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#レコードのある暮らし
sexy-sexy-boy · 2 years
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takechas · 1 year
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@jantzen_official JANTZEN COLUMN vol.15 気分を変える、ON/OFFプレイリスト ライフスタイルBGMSelected by 多屋 澄礼 ⁡公開されました🙌 ⁡ ジャンセン(JANTZEN)の理念や考えに基づき、そこから派生したライフスタイルに纏わる“ヒト・モノ・コト”にフォーカスしていく連載企画「JANTZEN COLUMN」。 ⁡ ⁡ vol.15では、好評を得たvol.4のプレイリスト企画をブラッシュアップ。暮らしの中で聞きたい“ライフスタイルBGM”として、今回もディスクユニオンのプロジェクト「Girlside(ガールサイド)」のディレクターを務める、 ⁡ ⁡ 「気分を上げる、ONモードなプレイリスト」と「ブレイクタイムに、OFFモードなプレイリスト」の2つのプレイリストを提案します。 自宅で仕事をするときの気分の切り替えや、オフィスで気分がのらないとき、通勤・通学中のお供にどうぞ🎧 詳しくは、ジャンセンのWEBサイトをチェック! https://www.jantzen.jp/ ⁡ #多屋澄礼 #girlside#jantzen #ジャンセン #column #コラム #blog #ブログ #連載 #record #レコード #vinyl #vinylrecords #dig #diggin #レコードのある生活 #レコードのある暮らし ##vinil #vinyl #lp #vinylcollection #record #vinilo #vinile #collection #vinylrecord #recordcollection #アナログレコード #recordshop #lifestylebgm #playlist https://www.instagram.com/p/CnwMkIShvJh/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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catdoll007 · 1 year
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昭和の生活面📺️💇📖🖋️
昭和らしいミシンや、こたつの掛け布団☺️
懐かしいオカマドライヤー💕
時代は進化しているが
時が止まったような感覚になれる場所🕰️
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kennak · 2 months
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宮永氏は少女雑誌「りぼん」元編集者で、「みーやん」の愛称で親しまれていた。「ちびまる子ちゃん」で知られるさくらももこさん(享年53)の元夫で、「セクシー田中さん」問題を受け、過去に放送されたさくらさんの自伝的ドラマについて思いを馳せた。  同作について、宮永氏は「さくらももこ自ら脚本を書き下ろし、キャスティング案も提出し、祖父役をいかりや長介にして最後に『全員集合!』と仕切らせたり画期的な内容にした」というが、「なのに脚本もキャスティングも一切無視した酷い出来ドラマが『完成版』としてビデオで突然届いたのが放送数日前」と告白。「先生には叱られるかもしれませんが」と一筆添えられているだけだったという。  「こちらはウブで“NHKが大々的に正月特番として放送するドラマを今さら差し止められない”と思い ただ諦め“誰も観ないでほしい”と願うしかなかった」と思いを吐露。「90年暮れは『おどるポンポコリン』がレコード大賞受賞~紅白歌合戦出場、明けた正月特番でNHKとしては異例の民放の人気アニメに便乗したドラマスペシャルとして新聞やTV雑誌でも鳴り物入りで大きく報じていたため当然多くの人が観た」と振り返った。  「現実のさくらの歩みをドラマ化というコンセプトなのに、現実と異なり、担当編集者はさくらの前で放屁ばかりする意味不明の描かれ方で」と、自身の描写も不明だったといい、物語終盤では、「ちびまる子ちゃん一家を描くドラマには最もそぐわない」ような、史実ではない“下世話なオチ”が採用されていたと指摘した。  「こんな仕打ちを受けた当事者・原作者は他にも数知れずだが、制作サイドは“そういうもん”となし崩しで押し切ってきた」とこれまでの歩みを回顧。その上で、「だから今回の『セクシー田中さん』問題��(悲しすぎるが)抗議の死によって、版元窓口も含め“当事者の声を尊重すべき”という当り前の事にようやく気づき始めた事件である」と見解を述べた。
さくらももこさん元夫・宮永正隆氏 「セクシー田中さん」問題受け過去トラブル告白「当事者の声、尊重を」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
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トム・ヴァーレインのブックセールにて
アレックス・アブラモビッチ
昨年の夏、ブルックリンでこんなミームが飛び交った: トム・ヴァーレインのブックセールの会場でキスしたらどうなる? バンド「テレヴィジョン」を結成し、そのフロントマンを務めたヴァーレインは、2023年1月28日に死去した。彼は長年にわたり、アート、音響学、占星術、UFOなど、さまざまなテーマに関する5万冊、20トン以上の本を入手していた。ブルックリンの隣接するガレージで8月に2日間にわたって行われたこれらの本の販売会は、大変な人気だった。アヴァンギャルドポップ・ミュージシャンのアート・リンゼイが立ち寄った。トニー・アウスラーは短いビデオを撮り、インスタグラムに投稿した。旧友たち(中には数十年ぶりに太陽の下に出てきたかのような者もいた)が、長い行列の中にお互いを見つけた。
ヴァーレインは膨大なコレクションをいくつかの倉庫に分けていた。彼が暮らすチェルシーの1ベッドルームから歩いてすぐの場所に1つ、川向こうのゴワナス運河に近いレッドフックに4つ。ヴァーレインはウーバーを使わなかった。ブルックリンの方の倉庫に行くには、おんぼろの食料品カートを持ってF系統の地下鉄に乗り、街でいちばん標高の高い地下鉄駅であるスミス・アンド・ナインストリート駅まで行き、あとは徒歩で移動した。人ごみの中で、ヴァーレインは目立った。背が高く、痩せていて、きれいな姿をしていた。(「トム・ヴァーレインの首はロック界で最も美しい」とパティ・スミスは1974年に書いている。「本物の白鳥みたい」)。彼は一度もタバコをやめず、フィルム・ノワールの登場人物のようなカーコートを着ていた。しかしそんな彼がカートを押して階段やエスカレーターをガタガタと降り、ブルックリン・クイーンズ・エクスプレスウェイの下をくぐり、7車線の道路を横切り、レッドフックに向かっていた。本をどこかに運ばねばならなかったのだろう。
ヴァーレインはストランド書店の常連で、かつて出荷部門で働いていたこともあった。店の前の1ドル均一のカートのまえにいるところを見かけることもあった。ツアー中にはサウンドチェックから開演までの時間を利用して地元の書店を訪れた。ブルックリンでは、倉庫にあまりにぎっしりと荷物を詰め込んでいたため、彼の遺品整理を任された友人のパトリック・デリヴァズは、箱を動かすスペースを確保するためだけに別の倉庫を借りなければならなかった。テレヴィジョンの直近のギタリストだったジミー・リップは、1月にアルゼンチンからやってきたが、7ヶ月後にまだニューヨークにいて作業を手伝っていた。ブッシュウィックの書店「ベター・レッド・ザン・デッド」のデイヴ・モースとマティ・ディアンジェロも整理に参加していた。
モースは言う。「ふつう、『5万冊の本がある』と言う電話がかかってきても、行ってると500冊くらいなんだ。今回、僕らは箱を数えた。5万冊よりは少しだけ少なかったかもしれない。ヴァーレインはパッキングがとても上手だったからね。たくさんの詰め物が使ってあった。波形の段ボールを折ったりプチプチを使って、即席で巣のようなものをつくってある。がさつではあったけれどとても几帳面で、ほとんどの本は素晴らしい状態だった。僕らは計算し、自分たちだけでは無理だと悟って頭をかいた。そしてスペースを持っている知り合いのディーラーを考えた。
ディアンジェロはワシントンDCのキャピトル・ヒル・ブックスを思い出した。そこはブックストア・ムーバーズという姉妹会社を持っていて、トラックも調達できた。そのトラックはいま、ブルックリンのガレージの前にあって、デリヴァズがみている。中の本は「文学」、「詩」、「宗教」といった���ーマ別に分類されている。ディアンジェロは、神話や神秘主義、オカルト、超常現象、スピリチュアリティを指す「MOPS」という新しいカテゴリーを作った。イスラム教の旋舞教団、アレイスター・クロウリー、アントン・ラヴェイに関する本が、チャップブック[17世紀ごろからの冊子]や料理本(ヴァーレインがコンロで作ったのはコーヒーだけだったが)、中国に関する本の隣に並んでいた。読書家として、ヴァーレインは心理学や過激な理論に思う存分傾倒した。しかし、何度も立ち返ったテーマがあり、興味がずっと昔にさかのぼるものもあった。ヴァーレインのかつての親友でありバンドメイトでもあったリチャード・ヘルは、2013年に出版された自伝『I Dreamed I Was a Very Clean Tramp』の中で、彼がとても若かった頃のことをこう語っている:
世界は彼にとって理解不能の異様なところと写っており、空飛ぶ円盤のようなものから、極端な陰謀論、不明瞭な宗教的神秘主義まで、あらゆる種類の非合理的な説明に影響を受けやすかった。彼は、これらの信念や疑念が多くの人々にとってクレイジーに映ることを知っていたし、それが彼が人前に出るのを嫌がっていた理由の一つだ。
ブックセールの数日後、私はリップとデリヴァズに会うためにレッドフックの倉庫まで歩いて行った。彼らはアンプ、スピーカー・キャビネット、真空管でいっぱいのユニットを見せてくれた。それもヴァーレインが収集したものだ。「曲のキーがE♭だと、トムは真空管を交換するんだ。ほら、ここに、彼が印をつけていたかがわかるだろう」
販売会場には『The Tube Amp Book(真空管アンプの本)第4版』というカタログが、ギオルギー・リゲティの伝記とブルーノート・レコードの歴史に挟まれてあった。私はいま、それを買わなかったことを後悔している。ヴァーレインはまだ製造が続いているスロバキアから輸送した新しい真空管を持っていた。eBayから入手した、あるいはeBayが存在する前に購入したヴィンテージの真空管も持っていた。何百という真空管を持っていた。
ヴァーレインは高価な機材には手を出さなかった。(ルナ・アンド・ギャラクシー500のディーン・ウェアハムは、ヴァーレインがかろうじて弾ける12弦のエレキを持ってスタジオに現れ、それを見事に弾きこなしたことや、ヨーロッパ・ツアーを全く機材を持たずに行い、各都市で新しいストラトキャスターをレンタルしたことを覚えている)。しかし、彼は自分のトーンにこだわった。ジェフ・ベックのように、アンプに直に接続し、ギターのボリュームとトーンのノブを操作して、他のプレイヤーがエフェクターのペダルでしか作れないようなエフェクトを得ることができた。彼はおそらく、どこまでも繊細だったのだろう。リップは彼らのサウンドチェックの一コマを振り返った。「トムが弾くのをやめて『ブーンという音がする』と言った。俺らには何も聞こえなかったけれどトムは言い張った。俺らはその音の元を探して、やっと会場のうしろのほうで見つけたんだ。その下まで行かなければわからなかったのに、トムはステージから気づいたんだ」
「トムは非常にガード固かった」とヘルは自伝に書いている。「防御が強いんだ。それには良いことも悪いこともある。それは彼にある種の整合性を与えた。流行に流されることはなく、慎重で信頼できた。でもそのせいで一緒に仕事をするのは本当に難しかった」。しかし、6年ほどの間、ヴァーレインとヘルは(ふたりは一緒にデラウェア州の高校を飛び出し、ニューヨークで再会していた)同じアパートに住み、同じダブルのマットレスで眠り、「テレサ・スターン」として一緒に詩を書き、ヘルが主宰する詩誌『ドット』から出版した(彼が最初に出版したのはアンドリュー・ワイリーの詩集だった)。
1972年、ふたりはバンドを結成した。ヴァーレインはサード・アベニューの質屋でベース・ギターを選び、ヘルに基本を教えた。髪を切り、名前を変え(「マイヤーズとミラー」から「ヘルとヴァーレイン」に)、ネオン・ボーイズと名乗り、ビリー・フィッカを加入させた。数ヶ月間、彼らはヴァーレインのアパートでリハーサルをした。アンプやセットを買う金はなかった。ジャズ志向の優秀なドラマーだったフィッカは、代わりに電話帳でドラムを叩いた。ヘルは「Love Comes in Spurts」、「Blank Generation」、「Eat the Light」など数曲を書いた。ヴァーレインは「Bluebirds」、「$16.50」、「Tramp」を書いた。彼らは『ヴィレッジ・ヴォイス』紙に「ナルシストなリズム・ギタリスト募集、最低限の才能があればOK」という広告を掲載し、何人かがオーディションを受けた(ディー・ディー・ラモーンになったダグ・コルヴィンや、ブロンディを結成することになったクリス・スタインもいた)が、誰もフィットしなかった。1973年になっていた。ヘルとヴァーレインは13番街にある小さな店、シネマビリアで働いていた。マネージャーのテリー・オークは、チャイナタウンのロフトに寝泊まりしていたリチャード・ロイドを推薦し、ロイドを2人目のギタリストに迎えて、彼らはバンド名をテレヴィジョンに変えた。
CBGBのオーナーであるヒリー・クリスタルは、彼のクラブでカントリー、ブルーグラス、ブルースのバンドを取り上げようと計画していた。テレヴィジョンをマネージメントするようになったオークは、代わりに自分のバンドを演奏させるよう彼を説得した。徐々にひとつのシーンが形成されていった。テレヴィジョンはリチャード・ウィリアムズとブライアン・イーノとデモを録音した。もしヴァーレインがイーノのサウンドを嫌っていなければ、イーノは彼らのファースト・アルバムをプロデュースしていただろう。ヴァーレインは、イーノがそのテープをイギリスに持ち帰ったと確信していた。ロキシー・ミュージックの次のアルバムのグルーヴの中に、自分のアイデアが入っているのが聴こえたと思っていたのだ。それが事実かどうかは別として、同じ頃、マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドは、とんがった髪、破れたTシャツ、安全ピンといったヘルのルックスや態度をコピーし、セックス・ピストルズにあてがった。ヘルは回想する。「俺らの演奏はまるで反逆のスクラップが転がり落ち、ぶつかり合う音みたいで、同時にそれを遠くから眺めているみたいに美しくて胸が張り裂けそうでもあった。感動させられ、揺さぶられ、目を覚まさせられた」
しかし、テレヴィジョンがファースト・アルバムをレコーディングする頃には、バンドはそのメンバーではなくなっていた。ヴァーレインは、徐々に、そしてその後は徐々にではなく、ヘルとヘルの曲を脇に追いやった。『Marquee Moon』を何年もリハーサルして手を入れ続け、考え続け、それは1977年、ヘルの脱退から2年後に発表された。ヘルの代わりにフレッド・スミスがベースを弾いていた。曲はより慎重に構成され、短編小説のように構成された。ヴァーレインはジョン・コルトレーンとアルバート・アイラーを愛し、彼のレコード・コレクションの大半はESPやインパルスといったレーベルのジャズ・アルバムで占められていた。しかし、コンサートでも、テレヴィジョンがノイジーで自由だった頃、ヴァーレインとロイドが奏でる連動したソロは高度にアレンジされていた。ウィリアムズはそれを「金線細工を施された」と表現した。
彼らの曲は文字通り「文学的」だった。ロックンロールではめったに美徳とされないことだが、ヴァーレインにははまっていた。彼は手がかりや警官、裏切り者、その他ハードボイルドな小物でいっぱいの探偵小説を書き、それを打ち砕いているかのようだった。『Marquee Moon』に収録されている8曲のうち5曲は、夜に起こる物語を歌っている。4曲は過去形と現在形を行き来している。ヴァーレインの描くイメージにははっとさせられる。「素敵な小舟が欲しい/海でできた小舟」、「世界はとても薄かった/俺の骨と皮のあいだで」、「思い出す/雷が雷自身に落ちたのを」。
しかし、パンクの先駆けとなったテレヴィジョン(ヘルが所属していたときのグループ)がアナーキーで、1977年のテレヴィジョンがほとんどプログラムされたようにコントロールされていたとしても、両者を異なるバンドと考えるのはまちがいだし、ヘルとヴァーレインを正反対の人物と見るのもまちがいだ。ヴァーレインの歌声は神経質で切迫していた。彼のアルバムはやはりパフォーマンスであり、素早く録音され、多かれ少なかれライブだった。奇妙で、絶望的で、すばらしかった。1曲目の終わりに「愛する人と未来を引きずり降ろせ」とヴァーレインは10回続けて歌っている。彼とヘルには共通の恍惚感があった。
もちろん彼らは憎み合っていた。「あいつには我慢できない」とヴァーレインは言い、ヘルも手加減しなかった。しかし、『I Dreamed I Was a Very Clean Tramp』のエピローグで、ヘルはほんとうに久しぶりにヴァーレインに会ったときのことをこう語っている:
このあいだ、レストランから家に帰る途中、古本屋の前でトム・ヴァーレインが安売り本の箱を漁っているのを見かけたんだ。俺は彼に近づいて、「空飛ぶ円盤について何かわかったか?」と聞いた。
ヘルはヴァーレインの歯(俺の歯よりもっと悪い」)、顔(「でこぼこで膨張している」)、髪(「白髪まっしぐら」)を描写している。
俺は背を向け、ショックを受けて歩き去った。俺たちはまるで2匹の怪物が打ち明け話をしているようだったが、ショックを受けたのはそのことではなかった。俺が愛を感じたからだ。俺は彼に感謝し、彼を信じ、自分の中で、彼がありえない人間であり、彼を好きになることがありえないことを肯定した。それまでもずっとそうだったのだ。俺はこれまでと同じように彼を近くに感じた。彼のような人間以外に何を信じればいいのだろう? なんてこった、俺は彼と同じなんだだ。俺は彼だ。
ヴァーレインの本は、Better Read than DeadやCapitol Hillのサイトでまだ購入できる。彼のレコード・コレクションは、そのうちグリーンポイントとイースト・ヴィレッジのアカデミー・レコード別館で販売されるだろう。その本やレコードははいまとはちがう時代、いまとはちがう街を思い出させる。書店やレコード店が遅くまで開いていて、CBGBで夜遊びした後でも店を覗くことができて、そこで手に入るものは安かったし、それを保管するのに必要なスペースも安かった。たとえ書店で働いていたとしても、その金でオフセット印刷機を買って自分で詩の版元を始めたり、ソーホーにロフトを見つけて自分のバンドを始めたりできたのだ。
2024.3.4
ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載
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shredderwastesnow · 3 months
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長々と「ゴー���トワールド」考
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私がテリー・ツワイゴフ監督の映画「ゴーストワールド」と出会ったのは、2000年代中盤のことだった。映画館ではなく、ツタヤでDVDを借りて実家のリビングで観た。コロナ禍によってビデオ・DVDレンタル屋としてのツタヤが街から消えた今になって振り返ると、あの日からずいぶん遠くに来てしまったことを実感する。
映画冒頭、アップテンポなジャズが流れ出し、こぶしの利いた男性シンガーの声が重なる。「シャンフェケシャンフゥ」--何語だか分からないが、気分を高揚させる陽気なグルーヴ。しかし、映像はアメリカ郊外の白いマンションで、音楽の古めかしさと不釣り合いな印象を与える。
カメラはマンションの外から窓の中を捉えつつ、右へと移動する。それぞれの窓の向こうにいる住人たちが部屋でくつろいだり食事をしたりといった光景がいくつか展開された後、濃いオレンジの壁紙の部屋が映し出される。部屋の中央で、黒縁眼鏡をかけたぽっちゃりめの女の子が、黒髪のボブを振り乱して踊っている。傍らには昔ながらのレコードプレーヤー。そこから大音量で流れる「シャンフェケシャンフウ」--アメリカにおけるサブカル眼鏡女子の強烈な自己主張は、無機質な郊外の光景へのレジスタンスのようだ。
細かい台詞やキャラクターは忘れてしまっても、このシーンだけは鮮烈に頭に残っている。この映画が何を描こうとしているのか、冒頭を観ただけで分かった。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさ。そんな存在を愛おしむ監督の眼差し。
2時間弱の物語の中では、高校を卒業したものの進路が決まらない主人公イーニドが迷走に迷走を重ねる。そして、彼女が何かを成し遂げるようなラストも用意されていない。
ありがちなティーンエイジャー文化に埋没する無個性なクラスメイトや郊外の退屈な人々を馬鹿にしている割に自分自身もぱっとしないイーニドの姿は痛々しいが、十代の自分にも確かにそんな一面があったことが思い出され、いたたまれない気持ちになる。それでも、映画を見終えた私の心には温かい余韻が残った。監督が最後までイーニドに寄り添い続けていることが伝わってきたから。
2023年下旬、何の気なしに見ていたX(旧twitter)で、ゴーストワールドのリバイバル上映を知った。絶対に行かなければと思った。あの名作と、映画館で出会い直したい。 上映が始まって約1ヶ月後の2024年1月、再開発によって円山町から宮下に移転したBunkamuraル・シネマの座席で、私はイーニドたちと再開することになった。
改めて観てみると、最初に観た時の感動が蘇ったシーンもあれば、初見では気付かなかった要素が見つかったシーンもあり、希有な鑑賞体験になった。 これ以降、個人的に気になった部分を列挙してみる。
自由という試練
物語の序盤で、主人公イーニドと幼馴染みのレベッカは、揃って高校を卒業する。式が終わると、イーニドとレベッカは会場から走り出て、卒業生が被る伝統の角帽を脱ぎ、校舎に中指を突き立てる。二人とも大学には進学せず就職もしないので、これからは受けたくない授業を受ける必要もなく、大人として自分の道を選ぶことができる。スクールカースト上のポジションに惑わされることもない。
しかし、コーヒーのチェーン店で働きながら親元を離れて暮らすためアパートを探し始めるレベッカとは対照的に、イーニドは将来のビジョンを持てないまま高校の補講に通い、髪を派手な色に染めてみたり、映画館のアルバイトを一日でクビになったりしている。ルームシェアをする約束を果たす気があるのかとレベッカに問い詰められれば「自立、自立って馬鹿みたい」と滅茶苦茶な言葉を返して怒らせ、家に帰ってからベッドで泣く。イーニドは自由を満喫するどころか、自由を持て余しているように見えた。
高校生の頃は、学校の教員たちが決めたルールに従い、与えられたタスクをクリアすることが求められていた。経済的に親に頼っている分、親や家族というしがらみもある。大人の介入を避けられない年代にいるうちは、人生の問題を大人のせいにすることもそれなりに妥当だ。
しかし、高校を卒業してしまえば、もう人生の諸問題を安易に大人のせいにできない。複雑な家庭の事情に悩まされていても、「もう働ける年齢なんだから、お金を貯めて家を出ればいいんじゃない?」と言われてしまう。
自分の進路を選び、やるべきことを見極めて着実に実行することは、何をすべきなのか指示してくる人間に「やりたくない!」と反抗することよりもはるかに難しい。与えられた自由を乗りこなすだけの自分を確立できていないイーニドの戸惑いと迷走は、滑稽でありながらも、既視感があってひりひりする。
シスターフッドの曲がり角
この映画には、イーニドとレベッカのシスターフッド物語という側面もある。十代を同じ街で過ごし、お互いの恋愛事情も知り尽くしている二人が、高校卒業という節目を境に少しずつ噛み合わなくなってゆく過程が切ない。二人とも、相手を大切に思う気持ちを失ったわけでは決してない。それでも、環境の変化が二人の違いを鮮明にし、今まで通りではいられなくなる。
イーニドもレベッカも、世界をシニカルに見ている点は共通している。派手に遊んでいたクラスメイトが交通事故で身体障害を負ってから改心し、卒業式のスピーチで命の尊さを語っていたことに対して「人間そんなに簡単に変われるわけない」と陰で批判したり、卒業パーティーでも弾けたりせずぼそぼそ喋っていたりと、どこかひねくれた態度で生きている。世の中が用意する感情のフォーマットに素直に乗っからない低温な二人の間には、確かな仲間意識が見て取れた。
しかし卒業を契機に、二人の関係はぎくしゃくし始める。 イーニドは仮に卒業できたものの、落第した美術の単位を取得するため補講に出なければならない。スムーズに卒業したレベッカはカフェのチェーン店で働き始め、アルバイトではあるが社会に居場所を得る。卒業したばかりの頃はイーニドと一緒にダイナーに行き、新聞の尋ね人欄に出ていた連絡先にいたずら電話をするといった行動にも付き合っていたレベッカだったが、アルバイトも続かずルームシェアの部屋探しにも消極的なイーニドに徐々に愛想を尽かす。イーニドが中年男性シーモアとの関係を隠していたことが、さらに二人の距離を広げてしまう。
イーニドは古いレコードを集めるのが好きで、一癖あるファッションを身に纏い、多少野暮ったい部分はあるにしても自分の世界を持っている。バイト先でも、上司の指示に違和感を覚えれば分かりやすく態度で示す。表面的にはリベラルな国を装いつつ水面下では依然として差別が行われているアメリカ社会に対しても、批判的な眼差しを向けている。
しかし、それを表現した自分のアート作品が炎上した際、イーニドは作品を批判する人々に対して展示の意義を説明せず、展覧会の会場に姿を見せることすらしなかった。どんなに鋭い感性があっても、表現する者としての責任を全うする姿勢のないイーニドは、アーティストにはなれないだろう。黒縁眼鏡の媚びない「おもしれー女」ではあってもカリスマになる素質はなく、かといってマジョリティ的な価値観への転向もできないイーニドの中途半端さは、何とも残念である。
一方レベッカは、シニカルな部分もありつつ、現実と折り合いを付けて生きてゆけるキャラクターだ。店に来たイーニドに客への不満を漏らしながらも、上司に嫌味を言ってクビになったりすることはない。経済的に自立して実家を出るという目標に向かって、地に足の着いた努力ができる。
そして、レベッカは白人で、イーニドより顔が整っている。二人がパーティーに行くと、男性たちはユダヤ系のイーニドに興味を示さず、レベッカにばかり声を掛ける。 どう考えても、社会で上手くやってゆけるのはレベッカの方なのだ。
卒業を契機に、高校という環境の中ではそれほど目立たなかった二人の差が浮き彫りになる。置いて行かれた気持ちになるイーニドと、現実に向き合う意欲が感じられないイーニドに苛立つレベッカ。どちらが悪いわけでもないのに、高校の時と同じ関係ではいられない。絶交するわけではないけれど、何となく離れてゆく。
人生のフェーズに応じて深く関わる人が変わってゆくのはよくあることだし、どうにもならない。それでも、楽しかった長電話が気まずい時間に変わったり、昔だったら隠さなかったことを隠すようになる二人を見ていると、人生のほろ苦い部分を突きつけられるようで、胸が締めつけられる。
シーモア:大人になりきらないという選択肢
冴えない中年男性シーモアは、この映画におけるヒーローでありアンチヒーローだ。平日は会社員だが、休日は音楽・レコード・アンティークオタクとして自分の世界に耽溺し、友達も似たような同性のオタクばかり。せっかくライブハウスで女性が隣に座っても、音楽の蘊蓄を語って引かれる。そのくせ「運命の出会い」への憧れをこじらせている。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさを、これでもかと体現しているキャラクターだ。
イーニドとシーモアの出会いは、イーニドのいたずら電話がきっかけだった。新聞の尋ね人欄を読んでいたイーニドは、バスで少し会話をした緑のワンピースの女性にまた会いたいと呼びかける男性の投書を発見し、この気持ち悪いメッセージの発信者を見てやろうと、緑のワンピースの女性を装って電話をかける。会う約束を取り付け、待ち合わせの場所に友達と共に向かうと、呼び出されたシーモアがやって来る。
待ちぼうけを食らうシーモアを陰で笑いものにするイーニドだったが、別の日に街で偶然見かけたシーモアを尾行して、彼がレコードオタクであることを知り興味を持つようになる。シーモアのマンションで開かれたガレージセールで、イーニドはシーモアが売りに出した中古のレコードを買い、会話を交わし、徐々に距離を縮めてゆく。
シーモアが自宅でレコードオタクの集まりを開いた日、イーニドはシーモアの部屋に入る機会を得、彼のコレクションと生き様に驚嘆する。
恐らくイーニドは、シーモアという存在から、アーティストやクリエーターにはなれなくても自分らしさを手放さずに生きられると学んだ。たとえ恋愛のときめきが去ったとしても、シーモアの残像はイーニドの中に残り、社会と折り合いを付けられない彼女の行く先をささやかに照らすのではないだろうか。
(そして、シーモアの姿が、一応仕事や勉学などで社会と折り合いを付けながらも、家庭を持たず読書や映画鑑賞や執筆に明け暮れる独身中年の自分と重なる。その生き様が誰かの未来を照らしたりすることはあるのだろうか。もちろん作家として誰かの人生に言葉で貢献するのが一番の目標ではあるものの、映画を観た後、最低限シーモアになれたらいいなという気持ちになった。初見の時と感情移入するキャラクターが変わるというのは、なかなか新鮮な体験。)
矛盾を抱えたアメリカ社会への言及
最初に観た時はイーニドや一癖あるキャラクターたちが織り成す人間模様にしか目が行かなかったが、二度目の鑑賞では、画面の端々に映り込むアメリカ社会への皮肉もいくつか拾うことができた。
ライブハウスのシーンに、ブルースに影響を受けたと思われる白人のボーイズバンドが登場する。ヴォーカルは「朝から晩までcotton(綿花)を摘む毎日さ」みたいな歌を熱唱する。確かにブルースにありがちな歌詞だ。しかし、綿花を摘む労働をさせられていたのは主に黒人であり、白人は黒人をこき使う側だったはず。労働者の心の拠り所として作られたブルースという文化を、ブルジョワである白人が無神経に簒奪しているという皮肉な現実が、この短い場面にそっと描かれている。
また、イーニドとレベッカが一緒にパーティーに行くとレベッカばかりが男性に声を掛けられる件には既に触れたが、声を掛けてくる男性はほぼ白人だ。アジア系の男性や黒人男性などがレベッカをナンパすることはない。たまたま二人の住む街が白人の多い地域という設定なのかもしれないが、このようなキャスティングが決まった背景には、制度上の人種差別がなくなっても人種によるヒエラルキーが社会に残っているという監督の認識があるのではないかと感じた。
そして、個人商店がチェーン店に取って代わられ、住宅地が画一的なマンションで占められ、街が少しずつ個性を失ってゆく描写もある。レベッカが働くカフェ(ロゴがスターバックス風)やイーニドがバイトをクビになるシネコン内の飲食店は、無個性なチェーン店そのものだ。モノやサービスが画一的になり、雇用や労働のスタイルも画一的になり、マニュアル通りに動けない人間が排除される世界へのささやかな批判が、様々なシーンの片隅にそっと隠されている。
この映画は、十代の葛藤を単なる自意識の問題として片付けず、矛盾だらけで個性を受け入れない社会にも責任があると言ってくれていた。改めて、監督や制作者たちのティーンエイジャーに対する温かい眼差しを感じた。
ラストシーンをどう解釈するのか
ネタバレになるので詳細は伏せるが、この映画のラストシーンは比喩的で、どう受け止めるのが正解なのか分からない。イーニドの人生に希望の光が差すことはなく、かといって大きな絶望が訪れることもなく、自分を命がけで守ってくれた人の思い出を胸に強く生きることを誓うみたいな展開にもならない。とにかく、分かりやすいメッセージのある終わり方ではないのだ。
(映画館を出た後にエレベーターで乗り合わせた若いカップルも、やはりラストの解釈が難しいという会話をしていた。)
私自身は、このラストを、イーニドが他力本願な自分から卒業することをようやく決意したという意味に捉えている。
これまでのイーニドは、心細くなれば友人のレベッカやジョシュを呼び出し、映画の中盤以降ではシーモアにも絡んでいた。人生に行き詰まれば、誰かを頼って気を紛らわす。偶発的に何かが起こって道が開けないかな、みたいな感覚で生きているような印象だった。 しかし、物語の終盤で、一時はイーニドにとってヒーローだったシーモアが、突然遠のく。レベッカとも既に疎遠になっているイーニド。そして、不思議なラストシーン。イーニドは、私たちに背中を向けている。
イーニドは、自分を導いてくれるヒーローも、どう生きるべきか教えてくれる天使も、どこにもいないということに気付いたのではないだろうか。 人間は最終的には孤独で、自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかない。ラストシーンのイーニドからは、彼女が紆余曲折の果てに辿り着いた人生の真理が滲んでいるように思える。
そして、イーニドの後ろ姿は、スクリーンのこちら側にいる私たちに対しても「自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかないよ」と語りかけている気がする。どう生きるべきか、映画に教えて貰おうなんて思うなよ。自分で行動して、傷ついたり恥をかいたりしながら、自力で見つけるんだ。
以上が私なりの解釈だが、違う見方もあるのかもしれない。他の人の批評も検索してみたい。
おわりに
Bunkamuraル・シネマでの「ゴーストワールド」上映は明日で終わる。しかし、各地の名画座での上映はまだ続くようだ。これからも沢山の人がイーニドたちに出会うことを想像すると、自然と笑いがこみ上げる。
イーニドの冴えない青春は、観た人の心に何をもたらすのか。
これを読んで少しでも気になった方は、是非スクリーンで、ラストシーンまで見届けてください。
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koh-ac · 5 months
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ANOTHER CITY
1980年代イギリスバディミステリ風味創作
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■レイン・スペンサー│Lane Spencer│33歳│男│生年月日:1949-3-7│身長:180cm│出身地:マンチェスター
Profile│ロンドンに住む元事件記者の探偵。異様に記憶力が高く、自信家で舌の回る皮肉屋。一度見聞きしたものは大抵覚えていられるが、偶に記憶が欠ける特質がある。そのせいか記憶と記録に執着している。頭痛持ちで酒癖が悪い。
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■ブルース・テイラー│Blues Tailer│34歳│男│生年月日:1948-9-7│身長:186cm│出身地:ロンドン
Profile│ハイブ所属遊軍記者。役職柄か便利屋のような案件を振られやすく、ハイブに入社する以前は仕事に辟易としていた。温厚で柔和な性質で、他者から信用を得易いという特技がある。レインと連続殺人事件の連名記事を担当したことがあり、レインの退社後は偶にヘンリーとレインの仕事の仲介を任されるが、その度に巻き込まれている。
※Hive record…架空の新聞社
関係者一覧
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■ウォルター・アクロイド│Walter Ackroyd│享年26歳│男│生年:1949│身長:172cm│出身地:レクサム(ウェールズ)
Profile│推理小説作家。初出版は21歳で、単発の推理小説に根強い人気がある。異様に動物に好かれ、ハトに集られているところが高頻度で目撃される。優しく善良だが達観した節がある変わり者。大学時代寮が同室であったレインを連れ出し、探偵の真似事をしていた時期がある。卒業後は故郷の近くであるマンチェスターで執筆活動をしていたが、持病で心臓発作になり他界する。その際執筆途中であった原稿は最後の章を残して未完となったが、知っている者は多くない。
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■ヘンリー・ハウンド│Henry Hound│52歳│男│身長:180cm│出身地:グレイショット
Profile │ハイブ・レコード新聞社社会部部長。愛妻家の未亡人であり、愛犬家でもある。現在は三匹の小型スパニエルと暮らす。狩猟が趣味で休日は狐狩りに興じ、物腰の柔らかい紳士だが見た目に反して闘争心が高い。ブルースやレインを引き抜いて遊軍記者の部署を立ち上げた。
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■ケイ・グッドマン│Kay Goodman│27歳│男│身長:176cm│出身地:ブライトン
Profile│ロンドン警視庁巡査、実直でナイーブだが強靭な精神力を持つ正義漢。正直者故に記者からは情報源扱いされている。射撃訓練では全弾外したが対人格闘では敵う者がいない、握力でリンゴを粉砕する。異常な自己犠牲精神の持ち主とも言われ、警官になることを兄に心配されていた。オスカーと共に兄を殺害した犯人を探している。
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■ジェイ・グッドマン│Jay Goodman│享年27歳│男│身長:185cm│出身地:ブライトン
Profile│ロンドン警視庁巡査部長。漁師の家に生まれる、快活だが遊び人の気があり自己評価はあまり高くない。特技はダーツ。向いているという理由で公認射手を目指して警察官になった。自分とは違い、献身的な正義感で警察官になった弟を心配している。弟の昇進祝いの帰り道、キング・ストリートの外れにある路地裏で何者かに刺殺された。
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■エディ・オスカー│Eddie Oscar
39歳│男│身長:185cm│出身地:セント・アンドリューズ(スコットランド)
Profile│ロンドン警視庁殺人課刑事。穏やかな態度に反して何を考えているか分からないため警察内では冷血漢と呼ばれている。右目が紫外線に弱く、眼帯で隠している。プライドが無いと自称しており、捜査の為に使う手段に頓着がない。記者とは長い付き合いで、互いを情報源としている。
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littlesallywalker · 10 months
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日記
常磐町のバイパスの下で夏のリヴァーブを聴いた。
時計の暮らしは針の基礎から曲がるような暑さだった。
展のお話、お誘いをいただいてそれは12月。たのしみ。
ぼくだけではなく。ちょっといい感じなのですよ。
なのにどうして死にたいのかな。なぜなんだろう。
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友の開業と、別の友の結婚祝い。
壁と話すような合間作業はたのしく、
他、果てしがなく夜になれと思う精螺。
今年はこのまま、あまり日焼けしない年/日々かな。
父母に手紙を書いた。
書いたというよりお返事。
悪い意味ではなくすこし気重にとらえていたので、
なかなか書くことがなくいたのだけど。
写真のことは特に話していないものの、
今回はちらほらって。いつかレコード屋したいetc.とね。
向き合えなかった秒針の束が二の腕を噛んでいる。
ほんのすこし米も食べられるようになった。
今朝は炭酸水が箱で届く、徹夜の朝だった。
古い古い水色の扇風機が年月でくすんだ。
モーター部分が熱い、いやな夢のあとで。
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公開された当初から何回とちょくちょく観るもの。
大半のエフェクターは今年手放したけれど、
これというものだけを大事にしようって、
すこしだけだるいバンドがしたいです。
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erairuka · 11 months
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2023
これ前にもあげた気がする 覚えてないけどいいや
今日暇なのでまた書きます。何か思い出したことあったんだけどなんだったかな。
学生時代は毎日ブログに鬼長いブログを書いてた。本当に鬼長い。夜に読みたくないって言われたことがある。
で、課題で自由に制作していいって言われたから一年近く書き溜めた日記を全部印刷して大学の大階段に見せびらかした。
先生にボロクソ言われたことも、バイトで勉強しろって怒られたことも、めちゃくちゃなセクハラされてバイト辞めたいみたいなことも全部見せた。
それがすごい気持ちよかった。階段埋め尽くしたおかげか先生に褒められて果物くれた。(しかもボロクソ言ってきた先生に)
働き始め、社長にレコードプレーヤーいただいたけどスピーカーとか音響などいまいちわからなくて機材買えなくて聴けてない。ceroのワールドレコードのレコードを持ってる。持ってったら流してくれますか?大停電の夜にが聴けたらもうそれでいいのだけど。
そういえば銭湯とか温泉が割と好きで、一昨年くらいはよく行ってた。前住んでいた町の温泉はだいぶ行った。怖かったのはかまぶろ温泉。
温泉もあったけど「かまぶろ」っていうのが怖かった。火葬場の中のイメージそのまんまで、外から鍵かけられたら蒸されて死ぬしかないみたいな。隅っこで30分くらい遺体になった。普通のお風呂は醤油みたいな色してた。
雪が降っていて、ドライヤーなくて髪の毛凍るかと思うくらい寒かった。
銭湯行くと大体話しかけられる。孫がわたしと同い年で、医者をやっているだとか。わたしなんて無能デザイナーですよなんていえなかった。地方の銭湯大好き といいつつ謎に嫌味とか言われたりしたこともある。まあいいんです。
そういうところ好きと言われると意味わからない文章たくさん投稿したくなる。(?)
今年の七夕は神社の夏祭りに行く。なんかやってるらしい。生まれた土地の七夕は8月って言われてて、七夕祭りが有名だったけど人苦手すぎて一回しか行ったことない。名前忘れたけどばかでかい丸い玉ついた吹き流し(なんだっけあれ)あれの飾り付けを小学生の頃に作らされた。一人暮らしするまで夏祭り行くことってほとんどなかった。地方のジャスコでさえ人酔いして熱出すくらい人無理だったから住んでた町内会の祭りしか行かなかった。ずっと絵ばかり描いてた。
去年は普段素足の見える服なんて着ないのに気分が良かったからセカストで買って、Tシャツに短いズボン履いて花火みた。チョロいから見たいって言われたもの全部やった。見た目がサブカル女のそれだった。でも夏の普段着だぶだぶのTシャツにデニムなのでそれもあんま変わりないかと思った。寒いとそれにアディダスのジャージを着るのでますます、といったところだ。垢抜けの正反対にいつつ、でもたまにわたしみたいになりたいって言ってくれる人ちらほらいて嬉しかった。非垢抜偏屈眼鏡女性、わたし、、、。
わたしは好きな人が少しでも楽になってくれたらそれでいいんだから。いくらでも涙を拭いとるそれとやらになってみたい。よくわからないまま駐車場で話聞いたこと、助けてって言われて抱きつかれたこと むしゃくしゃの矛先になってもその人の幸せを祈り続けた自分が惨めだけど今世はそういう人生かと思うとまあ まあ。今度は人のこと振り回すくらいの強めな女になってみたい。うそ、魚みたいなつかみどころのない人間になりたい。自分の楽な方に行きたい。 会いたい人に会いに行きたい。恐竜画も見に行きたい。 
夏の朝 緑色が綺麗なのでうおー葉っぱ綺麗だなーみたいな散歩をずっとしていたい。いつだっておーなり由子の世界にいたい。6月歯医者という話とはくしょんの時計屋 秋のまばたきが好き。
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わたしも昼から星眺めて花束食べて寝たい
冊子、見てみたいです 楽しみ 楽しみ 楽しみ
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someones-voice-2021 · 11 months
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#05 中沢レイ
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一日の流れ
朝は6時半くらいに起きて朝ご飯とお弁当をつくります。家は私と息子と私の母の3人暮らしです。息子に持病があって、12時間おきに飲まなきゃいけない薬があるので、彼が寝てようが何してようが飲ませてから出かけます。職場は三重県内の市役所で、移住関係の仕事をしています。非常勤で働いてもうすぐ3年になります。
家から市役所までは車で山道を走って40分ぐらいで、道が混んでいたら小一時間ぐらいかかるときもありますね。仕事は17時15分までで、時間になったらすぐ家に帰ります。以前、息子と二人で暮らしていたときは夕飯のお弁当を買って帰っていましたが、今は母親が夕飯の支度をしてくれているので、それをありがたくいただいています。夕食後はだいたいぼーっとスマホを見たりして、気づくと2時間ぐらい経ってたりします。息子はゲームが好きで、夜はゲームのコアタイムだから私とは全然話をしてくれないんですよ。みんなが思い思いに過ごしているのを確認してからお風呂に入って、寝るのは23時ぐらいです。
市役所の仕事のほかにヨガを教える仕事もしていて、レッスンがあるときは、仕事のあと家に一旦帰って晩ごはんを食べて、借りているレッスン場に出かけます。土曜日はバレエ教室で子どもたちにコンテンポラリーダンスを教えています。ダンスというか、キャッキャ言いながら自由に動いたり、何でも試してみようというクラスですね。日曜は基本的に休みですが、移住の仕事は土日にイベントがあることが多いので、結構出張したりもしています。空いている日は子どもと一緒に過ごそうと、何をするわけじゃないけど、家にいるようにしています。
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生い立ち
生まれは岐阜県岐阜市です。母方の祖父母が縫製業を営んでいて、一家総出で服をつくっていました。両親は朝から晩まで、すごくうるさい工業用ミシンを踏んでいて、家には有名なブランドの布が置いてありました。だけど、私が小学校1、2年生の頃に景気が悪くなったのか、父が仕事を辞めて養鶏場に働きに出るようになりました。それまでは家にずっと親がいたけど、突然鍵っ子になって、弟は泣いていましたね。姉である自分はしっかりしなくちゃと思っていた記憶があります。
中学3年のときに親が頑張って家を建てて、引っ越しをしたんですよ。私は転校もしたんだけど、ある日修学旅行から帰ってきたら両親に「離婚するわ」って言われて。私から見たら仲は悪くなかったんだけど、実際はそうじゃなかったみたいです。せっかく建てた新居も出ることになって、その家は私の叔母さんが住むことになりました。弟は父に、私は母についていくことになったんですが、母の家に引っ越すと中学校を変わらなきゃいけないと言われたので、卒業までは叔母さんのもとで居候をしていました。叔母さんは私のことをかわいがってくれて、叔母さんというよりお姉さんという感じでした。
母は家を留守にしがちだったので、高校からは一人暮らしのような感じでした。家の下がうどん屋さんだったので、母が置いていったお金で天丼の出前を頼んだりしていました。高校3年のときに母が再婚して新しい家族ができましたが、私はもう高校生だし「あなたたちとは関わらないので」と言って、学校もあまり行かずに好きなように過ごしていました。高校卒業後は好きな英語を勉強するために、英語の専門学校に入りました。
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仕事のこと
私が専門学校に入った頃は超バブルの時代で、成績が良い子は先生の薦めで在学中から証券会社とか銀行に就職するんですよ。私も1年の終わりには学校に籍を置きながら商社で働きはじめました。同じころ、音楽をやっている友だちから「岐阜放送っていうラジオ局で話す人を探してるんだけど」と言われて。当時はバイリンガルのDJが流行っていて、私が英語を話せると思って声をかけてくれたんですね。実際はそんなに話せないんだけど、洋楽を聴いていたからそれっぽくは話せるんです(笑)。それでラジオ番組のDJをやることになりました。商社は1年勤めて辞めました。
田舎の放送局だけど案外仕事はありました。レコード会社の人がプロモーションで名古屋に来たときに、そんなに回るところがないから岐阜放送まで来てくれるんですよ。「若くてちょっと変わった子がいる」みたいな感じでいろんな人に良くしてもらって、外タレのアーティストに直接インタビューさせてもらったりもしましたね。でも、DJとかタレントになりたいという気持ちはまったくなかったです。どちらかと言うと裏方や制作をやりたくて、19歳ぐらいから台本や企画書を書いたりしていました。自分の番組では選曲も全部自分でやっていたし、そうした仕事が周囲に伝わって愛知や東京でもDJをやるようになりました。
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踊りのこと ラジオと平行してやっていたのが、幼少期から続けていたダンスです。うちの親は全然そういう素養はなかったんですが、私が幼稚園のころに「バレエをやりたい」と言ったみたいで、母が習わせてくれました。ただ、習っていた先生が怪我をしてバレエをやめることになってしまい、次に入ったのがモダンダンスの教室でした。少しして「これはバレエじゃない」って気づいたんですが、それがかえって良かったんです。というのも、その先生は生徒にお手本を見せないんです。「シュッとなってパッよ」というふうに擬音で振り付けをするので、みんなそれぞれの「シュッとなってパッ」をやるんですね。中学高校と、その先生のもとでダンスを続けました。
あるとき、名古屋で開かれたダンスの大きなコンクールに通訳として参加したんですが、そこで出会ったのが(舞踏家の故・)和栗由紀夫さんです。和栗さんに「お前、踊りやってるのか。うちに遊びにこいよ」と言われて、東京に行ったら板橋にあった和栗さんの家に遊びにいくようになりました。ある日、和栗さんの家に行ったら、ベニヤ板を2枚出してきて、「ここに座って」と言われて。言われたとおり座ったら今度は「右手をこう出してみな。左手は上から出して。これが閉じてさ、開くんだよ」とか言われて。「こうですか?」みたいな。それで「今度舞台やるんだけど出ない?」とくるわけです(笑)。
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それで出演したのが、新宿のパークタワーホールでやった和栗さんの『エローラ〜石の夢』という作品です。その後、和栗さんが主宰していた「好善社」に入るとともに、東京に引っ越してきました。好善社の男の人たちは、それまでダンスをやったことがなくて突然踊りを始めているから、発想がとても面白かったんですよ。そこから結局6、7年は東京に住んでいたと思います。
その後、もう踊りはやめようと思うことがあって、カポエィラに打ち込んでブラジルに行ったりもしました。ダンスの世界は、なんだかんだ言って身体を動かすことが得意な人しか入ってこないけど、カポエィラは、趣味でやってますみたいなお姉さんとか、イケイケの男の子とか、格闘技好きのオタクっぽい子とか、いろんな人がいるんです。一般社会では絶対に仲良くならないような人たちが嬉しそうに一緒にやっているのがすごくいいんですよね。でも、ブラジルにいたとき、テレビから流れてきた音楽に合わせて、やめたつもりの踊りをふと踊っていたときがあって、やっぱり踊りはやめられずにいます。
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妊娠・出産
出産したのは38歳のときです。妊娠がわかったときは、当時結婚していた夫とフランスに住んでいました。日本では私がダンスをやっていると言うと、初対面の人にさえ「いつまでそんなことやってるの」と言われたりしましたが、フランスではまったく逆で、みんな興味を持ってくれました。現地の人たちと仲良くなって一緒に作品をつくったり、小劇場で即興の企画をやったりもしましたが、一方で自分の底が知れた感じもあって、妊娠を機に日本に帰ることに決めました。
出産はだいぶ時間がかかって大変でした。それでも元気に生まれて良かったと思っていたんですが、生まれてからがさらに大変だったんです。とにかく夜まったく寝なくて、ベッドに置いたらどれだけ寝ていても起きて泣いて……。子どもってそんなもんなのかなと思ってたけど、自分も寝れないから信じられないくらい痩せてしまって、布団で寝ていても背骨が痛くなってしまうほどでした。夫は仕事に行ったきりほとんど帰ってこなくて、赤ちゃんと二人暮らしみたいな感じです。しかも、夫の希望で都内からもう少し田舎に引っ越すことになって、それまでは遊びに来てくれた人たちも来れなくなって、本当に孤独になってしまいました。
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それでも息子を地元の幼稚園に入れてなんとか生活していたんですが、2011年の1月末に、幼稚園に息子を迎えにいったら、先生から息子の様子がおかしかったと言われました。確かに、家に帰っても何もしゃべらないし、ご飯も食べないんです。病院に連れていって、インフルエンザの検査をしたりしたけどなんともなくて。食塩水を点滴してもらって、ちょっと良くなったように見えたんですが、次の日にはもっと具合が悪くなってしまって。抱っこしたらびっくりするぐらい重たくて、これはおかしいと思いました。
再度病院に行って尿検査をしたら、測れないぐらいたんぱくが出ていて、大きな病院に行くように言われました。行った先で「これはネフローゼという病気で、治療に長い時間がかかります」と言われて、そのまま入院です。ステロイドを大量投与する治療をはじめたんですが、息子はステロイドを半量に減らしたところで再発してしまい、それから一切ステロイドが効かなくなってしまいました。
これはもう救急車で運ばなければという状態になってしまって、埼玉から東京の世田谷にある成育医療研究センターに救急車で運ばれて入院しました。それが2011年の3月11日です。病院について、しばらくしたらダアーッと揺れて点滴は倒れるわ、壁に亀裂が走るわで大パニックです。しかも原発事故で放射能がどうこう言われていたから、ガラケーで一生懸命情報を調べました。食事も大変で、子どもには病院食が出るけど、自分の食事は出ないからコンビニに行くんだけど食料がないんです。なんとかゲットしたパンひとつで一日過ごすなんてこともありました。
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生きていてほしい
入院して息子の具合は良くなるどころか、同室の子から風邪をもらったのがきっかけで敗血症になってしまいました。ICUに入って人工呼吸器をつけられて、カテーテルを入れられて……まだ小さくて暴れてしまうので、鎮静をかけられて眠らされていました。そんな息子の姿を見たときに、親としてこんなことを言っていいかわからないけど、この子は何ヶ月も苦しんできて、これ以上苦しむなら、楽になって逝ってしまった方がいいのかなとも思いました。
でもあるとき、私が「今日はもう帰るね」と言ったら、小さくイヤイヤしたんです。鎮静をかけられていて目は開かないけど、耳は聞こえていたみたいで。ICUで隣だった女の子も、私からすると寝てるだけに見えるんだけど、その子のお母さんが「この子は嵐が好きなのよ」と言って、嵐の曲をかけると「喜んでる」って嬉しそうにするんですよね。それまで私は、寝たきりの人や重い障がいのある人が生き続けるのってどうなんだろうと正直思っていたんです。
だけど、1ヶ月ぐらい経つと、嬉しそうな感じがするとか、これは嫌なんだなって分かるようになるんです。それで、やっぱり息子には生きててほしいって思うようになりました。なんて言っていいかわからないけど、何もできなくても生きているという事実が目の前にあるだけで、周りの人が安心するというか。息子がイヤイヤする姿を見て「ああ、とにかく頑張るしかないな」って思ったんです。息子の病気をきっかけに、私の考えはすごく変わりました。
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やってみたいこと
治療は長くかかりましたが、幸い息子に合う免疫抑制剤が見つかって、1年くらいかけて普通の暮らしができるぐらいまで回復しました。何かあったときのために、そのまま入院しておくこともできたけど、外に連れていこうと思って思い切って退院させました。その後、息子が4歳になる前に埼玉から三重に移住して、間もなく夫とも離婚しました。 息子は小学校4年生ごろに自閉スペクトラム症の診断を受けて、学校生活も苦労しましたね。小学校1年生からずっと行き渋りで、6年生まで毎日送迎していました。下駄箱でしばらく入れずにいるのですが、なんとか中に入っていくのを確かめてから自宅に戻り、学校からの電話があるといけないので待機していました。中学3年間は完全不登校でしたが、この春から通信制の高校生になりました。
息子が東京で入院していたときは、家と病院が離れていたので、病院の近くにある(ドナルド・)マクドナルド・ハウスという入院患者の家族のための施設で寝泊まりしていました。そこには、地方から出てきて泊まり込みで付き添いをしているお母さんたちがいて、中には子どもが生まれてから10年間そういう暮らしをしている人もいました。みんな自分のことは置き去りで子どもに付き添っているんです。
そういうお母さんたちのために何かできないかと思ったけど、「ダンスしましょう」とは言えないじゃないですか。「ダンスなんてハードルが高いし、そんな気分じゃないわよ」って言われると思うんですよね。でも、みなさんマッサージとかにはお金を払って通っていたので、ヨガだったらやってもらえるかなと思って。これまでも障がい者施設や高齢者施設ではヨガやダンスをやってきましたが、病気の子どもたちに付き添っているお母さんのためのヨガも、いつか実現したいことのひとつです。
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みんなに場をつくりたい
私は踊るのは好きだけど、舞台の真ん中で踊りたいとは案外思っていないんですよ。私が踊りをやるのは「みんなに場をつくりたい」からです。1998年に「オービタルリンク」という即興のイベントをはじめたのも、あらゆるジャンルのパフォーマーが自分の表現を模索しながら、やる側も観る側もジャンルの垣根を超えて出会ってほしいという思いがあったからです。ラジオDJをしていたときも、自分が面白いと思ったら無名の人でもゲストに呼んだりしていましたからね。当時から今にいたるまで、やっていることは変わらないと思います。
今日撮影をしたアトリエ第Q藝術も、大きすぎない規模だからこそ「個人」が見えて好きなんです。劇場が大きくなればなるほど、後ろの方まで届くように表現しようと思って動きが大きくなり、身体の動きだけを見せることになることが多いと思うんです。そうすると結局、どれも同じような作品になってしまうというか。私は、踊りの完成度はどうでもよくて、その人が踊りを通して「本当のこと」を言ってるかどうかを知りたいんです。そういうことが見えるのは、このぐらいの規模の劇場かなと思います。チーフディレクターの早川誠司さんには以前からお世話になっているし、舞踏や演劇関係の友だちもよくここで公演をしているので、私のルーツのような場所でもありますね。
人生って、「あのときあそこに行ってなかったらあの人に出会ってない」とか、そんなことばかりじゃないですか。でも本当に好きなことを続けていたら、絶対にまた元のところに戻ってくるし、ずっと会っていなかった人ともまた会えるんですよね。もっと別の仕事をする機会も、別の人と付き合う機会もあったろうけど、そのときの自分がそれをやりたくて選んだんだしなって。自分は、いつも「こういうことを考えている人がいるなら、こういう場所をつくったらいいんじゃないかな」と思って、場所をつくって人と人をつなげてきたんですよね。さらに、自分の場合はそこに「踊り」がありました。そうしてここまでやってきて、今の自分があると思います。
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(2023年3月26日収録) 取材協力=アトリエ第Q藝術
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sexy-sexy-boy · 2 years
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Happy Birthday to Martin L Gore 💋 ( b. July 23 , 1961 ) #depechemode #martingore #birthday #誕生日祝い #records #vinyl #vinylgram #vinylcollection #vinylpassion #vinyldigger #vinylhunter #vinylcommunity #vinyladdict #vinyljunkie #レコード #レコードのある生活 #レコード収集 #レコードのある暮らし #レコード好きな人と繋がりたい https://www.instagram.com/p/CgWkZpiPYQY/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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takechas · 1 year
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⁡ ╭━━━━━━━━━━━━━━━╮ ⁡  💁 《 WEB 更新致しました! 》 ⁡ ╰━━v━━━━━━━━━━━━╯ ⁡ ⁡ (´-`).。oO(ビートルズ、付属品完備ELO、クイーンなと帯付国内盤などを UP 致しました。) ⁡ ⁡ お時間ある時にぜひご覧下さい。 よろしくどーぞー! ⁡ ⁡ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ オーダーは🔻🔻 http://takechas.com ⁡ 👉画像タップでweb商品ページに飛べます。 👉新入荷順はこちら https://x.gd/1pbbl ⁡ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ⁡ …………………………………………………………… 🔻札幌市のセレクトレコード/CDショップ ◉ 7500yen以上のオーダーで全国送料無料 ◉オーダーは上記プロフィール欄URLなどから ◉web未掲載商品含めSNS掲載商品は通販🆗 ◉プロフィール欄の下にサイトのリンク ◉twitterにもオススメYouTubeを貼り付け ◉レコード/CD/BOOKなど日々買取中! …………………………………………………………… ⁡ ━━━━━━━━ ⁡ #takechasrecords #タケチャスレコーズ #records #newarrivals #vinylforsale #vinylrecords #shippingworldwide #sapporo #hokkaido #recordshop #recordstore #records #vinyl #レコード #レコードのある生活 #レコードのある暮らし #オンラインショップで販売中 #ネットショップで販売中 #好きな音楽 #Pigbag #HaircutOneHundred #ELO #queen #TheBeatles #japaneseobi #80srock ⁡ ━━━━━━━ (レコード / CD 出張買取・宅配買取 Takechas Records / タケチャス・レコーズ@札幌) https://www.instagram.com/p/CqKIOBEv1Pu/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yui-on · 1 year
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閑話休題 伍
「YoshimiO & U-zhaan
LIVE IN POLARIS Release Commemorative」
at 結音茶舗
【日時】5/3 2023 (水曜日・祝) open 18:00
【会場】結音茶舗
    大阪府大阪市中央区谷町六丁目14-2 路地奥
【料金】限定20名先着(※要予約) 4,000円+ワンオーダー
【予約】E-mail : mailto:[email protected]
    Tel : (06)4305-4926 (12:00-24:00・月曜休)
出演
LIVE
YoshimiO x U-zhaan
Hideo Nakasako
にしもとひろこ
DJ
あらゆるゔぇーだ
Sound: Kabamix
YoshimiO & U-zhaan
LIVE IN POLARIS
シタール奏者のヨシダダイキチが結成した実験的インド音楽ユニット「SAICOBABA」のメンバーとして1999年から数多く共演をしてきたYoshimiOとU-zhaanが、出会って23年目にして突発的に初開催したデュオ即興ライブのフル音源をBandcamp限定でリリースする。マスタリングはkabamix。
YoshimiO and U-zhaan, who have performed together numerous times since 1999
as members of SAICOBABA, an experimental Indian music unit formed by sitar player Yoshida Daikichi, will release the full soundtrack of their first duo improvisation live performance, which was held suddenly and unexpectedly 23 years after they met, exclusively on Bandcamp The mastering was done by kabamix.
YoshimiO/
Vocal, Piano, Bamboo Flute, Triangle, Synthesizer
 
U-zhaan/
Tabla, Kanjira, Alto Horn
Mastered by kabamix.
Artwork by UTA
YoshimO・ヨシミオ(a.k.a.Yoshimi P-We)
1986年BOREDOMSのEYE等とUFO OR DIEを結成。
初めてドラムを叩き、初動でシャウトするステージから、
1988年より30年以上世界で最も先鋭的なエクスペリメンタル・ハードコアバンド・
BOREDOMSのコアメンバーとして活動。
1993年Kim Gordon,Jullia CafritzとのFREE KITTENのドラマーとして加入後、
1995年より自身のプロデュースバンドOOIOOを結成し、ギターヴォーカル&トランペットでの表現は現在進行形である。
1999年からシタール奏者のヨシダダイキチが結成した実験的インド音楽ユニット「SAICOBABA」を経て、
2015年には古代ヌメロロジカルな手法をもとに演奏されるラーガコアバンド
[SAICOBAB]をヨシダダイキチ、HAMA(滞空時間)等と結成し
Vocalist・YoshimiOとしての活動を始める。
2020年よりYoshimiOのすべてのインプットは和泉希洋志からアウトプットされる
YoshimiOizumikiYoshiduOでピアノを奏で発声。
複数のパーマネントな音楽活動はもちろん、世界中を舞台にした数え切れないセッション・ワークやレコーディング、プロジェクトへの参加、  映画のサウンドトラックをはじめとするソロ=YoshimiO名義での音源制作、他ミュージシャンへの楽曲提供、 CM音楽制作、さらには、自身のブランドemeraldthirteenでの服飾デザインまでをもこなす、正にポリフォニックな多層型アーティスト。
音楽制作、延いてはその根幹となる器楽演奏や発声の方法までもが完全にオリジナルなメソッドで
貫かれており、楽器や音そのものから放たれるバイブレーションと素直に対峙することから始まる
身体的反応を第一義としたプリミティブな表現を核に、同時代性を伴う鮮烈な色彩感覚をちりばめた、独自のエートスを獲得している。 
U-zhaan・ユザーン
オニンド・チャタルジー、ザキール・フセインの両氏からインドの打楽器「タブラ」を師事。2000年よりASA-CHANG&巡礼に加入し、『花』『影の無いヒト』など4枚のアルバムを発表。2010年に同ユニットを脱退後、U-zhaan × rei harakamiとして「川越ランデヴー」「ミスターモーニングナイト」等を自らのサイトから配信リリース。2014年にはゲストに坂本龍一、Cornelius、ハナレグミ等を迎えたソロ名義のアルバム『Tabla Rock Mountain』を発表した。2021年にU-zhaan×環ROY×鎮座DOPENESSによるアルバム『たのしみ』、2022年に蓮沼執太との共作アルバム『Good News』をリリースしている。
Hideo Nakasako
関西を拠点にAmbient〜Dub〜Technoに影響を受けた電子音楽を制作するプロデューサー。現在は自身で録音したフィールドレコーディングやシンセサイザーで作ったテクスチャーをレイヤーしたAmbient Musicに傾倒している。
Blue Arts Music,shrine.jp,Muzan Editionsなど国内レーベル中心にリリースを重ね、自身のBandcampにて精力的に作品をリリースし続けている。2023年2月Muzan Editionsより「Collected Sound Fragments」をリリースする。
2017年よりクラブの音響、環境でアンビエントミュージックを楽しむパーティーDon't Danceを主宰する。
https://hideonakasako.bandcamp.com
にしもとひろこ
散らばる光と戯れるように、独特な声色でうたを紡ぐ。
アコースティックデュオ「たゆたう」、女性5人バンド「Colloid」などで活動するほか、主に声のみで物語を奏でるソロパフォーマンスやボーカル・コーラスサポートも行う。
2014年 劇団sunday『友達』、2016年 423アートプロジェクト『とちのこゑ』、 2017年 瀬戸内サーカスファクトリー主催『サカイデマングローブ』、2018年 『大阪府障がい者舞台芸術オープンカレッジ2018「うみのうたごえ」』、BRDG vol.5『Whole』、2020年BRDG vol.6『ふれる~ハプロス』などで楽曲提供、劇中での生演奏に参加。
日々の暮らしの中、��ったり、描いたり、作ったり、多岐にわたるアーティスト活動をめぐりながら独自の世界観を表現する。
あらゆるゔぇーだ ARAYURUVEDA
コロナ禍において自宅をインドに近づけるために、インドのレコードを聴きながらカレーをつくる活動をはじめる。インドの音楽をより楽しむために、近隣諸国のレコードも買うようになり、戸惑う。BGMにより空間が唐突にアジア、アラブ化するのを楽しんでいる。
結音茶舗
542-0012
大阪府大阪市中央区谷町6丁目14-2 路地奥 結音茶舗
電話 06 4305 4926
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営業時間
お昼 12:00 - 深夜24:00
ランチタイム 12:00 - 15:00
喫茶 15:00 - 17:00
日本茶バー 19:00 - last
定休日毎月曜 第三火曜
イベント・催しによって変動あり
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kennak · 5 months
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旧ジャニーズ事務所(現SMILE―UP.=スマイルアップ)の創設者、故ジャニー喜多川氏による性加害問題を巡り、俳優の服部吉次さん(79)が毎日新聞の取材に応じ、被害を訴えた。服部さんは、「東京ブギウギ」や「青い山脈」などのヒット曲を生み、国民栄誉賞を受賞した作曲家、故良一氏の次男。約70年前の幼少期に繰り返し被害に遭ったといい、旧ジャニーズの創業前から「子どもを餌食にしていたと伝えたかった」と語った。 ――服部家とジャニー氏の関係を教えてください。  ◆もともとは私の父が米国に公演に行った時に彼の父、諦道(たいどう)さんらの世話になったと聞いています。最初の公演場所はホノルルで、それから西海岸のロサンゼルスやサンフランシスコなどでした。諦道さんという人は非常にやり手で、お坊さんにもかかわらず興行をしていたようです。  彼が東京都内の自宅に来るようになったのは1950年ごろ、私が小学校1年ぐらいの時です。両親ときょうだい4人、お手伝いさんや書生さんらと大きな家に暮らしていました。父はどのレコード会社にも顔が利くという、いわば大御所の作曲家でした。お客さんが非常に多く、あらゆる打ち合わせが我が家で行われ、芸能界の中心のようでした。喜劇俳優の古川ロッパや榎本健一、芸人のトニー谷ら多くの芸能人が来ていました。  ――ジャニー氏はどんな人でしたか?  ◆子どもだった私たちと一緒に遊んでくれる優しくて面白いお兄さんでした。米兵の帽子をかぶり、カーキ色の軍服みたいな服を着ていた時もありました。朝鮮戦争へ派遣され、日本に帰国した後も来ていたと思います。将来を見越して芸能界にコネを作っておくという狙いがあり、出入りしていたのでしょう。  本当はいけないんだろうけれど、軍属のような立場で自由が利くから、チョコレートとかキャンディーとか、いろんな物を買ってきてくれました。時には冷蔵庫や、洗濯機も彼を経由して買っていたようです。お金は払っていたんだろうけど、日本にはないし、あっても値段は全然違いましたからね。13歳年上でしたがトランプなどで一緒に遊び、父は彼を「ヒー坊」と呼んでいました。  ――どのような被害に遭ったのですか?  ◆彼は週末、しょっちゅう泊まりに来ていました。泊まるのは私の部屋と決まっている感じでした。そうした時、布団に入って、下半身をまさぐってきました。  初めて被害に遭った翌日、彼が帰ってから、五つ上の姉にこういうことがあったと半ば相談するような形で話したら、途中で「やめてそういう話は。気持ち悪い」と言われ、誰にも話さなくなりました。彼は口止めするようなことはなく、次の日は全く触れずいつも通りにふるまっていました。姉だけが知っていたけれどもほかのきょうだいにも話さなかったでしょう。  子どもでしたから世の中のことは何もわからないし、されていることの社会的な意味は、全くわからなかった。被害はエスカレートし、口腔(こうくう)性交や肛門性交も強要されました。2年半ぐらいの間でおそらく100回ぐらいになると思います。家に来なくなったのは、彼が事務所をつくるとかで忙しくなったからでしょう。  ――7月に記者会見し、被害を訴えた経緯は?  ◆いろんな要素がありますが、一番大きな影響を受けたのが、当事者が性的被害を訴える世界的な「#MeToo運動」です。米国のエンターテインメント界の女性たちが声を上げました。何度か妻と一緒にフラワーデモ(日本各地で開かれる性暴力への抗議活動)に参加しました。  妻から「あなたも話す?」と聞かれたことがあります。その時は勇気が持てず、やるとは言えませんでした。それがトラウマになって、だんだんと、沈黙するのは性加害に加担していることと同じで罪だと思うようになりました。  そしてジュニア(ジャニーズJr.)が動いて、やっと自分も話す時が来たと考えました。芸能界の中だけでなく、それ以前から子どもを餌食にしていたことを伝えたかったのです。被害から約70年たって自分はようやく性被害の話ができました。少年時代の負の部分を清算でき少しほっとしました。
旧ジャニーズ創業前から「子どもを餌食に」 服部吉次さんが被害証言 | 毎日新聞
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nakagawanotumbler · 1 year
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3月3日、7インチのレコ発がある。
2月は他の月よりも短いため、もう来週の金曜日になってしまった。
今までそれなりにレコ発ライブというものをやってきたけど、今回のレコ発はなんだか違う。
それはきっと2マンのお相手が曽我部恵一さんだからだと思う。
曽我部さんとはじめてお会いして言葉を交わしたのはもう4年くらい前になる。東高円寺に曽我部さんの出演するライブを見に行った時。
東高円寺U.F.O.CLUBの緑色の階段を降りたところで、初めまして、中川昌利といいます、みたいなことを言って写真を撮ってもらった。3枚ほど写真を撮った。緑色のミーハー心丸出しの中川昌利と緑色のやさしい笑顔の曽我部さんがそこには写っていて、大事にiCloudに入れた。
階段を上がり、車にライブで演奏していたRhodesを積んでいるところを改めて声をかけてデモCDを渡した。
その時のライブの感想を言ったのだが、その日見た曽我部さんの演奏はどこからどう見てもプロのそれで、あんなに近い距離で見ていたのに、ものすっごく遠くの方で音楽をしているように見えた。
あとどれくらい僕が音楽を続けたらこういう演奏が出来るのか分からず困惑した。一体どうやったらこういう演奏になるのか、そんなことを聞いた。うーん、と曽我部さんは言って、「まあ一生懸命やってるだけなんだよね」って、当たり前のことを当たり前に言って、「CDありがとう」と言って車に乗り込んでいった。
そうか曽我部さんも一生懸命やっているのか曽我部さんが一生懸命やっている?いやそりゃそうか一生懸命やっていないわけがなかった曽我部さんにまでなっても一生懸命やるのかやばいな音楽って本当に大変なんだなと愕然とした。
はて、顧みて自分はどうだろうかとそこからは既定のルートを辿り、視界に入る景色の中で一番遠いところを見ていたら知人に声をかけられ高円寺で寂しい打ち上げをした。
それからは年に一回くらいの割合で僕が曽我部さんのライブに遊びに行って疲れている曽我部さんに半ば強引に、作ったCDを渡してソワソワしながら帰るということを繰り返した。
そして昨年の夏、僕は「天使達、」というEPをリリースした。そこで曽我部さんとSNS上ではあるがメッセージを言葉を交わした。
ナイトモードの真っ暗なメッセージ欄、「林檎水」という曲を聴いたと、その感想も書かれており、並べられた言葉はとても光栄でキラキラして整列していた。「林檎水」という曲、自分の中でそこまでお気に入りでもなかった曲。その曲がなんだかオーラを持ち始めてちょっとすごいじゃんお前、よかったなお前、と小突きたくなった。
EPリリース後、程なくして以前書いたようにJET SETから7インチシングルとしてリリースする話があり、レコ発をするとなった時に思い浮かぶのはもう、あの人の顔のみだった。
TwitterのDMで、あほのふりして出演をお願いして、そうしたらすぐに快諾してくれた。
そのライブが3月3日、もう来週になってしまった。
曽我部さんの存在が音楽を志す人間にとってどういった存在か、それを僕の口から説明するのは野暮だと思うけど、例えば多大な影響を受けた自覚がないような人間の歌にも当たり前みたいに曽我部さんの足跡を探すことが出来るほど。
僕の歌にももちろん当たり前にコーヒーのこと、喫茶店のこと、若者のこと、天使のこと、林檎のことが出てくる、さも当然みたいに。
影響力ってそういうものだと思う。
音楽を志すとき、その人の人生に必ずいつか登場する人。ご一緒したときにその節ははありがとうございました、あの時助けられた亀です、とお礼を言わなければならない人。
如何にも特別っぽい日だからこそ普通に、僕は当たり前みたいにその日音楽がしたい。ライブも、普通にできなかった何年もの時間を経て普通が奇跡みたいになったいま普通にライブがしたい。で終わって普通に物販に並んでるレコードを買って帰って聞くみたいな普通をしてほしい。もう物事を大袈裟に捉えたりしないから、一喜一憂して延々と続く絶望と希望のシャトルランみたいな日々ももういらないから、僕は普通が欲しい。特別な夜が当たり前みたいにそこら中にある街の、その一員になる。ただの下北沢の一端になって、なにもなかったみたいな顔して朝になる。そんな風にして3月3日を終えたいと、いま思う。
とか言いながらもちゃんと特別な夜になるような準備を今現在もしています。
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ぜひ遊びに来てください。7インチもこの日が先行販売する7インチ、曽我部さんと、とびきりの演奏を仕込んでお待ちしています。
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