、この男にはわかっているのだろうか。変な汗が流れる。心臓を素手で握られているかのような気分だった。この男にとっては、自分の生死など簡単に扱うことができるのだということを理解した。自分とは格が違う。この男に、ここで殺される。
 影のような男はゆらりと一歩を踏み出し、リックへと近付いて来る。その時、リックは背後で追って来ていた男たちが「動くな」と発したのを聞いた。こちらに向いている無数の銃口の存在も感じる。しまった、追いつかれた。男はさらに一歩、二歩とリックに近付く。「おい!」という声が背後から飛んだ。
「お前も動くな。そいつの仲間なのか?」
 リックは小さく息を呑んだ。目前にいるこの男は、追手たちの仲間ではないということか。やはりこの男は、同業者ではない。リックはそう確信した。その確信を裏付けるように、男は歩みを止めることなく、リックとすれ違うように側を通り抜け、追手たちに向かって行く。
「動くなと言っている!」
 拳銃の安全装置が外れた、その小さな金属音が、リックの耳に届く。撃つぞ、と思ったその次の瞬間には、消音装置を付けたくぐもった発砲音が聞こえ、リックの身体は反射的に弾けたように飛び上がり、咄嗟に地面に腹ばいに伏せた。
 追手たちの手元から放たれた銃弾は全部で六発。リックの目には空間を歪ませるように飛ぶ弾丸の軌跡が、闇の中でもはっきりと見えた。
 それらはまるで吸い寄せられるかのように、リックに背を向けて立つ異様なその男へと飛んで行き、そして、ただそれだけだった。
 追手たちの声に出してはいないどよめきが、伝わってきた。
 弾はすべて命中したはずだ。少なくともリックにはそう見えた。男は身動きひとつしなかったし、外すような距離でもない。だが男は動じることなくそこに立っていた。血のにおいはしなかった。血液が路面に滴り落ちる音もしない。
 男は外套の下から右腕を伸ばした。黒い革の手袋に覆われたその右手には、拳銃が握られていた。男はそれを追手たちに向けると、無言で次々と引き金を引いた。安全装置を外す音は聞こえてこなかったので、恐らくすでに外れていたのだろう。
 まるで映画でも見ているかのような感覚だった。日々死線をかいくぐっているというのに、誰ひとりとして、銃を向けられて抵抗できなかった。
 男は躊躇なく六人全員を撃ち、弾は一発も外すことなく、追手たちの額を貫いて絶命させた。消音装置のない銃声は夜の路地裏に高く響いた。硝煙と血のにおいがその場に立ち込める。
 男は六人の追手たちが崩れるように倒れたのを見てから右腕を降ろし、そのまま外套の中へと腕を引っ込める。拳銃は、固い音を立てて路地に落ちた。男が意図的に落としたらしい。弾を撃ち尽くし、捨てたようだった。
 そしてその時には、リックは男の背後に立ち、左腕で男の首を抱えるようにして掴み、右手で腰に隠していたナイフを首元に突き付けていた。
 この男がためらいなく六人を殺したように、リックもまた、男の喉笛をかき切ることに一瞬の躊躇もしなかった。この男は明らかに異様で、殺さなければ自分が殺される。それは間違いなかった。先程自分が殺されなかったのは、運が良かったと言うしかない。この死んだ六人の追手たちは、運がなかった。人の生き死にや命の重さなど、その程度のものだ。ここでこの男を殺さなければ、自分は追手たちと同じ、屍となって路地を汚すことしかできなくなる。
 だがリックは、男の喉元を切り裂くことができなかった。手応えは確かにあった。それは人間の皮膚を裂き、肉を引き千切る感覚だった。今まで何度も感じてきた、慣れた感触。だが、ほとばしるようにリックの手を赤く濡らすはずの血液は溢れ出ず、そしてやはり、男は微動だにしなかった。ぎょっとして男の首元を見ると、傷ひとつついていない。それどころか、先程当たっているはずの銃弾の跡さえも、その身体にはどこにも見つけられない。
 殺せない。
 この男を殺すことが、どうしてもできない。
 ナイフを取り落とさなかったのは、一度手にした武器は相手を殺すまで手放してはいけないと叩き込まれた過去があったからであり、そうでなければ、リックは何もかもを捨てて遁走していたに違いなかった。驚きのあまり声も出せなかった。リックは自らの敗北とこれから訪れる死を思った。男を拘束していた左腕を解き、一歩、二歩と後退した。
 男はゆっくりと振り返り、うつむいていた顔を少しばかり上げてリックのことを見た。フードの陰になっていた男の白い顔が闇の中に浮かび上がる。それはまだ二十代前半であろう、若い男の顔だった。黒い瞳が、見る者を凍りつかせるような冷酷さをもって、射抜くようにリックを見ている。
 殺される。
 そう確信した、その時だった。
 リックの耳は、微かな足音を捉えた。聞き覚えのある音だ。仲間だった。
「リック!」
 小声で、しかし叫ぶように鋭く発せられたその声は、路地の奥から聞こえてきた。リックがそちらへ目線を向けたのと、男が背後を振り返ったのはほぼ同時だった。向こうから駆けて来たのは、リックと同じ黒装束を着た、ひとりの青年だった。
「チル……」
 リックはその若者を知っていた。同じ「組織」に所属する、兄貴分のような存在だ。先程アパートの窓から落ちて死んだ男のように、名前も知らないような間柄ではない。子供の頃から一緒に訓練を受けてきた仲間だ。
 だが、どうして彼がここにいるのだろう。今回の任務に、彼は参加していたのだろうか。リックはそのことを瞬時に思い出すことができない。そもそも、リックは今回の作戦にどれだけの人間が組み込まれているのかを知らないのだ。
 チルは目の前の異様な男の前を平然と通り過ぎ、リックの元へ駆け寄ると、
「無事だったか。早くここから離れよう。また追手が来る」
 と、言った。それからチルは平然と男を振り返り、「行くぞ」と声をかけてから走り出した。思わぬ事態にリックは面食らったが、男がまるで影のようにチルの後ろを走り出したので、リックはナイフを腰のベルトに収納し、ふたりの背を追うようについて行った。
 この男は一体、何者なのか。チルとは馴染みのある人物のようだが、こんな男は「組織」にはいない。「組織」の人間ではないとするならば、何者なのか。どうしてこの男がチルと知り合いなのか。この男は味方なのか。チルが立てる微かな足音からは、その答えは聞こえてこない。
 路地裏をいくつも通り抜けながら、リックは頭の中に再び地図を広げる。先頭を走るチルの向かう先が、「組織」の人間が隠れ家として使用している場所だとわかった。そこに向かおうとしているのか。この男と共に。
 部外者と共に向かっていいのか、リックには判断ができなかった。だが今は、一刻も早くどこかに身を隠さなければならない。窓から落ちた死体と、路地裏に残してきた追手たちの死体。これ以上人目に晒されては、いずれ自分の身が、そしてゆくゆくは「組織」の存続が危ぶまれる。
 目指す場所は、かつて酒場だった古い建物の、カウンターの奥の隠し扉の向こう、地下に造られた小さな部屋。
 周囲に人の気配がないことを確かめてから、支給されている合鍵で入口の扉を開け、空き家同然の酒場の中へと入る。
 最後に入ったリックは施錠することを忘れなかった。建物の中へ身を隠したことで、多少の安心感があった。チルが奥の隠し扉を開け、地下へ続く階段へと足を一歩踏み出そうとした時、リックはその安心がごく短い時間で過ぎ去ったことを感じた。
 それは異臭だった。だがそれがなんのにおいなのか、リックはその身をもって痛いほど知っていた。ついさっきも嗅いだばかりの血のにおいだ。それも相当の量の血液が流れ出ていなければ、これほど濃いにおいにはならない。
 チルもそれに気付き、そのまま足を止めた。階段は灯かりがなく、闇の中へ続いていた。その闇の奥から、濃厚な血のにおいが立ち上ってきている。一体何人が、この下で死んでいるというのだろう。
「行くのか」
 先に階段を降りようとしたリックに、チルがそう声をかけた。続けて言う。
「この血の量だ。助からない」
「確かめる」
「何を」
「生存者がいるかもしれない」
 そう答えたリックを、チルは鼻で笑った。
「つまりそいつが、殺したやつだ」
 チルはリックより前に立ち、
「俺が先行する」
 と、言い、それから戸口から少し離れたところに立っていた男に向け、
「スミキ、お前はここで待っていろ」
 と、言った。スミキと呼ばれた男はうつむいたまま頷きもせず、しかしそこから一歩も動かなかった。
 チルは腰から拳銃を抜き、安全装置を外して構えると、慎重に階段を降りて行った。リックはいつでもナイフを引き抜けるように腰に右手を添え、その後ろを降りて行く。
 予想通り、階段を降りて行くに従って、血のにおいは濃くなっていくばかりだった。
 リックはこれから向かう地下室に刺客が潜んでいることよりも、階上に残してきた男の方が気がかりだった。時折、後方を振り返ったが、一階への入り口は開かれたまま、その向こうに人影は見えない。だがあの男には、気配というものがまるでない。息を殺して背後の闇の中に紛れていたとしたら、気付くことができないかもしれない。
 階段を降り切った時には、呼吸をするのが苦しいと思うほど、むせ返るようなにおいだった。地下室へ続く扉は半開きになっており、床は室内から流れ出た血で黒く濡れている。部屋の灯かりは点いていない。チルは慎重に扉を押した。古ぼけた木製の扉が、間抜けな軋んだ音を立てる。闇の中に人の気配はない。チルの手が壁際を這うように動き、やがてスイッチに触れると、天井の照明が点いた。
 それはイチゴジャムの瓶の底のような、地獄の果てのような光景だった。
 目視しただけでも十八人。全員、揃いの黒装束だ。しかし、生きている者は誰ひとりとしていない。脈や瞳孔を確認するまでもなく、それが明らかな状態だった。
「……裏切り者がいる」
 リックは目の前の光景から目を背けることなくそう言った。
「なんだって?」
 訊き返すチルもまた、前を向いたまま動かない。
「入口は施錠されていた。鍵を持っているのは、『組織』の人間だけだ」
「殺して鍵を奪って開けて、中にいた連中を皆殺しにしたのかもしれない」
「この場所を知っているのも、『組織』の人間だけだ。鍵だけ手にしても、鍵穴は見つからない」
 チルは沈黙した。まるで背中に目があり、リックが腰のナイフを引き抜いてチルに突き付けているのが見えているかのようだった。
「チル、あの男は何者だ。どうして部外者をここへ連れて来た」
「俺が裏切り者だと言いたいのか」
「答えろ、あの男は何者なんだ」
「忘れたのかリック、俺はいつだってお前を助けてやった。今だってそうだ」
「チル! お前が皆を殺したのか!」
 叫んだリックの口元に、突如として柔らかい布地が触れた。呼吸をしてはいけない、そう思った時には、すでに遅かった。手放してはいけないと教わったはずのナイフの柄が、面白いくらい簡単に手の内から滑り落ちていった。
「リック、お前にはチャンスをやる」
 チルの声。まるで水中にいるようにくぐもって聞こえる。リックの瞳はかろうじて、あの男が自分の背後に立ち、リックの口と鼻を、液体を染み込ませた布で覆っているのを捉えた。
 そのままリックは全身を激しく痙攣させ、泡を噴いて倒れた後、意識を失った。
 意識を取り戻すまでの間、リックは夢を見ていた。幼い頃の夢だった。それは夢ではなく、走馬灯だったのかもしれない。
 リックは物心ついた時にはすでに、「組織」が統括する施設で暮らしていた。
 リックは自分の年齢を知らない。生年月日もわからない。「組織」で生きていくための技術と知識を、日夜叩き込まれて成長してきた。
 その傍らにはいつもチルがいた。チルはリックより、数年先に産まれたらしかった。だが彼も同様に、自身の正確な年齢を知らない。施設には同じような年頃の子供たちが他にも大勢いたが、その誰もが、両親の顔や名前はおろか、自らの年齢を知らなかった。
 立って歩けるようになった子供から順に訓練が開始され、適応できなかった子供から姿を消した。施設からいなくなった子供がどこへ連れて行かれるのか、それは大人たちしか知らなかった。昨日まで寝食を共にしてきた仲間がいなくなった朝、その子の行き先に幸福や平穏があると思う子供は誰もいなかった。
 誰もが飢えた獣のような、ぎらついた目で刃を握った。泣き言や弱音を漏らすことはなかった。自らの生を呪うほどの選択の余地さえ与えられなかった。生き残るにはどうすればいいのか、それを誰もが知っていた。知ることを諦めてしまった子供は、残らずいなくなった。
 リックは特別優れた子供という訳ではなかった。むしろ劣っていると自覚していた。それでもリックが施設に踏みとどまることができたのは、チルの助けがあったからだ。
 リックとチルは子供時代、同じ部屋の二段ベッドで寝起きしていた。一日じゅう続く訓練を終え、就寝時間になっても、チルは朝方までリックに技や技術をこっそりと教え続けた。大人たちは恐らくはそれを見抜いていたが、口出しをすることはなかった。黙認されていたのだ。
 リックと反対に、チルはあまりにも鮮やかな子供だった。その才覚は、子供たちの中で群を抜いていた。初めて任務に就いたのは八歳くらいの時で、その任務で彼は大人を三人殺し、五人に再起不能とするほどの拷問を加えた。
 チルは身長が百五十センチを超えた頃、施設を出て行った。「組織」に正式に編入することが認められたからだ。脱落者以外で組織を出たのは、同世代の子供たちの中で最も早かった。過去を遡っても、それほど幼いうちに「組織」に所属できた者は多くはない。稀有な存在だった。
 リックはそんな彼に追いつきたい一心で鍛錬に励んだが、「組織」に所属することが許された時には、チルが施設を出て行ってから七年が経過していた。
 顔を合わせていなかったその七年の間、彼が一体どんな任務に就きどんな業務にあたったのか、リックは知らない。だが再会した時、チルが「組織」の中で最も血で汚れる部類の仕事に就いてきたということだけはわかった。身のこなし方も、目つきも、七年の間に様変わりしていた。
 彼の実力は桁外れだった。就いた任務で失敗したことは一度もなく、標的は必ず抹殺してきた。子供の頃に「十年にひとりの逸材」と言われていたのは間違いではなかったのだ。リックはやっと施設を抜け、「組織」に所属することが許されたというのに、チルはもう、雲の上の存在であった。
 ふたりが同じ任務に就くことはほとんどなく、だがときどき顔を合わせれば会話をした。チルはリックのことを何かと気にかけて、先に得た情報をリックと共有した。リックは地図でも時刻表でも暗記することに長けていたので、安全な逃走経路や、万が一のための避難路を構築して伝えた。そうして言葉を交わしていると、施設で同室だった頃からお互い変わっていないと、リックはそう感じていた。
 だが、チルは「組織」を裏切った。
 最低でも十八人の仲間を、この地下室で殺した。人間がただの肉塊になるまで、殺したのだ。
 意識が夢の底から浮かび上がるように覚醒した時、リックは血に濡れた床に転がされていた。咄嗟に身体を起こそうとしたが、両手首を背中で縛られていて上手くいかない。拘束されていることを瞬時に理解して、それ以上動くことを反射的にやめる。左頬が濡れ、ぬるりとした血液の感触がした。
 チルは椅子に腰かけ、それをただ見下ろしていた。その背後にはあの異様な男が立っている。
「裏切ったな、チル���…」
「裏切った?」
 横たわったままのリックの言葉に、チルは鼻で笑った。
「何を勘違いしているんだ、リック。俺はただ、復讐しただけだ」
「復讐?」
「お前は忘れたのか。同じ施設で育った仲間たちが、一体何人殺されたのか」
 チルは片手で拳銃をくるくると回す。
「俺は忘れていない。歌うのが好きだったジン、食いしん坊だったトマ、読み書きを覚えるのが一番早かったのはマック、算数に長けていたのはメイだ。お前は覚えていないのか? 皆、子供の頃に施設からいなくなっただろう」
 リックの目は、チルの手の中で回転するその銃の、安全装置が外れているのを捉えた。
「いなくなった仲間のその後を知りたいか? 大人の連中は誰ひとりとして俺たちに教えてくれなかった。だが『組織』に所属したら、答えは簡単にわかった」
「……臓器売買か」
「お前の予想は外れだ、リック」
 チルは首を横に振った。
「お前だって、本当は知っているんじゃないのか? 『お仕置き部屋』を見たことがあるだろう? 悪いことをした子供が連れて行かれる、お仕置き部屋だよ。出来の悪い子供たちは、飼育されている犬たちの餌になる」
 チルは無表情のまま、しかしどこか退屈そうに、手の中の拳銃を回し続けている。
「俺が施設を抜けて『組織』に所属してすぐだ、女の子がひとり、施設からいなくなっただろ。サリって名前の、五歳くらいの女の子だ。赤毛で青い目をしていた。お前は覚えていないかもな。いつだってお前は、自分のことで一生懸命だったから。でも俺は覚えている。その子を解体して犬に与えたのは俺だ。『組織』に引き抜かれて、俺がこなした最初の任務はそれだった」
「…………」
 リックは何も言葉を発さない。チルは続ける。
「『組織』の連中は俺を取り囲むようにして見ていた。つい昨日まで同じ施設で過ごしていた仲間を、俺がどんな風に痛めつけて殺すのか、面白がっていた。もし一瞬でも躊躇したら、俺を同じようになぶり殺すつもりだったんだろう。あいつらが考えそうな悪趣味な作戦だ。俺が教えられた通りに生きたまま皮膚を裂き内臓を取り出している間、サリは一度も泣きも叫びもしなかった。サリがいつ死んだのかも俺にはわからなかったくらいだ。あの子はよくできた子だったよ。まるで教科書のお手本通りだ。あとほんの少し、走るタイムが速ければ、死なずに済んだものを」
 チルの手の中で拳銃の回転が止まった。銃口は、リックに向けられていた。安全装置は、外れているままだ。
「犬が食事を終えたのを見届けると、連中は俺に言った。『よくやったチル、お前は今日から私たちの仲間だ。もう犬に怯えることはない。犬よりも強い忠誠心をもってさえいれば』、と。俺はその日、復讐を誓った。いつか全員を同じ目に遭わせてやる、と。それが今日だ」
 その時、リックの耳には微かな金属音が聞こえた。鎖が床に引きずられているような音だ。軽快な足音が複数、微かに聞こえる。だが、室内から聞こえる音ではない。恐らく階上に音の発生源がいるはずだ。嫌な予感がした。
「だがリック、お前は俺の弟みたいなものだ。『組織』を裏切って俺に付け。そしたら殺さないでやる」
「……ひとつ訊いてもいいか。その男は一体、何者なんだ」
 あの異様な男は、チルの背後に立ったまま、先程から微塵も動かない。人形が立っているようだ。否、それは人形のようにさえ見えなかった。まるで柱でもそこに立っているみたいだ。フードの奥に見える顔には生気がなく、だがその両眼だけはぞっとするような冷酷さを持った光を宿している。
 チルは男を一瞥し、「ああ、こいつか」と言いながらリックへと向き直った。
「こいつはスミキだ。何者なのかと問われると答えるのが難しいが、俺の守護霊みたいなものだ」
「守護霊……? チル、お前は何を言っているんだ?」
「こいつはことあるごとに俺の前に現れ、手を貸してくれた。俺がこうしていられるのも半分はこいつのおかげだ」
「……昔からの知り合いなのか? そんなやつは、施設にはいなかったはずだ」
「こいつは施設とは関係ない。『組織』とも無関係だ」
「チル、お前は以前から、部外者と密通していたというのか」
「そういう訳じゃない。こいつは神出鬼没なんだ。どこにでも現れて、あっという間に消える。魔法使いだからな」
 魔法使い?
 リックは今度こそ、兄貴分の言っていることが理解できなかった。頭のどこかで、こんな裏切り者の狂言に耳を貸すなんて無駄だ、と言う自分の声がする。
 だがそれと同時に、リックは思い出していた。路地裏で突然、目の前にこの異様な男が立っていた時のことを。意識を失う前、薬品を嗅がされた時も、この男はいつの間にかリックのすぐ後ろに立っていた。どこにでも現れて、あっという間に消える。気配さえない。それは確かに、まるで魔法のような神業だ。
「魔法使い……」
「いかにも」
 沈黙を守っていた男が、唐突に口を開いた。
 (下)へ続く
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【ラジオ書き起こし】石破茂✕長野祐也[前編]『長野祐也の政界キーパーソンに聞く』(2017年6月25日放送 ラジオ日本)より
石破茂✕長野祐也(『長野祐也の政界キーパーソンに聞く』2017年6月25日放送・6月19日収録)ラジオ日本 より書き起こし
【長野】 政治評論家の長野祐也(ながのすけなり)です。
ラジオ日本をキーステーションにお送りしています『長野祐也の政界キーパーソンに聞く』、本日のゲストは、ポスト安倍の有力法保、前地方創生大臣、石破茂(いしばしげる)自民党衆議院議員です。 6月19日、議員会館での収録です。
石破さん、よろしくお願いいたします。
【石破】 はい、どうぞよろしくお願いします。
【長野】 石破議員が、春先に出版した『日本列島創生論―地方は国家の希望なり―(新潮新書)』は、「地方から革命を起こさなければ日本が変わる事はない」という考え方をまとめたものです。
これは、「石破議員が考える政権構想の骨格」と理解してよろしいんでしょうか?
【石破】 そんな大それたものじゃありませんが――
【長野】 (笑)。
【石破】 ――私は、今までいくつか大臣をやって来ましたけれど、「大臣を終わったあとに本を出す」というのをならわしとしておりまして。
大臣を2年・1年とやったあと、「自分は何をやろうとしたか?」「何が出来て、何が出来なかったのか?」「これからの課題はなにか?」というのをまとめて世に問うことを、やはり私は「大臣のたしなみだ」と思っておりまして。 大臣が終わるごとに毎回々々、そう努めております。
地方創生担当大臣になって――多くの気づきがありましたし、多くの出会いもありました――「ああ自分はこんなに日本を知らなかったんだ」っていうことに気がついて、正直言って、私はがく然としてですね。 地方創生大臣は、今までの、防衛(大臣)とか、農林(大臣)とかとは違った取り組みのしかたでした。
ですから、世の中の人はすぐ「政権構想?」って言うんですけれど、そういうものよりも、世に「自分が大臣としてどうだったか?」ということを問いたかったということです。
【長野】 ちょっと私の、『日本列島創生論』の感想を言わしていただけると。
冒頭から、石破さんらしい噛んで含めるようなアプローチで、狙いが丁寧に記せられていると思いました。 石破さんは自他共に認める「国防族」のひとりだけど――「狭い意味」での安全保障だけでなくて、国家の安全とか国民の将来という、「広い意味」での――安全保障に真摯に取り組んでいるって事が、この本から良く伝わってきます。
従来は、『ふるさと創生(竹下内閣・1988年から1989年頃)』とか『田園都市国家構想(大平内閣・1979年頃)』とか『日本列島改造論(田中内閣・書籍は1972年上梓)』などの構想がありましたけど。 それなりに卓見ではあったけど、今の『地方創生(第2次安倍内閣・2014年から現在)』と何が違うか?
石破さんは「この政策を実行しなければ、日本国そのものが維持できないという危機感が、決定的に違う」と強調されていますね。 著作の冒頭で「人口減少は日本の有事だ」と危機感を表明されておられます。
『地方創生』は、単に「地方が元気だった時代への夢をもう一度」といった地方再生ではなくて、「農業や漁業や林業または観光業のサービス業、介護や医療といった業種」の「潜在力をいかに発揮させていくか?」が柱になっている。 「地方から国の形を変える必要性」を指摘をされていますが、全国をまわってみて直面するのが、まさにこの「人口減少が有事だと言わざるを得ない現実」と言うことなのか?
地方が活性してこその、安倍内閣が掲げる『一億総括役』だと思います。 初代地方創生大臣の「腰かけ的な知見」ではなくて、退任後も、「政治家の責任」として、問題解決・処方箋を推敲されている姿には、敬意を表したいと思います。
(石破さんは)現状は「大都市偏重、大企業偏重が続いている」というご認識なんでしょうか?
【石破】 うん、端的に言って、そう思いますね。
今のまま行ったら、西暦2100年に日本人は、今の1億2700万人から5200万人(に減少する)。 半分ですよ、半分。 200年経ったら10分の1になり、300年経ったら、30分の1になる。 日本そのものが溶けて無くなりつつあります。
それは多分、人類の歴史上、例のないことだと思います。 ですから、「今もう、手を打たないでどうするの?」ということです。
国家というのは「領土」と「国民」と「統治の仕組み」、この3つで成り立っているのであって、どんなに統治の仕組みを守り、どんなに領土を守っても、国民がいなくなっちゃうわけですから、「これを有事と言わないで何というのよ?」と思います。
私が高校生の頃、田中先生の『列島改造』。私が勤め人の頃、大平先生の『田園都市構想』。私が議員になったばかりの頃、竹下先生の『ふるさと創生』。 みんな立派な取り組みだったが、「経済は伸びてるよね」「人口増えているよね」という時の政策なので、「これに失敗したら国が亡くなるぞ」という危機感はどこにもなかった。
これから先は人口が激変するので、経済はそんなに伸びっこないのであって、前提が違うわけです。 おぼろげながら「政策の立て方も変えていかなきゃいけない」っていうことは分かってはいたんだけど、この大臣をやって、(それを)本当に実感しましたね。
「今までの政策のやり方では駄目だ」ということです。
【長野】 かつて、産経新聞の論説委員や、大学の教授を務めていた河合雅司(かわいまさし/人口政策・社会保障政策)さんが、『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること(講談社現代新書)』という著書で、(石破さんが)「有事」だと言われた「人口減少の未来」を、具体的に示していまして。
「2020年に女性の半数が50歳を超え」「2024年に全国民の3人に1人が65歳以上になり」「2027年には、輸血用の血液が不足し」「2033年には3戸に1戸が空き家になり」「2040年には、自治体の半数が消滅」「2042年には高齢者人口がピークを迎える」と、こういう年表です。
『地方創生』が、長期戦略を見据えて、待ったなしで緊急に手を打つべき課題である事は分かりました。 これは(現在のような)「政府等のかけ声」だけでなく、「与野党を超えた国家プロジェクト」と位置づけるべき内容だと思います。
石破さんの『日本列島創生論』では、それを防ぐためのいろんな具体的な案を出しておられます。 これを実現するため、「政治、特に国会で、どう働きかけて行かれるのか?」 その前に、「どう自民党でコンセンサスを得ていくか?」が鍵となる思うんですが、このへんはいかがですか?
【石破】 私が3年前に大臣になって最初にやったことは『地方創生法(第2次安倍内閣・2014年成立施行「まち・ひと・しごと創生法」と「改正地域再生法」の関連2法)』という法律を作ることだった。
今までは、どの市だってどの町だって、「第何次何カ年計画」を作っているよ、っていうことだったんでしょうけれど、それって、ほんの一握りの人しか知らない、ほんの一握りの人しか作ることに参画してない、出来たか出来ないかもあんまり問われたことがない。 国が「こういう政策だ」(と示した内容に沿って)都道府県が受け、市町村が受け、それを受けて各集落が受けて、それでひとりひとりに行く、という流れだったわけです。
新しいやり方というのは――高知なんかが一番の典型ですけど――「まず、集落の話し合いだ」と。 それに、市町村が乗り、県が乗り、最後に、国が乗っていくっていうやり方です。 「全国1718市町村全てが、これから先5年間に、我が市、我が町、我が村をどうするか? というプランを作ってください」というものでした。 今までと全く、流れが違うわけです。
例えば鹿児島県でいえば、「川内(せんだい)市のことが霞ヶ関で分かりますか?」「霧島(きりしま)市のことが霞ヶ関で分かりますか?」「奄美(あまみ)市のことが分かりますか?」っていうことなんですね。 「その地域にしか分からない、その地域においてのベストの政策を作ってください」っていうところから始めようというのが、あの法律の意味でした。 要は、「その地域のことは、その地域でなければ分かりませんよ」っていう。
その主旨・意義を理解してくださった市町村は、本当にそういうふうにやっています。 していないところは、あい変わらず――どっかのシンクタンクに出して、綺麗なものを作って、誰も知らないまま――「補助金ちょうだい」っていうことですよね。
でも、少しずつ少しずつ変わって、点が面になっていくっていうことは、必要なことだと思っておりましてね。 だから、「地方創生法」という法律は、端緒(たんちょ)だったと思います。
この(取り組みの)本質は、「おまかせ民主主義からの脱却」っていうことだと思います。
【長野】 国会では「加計学園が愛媛県の今治市に獣医学部を新設する計画」について、「当時の石破大臣が定めた特区認定の条件とか基準を満たしているかどうか?」が議論になりました。
石破議員自身は(このことに関して)どういう評価をされているんですか?
【石破】 よく「石破4条件」なんて言われますけれど、私が勝手に作ったものじゃありません。内閣全体として閣議決定をしたものです。
4つの条件は、つまり。
(1)「感染症対策とか、生物化学兵器対策とか、新しいニーズがありますよね」「それに対応するためには今の獣医学部獣医学科では能力がありませんよね」。 (しかし)それは専門の人でなければ分かりません。
(2)「今までどこの大学もできなかった教授陣を揃え、どこの大学もできなかったいろんな施設を揃えていますね」というのも、当事者やそのことに通暁(つうぎょう)した人々でなければ分からない。
(3)そして、産業用動物(牛とか豚とか)の獣医さんが足りないということなのであり、獣医さん(全体)の数が足りないわけじゃない。
(4)それに「悪影響を与えないかどうか?」は、これも農林水産省じゃなきゃ分からないことなんです。
だから、「ニーズがありますね」「今の大学じゃ駄目ですね」「そういう(新しい課題を解決する)ものをきちんと準備していますね」、そして「獣医全体の需給バランスに悪影響を与えませんね」、この4つが証明されれば、やれば良いんです。 されなきゃ、やっちゃいけない。
非常に単純なことだと思いますが。
【長野】 加計学園をめぐる問題は、理事長が総理と親しい友人である事から、周囲の忖度(そんたく)が働いたのではないか? という疑問が浮上しました。
長期政権になると、総理が指示しなくても周辺が気を回すということはありがちなことです。 これに対して安倍総理の対処を、どういうふうに見ておられますか?
【石破】 うーん。 だから、「自分と仲の良い人なんだけど、この加計がやろうとしていることは東大獣医学科でも北海道大学獣医学科でも対応出来ない、こんな素晴らしいことなんだよ」と言えば良いことです。
別に、総理が(自身で)そんなことを言わなくても良いんです。
そういうことの担当である農林水産省、文部科学省、あるいはニーズという点からいえば厚生労働省かも知れませんね。 そこがもう、総理と親しかろうが親しくなかろうが、「こんなに素晴らしいものだからやります」、あるいは「総理と親しいんだけど、これが欠けていますのでやりません」と、それさえ言えば良いことですよ。
何も難しいことでもありません。
【長野】 日経の直近の世論調査では、「加計学園の説明答弁は納得できない」という人が75%、共同通信でも73%。
【石破】 はい。
【長野】 その結果が、内閣の支持率の急落に繋がっていますね。 「自民党の中でも、対応に反発が強い」と聞いています。
(私は)「東京都議選で大きく負け」「ポスト安倍の動きが活発化すれば」、「党総裁3選を果たして改憲を目指す総理のシナリオも少し揺らいでくるのかな」という感じで見ています。
追加調査の結果文部科学省は、「(加計問題に関する)安倍総理周辺の忖度をうかがわせる文章」について、しぶしぶ、存在を確認しました。 こういう「対応の遅さ」が、国民の不信を招いたんではないでしょうか?
【石破】 あの。「どの文書が保存しなければいけない文書なのか?」「どんな文書だったら(保存を)しなくて良いのか?」っていうルールは、どうなっているんですかね?
「文科省は文科省」「内閣府は内閣府」「農水省は農水省」(というふうに、文書保存についてのルールが)バラバラになっているような気がするんですよね。
【長野】 はい。
【石破】 「きちんとやれ」っていう総理のご方針もあって、文書管理って、福田内閣の時に各省共通したルールにしたはずなんですよね(公文書管理法・2009年成立2011年施行)。
(公文書には)『保存期間1年』とか『保存期間5年』とか『永久保存』とか、いろんなランクがあるわけです。 一番要らないのは、「要らなくなったら捨てて良いですよ」っていう『用済み後破棄』。 これの取り扱いは、「誰が判断するんだい?」っていうことがありますんで、結構難しいんですけれどね。
そこをもう一回ちゃんと統一しないと、「あったのかい?」「なかったのかい?」「どこに保存してるんだい?」、みたいなことでですね……。
こういう事務的なことは、いちばん大事なことなんですけど。 (そこ)で「こんなに混乱があって、たまるか」、っていう気がするわけです。 「行政が公平公正でした」っていうことを証明するために、文書はやっぱりなるべく、取っておいたほうが良い。 昔みたいに、紙が膨大になるわけではありませんのでね。 「そこはキチンとしようじゃないの」っていう議論が、あんまり行われていないのは不思議ですね。
私が防衛大臣をやっていたときには、(自衛隊の)航海日誌って、ある一定期間が経つと捨てていたんです。
私が「何で航海日誌なんか捨てるんだ」って言ったところ、「いやいや大臣。戦闘艦はいくさをする船ですから、いくさと関係ないものをなるべく乗せてはいけません」(と答え��れました)。 「なるほどそういうものか」「でもこれは捨てちゃいけない。陸上に保管しろ」と言ったのがもう、10年くらい前くらいの話ですね。 (保管しておくきは)それぞれ舞鶴でも横須賀でも呉でも良いんですけれど。
今は全部電子データになっていますので、場所なんか取るはずないんで。 行政文書(公文書)というのは、「今晩飲みに行きませんか?」とかそういう文書じゃない。 「公務に関することで複数の人が目を通したものは行政文書なのだ」「それはきちんと残せ」という事を徹底しないと、また同じことが起きますよ。
【長野】 「総理のご意向」文書を全否定した安倍政権が、(その後)どんどん出てくる文書や証言の前に誤算を重ねて一ヶ月迷走した問題に対する国民の世論調査では、まあ非常に、厳しい結果が出ています。
(現在)衆参両院で与党とそれに協力する勢力が多数を占めているので、安倍政権の政局運営というのは、強引になりがちです。
「テロ等準備罪を創設する法律」の制定でも、最後には、委員会採決を省略して本会議の採決で決めるという、通常とは異なる対応でし���。
こういう安倍政治の姿をどういうふうに見られますか?
【石破】 うん、安倍さんは、よく「政治は結果だ」って言いますよね。 憲法改正なんかでもそうなんですけど、つまり、「結果が出なければ意味がない」。 確かにそうなんです。 だけど、「結果が出ればプロセスはどうでも良いのか?」っていうと、そうはならないのであってね。
私は、「適切なプロセス」と「結果を出す」、このふたつとも、政治が目指していかなければいけないことだと思うんですね。 だから――もちろん総理がそう思っているわけではないでしょうけど――「結果さえ出ればそれでいいんだ」というのは、やっちゃいけないことだと思います。
私は全部見たわけじゃありませんけど、一連の「テロ等準備罪」の質疑では、やっぱり、すれ違いが多かったですよね。 つまり、その場で野党を、論難(ろんなん)というか、論破(ろんぱ)というか、難詰(なんきつ)というか、それをするのは、確かに、テクニックとして、ひとつのやり方でしょう。 「印象操作だ」とか、そういうお気持ちは分かります。 分かるんだけど、「野党議員の向こうには国民がいるんだ」ということを忘れちゃいけないと思うんですね。(それでは)国民は何のことだか分からない。
「これが、国民のいろんな人権を侵害しませんか?」とか「運用を間違えると、非常に監視社会になりませんか?」とか「これだけの罪名が必要なんですか?」とかを訊いているわけであって。 (それに答えるにあたっては)訊いている人が、「うんそうだよな」って思ってくれる努力を、これから先、さらにさらにしていかきゃないけないっていうことだと思いますけど。
【長野】 安倍政治の今の状況を見て、各紙(による調査)では「内閣支持率」が急落していますね。 読売は10ポイント減の49%。 日経は、7ポイント減の49%。 共同は、10.5ポイント減の44%。 毎日だけですが、10ポイント減の36%で、不支持の44%と逆転しているんですね。
これが一過性のものなのか、「安倍政権の終わりの始まり」「政治の節目が大きく変わるきっかけとなる」のか。 今後注目をしてきたいと思います。
【長野】 連続4回の国政選挙で野党に勝った安倍政権は、とかく、野党を抑え込むという手法が目立っています。 しかし「国民の4割」とも言われる「無党派層」の中には、次第にこの「安倍政治の手法に疑問の声が蓄積しているのではないだろうか?」と思うんですが、このへんはどう見ておられます?
【石破】 うーん、それは国民すべてに訊いたわけでもありませんし、世論調査って設問のしかたで数字は全然変わるので、「あまり世論調査だけにこだわって政治をやるのは間違いだ」と思っているんですけどね。
私は、選挙の時でもそうなんですけども、「集会にどれだけ人が集まってくれたか?」も大事だけど、「選挙カーを走らせてみて、どれだけの人が手を振ってくれるかな?」っていうのが、一番分かりやすいバロメーターだと思っているんです。
選挙が始まる。選挙カーを走らせる。 (そこで)大勢の人が手も振ってくれると、「この選挙は勝ったな」って思いますし、どんなに集会に人が集まってくれても、対向車の反応とか道を行く人の反応が悪いと、「あ、これは厳しいな」って、思うんです。
で、この、世の中の支持っていうのも……。
わたくし今、役職に就いていないので、SPが付くわけでも秘書官が付くわけでもないし、かなり自由に、飛行機に乗ったり電車に乗ったりしてるんですね。 そうすると実際に、「石破さん頑張ってよ」って人が、そうですね、2月前の3倍にはなりましたね。 向こうから寄ってきてくれるんです。
【長野】 おおー……。
【石破】 この数がすごく増えているというのは、「一体なんなんだろう?」って思うんです。 だから、「世の中の人たちが思っていることが確実に変わりつつある」っていうのが――「肌感覚」っていう言葉はあんまり軽々に使うべきじゃないんですけど――実感ではありますね。
【長野】 その(有権者の)期待が今からもっともっと増えるように、期待をしたいと思います。
【長野】 あと、「無党派層の安倍政権離れ」っていうのは、世論調査でもはっきり証明されているし、そのボディーブローっていうのは、徐々に効いてくると思うんですね。
今まで安倍政権は、例えば消費税の増税などの「国民に痛みを分かちあってもらう政策」を、支持率を確保するためなのかどうなのか、先送りしてきていますが。
私はね、本当に「ウルトラ政権」を目指すならば、最後はこの厳しい課題に取り組む必要があると思うんですね。 そして日本の将来のために、「野党を攻撃し続ければ政権が安泰」という政局観を乗り越えて、「野党との政策的一致点を探る発想」に転換をしてもらいたいなという感じが、強く、します。
石破議員が総理総裁を目指すときには、国民に対して、国会運営のあり方、あるいは野党との関係を、どう構築するという考えをお持ちですか?
【石破】 「それはお前、考え方が甘いんだよ」って言われるのかも知れませんけど、我々が先輩から教わってきたのは、「野党の顔を立てようね」っていうことでした。
顔を立てるという言い方はよくないでしょうね。(議会で)たとえ多数を持っていても「野党の主張で取り入れられるべき点は取り入れる」「取り入れられない点は、なぜ取り入れられないか? というのを分かりやすくお話する」ということを、私は大事なことだと思っているんです。 彼らだって「国を滅ぼそう」と思って言っているわけじゃないし、「全く荒唐無稽」なことを言っているわけじゃないんで。
まだるっこしいかも知れないし、速断即決にはならないけれど、やはり彼らも、憲法の規定によって、全国民の代表者なんですよね。 「ひとりひとりの野党議員が全国民の代表者だ」ってことを、忘れるべきではありません。
【長野】 今日のゲストは、前地方創生担当大臣・石破茂・自民党衆議院議員でした。 石破さん、ありがとうございました。
【石破】 ありがとうございました。
【長野】 来週も引き続き、石破茂議員にご出演いただき、「憲法改正論議」「骨太方針2017」「アベノミクス5年の評価」などについて討論いたします。
お相手は、長野祐也でした。
(書き起こしここまで)
※可読性を優先して、書き起こし時に、もとのご発言を尊重しながらも、繰り返し表現や語順等を積極的に整えています。実際のご発言は、ぜひ他の機会に放送音声でご確認ください。また、間違いのない作業を出来るだけ心がけていますが、その上での誤字や、編者不見識による間違いについては、どうか温かくご容赦いただけましたら幸いです。
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jimichinikasegu · 7 years
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ケーララ、お互いさまが彼岸
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谷崎潤一郎は、あこがれがMAXレベルにまで高まっていた中国の地を踏んだ時に「アレ?思ってたところと違うゾ?」という幻滅を覚えないでいられなかったはずだけれど、谷崎特有の現実肯定力、というか現実変容力を発揮して、かの地がこれ以上ないほどすばらしいところだと「信じ切って」、こころから楽しみ切って最高の思い出にした、それに比べて芥川の中国旅行記の暗さはどうだろうと野崎歓が書いていて、それは多分、人の資質によるところによるのが大きいのでしょうけど、どうせならどのような現実を前にしてもそれを良い方に、自分にとって価値のある尊いものだという風に感じられるならもうけものでしょう。
それが旅する前の心構えみたいなものでした。(旅人K)
ケーララ、その魅惑的響きにするどく反応するようになったのは、いつ頃からだったのだろうか。ケーララという響きを頭のなかで何度も転がしていた。ある夕方、駅前にとれたて野菜ととれたて果実を販売する屋台が立っていた。ダンボールに大きく、マジックで値段が書き込まれてある。手ぬぐいを頭に巻き付けた青年が立っていた。そこを通り過ぎた時にかすかに感じた芳香によってすら南国行きの切符を想像してしまったぼくは、そのとき、ケーララ・ランドに行くしかないことを受け入れていた。
青果店の軒先の熱帯の芳香に 南国行き切符を夢みる
地名は光でできていると大岡信はその卓越した詩「地名論」で語っている。ケーララという響きに魅了されたのなら、そこに行ってみるだけの正当な理由になる。「ぼくたちは清らかな光の発見を志す身」(ランボー)なのだから。覚悟を決めたらあとは簡単。一週間休暇を取り、一路インドへ。
✈✈✈
成田→北京→ムンバイ→トリヴァンドラム。まともに寝ていない。でもトリヴァンドラム空港に降りた時の開放感はどうだろう。冷凍都市から一気に南国の真ん中。ジェットエアウェイズの紺色の翼が太陽の光で輝いているのを背にぼくはトリヴァンドラム空港に入り、トイレでTシャツに着替えた。これはすべては南インドのグロリアス・サンの下における話。かれはすべての魔法を知っている/アンダー・ザ・サン。
空港を出て、トリ市駅前までとりあえずオートで向かう。うれしさしかない。オートの揺れ、ドライバーのハンドルの捌き方。ドアのない車の開放感。色あせた壁。看板。見える風景のひとつひとつが全部いい。青空に映える花々もいいし年代物のバスの群れもいい。駅までで降り、ふしぎなインディアンコーヒーショップでチャーイを飲んで休みながら、周囲の人たちの話す音を聞くのもいい。ガラスを必要としない窓からいい風が入ってくる。「いいぞ、いいぞ」と日本語でつぶやいては笑みを浮かべるぼくはすこし間が抜けていたはずだった。気分はすっかり高揚していて、疲れを感じない。
そのノリでカニャークマリまで行くことにする。最南端の近くまで来て、そこまで行かない手はないから。行かざるをえないといってもよかった。
ポリネシアは三角形なんだって? だったらそれぞれの頂点には行かざるをえないね。これは愚考だ、否定できない。地図を見たり、どこかで見かけた一枚の写真にとりつかれたり、何かの文章の一節が妙に気にかかったりして、無根拠に出発する愚者の一部族。ぼくはそのひとりだった。 管啓次郎『斜線の旅』
ぼくもそのひとりだった。列車を待つ間、駅ナカの軽食屋でサモサとチャーイをボウイに注文する。これが10年ぶりのインド。べっこう縁のメガネを掛けた初老のおじさんが、さりげなく僕の前に座り、僕たちは英語で話した。僕のまえに座る前から僕は彼を認めていた。リラックスの仕方が尋常じゃないというか、ストレスから完全に切り離されて独存しているような印象を受けていた。軽みをマスターした身のこなし。オランダ人だという。働かなくていいんですか?と聞くと、そうだ、もう働かなくていいんだという返事だった。各国の子どもの遊びを取材して、それをホームページに載せているということだった(kidsplaybook.comというもので、帰国してから見てみたらとてもよかった)。日本の子どもの遊びも取材したいんだけどね��と彼は言った。東京では子どもたちは外で遊んでいるかね?さあ、昨今は遊びが掌に収まり、片手間で消費されるようになってますからね。そんな彼らをこそ取材したらどうですか。まったく、それはもうどこの国も同じだよ。まったくクレイジーなことに。
プラットフォームでアナウンスする女性の声も変わっていないようだった。これはふしぎなことではないだろうか。案内に従い、車内に乗り込む。パックパックひとつ、肩から降ろし、空席に座るとまもなく動き始めた。全開の窓からいい風が入ってくる重厚な鉄の塊は誇らしげに汽笛をあげながら走る。すべて初めて目にする風景を通過していく。真っ白な画用紙の上に鉛筆でするりと一本線を引く、その線のあたらしさを、この列車は体現していた。鬱蒼と茂るヤシの木などからなるケーララの植生が全開で生きていた。ごろりと寝転ぶ青年のスマホからは軽快なヒンディー・ポップが流れていて、それが車内の暑さと完璧に調和していた。みんな穏やかに談笑している。幼女の着ている白いワンピースの赤い水玉模様が、薄暗い車内に差し込むあかるい光を受けてひときわ映えていた。すっかりリラックスした僕はサンダルを脱ぎ、裸足で前の席に足を載せる。そして窓枠に肘を載せて風に吹かれている。この自由さ。京葉線での通勤の日々が遠くにかすみ、すぐに消失した。まるでそんなことは始めからなかったかのような、あっさりとした消失。風景は鮮やかに彩られ、列車は力いっぱい加速している。その速度。あらゆる窓、あらゆる出入り口が世界に向かって開け放たれ、天井に据えられた無数のファンが唸っている。このオープンネスの比類なさ。鬱屈した島国だけに居たら一生感じることのできない経験だと断言できる。いろいろなものをじっとみるのが僕の仕事だという認識はずっと持っている。
インドの駅の表示版は、黄色に黒の文字。その書体はどう形容したらいいのか、とにかくインドの雰囲気に合う、普遍的で超時代的なフォント。英語、ヒンディー語、それから南インドの言葉が併記されてる。エラニエルという駅名が妙にふしぎな、インドっぽくない響きがした。プラットフォームのベンチに座ったままじっとしている人たちが、ひとつの腰掛けにひとりくらいの割合でいて、乗客や木陰の模様を眺めるともなしに眺めていた、そのもてあまされた時間そのものも、パンクチュアリティに統率された東京の電車時間や、何十分も遅れた上、バス停と遠く離れたところに雑に停車したバスに向かって殺到する北京のバス時間とも等質な時間なのだった。そしてそれを列車の窓から見つめる僕の目も、その時間とともにあった。僕もその人の隣にさりげなく座り同じ時間を共有したかったが、僕たちがお互いに話し合うことがあったとしても、そもそもお互いが触れ合うことのできない彼岸として存在しているだけなのかもしれなかった。それぞれがもつ自分という思いは此岸として感じられるが相手にとっては彼岸。その間にはガンガーがゆっくりと流れていて、川岸の風景は似ているけれど両岸は動けないので、お互いに手を振ることだけが精一杯なのだった。
平行線の二本だが、手を振るくらいは(中村一義)
カニャークマリが終点。それ以上南はないのだから。下車した時、すでにかすかに潮の匂いがしていた。駅から歩いて海に向かう。年代物の車があちこちを走っていたのは、カルカッタのようだった。そしてサダルストリートの安宿の屋上で瓶詰めのマンゴージュースを飲んで涼んでいた日々を思いだすのだった。でも今は初めての町にいて、サンダルつっかけてまっすぐ海まで歩いている。途中日陰でコーラを飲む。家々の塗装の色彩感覚が鮮やかで、そのどれもが強烈な日差しの中、充足していて調和しているように見えた。そんな光景の向こうから、着飾った少女たちがはしゃぎながら通り過ぎていったとき、自分はいま、亜大陸の最南端で一人いることに、ふしぎな気がした。
ふしぎな気がした、なんて言ってるけど、ここに来てみたくて、チケットやらなにから手配した自分が自分を連れてきただけじゃないか!
細い路地の先に海が見えた時の高揚感、あれはまるで初めてガンガーを、まるで迷路のように入り組んだ細い路地の彼方から認めた時の高揚感と少し似ていた。まっすぐ進み、サンダルを穿いたまま、ジーンズの裾をまくり上げ、砂浜に立ち、そのまま波打際で波に浸る。風は強いし波もある。しかしその風はいつまでも受けていたいと思わせるような温暖な風だった。砂礫は荒めで、素足での感触は日本の渚で感じるそれとは異なり、足の裏をチクチク刺した。海の色がなにかこう見たことのないような緑。午後二時の光を受けて、そんな光り方をしていた。そこにはただ、別の海があっただけだ。同じ空間に違うものが存在できないのだから当然だ。
木造の船、とすら言えないような、靴の型のような、船の中身。船の形を保つために不使用時に入れておく用なのかと思われた木型の上に座り(拝借します・・・)、風、スリランカ、そのはるか南に広がる広漠としたインド洋を通ってやってきた風を感じながら、足を乾かしていた。はるか洋上を見やりつつ(はじめて使ったことばだ!)、その足を乾かす間の時間、聞こえるのは風と波の音だけ。成田から一息に、インドの最南端というダイナミックな移動ができて満足していた。
よる八時の食堂でアールゴービー(じゃがいもとカリフラワーのカレー)とチャパティを食す。カレーがとてもスパイシーでホットであったが、認めないわけにはいくまい。今まで食べてきたカレーの中で最もうまかった。何が違うのか。北インド(といってもそんな大雑把な捉え方はどうなのだろうか)のやさしい味わいに比して、ここのカレーはぎっしりしている。ダイナミックに炒められスパイスともどもぐつぐつ煮込まれた刻み玉ねぎが主役級の活躍を果たしつつ、過激なスパイスのいろいろが身体を突き抜けてたとき、いまぼくは最もうまいカレーを食べていることに気づいていた。卓球玉より小さい、かわいいじゃがいもの旨さ、辛味を緩和しつつ、そのものの味もカレーのハーモニーに参加している。そしてカリフラワー。赤い衣で揚げてあり、そいつがあたかも唐揚げの衣のように味がついていて、ぱくつくと中のカリフラワーが迎える。まったく予期しない幸運の一皿。あまりに辛いため、チャーイ2杯、ミネラルウォーター1本なしでは食べ切れなかったのだけれど。上野の「デリー」のコルマカレーに近い味といえば伝わるだろうか。それを本場にした味。その後なにげなくPOLOを買い求め、舌先で転がしながら部屋に戻り、そうしてやっとぐっすり眠ったのである。
朝4時からお寺の拡声器からお経なのかなんなのか、ひたすら大音量で声が響く。ぼくはインド最南端のお寺、
トリ市に戻り、今度はシヴァナンダ・アーシュラムに向かう。まずバスターミナルでNeyyar Damに行くバスを探す。どのバスもタミル文字かなんかで書かれていて読めない。しかしNeyyar Damという文字だけは英語表記だったのは、そこを目指す旅人が多いからだろう。その、必要最小限の親切心がありがたかったし、どう見てもなれない旅人という風情を察知したのか座りやすい一人がけの椅子を勧めてくれた料金回収人のカインドネスもありがたく受け取った。ぼくは、これから山奥のアーシュラムでリトリートするのだ。たった3日間のつもりなんだけど。
アーシュラムにたどり着き、チェックインする時のフロントのイギリス女性(発音のしかたでなんとなく推測)が、なんともまぶしいウインクを交えながら施設の説明をしてくれていた。すでにここのやりかたに従い、受け入れるつもりでいる。なにか収穫があればいいと思うけど、ただまったく何も考えずtranquilityを楽しめたら気分転換にもなるだろう。枕や布団や蚊帳を渡され、ドミトリーの空いているベッドを探し、周りのひとにハイなんて挨拶する。みんな笑顔。笑顔を保つのがルールなのかっていうくらいみんな笑顔。
ベーシック・アーシュラム・スケジュールとはこういうもの。
05.20 AM Wake-up Bell 06.00 AM Satsang (Group Meditation, Chanting, Talk) 07.30 AM Tea Time 08.00 AM Asana Class (Beginners & Intermediate) 10.00 AM Vegetarian Meal 11.00 AM Karma Yoga 12.30 PM Coaching Class (Optional) 01.30 PM Tea Time 02.00 PM Lecture 03.30 PM Asana Class (Beginners & Intermediate) 06.00 PM Vegetarian Meal 08.00 PM Satsan (Group Meditation, Chanting, Talk) 10.30 PM Lights Out
ヨーガの先生になる人たちのコースは別にあって、上のはヨーガ・バケーションのコース。ヨーガ・バケーションは予約しないで直接行ってチェックインする。詳しくはシヴァナンダアーシュラムのHP参照。カルマ・ヨーガというのは、食事の準備とか宿舎の掃除とかそういったことの手伝い。アーサナクラスは、頭立ちのポーズができるくらいならいきなり中級クラスから初めていいと思った。初級、中級ともに、講師は日本人のときもあったりインド人のときもあった。中級だからといって頭立ちできなくても身体が固くてうまくアーサナができなくても何も言われないし、むしろできるように手伝ってくれる。あんたは初級でしばらくやってなさいなんて冷たいこと言うような雰囲気はなかった。生徒はみんなおだやかな気分を保つことに集中しているようだった。
毎日朝と晩に瞑想およびレクチャーの時間がある。瞑想に入る前にマントラみたいなものを太鼓やタンバリンやオルガンのメロ���ィーと共に歌う。それが意外と楽しい。そのあと瞑想が始まり、時たま香炉を下げて講堂全体にすがすがしい柑橘系のお香の香りを撒いてくれる方がいて、その香りがたまらなくよかった。レクチャーはいろいろと話してくれたけれどなにぶんインドなまりがあってイマイチ聞き取れなかったが、欧米人は普通に理解できていて、ジョークがあれば笑っていた。通じるか通じないかは発音がすべてというわけではなくて、おそらくその話し方とか論理の持って行き方みたいなところ?が大切なんだろうか。
ヨーガが唯一だと思わないほうがいい、スキーも乗馬も楽しめばいいし、好きなスポーツチームを応援したっていい。実際、スワミ・ヴィシュヌ・デーワナンダはそうしていたし、飛行機を操縦するなどしてアクティブだったのだから。スポーツには相手がいるが、ヨーガにはいらない。スポーツには一定の筋肉の緊張を必要とするがヨーガ求めるのはフレキシブルなマッスル。ヨーガは内なるコームネスを追求するだけで競争やストレスとは無縁。セルフ・リアライゼーションを実現するために長く生きるのを目的としてヨーガはある。なんてところはメモった。
この美しいシヴァナンダアーシュラムはインドのヨーガアーシュラムを紹介する本(Yoga in India, kindle edition)で見つけて、その紹介文にパーフェクトなヨーガのイントロダクションとかって書いていたので調べていくうちに一度はこういうところで過ごしてみたいという気になったの。シヴァナンダヨーガは、12の基本アーサナを集中的に練習する。これは難しいアーサナを追求する苦行的なヨーガとは対照的に、初心者でもすんなりヨーガを実習していける、そして日常生活のちょっとした時間に実践できる、いわば開かれた形のヨーガだろう。その12のベーシックアーサナとは、大事に参照している伊藤武のヨーガ本で紹介されているアーサナとかなり重複して好感できた。頭立ち、肩立ち、犂、魚、前屈、コブラ、イナゴ、弓、ねじり、カラスまたはクジャク、立ち前屈、三角形。シヴァナンダのHPにわかりやすい紹介があります。特に、頭立ち(シールシャーサナ)の練習を推奨された。頭立ち、それはケルアックの『ザ・ダルマ・バムス』The Dharma Bumsに出てくる元海兵隊のニュージャージー州出身のホーボーが実践する健康法でもある。ケルアックはその男にLAで列車を待っているときに出会った。ディーガ・ニカーヤ(長部経典)のことばが書かれた紙の切れ端を大事に持っている理想家肌のホーボーだった。役に立てばいいなと思うので、唐突だけどケルアックから長めの引用。
「どうやって神経痛をなおしたのか知りたいね。実は、おれも、血栓症の気があっていけねえんだ」 「そうか、あんたもか。いや、きっとこいつは、あんたのやつにも利くにちげえねえ。なに、わきゃないよ。毎日三分ずつ、頭を地べたにつけて逆立ちをやりゃいいんだ。いや、五分の方がいいかな。おれはね、毎朝起抜けに、河原にいようが、ゴットンゴットン走ってる貨車の上にいようが、小さいマットを敷いて、逆立ちをして五百数えることにしてるんだ。それで、大体三分の勘定になるだろ、な、なるだろ」男は五百まで数えりゃ三分の勘定になるかどうかということをやけに気にしていた。へんな野郎だ。大方、小学校で、算数ができなかったので、自信がなかったにちがいあるまい。 「まあ、そんな見当だね」 「ともかく、こいつを毎日やってみろよ。おれの神経痛がなおったんだから、あんたの血栓症もきっとなおっちまうよ。おれは、今年四十になるんだぜ。ああ、それからね、毎晩寝る前に、あったかいミルクにハチミツを入れて飲むといいよ。おれは、いつもハチミツをビンに入れて持ってるんだ(彼は、そいつをズダ袋の中から引っぱり出してみせた)。まず、ミルクを空きカンに入れて、それからハチミツを入れて、温めて、飲むわけさ。まあ、この二つだな」 「オーケー」
ジャック・ケルアック『ザ・ダルマ・バムス』
ケルアックはその助言を実践して、三ヶ月後には病気がすっかり治り、再発することもなくなったと書いている。そしてあの元海兵隊ホーボーがブッダだったのだと確信するのだった。頭立ちは確かにすばらしい。ここに来るまでは壁の補助がないとできなかったけれど、肘を肩幅と同じくらい、つまり両手で双方の肘を掴んだ時の幅で、肘をその間隔に保ち、三角形の底辺を形成し、頭頂をその頂点に据え、遼の手のひらでそれをサポートする。うまく説明できない!画像を見るのが一番手っ取り早いね。とにかくぼくも壁なしで容易にできるようになった。勢い良く地面を蹴って逆立ちするのではなくて、少しずつ腹筋で上げていくほうがコントロールし易いってこと。
それから、スーリヤ・ナマスカーラ(太陽崇拝)も重点的に実習する。12セットを毎回必ずきちっとやりきる。これが意外としんどい。関節が悲鳴をあげるようだけど、気持ちよくもある。慣れてくると身体も柔らかくなってどんどん楽しくなる。そうして熱中しているあいだ、ふと会社の様子を思い出したり、電車通勤のあの雰囲気を思い出したりするのだけれど、今ここにいることとあまり関係ないことのように思えた。リラ~ックス、コンプリートリー・・・と講師がやさしくくりかえす。 アーシュラム内はサンダルか裸足で歩く。慣れているひとは裸足が普通のようだった。足の裏がやわなぼくはサンダルなしじゃ痛い。犬がひだまりで眠っている。瞑想時に猫がぼくの膝下でくつろぐ。動物たちまでまったくリラックスしているのはすこし驚きだった。なんの警戒心も持っていなくて、そこにいる人たちも驚かせたりからかったりすることはなく、大事に接していた。自分が敵意を捨てたら相手も敵意を捨てるというようなことが『ヨーガ・スートラ』に書いてあったっけ。
アーシュラムには何も持っていかなくていいんですよ。お店があって、ヨーガマットからなにからなにまで買えるから。現金のやり取りはない。電子マネーみたいな、チャージ式のカードを使って購入する。水は、自由に飲めるしペットボトルに詰めることもできる。そしてこの水がたまらなくうまかった。なぜかわからないが、たぶんそこの雰囲気とかも影響しているんだろう。コーラなんて飲みたいとも思わなかったのは、そこが資本主義のイコンとも言えるコカ・コーラすら及ばない聖域なのかもしれなかった。食事もまた最高においしい。そのようにして、規則正しい生活を3日続けた。その短さに驚かれることもあったが、東京で仕事が待ってるんですよ、ぼくには。そのことが、幸せなのか不幸なのか、はっきり断定できなかった。仕事があるだけいいじゃないかと思う。働くことと好きなことをやることの間の広がりはいまだ測定できた例がない。
東京の会社員も年に一度、3日だけでもいいので来たらいいのにと思う(でもまた元の生活に戻ったらそうした感覚ってぜんぶわすれちゃうもんだな…)。時間も株価も為替もどうでもいい。会社は、あんたがいなくてもそれまで通り運営されていくことだろう。ぼくたちはあまりに自分を重要視していないか。迂回は逃避ではない、実践だ。会社員・・・、ぼくはそういう働き方を否定しない。そんなふうに思わないでくださいね。ここのやりかたが一番いいなんて言うつもりはないし。どちらもお互いぜったいに代わってあげることができない。だけどアーシュラム生活のほうが健康にはいい。
太宰治は、怒るときに怒らないと人間をやっている甲斐がありませんと書いていて、このあたりにぼくは太宰の文学的グルーヴを感じるわけだが、ぼくとしてはタゴールの「怒らないことによって怒りに打ち勝て」という考えに寄り添って生きていきたい。なんでって単純なことさ。怒りは健康にわるいから。おそらく日本の、世界の未来を想像すると、以下に気持ちよく生きていくかということにシ��トしていきそうな気がする。この、健康にいいかどうかというのが重大な判断基準になる。たとえば世間一般的には当然怒るべき場面で怒らない。いらいらやもどかしさや欲求不満や面子や承認欲求を脇において、怒りは体に悪いということのみによって怒りをスルーすること。それは本人の健康にもいいことだけれど、同時に怒りの連鎖を止めることを意味する。怒る事になっている主体が、自主的にその「社会的役割」を捨てて、怒りをスルーする。『7つの習慣』にあるように、反応は自主的に選べるのだから。それは世界に対する貢献とすら言っていい。怒りの連鎖を止めることは並大抵のことではない。それにはおそらく修練が必要だけれど、試してみる価値はあるんじゃない? 「怒らないことによって怒りに打ち勝て」とベンガルの大詩人タゴールが言った。これほど深いことばも鮮い。そういうことができる文化で暮らしたかったね、できるかな、これから。
矛盾を受け入れ健康になる (YO-KING)
カルマ・ヨーガという行為について説明があった。それはバガヴァッド・ギーターでクリシュナがアルジュナに説く重要な教えのひとつである。仕事に精を出している無私の状態がそのままヨーガであるという。知識として知らなかったわけではない。それではわざわざ南インドの山奥にまで来ることもなかったのかもしれないが、これも僕のカルマなんだろう。そこまでしないとわからないなんて。日本でも周りを見渡せばそこらじゅうに見つかるはずだ、無私でやっている崇高な人々が。ヨーガということばの広がりかたに、あらためて念を深めたことでした。
少ない荷物をまとめてアーシュラムを辞すまえにもう一度お寺に行ってしばらく佇んでみる。おそらくここにはぎっしりと物語が詰まっているが、人生に意味を求めること自体ナンセンスなのか、人生は意味の外にあるのだとしたら?その人生を物語として理解するようにこの世の中はできているのだとしたら、意味は生の中にしかなく、生そのものを意味づけできるわけではない。人生の中身には意味があるが、人生そのものには意味はない、意味づけできない。そうならこの生は何なのか。ストップ・メイキング・センス。意味を求めないこと、ただあることで満ち足りるべきだ。そなことをなめらかな石の腰掛けに座って風を感じていたときに思った。その時は「エウレカ!」ばりにはっとしたくらいだが、今こうして書いていてもその時のエウレカ感は蘇らないようだ。日本で生活しているうちに消えてしまうような思念は、始めからなくてもいいものなのか?
無意味であることが救い。そう思ってみた。どんな宗教を持っていようと、その人の具体的生自体、意味を越えているのだとしたら、たとえばヨーガを修めない人たちもそうでない人たちも同等であって、意味のないということそのものによってすでに全員救われている。意味を求めるから苦しくなる。ぼくたちは何かを得たい、充実感や肯定感を得たい。そのような希求こそが苦の根源であるとブッダは説く。どんな神様や宗教を信じようと尊重します。でも意味を蒸発させる、自己すら否定するという宗教こそ、「そんなんじゃなしにほんとうにたったひとりの神さま」の教えなのかと、ものすごく心細い思考が、欠けた湯呑みの縁にそっと触れるように、かろうじて到達した。アーシュラムのお寺にはいろいろな聖人の絵が掛けられていて、パット見なにがすごいのかわからないのだが、そこには一遍上人のような聖性を生きた人たちばかりなのだろう。空港や機内で読んでいたこの本に導かれたのだろうか。ノートにメモった箇所はこんなとこ。
「誰もぼくの生を代わって死んでくれることができないのは、誰もぼくの生を代わって生きてくれることができないからなんだよ。とって代わってくれないっていう点では、死はちっとも特別なものじゃないさ」
「人生に意味を求める人が多いんだけど、あれは、まちがいだよ。人生の内側には、もちろんたくさんの意味付けができるし、生きがいはあるさ。でも、人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえないのさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだからね」 永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』
タクシーとバスでトリバンドラムに戻る。Tranquilityの極地から、すぐに雑踏と喧騒と排気ガスの只中へ。この落差。早いとここの落差に対応すべく早速コーラを買い求めごくごく飲むありさま。トリ市のバスターミナルの混雑のなか、コーチン(エルナクラム)行きのバスを探す。普通の市内バスみたいなバスにその目的地が書いてあったけれど、こんなので6時間ガタゴト揺られるのはちょっと勘弁だな、と思いながらそのバスはやりすごす。リムジンバスがあり、非常に快適そうなバスがあり、乗り込む気が満々だったけれど、それは完全予約制のバスであった。俺達は違うみたいな雰囲気のエリートっぽい青年たちがスマホ片手に乗り込んでいった。そして、ついに中級かなっていうレベルのバスがやってきて、鼻息荒く一番乗りで乗り込んだのである。そしていちばん前の席に座っていたら、���金回収人から一番前は女性用なんだよと言われて、オーソーリーなんつってその後ろの席に移ったんだよ。
インドのバスはケイオスなロードを突き進む。ホーンを鳴らし、道を切り開く。道中、車が市街地でつっかえて停止中に、鼻先を干魚の匂いが突き抜け、その懐かしい海辺を思わせる匂いの突然の到来に驚く。見ると、道端で各種干物を新聞の上に広げて商いをしている。干された魚たちの姿をなにげなく見つめていた時、売り主のおじさんと目が合う。おじさんは僕に向かって干物片手に「ほれ、ほれ」とでも言わんばかりに干物を手向けていたのだった。まさかバスを停めて買いに降りてくるとでも思っているのか?冗談でやっているのか?でも、バスが再び進むまでの間の10秒足らずの時間、おじさんの表情は陽気でありながらあくまでもまじめそうだった。ぼくが買いに降りてくると信じている風でもあったのかもしれなかった。バスの高みから、スプライトを飲んでいるという優雅な旅人である僕も、そのとき運転手に「停めて!干物買うの!」と懇願することを、もっともっとアクチュアルに考えてもよかったのではなったか?他の乗客を気にせずに。なんて真面目ぶらなくてもいいんだけどさ。そんなおじさんの仕草に、ぼくはその時苦笑を見せながら、やり過ごすことしかできなかった。かれが遠ざかってもしばらくその時の印象は残った。ちなみに生の魚は氷の上に載せられて、日にさらされながら売られている。ダイキンの次はホシザキの出番なのではないか。インドのあらゆる魚屋がホシザキの業務用冷凍庫を保有する日をぼくは幻視した。
大きめなバス停でしばらく停まる。そこをウロウロしていた開襟シャツ、丈の短いスラックス、へらへらしたソールのサンダルという出で立ち、いわば南インドのデフォルトスタイルといっていいようなおじさんが、見たこともない黄緑色した、食べかけの果実をさりげなく手にしながら、けだるそうにきょろきょろしていた。新聞売りが近づいてきた時、いかにも慣れきった仕草で1部買い求めた。買うという行為が完結するまでが長かった!片手に持っていた果物を咀嚼するペースを早めることも遅くすることもせず、ポケットの中の小銭を実にマイペースで探し、それが代金に足りないことが分かっても焦る素振りはまったく見せず、今度は後ろのポケットにある財布を取り出し、改めて小銭を探し、まるでこれくらいの小銭は当然あるし、別に惜しくもなんともない、だからおれのポケットのどこに小銭があるのか知らないんだよ、でもあんたはその小銭が欲しくて仕方がないんだろう?という仕草で、小銭を少年の手に渡す。その行程におよそ4分はかかっていて、その間新聞売りは神妙な表情で律儀に待っていた。そこにぼくたちはカジュアルな悠久と普遍的な経済原理を垣間見ていたのかもしれなかった。
Varkara、Kollam、 Amrithapuri、 Kayamkulam、 Harippad、 Alleppeyなど、時間があれば一つ一つ寄ってみたい地を通過していった。すぐに見えなくなったけれど、そこに行った気にさせて、納得してみた。そ熱帯雨林とバックウォーターの感じもバスの車窓から一瞥できた。時間があればバックウォーターの旅したかったなあ。
エルナクラム(コーチンの中心地。旅行者に人気のあるヒストリックなフォート・コーチンはそこからちょっと離れたところにある一区画)に着く直前の30分位はハイウェイが整備されていて非常にスムーズに進んだ。このハイウェイも将来ずっと南の方まで延ばすとの由。バスを降りたらすぐにフォートコチに向かうべく動く。ぼくの計画ではフェリー乗り場までオートで行き、そこからフェリーで向こう岸まで渡り、歩いてアゴダで予約してた宿まで行くというもの。でも流しのオートリキシャが、フェリーは故障しているので今日は出ない、だからぐるっと下から廻るルートで行くしかない、お代は300ルピーでよいと言う。つぎつぎと現れるオート運転手たちも同じことを言う。20年前の自分なら簡単に信じていたのではなかったか。そんなことあるかと思いながらウロウロしていたら、プリペイドのオート乗り場に出くわし、フェリーターミナルまで30ルピーとあっさり決まる。まったく気が抜けない。
船は8時半が最終のようだった、チケットを買えたのが8時28分、図らずもギリギリ間に合った格好。波でわずかに揺れている小さな船に座り、出発を待っていた。港湾都市特有の雰囲気というものはある。前方の若者連がSNSのメッセージ機能を使って盛り上がっている。好きな女の子にメッセージでも送っているのだろうか。薄暗い船内でかすかに揺れを感じながらだまって座っている。船の漕ぎ手が乗船してきたなと思っていたら、いつのまにか船はするりと進み始めていた。それはあまりにもさりげなかった。汽笛もなにも鳴らさずに。出入り口の扉は無造作に空いたまま。その空いた扉からゆったりとした夜の水がナトリウムランプのオレンジの光を受けて揺れていた。ぼくたちの乗った小さな船が巨大な船の船体の近くをするりと通り過ぎていく時、巨大な船の甲板の明るい光が遠く感じられた。
フォートの雰囲気は良かった。洗練されていたと言っても良かった。欧米人の姿が非常に多く、ここが一種のわりと快適な滞在場所として一定の人気があることを伺わせた。ニセコや青島や大理のような雰囲気にも似ていた。ぼくが泊まった安宿ですら、洗練された内装、親しげなスタッフを擁し、快適だった。そのスタッフはまだ少年のようだったけれど、ぼくなんかがロビーを通り過ぎるときすら、必ず立ち上がりにっと微笑んでくれる。ドアも先回りして開けてくれるのだった。
市内観光で見るべきところはたくさんあったけれど、これが見れたらそれでいいというのがあった。それはマッタンチェリーのユダヤ人街にある400年の歴史を誇るシナゴーグの床を埋める広東から舶来された青タイル(”It features an ornate gold pulpit and elaborate hand-painted, willow-pattern floor tiles from Canto, China, which were added in 1762.” Lonely Planet, South India & Kerala) 。この青タイルを見たいという気持ちはすごくあったのだが、あろうことか行ったときにはクローズしていた。シナゴーグの基礎知識として金曜の午後から月曜まで閉まるということすら調べていなかった自分がわるい。コーチンが舞台の小説、ルシュディの『ムーア人の最後のため息』に、ここの青タイルが登場するのだった。その美しい青タイルから物語がつぎつぎと立ち現れる、そんな魅惑的なお話。次回ここにくることはあるのかと思いながらユダヤ人街を散策した。そういえばカタカリダンスもインド武術もバックウォーターも観れなかったなあ。オートの運転手はサイナゴーグと発音したので、僕の中でいつの間にかサイナゴーグになっていた。アイランドはイズランドで、ナンバーワンはナンバルワン、サンキューベリーマッチはタンキューベルリマッチ(というかそもそもカタカナ発音の英語とインド風アクセントの英語はどちらがましなのか?)。そうやって、異国の響きに分け入っていくときの新鮮な驚き。そしてぼくの発音もまぎれもなく、彼らにとっては異質であるわけで、その異なる響きが交差することのおもしろさ。ぼくが突飛な思いつきをしてここに来ない限り決して発生しなかったこと。それはほとんど旅の経験の根幹をなすものだと思う。翌日、ビエンナーレという、まちなかや歴史的建物の中に現代アートを展示するイベントが開催されていて、そいつを見ながら、街を散策する。そしてフロントのお兄さんにウーバルことUBERで車を呼んでもらってコーチン国際空港へ向かった。特に結論のない旅だけど、結論のある旅なんてない。いつか必ず付せられる最後の句点があるだけ。だけど、連鎖を続けてゆくこと、とぎれさせないこと、最終ヴァージョンの存在を許さないこと(管啓次郎)、そのための旅。
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archi-amorphe · 8 years
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予言者としての建築家 architect as prophet ――― 日本の建築批評の位相
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日本で���、建築批評という領域が一般ジャーナリズムにおいて確立されていない。 文学、映画、美術、音楽、などは新聞に定期的に批評が掲載されるが、建築の批評が掲載されることはほとんどない。このことから一般に建築が人々の日常的な 関心の的となっていないのだと類推される。文化の一ジャンルとして受け入れられるのでなく、むしろ生活からかけ離れた行政や企業の経済行為であると受け止 められているのかもしれない。建築批評家は職能として自立しえないどころでなく、建築批評自体が期待もされない。 建築批評はしたがって、一般の人々の教養というより、建築家予備軍のための戦略テキストという性格を持つ。そこではつくるという行為の現場からの声が専ら関心の対象となり、生活の現場からや、味わうという観点からの批評は欠落する。 もともと建築家は優れた批評眼を持つはずだ。批評が求められる土壌を社会が持たないなら、いきおい、優れた建築批評眼を持つものはそのまま建築家の道を歩もうとする。そこで、なおさら建築家の言説のみが新しい建築を予告する声として待たれるという状況を生む。 ここには建築界の閉塞的な状況も一役買っているだろう。批評の欠如は作為(intentionality)に対する自然(naturallity)の優 位、つまり他者性の欠如にあるからである。明確な意図や計画を欠き、さまざまな利害を調整するだけ。あとはなるようになると考えているとしか思えない事勿 れ主義(a "peace-at-any-price" principle)が幅を利かせている。 ところで、概して日本では過去や現状への批評に欠ける嫌いがある。どちらかといえば、批評は未来への提言の形をとりがちである。 たとえば日本には、「過去は水に流す」(forgive and forget)という言葉がある。それは、基本的には美徳であるが、場合によっては一貫性の無さにも通じる美意識(a sense of beauty)でもある。過去は問わないという潔さともとれるが、過去や現在は問題だらけでコメントするにも値しない、未来がすべてである、という気分も その内にある。 こうした気分はとりわけ敗戦で焼け野原となり、それまでの価値観が完全にひっくり返されて以来、より強まってきているといえるだろう。 たとえば都市づくりひとつとってみても、都市の現在はいつでも否定すべき対象として見られている。とくに日本の建築家にとって、都市は敵対的な環境として 立ち現れる。なぜなら彼らは都市に密接に関わって仕事をせざるをえないにもかかわらず、都市から基本的に疎外されているからだ。 日本は、建築家が都市計画に積極的に関与することができないシステムをとっている。そこで、建築家は都市の現状の実践的な課題への解答を求められることはないという立場に置かれる。 そこでは、良く言えば未来に対する先見的な、悪く言えば実現可能性のない構想のみが求め���れる。 概括してみよう。閉鎖的な状況をつくりやすく、他者性が希薄で、文化としての建築という観点も未成熟な日本の風土において、広く一般の人々に訴えかける建築批評は成立しにくい。 日本における建築批評行為はほとんどが建築家から建築家予備軍に向けてなされる建築家の言説であるのはそのためである。 批評家の不在と建築家による予言的言説、これが日本の建築批評の位相である。 歴史の転回点としての1970年の意味 アポロが持ち帰った月の石が展示された1970年の大阪万博で、日本は戦後の高度成長期のピークを迎えた。そして1973年オイルショックの後、低成長期に突入する。 戦後モダニズムをリードした丹下健三が、大阪万博を見届けた後、日本経済の暗転とともに、その主たる活動の場を日本から海外へシフトした。1970年、戦後という時代は大きな曲がり角をまわった。 70年の元旦の新聞は華々しい未来図に彩られていた。しかし、大阪万博が終了し、未来図の白々しさがひとときの宴のあとのけだるさとともに人々の胸に忍びこみつつあった秋、三島由紀夫の自決の報が、街を駆けた。 腹切りという衝撃的な作法ともあいまって、多くの人々はそのアナクロニズムに当惑しながらも、それまであえて目を背けてきた日本のアイデンティティーとい う問題が突きつけられたのを感じた。三島は日本の歴史の忘却に異議申立てを行うと同時に、敗戦の事実と戦後のアメリカナイゼーションによるアイデンティ ティー・クライシスを個人の死で表現したのだった。 世界的な学生運動の徹底的な異議申立てとその失速は、70年をはさんで社会に内省的な雰囲気をもたらした。日本においてとりわけ象徴的だった72年2月の 浅間山荘事件は、学生によって組織された連合赤軍が山荘に立てこもり、警察と銃撃戦を行った事件だが、人々に深い絶望感を与えたのは行軍中に仲間を次々と 粛正していったという事実だった。同年5月、テルアビブの日本赤軍による乱射事件が続いて、学生運動が急速に社会から見放されていった。 日本の学生運動の主要なターゲットはアメリカ帝国主義だったが、そこにアメリカの庇護の下にある国家に対する、三島とは逆向きのベクトルの、アイデンティティー確認要求という側面を指摘することができるかもしれない。 政治的には、沖縄の返還協定調印(71年)、日中国交回復(72年)をもって日本の戦後は新たな段階に入った。最大の激戦地であり、敗戦の象徴でもあった 沖縄の返還は、過去の追慕を禁じられた日本のアイデンティティー不在の感覚を、心の痛みとともに呼び覚ました。しかも沖縄にはアメリカ軍の基地が存在した ままであり、今なお存続している。そこからベトナムへと飛行機が飛び立っていったのだった。 中華人民共和国との国交も、日本の頭越しにアメリカが結び、日本も追随する形となった。 経済環境もドラスティックに変化した。1ドル360円であった円とドルとの固定相場がはずされ、71年8月には変動相場制へ移行。円は上昇を続け(ちなみ に99年2月9日現在1ドルは116円)、日本の労働者の賃金も相対的に上がって、国際競争力の側面で日本は新たな局面にさしかかった。そして73年秋の オイルショック。中東からの石油がストップするという危機感から、インフレと物不足の危機感が煽られ、日用品の買いだめが起こり、パニックとなった。日本 の産業構造は大きな変化に見まわれる。 人々は否応無しに歴史の転換点に立っていることを思い知らされた。政治的にも経済的にも国際社会の荒波に投げ出され、もはやアメリカの鏡に映る自らの姿に アイデンティティーを投影するだけでは生きていけなくなったことを朧げに感じはじめた。敗戦後の茫然自失から国際社会の一員としての自覚へ。アメリカの無 条件の庇護の下に成長を夢見る時代は、70年を境に、過ぎていたのである。 戦後、日本の未来の指針はアメリカだった。昨日の敵は今日の友。「過去は水に流」された。敗戦の処理を通して、自らの過去は断罪され、封印された。アイデ ンティティーは未来の可能性に求めるよりなかった。このことは日本に過去や現在に対する批評が不在であることと関係しているかもしれない。 アメリカナイゼーションからの離脱も70年以降の風潮である。アメリカが体現したものとは、わかりやすく単純化してしまえば、民主主義と家庭電化製品。理 想のアメリカに対して現実の遅れた日本があった。ところが技術が追いついてくるにつれて、意識の上でのアメリカ離れがおきた。自動車の嗜好もアメリカン・ カーでなくヨーロピアン・カーへと移った。 しかしながら、日本のジレンマは、アメリカへの不信を決して自問しえぬところにあった。少なくとも安全保障面においては対米従属を余儀なくされていたから だ。日本は軍隊を持つことを憲法で否定している。1 そして本当はその態度が正しいと信じたいのだが、今のところ丸腰で生きて行けるほど世界は善意に満ちてはいない。 後に90年の湾岸戦争でそのジレンマに基づく苛立ちはピークに達する。金を出しても感謝はされない。アメリカの庇護の下にいることの違和感が70年以降深 く潜行した分、強まっているといえるだろう。。戦後は1970年で終わっている。1970年以降を<戦後・後>と呼んでもいい。いまや<戦後・後>を再び <戦前>とせぬ努力と覚悟が求められている。 ふりかえれば、日本が世界の中の日本という意識を名実ともに持つようになったのが1970年。この頃を境に人々の年代の数えかたも、日本独自の年号である 昭和何年代から西暦へと変化する。昭和20年が終戦だから、20年代、30年代という数え方は敗戦から10年ごとというわかりやすい指標であった。人々の 意識における西暦への移行は、敗戦をもはや時代の区切りとする必要のない時代、国際社会の一員としての日本という時代への参入を意味しているのである。 70年代以降を代表する3人の建築家の言説<解体・否定・内省> 丹下健三が退席し、経済が失速した70年以降の建築界の言説をリードしたのは磯崎新、篠原一男、原廣司の3人であった。 磯崎新 丹下健三がリードしてきたモダニズムを批判的に継承したのがi磯崎新であった。実際にも彼は丹下の弟子であり、70年万博において彼は丹下の下で、中心施 設であるお祭り広場を担当している。60年代を彼はその著「空間へ」(71年)で総括し、「心情的に脱落した」という言葉で70年万博への距離感を表明し た。 「建築家にとって最小限度に必要なのは、彼の内部だけに胚胎する<観念>」であり、「設計のときに動いた手の軌跡によってはじめて観念はささえられて実在 する」という言説は、大上段に振りかぶった社会性を背景にしたそれまでの建築家の言説をたちどころに色褪せたものとして、個人の内省に向かう時代の転換点 を宣言し、アイロニカルな批評精神と卓抜した時代への洞察を示した。 ベトナム戦争が終結した年、1975年に「建築の解体」は出版された。それは、当時の世界の新しい建築思想の鮮やかな収集展覧であると同時に、磯崎自らの 戦略に即した批評でもあって、すぐさま日本の若い世代のバイブルとなった。ホライン、アーキグラム、ムーア、プライス、アレグザンダー、ヴェンチューリ、 スーパースタジオ/アーキズームという一連の建築家を論じたこの使徒列伝は、モダニズムのバイブル、ギーディオンの「空間・時間・建築」に取って代わっ て、いわば新約聖書となった。旧約のモダニズムに対して、この新約を総じてポストモダニズムと称しても今やさほど問題はあるまい。 もちろん磯崎はこの本の中でポストモダンという言葉をどこにも用いてはいない。しかしながら、この新しい流れを日本にもたらした磯崎自身が情報のもっとも 鋭敏なアンテナであり、水先案内人として、日本のポストモダンを導いてゆくことになる。日本におけるモダニズム批判の流れはこの一冊によって決定的になっ たと言っていい。 磯崎は、自らの鋭敏な感覚で新しい建築思潮を世界から吸収し、また的確な判断に基づく発信を続けることによって、70年以降の日本の建築言説の軸となって ゆく。 原廣司 1931年生まれの磯崎より5歳年下の、1936年生まれの原廣司は、「建築の解体」の翌1976年、岩波の「思想」誌上に「均質空間論」を発表する。これはより徹底した、文明史的視点に立ったモダニズム批判であった。 1967年に出版された「建築に何が可能か」において、すでに建築という思考が思想を行為に移すための方法論にほかならず、「歴史と(個人の)抒情の隔た り」を架け渡すものの在り方を決定する方法を、モダニズムの再検討を通して発見するという目標を設定していた原にとって、歴史的な課題と個人の課題は統合 可能なはずの問題設定であった。60年代とモダニズムは歴史の中における個人の思想の可能性として、検証されていった。この問題意識が「均質空間論」に結 実する。 原はミース・ファン・デル・ローエの建築に、モダニズムの究極の到達点を見る。普遍的な記号のシステムであり、人類一般に適用可能な方法を求めたインター ナショナリズムでもあったモダニズムは、ミースの構想したガラスの箱の実現をもって完成した。ミースはどのような機能も形態もオールタナティヴな関数とし て書き込み可能な座標を提案したのである。これを均質空間と呼んで原は根底的な批判を加えた。 均質空間の一番の逆説は、それが自由を求めながら、支配の空間と化してしまうところにある。空間配分の自由は使用者側でなく管理者側の手に握られるからだ。 世界の主要都市の中心部はこの形式の建物で埋め尽くされる。均質空間はいわば文化の支配的な空間概念となった。この均質空間が、個々の人間を量と記号に還 元するモダニズムの限界を露呈する。しかし現在のところこれに取って替わる空間は残念ながら見出されていない。これが原の認識である。 建築誌でなく一般誌である「思想」に掲載され、長期的な史的展望を持ったこの論文は、建築を論じた批評に珍しく、広く一般知識人に読み継がれ、現代の古典となった。 原は70年万博には批判的な立場に立ち、70年代は世界の集落を踏破しつつ周縁から自らの思想を鍛えるという道を選ぶ。モダニズムに対する原理的な批判を試み続ける原を、アンチモダンと位置づけていいだろう。 篠原一男 磯崎より6歳年長にあたる1925年生まれの篠原一男は、60年代の高度成長にも70年万博にも背を向け、ひたすら純粋に住宅を問い続けた。しかも極めて作家的な方法をもって。 たとえば彼はこう語っている。「60年代の日本に流行した、壮大なコンクリート・インフラストラクチュアによる都市デザインを私は夢見たことはない。70 年大阪万国博覧会に最盛期をつくった楽天的技術合理主義よりも、日本の伝統のなかに”非合理的なるもの”として閉じ込められている”意味の空間”に限りな い興味を抱いていた。」2 篠原にとって建築は社会や経済や政治にコミットする方法でなく、ひたすら個人の内面に関わる芸術であった。 一貫して内省的方法を取り続けてきた篠原にとって、70年以降の内省の時代は、時代の方が勝手に自らの構図のなかに飛び込んできたようなものだっただろう。 はじめ数学を学び、後に建築に転向した篠原にとって、原点は彼自身が繰り返し述べるように日本の伝統的建築にあった。 日本の多くの建築家が、戦後の課題を、日本の伝統からの切断、モダニズムの日本的受容形態の追及と捉えたのに対して、一人篠原のみが、日本の伝統からの創造を唱えた。 日本のモダニストたちは、伝統を問うにしても、敗戦を通して否定された日本の伝統的形態を意識的に避け、また日本の歴史書(これも戦争を推進した神話とし て否定されていた)に記述された時代、すなわち天皇の時代をも避けて、一気に先史時代である縄文(約1万年前から2200年前)や弥生(2200年前から 1800年前)を対立項として取り上げた。それが日本の「伝統論争」であった。 篠原はそれに対して、ごく素直に、天平時代を代表する寺院建築である唐招提寺(759年創建)を「美しいと思った」と語るのである。戦後の思想空間の中で追憶を禁じられた時代を、平然として、「私の建築の原イメージの多くは甘美な追想の中にある」3 と振り返るのである。 篠原は他の建築家が日本の伝統との断絶から出発することを当然とした時代にあって、堂々と日本の伝統を出発点にすると宣言したのであった。つねに時代の潮 流から超然として、自らの道を行く。これが篠原一男の強さであり、最大の戦略であった。 そして時代が転換点を迎えるとき、篠原一男の言説はつねに、事後的にex post facto、時代を予見した形となった。これはその後も、10年から20年の時差をもって繰り返された現象である。篠原はポストでもアンチでもなく、シノ ハラであった。そして88年には自らモダンネクストと称するようになる。4 76年に彼は「篠原一男2/11の住宅と建築論」という美しい作品集を出し、その巻頭に「野生と機械」という論文をおいた。ここで彼は70年が彼にとって も伝統から「無機質な空間」「中性の空間」への転換点であると述べ、さらには「空間から事物への遡行」を標榜��、やがて「裸形の事物」という言葉に到達し ている。 篠原の純粋な個人作家としての言説のスタイルは、70年代から80年代前半という、内省の時代の多くの建築家を魅了した。篠原の姿勢に共鳴する若い作家た ちの集団は、篠原スクールとすら呼ばれた。この中には伊東豊雄や長谷川逸子など、後に世界的な活躍を見せる建築家が含まれていた。 85年:新たな切断点、そして<形式・肯定・越境>へ 1985年あたりを境に、日本の景気が本格的な上昇傾向に入り、中曽根=レーガンの内需拡大路線の呼応もあって、いわゆるバブル・エコノミーに突入していく。 85年は筑波科学博も開催され、このあたりで70年から15年ほどの「内省の時代」、あるいは「解体と否定の時代」が収束したと見ていいだろう。 その予兆は80年代前半のパリにあった。 79年から80年にかけて開かれたパリの個展をきっかけに、篠原一男が「プログレッシヴ・アナーキー」という概念を提示。そのモデルとなった都市「トウキョウ」は、バブル期の変容の予感を秘めて、時を待っていた。 82年、パリ、ラ・ヴィレット・コンペ。磯崎新が審査員の一人となり、バーナード・チュ��、レム・コールハースがトップを競った。佳作となった原廣司の提 案は、空間の重ね合わせという方法において、レム・コールハース案とも響きあっていた。彼はこれを「多層構造」と呼び、後の「様相」概念に流れ込む重要な 概念となった。 磯崎は異質の他者を並列したり重ね合わせたりする方法に鋭く反応し、「ディスジャンクション」や「衝突」といった言葉がその後の彼の言説に頻繁に顔を出す ようになる。 単一の美学でなく、異質の他者が共存する美学へ。「建築の解体」でウィリアム・エンプソンの「曖昧の7つの型」と関係づけて彼が詳しく分析したように、そ れはヴェンチューリ([COMPLEXITY AND CONTRADICTION IN ARCHITECTURE (1966)]によってすでに引かれた道筋であったが、ラ・ヴィレット・コンペは、物理的な実体のデザインというよりむしろ純粋な関係のデザインにおける 新しいコンフィギュレーションの出現であった。 そしてそれは、日本にもともと存在した美学でもあって、そこでは実体より関係あるいは気配のみが関心の対象となる。80年代後半のトウキョウは、曖昧で衝 突に満ち、ランダムでカオティックで、強度を持った無気味な姿を露わにしつつあった。いわば要素のデザインでなく布置の明滅であり、不在の事物の共鳴であ る。パリのこだまによってトウキョウは活気づいたといってもいいかもしれない。 少なくとも磯崎・原・篠原は、自らの言説や方法論と時代との感応に、強い確信を持つ時代を迎えた。解体や否定や内省から、形式や肯定や越境extraterritorialへと言説もまた変化していく。 1985年をまたいで、彼らのこうした言説の基調音を裏付ける作品が完成されていく。 1983年、磯崎による「筑波センタービル」、1986年、原による「ヤマトインターナショナル」、1987年、篠原による「東工大百年記念館」。 70年代から80年代を通して、磯崎による活発な評論は、毎年のように出版され、ここですべてあげることは差し控えるが、その言説は、時代の微妙な動きを的確に読み取り、短期間の予言を繰り返しながら、時代を導く役割を果たした。 篠原は20年程度を結果的に視野に収めた予言的発言を行ってきた。強度を持ち、詩的な含みを持つ言葉を用いるぶん、余計に予言的な印象が強い。 原はほとんど50年から100年、時にそれ以上のオーダーで歴史に向かい合っているから、はじめから予言として言葉が発される。たとえば、1987年に出された「空間<機能から様相へ>」はこのような表現に満ちている。 「建築は、失語症の哲学である.ここで、いささかのちゅうちょもなく予言しておきたいのは、21世紀には、建築をはじめとする芸術は、哲学にとって替る。なぜかといえば今日がそして来世紀が、<空間の時代>であるからだ。」5 1985年をまたいで、3人の建築家は70年のモダニズム批判と「解体・否定・内省」の乗り越えについて、明快な展望を開いたといっていいだろう。 もともとモダニズムにとどまらず、建築そのものを問題にしてきた彼らにとって、そしてまた建築が思想であり、なおかつ現実にコミットする行為にための思想 であり、それが構築の原理、組み立てる、創り出すという行為の論理を問題にする思想である以上、彼らの言説には建築という思考の方法の運動の軌跡が刻まれ ている。 実はこの渦中にあるという言説の性質が、日本で専ら建築家による言説が流通し、日本の建築批評を導いてきた理由なのかもしれない。 超越的な視点を立てて、あるいは外部に出て、客観的に冷静に物事を語るというスタイルを、あるいは本質的に日本人は好まない。密接に自体にコミットしつつ状況を語るという語り口がむしろ好まれる。現場の声の尊重、である。 一芸に秀でた人々は無条件に尊敬される。はたから批判するだけの人間は、嫌われる。そして日本人は一般に嫌われることを嫌う。嫌われたときの逃げ場がない社会だからだ。 そしてさらに言うなら、理想や理念や弁証法的に導かれるはずの真理という普遍的な価値や意味に対して、おそらくは根底のところで違和感を持っているのである。真理を支える神を持ったことがないからである。 ともあれ、渦中にありながら、彼らが建築を問い直しつつ開いたそれぞれの世界とその関係は以下のようなものであった。 三者の言説の関係<解放・凍結・破壊> 磯崎は「建築の解体」というタイトルでも明らかなように、それまでの建築という概念を解体しようとした。解体とは狭い意味ではモダニズムの規範の解体であ り、その意味で真性のポスト・モダニストである。ただそれは広い意味では、建築概念自体の解体、すなわち拡張や移動や変形や圧縮や抹消をも含めての再吟味 を意味していた。 ただし磯崎が建築という概念を通して見据えていたのは、西洋古典建築のメインストリームであり、ついに彼がどうしても解体し尽くせぬものとして取り出した のは「大文字の建築 architecture with initial A」、すなわち単純化していってしまえばクラシシズムの建築原理であった。正確には18世紀中期の古典主義的言語の崩壊に果てに出現した超越的な概念であ ると語られる6 が、クラシシズム概念を拡張すれば、磯崎の意図するメタ概念が、これに基づく建築原理をさしていると理解していい。 解体作業の果てに、西洋の思想を貫き、建築の定義そのものともいえるこの建築原理にぶつかって、建築概念そのものを支える体系性、形式性を問い直すことの 自己言及的な構えに気づいた磯崎は、建築という概念さえ実は正確には通用していない日本の言説空間への啓蒙の意味も込めて、あらためて「<建築>という形 式」というエッセイを、新建築誌上に1年間にわたって毎月連載する。ここで<建築>とは「大文字の建築」を指すと彼自身が語っている。 つまり、磯崎は建築を解体しようとして解体しきれぬ<建築>(=大文字の建築)にぶつかり、ついにこれを強化する役割へと向かうのである。 これは日本において、もとより原理的な思考が不在であり、したがって、建築という形式が不在であるという事情とも関係している。世界は建築の解体に向かっ ているが、日本はまず解体すべき建築が不在である、形式の確立が先である、という日本建築の歴史的な使命感に燃えたといってもいいかもしれない。 原はこうした建築観から少しずれた地点にいる。もともと彼は周縁からのまなざしで世界を捉えてきた。原の眼からは、西洋古典主義建築も、イスラム建築も、 ベルベル人の集落も、アフリカの円形住居も等価である。建築史の山脈の頂を形成している輝きと同時に、谷や裾野にある見逃されがちな輝きも視野に入ってい る。個物と普遍はつながっていると見ているからだ。 歴史のメインストリームに目を凝らすのでなく、身を引いていって全体を眺め渡す構えを取る。その分視野が広角レンズに捉えられたそれとなる。原が「世界風 景」という言葉を使うのも、こうした姿勢が関係しているだろう。その言説から伺える、時代から少し離れて遠くを見ているような態度が、彼の予言の射程を延 ばしている。 磯崎はこうした原の姿勢が歯がゆいらしく、いつか「原は<建築>に出会っていない」と述べていた。磯崎の標準レンズで中心に捉えられるものが、原のレンズ からは風景に溶け込んで見えるのである。磯崎の焦点が「大文字の建築」にぴたっと合って揺るがないのに対して、原はいわば「反大文字の建築anti」を眺 めている。 篠原のレンズはほとんど接写に近い。個人的に関心を引かれるものにぐっとよっていって、そのエッセンスを掬い取る。対象の選択はほとんど直観的といってい い。しかしそのフレームには、結果的に時代の「次」が映し出される。歴史の全体像を捉えて、という迂遠な回路を通らない。方法的にも「非大文字non」と いえるだろう。 磯崎が60年代の「解体」の現場から70年代の「手法」に向かい、ついには80年代「形式」の再確認にいたったとするなら、原は70年代世界の「集落」を 巡り、80年代に「様相」なる概念に到達する。篠原は60年代の「伝統」との対話を経て、70年代「キューブ」から「不確かな事物」へ、そして80年代 「機械」と「カオス」へと歩を進めた。 磯崎はもっともオーソドックスにヨーロッパーアメリカ軸で歴史を捉え、原はそれに対して喩えて言うなら非西欧ーイスラム軸で歴史を捉える。篠原は言ってみれば日本ーフランス軸。究極の位相のみで全体を表象する。 これらは歴史に対するさまざまなスタンスであって、日本という国の地理的な位置と、日本の現代という過渡的な時代を表象もしていよう。 磯崎は最終的にややニヒルなスタンスで、建築という「形式」の向こうに「廃虚」という「不在」の相貌を見ざるをえないと達観しているように思える。原は 「意識ののぞきこみ」というやり方で、「世界風景」を描きつつ、「記号場」という言葉で「意識の状態」の写像を試み、そこに自らの建築と言説の歴史的な役 割を位置づけようとしているように思える。篠原は「零度の機械」という言葉に見られるようなぎりぎりの還元作業の彼方に、とてつもない「力」の表現を見定 めているように思える。 ついには死に向かう人間の、建築がその生の証しであって、しかもエロス(個体としての生の在り方を守ろうとする欲望)をタナトス(個体の生を普遍的な「生 命の流れ」に解消しようとする欲望)へと転換する装置であるとするなら、三人の建築家の言説を辿れば、それがちょうどフロイトの言う「死の三形態」に対応 するのが面白い。 しかもこのフロイトに対する言及は、「建築の解体」における磯崎によるホラインの解説から引用しようとしているから、ウロボロスのようにここで円環が閉じ る。 フロイトは死を意識の解放、時間の凍結、肉体の破壊の三つの位相で捉えようとしたという。解放はニルヴァーナにいたり、凍結はモニュメントにいたり、破壊は廃虚にいたる。あるいは不在、それともユートピア(どこにもない場所)にいたる。 これはそのまま原、篠原、磯崎の建築と言説に当てはまるといっていいだろう。原は「世界風景」や「非ず非ずの論理」にニルヴァーナを見、篠原は「透明な力 の幾何学」に永遠のモニュメントを夢想し、磯崎は「廃虚」に不在のユートピアを透視する。言うまでもなく、ニルヴァーナは「状態」であり、モニュメントは 「力」であり、ユートピアは「形式」である。 日本の現代を導く建築家の言説は、死をめぐる三角形の予言となっている。 90年以降:歴史へのスタンス 理念や理想、そしてそれを支える共同体のアイデンティティーへの信頼が崩壊した戦後の日本の言説空間においては、個人のアイデンティティー、そしてこう 言ってよければ予言者の言説に、自らのアイデンティティーを仮託せざるをえない状況がより強く生み出されていた。建築家はある意味でこうした特権的な個人 でありえたのかもしれない。 90年、日本のバブル経済が崩壊する。89年にすでにベルリンの壁が崩壊し、やがて91年にはソヴィエト連邦が解体する。91年には湾岸戦争も勃発。95 年は神戸地震が起き、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。97年、神戸で中学生が小学生を殺し、首を学校の校門に晒すという事件が起きた。 世紀末を間近に控えて、日本は政治的にも経済的にも社会的にも不安定をきわめている。 かつてバブル経済がそれに拍車をかけた、豊かさの消費形態としての「ポストモダン」も、バブルの崩壊とともに姿を消し、「ディコンストラクティヴィズム」も崩壊した神戸の風景と重なって、色が褪せた。 ポストモダンの代表とされ、消費社会的シニシズムを生きてきた日本社会も、いまや消費の欲望すらが希薄となった。 こうした相対的な差異の消費を、かつて磯崎は差異の戯れをもって加速し、原は差異の中の同一を求めて脱出し、篠原は差異の強度をもって切断したのだったが、やがて磯崎は固有の場所へと回帰し、原は共有の意識へと反転し、篠原は固有の形へと凍結する方向に向かった。 日本には60歳をもって循環的な時間がいったん閉じて、再生を果たすという風習が��る。これを還暦(暦が一巡してもとにもどること)という。 篠原一男は1985年に、磯崎新は1991年に、原廣司は1996年に還暦を迎えた。 それぞれ篠原は、東工大百年記念館の設計を終え、磯崎はMOCAから始まる世界巡回展とANY CONFERENCEを開始し、原は還暦をはさんで新梅田シティーと京都駅という巨大プロジェクトを完成させた。 ほぼ5年おきの彼らの還暦の年が、90年という日本のもうひとつの節目をまたいだ。85年から90年という日本の有史以来空前絶後の繁栄の時代(バブル時代)をまたいだ。 日本にはいまだ建築批評は欠如している。そして歴史観を持った建築家も彼ら三人以降はほとんど出ていない。おそらく日本において建築批評が予言の形を取 る、という事情は、これまで説明してきた理由以外にも幾らも見出せるだろう。ただそうである限り、批評を担う建築家に歴史観が要求される。そして歴史観を 持つことは自身の中において自己と他者との対話がなされることを前提する。 それぞれの歴史へのスタンスを強引に一言で述べてしまうなら、磯崎は状況史、原は文明史、篠原は個人史、ということになろう。だからそれぞれの言説の射程 が、磯崎は短期的であり、原は長期的であり、篠原は中期的である。磯崎は微分的であり、原は積分的であり、篠原は母関数そのままといえよう。 磯崎は他者そのものであろうとし、篠原はあくまでも自己に固執する。原は他者の誘惑に導かれる予言者となろうとしている。磯崎は世界そのものであろうと し、篠原は自己のうちに世界を築こうとし、原は世界の誘惑に魅了される精神であろうとする。 しかし世界の座そのものは空虚である。引き受けるべき歴史が日本では否定されているからである。心を一つにして民族のアイデンティティーを追求すること が、国際社会において悲惨な結末をもたらす歴史を少なくとも我々は知っており、核爆弾という技術がその物理的な破壊を可能とすることを自ら体験してしまっ たからである。 理想を持たず、理念を持たず、しかし朗らかに未来へ向かって歩んでいくための思想的な支えを、われわれは建築という思想の実践の現場で模索し続けているのかもしれない。そしてそれはそのまま、この3人の予言者から引き継ぐわれわれの使命となるだろう。 竹山聖 (オランダの建築誌「アーキス」1999年5月号より)
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odasakudazai · 7 years
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そして
 雲が通り過ぎるような感覚だった。
「胸が痛い」という表現は長い間比喩だと思っていたが、ああ、もしかしたらこんな感覚なのかもしれないと思った。だとしたら、なんと直接的な表現なのだろう。確かにこれは、痛い。内側に広がるような、靄がかった痛みだ。薄い雨雲が、心臓の上を通り過ぎる気配。垣間見た己の心象の汚らしさに、思わず目を背けて蓋をした。
なんとなく、この靄のような感情を背負って生きていかなきゃいけない予感がした。
 横浜にも梅雨がやってきたらしい。太宰は無意識のうちに首回りの通気性を確保しようと、シャツの襟元を引っ張って糊の復活を試みていた。蓬髪が湿気を含んで鬱陶しい。包帯で巻かれているところも蒸し暑く感じられて、しかしジャケットを脱ぐと肌寒いものだからうんざりするのも仕方ない。太宰はうんざりして隣にいた中原に腹を立てた。完全な八つ当たりだが、彼らの間にあるべき礼節は出会って二日で消滅したのだから、理不尽も今更といったところだ。  きっちり小洒落た服を着こなし、帽子まで被った中原の不快指数も相当なものだったのだろう。そうでなくともこの所は任務が立て込んでいて、忙しいのと相棒とべったり行動しなければならないのとで、二人を取り巻くストレス係数は凄まじいものだった。もはや、相手の咳払いにも腹が立つ。中年離婚の危機ってこんな感じだろうか。窓の外は灰色だった。  ふと脳内に予定帳を広げてみればやらねくてはいけないことがびっしり思い起こされる。太宰は思わず目をつぶって、 「6月から脱出出来る気がしない。」 げんなり溜息をついた。 「珍しいな、7月まで生きているつもりとはな。」 中原が答える。 「今死んでも良いのだけれど。」 太宰が投げやりに答えて、車のボードに部下が持ってきたばかりの書類を投げ出した。 ちらりとその表情を盗み見すれば驚くほど覇気がなくて、中原は見張りをつける算段をやめた。  太宰という男は修理不能なまでに壊れていて、自殺の前には目を輝かせているのが常だ。未来への希望を語るような無邪気な目で首に縄を結ぶのを見た時は、百戦錬磨のマフィアたる中原でさえ背筋に冷たいものを感じた。死への希望、というのは馬鹿みたいな聞こえだが、太宰を言い表すには丁度良いフレーズだ。能面みたいな顔で車のダッシュボードを見つめている太宰治は、端的に言うと絶不調。つまり自殺は起こらない。 「てめェはなんでそんなに疲れてンだ。」 自殺する元気もないくらいに。 助手席の太宰は窓の外を眺めたまま、中原の方を見もせずに、 「君だって相当気が立ってるでしょう、中也。そのダサい帽子脱いだらいくらか湿気から解放されるんじゃないの。」 中原の胸に微かな違和感が生まれた。 「そんな鬱陶しい包帯してる奴に言われたくねえよ。」 「はあ…こんなスケジュール、流石の私でも疲れるんだよ。通常任務ならいざ知らず、特殊任務はなんてったって君が付いてくるんだもん。最悪。」 カチンと来た。胸ぐらを掴んでやりたい衝動に駆られるが、すんでのところで踏みとどまる。違和感が肥大していた。何かがおかしい。太宰が不機嫌そうに、こんな安い挑発を吐くことが珍しかった。人をいかに嫌がらせるか、そんなことばかりニコニコ考えているような奴が、返り討ちに逢う隙をこれでもかと提げて嫌味を言うなんておかしい。簡単に言って仕舞えば、悪口のクオリティが低すぎる。 「寝てねぇんだろ。」 何を言い出すのやらと太宰が苦笑する。苦笑と言うより、鼻であしらったとでも言う方が正しいか。中原はハンドルに凭れかけた姿勢のまま太宰を見やった。元々あちこちに怪我を作っては手当てでどこかしらを覆っている人間だったが、目の下にうっすら隈を作っているのは初めて見た。肉体派の中原ほどではないが彼も体力はある方だし、そもそも他人に弱みを見せるなんてことはありえないのである。梅雨時の低気圧に不機嫌になっている姿など、通常の太宰ならいとも簡単に隠し通してしまうはずだった。 「何を企んでやがる。」 日中ともに過ごす彼が、柄にもなく睡眠を削って何かをしている。裏工作が必要な案件など思い当たらない。違和感が不信感に進化する。 「別に、何も。」 「はっ、嘗められたもんだな。」 中原の左腕が蛇のように太宰の首を襲う。遅れてやって来た右腕も合流して、襟ぐりを掴む。無理矢理にこちらを向かせた。  証拠はない、しかし確信できる。  この男が、ただでさえハードなスケジュールの中休息を犠牲にするほど手間のかかる何かをこそこそとやっているということに。雨に濡れたままの  太宰と中原は同じ組織に属しているが、個人レベルではむしろ敵同士だ。組織などというものは大抵中にいる者同士の方が現実的な他者であり、つまり中原にとって太宰は最も警戒すべき対象だった。互いの腕は信用していても、人格と友情の話になれば全く別の次元にコンバートされる。  太宰は襟元を掴まれたまま冷たい目で中原を見返す。急所から本の数ミリに緊張した他者の手があってもどこ吹く風。鬱陶しそうに目を細めるが、悔しいかな、太宰には絶対の余裕があった。追い詰めているはずの中原の手が震えそうになる。それを叱咤して、底の見えないダークブラウンの瞳を正面から睨みつけた。 「本当に、何なの君。」 「答えろ。」 「質問の意味がわからない。仮令私が君と別れた後で君の言う『何か』をしていたとしても、何も関係ないよねえ?」 中原は無言のまま手を緩めない。 「それとも、」 太宰が挑発するように唇を舐める。 「独占欲?うわぁ気持ち悪いね。」 掴んでいた首元を、思い切り助手席のドアに押しつける、つもりだった。 手に力が入らない。 太宰の右手が中原の左手首を掴み、握り込んでいた。 「ーーーっ、」 大した力も込められていないはずなのに、数秒で痺れがやって来た。掴まれている痛みはない。それが何よりの危険の証拠だ。  中原は咄嗟に太宰のYシャツを解放し力一杯腕を引き抜く。太宰は執着する様子も見せずに中原の手首を離した。掴まれていたところに力が入らず冷たい汗が背を伝った。 「何の心配してるのか知らないけど、」 太宰はシャツを直しながら、 「君を殺すのに必要な策略なんて寝ながらでも作れるんだから、安心しなよ。」 怒りに震える中原を残して、太宰が車から降りる。助手席のドアを開けた瞬間雨の香りが部割と飛び込んできた。さりげなく残りの任務を全て押し付けて行こうとしているのに気付き、中原は慌てて車を降りようとする。銀色の取っ手を引こうとすれば、かけた覚えのないロックが阻んで、手前に引くことすら叶わない。 「くそっ」 いつの間にか太宰の座っていた席に車のキーが落ちていた。先程の一悶着の間に彼が車のロックをかけたに違いない。  脱走の鮮やかな事。あんまり自然な流れで、中原が鍵を開けてドアを開け直した頃には捕獲は絶望的だった。  どさりと革の座席に身を戻す。ふとダッシュボードに目をやれば、太宰が無造作に置いて行った書類には書き込みがしてある。拾い集めて目を通す。彼愛用のブルーブラックのインクで住所と、「20人くらい」という雑なメモが書いてあった。 「くそっ」 中原はハンドルに拳をぶつける。いつでも逃げられるように、そしてその際はひとりで仕事を片付けておけと、そういう心算で次の取引現場を推理して残していったらしい。 イグニッションに、助手席から取り上げたキーをねじ込む。 本当に癪な話だが、魔法のように敵対組織の取引現場を言い当てる太宰の頭脳は中原の持たぬものだ。何もかも彼の思い通り、結局手柄が欲しい中原はそのメモに従うしかなかった。 「ぜってえ殺す」 中原はもう何度目かになる誓いを胸のうちに立てて、港を背にして車を走らせた。
最近太宰が姿を見せない。 そう気付いたのは既に四日前のことで、だから、彼とは随分会っていないことになる。 織田は物足りない気持ちでカウンターに肘をついて坂口と並んでいた。出張から帰ってきた彼も同じ気持ちのようで、二人してちらちらとドアに目をやっている。しかし、不在の彼の話題を出すことはなんとなく今いる相手に申し訳なくて、結局その日は2時間ほど近況報告と猫の飼い方について意見を少し交わしただけで坂口が先に席を立った。 帰り際に、やっぱり気になったのか太宰の安否を問われたが、同じに横浜にいても立場に雲泥の差がある。無言で首を振ると、坂口も期待していなかったらしく、まあ太宰君のことだからそのうちふらりと此処に来るでしょう、と言って微笑した。織田はそれに首肯する。先日の抗争以来、マフィアは上も下もバタバタしている。もちろん最高幹部である太宰もその影響を受けているのは間違いないが、彼のことだ。うまく仕事をあしらってやあ織田作、なんて今に��そこのドアから入ってきそうなのに。  坂口も少しは期待していたのだろう。なんとなく立ち去りがたそうにしていたが、明日は早いからといって会計を済ませて帰って行った。 一人残された織田は、グラスについた体温の指紋がゆっくり消えていくのを見る以外にすることがなくなってしまう。  思えば、最後に会った時、何か違和感を感じたような気がする。どこか、寂しさのような、諦めのような、普段なら彼が隠してしまっているであろう何かを、片っぽしか見えない瞳に見かけた記憶がある。その時は程よく酒に酔っていて、あれ、と思った時には普段の屈託ない笑顔が戻っていたから忘れてしまっていたのだが、ちっとも酔えやしない夜に一人にされた途端気になってきた。カウンターに落ちた水滴が、すぐ近くのそれとくっついて一つになるのを見ていたら、どうしても太宰に会いたくなった。会いたいというよりは、不安でしょうがないという方が正しい。織田は携帯に手をかけて、その後どうしようかと動きを止めた。  会いたいと思ったのに、その後どうすればよいか分からない。 電話をかけても最近は繋がらないし、本部に行っても簡単に会える相手ではない。まともに呼び出すなら申請が受理されたとして一ヶ月は待たねばならない。太宰の家はもちろん、この店の他にどこに飲みに行っているのかも知らない。  自分は、太宰のことを何にも知らなかった。 自分から彼に手を伸ばすことをしないできた。 いつもそこにいることに甘んじて、「たまたま居合わせた」という偶然に胡座をかいていた。 織田はバーの奥に置いてある太宰のボトルを見た。前回会った時から減っていない。いつもそうだった。彼気に入りのボトルはいつ見ても織田たちが集まった日のまま。彼が、ひとりではこの酒場に来ないらしいという仮定が頭の中で確信に変わっていく。  このささやかな集会は、本当に偶々のものだったろうか? 太宰は織田が現れる時には必ずと言っていいほどそこにいた。偶然なんて、自分や坂口がこの関係に疑問を持たないために彼が作り出した幻想なのではないだろうか。  グラスの中で氷が溶けて小さくなる。上に積まれて方がカランと音を立てて落ちた。疑念が確信に変わる。太宰は、自分たちに会いたくて、しかしわざわざ偶然を装って時々の酒盛りを楽しんでいた。互いに手を伸ばさない、乾いた友情など幻想でしかなかったのではないか?彼は手を伸ばしていた。もう、ずっと。  酒場の、しっとりした喧騒がどこか遠く感じられる。 自分からは与えるばかりで、いざこちらから手を伸ばそうとすれば掴む欠片も残してくれないのは、太宰の寂しい性格故か。 言いようのない寂寥と、不安と、それから純粋に、会いたいという気持ちで、水に濡れたコースターをじぃっと見つめた。 気づいたことは、存在の大きさだ。
俺は、俺は、
なあ太宰、俺は、どうしたら良い?
 全く、変なところで勘が良いのも考えものだ。 中原が突然閃いたように尋問を始めたのにはいささか驚いた。 人を冷静に観察し分析する観察眼なんて持たないはずの中原が、一体何をきっかけに太宰の夜遊びを確信するに至ったのか。太宰は考え出してすぐに諦めた。どうせ、動物的直感に違い無い。あれは、動物だ。そういうことにしておかなきゃ、気味が悪い。  雨が上がっても尚じっとり重い空気には気が滅入った。吸い込んだ街の香りにもたっぷり水が含まれていて、ちらほらつきだした街灯が水溜りを光で彩る。 太宰は付き人もなしにひとり横浜の埠頭を歩いていた。夜の散歩と洒落込むように、立ち並ぶ倉庫の間を堂々と歩く。目星をつけた倉庫に着くと、扉には目もくれずに海に面していない方ーーライトのついていない壁面に身を預ける。太宰が歩くのをやめると、辺りは不自然なまでの静寂に包まれた。近くの倉庫のライトがじりりと音を立てるだけ。わずかな水音が心地よくて、疲れた身体は緊張させたままに瞼を落とした。  太宰が、このまま時間が止まって仕舞えば良いのにと思うのはこんな時だった。 普通の人間なら、友人と楽しい酒を酌み交わしている時や、想い人と手を繋いで歩く瞬間、と答えるだろうに、こんなだから私はいけないのだと太宰は苦笑する。  そう答えられる人間だったらどんなに幸せだったろう。 友人と過ごしていたって、相手の持つ自分の預かり知らぬ時間の長さに思い当たっては不安に襲われる。好意を寄せる相手と指を絡める機会があったとして、太宰なら相手のわずかな顔色の変化や歩く速度に気をとられてとても楽しめない。だけど、見つめているだけで気を済ませられるほど謙虚にもできていない。死にたい気持ちになるとわかっていて、それでもすっぱり全部捨てることはできないのだ。あわよくば、好かれたい。打算が働いて、太宰は道化を演じる。面白い話をして、少し過激な言動を取って、それで調節するように甘えてみせる。太宰には友人と呼べる存在が少なかった。自分に近いレベルで頭脳を働かせる(と言っても動かし方が根本的にずれているので話していると気分が悪くなるのだが)森は上司だ。年の近い中原は互いに反目し合う相棒で、彼の思考は時々を除いて大抵見透せてしまう。あれはただの同僚だ。つまるところ、18年も生きてきて、寂しいかな、真に友人と呼べるのはあの織田と坂口の二人しかいないことになる。 (私には君たちしかいないのに、君たちときたら…) 大切なものをたくさん抱えた彼らが大好きだ。だから、矛盾している。 太宰は、大切なものほど、損なわないように、間違えないようにと打算の海に沈めてしまう。抱えていられない。だから、友人に憧れていた。自分の小さな手が嫌で、たまらなく嫌で、抱えていれなくなって逃げ出してしまいたくなる。元来そんな思い入れの強いものなんて持ち合わせないできたから、今までうまく生きてこれたというだけのこと。最近の太宰は友人なんて曖昧な定義の宝物を手にしてしまったから、自己嫌悪と諦観の渦にのまれて息もままならない。 淡い水音に、革靴のこんこんという足音が混じりだす。永遠にしてしまいたい空っぽの時間は霧散して、太宰は現実に引き戻された。武器と弾薬を積んだコンテナが、フィリピンバナナのふりをして降ろされる世界だ。気狂いと煙草と免許証と勤め人が一緒に息をする世界。  腰に下げていた自動小銃をするりと抜く。中原はその服飾のセンスを武器にも発揮して、どこぞの国で先の大戦時に作られていた型を大幅に改良して使っているらしいが、太宰にはそのこだわりの意味がわからない。織田のように、手に馴染んだ古い品を使うほど拳銃に思い入れもなく、コンビニで修正テープを買う感覚で選んだ代物だ。自動小銃にありふれた、という形容詞を使うのも考えものだが、少なくともマフィアの世界においてはさして特筆に値しない平凡な型。並の構成員が使うものより値が張るらしいが、少なくともその分の金は装飾の類には費やされていない。大方華奢な体躯の太宰に使いやすいよう、いらぬ配慮でも施されているのだろう。太宰はそれを手のひらで弄んで、ポケットに手を滑らせた。 革靴が近づいてくる。太宰はゆらりと体を起こした。 「やあ。」 いつの間にかとっぷり日の暮れた港に、ゆらりと歩き出す。 革靴の音がパラパラと止まった。 「こんなところで夜遊びなんて、よくないねぇ。」 事情を知った風の太宰の言葉に、男らの手が一斉に腰に向かった。拳銃をぶら下げておく場所なんて大体同じようなものである。 「誰だ。」 「またまた、私のことを知らないわけないでしょう?」 太宰は目を細めて微笑む。ゆっくりと、自宅のバルコニーで洗濯物でも干すような気軽さで今しがた口を開いた男に歩み寄る。そのあまりの自然さに、男は一拍遅れて一層の警戒を示した。 太宰は、あ、とわざとらしく声を漏らすと、そのすぐ横にいた男に向き直る。 「すまない、君だったね、間違えた。いや、彼の表情があんまり恐ろしいから気付けたよ。ご苦労様、彼等は私が始末しておくから、君は一応きちんと事の顛末をまとめておいてくれよ?」 にっこりと微笑む。話しかけられた男は、受け取った言葉の意味を計りかねて拳銃に指を這わせたままの状態でこちらを凝視している。予想された敵意でないものを向けられた時、人間というのは判断に窮しやすい。動いたのは太宰から一番離れた長身の男だった。 「裏切ったな。」 男は大股で近づくと、太宰に微笑みかけられた哀れな男に準備していた拳銃を突きつける。 「裏切ったのは君たちで、彼は筋を通しただけだ。勝手な仲間意識より、組織の掟が大切だと、ごく正常な判断を下したまでだよ?ほら君も、」 太宰は呆れたようにため息をつきながら 「危ないよ、退いていなきゃ」 「待て、何の話だ、俺は、」 乾いた銃声。 言葉を遮られた男が、くたびれた小麦袋のように膝を折って地面に倒れこんだ。 血がみるみるうちに広がって、近くのコンテナの安全灯のわずかな明かりがぬらぬらと照らす。それをきょとんと見下ろして、一言、
「あれえ、君じゃなかったかも。」
 それからきっかり10分後、太宰は自分の撃った三発分の痕跡を朝ごはんの皿でも片付けるように始末して、9人分の死体を無感動に見下ろした。 「…っ、い、う、」 血だまりの中から、意味をなさない母音を拾って太宰はしゃがむ。5番目に、リーダー格の男に撃たれた髭面の大男が、死ねないでこちらを見ていた。 「そうだ、結局、君たちの組織の名前ってなんだったの。」 太宰は唇に薄い笑いを浮かべて男の目を覗き込んだ。ぴくぴくと痙攣する瞼がわずかに大きく動き、男は死にゆく者なりに目を見開いて見せる。汗と血と、煙草の匂いが鼻につく。  8体の死体と1体の重傷者は太宰の組織の者ではない。 所属する組織を裏切って武器の密輸をしていた男らが、自らがポートマフィアの領域を侵したことに気づいていたのか、今となっては確認する術もなかった。つまり太宰はひとりで知りもしない組織の上役を演じていただけ。男のカサカサに乾燥した唇が、何事か語りかけるが無駄な震えで判別できない。わからないなりにじっと見つめていたら、最後にしっかりこちらの目を見て、悪魔とつぶやいた。それだけはよく伝わった。太宰は表情を崩さない。足元にまで彼の血液が迫っていた。 「ごめんね、」 太宰は貼り付けていた笑みを冷たく濡れた地面に落っことして、遠い水の音と同じくらいの微かな音量でつぶやいた。髭面の男の瞼は閉じられて、もうピクリとも動かない。  雨と、外気独特の埃っぽさと、鉄の香り。達成感も優越感も、罪悪感も嫌悪感も感じない。すくりと立ち上がると、黒い外套の裾が誰かの血を吸い上げて僅かに変色していた。仲間に撃たれてこちらに倒れこんできた男を押し返した時、両の掌もべっとり血に濡れたらしい。頼りない街灯の光に、絵の具を塗りたくったような赤がぎらぎらと主張する。 ハンカチで手を拭おうと思って、ポケットに伸ばしかけた手が空で静止した。そこに入っているのは、織田が貸してくれたもので、次にいつか例の酒場であった時に返そうと畳んで持ち歩いていたものだ。汚してしまう。  ハンカチなど、もう一度洗うか、似たものを見繕って返せば良いのだろうが、太宰は織田の手にあったもので自分の汚いそれを拭うなんて到底出来なくて、それなら仕方ないなあと包帯の端っこまで赤く染め上げる誰かの血を放置した。そのままにしてみれば妙な躊躇いも消えて、血溜まりの中に落っこちた誰かの拳銃を拾い上げる。弾を3発抜いて、拳銃の方は仰向けに絶命した男のそばに放った。それから、道端の看板でも一瞥するような目で凄惨な光景をチラと見やって、背を向けて歩き出した。
 海があった。番号以外全くそっくりなコンテナをいくつも追い越していく。こつこつと自分の足音だけが響いて、目眩がした。01の番号を与えられた箱の向こう側に、真っ黒い海が広がっている。太宰はふらふらとそれに近寄った。少し剥げた手すりのすぐ先には、なんでも飲み込む静かな水たまりが佇んでいる。そこに、さっき血の海から拾い出した弾丸をポトリと落とした。鳥の餌にもならないけれど、ここにあってはいけないから。だから、捨てる。シンプルな図式に従えば太宰もここに自分を棄ててしまいたかった。9人のチンピラの抗争に巻き込まれるのはやはり疲れる。手すりを掴もうと伸ばした両方の掌は血塗れで、太宰はそれに触れることができずにぼうっと突っ立っていた。ちらと見上げた空に月は見えなかったけれど、夜にも消えない周辺の建物の光で海の表面は輝いていた。       太宰は羨ましそうにそれを見つめて、しかしここに自分の死体が上がってはーー或いは、生きたまま回収されても、少し面倒なことになるから踏みとどまる。  中原は自分のことを身勝手な自殺常習者と言い捨てるが、それは少し違う。太宰が考慮する事物のプライオリティが中原のそれと異なるだけであって、死にたいという己の願望が何か不都合をもたらす時はちゃんと我慢しているのだ。身勝手な、の部分は削除してもらいたい。  足が重い。遠くで、車の音がした。昨夜一睡もできなかっただけに体がだるい。中原と組まされている時はたいていの場合身体的負担で考えれば自分にかかるものは通常任務より軽い。それにもかかわらず体は鉛のように重くて、矢張りあの馬鹿帽子の戦闘に付き合うと随分疲労が蓄積されるものだとひとりごちた。飯を食いに行く時間を彼への嫌がらせに費やしてしまったのも大きな失策だ。中原は一緒にいても痛いところばかりついてくるし、彼の持つ自信とか生命力は隣にいる太宰を疲弊させる。無性に、織田に会いたいと思った。人を殺さないでいようとするマフィアらしからぬ信念も自分に向けられる優しさも、太宰にとっては憧れだ。最近はあんまり眩しくて、忙しさを言い訳に会いに行くのも躊躇っていた。自分と同じく汚れた世界に生まれ、しかしそこに留まりながらも精神世界ではとうにこの沼から足を引き抜いている。   織田の存在は太宰にとって一つの可能性でもあったし、彼という人間が優しくあればるほど太宰は焦がれ、憧れ、その分距離が遠のいていくから苦しい。苦しいのだけれど、会いたい。こう言う気持ちに名前をつけてみないかと気まぐれに紅葉に尋ねてみたら、名づけるまでもない、もう既にあろうと言われて一瞬阿呆みたいな顔をしてしまった。紅葉はそんな阿呆を慈しむように、鮮やかな紅を引いた唇で恋、と言った。聞いた太宰が馬鹿だった。これが恋なら、世の中みんな自殺マニアになるほかないねえと言ったら、紅葉は少し悲しそうに苦笑いした。
 港はずいぶん広かった。 車は中原が運転していたのに同乗するのが習慣だったので、来る時はタクシーだった。こんな港まで巡回している空車はもちろんなくて、帰りは繁華街の方まで歩かねばならない。地面が低反発マットレスみたいに、軽く自分を押し返してくる感覚がして、気持ちが悪い。今頃中也に押し付けてきた仕事は片付いただろうか。織田作はきっといつもの酒場で小さなグラスを手にしているだろうな。今日は、安吾もやってくるかもしれない。うん、そうだ、そんな気がする。抑えた照明に、心地よいグラスの音。たわいもない雑談に、ふわりと服につくタバコの香り。  帰りたい、帰りたい。 真っ暗な港で一人ふらついている自分が惨めで、惨めで。鼻の奥がツンとした。雨の香りと、埃っぽさと、血の香り。最後のそれは自分の手からするものだと気づいて、痛んで熱かった心が冷える。   足音が、かすかに聞こえる。それは普通に歩くときでも己の音をできるだけ消すように生きてきた人間の足音で、 「太宰、」 予想通りの声。 太宰は、一瞬、このまま自分が俯いているうちに世界が終わってくれないかなあなんて都合の良いことを考えて、それが無理だとわかったから、ぱっと顔をあげて笑顔を作った。 「やあ、織田作。」 予想通りの鳶色の髪が目に飛び込んできて、泣きたい気持ちになる。最悪だ、完璧なはず計画が、紙一重で大失態に転じてしまった。こんな時に、君に、会いたくなどなかった。浅ましい口がぺらぺらと嘘を紡ぐ。 「こんなところでどうしたの?私は、少し散歩をしようと思ってふらふらしていたら、良い海が広がっていたからね、つい飛び込んでしまおうかと考えて、だけど、ちょうどやめてきたところだよ。最近の海は汚いって聞くし、それに、ほら、」 「太宰、」 織田が駆け寄ってくる。 手を伸ばして、咄嗟に背中に回して隠そうとした太宰の腕を掴む。 「…!血が、」 「やめてっ、」 太宰が、身を捩って腕を引き抜く。 突然の拒絶に驚いた織田がぱっと身を引いた。 力いっぱいに身を引いたものだから、太宰は勢い余って後ろによろめいて、普段なら堪えられるその反動にもふらついて、 「危ない!」 バランスを崩した太宰がその場にしゃがみ込む。後頭部をアスファルトに激突させなかっただけ良かった、というところか。織田が駆け寄って膝をつく。 「こめんね、織田作、大丈夫だから。」 織田が身をかがめて顔を覗き込んでくる。もう、どんな顔をしたらいいのか、どんな顔をしているのか全くわからない。 「さっき、俺が今当たっている組織に関係する組織の連中が奥で死んでいた。あれは、」 あれは、 その先に何が続くんだろう。周囲から音が消えていく。嫌だ、嫌いにならないで。小さな声が頭の隅で上がった。 お前がやったのか、そう聞きたいんだろう、どうして言葉を詰まらせるの?それは、汚いことだから?だから、言葉にするのも躊躇ってしまうの? 消えた音の代わりに、自分の呼吸がうるさい。どうして、こんなに息を乱しているんだろう、私は。頭がくらくらする。 太宰は、織田から身を離すように立ち上がると、 「私が殺したんだ。」 素直に、そう答えた。 織田がこちらを見つめてくる。ああ、織田作、君は軽蔑する?それとも、可哀想だと思う?殺す以外の方法があったかもしれないって、そう言うの?なんだっていいよ、きっとそれが正しいんだ。私の正義は、この血が君につかないことであって、君が汚れさえしなければ、それで構わないんだ。私は、それに忙しい。本当に正しいことなんて、考えるのもやめてしまったよ。そういうことは、どうか優しい君が考えてくれ。 視界がぼやける。太宰は涙が零れないように、必死で意識を集中させる。変なことをしたせいで、治りかけていた腕の骨折がずきりと痛んだ。 「…っ、」 「太宰!?」 危ない、笑顔を落としそうになった。早く、別れてしまおうと思った。それが良い。 「大丈夫、君は私が守るから。」 「何を言ってるんだ太宰、これは、」 「大丈夫。」 もう、何を言っているのかわからない。何を言っていいのかもわからない。太宰はじゃあ、と一方的に話を切り上げると、織田に背を向けて走り出す。背後で、織田が追いかけようとして諦めた気配を感じた。それで良い。そのまま家に帰って、綺麗なまんまで眠ってくれ。じゃなきゃ報われない。  最悪だ、最悪すぎる。 ずいぶん長い間走って、歩いて、最後にはふらふらと棒のような足を前に進めるだけになっていた。  何もないところで躓く。前につんのめって、無様にアスファルトに投げ出される、 はずだった。 脇の下に腕を差し込まれて、すんでのところで抱きとめられる。一日食事にありつけなかったせいか、足に力が入らず、そのままずるずると力が抜けていく。ふわりと、趣味の良い香水の香りがして、太宰は不覚にも安堵で態勢を立て直す気力を手放してしまった。 「おい、」 太宰の体を受け止めていた男ーー中原が慌てて、体をゆっくり離す。まだ湿っているアスファルトにへたり込む。 「てめェ何でこんなもんに首突っ込んでる。」 「…中也、何してるの、仕事は、」 うつむいた太宰には、中原こだわりの洒落た靴の先っちょしか見えない。 ああ、駄目だ、こんなへばった姿を見せては。  しかし、中原なら。 中原なら、こんな汚い私でも抱きとめていてくれる。 ああ、やっぱり中也なんだなぁ。 私のことを、理解せずとも拒まない。同じくらい汚い私達は、幼いまんま肺にガスを吸い込みすぎた。ありがとう、中也。 私たちは双黒。真っ黒い血の海の中で、手に手を取って人を殺す、哀れなハイティーン。
ずるずると地面に蹲った太宰の手を掴んで引き上げると、ぬるりと嫌な感触。 とっさに彼が出血しているのかと外傷を探すが、自業自得の腕の怪我の他には問題は見当たらない。両方の手のひらが真っ赤に染まっていて、ああこれは誰か他の奴の血か、と安堵する。自分の手も汚れてしまって、湿った地面に膝をついて、誰もいない見捨てられたみたいな街外れに二人分の吐息ばかりがうるさい。 「中也…」 小さな声。真っ白な顔でこちらを見上げてくる。 「大丈夫かてめェ」 柄にもなく優しい言葉を返したら、そのまま黙りこくってしまう。 コンテナの壁面から伸びる心許ない明かりの元でもわかるくらい太宰は青白く、片方しか見えない瞳の下にはしっかりクマができていた。 「おい、しかりしろ。」 頬をつねると、体温が少し高いのに気づく。これは熱が上がるんじゃないかと中原は顔をしかめた。明日以降の仕事から太宰が降りれば、組織全体の回転効率が今の三分の一くらいにまで落ちてしまう。今回彼がこんなにも外回りの仕事をしなくてはならないのも、全て前線で最高効率で情報をインプットし即座に全体の判断を下すためだ。その為に部下を何人も戦闘要員として引き連れていては動きづらいというので、中原が太宰につきっきりになっている。彼の頭脳が常に前線で機能しているということは、かなりの負担なのだろう。物理的な疲労もたまる上に片方の目が使い物にならない今、失われた情報量を補うために彼にはさらなる余計な負担がかかっていることになる。本人が気付いているかどうかは定かではないが、思い返せばごしごしと目を擦る姿を最近よく見たの思い出した。 中原はため息をついて自分より長身の太宰を持ち上げた。汚れた手を取って体を引き上げ、肩に腕を回させると、太宰が薄く開いた瞳で避難するようにこちらを見つめる。 「放して」 耳元でつぶやくような非難。 「ごめん」 この後に及んでてめェ、と言いかけて、太宰の呟きに慌てて言葉を飲み込んだ。ぐらぐら揺れる瞳にいつもの余裕は欠片も見えず、真っ暗な夜を埋め込んだみたい。普段は聞こえもしない本音に、中原は馬鹿、と雑に返事をした。なんとなく、無視は良くないと思ったからだ。他にまともな言葉が思いつかなかった。 「さっき転がしてた奴ら、」 沈黙に耐えかねて話し始める。 「末端の連中が小突けば良いような力仕事だろう。頭の悪い下っ端の暴走に、ポートマフィアの幹部が何の用だったんだ。」 部下に調べさせてすぐに素性が掴めたのは、下層の部署の一つが丁度排除に当たっている密輸組織だったからだ。金に動かされた元気な馬鹿どもが、頭数だけ揃えて動いているにすぎない。太宰ほどの人間がわざわざこの多忙の隙を縫って手を下す相手ではなかった。 「殺さないために、だよ。」 中原が引きずるようにして抱えている男は、どうやら本当に発熱しているらしい。港を丁度突っ切る頃には先程より触れている部分が熱くなっていた。息を吐き出すついでみたいな小さな声は、ここまで密着していなかったら多分取り零していただろう。 「…あの織田って奴のためか。」 中原がある男の名を出すと、真横で太宰がピクリと肩を揺らす。その小さな反応が、部下から担当部署を聞いたときにちらとよぎった疑念を確実なものに変えた。 「ちっ」 つまらない。中原の舌打ちに、太宰がびくりと震える。それを感じて、溜息をついた。 殺さないため、という言葉の意味はわからないが、下っ端構成員のためにこの男が必死になっているのはわかった。それがつまらない。殺さないため、ってなんだ。まるで、堅気みたいなこと言いやがって。飯を食う、髪を切る、人を殺す、くらいの軽さで生きてきたくせに、何を今更「ごめん」だのと抜かしやがって。太宰を抱えていない方の手をぎゅっと握りしめた。  中原は織田という男をほとんど知らないから、何が相棒をここまで追い詰めたのか見当もつかない。以前の太宰は自分の体力の限界を押し切ってまでごろつきを始末しに行くことなんてなかったし、弱ったところを人に見せるなんてことも、なかった。 空いている手で携帯を操作し、部下の一人に車を回させる。コンテナ街を突っ切って、徐々に夜の喧騒が聞こえて来る。人通りの多い道に入る手前で、建設会社の社屋の壁に太宰を押し付けた。中原が手を離すと、壁を伝うようにずるずる崩れ落ちて、しゃがみこんでしまう。横目でそれを見て舌打ちすると、部下に連絡を入れて詳しい場所を指定する。すぐに黒塗りの車が闇夜からぬっと現れ、ぱかっと扉が開いた。太宰を後部座席に押し込んで、自分は助手席に座る。よく気の利く腹心の部下は、ぐったりとした最年少幹部には何も言わず、滑らかに車体を加速させて本部へと走った。  太宰を奴の執務室まで運び、カウチに放り投げた。机の上にはお菓子の箱と立体パズルとインク壺が置いてあって、確かに太宰の部屋だとわかるのだが、それ以外の私物が少なすぎる。風邪薬がないというのは想定内のことだが、ブランケット一枚見当たらないのには参った。中原が面倒を見てやる義理はないのだが、はあはあと熱い息を漏らし、寒さに体を丸めた相棒の背の貧相なこと。きゅうと胸を締め付けられて、中原は溜息をついた。自分も大概彼に甘い。 「おい、クソ太宰、なんかかけるもの無いのか。」 そう尋ねても、目を瞑ったまま首を振るばかりだ。首元に手を当ててみると、猛烈に熱い。執務室の重い扉をノックする音がして、開けてみると、さっきまで車を運転していた部下がブランケットと体温計と、ペットボトルの水を持って立っている。中原は呆れたようにその男を睨み付け、ありがとうよと言ってそれらを受け取った。あの男、気が回りすぎるのも気持ちが悪いなとブツブツ言いながら、太宰の服を少し脱がせて体温計を脇に挟ませ、小さくなった体にブランケットをかける。それから、電子音を待つまでの間見慣れた相棒の横顔を眺めていた。 どうしてしまったのだろう。 太宰のことは自分が一番わかっていた。この男は沼のようで、その根底にある真意なんてとてもじゃないが覗くこともできない。しかし、それを理解している点で他の人間よりは彼をわかっていることになる。中原は先程まで真っ白だった頰が赤く染まっていくのを横目に���案に耽る。  太宰治を一言で表すなら、期待だった。 彼のことは心底うざったいと思っている。それから、退屈そうにしているのも知っていた��、たびたび自殺に繰り出すその思考回路も訳がわからない。どうしたってこの男をばりばりと咀嚼して丸ごと飲み込んでやることなどできなくて、もちろんそんなことわかってはいるのだが、それでも、彼は中原にとって期待すべき相手だった。   こんなちっぽけな体で、闇社会で生きていくことは容易くはない。時々、自分の周囲の黒い溝に、自分の中の真っ赤な暴力に、中原中也という人間が溶かされて何か醜悪なものに変えられていく錯覚に陥る。もともと綺麗なものだったかというとそんなことは決してないし、中原もそうでありたかったなどと望むわけではないのだが。  それでも、自分の知らないものになっていくのは、怖かった。ちょうど、中原にとって自分の異能はその恐怖の対象を明確に体に教えこむ材料となっていた。 「だ、さ…」 太宰が横で何か呟く。 とっくに計測の終了したらしい体温計を慌てて抜き取り、小窓に浮かぶ数字を見て眉をひそめた。こいつも人の子だったんだなあと妙にしみじみ感じられて、ソファからおっこちていた腕を拾ってやる。先ほど清めてやった手は熱く、爪の間に微かに血が残っていた。中原は何となく悲しくなって、タオルを濡らして丁寧にそれを拭き取った。 「お…さく、」 それにしても、先ほどから、看病している自分のことなど全く気付かずにうわごとで織田を呼ぶのはどういう了見だろう。何だか無性に腹が立って叩き起こしてやろうかとも思ったが、ぎゅっと閉じた目尻から涙がつうっと零れているのを見て、そんな気も失せてしまう。虚しさが、胸を覆った。  太宰は期待だった。自分より細っこい体で、老獪で凶暴なマフィアの古株達を次々に従わせていく。やっていることは外道そのものなのに、周囲の溝に溶かされない凛とした何かがあった。何かとはなんだと言われれば、語彙が足りなくて言い当てられぬが、その何かが、中原を魅了していた。だから。 「お前って本当に嫌な奴だな」 中原は爪が手のひらに食い込むほどぎゅっと握り込んで、太宰のそばにかけてあった外套を引っつかんだ。
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夢を見ていた。 小さい頃から父親のいない家で、自分と、小さな妹一人抱えて母は余裕なく生きていた。父親は身勝手にどこぞへ消えて、生活費は滞納するし家賃も滞るしで本当にひどいやつだった。らしい。らしいとしか言えないのはその頃の私はまだ幼くて、母ももちろんそんなことは言わないからで、後になって全部の真実を知った。  その頃から、プライドと偏見と、被害者意識の強かった母は私たちを絶対の監獄に閉じ込めて育てた。監獄の中で、母の気に食うように振る舞える妹は良かったが、代わりに、全ての馬鹿は私が踏んだ。何度も殴られ、蹴られ、髪をひっつかんで床に投げ飛ばされ、頭を足でがつがつと蹴られた。馬乗りになって首を絞め、衣類ケースを投げられて、家から追い出され鏡に向かって彼女の気に入るように謝る練習をさせられた。薄暗い洗面所に、泣き腫らして髪もぼさぼさになった私が一人、鏡に向かってごめんなさいごめんなさいと何度も言っている。鏡の中の惨めな自分に、何度も頭をさげる。謝っても許してもらえぬから、何度も土下座した。刃物を投げられたこともあったし、毎日のように害虫呼ばわりされた。  母は、良い母であろうとしたらしい。 彼女は長男である自分を自分の理想に育てたかった。彼女の中で彼女の行為は全て正しいものに変換されている。そんな人間に、誰が何を言おうと役には立たないのだ。母親の理想というのは彼女の偏見に埋もれたものであり、全ての善悪の基準を母に奪われた私は、どうしようもなく不安定で、家族の外にあっても上手く立ち振る舞えず厄介児のレッテルを貼られた。誤解が誤解を生んで嫌われ者に成り下がった。頓珍漢な教師にカウンセラーの元へ送り込まれたが、私の精神の歪みを見つけてやろうと虫でも見るような冷たさがちらつく双眸に耐えかねて、呼び出しを無視するようになった。  それから、徐々に人の気持ちを、本心を、計算を、小さな言葉の選択や向いた爪先の方向、笑い方や呼吸の合間に見つけるようになって、うまく立ち回るようになっていった。相変わらず家庭は地獄のように狭く、救いのない場所だったが、せめて、外の世界では。そう思ってへらへら笑うようにしていたが、そのうち、うまく立ち回れることにも気分が悪くなって、全てがむき出しの世界に憧れた。  父親がいつの間にか失職し、その間に作った借金を返せないことが発覚したのは、ちょうどその頃だった。 私はヒステリックを極めた母と、薄気味悪い   自分から逃げるように、進んで組織に売られていった。売られた組織の名はポートマフィアで、それはちょうど、こんな雨の降りしきる鬱々とした6月のことだった。
「あ…」 雨の音が、すうっと消えた。夢の中まで梅雨に侵食されていた。息ができる。良かった、私、生きている。死ねないまんま、生きていた。捨てられた癖に、まだ。 ゆっくり目を開ける。見慣れた天井が視界に飛び込んできた。 どうして、しょうもない昔のことなんて思い出していたんだろう。気分が悪い。散々眠った後なのに、全身が内側から楔を打たれているよう。嫌な夢を見た。  額に手を当てるとじっとり汗をかいている。気持ちが悪くて前髪をかきあげた。 太宰が寝かされていたのは本部の執務室のカウチで、そばにある小さなテーブルには薬と体温計とミネラルウォーターが置いてある。  自分を運んできたのは中原のはずだ。埠頭で、どうにも動けなくなったところを不本意ながら助けられた。だとすれば、この気遣いもまた中原のものなのかと思うと、違和感で変な声が出そうになる。体を起こすと、見覚えのないブランケットがぱさりと落ちて、やっぱり中原の仕業かと若干気持ち悪ささえ感じた。  さすがに、今回は無茶をしたと思っている。戦闘向きでないから口先で煽って仲間内で撃ち合わせたものの、9人のチンピラを相手にするコンディションではなかった。太宰はカウチの上で伸びをして、まだ怠い体を無理に動かす。それにしても、昨日の私は余計なことを口走らなかっただろうか。太宰が曖昧な前日の記憶を必死で呼び起こしていると、 コンコン 控えめな、しかしよく通るノックの音。 「伝達です。」 聞き慣れた部下の声に入室の許可を出すと、まだ朝も早いというのに皺ひとつないスーツをびしりと着こなして側近の一人が入ってくる。 「今日は中原さんから、12時にメールで送った場所に来い、との伝言、首領からは明後日エリスちゃんのお誕生会だからあけといてね、との伝言が来ています。その他は端末に送信しておきました。」 「12時?中也、本当に頭おかしくなったんじゃないの、」 それまでの仕事は一人でこなすというわけか。首領がおかしいのは最初からのことである。それを部下に聞かせても仕方ないから、太宰は首を振って他に何かないか尋ねたが、手にしていた手帳をもう一度確認して、側近は無いと答えた。  今日は晴れている。最近滅多に顔を見せなかった太陽が窓の外で燦々と主張しているだけで気分が良くなっている。マフィアの幹部が何を可愛らしいこと、と思うかもしれないが、天候が悪いと頭痛がひどかったりするから、やっぱり人間はお天道様に逆らえない。そして、太宰だって人間だ。掌を窓にかざしてみる。昨日はべっとりと真っ赤に染まっていたそれは、綺麗に清められている。それでも、どこか鉄の匂いを感じたような気がして、太宰はすぐにぎゅっと握り込んで目を逸らした。  織田作に会わねばならないと、頭の片隅が警告を発した。あんな別れ方をしたまま会わないでいれば、きっと気まずさが尾を引いて私たちの仲はぎこちないものになってしまう。しかし、太宰にはやらねばならぬ仕事と、やり遂げなければいけない仕事と、どんな顔をして会えば良いのだろうという本音がしっかり揃っていて、携帯の電話帳を開いてはすぐに閉じた。最近は、織田に会おうと思うとすれば胸が締め付けられて諦めていた。ちょっとした不貞腐れのようなものだ。どうせ、君にとっては少し変わった酒飲み友達、といった程度なんでしょう。それは至って正しい評価で、太宰はそれを責めること権利も資格もないのをよくわかっていた。わかっていたけれど、いつ織田が全く見知らぬ人になってしまうかもわからない、と思えば怖くて、確かめるように会いに行くのに疲れてしまった。いっそ、彼の心全て引き受けるから、こちらだけ見てくれていれば良いものを。そうする以外に自分が彼を信用できる術は全くなくて、否、そうしたって未来のことはわからないから、まあどちらにせよ、私はもう、ただの楽しい友人には戻れない。戻れなくしたのは、自分なのだけど。  指定された時間までは、一夜にして溜まった報告書とそれに対する指示で飛ぶように流れていった。書類をめくる手の速さから中原にはちゃんと読んでいないのではないかと疑われることも少なくないが、これできちんと頭に入っている。そろそろ出発しないと間に合わないかな、と時計を見て、流れるような手付きで弾の補充をした。
 織田が人を殺す映像を見た。 彼のように未来を見る異能なんて持っていなくとも、太宰の優秀な脳は彼の部署が上げてきた報告書に目を通してすぐに、銃を抜かねばならぬ事態へ進展することを見抜いた。 太宰の脳内にぱっと選択肢が広がった。 このまま何もしないーーさすれば、織田は敵と遭遇して人を殺す。 織田に自分の見通しを説明して回避させるーー彼の性格が許さなそうだから、不可能。 ここで、太宰は溜息をついてぐらつく気持ちを叱咤した。 もし、彼が人を殺したら。 自分と同じ、暗くて汚い世界に織田はやってくる。彼が必死で足を引き抜いた、同じマフィアのものであっても明確な一線を持って隔てられる世界だ。 彼が、夢を見失ったら。傷ついたら。 自分を、頼ってくれるだろうか。縋って、同じ世界で生きてくれるだろうか。  そこまで考えて、太宰はほとほと呆れて自分の頬を打った。やっぱり私は死んだ方がマシだ。
彼は、最後の選択肢を取る。 織田に、綺麗でいてもらうために、
この手は、彼の手に掬い上げられることなんてない空っぽの手は、汚れてもいいやと、そんな選択肢だった。
 太宰治は、どうも、自分を買いかぶりすぎている節がある。 「人を殺さないマフィア」という彼が好んでつけた通り名だが、正確に言えば「もう、人を殺さないマフィア」というだけであって、織田の手にはしっかり不可視の血がこびりついていた。それを知っているはずで、それでも自分のことを綺麗なものを見つめるあたたかさで眺めるのだから、太宰治はほとほと難しい男だ。織田はそう評するほかなかった。
突然中原中也から呼び出しをくらった時は、とうとう自分も始末されるのかと思った。何か、彼の気に障ったのだろうか。電話口からの恐ろしく不機嫌そうな声に頭の中では記憶の大清掃大会が始まるが、そもそもこんな高位の人間に関わった覚えもない。 高位の、と彼を評したところで、さっきまでちょうど太宰に埠頭で逃げられて、追いかけた先には彼がいなかったことを思い出した。   もしかして、と用件にあたりをつけたら、そうだよ、いいから来い、と更に不機嫌な声で言われて、かかってきた時と同じように一方的に電話は切られた。
 「てめェ、太宰に何を吹き込んだ。」 つや消しをした趣味の良いテーブルに、手袋をはめた手をついてこちらを睨む、小柄な猛獣。 会って数秒、考えてきた挨拶の口上を全て無駄にする唐突な切り出しに織田は面食らった。太宰の話が脚色されているのを考慮しても、短期そうな人だなあとは思っていたが、本当にそうらしい。尤も、彼と長い間コンビを組んでいられるということは深いところで考えれば短期とは正反対な性格を有しているのかもしれないが。 「俺は、何も。」 体を大事にしろとか、そういうことなら言ったことがある。しかし、自分ごときの中途半端な諫言が彼を動かすとも思えなかったし、中原が聞きたいのはそんなことじゃないのだろうと直感が告げていた。  中原の方も、質問というよりは喧嘩調子に話を始めたかっただけのようで、すぐにふうっと息を吐くと喫茶店の椅子にどかりと座った。  天井ではファンが生ぬるい空気をかきまぜている。注文を取りに来た店員に中原が短く「アイスティ」と言い、織田はメニューを開くのも躊躇われて、同じものを、と告げた。店員が踵を返すのを見て中原は、なんだ気色悪ぃと毒突く。なんならアイスコーヒーにでも変えようかと思ったが、ここには飲料の味を楽しみに来たのではないからやめておいた。中原はすでに三度目となる溜息をついて、じろりと織田を睨みつけた。 「太宰の野郎が、」 中原が話を切り出す。 「お前が手をつけていた仕事に裏で手を加えていた。覚えはあんだろう。」 織田は首肯する。昨夜のことを思い出していた。 「なんでだかわかるか。」 何となく、答えは中原がすでに持っている気がして織田は黙ったままでい���。 「お前に、人を殺させないためだよ。」 だから、ほら。太宰治は自分を買い被りすぎている。 織田は、全ての意味を悟ってぎゅうと締め付けられた胸にもう一度問うた。
どうすれば、良い?
中原の4度目の溜息が、味の薄いアイスティーの氷を少し揺らした。
指定された場所に向かうと、中原のものとは思えない長身のシルエットがぽつりとあって、太宰は息を飲んだ。中原が端末に送りつけてきた住所は、観光客も通らない静かな港で、太宰はこんなところ、敵の拠点だとしたらよく中也一人で見つけたなあなんて思いながら、ちゃんと5分前にはたどり着いていた。  待っていたのは、決して背の低くない太宰をゆうに見下ろすほどの身長に、見慣れたコート、頼り甲斐のある背中。 どこからどう見ても、ちんちくりんの中原ではなくて、 「おださく…」 風にさらわれて消えてしまいそうな小さな声も逃さず、友人は振り返って、大股でこちらに近づいてきた。 「太宰、」 太宰の脳が追いつけない事態なんて、人生に何度起こるものか。中原が自分を騙して彼と引き合わせたのは、わかる。しかし、その目的と中原、織田両人の心境が謎だ。何がしたいのかちっともわからない。  少し湿気を含んだ風が太宰の髪をなびかせる。 「具合は、大丈夫なのか。昨日会った時、ひどく辛そうだったが。」 織田が尋ねる。 「あの、織田作…?」 織田は太宰の、昨日は血に濡れていた手を取って、細い体を引き寄せて、 「心配していた。」 太宰の痩身は、すっぽり腕に収まってしまう。 「最近、全く例の酒場でも会わなかったし、昨日やっと会えたと思えば体調もすぐれないみたいで、俺は、」 織田が言葉を探して息を飲む。 「俺は、今まで、偶然っていう響きに甘んじてお前と付き合っていた。でも、それじゃあ、会いたいと思った時に、心配だと思った時に、全くお前のことがわからなくて、会うことも、追いかけることもできなくて、それで、やっと気づいたんだ。お前が大切だ。俺の何よりも、大切だ。」 力強く抱きしめられる。太宰の顔は織田の肩口に押し当てられて、香辛料と煙草の香りが彼を包み込んだ。暖かい。誰かに抱きしめられるなんて、本当に初めてのことだ。  ぶわりと風が二人のコートをかきあげる。
 幼い太宰が泣いている。初めて、誰かに、一番をもらえた。一番大切だと、心配したと。子供じみた願いだった。願いですらなかった、はなから期待などしていないのだから。ただ、世の中には、誰かの一番になれる人がいて、それはわかっていて、そういう人たちのことを心のどこかで、羨望していた。  一番汚い姿を見せた。真っ赤に濡れた掌を。それでも、彼の美しい世界は太宰を排除しなかった。認められていたんだ、私は。 「お、ださ、く、」 太宰が、しゃくりあげながら名前を呼ぶ。 「すまなかった、太宰。お前が私を守ろうとしてくれたように、俺も、お前を守りたいんだ。俺のエゴが、お前を苦しめていたなんて、全く知りもしなくて、俺は、」 「違う、…私は、君に綺麗でいてほしくて、っく、でも、それも、ただの私の逃げ道だったんだ。織田作、ごめんね、わた、し、」 織田の大きな手が、太宰の背をあやすように撫でる。 「ありがとう、太宰。」 船も寄り付かない港で、わんわん泣き続ける太宰を、怖いものから守らんとするように、織田はずっと抱きしめ続けていた。
 なあ太宰、世界はお前の評す通り、冷たくて汚くて、残酷なことでいっぱいだよ。それを否定して生きていくほど私は夢を見ているわけではないし、そうありたいとも願わない。  とどのつまり、人を殺そうと殺さないでいようと、私たちはどうしようもなく汚い海に溺れてもがいているんだ。そこで、手が何色に濡れていたって大差はないだろう。私たちは吸い込む空気さえ冷酷な時間に生きている。  だから、手を取らせてくれ。 溺れるなら二人がいいし、助かるのも二人で。こんないびつな世界で、私は人を殺さないマフィア、お前は包帯だらけの自殺マニアときた。正直、これ以上にこの海に毒された人間はいないと思う、二人とも。 けれども、綺麗事や理想で現実に蓋をしている輩より、お前はよっぽど綺麗だ。
この泥沼の底辺で、一番汚い部分を見つめ続けている。 いつか、二人で出て行こう。 酸化する世界から。
そうしたら、お前は信じてくれるだろうか。 大好きだという、なんの根拠も保証もない言葉を。
海辺の風が、さらりと吹き抜けて涙をぬぐっていく。 太宰、俺はどうしたら良いか、ちゃんとわかったんだ。
この手を離さない。
fin
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