Tumgik
#退蔵院
chitaka45 · 3 days
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
京都 妙心寺 退蔵院 🌸枝垂れ桜🌸
kyoto myoshinji taizoin 🌸cherry blossoms🌸
134 notes · View notes
hi-technique · 1 year
Text
Tumblr media
219 notes · View notes
eduseyes · 8 months
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
妙心寺 退蔵院 Taizō-in Temple
2023.09.14
323 notes · View notes
joze1123 · 1 year
Photo
Tumblr media
退蔵院紅しだれ桜 11/23(水・祝)〜12/4(日)で京都・妙心寺 退蔵院にて開催される企画展、「令和妙心寺六景」に出展します。会期中京都に行かれる方はぜひご覧ください。 https://www.pixiv.net/special/taizoin/ja/myoshinji_rokkei/
231 notes · View notes
oyasumimumemo · 2 months
Text
週報-4
2024年02月19日(月)
会社で悪意無く、しかし私的にかなり嫌なことをされて傷つき、帰宅後にそれを話したときの彼氏の寄り添い方が雑だったのでまた傷ついて大泣きした。明日は会社を休むことにする。傷つきやすくて疑り深い自分が嫌だ。自分のことは世界で一番大切だしこんなに純粋で美しい魂は無いと思う。だけど、やっぱり存在していない方が良かった。
2024年02月20日(火)
会社休んで腐るほど寝た。目がパンパンに腫れていてやっぱり休んで正解だったと思った。冷蔵庫を開けるとケーキがあった。彼氏は私が頑張ったり悲しんだりしてボロボロになるといつもこういう励まし方をしてくれる。リネン類洗濯、掃除、体操、買い物、作り置き。夕方にケ���キを食べた後は本を読んで過ごした。
2024年2月21日(水)
ものすごく気持ちが落ちこんでいて、何も覚えていない。
2024年2月22日(木)
部内の人間が半分以上外出していたため話す人間が少なく過ごしやすかった。仕事をばりばり進める。作業は楽しい。退勤後病院へ。カウンセリングなので仕方ないが、毎回自分のことを話しすぎることにまあまあ落ち込む。
2024年02月23日(金)
退勤後にハンナとごはん!私はハンナが大好きだ。ハンナにとって私は大勢いる友達のひとりだけど、私の友達はハンナしかいない。帰りの電車で延々と猫ミームをみる。お仕事系の猫ミームで恵まれない境遇で働くひとの日常をみるとあまり落ち込まず勉強できるし、食レポなどほんわか系の猫ミームではほんわかして良い。
2024年02月24日(土)
起床即ゴミ捨て体操コーヒー身支度外出。流れるように。ジェラピケ着ていると朝から気分良い。休日のみ。昼前に調剤薬局で受付だけ済ませて一通り用事が終わった夕方に薬を受け取った。用事は美容院と買い物で、途中昼ご飯を食べたくて店を探してたけど15時前にもかかわらずどこも激混みだし、腹が減ってる人間は威嚇するからひとりで休日にうろうろするの嫌なんだよな。女ひとりだとなめてかかってくる。ひとりが好きだけど、外出するときは男といるときのほうが迫害されずに済むから結果楽で、まあ人間も動物だし仕方ないけど、何かな、気にする気にしないの問題じゃないんだよ。でもみんな気づかずにやってるんだろうな。結局タリーズでコーヒーとパン。猫ミームみたり本を読んだりして休んだ後に本屋ですごく読みたかったバカ重い本を2冊買って、薬を受け取って帰宅。良い日だった。
2024年02月25日(日)
起床即体操コーヒー大掃除。掃除はやりだすと止まらない。本棚に積ん読本専用カゴを定置した。とんでもない量だ。あれもこれも読みたくて買って、読んでる間も楽しいのに、新しく読みたい本を買うと途中でやめてしまったりして溜まってゆく。一旦休憩して彼氏と昼ごはんを買いにパン屋に行った。好きなパン屋だったけど、選んだパンがすかすかで小さくて、でも値段は高くて悲しくなる。みんな大変なんだけど、これならコンビニのパンでいい・・・。
彼氏とその母親にはマザコン・ムスコンのきらいがあって、普段の彼と過ごすなかで度々それが見て取れる。今日もそうだった。いつも嫌悪感や孤独感を感じる。彼らが傷つく言動をとりたくなる。でも彼らは善人で、私に優しくしてくれるからそんなことをしてはいけない。お育ちも家族仲も良い家庭はどこでも多少はそういう気持ち悪い関係なのかもしれないが、となると「健全」って何だ?
この日記だけは本当のことを書こう、と思って書いているけど、そうなると露わにできることしか書かないようになる。日々の記録が希釈されたものになる。
Tumblr media
8 notes · View notes
flamingo-rex · 3 months
Text
Tumblr media
2024.02.09
朝、病院からの電話で起こされる
本当は週明け退院予定の母親が、
今日、退院するとドクターに言って、
変更させたらしい…
看護婦長も困惑するイレギュラー対応。
さすがに、ワイも急遽過ぎて、直ぐには対応出来ない
そして、かなりムカつきもした。
痴呆と言うなら、痴呆の症状だ。
本人の思い込みで、判断しかしないので
周りが振り回される
報告、連絡、相談…そのプロセスすら思い付かない
オカンのテロ行為で、ワイの快適な
一人暮らしは突然終わった。
当面、スムーズには動けないくせに早めた退院
自由に家の中や、外に行けないので
急遽、オカンの部屋に小さな冷蔵庫を運び込み
出来るだけ、部屋の中だけで完結させる方法を取った
そういう意味で病院はパーフェクトなのになぁ
帰って来よったかぁ…
もう一度言う
ワイの快適な一人暮らしが突然、終焉を迎えたのだ
3 notes · View notes
jaguarmen99 · 7 months
Quote
194 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:22/04/19(火) 23:17:44 ID:Fx.fd.L11朝ドタバタしてて食事の用意が満足に出来ず、夕飯の残りをラップかけた状態のままテーブルに出した。起きてきた夫と息子に「ごめんね。朝はあれで済ませておいて!」と伝えて家を出た(共働きなので)。数時間後、夫の会社から連絡が来た。聞くと夫が無断欠勤しているそう。なにかあったのかと思い、早退して自宅に戻ると夫はラップがかかったままのご飯の前で呆然としていた。「なにやってるの!?なんで会社休んだの!?」と聞くとモジモジしながら「だってご飯が…」と言われた。「夕飯の残りが嫌だったってこと?それは悪かったけどだからって無断欠勤するのはおかしいでしょ」と言ったら「違う」と。夫はラップの外し方が分からなかったらしい。さらに朝食を食べる→歯磨き→出社のルーティンが崩れたせいで何も出来なくなった、と。はぁぁぁ!?ふざけてるの!?の思ったけど夫は真剣な表情で「次から気を付けてほしい」と言ってた。ちなみに息子の方は普通にラップ外してご飯食べて小学校に行ったらしい。息子以下の夫。195 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:22/04/19(火) 23:37:03 ID:dv.se.L3 [1/2]>>194気を悪くしたらごめん真面目な話、旦那さんはアスペルガー症候群じゃなかろうかアスペルガーは普段通りのルーティーンに異常にこだわる性質があって、普段からの決まったやり方以外は事細かに指導してあげないと自力では出来ない例外的な状況やそれに対応する応用力がほぼ皆無だから、ちょっとでも普段と違う状況になると途端にパニックになってフリーズしてしまうんだよ普通の人間からしたらアホみたいに簡単な事でもそうなってしまうのが特徴もし診断を受けていないなら、一度専門家に診てもらった方がいいよ旦那さんの行動パターンが自分の知ってる知人のアスペルガーの息子さんと酷似しているので、おそらく可能性は高いと思う201 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:22/04/20(水) 08:06:51 ID:wD.1w.L1>>194そこまでではないけど知人にもいるよ他の人達の言ってくれてる通り、診てもらって欲しい、それも早く220 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:22/04/21(木) 14:24:59 ID:n9.ld.L1>>194真面目な話、今までそういうことがなかったんだとしたら鬱病とか脳腫瘍の可能性がある今週中に病院連れていってあげてほしい脳がバグっちゃって本当に些細なことで身動きが取れなくなるんだ麦茶が冷蔵庫になかっただけで泣き崩れたり、シャンプーが切れたのがショックで風呂で3時間惚けてたりした薬いらなくなるまで3年かかったよ早ければもっと軽く済むかもしれない病気じゃなかったら安心して説教してやればいいと思う診断出るまでは気を抜かないで
続・妄想的日常
3 notes · View notes
pockysuburbia · 1 year
Text
年齢詐称の女と廃屋で会う③
前回からの続き 昨夜、エッチなひとときを過ごした廃屋の旅館に、昼間に行ってみることにしたのであります。 48歳だと年齢詐称をする28歳の美女が、どうしても腑に落ちないのでした。 いつものぽっきいのことなので、廃屋で初対面で立ちバックで昇天などめずらしくはありません。 しかし今回は胸騒ぎがするのでございます。胸騒ぎの放課後であります。ひかる一平です。 現地に着いてみて、まず驚きました。 廃屋とは分かっていたものの荒廃ぶりが凄まじいのです。玄関のガラスは割れ、至る所にスプレーで落書きがされております。 玄関から中を覗いてみると、ガラスの破片やゴミで足の踏み場もないではありませんか。たしか昨日ここでスペシャルサービスをされたはずなのですが。 28歳美女が住んでいるような気配は全くありません。いるとしたら野良猫だけでしょう。 少し戸惑いましたが中に入ってみることにしました。 申し訳ありませんが靴のまま中に入りました。 昨日、奥座敷で花びらを満開にさせたはずです。 奥座敷の荒れ方もひどいもので、畳は剥がされ、床にはエロ本が落ちています。そして美人画がかけられていたはずの床の間には、スプレーで落書きが。 「おまんこ」 「しっくすないン」 と書かれてありました。ひどいものであります。 不法侵入に問われる前に退散することにしましたが、その前に28歳にメールをしてみました。 「来たよ。いる?」 すぐに返事が。 「ごめんね。20年後の未来に会いましょう」 意味がわかりません。会う気はないようです。 帰るとします。なんだかおかしい。 幸い旅館の名前が分かったので、帰ってから調べてみることにしました。 まずその町の図書館に行って、郷土史のコーナーを見てみました。あれほどの温泉地一帯が寂れた原因について書かれた本があり、そこに旅館の名前とオーナーであった人物の名前が載っていたのです。どうやら戦後に剛腕で商売を切り盛りした有力者でしたが、時代の流れについていけなかったようです。 その情報を元に地元の知人数人に尋ねてみると、すぐに驚くことがわかりました。 1980年に旅館は倒産し、経営者夫婦は無理心中を図ったと。そして都会で暮らす一人娘がいたが、親の後を追うように実家である旅館で自死。 3人も死んでしまった旅館は、若者の肝試しのスポットになってしまい、、、 「その娘が生きていたら、いま何歳?」 「48歳」 「亡くなったのは何年前?」 「20年前、28歳のときだね」 う。。。 さらに驚くことに、美人画は町の郷土館に寄贈され展示されているのだと分かりました。行ってみると確かにありました。ぽっきいが見たものであります。 解説には、江戸時代にここを治めていた藩の家老が江戸の有名な画家に発注したものだとか。明治になってから個人蔵となった模様。 ふむ。。。 どうも、俺は生きていたら48歳の女性、亡くなった時に28歳だった女性と出会ってしまったようです。 どうりで、股間の洞窟が冷たかったわけですね。 仏教寺院のセガレである俺ですので、また現地に戻り手を合わせてみました。ここで28歳からメールがあったら驚くのですが、それはありませんでした。 あれはあれだったのかと思いつつ、いいセックスだったなあと思い出して、合掌オナニーをいたしました。 そんな不思議な出来事からさらに20年が過ぎた頃。 今度はぽっきいが48歳となっていました。 俺はその街にはもう住んでいませんでしたが、ある日1人の女性と出会ったのです。 俺と同じ歳、48歳の女性です。 生まれはあの街で、実家はホテルを営んでいるとのこと。美しい人妻さんです。 雪の降る日にはじめてエッチな関係になってしまいました。 人妻さんが俺に言うのです。 「また会えたね、うれしい」と。 冗談よ、と人妻さんは笑うのですが。20年後の未来に会いましょうと、あのとき28歳がメールで言ったことを、俺は覚えているのです。 おしまい ※一部脚色していますが、実話です
Tumblr media
9 notes · View notes
ari0921 · 1 year
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和四年(2022)11月17日(木曜日)
     通巻第7526号
 中国の大学新卒、2023年は1158万人
  雇用機会が失われ「大學は出たけれど」の状況がさらに悪化
************************
 この数年、深刻な問題である。雨後の竹の子のように中国各地に大學ができた。日本も大學が多いが、中国の即席大學はキャンパス整地も遅れ、泥道、バスはこない。いや、そもそも簡単に造りすぎたのでまともな教授がいない。図書館に蔵書がない。
 雇用側にとって人気があるのは理工系であり、文化系、とくに思想とか哲学専攻の学生など敬遠される。その企業が景気後退、不況の荒波で新規雇用のゆとりを無くした。新卒者が欲しいのは不動産販売だが、訪ねてくる学生はいない。
 中国の大学新卒、2023年は1158万人。予測される雇用は600万人ほど。
あぶれた学生は何をしているか?って。
 家庭教師も予備校講師も禁止されたので、「ウーバー・イート」(出前)。それも客の取り合いを演じている。肉体労働現場も不動産不況でクレーンが停まっている。
 そこで、雇用されるより、もう少しモラトリアムが欲しい向きは大学院進学。あるいは海外留学となる。大学院進学、22年は300万人の志願があったという。
 半世紀前、仕事の関係で台湾、中国からの留学生数人の保証人となった。彼ら彼女らはハングリー精神に溢れ、エネルギッシュで、貪欲で、しかも短時日裡に日本語を覚えた。
 いまはどうか。
日本語学校でも中国人同士が固まりあって、北京語が飛び交い、アルバイトもコンビニ店員に中国人は殆どいない。留学ではない。遊学である。
 ふにゃふにゃのお坊ちゃんぶりたるや、この学生、ほントにあの国から来たの?というほどにふやけた手合いばかりである。
 もし、国防動員法が発令され、北京から司令がきても、この遊学生諸君等は日本国内でスパイ活動や破壊活動をまともに出来るとは思えないのである。
6 notes · View notes
kennak · 2 years
Quote
松井一郎みたいに、表向きは退くけど結局は相談役だ会長だー、って裏で院政敷くだけでしょ?という疑念が拭えない
[B! 竹中平蔵] 竹中平蔵氏、パソナグループの取締役を退任 8月に正式決定
4 notes · View notes
myonbl · 2 years
Text
2022年10月27日(木)
Tumblr media
普段はツレアイ(訪問看護師)と一緒に私の車で出勤するのだが、今夜の予定のために彼女は自転車で出勤、久しぶりに東寺前を通るルートである。信号待ちで写真を撮るのはいつものこと、あれ、なにやら小さな立て看板が見える。画像がいささかボケてしまったが、どうやら<ライトアップ>の案内のようだ。そうか、いよいよ紅葉シーズン突入、京都観光に来られる方、防寒のためにもマスクは必須ですぞ。
Tumblr media
5時15分起床。
いつもは1階の作業場で mac mini を使って日誌を書くのだが、寒さのために2階リビングで MacBookAir を使って作業する。
Tumblr media
朝食はいつものそば定食。
空き瓶・缶、45L*1。
Tumblr media
2人分の弁当を用意する。
ツレアイは夜の太鼓ワークショップのために自転車で出勤する。
R1、名神ともに今日は混雑が酷い。
Tumblr media
いつもより、15分以上遅れて到着。
換気、ラジオ体操。お茶は飲まずに教室へ向かう。
木曜日1限は「共生社会と人権(人権論)」、今日のテーマは<障がい者>。バリアフリー/ユニバーサルデザイン/障害者手帳/ヘルプマーク、それに Apple 製品の AssesiveTouch についても紹介する。
弁当を頂き、部屋の片付け、学会誌などを処分する。
今週のゴミを処分して退出する。
昨日冷蔵庫の代金を振り込んだのだが、エラーのメールが返ってきた。仕方なく、<でんきの大京>で現金で改めて支払をする。
サトイモ・ニンジン・レンコンの煮物を仕込む。
西大路七条から202系統に乗って堀川丸太町へ、今夜はM姉の手配で<はる書房>のF兄と会食だ。
Tumblr media
日曜日にご夫婦+友人の3名で来洛、修学院離宮/桂離宮を見学、昨日から友人の出版記念会に参加されていたとのこと。その出版がこれ、著者の人となりを楽しく伺い、早速アマゾンで予約した。
F兄は、東京の仕事場と故郷(三重県御浜町阿田和)との二重生活を始められた頃に知りあい、何度か仕事でもご一緒した。積もる話があれこれあって、最後に熊野実習の出版について編集の立場からのコメントを頂いた。
バスで帰宅すると、少し先に戻ったツレアイが食事の真っ最中。あれこれ喋りながら、ワインを少しいただく。
片付け、入浴、体重はコース料理をしっかり頂いたのにもかかわらず、500g減!
Tumblr media
歩く距離は少なかったが、なんとか3つのリング完成。水分は、1,600ml。
3 notes · View notes
kamxatzka · 2 years
Text
とり・みき「超ヘン連載漫画」掲載書籍リスト
(2002-09~2003-08刊行 河出文庫の一部の帯に連載) [1] 2002-09 ・ヒゲオヤジの冒険 手塚治虫漫画劇場 ・うつろ舟 澁澤龍彦 ・淫虐の館 砂戸増造 [2] 2002-10 ・華麗なるロック・ホーム 手塚治虫漫画劇場 ・鷲尾三郎名作選 文殊の罠 鷲尾三郎(日下三蔵編) ・江戸の思い出 綺堂随筆 岡本綺堂 ・淫婦傳 作者不詳(小宮卓監修) ・男嫌ひの女 相対会編 [3] 2002-11 ・アセチレン・ランプの夜 手塚治虫漫画劇場 ・倒錯の淫夢 北原童夢 [4] 2002-12 ・ブレストの乱暴者 ジャン・ジュネ [5] 2003-01 ・江戸っ子の身の上 綺堂随筆 岡本綺堂 ・実践講座 性技の裏ワザ・悶絶ワザ(2) 天城英生 [6] 2003-02 ・葬儀 ジャン・ジュネ ・いろつばき 作者不詳(小宮卓監修) ・小倉ミチヨ入院記録、退院の後 小倉ミチヨ(相対会編) [7] 2003-03 ・やまとことば 美しい日本語を究める 河出書房新社編集部編 ・少年西遊記(1) 杉浦茂 ・少年児雷也(1) 杉浦茂 ・不死鳥の剣 剣と魔法の物語傑作選 中村融編 ・淫花の蜜戯 まどかゆき [8] 2003-04 ・手紙のことば 美しい日本語を究める 河出書房新社編集部編 ・少年西遊記(2) 杉浦茂 ・少年児雷也(2) 杉浦茂 ・アウトブリード 保坂和志 ・「奇譚クラブ」の人々 北原童夢・早乙女宏美 [9] 2003-05 ・日本語の起源を探る 美しい日本語を究める 河出書房新社編集部編 ・少年西遊記(3) 杉浦茂 ・妖怪になりたい 水木しげる ・眼球譚 ジョルジュ・バタイユ ・淫悦の女肉狩り 神田雅 [10] 2003-06 ・なまけものになりたい 水木しげる ・考証 江戸町めぐり 稲垣史生 ・円盤Z 杉浦茂 ・江戸のことば 綺堂随筆 岡本綺堂 ・美しき蹂躙 作者不詳(小宮卓監修) [11] 2003-07 ・大胯びらき ジャン・コクトー ・見えない都市 イタロ・カルヴィーノ ・西瓜糖の日々 リチャード・ブローティガン ・淫蕩熟女の快感授業 睦月影郎 [12] 2003-08 ・現代語訳古事記 福永武彦訳 ・裸のランチ ウィリアム・バロウズ ・江戸あやし物語 原武男
2 notes · View notes
yotchan-blog · 14 hours
Text
2024/5/1 7:59:28現在のニュース
台湾封鎖リスク、友好国と対処 対中戦略、台湾外相に聞く 各国に制裁議論を期待 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/1 7:58:16) 先進国と中国・インド、脱炭素で主導権争い - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/1 7:58:16) 日本、脱石炭火力の風圧 3割依存 G7エネ相会合「30年代前半廃止」、「時期明示せず」も併記 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/1 7:58:16) 能登半島地震から4カ月、空から見た復興の歩み 発生時と比較(朝日新聞, 2024/5/1 7:56:05) 河口湖に「道」出現、六角堂の島まで地続きに 昨秋以降の少雨原因か(朝日新聞, 2024/5/1 7:56:05) 香港の水の値段に「衝撃」 米国の若者は高級ホテルに 超円安の明暗(朝日新聞, 2024/5/1 7:56:05) 既婚者の8割が感じる「2人目の壁」、もうひとり産みたかった母親がいま願うことは([B!]読売新聞, 2024/5/1 7:54:28) 里見氏と千葉氏がせめぎ合った地 匝瑳・八日市場地区の城郭遺構 ツアーに40人参加(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:51:53) ダイヤグラムあしらう 新京成が記念乗車券を発売(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:51:53) 100万本のネモフィラ咲き誇る マザー牧場(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:51:53) 「起立性調節障害の子どもたちの会」 横浜の中学生立ち上げ 居場所作り 支え合い1年(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:51:53) 人材確保へ横浜市交通局「大作戦」 給与底上げや採用法変更(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:51:53) 時代別3種の鍵盤楽器が共演 昭和音大生企画、3日に公演(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:51:53) 全国のファン集まる「レトロゲーム」店が焼失 CFに成功、再建へ | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/5/1 7:45:28) 新鮮アジ「あえてフライ」で観光目玉 松浦市に90万人 LBSローカルビジネスサテライト - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/1 7:45:03) アドバンテストの株価急落 会社計画に失望売り膨らむ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/1 7:45:03) 「マハーバーラタ」 増えすぎた人類減らす神のはからい 災禍と神話(1) 和光大学教授 沖田瑞穂 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/1 7:45:03) 御徒町【台東区】活気あふれる下町でランチ&居酒屋感覚で行きたい飲食店めぐり:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/5/1 7:43:48) こども園バス置き去り死、遺族が廃園求め9520人分の署名提出「安心して通える園を作って」([B!]読売新聞, 2024/5/1 7:43:17) NY市場で再び円安進む 157円台後半 米国の利下げ期待が後退(朝日新聞, 2024/5/1 7:41:11) 無党派層の支持で明暗 当選の酒井氏に2割強 衆院東京15区補選 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/5/1 7:37:42) 求人倍率上昇1.28倍 3月 失業率は2.6% 横ばい - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/1 7:37:15) 鉱工業生産3カ月ぶり上昇、3月3.8% 自動車けん引 生産用機械も好調 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/1 7:37:15) 自走式ロープウエー 花博で初運行目指す 神奈川県とベンチャーが連携協定(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:35:18) ピンホールで見る風景 墨田区で3日から写真展 武蔵野の写真家・神村さん「不思議な世界味わって」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:35:18) 太宰と跨線橋の関わり考察 三鷹市が調査報告書 発行販売 さまざまな角度から光「総集編」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:35:18) 港区、全区立幼稚園に英語教師 都内初 今月から本格化(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:35:18) 都ファ候補の落選 小池百合子知事「本当に残念」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/5/1 7:35:18) 「コンパクトシティー」推進10年、見えぬ効果…郊外住民「中心部に住むメリット感じない」([B!]読売新聞, 2024/5/1 7:32:37)
0 notes
ayaka0715 · 2 days
Text
今、黄金週間前半に明けても仕事・学校がある人はいますね。
Instagramは全て凍結されたら引退させていただきます。
今月は気をつけて https://ameblo.jp/kurushige/entry-12831208362.html
あと、詐欺もね。
https://dawaan.com/instagram-bo-fraud/
https://youtube.com/playlist?list=PLeXkmsAZiHBuQgYgcX_INTkdxaS0E-0M0&feature=shared
マンスリーベストナイン2024.5の発表日は5/19
🐉2024.4.20から5.17の候補⇨🥇になったらマンスリーベストナインアワード2024の候補となります。
日記
ローソンでお茶無料券を手に入れる為に買った#鶏めし おにぎり弁当
#かやくご飯+うどん
ニュース
japanプロジェクトの続編に期待!
#佐々木蔵之介
岡田阪神🐯・阿部巨人🐰は直接対決まであと3日
🐯 燕戦2勝〔⇨コイ戦?勝〕
🐰 ハマ戦2勝〔⇨燕戦?勝〕
#Aぇgroup のデビュー記念雑誌続々
#デカ盛りハンター メンバー達は激闘!
ムービー
愛or秀?〔前半部分のみ〕
佐々木蔵之介・#片岡愛之助・#西島秀俊
and more....
〔〕ヒント有り
佐々木蔵之介 💙🐎
西島秀俊 🖤🍩
#阿部サダヲ 🧡⚾️
#堺雅人 ❤️🦌
#戸次重幸 💜🤖
片岡愛之助 💖🍓
#kinkikids 💙🎸❤️✝️
 
抜き打ちチェックはInstagram引退をするので実施できませんので予めご了承下さい。
都合があれば変更する場合にもございます
インスタの調子が悪い〔#インスタ不具合 の〕時は
アップデート〔バージョン〕か再起動しましょう
出来なかったら
AndroidからiPhoneに変えましょう
 
また見たい方には👍
2度と見たくない方には👎
を押してください。
知らない人はフォローしないように。
皆様、ご視聴をいただきありがとうございます。
今月中で
Amebablog・Instagram・tiktok・youtubeを続きますのでどうぞお付き合いください。
まだ更新していない人はお早めにね。
 
もし、よかったらYouTube チャンネルを登録してね。
また見たい方には👍
2度と見たくない方には👎
を押してください。
知らない人はフォローしないように。
現在のInstagram は監督委員会 から違反されていますが、期限切れになると送れなくなるからご勘弁を。
あと、フォローバッグはストーカーの可能性があるから拒否させていただきます。〔フォローをする時は承認必要です。※無言禁止〕
これからも見守る。 扇動行為 破壊活動防止法 tictok instagram 謝罪 
危険なので死語扱い・文句を言ったり、
Instagram以外な写真は載せてしないでね。
インスタ不具合
#誹謗中傷  拘禁刑 ←#炎上 
#アカウント削除
#セックス依存症〔2022年度から18歳以上の新成人制度→人物画〕
 
現在
旧創業者であるSmileUP 社の救援,ウクライナ、台湾東部、石川県能登地方の#支援・医療期間 を行っております。
 
馬鹿なx・Instagram
あと、SNS詐欺・迷惑行為・犯罪行為は絶対しないで。
ニュース⇨衆議院議員補選で野党圧勝、愛or秀?の続き〔対象は19歳前後から〕
皆様へのクリエイター達に感謝してあげています。
神藤彩佳🐼💙
0 notes
tenshitsukinuke · 5 days
Text
てん し つき ぬけ
👼 「 天 使 突 抜 」
にまつわる話し… 📝
youtube
📝「 天 使 突 抜 」 の由来 -----
「天使」と言えば、羽根の生えたかわいい神の使いのエンジェル を想像してしまいますが、︎ この「天使突抜」の 天使 はそんなロマンチックな話しではなく、日本の歴史的な話しになりますーーー それは、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶が、平安時代末期 1176(安元2)年に出会った京都のとある神社 → 平安遷都 の 794(延暦13)年に創社の 『 天使の宮 』 = 『 五條天神宮(ごじょうてんしんぐう) 』の 由緒ある歴史的な名前から きています〜!?
▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼
✍️端的に『天使突抜(てんしつきぬけ)』を説明すると、次の① ② ③ になりますーーー
① 『 天 使 』 →
「天使の宮(五條天神宮)」を指す。
その「天使」とは、主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと) 」 の 別名・通称名。
〒600-8459 京都市下京区松原通西洞院西入ル天神前町351番地 に鎮座する、794年 平安遷都時に創社した洛中古参の神社。なお、当時の「五條通」は、現在の「松原通」。
また 中世以来、度々火災に遭い規模の縮小を余儀なくされ、現在の社殿は近���の再建で、1888(明治21)年に今の 幣殿 を再建、 1933(昭和8)年10月に本殿をはじめとした各建造物を改築し、現在に到ります。
② 『 突 抜 』 →
近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路形態の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言う。
③ 『 天 使 突 抜 』 ▶︎▶︎▶︎
時は、16世紀末 安土桃山時代…豊臣秀吉が実施した 京都都市大改造事業の一環で、正方形街区を南北縦割りの短冊形=長方形街区に分断して、新たに通りを増やす「天正の地割(てんしょうのじわり)」政策により、「天使の宮」の当時 広大な境内の真ん中を分断して、南北を通る道「天使突抜通(現:東中筋通)」を新しく建設し、その辺りの町名を「天使突抜○町目」としたことによる。
Tumblr media
◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢
✍️ もう少し詳しく知りたい方や興味のある方は、少々長くなりますが、以下の説明をご覧くださいーーー
⏱️ 時はさかのぼり〜平安遷都の西暦794年に始まり、16世紀末 豊臣秀吉の安土桃山時代の頃になります。
Tumblr media
「五條天神宮」は、794(延暦13)年の平安京遷都の際に桓武天皇の命により、弘法大師・空海によってこの地に 大和国宇陀郡(奈良県)から 天神(あまつかみ)を勧請(かんじょう)されたと伝わる洛中最古社。創建当初から「天使の宮」や「天使社」とよばれ、鎌倉時代初期に「五條天神宮」に改められました。
「五條天神宮」のご祭神は、次の3柱です。
①主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと)」
②配祀神(はいししん):「大己貴命(おおなむちのみこと)」=「大国主命(おおくにぬしのみこと)」
③配祀神:「天照大神(あまてらすおおみかみ)」
農耕、病気退散の神、疫神、厄除け、医道の祖神、医薬、禁厭(きんようorきんえん、まじないの意)の神様として、古くから広く崇敬されてきました。
ちなみに、神話をもとにして、我が国の「薬祖神」として崇められているのは、「少彦名命(すくなひこなのみこと、少名毘古那など11通りの書き方がある) 」と 「大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命など合わせて6つぐらいの異名がある)」である。二神が力を合わせて国を治め、人々や家畜の病気の治療法を定め、獣や昆虫の害をはらうまじないを教えたと言われています。
👉 3柱あるご祭神の内の主祭神である「少彦名命」の異名である「天子」の呼称は、当時は 神の子孫であるとした天皇 を示す言葉で 混同しないようにと配慮されて、神の使いを表す『天使』に呼び名を言い換え、創建当初から「天子の宮」ではなく「天使の宮」または「天使社」と呼ばれ、その近辺の住人達からは「お天使さま」とも呼ばれていたようです。
👉 ちなみに、794年「天使の宮」創建のほぼ半世紀後に生誕された「菅原道真(845〜903)」 の霊を祀った天神(てんじん)とは別モノですが、本殿の背後にある境内社の中に 菅原道真 を祀る「筑紫天満宮」(洛陽天満宮二十五社順拝 第3番)と、菅原道真と縁の深い ご祭神:十川能福(そごうのうふく)の「福部(ふくべ)」神社 及び ご祭神:渡会春彦(わたらい はるひこ)の「白太夫(しらだゆう)」神社が鎮座しています。
それは、北東方角100m強程の離れた 西洞院通仏光寺 菅大臣町に位置する、菅原道真 の生誕地「菅大臣神社」(洛陽天満宮二十五社順拝 第1番、菅公御霊地三社)が鎮座していることと、関係しているのかも知れません。
平安時代後期の 久寿年間(1154-1156)には「祇園社(現在の京都市東山区にある 八坂神社の旧称)」の末社でしたが、その後 平安から鎌倉時代初期に天皇家の支配下になり、少なくとも南北朝時代の1390年に再び「祇園社」の末社に戻ったといわれています。
👉 鎌倉時代初期の第82代・後鳥羽天皇(在位: 1183-1198)の支配下にあった「天使の宮」は、「五條天神宮」と改められました。
Tumblr media
👉 なお、清水寺への参詣道としてもにぎわった「五條大路(五條通)」は、豊臣秀吉の京都大改造までの呼称で、以降は「松原通」と呼ばれるようになり 今に至ります。
源義経(1159-1189)とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語『義経記(ぎけいき)』によると、平安時代末期の 1176(安元2)年6月に 源義経(牛若丸)が 武蔵坊弁慶(?-1189)と出会った場所として描かれています。
それに取材した 謡曲「橋弁慶」でも弁慶は五條天神に丑の刻参りに訪れた際に五條大橋に現れる牛若丸の存在を聞いて橋へと向かったとされ、また その様子は京都では有名な「祇園祭・後祭」の「くじ取らず」の山鉾巡行 一基目の「橋弁慶山」でも描かれ、おなじみの光景となっています。
👉 当時「天使の宮」の東側を通る 西洞院通(旧:西洞院大路)には「西洞院川」が流れていました。牛若丸と弁慶の立合いがあったのは、天使の宮から約1.2km離れた五條大橋(現:松原橋)ではなく、この西洞院川に架かっていた橋という伝承もあり、確証はありませんが、この説の方が自然なのではと思われます……
👀…………………………………👀
✍️ それから 時は16世紀末の 豊臣秀吉 の安土桃山時代にワープしますーーー
1582(天正10)年に 明智光秀 が謀反を起こし、京都 本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」後、羽柴秀吉はいち早く行動をおこし、戦国の騒乱に終止符を打ちました。
秀吉は、1585(天正13)年に関白職を 受け、1586(天正14)年に豊臣の氏を賜り太政大臣に就任し、政権を確立すると同時に、戦国時代からの荒廃した京都の町の復興のため、かつての平安京の「条坊制」の特長を残しつつ、京都の地形並びに治水対策、商業を含めた街の活性化・繁栄のための街区の町割区画整備 等を考えた綿密な計画のもとに、下記の主な①から⑤の京都大改造の事業に取りかかり敢行しました。
👉 これにより 現在の京都の基盤を築きあげ、今日の京都を形づくったのは、天下人となった 豊臣秀吉 だったのてす。
① 「聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)」の造営を 1586(天正14)年 に開始し、その周辺に「大名屋敷町」を建設しました。
② 「御所の修築」を 1589(天正17)年 から行い、その周辺に「公家屋敷町」を配置しました。
③ 「寺町・寺之内」の「寺院街」を 1590(天正18)年 に造成して、主に「寺町通」沿いおよび「寺之内通」沿いに寺院を「京中屋敷替え」と呼ばれた強制移転を強行し 集中させました。
④ 「天正の地割(てんしょうのじわり)」を1590(天正18)年から翌年にかけて敢行。平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画及び通りを増やし、街区の町割区画を整備・再編成。
この時の町割の変更に伴う新たな通りの建設事業が、「天使突抜」という地名ができるきっかけとなります。詳しくは、後述します。
⑤ 「御土居(おどい)」を 1591(天正19)年に、外敵の襲来に備える 防塁 と 川の氾濫から街を守る 堤防 として、京都の周囲を丸ごと取り囲む土塀を、防御施設=総構として張り巡らせました。その範囲は、北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河原町通まで、南北約8.5km、東西約3.5km、総延長は 約22.5kmにも及びます。
この御土居によって、京都市中を意味する「洛中」と、外部である「洛外」が明確化されました。そして 御土居には「京の七口」と呼ばれる関所となる出入り口がつくられ、これによって京都に入ってくる人間をチェックするようになりました。
---関白になった豊臣秀吉は、京都を実質的に支配し、応仁の乱等で大半が焼失し荒廃した京都を大規模な都市改造政策をもって復興させ、①から⑤等の多くの都市改造の大事業を敢行し、聚楽第の建造や街区の町割区画整備 等の施策を中心に 洛中の周囲を土塁で囲まれ、容易に攻略できない巨大な城郭(城塞)都市に生まれ変わったのです。
👀…………………………………👀
✍️ 「天使突抜」の名前由来の話しに到達する前に、もう少し関連する歴史的な話しが続きます--- それでは、1590 (天正18)年 の ④「天正の地割(てんしょうのじわり)」 の話しになりますーーー
室町時代後期から力を付けてきた京都の商人は、「通りに面した向かい合わせた両側」のコミュニティを1つの町(ちょう)と考える「両側町」と呼ばれるグループを構成し、一体感を背景としたにぎわいをみせるようになっていました。
それまでの平安京からの「条坊制」による 正方形街区の場合、1区画が約120m四方の正方形のブロックの四辺に住居や商店が建てられ、中央部分が空き地になることが多く、農地として利用されたり 空き地になったりして、無駄な土地が多いという欠点がありました。そして、当時は「間口税」という 間口の幅=道路に面した建物の正面の幅 の広さによって税金の額が決められていたので、碁盤の目のような正方形街区を2つに分けて長方形にして面を増やせば、税収とは無関係だった中央の空き地部分にも商店や住宅が建てられ、より多くの間口税を徴収することができるようになります。
そこに秀吉は着目し、京都の復興には「商業の発展」が不可欠との確信から、町割と通りを増やして 街や商業の活性化 及び それに伴う「間口税」の税収増を目指し、平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画 及び 通り を増やし、町割を大きく変更する「天正の地割」を敢行しました。これにより、京の街路は南北120m、東西60m間隔で長方形状に区画されることとなり、現在に至っています。
新設された南北の通りの 東は 寺町通 から西は 大宮通 にかけてで、北端は 丸太町通 から南端は 五条通 付近となっているものが多く、後に延長されたものも多いとされています。
新設された南北の通り名を 東から順に次に記しますが、「 --- 」で続けて記した通り名は、道の途中で一旦中断して 数町(丁)進んだところで 南北の道が再び始まる同一直線上にある通りのことになります。
① 御幸町通(ごこまちどおり)、② 富小路通(とみのこうじどおり) ………平安京の 富小路通 は現在の 麸屋町通(ふやちょうどおり) にあたる、③ 堺町通(さかいまちどおり)、④ 間之町通(あいのまちどおり)、⑤ 車屋町通(くるまやちょうどおり) --- 不明門通(あけずどおり)、⑥ 両替町通(りょうがえまちどおり) --- 諏訪町通(すわんちょうどおり)、⑦ 衣棚通(ころものたなどおり) --- 小田原町通(おだわらまちどおり)、⑧ 釜座通(かまんざどおり) --- 若宮通(わかみやどおり)、⑨ 小川通(おがわどおり) --- 東中筋通(天使突抜通)、⑩ 醒ヶ井通(さめがいどおり)、 ……… 他
また、四条烏丸 を中心とする一帯(下京の中心部)は、天正地割以前から十分に市街地が発達していたため、通りの新設は行なわれなかったので、この地域では平安京以来の正方形の区画が残っています。
👉 そのうちの一つとして、五條通(現在の 松原通)にある 天使の宮・天使社 とも呼ばれた「五條天神宮(ごじょうてんしんぐう)」の 広大な鎮守の森= 「天使の杜(もり)」を、南北に貫通するかたちで街路を分断し、その「天使の宮を突き抜けて作られた道」を「天使突抜通(てんしつきぬけどおり、現在の 東中筋通)」、その道に沿った 両側町 の町名(ちょうめい)を「天使突抜○町目」と呼ぶようになりました。その後、太平洋戦争終戦以降は「天使突抜○丁目」に変わったようです。
Tumblr media
ちなみに、「突抜(つきぬけ)」 とは、近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言います。
かつての 「天使突抜通」は、現在では名称が変わり「東中筋通(ひがしなかすじどおり)」と呼ばれ、西洞院通(旧:西洞院大路)と 油小路通(あぶらのこうじどおり、旧:油小路)の間に位置します。
北は 仏光寺通(ぶっこうじどおり、旧:五条坊門小路)から、南は 木津屋橋通(きづやばしどおり、旧:塩小路)までの下京区を南北に貫通する細い小路(こうじ、しょうじ)です。
👉 東中筋通(旧:天使突抜通)に沿っての両側町で 天使突抜の町名 として名付けられ、
①松原通(まつばらどおり)の少し南から 万寿寺通(まんじゅじどおり)までの 天使突抜一町目、
②五条通までの 天使突抜二町目 があり、
③五条通より南へ楊梅通(ようばいどおり)までの 天使突抜三町目、
④六条通(ろくじょうどおり)までの 天使突抜四町目 があります。
京都市のほとんどの 町名 は 末字(まつじ)に「町」がついて「○○町」と呼びますが、「天使突抜○丁目」は末字に「町」がつかない町名になります。ただ、その町内住人は 例えば 私の住んでいる「天使突抜二丁目」では、そのままでは少々長いので 普段は略して「天二町」と呼んだり書いたりしています。
🤟これは表に出てこない裏話ですがーーー天二町内の 今は亡き 昭和1桁生まれの長老のT氏から以前に聞いた話し ー→ 「昔は、五條天神宮= 天使の宮 =天使社 の坊さん達 が、南方面にある遊郭へ 買春しに行く時に 通り抜けていった=天使社の坊主が突き抜けていった から、天使突抜 と呼ぶんや〜」…とその辺りの住民達が揶揄して、天使突抜 の名前が 親しまれてきた経由があったと、その長老T氏 も 同じように町内の長老からそのように聞かされてきたとのことでした…🤭💁‍♂️🤦‍♂️👻
Tumblr media
( 注📝 現在の「堀川通」や「五条通」や「高辻通」は、太平洋戦争時の空襲被害に備えるための 防空空地や消防空地 設営の「建物強制疎開」により、終戦年の1945(昭和20)年前半に道路幅がそれぞれ拡張されています。また、その時の「堀川通」の道路幅拡張により、五条通以南の「醒ヶ井通(さめがいどおり)」は消失し、オマケに「京の三名水」の一つの「左女牛井、醒ヶ井(さめがい)」の円井戸の源泉が消滅してしまいました。)
Tumblr media
👀…………………………………👀
✍️ 【 天正地割 の副産物 「路 地」 】
西暦794年の平安遷都では、中国の都:長安をモチーフに、街区の町割りを「条坊制」が採用されました。大内裏(平安宮)と羅城門を結ぶ朱雀大路を南北に通し、そこを境として左京・右京を配置。東西南北に、大路(おおじ)・小路(しょうじ、こうじ)と呼ばれる通りを張り巡らせることで、碁盤の目のように 縦横の一辺が一丁・一町(約109m、道路幅含まず)の 大きなほぼ正方形街区に区分けされた町並みが生まれ、通りに囲まれた区画の中心部に入るために作られた道が、「辻(つじ)」や「辻子・図子(ずし)」や「路地(ろーじ、ろうじ、ろじ)」=「露地・露路」です。
更に、1590 (天正18)年 から翌年にかけての「天正地割」によって南北を通る小路が増え、そして 建物と建物の間を通る「辻」や「辻子(図子)」や「路地」=「露地・露路」と言われる 普通の小路より更に細い=狭い 道幅の通り道が たくさん増えました。
Tumblr media
通り(大路、小路)をつないで家(建物)と家(建物)の間を通り抜けられる=突き抜けられる 狭い道を「辻」や「辻子(図子)」と呼び、袋小路(行き止まり)になった通りの道を「路地」と呼んで区別することがあるようですが、辻・辻子(図子)も含めて 路地 と総称するため、明確な区別はないともいわれています。
もともと「辻」は、十字状の道を表す「十字」という言葉に由来して作られた字で、次第に細い通りを「辻子」「図子」と表すようになったとのことです。
「路地(ろーじ)」には、「コ」の字型や「L」字型になっていて、入り口とは違うところに通じているものや、路地の入口に面した通りとは反対側の通りへ出る通り抜けられる路地もあります。
1949(昭和24)年生まれの私の幼少時に住んでいた京都市下京区有隣学区内では、当時の大人の人達や私も含めて、コの字型やL字型等の曲がって通り抜けられる路地のことを「抜け路地(ぬけろーじ)」と呼んだりしていましたが、辻子(図子)という言葉は 最近まで聞いたことがなく、古稀過ぎてから 京都通 などのサイトに出てくるネット検索で知った言葉です。今住んでいる天使突抜町でも 誰もその言葉は使わないし、耳にしたことはありません。その類いの道は、「路地(ろーじ) 」や「抜け路地(ぬけろーじ)」とか「 辻 」と呼んでいます。ただ それは、私が住んできた限定的な地域的な特徴かも知れませんが……
Tumblr media
 「路地」というのは、その路地の中にある家に訪れるために通る道としての通路のようなものなので、一般の小路を通る場合とは少し異なり、閉鎖的で私道的な雰囲気もあることから、無用の者が立ち入るのはちょっと躊躇もしくは気が引ける感じになりがちです。なかには、路地の入口にそこの住人の「集合表札」が掲げられていたり、「無用の者の立ち入りはお断り」というような注意書きが路地の入口に張られている場合もあったりします。
ところで、私の個人的見解での 小路と路地の違いは、端から端までの全ての道路が、 車(自動車)が通れる幅があるかないのか、及び 車が通れるように地面が整備されているかいないかの差ではと、勝手に解釈して区別していますけど……
👀…………………………………👀
📝①参考までに--- 建 物 疎 開
今は 五条通や堀川通や御池通など京都市の 大幹線道路として広い道幅になっていますが、これは「太平洋戦争」時の米軍の無差別爆撃の空襲による火災の延焼防止 の対応策として 防火地帯(空地) 等を設けるため、それまでは他の道路と同じような細い道幅だった通りの道路沿いに佇んでいる家屋を、戦争の名の下に 有無を言わさず「取り壊し=建物疎開=家屋等の強制撤去」が無惨にも遂行され、道路幅を拡張させられたことによります。
京都府 約2万戸、京都市 で1万世帯以上が 1944(昭和19)年から翌年の1945(昭和20)年 終戦時までに、建物疎開が 第1次~第4次までに分けて 以下の内容で強行され、無惨にも建物強制疎開で拡張されたことを、特に京都市民は 決して忘れないようにしたいものです🙏
 1、『 防空空地帯 』・・・防火帯、緊急避難路、防空活動道路としての利用を目的に、50〜100メートル幅で指定。京都駅周辺、堀川通、御池通、五条通。
 2、『 防空空地 』
イ、「 交通疎開空地 」……交通要地の防護が目的。京阪三条駅周辺、四条大宮交差点、梅小路駅周辺など。
ロ、「 消防空地 」……消防活動用の道路拡幅。智恵光院通、七本松通、高辻通など。
ハ、「 疎開小空地 」……軍需工場、役所、変電所、病院等の周辺を空地にしてそれらの施設を防護。
Tumblr media
📝②参考までに--- 京都の空襲
京都は、太平洋戦争時の 米軍による 当初原爆投下候補地の第3の原爆投下予定地だったようで、威力を分かりやすくするために、京都市内の空襲を5回程度の散発的に爆撃を控えた…とされています。その空襲は、終戦年の1945年1月から6月にわたって5回の空襲(馬町空襲、西陣出水空襲 他)を受けて 約100名程の死者が出ています🙏
Tumblr media
ーー ーー ーー ーー ーー
0 notes
niyuuhdf · 8 days
Text
トキ/灯彦:『証言』
俺は先祖代々の故郷からは幾分離れた込み入った住宅街の一軒家で生まれ育った。 俺が産まれるって時に、俺の父の実父…つまり行屋のじいさんが単身故郷を離れて近場に越してきた。その理由を「可愛い孫のためだ」とかなんとか嘯いてたが。 じいさんには随分と可愛がってもらったもんだ。 そのじいさんがある時口にした 「俺たちは行灯の火を潜り抜けて現し世に偶然姿を晒しちまった。現し世の人々の目に、俺たちのこの姿が分け隔てなくうつるとは、ゆめにも思わずに。」 歌舞伎は東海道四谷怪談の提灯抜けに掛けたらしい言葉。 それは相変わらずの食えねえ薄ら笑みに紛れ溶け込ませるように、諧謔に包み隠しながらも深い悲哀と悔恨の織り混ざったような述懐であったことを覚えている。 その言葉は、まだ年若い俺の心のもっとも深部にある原風景をそのまま写し出したかのようであったから。
ある画家の手記 Part : 行屋虚彦 
『疾彦の証言』
海辺に故郷の土地があるなんてえのは、一つのもののたとえだと、じいさんは言った。 行屋の人間ーーーー随分と大雑把にして大袈裟で選民的な言い回しだと幼い俺は思ったが、他に言いようがなかったもんかねーーーーは、長く住み着いたそこに多少の愛着こそあれ、土地そのものを故郷だと強く体感してなどねえと。
ここからは俺のじいさんの語ったことだ。語るにも聞くにも死ぬほど退屈極まりねえんで適当に端折りながらじいさんの言葉を復唱する。 じいさんが俺に語ったことは、口伝とも言えねえ、じいさんも朧に伝え聞いただけの昔話 どれだけ眉唾か知れたもんじゃねえ そういう類の話だ
蔵を引っ掻きまわしゃ出てくる家系図では、行屋家は平安の武家まで遡る。かのエリート様、文武両道の色男にして若くに妻と幼児を捨てて旅の歌人の人生を選んだ、あの男だ。さもあらん。 そいつが真実どんな様相で生きていたかは知る由もない。ただ、「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」なんて詠むからには、己の心に馬鹿正直ではあったかもしれねえ。 かろうじて行屋の血筋の生き様…様相を伺えるのは江戸から。 記録が片手落ちすぎて話にならねえが、その時代にはもう漠然と血縁同士で助け合い、どうにかこうにか支えあって普通に人里の中で生きていた、らしい。
行屋の血筋の者は見えるはずのないものをよく見た。 見えたものを人里でそのまま口にすれば何が起るかは自明の理ってんで、血縁同士で教え伝え合って戒めあった。見えるものを口にしすぎないようにと。 ごく稀に幼な子がうっかり口を滑らせちまって、ひどい仕置きも暴力も迫害も公然とあったらしいが、 行屋の血筋は遺伝的にそのほとんどが誕生からの発達と発育が異様に早く早熟…これは俺もナナも虚も例外じゃねえ。 だから幼い時分から言い聞かせ、親族の中での教育で悪しき事態を防いで沈黙することで、表向きには何事もなく暮らしていくことが可能だった。 それにも勿論個人差はあったろう、いずれ綱渡りには違いねえ気はするが。
まさに当時から、すべてを沈黙し隠蔽し尽くして生きることには限界があったらしい。なにごとにつけ全てが嘘ってのは具合が悪いもんだ。故に、何かしらが時折りふと見える程度の仄めかしを村の中で敢えて情報開示として行ってきた。 不運にも露呈するような形で知られるんじゃあ、周囲に不安と警戒心を与えて排斥されるってんで。そうじゃなくごく穏当に村の利益に繋がる形にして受け入れさせようと。 結果、この海辺の村では運良く受け入れられつづけたらしい。 村民にしてみりゃあ「ありがたい不思議な力、うまくご利益にあやかろう」てふうに…脅威として認識されることはうまく避けてたらしい。 まだ人知の及ばねえものがそこらを跋扈した時代でもあったろうし、…行屋の人間の立ち振る舞いや言動、人間としての気質もその印象に落ち着かせるのに一役買っただろうと。じいさんは言ってた、若い頃の俺が良い例だとな。 産まれてすぐにしっかりと大きく目が開き、よく笑い、人に懐く、すぐに立って歩き走りまわる、幼児に似つかわしくなく流暢によく喋る、運動神経がやたら良くて、口が達者な笑い上戸、周りを冗談や話術や手遊びで沸かせ賑わわせ、躊躇いなく道化にもなる、華やかにしてごく自然に人の輪の中心となり他者を牽引する、が、すべてを絶妙に抑制し、決して逸脱しすぎず飛躍しすぎず常軌を逸さず、己に人間としての分を弁えさせつづける。行屋の人間の若年期ってのは、代々こんなもんだったそうだ。まったく辟易するぜ、じいさんは学生の頃の俺しか知らねえからな、今の俺のざまを確と見ろと言いたくもなる。
昔の話に戻る。 この目は重宝がられさえしたらしい。村人に失せ物さがしなんかを気楽に頼まれたりな、都度その場で解決、不思議な力に村の皆で感謝しつつ宴会でもひらく、ってなふうに…楽観的で素朴なものとして受容されてたらしい。当然の如く例外はあったろうがな。 当時は30代よりかは多少長く生きてもいたらしい、当時はそれくらいの齢でくたばるのはそこまで異例でもなかったかもしれねえし、海が近いことも有利に働いたそうだ。
時代が進めば、怪奇も不思議も人地を超えた力も身幅が狭くなってくる。 里にも医者が それも西洋医学を軸に学んだ医療が及んだ。 行屋の人間の目と苦痛と短命が、放置されなくなった。 仁と医を尽くしてすべての人間に懸命に長寿を達成させようってえ向きだ。 しかし医者が手を尽くせば尽くすほど、行屋の人間だけは医学じゃどうにもできないことだけが只管に浮き彫りになってくる。
もっと時代が進むと、遠方まで容易に情報が行き交うようになった。 行屋の人間の一部は「霊能者」あるいは「エセ霊能者気取りの不気味で不謹慎な血筋」だってんで、一時期は強烈な迫害と少数の誤った信仰を招いて、非科学的なものを否定する世間の流行の猛威を浴びたらしい。
歳を負うごとに身体の苦痛が増し、自制を欠いた狂躁のような激しい気質を帯び、昂って暴走し、性的快楽に耽り、目には激痛が襲う、瞼を閉じ、家からふらふらと海へ向かって外へ出る、ふっつりと茫然自失になる、そういうさまから、行屋家の人間が遠方へ嫁いでいった先では、家に座敷牢なんて豪勢極まる代物も用意されたとか。
行屋の人間は、自分たちの目にも苦痛にも短命にも、名前をつけなかった。 苦痛は耐え忍ぶ。憐れむならそれを上回る快楽を。故郷の慣わしなんぞ何も知らねえ俺でさえ奇しくも似たような手段を取った。 目の激痛は光を遮断することで少しは和らげられる。暗く閉ざした部屋に行灯一つあれば充分。あとは多くの時間を瞼を閉じて生きるだけ。 今でも里じゃ親戚の中を見渡せば、ずっと瞼を閉じた者や、目隠しをした者がちらほら見受けられる。 今のように「病」だと呼ぶことも定義づけることもなかった。当事者間ではそのような認識ではなかったとよ。血族で似た者同士が群をなすと異質さはかき消える。道理だ。 あとは血族以外との折り合い、順応と適応の世界。 どれほどの苦しみであっても、家内で分かち合える以上それは体質に過ぎねえと。 しかし医学に割って入られると事情は変わる。そこから行屋の人間は「精神病者」と定義づけられて、積極的に私宅監置に置かれることになった。定義づけと命名が必要だったのは、医療を施すためだ。行屋の人間を捉える主体が当人らからそっちへ移ったわけだ。 即刻入院治療とならず私宅監置…座敷牢になったのは、もっと手に負えねえ精神を患った患者が病床を占めてたから。そいつらに比べりゃあ行屋の人間は意思疎通が可能で聞き分けがよく大人しい。
その後、また時代が変わって、医師の側の意識改革と医療の是正が始まった。 外部から調査にきた医師団が、親族の私宅監置の現状を調べて、あまりに杜撰で酷いものが多いことから、病院への入院治療を推し進める流れになった。 杜撰で酷い座敷牢ってえと目を覆うような惨状を思い浮かべそうなもんだが、それは東京って都会のど真ん中からカメラやら取材道具担いでやってきた人間の感覚で、その感覚は間違っちゃあいないが、当事者との齟齬は大いにあったとかなんとか。 おりしも行屋家の住む土地は人の少ない辺境の海辺、危険行為を繰り返す精神病者を完全に病院に隔離することなく開放的な入院治療と静養がかなうとして、里からほど近い静かな海辺に精神病院が建てられた。勿論行屋の人間のみのための病院じゃなかったろうが。
その後、この国の人口が増加したためか知れねえが、そんな海辺の田舎にも一般住宅が押し寄せひしめき合うようになり始めた。「海が綺麗だ」ってのがよそから好んで移り住みたがる人間の主な理由。 そいつらはいうにことかいて、古くから住む行屋を含めた住人も、そこに建つ不吉な精神病院も忌み嫌い、病院側に立ち退きを要求してきた。まあ海沿いのリゾート感覚で住み始めたんだ、そんなもんだろうな。 病院側は、「患者を院外に出さない」ことを条件に立ち退きを免れた。 これは行屋の人間にとって痛手だった。他の多くの患者にとっても自由と尊厳を踏み躙られる大きな痛手だったろうが。行屋の人間にとっては、思いのままに海へ出られない、これこそが痛手だった。 その後の大きな戦争と災害の度に、打撃を受けた精神病院から、一部の行屋家の連中が焼け出されて、そのまま身を隠した。 他の多くの患者は医師との信頼関係によって病院におとなしく留まったらしいが。 身を隠した連中が、海沿いの各地に散って、或いは村にひっそりと戻り、留まったのが、今のお里の実態なんだとよ。
他の地域の海辺で暮らす奴もいるらしい。面識はねえが。望みもしねえが。 海外に飛んだ奴もいるが、皆決して海から離れようとしない、離れ難いんだそうだ。 じいさん曰く、苦痛に耐えられなくなったとき、或いは茫然自失と化した状態で、招かれるように自ら海へ入っていく。そうして自らの火を、もといたあちらへ帰そうとする。火だるまになった身体の炎は海が消火し尽くしてくれる。 幼い頃から、耐え難い苦痛の際には海へ浸かるのがひとつの慣わしであり、自然な行動だったんだと。慣習と衝動のどちらが先だったかは判然としない。 はたから見れば判断能力をなくした入水自殺じみてうつるその行動も、案外現実的らしい。海へ浸かることで身体の苦痛が安らぎ、死に至るまでもなく平然と浜から自宅まで自分の足で戻ってくる場合のほうが多いらしい。 じいさんも七を知ってるが、七が月夜に招かれるように外へ出たがったのは、月より潮と呼応してたように見えたそうだ。
"死の先に帰る場所がある  我々はそこからやってきた  そこにしか我々のよるべはない  死の先に故郷がある  死そのものをのぞむのではない  死後になにかを期待しているのではない  死の先に明瞭な故郷の景色や幻想を抱いているのではない  ただ帰ろうとするときの帰路に偶然死が横たわっている  我々はただ帰りたい  我々は己らの生命、出生、誕生、人生を捉えられない  捉えられないものを無思慮に否定するものでもない  しかし  こちらにきたことは偶然だった  隔てなく人間の身に己がおさまることを知らぬ無知、隔てなく人間の目に我々がうつることを知らぬ無知故にここへきてしまった  その過ちは我々の目を焼き、腑を犯した  我々はただ帰りたい  この由来なき形容し難い感覚を、閉鎖的に、つい近年まで血族とだけ共有してきた  ただ帰りたいだけなのだ  ただ帰してやりたいだけなのだ  どうか行かせてほしい"
じいさんのそのまた祖父さんが遺してった走り書き。遺書か。 「行屋」の姓の字の由来がそんな詩的なもんかは置いといて、 幼い俺にじいさんが零した戯言は、そんなような代々脈々と、連綿と続いた根深い感傷と言いしれぬ衝動に端を発していた。 走り書きの「我々」ってのが何を指してんだか知ったこっちゃねえんで検証にも足らねえが。 俺はそれらを言葉になった上っ面だけで聞き知ったとき、なんの異質さもねえ誰の内にも在るごくありふれた回帰願望の類だと思った。貶めようってんじゃねえ、ただ大袈裟に身内の中だけで秘める必要などなかったものを、ってな。 そういう意味じゃご先祖さんが一等賢い選択をしてる。家族を捨て、出家して、従者もなく一人、諸国をさすらい歌でも詠む、それで結構じゃねえか。 この回帰願望めいたなにか…理論立てれば幾らでも容易く突き崩せる穴だらけのなにか…が代々受け継げるほどに強靭に仕立てられていったのは、身体性…目と身体の苦痛に大きく依拠するだろう。身体の苦痛…身体的な経験の共有は同じ思想や信仰に染めるにもってこいの洗礼だ。おそらくなにより先立ってその身体性があった。 …ただ、「帰りたい」という情緒の言語化…、そこは解せねえ。積極的にそこを言語化して親族間で整えた環境と教育によって伝え刷り込んだという印象は薄かった。 共有したのは具体的な生き延びるすべのほうで、まあ生活様式に規範を揃えりゃそれだけで充分一つの具体的な信仰にはなっちまうが、情緒や思想にはなんの強要もなかったようだ。それよりかは、生来の生まれ持った形容し難い感覚に呑まれて苦しむ者を、血族がなんとかあとから帳尻合わせにそういう戯言を例外的に用いて掬い上げることもあった、程度。 そんな印象を抱いたのは、遠方の親族のことなんざ露知らず育った俺の中にも過去に似たような萌芽があったことを認めざるを得ねえからか、否か。
俺の実父は、俺が産まれる直前になって、抑制の効かない状態に陥ったらしい。意気揚々と里から離れた新天地に移ると言いはり、親族の反対を押しきって実行した。それをその父、つまりじいさんは、淡々と見ていた。 じいさんは、それに賭けた。 じいさんは息子を見張るような建前を身内には示しつつ、息子の移り住んだ土地に自分も移った。 奇矯を装いつつも、俺の父は薄々気付いていただろうとな。親族だけで寄り集まって閉鎖的に同じ場所に留まり続ける、その弊害と欺瞞に。 俺はそこから解き放たれて生まれ育った。虚も。 それは賭けだ。じいさんはその人生の行く末を見届けたかった。 七は大学入学まで里で生まれ育ったが、そこから七を連れ去ったのは俺だ。 その俺が、中学の頃、生家に火を放ち父母もろとも焼き滅ぼした。そのことにじいさんだけが目敏く気付いた、血は争えねえな。 尋ねられたわけでもねえのに、その時俺は動機めいた一言を口走った。嘘偽りない本心だった。「そろそろ帰してやらねえと」…と。
…………
虚の性的快楽への拒絶っぷりは血筋で言うなら異端中の異端だ。
ーーーーーーーーー
曽祖父:
海辺に故郷の土地があるなんてえのは、我々にとっては一つのもののたとえ。 行屋の人間はこの土地そのものを故郷だと強く体感してはいません。 勿論この土地に愛着はあります。何せ長く住み着きましたからな。
これから語ることは口伝とさえ言えない、伝え聞いただけの昔話で どれだけ眉唾か知れたもんじゃねえが…
辿れば平安の武家まで家系図はありますが、今のような様相で生きていたかは知る由もない。 かろうじて様相を遡れるのは江戸までです。 家業は本来なんだったか、記録が片手落ちなもので定かでないが、その時代にはもう漠然と血縁同士であることを感じ取って助け合い、なんとか支えあって普通に人里の中で生きていたようです。
行屋の血筋の者は、およそ見えるはずのないものをよくその目で見た。 見えたものを人里でそのまま口にすれば何が起るかは自明の理。 だから血縁同士で教え伝えました。見えるものを他者に口にしすぎないようにと。 ごく稀に、幼な子がうっかり口にしてしまい村の秘密を暴き、ひどい仕置きも暴力も迫害も公然とあったようですが。 しかし我々の血筋は遺伝的にそのほとんどが誕生からの発達と発育が異様に早く早熟です。 言い聞かせ、親族の中での教育でそのような事態を防いで沈黙し、表向きには何事もなく暮らしていくことが可能だった。 それにも勿論個人差はある。いずれ綱渡りには違いなかったろうが…。
当時から、すべてを沈黙し隠蔽し尽くして生きることにも限界があったとみえます。故に、何かしらが時折りふと見える程度の仄めかしを村の中で敢えて情報開示として行ってきた。 不運にも露呈するような形で知られるのでは、周囲に不安と警戒心を与え、排斥されます。そうではなく、受け入れさせるのです。 結果、この海辺の村では運良く受け入れられつづけた。 さしずめ村民にすれば「ありがたい不思議な力、うまくご利益にあやかろう」てなもんで…脅威として認識されることなく、ごく自然に受け入れられていた。 まだ人知の及ばぬものが許された時代でもあったろうし、我々の立ち振る舞いや言動、人間としての気質もその印象に落ち着かせるのに一役買ったでしょうな。若い頃の疾彦などが良い例です。 あの子はここで生まれ育ったわけでもないのに …否、だからこそだったのか、行屋家の人間の典型そのものでしたよ。幼い頃から見てきましたが。 産まれてすぐにしっかりと大きく目が開き、よく笑い、人に懐き、すぐに立って歩き走りまわり、流暢によく喋る。運動神経が良く、聡明で、口が達者な笑い上戸、周りを冗談や話術や手遊びで沸かせ、賑わわせ、躊躇いなく愛嬌ある道化にもなる、同時に泰然として威風堂々、自然に他者を牽引する人気者、…がしかし、すべての有能さを絶妙に抑制し、決して逸脱しすぎず飛躍しすぎず常軌を逸さず、己に人間としての分を弁えさせる。 行屋の人間の若年期とは、代々このような気質が多かった。
昔の話に戻りましょう。 この目は重宝がられさえした。村人に失せ物さがしなど気楽に頼まれたり、都度その場で解決してみせ、不思議な力に村のみなで感謝しつつ宴会でもひらく、というような…楽観的で素朴なものとして受容されていたそうです。当然ながら例外もありましたが。 我々も、当時は30代より少し長く生きたし、当時はそれくらいの年齢で亡くなることはそこまで異例でもなかった。海辺が我々に環境として合っていたのもある。
時代が進めば、怪奇も不思議も人地を超えた力も身幅が狭くなります。 ここにも西洋医学を軸とした医療が及びました。 我々の目と苦痛と短命が、放置されなくなった。 …そのことを、我々は沈鬱な内心を抱え、それでも静かに時代に従った。 仁と医を尽くしてすべての人間に懸命に長寿を達成させようとする向きです。 しかし医者が手を尽くせば尽くすほど、行屋の人間だけは医学ではどうにもできないことだけが浮き彫りになってくる。
もっと時代が進むと、遠方まで容易に情報が行き交うようになった。我々は「霊能者」あるいは「エセ霊能者気取りの不気味な血筋」として、一時期は強烈な迫害と少数の誤った信仰を招き、非科学的なものを否定する世間の流行の猛威を浴びたようです。 歳を負うごとに身体の苦痛が増し、自制を欠いた狂躁のような激しい気質を帯び、それが昂って暴走し、目には激痛が襲い、家からふらふらと外へ出る、そしてふっつりと茫然自失になるさまから、行屋家の人間が遠方へ嫁いでいった先では、家に座敷牢が用意された。
我々は、この目にも苦痛にも短命にも、名前をつけなかった。 苦痛は耐え忍ぶのみ。憐れむならそれを上回る快楽を。 目の激痛は光を遮断することで少しは和らげることができる。暗く閉ざした部屋に行灯一つあれば充分。あとは瞼を閉じて生きるだけ。 ここに住む親戚の中にも、見渡せばずっと瞼を閉じた者や、目隠しをした者がちらほら見受けられるはずです。 今のように「病」だと呼ぶことも定義づけることもなかった。当事者間ではそのような認識ではなかった。血族で似た者たちが群をなすと、異質さはかき消えます。 あとは血族以外との折り合い、順応と適応の世界になります。我々のうちではどれほどの苦しみであっても、それは体質に過ぎません。 しかし医学に割って入られると事情は変わります。そこから行屋の人間は「精神病者」と定義づけられ、積極的に私宅監置に置かれることとなった。定義づけと命名が必要だったのは、医療を施すため。我々を捉える主体が我々自身からそちらへ移ったわけですな。 我々はそれを静かに受け入れた。
その後、また時代が過ぎて、医師の側の意識改革と医療の是正が始まった。 外部から調査にきた医師団が、我々の親族の私宅監置の現状を調べ、あまりに杜撰で酷いものが多いことから、病院への入院治療を推し進める流れになった。 杜撰で酷い座敷牢と聞くと目を覆うような惨状を思い浮かべられるかもしれない。が、それは東京という都会のど真ん中からやってきた者の感覚です。その感覚は間違ってはいないが、当事者との齟齬は大いにありました。 おりしも行屋家の住む土地は人の少ない海辺であったので、危険行為を繰り返す精神病者を完全に病院に隔離することなく開放的な入院治療と静養がかなうとして、ここからほど近い静かな海辺に精神病院が建てられた。勿論我々のみのための病院ではなかったはずですが。
その後、全国で人口が増加したためか、こんな田舎にも住宅が押し寄せひしめき合うようになり始めました。「海が綺麗だ」というだけの理由で好んで住みたがる人間たちが、各地から集い出した。 その人間たちは、古くからここに住む我々も、そこに建つ精神病院も忌み嫌い、病院側に立ち退きを要求してきたそうです。 病院側は、「患者を院外に出さない」ことを条件に立ち退きを逃れた。 これは我々にとって痛手だった。他の多くの患者にとっても自由と尊厳を踏み躙られる大きな痛手であったでしょうが。我々にとっては、思いのままに海へ出られない、これこそが痛手だった。 その後の大きな戦争で打撃を受けた精神病院から、一部の行屋家の者が焼け出され、そのまま身を隠した。 多くの患者は医師との信頼関係によって病院におとなしく留まったそうですが。 身を隠した者たちが、海沿いの各地に散り、或いはここにひっそりと戻り、留まったのが、今の我々の実態です。
ここだけではなく、他の地域の海辺で暮らす者もいますよ。 海外に飛んだものもあるが、皆決して海から離れようとしない。離れ難いんでしょうな。 苦痛に耐えられなくなったとき、或いは茫然自失と化した状態で、我々は招かれるように自ら海へ入っていく。 そうして自らの命の火を、もといたあちらへ還すのです。火だるまになった身体の炎は海が消火し尽くしてくれる。 幼い頃から、耐え難い苦痛の際には海へ浸かるのがひとつの慣わしであり、自然な行動でした。慣習と衝動のどちらが先だったかは判然としない。 はたから見れば、判断能力をなくした入水自殺じみてうつるその行動も、案外、現実的なのです。海へ浸かることで身体の苦痛が安らぎ、死に至ることなどなく平然と浜へ自分の足で戻ってくる場合のほうが多い。 七が月夜に招かれるように外へ出たのは、潮と呼応していたように見えた。
我々の故郷はここに無い。 死の先に、帰る場所があるように感じている。 我々はそこからやってきた。 そこにしか我々の帰る場所はない、とも。 …この由来なき感覚を、閉鎖的に、つい近年まで血族とだけ共有してきた。 死の先に 故郷がある。 幼い疾彦に私が零した戯言は、そんなような根深い感傷に端を発していたのです。
私の息子…疾彦の実父は、疾彦が産まれる直前になって、抑制の効かない状態に陥りました。意気揚々とここから離れた新天地に移るのだと言いはり、親族の反対を押しきって実行した。 私は それに賭けた。 だから私は息子を見張るような建前を身内には示しつつ、息子の移り住んだ土地に私も一度は移った。 奇矯を装いつつ、息子も薄々気付いていたのでしょう。親族だけで寄り集まって閉鎖的に同じ場所に留まり続ける弊害と欺瞞に。 疾彦はそこから解き放たれて生まれ育った。…虚彦も。 行く末を見届けたかった。 七は大学入学までここで生まれ育ちました。ここから七を連れ去ったのは疾彦です。 その疾彦が、生家に火を放ち父母もろとも焼き滅ぼした。その動機を疾彦は呟くように私にこう一言語った、「そろそろ帰してやらねえと」…と。
それらすべてが間違っていたのかどうかは …………
.
0 notes