Tumgik
oharash · 11 months
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余花に吉兆
1.  友人あるいは恋人のようなことを始めたら、もっと分かり合えて親密な空気だとか柔らかな信頼みたいなものが生まれるかと予想していたが、俺らの空間は特段何かが変化することもなく、近すぎず遠すぎずの関係が果てなく伸びていくのみだった。  大切なものを手のひらに閉じ込めるような日々だった。彼の大きな体は存在感だけでもどこか騒々しかったが、無音より心地よかったのだ。
 うずたかく積もった瓦礫がようやく街から消える頃、俺は人生初の無職デビューを飾った。事務所は畳んだし復興支援委員会の任期も終わった。警察や公安、行政から相変わらず着信や不定期な依頼はあれど、様々な方面からの誘いを断り所属する場所がなくなった俺はぼんやりと初夏を迎えることとなった。  無職になりまして。とセントラルの定期通院の帰り、待ち合わせた居酒屋で焼き鳥をかじりながら言うと彼は呆けた顔で俺を見た。エアコンの効きが悪いのか、妙に蒸し暑くてふたりとも首筋にじんわり汗が滲んでいる。 「お前が?」 「はい。しばらくゆっくりしてから次のこと考えようと思って」 「お前にそんな発想があったとは」 「どういう意味ですか」 「休もうという発想が。いつも忙しく働いとったろーが。そもそも趣味や休みの過ごし方をお前の口から聞いたことがない」 「それ元SKたちにも言われましたわーー。人を仕事人間みたく言わんでくださいよまあその通りですけど。今までやれなかったこと全部やったろ、と思ってたんですけど10日で飽きました。福岡いるとどうしても街の様子気になっちゃうしホークスだ〜〜♡ て言われるし、どっか旅行でも行けばって言われるんすけど全然そんな気になんないんすよ。来月には引きこもりになってるかもしれねっす」  そしたら会いに来てくださいね♡ と言ったら、彼は釈然としないような、そして何かに耐えるような、そんな顔をした。  店を出ると強い風が頬を打った。まだほんのわずか残っていた春の気配が吹き飛んでいく。じゃあ、と手をあげかけたところでデカい手が伸びてきて顎を掴まれた。「飲み直すぞ、うちで」「ひゃい?」かくて俺はそのままタクシーに突っ込まれ(この人と乗る後部座席は超狭い)、轟邸へお持ち帰りされることとなった。
 暗闇の中でうずくまる恐竜みたいな日本家屋。数奇屋門と玄関の間だけで俺の1LDKがすっぽり入りそう。靴を揃えて上り框に足をかけると今度は首根っこを掴まれた。連行されるヴィランそのままの格好で俺は廊下を引き摺られ居間の隣室へ放り込まれる。今夜は何もかも展開が早い。「なになに? 俺には心に決めた人がいるんですけど⁉︎」「使え」「は?」 「この部屋を好きなように使え。しばらく置いてやる」 「もしかしてあなた相当酔ってますね⁉︎」 「あれくらいで酔わん。お前が、ヒーロー・ホークスが行くところがないなんて、そんなことがあってたまるか」  畳に手をついて振り仰ぐ。廊下から部屋に差し込む灯りは畳の目まではっきりと映し出しているけれど、彼の表情は逆光でわからない。 「俺、宵っぱりの朝寝坊ですよ」 「生活習慣までとやかく言わん。風呂を沸かしたら呼びに来てやるからそれまで好きにしてろ」  けれど俺が呼ばれることはなく、様子を見に行くと彼は居間で寝落ちていたのでやっぱり酔っていたのだと思う。デカい体を引きずって寝室に突っ込んだ。風呂は勝手に借りた。
 酔ってはいたものの彼の意思はしっかり昨晩にあったようで、そして俺も福岡に帰る気が全くおきなかったので、出会い頭の事故のように俺の下宿生活は始まった。  「うちにあるものは何でも好きに使え」なるありがたいお言葉に甘えて俺は巣作りを開始した。足りないものはAmazonで買った。徹夜でゲームしたりママチャリで街をぶらついたり(帽子をかぶってれば誰も俺に気づかなかった)ワンピース一気読みしたり豚肉ばかり使う彼からキッチンの主権を奪いそのまま自炊にハマったりもした。誰を守る必要もなく、誰かを気にかける必要もない。誰を満足させる必要もなかった。彼が出かける時間に俺は寝ていたし夕飯も好きな時間に食べていたので下宿より居候の方が正確だったかも知れない。誰かとひとつ屋根の下で暮らすことへの不安はすぐ消えた。早起きの彼がたてる足音や湯を使うボイラー音、帰宅時の開錠の音。そんな他人の気配が俺の輪郭を確かにしていったからだ。  ヒーローを引退した彼は事務所を売却したのち警備会社の相談役に収まっていたがしょっちゅう現場に呼ばれるらしく、出勤はともかく帰り時間はまちまちだった。まあわかる。治安維持に携わっていて彼に一目置いていない人間はまずない(治安を乱す側はなおさらだ)。「防犯ブザーのように使われる」とぼやいていたが、その横顔にはおのれの前線を持つものの矜持があった。どうしてか俺は嬉しい気持ちでそれを見ていた。
2.  ある夜、俺は玄関で彼のサンダルを履き外へ出た。引き戸を開けると明るい星空が広がっていて、それが妙に親しかった。縁側に腰掛けてぼんやり彼方を眺めると星の中に人工衛星が瞬いている。ほとんどの民家の明かりは消えていて、夜は少し湿りそして深かった。紫陽花だけが夜露に濡れて光っていた。  知らない街なのに、他人の家なのに、帰らんと、とは微塵も思わなかった。俺はここにいる。知らない場所に身ひとつで放り出されてもここに帰ってくる。呼吸をするたびに心と体がぴったりと張り付いていった。  気配を感じて振り返ると、あの人がスウェットのまま革靴を引っ掛けて玄関から出てくるところだった。 「風邪をひくぞ」と言われ何も答えずにいると犬か猫みたいにみたいに抱えられ、家の中に連れ戻された。  それからほとんど毎夜、雨でも降らない限り俺は外に出て彼方を眺めた。そうすると彼は必ずやってきて俺を連れ戻した。ある夜「一緒に寝てください」と言ったら彼は呆れたように俺を見下ろして「お前の部屋でか」と言った。そうかあそこは俺の部屋なのか。「あなたの部屋がいいです」と言ったら視線がかちあい、耳の奥で殺虫器に触れた虫が弾け飛ぶみたいな音がして、目が眩んだ。 「そんで、同じ布団で」 「正気に戻ってからセクハラだとか騒ぐなよ」  彼の布団にすっぽりおさまると目が冴えた。やっぱこの人なんか変。そんで今日の俺はもっと変。分厚い背中に額をあてて深く息を吸った。おっさんの匂いがして、めちゃくちゃ温かくて、甘くて甘くて甘くて足指の先まで痺れる一方で自分で言い出したことなのに緊張で腹の奥が捻じ切れそうだった。  彼の寝息と一緒に家全体が呼吸をしている。眠れないまま昨夜のことを思い出す。俺が風呂に入ろうとして廊下を行くと、居間で本を読んでいた彼が弾かれたように顔を上げた。その視線に斥力のようなものを感じた俺は「お風呂行ってきまぁす」となるべく軽薄な声で答えた。一秒前まであんな強い目をしていたくせに、今はもう血の気の失せた無表情で俺を見上げている。妙に腹が立って彼の前にしゃがみ込んだ。「一緒に入ります?」「バカか」「ねえエンデヴァーさん。嫌なこととか調子悪くなることあったら話してください。ひとりで抱え込むとろくなことないですよ。俺がそれなりに役立つこと、あなた知ってるでしょ?」 「知ったような顔をするな」 「俺はド他人ですが、孤独や後悔についてはほんの少し知っていますよ」  真正面から言い切ると、そうだな、と素っ気なく呟き、それきり黙り込んだ。俺ももう何も言わなかった。  ここは過ごすほどに大きさを実感する家だ。そこかしこに家族の不在が沈澱している。それはあまりに濃密で、他人の俺でさえ時々足をとられそうになる。昨日は家族で食事をしてきたという彼は、あの時俺の足音に何を望んだのだろう。  いつぞやは地獄の家族会議に乱入したが、俺だって常なら他人の柔らかな場所に踏み入るのは遠慮したいたちだ。けれどあの無表情な彼をまた見るくらいなら軽薄に笑うほうがずっとマシだった。これから先もそう振る舞う。  きんとした寂しさと、額の先の背中を抱いて困らせてやりたい怒り。そんなものが夜の中に混ざり合わないまま流れ出していく。
3.  涼しい夜にビールを飲みながら居間で野球を眺めていたら、風呂上がりの彼に「ホークス」と呼ばれた。 「その呼び方そろそろやめません? 俺もう引退してるんすよ。俺はニートを満喫している自分のことも嫌いじゃないですが、この状態で呼ばれるとホークスの名前がかわいそうになります、さすがに」「お前も俺のことをヒーロー名で呼ぶだろうが」「じゃあ、え……んじさんて呼びますから」「なぜ照れるんだそこで」「うっさいですよ。俺、けーご。啓吾って呼んでくださいよほら」「……ご」「ハイ聞こえないもう一回」「け、けいご」「あんただって言えないじゃないですかあ!」  ビールを掲げて笑ったら意趣返しとばかりに缶を奪われ飲み干された。勇ましく上下する喉仏。「それラスト一本なんすけどお」「みりんでも飲んでろ。それでお前、明日付き合え」「はあ」「どうせ暇だろ」「ニート舐めんでくださいよ」  翌日、俺らは炎司さんの運転で出かけた。彼の運転は意外に流れに乗るタイプで、俺はゆっくり流れていく景色を眺めるふりをしてその横顔を盗み見ていた。「見過ぎだ。そんなに心配しなくてもこの車は衝突回避がついている」秒でバレた。 「そろそろどこいくか教えてくださいよ」 「そば屋」  はあ、と困惑して聞き返したら、炎司さんはそんなに遠くないから大丈夫だ、とまたしてもピンぼけなフォローで答えた。やがて商業施設が消え、国道沿いには田園風景が広がり出した。山が視界から消え始めた頃ようやく海に向かっているのだと気づく。  車は結局小一時間走ったところで、ひなびたそば屋の駐車場で止まった。周りには民家がまばらに立ち並ぶのみで道路脇には雑草が生い茂っている。  テレビで旅番組を眺めているじいさん以外に���はいなかった。俺はざるそばをすすりながら、炎司さんが細かな箸使いで月見そばの玉子を崩すのを眺めていた。 「左手で箸持つの随分上手ですね、もともと右利きでしょ?」 「左右均等に体を使うために昔からトレーニングしていたから、ある程度は使える」 「すげえ。あなたのストイックさ、そこまでいくとバカか変態ですね」 「お前だって同じだろう」  俺は箸を右から左に持ち替えて、行儀悪く鳴らした。 「んふふ。俺、トップランカーになるやつってバカか天才しかいねえ、って思うんすよ。俺はバカ、あなたもバカ、ジーニストさんも俺的にはバカの類です」 「あの頃のトップ3全員バカか。日本が地図から消えなくてよかったな」  そばを食べて店を出ると潮の匂いが鼻を掠めた。「海が近いですね?」「海といっても漁港だ。少し歩いた先にある」漁港まで歩くことにした。砂利道を進んでいると背後から車がやってきたので、俺は道路側を歩いていた炎司さんの反対側へ移動した。  潮の香りが一層強くなって小さな漁港が現れた。護岸には数隻の船が揺れるのみで無人だった。フードや帽子で顔を隠さなくて済むのは楽でいい���俺が護岸に登って腰掛けると彼も隣にやってきてコンクリートにあぐらをかいた。 「なんで連れてきてくれたんですか。そば食いたかったからってわけじゃないでしょ」  海水の表面がかすかに波立って揺れている。潮騒を聞きながら、俺の心も騒がしくなっていた。こんな風に人と海を眺めるのは初めてだったのだ。 「俺を家に連れてきたのも、なんでまた」 「……お前が何かしらの岐路に立たされているように見えたからだ」 「俺の剛翼がなくなったから気ィ使ってくれました?」  甘い潮風にシャツの裾が膨らむ。もう有翼個性用の服を探す必要も服に鋏を入れる必要も無くなった俺の背中。会う人会う人、俺の目より斜め45度上あたりを見てぐしゃりと顔を歪める。あの家で怠惰な日々を過ごす中で、それがじわじわ自分を削っていたことに気づいた。  剛翼なる俺の身体の延長線。俺の宇宙には剛翼分の空白がぽっかり空いていて、けれどその空白にどんな色がついているかは未だわからない。知れぬまま外からそれは悲しい寂しい哀れとラベリングされるものだから、時々もうそれでいいわと思ってしまう。借り物の悲しさでしかないというのに。 「俺より先に仲間が悲しんでくれて。ツクヨミなんか自分のせいだって泣くんですよかわいいでしょ。みんながみんな悲壮な顔してくれるもんだから、正直自分ではまだわかんなくて。感情が戻ってこない。明日悲しくなるかもしれないし、一生このままかも。  あなたも、俺がかわいそうだと思います?」 「いいや」  なんのためらいもなかった。 「ないんかい」 「そんなことを思う暇があったら一本でも多く電話をして瓦礫の受け入れ先を探す。福岡と違ってこの辺はまだ残っとるんだ。それから今日のそばはおれが食いたかっただけだ」 「つめたい!」 「というかお前そんなこと考えとったのか。そして随分甘やかされとるな、以前のお前ならAFOと戦って死ななかっただけ褒めてほしいとか、ヒーローが暇を持て余す世の中と引き換えなら安いもんだと、そう言うだろう。随分腑抜けたな。周囲が優しいなんて今のうちだけだ、世の中甘くないぞ、きちんと将来のことを考えろ」 「ここで説教かます⁉︎ さっきまでの優しい空気は!」 「そんなもの俺に期待するな」  潮風で乱れる前髪をそのままにして、うっとり海に目を細めながらポエムった10秒前の自分を絞め殺したい。  彼は笑っているのか怒っているのか、それともただ眩しいだけなのかよく分からない複雑な顔をする。なお現在の俺は真剣に入水を検討している。 「ただ、自分だけではどうしようもないときはあるのは俺にもわかる。そんな時に手を……  手を添えてくれる誰かがいるだけで前に進める時がある。お前が俺に教えてくれたことだ」 「ちょ〜〜勝手。あなたに助けてもらわなくても、俺にはもっと頼りたい人がいるかもしれないじゃないですか」 「そんな者がいるならもうとっくにうちを出ていってるだろう。ド他人だが、俺も孤独や後悔をほんの少しは知っている」  波音が高くなり、背後で低木の群れが強い海風に葉擦れの音を響かせた。  勝手だ、勝手すぎる。家に連れてきてニートさせてあまつさえ同衾まで許しといて、いいとこで落として最後はそんなことを言うのか。俺が牛乳嫌いなのいつまでたっても覚えんくせにそんな言葉は一語一句覚えているなんて悪魔かよ。  俺にも考えがある、寝落ちたあんたを運んだ部屋で見た、読みかけのハードカバーに挟まれた赤い羽根。懐かしい俺のゴミ。そんなものを後生大事にとっとくなんてセンチメンタルにもほどがある。エンデヴァーがずいぶん可愛いことするじゃないですか。あんた結構俺のこと好きですよね気づかれてないとでも思ってんすか。そう言ってやりたいが、さっき勝手に演目を始めて爆死したことで俺の繊細な心は瀕死である。ささいなことで誘爆して焼け野原になる。そんなときにこんな危ういこと言える勇気、ちょっとない。 「……さっきのそば、炎司さんの奢りなら天ぷらつけとけばよかったっす」 「その減らず口がきけなくなったら多少は憐れんでやる」  骨髄に徹した恨みを込めて肩パンをした。土嚢みたいな体は少しも揺らがなかった。  
 車に向かって、ふたりで歩き出す。影は昨日より濃く短い。彼が歩くたびに揺れる右袖の影が時々、剛翼の分だけ小さくなった俺の影に混じりまた離れていく。 「ん」  炎司さんが手でひさしを作り空を見上げ、声をあげる。その視線を追うと太陽の周りに虹がかかっていた。日傘。 「吉兆だ」
4.  何もなくとも俺の日々は続く。南中角度は高くなる一方だし天気予報も真夏日予報を告げ始める。  SNSをほとんど見なくなった。ひとりの時はテレビもつけず漫画も読まず、映画だけを時々観た。炎司さんと夜に食卓を囲む日が増えた。今日の出来事を話せと騒ぎ聞けば聞いたで質問攻めをする俺に、今思えば彼は根気よく付き合ってくれたように思う。  
 気温もほどよい夕方。庭に七輪を置き、組んだ木炭に着火剤を絞り出して火をつける。静かに熱を増していく炭を眺めながら、熾火になるまで雑誌を縛ったり遊び道具を整理した。これは明日の資源ごみ、これは保留、これは2、3日中にメルカリで売れんかな。今や俺の私物は衣類にゲーム、唐突にハマった釣り道具はては原付に及んでいた。牡丹に唐獅子、猿に絵馬、ニートに郊外庭付き一戸建てだ。福岡では10日で暇を持て余したというのに今じゃ芋ジャージ着て庭で七輪BBQを満喫している。  炭がほの赤く輝き出すころに引き戸の音が聞こえ、俺は網に枝豆をのせた。 「今日は早いですね〜〜おかえりなさい」 「お前、無職が板につきすぎじゃないか?」 「まだビール開けてないんで大目に見てください」  家に上がった彼はジャージ姿でビールを携えて帰ってきた。右の太ももには「3-B 轟」の文字。夏雄くんの高校ジャージだ、炎司さんは洗濯物を溜めた時や庭仕事の時なんかにこれを着る。そのパツパツオモシロ絵面がツボに入り「最先端すぎる」と笑ったら「お前も着たいのか?」とショートくんと夏雄くんの中学ジャージを渡され、以来俺はこの衣類に堕落している。遊びにきたジーニストさんが芋ジャージで迎えた俺たちを見てくずおれていた。翌々日ストレッチデニムのセットアップが届いた(死ぬほど着心地がよかった)。  焼き色のついた枝豆を噛み潰す。甘やかな青さが口の中に広がっていく。 「福岡帰りますわ、ぼちぼち」  彼の手からぽとりとイカの干物が落っこちた。砂利の上に不時着したそれにビールをかけて砂を流し、網の上に戻してやる。ついでにねぎまを並べていく。 「……暇にも飽きたか」 「いや全然、あと1年はニートできます余裕で」  ぬるい風と草いきれが首筋をくすぐり、生垣の向こうを犬の声が通り過ぎていく。いつも通りのなんでもない夕方だ。そんななんでもなさの中、現役の頃は晩酌なんてしなかっただろう炎司さんが俺とビールを開けている。俺らはずいぶん遠くまで来た。 「福岡県警のトップが今年変わったんですけど、首脳部も一新されて方針も変わったらしくて、ヒーローとの連携が上手くいってないらしいんすよね。警察にもヒーローにも顔がきいて暇な奴がいると便利っぽいんで、ちょっと働いてくるっす。そんで、俺のオモチャなんですけど」整理した道具たちに目をやる。「手間かけて悪いんですが処分してくれませんか?」 「……どれも、まだ使えるだろう」 「はあ。リサイクルショップに集荷予約入れていいです?」 「そうじゃない。処分する必要はないと言ってるんだ」  的外れと知っていてなお、真っ当なことを言おうとする融通のきかなさ。その真顔を見て俺この人のこと好きだな、と思う。子どものまま老成したような始末の悪さまで。 「それは荷物置きっぱにしてていいからまたいつでも来いよってことでしょーーか」 「……好きにしろ」  唸るような声はかすかに怒気をはらんでいる。さっきまで進んでたビールは全然減ってないしイカはそろそろ炭になるけどいいんだろうか。ビール缶の汗が彼の指をつたい、玉砂利の上にいびつな模様をつくっていく。 「じゃあお言葉に甘えて。それとツクヨミが独立するってんで、事務所の立ち上げ手伝ってほしいって言われてるんすよ、なんでちょくちょくこっちに滞在するので引き続きよろしくお願いします具体的には来月また来ます♡」 「それを先に言え‼︎」  今度こそ本物の怒りが俺の頬を焦がした。具体的には炎司さんの首から上が燃え上がった。七輪みたいに慎ましくない、エンデヴァーのヘルフレイム。詫びながら彼の目元の皺を数えた。青い瞳にはいつも通りに疲労や苛立ち、自己嫌悪が薄い膜を張っている。今日も現場に呼ばれたんかな。ヒーロースーツを着なくなっても、誰かのために走り回る姿は俺の知ったエンデヴァーだった。腕がなくなろうが個性を使わなかろうが、エンデヴァーを許さぬ市民に罵倒されようが。だから俺も個性なくてもできることをやってみっかな、と思えたのだ。ここを離れ衆目に晒されることに、不安がないわけではないけれど。  疲れたらここに帰ってまたあの部屋で布団かぶって寝ればいい。家全体から、やんわり同意の気配が響くのを感じる。同意が言いすぎだとしたら俺を許容する何か。俺のねぐら、呼吸する恐竜の懐の。 「その……なんだ、頑張れ」 「アザーース」  帰属していた場所だとか、背にあった剛翼だとか。そんなものがごっそりなくなった体は薄弱で心もとない。だから何だ、と思う。俺はまだ変わる。  空があわあわと頼りない色合いで暮れていく。隣にしゃがんだ炎司さんの手が俺の背に添えられた。翼の付根があったあたりにじわりと熱が広がり、そのまま軽く背を押されて心臓が跳ねる。 「来月はそば打ちでもしましょうね」  短い肯定が手のひらの振動から伝わる。新たな命を吹き込まれる俺の隣で、炭がぱちりと爆ぜた。
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oharash · 1 year
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五万の貞節
 もしこの人の目がダメになったら、俺の目を5万で売ろう。タダじゃもらってくれないだろうし金が欲しいわけでもないから5万だ。間違いなく「金の問題じゃない」と言われるだろうが、俺には予備の五感になりうる剛翼があるからいいんですよとかなんとか言って絶対に丸め込む。
 常夜灯を点にして映す虹彩ごと眼球を舐めながら、そんなことを考える。つるつるして気持ちいい、強張る体が可愛くて乳首をつねりあげると啼き声が漏れた。「左のが好きですよね」親指と中指で挟むようにこすって耳元に囁く。
 けいご、と呼ばれると嬉しくなってしまう。この人に求められるのが嬉しい、可愛い人のもっと可愛い顔が見たくていじめてぐちゃぐちゃに泣かせたくなる。俺この人が泣いてるの見るのばり好き。いいじゃん、この人痛いの好きだし、今だってちんこどろっどろにしてるし。
 はだけた浴衣に上気した肌、ってほんとにあるんだなあ。文字通り湯気が上がりそうなほど熱を持った炎司さんの肌はそれでも汗でしっとり湿っていて、俺の中の童貞が今日だけで優に百人は死んでいる。
「ね、自分の手で穴広げてくださいよ。入れやすいよーに」「な」「広げて♡」鋭い眼光を向けられても今ばかりは怖くもなんともない、だって従ってくれるから。
 散々ねちっこくいじった尻の穴からはローションが滲んでいてやらしいし、その上に居座るデカいちんこは使われなくてかわいそう。めちゃくちゃオス感ある炎司さんの下半身に俺のちんこを沈める。入り口がぎゅっときつくて内側は砕けたゼリーの感触、気持ちよすぎてすぐ出そう、無限に射精できる個性ってどっかになかと。
 炎司さんの顔を覆う左腕をひっぺがして押さえつけると彼は嫌だ嫌だと首を振った。本気出せば俺なんて放り投げられるくせに。喉の奥で愉悦が哄笑になって渦を巻く。
 わざとぐじゅぐじゅぐちゃぐちゃ音をたてる。「きもちーでしょ? これからオナるとき、尻と乳首だけでやってください♡ ちんこいじっちゃダメですよ」炎司さんの瞳がぐらりと揺らぐ。「だってもうちんこ使うことないけん。よかと? ヤならやめますうー」
 茶番じみたやりとりでも言うほどに興奮を呼ぶのはどうしてだろう。俺こんな性癖あったんだなあ、とも思うし、全部この人のせいじゃん、とも思う。
「づかわない、からっ」「ほんとですかーあ?」腹をぎゅうぎゅう締め付けて返事の代わりにするところなんて救いようがないほどえっちだ。ひっでえ大人。俺の背後から道がどんどん消えていく。一秒前の、昨日の、この人を知る前の俺にもう戻れない。けれどそもそもそんな俺は存在しなかったのかも知れない。炎司さんの目尻に揺れる炎がその瞳に照り映えて、それがやっぱり綺麗で、俺はまた5万で眼球を売ろうと考えたのだった。
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oharash · 1 year
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こひなら不如意
こひ は 恋のことです。
1.        
 俺の舌はよくまわる。本音でもないことをいくらでも言葉にできる。けれど本当は、あの人の手の中、グラスの氷がたてる音だけに耳をすませる——そんな時間が一番好きだ。  あの人が沈黙に沈むとき、俺はあえて声をかけなかった。ときどき、沈黙の途中であてもなく名前を呼ばれた。 「はぁい」と答えると、炎司さんは呆けた顔で俺を見た。呼ばれたのはおそらく俺ではなかったのだ。その視線はどこか別のところへ向いていたのだと思う。そうでなければ、昔のことだけに。  それでもよかった。こんな俺が、矮小な心が、この世界でテーブルに肘をついてグラスを眺めることが許されるなら、それは誰でもないあの人のそばがよかった。  背中押します、支えます。そこに「守ってあげます」が書き添えられたのはいつだったか。  そんなことだけをずっと身のうちに抱えていた。  
                                                       
 アスファルトが晩秋の日差しに蓄熱されきった頃、ようやく俺はいつものベランダにたどり着いた。  開け放した掃き出し窓の先でノートパソコンを眺めていた炎司さんは俺に一瞥だけをよこし、いつものように良いも悪いも言わなかった。 「ホークス便でえす」「受け取り拒否だ」  靴を脱ぎ揃えて部屋に上がり、勝手に椅子を引いて彼の斜め前に腰を下ろす。彼の前に封筒を、自分の前に紙袋を置く。「お昼まだなんで失礼します」道すがら買ったスモークチキンサンドは冷め切っていたがあまりべたつかず甘さを滲ませた。メニュー横のPR文章も何も見ずに買ったけれど特別な品種だったりするんだろうか。脂の融点が低いとか。  炎司さんはチャコールグレーの襟付きシャツをを着ていて、そうしていると何だか休日のお父さんという体だった。本人が目の前にいるのに俺はいつもこの人のことを考える、指や髪や所在なげに揺れる右袖のことなんかを。そして本物を見て答え合わせをして遊ぶ。本体とは真逆に慎ましさを知らない俺の目はどんどん先に進んでいき、太い首をなぞって肩に降りる。でっか。いつもながら胸まわりがパツパツでどうなってるんだろうって思う。こんなのもうおっぱいじゃん。なんで乳首浮かんのじゃ、ニプレスでもしとんのか。肘上から喪失した右腕は体全体のバランスをとるためか不規則に動く。ストイックを絵に描いたような体をしているくせに少しくたびれた目元だとか眉間の皺には若くない男の退廃があって、おまけに不揃いの四肢という危うさも加わりこの人に会うたび俺の性癖はおかしな方向に捻じ曲がっていく。甘い脂を飲み込む音がやけに大きく響いた。前言撤回だ、こんなすけべな休日のお父さんがいてたまるか。 「テイクアウトっていうじゃないですか、日本だと。イギリスとかオーストラリアではテイクアウェイっていうらしいですよ意味は一緒ですけど。あとイートインって英語圏だとほとんど伝わんないんですって。あ、その封筒の中身ですけど確認して月末までに戻してほしいって目良さんが。俺また持ってくんで用意できたら教えてください」 「黙って食え」 「ところできいてほしい話があるんですけど」 「後にしろ」 「じゃあテレビつけていいです? 今日の野球、昼試合なんですよ」返事を待たずにリモコンを手に取る。炎司さんがキッチンに立ち、湯気のたつマグカップを持って戻ってきた。  ぎこちない左手から離れたマグカップが天板を強く鳴らす。残響を遠く聞きながら、俺はひいきのチームのつながりきらない打線を眺めていた。
 誰も彼もがぼろぼろになってAFOをぶっ殺したあと、俺は日本中から瓦礫やゴミが消える速やかさにちょっと感嘆した。庇護の対象だったたくさんの「一般市民」は機械的にすら感じる切り替えの速さで復興へ舵をきり、熱病のように絆を語り、資材不足にあえぎながら市街地はみるみる整然さを取り戻した。「ヒーローが人を守る」なんて考え方がそもそも烏滸がましいもんだな、だってこの人たちのほうがよっぽど現実的でタフだ、と復興の大きなうねりに放り込まれた俺は少し小さくなった心地がした。瓦礫撤去の現場で一緒にタバコを吸った爺さんは俺が生まれるはるか前の災害をいくつか挙げて「復興も3回目だから慣れたもんだすけ」と強い訛りで声を張り、俺は老兵のさまざまなものを飲み下した頑堅さに畏敬の念すら覚えたのだった。  右腕をなくして内臓をいくつも損傷した炎司さんはほどなくして第一線を退き、初夏の頃に正式に引退した。エンデヴァーでなくなった彼がこの社会に不要なんてことはもちろんなくて、ブッキングに後方支援、各所への根回しなど忙しく過ごしている。  ありがたいことに俺も仕事をさせてもらえて「ヒーローが暇を持て余す世の中」とはいささか意味が違うけれど、あの頃のような世界ごと屠られる警戒からはずっと遠い場所で今、生きている。ついでに炎司さんがひとりで暮らすマンションに用事があってもなくても顔を出している。歓待はされないが追い払われることもない。 「東海道新幹線の復旧、おかげさまで順調らしいですよ。来月ですって」 「福岡からこのあたりまで五時間だな。だからってお前はこれ以上うちに来なくていいからな」 「まだ何にも言ってなくないですかあ。それに俺は飛行機派ですう」 「この画面から進めない。わかるか?」  この人がエンデヴァーさんから炎司さんになった頃、俺の呼称も貴様からお前に変わった。突き出されたPC画面を処理して戻してやる。 「どこもこうやってどんどん電子化になってるのにお役所っていつまでも紙文化でどうなの、って最近まで思ってたんですよ。でもヴィランの襲撃でパソコンぶっ壊れて焼け残った紙の情報が復興の役に立ったなんて聞いちゃうと何でも知った気になっちゃいけないなって思いましたわ」 「アナログなものをあまり侮らない方がいい。削ぎ落とされたものがそのまま無価値になる訳じゃないからな。そもそもお前ら、わからないことがあると3秒以内にスマホで調べ始めるだろう。あれも時々俺はどうかと思うぞ」 「ええ? だって早いじゃないですか」 「想像力が発揮される余地がないだろう」 「うーーーーーん」 「答えを探しているうちに今まで出会ったものとの有機的なつながりだとか体系的なものが見えてきたりする経験はないか?」 「例えば重要でないけど便利な情報ってあるじゃないですか。最寄りのトイレとかコンビニの場所とか。そういうものを簡単に得られる代わりに、俺たちは思考を訓練する機会を失ってるってことですか?」 「そうだ。お前たちの方が高度な検索機能を持っている分だけ自分を相対化できているし良い社会を作れるのだとは思うが。誰かの主張を無防備に取り入れる若者を見ると心配になる」  この2LDKのマンションではない彼の以前の住居を思い出す。一度だけ訪れたことがある、厳しい佇まいの大きくて静かな日本家屋。あの見事な枝振りの松、晩夏の撫子と女郎花。欄間に切り取られた午後の日差しに床の間の控えめな掛け軸。暴徒かヴィランなのか結局判明しなかったが、放火されてもうどこにもない住まい。あの空間を思い返せば仕事を離れた炎司さんが案外物静かなのがわかる気がした。手のかかるものやアナログなものを否定しきらないことも。 「そうかもですね。俺らって多分根っから効率厨なんですよ。あー…効率重視ってことです。やらなきゃいけないことは効率的にぱぱっと済ませて、自分の好きなことに時間を割き���いっていうか。あんまり余白、とか、ままならないものを愉しむ、とかかがわかんないんですよ。逆に教えてほしいくらい」   「茶道でも習え」 「あ、自分で話振っててめんどくさくなってるでしょ」 「本当に知りたいか? ままならないことを?」 「そりゃもう」あなた以上にままならないものがあってたまるか。  炎司さんは壁時計に目をやって少し思案した。16時少し前。晩秋の日差しはすっかり黄色い。 「今から明日の朝までの予定は?」「オフです。何も決めてません」「なら泊まってけ。その前に一件付き合え」「ええ、事件ですか?」「いや私用だ」  外出とお泊まりの誘いをいただいて浮かれる俺を嘲笑うように、炎司さんが片頬を上げた。 「アナログな、あるいはもっと原始的な案件だ」
2.  かくして、俺は住宅街の中にぽっかり作られたその名も『なかよし公園』のベンチにてコーヒーを啜ることとなった。観光名所でもなくカップルが遊びに来るような場所でもなく、雲梯、鉄棒、滑り台、ブランコ、東屋に小さな山、公衆トイレに動物を模した遊具、ささやかな広場、それらを見守るようにそびえる銀杏の木。ふたりがけのベンチでコーヒーをすする男ふたり、それもひとりはガタイのいいオッサン。公園を取り囲む家家を眺めて造成されてから20年ほどの住宅地と勝手に目算する。ふりあおげば高層の団地がやや遠くに見えた。ほとんどの家庭のベランダに生活の色がついている。 「で、何なんですかここは…」  炎司さんが車を出してくれるという突然のイベントにまず俺は面食らった。次はドライブデートやね♡ かさばるから羽根は落としとかなきゃいかんね♡ と浮き立つ気持ちと、この車ってほぼ俺の年収じゃね? とおののく気持ちで頭が混乱した。走る年収について炎司さんは「ガソリンスタンドは鬼門だから電気自動車、日本製はどれも手狭だったから海外製」と大変セレブな消去法を披露してくださった。ついでに片腕でも運転できる仕様にしたので納車にえらい時間がかかったとか。俺が勝手に当たりにいってるのは百も承知だが経済力で殴るのはやめてほしい。硬さを感じさせないのにしっかりホールドされるシートは全然落ち着かずいっそパトカーが恋しかった。そんなBで始まるドイツ製の車は住宅街から顔を覗かせるドラッグストアに停めてある。 「すぐ終わるから待っていろ。人生には余白も必要だ」 「仕事は超合理主義のくせに」  この人の片頬笑みは凶悪だけど慣れてくれば人懐っこさもある。全く『なかよし公園』にはそぐわないが。  小学校低学年くらいだろうか、柔らかそうな体をした子どもたちがブランコで遊んでいる。板の上に立ち上がって膝を屈伸するアグレッシブな立ち漕ぎだ。 「聞いてほしい話があるって言ったじゃないですか、悩み相談なんですけど。最近、気合の入ったストーカーがいましてね、俺に」 「午後の公園にはふさわしくない話題だな」 「あなたの顔よりはマシだと思いますよ…。まあそれでね、俺を自分の恋人だと思ってる系の人なんですけど。事務所で出待ちされるので撒いて帰ってたんですよ。そしたら消印のない手紙が自宅のポストに届くようになりまして。‘今日の私服素敵でした’から始まって、次の日にはどうして返事をよこさないのか、になって、その次はもう俺とその人が結婚してる前提で話が進んでいきまして。自分の身くらいは守れるしってほっといてるんですけど。最寄りのコンビニにも来るので行けなくなっちゃいました。炎司さんって現役時代、ストーカーの類ってどうしてました?」 「俺をストーキングするような物好きはおらん」 「うっそぉ。‘エンデヴァーに殺されたいヴィラン’いたでしょ。全然説得力ないっすわ。あれも一種のストーカーですよ」  炎司さんは眉間の皺を深くして下唇を突き出した。これで喜怒哀楽を表現する彼も、それがわかる俺もどうかと思う。ちなみに今はご不満であらせられる。 「そういうことなら身の回りに気をつけろ。エスカレートすると親しい人間に矛先がいく。俺は家族を襲われた」 「親しい人…炎司さん…⁉︎」 「お前本当に友達がいないのか…?」 「襲われたら返り討ちにしてくださいね」 「くだらないことを言ってる暇があったら面倒がらず専門家を入れろ。何かあってからでは遅い。それから」  まあそうなるよな、よしよし不安だね大丈夫? とか言わんよなあ。俺の構ってちゃんマインドを一刀両断して、彼は腕時計を見下ろす。 「そろそろだ」    ぼん、と背中に衝撃がはしった。振り返ると男の子がいた。家庭の甘い香りを漂わせた小学一年生、あるいは未就学児。彼は声もあげずにったり笑っていて、その足元にはサッカーボールが転がっている。  これがベンチの背に当てられた、全身に警告が走る。雨覆だけにしてパーカの下に隠していた剛翼が反応しなかったのだ。  子どもがボールを拾い上げて振りかぶると、彼の手を離れたボールの軌道がスローに見える。尻がベンチに縫い付けられたように動かない、目を逸らすことができない。  左肩が熱くなった。熱い? いや痛い。炎司さんに突き飛ばされたと理解した瞬間に受け身をとる。顔を上げると子どもは真っ赤な口を開けて声もなく笑い、背を向けて走り出した。 「追え」  その言葉より早く剛翼を飛ばす。  個性でも使っているのか、子どもは生身とは思えない速さで駆けて公衆トイレの裏手に周り—— 「は?」  あったとしてコンマ1秒。遅れはとらなかったはずだ。けれど俺が壁に手をかけて身を乗り出した時には、子どもの姿はもうどこにもなかった。  剛翼は初めから最後まで一度も伝えてこなかった。生き物の反応も、そうでない反応も。  街に17時を告げる『峠の我が家』が遠く響いている。
3.  本当に何げない時に右腕の喪失を感じるという。  あの人が缶ビールのプルタブを開けようとして、肘から上が欠損した腕に気づいてふと呆けるなんでもない時間、それに続くわずかな照れと自嘲、はにかみの意味を俺は正確に理解はできなかった。だからそんな時俺はいつも、彼の残された左手の指先を見つめている。  自分の缶ビールを開けて炎司さんの未開封のそれと交換すると、彼は罰が悪そうに礼を言った。もう何回目かもわからない四川麻婆豆腐を平らげて風呂をいただいたばかりだ。初めて作ってもらってから俺がそればかりねだるものだから、炎司さんは麻婆豆腐が俺の好物だと思っている節がある(冬美さんのレシピなのだと教えてくれた時の顔といったら! )。もう一度プルタブを上げてビールを煽る。風呂上がりの体に苦みの強い銘柄が染みていった。  テレビのチャンネルをニュースに合わせて、今度こそ逃さない腹づもりで炎司さんを睨む。 「そろそろ教えてください、夕方のアレはなんだったんですか」  あのあと、あっけにとられる俺の後ろで「ふむ」と頷いて彼さんは公園を後にした。何を聞いても「後で話す」と教えてくれなかった。 「お前はなんだと思う?」 「気配を消す個性か、すぐ消失させられる人間を作る個性かと考えました。でも足の早さが説明つきません。足の速い動物を人間の姿にするとか? でも目的がよくわからない。愉快犯にしたってボールをぶつけるだけじゃその線は考えづらい。そしてあなたがわざわざ俺に見せるくらいだから、そんな薄味なものじゃないでしょう」 「冷静だな。主観的な感想は?」 「不気味でした。体が固まって、あなたに突き飛ばされるまで動けなかった」  炎司さんが片眉を上げて意地悪く笑った。ばりカッコいいな、腹たつわあ。 「お前の頃もあったか? 学校の七不思議というものは」 「エンデヴァーが随分とファンシーなこと言いますね…トイレの花子さん的なやつですか?」 「無人の音楽室からエリーゼのためにが聴こえてくるだとか踊り場の鏡に何かが映るだとか、な。口伝だろうによく何十年も続くもんだ」 「いや待って、全然話が見えないんですけど」 「冬美の勤める小学校があの近くだ。今の子どもたちもそういった怪談が好きなんだそうだ。それでトイレの三番目がどうとかよくある話の中に、地味だが他所では聞かない話が混じってるらしい。17時にあの公園のベンチに座っていると子ども現れてがボール遊びに誘ってくる。それに応じると」  ぼん。 「家までついてくる」  俺が出入りする掃き出し窓が軋んだ。ちょうど、まるで、硬い球体が当たったみたいに。それも大人のフルスイングでなくて子どもの力で精一杯ぶつけたくらいの衝撃で。  剛翼はぴくりともしない。この部屋は地上5階だ。  深刻なことほど遠ざけたいもので、俺はまずドッキリを疑った。炎司さんはこんな手の込んだことはしない、却下。では何かの拍子でボールが飛んできた。それなら散らしてある剛翼で感知できる、却下。そもそもどこからボールが飛んでくるというのか。 「パーナム効果でしょ…」  占いなんかで、誰にでも該当することを言われているのに「自分にだけ当てはまっている」と思い込む現象——そんな一致だろう、音が似てるだけで家鳴りかも知れないし鳥がぶつかったのかも知れない、と思うも脳みそ裏側からの警告音が止まない。 「ボールを受け取らなければいいかと思ったがそうでもなかったようだな。走って追いかけたのが‘遊び’にカウントされたか?」 「待って待って本気ですか⁉︎」 「剛翼は何かを感知したか?」 「してませんけど⁉︎」 「では個性ではないだろう。ついでに家まで来た彼はボールの代わりに生首を持ってるらしいぞ」  炎司さんは立ち上がって、キッチンから小皿と塩を持ってきた。俺に目もくれず片腕でぎこちなく窓際に盛り塩を始める。 「あんた自分の家を幽霊屋敷にする気ですか⁉︎」 「AFOに比べれば怪異くらいなんてことはない。それに古今東西、この手のものは招かれなければ入れない。朝まで窓も玄関も開けるなよ」 「そうなの? そういう問題なの? ていうか初めてじゃないってこと? 俺が公園の後やっぱり帰るとか言い出したらどうするつもりだったんですか⁉︎」 「この怪異が海を越えて福岡まで行けるか否かがわかるな」  ぼん。再び窓が鳴る。 「ままならない出来事はどうだ、小僧?」  ぼん。  外の景色が見られない。 
 突如足先を濡れた感覚が襲い、喉からヒュッと空気が漏れた。床は何の変哲もないフローリングなのにひたひたと冷気が上がってくる。見えるはずもない映像が脳裏によぎる。はねるボール。鱗の生えた足。黒く壊死した指先。縫い合わされた瞼。水を吸って膨らんだ猫の死体。室内に浸水する泥水。家中にぶら下がったロープの結び目。藻に覆われた水面から生える黒い手。  目の前でひとつだけ知っている、電信柱のように太い炎司さんの左腕を掴んだ。 「玄関に盛り塩するから邪魔をするな」 「いや無理! 行かんでください‼︎」  自分でも信じられない力が腕にこもり、普段は組み合ってもびくともしない炎司さんが俺を押しのけるのに手間取った。  ぼん。リビングと廊下を隔てるドアが鳴る。  炎司さんのデカい体が静止する。気温が急に下がった。天井のシーリングライトが明滅している。  ドアの向こうにあの子どもがいる、そんなイメージが脳内で像を結び、炎司さんのシャツを千切れるくらい握りしめた。 「招かなきゃ入ってこれないんじゃないんですか…?」 「はいれるよおおおー」  ぼん。ぼん。ぼん。そんなはずはないのにドアの向こうから音楽が聞こえる。古いスピーカーから流れる、音のひずんだ『峠の我が家』。 「はいれるはいれるはいれるはいれる」  下水の臭いが鼻をついた瞬間、俺は炎司さんの襟首を掴んだ。 「ちんこ出してください」 「あぁ⁉︎」  部屋中にビリビリ反響する声量も今ばかりは気にならなかった。 「これ、想定外の事態でしょ⁉︎」 「そうだが」 「幽霊って汚いものとくだらないものが嫌いなんですよ、例えば糞尿とかえっちなことです。ちんこ出してください、うんこ出ないでしょ。部屋におしっこするのとちんこだすのどっちがいいですか⁉︎」 「何言ってるんだお前は⁉︎」 「俺も一緒にやりますから! 男ふたりでマスかくとか最強に馬鹿馬鹿しいからそれで行きましょ‼︎」 「この状況で勃つか馬鹿者‼︎」 「勃たせるんですよ、男でしょ⁉︎」  炎司さんの股間を握る。デカいちんこを揉みながら全体重をかけてソファに押し倒した。彼の視界にドアが入らないように剛翼で覆うのとほぼ同時に照明が落ちた。  こんな状況なのに、あるいはこんな状況だからなのか俺のちんこは硬くなり始めていて、俺は炎司さんにまたがってふたりのスウェットと下着を下ろした。 「集中してください」  合意がない。そんな悠長なこと言ってられるか。今この人を守れるの俺しかいない。舌で指先を濡らして先端を撫でると、炎司さんのちんこが少し反応した。二本のちんこを握り一度深呼吸をして、俺はふたり分のオナニーを始める。ぼんぼんぼん。つるつるした粘膜に指を引っ掛けて棒を擦って根元から搾乳するみたいに揉み上げる。「��いれるはいれるはいれるはいれるはいれる」まだ足りない。首��に舌を這わせて右耳を含んだ。わざとぐちゅぐちゅ音をたてて耳介を舐め回して上半身も擦り付ける。彼の硬い髪をこめかみに感じて冷えた体が熱を取り戻していく。「どうしてえええ」剛翼の密度を上げて炎司さんをぴ���たり包む。ふたり分のシェルターの中で、空いている手で彼の左耳をふさぐ。直接伝わる身じろぎがたまんなくて下半身が重くなる。全身がぴりぴりするくらい気持ちよくて足の指先まで熱い。炎司さんの筋肉が弛緩したのかふかふかになって気持ちいい、俺が乗っかってるだけなのに抱かれてるみたいに錯覚する。耳の後ろでちりりと火花がまたたいた。ああ俺この人に好きっていつになったら言えるっちゃろ。もっと奥まで知りたい。その先が奈落でもいいから奥までもっともっともっと奥まで舌を入れたい。「おおおおおおと」彼の頭を抱き込むようにして、羽根と上半身を使って音を遮断する。「うさああああああん」この大きな体もあかぐろい顔面の傷も高い鼻梁も腹に響く声も右腕の皮膚が張った断面も何もかも好きだ。好き。ばり好き。  全身が強張って、張り詰めたこころが決壊する。手のひらに精液が散った。  賢者タイムは訪れずむしろ体は熱くなるばかりで、引き続きもう一本のちんこに奉仕する。もっと力を入れた方がいいんだろうか。ていうか右手ないとオナニーのときどうすんだろ、左手? 当たり前だけどこの人が好きなところとか何も知らんわ。なら手当たり次第やるしかない。腹に気合を込めて炎司さんのシャツをたくし上げた。したい。時間かけてキスとかたくさんしたいんだけど、今は出してもらわなきゃいけない。いきなり乳首舐めるってどうなんだ、童貞だと思われたらどうしよ。いや今そんな値踏みされないから構うな、できることは全部やれ俺。乾いた胸に鼻を擦り付けて乳首を口に含むと、炎司さんからくぐもった声が漏れた。慣れてない女の子みたいに。吸い上げると水を含んだように硬くなる。  下から盗み見た彼は下唇を突き出し眉根を寄せていて、それを見たら無性に腹が立って唇に指をねじ込んだ。俺はわかるはずなのだ、この人が下唇を突き出す仕草から喜怒哀楽が。 (今ぜんっぜんわからん!)  上顎をなぞって舌を指で挟む。喉の奥に指を入れると嘔吐反射が起きて彼の瞳に生理的な涙が張る。なんな。何考えてるん。本当になんでこんな、ままならないことばかり俺は。彼のほとんどえづきに近い、こもった声が鼓膜を揺らすたび体がどんどん熱くなる。  大きな手で後頭部を掴まれたかと思うと、全身を潰されそうなほど四肢で締め付けられた。同時に手のひらに体液が滲む。  …でた、俺はやりきった‼︎  体液ができるまでちんこに奉仕すると、気が抜けて炎司さんの体に倒れ込む。俺より高い体温に包まれて全身がたゆたう心地だ。  余韻が足先から抜ける頃、照明が瞬き、部屋がぱっと照らされた。  部屋に残されたのはニュースを読み上げるアナウンサーの声と床にこぼれた塩と、ちんこを出した俺たちふたりだけ。  廊下に続くドアは開いていた。
 
「ふぎゃ」炎司さんが体を揺すり俺はラグの上に転がる羽目になった。  怒られも殴られも焼かれもしなかった。エンドロールの終わった映画館みたいな薄情さで炎司さんは「風呂に入り直す」と言い出し、俺は彼に追い縋って廊下に出ることを何とか阻止し、体を拭いてそのまま寝室へ押し込んだ。普段俺はソファで寝るが今日は何を言われようが同じ部屋で寝る以外の選択肢はなかった。トイレについてきてもらう約束も取り付けた。  ちんこ擦り合わせたどころかさらなる無体を働いた気恥ずかしさとおののきががようやく襲ってきた頃、炎司さんから健やかな寝息が聞こえてきた。恐ろしくて馬鹿馬鹿しくて恥ずかしい最低な夜なのに俺以外の全てが恬淡としていて、それが余計に俺の小胆さを際立たせるようで身悶えながら、寝た。
4.  朝には炊き立ての米と煎茶を出すのが炎司さんの決まりごとだ。粒のたった米が美味い。 「昨日みたいなことってよくあるんですか?」 「初めてだ。モノがよく落ちるようになったりやたら家鳴りがするようになったことはあるが、一週間もすれば収まっていた」 「そもそもああいう怪異…的なものに興味があるとは知りませんでした」 「興味はないぞ。お前だってあるだろう、夜中に学校の窓から手を振られるとか山中で救助をしていたら覚えのない案内人がやってくるとか水難現場で足を引っ張られるとか、それが家までついてくるなんてヒーローをやっていればよくある話だ。お前のストーカーよりはマシな話だろう」 「全然マシじゃないし俺そんな経験ないですよ⁉︎」 「昨日はお前を驚かそうと思ったら思いのほか活きのいいものを引いてしまったが」 「今日帰りたくないんですけど」 「俺は平気だぞ」 「あなたはよくても! 俺が! 怖いの! ていうかあなた俺が撃退法思いつかなかったらどうするつもりだったんですか」  朝の話題におよそ似つかわしくない。白米のお供に出された松前漬は上品な塩加減だし窓から差し込む光は真っ白で、ドアの向こうにはいつも通りの廊下だけがあった。もちろん鍵は施錠されたまま。何か問題でも? とでも言いたげな部屋と部屋の主がいまいましい。 「玄関を破られたときは驚いたが、それでもどうとでもなると思っていた。ただそれは個性を使って逃げるとか物理的にどうこうするという意味で、まさかあんなやり方を出してくるとは思わんかったが…お前のあの必死な顔…」  語尾は俺まで届かなかった。顔は伏せられ山脈みたいな肩が震えている。そりゃこの人に笑ってほしいと俺は常から思っているが、笑わせると笑われるじゃ意味が違うのだ。「いやあんただってちんこ出しましたからね」「痛み分けだ」「何が! 本当に怖くなかったんですか?」「お前のあの鬼気迫った顔を見たら吹っ飛んだ」「俺のゴッドハンドでイったくせに! いだっ」強めの手刀が降ってきた。  炎司さんの無邪気ともいえる振る舞いに拍子抜けして朝からぐったりする。ちんこの形の前に知りたいことが山ほどある。キスもしなかった、そもそも俺はこの人に好意すら伝えていないのだ。そして俺は昨晩を思い出してしばらく悶々とした夜を過ごすことが確定したというのに。もはや俺が純情を弄ばれた気分だ、責任とってほしい。 「普段はお前のペースに巻きこまれてばかりだから溜飲が下がったぞ、俺は」 「そりゃ何よりですよぉ…」 「しかしあれはセクハラになる。自分より立場の弱い人間にはするなよ」 「しませんて!」  俺と彼がどこまで同じものを知覚していたのかは確認していない。あの時浮かんだ数々のおぞましいイメージだけならまだしも、あの悲痛な「おとうさーん」の呼び声聞いても同じこと言えますかあなた。俺が耳塞いでおいてよかったですね。誰かを思い出して取り乱したり心を痛めたりしませんか。一昨日は医療刑務所の面会日でしたね、長男さんはお元気でしたか。  そんなことは死んでも口にしてやらない。 「どうして玄関破られたんすかね」 「あまり己を疑うな、魔につけ込まれるぞ。地上はどこも荒野みたいなものだ」  やかんの音が俺たちの間を切り裂いて、炎司さんがキッチンに消える。  何の話だ。スマホを取り出して検索窓に「荒野 悪魔」と打ち込む。昨日「思考力が培われない」と言われたばかりだが俺は効率厨なので待ちきれないのだ。トップに出てきたWikipedia「荒野の誘惑」項を斜め読みする。有名な神様が荒野を引き回されて悪魔に誘惑される。3度誘惑されても神様は揺るがず悪魔は去る。ブラウザバックして知恵袋やら個人のブログやらを眺めていると、転じて「悪魔の声を聞いて3回自分の信仰を疑うと悪魔に魅入れられる」ような意味で使われることがあるらしい。天井を仰ぐのとキッチンからコーヒーの匂いが漂ってくるのはほぼ同時だった。俺に信仰はない、この場合はどう解釈すればいいんだ。そもそもこれって新約聖書の話であって昨日のアレは日本の怪異なわけで、ここにキリスト教は適用されるのか。そういえば日本神話にも3って数字は出てくるな、まで考えたところでスマホをソファに放り投げた。俺は最短最速で答えの引き出しを開けたいわけですよ、どういう意味で言ったの教えて炎司さん。でもこれって絶対「自分で考えろ」って言われるやつ、絶対そう。答えの出ない問題に直面した時に自分がこうも混乱するとは知らなかった。本当にままならない。  焦がされてちりちりになった髪のひと房を、やるせなく弄んだ。
 
 炎司さんの街から俺の街に帰るときはいつも季節を越境する。  群青の空にふくよかな月がのぼっていて、空気は湿気を含んで活気付いていてる。炎司さんが別れ側に言ってくれた「またな」がゆっくりと崩れ形を変えていく。ああちんこ触ってしまった乳首も舐めてしまった。そりゃ「守りたい」とは常々思っているがあんな形で暴走するってある? あのときもっと顔見とけばよかった俺のバカ。あの人俺にあんなことされてなんであんな平気な顔でいられるんだろう。炎司さんが本気出したら俺なんて2秒で投げ飛ばされるのに、焼き鳥にもされなかったし。あの時されるがままになってくれたのは何で。その心は。昨日から1000000回は繰り返した問いがまた頭を駆け巡る。 「たぶんなんも考えてなか…犬に噛まれた的な…あの人天然なとこあるし…」  スマホを手に取ると、炎司さんからストーカー問題に強い弁護士の連絡先が送られて来ていた。ありがたいがそうじゃない。「●●市 男児 水死」で検索しかけて指を止める。知らない方がいいこともある。  自宅のソファで脱力して明日の予定を頭の中で並べていると、インターフォンが立て続けに三回鳴った。Amazonの宅配だろうか。オートロックに手を伸ばそうとして違和感を覚え、音声を繋がずエントランスの画像を呼び出すと髪の長い女が見えた。件のストーカーだ。ひと抱えもある荷物を胸に抱いていて、赤黒いそれが何なのかモニターの荒い映像ではとらえきれない。  ついにインターフォンを鳴らすようになったのか。カーテンを引く前に家の灯りは点けてしまったから在宅もバレているだろう。  とりあえずここは無視だ。しつこいなら窓から出て事務所に避難だ。そんなことを考えているとまた三度、インターフォンが鳴る。炎司さんの言葉を思いだす。
 許可がなければ入れない。  あまり自分を疑うな、魔につけ込まれるぞ。
 ストーカーはエスカレートすれば許可がなくても入ってくるだろうし、俺が何を疑わなくてもストーキングをやめないだろう。まだ悪魔や怪異の方が慎みがある。そう思うと投げやりに笑えた。インターフォンの音声を切ってソファに転がり、炎司さんに電話をかける。  ぼん。  背後で窓が鳴る。
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oharash · 2 years
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ないりの波際
ないり は 泥梨 で地獄のことです。
本文は杉元視点、エピローグは白石視点です。
 俺はあいつのことをほとんど知らない。  それはあの時だけじゃなく今もって何ひとつつまびらかには知らない。いろいろあって一緒に凍死しかけたり金をせびられたり、酒を飲んだり同じ釜の飯を食ったり殴ったり殴られたりしたが、あいつの目が何に焦点を当ててあの旅の間に何を胸に抱えたのか、そんなことは一切知らない。  聞こうと思ったこともなかったし、近くにいて自然に知ることが出来ることだけを知っている――それだけでいいと思っていた。  俺は白石がいればそれでよかった。
   海と山しかないようなその郷で、アシリパさんのコタンの裏山には炭焼きの窯と窯を見るための小屋が一棟あった。その小屋はもともとは山の作業小屋と休憩所を兼ねていたものを頑丈に作り替えただそのまま今に至るまでなんとなく修繕し続けていたというもので、自然からも人からも中途半端に見捨てられた佇まいを俺はそれなりに愛していた。ここでの俺の棲家だ。アシリパさんの叔父の嫁さんの妹の旦那の爺さんの…詳しいことは忘れたが、とにかくどこかの誰かが持て余していたものを俺が借り受けている。人が住んでいた方が傷まない、できたら家族の分だけは炭を焼いて欲しい。そんな理由で。  今年は北海道でも盛夏から雨が多く襦袢が湿って背中に張り付くし朝顔は結局蕾をつけなかった。けれどくさくさした日も朝霧の匂いは甘かったし川の水は冷たくて、俺は少しぼんやりとしながら日々を過ごしていた。  だから、太い道から小屋に続くだらだら坂の中腹に俺以外の足跡を見た時は背骨に太い芯でも入れられた気分だった。足が意思より早く坂を蹴り立て付けの悪い引き戸を力任せに開ける頃にはもう我慢ができなかったのだ。 「テメエっ連絡もよこさねえでどこほっつき歩いてやがった‼︎」  平手で思いっきり、側頭部を、叩いた。拳だったらたぶん殺していた。  そいつは濁った悲鳴をあげて床に転がってやっぱり「クーーーーーン」と鳴いた。 「いだいいいいい…。だからモテねえのよお前」 「うるせえ受け身取ってんじゃねえっ」 「だっていくら平手だってお前に思いっきり叩かれたら死んじゃうでしょお⁉︎」  口調と裏腹に楽しそうに口角を上げる白石を見たら馬鹿馬鹿しくなって、でもまだ腹の虫は治らなかったのでもう一発平手に力を込める。  靴脱ぎには古くさい草履が脱ぎ捨てられていた。
「あのときは吉原が俺を呼んでたわけよ」 「うるせえちんぽ腐り落ちてしまえ」 「ひどぉい」  どこまで行ってきたのか知らないが、白石の荷物は小ぶりなずた袋ひとつで財布には相変わらずろくな額の金も入っていなかった。金がなくなったから帰ってきたのか、それともここに帰るまで路銀が持てばいいと思ったのか。どうせまたどこかから逃げてきたのだ、草履は盗品だと俺は決めつけた。 「アシリパちゃんのとこ行ったら、お前がここにいるって教えてくれたからさあ」 「会ったのか」 「うん。背伸びててちょっと感動したわ。とりあえず飲もうぜぇ」 「せっかくだからアシリパさんとこ行って飲もうぜ? まだそんな遅くねえし」 「俺もう歩き疲れたのよ。明日行くからさあ」  白石が体を起こしてちゃぶ台に寄りかかる。なんとなく妙な気配がした。嫌とは違った胸騒ぎに似た違和感。いつもと違う感じ。あるいはいつもと同じで、ほんの少しブレる――共振を起こした時計の針が振り切れるような、そんな程度の。  けれど目の前の男そのものは何も変わらない俺の、たぶん仲間、だったので俺は自然に奴の向かいに腰を下ろしていた。
「こっちに来る途中流しの菓子職人と行きあってさ、ちょいと一緒にいたわけ。みちのくから北海道まで行くってんで、その辺の菓子って言われてみれば形が似てんだよね。杉元の地元のかりんとうってどんな形してる? 犬のウンコっぽい形じゃない? それがさあ、南部の北あたりから葉っぱみたいな形になんの。それが津軽海峡を超えて北海道きても同じでさあ。まあその菓子職人に最後は警吏に売られたけどね、おかげで靴なくした。あ、そういえばお前が言ってた帝国ホテルのエビフライも食ったぜ」 「は? 強盗にでも入ったの?」 「違いますう。不忍の競馬場で会ったオッサンが金持ちでさあ、仲良くなって連れてってもらったの。いやーありゃ美味いねお前が言うだけある。ふうわりして甘くて…」 「わかる…ふうわりしてる…」 「だよなあ。油で揚げるって聞いたからあとで灯火油でやったらボヤ起こしかけた」 「そこはせめて菜種油だろ」  東京で行方をくらましたあと白石は日本中をぶらついていたようで、旅の話をとりとめもなく教えてくれた。軽薄な調子とか、ゆっくりとした声の拍子がとても自然で嬉しい。 「俺がいなくて寂しかった? いだい痛いいたいっ‼︎ 」  腕ひしぎ十字固めをかけると白石はゴザをばたばたと蹴り上げた。悲鳴はすぐに笑い声に変わって、俺もなんだか笑ってしまう。もう会えないだろうとそのうちひょっこりやってくるだろう、の間を揺れ動いていた心が溶け出していく。  気持ちよく酔っ払って床に寝転がる。頭を傾けると、白石も同じ姿勢で俺を見ていた。 「…なんだよ」 「俺は寂しかったよ。お前らがいなくてさあ」 「お前が勝手にいなくなったんだろ」 「それはなんていうか、そんなもんよ。お前は? まあ元気そうだけど」 「あー…」誰に言うつもりもなかったが、こいつにならいいかなあ、と酒と再会が俺をゆるめた。 「右手、が」 「みぎて?」 「ときどき痺れる。なんていうか、力の入れ方はわかるから動くんだけど、感覚が薄くなる。後天的に耳が聞こえなくなった人って、聞こえなくても喋れるじゃん。多分ああいう感じ」 「あらま。不便ないの」 「特にない。アシリパさんには言うなよ」 「言わないけどさあ…脳みそ欠けてるから痺れるのかな? 大事にしなさいよ。せっかく目も爪も指も手足も全部揃って生き残ったんだから」  白石が手を伸ばして俺の手のひらを取った。按摩をするように揉みながらため息をつく。その嘆息ともいえる雰囲気が珍しかったので 「気持ち悪い」と言ってしまった。「ひどぉい」とこだまのような声が帰ってきた。  手をとられたまま、にじりにじりと距離を詰めて空いている左手でその頬をつねりあげる。こいつの頬はよく伸びるのだ。白い歯がのぞいた。 「いひゃい」 「お前、アシリパさんと何かあったの?」 「ええ、なんでわかるの? アシリパちゃんのことだから? お前も十分気持ち悪いよ⁉︎」 「うるせえ顔面ちぎり取られなくなかったら喋れ」 「脅迫しないでくれる?」  俺の手を揉むのはやめず、歯切れ悪く話し出す。 「アシリパちゃん普通だったよ。お前みたいにどこ行ってたんだって怒ってくれて、おやつ食べさせてくれてさあ。ヒグマの胆嚢が高く売れた話とか、ウサギのウンコの話とかしたよ。でも何かよそよそしくてね? なんか、ああやっちまったな、って思ったの。心当たりあるのよ、あのよそよそしい感じ。  お前に話したかわかんないけど、俺赤ん坊の頃寺に捨てられてて家族いねえのよ。その寺も逃げ出したし。クソガキだったけど、仕事とか駄賃くれたり飯食わしてくれたり、クソガキにも何かと世話焼いてくれる優しい人ってのが世の中にはいるわけ。ただその人たちにも事情があるからずっとは続かなかったり突然会えなくなったりすんの。でもガキだからさ、そうなるとすっげえの。すっげえ落ち込むの。やっぱり大人なんてそんなもん、自分の都合で行動するだけで、俺のことなんか考えていない。期待したり信用したりしちゃダメだって思うようになるんだわ。もう傷つきたくないからさ。そうするとまた会えてもよそよそしくしちゃうんだよね。  アシリパちゃん見てそんなこと思い出したのよ、お前、俺の勘違いだと思う?」 「わかんねえけど、東京でいなくなった時、どうせすぐ帰ってくるだろと思ったら全然そんな気配がなくて、こっちに戻ってしばらくはアシリパさんちょっと元気なかったぜ」 「あの子も両親いないもんね。俺ってアシリパちゃんにそこそこ好かれてたのねえ…ただ嫌われた方が楽だったなあ」  静寂が床に落ちる。ひとりでいる時は気にも留めないのに、ふたりでいるときのそれには何かしらの色がついていて居心地が悪い。 「お前、次いなくなる時は言ってからにしろよ」 「湿っぽいサヨナラ嫌いなのよ…」 「タコ。さっさと出てけ」  残すは体ひとつ分の距離にいた白石に身を寄せて、覆いかぶさるように抱きしめる。酒の匂いと汗くささと懐かしい甘い香りがした。 「言ってることとやってることが逆だよ、杉元」 「うるせえ」 「お前も俺のこと好きだよねえ。ばかだよなあ」  たくさん人間を殺したので骨や神経や内臓や血は地獄ほど見た。けれど一度も心というものはまろび出てこなかった。だから俺は心のありかを今になって知る。今このとき痛んでいる場所だ。 「でも俺もお前のこと好き。ちょう好き。一生好きだわ」  白石が俺の背に手を回して子どもをあやすように撫でるものだから一層この男が憎くなる。体の奥の奥の奥でいくつもの夜と意思が帰結する音がした。  俺たちはその晩抱き合って眠った。
 翌日、俺が山仕事から帰って間も無くアシリパさんが訪ねてきた。山菜と獣肉を持ってきてくれたようで、いつものように手際よく鍋を作ってくれた。 3人で食べる夕餉はあまりにも久しぶりでどこか現実感がない。昨夜白石が言う通り、アシリパさんは少しかたい顔で俺にばかり話しかけた。あるいは俺を介して白石と話していた。 「今年の冬はマタカリプに三度も会った、そうだよな杉元」とアシリパさんが言えば、俺が「お前がいたら何度頭噛まれたかなって話してたんだよ」と白石に水を向ける、という風に。  白石は少し苦笑していたけれど、アシリパさんの目を見て彼女に話しかけるのだけはやめなかった。  翌日は俺たちがアシリパさんのチセを訪ねた。その次はアシリパさんがまた来て…と晩夏は進み、だらだら坂のナツズイセンが葉を落とす頃にはアシリパさんと白石の会話に俺はほとんど必要なくなった。  ある薄曇りの日なんて俺が帰ると白石がアシリパさんの髪を結っていてのけぞった。 「え〜カワイイ…白石、お前そんな特技あったの?」 「見よう見まねだけど。似合うでしょ、町娘風」  マタンプシはそのままに束髪(三つ編みというらしい)をつくり、どこから摘んできたのか桔梗を編み込んでいる。艶やかな髪によく似合っていた。白石がアシリパさんへの土産に持ってきた手鏡はなぜか俺の住まいに置かれていて、ふたりは額を合わせて鏡を覗き込んでいた。何も坊主のオッサンまで映す必要はないと思うが。  囲炉裏の上では鍋がくつくつと煮立ち芳しい香りで住まいを満たしている。「何の鍋?」と聞くと白石とアシリパさんはお互いに目配せをして、何も答えずにふたりで笑った。 「え〜何ぃ〜? 俺には秘密なわけ〜?」 「食べればわかる」  アシリパさんが歯を見せて笑い、鍋を椀によそってくれる。 「はち、は…って…これ桜鍋じゃん〜」  ずっと前に小樽の山で3人で食べた味噌の入った桜鍋。味噌を敬遠していてアシリパさんが初めて食べたあの鍋だ。 「白石が悪事を働いて手に入れたんだ」 「悪いことしてないよぉ⁉︎ 町で鹿肉と取っ替えたのよ」 「明らかに量が見合ってなかっただろう」 「いいじゃなーい。あのおばちゃんお金持ってそうだったし、エゾシカ珍しがってたでしょ」  泡が弾けるような調子でふたりは笑っていて、わだかまりが解けたのかな、と思った。家族でも親戚でもないふたりがこうしていると縁というものの妙を感じる。  アシリパさんは髪を褒めると耳を赤くして黙り込み、俺の口に飯を突っ込んできた。照れちゃって〜とあまりにからかうものだから、白石はちょっと嫌われていた。
  「押してダメならもっと押せ、ってねえ〜」  白石はその晩、常になく酔っ払って絡んできた。聞けばこいつは俺が山に行っている間に足繁くアシリパさんのコタンに通い、アシリパさんの狩りや女衆の仕事を手伝っていたそうだ。 「狩りは相変わらず役に立たねえんだけど、それなら外堀埋めてこって思って。縫い物とか細かい作業ならちょっとはできんのよ」 「白石が働くなんてやめろよ、火山とか噴火したらどうすんだよ」 「ちょっとは見直してよぉ。人生で一番女の子に尽くしてる最中なんだぜ。まあ今日はよかったわ。3人で桜鍋食べれたし、あとはアシリパちゃんの悩みごとがちょっと前に進むといいんだけどなー」 「悩みごとって? お前のことじゃなくて?」 「んん、ほら、子どもって子どもなりに色々あるじゃない。アシリパちゃんは賢いし胆力あるし綺麗な子だけど、子どもの世界ってあの子たちだけの法律があるでしょ。倫理とか道徳に沿って行動するより、友達のメンツを守ることの方が大事だったり、そういうの。そういうところでお友達とちょっとうまくいかなくなっちゃったみたいよ」  白石の話はこうだった。コタンに暮らすアシリパさんと、彼女と歳の近い女の子がひとり、ここのところ上手くいってないらしい。表立って喧嘩をするとかそういったことはないけれど、少し前までは自然に集まって遊んでいたのがぱったり���られなくなった。どうやらその女の子がアシリパさんを避けているらしく、その子と他の子たちが遊んでいる時にアシリパさんが来れば集団は散開するしその逆もあり、子どもたちの間にはなんとなくぎくしゃくした空気が流れているんだそうだ。 「…お前なんでそんなこと知ってんの。俺全然気づかなかった」  なんならちょっと悲しく情けなくすらあった。俺だってアシリパさんのコタンには足繁く通っているのに。その女の子のこともよく知っている。負けん気が強いが小さな子どもたちには優しくアシリパさんともよく遊んでいる子で、裁縫が苦手なアシリパさんの衣類のほつれを見つけては繕ってあげているのもよく見ていたというのに。 「俺が気付いたのだってたまたまよ。お前とかばあちゃんには言いたくないのよ。好きな人にカッコ悪いとこ見せたくないじゃない。別に俺だって、話の中で出てきたのをさりげなーーーーく広げてってたまたま気づいただけ。彼女たちどっちが悪いわけでもないみたいよ。  結った髪もさあ、本当はフチに見せてあげたいらしいの。でもこのままコタンに帰って、そのお友達に見られるのが嫌みたい」  自分に置き換えても記憶は全く役に立たない。俺が彼女くらいの歳の頃ほとんどのいさかいは殴り合いでうやむやになっていたしそもそも原因も具体的に思い出せない。俺が悪かったこともあれば相手も悪かったこともあるだろうし、どちらも悪くないこともあったような気がする。思い出せないということはつまりどれも大した理由はなかったのだ。 「あのアシリパちゃんでも同年代の子を相手にするとまた違うんだなって。本人には言わないけど、年相応のそういう悩みがあってよかったなあって思ったよ俺。これであの子がお前に駄々こねられるようになったら、もう完璧」 「話が飛躍してねえか?」 「酔っ払いだから〜。子どもの時に駄々こねておかないと、欲しいものを欲しいって言えない大人になっちゃうんですう〜これは監獄で一緒だった医者の受け売りねえ〜」  気づけば徳利の酒をほとんど飲み干して白石は気持ちよさそうにちゃぶ台に突っ伏した。そのままいびきをかき始めたので床に倒して布団をかけてやり…たかったが、俺もだいぶ気持ちよくなっていたのでそのままふたりして床で寝てしまった。夜中に隙間風で目が覚めると白石を抱き込んでいるせいかさほど寒くはなくて、山鳩の声を聞きながら俺は再びまどろみに落ちる。  白石は俺の気づかないことによく気づくし俺の知らないアシリパさんを知っている。俺とはものごとを捉えるものさしがまったく違って優しいくせに薄情だし金に汚いしほぼ全てにおいてだらしないし、危険なことは嫌いで逃げることばかり得意なくせに俺を命懸けで助けにきたりして、理解できないし分かり合えもしない。   だから、白石にとってあのとき黄金がどんな意味を持っていたのか、あるいは持つのか。そんなことは本当の意味では俺にはわからなかったのだと思う。  聞いてしまえば俺にとっては他愛もない夢としか捉えられなかったかもしれない。それが嫌で、俺はそこにだけは踏み込まなかったのかもしれない。  そんな風に遠くへゆく気持ちと、目の前の男を独占したい気持ちが矛盾しながら混ざり合う。白石はもう俺を必要とすることはないのだろうか。そんなことを考えると途方もないほど悲しくなって、夜の底が急激に冷えていくのを感じた。
 泥酔で寝落ちしない夜はずっと抱き合っていた。  唇が欲しくて首を引き寄せて、飴を舐めるみたいに舌を吸う。白石のシャツに掠れて胸の先端がじんわり痺れた。白石は体勢を変えない。この程度のかすかな刺激がかえって欲を誘うことを知っててやってるんだろう。白石が俺の額のへこんだ部分や顔面の引きつれや抉れた傷跡を優しく撫でるものだから、自分の体がいいものになった錯覚さえ起こしてしまう。  小屋は虫や梟の声、葉ずれや風の音に包まれている。少しも静かでなくむしろ騒々しい夜の山で俺たちはふたりきり誰にも知られずそんなことばかりしていた。  股間に唾液を垂らされ、全体をゆるく撫で上げられる。もどかしくて身を捻るとかすかに笑われた。こういう時の白石はとても静かで、その分皮膚の感覚が際立ってしまう。口に含まれると指より滑らかで温い粘膜を感じる。白石の舌は自律した生き物のように器用に動いて、陰嚢の下の何もない部分からちんぽの先端までつるつると舐め上げる。我慢できず鼻にかかった声を漏らすと、あやすように腰をさすられた。  上半身を起こして白石の額に指を添えるとひと時目が合い、奴はまた視線を落とした。魚油ランプの明かりに目の縁が赤く浮かんでいて、こいつでも粘膜は繊細な色をしているのだなと思う。「俺、もう無理」「無理でいいじゃん」ちんぽくわえながら喋らないでほしい、言ったのは俺だけど。ひときわ強く擦られてあっけなく射精した。「最短記録じゃない?」「うるせえ」  ひとつも力の入らない四肢を投げ出して、目をひらけば刺青の皮膚がそこにある。この体をよく知っている。釧路で北見で網走で豊原で何度も抱き合った。記憶のふくらみが脳を灼いていく。  尻にいちぶのりを塗り広げて、白石の指がゆっくりと俺の中に沈む。体の内側で異物が動くたびに心が熱を帯び、潰れそうなほど瞼を閉じると痙攣が何度も起きてつま先が反り返った。何本入れられているかなんてもうわからない。締め付けるたびに体内の指を感じてしまい、体を他人に明け渡す甘やかさに背筋がおののく。 「白石、あれしよ。一昨日したやつ。ケツ上げて…」 「んん。いーよ。気持ちよかった?」  俺の腰の下に座布団を突っ込んで、白石がゆっくりと押し入ってくる。重たい快感が腹の奥まで突き上がり胸を強く擦られて叫んだ。角度が変われば当たる場所も全然違って揺らされるたびに無様な声と涙が落ちる。  体が熱くなる一方で心には恐ろしさばかり湧き上がり、せめてここに留まれるようにと白石の指を探り、握った。空いている手で何度も顔を撫でられる。子どもの頃に父が肩を抱いてくれたのを思い出す。そんないつくしみだった。
「そういえばお前、歯に仕込み入れるのやめたの?」  白石の体はどこもかしこもよく伸びる。唇と頬を引っ張って遊ぶのが俺は好きだった。 「いてーわ。ここにいる時はいいかなあって。お前もいるし」  どうにも信頼されているように感じて、俺は嬉しくなって白石の眉を引っ張った。毛が抜けた。   抱き合っているときと眠っているとき以外はずっと話をしていた。空白の時間を埋めるように、あるいは沈黙が堆積しないように。とりとめのない話もあれば初めて人に話すこともあったし、返事を求めない冗談も交わした。 「俺は阿片も酒もやらないで、はっきりとした意識で人を殺してきたよ。それこそ地獄に落ちるだろ」  あの頃の夢は今も見る。親友が死に周りは血の海で俺は殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して血が吹き出す寸前の真っ赤な肉の切れ目、人間が粉砕される音、どこかから飛んできた口に入った生ぬるいとろみは誰かの脳みそ、殺して殺して殺して殺して殺し続ける。記憶も悪夢も何も消えはしない。体はこんなに頑健なのに心はそれなりの強度しかないのだなと最近はそんなことも思う。一方で、もう自分を厭わしいとは感じなくなった。 「そうかなあ? じゃあ今からでも神様か仏様か信じてみるってのは? ぜってーならねえと思うけどさ、お前って坊主に向いてるよ。どんな悪人もお前を見たら思うよ、どんな人間でも変わることができるって。あるいは仏様とか神様とかは――お前の場合はアシリパちゃんだけど――どんな人間も救うことができるって、わかるよ。  えげつないヤクザものほど信仰の道に入る奴は見逃すんだぜ。みんなどこかで怖さや後ろめたさを信じていて、助かる方法が欲しいんだろ」  白石は賭け事を好むのに、一方で期待というものを何ひとつ持っていないように見える。最初からきれいさっぱり。普段はだらしなく侮られる言動ばかりしているくせにそんなところは乾いていて、それを見ると俺の心は少しざわつく。羨ましいような同じところまで落ちてきてほしいような独りよがりな気持ちだ。 「杉元は他人も自分も信じてないように見えるのに地獄だけは信じてるんだよなあ。そういうところ俺は好きだけどね。そんなもんがあったらそこでまた会えるな俺たち」 「白石も地獄にくんの?」 「そりゃ俺だって悪党ですからあ。お前みたいなのは地獄行きだぞってガキの頃さんざん坊主に脅されたわ。  でもあれよ、地獄って決められた辛苦が終わったら輪廻転生に投げ込まれて次の世に生まれ変わるんだって。そんなのほとんど監獄じゃんね。俺とか絶対逃げ出すしお前は鬼ぶん殴って追い出されるでしょーよ。伴天連でも悪人は死んだら地獄行きらしいけど、地獄にいったくらいじゃ何も変わらないと思わない?  そういえば地獄って日本に仏教がきてから広まった概念らしいよ。その前は死者は黄泉の国にいくってされてたんだって。あれよ、よもつへぐいって知ってるだろ、あの世のメシを食うと現世に戻れなくなるってやつ。あの黄泉平坂の先にある黄泉の国。イザナミイザナギのイザナミ���いる方。地の底だか海の彼方にあるらしいよ」 「なんだっけ、イザナギが死んじゃったイザナミを連れ戻しにいく話?」 「それそれ。イザナミは黄泉の国のメシ食っちゃったからもうこの世に帰れない。不思議なもんで希臘の国にも似た話があるんだって。世界中どこも考えることは一緒なのかね?  俺らの行き先が地獄なら地獄の窯で鍋やろうぜ。黄泉の国なら黄泉平坂で待ち合わせな」  ときどき博識なところがある白石の、けれど決して尊敬を請わないさま。あまりに軽薄で突拍子がなくあっけらかんとしていて、どうせ俺もお前も明日には忘れている、と言わんばかりの話し方が俺は好きだった。 「あの世でもお前とつるむのかよ」 「へへー。死生観を聞くと相手のことが知れてちょっと面白いよね。  そういえばお前、アシリパちゃんと一緒になんないの?」  両肩に岩が乗ったみたいに体が重くなった。やっぱりか、という気持ちと、お前からは聞きたくなかった、という気持ちで天秤が釣り合う。 「お前までそんなこと言うのかよお」  どうして白石もアシリパさんのコタンの人も、俺とアシリパさんをくっつけようとするんだろう。夫にならなくては俺はアシリパさんと共にいることを認められないのだろうか。  確かに俺には個性がなくて、帰還兵というには時間が過ぎているしこの土地の人間でもない。かといって浮浪者でもなくもちろん誰かの夫でもなければ父でもない。そういえば子どもの頃は大人になったら誰もが家庭をつくって子どもを育てられるのだと思っていた。けれど今、俺は個性がなくても生きているし働けば食べられるし人を大切にすることもできる。どうしてふたり組になることに義務を感じる必要があるというのだろう。その後に何を目指すわけでもないというのに。  そんなことを白石に話す。 「それから俺とアシリパさんの思い出とか関係をそういうものにされるのが、なんか嫌」 「どういうことよ」 「なんか、不潔っていうか…」  白石はひととき口を開けて俺を指差し、その後真っ赤になって笑い出した。 「おまえっ、おまえっ、俺にちんぽしゃぶらせといて不潔はねえだろおおおっ乙女か! 無理むり腹が痛え死ぬっ」  涙を流して笑う男を土間から蹴り出して笹の茂みの中に放り込んだ。この季節の笹の葉は硬くて顔面から突っ込むとそれなりに辛い思いをする。俺の純情を笑うんじゃねえ。 「いってえええええ、ごめんって、許してえ。まさかそうくるとは思ってなくてさあふひっ」 「ああ白石はヒグマの餌になりたいんだったな」 「違う違う、ごめんごめんってええええ」  その辺に潜んでいたらしいイタチに頭を噛まれていたので仕方なく助けてやる。息を整えて涙を拭い、白石は俺の手を掴んで立ち上がった。 「人間も動物だから食べて繁殖するのがよしと思うようにできてるし、歳を取ればなおさら自分のきた道が最良だって思いたいのよお。俺は家族も子どももいないけど、アシリパちゃんのフチとかコタンの人はそうなんだと思うよ。  お前の気持ちはわかったけど、アシリパちゃんの気持ちがお前に向くことがあったらちゃんと考えてやんなさいよ」 「うるせえ歳上ぶるんじゃねえ」 「歳上だよ一応!?」  自分を必要としてくれる場所で自分の力を使うのは当たり前だ。そう言うと白石はすっぱり笹で切れた頬を上げてまた笑う。何だかずっと、このしかたのない笑顔に守られていた気がした。
   毎朝「行ってらっしゃあい」と見送られるとヒモを飼っているような気分になる。この頃になると白石は気ままに動き回るようになり、昼間はアシリパさんのコタンに行くかと思えば俺の住まいで昼寝をしていたりどこかへ出かけて夜にひょっこりと帰ってくる日もあった。いつかの旅路を彷彿とさせる気やすさで、まるでずっとここにいたように錯覚しかける。  その日はどうにも寒々しく、手元が狂って獲物を仕留めるのにずいぶん返り血を浴びてしまった。運びやすいように解体していると肘まで赤黒く染まり、手の甲で顔を拭うと甘さとしょっぱさを感じる。慣れた味が今日も俺を生かす。アシリパ���んのコタンに行く前に川に寄らなくてはならない。  俺の体は実によく働く。力は強く頑丈で大きなケガもすぐ治り、意思より先に動いてここまで俺を生かしてきた。川べりのトウシンソウの茂みに着物を脱いで放り、冷たい水で腕と顔を洗うと生き返る心地がする。小さなミソサザイが一羽、降下して何かを捕らえ損ね水面をかすめて舞い上がり、体に似合わない大きな鳴き声をあげて飛び去っていった。  木々の影は昨日より薄く、風は昨日より乾いている。俺の新しい故郷に秋がくる。  明日こそは聞こうと思う。お前はいつここから出ていくんだ?
 アシリパさんのチセに顔を出すと女の子ばかりが集まっていた。奥で手仕事をしてるフチに目礼したはいいが、もともとそれほど広さもないので入るのを躊躇ってしまう。そしてここにはなぜか坊主のオッサンがいて女の子の髪を結っている。アシリパさんはいつものようにマタンプシを巻いただけの姿だけど、隣のチセの女の子は町娘風に髪を結い上げているしオソマも短い髪に紐を編み込んでいた。手鏡をみんなで覗き込んでお互いを指さして恥ずかしそうに笑っている。今白石が髪を梳いているのは件のアシリパさんと複雑な関係にある女の子だ。  スギモトー、とアシリパさんが手を上げた。 「シライシが上手なんだ」 「自分は坊主なのにぃ?」 「ちょっと聞こえてるわよ杉子ぉ」 「誰が杉子だ」 「杉元もやってもらえ」 「アシリパちゃん、杉子の髪は短すぎてさすがに無理よ」  アシリパさんと白石に髪を梳かれている女の子が顔を見合わせてケラケラ笑った。働き者でいつも元気な彼女たちのそんな姿が愛しく思えて、父親とはこういう気分なんだろうかと突拍子もないことを思う。チセは土と子どもの匂いで満ちていた。喜びのようなものが自分でも驚くほどに湧き上がって、どんな顔をすればいいかわからず軍帽の鍔を下げる。       「…すげえや白石、脱帽だ」  半歩先を歩く白石がピュウ、と軽薄な口笛を吹く。  腹が温かく満ちている。あのあと女の子ふたりがアシリパさんのチセに残り、みんなで夕餉をご馳走になった。アシリパさんは彼女たちに対して俺や白石にするよりずっと優しくて(なんなら時に遠慮がちですらあった)そんな姿は旅の間全く見たことがなかったからときめいてしまった。 「アイヌの女の人って髪結ったりしないみたいだし、どうかなって思ったんだけど。あの子らに水を向けたらやってみたいって言うからさあ。そしたら他の子も集まってきてあんな感じ。  まあわかんないけどね、今日は仲良くなってたけど、明日になったら元通りかも知れないし。女心は複雑よぉ」  まぜっかえす割には俺以上に上機嫌で、ちょっかいをかけたくなってしまい後ろから抱きついてぐいぐいともたれてやった。 「重い重い! そんで力が強い! 自力で歩け不死身の杉元っ」  引きずるようにもたもたと歩きながら白石が俺の顔を覗き込むので、もみあげが頬に擦れてくすぐったくて声を上げた。痛みは警告を示すものだろうけどくすぐったさは何を示すんだろう。俺の体はよく動くが、俺の脳は体の発信を完璧には理解できない。 「…たのし」  自由落下の速度で俺の本音は土に落っこちて、機嫌よく跳ねて森の奥に消えてった。 「へへ、お前の男はいい男だろお」 「白石が俺の男? 逆じゃなくて?」 「そ。俺がお前の男。一生ね」  白石の微笑には本当に愛しまれているのだと思わせるような優しさとあくまで奴の中の問題にとどまる諦めみたいな雰囲気がうっすら混じりあっていて、俺は何もかもが甲斐のないことを知る。だからって俺の気持ちが減るわけもない。  何につまづいたのか白石の体が傾ぎ、酔っ払いふたりでもつれあいながら草の上に転がった。 「いってぇ〜」 「お前俺ひとりくらい背負えよなあ。な、アオカンしよ」 「…唐突すぎない⁉︎」 「だって今やりてえ」  性欲を否定する人間を俺はあまり信じない。食欲と睡眠欲には振り回されるくせに性欲だけは飼い慣らせると思うのはおのれの身体を甘く見過ぎだと思う。できるのは空腹と寝不足と同じように不機嫌になって耐えることくらいだ。この晴れやかな夜に我慢はしたくなかった。 「いいけど…外ですんの久しぶりじゃない?」 「そーかも。へばんなよ」  シャツの中に手を差し込みながら、空気が濃度を増していくのを感じた。白石の背中とか腹は意外なほどつるりとしていて、胸をはだけさせると夜の森に白い肌がぼんやり浮かび上がる。この皮膚と刺青の明暗が好きだ、この男には欲望を隠さなくていい。  抑制ができないまま首筋を食むと「痛えよ」と笑われ顎を掴まれる。軽く触れただけの唇の隙間から舌が入ってきて口の中でもつれ、引き寄せようとする手前で深く重なってはまた引いていく。こいつは俺の��をよく知っている。からかわれてるようでムキになってぐいと腰を引き寄せた。唾液が甘い。  夜の闇が急速におりてあたりを翳らせていき、誘われるように霧がでて刻々と濃くなった。霧の匂いと草いきれの中で知った皮膚に溺れていく。  白石を木にもたれさせてちんぽを舐め上げてやると水分を吸ったように膨らんだ。こいつとするまで自分の上顎が性感帯だなんて知らなかった。そんなことばかり教えられた。どこをどんな風に触ればいいか考えるとき、俺は俺の経験を思い出さなければならずその度に白石の伏せた視線が蘇る。こうやって人目を盗んだいくつもの夜が呼び起こされて体じゅうがざわめいた。  抱えるように引き寄せられて後頭部を押さえ込まれると喉の奥に生あたたかいものが広がって充足感で満たされる。見上げると白石はきつく目を閉じていて、俺の何かひとつくらいこいつの中に残ればいいのにな、と思った。  毎日こんなことばかりしているからか俺の尻は少しの準備ですんなり異物を受け入れる。下腹部に力を込めて強く伸縮させると白石が唾を飲む気配があった。揺さぶられるたびに自分が流れ出すようでもう何にも抗えない。俺が出してしばらくして白石が射精した。そのまましばらく重なりあっていた。重い、と言うと白石は人慣れした犬のように首筋に頬を擦り付け寄せてくる。こういう仕草が似合う男だった。
 重い体を引きずって住まいに戻り、何もかもが面倒だったので衣服を解いて適当に転がった。「さみいだろ」と白石に毛布をかけてやると「やさしい」と笑われた。「アオカンの弱点はすけべしてその場合で寝られないことだな」「わかるう…」「でもなんか抗えない魅力があると思わねえ?」「俺らの先祖もやってだろうから、もう本能なのかもよ」  食欲と性欲と睡眠欲と、それから何ともいい表せないもので満たされていて、あの夜俺はほんとうにしあわせ、だったのだと思う。過剰が空白を満たすと思いもよらぬことがもたらされるもので、だからなんか感極まって 「俺がお前にしてやれること、なんかない?」  そんなことを言ってしまった。 「そんなこと考える必要ねえよ、もう十分もらったからな」  白石の言葉は梁のあたりまでゆっくり浮かび上がってあっけなく霧散した。ぽろりと涙が出るだとか隕石が落っこちてきてふたりとも死ぬだとか俺が白石を殺すだとかどちらかが不治の病に冒されるだとかそういう劇的で奇跡じみたことは何も起こらなかった。でもその分だけ、味気ない現実を知ってるからこそせめて心だけでも伝えたくて、固い体を抱き寄せてうなじに顔を突っ込み腕に力を込めた。痛えよ、とまた笑われた。         「行ってらっしゃあい」  翌朝、出かける俺に白石は床の中から手を振った。  眠っている間に雨が降ったようで山の中はいつもより静かで、夜に冷やされた土が乾く香りがして清涼さだけがあり、イタドリの葉に残った朝露ひとつひとつが鋭く尖っていたのを覚えている。俺はいつもそんなことばかり覚えている。  昼過ぎに寄ったアシリパさんのコタンに白石はおらず、俺がそのまま帰宅すると住まいはがらんどうだった。ちゃぶ台には白石が飲み干したのか底の方に少しだけ澱が溜まった湯呑みがあり、かたわらには懐紙にのった飴が残されている。  ちゃぶ台の足元にはあいつがいつも身につけていたボロい半纏が畳まれていて、見えもしない意志のようなものを感じた。不安はなかった。いつかこうなることはわかっていたから。  今頃になって鼻の奥が熱くなりぼろりと涙が落下した。泣けるものだなと遠く感じて、こうやって俺は俺の悲しみと折り合いをつけていくのだとひとり知る。  子どもの頃に駄々をこねておかないと、ほしいものを欲しいと言えない大人になる。あいつの言葉を思い出す。俺はどんな子どもだったか。欲しいものは腕っぷしで手に入れていた。愛されていた。けれど本当に欲しいものは炎と土埃と血だまりの中に甲斐なく消えていった。あの時も今もこころを言葉にする術を知らなくて、いとしいものの気配だけが遠ざかる。でも今は、今だけはこれでいいのだ、と思う。白石が知られたくなくてしたことだから。  外からは虫の声や鳥の羽ばたきが降り注ぎ午後の光がゴザにやわらかく差し込んでいた。秋のとば口の山は賑やかで明るく、祭を控えたような興奮が満ちている。それでも俺はこのときどうしてか冬を思い出していた。この山は雪が降ると夜でも光るのだ、黄金よりまばゆく。
「役立たずは行ってしまったのか?」 「そうみたい。アシリパさんは寂しい?」 「寂しいけどそれでいい。あいつが私たちに会いたいと思うならいつでも会える」 「その前に俺たちの誰かが死んじゃったら?」 「私たちの信仰では死後の世界で会える」  アシリパさんは淡々と言い、櫛と手鏡をさらりと撫でた。 「杉元、フチからニリンソウを頼まれた。一緒に行ってくれるか」  言うより早くアシリパさんはチセを出ていく。草を踏む軽やかな音が俺の心をやさしく揺らす。外で誰かが声を上げて笑っている。 「アシリパさん、待って」 「杉元、来い来い、早く!」  俺はあいつのことをほとんど知らない。知っているのは、あいつの靴下が本当にくさいこと。二の腕の内側に三つ連なるほくろがあること。鹿肉より兎肉の方が好きなこと。体は右足から洗うこと。右の後頭部の方が左の後頭部より平らなこと。あの変な髭はほんとうにかっこいいと思ってやっていること。横向きに寝るクセがあること。賭け事とあだっぽい女性が好きなこと。ほんとうにそんなことばかりだ。  脳裏をかすめる、軽薄でだらしなく柔らかな男の面影。この野放図きわまりない空の下で煙のように消えていったあいつは、これからどこでどんな生き物になるのだろう。  俺は銃剣を持って立ち上がった。 「行くから待ってえ」 「秋の風だ、早く」
エピローグ  ちんぽが痛い。やりすぎで。  失敗かそうでないかと言ったら完全に失敗だった。分かりきっていたがもう自信喪失するくらいに失敗だった。一日二日で帰る予定が居心地が良過ぎてだらだらしてしまい杉元にはただ期待だけ持たせたしアシリパちゃんには信頼する人間がまた消える失望だけ残した。俺はただ杉元への未練が膨らんだだけだしなんかもう不毛とはこのことだろう。  あのまま東京できれいさっぱり別れた方がよかったのは火を見るより明らかだったけれど、今の俺は五稜郭に用があり、函館に来るのに小樽に来ない、という選択肢はなかったのだ。  杉元は乙女なところがあるからせめて「起きたら白石がいねえ俺は夢をみてたんだろうか…」てな具合に夜中に抜け出せればよかったが、あいつが毎晩俺をがっちり抱え込んで眠るものだからそれすらできなかった。何をしても抜け出せない、あれは固技だった。それにしても半纏を置いてくるのは感傷的にすぎただろうか。  それでもアシリパちゃんと遊んで山のものを食べて杉元と朝な夕なやりまくって喋りまくって、ずっとふたりといられたこの日々は俺に極楽だった。この俺がずっとここにいたいと思うくらいには、ほんとうに。  だらだら坂が滲みはじめて目元を拭う。   久々に会う杉元は荒んだ雰囲気がかなり削げ落ちていてそれなりにここの生活に溶け込んでいた。まだ平穏に慣れきってはいないし乱暴なところはあるけど根は良性の人間だから、波があったとしてもうまくやっていけるだろう。誰にでも人に言いたくないことのひとつやふたつあるのだから大袈裟な心配はいらない。いつかの冬にこの山で出会った男はもういないのだなと思うと喜ばしい一方でほんの少し寂寞があった。誰もが不変ではいられない。俺だってあの旅の中で変わってしまった。  今日はどういうわけか昼下がりからずっと日差しが強く、昨日より気温がだいぶ上昇していた。一種の雰囲気を感じてふりあおぐと、立ち枯れた木のいただきにうずくまる猛禽の視線とかち合った。この森ともお別れだと思うとこんな瞬間にも感傷が滲む。  ふと獄中で出会った誰かの言葉を思い出す。人を大勢殺すとおかしくなる、避ける方法はひとつで犠牲者の血を飲むこと。どんな味かと尋ねたら、そいつは甘くてしょっぱい人間の味だと真剣な顔で言っていた。杉元は血を飲んだだろうか? 「動くな」  左後方、やや距離のあるところから鋭い声が突き刺さった。  そうきたかあ、と思っている間に猛禽が飛びすさっていく。矢を引き絞ったまま藪の中から姿を現したアシリパ���ゃんに、俺は両手を上げて降参の意思を示した。 「この毒矢はヒグマなら10歩だがお前なら一歩も歩けずに死ぬ」 「いつかも聞いたよそれ〜。怖いからおろしてえ?」 「出ていくのか」 「うーん、そうですね、ハイ」  矢が矢筒に収まり、とりあえず誤射による死は免れた。 「どうして何も言わずに出ていくんだ? 残されるものの気持ちを考えたことはないのか? サヨナラがあれば、それをよすがに生きていくことができるだろう」  目の前まで来て真っ直ぐ見上げられた。光を放つ無敵のひとみ。杉元を導く灯台はいつからか俺の道標にもなっていたように思う。  でも、もう道が別れる。 「ごめんね、こういう風にしかできないのよ。だってちょっとでも行かないで〜なんて言われたら俺ずっとここにいちゃうもん」 「そんなことは言わない」 「少しは考えてくれない!?」 「群れを離れて独立するんだろう。巣立ちは誇らしいことだ。立派になれ」  もしかして大人として信頼されていたというのは俺の勘違いで、彼女が俺によそよそしかったのは独立したと思った子狼がひょっこり帰ってきて落胆したということなんだろうか。そうすると俺は杉元に恥ずかしい思い違いを話したことになる。あいつ忘れてくれないかな。  珍しくアシリパちゃんが言い淀んだ。空白が混ざり合うみたいにお互いの考えが交わる感触がある。 「杉元を連れて行かないのか、って聞きたいんでしょ、俺に」  目に潰れそうなほど力を込めて、彼女は唇を引き結んだ。羨ましいなあと思う。女の子には敵わない。背がもう少し伸びて頬の丸みが消え、この目が憂いとともに伏せられる日が来れば杉元なんてあっさり絡めとられてしまうだろう。 「ないない。誘ったところで着いてこないって。俺が考えてること話したら、もしかしたらあいつのお節介心が動くかも知れないけど…いや動かないかなあ…。俺はひとりで行くよ」  それでもあいつは人の気持ちに鈍いところがあるから、ぽっと出の女性と突然恋に落ちて家庭を持つなんてことがありえないとは言い切れない。その女性が何事かに困っていたりしたらなおさらだ。アシリパちゃんがその気ならその辺は考えておいた方がいい…なんて言ったら矢で直接刺されかねないので黙っておく。  恋とか愛とか、俺にとっては借り物の言葉でどうにも座りが悪い。そんな言葉で杉元のことを言いたくなかった。ここから先はひとりだが俺と杉元は繋がっている。死んだら死後の世界で会う。地獄でも黄泉の国でもニライカナイでも、どこででも探し出す。だから古い靴下だけは捨てられなかったのだ。  彼女の小さな頭に手のひらを当てた。 「俺ねえ、やりたいことができたの。お姉ちゃんと遊ぶでも博打がしたいでもないよ? うまくやれたら手紙を書くから、これで杉元と会いに来て」  懐から包みを取り出して彼女に握らせる。彼女は包みを開けるとぽかんと口を開けた。片手に持った弓が所在なさげに揺れていてる。 「シライシお前、まさか」 「違うってえ〜それは井戸に落ちた時に半纏に入っちゃったの〜。杉元もポケットにしまってたでしょ? 俺はほら、これをもらったからね」  彼女の手には黄金の粒、俺の手にはカサカサのはんぺん。 「私にこれは」 「必要ないとか言わないでよ。俺から便りがなくてもさ、アシリパちゃんの大事な誰かを医者にみせる時なんかに使ってよ」  沈黙が訪れる。森が彼女を守るように鳴った。自然でも文明でも人間でもなんでもいいから、彼女をこの先ずっと守ってほしい。彼女の道行が実り豊かなものであるように。杉元が誰かと気持ちを分け合えるように。杉元が言うようにふたり組ではいつか瓦解するかも知れない。ふたりにはゆるやかに、多くのものとつながっていて欲しい。 「最後にアシリパちゃんに会えてよかった」  珍しく彼女は困った顔していた。適切な言葉を見つけることができないらしい。 「…お前がいなくなったら杉元が寂しがる」 「逆だよ、俺が寂しくなんの。俺は一生あいつの男だからね。杉元がアシリパちゃんの男だとしたら俺は杉元の男なわけよ。世界はふたり組でできてるわけじゃないからね」 「屁理屈をこねるんじゃない。ほんとうは私だって寂しい」  鼻を鳴らしてそれから少し悲しそうに顔を歪めた彼女を、俺は今までで一番近くに感じた。 「出世するんだぞ白石」  びゅうと風が吹き彼女の唇に髪が張り付いたので、俺はそれを払って小さな体を抱きしめた。背に回された手が思いのほか力強くてまた泣けた。くさいとは言われなかった。
 いつものように人の使う道を逸れて歩く。目的地がわかっていればどこを歩いても同じだ、ひとりならなおさら。街へ降りるのに使っていた獣道だが、前方右に前回通った時はなかった盛り土があった。薮を被せて隠されてはいるがここ数日の間に掘り起こされたらしく土は黒々としている。予感なのか記憶なのか、とにかく慣れ親しんだ虚しさを感じて足が止まった。長いこと北海道の山歩きはしてきたが獣はこんな形の穴は掘らないし土も盛らない。巣というより塚だ、と耳の奥で警鐘が鳴った。恐れとほんの少しの期待を込めて土塊に枝を突っ込むと予想通りの感触がしたのでそのまま土に穴を開けた。覗き込めばやはり土と血で黒く染まった衣が見える。  ここを通る人間はほとんどいない。つまり杉元か俺かってことで、そういうことだ。土塊の中身は密猟者か山賊だろうか。  杉元はあんなに変わったようでいてまだ人を殺せるのだなあ。やさしい目眩を覚えて俺の悪性が哄笑をあげる。  ふたり地獄で出会うよすがをひとつ胸にしまい込む。俺は歩き出した。
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oharash · 2 years
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23時
宵の口の白杉、夏
 会ってしまえば欲しくなるし、始めてしまったら、もうこの男と寝ないなんて選択肢はない。自分のことは何もかも俺が決めて生きてきたつもりなのに、白石に会うと意思なんて無力で細胞が引きずられてしまう。そんなことが自分に起こるなんて考えたこともなかった。
 俺の口中を舐め回す舌は薄いせいか生っぽさがなくて、他人だという気が全然しない。  キスが深くて上手く応えられず苦しさに涙と呻き声が溢れ出す。  よしよし、と背をさすられて額のへこんだ部分にキスをされる。こいつに急所を晒すたびに背後の道が消えていく気がする。1秒前の、昨日の、白石を知る前の俺にもう戻れない。
 ちんぽを突っ込まれて、臍の下あたりをぐりぐり押されて、重たい快感が腹まで突き上げる。唇を噛んでこらえていると「声出していいんだよ、楽にして、何も考えなくていいから」と指で口をこじ開けられた。  そのまま舌を引っ張っられたり上顎をなぞられたり歯を掴まれたり、喉の奥に指を突っ込まれたりして涎と涙が顔を伝う。ひどい顔を見られているだろうに、くれるものなら全て欲しくて指を甘噛みして舐めしゃぶった。  白石はいたずらが成功した子どもみたいに笑っている。その奥にどんな快不快や思考があるのか普段は全然知れないのに、今は俺に欲情してくれているのが体温と一緒に伝わる。  畳の擦れる感触だとか、8月の夜の水分を含んだ空気だとか、そういう世界の気配がだんだんと遠ざかって、五感が白石の声や感触や温度や匂いで許容量を超えていく。 「好き��すき」「うん」こころを表す言葉を知らなくて、今まで自分が拾ってきた中で一番近いものを差し出す。それも間違いではないけれど言うほどに空虚で、それでも何度も繰り返してしまう。だって他にどうしようもない。
 射精しても白石は俺から離れようとしなかった。  抱き合った時から今まで、ずっと手を握ってくれていた。  体よりもっと奥に招ける方法があったらいいのになあ。ゆっくりと崩れ落ちてゆく夜の中で、そんな途方もない欲がまんじりともせず俺を支配している。
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oharash · 2 years
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臆病者のまたたき
「お願いだから」  飲み会の帰りになだれ込んだ俺の部屋で白石は小さな声で言って、Tシャツ越しに俺の胸に触れた。その手には俺が全力で拒否すれば簡単に終わるのだというメッセージが籠められているように感じた。俺に強い拒否の意思がないことを知ったであろう白石は、俺に口を開けるように告げた。  お願いだから。  それにはどんな言葉が続くのか。  体に触らせて。拒まないで。黙って従って。やらせて。  なんでもいいから続きを聞きたい。  ぬるい舌はかすかにミントの味がした。こいつのポケットにはいつも飴と捨て損なった包み紙が入っている。
 白石とはもう3回していて、何回かじゃなくて3回で、俺はその3回を墓場まで持っていく幸せな思い出にするつもりで生きていた。  もっとキスがしたくてその背を引き寄せると肩に手を当てて押し返された。「杉元は寝ててくれたらいいからさ」体の奥がじんじんする。俺は何をしてるんだろう。皮膚の温度を知る前に何か言葉が必要なはずだ。ビールでもハイボールでもいいから、もう二杯か三杯飲んでおけばよかったと思う。好きな男としているのに羞恥に耐えられなくて、そもそも正気でできないセックスなんてしない方がいいのかしれない。白石の舌が俺の耳朶を喰んで、ぺちゃぺちゃと音を立てる。俺の指を握ってる手がゆるゆる動いて、指の股に爪を引っ掛けてから指をマッサージするようにさすり上げられて声が漏れた。唇を離した瞬間「何考えてんの?」と聞かれた。集中していないのを責められるような、心の中まで覗かれるような心地が恐ろしくて、無言で白石のシャツのボタンに手をかけるとまたやんわりと拒否された。  Tシャツの上から胸筋を揉みしだかれ乳首を引っ掻かれるとため息が漏れる。「杉元乳首好きだよねえ」「お前が触ってんでしょーが」「そうだけどさあ…」  たまらない。もうとっくに、二軒目の居酒屋で白石が曖昧な視線を向けて来た時からこうなればいいなと思っていたから。もっとたくさん皮膚に触れて欲しいし皮膚に触れたい。  やっとTシャツをたくしあげられて白石のぬるい指が俺の胸に触れる。触れるか触れないかくらいの軽さで胸筋を撫でられたと思ったら、擦るように指先を押し付けられる。空いている手で前髪を梳かれた。こんな風に甘やかされるとどうしたらいいかわからなくて、熱い頬を隠すしかできなくなる。  敏感な場所を指の腹で優しく擦られて悲鳴が出た。円を描くようになぞってみたかと思うと溝に爪を引っ掛けたりする。甘い電流が下半身に溜まってあられもない声をあげてしまう。自分がそういう風にできていることを白石に教わった。下半身に手を伸ばす。 「我慢できない?」  ずっと閉じていた目を開くと、服を脱がず乱してもいない白石があぐらをかいて俺を覗き込んでいた。その目と唇が弧を描いているのを見てしまうともうダメだ。前の、前の前の、その前の夜までも思い出してしまう。  白石は俺の膝の間に座り込んで、これ見よがしに舌を出した。器用な手が手ばやくベルトを外して下着ごとボトムを下ろす。「目閉じたら面白くないじゃん。こっち見てよ杉元」俺の先っぽを舐めたり袋を吸ったり裏筋を舐め上げたり。白石の口の中は生暖かくてぬるぬるとしていて、自分で擦る何倍も気持ちいい。「俺風呂入ってないんだけど」「ひっへる」「そんなとこで喋るな」何かに満足したらしく白石は口を目一杯開けて俺のちんぽをすっぽり口に含んだ。喉の奥を閉められて段差のあたりから強く吸い上げられるとすぐ出そうになる。手を使わず口だけでする白石のやり方は粘膜を強く感じてしまうのに、柔らかい皮膚には髭が当たって裏腹に生々しい。口の中ってこんなに器用に動かせるものなんだろうか。ちんぽが溶ける。もう何も考えられなくなって白石の口の中に射精した。  大きく息をついて、ちんぽが溶けてないことを確認する。俺の気も知らないで白石は楽しそうに自分の唇を指さして俺の視線を誘う。「ん、ぅ〜」開かれた舌には俺の精液が乗っていて、喉の奥まで見えてしまって、その生々しさになぜだか罪悪感と興奮を覚える。白石はわざと喉を鳴らして飲み込んで空っぽになった口内をもう一度暗い部屋に晒した。「馬鹿じゃないのお前」「でも杉元こういうの好きだろ?」あっという間に元気になっている俺のちんぽを捏ね回しながら白石はケケケと意地悪く笑った。  白石の指はいつも深爪気味で、皮膚が柔らかくて触られると気持ちいい。その指が俺の顔や額の傷を何度もなぞって、引きつれた部分や抉れた部分を撫でている。ずっと触ってみたかったんだよね。前の前の夜に、白石にそう言われた時は恥ずかしくて顔もまともに見れなかった。今日は負けたくなくて目に力を入れる。「いや顔コワいから」薄いカーテンからコンビニの灯りがにじんで白石の虹彩に光が入った。暗がりでもわかる、人より色素の薄い目と髪。骨を感じる輪郭がやけに精悍に見えて、俺の知らない男みたいだった。額の生え際をなぞると短く刈られた髪がちくちくと触れてくすぐったい。やっとまともに顔を見れた気がする。強張っていた部分が溶け出していくような、柔らかな幸せに息を吐く。 「今日はどっちがいい? いれたい? いれてほしい?」  開け放した窓から入ってきた風が白石の言葉と重なる。こころが粟立つ。 「白石の好きな方でいい」 「俺はお前のしてほしいことをしたいの」  押し倒したのはお前だろ。こんなとこで俺に決断を委ねるな。  初めての夜、同じ問いかけに俺が慄いたら白石はあっさりと「ちゃんと見ててね」と上に乗って腰を振っていた。腰がくだけるほど気持ちよくて泣いた。二回目は俺の尻に指を突っ込んで好き放題して、後ろとちんぽを擦ってイかされて最後は俺が白石に突っ込んだ。白石の体は直線でできてるくせにぐにゃぐにゃ柔らかくて、どこに力を入れてもその通りに曲がって、それがあまりに人という感じがせず妙な夢を見ている気分だった。獰猛な気持ちになってひどいことをしても白石は怒らなかった。3回目は…  思い出して羞恥に震え、俺は顔を覆った。 「…て言いたいんだけどさあ、俺飲みすぎて勃たないんだわこれが」 「だったら聞くんじゃねえよおおお」   思わず膝が出る。白石の顎に決まって、ちょっといい音がした。 「痛いよぉ。そっかあ、さいちくんは俺にちんぽ入れて欲しかったかあ…痛い痛い、キマってる、折れるほんと折れるからすぎもとさんっ」  腕を捻り上げると白石はシーツを蹴り上げてじたばた暴れた。  それがあまりにも気安い調子なものだから、俺が何も言えずにいると、 「杉元がそう言うならなら頑張ってみるかあ」  こきん、と小気味いい音がして、白石は液体みたいに俺のロックを抜け出した。関節が外れる音だ、と思い出した時にはもう肩を押されて体を裏返されて、シーツに頬を押し付けることになっていた。  ぽこぽこ音を立てて関節を入れ直した白石に、腰を抱え上げられたので膝を立てる。尻に白石の指が触れて身がすくんだ。穴の周囲に指を這わせたりぐにぐに周りを押されたり。吐息を感じた時にはもう遅くて、俺の悲鳴はシーツに吸い込まれた。アルコールで弛緩した筋肉はさして抵抗せず舌を通す。一度射精したこともあって程よく力が抜け、穴を広げられて奥まで入れられて、内側の壁を這うように舌が一周する。掘り返すように舐められてやめろ、本当に恥ずかしいからいやだ、と繰り返しながら、聞き入れられないことを知っていたしむしろ丸ごと受けら入れられたような安堵が溢れてきて、手足の力が抜けていった。舌の代わりに指を入れられても痛くない。ちんぽと穴がじんじんする。ベルトを外す音がして枕からほんの少し顔をずらすと白石が自分のちんぽを擦っているのが見えて、内臓の奥に異物を突っ込まれる感覚が蘇って体の芯があまく震えた。  自分の身体に、他人の手によって知らない感覚が喚起される。それがこれほどまでに自分を揺るがすのかと俺は思い知る。  床に放り出されていたスマホが振動した。今日の飲み会メンバーの誰かだろうか。画面の明かりに目を取られていると 「だめだよ、ちゃんとこっちに集中して」  後ろから腰を抱かれて腰にはシャツの感覚、太ももにはぬるい体温が伝わる。声音はいつもと変わらず柔らかいのに有無を言わせない怖さみたいなものが滲んでいた。「杉元、力抜いて。息吐いて」と囁かれれば、もう顔を見られなくてよかったと思うしかない。  息を吐いて全身を弛緩させる。尻に硬いものが押し当てられて、そのまま押し入られる感覚。全身が総毛立つような違和感に生理的な涙が滲む。苦しいのが気持ちよく感じて、気持ちいいのが苦しく感じる。そんな風にできていないと知っていても体がどんどん潤びてゆく気がする。足指の先まで白石といる手応えが行き渡っている。  初めて知ることばかりだ。これほど複雑で快感の異なる箇所が自分の体に混在しているとか、人に熱心に触れられるのが嬉しいとか。生まれてからこのかた足りなかったのはこれだ、と俺は体の奥深くで理解した。  白石が俺の両腕を掴んで手綱のように引くので膝と額で全体重を支えて、後ろから揺さぶられるともう何もわからない。意味をなさない言葉ばかりぼろぼろこぼす生き物になってしまう。白石が意地悪く動きを止めたので自分で腰を振る羽目になった。深く入るのが恐ろしくて、身を任せるのとは違う快感がかけめぐる。女の子とするのとか白石に入れるのもいいけどこれもめちゃめちゃ気持ちいい。そうこうしているうちにちんぽを擦られて、俺はあっけなく二回目の射精をした。 「もうちょっとだけ、ごめんね」  敏感になった粘膜を抉られて、あとはもうされるがままに揺すられた。快感が強すぎてなかば気持ち悪くなり、体が逃げ出そうとしたら白石に強く引き戻される。体の感覚に脳みそが全部支配されて、心なんてもう、なくなってしまえばいいと思った。
明日は可燃ごみの日だ。こいつこのまま泊まってくのかな。来月のシフトまだ出してねえな。先月こいつにいくら貸したっけ。牛乳なくなりそうだったな確か。結局こいつシャツ脱がなかったな。刺青、俺は結構好きなんだけど。明日の朝の米はふたりぶんあったっけ。  ティッシュで腹や尻を拭われながら、何を考えても今この空間にそぐわない気がして俺はさまざまな思考を必死で頭の外に追いやっていた。丸めたティッシュがゆるい放物線を描きながらゴミ箱に吸い…こまれずに墜落した。間抜けな光景に力が抜けた。 「拾いなさいよ」「あ、気づいちゃった」  白石が自分の頭をコツン、と叩いて舌を出したので思わず足が出る。いひゃい、と白石が鳴いた。 「白石おまえ」  ゴミを捨てた白石は当然のようにタオルケットを手繰り寄せ、俺と自分にかけて背中を丸めた。 「んー?」 「なんでこんなことすんの」 「…それは、言わなきゃだめ?」  心臓がぐっと持ち上げられたように、屈辱と怒りと駄々をこねたいような甘えが同時に迫り上がる。  白石が俺の表情に怯えたようにごめん、とこぼした。 「じゃあ杉元は、どうして俺にこんなことさせてくれるの」  ついさっきまで俺に好き勝手していた白石が悪事を咎められた子どものように視線を落として、とことん自信がなさそうに俺の手を握る。それが全然ごまかしのように見えないものだから、 「俺の質問に答えろよまず」  と混乱で語気が荒くなった。 「だって本当のこと言って拒否されるの怖いもん」  混沌の中に立っているつもりが、突然届くような距離にきらめきを差し出されて面食らう。本当に届くかは知らない。届くように見えるだけかもしれない。  白石の手が俺の手を握ったまま所在なく揺れている。  どうしよう。やっぱり俺が今まで思ってたように、溜まってたから、杉元がさせてくれるから、風俗行くカネなくて。とかだったら。  どうしよう。もしそうじゃなかったら。  そんなことあんの? 白石が?    白石が顔を上げる。笑ってしまうくらいまなじりに力が入っていた。 「あのさっ…
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oharash · 2 years
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オセロメー
1  俺の生まれた国では太陽は生贄を求める神様で、その下にはすべてが平等だった。朝も昼も夜も誰かが殺されて、棄てられた体をなおも太陽は照らし続けた。この国に来たころ、殺人が夜に起きるのが新鮮だった。この国の太陽は俺の生まれた国より遥かに弱々しいのに人を守る神として空にある。太陽が殺しに秩序をもたらすなんて。スギモトが雨と泥と人間の何かを浴びて重たそうな体で帰ってきたとき、俺はそんなことを思い出した。  ソファの前に立ったスギモトが手を伸ばしてくる。俺は寝そべったままわざとらしく眼前に両の掌を掲げた。降参のポーズだ。 「なあに?」 「クルマのキー出せ。捨てに行くから」
 何をさ。まあ死体か。そうだよな。スギモトの体から蜂蜜みたいに粘度のある怒りが滴り落ちて、床にどす黒いしみが広がっていく。幾度となく目にしたこの暗さに俺の心は怯えて縮む。外の雨はずっと強くなるばかりだ。太陽はもう、弱い人間を守らない。ソファから立ち上がり膝を押さえて上半身を支える。そうしないと立ち上がれなかった。心はどんなに怯えていても体は平気なふりをしなければならない。そうして心と体を力づくで剥がすことを繰り返して、俺の心と体はもうぴったりひとつには戻れなくなっている。 「俺も行くよ」スギモトからぼとぼとぼとぼとぼとぼと怒りが落ちる。「来なくていい」俺はつとめて、いつも通りに聞こえるようゆっくり喋る。「人ひとり捨てるのって結構大変よ。道具とかも準備しなきゃいけないし。準備は俺がやっとくからスギモトは着替えてきな」  何か言いたげなスギモトの背中を見送ってからキッチンに向かう。お湯を沸かしてコーヒーをドリップする。いつもより丁寧にケトルから湯を線にして垂らす。しっかり蒸らして泡が中央に盛り上がるようにゆっくり抽出する。最後まで抽出しきると雑味が出てしまうから、コーヒーが落ち切る前にドリッパーを外してタンブラーに移す。スギモトのために蜂蜜を垂らしてやった。    ついさっきまで人間だったものは玄関先に転がっていた。暗くて血と泥の区別がつかない。上半身はうつ伏せで、腹から下をよじるようにして下肢を投げ出していた。腰と肩はしっかりと張っていて頑健そうな体つきが見て取れる。久しぶりに見る死体はなんの変哲もなくむしろ五体満足で損傷も少なそうで、そんなことを考える俺の方が変わってしまったことを知る。傍に乗り捨てられたスギモトのバイクが所在なさげに雨に打たれていた。  二往復してバイクと死体をガレージに運び、死体をビニールシートに包んだ。スコップと一緒に幌付きトラックの荷台に積み込む。死体は岩のように重く、力任せに放り投げるかたちになった。  そのまま室内に戻るとスギモトがうつむいてソファに腰掛けていた。  両手でスギモトの頬を挟んで、額と頬に落ちた髪を払う。目尻からこめかみに向かうきついカーブを撫でて、がらんどうの瞳を覗きこんだ。闇夜が窓の外でごうごうと鳴る。額を合わせるとスギモトの腕が俺の腰に回されて、俺たちはしばらくそうしていた。
2  年代物のクルマはキーを2、3度ひねらないとエンジンがかからない。それでも山の段々畑でビーツ栽培をやっているナガクラじいさんにもらった日本製の幌付きトラックを俺とスギモトはそれなりに大切に扱っていた。  入りの悪いラジオから甘い歌が流れ出す。 「なんで歌のネタって恋愛が多いんだろうね?  靴下が片方なくなる歌とか好きなもの食べすぎてゲロ吐いた歌とか泥まみれの愛犬を嘆く歌とかあってもいいと思わない?」俺は北へハンドルを切る。この辺の道は整備なんてされてないから、先代のボロいミニバンの時はケツが痛くてやってられなかった。  ややあって、スギモトはゆっくり答えた。「売れねえだろ普通に」弾力を感じるその声に、緊張の糸が少し緩む。俺は間違えずに物事を進められている。「リスの可愛さを讃える歌とかは売れるかも知れないじゃん」「いやニッチすぎ」「ふふ。あ、そこのタンブラーにコーヒー入ってるよ。熱いから気をつけて」「わりいな、もらう」  ふうふうと冷ましながらコーヒーをすするスギモトからはもう泥はこぼれていない。けれど夜より暗い怒りはまだ残っていた。あと少しだ。  道を囲む森林が背後に飛びすさってゆく。フロントガラスに当たる水量が減ってきて、俺はワイパーをローにした。山ーーアシリパちゃんたちは雨の山と呼ぶーーーの中���にある車道にほど近い山小屋を目指す。かつてはニヘイのおっさんが使っていたが、奴が狩場を移してからは無人のままだ。わけもなくしけた気分の時に俺は時々ここで時間を潰す。  今の俺たちは北米の田舎に住む日系人ふたりにすぎないが、俺たちの生まれは麻薬の国だ。俺はクソガキ時代に強盗で収監されて以来脱走しては刑期が伸びるようなケチな悪党で、スギモトは中規模カルテルの武闘派構成員だった。5年前の麻薬戦争で悪魔のような活躍を見せた男の名前は脛に傷持つ身なら誰もが知っている。エル・エニクス。不死身のスギモト。9割が死ぬような修羅場を何度も生き延び、RPGを打ちこまれても死ななかったとかジャガーの檻に入れられて素手で生き残ったとか、瀕死の重傷を負っても翌日には暴れ回っていたとか嘘か本当かわからない噂がまことしやかに流れていた。  俺たちは北米にあるという先住民の隠し金塊の噂を求めて行きあった。故郷に帰るという豪胆な女の子と3人で国境を越え、そこから縁があって長いこと一緒にいる。  雨は止んだが相変わらず月は出ない。タイヤが山道を噛む。文明のものが一才消え、視界はいよいよ森だけだ。左右にあるはずの森が膨らみ、俺たちを覆い尽くして飲み込もうとしているかのような錯覚に襲われる。  俺の不安がスギモトに伝わらないようにゆっくりと息を吐いた。スギモトをこっち側に引き戻すにどんな言葉を連ねればいいだろう。 「そういえば」 「ん」 「俺ねえ、スギモトと知り合う前“俺は不死身のスギモトの友達だ”つって寸尺詐欺はたらいたことあったよ」 「俺と会う前から俺に迷惑かけてたのかよ」 「あはは。ギャングに絡まれた時とか“俺は不死身のスギモトだ”ってハッタリかましたこともあったわあ。まあ信じてもらえなかったけど。その後しばらく俺の周りで不死身のスギモト名乗るの流行ったよ。何人かマジで行方不明になった」 「お前らほんとしょーもねえな」  パンツのポケットから飴を取り出して、「これで許してえ」と言ってスギモトの手に握らせた。一昨日買った飴は俺の体温で変形している。  スギモトは飴を口の中で転がしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。 「アシリパさんのとこに卵届けに行ったら」「うん」「帰りにさ、脱輪してるクルマがいたんだよ。キロランケの家と岩山の途中にさ、湿地になってるとこあるだろ。あそこで。オッサンがクルマから降りてぼーっとしてるから、声かけてスペアタイヤに交換するの手伝ってやって」「うん」「オッサン、すごい酒くさくて。タイヤ交換するまではよかったんだけど、帰ろうとしたらめちゃくちゃ絡んできて。銃とか出して。最初は俺のこと舐めてんだろとか、そんなだったんだけど」「うん」「すぐ拳銃振り回して俺はすげえんだ…去年は先住民の女を…その、暴行して、山に置いてきたって」  スギモトの言葉が激烈な熱を帯びて、体からどす黒いオーラがマグマのように吹き上がる。  言葉を選ぶ良心と、まがまがしい殺意。スギモトはそのふたつを矛盾したまま抱えた男だった。俺はただのゴミだがこいつはちょっと複雑だ。 「ああ、わかったよスギモト。後ろに乗ってるのはそのオッサンてわけね」
 半年前、雪に覆われたこの山で死体がひとつ見つかった。アシリパちゃんの遠い親戚で、3人の子どもの母親だった。どこからか駆けてきて肺が凍り血を吐いて死んだ。生きているうちに暴行された跡があり、足跡は途中から雪崩に消されていた。  この居留地には警官が6人しかいない。それを知った時はどこにでも見捨てられた土地はあるもんだと妙に安心した。富める国アメリカにもこんな場所があるのなら俺らの生まれ故郷がゴミ溜めなのは当たり前だ。なんたってここは面積で約9000㎢、人口にして約30000人が暮らす土地なのだから。俺の知る警官は職務怠慢というわけではなかったがこの土地で起きる事件全てを解決するという意思はなかったし、誰も彼らにそれを期待していなかった。暴行犯は掘削所の警備員だとかピューマの毛皮を狙うハンターだとか、噂だけは膨らんだが証拠はひとつもなく解決には至っていない。  アシリパちゃんは奥歯を噛み締めて泣いていた。植物の染料で顔に文様を描くのが彼女らの弔いの正装らしく、涙と鼻水が染料を溶かして紫の雫になって彼女の足元に滴った。悲しみと何より地の底から湧き上がるような怒りが、その小さな体を突き破って今にも噴出しそうに見えたのをよく覚えている。  山小屋は道路から程近く、クルマを路肩に寄せて俺は荷物を、スギモトは死体を背負った。ぬかるむ獣道を踏みしめて5分ほど歩く。足を踏み出すたびに首にかけたライトが所在なげに揺れた。山小屋は俺以外にも時々誰かが来ているのか、中も外もあまり傷まずにそこにあった。  オイルランプに火を灯し、ささやかな暖炉に火をくべると室内とスギモトの姿が浮かび上がる。この小屋の暖炉は独特な形をしていて、ニヘイはこれをイロリと呼んでいた。  死体はビニールシートに包まれたまま玄関に転がされていた。  ポケットからもうふたつ飴を取り出す。スギモトが舌を出したのでその上に乗せてやる。 「ここを西にちょっと行ったところにさあ、電波塔の跡地あるじゃん。そこに埋めるつもりだけどいい?  あの辺は拓かれてるしゴミなんかもそのままだから動物もハンターも来ないし。多少は雑に埋めても見つかることはないと思う。近くの沢に捨てて動物に食べてもらうのも考えたけど、もし誰かに見つかったらちょっと面倒なことになるかもなって」  どっちも中米では考えられない緩慢さだった。あそこでは死体はその辺にうち捨てられるか見せしめのため家族や仲間のもとに送られるか、バラバラにしたり酸で溶かしたり焼却したりして徹底的に隠滅されるかだ。 「そんなんでいいのか。もっと、バラバラにしたり酸で溶かしたり焼却炉に入れたりとか…」 「そういうカルテル流の発想はやめようスギモト。ここは文明の国アメリカなのよ!」 「でもいいのかよ、五体満足だと見つかったらすぐ身元わかるだろ。服もそのまま?  指紋も焼かないのか?」 「いいんだよ、相手はカルテルみたいなおっかねえ奴じゃないし、ここは警察も知っての通りだし。あの事件は結局地方警察の管轄になってるから別にFBIが来るわけでもないし。でも一応こいつアメリカ国籍持ってて白人だから、隠すだけはした方がいいと思うよ。うちまでバイクで連れてきたよね?  雨強かったから血痕残ってないからだろうからそれはラッキーだった」 「そっか…こんなことに付き合わせてわりい。でもお前がいてくれてよかった」 「俺、この歳にして死体処理童貞卒業だわ」  どこか安堵したような目でイロリの炎を眺めていたスギモトの表情が固まった。 「は?」「経験ないもん。刑務所とかで話聞いただけ」「ええ…お前家からここまで自信満々だったじゃん…騙された…」「いいじゃん。黙ってついてきたってことはお前もたいして考えてなかったってことでしょ」スギモトは釈然としない表情で飴を噛み砕いた。  念のため土に帰らなそうなものは別に処分することにした。と言ってもオッサンは大したものは持っておらず、小銭、ID、タバコ、大麻、ジッポ、指輪をひっぺがして袋に詰める。オッサンの元の顔は知らないが仰向かせたそれはもう原型をとどめていない。代わりに不死身のスギモトの凶暴さがべったりと張り付いていた。 「あ、これも」スギモトが尻のポケットからナイフと拳銃を取り出した。護身用に使われるようなシンプルでミニマムなタイプだ。「これ、このオッサンの」 「聞いてなかったけどさ、ケガとかしてねえよな?」 「ない。発砲されたけど当たんなかった」  スギモトは頭から爪先まで傷だらけで脳の一部こそないが、指も手足も目も耳も爪も歯も髪も眼球も揃っている。  拳銃とナイフも袋に突っ込む。がちゃがちゃとした袋の重さが心許なかった。
4  俺たちは黙って穴を掘った。土はたっぷりと雨を吸っていて重い。一度開墾された電波塔跡地はまだ木の根が張っておらず、それでも成人男性を埋める分を確保するのはなかなか重労働で、すぐに汗が全身から吹き出してシャツが全身にべったり貼り付いた。このオッサンは最後まで幸運だったなあと心底思う。ほぼ即死だったろうし自分を埋める穴を掘らされることもないまま死ねた。もし生まれがこの国じゃなかったら、生きたまま手足を切断されたり喉を裂かれてそこから舌を引き出されたり、切断した頭部で誰かがサッカーに興じている動画を家族に送られていたかも知れない。その上で家族も殺されて生き残った子どもはそのままカルテルやゲリラに誘拐されて数年後には立派な兵士になってたりとか。誘拐されなくても俺たちみたいな生まれならどうあれ似たような道を辿るだろうけど。  生まれが違うだけで死に様まで違う。あの町では人の命は0.01gのコカインから遥かに劣ったしこの居留地では女性それも少女ばかりが殺される。ここで先住民女性の失踪者に関する統計調査は存在しないんだそうだ。小熊みたいなハンターが言っていた。「この土地に運は存在しない。生き残るか、諦めるかだ」。彼もまた妹を喪っている。  俺はあまり考え込まない質であるのだが、今日はどうにも暗い思考から逃げきれない。吹っ切りたくて空を仰ぐとぬるく湿った風が吹いていた。フクロウのオスがメスを呼ぶ声が響く虚空も、威圧的なまでに重厚な針葉樹の葉も、蛇を踏まないように歩いてきた道も、全てが黒に近いグレーだった。俺より夜目のきくスギモトが働けとどやしてくる。 「穴掘ろうとか言うんじゃなかった〜ボウタロウみたく重りつけて水に沈める方式にすればよかった〜でもここ深い湖とかないんだもん〜」 「ごちゃごちゃ言ってないで手ぇ動かせ。ていうかお前の友達本当にろくなのいなくない?」 「そもそも俺がろくでもないんだから仕方ないでしょ」 「それも何とかしろ。そんでこれ以上変な人間に拐かされるんじゃねえぞ」 「………死んだ人間は?」 「なんて? 聞こえねえ」 「なんでもなあい」  どうにもやさしい目眩がする。
5.  住まいに戻る頃には空が白んでいた。朝霧を肺いっぱいに吸い込むと甘い心地がして、寝不足と重労働を課された心身が弛緩していく。  クルマをガレージに入れて、腹が減っていたのでキッチンに向かった。パンとコンビーフをスライスしてフライパンに乗せ、クレソンを適当にちぎる。パンに焼き色がついたらフライパンから上げてバターを塗った。コンビーフとレタス、クレソンを挟んだざっくりしたサンドイッチと、紅茶のカップをスギモトに渡してやる。慣れない重労働のせいで両手はマメだらけだ。 「なんか俺、昨日からお前に食い物もらってばっかり」 「俺のこと見直してくれてもいいのよ?」 「お前がもう少し穴掘り頑張ってくれたらな。八割俺が掘っただろ…ヒンナ」  パンの香ばしさが鼻腔へ抜けていく。塩気の強いコンビーフの脂とバターが口の中で溶け出して、ハイカロリー飯ならではの美味さが胸まで満たした。 「なーシライシ、今度トルティーヤでこれやってみようぜ。トウモロコシないから小麦だけど。野菜モリモリ入れて」 「いいねえ、ひよこ豆入れてエンチラーダにしてもよくない?」 「それ絶対ヒンナだわ。久しぶりにモヒート飲みてえ。アシリパさんも呼んで食べようぜ」  死体を埋めてシャワーも浴びず、メシを食って次のメシの話をする。昨晩から始まった意思が帰結した心地がした。スギモトから禍々しさはすっかり消えて、眠くはあっても機嫌は悪くなさそうだ。  窓の外に目をやる。彼方に、クルマを走らせていた時にはなかった稜線が浮かび上がっていた。太陽を背負った森は黒く木々の揺らぎだとか濃淡を描く緑は朝に隠されてしまって確認することができない。塗り潰された死体ももう見えない。  食べ終わるとスギモトは行儀悪くソファに丸まった。まあ眠いよな、俺も眠い。ブランケットをかけてやると目配せで誘われた。狭いソファに体をねじこむとぴたりと体が密着する。シャツ越しにスギモトの高めの体温が伝わってくる。まつげに縁取られた目は緩く閉じられていて、そうしていると歳よりもだいぶ幼く見える。顔中に走る傷跡はまるであらかじめの意匠で、そういう生き物のよう。  スギモトの背中に腕を回し人差し指と中指で背中を、とん、とん、と叩くと、俺の足先からも安堵が満ちてきた。  昨夜スギモトが帰ってきてから(殺しをしたと知ってから)守備よくことを運べる(死体を隠蔽できるかってことだ)か不安で仕方なかった。もしこれでスギモトが疑われることがあったら俺が自首しよう。証拠をいくらか残してきたし、この町にちゃんと根を下ろしてアシリパちゃんに信頼されてるスギモトと違って俺はいつもフラフラしているしそもそも不法入国者だし疑われる理由は十分だ。アメリカの刑務所がどんなところかは知らないが逃げ出す術はあるだろうし本国に送還されるならそれでもいい。そうしたら次はまたどこかに逃げる。どちらであれここには帰ってこれないが仕方ない。  そうなってもそうでなくても、スギモトにはしばらく街に出ないで欲しい。街にはとにかくたくさんの人間がいて聞くに堪えない蝗害のように飛び交っている。俺はスギモトにそんな言葉を聞かせたくなかった。先住民の女とタバコひと箱で遊んだ、と誰かが言えばモノなんて渡さなくてもカネをちらつかせれば尻尾を振ってついてくると誰かが笑う、とか。先日雪山で見つかった先住民の女には出稼ぎ労働者の間夫がいて、駆け落ちしようとしたところを捨てられてひとり山を彷徨って死んだらしい。とか。貧乏で子沢山な女の考えそうなことだ、あいつら母親のくせに見境がない、とか。このクソみたいな土地じゃ女と葉っぱしか楽しみがない、とか。  アシリパちゃんの親戚が山で死んだ冬。街のバーで聞き耳を立てる度に、俺の腹には男たちの虚栄と傲岸と驕りと侮蔑がひたひたと溜まっていった。何が本当で何が嘘かも知れないということは、誰も何に責任をとる必要がないということだ。そんな中でアシリパちゃんの親戚は死んでいった。たくさん夜にたくさんの女の子とたくさんの誰かが殺されている。気づけば旧友のような無力感が俺の隣に腰掛けていて、あの冬の俺は酒とタバコの量が増えた。それでもこの町を出なかったのはスギモトがいたからだ。  スギモトの首がゆるんで頬がソファの背もたれに落ちる。日差しを受ける額に額を寄せると雨とスギモトの匂いがした。  何も終わりはしない。この古い家中が、スギモトの寝息にあわせてゆっく引いたりしているように感じられる。 (自分だけで自分を知ることなんてできないんだよ誰も)  いつかの季節にこいつに信頼をもらって俺はひしゃげてしまった。それまで無様ながら自分だけで成り立っていた心が、今はもうスギモトとアシリパちゃんがいなければ走れもしない。そんな風に変形して戻らない。  気持ち、恩、こころ。どれも正しいようでぴたりとは当てはまらない。こんな俺でも渡せるものをスギモトにあげたかった。
エピローグ  その日は朝から雲が垂れ込めていて、それでいて静かな空の日だった。俺が玄関先で草をむしりながらタバコを吸っているとアシリパちゃんがひょっこりとやってきた。山の穴掘りでできたマメは俺の手のひらから消えつつある。 「どうしたの。スギモトはキロちゃんとこだよぉ」 「ペミカンを持ってきたんだ。スギモトが前にほしいと言っていたから。渡してくれ」  そう言って彼女は頑丈な葉の包みを差し出した。ドライフルーツや干し肉を動物の脂で固めた保存食は控えめに言って食欲を減退させられる見た目だが、鍋に入れるとそこそこ美味い。彼女と旅をしていた頃はよく食べた。山歩きで疲れ切った体には沁みる味わいだったことを思い出す。  少し背が伸びただろうか?  どこかの国では男子三日会わざればナントカというらしいが、この年頃は女の子もみるみる変わる。これから男になるか女になるかが決まる、みたいな未分化なところがあったのに最近はぐっと少女っぽくなった。スギモトが趣味でつくっている花壇を眺め「どうせなら食べられるものを植えればいいのに」と言わんばかりに鼻白むのは相変わらずだったが。  アシリパちゃんを家に上げてミントティーとトルティーヤチップスでささやかにもてなす。スギモトが「モヒートに入れたいから少しだけ」と言って植えたミントは瞬く間に増殖し、最近の俺たちはこいつを消費することに意地になっていた。根こそぎむしったつもりでも気づけばどこかに芽を出している。「もう絶対地植えはしねえ」とスギモトが地を這うような声で唸っていた。不死身のスギモトと不死身のミント。身振り手振りを交えてそんな話をするとアシリパちゃんは歯を見せて笑った。彼女にも帰りに持たせてやろう。 「シライシの足はどうだ? こういう日は痛むだろう?」 「全然平気だよ、それ言うとスギモトがほんの少し優しくなるから言ってるだけだよーん」  左足をまっすぐに伸ばしたまま足の裏を天井に向けて膝を抱え、顔の横に寄せる。座りながらY字バランスをしている格好になり、「シライシ気持ち悪いっ」と彼女は顔を顰めた後また笑う。俺の脚の銃創はこんな薄曇りの日には思い出したように疼くのだ。 「次来るときは毛皮を持ってくる」 「はあい。高く売ってくるよ。ていうか俺暇だから取りにいこうか」 「お前が暇なのはいつもだろう。来たら狩りにつれてってやる」  午前の白い光がアシリパちゃんのふっくらした頬に当たり、光の粒子が産毛の上で踊っている。眩しいものを教えてくれる。 「お前たち、何かあったのか」  その頬と目に力を込めて、アシリパちゃんは恐らく今日いちばん言いたかったであろうことを切り出した。 「ええ、何かって、どんな」 「スギモトの様子がおかしいだろう」 「特に何も感じなかったけど。俺の前じゃふつーだよ。古傷でも痛むのかな?」 「何か考え込んでいる時がある」 「あいつそういうことあまり俺に話さないからなあ…」  倫理に反することより隠し事の方が罪が重い。そんな俺たちの関係からなるべく目を逸らして、考え込むふりをする。言外にこの話は甲斐がない、と滲ませるためにしばらく黙り込んだ。  アシリパちゃんはーーー諦めたわけでもないだろうがーーー緊張を解いてトルティーヤチップスのおかわりを要求してきた。「夕ご飯入らなくならない?」と尋ねると「誰にモノを言ってるんだ」と謎に上から目線で返された。    それからくだらない話を二、三してアシリパちゃんは席を立った。やっぱり背が伸びたような気がする。  ペミカンを入れてきた袋に乾燥ミントを詰めて返すと彼女は匂いを嗅いでちょっと変な顔をした。  そのまま、なんの予兆もなく俺は彼女に抱擁された。白いつむじが見えた。 「シライシくさい」 「クーーーーーン」 「ずっと言おうと思ってたけど、最近のスギモトを見てて特に強く感じたから、言う。シライシにも聞いてほしい。  アチャやフチにこうしてもらうと守られている心地がする。でもスギモトやお前に抱きしめられると、お前たちを守らなければ、といつも思うんだ。お前たちはフチより力がずっと強いけど、強いほど心もとないよ。抱きしめられたら腕を出して、私がその上から抱いてやる。寒さと怖さは外側からやってくるからな」  俺より遥かに年下の女の子に抱かれて、俺の腕は自分のがらくたみたいな腕を彼女の背に伸ばした。  俺はよく知っていた。年齢も性別もどこの誰かも関係ない。家族も恋人も相棒もつがいもいない俺には関係ない。誰から与えられる善意も悪意も等しく平等だ。俺のようなゴミ溜めに生まれて抗うことなくゴミになった人間とか、スギモトのように闘争して生き残った人間の、剥がされ続けた心と体はもう元には戻らなくても、次世代の彼女たちはそれを包むような世界を作ることができる。かもしれない。 「アシリパちゃんは新しい時代の女の子だねえ」  彼女は顔を上げて、にっこり頷いて見せた。 「送ってく?」 「ひとりで帰れる」  少しも名残惜しくなさそうなその後ろ姿を、俺は満足して眺めた。またすぐに会えるし当然会う、と信じて疑っていない女の子の背中だったからだ。  雲から覗いた太陽が正しく神として、彼女の道行を照らしている。タバコに火をつけて、俺はその後ろ姿が見えなくなるまで戸口に立っていた。
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oharash · 2 years
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滲む朝
 この階段を登り、剣を振れば俺は王になる。  やっとここまできた。ここまで来るまでに兄も父も死んだ。多分今朝方、俺の友人も死んだ。  父が連れてきた仙人に導かれ、慣れない戦をいくつもした。腹の傷は多分致命傷だ。友人と同じように遠くない未来に幕が下ろされた。俺は国を成して、この傷によって死ぬ。  ひどく頭が冴えていた。
 白髪の王の背中を見上げながら、一歩一歩階段を登る。その姿は昨日戦場でまみえた異形ではなく、ただ老いた一人の男だった。 「お前の父も、お前の兄のことも覚えているよ」  男は振り返らない。 「やっと予の夢が終わる」  夢。俺の夢はどこで終わるのだろう。 「俺、あんた斬ったら国を始めるんだわ」  かつての賢君は何も答えない。俺も対話をしたいわけではなかったから独り言を続ける。 「あんちゃんがこの城から帰ってこなくて、オヤジも死んで。俺は腹の傷で死ぬんだよね多分。でも今は、今だけかも知んねえけど何も怖くねえんだよ」 「死よりも恐ろしいものはいくらでもあるよ。お前は今全てを持っている。予は何も持ってはおらぬ。そしてそれに不幸も幸福もないのだよ、姫昌の子」  俺も二度見た。兄を殺し国を堕とした女。あの女の魔性に長く触れたこの王が見たものは何だっただろう。あれだけの女に魅入られるのなら、例え荒野に残されたところで悦楽のまま死ねるのだろうか。 「誰もが自分の意志で壊せるものを持っている。それは家族であったりわずかな田畑であったり城であったりする。予はそれが他の人間より少し大きかっただけだ」  全てを失っても、この男が失意のように見えないのは何故だろう。 「予が死んだら、どこか一部でよいから土に埋めてくれ」  歩みを落として紂王が呟いた。 「いずれ、あの女の一部となろう」  最後の言葉はよく理解できなかった。元々分かり合おうとしての会話ではなかったから問題ない。俺は約束をした。  城壁からの景色は荒涼としていた。人の声が聞こえていても、なぜかひどく静かに感じた。  大きく息を吸う。訣別をする。  玉座からの景色はそう良いものではないだろう。いつか俺も、紂王のように何かに魅入られるかもしれない。  兄に、父に、朝焼けの中にぶっ飛んでった友に。  俺の夢が尽きるとき、彼らに再び会えるだろうか。
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oharash · 2 years
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孤独なわたしの星
 黄瀬が真剣な顔で、付き合ってくれ、って言ってきたのは冬の終わりだった。  いつも俺の後をついてまわってワンオンワンを仕掛けてきて、俺(とテツ)の名前ばっかり呼ぶ黄瀬のことは割と好きだった。
 俺らとは違ってバスケと学校以外の世界を持ってる黄瀬は変なところで大人びてて、周りに合わせるようにお行儀よくニコニコしてることも多かったように思う。そんな黄瀬にお前ホモなの、とか、聞くのは何か癪だった。そんなことを気にする俺の方がガキのような気がして。黄瀬が知っているきらびやかな世界ではそんなの当たり前なのかも知れない。引き延ばす選択肢はなかった。時間をかけてわかることじゃないいと直感的に思ったから。部活のない日で、ストリートバスケであったまった体が妙に熱を持っていたのを覚えてる。迷った末にOKを出した。付き合うとか正直よくわかんないけど、一緒に帰ったり部活以外にもバスケしたりすればいいんだろ。それならいつもと一緒だし、ずっとバスケの相手がいるってのは結構いいかも知れない。どのみち当時の俺は365日バスケしてたようなもんで、正月なんかは人を呼ぶのも躊躇してたから。付き合うようになったらそういう日に呼んだっていいだろ。こいつはそこそこ上手いし、どんどん上達するからやってて楽しいし。  毎日一緒にバスケしようぜ、と言ったら、黄瀬は今まで見たことない顔で笑って、しゃがみこんだ。    俺らの関係が変化したことはあっさりテツにバレた。居残り練習を終えた後のロッカーで、「黄瀬くんのどこが好きなんですか」という声が宙に浮いた。 「あ、えー」 「誰にも言いませんけど」 「あー…顔? おい何だよその目」 その場で考えた答えだが意外と俺の中でしっくりきた。テツがひどい顔をしていたが仕方ない。 「青峰くんって面食いだったんですね」 「そんなんじゃねえけど…汚いよりキレイな方がいいだろ。容姿も才能のうちだって、ほら赤司も言ってたし」  何かこの言い分だと俺が黄瀬のことそんなに好きじゃないみたいじゃないか。 「黄瀬くんは、青峰くんのことが大好きですね」 「何が言いてえんだよおめーはよ」 「どんな感じなのかなって、興味があっただけです」  テツが微かに笑って、俺は心のどこかで安心した。 「あ、いたいたー。俺も一緒に帰りたいっすー」  委員会だか何だかで出ていった黄瀬がタイミング悪く戻ってきて、俺とテツの会話は強制的に打ち切られた。それからテツが黄瀬の話を振ってくることはなかった。    俺はもともと制服の上にコートは着ないけど、春が近くなっていよいよマフラーもいらなくなってきた。黄瀬は身に着けるものがいちいち垢抜けていて今日も何のブランドか知らないが柔らか��うなマフラーを巻いていた。テツは本屋に行くとか言って途中で抜けた。俺らの決まり事で今日は俺が黄瀬を家まで送っていく番だった。  隣を歩く黄瀬の横顔を見る。バレても別にいい。どの角度から見ても、何ならどれだけ近寄っても黄瀬の顔はキレイだ。いいドライブをずっと続けられてるような甘い多幸感がある。自分の顔も別に嫌いじゃないけど、黄瀬はつくりからしてやっぱり違う。 「お前のねーちゃんも美人なの」 「えー? あーまあ、カワイイんじゃないッスかね。多分。何すかいきなり」  視線に気づかないふりをしていたんだと思う。畜生モデルめ。 「てか、青峰っちにあんまり見られると恥ずかしいんすけど」 「バスケしてりゃ死ぬほど睨み合ってるだろうが」 「いやそーいうんじゃなくて、地味に、恥ずかしいっすね」  でっかい目を細めて笑う。その甘ったるい声に、俺は罪悪感をたまに覚える。  最近黄瀬は俺と何かをしたがっているようで、多分それはキスとかそういうもので、でもハッキリとは言わない。自覚があるのか何なのか、その察してオーラをやめろ。 (キスくらいしたっていいだろうか)  でも俺、したことないんだよ実は。黄瀬はあるらしい。そりゃな。何なら俺は童貞だがこいつは違うだろう。それも何か癪だ。  チームメイトの他愛ない話をして笑う。俺がこいつを嫌いになるなんて全然考えられないけど、例えば5年後に俺らはこうやって一緒にはいないだろう。結婚とか全然考えられないし(そもそも日本じゃ俺らは結婚できない)、まちで会うカップルみたいに、仲良く寄り添う姿も想像できない。それでも、矛盾しまくっていても、俺は黄瀬に忘れられたくない。俺も忘れたくない。 「なあ黄瀬」  キスしたら、5年後も10年後も、俺らはお互いのことを忘れられないでいられるだろうか。  まさかOKをもらえるなんて、夢にも思ってなかった。いやちょっと嘘。正直フィフティだと思っていた。青峰っちの価値観は動物的でよくわかんないとこにあって、バスケ以外に大したこだわりはないように見えたから。巨乳が好きってのは俺には大層不利な条件だったが、それも見た目を重視するものだと数えたら俺にも勝ち目はある気がした。周りの目を気にするタイプでもないし俺の存在が青峰っちの中で、もし、もし一線をわずかにでも越えていたら。その可能性にかけた。長い沈黙が流れた気がしたけど、後から思えば彼の逡巡は一瞬だった。眉間にすげえ皺よせて、唸るようにひっくい声で、「わかった、から、毎日一緒にバスケしよう」と言ってくれた。  あの瞬間俺は世界で一番幸福だったように思う。  冬を越えて春を越えて、俺らはものすごいスピードで変わっていった。俺らの関係は変わらないのに、俺らの体は昨日と今日で別物のように生まれ変わっていく。どんどん先のものへ手が伸ばせるようになって、どんどん早く走れるようになって、エネルギーは無限に湧いてくるようだった。考えられる範囲は何ひとつ変わらないのに、体は昨日より遥かに動く。広く、遠く。身体と心は密接につながっているということが何となく理解できた。体の変化に心がみるみる引きずられていく。ずっと気持ちが浮ついていた。  夏にはそれはもう決定的になっていて、今までの言葉や表情ではもう気持ちをやりとりできなくなっていた。それでも義務のように近くにいたのは、俺の意地だったのか青峰っちの意思だったのか、俺には終ぞわからないままだ。 「風邪?」 「中日だからいいものの、大会中に仕方のない奴なのだよ」 「あー緑間っちそれさ、俺に行かしてよ。俺青峰っちに今日返さなきゃいけないもんあるんすよ」  緑間っちから明日提出らしい真っ白の進路希望調査を受け取った(机の中に突っ込んだままだったらしい)。それは青峰っちに会うための正当な切符のようだった。そんなものがなくたって俺らは恋人なのだから、いつでも会えるはずなのに。  その頃の青峰っちは、表面的には大層静かだった。前は黙っていようが何だろうが騒ぎ立てるような存在感があったのに、それはもう、とても静かだ。 「うつんぞ」 「いーっすよ」  怠そうに起き上がろうとしたのを腕で抑えて、俺は青峰っちのベッドに肘をかけてフローリングに座り込んだ。 「緑間っちに明日のラッキーアイテム預かってきたっすけど」 「あーその辺置いといて…」  静かだけれど、薄皮一枚隔てた向こうに嵐がある。けれど風邪のせいか、今はそれも大人しい。  付き合いたての頃と変わったのは、沈黙が居心地悪くなくなったことだ。床に放ってああった新しいジャンプをめくった。背中越しに、青峰っちが寝息をたてたり薄く覚醒したり、あちらとこちらをさまよっているのを感じていた。 「なー黄瀬…」 「なんすか」 「今日さ、やることなくて昼間テレビで野球見てたんだわ。甲子園」 「ああ今やってんすね」 「俺、野球とか全然わかんねんだけどさ、観てたら面白そうで」  グラウンドを思い出す。スポーツはそれなりに一通りやったけど野球には足が向かなかった。坊主になるのが嫌だったというただそれだけの理由だ。 「なっちゃう高校球児?」 「それもいーかもなー…あれ、ホームランとか打てたら、気持ちよさそうじゃん」 「青峰っちがやるなら俺もやるっすよ」 「坊主じゃモデルはできねーなー…」  青峰っちが微かに笑った。この人が笑うのを久しぶりに見た気がする。「一緒なら坊主でも何でもいいっすよ」と返したら、返事はなかった。本音なのに。  本音だった。髪だろうがモデル業だろうが、それを捨てれば一番欲しいものが手に入るなら、何だっていい。  体が毎日生まれ変わっていく。それに心も引きずられる。俺はまだ、これからだってこの人が好きなのに、前と同じ周波数ではもう言葉がやりとりできない。  青峰っちが俺の背中に触れた。やがて聞こえてくる寝息に、この人の微かな休息を祈った。  全てが静かに壊れていった、俺らの二回目の夏の、エアポケットのような時間のはなし。
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oharash · 2 years
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笑わない休符
「真ちゃん、俺の目、そろそろだめみたい」  それは高尾と出会って三年目のことだった。  予兆はあった。高尾が、待ち合わせ場所で振り向かなくなった。  以前はイヤフォンをしていようが、携帯を眺めていようが俺が歩み寄ればすぐに振り向いた。それがここ最近、背後から声をかけたり肩をたたいて初めて俺に気づいたような顔をする。少しの憂いともに。 「バスケしてる間は、まだ大丈夫。普段の生活は、よっぽど集中しないとだめだ。前は意識しないでもどこでも見えたのに。つっても、バスケも時間の問題だと思う」
 他人曰く、俺はあまり感情が顔に表れないらしい。それでもその時、高尾を傷つけない顔をできていたかは全く自信がない。  「そんな、顔しないでよ、真ちゃん」  いつか氷室が言っていたように、多分俺たちの才能は“ギフト”というものでもあるのだと思う。ただいくつか種類があって、紫原のフィジカルや火神のジャンプ、青峰のアジリティなんかは物理的にわかりやすい。俺のシュートも恐らくこっち側だ。そんな中で高尾の目は幾分繊細な才能だった。跳躍力や敏捷性は誰だってそのためのトレーニングをすればある程度身に着けられるし、一昼夜で失われることもない。しかし高尾の目は身に着けようと思ってできるものでもない。やり方も具体的に挙げられるものでもないし、高尾曰く「何かこう、頭の後ろの方から意識飛ばす感じ」らしいが俺には微塵も見当がつかない。要するに、鍛え方も、維持の仕方も、俺たちにはわからないのだ。  高尾が俺を気遣うように笑う。 「高尾、海と山だったらどっちが好きだ」  いきなり何を言い出すんだこいつは。  出会って一年半、その電波発言、奇行、大概のことには慣れてきたつもりだった。 「え、海、かな…」 「では今日は俺が海に行きたいので行先変更なのだよ」 「はー? 今真冬よ、はんぱねーさみーよ、真ちゃんそんな薄着で…」 「今日のラッキーアイテムはポータブルライトダウンなのだよ」  眼鏡を押さえながら、カバンから小さく折りたたまれたダウンをちらりと見せた。こいつはいつだって真剣なのだ。でもそれふたり分ないよね。買ってこうか真ちゃん。  緑間真太郎はかつては俺を叩きのめした相手で、やがて俺の相棒になり、いつか俺の親友になった。気難しくて神経質なこいつが俺を傍らに置くのを許している。それはもう相当なことだ。俺は真ちゃんのツンデレを翻訳できるようになったし、バスケも役に立っていると思う。 今日も俺に気遣ってくれてるのだ。俺の相棒は優しい。  優しさに甘えてみることにした。寒そうだけど。 「ストレスは身心に不調をきたす。お前は根詰めすぎだ」  言えてねえよ真ちゃん。  真冬の海っつーのは誰もいなくて視界が開けていて、ちょっと退廃的で意外といいもんだった。少なくとも今は、賑やかできらびやかな場所に行くと疲れてしまうから。  防波堤に腰かけて、俺は缶コーヒーを、真ちゃんはお汁粉をすすっていた。でも寒い。  腰を下ろしてから真ちゃんは何も言わない。こいつは元々口数が多い方ではない。1年の初めの頃は俺が話しかけなきゃクラスでも部活でも必要以上はほとんど口を開かなかった。喋ろうが喋るまいがその出で立ちだけで十分目立つし、たまに口を開けば唯我独尊なことを言うのでそりゃもう浮きまくっていた。オモシロイのは本人が自分がそれほど変わっていると思っていないことだ。自分の行動や発言がぶっ飛んでることを微塵も自覚していない。生真面目なボケまでかましてくるので、俺と宮地先輩の間では“緑間は天然でなく人工”という説まで浮上した。  ともあれ、俺の目だ。  真ちゃんの相棒になれたのはこの目があってこそだった。 「真ちゃん、俺の目がなくなって、真ちゃんにパスが出せなくなったら、俺たち」  言葉が継げなかった。何を言おうとしているんだ俺は。状況に流されるな。  肩を抱かれるような恰好で、あたたかな手で視界がそっと塞がれた。テーピング越しに伝わる微かな熱が、俺の芯を熱くさせた。  波と風の音が大きく感じる。  こいつに会って俺は変わったと思う。  こいつも俺に会って変わった、と、思う。高校で誰にも打ち解けずひとりでバスケをしていた緑間真太郎が、部活やクラスのメンツに少しだけ柔らかく接するようになった。初めはバスケの間だけ、今はそれ以外でも笑うようになった。それでも変人には違いないが、それはもう生まれ変わるくらいの変化だ。俺を負かしたことも覚えていなかった奴が、今、俺にかける言葉をきっと必死で探している。 「お前は何も変わらない。だから俺も変わらないのだよ」  優勝、するのだよ。真ちゃんは力をこめて呟いた。  この左手は、あのシュートを打つ左手だ。奇跡を起こす真ちゃんの手。人知れず毎日毎日、修練を重ねてきた努力が刻まれた手。  風が吹き付ける。ここだけじゃない、この世界は俺たちには寒すぎる。俺の目はこんな寒い世界で舞い上がることはできない。 その左手だけが、確かに暖かかった。  真ちゃんと出会って三年目。11月20日。
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oharash · 2 years
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60日の神様
 鉄平が胸元から肩のあたりを掴んでシャツを引っ張るように脱いだのを見て、ああこの人は他人なんだと思ってすごくいとおしい気持ちになった。  それから、でもいつか、この人が他人であるということがどうしようもなく自分を苦しめる時が来るのかも知れないと思った。  そして私は気づいてしまった。鉄平の怖さに。
マイナス2年、リコの初夏
 鉄平がブラウスのボタンを大きな手で器用に止めていく。その指が第三ボタンにかかったところで制して、先に行くように頼んだ。  困ったように笑って、鉄平は私の髪を撫でた。私はそのまま目を閉じる。  鉄平の足音が遠ざかってから、寝そべったまま窓を見上げた。空は白から薄い水色に変わっていた。もうじき練習が始まる。上体をゆっくりと起こして、第三ボタンをしっかりととめた。  二ヶ月前、鉄平は私の世界にやってきた。大きな体と穏やかな笑顔で、有無を言わせぬ力で私と日向君、伊月くんの世界をまるごと変えてしまった。適当に夢を持っていた高校生活がこんなに激しいものになんて予想もしていなかったけど、それは全然悪くなかったし、それでもよかった。私が恋に落ちるにも時間はかからなかった。  賢く、優しくて私の世界を変えた鉄平を私はいっぺんに好きになったし、鉄平も何故だか私を気に入ってくれた。一緒にバスケをして、帰り道に寄り道してまで話をして、世界の未知をひとつずつ掴んでいった。一緒なら何でもできる気がして、心を震わす波もふたりなら怖くなかった。  怖くなかったのに。  申し訳程度に敷いていた緞帳を適当に畳んで教室の隅へ押しやる。鉄平の声がよみがえった。 「子どもがほしいな」 「え?」 「そりゃ、今は無理だけど、いつか」  同年代の男の子たちが口にする、ふわふわとした”結婚しよう”とかずっと一緒に”じゃなかった。いつもの優しくて穏やかな口調だけど、そこに曖昧なものや甘さはひとつもなかった。  鉄平が欲しがっているものは、高校生の、15歳の恋なんかじゃない。  食い尽くされるような恐ろしさに体の芯が冷えた。いつもなら私の心の露をはらってくれる鉄平の笑顔に私はすくんでしまった。  鉄平の大きな体はハリボテ���たいなもので、中は何もない、からっぽだ。鉄平は私にひとつ心を許した。それが、私にその暗がりを垣間見せた。  だから私は逃げた。あの巨大な寂しさに、私はおののいてしまった。埋めてあげたい、癒してあげたい、そんなきれいごとを言える暗さでは、なかったのだ。  ほどなくして私は鉄平に別れを告げた。あいつはいつもの笑顔で私に礼を言った。
マイナス2年、日向の秋
   「リコと付き合うことにしたよ」 木吉が、明日の天気でも話すように俺に告げた。今までのすべての出来事と同じように、あいつはその言葉がどれほど俺を打ちのめしているかを知らない。実際俺は今すぐ部室の扉を開けて逃げ出したかった。じゃなきゃ椅子の傍らに立てかけているカバンを木吉のロッカーに投げつけて絶叫したかった。リコとの歴史は俺の方がずっとずっと長い。好きでいる時間だって長い。なのに何で、何で、お前なんだ、俺に踏み込んで、俺を光のもとに引きずり出した、お前なんだ。お前よりリコより、俺が何も行動しなかった俺自身を憎むしかないじゃないか。  結局ふたりは付き合って二ヶ月で別れた。それをリコから聞いたとき、俺はこの上なくみじめな気持だった。高校に入ってすぐ、あてもなく街をぶらついていたあの日よりも。  それからすぐ、木吉はインハイ予選で膝を故障して入院した。落胆したあいつの姿を見れば溜飲が下がるかと思えば全然そんなことはなくて、それが俺自身を余計にいらだたせた。  木吉にノートを届けに行く係が俺になったのは偶然だった。学校と俺の家の間に、あいつが入院している病院があったからだ。  相変わらず俺はあいつが嫌いだったが、その苦さは“チームメイト”という濃い液体と、あいつのバスケができる一年という時間の前に希釈されていた。  バスケ部で手分けしてとったノートを渡し、何てことない会話をした。また来るわ、とパイプ椅子から腰を上げると、木吉が今まで聞いたことのない微かな声を出した。 「日向が?」 「え?」 「日向が、来てくれるのか」  その目にはすがるような色があった。こんな木吉を初めて見た。膝の一件のとき、こいつの悲しみの底を見たと思っていたのに、木吉はそれ以上に何かに怯えている。  俺は木吉が嫌いだった。あんな風に人に踏み込んで、けど自分は絶対に踏み込ませないなんてバカにしている。仲間だといって俺の心の内を引きずりだすなら、お前の手の内も見せるべきだろう。常々そう思っていた。  けど、この視線を俺は振り切れない。振り切ってはいけない気がした。 「何も決めてないけど、俺が来たほうがいいなら、それで」  木吉は安心しきれない悲しい顔で、笑った。慣れている、表情の作り方だった。  部のみんなに「俺が一番家が近いから」と言えば異を唱える奴は誰もいなかった。リコのメニューは変わらずハードだったし、俺も頻繁に行ったところで間が持つ自信がなくて病院に行くのは土曜日だけだった。  一度、木吉に自宅への頼まれごとをした。自宅にある日本史のノートをとってきてほしいという。今差し掛かっている分野に関連するから早い方がいい、でもじいちゃんとばあちゃんには心配をかけたくないから---と。そんなこと言われて、俺が断れると思ってんのか。思ってないんだろう。死ね。  夏の盛りの金曜日、学校からほど近い木吉の家を尋ねた。木吉から連絡がいっていたようで茶の間(リビングというより茶の間だった)に通され、すぐ持ってくるねと木吉のじいさんは廊下に消え、ばあさんはどら焼きとお茶を出してくれた。  畳や襖は年季が入っているけど小奇麗に整えられていて、ばあさんが台所にひっこんでいる間は時計の秒針だけが響いていた。俺の家が商売をやっていて騒がしいというのもあるが、ここはとても静かだ。木吉がいつも楽しげで色々なことに無頓着なのは、この静かな空間で生活していなきゃいけないからじゃないか。そうやって、あいつなりに16歳の子どもでいることのバランスをとっているんじゃないか。俺の家にはない太い柱を見上げながら、俺はふとそんなことを思った。  じいさんがノートを二冊よこした。同じコクヨの7mm罫の表紙には“日本史B”。それだけ見て俺はエナメルにノートをしまい、礼を言って木吉の家を辞した。  その夜、寝る前にふと木吉のノートをめくった。二冊あることを今更不思議に思ったのか、成績優秀者のノートが気になったのか、ただ気が向いただけだったのかは記憶にない。一冊目は1/3までが見覚えのある内容で記���されていた。シャーペンと赤ペン、青ペンでシンプルに構成されたノート。特に感想もなく、二冊目をめくる。日本史と表紙に記されたノートは、しかしバスケのメモみたいなもんだった。初めの一ページだけ初回のノートがとってあり、次のページからはフォーメーションや練習メニューの感想なんかが書き留められていた。タイトルを書いたはいいが二回目の授業に忘れて、世界史はそのまま代替のノートを使うことにしたんだろうか。少々下手くそなコートの絵に視線を滑らせていく。俺はすぐにベッドから飛び起きることになった。  “日向はまだバスケ部に入ってくれない。少し強引だったろうか。でも、明日も話しかけてみよう。あいつと、一緒にバスケがしたい”  バスケに関する情報の合間に、途中から日記のようなひと言が表れ始めた。 三ページに一回くらいの割合だ。俺の名前ばかりだった。 “伊月と小金井、水戸部とゲームをする。みんな思った以上に上手い。日向も上手いらしい。楽しみだ” “今日も日向に逃げられる” “マネージャーになってくれそうな女子発見。日向も相田も入れて部活作りたい” “やっぱバスケはいい。ひとりじゃないのが、いい”  木吉の心を盗み読むこと。空虚なのに、どうしてもやめられない。薄墨のようなくすんだ気持ちが胸に広がってゆく。 “日向に怒鳴られた。今日はなかなかガチだった。明日は屋上で決意表明だ” “日向が来てくれた! 成功だ!”  それからも、俺のプレイスタイルや膝の話、初めて連携を決めた日、間隔は空いていったが、俺の名前とともに木吉の日常が流れていった。  リコの名前が記されていたのは二度だけだった。 “相田が告白してくれた。俺を必要としてくれるなんて、嬉しい” “リコにフラれた。たくさんのものを欲しがるのは、よくない”  俺はノートを閉じた。そして机の一番下の引き出しの奥に、その一冊を突っ込み、音をたてて引き出しを閉めた。心臓が早鐘をうっている。  それからほどなくして、木吉が俺にキスをした。木吉があの大きな手で俺の頬に触れて、笑った。強い筆跡がよみがえった。俺は確信した。  木吉は、大人びているんじゃない。寂しくてたまらないのにそう言えない、欲しいものが欲しいと言えない、手の中にあるささやかな幸せだけを抱えるように大事にして、ものわかりのいいふりをして諦めて“これで十分だ”と笑ってるだけの子どもなんだ。  それからも何度かキスをしたが、全て俺からだった。正確にはだいぶ先回りしてあいつが自覚する前にキスをした。日向(俺)がしたいからしている、という暗黙の、空虚な共犯関係が出来上がった。俺は変わらずリコが好きだったがそこに背徳はなかった。だってこれは恋じゃない。
マイナス1年、伊月の冬
「木吉さんとカントクが付き合ってたってほんとだ、ですか?」  火神が突然そんなことを言うもんだから、ポカリを吹いてしまった。ふたりきりの部室。 「また懐かしい話だな…。入学してからのほんの一時な。すぐ別れたっぽいよ」 「先輩たちにもそんなんあったんだなーって思って」  あったも何も、未だって絶賛片思い中のヘタレが部活にいるだろうに。火神がこんなことを言うのも意外だった。そんなゴシップや人の心の機微には無頓着なように見えたから。 「入学してすぐ付き合って、速攻別れるカップルっているだろ。そんなもんだよ」  ハイになるんすかね、と独り言ちて、火神はアンダーを引っ張りながら豪快に脱ぐ。 「主将ってその頃からカントクのこと好きだったんすか」 「さーねえ」  火神が一瞬非難するように俺を見たが、それ以上突っ込まれることはなかった。 「何か、めんどくさいっすね」  お前と氷室だってめんどくささじゃ負けなかったぞと喉まで出かかったがやめた。うちの主将とカントクといい、黒子や火神といい、ドロドロした人間関係のもつれをよくまあそんなに多く持てるもんだと思う。何年かしたら、どうしてこんなことで悩んでたんだって思うんだろう。  親友の沽券のために名言はしなかったが、俺だって木吉とリコが付き合っていた頃は気が気じゃなかった。日向は木吉の存在を鉛のように飲み込んでいたが、何だかんだふたりの間には友情が生まれたようだった。結局木吉が渡米するときに一番深刻な顔をしていたのは日向だ。ついでに言えば、木吉が膝をやったときに一番怒ったのも日向だし、心を痛めたのも多分日向だ。病院に週1でノートや配布物を届けに行ったのも、一番木吉と会話をしたのも日向だろう。リコにとっても日向にとっても、木吉はこれ以上ない、特別の王冠をもらっている。 「主将、いつカントクに言うんすかねえ。カントク、そこそこモテるじゃないすか。知らない奴とどうこうなるより、あのふたりがうまくいったらいいなあ、って思うんすよ」 「そーだな、俺もそう思うよ。まあ、卒業式までには何とかするだろ」  あいつのヘタレ具合を鑑みて、悪くない読みだと我ながら思う。みんな日向の恋を応援してる。ちわーす、とコガが入ってきて、俺たちの会話は立ち消えになった。
ゼロ年、リコの春
 本能的な恐怖にかられて別れてから、少しずつ私は鉄平の抱えているものを知った。  おじいさんとおばあさんのために選んだ高校、”年だから”と一度も観戦に呼ばない家族、優秀な成績、頑健な体。  他の誰よりボロボロになるまで履き込むバッシュに、絶対に申し込まない追加講座。「まだ背が延びるかも知れないから」とあの大きな体より更に大ぶりに作られた制服。鉄平は決して、”欲しい”と言わなかった。モノも、きらめくような才能も。  私にあのとき言いかけたのはその言葉じゃなかったの。私と別れてから鉄平は日向君を手元に置きたがった。あなたのその空虚を、日向君は埋めてくれたの。  あの乾いた地面を打つほどの雨量を、誰が持つというのだろう。  鉄平が渡米した後も、日向君が鉄平に囚われているのはわかっていた。でもふとした瞬間----例えば私の髪に触れるとき----日向君が眉根を寄せて、低温で湿度の高い眼差しを伏せるのを私は見逃さなかった。それだけが、私の武器だと直感したから。  卒業式の前日、日向君が覚悟を決めた顔をした。私はその瞬間勝利を確信した。  私は勝てる。女であるという一片だけで、鉄平が見つけた日向君を、奪うことができる。  早く、早く、私たちが食い尽くされる前にその言葉を口にしてほしい。 「、好きだ、------」
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oharash · 2 years
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7月の欲望
  旭の体は俺と同じく、シンプルな隆起と直線でできている。清水と全然違う。  どこをどんな風に触ればいいか考えるとき、俺は俺の経験を思い出さなければならず、その度に清水の伏せた視線が蘇った。たまらなくなって指と舌を止めて旭を見下ろした。当然だけど清水より全然大きくて、何なら俺より大きい。俺の指と言葉に、震える無数の粒子のかたまり。ひとつの小さな国にまたがっているみたいだ。  手のひらに張り付くような熱くて薄い粘膜に指を進めると、旭は目に見えて動揺した。
「スガ、待って」  全身が緊張でこわばった。俺は男の体のここから先を知らない。清水のなら知っている。この先の構造を、仕組みを、どこを擦れば気持ちいいかを。けどここで失敗するわけにはいかない。口の中が甘かった。異物を無理やり受け入れざるを得なくなった旭の体が、急速に冷えて恐怖に固まり重くなるのを感じる。旭はずっと息を潜めていたけれど、限界を超えると、肩で息をして泣きべそをかいた。 「大丈夫。力抜いて旭」   熱く溶けた肉の感触に、戦慄した。下腹が熱くなる。   自分の体を全部俺に任せて、未知の恐怖に唇を震わせ、けれど従順に刺激に反応して潤んでゆく旭をゼロ距離で感じていると、今まで感じたことのない欲望が生まれた。清水に感じる気持ちと全然違う。蝉の抜け殻を踏み潰したくなるみたいな、千切れかけているささくれを引きちぎりたくなるような、そんな乱暴な気持ちだ。   俺の言葉に返事もできない旭を見てついに我慢できなくなった。清水に教えてもらったように慎重に少しずつ少しずつ、侵した。ギチギチにきつくて千切れそうだったけど、そういう風にできていないものにねじこむのは、信じられないくらい興奮するものだった。  部室に転がっていると、旭が外で電話を受けている声が聞こえた。内容までは聞き取れないが、恐らく家族だろう。  目を閉じる。月曜の3限、清水とここでセックスした。同じ選択授業が自習だったから。野生の猿が森で会って交尾するみたいな、清水との気まぐれなコミュニケーションは随分長く続いている。清水の体は柔らかくて、ともすると形を変えてしまいそうな、白い泥みたいだ。童貞だった俺はあっさりとそれに溺れたが、清水は俺の体の奥の欲望をよくよく見抜いていた。  女を知ったら男を知りたくなる。女を愛せるなら男も愛せるはずだ。清水のレクチャーは役に立った。と思う。  旭は想像の何倍もかわいかった。とても可愛かった。俺にはない腹筋とか髭とか、めちゃめちゃセクシーだし興奮した。 (次は大地としてみたいな)  セックスは好きな相手とするものであるのなら、俺は何にも間違っていない。旭のことも大地のことも、清水のことだって考えると心が温かくなる。いいセットアップが決まり続けたときみたいな、しびれるような感覚に指先まで満たされる。  旭と大地としてみたい。そう言ったら目を伏せて頰を少し染めて、「わかるよ、菅原」清水は珍しく微笑んだ。男の俺には昏すぎて知れない欲望を抱えた彼女は、俺の体で何か満たされたんだろうか。あるいは、俺も清水に愛されたのか。  旭はばつが悪そうな顔をして戻ってきた。外の自販機で買ってきたらしいお茶が彼の優しさをよくよく表していると思う。どうしてお前がそんなに気を使うんだ、普通逆だろ。  旭を手招いて、腕を引いて抱きしめた。俺に覆い被さるかたちになった旭が細かく震えているのが、触れ合っている場所から直に伝わる。俺は彼を逃さない。清水の言葉を思い出す。 (次は、体よりもっと奥を触りたくなる。私はまだ、この気持ちの終わりを知らないな)
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oharash · 2 years
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僕たちの失敗
  微かな音色が聞こえる。シャカシャカした遠い電子音。及川のスクバを持ち上げると、音が一層近くなった。  勝手に手を突っ込んでプレーヤーを止めるか否か。ものすごくどうでもいい。   冷たいロッカー扉に頰を押し当てながら、右手で自分のバッグを探る。部員数の増加にロッカーは追いつかず、俺らの学年はふたりでひとつのロッカーを使っていた。五十音順に割り振られた”俺ら“は、俺と及川だ。 新しいタオルとデオドラントペーパーを引っ張り出す。無理に引っ張ったからカバンの中から何かが溢れた音がする。もう何もかもがわずらわしい。早く帰りたい。早く明日になれ。
「岩ちゃん帰りマック行こうねー」   扉を開けて及川が入ってくる。思ったより早い。瞳孔が開いている。 「行かねっつってんだろ。つかはえーよ」 「だって岩ちゃん、俺が日誌置きに行ってる間に帰るつもりだったでしょ。つか嘘でしょ行くでしょ、行って限定のアレ、アレ」  さっさと帰って飯食うんだよ、と言いつつ財布の中身を数える。  及川はファストフードのジングルを口ずさみつつロッカーからスクバを取り出す。しゃがみこむ幼馴染を見下ろす格好になった。右向きのつむじを眺めていると吐き気がこみ上げた。 「B組にさ、和賀っているだろ」 「ああ、あのメンヘラちゃん。リスカ痕びっしり、マッキーの元カノ」 「まじ」 「一年のときね。速攻浮気されて別れたらしいけど」  誰とでも寝るって噂、嘘じゃないのかもね。  昨日の晩飯の話でもするような軽やかさだ。確かに俺らにとっては、そんなものより今日のスパイクの具合だとかコンビネーションのミスの方がよっぽど重要だ。俺らはその一点において、同じ言語でコミュニケーションができる。 「で、和賀ちゃんがどーしたの」 「なんでもねえ…」  及川が襟首を引っ張るようにしてシャツを脱ぐと骨ばった背中が現れた。室内スポーツだから腕と背の色はそんなに変わらない。しっとりと汗ばんでいる。多分俺の背中も似たようなもんだ。  及川の背中にも両腕にも件の女子みたいな傷痕はない。あった方がまだマシな気がする。誰にでも見える傷があったほうが。  件の女子の問題は知らない。けどあれくらい図々しく、わかりやすく、がなりたててほしかった。  俺を見上げる及川の瞳孔が開いている。体温が上がっているのは部活の後だからじゃない。    眼球を覆う水分量が増えて頰が紅潮している。自分で回転数を落とせなくなっているときのこいつの特徴だ。 「心配してくれてるの? 大丈夫、トビオとはうまくやってるよ、昨日セックスしたよ」  いいよね、天才様だって性欲には勝てないんだよお。  ウエアを畳む指先が凍る。怒りが全身を冷やして行く。何ならここから逃げ出したかった。パンイチだが、及川のリスカ痕をこれ以上見せ続けられるよりずっとずっとマシだ。 「ダメだよ岩ちゃん、ウエアちゃんと畳まないと、どうせ洗うっていったって…」  いつの間にか俺に肩を並べた及川が、がさがさした指を俺のそれに重ねる。 「お前、いい加減に…」  ぐっと体を引き寄せられた。背中を切り開かれて神経をつまみ出されたように心臓が跳ねた。デオドラントシートの匂いが漂う。強すぎるメントールなのにどこか甘い。いきなりキスしないで、懐こい犬のように首筋に頰を擦り付けるように寄せてくる。こういう仕草が似合う奴だ。いきなり首筋を噛まれ、恐ろしさが体中を走る。 「我慢してよ、」  お願いだから、と言われ口をつぐむ。及川の歯がゆっくりと食い込んでいく。  及川が唇を離すと、痺れていた箇所に血が通いだし、じんじんと痺れた。 「トビオなら、これで勃つんだけどなあ」  俺の股間をまさぐる及川を突き飛ばして、右腕に力を込めて、けれど怪我をしないさせない細心の注意を払って、殴った。奴の望み通りに。   及川は電池が切れたみたいに黙り込んだ。部室の電気をつけていなくてよかった。顔が見えない。首筋がどくどくと脈打っている。 「…岩ちゃんは優しいね」   全力を尽くして手に入らないものがあってはいけなかった。白鳥沢に勝つのを、全国に行くのを、誰が信じなくても俺たちだけは信じなくてはいけなかった。全力を尽くして、叶えられないものがあっては、いけない。   俺は愚かな友達を助けてやりたい。もう手遅れかそうじゃないかなんて、どこまでいっていたら諦めたらいいなんてわからなかった。この怒りをどうやって言葉にすればいいかもわからなかった。まだ間に合うことだけ信じて、もう一度及川を殴った。  及川のスクバからプレーヤーの電子音が漏れ出ている。
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oharash · 2 years
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ラッシュガードの夏
「白棺左馬刻じゃん」 「うるせえぶっ殺すぞ」    理鶯が「海でバーベキューなるものをしてみたい」と言い出したとき、俺はあまり気乗りしなかった。日焼けすると痛いし疲れるからだ。けれどそんな理由でこいつが引っ込むはずがない。一応「森でもバーベキューできますけど」とは言ってみた。「夏は海でバーベキューをすると食事が100倍美味くなるんだろう?」と本気で言われて俺は帰りにマツモトキヨシに寄ることに決めた。署のTVで観た、やたら脚の長い女がCMしていた日焼け止めにしよう。「…食材は私が用意しますから」「それは悪い。小官が」「用意しますから」それでも要求を通したという負い目のようなものはあるらしい。理鶯が少し残念そうに目を伏せた。伏せたところで理鶯は俺より背がデカイので半眼で見下ろされるだけだったが、とりあえず俺の口腔と食道と消化器官は守られた。
 誰がリーダーだったかはともかく、左馬刻に拒否権はなかった。すごい嫌がられた。めちゃめちゃ嫌がられた。左馬刻の事務所は空調がゆるくて俺はあまり好きじゃない。申し訳程度に出された烏龍茶のグラスが汗をかいている。ここに来てペットボトルだとか缶コーヒーが出てきたことはない。ガラスコップも紙のように薄いものだったり繊細な細工がなされていたりと主張がある。グラスを傾けると冷気が針金一本の線のように喉へ伸びていった。俺の爽快さと反比例するように左馬刻の目つきと眉間のシワは険しくなっている。「で、湘南だと目立ちすぎるんで適当な場所頼みますよ」「誰が行くっつったよ」「理鶯に言えよ。‘日頃の礼をしたい‘んだとよ」。 「俺行かねえからな‼︎」往生��の悪い声が俺の背中に当たって墜落した。オッサン3人でバーベキューしたところで肉の味がするとも思えないので、帰り際にお姉ちゃんの手配も左馬刻の部下に言っておいた。  理鶯には何だかんだで弱い左馬刻がどうして頑なまでに嫌がるのか。俺が知ったのは当日だった。話は冒頭に戻る。 「失礼しました、白棺左馬刻さんですかサインください」 「ぶっ殺すぞっつってんだろうが」  上下ガッチリ着込んだラッシュガードが不自然と自然体の間をギリギリ攻めている。ラップスタイルじゃあるまいにそこまで攻めなくてもいいだろうというギリギリを。アロハの下は夜にしか見たことがなかったのであまり印象になかったのだ。 「ラッシュガード新品なのがまたダサくっていいですねえ」   左馬刻の部下たちが手際よく組み立ててくれたテーブルセットやコンロは非常にシステマチックな動線になっていた。タープの下では理鶯とお姉ちゃんが噛み合わない会話を上滑りさせている。ちゃんとプロの女を頼んでおくあたり横浜のヤクザも捨てたものではない。左馬刻が口汚く罵ってくるがそれほど腹はたたなかった。久々に海に行くならと実家のガレージからサーフボードを引っ張り出してきたのだ。3時起きの甲斐があり横浜の波は愛すべき具合だった。波乗りして昼まで近場のコテージで寝て、心地よい疲労が俺の体を適度にゆるめていた。俺もまだ若い。  左馬刻の部下から冷えたビールを受け取りプルトップに手をかける。この音を聞くとこのために生きている気がする。そこそこ楽しんでいる自分が意外だったが悪くない。砂浜はゴミひとつ落ちていないのに客は俺たちだけだ。左馬刻が悪態をつきながら俺に習う(こんな言い方をしたらさらにブチ切れられるがまあいいだろう)。腰の高さで缶の縁を当てあった。海の鳴る音で聞こえるはずがないのに、その鈍くも鋭くもない音が耳に心地よかった。     煙草をふかすのは風下にした。左馬刻は所構わず吸っているが俺は紳士なのだ。潮風が紫煙を跡形もなくかき消すのを眺めていると、肩のあたりから引っ張るようにして理鶯がTシャツを脱ぎながら俺のもとにやってきた。バキバキの腹筋が太陽より眩しい。丈の短い海パンにサングラスを引っ掛けている。それだけで絵になるとか一体何なんだ。体のほとんど脚じゃねえか。 「どうですか理鶯、海でのバーベキューは」 「悪くない…が人数が多すぎないか? 小官は貴殿たちだけだと思ったのだが」  理鶯の腕からTシャツを取り上げて代わりに冷えたスミノフを渡してやる。そりゃ不満ってことだろうか。女が嫌いってわけでもないだろうが。 「アーミーは女遊びもクールなものだと思ってましたけど」 「今は任期中だからな」 何の任期なのか、そしてそれがいつまでなのか。そのうち聞いてみたいものだが今日はやめておこうと思った。 「私たちと寝たのはノーカウントなんですか?」 「貴殿らは仲間だからな」 「おめーら楽しそうにやってんじゃねえよ」  俺の背後からラッシュガードの腕が伸び、理鶯の手首の上を掴んだ。そのままスミノフの飲み口を舐める。左馬刻の振る舞いは徹頭徹尾育ちが悪いし本人がそれを意識して振る舞うので時々見るに耐えなかった。気に入らなければ怒鳴り散らすし歩き方は汚いし吸殻はポイ捨てするし食べ方は汚いしハンカチは持たないし教養もマイナスに振り切れている。そしてそれだけしかない人間はたくさんいる。 「左馬刻はどうしてそんなに着込んでいるんだ?」 「うっせえよ」 「理鶯、白棺左馬刻様は玉の肌を守らなければいけないんですよ」 「ぶっ殺すぞうさぎ野郎。つうかテメエも髪おろしてるとガキみてえじゃねえか」  声が大きかったり腕っ節が強いというだけで人から搾取したりぶら下がったり、何ひとつ努力せずあまつさえ得た富で下品な愉しみに興じるような人間が横浜にはたくさんいる。興味を向ける価値もない奴らだし、左馬刻も間違いなくその種類の人間だった。   ふと水平線へ目をやる。群青色の海の彼方が揺らめいていた。気温のせいか、それとも俺が酩酊しているせいか。この得体の知れなさは左馬刻に似ている。日焼けすると真っ赤に腫れて風呂に入るのも痛いのに、理鶯に言われればラッシュガードを着込んででも夏の海にやってくるそのアンバランスさみたいなもんだろうか。今いち腑に落ちない。時間を重ねてもセックスをしても海でバーベキューなんてものをしても未だにわからない。どうしてか俺は左馬刻が好ましい。理鶯と同じくらいに。  それはそうと、あの赤い舌を今日舐めてやろう。肌が赤く火照っているだろうから。
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oharash · 2 years
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難破する方舟
the body.の3年後くらいに、あったかも知れないしなかったかも知れない話です。 
 兄ちゃんが肩のあたりからシャツを引っ張って脱ぐのを見て、ああこの人は他人なんだ、と俺は初めて思った。同時に、だから俺はこんなに苦しいのかとやっと納得できた。  午後の2時にカーテンを締め切って声をひそめる。静かに、兄ちゃんの唇が俺の唇に触れた。ぬるりとした舌が柔らかくて、生々しい感覚に脳が煮えそうだった。全身が強ばって、甘くてどうにかなりそうだ。「じろ、じろ」兄ちゃんが俺の背中をさする。「大丈夫だから、力抜け」耳元でささやかれる声に全身が支配される。  俺の体のどこをどう触ればいいか、兄ちゃんはすでに知っているように指を舌を滑らせた。仕組みを、構造を、どこをどう擦れば気持ちいいかを。二回射精させられて、俺は身も世もなく泣きまくった。兄ちゃんの粘膜に触れようとするとやんわりと手をとられて、歯を舐められた。  やっと兄ちゃんの顔を見れる頃には声も枯れていた。左右色の違う目が、頰からこめかみにかけて緩やかなカーブを描いている。兄ちゃんと三郎はよく似ている。多分ふたりは父か母のどちらかに似ていて、俺はそうじゃない方に似ているのだろう。その凛々しい目元がずっと恋しかった。この目を向けられるのが辛くなった頃から、おぞましい欲望が姿を膨らませていったのを思い出す。「じろ、ゆっくり息吸って吐け。大丈夫だから」兄ちゃんの言葉に従って息を吐いて、甘くておそろしい予感に体をおののかせる。熱く溶けた肉の感触にまた涙がこぼれた。  兄ちゃんは時折俺の太ももをあやすようにさすり、ゆっくりと身を進めた。痛さと苦しさと、ものすごい圧迫感に背筋が冷えていく。ほぼ反射的に目を開くと、兄ちゃんはギュッと眉根を寄せていた。何かそれを見て兄ちゃんがめちゃくちゃ可愛いと思った。  初めはそれでもゆっくりゆっくり突き上げられていたけど、痛くて気持ちよくてもうよくわかんなかった。「家を出ていくから、一回だけ兄ちゃんとセックスしたい」なんていう俺のめちゃめちゃな申し出を三日三晩考えて、兄ちゃんは今俺に勃起してくれている。弟とするなんて嫌だろうに俺の尻をゆっくりほぐしてくれて律儀にゴムを入れてつっこんでくれている。背中をさすってくれて、優しくキスしてくれて、兄ちゃんの息があがっていく。俺は初めてだからこれがどうやった終わるのかわからない。永遠に続いてほしかったし、もうこのまま死にたかった。兄ちゃんに俺で射精してほしいけど、もうずっと、死ぬまでこの背中を抱いていたかった。
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oharash · 2 years
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いつか電子の海で
1.  メトロノームのような正確さで靴音がこだましていた。窓の外では青空に分厚い雲が立ち上っていたけれど、室内は木綿のようにさらりとした気温が保たれている。昨年新調したエアコンはいい仕事をしている。それに引き換え俺の仲間は何も生まない上になぜこうもうるさいのか。 「銃兎うっせえよ」
 俺の対面で革張りのソファに足を組み、スマホを睨みつけていた銃兎が視線を向けてきた。接地している足は相変わらず腹ただしげなリズムを刻んでいる。 「ああ? 誰に向かってモノ言ってやがんだ。お前の部下の失態もみ消してやってる間に無能な上司にクスリの売人逃がされた間抜けな俺にか? 「そりゃタイミングわりーけど俺のせいでもねえだろが。八つ当たりすんなよ」 「俺のヤマだったんだ。それを俺が不在だからって手出しやがって無能のくせに!」  そこまで言って銃兎はようやく靴を鳴らすのをやめた。 ソファにもたれて天井を仰ぎ、中指の関節でメガネのテンプルを押し上げる。大きなため息をつく。  涼しさの上にうっすらと沈黙が降り積もる。気心が知れた奴が俺より不機嫌でいるのは不快だ。不機嫌を撒き散らしていいのは王様である俺だけだと決まっている。けれど銃兎がそのホシを本気で追っていたのを知っているだけに、今日の不快さは居心地の悪さに近かった。 「…ビールでも飲もうぜ。奢ってやっから。俺ビアホール行きてえ」 「このクソ暑いのに外で飲む気になれるかテメエひとりで行け」 「ああめんどくせえなっ。機嫌直せよ仕方ねえだろ」  つうかそこまで嫌なら帰れ、と追い出しにかかろうとしたところで電話が鳴った。珍しい名前が明滅する。通話ボタンをタップすると懐かしい声が流れてきた。眠くなるような低さでゆっくりと喋る。会った時からこの人はこんなんだったが、これは職業上身につけた喋り方なんだろうか。少なくとも俺は35歳になったってこういう風には喋れないんだろう。  久々の人が珍しく持ちかけてきた頼みに俺はふたつ返事で返した。 「おお、今ここにポリ公もいっからよ。どうなっても悪いようにはしねえよ。場所メールくれや、先生」  銃兎を半ば強引に車に乗せて、部下にメール画面を見せる。 「何で俺が」 「組の仕事じゃねえよ、先生の案件だから完全に俺様の仕事だ。どうせその調子じゃ今日何やってもイライラしてんだろ。報酬は出すから手伝え」 「お前から報酬なんてもらえるか。神宮寺寂雷からの依頼ならクリーンだろう、中抜きもできなさそうな仕事はしねえぞ」 「まあ強請りタカリには使えねえだろうが…もしかしたら全く実りのねえ話ってわけでもないかも知れねえぞ」   トンネルを抜けたとたん、まるでフラッシュをたかれたようなまぶしさが降ってきた。しばらく目がくらんで、やがていつもの横浜の街が見えてくる。無数のビルの向こうに海の煙る景色。適当に都会で、適当に田舎で、適当に柄の悪い俺の街。ここにやってきて何年もたっていないのに、その曖昧さは俺のカタチにしっかりと馴染んでいた。どれくらいかって、ここから東京に行くのが億劫になるくらい。  銃兎もいつのまにか大人しくなって窓の外を眺めていた。俺よりいくつか歳を重ねている横顔には、俺と出会う前からこいつの中で進行している疲れや怒りが刻まれていた。それはこいつのパーソナリティーの中で大部分を占めているだろうに、そして俺は奴のその暗さに惹かれたというのに、俺はそれについてつまびらかなことは知らない。  目的地のだいぶ前で停めさせ、下車してビジネス街を歩いて抜けた。昼も夜もビジネス街は嫌いだ。目立って仕方ない。陸橋を渡り裏路地に入る。目的地は飲み屋と雑居ビルが連なる狭い通りにあった。 「お前、本当に神宮寺寂雷の言うことだけは聞くよなあ…。にしてもあっちーな。ここA区だろ。後でPホテルのビアガーデン連れてけ」 「クソポリ公テメエさっき行かねっつったじゃねえか。おら、着いたぞ」  第七三共ビル。何の変哲もない古い雑居ビルだ。エレベーターホールへ入り、206号室のポストからチラシ溢れていることを確認して2階へ向かった。  2階は静かだった。廊下は薄暗くて、白いリノリウムの床に俺たちの足音だけが響く。顎で示すと、銃兎はグローブを白手袋に替えて206号室のノブをひねった。それは存外あっさりと開いた。   夏の真っ白な光の前には何も逃げ隠れできない。   割り箸が突き出している、雑に結ばれたコンビニの袋。その部屋はそんな場所だった。不潔でみすぼらしい。誰にも望まれない、美しさや幸せはひとかけらもない。つまりは俺たちにとって馴染み深いということだ。  その馴染み深い汚さの中に、その冷蔵庫があった。 2.   先生の話はこうだった。先生のとこのリーマンが上司のパワハラで苦しんでいる。リーマンの友人であるところのホストがたまたまその上司を見かけたので声をかけようとしたら、上司がいきなり倒れチンピラ風の男に刺された。ホストは気が動転してチンピラが上司の死体を隠すのを手伝ってしまった。で、普通のサラリーマンがチンピラに刺されるのがまず不審だから、その死体の身元を確かめてほしい。無辜の市民ならばホストを出頭させるし、それなりの人間なら俺に任せる。そもそもにしてその部屋に死体がなかったら? その時は全部夢だと思って寿司でも食べに行こう、と。 「話が結構ガバガバだな、お前の先生も。リーマンの同僚でもないホストがパワハラ上司の顔知っててそれもたまたま街で会うとかどんな確率だよ。本当に信じてるわけでもあるまいに」 「先生結構そういうとこあんだよ。大事の前の小事っつーか。変なとこで手段を選ばないっつーか」 「まあ、気になるっていったら刺される前に倒れたってとこくらいか…」  銃兎が白手袋で冷蔵庫のノブを引く。かくしてそこには中年の男の死体があった。カーテンのないこの部屋では冷蔵庫のオレンジ灯はほとんど見えない。真夏の真っ白な光に蒼白な肌をさらして、醜く崩れた肉体はそこで冷えている。  てきぱきと脈をとったり瞼を開かせたりと、銃兎が仕事をする。死体への慣れ方にかけてはこいつに一日の長がある。俺は生きてる人間を痛めつけることはあるが、こんな萎んだ死体はできたら触りたくもない。それで銃兎を連れてきたというのもあるにはあるが、引っかかることもあった。 「お前もさっき言ってたけど、刺される前に倒れたって何だろうな。デスノートかよ。大方クスリでも盛られたんだろうが、このオッサン何者だ?」  わずかに開いた口をこじあけ、歯を確認していた銃兎の動きが止まった。 「おい」 「左馬刻お前ちょっと黙ってろ」  スマホを取り出し死体の顔を撮影し、どこかに送信する。奴はそのまま電話をかけ始める。 「今メールで送った男の顔、確認してくれ。この間話したヤマと関係ないか?…そう、それだ」  電話の向こうの声は応答し、そのまま沈黙が降りた。  銃兎が目で制するので話しかけるのはやめた。暇なのでタバコに火をつけた。今更だが暑い。壁にかかっているエアコンのリモコンを見ると液晶が点いていた。指紋をつけると怒号が飛んでくるのでアロハの肩口を押し付けてスイッチを入れる。電子音が鳴りゆっくりとエアコンが動き出した。  埃っぽい空気が日差しを微かに濁していく。通話を終えてた銃兎がため息をついた。 「なんかわかったか?」 「そうだな、割とどんな借りもチャラにしてやったよ。…こいつが生きてたらな」  タバコをふかしながら顎をしゃくる。続けろ。 「こいつ、有名な産業スパイだよ。合成ドラッグのレシピに関わってる。Y製薬ってお前でも知ってるだろ」 「大企業じゃねーか。でもリーマンの企業そこじゃねえだろ?」 「お前はバカか。観音坂独歩の会社は医療機器メーカーだ。製薬会社とのコネくらいいくらでも作れるだろ。むしろダイレクトじゃないだけちょうどいい隠れ蓑だ。Y製薬から薬のノウハウ盗んで組織に売ってたはずだ」 「どこにだよ」 「S会の系列」    少し凪いでいた俺の心はタバコの灰が落ちるとともにざわめいた。俺のシマにちょっかいをかけ、ここのところ横浜のガキどもを食いものにしているのがS会だったからだ。質がよくぶっ飛べるクスリを売っているとご大層な評判だ。 「…S会は敵が多いからな。何でこいつがターゲットになったかは知らないが間違いなくクスリ絡みだ。こいつが生きてればな。生産場所から流通ルートまで芋づる式にぶっ潰してやるのに」  今度は銃兎が俺を顎で使う番だった。 「左馬刻、お前が使える闇医者呼んでこいつの内臓調べさせろ。嘘か本当かわかんねえが、こいつが酔っ払ったときに言ってたんだとよ。‘自分は盗んだ情報はPCにも入れないし出力もしない。メモリーに入れて腹の中に隠す’ってな」 「はあ? 今どきそんな話信じるのかよ。普通に暗号化してるデータ持ってただけだろ。こいつ刺したチンピラが荷物ごと持ってったんだろーが」 「もしあったらラッキーくらいの感じだよ。それに体の中に隠すのはクスリを扱う奴らにっては初歩っつうか伝統っつうか馴染み深い話だ。ほら早くしろ」  銃兎がSTOPSTOPSTOPの要領で手のひらを叩く。犬のような扱いでとても不服だが、ここまで来て引き下がるわけにもいかない。部下に電話をして闇医者を捕まえるように指示し折り返しを待った。  その間にこの区に詳しい伝手にも電話をする。物件を調べてもらい、空きだったので抑えるよう頼んだ。A区で積極的に動くのはあまり具合がよくないので、ここは組の力は使わなかった。  部下の折り返しは早かった。闇医者は現在バカンス真っ最中。帰国は3日後の正午。 「どうするよ、冷えてるか���腐りはしねえけどよ」 「神宮寺寂雷に頼めよ」 「お前それもう一回言ったらぶっ殺す」  死体を運ぶのは想像以上に目立つ。動かない人間を不自然でなく動かすのは昼間はほぼ不可能だし、夜もこの立地では目撃される可能性が高い。こんなことで東京の警察と関わるのは面倒だ。どうせゴミのような人間がゴミになっただけの話なのだ。そういう労力を使うのは大切なときだけでいい。 「3日なら待った方がマシだな。空き物件なのに電気が来てるってことは誰かがいじったんだろう。そのチンピラがどこの奴か知らねえが、そいつかそいつ関連の奴が戻ってくる可能性もなくはない。あとガキでも入って死体見つかったら面倒だ。お前のとこの若い奴に見張らせとけ」 「あー…それな、うち明日明後日人余ってねえんだよ。でっけえ仕事あるんだわ。今他当たってるけど微妙。俺も事務所に詰めてなきゃなんねえし。お前人手心当たりねえ?」 「マジかよ、ひとりくらい余らせとけよ。人手かよ…平日だろしかも東京かよクソ」  銃兎がスマホを取り出してスクロールする。もう現場保全の気はなくなったのか素手でエアコンの温度を下げながら眉間に皺をよせる。 「つかお前明後日非番じゃね?  俺知ってんぞ、昼間電話してたろ」 「うるせえお前こそ3日フルでここで缶詰なってろクソボケ、おお明後日非番だからな、寝まくってやろうと思ってたよクソ。もうひとりいたぞ、オイ」  部屋が明るすぎて画面が見えづらい。銃兎がかざしたスマホの角度を変えると、青い鳥のアイコンが「OK」とスタンプを鳴らしていた。 3.  とりあえず一旦部下に見張らせることにした。先生には「ウチに関わりのある人間だったからこのままこっちで処理させてもらう」とメッセージを送った。日が落ちるのを待って、銃兎を連れてビアガーデンに向かった。ビジネス街に近いからか、それとも名のあるホテルだからか。客層はリラックスしてもだらしなくはならない理性のある奴ら。人もホテルも小綺麗で居心地がいい。普段の俺の世界とかけ離れすぎて苛立ちも起きなかった。それでなくても今日は退屈しなかったので少し心が凪いでいる。  銃兎も品良くくだけた雰囲気に乗せられてか、ややだらしない姿勢で腰掛けタバコをくゆらせていた。昼間よりだいぶ機嫌がよくなっている。  死体を見つけたこと、その体の中にデータがあること。何せ最近退屈していたので、このバカバカしさが夏の余興にちょうどよかった。もはやデータはあってもなくてもいい。  オーダーしてすぐ、ひょろ長い影がテーブルにさした。 「んあ? クソ一郎のとこのクソガキじゃねえか」 「おや、未成年じゃないですか」  ホールバイトこと山田二郎が突っ立ったまま給仕をさぼっているので、銃兎が待ちきれないとばかりにジョッキを盆から取り上げた。  かちん、と銃兎とジョッキを合わせて泡を喉に流し込む。あ、生き返る。 「ここ横浜じゃねーだろ、何してんだよ」 ずっと顔を強張らせていた山田二郎が安定しない声を出した。 「横浜じゃねえけどブクロでもねえよ。どこにいようが俺らの勝手だろーが、今日は見逃してやるからさっさと失せろやクソガキ」 「目障りなんだよオッサン」 「おーおーさすがに教育がなってねえなあ」 「あーーーーーーーうめえーーーーーーマジこのために生きてる感じするわ」  ビールを愛するポリ公は俺らの話ガン無視で清々しさを爆発させている。珍しく外面をもう外している。こいつ俺が思ってるより機嫌いいな��   山田二郎の脚のラインが緊張していた。高校生だったか、夏休みなんだろうか。俺は高校には行っていないから学生だったのは遥か昔の話だ。中坊時代だって夏休みかそうでないかの区別がついていたかというと危うい。今とあの頃じゃ世界もすっかり変わってしまったが、俺は変わらず喧嘩ばかりしていた。  ちぎれかけた洋服のタグだとか、抜けかけた歯をひと思いに破ったり抜いてしまいたい気持ち。そのとき俺の腹の奥で芽生えたのはそんなものだったと思う。 「銃兎、ちょうどいいわあの仕事、こいつにやらせろや。時間とかはお前にまかせっから」 銃兎は俺と山田二郎を値踏みするように交互に見つめ、またビールをひと口飲んだ。 雰囲気に飲まれた方が負けだ。銃兎は山田二郎にほぼ口を挟ませず話をまとめてしまった。抗えずにいる姿が少し哀れだった。さっきのジジイもそうだ。老いることも若いことも等しく哀れだ。  先生から礼と、今度飯を食いに行こう、という短いメッセージが入っていた。  銃兎が山田二郎のバイトが終わり次第ビルに連れて行くというので近所の雀荘で適当に時間を潰した。  ビルに戻った頃には日付も変わっていないのに、街は深海に沈んだように静かだった。カーテンもブラインドもないので、明かりをつけるのはやめた。窓から差し込む街の灯り。その中で時折銃兎のスマホが船の灯りのように時折光った。頼りなく水先を照らす。 「高校生かわいいな。死体見て泣きそうな顔してたぜ」 「大人への第一歩だな。童貞にはちょうどいいだろ。つうかちょうどよかったな。もしS会が来ても、うちの会に関係ないあいつがいた方がめんどくさくねえ」 部下に理鶯を迎えに行かせていて、到着までまだ時間がある。入れ替わりに帰るつもりだった。 「理鶯もこの件終わったらビアガーデン連れてってやろうぜ。今日の東北のクラフトビールうまかった」 「ここなら目立たないし、いいかもな」 「いや目立ちはすんだろ…あいつが目立たねえのはどぶ板通りくらいだろ。デカイし」  軍が解体されてからあの辺もすっかり静かになったが。  銃兎は頰に中指をあてて首をかしげた。ぶりっ子すんな。 「かわいいだろ、俺の男」 「…は。お前、理鶯にまで手出したのかよ」 「俺が手出された側かも知れないだろ」 「そんなわけあるかヤリマン。首から下無毛で乳首とチンコにピアスが入ってる素人なんてお前しか知らねえよ」 「そんな顔すんなよ。俺も理鶯もお前のもんだ」   一体俺がどんな顔をしているというのだ。初めてチンコを突っ込んだ男の顔を睨みつける。あの頃ほんの少し残っていた柔らかさはもうあとかたもなくて、頰も目も全てが直線と鋭角で作られていた。女ではないのに雄々しさもく、不安になる優雅さは変わらない。というかあれは突っ込まされたに近い。  銃兎の胸を指先で押す。わかっていたかのように、薄い体が黴くさいソファに沈む。俺がのしかかると、銃兎が笑いながら俺のジッパーに手をかけた。  全て脱がせると銃兎の女みたいな皮膚と悪趣味なピアスが乳白色に溶けてゆく。薄暗い部屋との輪郭が曖昧になる。適当に順番を踏んでそのまま銃兎の体の中へ踏み込んでいく。視界の端に銃兎のカフスが転がっていくのが見えた。俺がいつか買ってやったものだ。後で拾ってやろうと思いながら、すぐ欲に飲まれた。顔すれすれで揺れるネックレスが気になるようで指で絡め取られた。身をよじって逃げようとする。煽られているのがわかっているのに止められない。首を掴んでる逃げようとするのを押さえ込む。窓から入り込むささやかな光が、銃兎の白い頰を照らしていた。  俺たちは体格が近いからか、こいつと抱き合うと自分としているような錯覚を覚える。ナルシストのつもりはないがその倒錯感にとても興奮する。これだけは女とのセックスでは味わえなくてこんな風に欲しくなってしまうことが時折あった。  数分後、奴の体からすっぽりと抜けた欲望に光があたっていた。役目を終えたそれはばかばかしくなるほど滑稽なかたちをしている。銃兎に空いた穴も同じ形をしていて、張り詰めていた心が緩む。何だかこの男が少しいとしくなった。  銃兎の生っ白い胸に中指を当てる。 「なあお前、墨入れろよ」 「バカかお前。警察官がそんなことできるか」 「麒麟とか似合うと思うぜ」 「うるせえ早く着ろ。それとも理鶯と3人でやるか?」 「俺そんなにチンコ好きじゃねえから遠慮しとくわ。つうかこれ、普通に理鶯気付くんじゃねえの…」   俺たちの精液の匂いが部屋に滞留している。タバコに火をつけて銃兎に咥えさせてやった。 「理鶯はそんなことで動じねえよ。相手がお前ならかえって安心するだろ」 「お前のそういうとこほんとキモい。ついてけねえ」   銃兎が優雅な仕草で指を振る。ややあって到着した理鶯と簡単に打ち合わせをして、帰路についた。空までぬるい熱で満たされたような夜だった。 4.  翌日の仕事はデカかったが、ひとまずは俺の顔は必要なかった。とは言えトラブルが起きればすぐさま出て行く必要があるので事務所待機。やることは山ほどあるのだが、心が浮ついて仕方なかったので冷蔵庫の死体のことを調べていた。  産業スパイだということさえわかってしまえば、後は銃兎の言っていたこと以上の目新しい情報は出てこない。S会のクスリに関する動きがどう変わってくるかも1日では掴めない。  烏龍茶を入れたグラスが汗をかいている。冷蔵庫の死体のことを考えた。  42歳、家族構成は妻と子どもふたり。地方の大学を出て上京、製薬会社に新卒で就職して、営業畑から企画開発に。医療機器メーカーに転職したのは終戦前。あの頃は世界が見えない未来を前にちりつくような興奮と諦めに満ちていた。亡命していく奴もたくさんいたな。件の医療機器メーカーは日本の企業だったが、戦後にヨーロッパの企業の子会社になった。会社を変わってから営業一本。タブレットの画面に出てくるスーツの男は頑健なオッサンだ。   プロフィールだけ見れば優秀な人間が堅実に生きてきたように見える。軍需産業に飛びつくこともなく自分のキャリアをコツコツと積んでい���。家族関係も目立った問題は噴出していない。   一方で薬に関する情報をヤクザに売り、原価の安いドラッグの開発に貢献した。その薬は街中のゴミみたいなガキどもの間で流行り俺のシマさえも侵食している。純度が高く、快適にぶっ飛べるお薬。ただし禁断症状はえげつない。価格が安いので続けやすく、流行り廃りの早いドラッグの中じゃロングセラーだ。それも時々改良されるというからコイツはコツコツと新しい情報をヤクザに回しているんだろう。その結果、体から甘い悪臭を欲しながらクスリ買う金欲しさに非合法な職に手を染めるガキどもが街をゾンビみたいにふらついている。   吸収合併で社内も大幅に変わりこいつも動きやすくなったのか。昨年あたりから動きが派手になり、銃兎みたいな奴に目をつけられるようになった。そして多分懇意にしていたヤクザかその敵対勢力に殺された。  そんで誰にも弔われることなく雑居ビルの冷蔵庫に入れられて、明後日には腹を開かれる運命だ。その後は燃やすかコンクリ詰めで、永遠に誰に見つけられることもない。ゴミみたいな人間にはふさわしい最後だ。俺の親父の方がまだマシか。少なくとも役所の人間が荼毘に付してくれたし、どっかの無縁仏に入れてくれたはずだ。とことんクズなのに優しくしてもらえるもんだ。世の中不公平だな。  俺はどうだろう。死んだ後くらい安らかでありたい。そんな気もするし、死んだ後のことなんてどうでもいい気もする。嫌いな奴に殺されるのだけは嫌だけれど。   そういえば昨日死体のある部屋でセックスをした。決して子どもができることのないセックス。徹頭徹尾意味がない行為だ。俺の命にもあのオッサンの命にも、俺と銃兎のセックスにも意味なんてない。  俺が意味のあることに繋がるためには、S会の寝首をかくこと。次のテリトリーバトルに勝つこと。公平でない世界で奪う側に回らなくてはいけない。  部下から電話が鳴った。取引は無事終了したようだ。部屋は心地よく涼しく、いつも俺が抱えている生焼けのような不快さをいくぶん誤魔化した。 5.  異変が起きたのは3日目だった。  事務所のソファに座り、スクエアの写真をスクロールしていく。意味深な廃墟のような景色が流れていく。 「なんだよこれ」 「噂が流れてる。東京のどっかの雑居ビルに死体の入った冷蔵庫がある。SNSでフォロワーの多い奴らがそろって呟いてるのがタチわりい。根も葉もねえのに盛り上がってやがる」  本文はびっしりハッシュタグで埋め尽くされている。♯都市伝説 ♯怪談 ♯夏 。中には行方不明の女子高生の写真を貼り付けて「この子だって話です!」だとか無責任極まりない発信をしているバカもいる。女どもは武器をどうこうする前にスマホを根絶した方がいいんじゃないだろうか。 「お前の見立てはどうなんだよ。やべえの?」 「バカみてえな投稿がほとんどだけど、中には微妙に的をついてるのもあるんだよ。新宿の署でも不法侵入でしょっぴかれたガキどもが昨日今日で10人いたらしい。全員この死体を探してたんだと。バカじゃねえのかな、何仲間意識持ってんだろうな。死体は理鶯と山田二郎に任せときゃ大丈夫だろうけど…って今、見張ってんのお前のとこの若いのか?」 「ああ。理鶯と一郎のとこのガキよりは弱えけど、そこらのガキなら問題ないだろ。Hってお前も会ったことあんだろ、あいつだよ。でもよくわかんねえな。このタイミングでこんなのがバズるって偶然じゃないだろ。誰かがあの死体探してるってことか?」   銃兎の携帯が鳴る。東京の警察にもツテがあんのか。こいつも忙しいな。そういう都市伝説、俺がガキの頃にも流行ったことがあんな。その頃SNSがなくてマジでよかった。集団ヒステリーのようにバカが同じことを騒ぎ立てている様は気分が悪くなる。 「は? いつの話だ? それ。今か? …今朝⁉︎ いや、そっちで適当に処理してくれ。電話感謝する」  銃兎の瞳にみるみるうちに力が込められ、そして緩んだ。電話を切って車のキーと俺の腕を掴んだ。 「Hは昼にA区で暴力沙汰を起こして捕まってる。今あの部屋は無人だ」    運転を銃兎に任せ、理鶯に電話をかける。低い声が応答した。 「りお、お前今朝俺の組の若いのと交代したろ、顔見たか?」 『ああ、時間5分前に来たぞ。何かあったか?』 「そいつ昼にA区で捕まった。腹でも減って外に出たんだろ。お前今どこ?」 「新宿まで出てきてしまった。どれだけ急いでも戻るにはあと一時間はかかるな」   夏休みの気分がすり潰されていく。車の時計を見る。どんなに飛ばしてもそれより少し早いくらいにしか到着できない。山田二郎がやってくる約30分前。行っても行かなくても同じような気もするが、行かないで挙句死体が奪われたりしたら憤死する自信があった。    銃兎が、代われ、とジェスチャーを向ける。スマホを奴の耳に当ててやった。 「理鶯…そうか、じゃあ俺と左馬刻が着く方が少しだけ早いな。こっちは大丈夫だから、当初の予定通り山田二郎と代わる時間に戻ってきてくれればいい。多分杞憂だとは思うんだが、東京のガキどもの間で死体探しが流行ってる。念のため身の周りの警戒だけはしてくれ、ああ、じゃあ後でな」  スマホを手元に戻す。理鶯は律儀に切らずに待っていた。 「心配すんな。お前が絡んでる仕事コケさせたりしねえから。新宿に行ってるなら適当な手土産持って先生のとこに顔出してくんね?忙しくて会えなかったら受付に置いてくるだけでいい。あっ今から作ろうとか考えんなよ。既成の焼き菓子でも買ってけ。いいか、既成のな。んじゃ後で、ビール飲もうぜ」  電話を切り、SNSのアプリを立ち上げる。適当な語句を入れて検索をかけると、先程銃兎の携帯で見たものと同じような写真がぽんぽんと浮かび上がった。オッサンの意味のない死体はその実体すら必要とされず、ネットを介して何かに変化してゆく。     車をクソ高いパーキングに入れ、足早にビルへ向かう。雨足は強くなり、アスファルトにどんよりとした王冠をいくつも作っていた。   取り越し苦労だったのだ、たぶん。そもそも街中に冷蔵庫のある空き部屋がいくつあるというのか。206号室は相変わらずの無様さをたたえて、雨音を響かせていた。窓が開いている。   冷蔵庫の中にも同じく無様に崩れた死体がそのままあって、それは前見たときより価値のないものに見えた。 「クソ、急いで損した。何なんだよ、何で冷蔵庫入りの死体とかバズってんだよクソが!」  ゴミ箱がわりにしているダンボールを蹴飛ばす。口を閉じたビニール袋の塊が転がり落ちた。 「何なんだろうな。お前の先生は俺らに何をしろっていうんだ?」 「…何だって?」 「お前だって気づいてんだろ。この噂の出所は新宿だろ。ガキどもの噂の出所は新宿のインフルエンサーだ。麻天楼のホストが絡んでる、薬に関係のある産業スパイの死体。その調査をお前に頼んだ神宮寺寂雷。こりゃ何だ?」  銃兎は落ち着かない様子でタバコに火をつける。空気が湿気っていて具合が悪い。 「…先生が何考えてるかなんて俺は知らねえよ。でもこうなった以上、こいつの腹が空っぽだったらスッキリしねえな。…S会でも何でも来りゃいいんだ、ぶん殴って暴れてやる」  銃兎が深く紫煙を吐き出す。��め息ともつかないその吐息には諦めがまじっている。 「…本当にお前は、駆け引きには使えねえなあ。いい、データがなかったら俺が何が何でも神宮寺寂雷の口を割らせてやる」 「お前が先生に叶うわけねえだろ」 「それでも、だよ。やっと薬の尻尾が掴めそうなんだ。どんな手を使ってでもやってやる」 「わあったよ、でもその時は先に俺に話をさせろ。あの人、ただ面白がってるだけって可能性もあるから」  ふいに銃兎の口元がゆるんだ。脱力、といった風に。バカにされている気がして気分が悪かった。 「かわいいよなあお前。懐いたらとことんだもんな。神宮寺寂雷がお前にこの死体を頼んだ理由もわかる気がする」 「バカにしてんのかテメエ」 「いいところでも悪いところでもある、って言ってるんだよ」   アロハの胸ぐらを掴まれてあやすように口付けられた。初めはついばむように、徐々に角度を深く。こいつの舌はキスのときもフェラのときも別の生き物のように動く。頭の芯が甘く痺れたが、それより怒りが優ったので舌を軽く噛んでやった。 「…いってェ」 「ふざけたことしてんな。ブクロのガキが来る予定だ、帰るぞ」 ⒍  空の色が淡くなって、雲が細切れに流れていく。今日は昨日より暑くなかった。多分明日は今日より涼しい。俺の影が薄くなってゆく。夏の終わりはいつも葬式みたいな気分になる。  ひと気のない埠頭に腰掛けてタバコを吸っていると、視界の隅に黒のレンジローバーが見えた。  先生は人より長いコンパスで歩いてきて、俺の横に腰を下ろした。 「手間をかけさせてしまったね」 「大したことじゃねえよ」  闇医者に男の腹を開けさせたら銃兎の予想と望み通りコーティングされたメモリが見つかった。その時点でだいぶ関心をなくしていた俺がやったのは「使える情報あったら教えろ」というあいつへの丸投げ。ともあれ仕事はしなくてはいけないので、メモリの中に新しいレシピの情報が含まれていたらまた忙しい日々になる。 「…っつー感じ。刺された時点で致命傷だったから、ホストが救急車呼んでたところで助からなかったろって医者が言ってたぜ」 「そうか。一二三くんに伝えておくよ」 「リーマンは知らねえのこのこと?」 「一二三くんを出頭させるようなら言おうと思ってたけどね。あとは一二三くんに任せるよ」  タバコの煙が横に流れないように右手を高く掲げた。先生の髪はくくっていても長い。風が吹くとシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。オッサンのくせに。 「なあ先生、何で雑居ビルに死体があるなんて噂流したんだ?」  先生はしばらく俺の顔を見ていた。たぶん驚きでも喜びでも怒りでもない表情で。こめかみに向かって目尻がゆるやかなカーブを描き、その肌はツヤがあって生命力みたいなものを感じた。 「気づいていたのかい」 「何となくだけどな」 「…私が10代の頃にあったんだよ。新宿の独居ビルにアメリカのスパイの死体があって、その中に政府を転覆できる機密情報が眠ってる。バカみたいだろ?  若かったのでね、友人と肝試しのような感覚で探しに行ったんだよ。そうしたらスパイではなかったけど、見つけてしまってね」  先生が俺の尻ポケットからタバコを抜き取り、優雅な動作で火を点けた。 「遺体は少年、犯人は少年。今でいう半グレというのかな。とにかく仲間を殺してしまったのでとりあえず冷蔵庫に入れた、ということだった。そうしたら、結局他にも何体か遺体が見つかったんだよ。全てが冷蔵庫に入っていたわけではないと思うけど…遺体の身元もそれぞれ、死因もそれぞれ。まだ戦争が始まる前だったけど、私も子どもだったから色々思うことがあってね」  先生の思考というか、話の行方がまったくわからない。俺が知っているのはこの横浜の海に昨日、かつての産業スパイだったものがコンクリに包まれて捨てられたということだけだ。 「私が平和だと思っていた世界は、ひとつ境界線を越えれば冷蔵庫に死体が詰まっている世界だった。もともとあったのか、噂を受けた愉快犯が死体を増やしたのかはわからないけれど。戦争があってH歴になって、世界は全く変わってしまっただろう。今、同じ噂が流れたら死体は見つかるんだろうか? と思ってね。そんな下らない理由だよ。混乱させて悪かったね」  先生はタバコを持っていないほうの手で、風に流れるサイドの髪を抑えた。この人の仕草はいつも優雅だ。その手で人を助けて人を殺してきたのか。 「…くだんね」  先生は嬉しそうに頰をあげた。 「お礼をするよ。ビールでも飲みにいくかい?」 「いんや酒はいいわ。寿司食いに行こうぜ。働いた分食わしてくれや」  べたべたとした潮風が頰を撫でる。海は凪で静かだった。水平線にタンカーが煌めいている。下らない夏の名残が耳に響いた。
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oharash · 2 years
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夜光虫の街
1.  あの日、あの現場に立ち会ってしまったのは本当に偶然だった。Fーーー独歩の‘鬼部長’ーーーを尾行し始めて5回目か6回目だった。  Fは新年度の異動で独歩の部署にやってきた。「鬼みたいな部長が来た」というひと言が、独歩の口からその名前を聞いた最初だったと思う。やがてFを恐れる言葉が多くなった。それから起床時間が遅くなり、夏が深まる頃にはFの名前を口にする回数は減り、その代わり何をするでもなく壁を眺めていたり帰ってくるなりハイテンションでまくしたてたりと、Fの存在が独歩を侵食しはじめた。
  俺にできるのは住まいを清潔にしておいたり朝飯に気を使ってみたりすることくらい。親友のいつ終わるとも知れない日々の中じゃそれは半歩先のゴミを拾ってやるくらいの無力さで、この先どうなるにしても、一度その原因たる人物の顔を見ておこうと思ったのだ。それが2度になり三度になっただけだ。確かに弱みのひとつでも握れれば…と頭をかすめなかったわけじゃないが、俺の気の抜けたストーキングがそんな功を奏す確率は、明日先生がセーラー服を着て診察を始めるくらいありえないことも知っていた。  辞職するか異動させてもらうか休職した方がいいのでは、と本気で思うけれど、家族でもない俺が無理矢理辞めさせていいのか迷いがあった。俺がまともに会社勤めをしたことがないという引け目もあった。様子見、という1日を積み重ねていた。  だから、本当に何をする気もなかったのだ。 Fは場末の居酒屋で一杯ひっかけていくのが日課のようで、その日も社屋を出てメインストリートを経て路地へ歩き出した。少し距離をとって素知らぬふりをして歩く。 このオッサンは定時退社なるものが出来る人種であるらしく、時間はちょうど薄暮の頃だった。 滞りを感じる空気はどこかゴミの臭いが混じっている。ネオン街には程遠く、提灯の灯りがぽつりぽつりと灯る。けれど街灯とC線の音がこだまし、決して静かでも穏やかでもない。オッサンが居酒屋に入ったので時計を見る。だいたい一軒目は30分くらいで出てくる。そこから二軒目に行くか、快速に乗って帰宅するか二択だった。40分待って出てこなかったら帰ろう、と思い俺は雑居ビルの非常階段に腰掛ける。2階の窓に貼られた「テナント募集」の文字も見慣れた。  格好は‘目立ちすぎない’だけを満たせばいつも適当だった。スポーツブランドのTシャツにパーカー、ランニングパンツにランニングシューズ。コンセプトは‘その辺をゆるく流してるランナー’だ。これが尾行に正解なのか不正解なのかは知らないが、とりあえず俺にとって快適ではある。独歩が「とりあえずエントリーモデルからにしろ」とアドバイスしてくれたランシューは底が分厚いのがダサく見えたけど、履いてみるとめちゃめちゃ楽だった。アプリを開いて��ームにログインしてボーナスをもらい、SNSで今日の1部営業の様子を流し見る。週の真ん中にしてはそこそこ客が入ってるようだ。この調子だと俺が行く2部も少し忙しいかもしれない。独歩の見送りができないので2部出勤はあまり好きではないけれど、ストーカーの日は仕方ない。  Fが入った赤提灯の店から時々笑い声が漏れてくる。行きつけの店で常連と話したり店員と話したりって経験が俺にはない。女子禁制の店はそうそう多くないということを知った頃の俺に独歩が「…ウチで飲めばいいだろ」と言ってくれてから、仕事以外で外で飲むことはほとんどなかった。建てつけの悪そうな引き戸が開いてFが出てくる。独歩に用というほどでもないメッセージを送り、俺も立ち上がった。Fと距離をとって歩きながら思う。営業職この道30年って感じの頑健な体だ。この人も若い頃は金曜の夕方にアポとって月曜朝イチから出る夜討ち朝駆けセールスをしたり、パラシュート営業をしたりしたんだろうか。それを続けて管理職になったんと思うと、その足が幹に見えてきた。尊敬の念を覚えないわけじゃないが、独歩にパワハラしていいかどうかはまた別である。でも、別だったところで俺は何がしたいんだろう。ーーーーと、スーツの背中が傾いだ。 「は? ちょっ、ええっ?」  メトロノームがゆっくり狂っていくようだった。 関節がないみたいにぐんにゃりとFの足がもつれて、右、左。やがてFはコンクリに倒れ込んだ。水気の多いフルーツを高いところから落としたみたいな音がした。 そこに男が真横から突進してきて、何かを振り下ろした。男は勢い余ってそのままもつれて倒れこむ。高速道路でトラックの屋根に激突して、回転しながら落下していく鳥。昔、独歩とレンタカーを借りて温泉にでかけた日に見たその姿によく似ていた。  男はすぐに身を起こしたものの何もせずに口をわななかせている。手の中に頼りないものを閃かせながら。俺のことはどうでもいいのか眼中に入ってないのかわからない。Fはなんか痙攣していた。  「まじ? きみこのオッサン刺したの?」    彼はFから目を離さず、蒼白な顔で何度も頷く。いやおかしいだろ。狙って刺したんだろ。刺したくて刺したんだろ。じゃあこの後のことも考えておけよ。  Fの足が地を蹴るように滑稽に動く。立ち上がらなきゃその動きは意味がない。 「救急車呼ぶ?」  男は頷かない。首も降らない。黒いパーカを着てフードをかぶっている。通り魔としてはクラシックな感じで、顔も立ち姿も子どもみたいだった。20歳になったくらいか、もしかしたら10代かも知れない。フードからのぞく荒れた肌と痛んだ髪に、彼の荒んだ生活を垣間見た気がした。こいつは何なんだろう。息子にしては雰囲気が違いすぎる。かといって恨みを持つほどFに関わるような職業に就いているとも思えない。というかサラリーマンには見えない。ヤンキーからヤカラに足突っ込んでるみたいな、刺々しい雰囲気。今は物言わぬ子どもだけど。 「やなの? じゃあ警察は?」  俺の言葉は彼に届く前に墜落したみたいだった。それくらい世界は何も変わらず、ただFの微かな唸りみたいな声だけが空気を揺らしていた。 「じゃあさあー…どうしたらわかんないときは、ちょっと落ち着いて考えるといいと思うんだよねえ」  先生の受け売りだ。というか俺は何をしているんだろう。警察も救急車も呼ばないで何をしているんだろう���先生なら真っ先に救急車を呼んで応急処置をしているだろう。多分独歩だって似たようなことをあいつなりにやるだろう。 「ほら、あの部屋とか。とりあえず空き部屋に隠すとかどうよ? 俺っちあったまいい。今やるなら手伝ってあげるじぇ」  いつの夜からかスーツを着たら、女の子が怖くなくなった。それまで俺の世界で1番怖いものは女の子だった。もしスーツを脱いでも女の子が平気に感じる日がきたら、俺は次は何を恐れるんだろう。  そのときようやく彼と視線が合った。歌舞伎町でよく見る、怯えの中に微妙な媚びを含んだ視線。「こいつ何言ってんだ? そんな甘い話にのっちゃいけない、でも本当に、奇跡みたいな確率でこいつが善人だったら…?」 俺は勝手にアテレコする。別に特別なことじゃない。大して親しくもない人間に言われる、金がない日の「ここ出してあげるよ」や欲しいけれど手が届かないものがあるときの「これ買ってあげるよ」。その時にまともな人間なら感じるであろうあの後ろめたいとまどい。だいたいダメな男もしくは女はそうやってダメな世界に男もしくは女を引っ張り込む。じゃあ俺はこの男と鬼部長を何に引っ張り込もうとしているんだろう。 「テナント募集」の部屋を指差した。薄いブルーだった空が群青に変わりつつあった。もう文字は読めない暗さだったが、街灯が差し込み、空き部屋がぽっかり浮かんでいた。あつらえたかのように。 ドラマみたいに血だまりができたりしないんだな。Fの脇腹には作り物みたいにナイフがぶっ刺さっている。これ抜いたら血が溢れ出したりするんだろうか。そう思うとナイフから目が離せなくて、微かに興奮を覚えながら痙攣するFをふたりがかりで運んだ。206号室の扉は押しても引いても開かなかった。だよねえ普通鍵かかってるよねえやめよっかあ。後から思えば、俺が引き返せた最後のチャンスはこのときだったのかも知れない。けれど俺が日和る間もなく男はポケットから細いドライバーと針金みたいなものを取り出して、それを鍵穴に突っ込むなりドアに耳を当てた。他の部屋は空き物件ではないはずなのにどこも静かだった。活動時間の違う人間が借りているのか、それとも息を潜めているのか。そういえばこの辺は非合法デリヘルの住所を置くためのダミー部屋が多いと聞いたことがある。俺は都合のいいように解釈して男を待った。今この現場を一般市民に見られたらどうしようか。その時俺はまだ、この男に脅されたんですという言い訳を頭の隅に置いていた。そしてそれが通用すると甘いことを考えていた。  がちゃりと大仰な音がして、鍵が開いたようだった。男が目配せをしたのでFの足を抱え直す。  部屋の中は夜逃げしたみたいに空っぽで、少し乱雑だった。古いソファとゴミ袋、潰されたダンボール、冷蔵庫。薄暗い部屋にふさわしい無価値な雰囲気。  それから男は別人のように機敏に動いた。冷蔵庫のコードをコンセントにつないで扉を開ける。当然のように冷蔵庫は暗い口をぽっかりと開けるだけだ。次は入り口上のブレーカーをスマホのライトで照らして何やらいじくった後、再び冷蔵庫を開ける。今度はオレンジ色の灯りが冗談のように暖かく、とっぷりと暮れた部屋に浮かび上がった。 「あんた、帰れよ」  手持ち無沙汰に突っ立っている俺に、男が初めて口を開いた。ラ行が巻き舌気味なのを聞いてなんか安心した。 「誰にも見つかんないように帰れ」 「うん帰るけどさ、その人どーすんの、その冷蔵庫入れちゃうの?」 「あんたP…の伊弉冊一二三だろ。黙っててやるから。わかんだろ、俺カタギじゃないんだよ。関わらないほうがいい話なんだよ」  男は俺の所属する店の名前を口にした。その引きつった顔の口端から目元へのカーブは、歌舞伎町で毎日見るチンピラたちと同じ角度だった。 「どっちかってえと麻天狼のひふみんって言ってほしいわぁ。わかったけど、一個教えてよ。きみ、これからそいつどうすんの?」 「もう行け。部屋の中のモノは触んな」 彼の背後のFに目をやった。冷蔵庫の灯りに照らされた顔は紙のように白い。人はそう簡単に死なないから、まだ生きてるだろう。でも刺される前にコケたのは何だったんだろう。まさかこのタイミングで脳梗塞でもあるまいし、薬でも盛られていたんだろうか。このオニーチャンは明らかにカタギじゃないし、でも明らかにFを狙ってたし、F一体あんた何したの。 最悪を通り越してちょっと躁状態になっていた最近の独歩を改めて思い出す。誰の目にも会社がストレス源なのは明らかで、その中心にいるのがこのオッサンだということはさらに火を見るより明らかだった。これがあと一週間続いてたら独歩は死んでたかも知れない。今日までの独歩の苦しみと、今このオッサンの苦しみはどっちが深いだろう。もしオッサンがこのチンピラに刺されなかったら明日独歩が死んでたかも知れない。そうしたら、恐らくこのまま死ぬであろうオッサンと電車に飛び込むであろう独歩、ふたりの痛みはどちらが大きいんだろう。  腰に巻いていたパーカーの裾越しにドアノブを握った。俺は頭が悪いのでそれ以上のことは何も考えられなかった。決められたのはただ、明日の朝は鯖の南蛮漬けにしようということだけだった。  ランシューが軽くしてくれる足取りを持て余しながら、夜を歩く。路地を伝うように歩くと、寂しさがついてくるような心地だった。実際についてきたのはおぼろげな月だけだったけども。  俺は‘女の子’というやたら数の多いものを恐れているからか、それ以下のいろいろな感情をさらりと流すことに長けている。気持ちの辛さから逃げるのが上手いというか。まあ少なくとも独歩よりは。殺人現場を生まれて初めて見たことからも、死にそうな人を助けなかったことからも、そこそこ早く逃げられる予感がしていた。ぽつりぽつりと人とすれ違い始めるとそうやって失ってきたものを少し惜しく感じる。そうして、そういう寂しさを大切にしている人の横顔をひとつ、思い出すのだ。 2. 「傘、折りたたみでいいから持ってけよ。行ってらっしゃーい」 「どうせ今日も怒られるんだ…」  後ろ向きなことを言っているが、それでもここ数日は革靴の紐を結ぶと少しは背筋が伸びるみたいだった。背を叩いて送り出してやる。俺の毎朝の日課だ。  食器を洗って洗濯機のタイマーをセットして、小一時間半身浴をする。パックとリンパマッサージをして、風呂上がりはパンイチのままブースター、化粧水、美容液、クリームを顔に重ねて、虫刺され跡が気になる手足にオイルを塗り込んだ。ラグの上でストレッチをしていると毛先の痛みが気になったので、LINEで美容師に今日のセットにトリートメントを追加で頼んでおく。洗濯物を浴室に干して歯を磨いて自室に戻る。こうしてつるりとした自分になって眠りにつくまでが俺のルーティンワークだった。  ベッドに入ってスマホのタイマーをセットして、今朝の食卓を思い出す。独歩は今日はそこそこ食べた。明日の朝は何を作ろう。俺たちは基本的にすれ違いの生活をしているので、休日以外で顔を合わせるのは朝飯の時間だけだ。冷蔵庫の中身を思い出す。明日の朝は鰹の切り身があるので甘煮にして、付け合わせに芋の煮っころがしくらいがいいだろうか。いつもならこれくらいで思考がとろりとろりと溶けていく。けれどあれから数日、このルーティンは通用しなかった。ベッドから落ちるように出て、デニムに脚を突っ込み、スマホでメッセージを送りながら足早に家を出た。 言っても、言わなくてもいいと思っていた。それくらい投げやりな気持ちだった。何に投げやりかって、自分に。でも秘密を共有する、のではなくて打ち明けるのならこの人しかいなかった。たぶんあの夜からずっと。 「お待たせ」。 午前の診療が終わると、先生は返信をくれた。  診察室の丸椅子は背もたれもなくて座面が狭くて座りづらい。長時間座ることを想定していないのか、座られたら困るからなのかわからないがひどく窮屈だ。  一二三くん、今日はどうしたの。先生の第一声はいつもそれだ。俺が怪我でも病気でもないことを知っていてそう聞いてくる。でも何か、今日はそれがありがたかった。 「あのね先生」 「うん」 「大事な話」 「うん」 「ナイフが脇腹あたりに刺さったら血、どばーって出る?」 「刺さる部位によるね。いわゆる血だまりができるくらい出血することもあるし、刃物が血管を塞いで蓋のようになることもあるよ」  先生は机上の書類を片付けながら、それでも決しておざなりでない声色で返してくれる。この人はマルチタスクができる人だ。完全なシングルタスクの俺と何が違うんだろう。同じ人間なのに。 (いやあ)  人間なのに、じゃないな。人間だから、違う。  昔から自分が人と同じと思えたことがなかった。「外から帰ったら手を洗いましょう」だとか「朝は元気にあいさつしましょう」とかは俺にも理解できた。けど「そろそろ時間だね」が「早く帰れよ」という意味なこととか、「大丈夫だよ」が時によって肯定にも否定にもなることなんかは全くわからなかった。今だって完全に理解できてるわけじゃない。経験から推測したり完全に俺のペースで話してあらかじめ気を使わないとか、そうやってやり過ごしてる感じだ。  けれど全然わかんなかったから独歩と友達になれた。「お前観音坂と仲良いよな」の意味も子どもの頃はわからなかった。大人になった今は別の意味でわからなかったりするのだが。独歩はいいやつだ。こんな俺と友達でいてくれるのだから。 「どうかしたのかい。何か辛いことに巻き込まれている?」  先生はかっこよくて頭がよくて人の心身を救えるスゲー人だと思う。俺のお客さん が心を病んだときも救ってくれた。あれができるのは世界中どこを探したって先生以外にいなかっただろう。 「独歩がここのとこ、上司との関係で悩んでたじゃないっすか。春の人事異動で‘ハゲ課長’の上に’鬼部長’が配属になって。食べる量はどんどん減るけど口数は増えるし、何かじわじわ変になってくっていうか…。で、別に何がしたかったってわけじゃないんですけど、部長…Fっていうんですけど、そいつのこと調べて尾行してたんです。そしたら何回目かで、F、薬盛られたのかわかんないけど路地で倒れたんすよ。そしたらチンピラが来てFを刺してさ。でも血とか全然出なくて。でーーーー」  でも神様みたいな先生だって、死んでしまったオッサンのことはどうにもできないんだな。人間だから。そして無数に襲いかかってくる辛さを大切に守り育てている。今の俺みたいな他人の苦しみを人より多く心に滲ませてしまう。きっと、誰にも言わないで。 「チンピラが何もしないから、雑居ビルの空き部屋に入れよって俺が言ったの。んで本当に入れてきたてって言ったら、先生信じる?」 「君が言うなら信じるよ」   先生の背後ではるかに流れる灰色の分厚い雲の隙間。そこから日中の光が暴力的に差し込んでいた。 「それで一二三くん、君は私にどうしてほしい? 責めてるとか怒っているわけではないよ。話を聞いて欲しかっただけだというなら、それでもいい」  蝉の抜け殻を拾い上げるような優しい声音だ。 「…怒られるか、軽蔑されるか、警察に通報されるかと思ってました」 「通報というか、君を出頭させることは考えているよ。最悪でも執行猶予だろうしね」    先生は本当に助けてくれるんだろうか。この問いには今、このとき真剣に考えなくてはいけない。助けてもらえる?  いや助けてもらっていいんだろうか。自分でやったことには自分で責任をとるべきじゃないのか。ここで間違えたら、俺の独歩への気持ちが濁るような気がした。そもそも俺は何でFを隠そうなんて言い出したんだろう。自分でわからないなんて、大した理由がないかその場の気分に流されたかどっちかだ。  瞬きの間に部屋が翳って、明暗差で一瞬先生の顔が見えなくなった。それでも先生は力なく微笑んでいるのだろうと信じた。信じるということはほとんど真実だ。 「死体はその部屋の、多分冷蔵庫に入ってる。そのうち見つかるだろうから…」  言葉を選んだって俺の語彙だとか思索なんてたかが知れている。なにせ独歩ひとりもかっこよく守れないのだ。出頭するのは怖くなかった。怖くなかったというか、その先が想像できない。道がぷっつりと途切れていた。独歩は想像できないことは怖いと言うが、俺はそうは思わない。わからないことは怖くも甘くもない。だから出頭するのは怖くないけれど、独歩が俺をどんな目で見るかが怖かった。 「その時に独歩に疑いがいかないように、して、ほしいんです」  したい、としてほしい、は雲と泥ほど違う。先生の問いに正確に応えるという点では、俺の言葉は合っていた。けれど何かとは決定的に違っていた。  先生は俺にビルの正確な場所を尋ね、その場で電話をかけた。  その声を遠く聞いていた。 3.  夜の新宿は嵐みたいだな、と思う。たくさんの人がそれぞれの方向に欲を持って動き回り、それが大質量になって渦巻いている。僕は夜光虫がが宙を舞っているように見えるが、独歩くんには羽虫の大群にしか見えないという。「そもそもお前夜光虫見たことないだろ」と言われたが心外だ。NHKのドキュメンタリーで夜光虫が海をきらめかせる姿を見て、小学生の僕はそれなりに感動したのだ。  装っている女子は年齢も何も関係なくみんな可愛いと思う。つくりの美醜に関わらず、粧しこもうとするその心がもう可愛い。粧し込んでいればいるほど可愛い。特にホストクラブに来るような女子は媚を得ることなく‘美しい’自分に惹かれて欲しいという気持ちと、ホストに気に入られたいという矛盾した欲望を持ってくる。その迷いみたいなものもスーツを着た僕にとっては等しく愛しいのだ。 「シャンパン頂きましたーーーーーー」  臍の下あたりに力を入れて、場内に響くよう声を張り上げる。こだまのようにシャンパンコールが返ってきて、キャストが手拍子をしながら集まってくる。照明が落ちてミラーボールが回転を始め、音楽がコール用のBGMに切り替わる。およそ僕の想像がつく範囲の全てのきらめきがここにはあって、このスーツを着てよかったなと思う。 「一二三、次は同伴しようねえ」  シャンパンを入れてくれた女の子が甘えた声を出した。最近キャバクラからデリヘルに職場を移したらしい彼女は羽振りがよくなったようで以前はしなかった延長もかけるようになった。この店では珍しい水商売の客で、初めは友人とやってきた彼女がひとりで来るようになってからそこそこ長い付き合いになる。 「君が望むならいつでも、仔猫ちゃん。でも無理しちゃダメだよ。ちょっと疲れてるみたいだから…」 「隈ヤバイよね、メイク濃くしてきたのにバレちゃった。昨日徹麻しちゃったんだよ。最近面白い子がいてね、本当に家も服もなくなるまで麻雀するんだよ」 「その子は男の子だよね? 仔猫ちゃんはそんなことしちゃいけないよ」 「そうそう。本当に面白くて変��さ、死体のある部屋を探してる��ていうんだよ」 「死体?」 「何日か前に、雀荘で死体のある部屋の鍵を賭けた奴がいたんだって。その子は結局負けたらしいんだけどさ。それで気になったのかわからないけど死体のある部屋探してるみたいでさ。私が知ってる池袋の何でも屋さん紹介したんだけど、噂レベルだから受けてくれなかった。ちょっと前からあるんだけどね、M区のどこかの空きビルに冷蔵庫に入った死体があるって話。よくある都市伝説でしょ。ていうか一二三やさしーねーっ。毎日会いたいから渋谷から引っ越して来ようかな」  シャンパングラスを傾けながら彼女が頬を火照らせて指を絡めてくる。その熱がぬるく、生々しく、俺の体温と混ざり合う。
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