海に続く
朝日が差し込む部屋で、キャップを手にとって思い立ってビーニーに替えた。最近好きでやっている浅めの被り方は一旦やめていつもよりビーニーを深く下ろす。アコーディオンカーテンの奥では兄がまだ眠っている。
K駅のひとつしかない改札は切符の自動販売機とささやかな売店そして椅子を並べただけの待合室に繋がっていて、ユウくんはうつむいてゲーム画面を見つめていた。どこにでもいる二十歳の兄ちゃんなのに、その姿勢のよさがユウくんをひなびた改札から浮き上がらせていた。この人はきっといつもこうなのだろう、どこにいても少しだけ周りの景色と乖離している。
声もかけず隣に腰掛けると
「ちょっと待ってね、これ終わったらセーブできるから」
とユウくんは俺を見てすぐ画面に視線を戻した。去年北米で買ってあげたキャップから耳がのぞいて産毛が金色に見える。空港近くのモールで「アヅみたいなのかぶりたい」といってユウくんが試着したアディダスやナイキのキャップは彼に死ぬほど似合わなくてふたりで指を差し合って爆笑した。とりあえずスポーツブランドのフロアを抜け出し時間の許す限り試着しまくった。俺はマークジェイコブスがいいと言ったけどユウくんがでかいロゴに拒否反応を示したので、もうひとつ似合っていたバレンシアガにしたのだ。ブラックのコットンキャンバス地でシンプルだけど、バックルがメタリックでカッコいい。楽しそうなユウくんを見て、次は服を買いに行こうと決めた。
隣に座ってスマホを取り出す。ノダからブルズのユニフォームを着たタカシの写真が送られてきた。「本日のタカシ。これで俺もダブルコーク跳べると申しております」。「いやそのユニ俺のじゃん」とフリック入力をするとすぐ既読がついた。うちの部室のロッカーはいまどき鍵もかからない。だからって特に不便はないのだけど、いつかユウくんに話したら「信じられない」と言いたげな顔をされた。
「おっけー、お待たせ、行こ」
ユウくんが立ち上がる。ノダからはウサギのスタンプが送られてきていた。俺たちは待合室を出てバス乗り場へ向かう。
「ね、合宿終わったらデートしよ」
夏の合同合宿中、俺たちの待ち合わせ場所は男子棟2階のどんづまりにある非常口の下だった。夏遅らしくスローに陽が落ちていく廊下でたくさん話したりゲームをしたりした。窓から見える柳はいつもしっとりと風に揺れていて、時々はふたりで何も話さずその様子を見ていたこともある。
「デートっていうか、ただ出かけるだけっしょ。いいけど」「それがデートだよ。俺水族館行きたい」「ん」そんなシンプルなやりとりをするとユウくんは俺の予定を聞き出しさっさとスケジュールを詰めてしまった。ユウくんは俺より4つ年上だけど、まだ幼さの残るほっそりした顔をしている。その顔はいつも自信と疑心が絶え間なく入れ替わっていてときどき見ていられない。
俺の町から鈍行と特急、新幹線を乗り継いで一時間半。A市は俺の町と同じくらい田舎で、けれど海からやってくる青い風がここで太平洋側なのだと俺に知らしめた。日本海の潮風はもっと甘い。
バスはひなびた水族館の前で止まった。風雨に晒されて外壁はところどころ剥がれ落ちていて、もとは白かったであろう壁は薄い飴のような色になっている。マスコットらしきオレンジ色の鯨がコミカルな笑みを浮かべていて、その垢抜けなさが俺のこころを少し柔らかくした。「大人ひとり、学生ひとり」とチケットを買うユウくんの背後に立つ。
照明を落とした廊下を進むと、水族館はトンネル状の水槽から始まった。パイプを天地逆にしたらこんな形だ、雪と氷でできているパイプとは違って、水槽の中は大小の魚が固まって同じルートを同じように旋回し、その間をウミガメやエイが悠々と泳いでいる。俺の頭の中のウミガメに命が吹き込まれた途端、両足が浮き立つような奇妙な感覚がやってきた。
「俺、水族館てほぼ初めてかも」と言うと、俺の半歩先を歩いていたユウくんが振り返った。「え⁉︎ そういう大事なことはもっと早く言ってよ」「意識してなかったけど多分そうだと思う。幼稚園とか本当に子どもの頃はあったかもだけど、覚えてない」父がサーフィンをやっていたし俺の町は海沿いだから海に馴染みはあったけど、そういえばこんな風に海を切り取って見せられるのは初めてのような気がした。子どもの頃から出かけるといえば雪山かさもなくばスケボーのバーチカルがある場所だったから。
「そっか。じゃあゆっくり見よ。 イルカショー11時だから時間あるし、疲れたら休憩できるとこあるよ」
ユウくんは一緒に出かけるといつもこうやってスケジューリングをしてくれる。俺はなにかと思案しているうちに現実に追い越されるけどこの人にはそんな経験はないようで、いつも現実より少し先を歩いて時々俺にも歩きやすい道を示してくれる。イワシが作る銀色の奔流を目を細めて眺め、ユウくんはなにかを思い出しているようだった。
平日午前の水族館は人影がまばらで、親子連れや老���は立葵のように静かだった。ユウくんはひとつひとつに水槽の前で立ち止まって水槽と解説を交互に眺めた。水族館に足を踏み入れてこのかた、俺はこの人の耳の付け根から顎に至る緩やかな曲線ばかり見ている気がする。水槽の光を受けて青白く浮かび上がる頰。
つづら折りの通路には左右に小さな水槽が埋め込まれていて、そこには魚でも貝でもない妙な生き物たちが動いたりじっとしたり、俺の方が珍客のような様子でこちらを見ていた。
「あ、チンアナゴ」
ユウくんが指差した先に珍妙な生き物がいた。しましまや水玉の細長い体を砂から生やして物憂げに揺れている。先端に目があるので植物でなく生き物だとわかった。
「キモ」
「えーかわいいじゃん。ちょっと前に流行ったよね」
「そうなの?」
「うん。このぬいぐるみとかよく見たよ。キモかわいいっていうのかなあ」
「カナダで?」
「ううん日本で。正確にはtwitterとかでよく見た」
「ユウくんってさ」
「うん」
「SNSやってないのによく見てるよね」
「そうですよ。めっちゃエゴサーチするもんね俺」
隣の水槽には筒が並んでいた。筒の中には、人差し指と親指で円を作ったくらいの太さのつるつるした何かが押し込まれるように入っていて「マアナゴ」と俺は解説をそのまま読み上げた。チンじゃないアナゴ。浅い海の砂泥底に生息する。
「これってさ」「うん」「ちんこみたいじゃね」「え、どのへんが」「なんかツルっとしてる感じが」「やだアヅさんのえっち」
ユウくんがメガネの奥の目をぎゅっと細める(変装のためかユウくんはべっ甲のフレームのメガネをかけていた)。ユウくんのスニーカーが床にあたるやわらかな音。背後の水槽は黒々としていて海藻が幻みたいに浮き上がっている。
「おいで、アヅ」
その揺れる様を眺めていたかったけれど、ユウくんにそう言われたらついていくよりない。困ったなと思いながら、でも従順に、少し胸を高鳴らせて。
「席埋まっちゃうから早めに行った方がいいって口コミに書いてあったから」とイルカのプールに行ったら人ひとりいなくて、それが何だかおかしくてユウくんと目を合わせて笑ってしまった。今水族館にいる人は‘早め’がどれくらいなのか皆知っているのだ、俺たちを除いて。その滑稽さがなぜかこの時は妙におかしかった。ユウくんといるから笑えた、俺はそういうことを幸運だと思うようになった、最近。
「俺かっこわるー。超せっかちさんみたいじゃん」
「俺ら水族館初心者だからしゃーないっしょ」
勾配上になった席の後ろ、はじっこに腰掛けて、ユウくんが買ってくれたミネラルウォーターを飲んだ。
「熱帯魚、キレイだった。俺今までグッピーしか知らんかった」
「ああアヅずっと見てたもんね。あったかいところの魚とか動物ってキレイだったり愛嬌あったりしていいよね」
ユウくんが動いた拍子に膝が触れて、ベンチに置いた俺の手に、ユウくんのぬるい指先が触れた。それだけで息がとまりそうになる。
「今日なんで水族館だったってさ、ホテルでゲームもいいけど外でデートがしたくて。アヅここからもっと人気でるでしょ。そしたら全然外歩けなくなるから今のうちにって思って。でももう俺大きな街は歩けないし、それでなくても俺の人生ってリンクと家の往復だから遊ぶ場所とか全然思い浮かばなくてさ。そしたら平日の水族館ならそんなに人もいないし、中は暗いから顔見えづらくていいんじゃないって姉ちゃんに言われて。思った以上に空いてて、よかった」
相槌を打ちながら息を整えて水を飲んだ。冷たい水がさらさらと体の奥へ落ちていって、それと同時に秒針みたいな正確さで離れがたい気持ちがつのっていく。それでも俺が今震えるほど幸福なのは、ユウくんが隣でナチュラルなしぐさで頰を掻いているからだと思う。
ユウくんに会う前は女の子に請われれば付き合いもしたしデートもした。セックスだって経験がある。どの女の子もそれぞれ可愛かったしたくさんのことを教えてくれた。けれど‘この人だ’という決定的な高まりに至ったことはなくて、今となっては彼女たちに感じていたものは恋というより好感とか好意という表現のほうがしっくりくる。けれども俺は(これほどの幸福を感じていてもなお)欲を張っていた。
‘俺たち付き合うべきだ、そう思わない?’というユウくんの言葉に‘ ユウくんのことは好きだけど彼氏とか彼女とかそういうのにはなりたくない’と答えた冬から半年経った。ユウくんはぽかんとした顔で「アユは高潔だねえ」と、言った。結果としてユウくんの申し出を断るかたちになったからって、俺がユウくんのこと好きじゃないわけじゃない。むしろ俺のほうがユウくんが好きだ。そういうみんなやっているような形に自分たちを添わせなくたっていい、俺たちはそれ以外の何かになれると思ったのだ。当時付き合っていたリオちゃんとは別れたし、ユウくんとはキスもしたしこの先セックスもするだろうけどそれは俺の中では今もって矛盾しない。健康な身体を持っている俺たちにとってはごくごく自然な流れだったし、皮膚を合わせなかったとしても俺のユウくんへの敬愛は何も変わらない。変わったのは外側だけだ。俺は高校生になり(ほとんど行けてないけど)ユウくんはいよいよ日本じゃ知らない人のいないアスリートになった。
「でもアヅが楽しんでくれてよかった。あと海獣館残ってるから、ペンギンいるよ」
「ユウくんはペンギン見たことあるの」
「あるよ、うちの地元にも動物園あるからね。本当によちよち歩くの見ててかわいいよ。そういえば動物園の隣に遊園地があってさ、もちろんディズニーとかUSJみたいなのじゃなくてローカルのちんまりした遊園地ね。そこのジェットコースターが古くてさ、相当スリリングな音がするの。俺ジェットコースターってあれしか乗ったことないけど最強だと思うって言ったら姉ちゃんにも同意された。ある意味一番怖いって。中学の修学旅行はディズニーだったけどまあ行けなかったから、俺の中で遊園地ってあそこなんだよね。修学旅行って何で冬にやるんだろうね。体育祭とかいいから夏に修学旅行やってほしい」
ユウくんはたくさん話す。そして時々、俺を見て安堵の表情を浮かべる。その指先はすぐには動かず、けれどやがてゆっくりと近づいてきて、触れずにはいられないのに触れることにも耐えられない、と言いたげな苦しさを滲ませながら、俺の年中荒れている頰をかすめるように触れた。いつも見てるこっちが恥ずかしくなるくらいかっこつけてるくせに、そしてそんなユウくんをカッコいいと思ってしまって俺は二重に恥ずかしくなるのだけど、その仕草が優しいのだけは本当だった。ユウくんは相当クレイジーだ。ユウくんに指先を向けられると腹の奥がねじれるように苦しくなって、甘くて苦いものが口のなかに広がる。本当はもっとくっつきたい。
ぱらぱらと人影が増えてきて、子どもの声が高く響く。ユウくんの目がメガネ越しにきらめいた。
「キスしたくなっちゃうね」
「ばかじゃないの」
合宿所の廊下の壁際でキスをした。ユウくんのキスはいつも突然で素早くて、気がつくとあの光をたたえた瞳に覗き込まれているのだ。
「アヅだってしたいくせにー。ねえ高校どう? 楽しい?」
「全然行けてねえ」
「そっかあ。今日も休ませちゃったもんね。俺アヅに悪いことさせてるのかな。んん、でも学生の本分は勉強だっていうけどさ、アヅとか俺ってそもそも学生なのかな? アヅなんかプロボーダーだし、それでなくても俺ら学生と競技って9対1くらいじゃん」
ユウくんは今年二十歳になる。はたち。全然想像がつかない、遥か先のことに感じる。ユウくんは二十歳になったら何か変わるんだろうか。
「俺、自分が学生だって思ったこと一度もないかも」
「アヅは海外遠征多いしいつも大人の人といるもんね。みんなに可愛がられててスノボ村の王子様って感じ。俺も王子様とかよく言われるけど、アヅのが全然王子様だよ」
「どうせ俺は世間知らずですよ。そもそもユウくんの王子様とおれの王子様じゃ意味が全然違うわ」
「あ、すねた。悪い意味じゃなくてさ。いいじゃん、大切にされてる人にしか言えないこととか見えないものってあるんだよ。それも含めてアヅでしょ。世間知らずだっていいじゃん。俺だって何も知らないよ。それに知らないことは知ればいいだけでしょ」
「ユウくん、いいこと言う」
「そう、俺いいこと言う」
「そういえばさっきの話」
「うん?」
「俺が人気出てどうこうって話」
「ああ」
「メダリスト少なかったから目立ったってだけで、ユウくんと違って俺のことは日本の人誰も覚える気ないよ。もうみんな誰が金メダルとったかも忘れてるね」
「でも、メダルとる前と後じゃ違うでしょ? 日本の、人の目が」
「まあ。この間までへースノボねーすごいねーみたいなこと言ってた人たちが全然態度違う。同級生とかはいいけど、大人はちょっと引くわ。ヤンキーと同じ扱いにしてたくせに」
「やだった?」
「現金だなって」
「そうだね。身の回りはまだ騒がしいでしょ?」
「ネットとかに色々書かれてて引く」
「わっかる。あれ嫌だよね。芸能人じゃないのにさ」
自称日本一アンチの多いメダリストことユウくんには及ばないが、考えてもいなかったことがさも俺の発言のように発信されたり、スノボに慣れてない日本のメディアのインタビュアーに言葉が全然通じなかったりして、オリンピックからこっちはそれはもうストレスフルだった。名前のない人間が笑顔でやってきて俺からごっそり何かを奪い取っていく。ただでさえ14歳のときにあった可能性みたいなものが、15歳になってごっそり減ったような気がしていたのに。そういうとき、腹の奥が冷えるような無力感にさいなまれる。
みなさん、こんにちはー。本日はA水族館にお越し頂きまして誠にありがとうございます。さーてこれより、ずぶ濡れドルフィンパフォーマンスいよいよスタートです。
ユウくんが何かを言いかけたところに場内アナウンスの声が覆いかぶさって、俺たちは何も話してなかったみたいな顔をしてプールに向き直った。まばらに埋まった客席は子連れがほとんどで、俺たちみたいな男ふたり組は当然ながらいなかった。
イルカが水面から飛び上がってスピンをしたり、天井から吊られたボールを突いている様はなんか俺みたいで笑ってしまった。芸を決めるたびにイルカたちはエサをもらう。俺の周りの大人は俺にとってのエサはメダルや成績だと思っているけど、本当は全然違う。けれど自分で‘違う’ということしかわかっていない曖昧な状態じゃダサすぎて黙るしかなかった(それがまたダサい)。
景気よく上がる水しぶきは陽の光を浴びて白くきらめき、それが雪山の眩しさを少しだけ思い出させる。隣のユウくんはわー、とかすごー、とか言いながら手を叩いていて、兄やスノボ仲間なら絶対にやらないそのフェミニンな仕草に、俺は甘ったるい居心地の悪さを覚えてまた頰がゆるんだ。
お土産売り場で俺がクレーンゲームを眺めていると、ユウくんが100円玉を放り込んでクレーンを動かし始めた。結局俺たちは100円玉をばかばかしいほどの枚数注ぎ込み、ようやく手のひらくらいのサイズのクジラのぬいぐるみをとって、子どもっぽくはしゃいで華やいだ笑い声をたてるユウくんとそんな何でもないことで時間を潰すのが俺は、たのしい、と思った。
「密かにプラナリア探したんだけど見つけられなかった」
バスの時間まで、水族館の2階の軽食の店でお茶を飲んだ。
「プラ…?」
「小学校のとき教室でメダカ育ててたら、いたんだよね。始めはミミズかなって思ったんだけど」
トートバッグからボールペンを取り出して、ユウくんは備え付けのナプキンに太い矢印のようなものを書く。
「一センチくらいのミミズみたいなやつでさ、確か分類としては虫なんだけど、分裂するの。普通の生殖もするらしいんだけど、生息環境がピンチになると、こう」
ユウくんは太い矢印の真ん中に垂直に線を入れた。
「ここからぷちんって。分裂するの。足りない部分は切った部分から生えてくる」
「キモ」
「ね。それでメダカの水槽が何でかプラナリアに都合の悪い状態になったのか、大繁殖。いや大分裂? 細かいプラナリアが水槽にごっそり…」
「キモ」
「でしょ。そのあと授業でやったの。普通にメスで3つとか4つに切っても、全部の断片がちゃんとプラナリアになるんだって。足りない部分が生えてきて」
「俺らでいったら、上半身と下半身をぶったぎっても頭とか足とか生えてくるってこと?」
「そうそう。しかもこの辺は曖昧だけど、頭なくなったプラナリア、新しい頭つくるじゃん。そこに前の記憶残ってるらしいんだよね」
「クローンじゃん」
「そういうことになるよね。上半身と下半身で分裂してさ、そこに足とか頭が生えて元どおりになったら、どっちがもとの自分なんだろうね。それで、難病の治療なんかにも使えないかって研究されてるの。それ思い出して、探してみたけど見つけられませんでした。海水にもいるって聞いたけど、水質管理がちゃんとされてるのからなのかな」
ユウくんはそう言ってアイスティーをひと口飲んだ。分厚いグラスは汗をかいていて指先から雫がしたたっていく。それをハンカチでふきながら
「あ、アヅにお土産あるの」
とバッグからタンブラーとお茶のパックを取り出して俺に差し出した。
「なに��れ」
「リプトンのタンブラーと水出し紅茶だよ。紅茶はいらなかったら家の人にでもあげて」
「じゃなくて、このプリントなに…」
地面にめり込むような気分でテーブルに顎をつき、俺はタンブラーにロゴのように入れられた文字を指差した。
「? ゆうハァトあづでしょ」
「その後ろの言葉は…」
「EVIGKEIT。ドイツ語で永遠って意味ね。リーベにしようと思ったけどそれはちょっとあからさまでしょ」
「なんでドイツ語…」
「FOREVERだとアヅも恥ずかしいかなって。あ、モンエナのステッカーとかはこの辺に貼ればいいと思うよ。心配しないで」
ユウくんの言葉はよくわからない。けれどこれは俺以外の人が聞いたところでよくわかんないんだろうと思う。だからユウくんと話すのはとても気楽だった。
スノボ村の王子様として育った俺にとって、スノーボーダー以外の人の話す言葉は、音は耳に入るけれどテンポが早すぎて意味をつかむ前に音が霧散してしまう。ユウくんの言葉は霧散するしない以前に意味がとれないのだけど、何故だかユウくんは俺に意味が通じていると信じて疑わないし、初めて話したときから全然噛み合っていないのになぜか会話が成立する。ユウくんは俺の意思なんて関係なく話を進めるし、こういうダサいプレゼントをたくさんくれる。楽しそうに。
こんなに好きなのに、こんなにわかりあえない。
けれどそれは、俺にとって夏の涼しさみたいな心地よさがあった。
「…ありがと」
誰かとふたり組になるだけでは、世界はできあがらない。俺と兄だけでもだめだし、俺と師匠だけでもだめだ。たぶん俺とユウくんでもできあがらないのだけれど、俺は自分に芽生えたナチュラルな感覚に逆らいたくはなかった。この手のひらを引いたり引かれたりしてゆけば、ごっそり奪われるままの無力な俺も、すりおろされきってしまうう前に何かを生成して自分を補完していけるんじゃないかと思うのだ。ユウくんの書いた虫のように分裂できなくたって生きていける。たとえそれが続いて、以前の俺、の部分がごっそりなくなっても。
「ねえユウくん、何もなくても繋がっていよう。家族でも恋人でも仲間でもない、俺たちにしかなれない何かになろ」
そしてユウくんは‘アヅがまた何か変なこと言っている’という顔で、俺をなだめるように指先を伸ばした。まっすぐ俺へむかって。光がさすように。
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