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#宮保鶏丁
a2cg · 9 months
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屋号と私
以前一緒に働いていた時の先輩は地元では屋号で呼び合うと言うことを聞きました。理由としてはその地域は親戚縁者なので苗字での区別が無いからだそうです。
確かに父親の実家でも理容店を営んでいる親戚のところを苗字が一緒なので「床屋」と呼んでいたのも屋号なんですかね。
同じ地名でも日本全国にあるものは頭に旧国名をつけて呼び分けたりしますよね。例えば一ノ宮は尾張一宮(愛知県一宮市)、上総一ノ宮(千葉県長生郡一宮町一宮)。
東京はもともと東の京都から来ていると聞きましたが田無市と保谷市が合併して出来た西東京市は、西の東京は京都なので、ややこしいですね。
と言うわけで本日のランチは東京の長崎にある #松月 です。良さげな #町中華 を探していたら偶然見つけたので、入ってみることにしました。
頼んだのは #五目冷し中華 #カツカレーライス #上チャーハン #餃子 です。丁度店内が満員で少し待たされて入れば高齢のご家族がゆっくりと進めている印象です。
お水はセルフというシステムを知らずしばらくボーッとしていました。勝手知った常連さんは自由に冷蔵庫を開けてドリンクと氷とを取り出していました。
そして待つこと50分!ようやく #冷やし中華 がやって来ました。昔ながらのビジュアルで少し酸味がある懐かしい味わいです。
#ぎょうざ は、もちっとしていて中はジューシーな味わいで食べ応えもあります。 #チャーハン はどこら辺が「上」なのかと思えばたっぷりと #唐揚げ が載っています。
先に頼んでいたお兄さんが食べきらずテイクアウトしているのがわかるボリュームです。お肉もたっぷり入って玉ねぎが入った旨味たっぷりの #炒飯 です。
#鶏肉 もジューシーですね。 #カツカレー は中華スープで伸ばした #カレーライス で、蕎麦屋のカレーにも似たマイルドでとろみのついた味わい。
カツもサクッとしていながら分厚くてパンチがあります。ルーの中にも玉ねぎやお肉が入っていて、ボリュームが満点でした。
物凄く腹いっぱいになっても激安プライスなので物価高騰なのにやっていけるのかが心配になりましたが、いつまでも頑張って欲しいですね。
#東長崎ランチ #東長崎グルメ #東長崎中華 #東長崎町中華 #東長崎中華料理 #東長崎カレー #東長崎カレーライス #落合南長崎ランチ #落合南長崎グルメ #落合南長崎中華 #落合南長崎町中華 #落合南長崎中華料理 #落合南長崎カレー #落合南長崎カレーライス #とa2cg
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tufboy02 · 1 year
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【派遣工の食事】4月6日木曜日夜勤の食事とお弁当🍱 ・ 朝食:宮保鶏丁🐔豚汁🐷 ・ 夜勤前:酢納豆🍚豚汁🐷チキンラーメン🐔 ・ 🍱:宮保鶏丁🐔きんぴら、豚汁🐷梅干し⭐️
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vegehana-food · 2 years
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✿ 宫保鸡丁 | Gong Bao Ji Ding ・宮保鶏丁(ゴンバオジーディン、カンパオチキン)。アメリカンチャイニーズの定番、カンパオチキン。鶏肉とピーナツを唐辛子とともに炒めた物です。有名な四川料理、または北京料理(山東料理)ですが、アメリカでもかなり人気のある中華料理です。別名は宮爆鶏丁、公爆鶏丁。 ・「鶏丁」は鶏肉の角切りを意味する。「宮保」は異説もあるが、以下のような説が信じられている。清の時代の官僚、山東の長官であった丁宝楨は、皇太子の教育係である太子太保の役職にあったことから「丁宮保」と呼ばれていた。丁は宴席で、鶏肉とカシューナッツをピリ辛味で炒めた料理を考案し、人々をもてなしていた。これが好評であり、宮保鶏丁と呼ばれるようになった。丁は出世していき、四川総督になる。四川の蒸し暑い気候に合わせて唐辛子を多用するようにした料理も、同じ宮保鶏丁と呼ばれた。 ・時代が下って、清の官位の名称では具合が悪いと同音の「宮爆」「公爆」を用いるようになった。また「爆」の字は中国料理においては「炒」よりもはるかに強い火力で短時間に加熱する料理法を指す。
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silkorz · 3 years
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新宿【上新楼】手作り出来立て水餃子をいただきました!|【ランチ】宮保鶏丁ってどんな料理?!
新宿【上新楼】手作り出来立て水餃子をいただきました!|【ランチ】宮保鶏丁ってどんな料理?! #上新楼 #中華料理 #上海料理 #関東 #グルメ #新宿 #東京 #水餃子 #宮保鶏丁 #コロナフードアクション
皆さん、こんにちは!ブログを書いている大峯です。 今日は、上新楼の料理長・金祥和さんが腕を振るう上海料理を食べにランチ訪問♪上新楼さんは、料理は美味しいのはさながら、ママの張(ちょう)さんの優しさ溢れる接客が心地よく、とっても癒されます!それでは早速行ってみましょう!   アクセス 場所は、西武新宿駅から徒歩3分、西武新宿駅を出たら大久保方面に向かい、職安通りを渡って左に向かいます。ガード下をくぐると、すぐのところにあります。 住所:東京都新宿区百人町1-12-1電話:03-6881-7480   手作り水餃子 お店に入ると、ちょうど店内奥で水餃子を作っておりました。中国に行くと、こういった光景をよく見かけるのですが、日本では中々見られないかと思います。   皮も餡も全部手作り。麺棒で皮を伸ばし、素早く餡を包んでいく姿は圧巻!   あっという間にバットに水餃子が並べられてい…
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hidekigogo · 7 years
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宮保鶏丁 Kung Pao chicken 鶏肉とピーナッツの唐辛子炒め🌶🌶🌶 今日のランチは延吉香@御徒町にて。 ちょい遅めのランチは意外に店内が混雑している。 喫煙可なので店内モクモクは仕方ないか(´・ω・`) ご馳走さんでした。 #Lunch #ランチ #御徒町ランチ #御徒町 #延吉香御徒町店 #宮保鶏丁 #レディースランチ #中国料理 #chinesedish (中華延辺料理 延吉香 御徒町店)
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myonbl · 4 years
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2020年2月5日(水)
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必要があって、「伏見人形」について調べている。現在、製造・販売されているのは伏見稲荷大社近くにある一軒だけだが、東寺近くの「郷土玩具 平田」には江戸時代以来の様々な人形のコレクションがあるとのこと。はじめて訪れたが、店番の方が丁寧に対応して下さり、写真撮影まで許可いただいた。「平田」さん、ありがとうございました!
三男は日勤、ツレアイは午後の介護保険審査会のため自転車で出勤。
デイサービスに出る次男に戸締まりを頼んで出発、目指すは京都みなみ会館。
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『この星は、私の星じゃない』
1970年にまかれた「便所からの解放」という手書きのビラが多くの女性から共感を呼び、日本のウーマンリブ運動のカリスマ的存在として活躍した田中美津を追ったドキュメンタリー。70年代前半に東京・代々木の「リブ新宿センター」を拠点に、優生保護法改悪阻止などの活動を推進した田中美津。72年に発売された著書「いのちの女たちへ 取り乱しウーマン・リブ論」は、女性学のバイブルとして40年以上を読み継がれている。現在は鍼灸師として活動するかたわら、執筆や講演をおこなっている田中をドキュメンタリー作家の吉峯美和が4年にわたり密着。静かでマイペースながらパワフルな田中の言葉や行動から、彼女の魂の遍歴を追っていく。
いやぁ、良かった! 逞しさだけではなく、加齢とともにしなやかに生きる姿勢にとても元気をいただいた。
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映画の後、当時東門の「郷土玩具 平田』へと向かう。圧倒される量のコレクションの中から、お目当ての『饅頭喰い」を探す。確認できたのは4体、もちろん他にもあるかも知れないが。店の歴史などいろいろと教えていただき、写真撮影も先方から勧めていただいた。ほとんどが非売品、然もありなん。
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JRを越えて大宮東木津屋橋まで移動、一度行きたいと思っていた「とんかつ一番」に到着。店の看板はもちろんとんかつ、だが、朝からIM嬢と話題にしていた「牡蠣フライ」を選択。塩・タルタルソース・辛みケチャップのソースセットで美味しくいただく、もちろんビール付き。
自宅に戻って少し昼寝、昨日からの首の痛みがなかなか取れない。
西大路七条・ライフまで買物、白菜消費メニューを考える。
夕飯は、白菜と鶏もも肉のスープ、優しい味に仕上がったが写真忘れる。
同居猫が椅子を占領しているので、まず次男が先に食事。
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わりと遭遇率の高いフランスワインをいただく。近頃は、テレビはつけずに apple music を楽しんでいる。
三男がいつもより少し遅い帰宅、明日は休みなので頂き物の「獺祭」を提供する。
例によって、風呂の順番を待つ間にダウン。
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もう少し頑張れば、久しぶりの12,000歩/日だったのか。
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2ttf · 12 years
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momijiyama1649 · 5 years
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ざこば・鶴瓶らくごのご お題一覧 1992年    1 過労死・つくし・小錦の脂肪    2 一年生・時短・ニューハーフ    3 レントゲン・混浴・アニマル    4 ゴールデンウイーク・JFK・セクハラ    5 暴走族・かさぶた・バーコード    6 タイガース・母の日・入れ墨    7 目借り時・風呂桶・よだれ    8 しびれ・歯抜け・未婚の娘    9 ヘルニア・目ばちこ・フォークボール    10 造幣局・社員割引・オリンピック    11 父の日・猥褻・丁髷    12 ピエロ・ナメクジ・深爪    13 ミスユニバース・特許・虫さされ    14 魔法使いサリー・祇園祭・円形脱毛症    15 サザエさん・ジャンケン・バーゲンセール    16 ト音記号・北方領土・干瓢    17 妊婦体操・蚊帳・ビヤガーデン    18 身代わり・車だん吉・プラネタリウム    19 床づれ・追っかけ・男の涙    20 海月・肩パット・鶏冠    21 放送禁止用語・お年寄り・ピンポンパン    22 おかま・芋掘り・大人げない    23 復活・憧れ・食い逃げ    24 蒲鉾・風は旅人・半尻    25 泉ピン子・ヘルメット・クリーニング    26 美人姉妹・河童・合格    27 スカート捲り・ケツカッチン・秋の虫    28 チンパンジー・フォークダンス・いなりずし    29 稲刈り・小麦粉・フランス人    30 日本シリーズ・鶴瓶・落葉    31 クロスカウンター・学園祭・タクシー    32 付け睫毛・褌ペアー誕生・ツアーコンダクター    33 泣きみそ・ボーナス一括払い・ぎゅうぎゅう詰め    34 静電気・孝行娘・ホノルルマラソン    35 暴れん坊将軍・モスラ・久留米餅 1993年    36 栗きんとん・鶴・朝丸    37 成人式・ヤクルトミルミル・まんまんちゃんあん    38 夫婦善哉・歯磨き粉・夜更かし    39 金の鯱・オーディション・チャリティーオークション    40 ひ孫・いかりや長介・掃除機    41 北京原人・お味噌汁・雪祭り    42 視力検査・フレアースカート・美術館めぐり    43 矢鴨・植毛・うまいもんはうまい    44 卒業式・美人・転た寝    45 らくごのご・浅蜊の酒蒸し・ハットリ君    46 コレラ・さぶいぼ・お花見    47 パンツ泥棒・オキシドール・上岡龍太郎    48 番台・ボランティア・健忘症    49 長嶋監督・割引債・厄年    50 指パッチン・葉桜・ポールマッカートニー    51 同級生・竹輪・ホモ    52 破れた靴下・海上コンテナ・日本庭園    53 シルバーシート・十二単衣・筍    54 ぶんぷく茶釜・結納・横山ノック    55 睡眠不足・紫陽花・厄介者    56 平成教育委員会・有給休暇・馬耳東風    57 生欠伸・枕・短気は損気    58 雨蛙・脱税・右肩脱臼    59 鮪・教育実習・嘘つき    60 天の川・女子短期大学・冷やし中華    61 東京特許許可局・落雷・蚊とり線香    62 真夜中の屁・プロポーズ・水戸黄門諸国漫遊    63 五条坂陶器祭・空中庭園・雷    64 目玉親父・恐竜・熱帯夜    65 深夜徘徊・パンツ・宮参り    66 美少女戦士セーラームーン・盆踊り・素麺つゆ    67 水浴び・丸坊主・早口言葉    68 桃栗三年柿八年・中耳炎・網タイツ    69 釣瓶落とし・サゲ・一卵性双生児    70 台風の目・幸・ラグビー    71 年下の男の子・宝くじ・松茸狩り    72 関西弁・肉まんあんまん・盗塁王    73 新婚初夜・サボテン・高みの見物    74 パナコランで肩こらん・秋鯖・知恵    75 禁煙・お茶どすがな・銀幕    76 ラクロス・姥捨山・就職浪人    77 掛軸・瀬戸大橋・二回目    78 海外留学・逆児・マスターズトーナメント    79 バットマン・戴帽式・フライングスポーツシューター    80 法螺貝・コロッケ・ウルグアイラウンド    81 明治大正昭和平成・武士道・チゲ鍋 1994年    82 アイルトンセナ・正月特番・蟹鋤    83 豚キムチ・過疎対策・安物買いの銭失い    84 合格祈願・パーソナルコンピューター・年女    85 一途・血便・太鼓橋    86 告白・ラーメン定食・鬼は外、福は内    87 カラー軍手・放火・卸売市場    88 パピヨン・所得税減税・幕間    89 二十四・Jリーグ・大雪    90 動物苛め・下市温泉秋津荘・ボンタンアメ    91 雪見酒・アメダス・六十歳    92 座蒲団・蛸焼・引越し    93 米寿の祝・外人さん・コチョコチョ    94 談合・太極拳・花便り    95 猫の盛り・二日酔・タイ米    96 赤切符・キューピー・入社式    97 リストラ・龍神伝説・空巣    98 人間喞筒・版画・単身赴任    99 コッペン・定年退職・ハンドボール    100 百回記念・扇子・唐辛子    101 ビクターの手拭い・カーネーション・鉄腕アトム    102 自転車泥棒・見猿言わ猿聞か猿・トマト    103 紫陽花寺・豚骨スープ・阪神優勝    104 三角定規・黒帯・泥棒根性    105 横浜銀蝿・他人のふり・安産祈願    106 月下美人・フィラデルフィア・大山椒魚    107 鯨・親知らず・ピンクの蝿叩き    108 蛍狩・玉子丼・ウィンブルドン    109 西部劇・トップレス・レバー    110 流し素麺・目高の交尾・向日葵    111 河童の皿・コロンビア・内定通知    112 防災頭巾・電気按摩・双子    113 河内音頭・跡取り息子・蛸焼パーティ    114 骨髄バンク・銀杏並木・芋名月    115 秋桜・ぁ結婚式・電動の車椅子    116 運動会・松茸御飯・石焼芋    117 サンデーズサンのカキフライ・休日出勤・ウーパールーパー    118 浮石・カクテル・彼氏募集中    119 涙の解剖実習・就職難・釣瓶落し    120 ノーベル賞・めちゃ旨・台風1号    121 大草原・食い込みパンツ・歯科技工士    122 助けてドラえもん・米沢牛・寿貧乏    123 祭・借金・パンチ佐藤引退    124 山乃芋・泥鰌掬い・吊し柿    125 不合格通知・九州場所・ピラミッドパワー    126 紅葉渋滞・再チャレンジ・日本の伝統    127 臨時収入・邪魔者・大掃除    128 アラファト議長・正月映画封切り・ピンクのモーツァルト 1995年    129 御節・達磨ストーブ・再就職    130 晴着・新春シャンソンショー・瞼の母    131 家政婦・卒業論文・酔っ払い    132 姦し娘・如月・使い捨て懐炉    133 立春・インドネシア・大正琴全国大会    134 卒業旅行・招待状・引っ手繰り    135 モンブラン・和製英語・和風吸血鬼    136 確定申告・侘助・青春時代    137 点字ブロック・新入社員・玉筋魚の新子    138 祭と女で三十年・櫻咲く・御神酒徳利    139 茶髪・緊張と緩和・来なかったお父さん    140 痔・恋女房・月の法善寺横丁    141 ひばり館・阿亀鸚哥・染み    142 初めてのチュー・豆御飯・鶴瓶の女たらし    143 アデランス・いてまえだへん(いてまえ打線)・クラス替え    144 長男の嫁・足痺れ・銅鑼焼    145 新知事・つるや食堂・南無阿弥陀仏    146 もぐりん・五月病・石楠花の花    147 音痴・赤いちゃんちゃんこ・野崎詣り    148 酒は百薬の長・お地蔵さん・可愛いベイビー    149 山菜取り・絶好調・ポラロイドカメラ    150 お父さんありがとう・舟歌・一日一善    151 出発進行・夢をかたちに・ピンセット    152 ホタテマン・深夜放送・FMラジオ    153 アトピッ子・結婚披露宴の二次会・おさげ    154 初産・紫陽花の花・川藤出さんかい    155 ビーチバレー・轆轤首・上方芸能    156 ワイキキデート・鹿煎餅・一家団欒    157 但空・高所恐怖症・合唱コンクール    158 中村監督・水着の跡・進め落語少年    159 通信教育・遠距離恋愛・ダイエット    160 華麗なる変身・遠赤ブレスレット・夏の火遊び    161 親子二代・垢擦り・筏下り    162 鮪漁船・新築祝・入れ歯    163 泣き虫、笑い虫・甚兵衛鮫・新妻参上    164 オペラ座の怪人・トルネード・ハイオクガソリン    165 小手面胴・裏のお婆ちゃん・ガングリオン    166 栗拾い・天国と地獄・芋雑炊    167 夜汽車・鳩饅頭・スシ食いねぇ!    168 長便所・大ファン・腓返り    169 美人勢揃い・雨戸・大江健三郎    170 親守・巻き舌・結婚おめでとう    171 乳首・ポン酢・ファッションショー    172 仮装パーティー・ぎっくり腰・夜更し    173 ギブス・当選発表・ちゃった祭    174 超氷河期・平等院・猪鹿蝶    175 コーラス・靴泥棒・胃拡張    176 誕生日・闘病生活・心機一転    177 毒蜘蛛・国際結婚・世間体 1996年    178 シナ婆ちゃん・有給休暇・免停    179 三姉妹・バリ・総辞職    180 家庭菜園・ピンクレディーメドレー・国家試験    181 ほっけ・欠陥商品・黒タイツ    182 内股・シャッターチャンス・金剛登山    183 嘘つき娘・再出発・神学部    184 金柑・恋の奴隷・ミッキーマウス    185 露天風呂・部員募集・ぞろ目    186 でんでん太鼓・ちゃんこ鍋・脳腫瘍    187 夢心地・旅の母・ペアウオッチ    188 (不明につき空欄)    189 福寿草・和気藹々・社交ダンス    190 奢り・貧乏・男便所    191 八十四歳・奥さんパワー・初心忘るべからず    192 お花見・無駄毛・プラチナ    193 粒揃い・高野山・十分の一    194 おぃ鬼太郎・シュークリーム・小室哲哉    195 くさい足・オリーブ・いやいや    196 ダイエットテープ・北京故宮展・細雪    197 若い季節・自動両替機・糞ころがし    198 おやじのパソコン・なみはや国体・紙婚式    199 降灰袋・ハンブルグ・乳首マッサージ    200 雪見酒・臭い足・貧乏・タイ米・コチョコチョ・雷・明治大正昭和平成・上岡龍太郎・お茶どすがな・トップレス(総集編、10題リレー落語)    201 夫婦喧嘩・川下り・取越し苦労    202 横綱・占い研究部・日本のへそ    203 マオカラー・海の日・息継ぎ    204 カモメール・モアイ・子供の事情    205 ありがとさん・文武両道・梅雨明け    206 団扇・ボーナス定期・芸の道    207 宅配・入道雲・草叢    208 回転木馬・大文字・献血    209 寝茣蓙・メロンパン・初孫    210 方向音痴・家鴨・非売品    211 年金生活・女子高生・ロングブーツ    212 エキストラ・デカンショ祭・トイレトレーニング    213 行けず後家・オーロラ・瓜二つ    214 金婚式・月光仮面・ロックンローラー    215 孫・有頂天・狸    216 雪女・携帯電話・交代制勤務    217 赤いバスローブ・スイミング・おでこ    218 参勤交代・ケーブルカー・七人兄弟    219 秋雨前線・腹八分・シルバーシート    220 関東煮・年賀葉書・学童保育    221 バンコク・七五三・鼻血    222 ホルモン焼き・男襦袢・学園祭
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yamashita03 · 6 years
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迷ったら中米に行こう!~戦々恐々とコスタリカを旅する~
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20代最後の夏に思い切って中米コスタリカへ行きました。
幼稚園からの友人が海外協力隊として現地で活動しており、彼を頼りに8月10日から16日の1週間、初一人海外へ出て行きました。
コスタリカで見たものや経験はどれもみずみずしく新鮮なものばかりで、この気持ちが少しでもフレッシュなうちにメモを残しておきたいと考え、帰国の途につくコスタリカサンホセ空港にてキーボードを叩き始めました。(が結局書ききれたのがだいぶ後になってしまいました汗)散文的な内容になることを恐れずゴリゴリ書いていこうと思います。
【コスタリカの概況】
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言語はスペイン語。国教はカトリック。そのため街の要所には教会が立ち並んでいる。
コスタリカの歴史は基本的にはスペイン人統治時代から始まり、それ以前の先住民の歴史的、文化的な遺産などの観光資源に乏しいのが現状。
しかし、先住民たちが森を切り開き巨大な文明を築かなかったことと恵まれた気候から自然が非常に豊かで九州と四国を合わせた程度の国土面積に、地球全体の5%もの動植物が存在すると言われている。
国はこの点を自国の観光資源として捉え、国土の多くを国立公園として保護し、その自然の中を探索する『エコツーリズム』を世界に先駆けて始めた。これが世界に受け入れられ、それまで農業依存だった国の経済構造を好転させた。
そのほかにも軍隊を持たない平和国家として、軍事費に充てていた費用を教育や医療、再生可能エネルギーなどに投資し、前述のエコツーリズムに加え、中南米で屈指の教育、福祉、自然エネルギーの国として強い国家アイデンティティを保有している。(日本も見習いたい)
街の観光地はどこもごみが少なく、水道水も飲めるのは中米に限らず世界的にも希少な国のひとつではないだろうか。
【コスタリカの人々】
・観光地のガイドからUberのドライバー、クラブに来ていた若者に小学生まで様々な人と触れ合ったが総じて気さくで穏やかな人が多かった印象。車の運転もアジアなどに比べても丁寧な感じだった。
・観光地やホテルでは英語を話せる人が非常に多いため、スペイン語が苦手でもガイドを受けたり簡単なコミュニケーションは十分可能(ただし自分は英語もできなかったため状況は変わらなかった)
・中米の中で治安が良く経済が安定していることもあり、多くの移民が存在し、とくに貧しいニカラグア人が市街地でホームレス化している現状が社会問題となっている。そのほかにも社会情勢が不安定なベネズエラ人なども目立った。
私のコスタリカ旅行
友人が1週間のバカンス休暇を取りほぼ土地勘もコミュニケーションもできない私にほぼ24時間付き添ってくれて様々な場所に行かせてくれました。
現地で撮った写真を見ながら適当な順番と粒度でコスタリカについて語りたいと思います。
1.市街地の風景
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成田からヒューストンを経由し、サンホセ空港に到着。
駅からバスでサンホセ市街地へ出て街を散策。初めての中米だが、町の雰囲気は東南アジアとも近い印象。首都ということもあり、おそらく単純に国の経済力、発展度によって似た雰囲気の街が出来上がってしまうのかもしれない。(日本も昔はこうだったのかも)
市街地には人通りが多い。また、路上に座り大声で物売りをする人も多く見かけたが、友人曰く彼らはニカラグア移民だとのこと。あまり近づかないようにした。
2.食事
「コスタリカの食事はマズイ」と友人から聞かされていたため戦々恐々として乗り込んだものの、総じておいしかった。ただし、値段の割に(というか高い店に限って)全くおいしくない店もあり、その辺はどんな店でも一定のクオリティは保っている日本の外食店文化のあ���がたさを感じた。
<上流国民編> 
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初日夜は友人の現地の友達で日本に留学経験もあるというコスタリカの方とコスタリカの中ではちょっとハイソな街で夕食。とてもいい方たちだった。
写真は2件目に行ったビールバー。クラフトビールの飲み比べができた。
※ここに関わらず外食費は総じて日本よりやや安いものの大きな差はなく、中米の中では非常に高いとのこと。家族を大事にし、家での食事を重んじる国民性があるとはいうものの、平均月収が日本の数分の一ということを考えると外食はなかなか大変な出費になるのだと思う。
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山でのレジャーや森の散策を楽しめるモンテベルデ自然保護区で止まったホテルの隣にあったレストラン。モンテベルデという土地柄もあり周りは外国の観光客だらけ。
キャンドルがあったりと店の雰囲気は日本の都会のおしゃれレストランさながらな雰囲気だったが、料理は10ドル弱、ワインもボトル15ドル程度となかなかのコスパ。そして味が抜群にうまかった。この旅の中でもトップクラスに満足した食事だった。
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同じくモンテベルデでの食事。わかりづらいが、本物の大木をそのまま残し、その周りに3階建ての建物を巻きつける(?)ような特徴的な構造を持ったモンテベルデの有名レストラン。パスタは15ドル程度と結構お高め。
ただ申し訳ないが味がマズかった。4分の1程度しか食べれなかった。友人が「コスタリカの料理は味が薄い」と言っていたのはこれか!と納得。
その後パスタは宿へ持ち帰るも、部屋に置いておいたら蟻の餌食となり無事死亡。
<庶民編>
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友人行きつけという現地の食堂にて。コスタリカでは米(左)、レモンとパクチーの効いたサラダ(中央)、ポテト(右)、豆(奥)を基本セットに、そこに豚肉やチキンなどのメインが乗るワンプレート料理がスタンダード。
米はタイ米などに近く、日本のよりも細長くて水分が少ない。また、黒い豆と米を合わせて炊くとコスタリカの伝統料理「ガチョピント」となる。
だが、米と豆を別々に食べても味は大差ない。
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これは別の店だが、基本は一緒。そこに焼きバナナなどがついていた。
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モンテベルデの屋台にて。鶏むね肉とポテトというシンプルで豪快なファストフード。非常にボリューミーだが500円程度。美味しかった。
<家庭料理編>
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チフリーゴ。友人がお世話になっているホストファミリーのお家に自分もお邪魔してごちそうになった伝統料理。
ご飯に鶏肉と豆が乗っており、そこに刻んだトマトとパクチー(←これもよくコスタリカで出てくる)をお好みで載せて食べるどんぶり。鶏肉にトマトの酸味やパクチーの刺激が合わさりとても美味しかった。
米を食べる文化があるため、各家庭に炊飯器もある模様。(米があるのはありがたかった・・・)
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朝は旦那さんのほうが準備してくれた。ガーリックトーストにソーセージに卵、そしてパパイヤとかなりボリューム満点でおいしかった。
3.文化編
<原住民編>
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原住民が木の実などをすりつぶす際に使用していたとされる石の机。独特な形状が面白い。石工技術の高さがうかがえる。
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よく日本のテレビなどでもコスタリカを紹介する際に一緒に出てくる謎の石球。その製造年代や製造方法、作られた目的などが不透明で一部ではオーパーツの一つともいわれていたが、現在では研究も進みその謎が徐々に明らかになっているとかいないとか。
ちなみに写真は国立博物館にあったレプリカ。本物はコスタリカの郊外にあるため、観光地にはしばしばこのようなレプリカが置かれていた。
<建造物>
国立劇場
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コスタリカを象徴する建造物の一つ。この建物を壊したくないがために内紛が起こらない、と言われるほど現地人からも愛されているという建物。劇場内部も見学ができる。
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息を飲むほどの迫力。今なお現役の劇場として使用されており、しばしば日本の能や和太鼓の演奏なども上演されるとか。
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受付兼待合室。豪華すぎて落ち着いて待てなさそう。
ロスアンヘレス大聖堂
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首都サンホセの隣の県カルタゴにある大聖堂。国内各地から人々が巡礼に訪れる聖地で建物も非常にでかい。
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中の造りも荘厳で素晴らしい。礼拝に訪れた人は中央の通路を膝立ちで移動して祭壇へ向かう慣習があるようだった。我々は邪魔にならぬよう脇の通路を回って見学した。
<若者文化>
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現地人が多く集まる深夜のクラブへ友人と2日連続で繰り出した。入場前にID(自分の場合パスポート)と場所によってボディチェックが行われ、さらに場所によっては入場料も支払う。
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クラブで飲むのは大体ビール。他の酒より値段が安いため、お金のない現地の人もビールばっか飲んでいるとのこと。
ちなみにコスタリカのメジャーなビールはimperialとPilsenの2種類。そしてちょっと高くてマイナーなBAVARIA(写真)がある。味はimperialが薄くて軽く、Pilsenは少し香りとえぐ味が強い印象。BAVARIAはその中間といった感じ。
美味しかったのは写真に乗せたBAVARIAのゴールド。一番日本のビールに近い。時点でimperialのsilverという種類のもの。
BAVARIAはあまり扱っているところが少ないため、一通り飲んだ後はimperialを選んで飲むことが多かった。
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左の黒人Jango。入場の手続きで手間取っていると後ろから声をかけてきた。身長めっちゃ高いし超怖い。
でも本当は荷物を預ける場所を教えてくれようとしていたこのクラブ界隈の従業員?オーナー?的な人だったらしい。その後テキーラを2杯もご馳走してくれた。めっちゃ気さくでいい人。
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ぶれぶれ。お酒飲みながら爆音の音楽を聴いてるとある若者グループの輪に招かれて一緒に踊ってた。なんとなくアジア人で(自分は楽しんでたけど)周りになじめてないオーラが出ていたのか誘ってくれたのだと思う。
言葉は通じないけどお酒もあいまって身振りや表情でコミュニケーションを取る感じがなんとも楽しかった。
友人が話したところそこのグループにいたほとんどの人がベネズエラ人だったとのこと。ベネズエラといえば近年の超インフレで経済が破綻寸前、首都の治安は世界最悪と言われている国。あんなに気のよさそうな彼らの背景にそんな深刻な事情があるのか、と色々と考えさせられた。
4.自然編
上でも触れたモンテベルデ自然保護区にて、昼と夜の森林散策ツアーやキャノピーなどのレジャーを体験した。
昼はオランダ人の家族と一緒にガイドの話を聞きながら野山を散策。
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トゥカーン(の子供)
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なんか笑顔の木
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景色が一望できる!と思ったもののあいにくの雨。朝は晴れていたのに、、
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羽が透明な蛾?
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ゴミをあさっていたアライグマ。全然人を怖がらない。
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ちょっとここからはモンテベルデではないけど、
これは幻の鳥といわれるケツァールを見にいくツアーでの朝の集合場所のロッジに来ていたハチドリ。
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で、1時間以上何か所もポイントを回ってやっとお目にかかれたケツァール。 これはメスのため尾が短いが、オスはもっと尾が長く色も鮮やか。残念ながらこの日オスはお目にかかれず。
5.その他
帰国最終日にどこ行きたいかを友人に尋ねられ、彼の職場のゴミ収集センターと地域の小学校へ行くことに。
サンホセのゴミ収集センター
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回収されたごみたち。袋の中身はまだまだ分別が行き届いていない状態。
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各地から届けられたごみ袋はこの台で職員の方が一つ一つ開封し手作業でごみを仕分けている。
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普段はこの仕分け作業をおばちゃん2~3人で行うそうだが、この日は民間企業からCSR活動の一環と職場体験ということでさらに数名参加していた。エライ
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ペットボトルは無色と有色のものを分けてプレス。プレスすることで輸送にかかるコストを下げている。
これらは民間の業者に売却され、資源として再利用される。
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段ボールも同様。談笑しながらも手際よく潰してトラックにつめていた。
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外では家庭のごみなどを持ってくる人がごみを捨てていた。まだまだポイ捨てなんかも多く、ゴミに関しての市民の意識が低いとも感じられたが、このように律義にごみを持ってきて捨ててくれる人がいることがありがたいとのこと。
サンホセの小学校
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その後サンホセの小学校にアポなしで突撃するも、友人の顔パスで難なく入れた。
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カメラを向けると照れて顔をそらす子供。なんかとても開放的で自由な雰囲気。
生徒たちは全員1日学校にいるわけではなく、上級生と下級生が曜日ごとに午前、午後の授業日を交代でまわすようなカリキュラムを取っているそう。
例えば月曜日の午前が上級生の授業なら、午後には上級生は下校し、下級生が授業をする。火曜日はその逆、といった感じ。
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後者が”ロ”の字型になっており、中庭が校庭になっており、中央の礼拝堂を挟んでコンクリートのバスケコートが二面あった。
ただしバスケを行っている生徒は誰もいなかった。コスタリカ人はサッカーが好きだからフットサルコートにでもすればいいのに。
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牛乳パックを再利用してできた机だそう。木のように固い。
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体育の時間で誰もいない教室。
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パソコン教育も行われている。ここのパソコンも友人の協力隊活動の一環で企業から提供されたもので、この部屋はそのために新たに作られたものなのだそう。
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食堂。おやつにフルーツを振る舞われることも。
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帰り際に先生に挨拶をすると我々もフルーツをゲット。リンゴをむしゃむしゃ食べながら帰路についた。
さいごに:コスタリカを旅行しての感想いろいろ
1.意外と多かった、日本を親しんでくれる人々
この旅で最も印象深く嬉しかったものの一つが日本に親しんでくれている人が多かったこと。上でも述べた初日に紹介してもらった女性たちのほかにも、例えば2日目に行ったクラブでは「日本人!?」と声をかけてくれたコスタリカ人がいたのだが、彼はなんと3月まで我々の地元の宮城県の東北大学に留学していたとのこと。
さらに4日目に利用したUberの車の後ろにはなぜか日本の国旗が飾ってあって、話を聞いてみると彼は日本にこそ行ったことないものの、日本の興味があり自主的に日本語を学んでいるとのことだった。友人曰くこんなに色々と日本を知っている人に出会うことは珍しくてラッキーだったとのこと。楽しい出会いのある旅行だった。
2.中米への関心が深まった
当たり前すぎる小学生並みの感想だが、こちらも自分の心に大きな変化をもたらした。
先ほども述べたようにあまり日本人にとってなじみのないコスタリカだが、地球の裏側では日本に関心を持ってくれている若者たちがいる。そしてみんな気さくで親しみやすく、とても可愛げのある人たちだった。
日本に興味を持ってくれている人たちがこんなにもいてくれていることを考えるとすごく嬉しく感じたのと同時に、自分たちももっと海外に目を向けていかなければいけないと感じた。
さらに前述したベネズエラ人との出会いも考えさせられるものがあった。恥ずかしながら自分はベネズエラなんていう国は国名を知っている程度の知識で、彼らに出会わなければきっとこの先もベネズエラに関してここまで関心を抱くこともなかったと思う。
帰国してすぐに、超インフレが進むベネズエラでは桁を減らすための新たな通貨の単位を作るという経済政策が打ち立てられたとのニュースが入ってきた。もちろんこんな政策ではさらに経済を混乱させることになりかねないという見方が大半だ。経済が混乱すれば他国への移民問題もより深刻になるだろう。これから先中米はどうなるのか、今後の情勢には色々と関心を寄せていきたいと考えるようになった。
3.外国語を話せるようになりたいと思うようになった
今回の旅行は友人のサポートもあり様々な出会いと気づきのある非常に楽しい旅行だったが、それゆえに言葉を理解して自分の気持ちを伝えられないもどかしさを抱えていた。
例えば彼のホストファミリーの家にお世話になった際も、食事を「美味しい」という気持ちすらうまく伝えられず非常にもどかしかった。お土産に持って行った九谷焼についても、本当はその背景にある日本の文化や歴史なんかを話したいという気持ちはあれどそんな高度なコミュニケーションが取れるはずもなく、、
ホストファミリーのおじいちゃんおばあちゃんが本当に親切にしてくれただけに、自分の気持ちを言葉で伝えられない歯がゆさがあった。
海外旅行は恐らく簡単な英語と身振り手振りで頑張れば、観光地を巡ったり宿に泊まったりなどある程度の目的は達成することができると思うし、実際自分もその程度で良いと考えていた。
でも海外旅行で一番楽しいのは現地の人との生のコミュニケーションだろうと思った。その土地の人が何を考え同くらいしているのか、そういったことを言葉を介して理解し、また自分の考えも相手に伝えられるようになりたいと強く感じた。
せめて日常会話レベルの英語でも身につけたい。。30年弱の人生で今が一番外国語学習欲が高まっていると感じている。今やらないと一生やらない気がするので、ひとまず本を読みながら拙いながらも話せるように勉強中。
4.ごみのことに関心を持つようになった
友人の職場に行き、いろいろとごみへの思いを語ってくれたこともあり自分もごみへの関心が高まった。
自分が普段何気��く出しているごみも処理には多くの人手が必要ということ、作業はハードなこと、そして何よりも地球上の多くの人が関わり、今後も関わり続けていかなくてはならないものだということ。
現地の方の仕事ぶりを見て説明を受けると、自分もなにかできないか自然と思いを巡らせていた。
例えば友人はごみを出す段階で分別がされていないことがひとつの問題と言っていた。
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なるほど、確かにゴミ箱は色分けされてどこに何を捨てるべきかが分かりやすくなっている。
ただ、ちょっとデザインの観点から考えてみるとゴミ箱の上にはごみの種類が分かるような絵を入れたり、ゴミの入れ口を入れるごみの形にしてごみを捨てる行為をアフォードさせるような施策があってもよいかと感じた。
現状だと識別する要素が色と小さく書かれた文字のみのため、例えば歩きながら街を歩く人がごみを捨てようとした際に反射的に自分が捨てたいごみの正しいゴミ箱を判断しづらいのではと感じた。色とごみの種類に明確な関係性がないため、ほかの要素で使い手に正しいゴミ箱を反射的に認知させる仕掛けが必要と考えた。
日本のごみ箱はまだそのへんが少し良くできていて、入れ口の直下に何を入れるごみ箱なのかを絵と言葉で入れることでごみを捨てる人の目に必ず入るように工夫されているとともに、口の形状で何を入れるべきかを感覚的に示している。
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缶やペットボトルなど、入れ口を丸くすることでそのごみ箱が飲み物の容器を捨てるものだと把握できるのと同時に、丸い形状に筒状のものを入れたくなる人間の心理も上手に作用させている。
そんな小さな��善を重ねながら、街がもっと綺麗になってコスタリカ人のごみへの関心が高まることを願っている。
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tufboy02 · 3 years
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つまみの豆類を使いゴンバオジーディン(宮保鶏丁)を調理した結果・・・
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材料:若鶏むね肉🐔パプリカ🫑ピーナッツ🥜アーモンド
調味料:胡麻油、オイスターソース、豆板醤、おろしニンニク、おろし生姜
なかなかイケる😋
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guojingjp · 3 years
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旧正月
時間が経つのは速いくて、中国の旧正月まであと2日です。今僕は会社にいますが、多くの同僚はすでに休暇で帰省しています。一方、会社は大幅に人員削減しました。それで、会社の雰囲気は少し冷たいです。普段は仕事が好きな私でも、朝起きて最初に思ったことは「今日は仕事しなくても良いかな」ということでした。
中国人として、その日はもちろん新しい年の始まりです。旧正月を迎えるために、街灯には様々な提灯が吊られます、非常に伝統的な中国の雰囲気が漂っています。旧正月の日には、家族の中で一番年長の子供として、食事の準備をしなければなりません。「宮保鶏丁」や「エビフライ」や「鶏ガラスープ」や「蒸し魚」などは逃せません。普段は忙しいくて、料理のレベルが下がるかもしれません、ちょっと心配です。
中国の旧正月は、主に家族と一緒に過ごすことになります。今は仕事中ですが何もすることがないので、サボって早く帰りたくなります。
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5.朝鮮人の働き方
問い6:李氏朝鮮末期の状況について>5.朝鮮人の働き方
目次は こちら
5.朝鮮人の働き方
 『朝鮮紀行』の「第六章 漢江とそのほとり」の110ページにしたがって、朝鮮人の働き方に関する記述を拾い出して以下に記します。
[貧しさを生活必需品の不足と解釈するなら、漢江流域の住民は貧しくない。自分たちばかりか、朝鮮の習慣に従ってもてなしを求めてくる、だれもかれもを満たせるだけの生活必需品はある。負債はおそらく全員がかかえている。借金という重荷を背負っていない朝鮮人はまったくまれで、つまり彼らは絶対的に必要なもの以外の金銭や物資に貧窮しているのである。彼らは怠惰に見える私も当時はそう思っていた。しかし、彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」と噂された者、たとえそれが真鍮の食器で食事をとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流れた者は、強欲な官吏とその配下に目をつけられたり、近くの両班から借金を申し込まれたりするのがおちなのである。
 また、「第十二章 長安寺から元山へ」の208ページには、次の記述があります。
[磨釵洞をはじめ、手ごろな海岸で船を退避させられる所の海岸沿いの村落は、その存在理由を沿岸漁業とする。(中略)
 朝鮮の漁民は意欲にはなはだしく欠けるとされており、(後略)。漁業が沈滞しているのは、他の諸産業と同じく、労働者の所得がまったく不安定でしかも官僚が搾取しているからである。朝鮮の漁民はどうせ何かと口実を設けて取り上げられてしまう金銭なら、儲けようという気にならないのである。また、漁業に従事する階層には、貧しさと言う楯を求めようとする傾向が全般にある。]
 バード女史は、ロシア国旗のもとに安住の地を求めた推定2万人の朝鮮人の実態を、沿海州のヤンチーハという朝鮮人入植者の村に調査に行きました。そこは朝鮮本国なら上流階級しか住めないような家屋の集落があたり一帯に点在しており、750エーカー(約185㎢)の肥沃な土地に140戸が入植している所で、その数軒の農家を訪問しています。294ページにその様子が記されていますので、引用します。
[農家の庭は掃除が行き届き、家畜小屋もきちんとしていた。家は純然たる朝鮮家屋で、四間か五間あって大きく、藁屋根は丁寧に葺いてあり、とてもきれいに片づいた屋内には本国なら高級官僚にも夢にすぎないような家具や設備が整っている。]
 また、307ページには次の記述があります。
[朝鮮に居た時、私は朝鮮人というのは屑のような民族で、その状態は望みなしと考えていた。ところが沿海州でその考えを大きく修正しなければならなくなった。自らを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だと素晴らしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家でも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。]
 バード女史はロシアから戻って、長崎から釜山を経由して元山からソウルへと行き、ソウルから平壌を経て徳川へ行きました。彼女は徳川から平壌への帰り道で、次のような思いを、432~433ページに記しています。
[気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱と盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福で幸せな国民であっておかしくない。もしも、「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪弊が強力な手段で阻止されたなら、そしてもしも地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民はまちがいなく日本の農民に負けず劣らず勤勉で幸せになれるはずなのである。しかし、この「もしも」は余りにも大きい!
 (中略)
 旅行者は朝鮮人が怠惰であるのに驚くが、わたしはロシア領満州にいる朝鮮人のエネルギーと勤勉さ、堅実さ、そして快適な家具や設備をそろえた彼らの住まいを見て以来、朝鮮人の怠け癖を気質と看做すのは大いに疑問だと考えている。朝鮮じゅうの誰もが貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食をまかなう以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っているのである。]
 上の記述は、朝鮮の農民と漁民など働く人の全員が「貧しさは最良の防衛手段」と思って、表面的には怠惰な生活をするようになっている状態が実にありありと記されています。
 朝鮮の官僚たちが貪欲であり、搾取を公然とする原因は、科挙の試験の在り方にあるといえます。すなわち、官僚になれるのは両班といわれる人たちで、科挙に合格した人たちです。李氏朝鮮末期には科挙の試験も賄賂が横行して、成績ではなく賄賂によって合否が決まったといわれています。そして、中央の科挙を行う人たちは、多くの賄賂を得るために、科挙の試験を3年に1回の規定に拘らずに、何回も行ったことが知られています。
 このようにして生まれた多くの科挙の合格者は、官僚のポスト以上に誕生しています。官僚のポストに比して、科挙の合格者の人数が圧倒的に多くなってしまっていたのです。そこで、官僚に任命されるように、国王や執権者に多額の賄賂を送り、官僚に任命してもらう必要が出てきます。このようにして任命された官僚は多額の賄賂を取り返し、蓄財するために、農民や漁民など取れる所から「搾取」をしないと、採算が合わないのです。官僚になりたくてもなれない科挙の合格者はさらに賄賂を積んで官僚に任命されるように働きかけます。そこで、すでに官僚になっていても、いつ次の官僚が任命されて赴任してくるか分かりません。ですから、必然的に官僚の任期が短くなります。短い任期の間に賄賂以上のお金を取り返す必要があるのです。以上が官僚の搾取が苛烈を極めた原因であると思われます。
 さらに考慮すべき問題は、官僚と官僚候補としての両班は肉体労働をすることを恥としていた文化があったことです。
  『朝鮮紀行』の「第八章 自然の美しさ/急流」の137ページには、次の記述があります。
[美しいパガミの村には、一本の柱にこう大書してある。「パガミを通る両班の従者は、礼儀正しく品行方正であれば問題ないが、素行が悪ければなぐられる」。何と痛快な主張であることか! というのも、朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。両班はみずからの生活のためには働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分では何も持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すらもたない。慣習上、この階級に属する者は旅行するとき、おおぜいのお供をかき集められるだけ集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅かして飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。パガミのはり紙の意味もこれで説明がつくわけである。]
 『朝鮮史1』の「第8章 朝鮮後期」の「3 社会変動と身分制度の動揺」の422ページには1690年から1858年までの、両班・常民・奴婢の、慶尚道大丘の事例が、宮嶋博史氏『両班』198,199ページを出典として紹介されています。それによると、1690年には僅かに7.4%だった両班の人口比率は、258年後には48.6%まで増えています。そして1858年にはこの働かない両班の生活を、20.1%の常民と31.3%の奴婢が支えなければならないのです。
 ここに李氏朝鮮時代の大きな体制的な問題が示されています。すなわち、統治する人たちと統治される人たちの人数がほぼ同じことが、官僚による常民・奴婢にたいする「搾取」を不可避にしているのです。
 いかなる国であっても、国民の約半数が、労働をすることを恥として税金を納めずに、残りの半数の人々から搾取して贅沢な生活する場合、その国が栄えるはずがありません。そして、搾取する方も、搾取される方も日々生きるために必死に戦い、防戦し、国を発展させてお互いを幸せにする発想などなくなってしまうのです。
 常民が減れば国家への納税が減少し、王宮・国家財政が窮乏します。これを補うために国王は地方の高級官僚の職位を高額で売って、王や妃の贅沢をする費用を捻出し、高級官僚は一般官僚にそれぞれの地位を売り、王に払った費用を取り返す必要があったのです。このように李氏朝鮮は構造的に腐敗し、不正な「搾取」を不可避にする構造になっていたのです。そして、不幸なことにこの構造を改め、腐敗や搾取を正す考え方と勢力が存在していませんでした。
 スウエーデン人のアーソン・グレプストも、李氏朝鮮末期の社会を見て、「両班は人の目に少しでも労働と映ることとなら、出来る限り遠ざかろうとする。自分の手で衣服を着てはいけないし、タバコの火も自分で点けてはならない」と『悲劇の朝鮮』において朝鮮末期の社会を観察しています。
 どうやら、両班は儒教を学んで、国の統治をするのが役目であって、労働は統治者のすることではないと信じていたものと考えられます。科挙で実学を軽視した思想の延長線上に、両班が労働を卑しむ習性が生まれたものと思われます。儒学と科挙が両班に労働を避けさせたのです。労働を恥とする両班の習慣と、官僚の地位数に比して圧倒的に過剰な人数の両班の存在が、足を抜けない腐敗の泥沼の深みへと朝鮮全体を上から下まではまっていたといえそうです。
 本来であれば、両班が圧倒的に過剰な問題は���国王や中央の執権者が、必要な官僚のポストの数まで両班を減らして、働いて税金を納める常民を増やす施策を講じるべきですが、事実は国王までもがその場しのぎの売官売爵と収賄を重ねて、本質的な対策をしなかったことが、李氏朝鮮末期の底無しの混乱と腐敗を招いた原因だと思われます。現在からみれば、身分制度を廃止して、国民全員から税金を徴収し、全部の男性に軍役の義務を課すべきでしたが、その発想はありませんでした。
 これが李子朝鮮末期の「朝鮮民族による朝鮮統治」の現実でした。
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偕老の契りを交わした、ひとりの農家
農家 木村正明
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「作ってて言うのも何ですが、やっぱり食べて美味いんですよ!」
平成5年の大冷害の年に、ほぼ全滅していた田んぼから、たった3本だけ生き残った稲穂が東松島市で発見された。その稲穂はササニシキの突然変異で、発見した人には当日雲の切れ間から光が田んぼに差し込み、輝いて見えた事から、その稲には“天より授かりしお米“「かぐや姫」と命名された。
一時は旧矢本町の特産米になるなど、華やかなスタートを切ったにも関わらず、現在では市内を含め宮城県内でもたった一人の生産者となった農家木村正明(38)さん。「なんでみんな作らなくって、今も一人で作り続けているの?」という問いに、冒頭の答えと、その言葉を発した時の表情が、とても印象的だった。
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野山を巡った少年時代
木村さんの自宅は東松島市大塩地区にある。海から直線距離で約5キロも離れた山あいにも関わらず“塩”の文字がつくこの大塩地区は、窪地が散見された旧大窪村と、市内を流れる定川の支流が当時は川深深く、大潮の時には海水が遡って流れ込む旧塩入村が、明治29年に合併をした村である。 木村家は旧大窪村にあり、名の通り山間部の窪地で、代々受け継いだ田んぼも”沢田”と呼ばれ日照時間が短く、お米の量も効率的に収穫が出来ない程だった。その為家業はたばこもやり、牛や鳥を飼う生活をし、不便に思った事はなかったが食べて行くのがやっとでもあった。 子供の頃の記憶を辿ると、家は茅葺き屋根、6歳頃までは土間もあり、母屋の隣には味噌小屋、野菜は畑、また鶏や牛を飼ったりもしていたので、食べ残しは家畜のエサや飼料にと、自給自足に近い暮らしをしていたと振り返る。
山と窪地に囲まれたここでは、子供の遊びは山登りに、探検、防空壕探検など自然が遊び場。もちろん小遣いなんてなく、木の実を採ってはおやつ替わりに。時に自動販売機の下を覗き込み、当時200円だったガチャガチャが夢のまた夢だったのを今でも覚えている。
お手伝いがきっかけで見えた道筋
物心がついた時から家業の手伝いをしていた30年前頃から、先代から受け継いだ田んぼだけでなく、母親の妹の嫁ぎ先である市内の宮戸島の田んぼの“担い手”として作業受託を始めるようになった。宮戸島は、奥松島とも呼ばれ、風光明媚な景観や自然豊かな島として東松島市の観光名所である。また四方を海に囲まれている事から、海苔や牡蠣の養殖業、定置網や潜り漁、春には潮干狩りなど海の幸に恵まれてもいた。そのため専業農家を営んでいる家はなく、田んぼの収穫時期と漁業の時期が重なったり、田植えの時期は観光客が増えて民宿仕事が忙しく、田んぼには人手が不足していた。
そんな地域で、親戚の田んぼ作業を請け負う木村家は、徐々に認知され始めるようになる。委託する側としては、安心して繁忙期は他の作業に集中が出来る事はもちろん、たんぼを持っていても手が回らない理由で放置しておくより、木村家に託して収量を上げ、幾ばくかの収入にした方がよいという判断である。また、木村家の人柄や丁寧な仕事振りは宮戸島の人々の安心と信頼を生み、田植えや稲刈りだけなど、細かい作業受託を含めれば、多い時には宮戸島全体で50haの田んぼのうち、半分以上の27haの田んぼを、木村家で担うまでになっていた。
「八方ふさがりです」で決めた歩む道
30年前から続いた宮戸島での作業受託は現金収入という事もあり、木村家にとっては大きな収入源として確立され、専業農家としても安定を感じていた。2010年の収穫も無事に終え、2011年度の米の準備を進めていた2011年3月11日に、東日本大震災が発生した。海を四方に囲まれていた風光明媚な宮戸島は、甚大な被害を被ってしまった。幸い親類縁者など人的被害はなかったものの、子供の頃から通っていたあの宮戸島は様変わりしてしまった。何より、当時35歳で働き盛りの木村さんが担っていた、宮戸島の田んぼは全滅した。
内陸部の大塩にある木村家は、築数百年の実家も含め、震災による直接的な被害は、市内の状況に比べればほとんどなかった。しかし、当時の仕事の基盤となっていた宮戸島が全滅した事もあり、震災で9割の収入が途絶えた。その窮状に、幸いにも動ける状況であったため、震災直後からあらゆる支援策や、補助金の相談に市の農林水産課から、県の当時の復旧センターなど相談出来る所はとにかく足を使ってかけずり回った。しかし、直接被害のあった田んぼや農家への支援や補償はあるものの、委託された田んぼの担い手であった”作業受託”に対する補償や、支援メニューはどこを探しても見当たらなかった。実質作業に従事していたのは木村家だが、田んぼの所有者であり作業を依頼していた方への農地の補償はあっても、作業していた人への補償はなく、最終的には農水省の県復旧センターの担当者と掛け合った末の答えは、「八方ふさがりです。」
竹取倶楽部発足、華々しいデビュー
かぐや姫の発見者は、東松島市矢本町の小野寺諭(87)さんだ。きっかけは、小野寺さんのササニシキの田んぼでも、冷害の影響で籾殻の中に身が入らず行灯のように籾殻が透けた状態の田んぼになったのだが、その状態でも1反から2~3俵は米がとれたため、その日も田んぼには出掛けていたのだった。ちなみに行灯のように透けた籾殻を持つ穂を“行灯穂(あんどんぽ)”と呼ぶそうだ。
そんな“行灯穂”だらけの田んぼに、しっかりと身が入り頭を垂れていた3本の稲穂は、大冷害の影響で全滅しかけた田んぼに光が差し込み、見つけろよと言わんばかりのまさに「天より授かりしお米」として、小野寺さんには光り輝いて見えたそうだ。その貴重な3本の稲穂は、全て種籾として大事に保管・管理され、その翌年、翌々年と延べ5年もの歳月をかけ、種籾として十分な量を確保する事までに至った。その間、保有する田んぼで稲を育てるのではなく、他品種の花粉と混ざらぬよう、自宅の敷地で大事に育てたあげたほどである。
そして平成5年の発見から6年後、平成11年に「かぐや姫」は品種登録され、翌平成12年度には「竹取倶楽部」を発足。作付け農家は6軒でスタートを切り、父政行さんも初期メンバーの一人だ。竹取倶楽部の出だしは順風満帆であった。当時は旧矢本町の特産米として認定され、市場では高値がつき、一時は同じく旧矢本町の特産品である海苔とコラボしたおにぎりがコンビニでも発売されたほどだ。肝心の味は、政行さんだけでなく母のてい子さんも「味はうまかった」と言う。年に一度の大塩地区の祭りで、地元農家5~6軒が作ったお米を、お祭り来場者に目隠しでお米を食べさせる企画では、堂々の人気1位にも選ばれた。日頃お米がすぐそばにあり、舌の肥えた地元の人達からの評価である。
かぐや姫のおかれた現実
とはいえ、最盛期には13軒まで増えたかぐや姫の作り手も、震災直前には3軒にまで減少をしていた。
理由は、かぐや姫は積算温度が他のお米に比べて高い極晩生品種である事。だからこそ、平成5年に発見されるのだが、他品種に比べて種まきや田植えの時期は変わらないのだが、積算温度が高い分稲刈りの時期が約1ヶ月遅れる。稲刈りが遅れると言う事は、多品種の稲刈りを終えた後、ひと月後にまた同じ作業を行うという事で作業効率が悪い。また、本来ササニシキは稲の背丈が高く風の強い宮城県では倒伏しやすい課題があり、大冷害を機に、ほとんどの農家が背丈も低く倒伏せず、1反当たりの収量も高い品種改良されたひとめぼれに移行していた背景もあった。ちなみに3軒のうち1件は、発見者の小野寺さん、もう一件は市内の農家さん。そして、木村家だ。木村家の場合、宮戸島の作業受託をしていた米の作業がちょうど終わる頃にかぐや姫の収穫時期が来るため、作業効率がとても良いので継続をしていた。
震災直前、農協に竹取倶楽部(3件)でかぐや姫を約700袋出荷していたが、実態は、かぐや姫の実売は15袋程度しか売れていなかった。700袋出して、わずか15袋。そもそも県内の新米時期から1ヶ月遅れで市場に出て、付加価値をつけた分市場価格からしても多少高い値段設定をした事も要因の一つだ。農協では、概算金と言われるその年の流通上の最低価格で出荷分を買い上げ、その後その品種としての販売数に応じて差額が生産者に支払われる仕組みだ。売れていない残りの685袋はどうなるか?「品種なし」として流通され、概算金の価格で取引がされる。こうしたお米が動くのは質ではなく、量だ。
残された最後の竹取の翁
役所で「八方ふさがりです」と宣告を受けた際、木村さんはどこか吹っ切れたと言う。自分自身は農家が好きだし、何より性に合っていた。けれど、それ以上に自分が食べて美味しいと思って作った作物を、安い価格で取引されていた現実、どれだけ訴えても手が差し伸べられなかった状況など、様々な世の中の不条理に対して、この「かぐや姫」で見返してやろう!と決めた。
とは言え、家族の特に両親からは反対された。震災以前から、父政行さんはお米主体ではやって行けないのが分かっていた。両親からは「お前は米を辞めて、サラリーマンをやれ。」と。しかし、もがき苦しんだ末に、敢えていばらの道を選んだダンナに対して正直不安を抱えていた妻絵美さんは、「娘が産まれてすぐで、心配でしょうがなかったけれど、なんとかなると思った。いつか花が咲くでしょう。咲かせてみせろと。」
震災から1年半後、収穫したかぐや姫は農協へは出さず、かぐや姫を「きむら米」として全量自家販売する腹を決めた。
いま現状は、震災前の30%くらいまで手応えを感じるようになって来たと言う。農協では15袋しか売れなかった米も、営業の仕方がわからないながらも、30袋にまで売上は伸びてきた。もともと根拠のない自信や、米作りに対するこだわりもあったので、やっとかぐや姫が認められて来たのかなぁと、素直に喜べる。なにより直接的に食べて美味しいと言ってもらえる事が嬉しいので、今後も努力は続けていく。とはいえ、作ったかぐや姫全てが売れたとしても、事業としては成り立たないのが現実で、嬉しい!とただぬか喜びは出来ない複雑な状況だ。
木村さんが思い描く「宮戸島」
自分が子供の頃、不思議と海が好きだった。山あいの村で生まれたから、無い物ねだりかもしれない。父の手伝いで宮戸島に付いていくと田んぼの真横はすぐ海で、田植えをしていれば、ウミネコが頭上を飛び回り、機械を止めれば波の音が聞こえる。
その大好きな宮戸島が震災で、様変わりしてしまった。恩返しではないけれど、何かしたいと宮戸島のコトを考えていたら、ある考えがビビビ!と閃いた!!
ワイナリーだっ!!!この島なら、水もいらないし、土地に合っていて、観光地でもある宮戸島にピッタリだ! 妻と一緒に地元の人を巻き込んで、採れたブドウでワインを創り、豊富な魚介と一緒に味わえる海が見えるレストランを作り、宮戸島をまた元気にしたい。すでにワインの名前も決まっている。名前は「浜の涙」。嬉し涙、悔し涙、全てを包括した名前だ。
ワイン用語で「テロワール」という言葉がある。フランス語の土地から派生したテロワールは、方言のように“その土地ならでは”を指し、日本語では「地域性」「風土」という言葉が近いそうだ。これからの宮戸島で木村さんがやりたいのはワインを作りたいのでも、レストランを作りたいのでもなく、“その土地ならでは”の宮戸島を思い描いています。現実的には、木村さんはこれまで培った作業受託の仕組みを軸に、集落営農の促進や、新たな担い手の育成にも興味を持ってもいる。ちなみに今年のかぐや姫の作付け面積は、2.7ha、11tが目標だ。11tといえば、367袋。
まだまだ木村さんがやる事は、とてつもなく多い。
2014年11月
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ozawajun · 4 years
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仕事場で死にたかった・・
水道橋博士のメルマ旬報』過去の傑作選シリーズ~川野将一ラジオブロス 永六輔『六輔七転八倒九十分』~
芸人・水道橋博士が編集長を務める、たぶん日本最大のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』。 突然ですが、過去の傑作選企画として、今回は2016年7月10日配信『水道橋博士のメルマ旬報』Vol89 に掲載の川野将一さん ラジオブロス「Listen.64 永六輔『六輔七転八倒九十分』(TBSラジオ)」を無料公開させていただきます。  本原稿は、川野さんが永六輔氏の番組終了に伴って執筆し、死去の報道の前日に配信したものです。  是非、一人でも多くの人に読んでいただければと思っています。  (水道橋博士のメルマ旬報 編集/原カントくん) 以下、『水道橋博士のメルマ旬報』Vol89  (2016年7月10日発行)より一部抜粋〜
川野将一『ラジオブロス』 -----------------------------------------------------------◇ Listen.64 永六輔『六輔七転八倒九十分』(TBSラジオ) ( 2015年9月28日〜2016年6月27日 毎週月曜 18:00〜19:30 放送 )
【訃報】「永六輔、ラジオ生放送中に大往生」     昨日午後7時20分過ぎ、TBSラジオ『六輔七転八倒九十分』の生放送中に     パーソナリティの永六輔氏(本名・永孝雄)が東京都港区赤坂のTBSのスタジオで     亡くなった。先週までの1か月間は体調を崩し番組を休んでいたが、昨日は病院の     診察を受けてから娘の永麻理さんとともに参加した。しかし、番組後半のコーナー     「六輔交遊録 ご隠居長屋」で永氏の反応が全くないことに出演者のはぶ三太郎が気付き、  一同が呼びかけ救急医も駆け付けたがそのまま息を引き取った。永氏の最後の言葉は、     外山惠理アナウンサーに対して言い間違えた「長峰さん」だった。享年83。 
本人が望んでいた最期とは、例えばこんな感じだったのだろうか。 1994年出版、200万部を売り上げたベストセラー『大往生』の最後に自分への弔辞を書き、 1969年放送の『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)では旅先のニューギニアから 帰国できなくなったアクシデントを逆手に、"永六輔、ニューギニアで人喰い人種に喰われる!" という番組を放送し、各メディアが巻き込まれた騒動の大きさから警察にも怒られた。
これまで度々、自らの「死」をネタにしてきた偉大なるラジオの巨人ではあるが、 冷静に考えれば生放送中に亡くなることは、机の下のキックやマイクで殴ることよりも悪質である。 しかし、冠番組を失った今、その有り難いいやがらせを受けるチャンスもなくなった。
1967年から2013年まで、平日の10分間、46年間続いた『永六輔の誰かとどこかで』。 1970年から1975年まで、毎週土曜日6時間半放送された『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』。 1991年から2015年まで、24年半続いた『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。 さらに1969年から1971年の間の土曜深夜は『パック・イン・ミュージック』も担当し、 1964年から2008年放送の『全国こども電話相談室』では回答者としても活躍。 子供に向け、若者に向け、高齢者に向け、ある時期のTBSラジオとは「永六輔」のことだった。 重要なポイントは生放送の番組はすべて週末に固めていたことである。
「放送の仕事をするならスタジオでものを考えてはいけない。  電波の飛んでゆく先で話を聞いて、そこで考えてスタジオに戻ってくるべきだ」
ラジオパーソナリティの仕事を始めた時、恩師の民俗学者・宮本常一に言われたことをずっと守り、 平日は全国各地へ。1年のうち200日は旅の空。久しぶりに家に帰ると「いらっしゃいませ」と 迎えられるのが常だった。1970年から始まって今も続く、永とは公私ともに長い付き合いである 『話の特集』元編集長の矢崎泰久が初代プロデューサーを務め、自身がテーマソングを作詞した 紀行テレビ番組『遠くへ行きたい』(日本テレビ系)もそのスピリッツを受け継いだものだった。 いつも、自分で足を運び、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことが、その口から伝えられてきた。
だからこそ、かつてのように自らの足で自由に出かけられなくなったとき、 自らの口からはっきりとした言葉で伝えられなくなったとき、激しく悔やんだ。 2010年、パーキンソン病が確認された永は「ラジオを辞める」ことを考えた。 だが、ラジオ界の盟友である小沢昭一に相談すると、激しく鼓舞された。
小沢「やめんな!絶対やめんな!しゃべらなくていい!ラジオのスタジオにいればいいんだ!」
病とともに生きる永が自分を奮い立たせる意味も込めて度々披露するエピソード。 改めて、放送とはその場の"空気"を伝えること=「ON AIR」であることを再確認した。
2015年9月26日、 永はリハビリと闘いながら、放送局は聴き取りにくいという一部リスナーの批判とも闘いながら 24年半続けてきた番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』が最終回を迎えた。 永の口から語られたのは、出かけた旅先と思い出と、出かけられなかった悔しさだった。
永「東北の地震で未だふるさとに帰れない人が多い。   デモには僕の仲間もいっぱい歩いてるんで気にはなっていた。   だけど、車椅子でああいうところに行くとものすごく迷惑になる。皆が気を使ってしまう」
1960年、日米安保条約に対して、永は大江健三郎や谷川俊太郎など、 同世代の作家や芸術家たちと「若い日本の会」を結成し反対運動をおこしていた。 当時、国会議事堂近くにアパートを借り部屋でテレビの台本を書いていた永は、 「部屋にこもって仕事をしている場合か」と国会前に駆け付け仲間達のデモに合流した。 台本がなかなか届かず待っていたテレビ局の担当者は、さては?と国会前に探しに来た。 見つかった永は「安保と番組、どっちが大事なんだ!」と問われ「安保です」と即答し、 構成を担当していた日本テレビの番組『光子の窓』(日テレ系)をクビになった。  
2016年4月〜6月に放送された、黒柳徹子の自伝エッセーを原作としたNHK総合ドラマ ��トットてれび』。そのなかで角刈り姿の若き永六輔を演じたのが新井浩文だった。 1961年〜1966年に放送されたNHK初期のバラエティの代表作『夢であいましょう』を再現した シーンにおいて、錦戸亮演じる坂本九が「上を向いて歩こう」を歌うや、永は怒号を飛ばした。
「なんだその歌い方は!ふざけてるのか君は!  ♪フヘフォムウイテ アルコフホウ〜、そんな歌詞書いた覚えないよ!」
永六輔が作詞し、中村八大が作曲し、坂本九が歌う。 「六八九トリオ」によって誕生し、同番組では「SUKIYAKI」のタイトルで広まったとおり、 すき焼きを食べながら進行する特集も組まれた、世界的大ヒット曲「上を向いて歩こう」。 だが、そのロカビリー少年の歌い方は、千鳥風にいうと"クセがすごい"もので、 当時、作詞した永が頭に来ていたのも事実だった。
永「僕ね、自慢じゃないけど、テレビのレギュラーで番組が終了になるまで続いたのは、   『夢で逢いましょう』くらいなんです。それ以外はだいたいケンカして辞めている」
『創』2009年5月号の矢崎泰久との「ぢぢ放談」で披露された永の"自慢話"。 1956年、コント・シナリオの制作集団「冗談工房」の同じメンバーで、 2015年12月9日に亡くなるまで、永のラジオ番組に手紙を送り続けた野坂昭如。 パーティーでの大島渚との大立ち回り動画でもよく知られるそのケンカっぱやさは、 実は永六輔も持ち合わせ、2013年6月の『たかじんNOマネー』(テレビ大阪)での 水道橋博士にも受け継がれている、生放送での途中降板も常習となっていた。
1968年、木島則夫の後を引き継ぎ『モーニングショー』(テレ朝系)の司会に抜擢された 永は「僕は旅するのが好きだから」と急遽司会を断り全国を駆け巡るレポーターに変更。 番組第1回は北海道の中継先からオープニグの第一声を任されていたが、アクシデントで番組は スタジオから開始。ずっと雪の中で待っていた永はそのままマイクを放り投げて帰ってしまった。
1994年放送の『こんにちは2時』(テレ朝系)。 自身の著書『大往生』の宣伝はしないと取り決め出演オファーを受けたものの、 当日の新聞番組欄には「永六輔・大往生、死に方教えます!」と載っていた。 文句を言ったところ、冒頭で新聞に掲載されていた内容と異なることを説明するとして 出演したが、結局断りがないまま進行し「皆さんでやってください」と退場した。
「今行けば自分が先頭に立てる」と思い夢を持って始めた開局当時からのテレビの仕事。 構成作家として台本を書き、出演者としてしゃべりまくり、小説家の"シバレン"こと 柴田錬三郎から「テレビの寄生虫」と呼ばれながらも「何が悪い」と続けていたが、 我がままに嫌われるような行為を連発し、自ら発展の基礎を作ったテレビ界を撤退した。 以降、たまに出る度「テレビに出られて良かったですね」と言われることをネタにしている。
度々本人の口から語られるテレビ界の問題として「関わる人が多すぎる」ことがある。 責任の所在がはっきりせず、企画の趣旨がねじまがり、連絡ミスなども誘発しやすい。 裏方と出役の両方を体験する永の意見は現在においても的確で、優れているとされる 人気番組は、内容はもちろんだが、その目に見えない部分の環境の良さを聞くことも多い。
パーキンソン病の先輩、マイケル・J・フォックスが主演する、 1989年公開映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』。 そこで描かれた未来の舞台、2015年10月、 日本では永遠に続くと思われたラジオの未来が書き換えられた。
土曜日午前の4時間半の番組から、月曜日夕方1時間半の番組へ。 四半世紀続いた長寿番組の重荷を降ろし、2015年9月28日から新番組がスタートした。 47歳の永がタモリとともに『ばらえてぃ テレビファソラシド』(NHK総合)に出演していた頃、 1981年9月11日、東京・渋谷ジャンジャンで行われたときのイベント名は、 『六輔七転八倒九時間しゃべりっぱなし』だったが、ラジオ新番組のタイトルは 『六輔七転八倒九十分』。それでももちろん"しゃべりっぱなし"というわけにはいかない。
「パーキンソン病のキーパーソン」。 永は自身の病気の回復力について語る時、いつもそのように笑いを交えて伝えている。 それが議論の的になっているのは新番組が始まってからも変わらなかった。 『誰かとどこかで』で「七円の唄」というリスナー投稿コーナーが設けられていたように、 ハガキ1通7円の時代から始まった永六輔のラジオ番組の歴史。 今は52円となったハガキで、時にパーソナリティへの抗議が寄せられるのが切ない。
「病気の話を笑いながらしないで」「病気を楽しそうに話さないで下さい」...。 番組はいろんな病気を抱えている人が聴いている。だが、それを納得しながらも、 「楽しくしちゃったほうがいい、どうせ話をするなら」という姿勢を永は貫いている。 事実、永六輔には「すべらない"病気の"話」が多すぎる。その特選2話。
第1話「ジャカルタの留学生」。 リハビリの勉強のため日本に来ていたインドネシア・ジャカルタの留学生。 永の担当に付いた彼は「姿勢を良くして下を見ないで歩きましょう」と歩き方を指導し、 「日本にはいい歌があります。『上を向いて歩こう』って知っていますか?」と聞いた。 永が嘘をついて「知らない」と返すと、歌うジャカルタの留学生に付いて病院内を歩くことになり、 全ての医者や患者から注目を浴びることに。日本の先生に事態を説明すると、 「真面目に勉強をしに来ている若者に嘘を付かないでください」と注意され、 留学生に実は歌を知っていたことを打ち明け、「知っているのは僕は作ったからです」と言うと、 ジャカルタの留学生は、「あー、また嘘ついてる!」。
第2話「タクシーの事故」。 ある日、永が新宿からタクシーに乗ると別にタクシーに衝突される事故を起こす。 左肩打撲など全治三週間の大怪我を負いながらも、事故直後の警察からの質問に、 名前も住所もサラリと答える永六輔。救急車に乗っても救急隊員の真似をして「出発!」と言い、 慶応病院に受け入れを断られると、「こないだ、大学野球で早稲田が慶応に勝っちゃったから?」 とおどけまくる。そこで冷静になって気づいたのが、自分がパーキンソン病の患者であること。 それまでろれつが回らなくて困っていたのに、事故を受けてから流暢にしゃべっている自分。 そこから子供のころ、調子が悪いとき刺激を与え感度を良くしようとして、 それをひっぱたいていたことを思い出した。「俺はラジオかよ!」。
『六輔七転八倒九十分』になって放送時間は短くなったが "放送時刻"が夕方になったことにより「声が出やすい」という吉を招いた。 だが、本人の"調子の良さ"と"呂律の良さ"が比例しないのがパーキンソン病の やっかいなところで、本人がうまく話せていると思っていてもそうではない時がある。
永「僕は今、携帯を左手に持ちました」  「はい、今、下から上へ、フタを開けました。で?」
家族の安心、自身の安全のために無理矢理持たされた携帯電話。 2012年、『誰かとどこかで』で話題となった、遠藤泰子が特別講師を務めた、 79歳で挑戦する「世界一やさしい携帯電話の掛け方講座」シリーズ。 手紙を愛する永の文明・文化の進化に対する嫌悪はよく知られているが、 テクノロジーの発展のなかには、リスナーのために改善されたラジオの技術もある。
「永さん、声は技術でなんとかしますから大丈夫です」。 パーキンソン病を公表してからインタビューを受けた「東京人」2011年3月号で、 永六輔の「声」をオンエアしていくために検討されたスタッフとのやりとりを明かしている。 スタッフから知らされたその技術は、その場で発せられた声を5つに分割し、 その中で一番聴こえやすい音域だけを活かして、その他の聴こえづらい音域は消す。 アナログのレコードがデジタルのCDに変わるようなその提案を、永は丁重に断った。
永「その声は僕らしくない」  「だったら何言ってるかわかんなくていい」
何の言葉を言っているかではなく、その言葉をどのように伝えているのか。 ここに"活字"とは異なる、"音声"の「言葉」に対する永のこだわりがよくみえる。 それを象徴するような一曲がある。
「逢いたい」 作詞・永六輔、作曲・樋口雄右、編曲・久米由基
   逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい    逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
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『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』で人気を博したコーナー 「あの人に逢いたい」で流されていた、ただ「逢いたい」という言葉が72回繰り返される曲。 同じ言葉がイントネーションによって変わり様々な物語を想像させるこの曲を、 言葉がひとつしか出てこないことを理由に、音楽著作権協会は「作詞」とは認めなかった。 2001年出版『永六輔の芸人と遊ぶ』のなかで永六輔は誓っている。 「話し言葉だから伝わるニュアンスが無視される危険性があります。  僕はそれを阻止するためにも、この『逢いたい』の著作権を認めさせてみようと思っています」。
永「ラジオは嘘を付けない」
永から直に聞いた、しゃべりで真実が見抜かれてしまうラジオの恐さを 常に肝にめいじマイクに向かっている芸人に、カンニング竹山がいる。 鈴木おさむが構成&演出を務める竹山の定期単独ライブ『放送禁止』。 その2013年版は「お金とは?」をテーマに、1年間365日、毎日違う1人に 「あなたの幸せと思う事に使ってください」と1万円を渡し続ける記録の講演だった。 その中で「1万円渡す時に最も緊張した人」の第1位に挙げていたのが永六輔だった。
1万円を渡すチャンスは『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。 竹山がゲスト出演した時のCMタイム中の2分間に限られていた。 外山惠理は竹山とは当時放送されていた『ニュース探究ラジオ DIG』で コンビを組んでいるため、最悪フォローには回ってくれる。 だが、スタッフの懸念は、企画の趣旨を永が2分間で理解してくれるかにあった。 しかし、永六輔の反応はそこにいる全員の予想を裏切った。
永「あのねー、それ、おんなじこと、僕やってたよ。昭和30年代終わりか40年代かな。   1年お金配り続けたら面白いねーって言って、1000円配り続けた」
芸人の先輩として竹山の予想を出し抜き、 放送作家の先輩として鈴木おさむを陵駕する反応。 負けず嫌いなところを含めて、永六輔は現役感を剥きだしにして1万円を受け取った。 筆者が観覧した回、当の永六輔が東京・博品館劇場の観覧席にいた。 外山惠理の手を借りそろろそろりと退場していく様子を、観客一同が拝むように見送っていた。
   2016年1月31日『ピーコ シャンソン&トーク 我が心の歌』                 ゲスト:永六輔(体調がよろしければご出演)    2016年4月17日『松島トモ子コンサート』                 ゲスト:永六輔(当日の体調が良ければ出演予定)
いつの頃からか、演芸ライブの会場には、 永六輔の断り書き付きのゲスト出演を知らせるポスターやチラシが目立つようになった。 残念ながらピーコのライブへの永の出演は叶わなかったが、ピーコ自身は、 『土曜ワイド』から引き続き『六輔七転八倒九十分』にもヘビーローテーションで出演。 昨今メディアでよく見る白髪の永によく似合う赤やピンクの服はピーコのチョイスである。 そんな身だしなみも含め、2001年に"妻の大往生"を迎えて以降、永は自分が現場に足を運んで 才能を見出してきた全ての人々から、大きな励ましと恩返しを受けている。
永「髙田(文夫)さんは出来ないの?」
2015年11月9日、松村邦洋がゲスト出演した回、 リスナーからのものまねのリクエストに矢継ぎ早に応えていくなか、 永が唯一自分からリクエストをしたのが、しゃべる放送作家の後輩「髙田文夫」だった。
1947年10月スタートの連合国軍占領下の番組、 音楽バラエティ『日曜娯楽版』(NHKラジオ)にコント台本を投稿した�� 中学3年生の永は、高校生から構成作家として制作スタッフとなり、 早稲田大学の学生となってからその中心的メンバーに。三木鶏郎���スカウトされ、 「トリローグループ」の一員となり放送作家、司会者として活動を活発化させていった。
1969年から1971年、『パック・イン・ミュージック』の土曜日を担当し、 時に2時間半かけて憲法全文を朗読するなど"攻め"の放送を行っていた永のもとに、 ネタを送り続け採用を重ねていたのが、日本大学芸術学部で落研所属の髙田文夫だった。 ある時意を決し、長文の手紙に「弟子にしてください」と書いて、永に送った髙田。 永からの返事は「私は弟子無し師匠無しでここまで来ました。友達ならなりましょう」。
その20年後、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の構成作家を経て、 『ラジオビバリー昼ズ』などで活躍をしている髙田に、永は再び手紙を送る。 「今からでも遅くはありません。弟子になってください」。
そんなパーキンソンの持病と心肺停止の過去を持つ、幻の師匠と弟子は、 2014年1月と9月に『永六輔、髙田文夫 幻の師弟ふたり会 横を向いて歩こう』を開催。 TBSラジオとニッポン放送、両局のリスナーが押し寄せた、 東京・北沢タウンホールの最前列で観たそのトークイベントが、 今のところ筆者が肉眼で観て聴いた、永六輔の最後の記憶である。
それ以前にステージで観たのは、2014年3月21日、東京・赤坂BLITZで開催された、 「我が青春のパック・イン・ミュージック」への特別出演だった。 「当時はまだ"深夜"に"放送"が無いのが当たり前だったから、 "深夜放送"という言葉も日本語として存在しなかった」という発言は、 車椅子に座って語られるからこその歴史の重さと有難みを感じた。
白髪と頭皮が目立つ観客席で40代の筆者が若造になる、 『パック・イン・ミュージック』の歴代パーソナリティが集う同窓会イベント。 晴れやかなステージを見上げながら、観客はそこには立てなかった、他界したDJの顔も 思い浮かべていただろう。野沢那智、河島英五、福田一郎、愛川欽也、そして林美雄...。
1970年〜1974年に放送された『林美雄のパック・イン・ミュージック』。 柳澤健の近著『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』にも 記されている通り、若者たちのカルチャー、アンダーグラウンド文化の担い手となった、 木曜日深夜3時からのその枠は、本来、同期入社のTBSアナウンサー・久米宏に任されていた。 だが、結核により久米は1か月で降板。病気を治して暇を持て余しているところを、 『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』のレポーターに抜擢され人気を獲得した。
"ゲラゲラポー"から"ケンポー"まで。 永の想いを受け継いだ「憲法ダンス」を考案したラッキィ池田の 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』でのレポートの模範には、 マイクが集音する響きの良い革靴の音を研究し、ヌード撮影現場などの 過激な現場も土曜午後用の生の言葉で伝えてきた、久米宏の高い中継スキルがある。
以降、久米宏は、永が一線を画したテレビを主戦場にしたことが大変重要で、 2年半前、この連載の第1回で『久米宏 ラジオなんですけど』を取り上げたのは、 テレビから還った"ブーメラン・パーソナリティ"としてのラジオでの存在価値からだった。 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』の直後に始まる番組として、 東日本大震災時、リスナー1人ずつとリレーしながら「見上げてごらん夜の星を」を歌うなど、 毎週リレートークを行う永を敬いながらも刺激を与えてきた。
『六輔七転八倒九十分』でも体調不良から休むことが多くなった永六輔。 たまにスタジオに来たときにサプライズ扱いされることは逆に心苦しかっただろう。 日頃は永が来ないことに不満なリスナーも、久々の精一杯の声を聴いたら聴いたで、 「本当に大丈夫なんですか?」「どうぞ家でゆっくり休んでいてください」と心配にまわる。 その日のニュースや天候よりも、永の体調を確認することが生放送の趣旨になってしまっていた。
永も番組でその名前を挙げたことのある、同じパーキンソン病のモハメド・アリ。 その訃報が伝えられた1週間後、番組のXデーも永の所属事務所からの手紙により伝えられた。
「永六輔は昨年の秋ごろから背中の痛みが強くなり、またその痛みは寝起きする時や  車椅子の乗り降りの際、つまり体を動かす時に特に強く現れていました。(中略)  永六輔本人はリスナーの皆様にまた声をお届けしたいと思っており、日々努力しておりますが、  パーキンソン病ということもあり、十分な体力回復にどのくらいかかるかはまだめどが  ついておりません。ここは一旦、自分の名前の付いた番組については締めくくらせて  いただいた上で、ぜひまたお耳にかかる機会を得たいと考えている次第です」
返事を書かないのに「お便り待っています」とお願いするのはありえないと、 番組にお便りをくれたリスナーの一人一人に返事を書いていた永六輔。 そんな真摯な気持ちを持つパーソナリティだけに、自分が不在の冠番組の存在は 体の痛みを超えるほど、どれだけ心を痛めるものであっただろうか。
2016年6月27日放送、最終回のスタジオにも永六輔の姿はなかった。 長峰由紀は永から「書けない漢字、読めない漢字を使うな」と叱咤された思い出を話し、 永とは長い付き合いの精神科医で元ザ・フォーク・クルセダーズのきたやまおさむは、 「くやしかったらもう一度出て来いよ!」と戦争を知らない世代の代表として激励した。 そして番組後半、最後の最後にテレビの収録を終えた黒柳徹子が駆け付けた。
2005年9月、『徹子の部屋』(テレ朝系)の収録にペ・ヨンジュンが来たとき、 ゲスト控え室の「ペ・ヨンジュン様 ○○個室」と書いてあるボードを見た徹子は、 「ここのスタジオにいることが分かったら大変!」と名前を「永六輔様」に書き換えた。
対して、永は『誰かとどこかで』の鉄板ネタとして黒柳のエピソードを持っている。 その昔、静岡に行った時、黒柳は駅から見えた綺麗な山を見て地元の人に 「ねえ、あの山、なんて言うんですの? ねえ!ねえ!」と聞いた。聞かれた女性は 本当に可哀想な人を見るような目付きでぼそっと答えたという。「・・・富士山です」。
通算40回。テレビを卒業した永も『徹子の部屋』だけは出続けている。 テレビ・ラジオの創世記から活躍する、そんな関係性の二人だからこそ、 ただ1人だけに向けられたエールを、リスナーも温かく見守ってくれる。
黒柳「永さーん、起きてるー! ラジオって言ったら、永さんしかいないのよー!!」
翌週、2016年7月4日から同枠で新番組が始まった。 『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』。 メインパーソナリティは先週まで永のパートナーとしてしゃべっていた、 毒蝮三太夫の弟子である、株式会社まむしプロ社長の、はぶ三太郎。 その相手役を長峰由紀と外山惠理が交代で出演する、信頼の顔ぶれである。
テーマ曲には永が作詞した「いい湯だな」が使用され、 「六輔語録」というコーナーがTBSに残された永の様々な時代の音源を流す。 もちろん、これが引き継いだ番組としての正しい在り方なのだろう。 だが僕は、思い切って「永六輔」を一旦完全に失くすことも望んでいた。 それが、後ろ盾をなくした自分で切り開くしかない新パーソナリティへの励みにもなり、 自分の声も名前も失われたラジオの存在こそが、永六輔の新しい始まりに繋がるからだ。
かつて『全国こども電話相談室』で小学2年生の女の子に、 「天国に行ったらどうなるんですか?」と聞かれ、永は答えた。 「天国っていいとこらしいよ。だって、行った人が帰ってこないもの」。 確かに晩年までマイクの前に座っていたラジオ界の神様たち、 小沢昭一も、秋山ちえ子も、かわいそうなぞうも天国から帰ってくる気配は来ない。 だからこそ、大往生を遂げる前に、永六輔にはやるべきことがある。
物心がついた子供の頃からラジオで様々な演芸に触れ、 中学時代に投稿し、高校時代から70年間ラジオ制作に関わってきた人間は、 初めてラジオから離れた人生を過ごす今、何を想い、何を感じ、何を考えるのか。 もう一度スタジオに来て、ブースに入り、マイクの前に座り、 それをスピーカーの向こうの、リスナー1人1人に伝える必要がある。
それまでゆっくり待たせてもらおう。 ただ情けないことに、リスナーの僕たちは それが叶っても叶わなくても、目からこぼれてしまうのだろう。 例え、上を向いて歩いても、きっと涙がこぼれてしまうのだろう。
『水道橋博士のメルマ旬報』
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おはようございます 12月22日(火) #西多賀眼科医院 午前9:00〜12:00 午後14:30〜17:00  12月28日(月)は通常診療を行います。 12月29日から1月3日まで休診となります。 年始は1月4日(月)から診療開始いたします。 どうぞよろしくお願いいたします。  【おすすめ仙台グルメ】 仙台に新しくできました焼き鳥屋さんをご紹介いたします。 「焼き鳥hou」 一番町の横丁をぬけて、ビルの3階に店を構えます。 看板が無くとても分かりずらいのですが、あえて隠れ家的にしているのでしょう。  メニューはなくその日の旬の焼き鳥がコースで楽しめます。 お腹いっぱいになればそこでストップできます。  写真にあります「ちょうちん」は初めていただきました。 鶏の卵巣とそれにつながるひもの部分で、一羽から一本しか取れない貴重なものです。  楽しみながらとても美味しいものをいただきました。 店内はそれほど広くないので、予約してから行くことをお勧めいたします。  hou 022-398-4774 宮城県仙台市青葉区一番町2-3-3 J-BOXビル 3F https://tabelog.com/miyagi/A0401/A040101/4023532/  #ジェネリック 医薬品の日 ジェネリック医薬品の正しい理解を広めるとともに、意義や役割を多くの人に知ってもらうことが目的。記念日は2019年(令和元年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。  1968年 #飯尾和樹 の誕生日 (お笑い芸人(ずん))  ホームページもご覧ください↓ https://nishitaga-ganka-clinic.com/  #眼科 #仙台 #白内障 #結膜炎 #緑内障 #ドライアイ #メガネ #眼鏡 #コンタクトレンズ #眼瞼下垂 #太白区 #鈎取 #西多賀 #長町 #長町南 #八木山 #秋保 #秋保温泉 #名取 #長町モール #日帰り手術 #仙台グルメ #医師国家試験 #全国グルメ #誕生日 #今日は何の日 #焼鳥 (西多賀眼科医院) https://www.instagram.com/p/CJE3MZBghwp/?igshid=1rm6onj66218t
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