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#演劇批評
2gsahoko-intermission · 2 months
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NTL『善き人』感想
静岡シネ・ギャラリーでナショナル・シアター・ライヴが上映されるということで(めでたい!)、まず『善き人』(Good) を見てきた。
C・P・テイラーの同名戯曲をドミニク・クックが演出した本プロダクションは、デイヴィッド・テナントとエリオット・リーヴィー、シャロン・スモールのほぼ三人で進む。ほぼ、というのがポイントで、そのことが効果を発揮していたように思われる。
1933年から1941年ごろのドイツを舞台に、テナント演じる研究者ジョン・ハルダーが平凡な市民からナチスに深く関与するようになる過程が描かれているのだが、話の運びは一筋縄ではいかない。精神分析医でユダヤ人の友人に私生活の愚痴をこぼしたかと思えば、認知症らしき病を患っている母を見舞い、ナチスの台頭を不安がる友人を慰め、メランコリックな妻と会話をし、指導学生と恋に落ち、ナチスの幹部と関わるようになり、と第一幕はかなりあちこち飛ぶ。しかし第二幕に入ると、友人から亡命のための列車のチケット手配を頼まれても断り、妻と別れてユダヤ人から奪った別荘に指導学生だった恋人と暮らし、勤め先の大学で焚書を見つめ、クリスタル・ナハトの現場に親衛隊として居合わせ…と、”Goodであろう”という自意識をよそに迫害に加担していく様子が描かれる。
テナント演じるハルダーは、人生に漠然とした不安を抱え、舵取りができているようなできていないような曖昧な雰囲気を漂わせているのが良かった。「ちょっとピリついているけどまぁ大丈夫」と自他を宥め続け、ハルダー自身が考える「なしたことに対するの責任」と結果が結びついておらず、要は大きな機構の中に取り込まれた人間の姿そのものである。今回のプロダクションでは、「なしたことに対する責任(と当人が考えていること)」を凌駕する帰結のあり方を描くにあたり、ほぼ三人芝居という仕掛けがうまく機能していたように感じられる。
ハルダーを演じ続けるテナントに対して、リーヴィーとスモールは性別や民族の異なる複数のキャラクターを次々に演じ分けていく。ハルダーを取り巻き、さまざまな感情や思考を喚起する他者が二つの顔しか持っていないことにより、ハルダーが強固な正常性バイアスのかかった状態であることが表現されていると思われた。愛も苛立ちも親しみも悲しみも同じ顔。コミュニケーションがうまく取れなくなってしまった母でさえ、介護するハルダーにとっては馴染んだ顔をしている。
しかし結末でアウシュヴィッツを訪れたハルダーの前には、軍人と収容された人びとが現れ、彼らはリーヴィーとスモールとは別の俳優によって演じられる。この時、すでに差別と虐殺がシステムとして機能していることが視覚的に表現され、ショッキングでもあった。
なお、私はイヤーワームが大変元気なタイプで、起きている間は何かしら音楽が鳴り響いていることが多い。『善き人』のハルダーも、たびたび頭の中で流れる音楽について言及しており、自分の身体感覚と近しいキャラクターが描かれているのを見るのは興味深かった。ただし、このイヤーワームも、結末の収容所においては収容された人びとによる演奏へと位相が変わる。この演出も、ほぼ三人芝居から新たな演者の加入が示す衝撃と同様の効果を生んでいたと感じられた。
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ou-dan · 2 months
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以前装画を担当した、北村紗衣さんの書籍『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(もとはwebでの連載)に関するリアルイベントが来月福岡で開催されるようです。書籍の発行元である出版社、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)さんが運営している書店&カフェ、「本のあるところ ajiro」での開催ですね。いつか行きたい。短歌が好きなので書肆侃侃房の本はちょくちょくチェックしていて、店舗行ってみたいなーと。
【本のあるところ ajiro】北村紗衣さん来福トークイベント「『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』ができるまで、そして終わるまで」(3/13)
2019年発行の本なのでもうそんな前か……! というきもち。書店へ行ってたまに見かけたりすると毎度新鮮に「おおー」ってなっています。自分の部屋以外で自分の絵を見るの結構ビビるので。
そういえば、昨年の京都国際舞台芸術祭(KEX)のなかのひとつの企画、インキュベーション キョウト「シアター?ライブラリー?」に行きました。これはロームシアター の中の、普段は劇場として使われている空間に舞台でもあり図書館でもあるという状況を作っているもの。図書館なので本を読んでいいのは当然として、パフォーマンスの打ち合わせをしている人がいたり、タイミングによってはイベントしていたり、というようなことが行われていました。
並ぶ本は色んな方が様々なテーマで選書されていたのですが、その中に『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』もあって、思いもよらぬ場所で出会ったのでした。劇場に行って自分の絵を見るの、以前劇団KIOさんに舞台で使う本の表紙に絵を提供した時以来だよ。毎回劇場と本だな〜と思うと、自分の興味の直線上でありがたいことだな。
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(撮影可でした)
著者の北村さんの作品批評はシャープで、演劇や映画、物語に接するのが趣味の方であれば新しい視点が得られてわくわくする本だと思います。
物語の何を好むかとか何が良さかって人それぞれだし、好みは違っていたとしても、誰かに提示されるものの見方の面白さっていうのは別にあって、作品を読み解くっていうのは面白いよなーとしみじみ思います。
書籍は下記から購入可能です。
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ashi-yuri · 2 months
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Kentucky Route Zero テキストを巡る冒険(前編)
Kentucky Route Zeroの日曜研究として、KRZにおけるプレイヤー論を考えつつ、ゲームであり文芸・美術作品でありメディアアートである本作の側面を断片的に語る試み。あるいは、訳者解説と鑑賞案内のはざま。
まだいろいろ暫定の途中段階だけれど、自分で見返す用のとりあえずのまとめ。
曖昧で捉え難いと言われる本作がなにを為そうとしたのか、アドベンチャーゲームというジャンルにとってどうして特別な作品であるのか、その実験を少しでも言語化できたらいいですね。
1.Player(役者)
プレイヤーはコンウェイ・シャノン等の主要登場人物を、通りすがりの脇役を、骸骨を、犬を、猫を、様々な人物・生き物を演じていく。
Act.2の幕間劇「エンターテイメント」では、直接ゲームに「飲んだくれ」という役名でプレイヤーは役者として参加できる。
なお、エンターテイメントはもともとVRとして独立したゲームとして作成され、実際に役者として参加できるようになっている。脚本も作成され、別途演劇として上演されてもいる。
開発者ニュース
VR版・脚本は公式ホームページからDL可能
図1:Act.1 (マルケス農家) プレイヤーはコンウェイを演じる。
図2:Act.3 (ハードタイムズ蒸留所) プレイヤーは骸骨を演じる
図3:Act.5(町) プレイヤーは猫を演じる
図4:Act.2幕間劇(エンターテイメント)プレイヤーは役者「飲んだくれ」となって劇に参加する
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2.Player(脚本家)
プレイヤーは登場人物の台詞を、時に出番を選択し、こまかく彼らの性格付けと劇の方向性を決定する。
彼はアルコールに溺れていたの���、それとも風景に耽溺していたのか。彼女は皮肉屋か、真面目なワーカホリックだったのか。彼らがなぜこの旅を続けるのか、その目的も。
図5:Act.1(EQUUS石油)プレイヤーはコンウェイの台詞を選択し、彼が何を考える人物か選択する。
図6:Act.5(町)プレイヤーはどの登場人物が、いつ、なにを話すか選択する
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(参照)
「Rock, Paper, Shotgun」 『なにがKentucky Route Zeroのダイアログを魅力的にしているのか?』
KRZを開発当初から追っている英ゲームメディアの記事。脚本のジェイク・エリオット氏のインタビューを挟みながら、選択肢・テキストの提示方法含めその魅力について記載している。
3.Player(監督)
プレイヤーは監督(Director)として、この劇でどの場面を見せるのか、どの順番で幕を演じるか・演じないかを決定することができる。
この劇をいつ演じる(Play)のか、いつやめるのか決めるのは監督の仕事である。
図7:Act.1(事故車)進行に必須ではないこの場面を見るか、見ないかはプレイヤーが決める
図8:メニュー画面(劇・幕間劇の円環)どの順番で何を演じるかはプレイヤーが決める
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(参照)
【ケンタッキー0号線を行く】Kentucky Route Zero: PC Edition(からあげうどん氏による配信)
こちらの配信では第1幕から飛んで第4幕をプレイし、その後第2幕・第3幕をプレイすることで、円環をときに逆流しながら最後まで劇が進む。変則的な進み方でありつつ、この劇は同様に楽しむことが可能となっている。(プレイ・配信ありがとうございました!)
4.Player(観客)
プレイヤーはコントローラーで操作しながら、Kentucky Route Zeroという悲劇をずっと劇の外側から観賞している。
劇の「外側」のキャラクターとして登場するエミリー・ボブ・ベンの3人のキャラクターは、プレイヤーの立ち位置を代弁するキャラクターでもある。彼らは幕間劇Limit & Demonstrationでは鑑賞者として美術館を訪問し、Entertainmentでは観客としてエンターテイメントという演劇をを眺めている。同時に彼らは「外側」の存在として、Act.1-4で劇を盛り上げる歌唱隊を担っている。
コンウェイら登場人物と彼ら3人はも、劇の「内側」の登場人物と劇の「外側」の観客となり表現の位相が異なる。そのため、同じ空間に存在していてもお互いにコミュニケーションを取ることは当初できない。
図9:Act.1幕間劇(Limit& Demonstration)3人は作中登場人物ルーラ・チェンバレンの回顧展「極限と展示」にて美術作品を鑑賞する
図10:Act.2幕間劇(Entertainment)3人は舞台後方観客席から劇中劇「エンターテイメント」を鑑賞する
図11:Act.1(マルケス農場)画面手前で歌唱隊として"You've Got To Walk"を歌う3人
図12:Act.1(EQUUS石油)3人は登場人物コンウェイの存在を認識できない (コンウェイは足を踏み鳴らすが、テーブルの人々は反応しない)
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5.Player(批評家)
プレイヤーを代弁する劇の「外側」のキャラクターでもあるエミリー・ボブ・ベンは、Act.1幕間劇Limit & Demonstrationで美術館に展示された芸術作品について感想を述べ、批評する。Act.2幕間劇Entertainmentでは、観客席からこの幕間劇についての評論が提示される。
本作はプレイヤーが本作を批評することを意識し、その視点を内在化している。プレイヤーはこの劇について当然自由に感想を述べることができ、つまらなければいつでも席を立って構わない。低評価レビューを書くことも。
Act.2幕間劇のメモより
観客の多くが席を立つことを検討する。もし立ち去りたいのなら、そうさせればいい。劇場は刑務所ではない。われわれは観客の痛みを敬う。 脚本家レム・ドゥリトル
図13:Act.1幕間劇(Limit& Demonstration) エミリー・ベン・ボブは劇中登場人物ルーラ・チェンバレンの回顧展に訪れ、作品の感想・批評を述べている。
図14:Act.2 幕間劇(Entertainment)「Entertainment」を評するコメントが表示される。 『時に退屈な「エンターテイメント」』
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(参照)
海外ゲームメディアVideogamer・Josh Wise氏によるKentucky Route Zeroレビュー(英語)
作品評価は高くないものの、マグリットやフロストやルシェ等文学・芸術系の引用を踏まえて読み込んでいるレビュー。末尾に本作の自己批評的側面について言及あり。
私の批評のどれもが、10年間作品に取り組んできた開発者たちにとっては目新しいものではないだろうし、それは自意識過剰なわけでもない。とあるシーン(訳者注:Act.2 幕間劇)で、地元新聞の演劇レビューとして作品について「借金と不誠実さの悪を描いた、焦点が定まっていないとはいえ、引き込まれるところのあるドラマだった」と書いてある文章を読むことがあった。ほんとその通りだよ。
6.Player(ゲームプレイヤー)
そしてもちろんあなたはゲームプレイヤーである。
小説や演劇を志向しながら、同時に本作はゲームであることに強く自覚的である。プログラムで構成されたテキストと音と画像の隙間をマウスでクリックするだけの体験は、選択と冒険というアドベンチャーゲームの原始的な愉しみを再現しながら、同時にその可能性を強く広げるものとなっている。
図15:Act.3 (Equus石油)コンピューターゲームを遊ぶ
図16:Act.3(XANADU)アドベンチャーゲームの始祖”Adventure”を再構成したゲーム「XANADU」を遊ぶ。
1976年に洞窟探検家でもあるクラウザー氏により開発され“Adventure”は別名’Colossal Cave Adventure’と呼ばれる、ケンタッキー州のマンモス洞窟を舞台とするテキストアドベンチャーゲーム。Adventureでは、不思議で抽象的なテキストが示される中、コンピューターにテキストでコマンド入力を行っていくことで洞窟を探検していく。
図17:Act.1(EQUUS石油)ガソリンスタンドの地下でエミリー・ベン・ボブがボードゲームで遊ぶ。
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あなたはコンピューターゲームを遊ぶ。
あなたはアドベンチャーゲームの始祖“Adventure”を古ぼけた記憶で再構成した“Xanadu”をプレイする。
何度目かのダイスを振ってキャラクターを進める。
いにしえから伝わる運命のゲームをプレイする。
プログラムで描写されたKentucky Route Zeroというゲームをプレイする。
何度も。
7.Player(とは)
時に内側から監督として劇を采配し、脚本を書き、役者を演じて劇に主体的に参加する。時に外側から観客として受動的に劇を見つめ、作品を評することで作品に関わる。
プレイヤーが多層的な役割を担うことは他作品でも同様であるが、本作が特異なのは、それを明示的かつ流動的に劇中に取り込んでいることだ。
プレイヤーの役割を代弁し、劇の「外側」のキャラクターであったはずのエミリー・ベン・ボブの3人は、Act.3幕間劇で作中人物ウィルと電話を通じて交信を行ってから、どんどんと劇の内側へと潜っていく。
Act.4幕間劇で彼らは役者を務め、Act.5ではついにフィナーレを飾る。そして、Act.5幕間劇にてエミリーと作中登場人物の会話による短い楽屋オチと本作の寸評を挟み、円環の劇は幕を閉じる。
図18:Act.3幕間劇(エコー川沿いのあちこち)観光客のエミリー・ベン・ボブは、観光案内として電話を介して作中人物ウィルの声を聞く
図19:Act.5幕間劇(雇人の死)他の登場人物とともに、エミリーがこの劇を振り返り、寸評する
図20:Act.4幕間劇(ウン・プエブロ・デ・ナダ)とある日のWEVP-TVを描く劇。エミリー・ベン・ボブは登場人物として出演する
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(補足1)厳密には、美術品の鑑賞や劇の鑑賞、ゲームのプレイも外側とは言わず、その行為自体が作者・作中人物たちとの間接的コミュニケーションといえる。
(補足2)ウィルは作中登場人物でありつつ、劇の外側の観客(プレイヤー)に目を向けるキャラクターとして描かれている。
Act.3幕間劇での観光案内、Act.4エコー川の語り部としてプレイヤーに語り掛ける語り、Act.3幕間劇の内線を通じて現実の電話と人間を使って録音された留守電を聞くシーン、そして、複数回挟まれる観客側をまっすぐ見つめるカットは、劇の外側とのコミュニケーションを象徴しているといえるだろう。
図21:Act.4(マッキーマンモス号)登場人物のなかでウィル(中央の男性)だけがこちらをまっすぐ見つめる
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8.Player(流動的)
KRZにおいて、これらプレイヤーの多層的役割は何のためにあるのだろうか。ただ単にゲームを複雑にし、「アート」らしく思わせぶりにするためだろうか。
少なくとも手間をかけられたこれらの演出には意図があり、KRZにはプレイヤーが多層の役割を担うことで見えてくるものがあると考える。
それがなにかを考えるために、もう少しKRZを作りあげているメディアとテキストを見ていく寄り道をしたいと思う。
図22:Act.1幕間劇(リミット&デモンストレーション)ベンとエミリーが美術館の展示について語る
ベン:きっとなにかの象徴だよ。アーティスト、夕日、馬か。アナグラムか?それとも何かのコード...なのか?
エミリー:それか、単なる思わせぶりとかね。
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9.メディアアート
KRZはゲームであるとともに、様々なメディアを組み合わせて表現活動を行おうとするメディアアートでもある。
本作がメディアアートであることは、Act.1幕間劇「リミット&デモンストレーション」で展示されている最も注力されたインスタレーション『オーバーダブ・ナム・ジュン・パイク・インスタレーション エドワード・パッカードのスタイルで』で端的に意思表示されている。
ナム・ジュン・パイクは、テレビ・ビデオ等のメディアを用いてメディアアートを始めた先駆者であり、本インスタレーションは彼の作品『Random Access』をそのまま引用している。
図23:Act.1幕間劇(リミット&デモンストレーション)展示作品『オーバーダブ・ナム・ジュン・パイク・インスタレーション エドワード・パッカードのスタイルで』
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観客はテープレコーダーから取り外されたサウンドヘッドを使って、壁に貼られたテープを走行させ、場所や速度によって音の並びを常に変化させることができます。このように、音楽の素材にランダムにアクセスすることで、来場者は自分自身の作曲を行うことができるのです。 『Random Access』作品解説より
そして、もうひとりの引用元、エドワード・パッカードが生み出した読者選択型で冒険を進めていく小説形式のテキストアドベンチャーシリーズ「Choose Your Own Adventure」は1979年に刊行が開始された。この作品により彼はインタラクティブ・フィクションの親ともいわれる。
そのシリーズ1巻目の名前は“Cave of Times(時の洞窟)”という。
エドワード・パッカード:ブックリスト(WebArchive)
テキストゲーム研究家のアーロン・A・リード氏による「Cave of Times」解説
これらふたつの引用元を冠する『オーバーダブ・ナム・ジュン・パイク エドワード・パッカードのスタイルで』、この作品名の意味するところを嚙み砕いて言うと「テキストアドベンチャースタイルでメディアアートを始めるよ!」ということだ。
この宣言のとおり、ゲーム・テレビ・電話・コンピュータ・ラジオなど様々なメディアを組み合わせながら、演劇・散文・詩・歌・テキストアドベンチャーなど様々な形式にテキストを自在に変化させるゲームは幕を開ける。
(補足予定)
開発者たちの出身校であるシカゴ美術館付属大学でのメディアアート運動及び活動の引用(Act.4幕間劇等)について。
フィルモートン教授とサンディン画像プロセッサ
Copy It Right
10.テキスト(演劇)
本作を特徴づけるキャラクター名とセリフにより構成された脚本のようなテキストは、話す台詞を選択することで、展開や登場人物の性格付けを微妙に変化させることができる。
同時に、具体の要素をそぎ落として抽象的に表現されるキャラクター造形は、プレイヤーに演技の演出をある程度委ねさせる。
図24:Act.3(冒頭)プレイヤーは主人公コンウェイの台詞を二つのうちからひとつ選択する。キャラクターや背景はポリゴンで描写され、個性や特徴を持ちながらもどこか抽象的に見える
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さらに、KRZに特徴的な静的な画面背景は、いくつかを演劇から借りている。
Act.1マルケス農家における抽象化された家は、近代社会における家族の崩壊を映す米作家アーサー・ミラーによる演劇「セールスマンの死」から借景したもの。これはもちろんここに住むマルケス家の崩壊と重なっている。
Act.3「木」において、呼んでも来ないレッカーを待ちながら意味のほぼない会話を交わす場面は、セリフ回しも含め、20世紀を代表するサミュエル・ベケットによる不条理演劇「ゴドーを待ちながら」を引用している。
図25:Act.1(マルケス農家)
図26:Act.3(木)
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Act.2幕間劇「エンターテイメント」では、直接的に演劇そのものを鑑賞し、同時に出演することになる。この劇は、経済的苦境と近代人の苦悩を描く20世紀中盤のユージーン・オニールの演劇「氷人来たる」を現代風に翻案した学生演劇であり、プレイヤーは観客・役者として劇に参加する。なお、この幕間劇はもともとVRで参加できる仕掛けとなっている。
このようにKRZは、演劇という形式にテキストにおいても演出面においても大きく負っている作品であるが、なにより本作そのものがアメリカを代表する詩人のひとりであるロバート・フロストの詩「雇人の死」を翻案した演劇を目標とすることが、作中登場人物であり舞台監督であるキャリントンにより示唆されている。
演劇に多用される極度に抽象化された象徴的な舞台・台詞まわしは、本作のテキストや美術に大きく影響を与えていると言えるだろう。
図27:Act.2幕間劇(エンターテイメント)酒場で会話するハリーとイヴリン。両名とも、ユージーン・オニール「氷人来たる」に登場するキャラクターを現代風に再解釈したものである。
図28:Act.1(EQUUS石油)キャリントンの台詞「私はこの12年間を人生における最高傑作を作り出すため捧げてきた。ロバート・フロストの詩『雇い人の死』を、壮大かつ実験的な演劇へと翻案することに」
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(参照)
エンターテイメント
VR・脚本
http://kentuckyroutezero.com/the-entertainment/
VR参加の様子 https://www.handeyesociety.com/event/wordplay-fest-pics-and-showcase-links/
続き(途中まで)
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patsatshit · 7 months
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今日は休養日。前々から計画していたジャン・ユスターシュの映画『ママと娼婦』を観にシネマ神戸へ。3時間39分の超大作におトイレ事情が不安なのと忍耐力、睡魔の問題があったけれど、評判通りすごく…意義のある大作で、最後まで目が離せなかった。
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『ママと娼婦』は、仕事もお金もなく冗舌な言葉だけを生きがいにしている青年と母性的な年上の女性、性に奔放な若い看護婦の恋愛模様を描いた作品。女性の性的快楽、中絶や月経、男性のナルシシズム、感情のアンビバレンスなどなど、あらゆる要素が散りばめられている。ほとんどが議論とモノローグで綴られていて、何となくダラダラとした展開で進んでいくのに、3人の間で揺れ動く力関係(性的関係)にどんどん引き込まれていく。煮詰まった男女の修羅場と随所に流れるエレキサウンドやリズム&ブルース、同時録音による生々しい生活音との不協和音がもう…もうなんか…絶望的でたまらない。
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↑「文無し」が口癖のアレクサンドル青年。資本主義社会に参加して企業に勤め生活の糧とする一般的な生活スタイルを毛嫌いしている。いわばカウンターカルチャーに心酔した青二才。等身大の若者を演じるジャン=ピエール・レオーがとにかく男前!長生きしてくれ〜。
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フランス映画でしかもヌーヴェルバーグとか聞くと一見複雑なイメージをもってしまうのだけど、ジャン・ユスターシュの映画は感情表現にリアリティと信憑性があるので、筋書きに悩むことなく物語に没入できる気がする。芸術性を追求しすぎず、政治批判もしない、センチメンタリズムも全くない。一貫してシニカルで挑戦的。その姿勢に惹かれる。シネマ神戸さんのジャン・ユスターシュ特集は今週末まで。ほんとは先週で終わりだったのだけど、劇場の予期せぬトラブルにより上映が1週間延長になり、何とか観ることができた。ありがとうございます、優しさに泣けます。
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今日はずっとKOJI-1200のアルバムを聴いてました!昭和歌謡風でニューウェーブ感もありなグルーヴ感…たまらないです!
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(左)1996年発売『アメリカ大好き!』。同年発売のREMIXバージョンもかっこいい
(右)1998年発売『ディスガスティング』。ジャケのセンスが天才
なぜか…YouTubeのリンク貼れませんでした!私は『ディスガスティング』の「時間よ止まれ」が一番好きです!よろしければ聴いてください!
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kasumime · 1 year
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レディオヘッド聴きながら神保町へ向かって、よしもと漫才劇場でおもしろ荘から注目してたナイチンゲールダンスを観て、その他共演者のネタも含めてひとしきり笑って、ニコニコしながら街を散策して、ブックカフェで北村紗衣のジェンダー&フェミニスト批評を購入して、また少し歩くと交差点の信号待ちでどうしよっかね〜、と聞き覚えのある声がして振り返ったら吉祥寺に住んでいた頃の33歳(当時)のセフレで、横にはお世辞にも顔が良いとは言えない肥えた体型の女がいて、あーこいつに選ばれなくてよかったなと安堵して、適当に入店したファミマで朝昼代わりのシューアイスを買って歩きながら召して、レディオヘッドアルバムリレーはこの時点でOK Computerまで進み、特に用もなかったので最寄の隣駅まで戻ってスタバ(最寄駅にはドトールしかない!)へ入店し新作の抹茶玄米茶〜と悩んだ挙句カロリーを気にして安定のチャイティーラテ、ショートサイズ、無脂肪ミルクをオーダーして、先に買った北村紗衣の著書を読み、レディオヘッドはこの間にIn Rainbowまで完走し、本来はこのままライブを観に行く予定だったけれどあまりに寒く断念して(だけどこのまま帰宅するにはもったいなく)近所のビアバーで一杯だけ引っ掛け、テーブル席はおろか次第にカウンターまで埋まるのを眺め早々に撤収し、適当な缶チューハイをいくつか買って(本当に近所のスーパーは品揃えが悪い!)冷え切った身体と気圧で眠気の募る頭を布団に潜り込ませた。夕飯はウーバーイーツと一昨日だかに買った値引きのポテトサラダ。冬に休日の正解を過ごそうとするのはこれが限界値だと悟った。部門優勝を果たしていたナイチンゲールダンスは後に計4部での総合優勝も勝ち取っていた。ヤスは紙コップ禁止で中野なかるてぃんはモバイルスイカを4個持ちするらしい。
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tamanine · 9 months
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街とその不確かな壁/君たちはどう生きるか/ジブリ・春樹・1984
最初のジブリの記憶は『魔女の宅急便』(1989年)だ。母がカセットテープにダビングした『魔女の宅急便』のサントラを幼稚園の先生に貸していたから、幼稚園の頃に見たのだ。
まだ座席指定の無い映画館に家族で並び、私は映画館の座席で親に渡されたベーコン入りのパンを食べていた。4・5歳の頃の記憶だ。
その夜、私は夢の中で魔女の宅急便をもう一度見た。私は親に、夢でもう一度映画を見たと伝えた。
『おもひでぽろぽろ』(1991年)も映画館で見たが、あまりよく分からなかった。『紅の豚』(1992年)も映画館で見た。帰りにポルコ・ロッソのぬいぐるみを買ってもらい、縫い付けられたプラスチックのサングラスの後ろにビーズで縫い付けられた黒い目があることを確認した。
『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)『耳をすませば』(1995年)までは両親と一緒に見たと思う。
父はアニメに近い業界にいたため、エンドロール内に何人かの知人がいたようだった。アニメーターの試験を一度受けたそうだが、他人の絵を描き続けることは気が進まなかったらしい。
家のブラウン管の大きなテレビの台の中にはテレビ放送を録画したVHSテープが並び、ジジやトトロの絵とタイトルを父が書いていた。テレビ放送用にカットされたラピュタやナウシカを私は見ていて、大人になってから初めて見たシーンがいくつかあった。
“家族で映画を見る”という行事はジブリと共にあった。ジブリ映画の評価は今から見て賛否両論いくらでもあればいいと思うが、批評も何も無い子ども時代に、母がとても好きだった魔女の宅急便や、戦争は嫌いだが戦闘機が好きな父と紅の豚を見られたことは幸福な年代だったのだと思う。
評価が何も確定していない映画をぽんと見て、よく分からなかったり面白かったりする。
親は『おもひでぽろぽろ』を気に入り、子どもにはよく分からない。父からは昔の友だちが熱に浮かされたように「パクさんは本当に凄いんだよ」と言い続けていたと聞かされた。
大人になった私は『ゲド戦記』(2006年)を見て「面白い映画に必要なものが欠けているこの作品を見ることにより今までに見たジブリ映画のありがたみが分かった」とぐったりし、『崖の上のポニョ』(2008年)を新宿バルト9で見て、全然楽しめず、新宿三丁目のフレッシュネスバーガーで「神は死せり!」と叫んでビールを飲んだ。
2020年には『アーヤと魔女』の予告編に驚愕し、『モンスターズ・インク』(初代、2001
年)からずっと寝てたのか!?と罵倒した(見ていない)。
私が持っていたジブリという会社への尊敬は過去のものになり、多彩な才能を抱えていたにもかかわらず明らかにつまらないものばかり作る血縁にしか後任を託せない状況にも嫌悪感を抱いた。
期待値は限りなく低く、『君たちはどう生きるか』を見ようかどうか迷っている、とこぼしたら「見て文句も言えるからじゃあまあ一緒に行く?」という流れになり、見た。
あまりにも期待値が低かったため、文句を言いたくなるような作品ではなかった。私は2023年、もっともっとつまらない映画を何本も劇場で見ている。つまらない映画を劇場で見ると、もう2度と見なくて良いという利点がある。
『君たちはどう生きるか』の序盤、空襲・火災・戦火で街が焼ける場面、画面が歪で、不安で、安定感がなく、私はホッとしていた。綺麗に取り繕う気のない、表現としての画面だった。
複数の場面に対してセルフ・パロディーであるというテキストを読んでいたが、私にはあれらはオブセッションに見えた。小説家でも芸術家でも脚本家でも、何を見ても何度も同じことを書いているな、という作家に私は好感を持っている。少なくとも、いつも結局テーマが同じであることは減点の理由にはならない。
『君たちはどう生きるか』になっても高畑勲の作品に比べればどうにも女性の人格が表面的で、天才はこんなにもご自身の性別をも超えて何もかもわかり物語に落とし込めるのかと感激した『かぐや姫の物語』(2013年)に比べてしまうと胸の打たれかたが違うのだけれども、でも私は取り憑かれたテーマがある作家のことが、いつも好きだ。
スティーブン・スピルバーグは『フェイブルマンズ』(2022年)でもう大人として若い頃の母親を見つめ直せていたように思うが(フェイブルマンズで取り憑かれていたのは別のものだ)、
宮崎駿は小さい頃に一方的に見つめていた母に取り憑かれ、母の内面には踏み込めないまま、少年・子どものまま母を見つめ続け、自分が老年の大人として若い母親を見つめ直す気は無い。
そして、母親の方を少女にして映画の中に登場させる。しかも「産んでよかった」という台詞を創作する。
貴方は大人なのにずっと子どものままで母親に相対したいのですか、と思いはするものの、子どものままの視線で母を見つめ続けたいのなら、それがあのように強烈ならば、それがオブセッションなら全くかまわないことだと思う。
最初に屋敷に出てきた7人のおばあちゃんがあまりにも妖怪じみているので驚いたが、あれは向こうの世界とこっちの世界の境界にいるかた達という理解で置いておいてあげよう。
それにしてもアオサギが全く可愛くもかっこよくも無いことに最後まで驚いていた。頭から流れる血液も、赤いジャムも気持ちが悪い。途中途中、激烈に気色が悪い。世界や生き物は気持ちが悪く、性能の良い飛行機みたいに美しくは無い。カエル、内臓、粘膜、血液、食物もグロテスクだ。嫌悪ではない、全部生々しい。生々しく、激烈だ。その生々しさを必要としたことに胸をうたれた。
塔の中のインコについて、愚かな大衆だとかジブリはもう人が多すぎてしまったんだとか商業主義的な人間の表現だというテキストも読んだのだけど、私はあのインコたちがとても好きだった。
インコたちは自分達で料理をして、野蛮で、楽しそうだった。終盤、緑豊かな場所にワッセワッセと歩いていくインコさんが、「楽園ですかねぇ」「ご先祖さまがいますねぇ」と言ったようなことを言うシーンが面白く、可愛らしく、インコたちの賑やかな生活(時に他者に攻撃的であっても)を想像した。
私は水辺の近くをよく散歩していて、大きな渡り鳥が飛来してまた消えていくのをじっと見つめている。鳥たちがある日増えて、いなくなる。国を越えて飛んで行き、地球のどこかには居続けているのがいつも不思議だ。
映画の中で、鳥やカエルはあのように生々しく、実体をつかんでアニメーションに残すことができるのに、全てを生々しく捉える気が無い対象が残っている。どうしてもそれを残すことが寄す処なら、それはそのままでかまわない。
小説では、村上春樹の『街とその不確かな壁』を読んだ。
私の父は村上春樹と同い年で高校卒業後に東京へ出てきたので、『ノルウェイの森』で書かれている、まだ西新宿が原っぱだった頃を知っている。その話を友人にしたところ、『西新宿が原っぱだったというのは春樹のマジックリアリズムかと思っていた』と言っていた。
私が村上春樹を読み始めたのは及川光博が「僕はダンス・ダンス・ダンスの五反田君を演じられると思うんだけど」と書いていたの読んだのがきっかけだ(曖昧だけれども、1999年くらいか?)。
『風の歌を聴け』は家にあったので、そのまま『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』を読み、その後短編集をあるだけと、『ノルウェイの森』『世界の終わりとハートボイルドワンダーランド���を読み、『ねじまき鳥クロニクル』は途中途中覚えていないが一応読み、『スプートニクの恋人』(1999年)を高校の図書館で読んだがあまり面白くないと感じた。
最近ではイ・チャンドン監督の映画『バーニング』(2018年)が素晴らしかったし、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)も面白かった。
『ドライブ・マイ・カー』の原作(短編集『女のいない男たち』収録)は映画を見た後に読んだが、反吐が出るほどつまらなく、気持ちが悪い短編だった。
イ・チャンドン監督も、濱口竜介監督も、「今見たらその女性の描写、気持ち悪いよ」を意識的に使っていたのだろう。『バーニング』は『蛍・納屋を焼く・その他の短編』時期の初期春樹、『ドライブ・マイ・カー』はタイトルこそドライブ・マイ・カーだけれども、ホテルの前の高槻の佇み方はダンス・ダンス・ダンスの五反田君であろう(港区に住む役者である)。
村上春樹のことは定期的にニュースになるのでその度に考えているのだけど、2023年に、フェミニズムのことをある程度分かった上で過去作を読むのはかなり厳しい気もしている。
次から次にセックスをしているし、主人公はガツガツしていない風なのに何故かモテているし、コール・ガールを呼びまくっている。
『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくるユキは13歳の女の子で、ユキの外見・体型に関する記述はそこまで気持ち悪くはないのだが、『騎士団長殺し』に出てきた未成年の女性に対する描写はとても気持ちが悪かった(はず。売ってしまったので正確ではないのだが、あまりに気持ちが悪くて両書を比較をした)。
いくら今「この人は世界的巨匠」と扱われていても、作品を読んで気持ち悪いと思えばもう読む価値のない作家であるので、まだ読んだことがない人に読むべきとは全く思わない。
けれども、20年前に読んだ村上春樹は面白かったし、『ダンス・ダンス・ダンス』に書かれる母娘の話に私は救われたのだと思う。
最近友人に会い、「村上春樹は読んだことないんだけど、どうなの?」と聞かれたので、「春樹の物語は色々な本で同じモチーフが多い。主人公がいて、どこかへ行って、帰ってくる。戻ってきた世界は同じようでいて少し変わっている。私たちが現実だと思っている世界は世界の一部分に過ぎず、どこかでみみずくんが暴れているかもしれないし、やみくろが狙っているかもしれないし、誰かが井戸の底に落ちたかもしれない。だけど主人公は行って、戻ってくる。どこかで何かが起こっていても、行って戻ってくる。一部の人は行ったっきり、帰ってこられない。」
「この世では 何でも起こりうる 何でも起こりうるんだわ きっと どんな ひどいことも どんな うつくしいことも」は岡崎京子の『pink』(1989年)のモノローグだけれども、何でも起こりうる、現実はこのまま永遠に続きそうだけれども、ある日小さなズレが生じ、この世では何でも起こりうるんだわ、という小説を次々に読みながら大人になったことを、私は愛している。日常を暮らしていると現実の全てに理由があるかのように錯覚してしまうけれども、「何でも起こりうる」世界には、本当はあまり理由がない。何か理由があると錯覚し過ぎてしまうと、公正世界仮説に囚われて、善悪の判断を間違ってしまう。
「主人公が、行って、帰ってくる」形は数えきれないほどの小説・映画の構造なので特徴とも呼べないところだけれども、『君たちはどう生きるか』もそうだし、『ダンス・ダンス・ダンス』も、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』も、昔読んだ『はてしない物語』だって勿論そうだし、『オズの魔法使い』もそうで、『君の名は。』もそうだったような気がする。
『はてしない物語』の書き方はわかりやすい。
「絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。」コレアンダー氏はいった。「いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ。」
『街とその不確かな壁』は春樹の長編も最後かもしれないしな、と思って読み始めたが、半分を超えるまで全然面白くなく、半分を超えてもちょっと面白いけどどう終わるんだろうこれ、の気持ちだけで何とか読み終わった。
17歳の少年のファーストキスの相手の音信が突然途絶えようと、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の世界の終わり側の話をもう一度読まされようと、どうしてそれを45歳までひっぱり続けるのか、読んでいて全然情熱を感じなかった。
イエロー・サブマリンのパーカを着た少年が何のメタファーなのかは勿論書かれていないが、春樹は昔に還りたいんだろうか?何故か「あちらの世界」から物語がこちらに、鳥に運ばれてきたみたいにするすると現れ世界を覗けたあの頃に?活発な兎が息を吹き返すように?
宮崎駿のオブセッションや視線は今も跳ね回っており、村上春樹の滾りは、もう私にはよくわからないものになった。
私は昔『ダンス・ダンス・ダンス』を何ヶ月もずっと読み続け、どのシーンにどんな形の雲がぽつんと浮かんでいるかも記憶していた。欲しいものだけ欲しがればいいし、くだらないものに対してどんなことを友だちと言い合いビールを飲めば良いかを知った。
岡崎京子に「幸福を恐れないこと」を教えてもらったみたいに。
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ignitiongallery · 11 months
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管啓次郎の朗読会『本とともに生きたいとのぞむ人たちへ』
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比較文学研究者で詩人、エッセイストの管啓次郎さんの新刊『本と貝殻』『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社)の刊行を記念して、黄昏時のtwililightの屋上で朗読会を開催します。
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日時:6月24日(土) 開場:18:45 開演:19:15 終演:20:15 料金:1,700円 定員:12名さま 場所:twililight 屋上 (世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分) *雨天の場合は店内で開催します。
本という〈物〉の不思議。 それは、この世のあらゆるものとつながっていること。 ヒトが集合的に経験したすべての記憶・知識・情動が流れこむ一冊一冊の本は、タイムマシン、そして意識の乗り物。 いまこそ本を大切にしよう。 私たちのもとにやって来て、そして去っていった無数の本たちに、心からの「ありがとう」を。
件名を「本とともに生きたいとのぞむ人たちへ」として、お名前(ふりがな)・ご予約人数・当日のご連絡先を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
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プロフィール:
管啓次郎(すが・けいじろう)
1958年生まれ。詩人、比較文学研究者。明治大学理工学部教授(批評理論)。同大学院理工学研究科〈総合芸術系〉教授。1980年代にリオタール『こどもたちに語るポストモダン』、マトゥラーナとバレーラ『知恵の樹』の翻訳を発表(いずれものちに、ちくま学芸文庫)。以後、フランス語・スペイン語・英語からの翻訳者として活動すると同時に『コロンブスの犬』『狼が連れだって走る月』(いずれも河出文庫)などにまとめられる批評的紀行文・エッセーを執筆する。2011年、『斜線の旅』にて読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞。2010年の第一詩集『Agend'Ars』(インスクリプト)以後、8冊の日本語詩集と一冊の英語詩集を刊行。20カ国以上の詩祭や大学で招待朗読をおこなってきた。2021年、多和田葉子ら14名による管啓次郎論を集めた論集『Wild Lines and Poetic Travels』(Lexington Books)が出版された。東日本大震災以後、小説家の古川日出男らと朗読劇『銀河鉄道の夜』を制作し、現在も活動をつづけている。
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mobsprooftheweb · 11 months
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『金持を喰いちぎれ』公開決定
モーターヘッドのレミー、ポーグスのシェインほか大挙映り込み!
金と権力があるからといって、おまえらに権利はない! <社会の底辺が金持ちを喰いちぎる映画> 『金持を喰いちぎれ』 世紀の怪作がデジタルリマスターで、7月14日(金)よりシネマート新宿他にて公開決定!
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1987年の初公開時、あまりの過激さに誰にも理解されず映画史上空前の空振りを記録したとんでもない英国産社会派ブラック・コメディ『金持を喰いちぎれ』がこの度、デジタルリマスターにより新たに息を吹き返し、7/14(金)よりシネマート新宿ほかにてリバイバル公開が決定!
ロンドンで最も金持ちの集まる高級レストラン<バスターズ>でウェイターとして働くアレックスは、いけ好かない客やマネージャーにいびられクビになり、身寄りも友人も家もなく社会の最下層に沈んだ。
同じくロンドンでは乱暴で下品だが実行力のある上流階級の権力者、超タカ派内務大臣ノッシュが、ソ連のスパイである英国情報部司令長官が仕掛けた女性スキャンダルの罠にはまるが、送り込まれた高級コールガールは一発でノッシュの子をはらんだ。
底辺部隊を組成するアレックス。<イート・ザ・リッチ>と改名されたその高級レストランでミンチ肉料理に舌鼓を打つ金持ちたち。
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社会の最上位と最底辺の対決のときが迫る! 無能な者が権力者になるという、この世の摂理に切り込み、あらゆる差別とヒエラルキーを吹き飛ばして見事に散った、社会派超怪作!
1980年代、パンク・ムーブメントを力ずくで押さえこみ社会保障カットとフォークランド戦争で大英帝国を再建した剛腕サッチャー政権下、生活苦に耐えきれなくなったイギリス国民がついに立ち上がった! 一部の金持ちだけが優雅な生活を謳歌し、庶民ばかりが苦しむ世の中を痛烈批判。海外のキャッチコピーは「おまえが食べているのはおまえだ!」。
人種差別、性差別、階級差別、選民主義、権威主義に怒りを爆発させ、反旗をひるがえす大貧民たちが、大金持ちしか入れない超高級レストラン<BASTARDS>を乗っ取り、<EAT THE RICH>と改名して金持ちを血祭りにする!
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イギリスの庶民派テレビ局で人気を呼んだ社会風刺コメディ番組「ザ・コミック・ストリップ」でポストモンティ・パイソンとして注目を浴びた英国コメディ集団コミック・ストリップの一員であるピーター・リチャードソン監督が、パイソンズより遥かに過激に強烈な風刺を利かせて制作、ジョージ・オーウェルの小説「動物農場」やビートルズの楽曲「Piggies」のテーマにも通じる、猛烈な社会批判を展開するも、初公開時、その猛毒に誰もついて行けずに映画史上空前の空振りを記録した、勇気溢れるとんでもないブラック・コメディ『金持を喰いちぎれ』が36年ぶりに戻ってきた。
「グルメの叙事詩」とも評され、あまたあるグルメ映画に『ハンニバル』(レクター版)と『博士の異常な愛情』をぶち込んで、じっくり煮込まず肉汁滴るスパイスかけすぎのハンバーグステーキに仕上げたグルメ映画史にさん然と輝く極悪異端作でもあり、近年の英国媒体による「映画史上最大の失敗・愚行TOP50」では、歴史的超大作が軒並み名を連ねるなか、超インディペンデント低予算映画にもかかわらず第49位にランクイン(マイケル・チミノ『天国の門』が2位、デヴィッド・リンチ『砂の惑星』が3位)、今でも凄まじい存在感を発揮している前人未到の社会派超怪作である。
製作総指揮は『ロッキー・ホラー・ショー』(75)や、ポリス、XTC、ディーヴォなど出演の音楽映画『Urgh! A Music War』(81)を手掛けたマイケル・ホワイト。
主演にはジェンダーのボーダーをかるく突破、舞台、映画、テレビ、ラジオ、音楽などどんなところでも活躍するラナー・ペレー、元ヘヴィ級プロ・ボクサーであり、007シリーズのスタントのほか『荒野の用心棒』(64)にも映っているノッシャー・パウエルが上流階級の内務大臣にふんしている。
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また暴走ロックンロールの帝王であり人類の切り札といわれるバンド、モーターヘッドをサウンドトラックに起用、劇中に唐突なライヴシーンが差し込まれ、その創始者であるロックンロールの化身、極悪レミーが台詞を含めた演技を披露している。
そしてポール・マッカートニー、アンジー・ボウイ、サンディ・ショー、クー・スターク、ミランダ・リチャードソン、シェイン・マガウアン(ポーグス)、ヒュー・コーンウェル(ストラングラーズ)、ビル・ワイマン(ローリング・ストーンズ)ら超豪華ミュージシャン、俳優、モデル、作家、アーティストたちが大挙カメオ出演、なぜ映っているのかは誰もわからないが、作品のテーマに賛同したと信じることも可能だ。
<作品内容と完成度、そして世の中の反応、作品が受けた仕打ち>
すべてがあまりのことにたいへんなこととなった本作は、数十年の熟成を重ねて気づくと『ロックンロール・ハイスクール』『さらば青春の光』『スパイナル・タップ』『ザ・コミットメンツ』『スクール・オブ・ロック』等々のロック映画好きはもちろん、この世の金持ちと庶民は必ず観なければならない作品となっていた。
製作から36年、なぜいま、これがリバイバルされるのか、まったくわからないが、食料品も軍事費も何でも値上げで生きづらさ増す日本の現状からすれば、我々は80年代英国人の気持ちに納得するだろう。 そして何の躊躇もなくそれを映画という表現で世に叩きつけた本作は、あらゆる物事が<ふつう><平均>に落ち着こうとする現代において人類が忘れ去ろうとしている何かをもたらすにちがいない。 この年月を経て、人類はこの猛毒の理解に近づいたのか、それとも遠ざかったのか、進化か退化を問われるまさかの正式リバイバルで、遂に金持ちを喰いちぎるときがやってきてしまったのだ。
今回解禁となったポスタービジュアルは、日本初公開当時のデザインをベースに新たに作成!
「金と権力があるからといって、おまえらに権利はない!」というメッセージ性の強いコピーと共に、お皿のまわりに多彩な出演者、豪華ゲストを配し、センターには本国ビジュアルでも使用されている強烈上流階級権力者キャラ“ノッシュ”が足を喰っているイラストを使用。 腹には本作のサントラも手掛け、出演も果たしているモーターヘッドの有名なロゴ“War Pig”が燦然と輝く!
『金持を喰いちぎれ』は7月14日(金)よりシネマート新宿・シネマート心斎橋にてロードショー。以降全国順次公開となる。
『金持を喰いちぎれ』 (1987年|イギリス映画|89分|アイアン・フィスト・ピクチャー制作|原題:EAT THE RICH) 監督:ピーター・リチャードソン 脚本:ピーター・リチャードソン/ピート・リッチェンス サウンドトラック:モーターヘッド 出演:ロナルド・アレン/ジミー・ファッグ/ラナー・ペレー/フィオナ・リッチモンド/サンドラ・ドーン/レミー/ノッシャー・パウエル/ロン・ター ゲスト出演の“ザ・コミック・ストリップ”メンバー:ロビー・コルトレーン/ドーン・フレンチ/ナイジェル・プレイナー/エイドリアン・エドモンドソン/リック・メイヨール/ジェニファー・ソーンダース さらにゲスト出演:キャシー・バーク/カトリン・カートリッジ/ショーン・チャップマン/ダーレン・ネスビット/ミランダ・リチャードソン/クー・スターク/ルパート・ヴァンジッタート さらに豪華ミュージシャン出演:ヒュー・コーンウェル(THE STRANGLERS)/ジュールズ・ホランド/ポール・マッカートニー/シェイン・マガウアン(THE POGUES)/サンディ・ショー/スティーヴ・ウォルシュ(KANSAS)/ビル・ワイマン(THE ROLLING STONES)/アンジー・ボウイ/ウェンディ・O・ウィリアムズ/ワーゼル(MOTORHEAD)/フィル・キャンベル(MOTORHEAD)/フィルシー・アニマル・テイラー(MOTORHEAD)
© 1987 National Film Trustee Company Ltd. All rights reserved. キングレコード提供|ビーズインターナショナル配給
公式サイト:bastards-eattherich.jp
シネマート新宿/シネマート心斎橋にて7月14日(金)より公開ほか全国順次公開
<Motörhead – Eat The Rich>
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sdeet · 1 year
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ダンスとは何か
しばらく前にコンテンポラリーダンスのダンサーを主人公とした小説『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を読んだ。
小説『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は2050年頃の東京が舞台のSFなのだが、今より少しロボットやAIが進歩していて生活で当たり前に使われているとか、義肢がAI等によって今より高度な技術・機能になっているぐらいの未来である。ビーム打ったり強大な敵と戦ったりAIが人間を脅かしたりはしない。人間の生活を支える技術である。
コンテンポラリーダンスのダンサーである主人公が事故で片足を失いAI制御の義足になり、そのコントロールと格闘する……という導入ではあるがそこがメインではない。この小説で取り組まれているのは、ダンス表現をして何かを伝えたいというとき、ロボット(AI)にはなく人間にはあるもの、「ダンス」とはなにか、それを理解した上で出現させる「ロボットのダンス」はいかにして可能か、ダンサーが生きるとはどういうことかで、ものすごくダンスについてを記述する小説だった。
ダンスを集中的に見ている者にとって「ダンスとは何か?」は常に頭の上に掲げられている問いである。この小説では一つの仮定をしていてそれが「速度」と「距離」という言葉で表されている。
「ダンスについてを学習したAIが作り出す振付を踊るロボット」と「人間のダンサー」が共演してダンス作品をつくるという内容なのだが、「ロボットのダンス」は人間の模倣である必要がない。小説では、鑑賞に堪えられる作品として成立させるために何を「ダンス」として、どんなことが必要であるか? を技術的に発展させて解決して表現としてゆき、公演当日を迎える。
そもそもこの小説の出発点が大橋可也&ダンサーズの公演とのコラボなので『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』というロボットと踊るダンスは実際にある。
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この公演について小説中では「昔こういう作品が上演された」という過去のものとして扱っている。
コンテンポラリーダンスをめちゃめちゃ見てる人は、作中で主人公たちが試行錯誤しているダンスとは何か? という問いと、AIを使用した振り付けの試みはいくつか見た事があると思う。
例えばYCAMで行われたプロジェクトがある。フラメンコのダンサー、イスラエル・ガルバンのダンスを学習させたAIとイスラエル本人が踊るというもの。
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フラメンコがもともとそうであるように、ダンスではあるが同時に音楽である。舞台上で共演するのはロボットというよりほぼリズムを刻む装置的なものだ。人型のロボットが人間のように踊るのではなく、空間に、イスラエルと絡む踊りであり音楽が出現する。ロボットのダンスが人間そっくりのものまねである必要がない、のはこういうところからも感じられる。「ダンス」はある条件下で出現するのだ。それを、小説では「速度」と「距離」と言い表して「ダンス作品たりうる」状態を目指していく。
Rhizomatiksがやっている『discrete figures』などもAIを利用したダンス作品で、人間の動きを取り込んでどのように出力して観客に見せるか、というバリエーションは様々ある。
AIを利用した試みは当然海外にもあり、ウェイン・マクレガーの振り付けを学習したAIなどもある。
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現代、AIという語が様々なニュアンスで使われる。今ここで話題にしているAIというものの大雑把な理解の仕方のひとつとしては、「膨大な情報をどのように扱い、どのように出力するかの仕組み」である。なので一様ではない。仕組み・方法は様々ある。
AIを使った振り付けの試みは舞台上に表現として出現させるだけが目的ではなく、ダンスについて理解するための手段の一つとしても利用されていくだろう。
ダンス作品は基本的に「人間が人間を観る」ために作られている。私たちはなんらかの情報伝達、コミュニケーションをしたいからだ。
では作品ではない「ダンス」の発生はどうだろう。「ダンスが発生する」というのは「観る者」の意識の問題である。または踊っている者の意識上にあるものである。「ダンスが発生する」のが観測者の意識の問題であるなら、踊っているものが人間である必要はない場合も当然あるだろう。
小説『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』の主人公がアームロボットと踊るところはアレキサンダー・マックイーンの1999年のショーのラストを思い出しながら読んでいた。
当時の機械操作は小説のようなAI生成のダンスなどではなく人間がやっているものだろうが、機械の動きにダンスを見出すことはある、という実感がこのショーの映像を見た時にたしかにあった。
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そのせいか小説中の「機械・ロボットとのダンス」に新規性を感じることは特になかったのだが、小説ではそのダンスの機微というものをかなりのボリュームで記述しており、ダンスをずっと読み続けることになる。現実にあるダンスの批評でもどんな踊りが踊られているのかはかなりふんわりした言い方で済ますものがある中、小説という形式だからこそというべきか、延々とダンスの状況が描き出される。
ロボットとAI方面の話を続けてしまったがこの小説の結構な部分がダンサーである主人公と、舞踏の大御所である父との関係を描いている。主人公は痴呆症になった父を介護する生活に突入し、追い詰められていく。ダンサーの老後とそれを支えるダンサーのリアルな生活が描かれる。
父子ともに踊る以外のことを選択してこなかった人生で、不幸な事故や社会や制度の谷間に落ちそうになる感じや家族間の温度差や理解できない諸々のことをとても実感ある調子で描かれており辛さや悔しさが折り重なっていく。物語の後半、父と子が一緒に踊ることになる場面で、ダンスが相手への理解という形で出現する。ダンスのコンタクトインプロビゼーションについては作中でも説明があるが、触れた相手と言葉を交わすのではなく、信頼をしあうこと、自身の重さを相手に預け、または相手の重さを支えることで動き続けられるダンスが行われる。
父の痴呆がよくなることはなく、生活が劇的に楽になるというわけでもない中で、このダンスが二人のダンサーの「生きる」ということをくっきりと表現している。ここで踊られている、特に父親の踊りは大衆向けのきらきらした素敵なものではなく、舞踏の、うねるような動きや地面に近い踊りやコンタクトだろうが、それに応える息子の踊りとともに、あまりにもまばゆい、人が生きることの重みを感じるダンスシーンである。
この作品は最後の一行まで、踊ることと相手とコンタクトすることを描いたダンスについての小説だった。
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Hope In My Life by Dou (Chinese) 
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人們經常問我 什麼是最有效的技術 為了改變他們的生活。 這有點尷尬 經過多年的研究 和實驗, 不得不說,最好的答案是~ 就善良一點。 People often ask me what is the most effective technique for transforming their life. It is a little embarrassing that after years and years of research and experimentation, I have to say that the best answer is— just be a little kinder. ─ Aldous Huxley (1894-1963) 阿道司·赫胥黎,英格蘭作家,屬於著名的赫胥黎家族。祖父是著名生物學家、演化論支持者托馬斯·亨利·赫胥黎。他下半生在美國生活,1937年移居洛杉磯,在那裡生活到1963年去世。他以小說和大量散文作品聞名於世,也出版短篇小說、遊記、電影故事和劇本。通過他的小說和散文,赫胥黎充當了社會道德、標準和理想的拷問人,有時候也是批評家。赫胥黎是一個人文主義者,但是在晚年也對通靈題目如超心理學和哲學和神秘主義感興趣。在人生的最後階段,赫胥黎在一些學術圈被認為是現代思想的領導者,位列當時最傑出的知識分子行列。
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パラドックス定数『諜報員』感想
東京芸術劇場シアター・イーストで上演された『諜報員』を見てきた。
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パラドックス定数第49項に当たる本作は、ゾルゲ事件に基づいている。
1941年、互いに面識を持たない紺野・早川・芝山・立原ら4名が身柄を確保され、警察の六鹿とその部下・若尾による取り調べを受ける。全員、リヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実、宮城与徳らソ連スパイや共産主義運動活動家らとの関わりが問われている。高圧的な、時に暴力的な聴取を受けながらも、活動への信念を抱く彼らは分裂と共倒れを避けるため口をつぐむことを慎重に確認し合う。しかし、ゾルゲらの逮捕が即時公表されないことを知ったことに加え、立原が警察の手先であることが発覚したことによって、紺野・早川・芝山は黙殺されることを拒み、渦中のゾルゲらとのつながりについて手記を記す。結局3人の自白だけでは証拠として弱く、六鹿は釈放を決める。ところが事の成り行きは、若尾によってアメリカへと送られているのだった。
あらすじを簡単にまとめると以上のようになる。
さまざまな立場やルートから潜入した諜報員たちが腹を探り合い、必死に生き延びようとするサスペンスフルな作品で、『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』(映画版の邦題は『裏切りのサーカス』)や『ブリッジ・オブ・ザ・スパイ』、『クーリエ 最高機密の運び屋』を見た時のような充実感を覚えた。
第46項『プライベート・ジョーク』がシアター・イーストで上演された時には、(コロナ禍で座席が一つずつ空いていたせいもあってか)舞台空間が広すぎて寂しく感じたのだが、今回は『プライベート・ジョーク』よりも空間の使い方が小慣れていたように感じた。 たとえば、留置所から取調室へ大回りに時間をかけて移動するという所作を何度も繰り返すことで、取り調べを受ける4人の緊張に観客を随伴させようと試みていたように思われた。 加えて、横道毅と神農直隆の警察官コンビがいい具合に声と身体に重たさ・厚みがあったことで、少人数アンサンブルでも空間が程よく埋まっていたように感じた。
このように上演は満喫したのだが、見終わって反芻していく中でどんどんと、どう考えたら良いのかわからない座りの悪さを覚えていったというのも正直なことである。
何にもやついているかというと、国家神道や天皇について全く触れられていなかったという点である。
キリスト教と共産主義の密接な関係に言及されたり、身内がキリスト教信者であることを詰められたと若尾が告白したりと、劇中でキリスト教と共産主義は「脅威」として位置づけられている。 しかし、何が「脅威」と定めているのか、その基点がポッカリと不在となっているように感じた。 教会に潜入操作した立原は「アカは全員死ね」と吐いたり、教会に通う人びとを指して「アカの素質のあるやつ」といったりするが、では彼が当時のメインストリームの価値規範に則っているかというと、どうもそうではない。「警察国家になりかかっている」とエクスキューズしながらも、「法治国家」に生きる警察官として「正しい秩序」「適正な手順」「遵法捜査」を自身の基軸にすると立原は述べるが、その「正しさ」「適正さ」が2024年に本作を制作し上演し観劇する「この社会」の「正しさ」「適正さ」がスルッと適用されていやしないかと思わざるを得なかった。もちろんそれは見方を変えれば、1941年と2024年は切断されておらず地続きであることの表現と言えるわけだが、その割に特高が警察官含め登場人物全員から批判されており、立原(そして遵法捜査の精神に則って逮捕を諦める六鹿)が思想信条においてどこの位置にいるのかが若干わかりづらくなっていると感じた。
「描かなかった」ことだけを以てして作品の瑕疵とすることはできないし(あらゆる作品には「描かなかった」ことで溢れている)、太平洋戦争を主題としつつ国家神道や天皇をダイレクトに言及しない演劇作品も思いつくだけで複数あることを思うと、『諜報員』も同様の系統に位置しているだけの話なのかもしれない。
それでもなおモヤモヤしてしまうのは、『諜報員』に感じた穴は、空けようとして空けたものというより、すでに常に空いてしまったものがそのまま提示されていたのでは、という考えが拭いきれないからである。穴あってこそドーナツです、という姿勢が少しでも窺えた方が、1941年ゾルゲ事件を2024年に扱う意義がより鮮やかになったのではと感じられた。
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ari0921 · 3 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)2月5日(月曜日)
   通巻第8118号
 孫子を読まずして政治を語る勿れ。派閥解体、政治資金浄化????
  吉田松陰の代表作は、じつは孫子の研究書(『孫子評註』)だった
*************************
 自民党の派閥解消を聞いて、日本の政治家は政治の本質を理解していないことに唖然となった。派閥はまつりごとのダイナミズムを形成する。パワーの源泉である。それを自ら解体するのだから、政治は星雲状態となる。となると欣喜雀躍するのは中国である。国内政治にあっては、その「代理人」たちである。
 孫子が言っているではないか。「謀を伐ち、交を伐つ」(=敵の戦略を見抜き、敵戦力を内訌させ、可能なら敵の一部を取り込め、それが戦争の上策である)。そうすれば、闘わずして勝てる、と。
 高杉晋作も久坂玄瑞も、松下村塾で吉田松陰の孫子の講議を受けた。松陰亡き後の門下生だった乃木希典は、師の残した『孫子評註』の私家版を自費出版し、脚注もつけて明治天皇に内奏したほど、心酔していた。世にいう松陰の代表作はその辞世とともに有名な『講孟余話』と『留魂録』だが、現代人はすっぽりと『孫子評註』を忘れた。これは江戸時代の孫子研究の集大成である(『吉田松陰全集』第五巻に収録)。
松陰は山鹿素行を師と仰ぐ兵法家から出発している。毛利長州藩の軍事顧問だったのである。
 
もとより江戸の学問は官学が朱子学とは言え、新井白石も山鹿素行も荻生徂徠も山崎闇斎も、幕末の佐久間象山も西郷隆盛も孫子は読んだ。しかし江戸時代の二百数十年、太平の眠りにあったため、武士には、読んでもその合理的で非情な戦法に馴染めなかった。
その謀(はかりごと)優先という戦闘方式は、日本人の美意識とあまりに乖離が大きく、多くの日本人は楠正成の忠誠、赤穂浪士らの忠義に感動しても、孫子を座右の書とはしなかった。
明治以後、西洋の学問として地政学が日本に這入り込み、クラウゼウィッツは森鴎外が翻訳した。戦後をふくめてマキャベリ、マハンが愛読され、しかし誤読された。吉田松陰の兵法書はいつしか古書店からも消えた。
しかし戦前の指導者にとっては必読文献だった。
 
 吉田松陰が基本テキストとしたのは魏の曹操が編纂した『魏武註孫子』で、考証学の大家といわれた清の孫星衍編集の平津館叢書版を用いた。そのうえで兵学の師、山鹿素行の『孫子諺義』を参考にしている。
もともと孫子は木簡、竹簡に書かれて、原文は散逸し、多くの逸文があるが、魏の曹操がまとめたものが現代までテキストとなってきた。
 ▼孫子だって倫理を説いているのだが。。。
 孫子はモラルを軽視、無視した謀略の指南書かと言えば、そうではない。『天』と『道』を説き、『地』『将』『法』を説く。
 孫子には道徳倫理と権謀術策との絶妙な力学関係で成り立っているのである。
 戦争にあたり天候、とくに陰陽、寒暖差、時期が重要とするのが『天』である。『地』は遠交近攻の基本、地形の剣呑、道は平坦か崖道か、広いか狭いかという地理的条件の考察である。戦場の選択、相手の軍事拠点の位置、その地勢的な特徴などである。
『将』はいうまでもなく将軍の器量、資質、素養、リーダーシップである。『法』とは軍の編成と将官の職能、そして管理、管轄、運営のノウハウである。『道』はモラル、倫理のことだが、孫子は具体的に「道」を論じなかった。
日本の兵学者は、この「道」に重点を置いた。このポイントが孫子と日本の兵学書との顕著な相違点である。
 「兵は詭道なり」と孫子は書いた。
従来の通説は卑怯でも構わないから奇襲、欺し、脅し、攪乱、陽動作戦などで敵を欺き、欺して闘う(不正な)行為だと強調されてきた。ところが、江戸の知性と言われた荻生徂徠は「敵の理解を超える奇抜さ、法則には則らない千変万化の戦い方だ」と解釈した。
 吉田松陰は正しき道にこだわり、倫理を重んじたために最終的には武士として正しい遣り方をなすべきとしてはいるが、それでいて「敵に勝って強を増す」とうい孫子の遣り方を兵法の奥義と評価しているのである。
 つまり「兵隊の食糧、敵の兵器を奪い、そのうえで敵戦力の兵士を用いれば敵の総合力を減殺させるばかりか、疲弊させ、味方は強さを増せる」。ゆえに最高の戦闘方法だとし、これなら持久戦にも耐えうる、とした。
 江戸幕府を倒した戊辰戦争では、まさにそういう展開だった。
 「孫子曰く。凡そ兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うすると上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ」
 つまり謀を以て敵を破るのが上策、軍自作戦での価値は中策、直接の軍事戦闘は下策だと言っている。
 ▼台湾統一を上策、中策、下策のシミュレーションで考えてみる
 孫子の末裔たちの国を支配する中国共産党の台湾統一戦略を、上策、中策、下策で推測してみよう。
 上策とは武力行使をしないで、台湾を降伏させることであり、なにしろTSMCをそのまま飲みこむのだと豪語しているのだから、威圧、心理的圧力を用いる。
 議会は親中派の国民党が多数派となって議長は統一論を説く韓国瑜となった。
宣伝と情報戦で、その手段がSNSに溢れるフェイク情報、また台湾のメディアを駆使した情報操作である。この作戦で台湾には中国共産党の代理人がごろごろ、中国の情報工作員が掃いて捨てるほどうようよしている。軍の中にも中国のスパイが這入り込んで機密を北京へ流している。
軍事占領されるくらいなら降伏���ようという政治家はいないが、話し合いによる「平和統一」がよいとする意見が台湾の世論で目立つ。危険な兆候だろう。平和的統一の次に何が起きたか? 南モンゴル、ウイグル、チベットの悲劇をみよ。
 中策は武力的威嚇から局地的な武力行使である。
台湾政治を揺さぶり、気がつけば統一派が多いという状態を固定化し、軍を進めても抵抗が少なく、意外と容易に台湾をのみ込める作戦で、その示威行動が台湾海峡への軍艦覇権や海上封鎖の演習、領空の偵察活動などで台湾人の心理を麻痺させること。また台湾産農作物を輸入禁止したりする経済戦争も手段として駆使している。すでに金門では廈門と橋をかけるプロジェクトが本格化して居る。
 下策が実際の戦争であり、この場合、アメリカのハイテク武器供与が拡大するるだろうし、国際世論は中国批判。つまりロシアの孤立化のような状況となり、また台湾軍は練度が高く、一方で人民解放軍は士気が低いから、中国は苦戦し、長期戦となる。
 中国へのサプライチェーンは、台湾も同様だが、寸断され、また兵站が脆弱であり、じつは長期戦となると、中国軍に勝ち目はない。だからこそ習近平は強がりばかりを放言し、実際には何もしない。軍に進撃を命じたら、司令官が「クーデターのチャンス」とばかり牙をむくかも知れないという不安がある。
下策であること、多大な犠牲を懼れずに戦争に打って出ると孫子を学んだはずの指導者が決断するだろうか?
 ▼孫子がもっとも重要視したのはスパイの活用だった
  『孫子』は以下に陣形、地勢、用兵、戦闘方法などをこまかく述べ、最終章が「用間(スパイ編)」である。敵を知らず己を知らざれば百戦すべて危うし」と孫子は言った。スパイには五種あるとして孫子は言う。
『故に間を用うるに五有り。因間有り。内間有り。反間有り。死間有り。生間有り。五間倶に起こりて、其の道を知ること莫し、是を神紀と謂う。人君の宝なり』
 「因間」は敵の民間人を使う。「内間」は敵の官吏。「反間」は二重スパイ。「死間」は本物に見せかけた偽情報で敵を欺し、そのためには死をいとわない「生間」は敵地に潜伏し、その国民になりすまし「草」となって大事な情報をもたらす。
 いまの日本の政財官界に中国のスパイがうようよ居る。直截に中国礼賛する手合いは減ったが、間接的に中国の利益に繋がる言動を展開する財界人、言論人、とくに大手メディアの『中国代理人』は逐一、名前をあげる必要もないだろう。
 アメリカは孔子学院を閉鎖し『千人計画』に拘わってきたアメリカ人と中国の工作員を割り出した。さらに技術を盗む産業スパイの取り締まりを強化した。スパイ防止法がない「普通の国」でもない日本には何も為す術がない。
 (十年前の拙著『悪の孫子学』<ビジネス社>です ↓)
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pix-ied · 1 year
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23年3月5週目
今週の休みは上手く回せた気がする。ポイントの1つはジムのクラスに参加することを諦めて筋トレ+有酸素運動にしたこと。自分のタイミングに行ければ時間の調整はつきやすい。これは有酸素運動の時間に海外ドラマも観られるし、週に1度はやりたいけど、これだけならもっと安いプランで十分だし、なんならもっとよく見る安いジムで良い。仕事の日にジムに行けるようになればな。
今週はカズオ・イシグロ脚本の『生きる』(しかもビル・ナイ主演!)なんて絶対に良いだろと思って観に行った。黒澤の『生きる』は学生時代なぜか授業で観たけど若いし白黒だしで全然頭に入ってこなかった。たぶん今ならもうちょっとちゃんと鑑賞できるはず。今作はちょっと想像より自分の死を知り、自分の人生に目覚めるまでが長く、目覚めてからから亡くなるまでがあっさりしていたので、もうちょっとそこをゆっくり見せてと思ってしまった。気持ちの上では、自分も同じような悩みを抱えているからだと思うが。元職場の女の子につきまとうように現れたり、時間つぶしに付き合わせたりする様子はいくらビル・ナイと言っても不快というか嫌な記憶が刺激される感じだったけれど、その反面その後女の子に事情や心情を語るシーンでは名言の数々が出てきて、いやぁこれは手許に置いておきたい作品だなと思った。イシグロがこだわった1950年代のルックもとても素敵だった。私は古いイギリス映画のことはほとんど分からないんだけど、古いフィルムのザラザラとした映像や服装や建物、全ての調和が美しかった。「それはうちじゃなくて〇〇部ですね」って、言ったことがある人(それなりに大きな組織に所属している人はみんな言ったことがあるんじゃないだろうか)にはとても刺さる映画だ。小さなことでも何か1つ仕事でちゃんと成し遂げたい。
そして3ヵ月に1度はwishlistを振り返るぞって書いたので、どんなやり方にしようか迷ってるけど、達成できていないものを列挙して認識を改めようと思う。
台湾に行く
それ以外のアジアに行く
訪れる国の映画を観る
訪れる国の小説を読む
読書旅行する
ビーチに行く
雪見温泉行く
行ったことない県に行く
どこかでビューンを使う
レムに泊まる
サウナで整う
温泉の泉質を研究する
批評を書く
税理士の簿記論を取る
ヘミングウェイの英文法の本を読み切る
リベラルアーツを勉強する
読書会に参加する
雑談の練習をする
質問を用意する
楽しみなデートをする
東京を歩く
フィルムカメラを使う
友達に友達を紹介してもらう
美術館に行く
西洋美術を観る
現代アートを観る
台湾映画を観る
中東映画を観る
恋愛映画を観る
ヨーロッパの国別に映画を観る
会社の机の上を片付ける
部屋の机の上を片付ける
物を手放す
ネイルシール使う
ネイルシールを作ってもらう
アイメイクを勉強する
全身脱毛する
足裏のメンテナンスに行く
整体に行く
美顔器買う
パックする
パーソナルカラー診断する
姿勢をよくする
美容医療を試す
週3回23時までに寝る
体脂肪率24%
月1でフィクション以外も読む
良い古本屋を見つける
本を売る
新書を買う
ビジネス書も読む
夏目漱石を読む
司馬遼太郎を読む
誠品書店で本を買ってカフェで本を読む
怒りのコントロールの練習をする
イライラを態度に出さない
美味しいクロワッサンを食べる
ナシレマッ食べる
パンミー食べる
水着を着る
ショートパンツを履く
友達の子供を抱っこする
職場の近くで家を探す
心臓のエコーを受ける
婦人科で検診受ける
魚料理を作る
スパイスを買ってみる
スコーンを作る
塗り絵する
泳ぐ
スポーツ観戦に行く
具合悪くならないお酒の飲み方をマスターする
筆記具を買い直す
なりたい体型を意識して筋トレする
旅行先で映画を観る
旅行先で本を買う
建築を見る
演劇を見る
好きな会社の株を買う
NISAを始める
自分の人生は自分で楽しくする
仕事に小さくても楽しみを見出す
人の人生の野望を聞く
人生の野望を考えて人に話す
良いと思ったことはどんどん褒める
テラス席で夕暮れを過ごす
自分の選択を後悔しない
優雅な生活で最高の復讐をする
あと88個!
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doctormaki · 1 year
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4泊5日のプラハの旅は、まるで夢のように、忙しく断片的イマージュに切り取られていく時間を過ごしたような感じだった。帰り際に、宿屋の伯母さんKristinaが、Neroがマキになんか用意したみたいよと愛犬Neroのベッドの毛布を指差す。ちなみに15歳のミニチュアダックスフントのNeroは、客間のソファからソファへと、短い足で器用に飛び越えつつ、犬用ベッドに辿り着くと、器用に毛布をかぶって、毛布の中で寝る。ネロの毛布をそっと開けて見ると、寝床の中にネロからのプレゼントが入っていた。開けろというので、開けると、プラハの観光名所を印刷したピンク色のTシャツが入っていた。なんだか感動して涙が出る。そんなこんなしている間に、電車に乗り遅れそうになり、慌ててタクシーでプラハ中央駅へ。
チェコは本当の人間が暮らす所と言うけれど、本当の人間、real peopleって、優しさと、周りや未来、過去への気遣いなのかなと思った。一人の人間にできる事なんて小さい。その一人一人が、どれだけ、自己犠牲と他者への優しい気持ちを態度で表すことができるのか。それだけで、その社会の在り方は変わると思う。チェコと日本の類似性を、Kristina伯母さんは毎朝のように言っていた。電車でお年寄りに席を譲るとか、隣の家の人が風邪引いたって知っているから買い物してあげるとか、そういうのが、本来の人間らしさであり、観念や理念だけで、やれ差別だ平等だと自由だと騒ぎ立てる前に、自分の日々の行動の中で、どれだけ他者に関心を持てる余裕が備わっているか、という事だと、Kristina伯母さんは力説していた。
プラハの人々の議論好きは、ドイツ人の議論好きに引けを取らない。今回は、プラハの東大、カレル大学(プラハではチャールズ大学といったり、シャルル大学と言ったりする。つづりがCharleだから仕方がないが、困惑した)の建築や演劇の教員達と議論の機会があったが、ドイツ人や、日本人の知識層と自認している人との議論と根本的に違うところがある。それは、議論の位相をズラス事による批判はしないという点にあろう。
彼らが射程に入れているのは、根底にある人間や社会の問題。だから表面的な所で安直な問題設定をしていなかった。深いところで問題設定ができているという事は、昨今の日本を含めた欧米で流行っている、表面的な言葉尻を捉える批判をしないという事だ。誰だって、言い間違いや誤解を与えるような事を言ってしまう。でも、話す人の、議論の全体的俯瞰や、議論の根底にある考え方を捉えていれば、言葉尻や言い方だけで批判、批評はしないものだ。
逆に、表面的な議論だけを捉えて、挙げ足取りのように、それも、そんな下らん事を、まるで勝ち誇ったようにやる人間との議論は、はっきり言って、議論にならない。多分、そういう表面的な議論で自分の優位性を信じ、他人を簡単に批判できるオメデタイ馬鹿どもは、自分の事を自分で、言語を完璧に操っていると、自分を過信できるからこそ、そこまで居猛々しくいられるのだろう。東大に生息する奴で、できの悪い奴のやる学問と称する言説批判のほぼ9割はこれ。実にshallowで下らない。逆に、そういう人たちは、自分の言語操作能力への自信に加えて、言葉への信頼が高いとも言える。兎に角、立派な人とは私は話するのは苦手だ。私も、チェコ人知識層も、言語を感性的に操っているのだと思う。感性的だから、言葉で捉える事のできる事の限界を知っている。だから、言葉を実験的に使っているのと、言葉だけを信じる人との違いが、議論に現れてしまう。
ちなみに、チェコ人は、昔から英語は完璧に話すらしい。彼らの複雑なチェコ語文法では、ドイツ語の男性、女性、中性名詞に加えて、男性名詞は、生命あるものと、生命無いものとで、男性名詞が二種類に別れているらしい。簡単に言うと、生きているものと、生きていないものなんだよ、と現地で生まれ育つ12歳になるカノンちゃんは説明してくれる。でも、例外もあってね、そこが難しいんだよ!って笑う。英語は超簡単!と笑う。もう、英語だけでタジタジのオバハン、ついていけまへんわ。ヨーロッパ人の英語上手なランクには、スウェーデンやフィンランド、チェコが必ず入るらしいが、米軍基地の存在と難しい母国語が、街中の一般人でも英語を話す諸要素として考えられているらしい。日本は、日本語が簡単すぎるか、英語教えるセンコーが馬鹿か、民衆がアメリカ拒否っているかの何れなのだろうか。日本では最近、意味も分からず、クリスマスに加えて、ハロウィンまで喜んで真似ているので、アメリカは好きみたいなのだが。。。ヨーロッパは知らないから、アメリカで人気ないイースターは存在すら知らないらしい。
プラハでは、芸術は、共産主義への対抗手段としてあったので、芸術が豊かだ。ブルジョアの嗜みであるオペラ、コンサート、美術に対して、volksによる、一般民衆による演劇、音楽、絵画がある。そして、それら芸術を通して社会批判を行っている。だから、アート界隈は知識層が多い。ブルジョア的知識層とは異なる地に足ついた知識層は、volksなので、幻想主義でもなく、生活に根差した批判を行う。言語化するとヤバイものは、言葉ではない演劇表現を借りて表現する。つまり、共産主義体制において、言葉狩りを経験している人々は、言葉に頼ることの危うさを知っている。逆説的に、ドイツも日本も、言葉への信頼が高いという事は、言葉狩りによる弾圧や差別を知らない平和ボケの結果なのかもしれない。平和ボケている奴ほど、凶暴なのだ。辛さを知らないから。実に色々な意味でオメデタイのだ。
プラハ。また帰ります!ネロとKristinaの家へ。そして、豊かな議論をしてくれたチェコの知識層の元へ!まだ生息している、真の人間に会いに。。。チェコに生まれなかった真の人間が疲弊した時に、安らぎにいく場所、プラハへ。
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hanbunmensch · 1 year
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カムスキーCEO復帰エンディングで流れるオペラ曲について
 「カムスキーエンド」と通称される主人公早期全滅ルートで、カムスキーが「Un bel dì, vedremo」を聴いている。ざっと検索したところ、このことに言及しているページが見当たらなかったので書く。ただ、使用曲はエンドクレジットを確認すれば誰にでも分かることで、別に元々オペラに詳しいわけではないためご留意を。  まずはエンディングの概要から。
条件:  カーラが『ズラトコ』以前の章で死亡するか初期化されてメモリを復旧できず、コナーが『最後の切り札』で停止処分になり、マーカスが『自由への行進』で死ぬか『交わる運命』でジェリコから追放される(マーカスが死んだか追放されたかによって報道シーンの構成が変更される)。
 つまり正確には全滅というか、最終章より前にプレイヤーがやることがなくなってしまった場合に条件を満たす。
あらすじ:  FBIがジェリコに襲撃を仕掛けたことを機に、変異体の権利闘争は収束へ向かう。軍により国中のアンドロイドが捕獲・破壊されているという、リビングのテレビが流す大統領の声をバックに、ハンクはロシアンルーレットの当たりを引く。一連の事件を受けてサイバーライフのCEOに再任命されたイライジャ・カムスキーは、アンドロイドは生命を真似てみせるだけの従順な機械であることをカメラの前で明言する。
そして船は現れない
 エンディングムービー中盤のカムスキー邸のシーンで、国がアンドロイド収容所を設置したニュースが聞こえる後ろに、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』のアリア「Un bel dì, vedremo(ある晴れた日に)」冒頭が流れている(一応何度も聴き比べて確認したが、もしイタリア語が分かってオペラの聞き取りもできる人がいて、これが間違っていたら知らせてほしい)。
youtube
Un bel dì, vedremo  levarsi un fil di fumo  sull’estremo confin del mare  E poi la nave appare
ある晴れた日に* 一条の煙が上がる 海のかなたに そして船が現れる
*「ある日」が正しいという指摘もあるが、日本では「ある晴れた日に」でよく知られているので今回はこちらを採用した
 聴く限りでは、nave(船)という単語に差し掛かったあたりで、カムスキー邸から次の報道パートに切り替わる。  『蝶々夫人』は長崎を舞台に、アメリカ人の海軍将校と結婚した没落藩士令嬢である蝶々さんが彼に捨てられるまでを描いた悲劇ものオペラ。「Un bel dì, vedremo」は、中盤、国に帰った夫の船が現れるのを蝶々さんが愚直に待ち続ける場面で歌われる。実際のところ将校は彼女を現地妻と考えていて、結局長崎に戻ってはくるがアメリカ人の正妻を連れている。既に彼の為にキリスト教に改宗までして勘当もされていた蝶々さんが、それを知って父の形見の刀で自害し、幕を下ろす。  このオペラ自体は安いエキゾチシズムとしてよく批判されるが、それはともかくとして、ハンクが自殺し暗転してから「Un bel dì, vedremo」が流れるカムスキー邸までの一連のシーンでは、人間──作中世界で迫害される少数派として散々描かれたアンドロイドではなく──が現地妻の立場に置かれている。窓辺の椅子に座るカムスキーは、「海のかなた」(多分デトロイト川だが)を望み、現れない船を待っている。現れない船は、ついぞ出航せず、革命を成し得なかった廃船・ジェリコだとここでは見立てることにする。
伝染病を待ちながら
 『カムスキー』チャプターに遡ると、カムスキーは待たせる側だった。来客をエントランスで待たせるだけでは飽き足らず、部屋に招き入れたうえでわざわざ何往復か泳いでみせて──それが演出か素かはさておき──待たせる側に立とうとした。  待たせることにはどのような意味があるか。ロラン・バルトによるとそれは「あらゆる権力につきものの特権」だそうだ。
転移現象のあるところには常に待機がある。医師が待たれ、教師が待たれ、分析者が待たれているのだ。さらに言えば、銀行の窓口や空港の出発ゲートで待たされている場合にも、わたしは、銀行員やスチュアーデス相手にたちまち攻撃的な関係を打ちたてる。彼らの冷淡さが、わたしのおかれた隷属的状態を暴露し、わたしをいらだたせるからだ。したがって、待機のあるところには常に転移があると言えよう。わたしは、自分を小出しにしてなかなかすべてを与えてくれようとしない存在──まるでわたしの欲望を衰えさせ、欲求を疲労させようとするかのように──に隷属しているのだ。待たせるというのは、あらゆる権力につきものの特権であり、「人類の、何千年来のひまつぶし」なのである。(『恋愛のディスクール・断章』)
 「転移」とは精神分析の用語で、患者が他の人に向けるはずの抑圧された感情を分析者に対し抱く現象を言う。患者はカウンセリングの中で分析者のことを、何でも知っている人だと思い込み、分析者を転移対象にする。転移する感情は愛情であったり敵意であったりする。医師と患者の関係は対等ではないため、医師は患者からの転移性恋愛に応じることを控えなければならないが、転移自体は重要な治療のプロセスでもあり悪いわけではない。  D:BH作中最もよく分析者然と振る舞っていたコナーを例にとると、ダニエルを信頼させたルートでのちのち「お前は必ず報いを受ける」と恨み言を言われたり、ハンクの個人的な事柄を調べ上げて当人にあけすけに語ることで好感度が上がったり、或いは『最終任務』で対立した際に「その言葉(「友人」)の意味もわかっちゃない」とキレられたりするのも、ある種彼らに転移されているのかもしれない。  そして『カムスキー』チャプターでは、変異体について何か知っているに違いない者として、カムスキーが待たれていた。
 そのカムスキーもまた実は革命を待っている側だったことは、別にゲームの制作段階で削除された台詞を参照しなくとも想像できる。  カムスキーは「自由への欲求も伝染病といえるかな?」と言ったが、この発想は珍しいものではない。20世紀初頭、ボリシェヴィキ革命後の時点で既に、のちの西側諸国は共産主義を伝染病に準えて「防疫線」を提唱した。現在も、主に批判的意味合いで特定の思想を伝染病に喩える場面はよく見られる。
Tumblr media Tumblr media
『自由への行進』/『サイバーライフタワー』
 デトロイト実況プレイ動画などを見ていると「こいつら本当に自我あるのか?」とすこぶる評判の悪い(ような気がする)マーカス達の「さあ起きて」描写だが、敢えてこの異様さそのものを好意的に捉えるとすれば、彼らが「伝染病」という言葉の簒奪���果たしている点と言えるだろうか。また、『カムスキー』でクロエを撃ち殺して選択肢「ウィルス」の質問をした場合の、カムスキーによるウイルスの潜伏に関する説明と、『サイバーライフタワー』でコナーが失敗した場合にたどり着くフローチャート項目における、倉庫の変異しなかったアンドロイドに関する言及で、remain dormant という同じ表現が使われている点も考慮していいかもしれない。ここではウイルスが、アンドロイドが、「精神的ショック」をスタンバイしている。革命を為そうとする時、形容の影にカムスキーがいる。
 今回のエンディングの話に戻ると、アンドロイドが創造主に対して立ち上がる日を待望していたであろうカムスキーと、うまくいけば変異体の支持者になることで人生を取り戻せたかもしれない──そして本当にうまくいけばフードトラックの前で待っていてくれたかもしれないハンクという二人の人物が、「Un bel dì, vedremo」の引用を介して、将校の乗る船を待つ蝶々さんにオーバーラップする。悲恋に暮れるのは今日のところ「人間」のようだが、恋ほど人を惨めな気分にさせるものはない。
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yukarikousaka · 2 years
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2022.06.30
 二〇二二年は間もなく折り返す。本・映画・音楽の上半期心に残ったものについては後日まとめようと思うので実生活で心に残ったこと、特にここが去年から変わったという点について書く。まず第一の大きな変化はコロナ禍と向き合いつつも、一歩前進したことだ。対面授業は増え、オーケストラの練習にも参加できるようになり、フォロワーさんとご飯を食べに行くこともした。それでいてなお感染しなかったのでかなり頑張ったつもりだ。
 次に少し書いたがオーケストラの練習に参加できるようになった。これまでピアノもチェロもどちらかというと一人で演奏することが多かった人間なので、オーケストラでのチューニングやザッツといった技術面はもちろん一つの音楽を複数で作り上げていく楽しさ��ついて僅かながら掴めたように思う。兄がバンドをや���ている人間だから(もちろんオーケストラとその性質は全く違うとはいえ)よく聞かされていた音の楽しみ方を体感した。
 三番目はゼミが始まったこと。アメリカ演劇ゼミで「女性作家による家族劇」をテーマとして戯曲を読み進め議論を繰り返している。議論の組み立て方や論文の書き方はもちろん、批評の書き方やクィア・リーディング、フェミニズム・リーディングについても今以上の武器となるように院生や先生や四年生に磨いてもらった。先日の発表はエイミー・ヘルツォグ「メアリー・ジェーン」。前期は後一回発表を残すのみなので、全力で戦いたい。
 四番目はギャラリーや美術館によく行くようになったこと、そして三年ぶりにお芝居を生で鑑賞したことだ。美術館は実際に足を運ばないと、インターネットや本で作者や作品について理解したつもりになってばかりで本当に駄目だなと思った。特に一月に行ったメトロポリタン美術館展のエル・グレコ、ボイス+パレルモ展にその傾向があった。下半期も自分の様々な部分や将来のことがらと相談しつつ、充実した一年にできたらいいと思う。
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