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#カメラの性能とはいえ買い替えるなら名古屋へ行く
sayasaan · 1 year
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♡ ⁡ ⁡ #今度はネットではなく人にピントが合うも推しはピンボケ ⁡ ⁡ たっっっくさんのピンボケ写真の中から 奇跡的にピントが合っている写真もあるので 見てみると……… ⁡ #田島選手 にピントが合い 推しコーチは安定のピンボケ。 ⁡ ⁡ #どうしたらインスタなどに上がってる素敵な写真が撮れますか? #カメラの性能とはいえ買い替えるなら名古屋へ行く ⁡ ⁡ ⁡ ✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧ ⁡ #田島選手は何も悪くない #どなたか私に荒木コーチの写真を送ってください #ドラゴンズ #ドラゴンズファン #ドラゴンズファンと繋がりたい #ドラゴンズ愛 #中日ドラゴンズ #ドラゴンズ好き #ドラゴンズ大好き #ドラゴンズ頑張れ #荒木コーチ #荒木雅博 #アライバのアラ #荒木コーチ推し #荒木雅博71 #ドラゴンズコーチ #推し活 #推しの写真は癒し #推しはどんな状況でも最高 #田島選手と荒木コーチ遠くにたぶん本田選手 #得意のピンボケ写真 #ピンボケ #ベルーナドーム #オープン戦 #西武ライオンズ #ドラゴンズvsライオンズ (ベルーナドーム) https://www.instagram.com/p/CpmRSw_PlZg/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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565062604540 · 2 years
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 俺がタイムスリップしてから1週間が経過した。  一節には、時間の主観的長さは『1/年齢』なんて法則があるらしいが、あれはどうやらガセだ。実際に13歳になってみてわかった。時間はふつうに過ぎていく。俺の精神が52歳のままだということもあるかもしれないが、それ以上に、あの現象は、余暇の長さと、なにより記憶の錯誤じゃないかと思う。  この一週間のあいだに始めたことはいくつかある。  まず、詳細な日記を書いてみることにした。  前世の俺は、読むことは大好きだったが、書くことはあまりしていなかった。中途半端に開設したブログと、某短文SNSでなにやらつぶやくくらいが関の山だった。  しかしいま、俺はいま、歴史といっていいくらいの過去にいる。これを見逃す手はない。本当はカメラが望ましいのだが、うちのつましい家計では、当時『バカチョン』と呼ばれていたカメラですらも高嶺の花である。なんで、メモである。  しかしだ。 「ノートねえ……」  休みで家にいる母さんが渋い顔をする。 「どんなのでもいい。なんならチラシの裏でもいい。いや、やっぱ保存性が悪いからノートがいい」 「書くものは?」 「安ければなんでもいい」 「じゃあ、はい」  と、母親が財布から取り出したのは五百円札である。  うわあ……まだ現役なんだこいつ……。  そういや、俺がバイトを始めたのは高校に入ってからで、場所はコンビニだった。その当時でもよく五百円札は見かけた気がする。 「予算はこれで全部。この範囲内で買って、使いきったら次。いい?」 「ありがたや……」  思わず土下座した。まあ居間なんだけど。 「やめてよ気持ち悪い。それにしてもあんた、ほんとに変わったわね……」 「すべては事故のせいだ」  もうそれで押し切ることに決めた。  さっそく買いに行くことにする。玄関で靴をはいていると、衣紬がすっ飛んできた。 「お兄ちゃんどこ行くの?」 「買いものだ」 「おやつ!?」 「母さんが一人で買いに行くことを許すわけないだろ」 「じゃあなに?」 「ノートだ」 「衣紬もいくー!」 「んじゃ着替えてこい」 「うん!」  ぱたぱたと衣紬が奥へと消えた。 「雨降りそう……」 「予報では降らないって言ってたけどな」  家の17型のテレビで確認してきた。テレビといえば、映像の色あせ具合もそうだが、テロップその他の手書き感あふれる感じがいかにも1983年って感じである。全体的に予算かかってる感じがある。そしてアイドル全盛の時代だ。  最高気温は7月頭なのに22度。2022年の首都圏ではちょっと考えられないくらい過ごしやすい。まあまだ梅雨明けしてないしな。  うちのアパートは、上山らしい急傾斜地の上のほうにある。それとボロいという合せ技で、駅から徒歩10分なのに35000円という、この当時としても破格に安い家賃になっている。階段を下って、急坂を下って、駅前通りに出る。 「ノート、どこで買うの? ミナミ? それとも田代?」  ミナミというのは駅前のスーパーである。駅前広場に面していて異常に立地がいい。これは2022年現在でも現存する。田代というのはやはり駅前広場に面している田代書店だ。こっちはかなり前にコンビニになった。  ちなみにこの時間軸に来てから、俺は一度も本屋に行っていない。行ったが最後だ。いずれ時間をとって、上山の地下街にある協栄堂に行ってみようと思っている。上山駅では最大の本屋だ。 「ちょっと遠いけど、山辺町のイ、サ……えーと、ニチイまで行こうと思ってる」  あの店、名前変わりすぎである。イオンに���ったのはつい最近だが、その前はサティだった。おお、そうか……この世界、バブルの前か……。 「えー、とおいー」 「500円しかないし、できるだけ安く手に入れたいからな。ま、ちょっとした遠足だと思ってくれ」 「おやつもないのにー?」 「あとで粉ジュース買ってやる」 「わーい」  衣紬、ちょろい。  そしておっかなびっくり出した『粉ジュース』という単語だが、ちゃんと通じたらしい。 「お兄ちゃん、手つなご、手!」 「はいはい」  衣紬が、体格に見合ったちっちゃい手で俺の手を握ってきた。  この一週間で、衣紬はますます俺にくっつくようになった。リアル中1の俺ならわずらわしく感じたかもしれないが、いまの俺にとってはかわいくてしかたない。狭い家のなかにいても、ちょっと俺の姿が見えないと「お兄ちゃん、どこー?」とか声かけてきて、俺の姿を見つけると「いたー、お兄ちゃん」などと抱きついてくる。こんないきものがかわいくないはずがあろうか。いまもつないで手をごきげんにぶんぶんと振っている。だいじょうぶかなこの子。小6にしてはやってること幼すぎない? かわいいなあ。 「ね、ね、お兄ちゃん」 「なんだ、衣紬」 「へへー、呼んでみてだけー」  腰に抱きついてきた。歩きづらい。そしてかわいい。 「こら、離せ」 「やだー」  きゃーきゃー笑いながらさらにぎゅっとしがみついてくる。 「離さないと、頭つかむぞー」 「いいもん。衣紬、あたまかたいもん」 「言ったな」  ちらっと見える衣紬の顔は、目をぎゅっと閉じている。きたるべき衝撃に備えているらしい。  ならば不意打ちだ。 「なでなでー」 「ひゃあ」 「頭いっぱいなでてやるー」 「なでられたぁ……」  よくわからんが、頭をごしごしとこすりつけてくる衣紬。  そして俺はあることに気づいた。衣紬の髪がさらさらではない。  こんなちっちゃい姿でも成長期だ。とうぜん新陳代謝は激しい。いくら体を拭いても、三日目となるとちょっと髪がべたついてきたりする。 「あー、帰ったら銭湯だな」 「衣紬、くさい?」 「どうかな」  せっかくなので、衣紬のショートカットの頭に顔をうずめてみた。 「やだーお兄ちゃん、かいじゃやだー」  うん。ちょっと汗くさい。 「衣紬、へんなにおいしない?」 「ぜんぜん」 「ほんとに?」 「ああ」  健康的ですばらしいにおいだ。これなら一週間くらい経ってたほうが嗅ぎがいがあるというものだ。 「お兄ちゃん、へんな顔してる……」 「変な顔ってのは、こういうのかーっ」 「むぎゅー鼻押しちゃやだー」  ああ、衣紬はかわいいなあ。ほぼバカップルだ。  景色なんかぜんぜん見てなかったが、駅への道は、図書館に行くときにけっこう通った。駅は広場を介して片側一車線の生活道路に面している。その道路の両側が商店街だ。もちろんシャッターが下りている店などほとんどない。なにより人通りが多く、平均年齢が若い。あたりまえだよなあ。この時代、団塊世代がまだ30代なんだから。ちょっと信じられないよな。  そして徒歩1時間ほどかけて、目的のニチイへとやってきた。  スーパーである。あらゆる商品が揃っている。  ここに入るには、ちょっと心構えがいる。  昔の日本を撮影した動画で、再生数が伸びるのは、やはりCMや商品、その当時の流行についてのものが多い。つまり『モノ』というのはいちばんダイレクトにその当時のことを思い出させる。  その『モノ』が、ここにはぎっしりと詰まっている。 「なあ衣紬」 「なにー」 「お兄ちゃんな、ここに入ったら、ちょっとおかしくなるかもしれない」 「え、意識戻ってからずっとへんだよ、お兄ちゃん」 「そうか……」  変なのか……。そのわりにおまえ、躊躇なくなついてるよな。  まあいい。いざ参らん。  俺は、ニチイのなかに足を踏み入れた。 「へえ……こんな感じなのか……」 「さっそくお兄ちゃんがへんです」 「ひさしぶりに来たからな」 「お母さんとたまに来るじゃん……」  建物は2階建てで、まだ新しい。この、自分の意識から来る『古そう���というイメージと、現物の新しさのギャップにいまだに慣れない。いろんなロゴや商品のデザインなど古さを感じる要素はいくらでもあるのだが、ここは、この当時なりの最新なのだ。  目指す文房具コーナーは2階である。  目移りしないうちに、さっさとエスカレーターに乗る。  上った先にあったのはレコード屋だ。  レコード屋!  あーCDが普及したのっていつごろからだっけ……。俺が高校に入ったころにはあまりレコードは見かけなくなっていた気がする。  店頭のポスターはアイドルのものが中心だが、それに混じって洋楽がちらほら見受けられる。エイジア、フォリナー、ジャーニー、そうか。アリーナロックの勃興期だ。俺が洋楽を聞くようになったのは、中学の国語教師の影響で、もうちょっと先の話だ。  入りたい。しかし入ったら衣紬の存在すら忘れる可能性がある。  つんつんと、衣紬が袖を引っ張ってきた。 「お兄ちゃん、レコードほしいの?」 「金が……金があったらな……」 「しかたないよ。うち貧乏だもん」 「それなー」 「どれ?」  あ、この言い回し通じませんね。  しかしあれだな。俺、世代的には完全にCD以降で、しかも上述したようなバンドはほとんど興味がない。なのにこう、欲しくなる。これが新譜の時代に居合わせてるだけで欲しくなる。だいたいこの世界線、ジョン・レノンが暗殺されてから3年しか経ってねえんだぞ。そして2022年現在でも愛聴していたザ・スミスはまだアルバムすら出てない。ファーストが来年だぞ。フレディ・マーキュリーが存命だしさあ。  買えないと入るだけつらい。 「よし、行こう、衣紬」 「お兄ちゃん、なんで泣いてるの?」 「金がないのは首がないのと一緒や……」  俺、しばらく物欲で苦しみそう。 「あー、おもちゃやさん!」  衣紬がててーっと店内に入っていってしまう。  うわあ、店頭でサルのおもちゃがシンバル叩いてるぞ。  まあ、おもちゃにはさほどの興味はない。俺がプラモデル好きだったりしたら話は別だろうが、家が貧乏すぎてガンプラのブームにも乗れなかったからね、俺。  ま、スライムとかヨーヨーとか置いてあったらちょっとは興奮するかな。そんなことを考えつつ衣紬のあとをついて行った俺を待ち構えていたのは『任天堂ファミリーコンピューター近日発売』の文字だった。  ……やばい。  なんかよくわかんないけど、やばい。歴史が始まる瞬間に立ち会ってる。7月15日発売。まあうちにはなかったけどね。貧乏だったから! ちなみにここで家庭用ゲーム機に乗りそこねてしまった俺は、その後、どうしても『虹色町の奇跡』を自宅でやりたいという理由でセガサターンを買うまで、家庭用ゲーム機とは無縁の生活をしていた。 「ほしいなー、ゲームウォッチ……」  衣紬の姿を探すと、ガラスのショーケースにへばりついていた。その中に各種のゲームウォッチが並んでいる。あー欲しかったよなあ、これ。たぶんこれより前、小学生のころに、すでにLSIゲームというのがあって、それは友だちの家でやったことがある。画面は、あれはLEDだったのかFL管だったのかは定かじゃないけど、黒い背景に電卓の文字のようなしょぼいグラフィックだった。ゲーム内容はインベーダーもどき。色だけはわりとカラフルに出てた記憶があるな。 「友だちにやらせてもらったりしないのか?」 「学校に持ってくるの禁止だもん」  歴史は繰り返す。いまのスマホとなんも変わりゃしねえ。 「見てるとつらくなるだけだから。な、行こう衣紬」 「うー、わかったぁ……」  さんざん寄り道をしつつ、ついに目的の文房具屋にたどりついた。けっこうでかい。そして売場の半分ほどはファンシー文具である。衣紬がさっさとそっちに行ってしまったので、俺は目的のものを探す。  文房具にはこだわりがある。俺が最後まで愛用していたのは、コクヨの野帳と三菱の証券用細字ボールペンだ。オタクの性で、パソコンに触れたのはかなり早かったし、デジタル化の波にも対応してきたつもりだが、メモだけは最後まで手書きだった。ちなみに証券用ボールペンは、2020年あたりで廃盤になって、そのあとボールペン難民になった。  そして、そのボールペンは、当然のように売場にあった。てゆうか、売場にラバーグリップがついたものが見当たらない。ゼブラのラバー80くらいだろうか。  証券用ボールペンを2本と、ノートは5冊300円のものを。もちろんB罫である。いまの俺に老眼はない。この当時の安物ノートなんて書き味なんてレベルじゃないくらいだろうが、書ければいいのだ。  レジに行って、なけなしの500円札を差し出す。こんな大規模な店でも、まだPOSレジではない。手打ちのレジスターだ。消費税もない。  商品は紙袋に入れて渡された。  受けとると、不思議な高揚感が湧いてきた。  40年の時を経て、いま、俺の手には前世と同じ筆記具がある。それで、書いていく。  なにを書くのか。それはわからない。でも、きっと、すべてだ。俺が見て、聞いたもの。感じたこと。晩ごはんのおかず。そのときに見ていたテレビのこと。公園のブランコ。梅雨のどんよりとした空。衣紬のこと。  俺は、すでに知っている。いま、この時間は、もう二度と戻らない。戻ってきた俺だからこそわかる。ここは本来ありえなかった世界線だ。衣紬がいて、笑っていて、そのそばに俺がいる。  後悔はしたくない。でも、きっとするだろう。それでもいい。瞬間ごとに、俺は生きたい。奇跡なんて口にするのもいやになるような安っぽい言葉。衣紬が死んでから何度も願ったそれ。それがここにある。記録しよう。覚えていよう。  願わくば、過去を振り返ったそのときに、衣紬も俺も、周囲にいるすべての人々が笑顔でありますように。 「あれ、三森の妹?」  自分の名字が聞こえたので、振り返った。  そこには衣紬がいる。そしてその隣にいる女子を見て、俺は固まった。  その女子の名を、芹ヶ谷茜という。  同じ教室にいても一週間、避けつづけることができたというのに、なぜよりによってこんな場所で会うのか。  芹ヶ谷は、露骨にいやそうな顔をして言った。 「三森……」  それは小学校のときに俺が告白して、玉砕した女子だった。  俺は、早速、ここに来たことを後悔していた。
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cookingarden · 4 years
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ジェニファー・グラウスマン監督、サム・カルマン監督『美術館を手玉にとった男』 原題:Art and Craft 制作:アメリカ, 2014年. これは新しいタイプの映画だ。主人公マーク・ランディスのセラピーがリアルタイムで記録されている。その意味でドキュメンタリー映画だが、映像表現や音楽が実にカッコいい。 それだけではない。この映画自体が主人公の「手玉にとられて」いるように見える。そして終いには、精神疾患を抱えるのは主人公ではなくわたしたち自身ではないかと思えてくる。『美術館を手玉にとった男』は、観る者を逆説の境地に誘う新しいタイプのドキュメンタリー・・・ではないかと思う^^; なお、本作の登場人物はいずれも実在する。本来であれば名前に敬称が必要だが、映画の登場人物として省略した。          CONTENTS ・寄贈された名画は贋作だった ・ランディスが行った贋作の技法 ・ランディス、お前は何がしたいのだ? ・精神疾患を持つランディス ・ランディスに転機をもたらした贋作の展示会 ・ランディスは統合失調症なのか? ・母との統合を果たしたランディス ・ランディスの統合とわたしたちの不統合
寄贈された名画は贋作だった 「全米各地の美術館に贋作が寄贈されている」ーーこの事実を最初に知ったのは、シンシナティ美術館で主任レジストラーを務めていたマシュー・レイニンガーだった。彼はオクラホマシティ美術館に努めていた2008年、有名絵画を寄贈したいというマーク・ランディスと出会う。しかし、彼が持ち込んだポール・シャニックの絵は、ある大学が所蔵していることに気づく。調べると、ランディスが持ち込む作品はどれも、全米各地の美術館などに現存するものだった。 レイニンガーは、ランディスの贋作を受け入れた施設は、30年間で全米20州の46美術館にもおよぶという。映画には、「これは犯罪行為だ。入院するか刑務所に入る必要がある。」とランディスを責める博物館関係者も登場する。しかし、彼は金目当てに贋作を行ってはいない。それでは、贋作を寄贈することの何が問題なのだろうか。 美術品を購入する際、美術館は作品を精査する。だが、寄贈となると名品でもあまり調べようとしない。多くの美術館はそこを突かれたようだ。贋作を買わされてはいないので、ランディスの行為は詐欺罪には当たらない。これは映画に登場するFBIの捜査官がそう述べている。 しかし、贋作を展示すれば、美術館全体が贋作を展示していると思われかねない。これは美術館にとって迷惑な話だろう。 ランディスが行った贋作の技法 それにしても、彼は一体どのようにして、30年間にわたって100作もの贋作を作り上げたのだろうか。映像が伝えるその方法は、それほど特殊なものとは思えない。彼は町のホームセンターで手に入る、ごく普通の色鉛筆や絵具を使っている。画材の古さを表現するために、作品をコーヒーで汚したりもする。 しかし当然ながら、ごくありふれた道具でプロを欺くには優れた技量が必要だ。ランディスは用紙の下に元絵を敷き「めくる」「描く」を繰り返す。かつて銀行で目にした、印鑑の残影照合と同じ手法だ。ランディスはこれを「記憶術」と呼んでいる。 デジタルプリントも使われる。プリントを下絵に絵具を重ね、見る見るうちに本物のように仕上がっていく様子は圧巻だ。見た目にはリアルだが、それでも鑑定されれば簡単に見破られるだろう。ランディスが寄贈した作品の真贋を疑わなかった美術館も無防備だったと思わせる。 ランディスは、両親との生活が贋作の原点になったと述べている。海軍将校だった父と美人の母に連れられ、訪問先のホテルの部屋で留守番することが多かった8歳のころ、退屈しのぎに美術館から持ち帰ったカタログを模写するようになった。これが贋作のはじまりだったという。後に美術館を欺くほどになる彼の技量は、幼少から数十年におよぶ修行から生み出されたものだ。 ランディス、お前は何がしたいのだ? ランディスの贋作を見た多くの関係者が、作品の出来を高く評価している。贋作を見破ったレイニンガーも、本物に見える出来栄えだと述べている。だが、金目当ての贋作ではない。「いったい、この男は何がしたいのだ?」レイニンガーは捜査にのめり込む。しかし、調査に没頭するあまり彼は、仕事中は控えてくれという美術館の忠告を聞き入れず、とうとうレジストラーの仕事をクビになる。 レイニンガーは、「自分は執着しすぎる傾向がある」と告白している。かつて、強迫性障害や注意欠陥・多動性障害と診断されたことがあるという。そして、自宅で主夫を過ごすなか子どもに「ランディスが憎いの?」と聞かれ、「いや、そうではない」と答えている。最初は彼に腹が立ったが、調べが進むうちに憎む感情はなくなったようだ。 彼の懸命の捜査は4年間におよんでいる。ランディスは何度も名前を変え、各地の美術館を渡り歩いていたことが明らかになる。移動の手段は、かつて母が乗っていた赤のキャデラックだ。レイニンガーが集めた情報はやがてFBIの耳に入り、フィナンシャル・タイムズの記事で取り上げられたことでランディスの行為は全米に知れ渡ることになる。 精神疾患を持つランディス 追う側のこうした姿と並行して、映画はランディスが地元ミシシッピ州ローレルにあるメンタル・ヘルスケア(Pine Belt Mental Healthcare Resources)に通う姿を映し出す。ケースワーカーが尋ねる。 「気分はどう?」 「自殺願望は?」 「他害衝動は?」 「幻聴や幻覚は?」 小さな声で「ない」と答えるランディス。彼は精神疾患を抱えている。17歳のとき「妄想型統合失調症と精神障害���「パーソナリティ障害」と診断され、現在は統合失調症治療薬ジプラシドンの処方を受けている。 ランディスの行動の原点に母の存在がある。ランディスは「父にとって自分は残念な存在だった」という一方で、母には強い情愛を示している。母を回顧して彼は次のように語っている。
亡くなった父を忍ぶことをして、母を喜ばせたかった。母は自分が贋作を寄贈しに各地を歩いていることを知っていた。それでも母は、自分のことを少しは誇りに思っていた。というか気にしなかった。
ランディスの心にはいつも母の存在があった。彼は母の美しい肖像画を描いている。彼の精神疾患が診断された17歳の時、同じ17歳当時の母の写真を模写したものだ。母が亡くなったのは2年前と述べていることから、贋作を寄贈して歩いたほとんどの期間を、母とともに過ごしていたことになる。 ランディスに転機をもたらした贋作の展示会 ランディスの贋作が発覚したあと、彼に興味を持つ者が現れる。シンシナティ大学でレイニンガーの同僚だったアーロン・コーワンである。彼は「ランディスの行為自体がアートのようだ。動機が気になった」という。そして彼は、ランディスの贋作を一堂に集めた展覧会を企画する。過去の贋作作家との違いを示すのが彼のねらいだ。計画を聞いたレイニンガーは「面白いじゃないか」と述べている。ランディス自身も電話で展示会への感謝を示している。 だが、コーワンはランディスの行為を良しとしているわけではない。発覚したあとも贋作の寄贈を続けるランディスに「悪意がないのはわかっているが、ともかくやめてほしい」と諭している。関係者にとって、贋作の寄贈は歓迎できるものではない。 緊張のうちに展示会場を訪れたランディスは、人々から口々に「贋作じゃなくて、自分の作品を作ってほしい」と声を掛けられる。それに対しランディスは母の肖像画を指し「作っているよ」と答えてる。 展示会場ではじめて、ランディスはレイニンガーと面会する。5年振りの再会だ。互いが手を差し伸べ握手をする。ランディスは、
私は長い間、君と話せなかった。ほんの数分も。とにかく、会えて嬉しい。ほんとうに申し訳ない。できることがあったら、言って欲しい。
と話しかける。帰り際にもランディスはレイニンガーに感謝の言葉を述べ、二人は、硬い握手をして別れている。 このあと映画はランディスの独白を捉えながら、エンディングを迎える。最後の場面で彼はおよそ次のように語っている。
(贋作の寄贈は)やめた方がいいんだと思う。思い付いたことがある。紛失や盗難にあった芸術作品を持ち主に返すというアイデアだ。私にできることは、小さな絵を描くことだ。なくなった1ページを、もとの本に戻せたら素敵だろ。
このときカメラは、ホテルの部屋で神父の服装に着替えるランディスの姿を捉えている。鞄を下げ、赤のキャデラックに乗り込むランディス。「アイデア」を実行に移す姿を示唆して映画は終わる。 ランディスは統合失調症なのか? エンドロールをながめながら統合失調症とは何かが気になった。映画のランディスは確かに風変わりで病弱な印象の人物だが、とりわけ重い精神疾患があるとは思えなかったからだ。統合失調症について厚生労働省の関連ページには次のように書かれている。
統合失調症は、幻覚や妄想という症状が特徴的な精神疾患です。それに伴って、人々と交流しながら家庭や社会で生活を営む機能が障害を受け(生活の障害)、「感覚・思考・行動が病気のために歪んでいる」ことを自分で振り返って考えることが難しくなりやすい(病識の障害)、という特徴を併せもっています。(…)慢性の経過をたどりやすく、その間に幻覚や妄想が強くなる急性期が出現します。 厚生労働省「みんなのメンタルヘルスケア総合サイト」より引用
はたしてランディスは、この記述に当てはまるだろうか。わたしには、どうもそうとは思えない。映画の中で彼は二人のケースワーカーの問診を受けているが、いずれのときも「幻覚や妄想はない」と答えている。また、多少ぎこちなさはあるものの生活に大きな支障があるようにも見えない。普通にクルマを運転し買い物にも行く。電話による会話もできている。そもそも、人との交流ができなければ、全米20州46ヵ所もの美術館を訪れ贋作を寄贈して回ることなどできなかっただったろう。 母との統合を果たしたランディス 彼は17歳のとき精神障害があると診断されている。その頃の様子を知る手がかりが、映画のなかにひとつだけある。ランディスはこのと��、写真をもとに母の肖像画を描いている。その肖像画は、映画のなかで彼が「オリジナル」だと表明する唯一の作品でもある。
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ランディスの心にはいつも母がいた。その原点は、夜遊びを繰り返す両親と過ごした旅先で形成されたものだろう。両親が外交的だったことは映画でも描かれている。留守番の退屈しのぎに行ったカタログの模写は、ホテルに帰った母から対話を引き出す切っ掛けになったはずだ。学童期の子供を部屋に残して遊びに出た親が、留守中に描いた子供の絵に言及しないとは考えにくい。ランディスは母からできるだけ多くの称賛を集めようと模写を繰り返し、腕を上げていったのだろう。 象徴的な言い方をするなら、ランディスにとって模写は、自我を形成する上で不可欠の媒体だった。ランディスにとってその仕組みは強すぎたのだろう。なぜ強すぎたのか、その理由を知る手がかりは描かれていないが、ランディスは8歳から10年近くも装置の虜になった。そして17歳のとき、その集大成のように母の肖像画を描き上げ、母への思いを自身のなかに定着させた。しかしそれは同時に、彼の精神疾患が定義されたときでもあった。ランディスは精神疾患と引き換えに、自分のなかに母を埋め込んだのである。 こうして模写は、心の母からの称賛を自身へと注ぎ込む装置として機能するようになった。17歳以降のランディスは統合失調症を抱えた患者だったが、彼自身にしてみれば模写を媒介に母との統合を果たしながら生きたことになる。母が亡くなった後も贋作の寄贈が続いたのは、心の母が生き続けていたからだろう。その意味でランディスは、統合失調症とは裏腹に心の統合を果たしていた。しかし、その統合は一枚の肖像画に象徴される、極めて閉塞的な世界だった。 言い換えれば、幻想の母による承認のもとで作品を描き精神障害を乗り越えてきたランディスは、母が認めたことがないオリジナルの作品を描くことができないのである。これは、「写真を学んだが撮るものがなかった」という彼自身の言葉によって裏付けられている。ランディスは、母の承認なしに外の世界を美の基準で捉えることができないのだろう。 このように考えていくと、「贋作じゃなくて、自分の作品を作ってほしい」という人々の要望は、簡単にはかなわないことになる。一方で、映画の結末で彼がアイデアとして示した「なくなった1ページを、もとの本に戻す」仕事は、心の装置の仕向け先を贋作から修復へと移行させるすぐれた着想に思えてくる。この点から見ても、ランディスの精神はまともというしかない。 ランディスの統合とわたしたちの不統合 結局のところ、ランディスは絵画を模写することによって自我を形成した。しかし、母を起点としたその自我は極めて社会性の乏しい、彼の心に閉ざされたものとなった。この閉塞を超えて彼を社会につなぎ止めたのが、贋作を美術館に寄贈するという行為だった。彼はこれを「慈善行為」と呼んでいる。 ランディスは美術館であれば贋作となる模写の能力を、今後は修復の世界へと広げることを示唆しているが、この映画もそのひとつと見ることができる。彼は本作を通じて主役を務め、多くの登場人物や観客と繋がる切っ掛けを得た。『美術館を手玉にとった男』を通じてランディスは社会との新たな統合を果たしている。手玉にとられたのは美術館だけではない。「手玉にとる」はタイトルに掛けたものだが、もちろんランディスの意図ではない。ランディスの行為に周囲が参加しているという意味だ。 ランディスが歩んできた人生は、わたしたちにある種の反省をもたらす。いったいわたしたちは、誰からのどのような承認のもとで自己を確立し社会と繋がっているのだろうと。これは大多数の人々にとって難しい問いではない。多くの人は学校に通い、職を得て伴侶をもうける。そこには試験、資格、容姿、家柄、人種、金銭といった様々な種類の承認がある。こうした承認の組み合わせによって作られる生活や人生の多くは、社会的に構成されたものだ。この仕組みと交われない個人の状態が、統合失調症と呼ばれるのだろう。 わたしたちはそうした疾患と無縁であることを良しとしている。そこで経験する承認は、ランディスの世界に比べ複雑で多様なものだ。しかしその分、承認のレベルは低く一貫性に欠けがちだ。わたしたちは褒められる対象を、もっと厳選するべきではないのだろうか。 ランディスの人生を羨むわけではない。しかし、『美術館を手玉にとった男』を観てわたしには、ランディスが行ったような承認への集中なしに、外界や対象を深く知ることは難しいのではないかと思うようになった。ランディスの修行は極端なものだが、そのことが逆にわたしたちが抱える症状を思わせる。わたしたちはランディスと反対に、真に模写すべき対象を見失っているのではないか、と。 ジェニファー・グラウスマン監督とサム・カルマン監督は、マーク・ランディスというひとりの精神病者の特異な才能を通じて、観る者に、修復が必要なのは観ているあなたかもしれないと問い掛けている。やはり『美術館を手玉にとった男』は、新しいタイプのドキュメンタリーなのだろう。
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haruki-kumagai · 4 years
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西成ガギグゲゴ【七人の侍 ジャブ】
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西成ガギグゲゴ【七人の侍ジャブ】
SUPREMEの服をさり気なく着こなし、お洒落な被り物をのせてる
毎日来るのに着こなしている服が違う
古着や新作などの服をさらりと着こなすその人物は、私の店ピカスペースに訪れる 七人の侍の一人、ジャブさん
陽気な赤の自転車に乗りながら、これまた陽気に酒を飲む人物である お気に入りのマイク・タイソンのTシャツやボクシング関係のTシャツを来ている時は、さらに陽気で シャドーボクシングをしながら入店してくる時も良くある光景である
ジャブさんも古参のお客さんで、6年程の常連である
日に何度も訪れるのがジャブさんの飲み方だった
「はるちゃん サッポロ!!グラス2つ」と言い
必ずその都度わたしと乾杯する
「この店は、波動が良いな」 「はるちゃんが波動がいいからかな」 「必ずサクセス出来るね」
そう言って笑った
ジャブさんも��みのある良い笑顔をする一人だ
この新世界近辺に長く住んでいて、新世界市場の繁忙期の話などしてくれる 幼少の頃から、新世界にはおやじさんと一緒に来てたみたいだ かなりこの近辺の歴史には、詳しくジャブさんから教えられる事はおおいい
わたしのお店のピカスペースは、新世界市場の商店街の中にある 新世界市場は、100メートル程の商店街なのだが、その中に当時溢れる位お客さんがいたらしい これは、市場内の商店主からも聞いたときがある話だった。 本当にすさまじい黄金時代だったらしい
大型のスーパーの出現などにより、少しずつお客さんは流れて行った。 ピカスペースは市場の南側にあるのだが、わたしが8年前に初めて来たときにはすでに南側のほとんどはシャッターが閉まっていた まさにシャッター商店街だった
新世界一帯は、串カツのメッカであり、かなりデコラティブなお店が集まっている。、 ビジュアルもゴチャゴチャしててその中心に通天閣がそびえ立つ かなり面白い雰囲気で、人々も良く訪れる観光地である 朝から飲む安い立ち飲み屋もいっぱいあり、昼頃には完全に出来上がってる人々を良く見る場所でもある
この新世界市場だけが、とりのこされている様だった。
わたしはこの感じが好きだったし、この場所に可能性を感じていた
ここ数年のインバウンドの特需により、通天閣&新世界は外国人旅行者、特にアジアの方々がおおく来るようになった 新世界近辺のマンションやアパート、人の気配のしなかった物件は、どんどん民泊かHOTEL、串カツ屋に変わ���て行った
新世界市場は、通天閣まで徒歩30秒と言う好立地にもかかわらず、ガラガラの商店街だった
そこに当然、目を向ける人達が出てきた 中国マネーが瞬く間に入りこみ、新世界市場内だけで、5~6軒の民泊が出来た
ピカスペースの隣にも民泊ができた
商店街的には、お店になってもらいたい所だが、民泊が増加した
シャッターから真新しい玄関になっていった
そんな中、商店街的に待望だった新規のお店が、近々2店舗南側にオープンする予定である
これは、本当にうれしい
新世界市場は、大きく衰退した時代から新しくうねりはじめている
それは、ここで商売をしているわたしもまざまざと感じている
個人的に懸念している所もあるが、新世界市場が盛り上がる事はうれしい事である
衰退から発展へと新世界市場は、移行している様に思う
当然、ジャブさんもそれを感じている様だった。
「はるちゃん、そろそろサクセスできるんじゃない」
そう最近、ジャブさんは良く言った
ジャブさんは、ボクシングが大好きな事と自称カメラマンと言っていた
口癖は「必ずサクセスできるよ」だった
ただ、まったく謎の人物だった 独特の距離感の持主で、口調もおだやかで丁寧 言葉のセンスも良く 淡々としていた人物だった カメラを撮る事も稀で、見せてもらう写真は、別段変わり映えの無い人物の笑顔ばかりだった
基本、その人物を好きになればその人物の背景や道中などが、気になりだし聞き出すのがわたしの流れである
ただジャブさんに限っては、謎のままで良いと思っていた また聞き出すのもなんか野暮だと感じていた
それ位、ジャブさんの会話のリズムが心地よかった
昼間から酒を飲み 帰ったと思ったら、新しい服装に着替えてまた来る
他にお客さんがいれば、丁寧に応対しながら一緒にお酒を飲む 当然、そのお客さんにも奢る
またちょっとこの人とは、噛み合わないなと感じれば、お酒が残っていようとスッと笑顔で挨拶して帰って行く人だった
ピカスペースは、お客さんとお客さんの距離感がかなり近い 満員御礼になれば、次から次にお客さんを吸い込みだしてしまう
相席などは、当たり前になり椅子を移動させながら各々が話し込む
この状態になると私は、ひたすらお酒を出し軽いアテを出すだけになる
お客さん同士で盛り上がり、酒もすすむし売上もあがる
勝手に全てが廻り出す、最高のアテとは会話であると思ってしまう
この瞬間が好きで、毎日こうであれば良いと思うが、この店の場合は、完全に引きである
ピカスペースがぐちゃぐちゃに盛り上がってる時に、ジャブさんが来れば 何本も瓶ビールを注文し、顔見知りな人を中心にお酒を注いでいる
「はるちゃん 今日は楽しいな 儲けてなー」そう言って楽しんで行く
自分でさえもしばらくこの盛り上がりは、いらないと思うのにジャブさんは、 次の日、開店と同時に来て「もう一丁」見たいなノリで来る
そういう一面もある人だった
店をやっていると常連と言う枠が出来る もちろん商売的には素晴らしい事だが、この常連にも程良い距離感と一週間に来る回数がある
勝手な事を言ってしまうが、その距離感と回数が丁度良い位の常連は、常連客である
その距離感と回数を超えてくるのが、七人侍の1つの共通事項である
ただ七人の侍の目当ては、わたしであり 客がいようがいまいが、何時でもタイマンを求めてくるのである
それなのに七人の侍のジャブさんの場合だけは、不思議と楽しい時間を過ごせた
ジャブさんは、来だすと来るが見なくなるとしばらく見なくなる その塩梅も丁度よかったのかもしれない
4年位前にWBA世界フライ級タイトルマッチ 井岡一翔の世界戦にジャブさんから招待された
いつも通りボクシングの話で盛り上がっていたら、ジャブさんは井岡一翔のタニマチであるから チケットを貰えると言っていた
一緒に行こうとなり、会場で待ち合わせて世界戦に立ち会えた ジャブさんは、小さいコンパクトな椅子を取り出し、決められた席に座らず 慣れた様子で、通路の一角に陣取った かなり良い場所で二人で見ていた
結果は井岡一翔の勝利で3階級制覇だった。
その時のジャブさんの喜びようはすさまじいものだった
ボクシングの試合は、初めてだったがかなり面白いのでオススメしておきます 特に入場シーンが素晴らしい
平日の早い時間帯から深夜遅くまで、赤い自転車でフワフワしている
「この人は、毎日何をしてるんだろうか?」
一切が謎だった
ただカジュアルで上品な人だった
酔いだすと時折、スピリチュアル系な事を言い出す また、著名な人とのツーショット写真を見せてくれる ガラケーの画質の良くない写真だが、ジャブさんは相当若く見える
ジャブさんは、50代前半だが、写真は20代位に見える
「はるちゃんは、良い波動を持っている」 「はるちゃんは、大器晩成型」 「必ずサクセスできる」
これは、ジャブさんに度々、言われる事柄である 前向きな言葉なので、言われるとうれしい
深く酒を飲み過ぎた時の、ジャブさんは陽気であるが、時折すさまじい顔つきで一点を睨みつけてる事が何度かあった
ちょっと怖いとこもあるな位で、あまり気にしなかった
今年に入ってから、ちらほらジャブさんが店に通う様になった わたし自身、店も営業しているが別件で忙しくなり、店を臨時休業する機会がおおかった
営業日より休業日が増える中、稀に営業してる時は、必ずジャブさんが訪れた
それがなんとなくうれしかった
もう一人の七人の侍の番頭さんが来て、2人で下ネタで盛り上がっていたらジャブさんが来た ジャブさんと番頭さんは面識があり、七人の侍の中では、珍しく馬が合っていた
基本、七人の侍同士は、同族嫌悪では無いがあまり馬が合わなかった
かなりふざけた会話をしてたら、ジャブさんもノリだし3人で下ネタ大会になった
この際だからふざけようと思い
わたしはジャブさんにジャブを入れ始めた
反応はすこぶる良かった
ジャブさんはおもむろに立ちあがり、両手で乳首を摘み
「ダブル乳首ー!!」と絶叫した
これは、素晴らしいと思い
3人でダブル乳首をしながら楽しんだ
「はるちゃん、必ずサクセスできるよ」
わたしは、返す刀でこう言った
「ジャブさん、今からセックス?」
「ナイスカウンター」と言い残しジャブさんは笑顔で帰っていた
会話には、リズムがありリズムがある会話が好きである リズムの無い会話や一方通行な会話も嫌いではないが、毎回そうだと嫌になる
ジャブさんとは会話のリズムが合うのだと思う
ダブル乳首以来、何かの枷がとれたのかジャブさんとの距離感が和らいだ アウトボクシングからのインファイトと華麗にお互いに牽制しあった
うまくコンビネーションが決まると膝をついてダウンしましたとお互いに笑った
営業日には必ず店に顔を出すようになった
酔いだすと、自らダブル乳首をする様になった
そこからは、ひたすらに下ネタになった
ざっくばらんな関係になろうと本人の素性には、一切触れなかった
こういう関係性も悪くなく、会話をボクシングに見立てるコミュニケーションが面白いと感じていた
ジャブさんも本当に良い笑顔をする一人だ
ジャブさんは、良く自分の服を私にくれる 体系的にまったく違うので、サイズのでかめの服をくれる
サングラスや靴、時計と色々持って来てくれるが、高価な物は断っている
お弁当を買ってきてくれる事も多々ある
本当に良くしてくれる
「はるちゃん いつもいつもありがとう」そう必ず言って帰って行った
陽気な赤い自転車に乗ったジャブさんをしばらく見なくなった
わたしは、別件で忙しくなり、店を1ヶ月近く休んでいたのだ
久々に新世界に帰ってきたら店の前に、ジャブさんがいた
「はるちゃん 久しぶりー」となりそのまま2人で飲んでいた
かなり陽気な時間を過ごしていた
「はるちゃん ダブル乳首なシャブしながらすると超気持ちいいぞ」
「はるちゃん シャブセックス超気持ちいいぞ」
いきなりだった
催促したわけではないが、そこからジャブさんは自分の素姓を話し始めた 溜まりに溜まってたのか、全てを吐きだして行った
ジャブさんは、かなり裕福な育ちだったようだ おばあちゃんがかなりの有力者であり、おやじさんはそれを武器におおいに建設関係で成功された
ジャブさんは、当初は地上げ屋だった。 ただこのまま行くと危険と感じて、不動産の営業の方にシフトしていった そしてみるみる頭角を現して行き、若くして成功された
育ちも良く、実家のバックボーンも完璧、イケイケだった為そこに目を付ける上層部の人達がいた
この青年にしよう この青年を完璧にサクセスさせようとネットワークビジネスのフィクサー達が動いたのである 当時ネットワークビジネスが盛り上がりを見せていたが一般の人達にはそこまで認知されておらず また認知している人達からのネットワークビジネスの評価は、半信半疑だったらしい
ネットワークビジネスの顔が欲しいと考えていた上層部の方々が、全ての条件をクリアしている若いジャブさんに白羽の矢が立ったのだ
見えていない世界は恐いなと感じた
そこからジャブさんは、完璧なサクセスロードにはいった、何もせずにいても 会う人から、称賛された 会う人物もかなりの人物だった
本当かどうか不明だが、スティーヴィー・ワンダーに誕生日に目の前で歌ってもらったらしい おおくの芸能人に会う機会に恵まれた 著名な人達、スポーツ選手、華やかな日々が始まった
まさにサクセスロードをひたすら進んで行った
「ジャブくんは何もしなくていいから」そうフィクサーに言われた
何もかも用意され全てがジ���ブさん中心に廻り出していた
権利収入により、どんどん財も膨れて行った
表の顔になる人物とは、選別された一握りの人達が色々な条件をクリアした上でフィクサーによって選ばられる。
ある時、若かりし時のジャブさんがネットワークビジネスのトップにあたる人にこう聞いた
「どうやったら成功できますか?」
そうしたら、その方がジャブさんの所へ歩み寄ってこう言った
「バカ野郎ー!! 努力だよー!!」おおきな声で怒られた
その後、満面の笑顔で続けた
「努力だよ 努力しかないんだよ」と優しく肩をたたいた
500人近い人達が集まり、壇上にジャブさんが呼ばれ称賛される 壇上目線から見る、500人の羨むジャブさんに対する目線は、まさにサクセスした者でしか味わえない極みだった
富と名声を若くして手に入れたジャブさんのサクセスは、そんなに長く続かなかった 大き過ぎる富と名声は災いを呼んだ 少しずつ快楽の方へ傾倒して行くのである
酒、博打、女、それ以上も求めてしまい 覚醒剤の世界に入って行った
ひたすらに快楽の世界に沈んで行った 毎日がシャブセックスだった その時のダブル乳首が今でも忘れられないらしい
強迫症状が出始めて、誰かに追われてる気持になり 度々、タクシーで他県に移動していた
この症状が出始めると、後戻り出来ないみたいだ
しらふでは、いられなくなり覚醒剤の回数が増えて行った
全てを捧げる世界だった
自ずと破滅の沼にどっぷりと沈んで行った
500人以上が集まる中、ジャブさんはいつも通りに壇上に呼ばれた
そして大きな声でこう言われた
「君ー!! シャブやってるね!! もう駄目だな!! 君は破門だ!!」
その目は、突き刺さるものだった
壇上から500人の方を見た時、完全に崩壊したとジャブさんは言った
瞼の裏にあの光景は焼きついてる
一点を睨みつける険しい表情のジャブさんがそこにいた
そのまま完全にネットワークビジネスの表の顔から破門され、そのまま病院に直行した
数年の病院でのリハビリ生活と、家族の支えにより何とか覚醒剤を断つ事に成功した。
一度大きく失敗してしまった人に、この国は厳しい
ジャブさんは、人生のほんの一時にベルトを手に入れ、ベルトを失った
ジャブさんだけの意思だったのか、失ってから20年以上が経過している
その20年は想像を絶する日々だったのではないか かける言葉がその時、わたしには見つからなかった
ジャブさんは、それからもピカスペースに度々訪れる 少し自虐ネタ見たいな感じで、当時の事をネタにしだしている わたしは、合いの手を打ちながら、ジャブをいれている
フットワークのキレも良くなったんじゃないか そうわたしからは見える
ジャブさんに対して今だにかける言葉は見つからないが、うっすらだが重なる世界がある
赤い自転車に揺られながら衰退から発展へとジャブさんは20年流れていると思う
ジャブさんは必ずもう一度、自分の意思で青コーナーからリングに上がるだろう
そこにフィクサーはいない
その時のファイティングポーズを是非見てほしい
くまがいはるきWEB https://haruki-kumagai.tumblr.com/ イマジネーションピカスペースWEB https://pikaspace.tumblr.com/
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nemosynth · 5 years
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小学校中退した私が婦人画報に載った YMO と出会うという、てれんこてれんこした書き下ろし
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そう、私は小学校中退。
まじほんま、ほんまにほんま。卒業証書あらへんねんで。
合衆国の小学校を中退し、日本の中学校に途中編入。日米では年度が始まるタイミングが違うから、はからずもその間をすり抜けて帰国してしまったことになる。
在米生活中、ま��英語がそんなに出けんかったとき、ピンクレディーが合衆国の歌番組に出演してるのを、偶然テレビで見た。ワイよりよっぽどたくさん英語をしゃべってて、さすがーって思った。でも、なんか発音とかイントネーションに違和感。それでもよーけしゃべったはるさかい、なんや変やけど、やっぱさすがーって感心してたら、オカンが 「へたくそな英語やなー!」 って、一刀両断してもーてびっくりした。でもそんとき、違和感の正体がわかった。
私が米国で見たピンクレディーは、だが日本がお留守になって、人気凋落。 私が米国で見ることもなく、私が帰国するまでは存在も知らなかった YMO は、だが米国はじめワールドツアーに出ても、日本では人気が衰えるどころか人気うなぎのぼりだったらしい。
この違いは、なんで? アイドルとアーティストの違いかなぁ? せやさかい、客層も違うのかなぁ? 誰か教えてください、えらいひと。
帰国して途中編入した中学校。電子工作部があって、ある日そこに、NEC の原始的なパソコン PC-6001 か、6001 mkII だったかがやってきた。
ひとしきり皆でそれでわいわい遊んだのち、しばらくしてから先輩がそれに、何日もかかって BASIC でプログラムを打ち込み、RUN させると、曲が鳴るのだが、ビープ音がへぼい内蔵スピーカーで歪んでナチュラルオーヴァードライヴ。でもその歪んだ音色が速いテンポと相まって、かっこええ疾走感! この音色、この曲、かっこええなぁー、って、部室たる理科室の隅っこで ASCII とか I/O とか読みながら聴きながらひそかに感動してた。
今を思えば、元祖チップチューン。
これが、ワテが初めて聴いた YMO、かの「テクノポリス」。PC-6001 系のチップでも演奏できるよう、ちょっとアレンジしてあった。それがまたクール。でもそんとき、それが YMO とは分からんかった。曲名くらい先輩に聞いとけばよかった。
クラスの同級生は、みんな YMO ファン。大人気。 でも私は、わいえむおー、が何たるかを知らんわけです。そもそも「YMO は、全世界で有名になった」って言うけど、ワテが住んどったとこでは全く名前すら聞かんかったさかい、知らんかっとてんちんとんしゃんや。
ある日、中学校の先生に 「わえいむおー、ってなんの略ですか?」 ほな先生 「いえろー、もんきー.............おっさんず」
関西の先生やさかい、ええかげんなことを言うわけ! せやけどこっちも知らんさかい、信じてええんか悪いんか、わからへん! あんな当時、ファクトチェックしようがあらへん。
でも当時から私はヴァンゲリスにジャールにタンジェリンに冨田勲の音楽にお熱だったので、YMO を知ったあとも私は彼らを勝手にチャラいアイドル連中と決めてかかり、YMO を聴きもせず 笑
同級生は、みんな、オフコース、Queen、パープル、ツェップ、イーグルス、ジャーニーなどにも夢中。でれでぅ、でぅ、でぅ、あなざわんばいつざだすっ! って言ぅとった。 去年、ワイは映画「ボヘミアン」を観て、ああ、俺はこんな時代を生きてたんやなぁーって、遅すぎた感涙に。
ある日、クラスの友人が皆「YMO が解散するねんてー!!」って泣き叫んでた。ふん、諸行無常じゃ。冨田さんのクラシックは永年に timeless じゃぼけ。
はからずも元祖チップチューンのディストーションがかったサウンドにしびれてもーて、音色フェチの私は、のちにほんまの YMO の音をテレビで聴いたとき、なんやこのうすっぺらい音、ってがっかりw まぁ、音色フェチなんで、ごめんなさい。オフコースも、唯一「一億の夜を越えて」だけは、ギターがハードロックっぽぅて好みの音w
金持ちのボンボンたる友人が、JUNO-60 を買い、数年後には DX7を買い、うらやましー俺そんなん買うカネあらへんさかいしゃーないんよねーん、ってオモてたら、京町家に住んでた彼女が 「そういやウチにもシンセあるワぁ。なんやしらん昔カメラ屋さんで十五万くらいで売っててん。」 え? ほんま? って借りてみたらミニコルグ 700S!
そのころ、さすがに散開から時間もたち、ふと「皆そない夢中になってる YMO がどんなんか、いっぺんくらい聴いてみたろ」と思い、関西のスーパー「イズミヤ」の二階に売ってた赤いカセットテープ「アフター・サーヴィス」購入。へー、こんな音色かぁ。うすっぺらいけど、このエレドラの低音ええなぁ。
そんな私を知って、彼女が貸してくれた YMO のアルバムは、カセットテープ「BGM」。そん中の「Happy End」という曲が、ほとんどホワイトノイズにフィルターとフェイザーかけただけやのに、その音色が気に入り、へー、こないおもろいことしはる人らやってんやー。
そこから徐々に聴きはじめ。
大学に入っても、みーんな周りは YMO ヲタ。学祭で、シモンズのエレドラ持ってるパイセンとかが「東風」をコピー。友人の下宿にあるミニコンポとか、学生控室にあるラジカセとかでも、日に一度は彼らのアルバムがかかってた。そこで初めてスタジオ盤ソリステ聴いて、あのぷいぷい言ぅイントロの音のまぬけっぷりにひっくり返るw
でもさすがに大学に入ると、音楽とか人民服とかチャリ毛とかよりも、むしろ浅田彰とか柄谷行人とか、そこらへんのニュー・アカデミズムに関心が行く。文庫本「Eve Cafe」なんべん読み返したかしらん。あれはいろんなものへの入口を提供してくれる絶好のハブ空港みたいな本!
ヘーゲル、ヴェーバー、レヴィ=ストロース、クリフォード・ギアツ。 あれ、やっぱ「Eve Cafe」からにしても、行き先が変w
今を思えばきっとあれは、おっさん連中がメンターとして輝いていた最後の時代。あれ以降、フォローしたくなるおっさんがおらんよーんなり、子供が思想面での最先端になってしまったがために、世のおっさん連中は女子高生とかばっか追い回すようになった。 キッチュな音に隠れてじつはディープな YMO。それは、おっさん教養の最後の輝きやった。
再結成というべきなのか、ノット YMO。
あのライヴを見に行った人らは、みんな真剣に鳥肌たったらしく、熱っぽぅ語るんやけど、やがて本人らが「じつはあれは不本意でー、ファンの呪いにうながされてー」みたいなこと言い出すと、途端にあれはおもんなかった云々とか言い出す不思議。 ええやん別に。本人に忖度せんでも好きなんやったら良かったやん。あれを聴いて、そっからプロに目覚めた人もおるんやさかい。
心斎橋クラブクワトロで、いろんなバンドが出演する機会があって、そこでテクノバンドに参加、矢野アッコちゃん版「東風」をカヴァー、白いモーグ・リバレイションでシンベを弾き、挙げ句、重たいのに客席乱入まで果たしたワテは、若気の至れりつくせり、あんなもん桜田門外不出の変w
それから幾星霜。 先日、ついに婦人画報に特集されし YMO、これは前代未聞のネタやでー、ぜったいゲットしとかなあかんやろー、おーぉ本屋で御婦人の雑誌探すんは苦労しますなぁ、お、平積みやでー、あ、えらい婦人画報だけ冊数が少ないなー、ワイみたいなシンセヲタが買いしめたかー、っていうか、これがラストワンやん!
婦人画報がどういう雑誌なんか、今の今まで知らず。初めて購入、帰宅後じっくり拝見。
なんか婦人画報でアートをするなんて勘違い平行棒か? まぁ、初心者向けということか? 婦人という単語が、もはや古いなー、労働者、という言葉と同じくらい古ぅて、これまた勘違い平行棒。ご婦人、婦人部、婦人警官、婦人科、婦人服、どれもこれも女性という言葉で代替できる。古いなぁ。プロレタリア革命をこころざした時代か? ほんで YMO 世代も、今やご婦人ということか。
もはやおっさんメンターがおらん今、めんどくさい YMO ヲヂサンによるウンチク満載マシンガントークも要らん。せやさかい、おっさんではなく、おばはん向け「婦人」画報か。
ひやー、今見るとぜんぶ武道館ライヴみたいに広いステージングかぁオモたら、おもっきし狭いやん。んなとこにモーグとイーミュのタンス2台も押し込めてまぁ。パリ公演とかハンブルグ公演とか、んーまに狭いでー。
ほんでまた風吹ジュンさんのコメも、その時代の先端に、最初のライヴ、結成直後に実験的ライヴしたのを観た話とか、文字通り居合わせた人ならではの迫力あるなー。
でもいちばん印象的やったのは、冒頭の高橋源一郎さんの寄稿やな。 あの当時、YMO に夢中になった人々は「世界は一つ」であるということを音楽によって証明できると思っていた、とある。なるほどぉーぉ! これはずん!と、みぞおちにくる碧眼。
せやでー、あの当時、このまま人類はハイテクでもって諸問題を克服してって、約束された未来に向かって突き進んでって、そのうちみーんな地球連邦へと一つにまとまっていくんやー、いう、根拠レスな、なんとなーくな希望があった。テクノロジーに裏打ちされ、無邪気に信じる健全な未来観。 その最先端に、日本が、自分たち若者が位置するんやーっていう、そんな明るい自信に満ちとったわけや。ニュータイプ、スペースノイドの楽園コロニー国家やで。
冷戦、東西両陣営、双方にものごっつい数の核兵器、最終戦争への恐怖、それらと対になっとった明るいハイテク社会、それが、いっつも善と悪の二項対立になって、僕らをとりまく背景画となっとった。その二項対立いぅんは、自分の理解を超えたテクノロジーへの狂喜と畏怖、その顕在化でもあったわけやな。
その陰陽二元論が崩れてもーて、今はすべてがグレイ、すべて灰色で白黒つけられず、人々はあせって答に飛びつこうとしてもーて無理やり白黒つけてまう、ほんで複雑なもんをそのまま受け入れられへんで過剰に単純化してまう。白黒つけられへんさかい、えらいまたよーけいろんな人がでてきた中で、俺のことも分かってくれぇと多様性を認めたものの、多様性のために他者は理解を超え、かえって誰も分からへん分かってもらわれへん孤独と幻滅とを呼んでもーた。恐るべき分断によって、すべてがずたずたに引き裂かれ、「世界は一つ」であるどころか、未来も信じることもできんよーんなった。 せやさかい、初心に帰るべく、YMO なわけや。なるほど。
かく言うワテも、かつて YMO 知らんかったけど、ワテなりに無邪気に未来を信じてたわけや。少年が見た合衆国は、まさに超絶ハイテク、底抜けに自由なクリエイティヴィティ、明るく豊かな感受性での交感能力、それらによって、差別や社会問題すらをもみーんな話し合ぅて解決していこう言ぅ、意志とやさしさとが共存するユートピアに思えた。日本にいたら想像もでけん多様性に満ちた世界が、その多様性を内包しつつ、ひとつになってくんや! ほんで俺はその最先端や!
そんな初心に立ち返って、今という英雄のいない時代に負けた無ぅて、ご丁寧に因果律によって YMO おじさんと、じじいのワイとがシンクロニシティを経験してるわけやね。
こないごっついでっかい重たい雑誌でアートをするのが勘違い平行棒なんかどうなんかはさておき、せやったとしてもワテみたいなおっさんが買い占めてもーて、肝心の読者には届かへんやろうことはさておき、レアな写真もあるし、もー、知らんことだらけや。
年齢だけなら YMO どんぴしゃ世代のはずが、日本におらなんだがために未だ YMO を知らず。 たぶん、永遠に知らんままやろなー。
まぁ、ええがな。
総括もないまま、ゆるゆる戦後時代を生き延びていく戦友会みたいなもんかな。
そのうちにまた、なんかおもろいもん見つけて、ほんで日々、愉快に暮らすって。
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sasakiatsushi · 6 years
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『シチ���ーションズ  「以後」をめぐって』
シチュエーションズ
1。百年の失語
 「新潮」の四月号に、「震災はあなたの〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」という特集が載っていた。総勢二十八名の作家が、編集部が投げ掛けた先の二つのアンケートに答えている。中でも印象的だったのは、「ワイルドサイドを歩け」というタイトルの付いた、町田康による回答の一節だ。
 いま小説を書ける奴は小説家じゃないですよねぇ、と死んだ父に語りかけて小説を書いている。四月号と言いながらその実、三月に出て、そこに載る文章を一月に書いていること。その矛盾がいま露になってなにも言えない。
 ここでは二つの問題提起がされている。「いま小説を書ける/書く」とは如何なることなのか、という、端的かつ直截な��い。それから「月刊」である文芸誌の制度的な慣習への違和感の表明。「いま露になってなにも言えない」と言うのだから、二つ目の問題は一つ目と実は繋がっている。読者の側からみれば、この三月に、四月号と記された誌面で、一月には書かれていた言葉を読んでいるという「矛盾」は、もちろん今に始まったことではないし、文芸誌だけのことでもない。だが、このささやかなタイム・パラドックスは、この企画が「100年保存大特集」と銘打たれていることによって、一挙に加速拡大することになるだろう。「100年」という数字は、或る途方も無さとリアリティとを併せ持っている。百年後の未来は、それほど遠くはなく、それほど近くもない。  なぜ「100年」なのか、という時間についての説明は、なぜか「新潮」には無いのだが、たとえば、アンケートに回答を寄せてもいる古川日出男が、十七人の作家・詩人の「3・11」をめぐるアンソロジー『それでも三月は、また』のために書き下ろした短篇「十六年後に泊まる」の中に、ひとつの答えを見つけることが出来るかもしれない。二〇一一年の五月、十六年目の結婚記念日に、作家は妻を伴って、約一年ぶりに福島の実家へと帰郷する。その経緯を綴ったエッセイ風の小品だが、小説の最後にふたりは東京に戻るべく、ホテルを出てタクシーに乗る。
 僕はどんなタイミングで思い出してもよかったのだが、実際にはこのタイミングで、イギリスの科学誌『ネイチャー』になる論文が掲載されたとの報道を思い出した。福島第一原発の廃炉には数十年から一〇〇年かかる、と、その論文は指摘していた。たとえば三十年後か四十年後ならば、僕にも廃炉を見届けられるチャンスはあるだろう。妻にもあるだろう。しかし、一〇〇年後には? 僕は、自分はこの地上にはいないし、妻もいないし、この運転手もいないな、と感じた。いや、理解した。われわれは誰もいない。
 この後一行で、小説は終わる。つまり「一〇〇年後」とは、ひとつには、たとえば「福島第一原発の廃炉」が完了するまでに要するかもしれない時間のことである。  私たちは、今から百年前に書かれた小説を、そこに書かれた言葉を読むことが出来る。もっとずっと昔に書かれた言葉だって読むことが出来る。だが、百年前に何かを書いていた人々は、百年後か、それ以上先の未来に、自分の言葉が誰かに読まれていることを、たとえそう望んでいたとしても、確信することは出来なかった。それは百年後には廃炉が成されているのかどうかを、そう願う人々の誰ひとりとして確かめることが出来ないのと同じである。  保坂和志は、新しいエッセイ集『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』の中で、こんなことを書いている。
 私は自分の本が一〇〇年後にも読まれているとは思っていない。一〇〇年後に読まれていると想像することができたら、幸福感か満足感を味わうことができるかもしれないが、私はそういう風には楽天家ではない。
 いかにも保坂氏らしい、率直な発言だが、「しかしそれでは何故、なぜ自分は小説を書くのか?」と、すぐさま氏は続ける。
 小説家が小説を書くのは、小説を書くという行為を通じて何かを考えたいからだ。そして、できるなら人間の考えるという営みに関わりたい。  ここで注意してほしいのだが、私は作品という形で残りたいと思っているのではなく、考えたり感じたり記憶したりするプロセスに小説を書くことで関わりたいと思っているのだ。
 保坂氏が言っているのは、特に「いま」には限らない普遍的なことだろうが、作家たち、言葉の使い手たち、あるいは、言葉に限らない諸芸術表現の作り手たちの多くが、あれからの一年間を、一種の失語症に直面しつつ過ごし、今もなお、そこから完全には出てこられていない者もいる、という事実を鑑みると、「いま」こそ「考えたり感じたり記憶したりするプロセス」に立ち戻ってみること、そこからふたたび始めるしかないのではないか、とも思う。それは未来の他者に向けて、タイムカプセルに「保存」される言葉を、後悔抜きに紡ぎ出すためにも必要とされている。百年後の読者は、ことによると、いま以上に、失語への動揺と絶望を乗り越える術を求めているのかもしれないのだから。  ところで、もうひとつ押さえておかなくてはならないのは、町田康が韜晦まじりに記した「いま小説を書ける奴は小説家じゃないですよねぇ」に対して、それでも書いてしまった者はどうなのか、という問題である。それは、鈍感にも難なく書けてしまえた、ということなのか。失語症への共感が強化される場では、ともすればそれは短慮による仕業と解されかねない。ならば、失語の強迫と誘惑に抗い、勇気を奮ってようやく言葉を発した、ということならば赦されるのか。失った言葉を取り戻した者と、言葉を失わなかった者の差異は、何処にあるのか。あるいは、こう言ってしまってもいい。短慮で何が悪いのか?  高橋源一郎の『恋する原発』は、二〇一一年に書かれ出版された「純文学」のなかでも、もっとも倫理的な作品のひとつだった。無論、「3・11」のチャリティーAVを作ろうとする話だなんて、不謹慎という物議=ウケを狙った火事場泥棒的な無恥の所業であるという非難もあっただろう。各章が全部途中から日本語吹き替えミュージカル仕立てになるだなんて、幾らなんでも悪ノリが過ぎるという批判もあり得るだろう。軽挙妄動、正に短慮そのもの、あんなのは不誠実のフリをした誠実さのフリをした不誠実だよ、と。だが私はそうは思わない。あれは不誠実のフリをした誠実さのフリをした不誠実のフリをした(…)やはり紛れもない誠実さなのだ。言い換えればそれは、自分の紛れもない不誠実さを隠さない、ということでもある。重要なことは、高橋氏が「短慮」を怖れず、そこから逃げもしなかったということだ。私が感銘を受けたのは、演技でもいいから真面目にやってないと誰もまともに受け取らないだろう状況において、演技ではない不真面目を丸出しにすることでしか表現され得ない何かがあるのだということに、たぶんあの時点では『恋する原発』だけが意識的だったからである。  二〇一一年に高橋氏がツイッターに投稿した「つぶやき」に、同時期に書かれたエッセイや評論、小説などの断片を挟み込んだ本『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』の「おわりに」に、高橋氏はこう書いている。
 いつもの年より、ずっとたくさんの「ことば」を、ぼくは書いた(発した)。いつもなら書かないだろう、そんな「ことば」も、ずいぶんあった。  中には、いいものも、たいしてよくないものも、つまらないものもあるだろう。繰り返しや、混乱もあるだろう。でも、ぼくは、その「ことば」たちと一緒に、真剣に、なにかを探ろうとしたのだった。
 若干いい子ぶってるように読めなくもない。だが、それでもやはり、ここには「失語」に抗する「ことば」の遣い手であるひとりの作家の姿がある。「ひとりの人間が、なんの準備もなく、ある事件に巻き込まれる。その様子を、正確に再現してみたかった」と高橋氏は記している。そしてそれは、書くこと、書き始めること、書いてしまうことによってしか試行されないのではないか。  失語が抱える問題は、わたしは言葉を失った、とは言えてしまうということである。これはいわゆる「表象不可能性」のパラドックスに似ている。「表象不可能なもの」は「表象不可能」として、実質的には表象されている。真正の「表象不可能」とは、けっしてそう呼ばれてはならないし、呼べもしないものなのだ。同様に、くだんの「震災」と「原発」によって惹き起こされた失語症もまた、そう表明し告白されることによってパラドキシカルな発話として機能し、発語を選んだ者を無意識に断罪する。そして、それはそれで無理もないことだとも思うのだ。だが、忘れられてはならないのは、わたしは言葉を失った、とさえ口に出来ない者たちへの想像力と、短慮の謗りを恐れず発語を選んだ者たちへの真っ当な理解である。そうではないか?
2。「後ろめたさ」と「みっともなさ」
 映画『311』には、ドキュメンタリー作品としては些か例外的なことだが、監督として四人の名前がクレジットされている。森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治。森にかんしては説明は不要だろう。綿井は、アフガン、イラク、東ティモール、(津波被害の)パプアニューギニア等々を現地取材してきた国際派の映像ジャーナリスト。四名の中で最も若い松林は気鋭のドキュメンタリー映画作家。そして森の『A』『A2』、綿井の『Little Birdsーイラク戦火の家族たち』、松林の『花と兵隊』のプロデュースを務めたのが安井である。 二〇一一年三月二六日から三一日にかけて、彼らは一台の車に同乗し、東北へと向かった。岩手県陸前高田、大船渡、遠野市、宮城県仙台、石巻、東松島市、福島県三春、浪江、大熊町と廻り、四名が各々ビデオカメラでその一部始終を記録した。そうして残った五〇時間強の素材を、追って安井が編集し、一本の長篇ドキュメンタリー映画として完成したのが『311』である。だが四人とも、それぞれの動機によって、とにもかくにも「現認」するために行ってみよう、というだけで、当初は作品にするつもりなどなかったという。映画化へと至る顛末については、公開に合わせて刊行された四人の共著『311を撮る』に詳しい。   『311を撮る』の中でも、ロードショー公開に先んじて山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された際の観客からの激しい反応について触れられているが、確かにこの映画の評価は賛否両論が真っ二つに分かれるだろう。「震災」と「原発」をめぐっては、すでに夥しい数の映像作品が撮られているが、その中でも『311』は極めつけの問題作だと言える。その理由を安岡卓治は一言でこう述べる。「この映画は、被災地を取材しているが、主人公は取材した我々自身だ」。  作品にするつもりがなかったのだから当然と言えば当然かもしれないが、映画の冒頭、被災地へ出発してまもない頃の四人の言動は、まだどこか緊張感を欠いている。確かに『311』の「主人公」は、四人の監督自身である。だが、それとは別に、実はこの映画には前半と後半で、それぞれ「主役」が居る。前半の主役は「線量計」である。福島第一原発から約150kmに位置する東北自動車道で計ってみると、見る見るうちに数値は上昇していく。東京とは比較にならない、その上がりっぷりに驚きと戸惑いを隠せない彼らだが、それでもその言葉の端々には、びびりながらも面白がっているような雰囲気が窺える。「健康への影響は?」「直ちに?」「直ちに、あると思います」という、当時何度も繰り返されていた枝野官房長官の言い草をもじったやりとりは、まだ軽口の次元を出ていない。しかし道中が進むにつれて、線量は飛躍的に上がっていく。線量計が発するピコピコという電子音がずっと聞こえている。防護服を買い、マスクとゴーグルで顔を覆った彼らは、福島第一原発を目指すが、8kmのあたりでタイヤがパンクしてしまい、敢えなく引き返すことになる。その修理の間も、ビニール袋に包まれた線量計は、ピコピコを発している。すでに数値は東京の百倍を超えている。  作戦(?)を練り直した彼らは、今度は津波被害に遭った地域を目指す。陸前高田で、あまりにも圧倒的な被害の甚大さに茫然とする四人。まだ地震から二週間ほどしか経っておらず、あちこちで行方不明者の懸命な捜索が続けられている。仙台で共同通信の多比良孝司記者と合流して、石巻の赤十字病院や避難所となった高等学校などを取材し、石巻市立大川小学校に辿り着く。まるで爆撃に遭った跡のような壊滅的な光景がひろがっている。ふと気づくと、四人の中でも森達也が画面に映し出されることが増えている。森が被災者に話しかけ、インタビューする様子を、別の者が撮影し、そのカメラのファインダーを、もうひとりが撮影していたりもする。だが、映画の後半の「主役」は、この過程で唐突に映し出される「豚の死骸」である。いつしか四人の暗黙の目標は、遺体を撮ることへと収斂していっている。なぜならば、どこに行って��、すでに遺体はすべて運び出された後であり、その不可解といえば不可解な事実への微妙な違和感が募っていったからだ。人間の遺体が撮れなかったので代わりに豚の映像を置いたのだと言えば、不謹慎と思われても仕方がないが、それでもおそらく間違いなく、確実に、しかも大量に存在していた筈であるのに、イメージとしては徹底して不在の「人間の死」を代補するものとして、無造作に土の上に横たわる「豚の死」は、編集段階で残されたのだと思われる。  『311』の賛否両論を二分する重大な出来事が起きるのは、この後である。青いビニールシートで覆われた、おそらくは遺体を運んでいる様子を、やや後方から撮影していた彼らは、その場に居た男性から突然、木片を投げつけられる。なぜ撮ろうとするのか、撮らないでくれ、どういうつもりなのだと詰め寄る男性に、森が抗弁する姿を、ドキュメンタリストとしてのあるべき態度だと捉えるか、何もそこまでやらなくても、流石にみっともないのではないかと思うかで、この作品への評価は真逆になる。実際、あまりにも後味の悪いラストであるという感想も、映画を観た者から多々寄せられたという。その中には、森たちと同じ、取材する立場の人間も居た。  ひとつ確実に言えることは、しかしこの後味の悪さは、安岡卓治が編集作業を通して発見し、四人の合意の上で、意図的に刻印されたものだということである。『311を撮る』は、四名が一章ずつを書き下ろした共著であり、内容的な擦り合わせや統一は敢て行なわなかったという。結果として、それぞれの考えや受け取り方の違いが鮮明に出ている。綿井健陽は、百戦錬磨のジャーナリストらしく冷静な熱意をもって取材に当たりながらも、過去に経巡ってきた戦場をも超える被災地の惨状に茫然とする。彼は遺体を撮ることに強く執着し、後になって自らの執着について省察を続ける。彼はその後も何度か別のチームで福島へと向かうことになるだろう。松林要樹は、映画祭や試写で浴びた批判について「褒められるよりけなされたほうが、どこか納得のゆく気持ちが起きる」と記している。「消化不良の感情はいまだにある。この生煮えの感覚をどう乗り越えていくのか」。彼は『311』の取材から東京に戻った四月一日の翌日、南相馬市に支援物資を届ける旧友の車に同乗し、ふたたび被災地に向かった。彼はそれから幾度も南相馬を訪ね、そこに生きる人々と触れ合いながら撮影を続け、やがて『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』という一本の映画として完成させ、『311』と同じく山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映するに至る(私はこの作品を未見だが、必ず観るつもりでいる)。プロデューサーであり編集者でもあるという、他の三人とは異なる立場を背負った安岡卓治は、何よりもまず、これを作品として完成させること、そして完成した映画を公開することにかんして、その是非について悩み続ける。その時、彼の頭を過ったのは、ジョナス・メカスの「われわれの欲しいのは血の色をした映画なのだ」という言葉だったという。彼は書いている。
 映画『311』は、何もなしえなかった我々の無力さを描いている。ネガティブなスタートラインだと思う。それは、二〇一一年三月時点の我々の姿をはっきりと刻み込むことだ。この無念さを消したり、何かキレイごとで覆い隠したりはしない。
 森達也は、あの日のあの時間、「ドキュメンタリー番組企画コンペティション」の審査会のため、六本木の高層ビルに居た。仕事は中止され、交通機関も動かないので、地震と津波が東北に齎した、今まさに齎しつつある悲劇を知らぬまま、居酒屋で泥酔した森は、夜になってから被害の規模を知って愕然とする。彼はそれから二週間近く、自宅に閉じこもってひたすらテレビを見続けた。他には何もせず、時には泣いたりしていた。だから綿井健陽から被災地への同行を求められた時も、最初は「無理だよ」と答えている。だが、森はその直後、自分から綿井に電話して「行く」と告げたのだった。
 心変わりした理由は、自分でもよくわからない。このま家でテレビを観続けながらメソメソしていても仕方がないと思ったことは確かだ。(略)被災したわけではないし家族が津波で流されたわけではない。食べるものに困っているわけでもないし、寒さに凍える夜を過ごしているわけでもない。  つまり僕は非当事者なのだ。  ところが気分的には当事者になりかけている。最も悪いパターンだ。ならば現地に行くべきだと考えた。もちろん現地に行ったとしても、当事者になれるはずはない。でも非当事者には非当事者の役割がある。自分にも自分の役割がある。
 森は完成した映画を「被災者たちを後景にしてセルフ・ドキュメントを撮るようなもの」と認めている。それは安岡がいう「我々の無力さを描く」ということでもある。無力な非当時者であるしかない自分は、そのままの存在として、被災地にカメラを向け、カメラを「反転」させて、無様でみっともない自らの姿を映し出す。善意の取材者を装い(と敢て書くが)、何とかして被災地に在る者たちから「悲劇」を聞き出そうと、それを無理にでもカメラに記録させようとする森の物腰は、ともすればトゥーマッチな露悪趣味のように見えなくもない。映画の中盤から、水を得た魚のように活躍し出す、このような森の態度は、大川小学校のシーンで、いわば負のクライマックスを迎えることになる。だが、森は自分の非道ぶりを、誰よりも���くわかった上で、そうしているのだ。彼はただ「自分の役割」に忠実たろうとしているだけだ。
 自覚すること。自分は残酷な存在なんだと思い知ること。撮ったり取材することは鬼畜の所業なのだと認めること。後ろめたさを引きずること。
 森は、英語で「Survivor's Guilt」と呼ばれる感情について書いている。それは、生き残った者、死ななかった者の罪の意識、後ろめたさのことだ。彼はアウシュヴィッツを生き延びた作家プリーモ・レーヴィの死に触れ、Survivor's Guiltを特権意識とパレスチナへの憎悪に転化させたイスラエルについて述べる。そして、大切なのは、「sens of guilt」を引きずること、引きずりながら前に進むことだ、と書く。  四人の監督の認識は、少しずつ、部分的にはかなり異なっている。だが、全員が認めているのは、『311』という映画が、「後ろめたさ」についての映画であるということだ。それは「非当事者」であるがゆえの感情である。だが、何をどうしたとしても「当事者」にはなれない事態というものが、この世界には存在している。だから出来ることと言えば、背負ってしまった「後ろめたさ」をけっして手放さず、それと向き合い、むしろ凝視するようにして、そしてそれでも何ごとかをやるつもりがあるのなら、ただやればいいだけだ。それはしかし、当事者ではありえないからこそ出来ることがある、などといった、やはり綺麗事というしかないような言い訳とは違う。そうではなく、それはあたかも鈍感であるかのような表情で、他人に晒け出されるのはもちろんのこと、自分自身にも翻って突き刺さってくるだろう、ある歴然とした、みっともなさに耐えることなのだ。  『311』は、どうしようもなくみっともないドキュメンタリー映画である。だが私は、こう言ってよければ、ある爽やかさを感じた。それは「後ろめたさ」が乗り越えられているからではなくて、まったく反対に、そこに「後ろめたさ」がくっきりと映っているから、四人の監督が、それぞれの「後ろめたさ」を大事に抱え持っていることが、正にその後味の良くない「みっともなさ」ゆえに、よくわかるからである。
3。「俺だって考えてる」
 『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』の「まえがき」で、保坂和志はこんなことを書いている。
 この連載が終わりに近づいたところで三月十一日の地震と津波があった。福島第一原発の事故もあった。私は当然それについて書くことになるのだが、それはそんなに“当然”だったのだろうか? 私はあの地震のことも津波のことも原発のことも本当に書かないではいられなかったんだろうか、そのとき私の関心は他のほとんどの人と同じくそのことにしかなかったんだからそういう意味では当然なのだが、それでもやっぱりそのことが私の心のすべてを占めていたわけではないことを考えると、結局私はまわりの人というよりもむしろ私自身に向かって、 「俺だって考えてる」と、言い訳したりポーズを取ったりしていただけなんじゃないか。
 「俺だって考えてる」と言いたいがためにだけ書かれたと思しき「ことば」は、間違いなく数多ある。むしろそれを言いたい相手が「まわりの人」ではなく「私自身」であるだけましではないかと思う。私はかなり早い時点から、多少とも社会的な発言を求められていると自認しているらしき連中による「俺だって考えてる」に辟易させられていた。何かを思うこと、何ごとかを考えるということと、それを他者に伝えること、公に発言することは、まったく別の次元にある。無論、外に出さなければ誰にもわからないわけだが、ひとは考えてもいない/思ってもいないことだって口に出せるし、書けてしまう。それに「俺だって考えてる」と誰かに思われたくて書かれるようなことは、保坂氏も言うように、大概は退屈である。だが時として、とりわけ非常時には、ひとは「退屈」を真摯さと取り違える。それで益を得る者も居る。  だから私は、長らく「震災」と「原発」にかんする発言に、たぶん人一倍警戒的であったし、シニカルでもあった。その種の求めは、ほぼ全て断った。私の目と耳には、多くのそうしたものは「俺だって考えてる」に翻訳されたし、だから自分がそうしても結局は「俺だって考えてる」になってしまうのではないか、と思っていたからである。この自分でも幾分神経過敏ではないかとも思える感覚は、いまも基本的には変わっていない。だが、多少の変化はある。  スガ秀実の『反原発の思想史』は、戦後の「反核=反原子力=反原発」の歴史を専らニッポンの左翼運動/思想史の視点から読み直すことで、従来の了解に野太い楔を打ち込む刺激的な一冊だが、全体の論旨からするとやや傍系に属する部分に、ごく短い和合亮一への言及がある。一九五四年に編まれた『死の灰詩集』に鮎川信夫が浴びせた痛烈な批判にかんして触れた箇所で、スガはいささか唐突に、こう書く。「在住地福島からツイッターによって発信され、詩集として刊行されている和合亮一の詩(『詩ノ黙礼』、『詩の礫』、『詩の邂逅』、いずれも二〇一一年)は、震災・原発事故以後の「国民感情」におもねっただけのものではないのか、どうか」。  「国民感情」というのは、鮎川信夫が、詩人の代表的団体である現代詩人会による「反核」の表明である筈の『死の灰詩集』が、執筆者の顔ぶれとしても、また本質的にも、大東亜戦争総力戦体制下における愛国的/戦争賛美的な「文学報告会編『辻詩集』の戦後版」だと喝破したこと、両者に共通するのは、その時々の「国民感情」におもねってみせる姿勢だとしたことに因っている。そしてスガはこう続ける。
 和合の詩は、たとえば、宮沢賢治という東北出身の「国民的」詩人を頻繁に参照することで適当にソフィスティケートされており、適当に「つぶやき」であり適当に「叫び」である。「南相馬市を見捨てないで下さい」と言うことは、実際にそうであるか否かは問わず、「見捨てる」と言うはずもない、「国民感情」におもねっているのではないのか。そのソフィスティケーションは、震災直後から公共広告機構のCMでいやというほど流された、金子みすゞ程度のゆるいものである。そのゆるさが、おもねりの証明なのだ。
 スガは和合の「ツイッター詩」を、あくまでも「詩」として、あるいは「詩集」として、つまり「作品」として評価し審判しているが、それは現実には、余震と放射線量に脅えながら毎日毎晩、携帯からきれぎれに発された「つぶやき」の集積である。もちろんそれらは和合自身によって明確に「詩」であると宣言された上で、ネット上に送り届けられたものではある。詩の言葉として客観的に読めば、そこに「ゆるさ」があることは確かだが、現代詩の中でもアバンギャルドな作風であった和合が、あのようなナイーブでストレートなフレーズの数々を書き付けざるを得なかったという事実が意味するものを、和合の「詩」の「以前」と「以後」の落差をこそ読むべきではないか。「南相馬市を見捨てないで下さい」という台詞に、「国民感情」は「見捨てる」と言うわけがない、と返すのは、あまりにも和合に酷ではないだろうか。絶対に見捨てられる可能性などないと、あの時点で和合に確信出来た筈がないのだから。  たとえば「以前」の和合亮一の「詩」とは、次のようなものである。
(「GO NO GO」、冒頭より「ゲームオーバー/リセット」まで) (「爆笑悶絶反転大龍」、冒頭より「驚天動地の現実に取り残される一行としての龍」まで)
 二〇〇五年に刊行された和合の第四詩集『地球頭脳詩篇』の二篇から抜粋した。すこぶる「現代詩」らしい書法と言っていいだろう。和合はもともと、ヴァラエティに富んだ主題を、先行世代のさまざまな達成を踏まえた華麗なテクニックを駆使して作品化してきた。彼は「現代詩」の「現代詩らしさ」に、極めて敏感な詩人である。そんな彼が、二〇一一年三月十八日深夜の「ツイッター詩」では、こう書きつける。
あなたの街の駅は、壊れていませんか。時計はきちんと、今を指していますか。おやすみなさい。明けない夜は無いのです。旅立つ人、見送る人、迎える人、帰ってくつ人。行ってらっしゃい、おかえりなさい。おやすみなさい。僕の街に、駅を、返してください。(『詩の礫』)
 これを前掲の諸作と同じ次元にある「詩」として読むならば、むろん明らかに弛緩している。それは間違いない。それに和合の振る舞いの内に、スガをして先の批判を綴らせるような部分がまったく無いとは、私も思わない。けれども、もっと重要なことは、かくのごとき「ツイッター詩」が、自分が過去に書いてきた「現代詩」とは較べるべくもない水準にあることを誰よりもよく知っている筈の和合自身が、それを敢て「詩」と呼んだ、ということなのではないか。それは「現代詩」としての純然たる価値判断とは別の、だが切実極まりない理由によって為されたことだ。「失語」に必死で抗するために、どうしても発さざるを得なかった言葉なのだ。これもまた「短慮」かもしれない。だが、和合は「これは詩ではない」と述べることだって出来たのだ。しかし彼はそうしなかった。このことの意味を考えなくてはならない。  ところで、スガ秀実は、こんなことも書いている。
 アドルノは、「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」(『プリズメン』)という有名な言葉を残した。しかし、「福島」以降の「詩」の問題とは、おもねることのない野蛮な詩を書くことなのである。そのような詩を書ける詩人は、今の日本において皆無に近いだろう。
 「野蛮な詩」が必要とされているという指摘は、あまりにも正しい。「詩」に限らずとも、今こそ「野蛮」さが必要とされている。だが、その「野蛮」さとは、単純な意味で「国民感情」と逆立すれば、そう見えればいいわけではないだろう。「短慮」や「後ろめたさ」や「みっともなさ」だけではないのはもちろんのことだが、「俺だって考えてる」に陥らず、「失語」をも回避するためには、一見「野蛮」とは思えないような、新しい「野蛮」が要請されているのではないか。このことは今後、時間を掛けて考えていきたい。
4。「三月一一日」と「三分一一秒」
 『反原発の思想史』の和合亮一への言及に続けて、スガ秀実は、「映画においても、似たような事態が発生している」と書き添えている。
 『殯の森』で二〇〇七年のカンヌ国際映画祭グランプリを獲得したことで知られる映画監督の河瀬直美は、三月一一日の「福島」に際し、世界の著名な映画監督に三分一一秒の短篇を作ってもらい、それを集めてオムニバスの六〇分にして、被災地を巡回上映すると呼びかけた。この試みが愚劣なのは、まず何よりも、「三分一一秒」という言葉の無意味な美学化にある。
 ここでもスガの言っていることは正しい。だが同時に、やはりどこか不十分であるとも感じる。私は河瀬直美企画のオムニバスは観ていないが、同じく「三分一一秒」の短篇映画四十二本から成る、仙台短篇映画祭映画制作プロジェクト作品『明日』を観ることが出来た。「ショートピース!仙台短篇映画祭」は、従来は短編映画の一般公募をメイン・プログラムとする映画祭だが、震災によって昨年度の開催が危ぶまれる中、発足十一年目にして、はじめてとなる映画制作に踏み切った。映画祭実行委員の菅原睦子が『明日』のパンフレットに寄せた文章は、「映画祭をやりたい。ただ、その思いだけだった」という一行から始まる。
 そのとき久しぶりにスタッフが顔を合わせ、みんなで寄り添いながら確認したことは、「予算も会場もなくなったけれど、今年も映画祭をやりたい」、「できることなら、上映する映画を新たにつくってもらおう」ということだった。  映画をつくってもらうなんてことが、本当に頼めるのか。つくってもらうなら、どんな内容がいいのか。躊躇していた私を、4月7日、2度目の大きな地震が襲った。春の訪れとともにやっと回復の兆しを見せ始めた街から、再び電気が消えていく。そんな光景を目の当たりにし、私はどこか壊れてしまったのかもしれない。「つくってもらうぞ!」という勢いで、本当に勢いだけで、監督や制作に携わっている70人近い方々にメールを出した。  けれども、勢いでメールを出した元気は、翌日にはあっけなくしぼんでいた。映画をつくるなんてことを、こんな時に言っていいのか。能天気な発想ではなかったか。沿岸部の大変さや福島のことを考えると、あまりに考えなしの行動と映るのではないだろうか。やってしまったことに不安が跳ね返ってきて、一気に気持ちが悪くなってしまった。  そんなとき、ひとつ、ふたつと返信が届き始めた。「やりましょう」。何度も何度もメールを見た。小さなノートパソコンのモニターが、闇を照らす光のように思えた。
 こうして四十一人の監督による四十二本の短編映画が完成した(ひとりだけ二本制作した者がいるのだ)。決まり事は二つだけ、テーマは「明日」、そして「三分一一秒」であること。当然のことながら内容は非常にヴァラエティに富んでいる。参加した監督も、塩田明彦、山下敦弘、篠原哲雄、鈴木卓爾、入江悠、瀬田なつき、真利子哲也、甲斐田祐輔、佐藤央、濱口竜介、堀江慶、内藤瑛亮、田中羊一、等々、若手から中堅まで注目の才能が揃っている。河瀬直美もいる。だが私がもっとも印象深かったのは、唯一、二本を監督している冨永昌敬の作品だった。  二つの「三分一一秒」は連作になっており、どちらも冨永監督が手を変え品を変えつつ継続しているシリーズ「シャーリー・テンプル・ジャポン」で主人公シャーリーを演じている俳優(福津屋兼蔵)が映画監督に扮している。最初の『妻、一瞬の帰還』は、監督が病院から退院してきた妻を迎えに行くと、どうやら嫉妬心のあまり精神に異常を来していたらしい彼女はすぐさま自分が入院中の夫に疑いの目を向けて錯乱し、そのまま自ら「病院」へと引き返す。『武闘派野郎』は、その翌日の話である。前日の妻の台詞の中で語られていた若い女性(妻の前夫の妹)が男友達を連れて監督の家を訪ねてくる。単細胞丸出しの男友達は映画に出たいと言って初対面の監督に不躾な質問を浴びせ続けたあげく、腕相撲で勝負しようと挑みかかる。  何しろ「三分一一秒」しかないので、どうしてもコントみたいになってしまうし、実際かなり笑えるのだが、しかしよく考えてみると、かなり巧妙に出来ていることがわかる。二本立てなのは、一本目の翌日が二本目ということで、これによって「明日」というテーマをクリアしたということだろう。人を食っているといえばそれはそうだが、企画を逆手に取った、冨永昌敬らしい発想だと思う。また映画のラストは二本とも、家に居候している友人の「何かあったの?」という問いかけに対して、監督が「何でもない」とぶっきらぼうに答えるというものである。ではこの友人はどこから来たのか? ひょっとすると被災地かもしれない。そう考えられる証拠は映画のどこにもないのだが、しかしこの二本が『明日』というオムニバス映画の一部であるということが、観客にそのような想像力を働かせることを許している。  じつは先ほどの菅原氏の文章の中で、彼女に『明日』の製作を決意させたのは、冨永昌敬であったことが明かされている。冨永監督の映画『パンドラの匣』のロケ地は南三陸町であり、彼は二〇一一年四月一日に同地を見舞った帰りに仙台へも立ち寄り、かねてより親交のあった映画祭のメンバーと再開した。引用部分冒頭の「そのとき」とは、冨永監督の来訪時のことを指している。『明日』のパンフに彼は「映画制作のこと」という文章を寄せているのだが、そのとき、彼は「企画上映やりましょう。みんなで短い映画を持ち寄れば大きなプログラムになりますよ」「どんなに忙しい監督だって5分や3分の短編だったら撮ってくれるでしょ」などと叫んだのだという。そこから、いつしか「三分一一秒」の短篇オムニバスという企画が立ち上がっていったということらしい。
 だからこの企画は、不特定多数の被災者や被災地に向けて発案されたものではないと僕は思っている。ましてやこの未曾有の国難下の日本に救いをもたらすような殊勝な意志でも決してない。何よりも願うべくは仙台短篇映画祭の健全な開催なのであって、そのためならばと、多くの作り手たちが手製の小品を持ち寄ったというのが正確なところではないだろうか。(中略)  その中身がどんな「3分11秒」であろうと、積み重ねれば「6分22秒」にも「9分33秒」にも「12分44秒」にもなる。いや、いずれ「3日11時間」くらいの大作にまで膨張するかもしれない(いったい何年後だろう?)。まあともかく、うずたかく積まれた小さな固い石の集まりが、やがて強固な防波堤となり、映画を愛するこの美しい町を人知れず囲んでしまうことを僕は夢想する。
 真に感動的な文章だと思う。なぜ冨永作品だけ二本あるのか、という素朴な疑問への答えも、これで明らかだろう。もちろんそれは「三分一一秒」を「六分二二秒」に、そしてそれ以上に「膨張」させていき、遂には「強固な防波堤」を築くという「夢想」を実践的に示唆するために行なわれたことなのだ。ほとんど巫山戯ているとしか思えない内容の二本の「三分一一秒」によって、冨永昌敬は仙台の映画の友人たちの想いに応えようとしたのである。明日には「明日」が存在しているということ。無数の「三分一一秒」が「防波堤」にだって成り得ること。このふたつの事実を示すことによって。そう考えれば、監督と友人による「何かあったの?」「何でもない」の反復も、また別の意味を帯びてくるのではないか。  ここでようやっとスガの指摘に戻るが、ひとつ確実に言えるだろうことは、もしも「三分一一秒」という言葉の「無意味な美学化」と言える作業が為されているのだとしたら、それは「三月一一日」を「三分一一秒」に短絡的に変換することだけではなく、そうして現れることになった「三分一一秒」を殊更に問題化してみせることによって完遂されるのだということである。菅原睦子の文章には「三分一一秒」にかんする言及は一切ない。冨永昌敬が書いているように、それはいわば単なる思いつきでしかない。「三」と「一一」という数字=言葉には、何の意味もありはしない。もちろん「三月一一日」についての「三分一一秒」の映画というと、すぐに思い出されるのは、「九月一一日」をめぐって世界十一カ国の監督たちがそれぞれ「11分9秒1フレーム」の短篇を撮ったオムニバス映画『セプテンバー11』である。おそらく河瀬直美には、あの作品のことが頭にあっただろう。だが『明日』は違う。それはただ「どんなに忙しい監督だって5分や3分の短編だったら撮ってくれる」ということなのだ。四十二本の「三分一一秒」は、無意味ではあるが美学化されてはいない。そこには「三」と「一一」という数字=言葉によって悲劇をシンボライズするという意図は存在していない。それはただ、誰かに撮ってもらえたらと願う、未だ見ぬ映画へのささやかなきっかけとして差し出されているだけなのだ。  スガ秀実の言う「「三分一一秒」という言葉の無意味な美学化」は、その批判としての正当性、有効性を十分に認めた上で尚、それ自体も「美学的」であると私には思える。それは「三月一一日」から「三分一一秒」を抽出するという行為に対する趣味的価値判断であるからだ(「無意味���というのは言い換えれば、美しくない、醜い、ということだろう)。だが『明日』における「三分一一秒」は、要するに只の口実に過ぎない。四十一人の監督の誰ひとりとして「三分一一秒」に「意味」を感じてはいなかっただろう。けれども、この無意味で美しくはない「口実」がなければ、仙台短篇映画祭の菅原睦子は、依頼のメールを送ることは出来なかったのだ。
5。切り返しとオーバーラップ
 『なみのおと』は、「仙台短篇映画祭」と同じく、せんだいメディアテークを拠点とする「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の活動の一環として、東京藝術大学大学院映像研究科によって製作された長篇ドキュメンタリー映画である。ともに同大学院を修了した濱口竜介と酒井耕の二人は、二〇一一年七月から幾度か三陸沿岸部を訪ね、六つのインタビューを撮影した。この映画では(『311』とは対照的に)被災地の光景は、まったく映されない。津波の跡も瓦礫も原発も登場しない。二時間半近い上映時間のほとんどは、自らの被災体験を話す人々を捉えた映像である。昭和八年の三陸大津波を体験した老姉妹、気仙沼の消防団員たち、かけがえのない親友を喪った初老の女性、石巻市議会議員の男性、津波で家���と流されたが九死に一生を得た夫婦、相馬市で働く若い姉妹。それぞれ数十分の長さを持った各シーンの間に車での移動のショットが挟み込まれる以外は、他の要素は一切ない、シンプルな佇まいの作品である。  この映画は「オーラル・ヒストリー(口述による歴史)」の試みであるとされている。「この“語り”は、実際は過去や未来のためという以上に、今まさに起こっている「復興」の活動そのものなのではないだろうか、という気がしています。それは、瓦礫をただの瓦礫にしないための、個人と共同体の歴史を取り返す作業であるからなのです」(「作者のことば」山形国際ドキュメンタリー映画祭・東日本大震災復興支援上映プロジェクト「ともにあるCinema with Us」カタログ)。実際、全体としては淡々とした雰囲気を保ちながらも、だがしばしば抑えようとする感情が否応無しに溢れ出すこともあるインタビューイたちの話は、いずれも実感と今だ生々しい記憶によって���られているだけに、現在形の歴史性とでも呼ぶべき強度を備えている。  だが、それと同時に、この映画を観る誰もを少なからず戸惑わせることになるのは、インタビューの撮られ方である。通常のドキュメンタリー映画において、インタビュー場面は、基本的に長廻しで撮影するか、一連の語りを複数のカメラで撮影しておいて編集するという形が取られることが多い。だが、この映画では、まるで劇映画のように、いや、もっと精確に言うなら、まるで小津安二郎の映画のように、いわゆる「切り返し」が多用されているのである。  最初の老姉妹のシーンを例に説明しよう。インタビューイが複数居る場合、別々に撮影するか、横に並んでもらって話を聞くのが普通である。だが『なみのおと』では、二人は互いに向かい合って坐っている。つまり対話をしているように見えるのだが、にもかかわらず、二人をそれぞれ真正面から撮ったショットが細かく挟まるのである。だが二人の話は切れ目なしに続いている。対面する二者を正面から捉えた画面が交互に編集されることを「切り返し」という。これは劇映画においては特に珍しいことではないが、ドキュメンタリーでは奇妙な印象を与える。明らかにインタビューである筈なのに、あたかも緻密なカット割りが施されているように見えるからである。この奇妙さは、インタビューイが更に多い消防団員のシーンでは、より強調されることになる。また、インタビューイが一人しかいないシーンでは、聞き手を務めているらしき監督が対面して「切り返し」が行なわれている。  一体どのようにして、このような場面が撮られたのだろうか。推測の域を出ないが、おそらく各々のインタビューは二度(もしくはそれ以上)行なわれている。監督たちはまず普通にインタビューイに話を聞いて(二名以上の場合は個別にインタビューして)、その上で各シーンの構成をカット割りまで含めて或る程度準備してから、本番(?)の撮影に臨んだのだ。その際、インタビューイは、同じ体験談を二度以上することになるが、それゆえに個々の話は反芻され、整理されて、却ってリアリティを増しているのである。二名が対面するシーンでは、各々の真向かいからややずれた位置にカメラを据えて撮影したと思しきショットもあるが、しかし「切り返し」が引き絵になった時にはカメラは消えている。これは相当に計算して撮影していないと不可能なことである。  濱口竜介と酒井耕は、いずれも元々はフィクション映画を撮ってきた監督であり、『なみのおと』が初めてのドキュメンタリー作品である。「切り返し」という劇映画的手法の導入が意図的なものであることは明白だが、ではなぜ彼らはこのような(おそらくはかなり面倒な)方法をわざわざ取り入れたのだろうか。もちろん、まず第一に、人の顔を真正面から撮ることによって得られる美学的側面ということがあるだろう。この映画の感想をネットで幾つか読んでみたが、この点にかんする言及はやはり多かった。だが、表情をつぶさに映し出すということのみならば、ドキュメンタリーであれば「切り返し」を用いなくても出来ることである。だからむしろ、より重要なことは、カメラに、ではなく、生身の誰かに語りかける、誰かと語り合う、ということだったのではないか。インタビューはその本性上、問いと答えの応酬という形式を取る。だが問われる前から、インタビューイの内には、誰かに向けて語られるべき記憶の物語が潜在している。如何にしてそれを、出来る限りそれそのものに近い姿で掴み出すか。逆説的なようだが、劇映画的「切り返し」は、そのためにこそ召喚されたのだ。「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言ったのは森達也だが、その反対側には「フィクションは現実を晒す」という真理が存在している。『なみのおと』における「切り返し」は、いうなればフィクションとドキュメンタリーとハイブリッドである。先ほど、インタビューは二度以上行なわれたのではないかという仮説を述べたが、だからといって一度目が本物であり、二度目以降は演技ということではない。そうではなく、一度目から多少は演技であり、二度目以降にも真実は宿っている。『なみのおと』では撮る側も撮られる側も、そのことに意識的にならざるを得ない。ただカメラを回して質問を口にするだけでは、或いはカメラの前で自由に会話してくださいと求めただけでは、どうしても露わにならないことがある。それは「切り返し」のようなあからさまな作為の介入、フィクション性の導入によってこそ、画面に現れてくるのである。  これと似た感覚を、『311』の監督のひとりである松林要樹の単独作品『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』でも味わった。前回も触れておいたように、『311』のロケから東京の下宿に戻って間もない四月三日、松林は支援物資を届けるという友人の車に同伴して、ふたたび被災地に向かい、福島県南相馬市原町区を訪ねた。彼はそこで偶然に南相馬市議会議員の田中京子と知り合う。地震と津波による被害のみならず、福島第一原発から20キロ圏内に自宅がある為に避難所生活を余儀なくされている田中夫妻と南相馬市原町区江井地区の人々との交流は、思いがけない継続的な撮影へと松林監督を誘っていった。そうして一本の映画として出来上がったのが『相馬看花』である。  成立の経緯だけではなく、これはまさしく『311』の「続編」と呼ばれるべき作品である。『311』への「消化不良の感情」を隠そうとしていなかった松林監督が、自分なりの落とし前をつけようとした映画であると言っていい。田中氏の導きによって、震災と原発事故によって生活を根こそぎ損なわれた人たちとの幾つもの出会いがあり、彼は只管それをカメラに記録していく。それはやがて、この土地に深く刻印された、原子力発電所との、必ずしも望まれたわけではない共生の歴史=記憶を遡っていくことになる。「第一部」と題されているということは、当然「第二部」以降も予定されているのだろうし、事態は今現在も刻々と変化しているのだから、文字通りのドキュメントとしての役割を、この映画が担っていることは間違いない。だが私は、そればかりではなく、一編の「映画」として、『相馬看花』は紛れもない傑作であると思う。それは何よりもまず、この映画における「映像=イメージ」の複雑かつ繊細な用いられ方による。  『相馬看花』には、松林要樹が撮影したもの以外にも、複数の「映像=イメージ」が登場する。田中夫妻と親しくなった彼は、警戒区域への一時帰宅が認められた際に、居住者ではない自分は同行が許されないため、ビデオカメラを貸して撮ってきてもらうことにする。映画には田中氏の撮影による一時帰宅の一部始終が、ほぼそのまま取り入れられている。また、そのとき松林監督は、田中夫妻に自宅から一枚の写真を持ってきてくれるように頼む。それは原発から約15キロにある小高神社であげた夫妻の結婚式の記念写真である。まだ立ち入りが可能だった或る日、田中久治氏に桜を撮ってくれと言われて、その神社を訪れた折に想い出話を聞いたことがあったのだ。数十年も昔のモノクロ写真には、若かりし頃の田中夫妻と一緒に、すでに松林もよく知っている人達の姿が映っている。小高神社は、東京電力が原発の安全祈願を行なう所でもある。  結婚式の写真だけではなく、この映画には数枚の写真が画面に現れる。興味深いのは、それら写真の幾つかが、まず説明抜きにカットインやオーバーラップで提示されるということである。たとえば若き田中京子氏と子どもたちが写った写真は、最初に出てきた時には何であるかわからない。彼女の回想がその写真に記録された過去へと差し掛かると、ふたたび画面に写真がオーバーラップしてきて、ようやく観客はあれはこれだったのか、と納得することになるのだ。このようなカットバックならぬカットフォワードとでも呼ぶべき手法が、この映画では何度か使用されている。  もっとも印象的なのは、粂という老夫婦のエピソードである。足の不自由な妻のため、避難勧告が出てからも自宅に留まっていた二人を、田中氏と共に松林は訪ねる。水道も電気も止まった屋敷で、夫妻は炭で暖を取って生活していた。酒が足りないと話す粂氏に、次に来る時は一升瓶を持ってくると約束した松林は、ふたたび友人の写真家を伴って被災地を取材した折に、酒を土産に粂家を再訪する。粂氏は引退してから既に二十数年が経っているが、かつては福島第一原発の安全専任者として働いていた。帰りがけに写真家は夫妻を屋敷の軒先で撮影する。レンズに向かって穏やかに微笑む二人の背後に原発の鉄塔が見えている。それからまた暫く経って、粂夫妻は避難所に移っている。松林は写真を渡しに二人に逢いに行く。粂氏はとても喜んで、お返しだと言って自分のカメラで松林を撮る。だが現像されたその写真が画面に映し出されることはない。  このように『相馬看花』は、直截的なテーマとはまた別に、「映像=イメージ」と「見ること」をめぐる映画という側面を持っている。複数の古い写真や、作者とは異なる者による映像の意図的な挿入が、この映画に豊かな時空間的膨らみを与えている。それらはいずれも、いつかどこかで誰かが見た光景である。更には、素性がすぐにはわからないイメージのオーバーラップ/カットフォワードが、観客の「見ること」への意識を刺激する。そもそも題名からして「相馬で花を看る」という意味である。看ること。見ること。テーマとは別だと言ったが、しかし松林要樹にとっては、あの『311』の「続編」として、自分はいったい何を撮れるのか、撮るべきなのか、という現在進行形の内省と、南相馬の人々との親密なかかわりの中で、原発に蝕まれた土地の記憶=歴史への問題意識の深まりと共に、自然と導き出されてきたものであることも、また確かだろう。  『なみのおと』と『相馬看花』、二本の映画に共通しているのは、ドキュメントするためにこそフィクションが必要なのだ、という意識もしくは無意識である。「映画」に記録されているのは、常に既に嘗て「現在」であった「過去」であり、そうでしかない。だがそれが見られるのは常に「現在」である。だから「過去」を「現在」へと呼び戻すためには、その回帰に真の意味での切実さを与えるためには、何らかの仕掛けが要るのだ。それをフィクションと、ここでは呼んでいる。それは冨永昌敬の、一見したところ何とも不真面目な二本の「三分一一秒」に宿っていた誠実さとも響き合っている。そして私は、このあたりに「野蛮」へのヒントがあるような気がしているのだ。
6。算数・距離・測定
 「群像」の五月号に掲載されていた大澤信亮の評論「出日本記」を読んで、あれこれ考えた。「言葉が出てこない。問いが定められない。何を考えても嘘になる。そういう状態が九ヶ月間続いた」という驚くほどに率直な「失語」の告白から、この文章は始まっている。
 何が自分を立ち止まらせているのか、わかっている。未曾有の大災害という事件ではない。一人の他者だ。二〇一一年三月二十四日。福島の農家の方が自殺した。六十四歳の男性だった。三十年以上も有機農業を続けてきた人だった。そんな人が「もうだめだ」と自ら命を絶った。もう生きることが出来ないと。ここが出発点だと思った。  (中略)何かを書こうとすると、いつも男性のことが頭をよぎった。津波や地震で亡くなった方たちには、自然な同情も共感も抱けない私が、どうしてこの出来事にこうも囚われるのか。自殺と背中合わせの働くということ。そこに届く言葉が自分に言えるのか。そう考えてしまう。
 このような述懐をナイーヴと取るか真摯と取るかは読み手によるだろうが、ここで自問されている「どうしてこの出来事にこうも囚われるのか」への答えは明らかだと思う。地震や津波は基本的には自然災害だが、農家の男性の自殺には間接的ではあれ下手人が居るからだ。撃つべき敵が特定されているからだ。だからここで言われているのは数万人の死者たちと一人の自殺者の対立ではない。ひとりの背後に無数の人々を見ているのである。だが敢てこのような、受け取り方によっては如何にも不謹慎な言い方を挑発的にしてみせることで、大澤氏は百二十枚に及ぶ自身の論考の発進力としている。だが同時にこういうことも言える。たとえば「東日本大震災の犠牲者は二万五千人。だが日本の毎年の自殺者は三万人」というような言表がある。この数字は正しいのだろう。しかし、このデータによって提示されているのは、数が多い方が相対的に深刻だということではもちろんない。当然のことである筈だが、私たちはしばしば、この点を見誤る。数が問題なのではない。数万人だろうが、たった一人だろうが、望まれざる死であったことには変わりない。二万五千よりも三万の方が多いという算数は、たとえ生真面目な心性に基づくものであったとしても、してはならない。世の中には、数えてはいけないことがあるのだ。    今回の地震は千年に一度の大地震だった。そういう出来事に対して普通の感覚だけで考えてはいけないと思った。千年に一度の出来事には、千年を超える思想だ。
 こんなことを真っ直ぐに書き付けられるのが大澤信亮という批評家の個性であり、才能だとも思う。千年は「100年保存」の十倍、「あれから一年」の千倍である。無論こんな算数もしてはならない。ここで言われていることは、俺は「千年を超える思想」のつもりで書いてみせる、という個的な決意表明であって、それ以外ではない。だから私はひとりの読者として、その意気やよし、と思いつつ、この論考を読んだ。だが、その感想を述べるのは、ここでの目的ではない。千年と書いてあったから読む気になったわけでも、千年とあったのに読む気をなくさなかったのでもない。ただひとつ言っておきたいのは、次のようなことである。  震災後、百年後であれ、千年後であれ、自分が綺麗さっぱり居なくなってしまった後の「この世界」に向けて何事かを語るという仕草が、以前にも増して散見されるようになった。そしてそれらは多くの場合、或る種の「責任」の意識とワンセットで語られているように思う。しかし私は、こうなる以前から、そういった言説には微妙な違和感を禁じ得なかったのだ。それはまず第一に、百年後に向けて何かをすることと、「百年後に向けて何かをするべきだ」と語ることの間に横たわる断層が、どうしても気になってしまうからである。そこには欺瞞の萌芽がある。「自分が存在しなくなった未来」を云々したがる者ほど、実のところは「今」に強く拘泥し、責任感の披瀝の陰で、目先の利得に汲々としていることがあるのではないか。そして今度の出来事が、そのような者に都合の良い言質を与えたということなのではないか。私にはそう思える。断っておくが、大澤信亮がそうだというのではない。むしろ逆だ。「出日本記」を通読すれば誰にだってわかるように、大澤氏にはパフォーマティヴな戦略性がほとんどない。いや、戦略の有効性と限界を十二分に知悉した上で、敢て潔く毅然として勇ましくそれを捨ててみせている、というのが、彼の唯一のパフォーマンスと言うべきかもしれない。  先の引用のもう少し先で、大澤氏は平野啓一郎による「被災地への距離」と題された「被災地見学記」を取り上げ、批判している。自身の体験に照らして、平野氏の文章には、臭い、すなわち「潮の強烈な臭気と、瓦礫の下の死体の腐臭」の描写が存在していないことに触れ、「それは、主体に否応なく侵入してくる外部の経験を、氏の「書くこと」自体が遠ざけているからではないか」と大澤氏は述べる。
 もし、書くということが「距離」を作るだけだとしたら、恐ろしいことだ。
 「その距離は被災地と東京の距離以前に、作家と現実との距離のように思えた」。私は平野氏の文章を読んでいないので、この批判がどの程度当たっているのか、或いはまったくの言いがかりであったりするのかどうかは知らない。それよりも目に飛び込んできたのは「距離」の二文字である。  『震災とフィクションの“距離”』は、「2011年3月から9月の期間に15人の小説家が執筆し、期間限定で著作権を解除、転送自由のチャリティ作品として「早稲田文学」サイトで発表された16作品を一挙収録。並行して公開された英中韓3カ国語のバージョンと、執筆者たちによる対談・座談も同時収録(オビ文より)」された単行本である。参加している作家は、古川日出男(二編)、阿部和重、円城塔、福永信、芳川泰久、青木淳悟、松田青子、村田沙耶香、中村文則、木下古栗、中森明夫、牧田真有子、川上未映子、鹿島田真希、重松清の十六名。震災にかかわる小説アンソロジーとしては、古川、阿部、川上、重松の四人の執筆者が重なっている『それでも三月は、また』と並ぶものである。  個々の作品については、また後で触れることがあるかもしれないが、さしあたり私は、書名にもなっている座談会「震災と「フィクション」との「距離」」を、色々な意味で興味深く読んだ。「フィクション」には「言葉・日常・物語…」とルビが振られている。出席者は阿部和重、川上未映子、斎藤環、辛島デイヴィッド、市川真人。かなり長い鼎談で、さまざまな事が語られているのだが、たとえば「百年後」ということに対して、川上氏はこんな風に問うている。「たかだか三百キロ離れた福島のことを想像できなかったわけでしょう? 百年後のことを想像できる人がいると思う?」。
市川 それこそが、作家の責任なんじゃないのかな。百年後について、想像力を駆使して書けるじゃないですか、作家たちは。 川上 でも、想像力を駆使して書いたことは、結局、解決にはならないんじゃないですか。フィクションが寄り添うものだったり耐え難い現実の緩衝剤だったり、そういう役割はできても、そういう存在をつくることと、百年後の未来を想定していま現実的にどう振る舞うかを考えることは、似ていて違うことだと思うんです。
 この座談会は二〇一一年六月三日に収録されたものなので、その後、意見が多少変わったことだってあり得るが、右のやりとりを経て、市川氏は、文芸評論家であり編集者の「読む者」としての立場から、関東大震災後の坪内逍遥の発言に批判的に言及し、今こそ「癒し」としての矮小な「私」性への逃避を是とすることのない「大きな作品」を読みたいのだと述べ、川上氏は「大きな話には大きな話にしか達成できないものがあって、小さいものには小さいものの役割がある」と躱しつつ、では「書く者」である自分は、小説によって何を成せるのか、という心境を具体的に語ってゆく。  大小はともかく、ここで「書くこと」と「読むこと」の両極から交叉的に測られているものが「距離」である。それは「作家と現実との距離」であり、出来事と「フィクション」を隔てる「距離」である。では、この「距離」は、果たして測定可能なのだろうか? 頑張れば踏破出来るのだろうか? もしも、書くということが「距離」を作るのだとしたら?
7。ベルリン・レクチャー
 佐々木敦です。日本の、東京の、渋谷という街から参りました。  僕は三年前にも、ここでレクチャーをしたことがあります。そのときは日本の九〇年代以降のポップ・ミュージックについて、実際に音楽を掛けながら色々とお話しました。僕は複数の芸術・文化について文章を書いているのですが、しかし今日は、このイベントでただひとりの日本人スピーカーとして、やはり昨年の三月十一日以降の出来事にかんして語らないわけにはいかないだろうと思います。これから皆さんに幾つかの映像をお見せします。いずれもおそらく海外ではまだあまり知られていない、日本の新しいクリエイターによる作品です。まず最初は、ドキュメンタリー映画作家松江哲明による長篇映画『トーキョードリフター』の予告編です。
(『トーキョードリフター』予告編、YouTubeによる上映)
 この映画は、どういう作品かと言いますと、前野健太というシンガーソングライターが、昨年の五月の或る日の夕方から翌日の早朝にかけて、東京のあちこちを移動しながら、ギターで弾き語りをする、その模様をひたすら記録した、ただそれだけの、たった一晩のドキュメンタリー映画です。  実はこの作品は、以前に同じ組み合わせで作られた映画の続編ともいうべきものです。二〇〇九年の一月一日に、松江監督は、東京の吉祥寺という街を、前野健太がギターで弾き語りをしながら歩き続ける様子を、八〇分間ワンカットで撮影し、一本の映画として発表しました。『ライブテープ』という作品です。『トーキョードリフター』は、それと同じように、やはり前野さんが歌うだけの映画です。  松江監督は、日本で「セルフ・ドキュメンタリー」と呼ばれている、従来のドキュメンタリー映画が題材としてきた社会的、あるいは政治的な主題というよりも、自分や自分の周囲のささやかな事象にフォーカスして映画を撮る、ここ数年の新しいドキュメンタリー作家たちの潮流の中心人物といわれている人です。予告編の中で松江さんが話していたのは、こんなことです。ドキュメンタリーを撮る者ならば、なぜ福島に行かないのか、行くべきではないのかと、たくさんの人から何度も言われてきた。だが、福島を撮ることだけが、ドキュメンタリー作家としての使命を果たすことなのだろうか。自分はむしろ、この暗い東京を、映画に記録しておきたいと思ったのだ。  ご存知の方もおられるかもしれませんが、福島第一原発の事故によって、電力供給が不足するとのことで、東京では、かなり大がかりな節電を行なわなければならない状況が生じました。その結果、たとえば渋谷という街の駅前、ハチ公前というのですが、そこはもともと交叉点に位置するビルに設置された複数の屋外大型ビジョンに絶えず映像が映し出されており、色とりどりのイルミネーションに彩られた、大変に明るく賑やかな場所なのですけれども、節電によってほとんどの照明が落とされて、非常に暗くなっていました。渋谷に限らず、東京の繁華街は、この頃はどこも暗かった。  そもそもヨーロッパに較べると、東京の夜は明る過ぎるので、多少明るさが減ってもいいような気もしますが、ともあれ以前に較べると、異常と呼んでもいいほどの暗さであったわけです。この映画は、そんな暗い東京の姿を捉えています。節電対策がほぼ解除されて、以前の明るさが戻ってきたのは、九月半ばのことでした。つまり半年間くらい、東京は暗かった。この映画が撮影された五月の段階では、まだ人々は暗さに慣れていなかったのではないかと思います。しかもこの日は雨も降っていて、全体として、うら寂しい感じを受けます。松江監督は、この暗い東京を撮っておきたいと考えたのです。  この映画は昨年の十二月に劇場公開されましたが、僕もそのときに見て、大変に驚きました。なぜなら、東京がこんなに暗かったということを、僕自身、いつのまにか忘れかかっていたからです。明かりが戻って来てから、まだ三ヶ月しか経っていないにもかかわらず、暗い東京の記憶は早くも薄れかかっていた。いや、もちろん覚えていたのですが、映像で見ることによって、あらためて強い衝撃を受けたのです。僕は渋谷に事務所を構えているので、日々の変化は目の当たりにしていた筈なのですが、それでも非常に驚いた。このことだけでも、この映画には存在意義があると思います。  予告編の最後で、松江監督はこんなことを言っています。「映画って、どんなにネガティヴな状況でも、もう撮った時点で、絶対ポジティヴになるんですよ」。この作品は、夜が明けて、雨が上がって、朝を迎えたところで終わります。そこには、明日は必ずやって来る、というメッセージが込められているようにも思えます。これを単なる楽観主義と言ってしまえば、それはそうかもしれません。実際、この作品は松江監督の以前からの支持者の間でも賛否両論があるようです。でも僕は、この試みは、とても貴重なものだと思います。  去年の三月十一日以後、日本のアーティスト、芸術家たちは、それぞれにショックを受けて、自分が属しているジャンルにおいて、さまざまな形で、このかつて体験したことのない事態に応接しようとしてきました。それは、僕がかかわっている分野だけでも、音楽、映画、美術、演劇、小説など多岐にわたっています。僕は、そうした沢山の表現を、必ずしも自分から進んで、ということではありませんが、結果として数多く体験、鑑賞してきて、色々なことを考えるようになりました。  当然、よいと思えるものもあれば、これはどうかなと思うものもあります。中には、あの日以前の自分の問題意識の欠落に対して、誰に向けてということなのかはわかりませんが、一種の言い訳をしているかのように思える表現もありました。僕はそれは欺瞞だと考えざるを得ない。その中で、僕が自分として好ましいと思えたものは、あの一連の出来事、地震、津波、原発事故というものを、必ずしも直截的に扱ったものではない、ことによると、一見する限り、ほとんど無関係にさえ見えるようなものが多かったのです。それは、どういうことなのでしょうか?  ここで、次の映像を見ていただきます。
(『福島でゴドーを待ちながら』、YouTubeによる上映)
 いまご覧になったのは、かもめマシーンという、まだとても若い劇団による公演『福島でゴドーを待ちながら』の抜粋です。チェーホフの『かもめ』と、この国の偉大な劇作家ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』を合体させたユニークなネーミングですが、まだ日本でも知名度が高いとは言えません。出演者一名、観客一名、たった五回の公演ですとか、オーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクの『雲。家。』をビルの屋上でひとり芝居で上演するとか、実験的なアプローチを取ることが多いカンパニーです。  ビデオにもあったように、彼らは去年の八月に、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を、福島第一原発から20.5キロの路上で上演しました。現在も半径20キロ圏内は警戒区域となっており、法律で立ち入りを禁じられ、自宅のある住人たちも戻ることが出来ません。彼らはそのぎりぎりの場所で、演劇の公演を行なったのです。  彼らはのちに、この公演のドキュメント・ブックを制作しています。それによると『ゴドー』という選択には、二〇〇三年にスーザン・ソンタグが、サラエヴォで『ゴドー』を上演したということが、ひとつのインスパイアになっていたようです。また、それだけでなく、この戯曲の内容、ゴドーという男をずっと待っているのだが、いつまで経っても現れない、という設定が重要であったのだろうとも思います。  しかしドキュメント・ブックによれば、この公演はいわば思いつきのノリで実行されたようです。『ゴドー』は割と長い戯曲で、そのまま上演したら二時間を優に超えてしまうだろうと思いますが、かもめマシーンの主宰で演出家の萩原雄太は、登場人物の数を三人に減らして(もとは五人)、更に台詞を極端に削って、約三十分の作品に切り詰めました。上演場所は、とにかく福島まで一台の車に同乗して行って、それからロケハンをして決めたそうです。  公演といっても、このようなものですから、とにかくやること自体に意義があるのだと考え、観客ゼロであっても上演はするつもりで、ほとんど告知もしなかったらしいのですが、当日になると、なんと東京からたったひとりだけ観客がやってきたそうです。台詞を削ったと言いましたが、それどころか実際には、これはこの戯曲でもっとも有名なくだりであるとは思いますが、ウラジーミルとエストラゴンの「もう行こう」「ダメだよ」「なぜさ?」「ゴドーを待つんだ」「ああ、そうか」というやりとり、これが何度か繰り返される以外は、ほぼ完全に無言劇にしてしまったそうです。そうして一度きり上演された様子が、先ほどの映像です。三人の若い役者は、ただぼんやりと突っ立っているように見えますね。  20.5キロというのは、放射線量的には、おそらくはかなり高い地域です。そんな危険な場所まで東京からわざわざ行って、まだ二十代の役者たちが、ひとりしか観客の居ない、もしかしたら誰も観なかったかもしれない芝居を演じる、この明らかに無謀と言ってよいだろう試みは、ひとりよがりで自己満足的な行為かもしれません。いえ、それは確かにそうなのです。松江哲明は、敢て福島には行かずに、震災以後の問題を描くことを選んだ。反対に、かもめマシーンは、福島に行かなければならないと考えた。それは彼らが演劇という営みによって、この出来事に応答しようとするためには、どうしても必要なことだったのです。両者のアプローチは対照的ですが、しかし動機の部分、なぜ映画を、演劇をやるのか、という根っこのところに存在しているものは、実はかなり近いのではないかと思うのです。  先ほども述べたように、僕はあの日以来、数多くの「震災以後の表現」に接してきました。思うに、それらの表現に潜在している問いは、次のようなものだと思います。今、あの日以後である今、わたしたちに「何が出来るのか?」「何をすべきなのか?」「何がしたいのか?」。これらの問いへの答えは、それぞれに誠実であったり、真摯なものであったりします。だが、中には僕の目には欺瞞に映るものもあります。それは、これらの問いが、自らの内側から発されているというよりも、その者と外界との関係というか、社会とか公とか呼ばれているようなものから暗に強いられている、この出来事にダイレクトに応じる責任感の披瀝を求められている、そう思うがゆえに提示されていると思える場合です。  常々思うことですが、芸術というものは、本来的には、究極的には、あってもなくてもいいものです。そしてしかし芸術は、それでも存在し、作り出され、生まれてくるものであり、それによって、ある人の生そのものが救われたり、大きく変わったりすることだってある、そういうものだと思うのです。ただ単純に、震災以後の状況に対して、意味のあることをしたいと考えるのであれば、募金やボランティアをすればいいのです。その方が有意義だし実利的です。だが、それはそれとして行なったりもしつつ、それでも芸術の名において何かをするというのであれば、それは自分だってこの問題について真面目に考えているのだというアリバイ工作のようなものでなくてもいい筈です。あってもなくてもいいものであるからこそ、それでも芸術を為そうとするからには、「何が出来るのか?」「何をすべきなのか?」「何がしたいのか?」という問いよりも、むしろ「何をしないではいられないのか?」という問いの方が重要なのではないかと僕は思います。松江哲明は暗い東京を撮らずにはいられなかった。かもめマシーンは福島の路上でベケットを上演せずにはいられなかった。どちらも、誰に求められたのでも強いられたのでもなく、しかも結果として自分にとって益や誉れにはならないかもしれないような危うい試みであるのに、彼らはどうしてもそうせざるを得なかったのです。そのことに僕はむしろ本当の意味での誠実さを感じます。しなくてもいいのにしないではいられない、ということ。これこそが僕は信用に足るものだと思っています。  それでは三つ目、先の二つとはまた趣きの異なる作品を見ていただこうと思います。東京デスロックという劇団の『再/生(RE/BIRTH)』という作品です。東京デスロックは、多田淳之介が主宰、演出を務めるカンパニーです。『再/生』は、スラッシュのない『再生(REBIRTH)』として二〇〇六年に初演された作品の改訂版です。しかし、このふたつの作品は、結果として大きく違ったものになっています。ではまず、最初のヴァージョンの『再生』から御覧ください。
(DVDを再生しながら)照明が暗めの部屋に若者たちが集って、食べ物をつまんだり飲み物を呑んだりしながら、他愛のない話をしています。一見すると、ホームパーティ、いわゆる呑み会の光景です。やがて彼ら彼女らは音楽に乗ってダンスをし始めます。ドイツでも知っている方が多いと思いますが、日本を代表するテクノ・ユニット電気グルーヴのヒット曲「Shangri-La」が爆音で流され、若者たちは激しく踊り狂います。そして、こういう展開になります。 (早送りして)踊っていた若者たちが突然、一人ずつぶっ倒れていって、遂に全員が床に倒れ伏します。そう、実は、これは集団自殺の場面だったのです。これだけでもショッキングですが、この作品の凄いところはこの先です。 (更に早送りして)ふたたび音楽が流れ出すと、死んでいた筈の若者たちはむくりと起き出して、劇のいちばん最初から、まったく同じ芝居を繰り返します。『再生』というタイトルは、ここからきています。そしてやがてまた踊り出し、音楽が最高潮に達したところで、床に突っ伏して皆、死ぬ。そしてまた音楽が始まると共に最初のシーンに戻ります。この作品は、この一連のプロセスを、精確に三度、反復する、というものです。
 『再生』は、舞台上での死は常に虚構の死でしかないという、演劇という表現が持っている絶対的な条件を逆手に取った作品だと、まずは言えます。また、こちらの方がより重要だと思いますが、繰り返しも三度目になると、毎回、全力で踊っていた役者たちはさすがに疲れてきて、死んでいる演技をしなくてはならないのに息があがってしまい、虚構の死がより強調されてしまう。ここには、演劇という一種の反復表現に潜むアポリアが垣間見えています。僕は以前、或る本で、この作品について分析したことがあります(『即興の解体/懐胎』)。多田淳之介は、このように、演劇を根本から凝視め直し、批判しようとするユニークな作風で知られています。では、昨年の七月に初演され、今年の三月に早くも再演された『再/生』では、どのように変わったのでしょうか?
(DVDを再生しながら)最初に女優がひとり舞台に出てきて、観客にこう語りかけます。「今は、幸せについて考えています。そもそもなんでそんなこと考えて、考え始めたのかというと、ずっと前から考えていたような気もするんですが、考え始めたきっかけといえば、あるとき、といってもいつだったかもうわからないんですが、過去のあるときのわたしは、幸せではなかった、と思ったんですね。過去のあるときのわたしは、幸せじゃなかった、と思って、じゃあそれじゃあ今、わたしは幸せなのか、という逆説?、がふっと湧いて来たのが、そもそものきっかけといえば、そうです」。この台詞はリアルタイムで録音されていて、すぐに再生されます。女優はアルカイックな微笑みを浮かべながら、今しがた発したばかりの自分の声を黙って聞いている。そしてそれもまた録音されていて、再生される。そうしているうちに、他の役者たちが現れて、音楽が流れ出し、彼ら彼女らは踊り始めます。しかしそのダンスは『再生』とは違って、きわめてアブストラクトというか、なんとも奇妙な踊りなのです。こんな風に。 (早送りして)いま流れているのは、日本で非常に人気のあるバンド、サザンオールスターズの「TSUNAMI」という曲です。これは昔の曲ですが、昨年の三月十一日以降、日本ではよくあることなのですが、一時的にテレビやラジオ等でのオンエアが自主規制されました。見ていてわかると思いますが、役者たちは奇妙なダンスを踊りつつ、唐突に床に倒れ、また起き上がるという仕草を繰り返しています。全員バラバラに踊っていますが、そこだけ共通している。そして何曲かを経て、Perfumeの「GLITTER」が始まります。Perfumeは中田ヤスタカという天才肌のプロデューサーが手掛けている三人組の人気女性ユニットで、三年前のレクチャーでも紹介しました。アップテンポのエレクトロ・ポップが大音量で流れる中、ダンスもヒートアップしていきます。 (早送りして)曲のラストで、役者たちは全員、床に倒れて動かなくなります。しかし暫くすると、曲が最初から再生され出して、彼ら彼女らは起き出して、また奇妙なダンスを踊り始める。やがて音楽は盛り上がって、全員が倒れる。これが何度も繰り返されます。つまり『再/生』は『再生』とはほとんど別の作品と言ってもいいと思いますが、ここだけは同じなのです。音楽も違うしダンスも全然変わっていますが、この反復という方法だけは、前作を踏襲している。僕は『再/生』を実際に劇場で観ましたが、一曲丸ごとフルに踊って、死んで、すぐにまた踊り出すという反復は、『再生』以上にハードなもので、何度目かになると、役者たちは息も絶え絶えになっていて、ほんとうにこの場で死んでしまうのではないかと心配になるほどでした。しかし、また曲が流れ出すと、彼ら彼女らは必ずまた起き上がり、奇妙なダンスを始めるのです。上演が終わったとき、役者たちは汗だくでした。僕を含む観客は、彼ら彼女らに惜しみない拍手を送りました。実際、僕は、涙が出るほど感動していたのです。しかし、この作品のどこが、それほど感動的だったのでしょうか?    僕は『再生』から『再/生』へのアップデートは、二〇一一年三月十一日に起こった幾つかの出来事と、その後に生じ、今なお続いているさまざまな出来事と、無関係ではないと思います。倒れて死んで生き返る、その機械的でやみくもな反復という要素において、二作は繋がっている。二〇〇六年のヴァージョンでは、それは集団自殺を示唆したものであり、また演劇へのラディカルな批判を含むものだった。  しかし去年の夏に上演された『再/生』になると、描かれていることは更に抽象化され、ほとんど演劇というよりもパフォーマンスのようなものになっている。でも、僕はこれはやはり演劇だと思うのです。単なるナンセンスで巫山戯た作品のように思われる方も居るかもしれませんが、ここには間違いなく、あの日以後のわれわれの生と、そしてわれわれ以外の人たちの数多の死に対する、演劇という芸術からの応答が存在していると僕は思います。倒れて死んで生き返る、倒れて死んで生き返る、というひたすらな、ひたむきな反復が、役者たちの酷使される身体によって演じられることによって、多田淳之介という人が、いったい何を表現しようとしたのか、そのことをよくよく考えてみなくてはならない。  東京デスロックの『再/生』は、僕が出会ってきた「震災以後の表現」の中でも、際立って印象的な作品でした。もっとも感動した作品と言ってもいいと思います。確かに、ここには明確な問題提起や、わかりやすい主張はありません。しかし、真顔でストレートに語ってみせている者が真にシリアスで��るとは限らないのと同様に、一見すると迂遠だったり無関係とも思えるような表現の内に、切実なメッセージが隠されていることもあると思うのです。  以上、駆け足で、三つの作品を見てきました。僕の考えは、おそらく日本人の中でも、また芸術や文化に携わる者の中でも、かなりマイナーなものかもしれません。しかし、僕は敢て、このドイツという特殊な場所で、こういう話をしたいと思いました。ご清聴を感謝します。ありがとうございました。
8。ベルリン・レクチャー補記
 前節は、五月五日にベルリンの劇場HEBBEL AM UFER(HAU)で催されたフェスティバル「APOCALYPSE NOW (AND THEN) ーTHE END OF THE WORLD IN POP CULTURE」で行なった講演の採録である。いささか大仰なタイトルだが、フェス全体のコンセプトやプログラムの内容にかんして、私はほとんど知らないままだった。正直に言っておくなら、聴衆はけっして多くはなかった。一時間足らずのごく短いレクチャーであったし、やや舌足らずなところもあると思うので、以下に幾つかの事柄を補足的に記しておきたい。  私のレクチャーはこの日の二つ目のプログラムで、その前に話したのはドイツ人アーティスト、ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニだった。二人は長年、チームで活動を続けており、札幌市立大学准教授として日本に長期滞在したこともある。私は以前、東京・初台のインターコミュニケーション・センター(ICC)等、幾つかの機会に、二人の展示を観たことがあった。ICCでの《ニーチェが洗礼を受けた教会》というインスタレーションは、かなりミスティックな作風だったが、二人は一方で、きわめてアクチュアルな問題意識に沿った映像作品も手掛けている。長崎��の端島=軍艦島を題材とする《サヨナラ・ハシマ》や、成田空港拡張反対運動を描いた《成田フィールド・トリップ》など、日本で制作された作品も多い。  二人は昨年の九月から年末にかけて京都に滞在し、原発事故にかんする一連の取材を行なった。レクチャーは、そのインタビュー映像の一部や、福島から一時避難してきた若い主婦が京都の街頭でマイクを握って脱原発を訴える様子、渋谷の駅前に貼られた東北地方への観光キャンペーン・ポスターの映像(私が自分のレクチャーの始めにわざわざ「渋谷から来た」と言ったのは、先に渋谷の光景が映されていたからである)、あるいは黒澤明監督のオムニバス映画『夢』に一篇で、富士山の噴火と原発の爆発が描かれるカタストロフィックな「赤冨士」というエピソードなどを上映しながら行なわれた。二人の明確にアクティヴィスト的なスタンスからすると、私が用意した三つの作品は、ややもすればなまくらなものだと感じられたかもしれない。   二つのレクチャーの後、これまたごく短い時間ではあったが、ニナとマロアン、男性の評論家と女性のモデレータ(いずれも名前は忘れた)、私の五名でパネル・ディスカッションも行なわれた。こうした場のパネルにありがちなことだが、やはり議論は特に深まることなく散漫なまま終わってしまった、という印象だったが、ニナとマロアのどちらかが話していたことで(パネルは録音しなかったので記憶を頼りに書いているのだ)、日本の若いアーティストたちは、ダイレクトにこの問題を扱うことを避けているのではないか、という感想があった。それはそうかもしれない。だが、そうとばかりも言えないし、私が紹介した『トーキョードリフター』『福島でゴドーを待ちながら』『再/生』は、いずれもけっして避けているのではない。むしろ、かくのごときあり方こそが、事態に真正面から全力で向き合おうとした結果なのだ。だが、日本の現状に深い知識と理解を持ち、初対面の私に対しても終始すこぶる感じの良かったニナとマロアンにさえ、私が言いたかったことが、どの程度ちゃんと伝わったのかはわからない。何しろ日本人相手にだって、しばしば、あまりわかられてはいないのではないかとも思っているからだ。  それは、詰まるところ、こういうことだ。どうせ言いたいことは変わらないので、以前に書いた文章の一部を、そのまま引用する。「あれだけの出来事があったのだから、ニッポンのありとあらゆる表現は、否応無しに、意識するとしないとにかかわらず、大なり小なり、何らかの影響を受けることになるのは間違いない。一見まるで無関係無関心に思えるものであったとしても、けっして「あの日以後」であることから逃れられてはいない。むしろ、あからさまにそのことを問題にしているものよりも、もしかしたら影響は深刻かもしれないのだ。「あの日以後」を自分なりに受け止めて、内面化し、これから自分がやっていくことに繋げてゆこうとすることと、そのことを他者に対して公的に宣言することのあいだには、やはり大きな違いがある。どうして、わざわざ問いを口にしなければならないのか。それは問いに答えようとする以前に、すでに一種のパフォーマンスなのではないか。そう思うと僕はそこに微かな欺瞞の芽を感じ取ってしまう。しかもそれは、いまや或る絶対的な正しさによって保証されているパフォーマンスであり、真っ向から批判することが、どうにも許されないような欺瞞なのだ」(「「音楽に何ができるか」と問う必要などまったくない」、季刊アルテス1号)。  ことによると、いや、間違いなく私は、この「欺瞞」ということに、おそらく必要以上にこだわっているのだろう。それは認める。だが、私が批評を生業とする者の端くれとして、自分の役目というと大袈裟なようだが、実際そう思っているのは、「以後」であることに、はっきりと自覚的な表現よりも、ほとんどそのようには見えなかったり、真面目にやっているとは思えなかったり、表現者自身でさえ、その意味をよくわかっていなかったりするような試みや営みの中に、他ならぬ「以後」の徴を、その刻印を、その傷を読み取っていくことこそが、いまや必要なのではないか、ということなのだ。なぜなら、いずれにしろ、すべては「以後」なのだし、そうであるしかないのだから。避けるも避けないも、逃げるも逃げないも、望むと望まざるとにかかわらず、われわれはあまねく「以後」を生きているのである。省みるまでもなく、これが端的な事実なのだ。だとすれば、殊更にそのように標榜することはなくても、しかし実は「以後」を全身で受け止めてしまっている、そう思える表現を、繊細かつ大胆に、時には無理にでも見出してゆくことの方を、私はやりたい。それは「以後」の無意識を探ることにもなるだろう。  毎年、秋から冬にかけて、池袋近辺を中心に催されている舞台芸術のフェスティバル「フェスティバル/トーキョー」の昨年度「F/T11」のドキュメント・ブックが送られてきた(私も寄稿している)。F/Tでは会期中に何度かシンポジウムが行なわれるのだが、その内の一つ、宮台真司、黒瀬陽平、鴻英良(司会)とのパネルにおいて、宮沢章夫が、次のような発言をしているのを読んだ。
 われわれが目にしている表層に演劇があるわけではない。その向こう側に描くべき対象があるから、目の前に黙っている人がいても、僕たちはそこに何か別の言語が出現していると考えます。ですから僕は「語らなくてはいけないことのためにこの方法がある」とは考えません。僕は、そこに立つ人の内面より、その表層的なシルエットがどんな劇言語を発するか、それによって空間がどう変化するかを知りたいし、それが、僕が舞台上で、何かを表現することなんだと思います。 (「日本・現代・アート〜「終わりなき日常」の断絶から」)
 これは「演劇」にかんしてだけのことではないだろう。別の芸術、別のジャンルをここに嵌め込んだとしても、宮沢氏の言っていることは正しい。むろん「語らなくてはいけないことのためにこの方法がある」がすべてよくないということではない。ただ、それはあやまちも生むこともあれば利用されることもあるということは知っておかなくてはならない。そういうことだ。  或る芸術、或る表現が、私たちの前に示されるとき、それはいずれにしろ「表層」として現れる。だがしかし「表層」が只の表層に留まり切ることは、人間に想像力と思考力がある限り、あり得ない(だからこそ、かつて「表層批評」なるものは力を持ったのだった)。ひとは必ずそこから意味を引き出す。それがどんな意味であれ。しかし、ならば「表層」の向こう側に鎮座する「意味」から、その表現、その芸術が生まれてきたのかというと、そうとは限らない。まず、どこからかどうしてか、ふと、或る「表層」が出現し、しかし如何なる理由でそれが出現したのか、それが何なのか、誰にも理解できず、それがどのような「意味」を持っているのか、次第にわかってくるのは、誰か他者へと送り届けられてから、ということだってある。こんなことはわざわざ言うまでもない大前提である筈だが、いつのまにか周りを見渡すと、創造や表現をコミュニケーション・ツールとしてのみ考え、そうであるからには誤解抜きに十全に伝わらなくてはならないとする、一種の神経症めいた感覚が蔓延しているようにも思えるのだ。「表層」に、ありうべき「意味」すなわち「語らなくてはいけないこと」を何もかも染み込ませずにはいられない作り手の心性には、生真面目さとともに、弱さと疾しさが仄見えている。それは強さと責任感を装うこともある。  「震災以後の無意識」は、あらゆるところにある。それはわれわれ全員を覆っている。ありとあらゆる芸術表現は、まるでそうは見えなかったとしても、その影響下にある。たとえ「以前」と少しも変わっていなかったとしても、そこには変わらなさという論じられるべき問題があるのだ。そう考えるならば、「以後」にかかわる批評の対象は、視界と同じだけのひろがりを持ってゆくことになるだろう。  ベルリンのレクチャーで、私が「何をしないではいられないのか?」が重要だと述べてみたのは、あってもなくてもいいのだが、しかし不断に生み出されている芸術と呼ばれる営みは、つまりは別にしてもしなくてもいいものなのだが、だからこそ、やるからには何らかの強い動機づけがあって欲しい、パブリックな視点からしたら、取るに足らないような個人的な動機であったとしても、それが切実なものとして迫ってくれば、そこには必然性が生じる。そのような必然性こそが試されているのだ、ということを言いたかったのである。それはささやかなものであるかもしれないが、しかし当人にとっては、けっして譲ることのできないものでもある。自分でもよくわからないが、どうしてもそうしないではいられない、ということ。必ずしも結果を見越して為されるわけではないそれは、いわば実験である。そんな「以後」の「実験」の数々を、私は見届けたい。  ところで、このように論を繋いでくると、お前はそうやって「以後」というタームをやたらと述べ立てることで、何かを語ったつもりになっているようだが、そのような「以後」の強調こそが一種のフレームアップであり、お前が忌み嫌う「欺瞞」を招き寄せることにもなっているのではないか、という物言いがつけられるかもしれない。さんざん「以後」的な振る舞いをした者からそう言われるのだとしたら噴飯ものだが、しかし「以後」という問題設定について、その有効性をはかるところから、より踏み込んだ精査が必要であることは確かだろう。「以後」というからには「以前」があるのである。いや、むしろ「以後」によって「以前」は形成される。次回、私はこのことを、何篇かの小説を取り上げて論じてみたいと思う。
9。「以後」との遭遇
 今、あなたが目にしている「文學界」には「二〇一二年八月号」と記されている筈である。だが、この号が出るのは八月にはまだ一ヶ月近くある七月七日であり、私がこれを書いているのは六月の二十日過ぎのことだ。前に町田康の「四月号と言いながらその実、三月に出て、そこに載る文章を一月に書いている」という文を引用したが、どういうわけかは省くとして、雑誌にはこのような慣習があり、したがって「一月号」とあるならば、それはおおよそ前年の十一月下旬に入稿されていることになる。  ということは、単行本の奥付に「初出「群像」2011年1月号〜2012年1月号(2011年8月号を除く)」とある多和田葉子の『雲をつかむ話』は、実際には二〇一〇年十一月から二〇一一年十一月にかけて入稿されており、「文學界」の「二〇一〇年一月号〜二〇一一年十二月号」に連載された保坂和志の『カフカ式練習帳』は、二〇〇九年十一月から二〇一一年十月にかけて書き継がれていたわけである。もちろん連載小説だからといって、毎月の入稿時に合わせて書かれたとは限らない。何回分か纏めて執筆されていたり、実は連載開始前に全て完成していたということだってありえる。けれども、執筆期間のある日以前には絶対に書かれ得なかっただろう言葉がそこに読まれる場合、ひとつづきの小説の内に、時間の切れ目のようなものが挿し込まれているさまを、われわれ読者は目撃することになる。  『雲をつかむ話』は、近年の多和田葉子の長編小説の例に漏れず、先の展開の予測がまったく不可能な、奇怪にして優美なロマネスクであるが、全十二章の最後から二番目のチャプターの終わりがけ、やや唐突に、次のような記述が現れる。
 地球の一部ではあっても、ある国の一部としてすぐに受け入れられるとは限らない。仙台からわざわざバンコクに飛んで、用もないのにしばらく滞在してからロンドンに飛んだのも、疑われないようにと用心を重ねた結果だった。わたしは欧州連合のパスポートを持っているわけだから、すっとパスポート審査をパスできるかと思えば、向こうはわたしの顔をじっと見てパスポートの出生地の欄に「東京」と書かれているのを発見して眉をひそめ、「アジアですね」と注意深く言う。これが第一の罠だ。出生地が東京ですね、と言うのでもなく、今バンコクから来たんですね、と言うのでもない。アジアという場所があるわけではないのに、わざと曖昧な言葉を使って泳がせて尻尾を出させて捕まえようとしているのだ。
 語り手の「わたし」は、飛行機から降りて入国手続きをしようとしている。この章は、『雲をつかむ話』という極めて謎めかした小説が、一種の種明かしへと急速に収斂していくパートであり(尤も種が明かされるからといって謎が解けるとは限らない)、さながら探偵小説のような、或いは訝しい夢のような暗合に満ちている。しかし、このパスポートをめぐる挿話には、それらとはまた違った、妙に生々しい不穏さが纏わり付いている。「パスポート審査官の目が成田のスタンプにとまったのが分かった。眉が寄せられ、わたしを見る目が豹変した」。ああ、そういうことか。やはりそうなのか。
 案の定、制服の女性が二人すぐにあらわれた。身体が触れないように左右からわたしを連行する二人の緊張した表情には、哀れみのようなものも混ざっていた。Rと書かれたドアの前まで来ると、英語で書かれた説明書を持たされ、部屋には一人で入るように言われた。中には機械があって、どのようにその機械を使えばいいのかは説明書に書いてある、と言うのだ。読まなくても分かる。身体に放射性物質がついていないか調べる機械なのだろう。一人その部屋に入れば、外から鍵をかけられてしまうかもしれない。しかも調べた数値は外からしか読めないようになっているかもしれない。そしてもしも数値が高かった場合は監禁されて、その後いったいどうなるのか。
 『雲をつかむ話』の「わたし」は、長年ドイツに住む日本人の小説家で、日本語とドイツ語の両方で作品を発表している。数年前にハンブルグからベルリンに転居した。最近は学会や講演でアメリカに行くことも多い。つまりは、限りなく「多和田葉子」に近い人物なのだが、しかしこの小説が、いわゆる「私小説」とは似て非なる、いや、似ても似つかぬものであることは、読めばわかる。だが、虚実というより虚に虚を織り重ねてゆくかのごとき幻惑的な語り/騙りのなかで、この箇所だけが、陳腐な表現を許していただけるなら、無闇とリアルなのだ。無論、作者である「多和田葉子」が現実に同様の体験をしたのでは、などと言いたいわけではない。そうであろうがなかろうが、読者には関係のないことである。しかし、このシーンが「二〇一一年三月十一日」以前に書かれていなかったことだけは間違いない。そしてこの端的な事実は、「人は一生のうち何度くらい犯人と出逢うのだろう」という魅力的な一文によって開始され、「わたし」が思い出すままに時間と空間を自在に経巡ってゆくこの小説の、フィクションとしての臨界点を露わにしているように思えるのだ。  ところで、これと酷似した場面を、多和田はアンソロジー『それでも三月は、また』に書き下ろした短篇「不死の島」でも書いている。
 パスポートを受け取ろうとして差し出した手が一瞬とまった。若い金髪の旅券調べの顔がひきつり、唇がかすかに震えている。声を出すのは、わたしの方が早かった。「これは確かに日本のパスポートですけれどね、わたしはもう三十年前からドイツに住んでいて、今アメリカ旅行から帰ってきたとこです。あれ以来、日本へは行っていませんよ。」そこまで言って言葉を切り、それから先、考えたことは口にはしなかった。「まさか旅券に放射性物質がついているわけないでしょう。ケガレ扱いしないでください。」受け取ってもらえないパスポートを一度手元に引き戻して、今度は永住権のシールを貼ってあるページを開いて改めて差し出すと、相手はふるえる指先でそれを受け取った。
 言葉遣いは更にリアルで、ますます実際の体験談のような気がしてしまうが、しかし実はこの小説の舞台は二〇二三年なのだ。掌編というべき「不死の島」が描く「日本の未来」は、おそろしくグロテスクなものである。二〇一三年に天皇主義者による脱原発クーデターが起こり、それがきっかけで勃発した政変の果てに日本政府自体が民営化され、すべてが経済合理性と隠蔽体質に覆われる。放射能汚染に対する疑惑と忌避もあって、日本国は世界から孤立してゆく。二〇一七年に「太平洋大地震」が起こったが、すでに日本への渡航は途絶えていたため、それでどうなったのかはわからない。二〇二三年、日本に密航してきたポルトガル人の旅行記が出版される。それによると、二〇一一年に福島で被爆したとき百歳を越えていた老人たちは「死ぬ能力を放射性物質によって奪われて」、全員がまだ生きている。その代わり、当時子供だった者たちは重篤な障害を発症した。「若いという形容詞に若さがあった時代は終わり、若いと言えば、立てない、歩けない、眼が見えない、ものが食べられない、しゃべれない、という意味になってしまった」。老人が若者を介護する社会が訪れる。そんな中、ふたたび巨大地震が起こったのだった。「わたし」は二〇二三年の今になって思う。「福島で事故があった年にすべての原子力発電所のスイッチを切るべきだったのだ。すぐまた大きな地震が来ると分かっていたのに、どうしてぐずぐずしていたのだろう」。  「不死の島」は「震災以後」を主題とする数多の小説の中でも、際立った問題作である。だが「日本国のパスポート」をめぐる挿話にかんしては、連載が「震災以前」に始まっていた『雲をつかむ話』の最終回直前に語られたものの方に、むしろ不意撃ちのようなインパクトがあった。それは、小説家が書くつもりではなかった、小説が書き始められたときには書かれる筈ではなかったことが、現にここに書かれてある、という静かな衝撃だった。  保坂和志の『カフカ式練習帳』は、フランツ・カフカが遺した膨大なノート、そこに記された創作メモや随想、身辺雑記、日常の観察、小説の一部、等々のような種々雑多な断片を、連載小説という枠組みの中で意識的に書いてみるという、特異な方法意識に支えられた「長編小説」である。「思いついたらいつでも書けるように家の中のあちこちにノートを置いておいてその場で書き出す」。そうして数冊のノートに徒然に書かれた断片群が、毎月編集者によって回収されてランダムに並べられることで、連載の各回が構成されたのだという。したがって長短さまざまな断片と断片のあいだには基本的に連続性や一貫性は存在していない。それでも一冊となった際に、れっきとした「長編小説」としての佇まいを持っているのは、保坂和志の「小説家」としての技量と才覚、そしておそらくそれ以上に「小説」という営みに隠された神秘というべきだろうが、しかし同時に、このことは、ずっと昔から長い時間をかけて書き貯められていたのではなく、あくまでも連載期間の責務(?)として日々書かれていったものであるということも深く関係していると思われる。つまり『カフカ式練習帳』の断片群は、すべてが、ある具体的な時間のフレームの内に収まっているのだ。  『カフカ式練習帳』に「地震」という単語がはじめて登場するのは、連載も三分の二を過ぎようとしたあたりである。    二月五日午前十時五十六分に起きた地震は、震源が千葉県南島沖で、マグニチュード5・2。震源の深さは六十四キロ���東京二十三区は震度3だった。ちょうどそのとき私は外にいた。震度3とはとても思えない強い揺れを瞬間感じ、揺れと同時に、私の右のスガスガから左のスガスガにピアノ線がピンッと張られたような、右から左に弾丸よりずっと小さな粒子が貫通したような、感覚があった。痛みというよりも電気にちかいか、右のスガスガから左のスガスガは方角としてはほぼ南から北だった。私はやや上体を屈めて、外の猫たちに餌を出していた。
 この断片を含む回は「文學界」の「二〇一一年五月号」に掲載されている。したがって、それは二〇一一年の三月下旬に入稿された筈だ。おそらくは「三月十一日」以後のことである。だが、ここに書かれているのは「二月五日」にあった千葉県沖を震源とする震度3の地震のことである。「三月十一日」の「地震」に言及した断片は、この回にはない。  『カフカ式練習帳』が、日記やエッセイのようにも読める断片が多くを占めているにもかかわらず、れっきとした「長篇小説」であるということは、たとえばこうした点にも現れている。ここには書くこと、書かれること(読まれること)の選択と操作がある。しかしそれでも、これ以降の連載には、「三月十一日以後」を、さまざまな形で刻印された言葉が紛れ込んでゆく。たとえば、こんな断片がある。
 津波が迫ってきたが、もう逃げられないので娘と二人で二階に駆け上がるしかなかった。駆け上がっている途中で、津波が足許から膝までどんどん上がってきて、二階に上がったときには津波が背より高くなり、二人とも完全に津波にのみ込まれた。いったんは観念したが体を沈めると足が床についた。床を思いきり蹴ると顔が天井と水の隙間に出た。窓が開いているのが見えた。そこから出られると思い、娘と窓からでて屋根に這い上がった。這い上がると今度は引き波で屋根が沖に流された。二人で屋根に載ったまま沖を漂ううちにあたりは夜になった。娘が携帯を出すと、通話はできないが機械は壊れていなかった。携帯のライトは何も明かりのない海の上ではすごく明るい。娘と二人でそれぞれの携帯を手に持って必死に振っていると、津波を逃れて沖に行っていた漁船がもどってきたところに発見された。
 保坂氏に娘はいない筈である。勿論いたとしても変わりはないが。私は、この断片が、ノートに手書きの文字で書かれてある光景を想像する。保坂和志が、こんな断片を、ノートに書きつけている姿を想像する。  「大地震の日にもうジジは生きていなかった」と始まる比較的長めの断片は、「三月十一日以後」を刻印された断片群の中でも、最も重要なものだ。ジジとは猫の名前である。言うまでもないことだが、保坂作品において、猫たちとは、生と死、そして時間という不可思議なるものの象徴でもある。
 あの大地震のときにジジは生きていないで良かった。スマトラの大地震と津波にあれだけ反応したジジの反応が、今回どれだけ激しかったことか。しかし、生きていないで良かったということが本当にありうるのか。いくつもの苦痛を抱えて生きていることと死ぬことのどっちがより望ましくないことなのか。  生きていないで良かったと思うのはジジがもう生きていないからだ。
 誤解を畏れずに述べよう。前言を覆すようであるが、これは「小説」ではない。精確に言うと、この断片のみを読むのなら、それは「小説」と呼ばれる必要は、おそらくない。そして、そんなことは重々わかった上で、保坂氏は、これを書いている。そう思える。
 震度3程度で「余震におびえる」というのは言葉の綾にすぎず、気持ちの連続が中断したり、やっていたことが中断したり、気持ちが平静になりきれなかったりしていた日々、私と妻で何度も口にし合った「ジジが生きてなくて良かった」という言葉は、誰のために何のために言われていたのか。被災者の中に血縁も友人もいないのに一日一度は涙ぐむような、今もこれからも楽観的になることが難しいときに、せめてもの良かったことが、ジジがもう地震や津波と呼応して具合が悪くならずにすんだことだと、悪いことばかりじゃなく、いいことだってあるじゃないかと二人で確認し合っていたのか。  それとも、 「今はジジが生きていなくて良かった。でもジジが生きていたときはもっとずっと良かった」 と、ジジが生きていた日々は巨大地震が起きる以前の世界だったと一緒にしているのか。
 ここに書かれているのは、最早どうしたって「以前」には戻れない、という酷薄な真理である。巨大地震が起きる以前、ジジが生きていた日々には、もうけっして戻れない。猫の死と大災禍は、到底受け入れ難いが受け入れるしかない事実という意味では同じことなのである。つまり保坂氏は、ほんとうは単にこう言いたいのだ。ジジが死んでいなければよかったのに。巨大地震が起きていなければよかったのに。両方とも起こっていなければよかったのに!……この反実仮想の無意味さをやり過ごすためには、彼は「今はジジが生きていなくて良かった」と言うくらいしか出来ないのだ。  『カフカ式練習帳』には、「不死の島」の「わたし」と同じ怒りを抱え持つ、こんな直截な断片さえある。
『日本人はなぜ戦争を止められなかったのか』という番組名を見て、 『日本人はなぜ原発を止められなかったのか』という番組が、三十年後、五十年後に作られる恥を感じた。
10。「徹底的に推敲しろ」
 こんな時に思い出すのはプーラのことだ。  言葉づかいは少し間違っているかもしれない。こんな時に思い出せるのは、と訂正したほうが真っ当なのかもしれない。しかし、真っ当とは何だろう? あらゆるイメージがあらゆる人たちに〝その日〟の以前と以後とで異なる感情を与えている。だとしたら、この瞬間、この今に忠実に回顧するしかない。ふり返るしかないのだ。
 古川日出男の「プーラが戻る」の冒頭部分である。この短篇小説は、二〇一一年三月二十五日に「早稲田文学」のウェブサイトに掲載され、のちに単行本『震災とフィクションの“距離”』に収録された。中学校のプールの底に棲み、冬になって水が抜かれるとともにどこへともなく消えてしまった怪獣プーラの想い出を語るこの愛すべき小品は、おそらく古川が「三月十一日以後」に書いた最初の小説である。周知のように、その後、古川は中編小説『馬たちよ、それでも光は無垢で』を「新潮」二〇一一年七月号に発表する。すなわち入稿されたのは五月下旬ということになるが、では書き出された日時はというと、他ならぬ小説の中で告げられている。
 この文章を起筆したのは二〇一一年の四月十一日だ。十枚ほど書き進めて、すると、福島県の浜通り地方で余震があった。最大震度は6弱。  巨きな余震があるたびに、私は推敲する。  余震が、私に何かを許さない。「徹底的に推敲しろ」との声がする。
 『馬たちよ、それでも光は無垢で』は、『雲をつかむ話』の「わたし」とは異なり、作者の「古川日出男」自身であることを至ってストレートに明示してみせる「私」が、まだほとんど福島第一原発の事故の状況がわかっていなかった四月のある日(だが、それが「四月十一日」以前の何日であったのかは記されていない)、新潮社の編集者数名とともに出身地である福島へと向かう、一種のドキュメント小説の体裁を採っている。だが、興味深いことは、出来事の時系列が、今まさに書かれつつある小説の時間の内にバラバラにされて溶かし込まれ、前後の脈絡を脱臼されているばかりか、余震のたびにどこからか聞こえてくる「徹底的に推敲しろ」という何ものかの命令に従って、書かれた筈の言葉が度々廃棄され、幾度となく書き直されて、しかもそれを逐一、小説の中で告白してゆくという、独特なスタイルが選ばれていることである。「推敲」とは、確定されかかった過去=小説を絶えず未了へと追いやっていく、原理的には終わりのない作業のことである。結果として、この小説にはきわめて重層的な時間が畳み込まれており、それはほとんど混乱の一歩手前に到っているようにさえ見える。ところが、そのような錯綜した語りによって、現実の記録であった筈のこの小説に、あのメガノベル『聖家族』の虚構の登場人物である「狗塚牛一郎」が忽然と立ち現れるという離れ業が成されるのだ。つまり「牛一郎」は「推敲」の渦中から召喚されてくるのである。それは古川にとっては『聖家族』の舞台となったフィクショナルな世界を、どうしようもなくリアルな「以後の世界」と、強引にも接続させる、というミッションを意味してもいただろう。  やはり『震災とフィクションの“距離”』に収録されている重松清との対談「牛のように、馬のように」において、古川は「以後」に自分を襲った恐慌について、驚くほど率直に語っている。
古川 (…)震災前から書いてる作品が三つあったけれど、ひとつはもう駄目になりました。もう書けない、だから最終回にする。しかも最後に、ぜんぜん関係ないのに福島の話をして終わろうとしている。もう一個は、書けなくなると思わなかった作品だけれど、それすら突っかかってしまった。でも、本になるのは二年後になるかもしれない長いものだから、震災から二年経った人々が読みたいものに変えられるんじゃないか、そこに必死に縋っています。もう一作は現代を舞台にしていて、そのぶんもしかしたら逆にこのままいけるかもしれないけれど…… 重松 震災も取り込んじゃって。 古川 そう、消化していけるかもしれない。でも、いまもう通じない作品があり、二年後に出しても通じない部分が見えたとき、「お前がやっていたことは、地震が来たら崩れる程度のことだったんだよ」と認めざるを得なかった。単純に、エゴのために書いていたものがあるとわかったんです。「自分はすごいんだ」と人に言わせたかった、そういうものを書いていたんじゃないか。そのことにガッカリしました。 重松 そこまで言うのは、自分に厳しすぎる感じもしますけれど……あれらの作品はぜんぶエゴですか? 古川 わからないです、ほんとうのところは。ただ、そのことについてはいまも考えます。周囲では、だんだん震災や被災の空気がなくなって、復旧に向かっていると思うんです。でも、自分のなかでは進行形のまま、小説家として小説に対して内部被爆している。これを認めていくしかないと思っています。
 ここで語られている三つの作品とは、駄目になったひとつ目が『黒いアジアたち』、二つ目が『ロックンロール十四部作』、そして「このままいけるかもしれない」という三つ目が『ドッグマザー』のことだと思われる。三部から成る長篇小説『ドッグマザー』は、第一部「冬」が二〇一〇年七月号、第二部「疾風怒濤」が二〇一一年二月号、第三部「二度目の夏に至る」が二〇一二年二月号、いずれも「新潮」に発表された。近年、驚異的な速度で次々と新作を世に問うてきた古川日出男としては、かなりじっくりとしたペースと言えるが、当初の予定では、第三部は二〇一一年の夏には発表されることになっていたらしい。だがそれは右の発言にある理由により遅延することになった。「冬」と「疾風怒濤」は、明確に「以前」に書かれたものである。だが「二度目の夏に至る」は「以後」であるしかない。物語の時間は連続している。この小説は、更に以前に書かれた『ゴッドスター』で登場した少年が、同志のような偽の母親の庇護を離れて、東京の埋め立て地から京都へと移動し(同じく京都を舞台とする『MUSIC』ともシンクロする)、前世を売る謎の「教団」と出会うことで、奇怪にして神聖な成長を遂げてゆく、というものである。畝るような息の長い文体といい、液体的とも言うべき濃密な描写といい、それ「以前」の作風とは大きく変化しており(それは『ゴッドスター』と比較してみるだけでもわかる)、デビュー以来、絶えざるヴァージョンアップを重ねてきた古川日出男が、これまで以上のアップデートに挑んだ、紛うかたなき野心作である。古川はたびたび村上春樹への畏敬の念を語っているが、ここで彼がターゲットにしているのは「日本・現代・文学」を造り上げたもうひとりの人物、中上健次だと思われる。古川は中上が直視しようとした「天皇」を自分なりの仕方で生け捕ろうとしている。『ドッグマザー』は、その第一歩である。  「二度目の夏に至る」は、二〇一一年四月に始まり、六月で終えられる(ただし「母親」からの手紙という形で、あれから「二週間とか三週間」の時期のことも語られる)。「三月十一日以後」に起こった、起こりつつある出来事は、小説の世界に必然的に取り込まれている。だが、この「必然」は、当然のことながら、これに先立つ「冬」と「疾風怒濤」の時点では、欠片さえ存在していなかった。したがって、たとえば次の文章は、書かれていなかった筈なのに、書かれたのだ。
 平等な慈悲とは何か。  これは日輪子の考えか。日輪子が僕の分身とするなら、これは僕の考えか。僕の? 因果の法則をすっかり受け入れてしまって、その夥しすぎる死が、前世の報いなのだと仮定してみる。これらを天罰なのだと仮定してみる。いま現在の被災死亡者は一万四千人か。行方不明者はやはり一万と数千人か。詳細なデータ、人数は日輪子ならば日々把握しているのかもしれないが僕はそうではない。変動も激しい。けれども、それでもわかる。ここには無辜のものが混じっている、この一万、二万という数は罪のなさをも偶然的(アクシデンタル)に内包するからこそ夥多だと感じられる、直観される、数には数の生理があるのだ、ならば。そうであるならば、その無辜の人々はいったい何に(「何に」ダッシュ)生まれ変わる? 前世はある、と受容したのならば来世はどうだ? この応報は、どうなる?
 『馬たちよ、それでも光は無垢で』において「私」の耳に何度となく鳴り響いていた「徹底的に推敲しろ」という「声=命令」は、すでに「以後」となった世界で発されていたものである。だが『ドッグマザー』で、古川日出男は、いわばあらかじめの「推敲」を求められることになったのだ。われわれが読む、読むことの出来る「二度目の夏に至る」は、もしも世界が「以前」のままであったなら、確実に違う姿をしていた筈である。これは『聖家族』の「牛一郎」が、福島へと向かう車内にいつのまにか坐っているという離れ業の、いわば裏返しの所業である。古川は「以前」に胚胎されていた世界を「以後」へと「推敲」することによって、『ドッグマザー』という物語を、こう言ってよければ、なんとか書き終えることが出来たのだ。それはほとんど、生きるか死ぬかの綱渡りのようなものだったのではないか。連載も回数を重ねており、すでに大作となっていた『黒いアジアたち』が、にもかかわらず放棄されることになったのは、このあらかじめの「推敲」が、どうにも不可能だと判断されたからだろう。  「推敲」ということで思い出されるのは、言うまでもなく、川上弘美の『神様2011』である。あの誠実にして真摯な、そして切実きわまる試みが、同時に、ある途方もない痛ましさを放っているのは、あの書き直しによって、川上にとってデビュー作であった『神様』が、決定的に「以前」のものになってしまったから、そして、そうなることがわかっていながら、川上自身が、そうすることを選んだからに他ならない。小説が、小説家が、想像力が、書くことが、「以後」に向き合おうとするとは、なんと過酷なことなのだろうか。
11。「以前」の「以後」
 阿部和重は、新潮社のPR誌「波」の二〇一〇年十二月号から二〇一二年二月号まで、『幼少の帝国ーー成熟を拒否する日本人』という評論を連載していた。この論考は、戦後日本社会の特徴を「こどもっぽさ」すなわち「大人になること(=成熟)への拒否」に見出すという口実=フィクションを戦略的に引き受けてみせることにより、それ自体すでにクリシェと化している「日本=成熟拒否」論の耐久力をはかり直そうという、如何にも阿部和重らしい捻れまくったコンセプトを持っており、しかも最初からそのように宣言した上で開始されたものである。小型化や軽量化によって世界を席巻した日本の「ものづくり」を評価するのはまだわかるとしても、やがて「成熟拒否」を「アンチエイジング」と無理矢理読み替えて、あの高須クリニックの院長へのインタビューを行なうなど、論旨は(明らかに意図的に)暴走してゆく。ところが、連載開始前には予想もしなかった事態が起こったことで、この評論は当初の計画から大きく逸れていった。そのあたりのことについて、阿部は単行本の「あとがき」で、次のように書いている。
 東日本大震災が発生したのは、連載なかばの頃だった。わたしたちの企画にとっても、ここが大きなターニングポイントになった。  テーマ自体が借り物だったこともあり、それまではどこか他人事のように「現代日本」に目を向けていたところがあった。戦後史というフィクションを、一定の距離を起きながら振りかえるつもりで、例によってわたしたちはひとつの偽史的なストーリーを組立てようとしていた。  ところが3・11を経たことにより、この国で今なにが起きているのかをだれもが否応なく直視せざるを得ない状況が生まれてしまった。先端的な文化や産業の現状を通じて「現代日本」の粗描を試みていたわたしたちも、例外ではなかった。連載の途上にあったわたしたちにとり、選択肢はふたつしかなかった。二〇一一年三月一一日金曜日になにごともなかったかのように振る舞うか、あるいはそうではないかのどちらかだ。わたしたちはただちに後者を選んだ。
 私の知る限り、阿部和重という小説家は、ひとつの作品を書き出す前に、あらかじめ緻密な設計図を引いておき、実際の執筆作業では、ひたすらそれをリアライズすることに務めるという、完璧主義者というべきタイプである。それは『幼少の帝国』でも基本的には同じだったろう。だがしかし、不測の出来事により、設計図は破棄されることはないまでも書き換えられることになった。「二〇一一年三月一一日金曜日になにごともなかったかのように振る舞うか、あるいはそうではないか��という二つの選択肢は、多和田葉子が、保坂和志が、古川日出男が直面したものと同じである。そして阿部もまた、三人と同じ選択をしたのだった。  高橋源一郎は、選考委員を務めた第48回文藝賞の選評の中で、受賞作となった今村友紀の『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』について、こんなことを述べている。
 『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』を、ぼくは、3月11日以降に書かれた小説であろうと思って読んだ。それは、ぼくの勘違いだったのだが、そのことがわかった後も、やはり、「以後」の小説である、という感想に揺るぎはなかった。この小説は、「以後」を描いている。主人公の「私」は、突然、ある大きな事件(「戦争」?)に巻き込まれる。そして、その事件について、この小説の最後まで知ることはないのである。それにもかかわらず、「私」は、前へ進む。たとえば「私」はいくつものパラレルワールドと関わる。そこでは、既成のどんな論理や倫理も役に立たない。だから、「私」は全く新しい論理や倫理を作り出さねばならない。「以後」の小説の課題は、そこにしかないのである。
 実をいえば、高橋氏と同じ誤解を、私は北野勇作の『きつねのつき』という小説にかんしてしていた。「以後」に書かれたものだとばかり思っていたら、二〇一〇年には脱稿されていたのである。しかしそれでも私は、高橋氏が『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』に感じたのと同様に、『きつねのつき』を、すこぶる優れた「「以後」の小説」だと思っている。時間的に「以後」に書かれたものだけが「以後」であるわけではない。「以前」から「以後」を語っていた言葉がある。つまり「以前」にも「以後」はあったのだ。  「以前」の「以後」。これには、もうひとつの意味がある。「二〇一一年三月十一日」より「以前」を描いた、しかし歴然と「以後」の小説というものがあるのだ。次回、私は二人の小説家の最新作を取り上げる。阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』と柴崎友香の『わたしがいなかった街で』。二作とも、舞台は二〇一〇年である。
12。「廃棄物最終処分作戦」
 『クエーサーと13番目の柱』は、奇妙な小説である。それはつまり、いかにも阿部和重らしい小説ということだ。この物語で描かれるのは、タレントへの���視行為、いわゆるパパラッチである。だがそれは芸能マスコミによるものではない。主人公と呼んでいいだろう、元写真週刊誌記者のタカツキリクオと、彼が属する様々な出自の人間から成るパパラッチ・チームは、カキオカサトシという資産家のアイドルオタクに雇われて、カキオカが「Q」というコードネームで呼ぶアイドルを二十四時間モニタリングしている。「Q」とは、KINGを自認するカキオカ=KAKIOKA=「K」にとっての永遠に結ばれることのない精神的伴侶=執着の対象としてのQUEENの頭文字であると同時に、「地球から観測できるぎりぎりの、物凄く遠いところにあって、凄まじいエネルギーを放ちながら宇宙一明るく輝いている天体」である「準恒星状天体(Quasi-steller-object)」=クエーサーの頭文字でもある。カキオカは、けっして成就されない、それゆえにこそ絶対的な強度を持ち得る「天体観測者の愛」を「Q」に注ぐための道具として、タカツキたちを使っている。だが(というべきか、だから、というべきかわからないが)そのパパラッチは、盗聴、盗撮、張り込み、侵入行為等、スパイさながらのチームプレイと種々の最新テクノロジーを駆使した、ほとんど荒唐無稽とさえ思える大仰さであり、映画シナリオ或いはノベライゼーションを想起させる、いつにも増してドライで無機質でぶっきらぼうな文体で綴られてゆくタカツキたちの過剰なミッション・インポシブルぶりが、この作品の前半の読みどころであると言ってよい。  また、それと同時に、この小説は、かねてよりタカラヅカ、ジャニーズ、モーニング娘。(特にゴマキ)等への偏愛を表明してきた阿部和重が著した、一種の「アイドル論」でもある。いや、精確には「アイドルオタク論」だろうか。カキオカのクイーン=クエーサーへの倒錯した愛情は、にもかかわらず彼が「Q」をあっけなく別のアイドルに変更してしまえるということによって、その倒錯ぶりをより際立たせることになる。当然、パパラッチ・チームの監視対象も更新されるのだが、その新しい「Q」は、人間、ボーカロイド、アンドロイドの三人組新人アイドル・ユニット、エクストラ・ディメンションズ(ED)の、唯一の生身の人間のメンバーであるミカである。ところがミカは、EDの中でもっとも「アンチ(特定のアイドルに敵対し、ネット上などで「叩き」をするファンのこと)」が多いメンバーなのだ。このあたりの設定の実に捻くれた考え抜かれ方は、まさしくいかにも阿部和重である。二〇一二年のニッポンは、誰もが数年前には予想だにしなかったような形で、史上何度目かの「アイドル黄金(戦国)時代」を迎えているわけだが、阿部はこの作品において、彼が長年推してきたモー娘。以後に登場したPerfumeと初音ミク(後者は実際には音声合成ソフトウェア=VOCALOIDの商品名であるが、私は彼女も「アイドル」の一人であると考えている。何故って実体の無い、ユーザー各自が勝手に脳内でイメージを醸成できるキャラクターとしてしか存在していない声=ソフトウェアこそ、究極の執着の対象、あの「天体観測者の愛」が差し向けられるアイドルではないだろうか?。ちなみにほぼ同時期に登場したPerfumeとミクは明らかに相補的な存在である)、そして現在のマーケットにおける圧倒的な覇者であり、ことによると日本の「アイドル史」の最後の輝き(或いはとどめの一撃)になってしまうかもしれぬAKB48までを射程に収めつつ、それらの固有名詞を出すことなく、その「アイドル」としての人気の構造を解き明かそうとしている。阿部の「アイドルオタク論」は極めて批評的であり、それゆえ辛辣かつアイロニカルなものだが、既に別の場所でも述べておいたように(*)、だからといって単に高みの見物を決め込んだ意地の悪いお遊びというわけではない。そこには阿部和重の「フィクション」という得体の知れないものに対する独特の明察が潜んでいるのだ。  だが、われわれの論議にとって重要だと思われるのは、一見すると本筋とはあまり関係のない、オープニング・シーンともいうべき次の場面である。「二〇〇九年一二月一七日木曜日、午後一一時三八分」、タカツキリクオと相棒のサワザキコウタは、路駐したSUVの車内に居る。サワザキが「今まで見つかったなかでいちばん地球に似てるスーパーアースが発見された」というネットで拾った話題を振る。張り込み中の無駄話といったところだ。二人はスーパーアースの生き物の有無について意見を戦わす。地球上の常識に照らすとそれは無理っぽいのだが、別の天体にはまったく異なる生命の可能性だってあるかもしれない。ひょっとすると「ウルトラマンの怪獣みたいにバカデカいの」だっているかもしれない。
「しかしいくらスーパーアースつっても、ウルトラ怪獣はいないんじゃないのか。だいいち、ウルトラ怪獣がいるのならウルトラマンもいなくちゃ釣り合いがとれない。宇宙の真実はそこまで器デカくない気がするけどな」 「そうすかね」 「おそらくな」 「でも、気がするってのも、結局は常識的判断にすぎない。それだって真実を見落とすきっかけになっちゃいますよ」 「まあ、それもそうだな」 「でもやっぱり、ウルトラマンはいないだろうな」 「いやいるさ」 「あんなのいるわけないじゃないですか。所詮は絵空事ですよ」  眼鏡の男は依然外を見ながら笑っている。 「しかし人間の科学の常識が、間に合わせの真理じゃなくなる日ってくるのかな」 「どうだろうな。そもそも神の視点に立てない以上、人間には真理を真理と判定する術がないからな」 「どういうことですか?」 「模範解答集がなければ、テストの答え合わせはできないだろ。人間は真理の模範解答をしらないんだから、答え合わせも不可能だ」 「なるほど。答えが出せても自己採点はできないから、試験にパスしたかどうかは永遠に分からないわけか。しかしそいつは切ない話だな。布きれ一枚しか身につけてなかった時代から、人間は必死こいて真理の追究に明け暮れてきたってのに……あれ今、地震あったのか。伊豆で震度五弱て、かなりデカいな」  丸刈りの男は、いつの間にか画像検索をやめていて、ニュースサイトの閲覧に戻っている。地震情報を眺めながら、中身が半分になったペットボトルを彼は上下に振っている。 「そんなに揺れたのか。こっちはいくつだ?」  スマートフォンからいったん目をそらし、ペットボトルのなかで弾けまくる炭酸のあぶくを凝視しながら、丸刈りの男が答える。 「いや、東京はちっとも揺れてませんね。せいぜいイチとか、そんなもんです」
 『クエーサーと13番目の柱』は、「二〇〇九年一二月一七日木曜日、午後一一時三八分」に始まり、「二〇一〇年八月三一日火曜日、午前零時二三分」に終わる(阿部和重の小説の例に漏れず、この作品においても日付は重要な、だが秘密めかした意味を担わされている)。この小説は「群像」の二〇一二年二月号から四月号まで三回にわたり分載された。したがって引用部分を含む第一回は二〇一一年十二月中旬に入稿された筈だが(年末進行を考慮するともっと早かったかもしれない)、実はこの作品は、そこから一年半以上遡った時期に、すでに執筆開始されていたか、少なくとも構想されていたことがわかっている。というのも、私は『ピストルズ』の刊行の際、阿部和重と公開インタビューを行なったのだが、その対話の最後で、次回作の予告として、この作品のことが語られていたのだ。
阿部 (前略)ここだけの話でチラッと言いますと、講談社の百周年の記念の作品なので、講談社の社員が主人公なんです。「フライデー」の元記者が主人公になって、色々とダメな感じの出来事が起こります! 佐々木 (爆笑) 阿部 という企画になっておりますんで、そういう問題に関心のある方は是非。僕の二〇〇〇年代のフィールドワークが全てそこに投入される予定になっておりますので。 (『小説家の饒舌』)
 このインタビューが行なわれたのは二〇一〇の四月一六日である。理由はともあれ、結果として発表が遅れた『クエーサーと13番目の柱』には「講談社百周年記念」という銘記は見当たらず、タカツキリクオの前職も「フライデー」とは書かれていない。だが、これが同じ作品のことであるのは間違いないだろう。となると、次のような推測が成り立つ。阿部和重は、のちに『クエーサーと13番目の柱』と題されることになる小説を、二〇一〇四月一六日の時点で「ちょうどまさに今書き始めてるところ」だった。だが同作が入稿されたのは、二〇一一年末のことだった。もちろん脱稿がいつだったのかはわからない。ことによると、先の発言から程なく二〇一〇年中には書き終わっていて、何らかの理由で一年ものあいだ寝かせられていたということだってあり得ないことではない。だが、もしも先に引用した場面を阿部が「以前」に書いていたのだとしても、二人の登場人物の雑談の最中に取ってつけたように起こる地震が、二〇一一年三月一一日の「以後」を生きる読者に、なんらか特別な意味合いとともに受け取られるだろうことを、彼が意識していなかった筈はない。そう考えるなら、サワザキコウタがふとした思いつきのようにタカツキリクオに言う「しかし人間の科学の常識が、間に合わせの真理じゃなくなる日ってくるのかな」という台詞も、明らかに「以後」の色彩を帯びた問いかけとして聞こえてくるのではないか。  同様のことが考えられる箇所が、『クエーサーと13番目の柱』には少なくとももう一つある。物語の後半、タカツキたちは、インターネット上の電子掲示板でカキオカサトシとその下請け一味を敵視するオタたちと物理的な闘争を繰り広げるのだが、オタたちは自分たちの妨害工作と攻撃をこう呼ぶのだ。「廃棄物最終処分作戦」。ご丁寧にもこの九文字はゴチック体で強調されている。この語が当然のごとく喚起する連想は述べるまでもないだろう。私はこの九文字だけは、二〇一一年三月一一日以後に書かれたことを確信している。もちろん、このネーミングは小説全体の中では、さして重要な意味を持ってはいない。けれども、物語の時間が二〇一〇年の夏に設定されていることを考え合わせるなら、これは「以後」に書かれた「以前」を舞台とする小説に「以後」をあからさまに投げ入れる、という作業であったことになるのではないか。しかも、驚くほど単純明快な手口によって!
*「DAYDREAM BELIEVER」ー「群像」八月号
13。「引き寄せ」の法則(の捏造)について
 『クエーサーと13番目の柱』の奇妙さを担う重大な要素として、物語全体を貫く「引き寄せの法則(ロー・オブ・アトラクション)」というものがある。パパラッチ・チームの最年長だったミドリカワユウゾウは、外為取引=FXで儲けたからと仕事を抜ける。株のことなど無知だったというミドリカワをFXの勝者に導いたものこそ「引き寄せの法則」だった。ミドリカワはタカツキにも勧めてくるのだが、そういうのってやたらと情報量が膨大で初心者は尻込みしてしまうとタカツキが言うと、ミドリカワはこう答える。
「ところがそういうのはまったく問題ないんだわ。なぜかっていうとさ、引き寄せの法則ってことでは、根本の部分はみんな一緒だからね。つまりさ、たとえ話でもなんでもなく、本当に『思考は現実化する』ってことなのよこれは。願えばなんだってかなうっていうのが、この法則の大原則。要はね、その大原則が絵空事じゃない当たり前の物事なんだって、自分の頭んなかにしっかりと根づかせること。それさえできれば、効果はおのずと出てきちゃうわけ。そうすればさ、好きなだけ儲けられるしなんでも手に入れられるし病気だって治せちゃうのよ。なにしろ思ったことがどれも実際に起こるんだもん。不思議だよねえ。でもこれは、神秘現象なんかじゃなくてさ、いわゆる自然の摂理なんだよタカツキちゃん」
 思考は現実化する。この俄には信じ難い(し最終的にも信じられない?)法則、大原則、摂理が『クエーサーと13番目の柱』の世界を統べている。ミドリカワと交代でチームに加入し、EDに詳しいことから重宝されるが、次第にその悪魔的(?)な正体を露にするニナイケントも、偶然にも「引き寄せの法則」を口にする。彼はこう説明する。
「(前略)要するに、宇宙にはデータベースみたいなものがあって、そこにはこの世界で生じる、あらゆる出来事や物事の可能性がデータとして記録されていて、時々刻々と更新されているわけです。そしてその可能性のデータというのは、だれでも常に取りだして使うことができる。というよりも、だれもかれもが例外なく、常にそれを使って人生を組み立てている。なぜなら願望を抱くということは、その後に起こり得る出来事に直結する、なんらかの可能性を引き寄せるということだからです。人は皆、こうなりたいとかああなりたいと念じることで可能性のデータを宇宙からたぐり寄せ、現実の形にする。そのときに、正しく願いさえすれば、その願望にいちばん近い可能性のデータがこの世界に引き寄せられて、実現するという運びです」
 このようにニナイの話は一挙にオカルトじみてくるのだが、彼の理屈は、素朴に言い直せば「強く信じれば夢はかなう」ということであって、とりたてて特別な考え方ではない。というよりも、大方の自己啓発本の類いは、ほぼこんなものである。ニナイは嬉々として続ける。
「でも願い方が間違ってると、本来の願望とはズレた形で現実化してしまう。たとえば念願の成就にわずかでも疑いや否定的な印象を持っていたり、思念の中身にどっちつかずなところがあったりすると、宇宙はそれを忠実にトレースしてしまう。宇宙のデータベースには、文字通りあらゆる出来事や物事のデータが収納されているわけです。だから細かい点までぴったり一致してる可能性のデータが見事にそろってて、願う者の思いを鏡のようにそのまま反映してしまう。したがって、たとえ毎日願ってても、いやそれだからこそ、あなたの借金はいっこうになくならない。なぜならあなたの思念には、そんなバカなことあるわけねえという否定の先入観が絶えず混ざり込んでいるから。そのために、本当に望んでいる出来事の可能性をいつまで経っても引き寄せられない。そもそもそれは、あなた自身が、そのことを自分が本当に望んでいるのだと思い込んでいるだけのことであって、結局はちゃんとした願望にすらなっていないんですよ。どうです? 心当たりありませんか?」
 しかしこうなると、誰もが思うことだろうが、何だってありにも出来れば、なしにも出来る、何事であれ、起こすことも起こさないことも可能だ、そういうことにならないか。しかしニナイは、引き寄せ的には、出来事を起こさないことは起こすことよりもずっと困難なのだ、と言う。
「事情に暗い人はそんなふうに考えたがるものです。しかしそれは現実的な方法とは言えない。実際にはまだ起こってもいないことを想定して、それが起こらない可能性を引き寄せるというのは、当てはまるシチュエーションが無限にありすぎてイメージをまとめにくいんです。宇宙のデータベースは、構文ではなくイメージによる抽出データの指定を好みます。そのためこちらが思い描くイメージがぼんやりとしたものになっていると、可能性を引き寄せる力はそれだけ弱まってしまう。だったらより具体的に、起こるとわかっていることを想定して、そのなかのひとつの可能性を引き寄せるほうが間違いがないんです」
 こうしてニナイは或る陰謀(?)に着手し、タカツキはそれに巻き込まれる。そしてそれは物語のクライマックスを惹き起こすことになるのだが、未読の方に配慮して、これ以上は述べない。ともあれ、いささか唖然とさせられるのは、繰り返すが、この突拍子もない理屈が、この小説を駆動する内的な論理でもあるということなのだ。こうして前代未聞のパパラッチ小説であり、卓抜な「アイドルオタク(論)小説」でもあった『クエーサーと13番目の柱』は、きわめて奇妙な「可能世界(論)小説」としての顔を晒け出すことになる。それは「思考は現実化する」「信じればかなう」という狂った論理が本当に現実化する異常な世界の物語である。  阿部和重は、すでに何度か名前を挙げたアンソロジー『それでも三月は、また』と「早稲田文学ウェブサイト(→『震災とフィクションの“距離”』)」の両方に、同じ一本の短篇小説を提供している。「RIDE ON TIME」と題されたその短篇は、或る金曜日、十年ぶりの巨大な波=グランド・スウェルがやってくるのを待ち望むサーファーの「ぼく」を語り手としている。「一〇年前のライディングでは、ぼくらは総じて撃沈されはしたものの、皆どうにか陸に戻って��られた」。さあ、だが今回は、果たしてどうだろうか?
 そろそろぼくも、あの大いなるうねりの頂点に立つべく舟を漕ぎ出してみようかと思う。  たとえまたもやライディングに失敗したとしても、そのありさまが、三〇〇人もの人たちの目に留まれば、ひとつの意味がどこかに浮かびあがりはするだろう。  ひとつの意味がどこかに浮かびあがれば、それも突破口をこじ開ける、力の一部に生まれ変わるにちがいない。  そうすれば、いつもとはまったく異なる金曜日を、いつも通りの金曜日に変えることができるかもしれない。
 この後一行で、小説は終わる。二〇一一年三月一一日が金曜日だったことを覚えていない者は居まい。だからビッグ・ウェンズデイならぬビッグ・フライデイを描いたこの掌編は、大津波でサーフィンをするという、ある紛れもない不謹慎さを身に纏ってみせているのだが、そんなことより読み取るべきなのは、この「ぼく」のやみくもな想い=願いが『クエーサーと13番目の柱』の「引き寄せの法則」と、まったく同じものであるということだ。「いつもとはまったく異なる金曜日を、いつも通りの金曜日に変えること」。それが「できるかもしれない」という無根拠な希望は、ニナイケントが言っていた「正しく願いさえすれば、その願望にいちばん近い可能性のデータがこの世界に引き寄せられて、実現する」というのと、そっくりなのだ。それは保坂和志が『カフカ式練習帳』の断片に記していた「今はジジが生きていなくて良かった。でもジジが生きていたときはもっとずっと良かった」という言葉、そしてその裏に隠された「ジジが死んでいなければよかったのに。巨大地震が起きていなければよかったのに。両方とも起こっていなければよかったのに!」という反実仮想を思い出させる。「引き寄せの法則」に貫かれた『クエーサーと13番目の柱』は、一編のファンタジー、フェアリー・テールである。何故ならば、信じれば叶う、可能性を引き寄せる、などというのは幼稚な絵空事であることを、私たちはよく知っているからだ。だが、そんな狂った論理が通用する狂った世界の提示は、望んだわけでもない酷薄な現実の世界で生きるしかないわれわれに、次こそはうまくやってみせる、巨大な波にだって乗ってみせる、必ず生き延びてみせる、という想い、そんな「ひとつの意味」を浮かび上がらせるのだ。  『クエーサーと13番目の柱』が「震災以前」の物語であることにこそ「以後の小説」としての意味が込められている。つまり、奇跡はすでに一度は起こった、ということなのだ。「無数に分岐して展開してゆく可能性が折り重なる、ホログラムのような像」から「とうに決めてあったひとつの可能性」を引き寄せ/選び取ることが、ひとたびは出来たのだから、それはもう一度、いや、何度だって出来るかもしれない。そういうことなのだ。『クエーサーと13番目の柱』は、希望と奇跡と再生の物語である。ほとんどそのようには見えなくても、これはすぐれて切実な「以後の小説」なのである。
14。「距離」のパラドックス
 柴崎友香の『わたしがいなかった街で』は、「新潮」の二〇一二年四月号に掲載された。物語の舞台は二〇一〇年の初めから夏にかけて、である(偶然にも『クエーサーと13番目の柱』と、ほぼ重なっている)。三十六歳のOLである「わたし」は、離婚してひとりで住むためのアパートに引っ越してきた。この小説は、「わたし」の日々を淡々と記録していきながら、中途から別の登場人物、三人称で綴られる「葛井夏」の存在が迫り上がってきて、遂には「わたし」と入れ替わる、という特異な構造を持っている。ほとんど異様なものと言っていいこの仕掛けにかんして謎解きめいたことを書くのはさしあたり慎んでおく。柴崎友香の小説のヒロインはいつもそうだが、この「わたし」も普通のようで普通ではない。それは小説の中で彼女が耽溺する二つの習慣(?)に如実に現れている。まずひとつ、「わたし」はiPhoneで六十五年前に書かれた『海野十三敗戦日記』を読んでいる。それは彼女が越してきたのが東京の世田谷区若林であり、戦時中、海野十三がそこに住んでいた、という事実がきっかけと記されているのだが、それにしても些か奇異ではある。彼女はiPhoneで海野日記の空襲の記述を読みながら近所を歩いたりもする。  もうひとつは「わたし」のささやかな趣味であるドキュメンタリー映像鑑賞である。やや長くなるが、最初に突然それが登場する場面を引用する。それはこの小説の叙述の風景を、それまでとは一変させるインパクトを有している。
 三十二インチの液晶画面を、装甲車のタイヤが横切った。タイヤが踏んで行ったアスファルトには、真っ赤な血だまりができている。銃声が何度も響き渡った。サラエヴォの中心市街の大通りに伏せていた民衆たちが、建物のほうへと逃げ惑う。撃ち合いが始まり、警察の装甲車が出動し、人々は手を叩き拳を突き上げて口々になにかを叫んでいた。  ユーゴスラヴィアの内戦の過程を追った全六回のドキュメンタリーの四回目だった。各勢力の指導者たちの証言が差し挟まれてから、国境近くの山間の小さな町が映し出された。既に戦車に包囲され、並木の新緑が芽吹く川沿いの道から、砲撃を受けていた。春の花が咲く茂みで、普段着の民兵たちは、ベルト状につながれた尖った弾丸を機関銃に装填して応戦の準備をしている。検問では、怯えた顔の人々が兵士たちになんとか身分を証明しようとしていた。村では、車から降りた迷彩服の男たちが、それぞれ片手に自動小銃を持って、これから殺す人を探し出すため、脅し文句を叫びながら、白い家の敷地に入っていった。ベージュのトレンチコートを着た白髪の男が、迷彩服たちに連れられて出てきた。迷彩服たちは、片手の自動小銃を体の一部になったように一瞬も離すことはなく、もう片方の手で男のトレンチコートを引っ張り、小突いて、連れ出した。トレンチコートの白髪の男は、不安げに、ちらっとカメラを見た。映像はそこで途切れ、次の映像に切り替わると、別の男たちが死体を片付けていた。中年の女の死体を、一人が右肩、一人が左肩、一人が足を持ち、道路脇に停められたトラックへ向かって、庭の小道を下っていった。肉付きのよい中年の女の死体は、地面に伏せた姿勢のまま、完全に固まっていた。男たちが服を引っ張って持ち上げても、死後硬直した両方の肘は外に突き出されたまま宙に浮いていた。手の上に顔を伏せ、腰から不自然な方向に曲がった、殺される直前のその形のまま空間に浮かび、運ばれ、トラックの荷台に放り投げられた。荷台にはすでに、同じような形で固まった男の死体があった。また別の場所が映る。草地の上に、さっき運ばれた女とよく似た体型の老女が、さっきの女とよく似た体勢で倒れていた。セーターの背中の真ん中には、銃弾の跡が丸く開いていた。しかし血は見えない。横向きになった顔と、通常の関節とは逆方向にまがった腕の先のては、灰色に変わっていた。誰かの持ち物だった鞄やノートが、道に散らばっていた。ところどころ、インタビューを受ける国連職員の証言が差し挟まれる。わたしのジープは曲がり角にあ��た血だまりで横滑りしました。死体を積んだトラックを何台も何台も見ました。
 「なにかきっかけがあって急に見続けるようになったわけではない。しかし、見る時間は確実に少しずつ増えている。減ることはなく、増えていく一方だった。一人になってから。この数ヶ月のあいだ」。このあと「わたし」は幾度もこの種のDVDを再生するだろう。そこには、ここから遠く離れた場所での悲惨と災厄が映っている。あらゆる映画=映像は必然的/不可避的/運命的に「過去」の記録であるが、ドキュメンタリーはその中でも一際、歴史=時間に穿たれた出来事の目撃者としての使命を帯びている。「わたし」が凝視めるのは「過去」の内でも、とりわけその取り返しのつかなさが悲劇的である出来事の記録である。それが何故なのかは彼女自身にもわからない。ただ、ひとつのことは言える。ここには時空間の断絶と連続のアンヴィヴァレンスが働いている。つまり、いま目の前で展開しているサラエヴォの光景は、わたしが居合わせたわけでも赴いたことがあるわけでもない、こことは完全に断絶した土地で、こうしてDVDの映像に刻まれている以上は、すでに遥かに過ぎ去った、けっして巻き戻すことの出来ない或る時において生じていた出来事である。だがそれは同時に、疑いもなく、わたしが今いるここ、ここにある今と、繋がっている。それは別の世界の出来事ではないのだから。それは虚構ではないのだから。  時間と空間の断絶と連続、その両義性、言い換えればそれは「距離」のパラドックスである。「わたし」は、今ここ、と、或る時或る場所で、の間に横たわる、踏破不能な、だがけっして計測不可能というわけではない「距離」に囚われている。このような感覚は、彼女が読み続ける『海野十三敗戦日記』との「距離」にも現われている。「わたし」は終戦の年の海野の記述を追いながら、その時彼が実際に居た同じ土地を歩く。「日記」という形態の特殊なところは、後から手を加えたりしていない限り、日々の記録は、当然ながらその時々のものでしかないので、それ以後に起こるだろう出来事にかんしては、多少は予想出来ることもあったりはするとしても、それがそのまま現実化するとは限らないし、突発的に生じる事件だって無論ある、だから結局、日記はいわば不連続な連続性の中で書き継がれるしかなく、それを後から読む者にとっては、時としてそれはパラドキシカルに思えもする(何故なら読者はその先のことを既に知っている場合があるから)ということだ。日記はフィクションではないのだから、それを書いている誰かは、未来を知っているわけはない。だからこのとき、日記の書き手よりも読み手の方が「作者」と呼ばれる存在に近い、と言ってもいいのかもしれない。  『わたしがいなかった街で』は、次の一文で始まる。「一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた」。だからもうその頃のことを祖父に尋ねることは出来ない。「わたし」は祖父が料理をするところさえ見たことがなかったのだ。一九四五年八月六日午前八時一五分、周知のように、広島は米軍による原爆投下を受け、十四万人ものひとびとが瞬時に死亡した。もしもあと二ヶ月、祖父が広島で働いていたら、彼は原爆で命を落としていたかもしれない。だが、そうはならなかった。そのようなことは、けっして起こらなかった。    一九四五年八月十四日の昼、京橋駅周辺は空襲を受けた。爆弾は現在の環状線の線路を貫通し、その下を交差して走る片町線のホームに避難していた大勢の乗客を直撃した。死者の数は六百人以上とも言われているが、その後の混乱もあってほとんどが行方不明のままだ。  八月十四日? 明日、戦争が終わるのに。  三月の大阪大空襲のことは知っていたが、八月のそんな時期にまで大規模な空襲があったとは知らなかった。  八月十四日、明日戦争が終わることを、その日の人たちは知らなかった。  八月十四日に京橋で空襲があったことと、祖父が八月六日に広島にいたかもしれなかったことは、たぶんわたしの中で一対になっている。そこにいたのにその日はいなかった祖父と、たまたまその日にそこにいた人たち。あとから考えれば、生死を、その後の人生を左右した決定的な偶然は、実際に爆弾が投下されたそのときまでは、生活の一部として特別重大なこととは意識されないできごとだったと思う。  祖父がいた場所で起こったこと、何度も自分自身が乗り降りした駅で起こったこと。そこにいて死んだ人、いなくて助かった人。そうしてたまたま、私は生きている。存在しなかったかもしれないわたしが、京橋駅のホームに立っている。  八月十四日に空襲があったのは、大阪の京橋だけではなかった。山口県岩国と光、そして十四日夜から十五日未明にかけて、群馬県伊勢崎と太田、埼玉県熊谷、神奈川県小田原、東京都青梅、秋田県土崎……。  戦争が終わることはすでに決まっていて、しかし多くの人がまだそのことを知らなかった時間に。  そう思うのは、戦争が終わったことをわたしが知っているから。終わったあとで、その前の日のことを考えるから。
 ここには、複数の、きわめて複雑な「距離」のパラドックスが、畳み込まれるようにして記されている。そして次第にこのパラドックス群は、否応なしに「わたし」を覆い尽くしてゆくだろう。それは最初から『わたしがいなかった街で』という題名によって予告されている。「存在しなかったかもしれないわたし」は、しかし存在している。今ここに、存在してしまっている。この当たり前の、そして残酷な事実認定は、阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』における「無数に分岐して展開してゆく可能性」から引き寄せられる「ひとつの可能性」と、明らかに共鳴し合っている。
15。「わたしがいなかった」ということ
 阿部和重は『クエーサーと13番目の柱』で、オカルトまがいの自己啓発と思われかねない「引き寄せの法則」を闇雲に肯定してみせることで、いったい何をしようとしていたのか。  「無数の可能性」から、ありうべき「ひとつの選択肢」を掴み取る、ということは、あくまでも未来へと向かう問題である。どれだけ強力な「引き寄せの法則」を駆使しようとも、確定された過去を改変することだけは出来ない。残念なことに、タイムマシンは未だ発明されてはいないのだから。むしろこの残酷な事実認定こそが「引き寄せ」を引き寄せているのだと考えるべきなのだと思う。変えられる可能性があるのは、これから起こる出来事だけであり、起こってしまった出来事に対しては、ただそれをどう過ぎ越してゆくか、どう受け止められるか、どう解釈するか、ということにしかならない。過去が過去であるがゆえのこの無情さを、如何にして未来の希望へと反転させるか、阿部和重の目的は、この一点に集中していると言ってもいい。それゆえにこそ『クエーサーと13番目の柱』は、表面的な荒唐無稽さや不謹慎さを超えて、ひどく切実なのである。  「わたしがいなかった街で」の柴崎友香もまた、過去の改変不可能性と、けっして変えられない過去が、他ならぬ現在とひと続きであるというもうひとつの残酷さに、真摯に向き合おうとしている。ベトナム戦争のドキュメンタリー映像を観ながら「わたし」は考える。
 何度も何度も、別のヘリコプター、別の飛行機から撮影された映像が、繋ぎ合わされ、光の塊が空中を進む時間が、重ねられていく。また別の村、別の橋、別の道路、森、田畑が、銃撃され、爆撃され続けた。  新しい場所が現れては破壊されていくのを見ているうちに、もしかしたら、人間は、この時間のことを考えることしかできないのかもしれない、という思いが湧き上がってきた。  発射された弾丸や爆弾が空中を進んでいき、地上を爆破するまでの、そのあいだのわずかな時間。破壊は決定されているにもかかわらず、まだその破壊が訪れない、その何秒かの、しかし最後に向かっていく限りなく永遠に近く感じられるその時間。  爆弾がおちてくることがわかっているのに、そのときはすでに爆弾は投下されていて、誰も止めることができない。時間はあるのに取り消すことはできない。少しでも遠くへ逃げるか、なんとか物陰に隠れて、すでに決められた破壊を見ることしかできない。  目撃した人は、考え続ける。もし、あれが発射されていなければ、もし、あの場所にいなければ、もし、戦争が起こらなければ。  起こらなかったことについて考えるのは、難しい。  それでも、思い続ける。  もう少し早く、ほんの少しでも早く、気づくことができたら。  そうしていつかは、引き金が引かれるより一瞬でも早く、爆弾投下のスイッチが押されるよりほんのわずかな時間だけでも早く、伝えられるようになれば。撃たないで! 落とさないで! と叫ぶことができたら、叫び声が向こう側まで聞こえたら、と願い続けている。  変えることのできない過去、取り戻すことのできない時間、絶対に行けない場所。それらを、思い続けること。繰り返し、何度も、触れることができないと知っているから、なお、そこに手を伸ばし続ける。
 起こらなかったことについて考えるのは、とても難しいし、おそらくは無意味なことでもある。だが、それでもわれわれには、考えてみることは出来る。しかし悲惨の只中にある者には、今起こっている出来事を顧みることさえ出来ない。その結果、この世界から消えてしまった人々には、それを過去として思い出すことも、忘れてしまうことも叶わない。われわれはしばしば、その時その場にたまたま居合わせてしまったがゆえに、取り返しのつかない事件や事故の犠牲となった者に対して、偶然や意思の働きがほんの僅か違っていたら、自分がそこに居合わせていたかもしれない、悲劇と遭遇していたかもしれない、という可能性に思い当たり、震える。そのとき、それは私であったのかもしれないという想像は、しかしそれは私ではなかったのだという事実と、裏腹になっている。だが、それは私だったかもしれないが私ではなかった、とは、ほんとうは、どういう意味なのか。そのような認識が齎す、紛れもない自責の念とは、結局のところ、安心の別名ではないのか。  「わたし」の祖父は、一九四五年八月六日の広島に居たかもしれなかった。もしもそうであったなら、「わたし」は存在していなかったかもしれない。だが事実としては、祖父は「そこにいたのにその日はいなかった」のだし、そのかわりに「たまたまその日にそこにいた人たち」が消えてしまったのだ。ここには交換可能性は無い。無いからこそ「居たかもしれない」が生まれてくるのだから。だが、だからといって、この「かわりに」という錯覚の強迫を、真っ向から引き受けてしまったなら、われわれは到底生きてゆけないだろう。  あらゆる過去は必ず、現在から遡行していった時間の系の内に属している。起こらなかった過去は、そのどこにも存在してはいない。それはただ現在という時点から、かりそめに想像されているだけである。だが、それを言うなら、現実に起こったことにしたって、実はほとんど同じことではないのか。忘却がそうさせるということだけではなく、そもそも記憶されなかったこと、自分が体験しなかったことは、思い出すことも忘れることも出来ない。それはせいぜいが、ただ知ることが出来るだけである。  「わたしがいなかった街で」で柴崎友香は、明らかに意識的に、以前の彼女だったら敢て書かなかっただろう、たとえ行間には存在していたとしても進んで言葉にしようとはしなかっただろう事柄を、たくさん書いている。思うにそれは、かなり勇気が必要な行為だったに違いない。「新潮」の二〇一二年九月号に掲載された岡田利規との対談「〈わたし〉がいない過去と未来へ」の中で、彼女は次のように言っている。
柴崎(前略)これまで私が書いてきた小説は「何気ない日常を描いてる」と言われることが多くて、私自身はずっと「そんなつもりじゃないのにな」と思っていて……。 岡田 「日常」という言葉を当てはめられることに、違和感を持ってたんですね? 柴崎 「当てはめられることに」というよりは、おそらく人が「日常」と呼ぶものが、たとえば「普通の、変わらない毎日」とか「何でもない毎日」だとしたら、私のそれとは多分、違うものなんじゃないかと疑問に思っていました。 岡田 ああ、既にそこからずれてるってことですね。 柴崎 だから私の作品がそう受け取られてしまうのはどうしてなのか、そして私は何故それを違うと思うのかを考えて、作品の中で形にしないといけないのではないか、という思いがここ何年かのうちに、強まっていたんです。
 岡田利規の演劇ユニット、チェルフィッチュの公演『ゾウガメのソニックライフ』を観劇した際、英語字幕の「日常」の訳が「day-to-day」になっていたことに触れ、柴崎は「自分が思う「日常」と近い」と述べている。一日また一日。その連鎖を「日常」と呼んでいる。それは端的に「時間」のことでもある。明日が今日になり、昨日となり、過去になってゆくという、不��逆的なプロセス。同じ一日などなく(必ず何かは違っている)、何も起こらない日もありえない(必ず何事かは起こっている)。そのような「day-to-day」が蓄えてゆく「過去」は、常に二重のものとしてある。「わたし」の中にある「時間」と、「時間」の中にある「わたし」。言い換えるなら、記憶と歴史。この二重の「過去」は並走しつつも完全には重なり合うことはない。ミクロとマクロ。「わたしがいなかった街で」の「わたし」は、彼女の「日常」の中で、記憶に穿たれた歴史と、歴史と共振する記憶を、幾度となく喚び起こし、反芻する。
 どんな大きな事件も悲惨な戦争も、最初の衝撃は薄れ、慣れて、忘れられていく。また事件や戦争が起こったら、忘れていたことを忘れて、こんなことは経験したことがない衝撃だ、世界は変わってしまったと騒ぐけれど、いつのまにか戻っている。戻ったみたいに、なっている。  世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだときの映像を見たり、それを思い出したりすると、あのときは父が生きていた、と必ず思う。わたしは勤め先を辞めた直後で東京に引っ越す荷造りのために、実家にいた。自分の部屋にいた父が駆け下りてきて、すごい事故が起きてる、と言ってテレビのスイッチを入れた。ラジオでニュースを聞いたらしかった。食卓に母が座っていた角度も、床に転がっていた自分がそのときめくっていたファッション誌のページも覚えている。  「事故」ではない、とわかったのはその数分後に二機目がもう片方のビルに突入する映像が映ったときだった。そこで日付が変わるくらいまで見て、あとは自分の部屋のテレビで一晩中見ていた。大きな戦争が始まるのではないかと、怖くて眠れなかった。戦争が始まったことを自分はテレビで知らされるだろう、と子供のころから明確なイメージがあった。何か起きて、テレビをつけるともう世界は元に戻れなくなっていて、わたしは二度と家から出られない。翌日から、アメリカのニュースチャンネルには「UNDER THE WAR」の文字が並んでいた。  父が死んだのはそれから一年以上あとで、そのあいだに父と話したり病院に通った記憶もいくつもあるのだが、あの瞬間にまだ生きていた、はっきりと実感するのは二〇〇一年九月十一日、日本では夜の、父が階段をどたどたと下りてきて「すごい事故が起きてる」と言ってテレビをつけた、その一連の動作と時間だった。だから二つの高層ビルが煙を上げる映像を見ても、その日の話題が出ても、わたしにとっては必ず「父がまだ生きていた時間」として蘇る。「事故」ではない、とわかるまでの時間、北棟が崩れ落ちるまでの時間、南棟も崩れ落ちてそこにタワーがなくなってしまうまでの時間、そのあと一人でテレビを見続けていた時間。
 ここには、極めて繊細な、それと同時に驚くほどにざっくりとした印象もある、独特の時間感覚が働いている。「わたし」は「二〇〇一年九月十一日」の他にも「一九八九年一月七日」のことや「一九九五年一月十七日の朝」のことを思い出す。今日のこの日から「day-to-day」を巻き戻してゆけば、その日は必ず、そこにある。「わたし」には、その日の記憶が、確かにある。そこでは記憶と歴史は、歴史と記憶は、かろうじてとはいえ、繋がっている。けれども海野十三の日記を繙くとき、海の向こうの戦場の映像を見るとき、「一九四五年八月十四日の昼」や「一九四五年八月六日の広島」を思うとき、そこに刻み付けられた時間と空間に「わたし」は見当たらない。だが、それは確実にあったのだし、あるのだ。ということは、今ここにいる「わたし」と、いつかどこかの「わたしがいなかった街」は、やはり繋がっている。この断絶と連続のパラドックスが「わたしがいなかった街で」という小説を駆動している。そうして「わたし」は、やがて「日常」にかんする次のような省察へと至る。
 日常という言葉が指す何かがあるとしたら、あのときも、現在も、遠い場所でも、ここでも、同じ速さの時間で動き続けている街の中に、ほんのわずかのあいだだけ、触れたように感じられる。だが、その次の瞬間には、もうそれがどんな感じだったか伝えられなくなってしまうような、そういう感じ方のことだと、思い始めている。  見たり忘れたり現れたり消えたりしたあとで、わたしの中に残っている数少ない確かなことは、自分が今、この世界で生きていると思うこと。わたしは生きているし、映画のセットや張りぼてみたいに思えても、今この網膜に映っているものは、そこにあって、近くまで行けば触れる。そして、しばらく見ていてもなくならなかった。
 「わたしは、かつて誰かが生きた場所を、生きていた」。だがしかし、この作品がおそろしいのは、すでに述べておいたように、「わたしがいるここ」から「わたしがいなかったそこ」を、「わたしが生きている今」から「わたしがかつて生きていたその時」と「わたしがまだいなかったその時」を透かし見る、この小説の進みゆきの果てに、他でもない「今ここ」から「わたし」が消滅してしまう、ということなのだ。「わたし」の一人称に、物語の中途から彼女の旧い友人の妹である「葛井夏」を視点とする三人称が紛れ込み始める。この三人称はどこか奇妙なものであり、一見ごく変哲のない文章であるようでいて、まるでそのすべてが「わたし」の主観の内部に閉じ込められているようにも思えてくるのだが、しかし東京に居る「わたし」と大阪に住む「夏」は一度も出会うことなく(二人は共通の知人である「中井」を介してのみ互いのことを知る)小説は終わってしまうのだ。全二四章から成る「わたしがいなかった街で」は第二三章の途中から三人称に変わり、最終章には「夏」しか出てこない。だが、そこで語られるエピソードを読めばすぐに気づくことだが、そのとき「夏」には「わたし」が溶け込んでいるのだ。  岡田利規との対談の中で、柴崎友香は『わたしがいなかった街で』について、「自分がいない場所のことを考える」ことが一番大きなテーマだった、と語っている。「別の時間が同時に存在するように、読む人の中で混ざり合うように」書こうとした、とも。
柴崎(前略)場所にしても時間にしても、人間は二箇所に同時にいることはできない、というのが、たぶん自分のいちばんのテーマです。「今」「ここ」からは、時間的にも空間的にも、どこかとの距離が必ずある。絶対に越えられないその距離と、距離を越えようとすることの、両方を書きたいです。
 二〇一〇年の初めから夏の終わりにかけての出来事が綴られた「わたしがいなかった街で」を読む私たちは、ちょうど「わたし」が『海野十三敗戦日記』を読んでいたのと同じように、それから数ヶ月後に何があったのか、二〇一一年の三月一一日に何が起こったのかを知っている。意識していなくとも、常に頭のどこかにはある。そして柴崎友香は、そのことをよくよくわかった上で、この小説を書き上げたのだと私は思う。物語の末尾から「day-to-day」を繋いでゆけば、やがてその日になり、そして今日になる。だが、このときはまだ、それは起こっていないし、起こることを誰も知らない。この作品に幾重にも畳み込まれた「時間」をめぐる断絶と連続のパラドックスは、こうして未来に、この現在にまで延びている。「わたしがいなかった街で」が、「以後」に書かれた、しかし「以前」を舞台とする、すぐれた「以後の小説」であるというのは、ざっと以上のような理由による。  書いておくべきことは、まだある。単行本『わたしがいなかった街で』には「群像」二〇一一年十月号掲載の短篇「ここで、ここで」が併録されている。このごく短い小説は、阿部和重の「RIDE ON TIME」が『クエーサーと13番目の柱』に対して持っていたような位置を、本篇(?)に対して持っている。舞台は「わたしがいなかった街で」から約一年後の二〇一一年の夏、今度ははっきりと「以後」である。大阪出身だが今は東京住まいの「わたし」は、神戸の三宮で催されるトークイベントに出演するついでに里帰りをする。彼女がこの仕事を受けたのは、「三月の地震以来、わたしは何度も神戸のことを思い出していた」からだ。この「わたし」は「柴崎友香」に限りなく近い人物と思われ、そのせいかややエッセイ的な雰囲気を感じさせもする(のだが、もちろん書かれてあることが事実とは限らない)。「わたしがいなかった街で」と最も強くシンクロしているのは、幼い姪のエピソードである(タイトルもここから採られている)。「わたし」が与えた動くぬいぐるみに吃驚して床にひっくり返って頭を打った姪は、しかし泣き出しはせず、むくっと起き上がってテーブルの縁を指差し「ここでここで」と言い、続いて椅子の脚を指差して「ここでここで」と言う。
「ここで? 頭打った?」  指をくわえたまま、姪は三回頷いた。 「前に?」  さらに二度頷いた。それから頭を打ったことは忘れたように、台所へ歩いて行った。そのあとについて行きながら、わたしは動揺していた。一歳八ヶ月の姪に、すでに過去の時間があって、彼女がそれを理解していることに。彼女が、過去のできごとをわたしに向かって説明しようとしていることに。自分は前にこことここで同じようなことを経験した、と。  わたしはそれを聞いてしまった。
 もうひとつ、姪は母親に言われて、仏壇に向かって正座をして、会ったことのない「じいちゃんにちーん」をする。
 自分が生まれる前に祖父が死んだということを、姪が理解するのはいつごろだろう、と小さな背中を見ながら思った。もしかしたら、もう知っているのかもしれない、  それでも変わらないのは、父が、彼女が生まれたのを知らないこと。
 「過去」の存在と「時間」の不可逆性。越えられない「距離」と、それでも「距離」を越えようとすること。ここには紛れもなく「わたしがいなかった街で」のエッセンスがある。だがそれと同時に、この短篇は「わたしがいなかった街で」よりも半年早く発表されており、舞台は一年後なのだ。二篇が一冊の単行本に収められることで、更なるパラドックスを形成している。それは、小説の内側だけでなく、今ここで読んでいるこちら側にも働きかけてくるのだ。
16。「現在地」から遠く離れて
 さて、そろそろ話を変えていかねばならない。どこに向かうべきか暫し思案したが、ちょうど接続もいいので、岡田利規のチェルフィッチュが二〇一二年の四月下旬に初演した舞台『現在地』のことを書こうと思う。先の柴崎友香との対談で、岡田は「わたしがいなかった街で」が「戦争」という題材に思い切って踏み込んでみせた蛮勇(?)を讃えつつ、自分自身が経験していない出来事を書くことの難しさを語っている。
岡田 経験してる人は、書けるじゃないですか、経験してる、というごく単純だけれど強力な理由から。でも、戦争を経験もしていなければ、それにまつわる歴史についてだって大した教養があるわけでもない僕なんかが、作り手としていったいどういうことができるのか? そういうことは割としょっちゅう考えていて、それでよく落ち込むんですけど(笑)、でも結局行き着く答えって、そんな自分の考え方がどうやって変化していったかを示すこととか、そういうところにしか僕は自分の可能性とか価値とかを見いだせない、ってことなんですよ、いつも。というか、そこには可能性があると無理矢理思い込むことでなんとか首の皮一枚つながってることにしようとしてるんだと思いますけど。
 だから「僕にやれることがあるとしたら、僕らがどうやって現代を生きてて、そしてそこにどうやって歴史に対する想像力を挿入させていくか、その試行錯誤のプロセスを晒すこと、それにはかろうじて、ある種のドキュメントとしての意味があるかも」と岡田は述べている。確かに岡田利規とチェルフィッチュは、一貫してそのようなことをやってきた。ほぼ無名と呼んでよかった彼らが一躍注目を浴びた、岸田國士戯曲賞受賞作『三月の5日間』は、二〇〇三年の三月、米軍のイラク爆撃の真っ最中に渋谷のラブホテルで四連泊するゆきずりの男女を描いたものだったし、二〇〇六年末の『エンジョイ』では、急速に社会問題化していた非正規雇用者=フリーターたちの生態を、当時勃興していたフランスの学生デモと絡めて作品化し、二〇〇八年の『フリータイム』では、引き続き雇用と労働を主題にしつつ、より抽象化された舞台で岡田独自の演劇的方法論を更新し、二〇一〇年の『わたしたちは無傷な別人である』では二〇〇九年八月末の衆議院選挙の前日を舞台に、持てる者と持たざる者の相克、すなわち格差問題へと踏み込み、二〇一一年二月に上演された『ゾウガメのソニックライフ』は、それまでの作品群で描いてきたリアルな現状認識を持ったまま、現在のニッポンで生きること、生きてゆくことを肯定するためには、果たしてどうすればいいのかと問うたものだった。『現在地』は、前作以来一年二ヶ月ぶりに発表された、チェルフィッチュの長篇最新作である。公演にあたって、岡田利規は次のように書いてい��。    『現在地』は変化をめぐる架空の物語です。SFみたいな。  わたしたちは、状況を変化させたいと強く望んだり、変化させなければと焦ったり、怒ったり、実際に変化に身を投じたり、それはできずにためらったり、常に冷静で穏やかであろうと努めたり、変化するしないを勇敢さ臆病さの問題として考えたり、考えなかったり、開き直ったり、自分の考えていることが正しいのかどうかの確信をどうしても欲しいと思ったり、正しい人間でいたい過ちを犯したくないと思ったり、たとえばその気持ちを過去に人類が起こした取り返しの付かない過失に準えようとしたりします。  『現在地』というフィクションの中の人物たちも、そうやって生きます。
 多くの点で『現在地』は、それ以前のチェルフィッチュの作品とは明確に違っている。まず、七人の出演者は全員女優であり、それ以前の全作品に出演してきた看板俳優の山縣太一をはじめ、男性はひとりも出てこない。また、岡田利規の得意技である役柄の非固定化や移動/交換、時空間のあからさまな操作/変形、或いはチェルフィッチュのトレードマークだった異様にきょどった発話や動きも、ほぼ皆無となっている(これらの点については拙著『即興の解体/懐胎』を参照)。もちろんそれらは『三月の5日間』以降の作品群において次第に変化してきていたのだが、『現在地』には、それまでの方法を敢て封印してでも新たな作風に向かおうとする、はっきりとした意志が感じられる。そこで鍵となるのは、右の文章の最後にも出てくる「フィクション」の一語である。  「新潮」の本年四月号のアンケート特集「震災はあなたの〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」には、岡田利規も回答を寄せている。「僕はかなり変わったと思う」と題された文章は「フィクションを作る想像力を欲しいと思うようになった」という一言から始まっている。「こう書くと驚かれるかもしれない。(略)お前は持ってないの? はい。持っていません。それでも小説を書いている。それでも書けるから。現実を自分なりの仕方で見るブラウザみたいなのを用いることで、僕は小説を書いている」。文芸誌なのでもっぱら小説が話題にされているが、もちろん事は演劇でも同じである。そして「以前」は、それでも別によかったのだ。だが、心境の変化が訪れた。
 想像力は、現実とたとえ無関係でもかまわない。現実と拮抗する何かを作るということ。現実のオルタナティブを作るということ。僕はそんなふうに書いたことがこれまでない。少なくともそのように書こうという意志の在り方が僕にはなかった。けれども今の僕が興味があるのは、そういうことだ。この興味に従うとしたら、僕は変容することになる。その変容を成功させる自信は今のところないけれども、変容してしまうことへの恐怖はほとんどまったく持ってない。どうにでも変わってしまえばよい、と思っている。想像力、という問題に自分自身をできるだけ強く押しつけていき、その界面で自分をこすり続けていったらどうなるか? そんなことを考えるようになったのが最大の変化です。
 現実の対抗物足り得るフィクションと、それを作り出すための想像力。時期的にいって、この回答を書いている頃、岡田利規はまさに『現在地』の準備中であった筈である。「ドキュメント」から「フィクション」へ。ならば『現在地』は、どのような演劇作品だったのか?  すでに述べたように、この作品の登場人物は七人の女性である。そしてこれも述べておいたが、チェルフィッチュには極めて珍しく、七人の女優がそれぞれひとりずつ、名前のある(こともチェルフィッチュでは非常に珍しい)、固定された役柄を演じている。つまり、ごく普通の演劇と同じ形態になっているわけだが、しかし実際の舞台から受ける印象は、ごく普通のドラマとは、かなり異なっている。これは岡田作品の例に漏れず、幕間や舞台転換などは一切無く、役者は全員が最初から最後まで舞台上に居るのだが、全体は登場人物の数と同じ七つのチャプターに分かれており、章が変わるごとにメインの語り手となる人物が変わる(台本では各チャプターに、その章で中心となる役柄の名前が記されている)。章ごとに数人が入れ替わり立ち替わり、それぞれの場面を演じ、その間、台詞のない他の女優たちは、黙ってその様子を見守ったり、退屈そうにしたり、ぼんやりしたりしている。これが奇妙というか、どこか不気味なのだが、しかしこの極度に形式化された構成と、メタ演劇的な趣向は、過去のチェルフィッチュと相通ずるものだとも言える。この作品の新機軸は、やはりあくまでも「SFみたいな架空の物語=フィクション」としての佇まいにこそある。それはほとんど寓話と呼んでもいいようなものである。  どことも特定されていない「村」。ある土曜日の夜、ナホコは恋人と湖にドライブに行った際、青く光る巨大な雲を目撃する。ナホコはそれを村で噂になっている怪しげな占い師の予言、とつぜん何かが起こり、それが原因となって村が滅び、それどころか世界がまるごと破滅してしまうかもしれない、そしてそれには予兆となる現象がある、という恐ろしい予言の兆しではないかと疑い、そのことをカスミに話す。カスミはそんな予言は信じるに値しないと言う。だがナオコは、あの雲はひょっとしたら兆しではなく、村を、世界を破滅させる「何か」そのものではないかとも思い、それがきっかけで恋人とも別れてしまう……これが物語の発端である。ナホコとカスミと同じように、予言をめぐって村は二分されているようだ。ところで、どうやらこの「村」は、おじいちゃんおばあちゃんの世代が、荒廃して内戦が続いていた「日本」という国から脱出してきて作ったものらしい。もっともそれも「これからする話は、おとぎ話みたいにして話すわ」と宣言されてから語られるので、真偽のほどは定かでないのだが。カスミは、あるときハナを連れてきて姉のアユミに紹介する。だが二人はすでに顔見知りだった。道端でハナはアユミに声を掛けていたのだ。ハナは少し変わっている。彼女は噂をひどく怖がっている。だが同時に「たぶん私が今怖がってるのは、そんなものを怖がる必要はほんとうはないものを怖がってるんじゃないか」とも言う。「自分がそれを怖がらなくなるのも、やっぱり怖い」とも。カスミはハナに、不安に捉まえられないように忠告していたかと思うと、とつぜん首を絞めて殺してしまう。カスミはハナの死体に「私たちは、今みたいに世の中がそわそわしているときは特に、不安に陥らないように心がけなければいけないのよ。不安は、人から正気を失なわせるからよ」と言う。やがて、湖の水位が下がり始める。原因不明の出来事に、村人たちは恐怖する。カスミはハナの死体を湖に沈めていたので、別の意味で不安になるが、事故として片付けられる。湖が完全に干上がると、その地中から大きな乗り物が現れる。村人たちはそれを「船」と呼ぶが、どうやら宇宙船のようなものらしい。間近に迫っているやもしれぬ破滅を前にして、人々は選択を迫られる。「船」に乗って「村」を脱出し、遠い場所に行くか、それとも一か八か、この場に留まるか。「船」に村人全員は乗れない。それにそもそも予言が真実であるの��どうかも、まだわからない……実に��雑な余韻を残すラストシーンは記さないでおこう。『現在地』は、ざっとこのような物語である。  『現在地』の戯曲には、役名指定のない「声」とだけ書かれたパートの台詞が何度か出て来る。たとえば「声」は、こんなことを語る。「ときどき世の中に噂が流れると、私たちはそのたびに、選択をせまられるの、その噂を信じるか、信じないのか?」「でも、それよりもっと大事な選択もせまられるの。それは、自分が決めたその噂との付き合いかたと違う付き合いかたを選択した人と、どう向き合うのか?」。或いは、こんなことも言う。「村にこれから悲惨な出来事が起こると言ってる人もいるし、いやもう悲惨なことは日曜に起こってしまってもう取り返しが付かないと言っている人もいるし、それが起こったのは日曜じゃなくて土曜だという人もいるし、何ひとつ起こってないしこれからも起こらないという人もいる。本当はどうなのか、というのは誰にも分からないの。本当はどうなのかは誰にも分からないから、それを尋ねることには意味がないの」。「寓話」と呼んでおいた理由がわかっただろうか? あまりにもあからさまではないか?  誰もが気づくように、『現在地』の物語は、福島第一原発の事故以降、被災地のみならず関東在住の人々のあいだにも巻き起こった、さまざまな紛糾や騒動を、ほとんどダイレクトに思い出させる。このことは、岡田利規自身が、震災後に妻子と共に横浜から熊本に転居した事実を考え合わせるなら、より切迫した問題提起として受け取られるかもしれない。だが、彼はけっして作品の中で結論を出そうとはしていない。現実の行動はどうであれ、あくまでも「変化をめぐる架空の物語」であり「現実と拮抗する何か」でもある「フィクション」として、観客に問いを差し出してみせているだけである。あなたは「予言=噂」に対して、どう振る舞うのか? あなたは迫りくる「破滅」を前にして、何が出来るのか? あなたは「村」を出ていくべきなのだろうか? それともここに居るべきなのか? この作品で岡田利規は、これらの問いを問うこと、このような問いを観客と共有すること、それしかしていない。これは極論ではないと思う。私はむしろ、彼が『現在地』という「フィクション」を使って、ただそれだけしかしようとしなかったということに、少なからぬ衝撃を受けたのだった。もしかするとここには、問い自体よりも重要な何かが顔を覗かせているのではないか、そう思えるのだ。
17。せんだいメディアテークで交わされた言葉、その1
 仙台に行ってきた。せんだいメディアテークで毎年九月に開催されている「仙台短篇映画祭」のプログラムのひとつとして行なわれた「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」に参加するためである。本連載の第二回で、私は同映画祭の映画制作プロジェクトによる、四十一人の映画作家が撮った四十二本の「三分一一秒」の短篇映画から成るオムニバス作品『311明日』について、やや詳しく述べた。このことがきっかけとなって、同作にたった一人だけ二作を出品していた冨永昌敬監督ともども、トークのゲストとして招かれたのである。驚かれるかもしれないが、私にとって初の仙台だった。  「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」は、仙台短篇映画祭とは別に、有志によって継続的に運営されている「てつがくカフェ@せんだい」との共同企画によるもので、九〇年代にフランスで生まれた、専門家とアマチュア、学者と一般人との垣根を取り払った、ジャーゴンを使用しない哲学的な語らいの場である「てつがくカフェ」の特別編だった。いわゆるパネルディスカッションの形式とは違い、一応ファシリテーターが交通整理はするものの、基本的にはその場に集った全員が同じ立場で自由に発言し、対話を交わし、議論を深めてゆくというものである。当然、冨永監督と私も、その中の一員として話した。これはとても貴重な経験だったと思う。  当日配布されたチラシに、「てつがくカフェ@せんだい」の西村高宏氏は次のように書いている。
 震災以降、被災地の〈リアル〉を伝えようと数多くのドキュメンタリー映画が制作されつつあります。しかしながら、作り手の意図によって世界が切り取られ編集されていく以上、映画という表現手法にはどこまでも〈フィクション〉の要素が付き纏っているとも言えます。  『311明日』ーー今回のシネマてつがくカフェで取り上げるこの映画は、そういった震災のドキュメンタリー映像ですらありません。41人の映画監督1人ひとりが「3分11秒」という条件、そして「明日」というキーワードをもとに多様な切り口で震災を描いた、まさに〈フィクション〉としての映画です。それは、震災を敢えて〈フィクション〉として描くことで、ドキュメンタリーやニュース映像では捉え切れない震災が持つ問題性をあらためて私たちの前に焙り出そうとする、〈映画表現による震災理解の試み〉とも言えます。
 「震災から1年半を迎えた今、あなたは、この映画をどのように受け止めるでしょうか?」。トークが開始される直前に上映が終わるように『311明日』がプログラムに組まれていた。この作品は昨年の映画祭でも上映されているが、一年という時を経て、どのように見え方が変わったか、或いは変わっていないのか、を問い直そうということである。その際に、映画における「リアル(ドキュメンタリー)」と「フィクション」の関係性という問題意識が踏まえられていることも、あらかじめ告げられている。  ここでひとつ付言しておかなくてはならない。冨永昌敬監督の二本の「三分一一秒」ーー『妻、一瞬の帰還』『武闘派野郎』ーーは、前にも述べておいたように連作になっているのだが(そしてこの「連作」ということ自体に深い意味が込められているのだということも前に書いた)、今回の上映にあたって冨永監��は、彼が教えている映画専門学校の卒業生六名にメガホンを握らせ(彼自身は全作品でカメラマンを担当している)、なんと「三分一一秒」×六本もの新作を引っさげて、映画祭に乗り込んできたのである。それも誰に求められたわけでもなく、完全に自発的に。そしてこの六本は当然のごとく冨永監督の二作の続編になっていたのだ。以下に作品名と監督名を挙げておく。『ライバル』堀切基和/『居候』市来聖史/『野郎釣り』鈴木薫/『行くも千里、戻るも千里』岡部徹/『背水』松尾圭太/『捲れる』増田和由。ストーリーは、この順番で続いている。冨永監督は、この内の三名を伴って仙台にやってきた。こうして、出来立てほやほやの新作六本に最初の二本を加えた「三分一一秒」×八本による「武闘派野郎サーガ」(と勝手に命名しておく)を『311明日』とは別に一挙上映してから、この日の「シネマてつがくカフェ」は開始されたのだった。  「武闘派野郎サーガ」の第三話以降では、第二話で登場した「武闘派野郎」こと単細胞な俳優志望のミュージシャンが、第一話、第二話の映画監督に代わって主役(?)となっている(映画監督も出て来るが)。彼はどう見てもカラオケボックスにしか思えない映画のオーディション会場で沢田研二を熱唱したり、そこでライバルと出会ったり、釣った小物の魚をめぐって謎の青年と喧嘩したり、俳優をめざすべくバンドを脱退しようとしたら後釜が例のライバルだったり、悪夢になぜか第一話に登場した映画監督の妻が出てきたりするのだが、総じて言えることは、もともと『311明日』の中でも特に「震災」と関係がなさそうに見えた最初の二本にも増して、「311」と「明日」から遠ざかっていってしまっているように思える、ということである。もちろん、この連作には、冨永昌敬の「仙台短篇映画祭」に対する想いが込められている。以前にも引用した彼の言葉を、ふたたび引いておく。
 その中身がどんな「3分11秒」であろうと、積み重ねれば「6分22秒」にも「9分33秒」にも「12分44秒」にもなる。いや、いずれ「3日11時間」くらいの大作にまで膨張するかもしれない(いったい何年後だろう?)。まあともかく、うずたかく積まれた小さな固い石の集まりが、やがて強固な防波堤となり、映画を愛するこの美しい町を人知れず囲んでしまうことを僕は夢想する。 (「映画制作のこと」、『311明日』パンフレット)
 冨永監督とその弟子たちは、この「夢想」を実現するべく新作を撮ったのだ。それは間違いない。八本だから「25分28秒」まで来たわけである。だがそれにしても、前二作以上に、一見しても何度見ても、ほとんど巫山戯ているとしか思われないだろう「武闘派野郎サーガ」の後で、仙台のひとびとによって、いったいどんな「震災と映画」にかんする言葉が交わされるのか。私は正直、いささか緊張して「シネマてつがくカフェ」に臨んだのだった。  せんだいメディアテークの一階、オープンスクエアと呼ばれている吹き抜けのスペースで「シネマてつがくカフェ」は始まった。エントランスにはカフェやショップが併設されており、マイクで話す声はフロアに丸聞こえだから、興味を感じた人はいつでも加わることが出来る。約三十分の「武闘派野郎サーガ」上映後、やはりというべきか、会場は当惑まじりの奇妙な静寂に覆われていたように思う。てつがくカフェ@せんだいのファシリテーターの方が、まず今観終えたばかりの映画への率直な感想を求める。暫しの沈黙の後、ひとりの中年の女性がおずおずと手を上げた。彼女は言葉を絞り出すようにして、ここ仙台から、被災地から遠く離れた、いわば無関係で安全な土地に住む、冨永監督をはじめとする映画作家たちが、このような機会にこうして映画を撮ったということ自体について、率直な感謝の意を述べた。しかしそれにしても、今の映画は何だったのだろう?。そんな戸惑いの空気がいまだ会場に流れていたのは事実だ。その空気を取り払おうとするかのように、冨永監督が比較的長い発言を行なった。語り口調を残しつつ、以下に再構成してみる。
「これは若干説明が必要な作品だなと、僕自身さっき観ながらしみじみ思ったので、ちょっと説明させていただいてもよろしいでしょうか。「震災と映画」というテーマの中で、こういった作品、内容的には震災とまったく関係のない作品を観ていただいたわけですが、なんでこんな作品が出来たのかということをお話させていただければと思います。  遡れば、震災以前になるんですけれども、去年の仙台短篇映画祭で、映画祭にゆかりのある監督何人かに、宮城県内で短篇映画を撮らせるという企画があって、僕も声を掛けられていたんです。それで、どういう映画を作ろうかアイデアを練っていたのですが、主人公を映画監督にして、まあ僕自身がモデルになっているとまではいいませんが、とにかく監督が主人公で、彼が映画を撮るのに些細な日常に邪魔されるといいますか、映画作りをする上で、日々のあれこれに色々と揺さぶられながらやっているんだということを描こうと考えたんです。映画を作っている人間の生活を描くということですね。そこで、その監督のところに俳優志望の男、しかも物凄く自己主張の強い男がやってきたら、一体どうなるか、というストーリーを思いついた。というのは普段、僕なんかがオーディションや俳優学校の教師をやる際にも、そういう人はよく現れるわけです。かなり誇張はしてますけれども、あの「武闘派野郎」は、われわれにとってはかなりリアルな人物で、よくいる厄介な男という奴なんですね。自分が如何に映画俳優として優れているかをアピールするのならまだしも、どういうわけか、自分が如何に優れた男であるか、演技とは無関係な一芸に秀でた男であるか、あまつさえ強い男であるか、といったことをアピールしてしまう人ってのが実際にいるわけです。どこの世界にもいるかもしれませんけど、一言でいうと、これは馬鹿な人であるわけです。それで、いつかこれを映画にしてやろうと思ってたんですね。  その機が遂に来た、と思ったわけなんですが、そんな時に震災があった。震災後一ヶ月くらいの頃ですか、まだ今年の映画祭が開けるかどうかわからない時期があったんです。当然、僕が依頼されていた企画も断念さぜるを得なくなった。それでスタッフの方達が相談している場に僕がたまたま居合わせた際に、ごく短い映画であれば、みんな何かしら撮ってくれるのではないか、それを集めて上映したらどうか、と提案させていただいて、それはあくまできっかけに過ぎませんけれども、それが最終的に『311明日』になった。  「三分一一秒」の映画を、と依頼されて、それぞれの監督たちが考えたのは、震災と映画ということだけではなくて、震災と映画祭と自分、ということだったと思うんです。あのまま映画祭が中止になってしまっていたら、ある意味で、自分たちも被災することになってしまう。それだけは食い止めなくてはならない。そういう思いで、皆さん映画を撮った。だからまず参加すること、とにかく間に合わせることが何よりも重要なことだった。結果として、皆さん好き勝手な映画を作っているようにも見える。まったく別の理由で撮りつつあった映画を「三分一一秒」に編集して提出した方もいただろうと思います。だから内容的に震災とまったく関係のない作品も沢山ありましたし、僕の作品もそうだと思います。  僕自身が意識していたのは、先ほどお話した、そもそも東日本大震災があろうとなかろうと撮るつもりだった映画を、そのまま撮ろうということでした。これはひとつの考え方でしかありませんが、そうしないと震災に負けたような気持ちになってしまうと思ったんです。震災の前からやると決めていたことをやる。だから作品の内容自体は、震災などなかったかのようになっていると思います。去年、僕だけ二本、フライングみたいに出したわけですが、ほんとうは、もしも作品の集まりが悪かったら、僕ひとりで十本でも撮りますよ、とか言ってたんです。なのにたった二本だったということに僕自身、しこりを感じていまして、ずっと反省としてあったんです。だからこれは翌年、翌年と繋げてゆくしかない、そう思った。三作目からは、最初の計画の映画監督ではなく、俳優志望の愛すべき馬鹿を描いてゆこう。だから今年、新たに六本持ってきたのは、映画祭から求められたわけでは全然なくて、これはもう自分で決めて勝手にやったんです。だからこそ、この場では、まず続編を観てもらわないと、僕としては話を始められない。なぜなら、これが僕にとっての、震災と映画と自分、震災と映画祭と自分のかかわり方であるからです。震災が起こってから、僕もいろんなことを考えながら生きてきました。けれども、生活人としての自分と、映画人としての自分は混同しないようにしたいのです。  もうひとつだけ言っておきますと、これで完結ではありません。来年もきっと新作を持ってくると思います。僕はさっき、もしも映画祭が中止になっていたなら、東京に住んでいる自分も被災していた、と言いました。映画祭スタッフの皆さんが大変な努力をしてくれたおかげで、僕らは被災しなくてすんだわけです。でもそれは去年で終わりではない。去年の開催は、震災が起こる前から当然決まっていたわけです。しかし今年は明確に震災後です。むしろ今年の方が中止される可能性があったのではないか。今こうして正常に開催されているという事実を、僕は嬉しく思います。だからこそ続編を作って持ってくるべきだと思ったのです。だから来年も再来年も撮ります。どれだけ撮ればいいのか、考えてみたんですけれども、少なくとも最初に集まった本数と同じだけ、四十二本までは撮り続けなくてはならないのではないか、そう思っています。そして四十二本に辿り着く頃には、ようやくこの連作は震災と関係してくるのではないか、そうも思っています。だから来年、再来年もここに来ますので、末永くお付き合いをお願い致します……」
 冨永監督の長いスピーチを聞きながら、私は彼が言っていること、彼の話しぶりに、ある紛れもないパフォーマティヴな含意が隠されていることに気づき、静かな感銘を受けた。彼は昨年の仙台短篇映画祭を中止にしないために「三分一一秒の映画」に至る提案をした。それは自分自身が「被災」しないためだと言った。そして彼だけが「三分一一秒」を二本撮った。今年、彼は弟子たちと六本もの「三分一一秒」を自発的に撮って仙台にやってきた。そして彼は来年も再来年も新作と共にここに来ると宣言した。つまり、彼は来年以降も映画祭が中止されることがないように「三分一一秒」を連ねていこうとしているのだ。彼の発言は、弁明でも韜晦でもない。彼はただ、これからも「三分一一秒」は延々と繋げられてゆくので、上映の場であるこの映画祭はちゃんと開催されて欲しい、と祈願しているのだ。なぜならば、そうでないと、たとえ時間が経っていっても、やがて「被災」してしまうから、震災に負けてしまうから。冨永昌敬は本気で「防波堤」を築くために「小石」を積んでいくつもりなのである。  私も発言した。だがそれは、ほとんどが本連載でこれまで書いてきたことの繰り返しなので、ここでは再現しない。私は「震災と映画」というよりも「震災と芸術(表現)」全般についての自分の考えとして、いや「震災」とのかかわり以前に「芸術(表現)」について常々思うこととして、内的な必然性、切実さ、の話をした。「せねばならない」ではなく「しないではいられない」ということ。「こうあるべき」ではなく「こうしかできない(こうしかならない)」ということ。やらなくてもよい、そうしなくてもよい、という当然さを乗り越えて現れるもの。否定(やらない/ではない)の否定としての能動性。責務として引き受けられる(押し付けられる)ものではなく、無為の権利を無根拠に逆転して露出する行為。私には『311明日』という映画の試みが、そしてその中でも冨永昌敬がやろうとしたこと、やったこと、これからやろうとしていることが、そのような意味での切実さ、内的必然性を強く帯びていると思った。誤解を畏れずに言ってしまえば、それは内容やテーマとは別個に存在しているのだ。  今年の仙台短篇映画祭のサブタイトルは「継続ーー物語を続けよう」である。私はパンフレットにテクストを寄稿した。会場でしか配布されなかったものなので、以下に再掲しておきたい。
「明日の映画と映画の明日」
 震災以後、誰であれ自分は何も変わっていないとうそぶくのなら、それはもちろん嘘だ。だが、すべてが変わってしまったとか、変わらざるを得ないとか変わるべきであるとか、変わろう変えよう、変えろ変われ、などと言われると、それもどこか間違っているような気がしてしまう。われわれは皆、多かれ少なかれ、否応無しに、すでに変わっており、変わり続けている。認めると認めざるとにかかわらず、われわれ全員が、あの日の「以後」を生きているのだから。何をするにしたって、それはなんらか影響してこざるを得ないだろう。むしろだからこそ、殊更に変化を強調するわけではない、ごく淡々とした営みの中にこそ、不可逆的な変��が滲んでおり、本人自身も気づいていないかもしれない、そんなありさまを見て取ることこそが、たとえば自分のような仕事にやれることなのかもしれないと考えたりしている。  こんにち映画を撮るということは、昔よりもずっとお手軽で簡単なことになっていると同時に、ますますむつかしさを極めていっているようにも思える。デジタル機材の充実は、間違いなく映画制作の現場を変えたし、それは日進月歩を続けてもいる。だが、映画監督として身を立てるとか、自分の映画を不特定多数の観客=他者へと向けて差し出し、後世へと残してゆく、といった事となると、以前より困難になっているのかもしれない。作り手だけでは作品は完結しない。スクリーンを介してカメラと瞳が出会わなくては、映画はほんとうの意味で、この世界に生まれ落ちたことにはならない。だが、メジャーな映画の業界を見回してみると、ゼロ年代を通じて完全に覇権を握った製作委員会の名のもとに、テレビ局やら大手芸能事務所やら広告代理店やら巨大出版社やらの利権と思惑に突き動かされるメディア・ミックスしか、映画が生まれる方法はなくなってきているとさえ思えてくる。そういう、たかだか「商品」でしかないもの(もちろん、それにも良し悪しはあるにせよ)と、われわれが本当に観たい映画とは、同じ「映画」と呼ばれてはいても、もしかすると全然違うものになってきているのではないか。そんな疑いさえ頭をもたげてくる。そろそろ違う名前を用意するべきなのかもしれない。  僕が観たいのは、ある紛れもない必然性をもって生まれてくる映画だ。この必然性は、切実さを伴っていなくてはならない。撮らずにはいられなかった映画、生まれてこないわけにいかなかった映画。切実さは、個人的なもので構わない。それは使命感とか責任感とは違う。もっとある意味では取るに足らない、他人にすぐには伝わらないような、こだわりのようなものでもいい。作られる価値がある映画というよりも、出来はともかく兎に角作りたいという動機だけは煌煌と輝いている映画。役に立つとか立たないとか、ウケるとかウレるとか、そういうことはもうどうでもいい。ただひたすら、ああ映画が撮りたかったのだな、ああこの映画が撮りたかったんだな、と納得してしまうような、強い動機と必然性を帯びた映画が観たいのだ。この気持ちは、前からそうだったけれど、去年の三月一一日以後、ますます増してきている。  仙台短篇映画祭は、そんな動機と必然性を持った映画たちを送り出す、ささやかなプラットホームのごとき映画祭だと思う。誰かのカメラと誰かの瞳が出会う場所としての映画祭。 他のあらゆる芸術と同じく、今のこの状況下で「映画」に何が出来るのか、なんて問い直す必要はない。ただ撮られ、観られるだけでいい。いちばん大切なことは、明日に映画が生まれること、明日も映画が生まれること、明日の映画が生まれることなのだから。大きくなくていい、小さな映画でもいい。小さくてもとても強い映画はあるのだから。そしてそんな映画たちには、われわれ全員が今もその渦中を生きている、あの日からの不可逆的な変化が刻印されていることだろう。僕はそれを、けっして見逃さないつもりだ。
18。せんだいメディアテークで交わされた言葉、その2
 ファシリテーターの方から、彼女自身が昨年『311明日』をはじめて観た時の感想として、ついていけない、と思ってしまった、という発言があった。「三分一一秒」はあまりにも短すぎて、次から次へと矢継ぎ早にスクリーンを駆け去ってゆく小さな映画たちが、忙しなさや焦燥のような感覚を抱かせたということだろうか。これに対して冨永監督は、「三分一一秒の映画」は、実はとてもむつかしいのだ、と応じた。確かにそれは手早く作ることが出来る短さではある。けれどもその短さで一本の映画=物語をまがりなりにも完結させるためには、やはり相応の技術が要る。たぶん自分はまだ「三分一一秒」の正しい使い方を学んでいる途中なのであり、それが次第にわかってくるのと、「震災と映画」についての当事者としての感覚が芽生えてくるのは、同じ時期であるかもしれない、と。これに対して、てつがくカフェ@せんだいの西村氏が発言し、ついていけない、という感覚の意味は、長い短いの問題という���観的な時間よりも、まだ震災から半年しか経っていない時期に、被災した仙台という場所で、フィクションが大量に眼前を通過してゆくのを、何よりもまずからだ自体が受け付けなかったということなのではないか、と述べた。何しろわれわれは、はっきりとフィクションを凌駕してしまったと思える現実の映像を、のべつまくなしに見させられていたのだ。冨永監督はもっぱら映画の作り手の側から話してくれたが、われわれ観客にとって映画とは当然ながら見るものなのだから、そこには身体的なタイミングとマッチングが、やはりあるのだ、と。そしてそれを受けて、ふたたびファシリテーターの方が、あれから一年が経って、今回は少し観た感じが変わった。思えば一年前は、映画だけではなく、他のジャンル、書かれたものも含めて、作品としての良し悪し以前に、すべてがフラットになってしまったような感じがあった。あの頃に較べると、今は中身を咀嚼する余裕が出来てきたように思う、と語った。興味深い応酬である。  このあたりで、やっと場も熟れてきたのか、来場者からもぽつぽつと発言が出て来るようになった。それらは私にとっていずれも、さまざまな意味で示唆的なものだった。幾つかランダムに、仙台の人たちの声を拾ってみたいと思う。   「昨年の映画祭でこの作品を観ました。たくさん映画があって、いろんな感情が次々とわき起こったんですが、もちろん作り手の方々はそれぞれに勇気の要ることだったと思います。でも、観ているこちら側も、感情を揺り動かされること自体が、後ろめたい、という気持ちを感じながら観ていたという印象があります。観ているものに対して、なにかしら自分の感情が変化してゆく,そのこと自体が後ろめたい。その繰り返しの中から、先ほど言われていた「追いつけない」という感覚が生じてゆく感じが、自分にもあったと思います」(女性)
「わたしはずっと映画とか必要じゃないと思っていて、ほとんど観ないで育ったんです。それがたまたま、震災よりずっと前のことなんですけど、冨永監督の短篇映画を観て、そのとき、何かすごい理由があったわけではないんですけれども、親にも悪いし、震災で亡くなった方たちにも申し訳ないのですが、ただわけもなく死にたくてしょうがないと思っていたときに、その映画が、何も考えなくてもいいんだよって言ってくれている気がしたんです。監督がそう思っているということではないと思うんですけど、死にたい死にたいと思っていた頃に、何も考えなくても過ごせる時間があるということを、教えてくれたっていうか。  震災でいろいろあって、大切なひとが亡くなってしまったりした人が、たとえ一時でも、何も考えないで過ごせる時間があって、その時間を楽しめたりするということは、それだけでも映画って必要だな、と思ったんです。だから映画祭が開かれたことが嬉しいし、冨永監督にも来年も来てほしいし、新しい映画を作ってほしいです。短篇映画でも長い映画でも、震災と関係があってもなくても、いろんな映画が撮られて、ここで観ることが出来ること、いろんなものが存在していることが、幸せなんだと思います」(女性)
「ピカソに『ゲルニカ』という絵がありますけども、ピカソの郷里が空爆にあって、その哀しみを描いた絵と言われています。完成した絵は人物が手を広げていて、叫びや哀しみを表しているとされていますが、下書きでは握り拳をしていて、元は怒りの絵だったと言われているんです。わたしは映画ってメッセージだと思うんです。メッセージの伝え方にはいろいろあると思う。いま、震災の哀しみが怒りに変わってきた気がしています。それが次は諦めに変わっていってしまうのが怖いんです。だから怒りを維持させてくれるような映画が観たい。映画は観れなかったのですけれども、わたしは、そう思っています」(男性)
「震災があろうとなかろうと、自分が作りたい作品を撮るしかないという冨永監督の気持ちには賛成しますし、それと同時に、震災の記録を残して欲しいという気持ちもよくわかります。でも、いつか必ず、わたしたちは震災を忘れる必要もあるのではないか。そのための時間が必要なんじゃないか。かなしみや怒りにばかり時間を使っていると、気持ちが過去にばかり向かってしまって、未来をクリエイトできないと思うんです。だから、いずれ忘れるということも大事なのではないか、そう思います」(男性)
「『三月一一日』について、ここ仙台では、被災した東北では、もはやひとつのイメージが出来上がってしまっていると思うんです。わたしたちの誰もが、震災についてのイメージを共有している。そして何を見ても、ついついそのイメージを探してしまって、それを確認しようとしてしまう。でもこの映画を見ても、そんなイメージは見当たらない。探せど探せど、そんなものはどこにもない。それに監督自身が、映画と震災は関係ないって仰っている。でもそれが逆に、わたしたち当事者だけでは打ち破ることのできないイメージの展開を生んでいると思ったんです。映画というものが持っている可能性として、ずいぶんと固くなってしまった構造を壊すような出来事として「三分一一秒」があった、今はそんな気がしています」(男性)
 発言された方々は比較的年配の方が多かった。震災を忘れる必要もあると話した男性は、まだ若く見えたし、そう思って発言を読むと、字面だけとはまた異なる印象があるのかもしれない。皆さんそれぞれの立場で、『311明日』について、「武闘派野郎サーガ」について、そして「震災と映画」について、意見を述べられた。ふと気づくと、予定時間をかなり超過していた。最後に手を挙げて発言されたのは、初老の男性だった。同心円状に配置されたベンチの一番外周のあたりに坐っておられた方である。
「一言でも喋って帰らないと、なんだか具合が悪くなりそうなので、ひとに語ることでもないのかもしれませんが、少しだけ話してみたいと思います。映画は去年の九月に観ました。ほんとうは今日の二度目も観たかったんです。一年間が過ぎて、同じ映画をどう見る自分がいるのか確かめたかったんですが、仕事のために来られませんでした。とても残念です。  一年前に見た時のことを思い出すと、作り手たちと似通った感情を持っていたのだという気がします。戸惑いとか迷いとか、もしかしたら照れのようなものとか、あるいは妙な力みとか、そのような感情を、映像を見ながら作り手と共有していた、そんな気がします。ある意味、作る側も見る側も、すごく無理をしている、ある種の無理をしている、それを映画というものを通して共有していた。先ほど、ついていけない、追いつけない感覚、ということを仰った方がいましたが、そういう感覚を私も持ちました。けれども、こういうものを観ようとしている自分って何なんだろう、というのが、ずっと自分の中で引っかかっていて、それはどこかで、震災というものと向き合う自分を確認したい、それを言葉にしていきたい、いろんな感情を通して、真面目腐っていえば、自分を見つめていきたい、みたいなところがあったのだと思います。  先ほど、作り手としての内的な必然性、切実さという話がありました。それだけではなくて、私たち観る側、オーディエンスにも、観る側の必然性ってものがあると思うんです。それは自分にとって何なのだろう、とずっと問いかけながら、『なみのおと』とか『測量技師たち』とか、色んな映画を震災後、観てきました。どうして観るんだろうかと自分に問うてみると、それはやっぱり、震災と自分との距離感を推し量りかねてるんですよね、ずっと。あれから一年半も経っても、一年半しか経ってないっていう言い方もあるかもしれませんが、そこに答えを見つけかねている。たまたま被災地にいるということで、何かを清算できない自分を抱えたままでいる。  冨永さんの今日の映画も、正直いって全然理解できないんです。でも、理解できないから投げ出してしまうのではなくて、わからない自分も大切にしたいな、というか。何かを清算できない、震災との距離感をはかりかねている、ずっと戸惑ったままの自分っていうものを、そのままちょっと抱えていきたいというか。変にわかりたくない、わかったつもりになりたくない、という気持ち。だからきっとこの先もずっと、自分は冨永さんの作る映画を観ていくのだろうと思います」
 こうして「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」は終了した。最後の男性の言葉に、私は深く感じ入っていた。彼は答えを必死で探しているのだが、それは見つからない。答えはなかなか得られない。そしてどうやらそんなものはないのだろうということにも、彼は薄々(最初から?)感づいていることだろう。それでも彼は探すことを止めることはないし、止められない。東京から来た若造の映画監督たちがこしらえた映画を見たって、さっぱりわからない。だがこのわからなさは、単純な理解や了解の問題や、世代や時代の差異に還元出来るようなこととは、どこか違っている。どうしてこいつらは、よりにもよって、この機会に、こんな折に、こんな映画を、誰かに頼まれたわけでもないのにわざわざ自力で撮って、ここ仙台まで持ってきたのか。何の責任も関係もありはしないのに、どうしてギリギリまで編集や音声の調整を行ない、一台のクルマに同乗して、ボスである冨永昌敬が自ら運転して、東京から数時間を費やして、せんだいメディアテークにやってきたのか。ほんとうにさっぱりわからない。だが確かに、そういうことがあったからこそ、自分は今、ここでこうやって喋っているのだ。正直言って全然わからない。だが、わかったつもりにもなりたくない、そう語っているのだ。   19。「フタバ」から遠く離れて
 『フタバから遠く離れて』は、『Big River』『谷中暮色』など、これまではもっぱら劇映画を撮ってきた舩橋淳監督が、はじめて発表した長篇ドキュメンタリー映画である(もっとも彼はニューヨークを拠点として主にテレビ用のドキュメンタリー作品は数多く作っている)。フタバとは福島県双葉町のこと。同町には東京電力福島第一原子力発電所の5号機と6号機があり、更に7号機と8号機の招致も進んでいた。二〇一一年三月一一日、1号機の水素爆発によって、双葉町は全面立ち入り禁止の警戒区域に指定され、一四二三人の町民全員が、埼玉県の旧騎西高校へと避難し、現在も同地での生活を余儀なくされている。原発事故によって、ひとつの町が丸ごと移転したのは、被災地でたった一件、フタバだけである。この映画は双葉町民たちの「以後」の生活を、舩橋監督が九ヶ月間にわたって記録したものである。  この映画の題名には複数の意味が込められていると私は思う。まず空間的な側面から述べると、ここには少なくとも三つの「遠く離れて」がある。まず第一に無論のこと、それは福島県双葉町と埼玉県旧騎西町(現在の加須市)を隔てる約250kmもの物理的な距離のことである。否応無しに故郷から引き離され、途方も無い距離を抱え込まされた双葉町のひとびとの境遇を、この言葉は表している。だがそれだけではない。映画で「から遠く離れて」と聞いて、すぐに思い出されるのは、言うまでもなく『ベトナムから遠く離れて』である。ジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、クロード・ルルーシュ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イヴェンス、アニエス・ヴァルダの六名の監督がベトナム戦争をテーマに撮り上げた一九六七年のオムニバス作品。“Loin du Vietnam”という原題には、不毛で悲惨な戦いの続くベトナムと映画作家たちとのあいだに横たわる或る絶対的/絶望的な距離(それは具体的なものだけではなく、非=当事者性とでも呼ぶべき認識ともかかわっている)と、その距離を越えて発言しようとする意志とが共に表現されている。舩橋監督もまた、フタバから遠く離れてある、そうあらざるを得ない自分を絶えず確認しつつ、それでも/それゆえにカメラを構えて撮り続けたのに違いない。彼は広島の被爆二世であると映画の資料には記されているが、そのことがこの作品の動機と関係あるのかないのかは、実のところ本質的な問題ではない。そうではなく、長くNYに住み、現在は東京で暮らす彼が、フタバとの距離をしかと自覚しつつも、距離を何らかの仕方で縮めようとするのではなく(それは結局、どこまでいっても不可能なことだ)、むしろ距離を丸ごと受け止めることによって、この映画を完成させた、ということが重要なのだ。それは報道や記録という行為にかかわる責務の意識というよりも、こう言ってよければ、本能や衝動といったものに属している。何者としての本能や衝動なのかと問われたら、ドキュメンタリー作家としての、映画監督としての、表現者としての、ひととしての、と答えよう。したがって「遠く離れて」の第二の意味とは、舩橋淳の立つ場所を指している。そして第三に、それはこの映画の観客が意識する距離のことでもある。この作品は、東京・渋谷のミニシアターでロードショー公開された。ある場所を定点観測したドキュメンタリー映画が、そこから遠く離れた場所で赤の他人たちによって観られるということ。観客に、彼ら彼女らがスクリーンを見据えている渋谷の映画館と、そこに映っている埼玉の廃校となった高校と、そこに映っているひとびとが引き剥がされてある福島県双葉町、その二重となった途方もない距離をどうにかして実感させること。それは安易な共感や憐憫の発動によっては果たされない(むしろそれは真逆に振れるだけだろう)。フタバから遠く離れて映画を観ている、言ってしまえばただそれだけの者たちに、如何にしてその距離を受け止めさせられるのか。  遠く離れてあるのは空間だけではない。時間的な距離もまた、そこには複層となって横たわっている。映画とは常に過去の缶詰であり、昔にしか行けない、しかも傍観することしか出来ない、いわば一種の欠陥タイムマシンの機能を有している。映画を観るたびに、そこではあの日ある場所で現実にあったこと(それはドキュメンタリーでもフィクションでも同じことである)が何度でも繰り返される。そして必然的に、撮影されることで反復再生可能とされた過去の時間と現在との時間的距離は、刻々と開いてゆくことになる。この映画が「二〇一一年三月一一日以後」の約九ヶ月を描いていることは既に触れたが、それだけの期間にわたり撮影され記録されたフッテージが、編集作業を経て一本の映画として完成し渋谷の映画館で公開されたのは「二〇一二年十月十三日」のことである。ここにある十九ヶ月余という時間。『フタバから遠く離れて』に記録された時間は、永遠にこの内にある。そしてそれは、常にその時々の現在において再生されることによって撮られた過去の時間から、しかしそこにいつまでも同じ時間が佇んでいることでその都度の現在からも、どんどん遠く離れてゆく。今後幾度となく上映されることになるだろう未来の時間の中で、この映画に留められた過去の或る時間は、そのままであり続けることによってこそ、その意味を変えてゆくのだ。  実際のところ、現時点でも、双葉町のひとびとが故郷に戻れる時期はおろか、それがいつかは可能であるのかどうかさえわかっていない。埼玉県への町ごとの避難を決定し主導した双葉町の井戸川克隆町長は、映画の中で名前と肩書きのテロップと共に登場する最初の人物であり、国と東電に極めて 厳しい態度で臨む首長として報道メディアにもたびたび取り上げられている方だが、彼が旧騎西高校内に移転している町役場の仮の町長室(そこはおそらく校長室だったのだろう)で、地図や資料を示しつつ淡々と語る双葉町の歴史は、日本の原子力行政が抱える問題の縮図である(この映画の英語題名は“Nuclear Nation”)。七〇年代、福島第一原子力発電所の5号機6号機を迎え入れることによって巨額の「原発マネー」が入り込み、「福島のチベット」とも呼ばれた農業の脆弱と過疎による税収の低下に伴う困窮から一時救われ、ハコ物やインフラ整備などを次々と行なうなど繁栄したが、その後は原発を抱え続けることで得られる固定資産税も年々減少し、二〇〇七年には財政破綻目前となってしまう。新たに町長となった井戸川氏は、国からの交付金と新たな固定資産税以外に町を救う手立てはないと決意し、二〇〇二年の東電によるトラブル隠しがきっかけで長年棚上げされていた7号機8号機の誘致を決定、それは事故が起こる一ヶ月後には着工されることになっていた。つまり明確な原発推進派だった井戸川町長は、しかし今では、それはすべて間違いだったのだと、原発の功と罪を較べてみるならば、罪の方が圧倒的に多かったのだと語る。  映画の後半には、全国原子力発電所所在市町村協議会の事故後初の会合の模様も描かれる。当時経済産業大臣だった海江田万里が挨拶に立ち、すぐに公務のためだと言って退席、次いでマイクを握った細野豪志内閣府特命担当大臣(当時)も発言を終えるやいなや退席という光景には唖然とするしかない。関係省庁の席の前列がほとんど空席となった異様な状態で発言に立った井戸川町長が「なぜこのような思いをしなくてはならないのか、はっきり言って悔しい」と語り出し、被爆検査さえ遅々として進まない現状を訴え、やがて静かに怒りを爆発させる場面は、ネットやテレビでも伝えられた。なぜ自分らの家に住めなくなってしまったのか、悔しい。映画のラスト近く、次の字幕が映し出される。「2011年12月、日本政府は、福島第一原子力発電所が冷温停止状態に達し、事故は収束したと発表」「さらに放射性廃棄物の中間貯蔵施設を双葉郡内に設置する計画を打ち出した。除染が進まないかぎり、町へは5年以上帰還できないといわれている」。  二〇一二年十月十五日、井戸川町長は、いわき市東田町の福島地方法務局勿来出張所跡地に双葉町の役場機能を移す方針を町議会臨時会で明らかにした。年内にも仮庁舎建設に着工し、二〇一三年三月までには移転する計画だという。だが、関東地方に避難している町民も多いことから、旧騎西高校の避難所は当面継続するとのことである。十月十八日には、旧騎西高校の双葉町役場を長浜博行環境大臣と園田康博副大臣が訪問し、井戸川町長に就任の挨拶と意見交換を行なった。町からは十一項目に及ぶ要望書が手渡されたが、長浜環境相は「持ち帰って検討させて下さい」とだけ述べて、具体的な内容については言及しなかったという。かくのごとく状況は推移している。『フタバから遠く離れて』と「今日」との距離は、一日一日広がってゆく。その距離を測定し続けること。  舩橋監督は、映画のプレスシートに寄せた文章にこう書いている。
 この映画は、避難民の時間を描いている。1日や1週間のことではない、延々とつづく原発避難。今回の原発事故で失われたのは、土地、不動産、仕事…金で賠償できる物ばかりではない。人の繋がり、風土、郷土と歴史、という無形の財産も吹き飛んでしまった。それに対する償いは、あいにく誰も用意していない。用意できるものでもない。  そして、僕たちはその福島で作られた電気を使いつづけてきた。無意識に、加害者の側に立ってしまっていた。いや我々は東電じゃないんだから、加害者じゃない、というかもしれない。本当にそうなのか。地方に危険な原発を背負わせる政府を支えてきたのは、誰なのか。そんな犠牲のシステムに依存して、電気を使ってきたのは誰なのか。  いま僕たちの当事者意識が問われている。
 避難民の時間。フタバから遠く離れて生きるひとびとの姿は、当然ながら一通りではない。それぞれの家庭が抱える事情や問題、補償の現状、将来への展望などによって、双葉町民の「距離」の認識は異なるし、それはまさに時間とともに変化してゆく。映画はそうした違いもつぶさに描いている。校舎の入口に飾られた七夕の短冊に幼い手書きの文字で「ふたばに帰りたいです」などとあるの���見ると胸が詰まるが、後半では、避難所生活からマンション暮らしとなった老夫婦が、もう双葉に戻るつもりはない。戻れないだろうし、たとえ戻れたとしても、今より生活が良くなるとは思えない。それに、もうこちらの生活に慣れてしまったのだ、と語ったりもする。二〇一一年七月中旬に東京・日比谷公園で行なわれた抗議デモのシーンでは、数十人の避難民たちが「双葉を返せ!」「俺たちは双葉に帰るぞ!」などと叫びながら路上を練り歩き、最後は自民党本部前でのほとんど戯画的というしかない陳情の場面となる。デモ隊の人たちが必死で訴えているのに、通り一遍の笑顔と握手、空疎な言葉によってしか応じようとしない自民党代議士たちの不気味さ。映画の製作日誌を基にした書籍『フタバから遠く離れてーー避難所からみた原発と日本社会』の中で、舩橋監督はこのデモの直後、抗議に参加した知り合いの女性に「事故がまだ収束しない中で、政府にどうやって双葉を返して欲しい、と思うのですか?」と率直な質問をぶつけてみたと書いている。それに対する女性の答えはこういうものだ。
「あたしらだって、知ってるわよ、帰れないって。今度一時帰宅があるけど、行っても家の中ぐちゃぐちゃで何か持ってこようって気にもならないと思う。あそこに行ったら、もう戻れないだろうなって思う。それはわかっててやってるのよ……無駄だってわかってやってるのよ」
 もちろん双葉に帰る願いが永久にかなわないと決まっているわけではないし、その望みを諦めてしまったわけでもないだろう。だがおそらくはもう「帰れない」と、だからデモをしても「無駄」だとわかっていながら、頭の中ではそう認識していながら、故郷を返せ、故郷に帰りたいと、声を上げずにはいられない、そうせずにはどうにもやり切れないという気持ち。この叫びと、もう帰らない、帰らなくてもいい、という発言は、正反対のようだが、どちらも或るひとつの出来事、誰一人として望んだわけではない出来事を端緒としている。「遠く離れて」を自ら選んだのではないという点で、双葉のひとびとは全員が同じ条件に属している。そこから先が異なるのは当たり前である。そこから先しか彼らは選択の余地がないのだから。だからむしろそのような個々の選択を強いられるという事に悲劇があるのである。フタバから遠く離れて、あなたはどうしますか? この問いこそが悲劇なのだ。  『フタバから遠く離れて』は、森達也他の『311』とも、松林要樹の『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』とも、まったく違う感触を持ったドキュメンタリー映画である。『311』の賛否両論をものともせぬ突撃精神も、『相馬看花』の詩的とも思える叙述も、この映画にはない。あるのは対象に対する適切な、きわめて適切な「距離」感である。この「距離」は先に述べておいたように複層的なものである。舩橋監督は『フタバから遠く離れてーー避難所からみた原発と日本社会』で、次のように書いている。
 震災後、多くの映像ディレクターが東北に向かった。何かを撮らなければいけないという使命感、もしくは義務感に駆られてキャメラを手にした人がほとんどではないだろうか。告白すると、私も同じように感じ、気仙沼や南三陸町へ訪れもした。何かを撮らなければいけないという衝動ばかりだったのだが何をどう撮ってよいのか、正直わからなかった。地震で無惨に崩壊した家々を写す者、津波に呑まれた死体を写す者、ガイガーカウンターをカメラの前にかざし、どれだけの高い値か興奮して話す者など、さまざまな震災映像があった。しかし、私のケースでいうと、「未曾有の大災害のものすごい映像」を見せることに抵抗があった。車からレンズを突きだして、トラッキングショットで荒野をなめてゆくのは、何も知らない部外者による物見遊山以外の何ものでもないと思った。「見せたもん勝ち」という感性にいかに抗うかが、震災ドキュメンタリーの肝だろうと考えたのだ。
 作品名は書かれていないが、これはおそらく『311』への批判でもあるだろう。これに続く記述で、舩橋淳は故・佐藤真監督のドキュメンタリー論に触れ、佐藤による「ジャーナリズム=言語情報として要約できる映像」と「ドキュメンタリー=言語情報でまとめられないもの」という定義と分類を自分も踏襲したいと述べたのち、だが実際にはジャーナリズム的なドキュメンタリーやドキュメンタリー的なジャーナリズムも数多く存在するし、実のところは前者が大勢を占めているのが現状である、しかし自分はジャーナリズム的ではないドキュメンタリー映画を志向すると書いている。映像の力に頼り切るのでもなく、言語化の誘惑になびくのでもない、映画であるがゆえの剰余や冗長性を武器とすること。だが同時に映画であるからこその制約や有限性も大切にすること。その結果『フタバから遠く離れて』は、けっして怒りを露わにすることなく「怒り」を表現し得た、すぐれた「ドキュメンタリー映画」となった。  十月十四日、日曜日の夜、私はオーディトリウム渋谷における『フタバから遠く離れて』上映後トークショーのゲストに招かれて、舩橋淳監督と話した。初対面だった。公開翌日である。観客は十数名だった。トークの前に帰った観客もいただろう。この日の昼間は井戸川克隆町長と双葉町の方々がゲストだったので、そちらは盛況だったのかもしれない。私の人気がないだけかもしれない。六月二十四日、日曜日の午後、私は同じ映画館で『相馬看花』の松林要樹監督とも話した。このときも観客の数は少なかった。やはり私のせいなのかもしれない。だが私は、舩橋淳の文章にあった「当事者」という言葉を、そして「遠く離れて」ということ、「距離」ということを、考えざるを得ない。考え込まざるを得ない。
20。『希望の国』のエクソダス
 『希望の国』は、古谷実の十年前の原作を「震災以後」に設定し直して撮り上げた傑作『ヒミズ』に続く、園子温監督による「以後の映画」第二弾である。福島第一原発の事故が未だ真の収束には至っていない今から数年後、架空の「長島県」(長崎+広島+福島)で、ふたたび大規模な原発事故が起こる、という設定の下、或る家族の物語が描かれる。  『ヒミズ』は震災以前からの企画だったが、舞台を被災地にすることによって、紛れもないアクチュアリティと切実さを獲得すると共に、物議を醸しもした。物議は園監督の専売特許とも言えるが、これまでの監督人生を回想した書物『非道に生きる』の中で、彼は「震災直後に被災地を映像に収めること」の是非を多くの人から問われたこと、罪悪感は感じないのかという反応があったと述べてから、こう書いている。
 しかし僕が感じていたのは罪悪感ではなく、緊張感に近いものでした。目の前に広がるあまりにも悲惨な情景に、現実的な既視感が生まれ始めた今となっては、それを自分と無関係な場所として見ることはできない。
 この「現実的な既視感」は、舩橋淳のいう「当事者意識」と一続きのものだろう。『ヒミズ』の冒頭は瓦礫の山が延々と続く長回し、文字通りの荒野をなめてゆくトラッキングショットである。それはけっして確信や自信をもってやれたことではなかっただろう。だが、園監督は被災したスタッフの実家や親戚の家を撮らせてもらった際、意外な声を聞く。
 そこで僕が聞いたのは想像していたのとまったく違う言葉でした。「片付けられてしまう前に記録を残してもらってよかった」。さらに1年後に同じ場所で聞いたのは「『いまだに津波の映像を流したりすると、思い出すからやめてほしい』と言う人たちは、忘れても大丈夫な人たちなんだ」という意見でした。
 空間的な距離は他人事という感覚をどうしたって強めるし、時間的な距離は忘却のツールとして作用する。この二重の距離を埋めるためのひとつの道具として、たとえば映画というものはある。距離はどこまでも開いていくだろうが、それでもそれを測ることが出来るということには、なにがしかの意味がある筈だ。そう思わなければ、そこにカメラを向けることは出来なかったに違いない。
 大事な人を亡くし、直後に大きな被害を受けた人たちは、その現実を忘れたくても忘れようがないと思います。かつて家があった場所は更地になり、やがて国が買い取ってセメントが入り、永遠に住めない土地になるかもしれない。自分が住んでいた愛する土地を記録に残しておきたいし、人々の記憶にも留めてもらいたい。被災された方がそう思うのは自然ではないでしょうか。  「思い出すからやめてくれ」というのは、被災の映像を見なければ思い出さないということでもある。被災地ではなく、たとえば東京で報道を見て、そう言う人もいる。しかし本当に被災者は、自分は被災者だと声高に叫ぶ人ではないのではないか。僕はそう思いました。10年後、20年後と歳月が経った後に『ヒミズ』を見た人が「やっぱり、あのとき撮ってくれてよかった」と言ってくれることを願っています。
 こうして『ヒミズ』を完成させた園監督は、しかしこれでは終われない、と思ったのだという。前作では「震災」を間接的にしか描き得なかった。次はそこでは語れなかった「原発事故」を、正面切って取り上げる。『希望の国』は、このような強い動機によって生み出されることになった。それはしかし、相当な難産であったという。この問題を扱うということだけで、映画への出資を尻込みする者が多く、なかなか製作資金が集まらなかったのだ。しかしなんとか映画は出来上がった。そして『希望の国』は『ヒミズ』と、いや、過去の園子温の映画のどれとも似ていない新たな作品となった。映画のシナリオと製作日誌と後日譚とを合体させた、かなりユニークな書物『希望の国』に、園監督はこう書き付ける。
 映画は、ゆっくりと撮れば良いものが撮れるわけではない。一瞬の内に気持ちのまま撮る時もある。  被災地の感情を撮りたいと思っていた。  報道が記録なら映画は記憶。  報道やドキュメンタリーが「真実の記録」なら、「情感を記録する」装置が映画。情感をカメラに記憶させたいと思った。
 佐藤真=舩橋淳が示した「ジャーナリズム」と「ドキュメンタリー」に加えて、園子温による「フィクション」としての映画の定義が、ここには端的に述べられている。だが「情感を記録する」とは、間違っても(時に園監督が誤解されがちなように)いたずらにエモーショナルでスキャンダラスなだけの、いわゆるセンセーショナリズムを意味してはいない。『非道に生きる』で彼は「震災直後に被災の当事者が何度も思ったのは「寒い」だったろうし、その最中は寒すぎて「この寒さの原因は東電のせいだ、けしからん」なんて論理的なことを考えている暇はなかったと思うのです。出来事の追想ではなく、出来事の真っただ中にいるときの気持ちや情感を、貧弱な言葉でもいいからそれで綴ること、それがドラマ映画にあるべきスタンスだと思います」と述べている。  では『希望の国』は、どんな物語なのか。長島県大原町で酪農を営む小野泰彦と、認知症を患うその妻・智恵子、父親の仕事を手伝う息子の洋一と妻のいずみの四人が主人公である。ある日、マグニチュード8.3の巨大地震がとつぜん襲い、大原町内にあった原発が事故を起こす。この経緯はすべてが現実に福島で起きたことの再現である。原発から半径20キロ圏内が避難区域に指定され、小野家はギリギリでその範囲には入らなかったが、道を一本隔てた隣家は避難を強いられる。かねてから原発の安全性に疑念を抱いていた泰彦はガイガーカウンターを出し、洋一夫妻にここから遠くに逃げろと命令する。父親を愛する洋一は最初は嫌がるが、いずみが妊娠していることがわかり、息子夫婦はオオハラから遠く離れた町で暮らし始める。いずみは泰彦から貰った原発関連の本を読み、医者からも恐ろしい真実を聞かされることで放射能への不安を募らせ、宇宙服で外出するノイローゼ状態に陥る。一方、泰彦と智恵子は静かな生活を続けようとするが、強制退避命令と牛の殺処分命令が届き、遂に泰彦は或る決意をする。  こんな物語のどこが『希望の国』なのかと思うことだろう。誰もが引っかかる「希望」という言葉の含意を、なぜこの題名を付けたのかを、園監督はさまざまな機会に繰り返し説明している。きっかけはやはり『ヒミズ』だった。
(『ヒミズ』の取材で)「絶望に勝ったのではなく、希望に負けた」と僕は何度も言いました。絶望的な状況で「参りました」と白旗を上げる、敗北宣言です。普段は「希望なんてクソくらえ」と思って生きていても、水も食べ物も酸素もなくなって、落ちるところまで落ちたときに、「仕方がないんだ。希望が欲しくなっちゃったんだよ」と言ってしまうようなもの。
 だが「それは、やさしい面をした希望ではなく、とても残酷な希望です」とも園監督は言う。「それは「負けた」というネガティヴな表現でしか言えないのです」。『希望の国』は、最初は『大地のうた』という仮タイトルを持っていたという。言うまでもなくサタジット・レイの名作と同じ題名である。園監督はまず、被災地に何度も長期間赴き、現地のひとびとへの取材を行なった。無論、希望などという言葉を被せられるような話はまったくと言っていいほどなかった。当初は現実と地続きの話にするつもりだったが、複数の土地で何人もの被災者から聞いたエピソードをバラバラのまま提示するのは不可能と判断し、架空の町を設定することにした。だがシナリオはなかなか進まなかった。自分が撮ろうとしている映画に確信が持てなかった。そんな折、二〇一二年元旦の早朝、南相馬に居た園子温は、ふと思い立って、20キロ圏内の柵を乗り越えて、海へと向かった。初日の出を見ようと思ったのだ。そして啓示の瞬間が訪れた。
 真っ赤な、真っ赤な初日の出でした。こんなに美しい太陽を見たことがない。そう思うくらい感動しました。昨年、人々を襲った津波を生み出した「張本人」のあの海から静かに立ちのぼる朝日。その真っ赤な美しさを息を殺して見つめているうちに、放射性物質をいっぱいに含んだこの大地に到来した新しい息吹を感じ取るようになり、力一杯呼吸をしました。その瞬間、そうだ、『希望の国』というタイトルの映画が作れるぞ!と思ったのです。このタイトルにしたのは、たくさんの論理的な理由を超えて、これが一番です。  『希望の国』と言いながらも、僕は「これが希望だ」と提示するつもりはありません。この映画に描かれたものを希望だと思えるならそう捉えてもらっていいし、希望じゃないと思うのであればそれでいい。こちらから一方的に何かを「希望」だと言うのは強引です。僕は映画が「答え」を出してはダメだと思っています。映画は巨大な質問状です。「こうですよ」という回答を与えるものではないと思うのです。
 この映画のタイトルにひとが否応なく抱くだろう疑問は、だから園監督によって敢て選び取られたものなのだ。「あの日の出こそ、僕に突きつけられた巨大な質問状でした。そして心の底で自分は答えを出した。その答えをあえて映画の中では口に出したりはしません」。��子温という映画作家には、とかく「確信犯」という評語が付きまとってきた。だが彼にかんしては、それは自分の正解を持っている者のことではない。彼は「僕は基本的に「想像力を羽ばたかせる」というのが嫌いなんです。なぜなら、想像する自分があてにならないから。「想像力」と言えば聞こえはいいけれど、それは断定とか独りよがりといった言葉にも置き換えられるものだと思います」とも言っている。或いはこうも。「僕の映画は主張しすぎだと言う人がよくいますがーーたしかに僕は映画の中でたくさんのことを「しゃべり」ますがーーそういう人は、僕がそもそも「答え」を用意していないことに気づいていないのです」。巨大な質問状としての映画。『希望の国』という作品が、なぜこのような物語なのか。こんな物語の映画が、なぜ『希望の国』という題名なのか。その答えはすべて観客に委ねられているのだ。  『トーキョードリフター』の監督、松江哲明は、園子温の『奇妙なサーカス』のメイキング映像や『夢の中へ』『紀子の食卓』の予告編を手掛けており、園監督とは公私ともに親しい人物である。彼は最近、映画評論家のモルモット吉田氏と共著で出した『園子温映画全研究1985ー2012』において、『ヒミズ』と『希望の国』について語っている。
松江 園さんが『ヒミズ』で「希望に負けた」という言い方をしましたが、すごく誠実だと思ったんですね。それで『希望の国』を観たときに、これは否定的な意味で捉えてほしくないんですけど、初めて園さんがフィクションに負けた映画だと思ったんです。あんなにノンフィクション至上主義を嫌って、「実在の事件は結末がわかっているからつまらない」と言っていた人が、今回の震災と原発事故に触れて、初めて自分のフィクションを捨てたと思いました。過剰なフィクションを入れ込むことでものを作ってきた人たちが、そんなことさえできないくらいに、現実に圧倒されてしまった。でもその態度は、とても誠実だと思いました。
 いかにも松江哲明らしい、それ自体とても誠実な発言だと思う。もちろん園監督は「自分のフィクションを捨てた」とまでは思っていないだろうが、しかしノンフィクション(ドキュメンタリー)であれフィクションであれ、その厳格な定義にてらして、自分は常に完璧な整合性をもって対応していると断言する映画作家が居たとしたら、そんな者の方がずっと信頼に足らない。そうではなくて、迷いながら悩みながら、圧倒されたり負けたりしながら、それでも撮る、それでも作る、ということの中にしか、映画が現実と切り結ぶ術はないのだ。そしてこれは映画以外の芸術にかんしても同じである。  書物『希望の国』の末尾には、詩人でもある園監督が「クランクインの直前に書いた、二〇一一年最後の詩」が据えられている。題名は「数」。この詩は、次のように始まる。
 まずは何かを正確に数えなくてはならなかった。草が何本あったかでもいい。全部、数えろ。  花が、例えば花が、桜の花びらが何枚あったか。それが徒労に終わるわけない。まずは一センチメートルとか距離を決める。一つの距離の中の何かを数えなくてはならない。例えば一つの小学校とか、その中の一つの運動場とか、そこに咲いている桜が何本とか、その桜に何枚の花びらがあったとか、距離と数を確かめて、匂いに近づける。その距離の中の正確な数を調べれば匂いと同調する。たぶん俺達の嗅覚は、数を知っている。匂いには必ず数がある。  その町の人口が何人だとか、その小学校に何人いたか、とか、例えばその日のその時間に何匹の虫が、何匹の蝶が、何匹の芋虫が、いたか、をきっかり、調べるべきだ。俺の嗅ぐ匂いは詩だ。政府は詩を数字にきちんとしろ。
 詩はまだ続く。私は強く揺さぶられている。園子温という表現者の凄みに、今更ながら瞠目せざるを得ない。「今度またきっとここに来るよという小学校の張り紙の、その今度とは、今から何日目かを数えねばならない」。数。数えること。計測の意志。そこに流れる紛れもない叙情。叙情を喰い破る強さ。ただの抵抗の身ぶりとは根本的に異なる勇気。「数値に出せないと政治家に言わせるな、数値で出せ、と訴えろ。全てを数えろと言え、数値で出せと言え」。そして園子温は、よく読め、彼は最後に、こう書いているのだ。
 「膨大な数」という大雑把な死とか涙、苦しみを数値に表せないとしたら、何のための「文学」だろう。季��の中に埋もれてゆくものは数え上げることが出来ないと、政治が泣き言を言うのなら、芸術がやれ。一つでも正確な「一つ」を数えてみろ。
21。『言葉』
 村川拓也は、毎秋都内で催されている舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー(F/T)」の二〇一一年公募プログラム(主催演目とは別に新進カンパニー向けにエントリー形式で行なわれている)として『ツァイトゲーバー』という作品を発表した。実際に介護の現場で働く男性が全身不随の障害者と過ごす一日を普段通りに淡々と再現する、基本的にはそれだけの内容なのだが、障害者の「フジイさん」を公演毎に観客席の女性から募って演じてもらうという特殊な趣向の一点によって(やらせは一切ないという)、意想外の卓抜にして深遠な劇的効果を上げることに成功していた。この作品はかなりの評判を呼び、まだ無名と言ってよかった村川拓也は一挙に注目されることになった。『ツァイトゲーバー』は二〇一二年九月にも東京都近代美術館で再演されている。  『言葉』は、今年の「F/T」の正式プログラムとして上演された、村川拓也の新作である。この夏、彼は出演者の前田愛美と工藤修三(彼は『ツァイトゲーバー』の「介護士」だった人物である)と一緒に被災地を一週間ほど廻った。各地ではバラバラに別れて行動し、各々が毎日平均六時間もあちこちを歩き続けながら、見たもの聞いたもの感じたこと考えたことなどをメモしていった。台本は、出演者二人のメモに記された膨大な「言葉」を村川が再構成することによって作られている。舞台にはマイクスタンドとスピーカー以外には何もない。工藤と前田はほぼ交互に、過去に自分自身が記した「言葉」を台詞として発話する。連続しているように思えるところもあるが、基本、二人の発話は断絶しており、対話を構成しない。ほとんど何も無い舞台上に「言葉」が響いてゆく。『言葉』は、言ってしまえばこれだけの作品である。前作と同じく、極めてシンプルな作りと言えるだろう。村川は、公演パンフに附されたインタビューの中で、「被災地に限ったことではないと思いますが、現地を訪ね、目の前の様々な印象を捕まえて言葉にしようと突き詰めて考えていくと、どんどん深みにはまっていく感じがあり、それを回避するために“歩き倒す”というような過酷な行程を敢て組みました。歩き疲れてヘトヘトになった身体と頭からは、シンプルで正直な言葉しか出て来ませんから」と語っている。実際、工藤と前田の「言葉」は、文字で書かれたものというよりも、その時その場で二人の脳裡に浮かんだとりとめの無い心象そのままであるかのように思える。青森から福島まで移動しながら、毎日毎日ただ只管歩き続ける中で書き留められた、被災地の今なお残る傷跡への素朴な驚きであるとか、ふと出くわした風景に突き動かされた想像、それだけでは何を意味しているのかよくわからない呟き、単なるぼやきとした思えないような一言、などなど。いったい何故、村川拓也は、このような方法を選んだのだろうか。同じインタビューで彼は、宮本常一からの影響について述べている(私は観ていないが、村川には『移動演劇 宮本常一への旅 地球4周分の歌』という作品もある)。宮本の著作に記録された「過去」の言葉を、現代に生きる人間が語ろうとする際、まず出て来るのは「喋れなさのリアリティー」ではないかと村川は言う。それは「過去」と「現在」のギャップそのものを提示するということである。
 僕が以前創った作品はそこまで止まりだったかもしれません。でも、本当はもう少し違うことをやりたいと思っていました。それは、「過去」に書かれた言葉の、その時の情景をそのままダイレクトに舞台上で再生できないか、ということです。それは単に役者が役にのめり込んで喋れば達成されるものでは絶対にないと思いますし、ひょっとするとその言葉を使わない方が、その時の情景に迫れるのかもしれませんが、とにかくその「過去」に書かれた言葉の、その時の「現在」をどうやったら今の「現在」で再生できるかといったことを探究したい。(略)過去を現在との距離から語るのではなく、過去の現在性を再生させるという、演劇ではほとんど不可能な領域に向かっているのかもしれません。
 実は『言葉』には、対になる作品が存在している。映像作家でもある村川が今年完成した中編映画『沖へ』。甚大な被害を受けた宮城県本吉郡南三陸町で、江戸時代から続く互助会「伊里前契約会」の会長を務める千葉正海氏の日々を追ったドキュメンタリーである。村川はカメラを携えて千葉氏とその家族の生活に寄り添い、畏まったインタビューというよりも単なる会話のようにして被写体に話し掛け、千葉氏も気さくに村川の問いに答えてゆく。取り戻しようのない災禍を経て日常を維持しようとする被災地の人々の姿を等身大で捉えた、魅力的なドキュメンタリー映画である。船で沖へ出ていき、当のこの海が襲われた津波について語る千葉氏。クルマに乗って帰り際、不意に村川を呼び止め、カーステで曲を聴かせながら「これ何かわかる?」などと尋ね、まったく唐突にCAROLの想い出を語り出す千葉氏。東京新橋での講演会の帰りにカラオケで熱唱する千葉氏。そんな何でもない場面の数々が不思議な感動を催させる。それは間違いなく、監督である村川拓也と被写体である千葉正海との距離感の適度な縮まりに由るものだと思える。しかしこの映画を制作しながら、村川は一種のジレンマに苦しんでいたという。
『沖へ』の撮影のためのインタビュー中、僕は「全然会話ができていない」という感覚にずっと囚われていた。被災地では色んな方と喋り、また基本的には皆さんよく喋るのですが、その言葉に行き先がない感じがしたんですね。切れ切れでどこにも届かない、行き場のない言葉が、津波で更地になった所にビッシリ生い茂る夏草のように充満し、溜まっていく。そんなイメージを再現できるような対話や言葉を抽出し、舞台上に乗せることで、観客の中にも無数の言葉が生まれ、むさ苦しいほど充満していくような作品を創りたいと思っています。
 やはりインタビューから引いた。こうして村川拓也は『言葉』を創ったわけである。ところで、先には触れなかったが、この舞台には工藤修三と前田愛美以外にも出演者が居る。それはいずれも黒服に身を包んだ(工藤と前田は限りなく普段着に近い服装である)手話通訳の女性たちである。女性たち、と書いたが、彼女たちは三名居り、交替で現れて工藤と前田の「言葉」を翻訳する。最初は舞台脇で控え目に立っているのだが、最後に登場した通訳の女性は、出演者二名が上手と下手の端に座って語っているのに、ただひとり真ん中に立って手話で語り出す。ここに至って観客は、彼女たちが単に公演の為に用意された通訳ではなく、紛れもない「出演者」としてそこに居るのだということに気づかされる。だから『言葉』のキャストは、二名ではなく五名なのだ。手話を解さない私には、彼女たちの身ぶりは(もちろん多少は推察できるところはあるとしても)文字通りの「身ぶり」でしかない。だがそれは「言葉」なのだ。その言葉が私たちにはわからないが、それが言葉であることは知っている。むろん通訳なのだから、今しがた彼か彼女が話した言葉が手話に翻訳されているのだろう。それは知っている。だがそれは「発話」ではない。そこには音がない。私を含む観客のほとんどにとって、それはただ見ることしか許されない「言葉」なのである。  『ツァイトゲーバー』でも、全身麻痺の「フジイさん」役の観客に最初に願い事を尋ね、本番中に三度、任意のタイミングで、その願い事を「台詞」として呟かせる、という「演出」が、驚くべき効果を発揮していた。「介護士」はその言葉に一切反応しない。それは彼が普段からそうしているのか、何を言っているのか聞き取れなかったのか、それともそもそも「フジイさん」の心中で呟かれただけだったのか、観客には判別出来ない。しかし「介護士」役である工藤修三にも、「フジイさん」がいつ、どのタイミングで「台詞」を発するのかは予期出来ないのだから、その「言葉」はいつも不意撃ちのように舞台と客席に響くことになるのだ。  聞こえる/聞かれるべき音として発される言葉と、聞こえない/聞かれない言葉との、矛盾と照応。この意味で、『言葉』は明確に『ツァイトゲーバー』の問題意識を引き継いでいる。手話通訳の「出演者」化によって浮き上がってくるのは、確かに発された言葉が聞かれておらず、発されていないかもしれない言葉が聞こえる、という前作が炙り出した事態に対して、聞こえていえないかもしれないが確かに発されている言葉の実在、である。このことは、この舞台のもうひとつの仕掛け、舞台前に客席に向けてマイクが数本立てられており、無言の場面になると観客の立てる咳や身じろぎが集音され、増幅されてスピーカーから返されるという、やはりシンプルだが秀抜な趣向にも込められている。  被災地に生きる者の「行き場のない言葉」を、そこから遠く離れた舞台上で、当事者ではない「出演者」の声によって響かせる、ということは、結局のところ、不可能なことである。これは「演劇」の限界なのかもしれない。だが、だからこそ「過去の現在性を再生させる」ために、村川拓也は『言葉』の、一見すると迂遠とも思える手法を選択したのだ。彼と工藤、前田の旅は、どこまでいっても(言葉は悪いが)物見遊山の謗りを免れないものではある。『言葉』上演後、映画監督の想田和弘を迎えて行なわれたアフタートークの冒頭、村川自身が「作品を作るために被災地に行った」と語っていた。どれだけ真摯な想いが彼の内にあり、どれほどの震撼がそこに待っていたのだとしても、それはやはり、そうなのだ。だからむしろ問題は、そのことに背を向けない、ということだったのだろう。二人の「出演者」によってメモに書き付けられた「言葉」は、被災地の、被災者の「言葉」ではない。そうではない、そうではありえない、そうなりえないという歴然たる事実を上演すること、それが『言葉』がしていることであると思われる。その「言葉」たちにはーーこう言ってしまってよければーー然程の深い意味も価値もない。ただしかし、そこでは「「過去」に書かれた言葉の、その時の「現在」をどうやったら今の「現在」で再生できるか」が、無骨なまでに真正直に問われている。そしてそれは、けっして完全なる「非当事者」ではあり得ない筈なのに(それは舩橋淳も言っていたことだ)、しかし「当事者」を自ら標榜することはけっして許されはしない者が、如何にして「当事者」の「言葉」を通訳出来るのか、という取り組みでもあるのだ。  だからこそ、一個の作品としての『言葉』には不満がないわけではない。中盤に、突然スクリーンが降りてきて、ランディ・ニューマンのペーソス溢れる軽やかな歌声をバックに、旅行時のスナップショットがスライドショーで映写される場面があるのだが、旅のドキュメントとしての要素を残しておきたいという意図は汲めるとしても、全体の中では小休止というか、緊張感を緩める結果になっていることは否めない。また、先に述べたように「言葉」は殆どランダムに並べられているのだが、ラストに至って、現地で催される花火大会で離散していた一行が落ち合おうとする展開となる。事情あってそれは果たせないのだが、前田の「言葉」は花火の模様を描写する。そしてラストの一言は「あれ、今揺れた?」。この「言葉」によって『言葉』という一編の芝居が終われたということはあるだろうし、絶妙な余韻が残されたことも確かだ。それにこれらは全てがもともとメモにあった「言葉」である。そこには作為も虚構もない。だが私には、少々上手に終わり過ぎてしまっているように思えた。村川拓也が排したいと思っている(と私が思う)ドラマツルギー的な感覚が入り込んでいるように思ってしまったのだ。もっといつ終わったのかわからないような「言葉」でもよかったのではないか。極論かもしれないが、『言葉』の「言葉」それ自体は、含蓄や情動を持たない、いや、持てない、ということにこそ意味があるのだと思われるからである。
22。「言葉」
 『言葉』を含む本年度の「フェスティバル/トーキョー」のテーマは「ことばの彼方へ」である。舞台芸術において言葉=言語は特異な位置を占めている。戯曲やテクストは重要だし、しばしば最初に書かれるものだが、読めば済むのなら上演の必然はなくなってしまう。だが、かといって「言葉」が二義的な要素というわけではない。内外含めて十数本から成るプログラムは、総体として「言葉」と「舞台」をめぐるアクチュアルな問題系を形成していた。その中でも呼び物は、劇作家としても名高いオーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と原発事故をテーマに書き下ろした『光のない。』と『光のない II〜エピローグ?』の上演である。今年のF/Tは、他にイェリネク解釈の第一人者といわれるドイツのヨッシ・ヴィーラー演出による『レヒニッツ(皆殺しの天使)』、公募プログラムで重力/Noteによる『雲。家。』と、さながらイェリネク祭の様相を呈していた。  村川拓也は「行き場のない言葉が、津波で更地になった所にビッシリ生い茂る夏草のように充満し、溜まっていく」と述べていたが、この表現はそのままイェリネクにも当て嵌まる。だがそのあり方は正反対かもしれない。『ピアニスト』『したい気分』『死者の子供たち』といった小説では、引用と参照に満ちた高度に知的な企みの内に遊び心溢れる闊達さやポストモダン文学的なサービス精神(?)も披露するイェリネクだが、とりわけ戯曲は難解さをもって知られている。彼女の劇言語は(やはりオーストリアの小説家、劇作家トーマス・ベルンハルトと同じく)たとえ複数の登場人物が配されていたとしても本質的にはモノローグ的であり、断言と韜晦が奇妙に共存する台詞は強固に閉じた印象を与えつつ、同時に異様な、バロック的と呼んでもいいような過剰な意味性へと開かれてもいる。たとえばそれは、こんな具合である。
 ああ、わたしにはあなたの声がほとんど聞こえない、どうにかしてほしい。あなたの声を響かせてほしい。わたしはわたしを聞きたくない、あなたにわたしをかき消してほしい。ただ、少し前から思っている、わたしはわたしも聞こえない、耳を制御盤にあて、つかもうとしているのに、音を。あなたもそのくらいはできるはず! もっと強く弾いてほしい、難しいはずはない。ここは喚き声ばかり、わたしにはわからない。畜舎? 設備の停止? 設備が停止したならどうして叫ぶのだろう。力づくで押さえているのか。自動停止? だがそれはすべて静まることを意味しない。力は消えることができない。なにかが消えることなど決してない、まだ叫んでいる、怪物の腹の中で、蝉のように、喰われても猫の腹で叫びつづける蝉のように。 (「光のない。」、林立騎訳)
 イェリネクはこの度の上演に当たって日本の観客に向けて書かれたテクストにおいて、自分の生活は「ほとんど日本に囲まれているようなもの」だと述べる。なにしろ庭も日本風に竹を植えているのだ。彼女は竹を「地下茎=リゾーム」と言い換え、自らの言葉の様態を重ね合わせてみせる。そして歌舞伎については詳しくないと断わりつつ、たとえば「長いモノローグや技巧的に歪めた声」という点で自分の作風は歌舞伎と似ていなくもないのだと述べる。歌舞伎には「様式化された人工美の規則」がある。「観客は作品を見て読み解き、なにがなにを意味するか知るのでしょう。わたしの作品にそれは不要です。言わばわたしの作品は、過剰に規定されています、わたしは開かれた余地を残しません、竹が隙間を残さず、土があればどこまでも広がるように。竹は必ず防根シートで囲まれます、しかしそれを越え出ることさえあります。なんらかの感覚が、なんらかの意味が、わたしの地下茎を越え出ることはあるでしょうか。あってほしいと思います」。実際のところ、何が主題の芯に据えられているのか、どこから作品が書き出されているのか、という意味では、イェリネクの戯曲は常におそろしく具体的である。即物的とさえ言ってもよい。『光のない。』の「光」とは、福島第一原子力発電所の事故によって施行された計画停電のせいで一時的に関東地方から失われた、松江哲明監督の『トーキョー・ドリフター』に不在の形で映し出されていた光=明かりのことであり、と同時に原発の発電システムそれ自体のことでもあり、ピカドンのピカのことでもある。イェリネクはケルンの劇場から、より抽象的なテーマ(「デモクラシーの黄昏」)で委嘱されたものだったというが、彼女は敢てこの題材を選び、追ってホームページで全文を公開した。そして震災ー事故から一年と一日が経った二〇一二年三月十二日に、「エピローグ?」と題された続編を、やはりHPで発表した。  イェリネクは自分の「言葉」は「過剰に規定されて」いると言う。それは「規則」に従った読解や意味の抽出を必要としていない。言い換えるなら、それは完膚なきまでの誤解/誤読の余地の無さ、ということだろう。だがしかし、だからといってそれは明解であるわけではない。むしろ逆である。竹。夏草。繁茂。どこまでも即物的で直截的足ろうとする意志こそが、見る間に視界のすべてを覆い尽くしてしまうほどに「言葉」を生い茂らせてゆく。イェリネクの文学の全てに言えることだが、膨大な文学的/歴史的引用や参照が多重露光のごとく入り込み、即物性と斥き合うように、テクストを濃密に、息苦しいほどに濃密にしてゆく。二本の戯曲はこうして書かれた。では、日本の演出家たちは、そのようなイェリネクの「言葉」を、どう受け止めたのか?  『光のないII〜エピローグ?』から語ろう。何故なら私が鑑賞したのが、こちらが先だったからである。構成、演出はPort Bの高山明。ここ数年のF/Tの常連アーティストである彼は、劇場という固定されたトポスから脱して、インターネットや移動手段を駆使したさまざまな方法論で、「日本」というコンテクストにおける「ポストドラマ演劇」を試行している。今回の公演は、このようなものだった。事前にエントリを済ませた観客は、一人ずつ新橋の駅前にある「ニュー新橋ビル」から街へと送り出される。持たされるのは十数枚のポストカードが入ったビニールケースと短波ラジオ。ポストカードには次に向かう場所への経路と地図が印刷されている。観客はそれをガイドに新橋駅周辺に設置された「舞台」を経巡る。指定されたポイントに着いたら、観客はカードに記載された周波数に短波ラジオを合わせる。すると、その都度異なる若い女性の声が(それらは被災地の高校生たちの声である)「エピローグ?』のテクストを朗読している声が聞こえてくるのである。ポイントは雑居ビルの一室であったり、小公園だったり、路上だったり、パチンコ屋の店先であったり、空き地であったりする。ポストカードを裏返すと、土屋伸一による被災地の人々や原発作業員たちの写真があしらわれている。一時間ほどの「観劇」を終えて、ふたたび出発点に戻ってくると、一階上でラストシーンを体験してくださいと言われる。そこはビルの最上階である。同じポストカードが大量にある。雲間から光が射し込む青空の写真。一枚お取りくださいとある。裏返すと、そこにはこう記されている。「ニュー新橋ビルから135km、福島第一原子力発電所から91km」。距離。計測。そこにある光。そのイメージ。
 真実の言葉は一つとして、言われないままにはしなかった、と彼らは言う、彼らが見たはずはない。目撃証言としてわたしは言う、真実の言葉はどれも、言われないままになっている。容器の水は足りてない、もういい! わたしたちの運命は他の誰でもないわたしたちだけのもの、だが容器の中のあの水が、そう、鉄琴は溶け落ちた、多くの人間が焼け出されたように、だが活発な活動は止まない、ひどく加熱され燃えている、わたしたちの都市の近く、わたしたちは一見無傷な家畜、あの水がわたしたちの運命をもたらすだろう。わたしたちはそれをつかめない。わたしたちのまわりには水しかない、だがそれはまた別の水。さまざまな水! (「エピローグ?[光のない II]、林立騎訳)
 延々と続くモノローグ。短波ラジオから聞こえるイェリネクを読む音声は、それぞれのポイントから離れると次第に遠ざかっていき、やがてホワイトノイズに呑み込まれてしまう。私は移動中もイヤホンを耳から外さずにいたので、聴覚は視覚をあっけなく凌駕して、新橋の雑然とした町並みは鈍いノイズに塗れ、そのままの姿で刻々と変容していった。ポイントの幾つかには被災地を如実に想起させるセットもあったのだが、私にはむしろ何でもない新橋の夜(夜だったのだが)の風景の方が「舞台」のように見えたし、誤解を恐れずに言えば、短波ラジオが発するホワイトノイズも、イェリネクのテクストの一部であるかのように思えた。それはとても不思議な体験だった。公演パンフに掲載された土屋伸一との対談の中で、高山明はこう述べている。「福島のある風景を東京のなんの文脈も共有していない空間に再構成した結果は変に決まってます。でも、その不協和音の中にこそ、自分が福島にいないこと、今東京にいるということ、その距離がはっきり見えて来るんじゃないか。演劇を作る時にも観る時にも、感情移入はつきものですが、でも今は、それよりも、僕らの前に現実にある距離を測り、感じることの方が重要なんじゃないのかな」。  「エピローグ?」の末尾には参考文献(?)として、ソポクレース「アンティゴネー」と共に、次の一文が添えられている。「多くの、多くの報道を読んだ」。引きこもり的な生活を続けているというイェリネクは、インターネット経由でそれらを読んでから(読んだから)書き始めた。そうして書かれたドイツ語は、林立騎によって極めてマシーナリーに日本語へと翻訳され、いわき総合高校演劇部の女子部員たちによって朗読され録音された。ここにも複数の距離と複数の翻訳が介在している。高山は対談で、こんなことも言っている。
 ウィーンの郊外にツベンテンドルフ原発という、一度も使われないまま、国民投票で廃炉になった発電所があるんです。そこに行くと、「未来のエネルギー」と書かれた垂れ幕がかかったままで、時間が止まっちゃって、未来もフリーズしたような奇妙な感覚に捕らわれる。あの感じはもしかしたら、福島の避難区域の、蒲団がはがれたままの、突然誰もいなくなってしまった部屋と似ているんじゃないかと想像します。僕が『光のないII』を読んで、いちばん表現したい、掴みたいと思ったのは、そういう、時間が失調してしまうような感覚です。それは、原発が欲しいと思って、それが実現して、でも津波で壊れてしまって、今度は原発を止めたいっていう別の願いを持つことになって……と、時間が錯綜して振り出しに戻ったかと思えば、全く別の場所に出ていたりするような感覚でもあります。
 「それは〈福島/フクシマ〉が、もはや言葉だけのものとして、終結させられつつあることへの批判でもありますが、それ以後全く違う時間が始まったという意味でもあるんじゃないか」。フクシマから遠く離れて。その時間的空間的距離の自覚。『光のない II〜エピローグ?』の舞台が新橋であったことは恣意的な選択だったかもしれないが(そういえば村川拓也の『言葉』で千葉正海氏が赴いたのも新橋だった)、それは福島や被災地であってはならなかった。そこから絶対的絶望的に遠隔された場所でなくてはならなかった。それはエルフリーデ・イェリネクが、ウィーンの自宅のコンピュータがアクセスするインターネットやテレビ、報道媒体などから得た映像と文字の情報のみを頼りにテクストを書いた、という事実と対応している。しかし同時に、絶対的で絶望的な距離が、安全で無責任な傍観者であることを保証するわけではない、ということも高山は勿論わかっている。これはフィクションではない。別の世界の出来事ではない。われわれは、残念なことに、同じひとつの世界にしか居ない、イェリネクに筆を執らせたのも、遠く離れたアジアの島国で起こったことが、自分の生きる同じ現実の内にある、という実感によるものだったのではないか。「距離」の測定は、連続性の把握でもあるのだから。  観劇を終えて、ニュー新橋ビルの屋上に出てみた。ちょうど歓楽街が賑やかになってくる時間だ。ポストカードを夜空にかざして、私はこう考えた。ここから135km離れた場所の、或る日の空に、この雲と光があった。そして、そこから91km離れた場所に、福島第一原子力発電所がある。
 『光のない。』は、京都に拠点を置く劇団、地点を率いる三浦基が演出を担当した。彼は自ら劇作は行なわず、チェーホフの四大戯曲を始め、既存の劇作品を極めて独創的な解釈で上演することによって国際的な注目を集めてきた。また近年は、太田省吾、ジャン・ジュネ、アントナン・アルトー、太宰治などのテクストを再構成した野心的な舞台を次々と発表している。今回も同様で、イェリネクのテクストは役柄にかんする指定のないAとBが交互に語るというものだが、三浦はその全部は採用せず、彼自身の取捨選択によって六割ほどに編集している。そして戯曲では二つの声となっている台詞を、地点の五人の俳優に分散して演じさせている。このことについて、三浦は二→五という処理に意味があるわけではないと語っている。単に彼が信頼を寄せる役者の数が目下のところ五名なのだ(つまり現在の地点は基本いかなる人数の戯曲であっても五人で演じられる)。  地点の演劇をはじめて観る者は、何よりもまず、役者たちの異様な発話にしたたか驚かされることになる。時に「地点語」などと評されるそれは、戯曲に書かれた台詞を、いわゆる自然な口調とは完全に真逆の、シラブルの切断や語の強調、イントネーションの付け方などによって、徹底的に異化してしまう。それは確かに日本語である筈なのに、まるで外国語のように聞こえる。意味性を解体/変容し、異なる次元へと絶えずパラフレーズしてゆくこの手法こそ、演出家三浦基の最大の発明であり、武器でもある。その手腕は今回も遺憾なく発揮されており、私がこれまでに観た地点の公演の中でも、圧倒的な高みに至っていた。それは戯曲に書かれた「言葉」を舞台上に響く「音声」へとメタモルフォーズする。イェリネクの、それ自体過剰なまでに濃密なテクストを、役者の身体によって加圧し、彼らの声を通して煮詰め、何か更に奇怪な、だがおそるべき生々しさを放つものに仕立て上げている。  だが、これだけならば、言ってしまえばいつもの地点である。今回は、そこに厄介な前提が纏わりついている。言うまでもなくそれはエルフリーデ・イェリネクに『光のない。』というテクストを書かせた具体的現実的な出来事のことである。この作品を演出することは、なかば必然的にこの出来事に対する何らかの意見表明を意味してしまう。幸いなことに、この点にも鋭敏な三浦は、公演パンフに附された「演出ノート」において、まず政治と政治性を分割して、自分が問題にしているのは「政治性という普段からちりちりとくすぶっているよくわからない人間の性」の方だと述べる。
 政治性とは関係性と言ってもよい。劇は関係性によって成り立つ。誰との? ロミオとジュリエットとのではない。イェリネクは、わたしとあなたとのでもないと言っている。わたしはあなたであり、わたしたちでありあなたたちだと一見、ふざけたことを言っている。イェリネク作品での主語に「わたしたち」が頻出するのは、政治性を問うた結果である。つまりイェリネクが書くのは、物語ではなくわたしたちに起こった「出来事」についてなのだ。残念ながら、震災があった。それに伴う原発事故があった。
 そしてこうも述べる。「この劇が、みなさんに反原発を訴えるはずはないし、そんなつもりは毛頭ない」。誤解のないよう言い添えておくが、三浦が言っているのは、悪しき芸術至上主義の標榜ではないし、日和見主義でもない。「政治」は行動とメッセージだが、「政治性」は思考と内省である。そして芸術は、演劇は、後者を追求すべき営み/試みなのだ。  ところで『光のない。』の達成に貢献しているのは、演出家三浦基と地点の俳優たちばかりではない。今回はそこに新たな才能が加わっている。音楽監督を務めた作曲家の三輪眞弘である。私は個人的に、この起用には感嘆を禁じ得なかった。なんと見事な人選だろうと舌を巻いたものである。ひとつには、三輪はコンピュータを駆使した、いわゆるアルゴリズミック・コンポジションの研鑽を経て、演算もしくはその遂行が生身の身体(それはプロフェッショナルな楽器演奏者であることもあれば、ただの素人であることもある)によって行なわれる「逆シミュレーション音楽」という独自のアイデアに辿り着き、近年めざましい作曲活動を継続しているのだが、そのユニーク極まるアプローチは、そういえば確かに地点と相通じるものがある、と思えたからだが、もうひとつは他でもない、三輪眞弘が「中部電力芸術宣言」の起草者であったからである。
 いついかなる時でも電気が必ず供給され続けることを前提として、人類が未来を考えるようになってから、ほぼ半世紀が経った。この前提は、近現代の、テクノロジーによって生み出された数々の地球的規模の危機はテクノロジーによってでしか解決できないと考える思想、すなわちひとつの「信仰」の全面化を意味すると同時に、人々が自らの責任と子供達の未来を考えることが、そのまま「今よりもさらにテクノロジーを進歩させること」へと回収される、まったく新しい時代を産み出した。我々はこの状況を、厳然たる事実として認めつつも、この事実に対して自覚的かつ批判的であるために、人類史におけるこのような発展段階を「電気文明」と名付け、そこから生まれる様々な視聴覚及び演算装置による創作一般を「装置を伴う/による表現」と呼ぶことにする。
 と始まり、「確認しよう。なぜ電気なのか?・・それは、電気エネルギーがすでに我々の社会の、思考の、そして身体の一部であるからに他ならない」と結ばれるこの「宣言」は、二〇〇九年八月二十五日には一旦脱稿されていたが、一年半のあいだ公表されることはなく、二〇一一年三月十三日に突然、三輪のホームページ上にアップされた。東日本大震災と原発事故を受けての公開であったことは疑いない。「電気文明」の時代における「芸術」と「音楽」について、一読する限りでは突拍子もない主張が述べられているようにも思われるこの宣言文は、しかしながら検討すべき内容を多々有している。そしてここにこそ、三輪眞弘がエルフリーデ・イェリネクと、三浦基と、『光のない。』というテクストと切り結ぶ最大のクリティカル・ポイントが示されていると思われる。
23。「電力芸術宣言」のジレンマ
 三輪眞弘が「中部電力芸術宣言」によって俎上にあげようとしたもの、それは「テクノロジー」と「音楽/芸術」の関係性をめぐる本質的な問題、そしてその前提を成す「テクノロジー」と「(人類の)生」の問題である。三輪はこの「宣言」において、至って即物的に、今日の「テクノロジー」を、その駆動力たる「電力」がなくては維持も進歩も最早あり得ないものと定義する。そして「人類史におけるこのような発展段階を「電気文明」と名付け、そこから生まれる様々な視聴覚及び演算装置による創作一般を「装置を伴う/による表現」と呼ぶ」。この呼称は、つまり「芸術」の別名である。
 その際、活動の、いや、そもそも人間生存の大前提となった電力供給に我々は常に意識的であらねばならない。一体、電気がどのような物理的特性において、どこから、どのようにして提供されているのか? その実態を把握せずに我々はもはやこの世界を決して語り得ないにもかかわらず、人々はそのことの持つ意味についてあまりに無自覚である。例えば、日本では現在10の電力会社によって(家庭用は)100V/200VAC電力が供給されており、その電力網は県境を越えた「地方」という単位に対応している。つまり地方文化と電力会社はほぼ1対1の対応関係にあるという事実、さらに、東日本と西日本というふたつの領域が50Hzと60Hzの二種類の交流周波数によって峻別されているという事実は、「地方文化の差異」を、それとは本来まったく無関係なはずの、電力各社の電力網区分が代表していることでもある。さらに、それら各地方電力会社が供給する電力の起源に我々は注目する。すなわち、それが太陽由来の電気なのか、そうではないのか?
 そして三輪は「太陽エネルギーに由来しない電気はすべて、人間が「資源」という名の下に自然環境に対して行う地球規模の略奪行為として今後断固拒否する」と述べる。過激な主張と言っていいだろう。だが無論「水力、風力、太陽光発電等の太陽由来の電力は容認せざるを得ない」し、現実として「太陽由来の電力」とそれ以外の「電力」を峻別することはわれわれには困難である。そこで差し当たり次のような立場が表明されることになる。「以上のような自覚に基づき、我々はまず、発起人の在住する中部電力が供給する電気によって電力芸術活動を開始し、「装置を伴う/による表現」を電力会社名として名付けられた各地方文化において運動を展開させていくことを目標とする」。こうして「中部電力芸術」が「宣言」されることになったわけである。
 言うまでもなく、電気の地域性によって作品が変わることはない。しかし、西洋音楽において、たとえば現代の管弦楽作品が、世界中の都市に遍在するオーケストラという、地域文化の固有性を越えたグローバル・スタンダードを前提として作曲家独自の表現を可能にしていることと同様、グローバル化社会における究極の前提であるユニバーサルな電気を我々がどのように捉える/扱いうるかこそが今、我々に問われているのである。それは地域文化の固有性や作家の独自性を、現在考え得るもっともニュートラルな条件の下に映し出す、ひとつの鏡となるに違いない。
 自分の「音楽」が何によって生かされているのか、自分が何によって生かされているのか、そのことにもっと意識的にならなくてはならない。「宣言」の末尾に、三輪は「中部電力芸術家の目標、条件、他」として、以下のような要項を挙げている。
- 電気文明における電気を利用した「装置を伴う/による表現」を電力芸術と呼ぶ。 - 中部電力芸術家は電力芸術を実践する。 - 中部電力芸術家は、浜岡原子力発電所を含む火力、水力発電によって中部電力から供給される60Hz/100VAC電力によって活動を行う。 - ただし、中部電力芸術家は、非太陽由来の電力、すなわち火力発電及び、物質それ自体からエネルギーを収奪する究極の技術として��原子力発電に対して常に批判的である。 - 中部電力芸術の趣旨に賛同する限り、他の電力文化圏(50Hz地方を含む)在住芸術家の、電力会社の壁を越えた積極的な参加を歓迎する。 - 中部電力芸術宣言は作曲家、松平頼暁氏の立ち会いのもと、湯浅譲二氏八十歳の誕生日に構想された後、坂本龍一氏の批判を受けて改訂された。
 繰り返しておくが、この「中部電力芸術宣言」は、二〇〇九年八月二十五日には第一稿が書かれていた。従って三輪眞弘が、この特異と言っていい「宣言」を起草するにあたっての動機には、彼自身の生活や信念といった個人的な条件がかかわっていたのかもしれない(三輪は以前から、CD等のメディアに記録され流通することを本願とする「録音芸術」としての音楽ーー「録楽」と名付けられているーーの様態には鋭い疑問を呈していた)。だがそれはいったん開示されることなく封印され、二〇一一年三月十三日にはじめて公表された。どうしてこのタイミングだったのかを問う必要はないだろう。重要なことは、これが「以前」に書かれた「以後の言説」であったという事実である。そして私たちは、いまだに「東京電力芸術宣言」を持ってはいない。  では『光のない。』の音楽監督として三輪眞弘は何をしたのか? 「電気文明」に拘束された「装置を伴う/による表現」=「芸術」=「音楽」。この等号を射抜くために、三輪は二つの戦略を採った。ひとつ目は、舞台中盤に役者全員がやおら互いの両腕に電極を装着したかと思うと、それぞれ鈴を持つ、そして電気ショックで不随意に手が動くことによって間歇的な音楽が奏でられる、というものである。それはつまり「電力芸術」としての「音楽」が暴力的な直截さによって表現された場面だった。もうひとつ、より重要であったのは、この作品に召喚された異様な「合唱隊」の存在である。舞台前方、左右にしつらえられた陥没に客席を背にして仰向けに横たわり、全員が両足の先しか見えない総勢十数人による混声コーラスは、意味のわかる歌詞=言葉をうたうことは一度としてなく、囁きや呟き、かすれた叫びやかそけき呻きのような声=音を発する。それら複数の音=声はランダムに聴こえるが、実は三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」の代表的な作品である「またりさま」の応用によって、合唱隊のメンバー自身が一種の演算装置となってリアルタイムで作曲=演奏されているのだ。作曲ー演奏ー出音に至るまで「電力」は一切関与していない。それは「電力」が途絶えても、「光のない」世界でも、生まれ/生きることの出来る音楽なのである。合唱隊の「声=音」は、地点の五人の俳優の、エルフリーデ・イェリネクによって書かれ林立騎によって日本語に翻訳され三浦基によって演出された「台詞=言葉」の発話と混在しながら、舞台空間を音響的に埋め尽くしていった。  三輪眞弘は「フェスティバル/トーキョー」のフリーペーパー「TOKYO/SCENE」No.1に「魔法の鏡 または、三浦基氏に宛てた『光のない。』の私的パラフレーズ」と題した長めのテクストを寄せている(「「中部電力芸術宣言」の続きとして」 という註釈が添えられている)。そこではイェリネクにも『光のない。』にも地点にも直接言及されることはないが、先にも触れた「音楽」と「録楽」の異なりについて、より詳しい思弁が述べられている。「魔法の鏡」とは、「この世」の営みを複製する「あの世」を可能にする「テクノロジー」のことを指している。
 わたしは本当に音楽を聴きたいのか? わたしに音楽は必要なのか?……そうだ。「録楽」ではなく、「音楽」は決して「魔法の鏡」によって分身し、再現され、反復されることはない。 音楽は常に記号から逸脱するからだ。
 ���には、その奇妙と呼ぶしかない「合唱隊」の、意味性を欠いた、しかし同時に意味生成性が充満してもいる摩訶不思議なサウンドは、Port B『エピローグ?』の、あのFMラジオのホワイトノイズと似た機能を担わされていると思えた。ただし、ラジオは電池が切れたら、音はしなくなってしまう。ただし、ヒトは生命を失ったら、音がしなくなってしまう。「装置」と「人間」は、何によって生かされているか、の違いはあれど、何かによって生かされている、という点は同じである。そして結局のところ「電力」は、双方に深くコミットしている。『光のない。』にしても、光のない、電力のない空間での上演は、無論のこと不可能である。だから「電力芸術宣言」は、自ずからひどくアイロニカルなものにならざるを得ない。ここには明らかに、声を上げつつ口ごもっているような晦渋さがある。それは起草者の三輪眞弘自身、百も承知のことだろう。もしかすると、それが公開されなかった理由のひとつであったのかもしれない。だが、それでも敢て「宣言」する必要が、新たに生じたのである。とはいえ、アイロニーが解消されたわけではない。むしろそれはより深刻度を増し、強力な難問として我々の目の前に立ちはだかっている。「浜岡原子力発電所」という単語があるからといって、この「宣言」はストレートな「反原発/脱原発」を謳っているわけではない。そうであったらむしろ話は簡単だったろうが、そうであればここで検討するには値していない。何故ならば、ここにある紛れもないジレンマこそ「電力芸術宣言」の真の問題提起だと思われるからだ。  ところで、先の「魔法の鏡」は、こう結ばれている。
 Lux aeterna luceat eis, Machina(機械よ、永遠の光を彼らの上に照らし給え)。しかし、わたしは祈れるのか? 光はどこから来るのか? 「彼ら」とは誰か? 被災地に置き去りにされた家畜たちのために。
 「Lux aeterna luceat eis, Machina」とは、三輪眞弘が二〇一一年十月にサントリー芸術財団の委嘱作品として発表した『永遠の光…オーケストラとCDプレーヤーのための』のラテン語題名であり、本来はMachinaではなくDomine、すなわち「Lux aeterna luceat eis, Domine(主よ、永遠の光を彼らの上に照らし給え)」。グレゴリオ聖歌のレクイエムの一節である。
24。「アクチュアリティ」と「わたしたち」
 オーストリアのウィーン在住で、日本には一度も来たことのない作家エルフリーデ・イェリネクが、東日本大震災と福島の原発事故にかんする「多くの、多くの報道を読んだ」ことによって、何ものかに突き動かされるようにして書いてしまった二つのテクスト。それらをそれぞれの方法で現実の舞台へとリアライズした高山明と三浦基という二人の演出家と、三浦に随伴した三輪眞弘という作曲家。彼らはいったい、何をしていたのか?……いや、こんな問い方はいかにも理由ありげでいささかみっともないが、しかしそろそろ、これまでここで私が書いてきたことの全部とかかわって、要するに彼ら(というのは彼ら彼女ら全員のことだ)は何をしているのか、何をしようとしているのか、あらためてじっくりと考えてみる必要があるように思う。たとえば三浦基は、前にも引用した『光のない。』の公演パンフレットの「演出ノート」に、次のように書いている。
 リアリティという言葉は、いつの間にかアクチュアリティにすり替わってしまった。私のリアリティとみんなのリアリティなんてかわいい感覚ではもう駄目で、もっと大きな文脈を背負うべきという強制的な響きをもって私には聞こえる。「君にはアクチュアリティがないなぁ」と言われたらちょっと困る。「君にはリアリティがないなぁ」と言われたら、相手を睨むことができるだろう。つまり対話が始まる。が、どうもそんな対話は古いので人々は敬遠する。誰だがわからない立場で、アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術を持った。
 「私は、だからアクチュアリティと闘うつもりだ。口が裂けてもこの言葉を簡単には使わないようにしたいと思う」と続けておきながら、すぐさま三浦はこう述べる。「『光のない。』は、東日本大震災と福島の原発事故がテーマになっているアクチュアリティ満載の作品です。嘘です。イェリネクがこうしたテーマを選んだことがアクチュアリティなのではなく、この出来事に彼女が「わたしたち」の一員だと宣言したことが、アクチュアルなのである」。  確かに「アクチュアリティ」の一語は現在、以前の「リアリティ」に成り代わって、特権的な地位を占めているかに思える。それはほとんど一種のマジック・ワードと化していると言ってもよい。わたしたちはアクチュアリティに真摯に対峙し得ているか? わたしたちは如何にしてアクチュアルであり得るのか? この自問に「芸術」に携わる者たちはひとしなみに晒されている、そのように映る。だがそれがマジック・ワードであるということは、あたかもそれが口に出される/書き付けられるだけで魔法が成立してしまうかのような誤解と錯覚がまかり通っているということでもある。三浦が辛辣な語調で違和感を表明しているのはそのことだ。彼の言う「アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術」の問題、つまり「アクチュアリティ」と「わたしたち」との相関が、ことによると事態をより不分明に、悪しき曖昧さに追いやっているということもあるのではないか。  「アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術」とは、「わたし」が「わたしたち」に変換される回路のことである。イェリネクの戯曲には「わたしたち」という主語が頻出する。それは『雲。家。』に最も顕著だが(この作品には「わたしたち」しか登場しない)、『光のない。』『エピローグ?』でも多くの言葉が「わたしたち」によって語られる。それはたとえば、こんな具合である。
 わたしたちはどうして沈黙するのか。わたしたちは正しくなかったのか。それはわたしたちの役に立ったのか。まったく、わたしたちは何も決められない、わたしたちは残らないから。別のなにかが残る。別のなにか! わたしたちが決めていたらわたしたちはわたしたちが今もつものをもたなかった。わたしたちはなにももたかなった、だがなにものでもないものをもつこともなかった。呼びかけに応えわたしたちはなにかを手に入れた。それがわたしたちみなを今ここから引き離す。どうすればわたしたちはわたしたちのあとに来る者たちのことを決められるだろう。だがもう誰も来ないのか。あれほど時間があったのに!  (「光のない。」、林立騎訳)
 『光のない。』には、ソポクレース「イクネウタイ」とルネ・ジラール「現実的なものの埋もれた声」からの引用がある。『エピローグ?』にも同じくソポクレースの「アンティゴネー」が参照されている。つまりイェリネクは彼女の他のテクストと同様、単一の「アクチュアリティ」へと還元され得るような「言葉」として二本の戯曲を書いているわけではない。それらは常に過剰なまでに多層である。従って、ここでの「わたしたち」もまた無数のレイヤーを成しているに違いないが、それでもやはり、これが他でもないわたしたちのことで(も)あると思わないわけにはいくまい。そして疑いなくイェリネクだって、そのつもりで書いているのである。とはいえ、ここにはおそらく或る種のギャップがある。それはイェリネク的な「わたしたち」とわたしたちの「わたしたち」の間に横たわる懸隔である。たとえば『雲。家。』であれば、そこでの「わたしたち」は第一義的には「ドイツ人」のことであると思われる。だが、それ自体が既に実は単数ではない。それは「ドイツ人」というカテゴリー以外の者を指していることもあるし、そもそも「わたしたちドイツ人」の内にレイヤーがあるのだ。つまり、さまざまな「ドイツ人」が居り、それらが入れ替わり立ち替わり「わたしたち」として語ってみせるのである。こうしてイェリネクの戯曲は、モノローグにしてポリローグという独特の様態を獲得することになる(それゆえ彼女の戯曲は「声」の数がキャストの数を規定しない)。『光のない。』『エピローグ?』でもそれは同じことで、たとえ「東日本大震災と福島の原発事故」がなければ書かれることはなかったのだとしても、二本はいずれもそのことだけに収斂/拘泥しているわけではない。そこで行なわれているのは、こう言ってよければ、もっと複雑且つ豊かな営みなのである。もちろん三浦基の言うように「この出来事に彼女が「わたしたち」の一員だと宣言したこと」は重要なことではある。けれども「わたしたち」を名乗ること、「わたしたち」の一員となるということは、常に「わたしたち」以外を措定すること、「わたしたち」ではない誰かを弾き出すことでもある。  たとえば私も批評文を書きながら、時として「私」を「私たち」「我々」などと書いてしまうことがある。これは私に限らず、フィクション以外の文章では散見される現象だろう。ここにはたぶん、素朴な心理学的考察が妥当する機制が働いているのだとも思われるが(独善的になることへの抵抗心と自信のなさ、その反転としての共感や同意の強要…)、それと共に無視することが出来ないのは、日本的と言ってよいかもしれぬ、同胞(無)意識というか、自ら進んで陥る同調圧力というか、複数形一人称で語ることに潜在する奇妙な安心感である。ここには明らかに「個を���ち早く捨てる術」の効用のようなものがある。しかし、こうして選ばれた主語としての「わたしたち」には、イェリネク的な多数性が欠けている。それは幾つもの「わたし」が代入し得る可能態としての「わたしたち」ではなく、いわばただひとりの特権的主体を志向する「わたしたち」なのである。ここには罠がある。もちろん三浦基も高山明も、その演出において「わたしたち」をポリローグへと開くことを果敢に実践しているし、それは高いレヴェルで成功してもいる。だが「わたしたち」が「アクチュアリティ」という語のもとに彼らの試みを語ろうとする際、知らず知らずの内に、いつのまにか「罠」に嵌まってしまっていることがあるのではないだろうか? 三浦基が書いていたのは、このことだと思われる。  只の「わたし」が「わたしたち」を標榜することによって、或いは「わたしたち」から承認されることによって、やっとのことで獲得されるような「アクチュアリティ」とは、今ここにある「問題」から目を背けない覚悟や認識や勇気から、甘えた協調の構造や危険な他者排除へとたやすく転じかねないものである。「わたしたち」という呪文が「アクチュアリティ」というマジック・ワードを呼び寄せるだけだとしたら、誰にでも出来る簡単な魔法を使って、もうひとつの魔法を可能にしているだけのことではないのか。このような「わたしたち」は別の言葉にも言い換えられる。それは「当事者」という言葉である。
25。いわゆる「当事者性」について
 「フェスティバル/トーキョー」の関連企画として行なわれた「F/Tシンポジウム」のパネルの第一部は「演劇における「当事者の時代」 」と題されていた。登壇者は高山明、村川拓也、『アンティゴネーの旅の記録とその上演』で参加したマレビトの会の松田正隆、写真家の畠山直哉、司会はパフォーミングアーツ・ジャーナリストの岩城京子だった。二時間のあいだにさまざまな話題が出たが、私を含む聴衆の多くがもっとも感銘を受けたのは、ゲスト・スピーカーとして招かれた畠山直哉の発言だったのではないかと思う。  畠山氏は、岩手県陸前高田市気仙町の生まれである。二〇一一年三月十一日のあの時、彼は東京のスタジオに居た。その数日後、氏はオートバイを駆って郷里への旅を敢行する。実家に程近い気仙川周辺を長年にわたり撮影していた未発表の写真と、震災後の写真、「気仙川へ」と題された旅の道程を綴った文章を一冊に収めた『気仙川』は、個人的な感慨を極力排した無機質で形式的な写真作品によって国際的な評価を受けてきた畠山直哉の従来のイメージを大きく塗り替える、きわめて「私写真」的な作品集である。  「気仙川へ」は、このように書き出される。
 何かが起こっている。いまここではない遠いところ、ほら懐かしいあの場所で、何かとてつもないことが起こっている。その様子がいま僕のいるところからでは、よく見えない。誰かが教えてくれるかもしれないと思って、少し期待して待っていたが、誰も何もしてくれなさそうだ。だから僕は自分で、それが見えるところまで動いて行くしかない。でも動きとは時間だ。あの場所にたどり着くまでには時間がかかる。おそらく数日。でも数日後、僕は見ているだろう。そしてすべてを理解しているだろう。僕の町が、家が、家族がどうなったのかを、僕は残らず理解しているだろう。だがそこへたどり着くまでの数日間、僕には何も見えないままだ。僕は何も知らないまま、進まなければならない。
 道中、姉からの電話によって、行方の知れなかった母親が津波によって命を落としていたことを知らされた畠山氏は、二〇一一年三月十九日、亡き母と対面することになる。だが「気仙川へ」という文章は、その前日、彼がほんとうの意味で故郷へと辿り着く直前で終わっている。『気仙川』に刻まれた悲嘆は、アーティスト畠山直哉が長い年月をかけて培ってきた美学と倫理によって抑制されながらも、むしろそのことによってこそ、透明な痛ましさを放っている。  「F/Tシンポ」の「演劇における「当事者の時代」 」に畠山直哉が招かれた理由は、あまりにも明らかだろう。パネルの冒頭で、登壇者はそれぞれに「当事者(性)」にかんする立場表明をしたのだが、畠山氏は「この中では自分がいちばん「当事者」に近い存在ということになるのだろう」と語った。関西で生まれ育ち、自分の映画と演劇の取材で被災地を幾度か訪ねただけの村川拓也、同じく被災地出身でも在住でもない高山明、松田正隆と、当然ながら彼の意識/認識は根本的に異なっている。そしてこの座談会は終始、この差異に引き裂かれたままであったように私には思われた。  誤解なきように言い添えておくが、もちろん畠山氏自身は彼の「当事者性」に対して、ほぼ一貫して客観的足ろうと努めているように見えた。彼はけっして個人的な体験のみを軸に語ろうとはせず、著書『話す写真』で詳しく述べられている原理的な「写真」論に依って立ちつつ、率直な物言いで他の登壇者や「演劇」へのコメントを行なっていた。  問題は、にもかかわらず、つまり畠山直哉自身の意志と或る意味では無関係に、その発言の数々が、そこでの最も「当事者」と言える者によるものであることを、私たちの方が勝手に強調的に受け取ってしまうということである。たとえば畠山氏は「フェスティバル/トーキョー」のここ数年の傾向にも明確に現れている「ポストドラマ演劇」「ドキュメンタリー演劇」について、何故それほどまでにイリュージョンやスペクタクルを拒否しようとするのか、自分にはよくわからないと疑問を呈した。それは拒否というより断念ではないのか。旧来の良く出来た「劇」をこしらえられない才能や努力に乏しい者たちが、これ幸いと取りすがった方便ではないのか。どうしてよりによってわざわざ「震災」や「原発」を主題にして、フィクションとも呼べないような奇妙な「演劇」を作ろうとするのか。この指摘は非常に鋭い。実際、会場は一瞬、いっそう静まった気さえしたものである。畠山氏は疑いなく、アクチュアルな演劇に対するこのような批判意識を以前から抱いていたのだと思う。つまり彼が表明した疑念は「震災」とも「原発」とも関係はない。だがしかし、それでも彼の問いかけは、その場で「当事者」の濃度が一番高い者による言葉として響いてしまう。いうなれば「アクチュアリティ」による審判の声として聞かれてしまうのだ。繰り返すが、これは畠山氏の意志とはまったく別個の問題である。だが、ここには「当事者性」をめぐる厄介なパラドックスが露わになっていると私は思う。  「当事者」というマジック・ワードの困った所は、同じひとつのイシューについてでさえ、その線引きがまるっきり一様ではない、ということにある。「F/Tシンポ」の第二部は「演劇の言葉はどこにあるのか?」と題して、三浦基、三輪眞弘、林立騎、大澤真幸の四名を登壇者に迎え、私の司会で行なったが、その中でも「当事者性」は暫し話題となった。そこで大澤氏が「究極の当事者とは死者を置いて他には居ない」という意味の発言をしていた。その通りだと私も思う。しかし、だからこそ問題は「究極の当事者」である「死者たち」を除いた「当事者性」のグラデーションになってしまうのではないか。つまり、わたしとあなたの、彼と彼女の、どちらが、より「当事者」と呼べるのか、という問題である。『311』の森達也は、こう書いていた。
 被災したわけではないし家族が津波で流されたわけではない。食べるものに困っているわけでもないし、寒さに凍える夜を過ごしているわけでもない。  つまり僕は非当事者なのだ。  ところが気分的には当事者になりかけている。最も悪いパターンだ。ならば現地に行くべきだと考えた。もちろん現地に行ったとしても、当事者になれるはずはない。でも非当事者には非当事者の役割がある。
 冨永昌敬は「仙台短篇映画祭が中止になってしまっていたら、自分たちも被災することになってしまう」と語っていた。『フタバから遠く離れて』の舩橋淳は「いま僕たちの当事者意識が問われている」と書きつけた。園子温は「目の前に広がるあまりにも悲惨な情景に、現実的な既視感が生まれ始めた今となっては、それを自分と無関係な場所として見ることはできない」と書いていた。それぞれの、さまざまな、幾つもの「当事者性」が、ある。「わたし」は「当事者」なのか「非当事者」なのか? どの程度まで「当事者」であり、どのくらいそうではないのか?   おそらくこんなことが言える。「わたしは当事者である」と述べても「わたしは当事者ではない」と述べても、やがて必ず「わたし」には違和感や不足感、そして森達也の言っていた、あの「後ろめたさ」が生じる。「当事者性」の相対比較に晒されるか、それとも他人事を決め込んだ謗りを受けるか。「わたしは当事者である(のではない)」と「わたしは当事者ではない(のではない)」。このまるで正反対のカッコ付きの否定辞が、語るや否や、必ずやってくる。それは具体的な何者かによって齎されるとは限らない。そうであることもあるが、たとえ誰からも何も言われなかったとしても、他なら��「わたし」自身が、すぐさま自問を開始し、否定辞を付け加え始めるのだ。  それは避けられない。避けようがない。「究極の当事者」が「死者」であるとしたら、もう一方で、この出来事とは完全に無関係な他人、すなわち「究極の非当事者」もまた、この世界にはひとりも存在していない。エルフリーデ・イェリネクに筆を執らせたのは、そんな遠く離れた、だがヒリヒリと肌を刺すような「当事者意識」であった筈だ。我々は皆、程度は違えど幾らかは「当事者」であり、と同時に、常に中途半端な「当事者」でしかあり得ない。要するに、これが真実である。だがそれでも、私たちはどうしても「当事者性」を問うことを止められない。誠実である者ほど、そうあろうとする者ほど、そうなってしまうのだ。そして自ら問うておきながら、そこに宿る「後ろめたさ」や疾しさ、やるせなさに堪え切れなくなり、「わたし」を「わたしたち」へと昇格させ、あの魔法、あの「個をいち早く捨てる術」によって、「アクチュアリティ」を獲得したと思い込もうとするのではあるまいか。  だが、私が「わたしは当事者なのか?」と問うた時、この問いを自らに向けて発してしまった時、ほんの僅かでもいい、踏み止まって考えてみなくてはならない。この問いは、本当はいったい誰が口にしているのか、と。それは確かに「わたし」であるには違いない。だが、では「わたし」の中の何者がそれを問うているのか。「究極の当事者」である「死者」か、延々と続くグラデーションのどこかに位置する相対的な「当事者」たちか、それとも「社会」とか「世間」などと呼ばれている何かか。それとも「あなた」、つまり自分自身なのか?  畠山直哉は、『気仙川』の「あとがきにかえて」の終わり近くに、こんなことを書いている。
 今でも心ある人たちが発している「忘れるな」という呼びかけは、「震災という出来事を忘れるな」「被災者のことを忘れるな」「死者のことを忘れるな」という意味だけで発せられているのではない。あの時僕らの多くは、真剣におののいたり悩んだり反省したり、義憤に駆られたり他人を気遣ったりしたではないか。「忘れるな」とは、あの時の自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを「忘れるな」ということなのだ。
 素朴な意見と断じる人もいるかもしれない。しかし私は、このくだりに二度出て来る「自分」という二文字こそが、何よりも大切なものであると、あらためて思う。それは「忘れるな」よりも、或る意味では重要だ。だがそれは「わたしたち」を拒絶して、単なる「わたし」に留まれ、などというエゴイズムの奨励では無論ない。私が「わたし」であることに堪えられないがゆえに「わたしたち」を目指したとしても、そこに待ち構えているのは「わたしたち」という名の単数でしかない。エルフリーデ・イェリネクのように、真の複数形で「わたしたち」と語り出すか、さもなくば「わたし」へと、ありうる限りの勇気を奮って、ふたたび立ち戻ること。「わたし」が「当事者」であり得るのは、究極的には「わたしであること」の他にはないのだから。これは詭弁ではない。私たちは、自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを、自分が自分であり自分でしかないという明白にして厳然たる事実を、もう一度、何度でも、思い出してみなくてはならない。
26。「わからなさ」を撮るということ
 ひと月ほど間が開いてしまったが、年の初めに仙台に行ってきた。せんだいメディアテークで一月半ばまで催されていた志賀理江子の個展『螺旋海岸』を観るために、約四ヶ月ぶりに東北新幹線に乗った。昨年九月に「仙台短篇映画祭」に呼んでいただいた時、まだ開催前だったが既にチラシが置いてあり、そこにあしらわれた漆黒の中に浮かび上がる艶やかで謎めいたイメージに、強い興味をそそられた。これは時間をやりくりしてでも絶対に来ようと思った。そして予感した通り、展示はおそ���べきものだった。  私は志賀理江子という写真家のことをほとんど知らなかった。まとまった数の作品を見たのはこれが初めてである。だからこそ、出会い頭の衝撃は過激なものだった。せんだいメディアテークの六階にある「ギャラリー4200」には、宮城県名取市北釜在住の志賀が、同地でこれまでに制作した243点もの写真が展示されていた。それほど広い空間ではないのだが、エレベーターを降りてまず驚いたのは、ディスプレイのされ方である。スペース中央の柱を軸に、文字通り螺旋状に膨大な写真が配されているのだが、それらは大半が大きく引き延ばされており、通常の写真展のようにシールドされてもおらず、まるで立て看板のように鬱蒼と切り立っている。キャプションは全く無い。確かに一番から九番まで、一応のゾーニングはされてあり、受付で写真家自身による説明文が附された場内配置図のような紙片を渡されるのだが、それ自体があまりにも謎めいていて、マップに振られた番号もあちこちに散らばっているので、順番通りに見て廻ることは難しく、またそれが真に望まれているのかどうかもわからない。いきなり気圧された私は結局、何度も場内をぐるぐると経巡りながら、見落としている作品がまだ何処かに隠れているのではないかという奇妙な不安と緊張に絶えず支配されながら、小一時間ほどを掛けて、とりあえず(おそらくは)全ての写真を見終えたのだった。  志賀理江子は東北の出身ではない。彼女は一九八〇年に愛知県岡崎市で生まれた。ロンドン大学チェルシーカレッジ・オブ・アート卒業後、写真家として活動を始め、最初の作品集『Lilly』で第三三回木村伊兵衛写真賞を受賞した。以来、国内外を頻繁に移動しながら作品を創ってきた。彼女が北釜に居を構えたのは二〇〇八年のことである。その経緯については後で触れるが、まず端的に事実を記せば、彼女は二〇一一年三月十一日の地震と津波を北釜の地で体験した。津波によって、それまでに撮った写真の大半は失われてしまった。このことについても後述する。従って『螺旋海岸』の写真群は、実際には志賀理江子が「震災以後」に北釜で撮り上げた作品から成っている。しかしかといって、直截的にあの出来事が描かれてはいるわけではない。そこに写っているのは、『Lilly』や、その後に発表された写真集『CANARY』と共通する、志賀理江子独特の、徹底的に作り込まれた、こう言ってよければ、きわめてシアトリカルな写真である。たとえば、そこにあるのは、幾つもの正体不明の手が中空に横たわる子供を持ち上げて運びつつある様子であり、夜に映える草木とともに正装をしてこちらを見据える男性の姿であり、地面に横たわる銀色の宇宙服に包まれた何者かであり、砂浜に巨大な渦巻きが幾つも描かれている無人の光景であり、仲睦まじく腕を絡めて闇に立つ老夫婦の、男性の胸を切り株が貫いてるとしか見えない映像である。それらはいずれも奇異と呼んでいい幻想的なイメージであり、少なくとも日常的/現実的なものではまったくない。一言でいうなら『螺旋海岸』の写真群は、いわゆるドキュメント的な作品ではない。  写真家は、先のマップに附されたテキストに、次のように書いている。
 写真のなかにいる人々はカメラを意識し、なにかを演じ続けています。  演じることは枠のなかからまったく違うところへ飛躍する行為です。  その姿は、日々の生活の様子を切り取ったものではなく、北釜の土地と一体化し、あらゆる物語を表象します。  つまり、写真のなかの身体には「土地」と「物語」が混在しており、後にこれらの写真を見た人に無意識に読み解かれていきます。
 この文章には志賀理江子独自の写真観が凝縮されている。個展に合わせて出版された、彼女がせんだいメディアテークの(私も別の企画に参加した)「考えるテーブル」の一環として、個展の準備期間中に七回に分けて行なわれた連続レクチャーの採録を元にした『螺旋海岸|notebook』と、その他幾つかの資料やインタビュー記事などによれば、志賀は写真家としての出発点から、ドキュメント的要素にはほぼ関心がなかったようである。いや、精確に言うと、通常思われているようなスナップショット的アプローチや、場所や出来事を客観的/主観的な視座から「記録」するといったやり方では、「現実」や「世界」に対峙したことにはならない、と彼女は最初からわかっていた。『螺旋海岸/notebook』を繙くと、たぶんに身体的・生理的な感覚から生じたものであったろう違和感や確信を、彼女が多くの経験と学習によって深く煮詰めてきたことがわかる。私の考えでは、ここにはフィクションとドキュメンタリーの二項対立、或いは相互浸透という従来的な思考法を乗り越えるポテンシャルが隠されている。だが今は北釜のことに戻ろう。  志賀は二〇〇五年から機会を得て、仙台、オーストラリア、シンガポールの三箇所でアーティスト・イン・レジデンスとして制作を行ない、その成果を『CANARY』として刊行した。だが彼女自身、「一つひとつの写真を見ても、そこでなにが起こっているのかまったくわからなかった」。その「わからなさ」とは、彼女が十代を捧げたバレエを諦めてカメラを手にした瞬間から始まった「自分(私)」と「イメージ」との間に穿たれる「わからなさ」である。志賀はこの「わからなさ」ゆえに写真を撮るのだと言ってもいいのだが、だからといって彼女は、それをそのままにしておくことは出来ない。彼女は「イメージ」が抱える「わからなさ」と格闘し、それを咀嚼し、我有化しようとして、さまざまな試行錯誤をする過程で、すこぶる興味深いことだが、「言葉」を発見する。そこで彼女は『CANARY』の写真群を自ら見直し、問い直し、それらに「言葉」を付与した一種の姉妹篇『カナリア門』を発表する。それから志賀は、もう一度、東北に、宮城に赴き、そこに長く住んで、作品を制作しようと決意する。だが、なかなか適切な場所が見つからなかった。そこでふと、以前の滞在制作ではあまり立ち寄らなかった海岸の方に行ってみた。そして彼女は、北釜と呼ばれる土地に辿り着いた。
 本当になんとなくという感じで、三陸のリアス式海岸、松島や塩龜、七ヶ浜、そして仙台港を抜けて、ひたすらに長い海岸に着いた。誰もいないんです。海と並行するように松林がだーっと広がり「ああ、いい場所だなぁ」って最初はぼんやり思った。そしてどんどん南に行くうちに、いままで訪れたことがない土地(「いままで訪れたことがない土地」に強調濁点)に私は来ているという確信めいた、胸が高鳴るような気持ちになったんです。探検するように周囲を歩き回っていたら、松林は夕日に照らされてむちゃくちゃ幻想的になっていった。とにかくこの場所にずっといたくなるような、やっとここに来られたような、私はここを探していたような……
 北釜の海岸の松林に魅せられた志賀は、その足で突撃的に同地のひとびとに当たっていき、さまざまなハードルと手続きを経て、この場所に住まいとアトリエを構えることとなった。どうせ住むなら土地の行事や祭りを公式に撮影する「専属カメラマン」にならないかと言われ、よろこんで引き受けた。こうして彼女は北釜の人間となった。あらためて記すと、それは二〇〇八年の冬のことである。それから彼女は北釜のひとびとと触れ合いながら、少しずつ新たな創造へと歩み始める。だが、一足飛びに記せば、それから二年としばらくして、彼女は同地で地震に遭遇した。やってきた津波は、たくさんの物と人を押し流していった。『notebook』には、震災後まもなくして彼女が知人友人たちに送ったメールの文面が掲載されている。「四月五日 心配してくださったみなさまへ」と表題のついた文章の、前半部分を引用する。
 私の住む集落(約三七〇名)では五三名が亡くなりました、現段階で七名はまだ見つかっていません。津波は自然のありのままの姿だったと思います。恐怖の限界を遥かに超えていました。だからあの恐怖の絶頂で息絶えて流されたたくさんの人のことを思うとなにも考えられなくなる。どんな苦しい思いで水にのまれて意識を失っていったのか、一人ひとりのことをどれだけ想っても届くことがないです。              *  ただあの日一瞬だけ、時間、生、死、感情、物の価値などが崩壊して、そこにあったすべてが見渡す限り真っ平らになった。そして大雪が降って真っ暗な夜になりました。ラジオで沿岸部では数百人の遺体が見つかったと知り、ここから約八〇キロしか離れていない福島第一原発の事故の状況が繰り返し流れるなか、揺れつづける地面の上でいろいろなことを覚悟した。私は体がはち切れたようで、あらゆることに違和感を感じなかった。けっこうどうでもいいことが次々頭に浮かんできて、体とはこういうものかと思った。              *  そしていま、あの均一な暗い夜を取り戻すことばかり考えて、二度と絶対に嫌だけど、でも同時にあの時間が体から消えてしまうのが怖いのです。
 志賀は自宅とアトリエにあったハードディスクを津波に持ち去られてしまったが、北釜の集会場に行事を撮った二冊のアルバムが保管されていたことを思い出し、瓦礫の山となった集会場に赴き、それらを必死で探した。運良くアルバムは、「一冊は集会場付近から見つかり、後に北釜の人が見当もつかなかった場所からもう一冊を見つけてくれ」た。それから、瓦礫が撤去された集会場には、志賀の撮ったものだけではない、誰のものとも知れない、拾われた写真が、膨大に集められてくるようになった。「瓦礫に混じって落ちている写真に、なにか無視できない、拾わせてしまう力があるんだなと思いました。そう思わせるぐらい写真というのは風景のなかで目立つのです。いろいろなものが刷り込まれたあの小さな紙というのはぐーっと現実世界に異様に抗っている」。彼女のものらしい大きな写真があったよと言われて行ってみたら、展示で使ったプリントの塩水や泥と写真の薬剤が溶けて混じり、異様な臭いを発していたこともあった。やがて彼女は、写真の洗浄を始める。「おおよそ三万枚強の写真が集会場には集められていました。北釜は一〇七世帯で、一軒に約一〇〇〇枚ほどの写真があったと仮定したら、その約三割が発見され集会場に集められたと認識しています」。『notebook』には集会場を撮った写真も載っている。それはまるで部屋全体が祭壇のように見える。
 津波で娘さんを亡くされたあるお母さんは、娘さんの写真を毎日集会場に探しに来ていました。家も流されてしまったから写真が一枚もない。私はその方と肩を並べて写真を探すうちに「彼女が探しているのは写真ではない、娘さんそのものなんだ」と猛烈に身に沁みた。彼女のなかで「娘の写真」が「写真」ではない次元にまで振り切れていたんです。写真はそこになにが写っていようがいまいが、写真であるだけで拾われましたが、その価値は「ただの紙切れ」から「自分の娘そのもの」にまで激しく変化する。その。触れ幅によって写真の価値のあり方を身をもって知らされた気がしました。
 こうした体験は、志賀の写真観、彼女の「イメージ」論に、当然のことながら甚大な影響を与えた。それ以前から彼女は、北釜の老女から「遺影」を撮影してくれと請われ、躊躇いながらも初めてそれを行なった経験から、新たに「作品」を撮り始めるための手がかりを得ていた。そして今や、亡くなった「娘の写真」を「娘そのもの」と考えるひとがいる。彼女はかねてより自分の中にあった「無鉄砲な仮定」に或る確信を得る。すなわち写真の撮影は「過去現在未来の時間から解き放たれる空間のための儀式」なのだと。そして彼女は、のちに『螺旋海岸』と題されることになる個展のため、ふたたび撮影を始めた。写っているのは北釜の海岸、砂浜、松林。被写体となっているのは北釜の土地のひとびとである。だが、既に述べておいたように、それらはいずれも著しく非日常的、非現実的な風景となっている。志賀は北釜のひとびとにさまざまな、しばしばかなり奇妙と言ってよい依頼を行ない、ひとびとはよくはわからないまま、だがけっして不審がることはなく、それに快く応じていった。たとえば先に触れた「切り株」の作品の志賀による説明は、次のようなものである。
 最近まで松くい虫の害に遭った松は被害の拡散を防ぐために切られていたので、松林には切り株がたくさんあるんです。土地の持ち主の方に「切り株を掘り起こしてみてもいいですか?」と聞いたら承諾してくれたので掘ってみた。砂地だから想像していたよりも簡単に掘れたのだけども、小さめの切り株だと思っていたら根がびっしり生えていた。まだ水分が含まれていたし、ひたすら長くいろいろなところにつながっていて、私にはその木の根が古い写真の中のお父さんのように思えた。それで「掘ってみたんですが、私、お父さんに会ったような気がしました。この松の根と一緒に写真を撮らせてもらえませんか?」と伝えたんです。  木の根が血管にも思えて、おじいさんの体とつながっているようにしたかった。そこで半分に切って身体の前後で挟み込むよ���にして。大きな根の塊はおじいさんのお孫さんがクレーン車で引き上げてくれて、おじいさんはもう片方の根の断面で体を支えていたから「楽に立ててるよ」と言った。この方の奥さんはこの根を見上げながら「旅行に来たみたいだね」と、おじいさんの隣にそっと寄り添って背中をぎゅっとつかんで背筋を伸ばして立っていてくれた。 (竹内万里子との対話より抜粋)
 これに限らず志賀の写真は、いずれも一種のシアトリカルな、フィクショナルな体裁を持っている。しかしそれはよくあるような、芸術家が自分の内なるイマジネーションやヴィジョンに耽溺し、他者や外界を覆い尽くそうとする独善とはやはり違っている。「まずは写真のなかのわからないものをわからないままにしておきたいのです。発酵させるように寝かせておきたいんです」と彼女は言う。「わからなさ」との格闘は続いている。それは志賀理江子という個体と身体の内側にも外側にも、内外をめぐる回路にもある。二〇一一年三月十一日の出来事は、そんな「わからなさ」を丸ごとキャンセルするようなものであったとも言えるし、或いは「わからなさ」の極点だったと言うことも出来る。志賀は「あの日」以後、決定的に変わったとも言えるし、何も変わっていないとも言える。そうした解釈や分析が、いずれも届かないところに(それゆえに、それらの全てが可能になってしまうだろうところに)彼女が相手取る「わからなさ」はある。ただひとつ確かなことは、彼女は撮ることを辞めるつもりはない、ということである。「写真のなかにいる人々はカメラを意識し、なにかを演じ続けて」おり、そして「演じること」とは「枠のなかからまったく違うところへ飛躍する行為」である。ここでいう意識や演技とは、カメラを向けられた者から決して消えることのないものだ。志賀はそれらを無視したり隠蔽したりする欺瞞を拒絶し、むしろそれらを増幅し、変調しようとする。そうして、撮る者と撮られる者、見る者と見られる者が一緒になって「まったく違うところ」へとワープすることを希う。  ���真に定着された「イメージ」とは、いわば「現実」に織り重なった「虚構」である。それは「虚構」に織り重ねられた「現実」と言っても同じことだ。『螺旋海岸』には、ストレートに震災と関連付けられるような写真は一枚もない(先の集会場の写真も展示はされていない)。にもかかわらず、それは凡百の「震災写真」を凌駕する力を備えている。それは「出来事」の強度に立ち向かおうとする「虚構」としての自覚と信念に依っている。志賀の言う「土地」と「物語」が混じり合うさまとは、正しくこのことである。そして無論のことだが、それは彼女が「現実」を生きていない、という意味ではない。
 このあいだ久しぶりに、北釜でお世話になったあるおばあさんと話す機会がありました。彼女は、「わたしね、ここが好きだから、またね、石を拾って、それを積むことから始めたいの、だからそれができるようにいまは草取りしてる」と言って更地になった家の周りの草取りに通っていました。彼女はあらゆる復興計画から自立して自分がどうしたいか自分の頭で考え、それを軸にしてその手で石を拾い、草をむしって、野菜を植えている。もうここには住めないことを十分理解したうえで本気でやっている。社会と欲望の矛先ばかりを考えてしまって、そのことにがんじがらめになってしまった私にとって、社会の一部でどう生かされるかを考える前に、生きることの根底にある生活の小さなことを淡々と実行する彼女に目を覚まされるような気持ちになって、私も彼女のようになりたいと思った。そういう長い時間を生きてきた人、自然に寄り添った人が目の前にたくさんいることはすばらしいことで、教わることが日々あるんです。食べものがないときは芋の蔓を食べたこと、堆肥をつくり背負って売りにいったこと、暗くなったら寝て日が射したら起きること、道ばたに花が咲いているのを見るとうれしくて疲れが吹き飛ぶこと……。彼女が昔のことを話してくれたことを必死に思い出すんです。
 「おばあさん」が積もうとしている石は、「仙台短篇映画祭」の映画『明日』のパンフレットに冨永昌敬が書きつけていた「うずたかく積まれた小さな固い石の集まり」と、確かに響き合っているように、私には思える。もちろん疑いなく志賀理江子は、たとえ北釜に住まなかったとしても、震災を自ら体験しなかったとしても、非凡な作品を作り続けていただろう。彼女が北釜に住むことになったのは、いわば偶然と成り行きの産物である。けれども、それを運命と呼ぶのだ。彼女は、彼女にしか可能でないやり方で「あの日以後」を生きている。それはとても複雑な内実を持った行為、営みである。だが同時に、それはとても素朴で単純なことでもある。
 北釜の人が遠くから私を見つけては手を振ってくれて話しかけてくれること。「なにやってんの〜。今度なにつくるの〜」って目を見つめてにっこり笑ってくれること。なによりもまずここにいさせていくれること。失敗しても許してくれること。その途方もない優しさみたいなものを彼らから受けるたびに、そのことがあまりにも尊すぎて体が破裂しそうになります。いろいろなところからたくさんの救いの手が私たちの生活に差し伸べられたことによって、この世にはその手が差し伸べられない領域がたくさんあることを実感します。どこかの国で助けられもせず死ぬ人がたくさんいるということ。そしてそれはどうしようもなくそういうこととしてあること。生きていることはあまりに強い。
 こう述べてから彼女は、まるで今ふと思ったことのように、次の言葉を言い添える。「だから、これらのことがどのように「芸術」とつながりをもつかなどは全然わかりません」。
27。「0円ハウス」から遠く離れて
 『ZERO COST HOUSE』は、岡田利規がアメリカのPIG IRON THEATRE COMPANYに書き下ろした戯曲である。オガワアヤによる英訳台本を用いて、岡田の立ち会いの下、リハーサルが重ねられ、二〇一二年の九月に同劇団が拠点とするフィラデルフィアで初演された。戯曲の日本語オリジナルは「群像」の二月号に掲載されている。そこに添えられた覚書によると、岡田は「この日本語テキストを用いた上演を、私は想定していませんし、望んでもおりません」とのこと。日本公演は二〇一三年二月、神奈川芸術劇場(KAAT)で、PIG IRONによって行なわれた。この作品は多くの点で、同じくKAATで上演された(本連載でも以前取り上げた)岡田率いるチェルフィッチュの現時点での最新作『現在地』の続編もしくは姉妹篇と看做しうるものとなっている。  事前に戯曲を読んでいたものの、あくまでもアメリカ人の俳優によって英語で演じられることを前提に書かれたこの作品は、実際に舞台で観てみると、日本語で読んだ際には感じなかった、じつに複雑きわまりないニュアンスが込められていることがわかる。まず、この作品には原作が二つある。ひとつ目は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン(森の生活)』。そしてもうひとつはタイトルからも明らかなように、坂口恭平の一連の著作(言動)である。そしてこの舞台には、「ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」と「坂口恭平」、そして「岡田利規」と「過去の岡田」と呼ばれる人物が登場する。  全三部から成る『ZERO COST HOUSE』は、要約することがなかなか難しい作品である。いや、それはもちろん可能だが、そうすると重要なニュアンスが失われてしまうおそれがある。しかし無理を承知でかいつまんで内容を記すと、第一部「二〇一〇年」の冒頭では、「岡田利規」が『ウォールデン』を読みふける「過去の岡田」を眺めつつ、自らの過去に思いを馳せる。いわく自分は劇作家であり、現在は「気鋭の」とか「十年に一度の逸材」などと呼ばれるような評価を得ている。だが今から十五年前、まだ大学を出たばかりだった頃は、既に芝居はやっていたものの、単純なデータ入力のパートタイムをしていて、そのことに不満は持ってもいなかった。むしろ下手にやりがいのある仕事に就くよりも、余った時間を好きに使えるだけましだと思っていた。そんな「過去の岡田」は、ソローの『ウォールデン』を愛読していて、そこに書かれたライフスタイル、人生哲学に私淑していた。「現在の岡田」は、アメリカの劇団からコラボレーションを依頼されて(それがこの作品なのだが)彼自身の「自伝」を作品化しようと思い立ち、それには『ウォールデン』が不可欠だと考えた。と、そこに突然、見知らぬ男が現れて「ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」と名乗る。「現在の岡田」と「ソロー」は会話をかわす。いちおう「現在の岡田」は感激してみせるのだが、どこかいまいちノリが悪い。「ソロー」と別れてから、どうせなら十五年前の「過去の岡田」に会わせたかった、正直今は『ウォールデン』を読んでも昔ほど(というか実はちっとも)感動しないのだ、という自分の気持ちを彼の「マネージャー」に述べる。そこに更に男が登場する。名乗るのは第三部になってからだが、男は「坂口恭平」である。「坂口」は「過去の岡田」と対話し、『ウォールデン』は理想主義的な本じゃなく「マジで現実的な本」だと言い放つ。ここまでが第一部。第二部「「ベイカー農場」より」では、「ソロー」が、『ウォールデン』の重要な章である「ベイカー農場」を書いているところに「現在の岡田」がやってくる。ところで第一部から、舞台上には、ここまで述べていない登場人物が何度か出て来ている。それは「ウサギ」の「夫妻」で、どうやら「過去の岡田」「現在の岡田」そして「ソロー」が書いている人物であるらしい。「ウサギ夫」と「ウサギ妻」が「ヘンリー」(「ソロー」が書いている「ベイカー農場」に出て来るソローのこと)とのやりとりを語ると「現在の岡田」は違和感を表明する。それはarrogant(傲慢)という言葉で表現される。『ウォールデン』で示される哲学は、やはり一種の傲慢ではないのか。だが、ここで「過去の岡田」が、しかし「現在の岡田」にとっても、『ウォールデン』はふたたび大事なものになりかけている、と言う。ここで第二部は終わり、第三部「二〇一一年」が始まる。「坂口恭平」が現われて、延々と「岡田利規」との馴れ初めを語る。最初は二〇〇六年、東京で彼の芝居を観たのがきっかけだった。その時からずっと機を伺っていた。「彼と俺が知り合いになるべきときかいつか?」と。それは二〇一〇年にやってきた。やはり「岡田」の芝居を観た後、「坂口」はロビーで「岡田」に握手を求め、「岡田さんの作る芝居くらいヤバい本です」と言って、自著を手渡した。それは「都市の中でゼロ円で家を作って、ゼロ円で暮らしていくための本」、抽象的に言うと「この世界に存在する別のレイヤーをとらえることを読む人にそそのかす本」である。その時の「岡田」の態度は当然ながら微妙だったが、そういう反応には慣れているので大丈夫。そこで「マネージャー」が話し出す。「二〇一一年三月十一日」の「午後二時四十六分」に地震があって、そのとき自分は「岡田」とたまたま山口に居たのだが、それから二週間後、とつぜん「岡田」が九州に引っ越すと言い出したのだ。もちろん「放射能の影響」が心配だから、である。というか「岡田」は実際に転居し、かつては真っ向からは語らなかったような社会的な発言をするようになる。「マネージャー」は、それはちょっと危険なことではないかと意見を述べるが、「岡田」は「自分がarrogantになってるかもしれないってことを恐れちゃだめだよね」と妙に毅然とした様子である。この「変化」に合わせて、「岡田」が書いているらしき「ウサギ夫妻」も「震災以後」に生活していることにされる。そこでは放射能汚染への恐怖が非常に直截に語られる(ここでの「ウサギ夫婦」のやりとりは、園子温監督の『希望の国』の息子夫婦を思い出させる)。そこで「坂口」がふたたび登場し、彼自身の「自伝」を語りながら、このような「岡田」の「変化」を促したのは、他ならぬ自分なのだと述べる。地震の五日後、福島第一原発事故の推移を見守ってきた「坂口」は、事の深刻さに気づいて家族を伴い東京から避難し、三月中には出身地である熊本に戻って、ツイッターで放射能の危険性をエネルギッシュに訴え続けるとともに、西への避難を呼びかけた。それに応じて妻子を連れて熊本に移住したのが「岡田」だったというわけである。「坂口」は『ウォールデン』を題材に、「思考の解像度」を高めることで世界の「別のレイヤー」を見出す意義を語り、そうして見出された「ゼロ円ハウス」「ゼロ円生活」の可能性を、そしてそのような考え方が「震災以後」に明らかに重要度を増すことになった事実を語り、自分は「新しい政府」を樹立し、自ら「初代内閣総理大臣」に就任することにした、と宣言する。「マネージャー」は、「坂口」のカリスマティックな行動と理念にも、それに過敏に反応した「岡田」にも百パーセント同意することは出来ない。だがどうも「岡田」は本気で「坂口」に共感しているらしい。なにしろ「岡田」は「坂口総理大臣」のスピーチライターまで買って出たのだから。この舞台は「ウサ��夫妻」が「新政府首相」の「坂口恭平」のもとにやってきて「亡命申請」をする場面で終わる。  いちおう付言しておけば、劇中で語られる「坂口恭平」の哲学は、坂口恭平の一連の著作、とりわけ『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』『独立国家のつくりかた』に書かれているものと同じであり、現実の「震災後」の坂口恭平と岡田利規の行動も、ほぼ同じである。チェルフィッチュの『現在地』との連続性は明白だろう。ここではまたもや、あの作品で問われていた「村を出ていくべきか否か」というアンヴイヴァレンスが、重要な主題のひとつとして掲げられている。だがSF的と言ってもよい抽象的な物語だった『現在地』に対して、『ZERO COST HOUSE』は「岡田利規」の「自伝」だとされ、いわばセミ・ドキュメンタリー的な作品として、あからさまに現実との共通項をもって描かれている。けれども、もちろん事はそれほど単純ではない。劇のほんとうのラストは、「マネージャー」の次の台詞で締めくくられる。
マネージャー みなさん、これで岡田利規の自伝的内容の、このお芝居は終わりです。でもみなさん、ここでお話ししたことの全部が実際に起こったことではなくてですね、たとえば実際の岡田さんは坂口さんのスピーチライターなんてやってないですから。岡田さんは劇作家です。
 この作品でもっとも重要なのは、この「岡田さんは劇作家です」という、言わずもがなの断言である。この一言によって、この芝居の中で語られたあらゆる事どもが、一挙に虚構化されて、宙吊りにされてしまうのだ。もちろん、繰り返すが劇中で語られる多くの事がらは、現実にほぼそのままの参照点を持っている。だが、かといって『ZERO COST HOUSE』は、岡田利規による何らかの立場表明や自己肯定を企図した作品ではない。たとえそのように見える部分があったとしても、それらは全て「岡田さんは劇作家です」という断わりによって相対化されることになる。しかしそれは当然、虚構に安住していられるわけでもない。それはすぐさまふたたび相対化され、現実へと投げ返されることになるだろう。そして間違いなく、この絶えざる相対化という運動こそ、岡田利規がこの作品をこのようなものとして提示した理由なのだ。  ひとはなんらかの選択を迫られた時、それもAor Not Aというような決定的な二者択一を強いられた場合、自らが選んだ選択肢の正しさを、まず誰よりも先に自分に対して強弁しようとするし、選ばなかった方の選ばれなくてもよさを妥当なレベルよりついつい強調してしまいがちである。そのようなケースにおいて、フィクションという装置が出来るのは、両論併記、それも単なる「どちらも正しい(=どちらも正しいわけではない)」とは異なる、それぞれの選択の不可逆性を踏まえて、双方の決断の不可避性を共に示してみせることだと思う。岡田利規は、彼ならではの非常にユーモラスかつアイロニカルな方法によって、それをやってのけたのだ。しかもここでは、それらが英語でアメリカ人によって演じられるという巧妙な仕掛けが加わっている。いや、というよりも、その条件があったからこそ、このような特異な作品が構想されたのだ。日本の外で、日本語以外で、これが物語られること自体が、相対化の極端な徹底ということだったのである。だからこそ、それを日本で観るという体験は、私に或る居心地の悪さを催させたのは事実である。それはなんというか、相対化のリミットから、もう一度こちらに想定外に巻き戻ってきてしまったかのような感覚だった。なぜなら私は、われわれは「劇作家」ではないからである。
28。そこに残る者たち
 「大地のゲーム」は「新潮」の二〇一三年三月号に一挙掲載された、綿矢りさの長編小説である。舞台はおそらく今から数十年後の近未来の大学キャンパス。女子大生である語り手の「私」は、すでに働いている兄と同居する集合住宅に戻ることなく、他の大勢の学生たちとともに、大学構内に住んでいる。それは夏休みに入る二日前のことだった。「未曾有の大地震が私たちを襲った。そして、また年内に巨大な地震が来ると政府は警告している。夏の大地震よりひどいか、同程度の揺れが私たちを襲うと断言し、対象地域一帯に避難勧告を出した。この大学ももちろん対象地域に含まれている」。帰る家がないわけではない。キャンパスの方が安全ということでもない。だが、それにもかかわらず「私」も、地震で両親を亡くした「私の男」も、他の多くの学生たちも、そのまま大学に居残り続けている。  巨大地震の被害はあまりにも甚大なものだった。「わずか二分の間にこの国の半分が破壊されて五万人が命を失った。その後に亡くなった人間が二万人追加されて、震源地で生活していた私たちのなかに、親族や知り合いを一人も亡くしていない人間など一人もいない」。それは「有史以来最悪の自然災害」として世界中に報道されたほどの規模であった。そしてもう一度必ず、巨大な揺れはやって来る。政府はその時のために特例警戒ベルを設置したが、まだ一度も鳴らされたことはない。避難シェルターがあちこちに作られているが、余程の揺れでもない限り、最早いちいち逃げ込んだりはしなくなっている。大学生たちは無責任な政府や自分たちを見捨てた教授たちをもう信用しようとはせず、キャンパス内で緩やかな自治を行ないながら、それなりに平和に生活している。もちろんトラブルはあるし危険もあるが、それは外の世界でも同じことである。  その中で、俄に頭角を顕わした男子学生がいる。彼はリーダーと呼ばれている。大地震の後の混乱の中で図抜けた行動力とカリスマ性を発揮したリーダーは、学生理事という役職を得て、「私」や「私の男」を含むグループを率いて学内のさまざまな事案にコミットしてゆく。彼は自らの組織を「反宇宙派」と名付ける。「実体のない大きな世界をなんとなく信用する時代は終わったのです。国家を疑い地球を疑い、宇宙をも疑う」というのが命名の理由である。彼はまもなく開催される大学祭で演説をして、外から来た一般の人々にも反宇宙派としての理念をアピールしようとしている。「私」はリーダーの弱点や欺瞞にうすうす気づきながらも、彼に否応のない魅力を感じてしまっている。やはりリーダーとは因縁のある「私の男」も彼女の気持ちの揺れをわかっているが、時おり揶揄するだけで、強く咎め立ては出来ないでいる。  この小説の舞台は、いうなれば「以後の以後」の世界である。「不死の島」の多和田葉子や、『希望の国』の園子温と同じように、綿矢りさは、東日本大震災を直接的に描くのではなく、その後(これから)どうなるのか、そして災禍がもう一度起こったとしたら、果たしてどうなるのか、という想像力を駆使して、物語を構築している。したがって「大地のゲーム」は、一種のディストピア小説の様相を呈することになる。原子力エネルギーを諦めた日本は、全土的に自然エネルギーに転換することで、低エネルギー社会を実現させたが、その代償として、都会から明かりは消え、ひとびとから活気は失われた。リーダーは演説でこう言う。「相次ぐ急激な気象の変化、それに伴う衣食住の変化、また不安定な国内情勢により、私たち国民の平均寿命は年々短くなり、去年、ついに女性は七十代後半、男性は六十代後半となりました。しかし思い出してください、もともと我々は百年を軽々と生きられる民族だったのです。男女とも平均寿命が百年近くまで上がる、確かにそんな時代も過去にはあったのです」。更には巨大地震が、この国を襲った。そして次の揺れも、遠からずやってくる。この状況を生き抜き、かつて日本人が持っていた、百年も生きられたような生命力を取り戻すためには、大きな仕組みや力にすがるのを止め、「頼れるのは自分と周りの人間だけ」という「超個人主義」に目覚め、何事にも「勇気」をもって臨むことが必要だ、とリーダーは訴える。「私たちに足りないのは勇気です。ほかのなにものでもありません。外に出て行く勇気、殻を破る勇気。大きなものを疑う勇気から始めましょう!」。  「私」と見知らぬ女子学生が校舎の屋上で会話をする場面がある。災害案内板にアクセスし、連絡の取れなかった父親とメール出来たという。彼女は言う。「でも、父親が〝おれたちの昔経験した地震災害も同じくらい規模が大きかった。地震のあとに津波が襲ってきた分、もっと悲惨だったといってもいい。でもあのときからも立ち直れたから、今回も絶対に大丈夫だ〟って書いて送ってきたの。私、それに腹が立って」。「分かる。すごくよく分かる」と「私」は応える。そんな遥か昔の知りもしない出来事と、いま自分たちが直面していることを、どうして比較出来ようか。「いっしょにしないでほしい。どんな昔の体験とも、どんな痛みとも」。  ここで述べておかなくてはならないことは、綿矢りさは京都出身であり、十一歳の時に阪神淡路大震災を体験しているということである(このことは何度かインタビューでも語っている)。つまり「私」と女子学生の会話には、東日本大震災と阪神淡路大震災の関係が重ねられている。災害の規模が問題なのではない。それはあくまでも客観的な視座からの、往々にして無関係な第三者(非当事者)による認識でしかない。重要なことは、それが「私」の体験であるかどうか、なのだ。このような感覚をエゴイズムと断じることは出来ない。むしろ正反対である。なぜならば、柴崎友香の『わたしがいなかった街で』の「わたし」と同じく、ここでの「私」とは「生き残った=死ななかった私」のことであり、その裏側には「死んでいたかもしれない私」が、そして更にその背後には無数の「(私以外の)死んでしまった人たち」が控えているのだから。私は思う。「私より偉い人も、できる人も、美しい人も、みんな死んだ。大地に強い根を張るのはいま生き残った、これからの私たちだ」。煎じ詰めれば偶然と確率の結果でしかない寄る辺なき生存を、「私(たち)」は権利として、また義務として、未来に向けて行使していかなくてはならない。  リーダーはその言動において何よりも「勇気」を強調し、「私」もそれに突き動かされる。しかしこの言葉はけっして単純なものではない。象徴的と言えるのが、前半に置かれたバンジージャンプの挿話である。リーダーに言われるまま、「私」は屋上から飛び降りる。リーダーがすぐさま続く。それはまさしく純粋に「勇気」を試す遊びなのだが、そこには別の意味もある。「あの日のあと、近親者を亡くしたショックや激変した環境になじめずに自殺する人間が、後を立たない。死んだ親族、死んだ仲間たち、考えれば考えるほど引きずり込まれそうになる。大人たちは人の心の傷つきに麻痺して、さらに麻痺させようとしてる。頭をスリルで痺れさせないと、私たちだって危ない。死なないために、飛び降りている」。このように、やみくもな勇気とギリギリの保身は、じつは裏腹になっている。そもそも「外に出て行く勇気」と言いながら、彼らは大学から出ていこうとはせず、巨大地震が来るとわかっているのに、そこから離れようとはしない。物語の最後に、当然のごとく、ふたたび大地震はやってくる。その後、またもや生き残った「私」は、自らに問いかける。
 (……)なぜ私たちは、わざわざ危険な土地に、危険と知りながら残ったのだろうか。土地に愛着があったから、土地に執念があったから、大切な人がいたから。土地を踏みしめているときには、そのような理由だと自分で信じ込んでいたが、実は違ったのではないか。  私たちは、何度でも大地の賭けに乗る。   Bet.  地球全体に広大な敷地を持ちながらも、大地はあの土地にばかり執拗にコインを積み重ね、賭け金の倍率をつり上げる。ディーラーのよく手入れされた細くなめらかな指先、からからと回るルーレットを凝視する賭博者たち、視線の先には今後活発に動くと予想される、大注目の活断層。  天上知らずに集まるパワーとテンションが一等賞の賞金の額を膨大に増し、四方八方からぎゅうぎゅうに押されて耐えきれなくなった地面が口を開き、私たちはその裂け目から暗闇へと飲み込まれる。  でも私たちは、この地から動きたくない。動けない。どれだけ大穴の危険地帯となっても、ここで自分の人生を紡ぎたい。
 「大地のゲーム」という題名の意味が、ここでは述べられている。それはどこかバンジージャンプに挑む感覚と似ている。もちろんバンジーは「死なないために、飛び降りて」いたのでもあった。だがバンジーだって事故が起こる可能性はゼロではない。「死なないために」と言いながら、そこには「死ぬかもしれない」が、僅かではあれ常に含まれている。スリルを味わうなどといった皮相な話をしているのではない。ここには、なぜここから逃げないのか、なぜここに留まっているのか、という、おそらく誰もが「あの日以後」に意識的無意識的に問うたことのあるに違いない、あのパラドキシカルな問いへの、答えとは言わないが、ひとつの切実な思弁が存在していると思う。彼女たちは、「私たち」は、私たちは、なぜ、まだ、ここに居るのか? 『現在地』と『ZERO COST HOUSE』の岡田利規が抱えていた問題が、ここでは反対側��ら問われているのである。  だが惜しむらくは、最後の最後で、綿矢りさは、この思弁を、「私」と「私の男」の、まさに私的な物語に回収してしまっているように、私には思えた。いや、或る意味でそれこそが綿矢の作家としての武器なのだが。とはいえ「勇気」がそうであったように、そこで示されるポジティヴさや希望も、作者自身の考えはどうであれ、やはり一筋縄ではいかない。この小説の末尾は「私は私が抱えられるだけの命を、一つも落とさずにこの道を歩もう」という一文である。この宣言には、いわば毅然とした諦念のようなものが感じられる。その外側には、私が抱え切れない、抱えることの出来ない命たちが、明らかに沢山、存在しているのだからだ。
29。そこに向かう者たち
 「In A Large Room With No Light」(最近の阿部小説の例に漏れず、これは曲名で、元ネタはプリンスである)は、「文學界」の二〇一三年三月号に掲載された、阿部和重の短編小説である。二〇一一年の四月、福島の警戒区域内のどこかに秘匿された、埼玉の運送会社の金庫から強奪された五億円を探しに、「日山昭伸」「美里剛洋」「崔哲生」の三人の小悪党が、被災地へと出張ってゆく。映画的と言ってもいいスピーディーな展開と、抜群のリーダビリティを誇る、阿部和重ならではのピカレスクの佳品である。そしてまた、あの「RIDE ON TIME」とはまた別の意味で、確信犯的に不謹慎な小説でもある。震災と原発事故から間もなく、津波によって居住者が亡くなったり、避難したりして無人となった家々や、使用する者の居なくなったATMなどに残されたままの金を盗みに、少なからぬ犯罪者たちが被災地を訪れたことは、その後の報道でも知られることになった。彼らは文字通りのハイエナだが、それもまた震災後の現実である。火事場泥棒の景気のいい話を耳にしながら、その恩恵に浴すチャンスになかなか出会えなかった「日山昭伸」に、小生意気だが頭のキレる舎弟の「美里剛洋」から、奪われ隠された五億円の話が齎される。話を立ち聞きされたせいで仲間に加えざるを得なくなった在日韓国人の「崔哲生」とともに、彼らはミニバンで福島に向かう。おそらくは『幼少の帝国』執筆時の取材に基づくものだろう、具体的な土地勘に彩られた描写は、きわめてリアルなものである。三人のチームは、当然のごとくまるで一枚岩ではない。嘘と策謀と裏切りが連続し、あれよあれよという間に、読者は思いも寄らないラストシーンに辿り着くことになる。大きな余震が起こる。何しろ地震から一ヶ月足らずのことである。「美里剛洋」に裏切られた「日山昭伸」は、致命傷に近い傷を負った「崔哲生」とともにミニバンの車内に居る。そこに大津波がやってくる。それからどうなるかは書かないが、やはりすこぶる映画的な、じつに印象的な幕切れであるとだけ言っておくことにする。  小説的な仕上がりとしては、百戦錬磨の阿部和重にすれば、手慰みの範疇と言っていいのかもしれない(実際、彼はこのような作品なら幾らでも量産出来るだろう)「In A Large Room With No Light」が、書かれた動機とは何だろうか? それは「RIDE ON TIME」の傍らに、この小説を置いてみることで明らかになる。この二編はいずれも、間違いなく他の小説家には絶対に思いつきもしないだろう、きわめて独創的な「津波小説」なのである。阿部和重は、小説によって「津波」を、それが持つ意味を、徹底的に解体しようとしているのだ。  物語の最後に「日山昭伸」は、或る決断をする。それはやむにやまれぬものではあるが、それでも以前の彼であれば、およそありえない選択である。それは「悪党」であればけっしてしないであろう選択である。しかし彼がそれをすることによって、この小説は終わる。そして見事というしかないのは、このエンディングが、そのまま一種の「メッセージ」になっているということなのだ。それは「以後の世界」へと向けた、ほんとうに大切なものとは何なのか、という、ほとんど素朴とさえ呼んでいいようなメッセージである。「RIDE ON TIME」と同じく、阿部和重は言葉にすれば余りにも単純過ぎる、それゆえに賢しい者ほど表立って言おうとはしない、だが紛れもなく重要な真理を、じつに彼らしいヒネクレたやり方で、語ってみせているのである。
30。そこに留め置かれた者
 こんばんは。  あるいはおはよう。  もしくはこんにちは。  想像ラジオです。
 いとうせいこうの『想像ラジオ』は、こんな呼びかけから始まる。この小説は「文藝」の二〇一三年春季号に掲載され、その後、単行本として刊行された。いとうは震災後、哲学者/小説家の佐々木中と、東日本大震災へのチャリティとして、ヒップホップの流儀で交互に即興的に小説を書き継ぐという試みを行ない、のちに『Back 2 Back』として刊行した。また「今井さん」(「すばる」二〇一二年三月号)、「私が描いた人は」(「文藝」二〇一二年夏季号)という二編のごく短い小説を発表しているが、本格的な作品としては『去勢訓練』(一九九七年)以来、十六年ぶりである。  喋っているのは、DJアークと名乗る人物である。彼はひたすら喋っている。どこか素人ぽくはあるが、それなりに軽妙なトークが、小説ののっけから始まる。だが、すぐさま読者は疑問にとらわれることだろう。「想一像一ラジオ一」というジングルも高らかに、DJアークはノリノリで喋り続けているが、この「ラジオ」とは一体何なのか? その答えはすぐに与えられる。「この想像ラジオ、スポンサーはないし、それどころかラジオ局もスタジオもない。僕はマイクの前にいるわけでもないし、実のところしゃべってもいない。なのになんであなたの耳にこの僕の声が聴こえてるかっていえば、冒頭にお伝えした通り想像力なんですよ。あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、つまり僕の声そのものなんです」。だから「想像ラジオ」。なるほどそれはわかったけれど、でもだからそれは何なのか? そもそもDJアークとは誰で、彼は一体どこから放送しているのか? だが、この疑問にもすぐに答えが与えられる。彼は三十八歳、「三流大学に入って東京に出ると仕送りでエレキギター買って、アフリカのビートを取り入れたちょっとひねくれたバンドに加入して、けっこう評判はよかったもののメジャーデビュー出来ずに裏方として小さい音楽事務所入りましてね」、「そこそこインディーズで売れたメートルズとかマイティ・フラワーとかアトム&ウランとか新人アーティストを色々マネージメントしてるうちに、なんか嫌になっちゃって、といっても十数年やった上でですよ。まあ、そこで見切りをつけて昨日実家に帰ってきたんです。年上の奥さん連れて。川も山も海のあるこの町に」。妻の名前はミサト=美里。彼にはアメリカのジュニア・ハイスクールに通うソウスケ=草助という中二の息子もいる。つまりいわゆるUターン組というわけである。だが、昨日郷里に戻ってきたばかりの彼が、なぜいま「想像ラジオ」の「DJアーク」として喋りまくっているのか? しかも「高い杉の木の上に引っかかって、そこからラジオ放始めるはめになった」とは、どういうことなのか? そして、この当然の疑問に、痛みと悲哀と慈愛に満ちた答えが与えられるのが、要するに『想像ラジオ』という小説なのである。  この小説が載った「文藝」のいとうせいこう特集の一環として行なわれた星野智幸との対談の中で、いとうは震災後の自分の行動について、こんな風に述べている。
 (……)世界観が崩壊しましたからね。震災後は映像ばかり見てしまってどうしていいか分からないし言葉なんて一つも役に立たないと思ってたんですよ。でも震災の二日後というタイミングで、ラリー・ハードがDommuneでDJをやったんですよ。ット・ット・ット・ットって四つ打ちで全部インストだったんだけど、四次元に脳が連れて行かれて、そこで何かのエネルギーが補填されていくのを感じた。自分は四つ打ちの音楽は作れない、だけど同じことを言葉でやらなければいけないなと思って、文字DJというツイッターのアカウントを作って、YouTubeもラジオも聴けない状況だったけどツイッターだけは機能してたから、その中でありもしない曲から実際の曲までつぶやいていたんですね。想像すれば絶対に聴こえるはずだ、想像力まで押し潰されてしまったら俺達にはあと何が残るんだと思っていた。
 この「文字DJ」の延長線上に「想像ラジオ」という発想が生まれたのだろう。「まず僕は被災したわけじゃないから、絶対的な断絶がありますが、でも世界を自分が出来る限り真正面から引き受けて、そのかわり全部想像しますからね、という姿勢でした」。佐々木中との『Back 2 Back』は即効性を何よりも第一とする試みだった。ツイッターによる「文字DJ」もまたリアルタイム性を最優先させるものだった。だが一編の小説、それも或る纏まりと長さを持った小説は、それらとは異なる。小説は遅い。小説は遅くなる。小説は遅れる。遅れてくる。遅れざるを得ない。だから「遅さ」こそを武器にしなくてはならない。そこでいとうが選んだのが、一言でいえば、死者の声を聴くことを想像する、それも徹底的に、出来うる限りの技を用いて、必死で想像する、ということだった。そして彼はそのことだけを書いたのである。  DJアークは、高い杉の木の上に引っかかったまま、彼の「想像ラジオ」を続ける。ラジオであるからには、リスナーからの電話もあれば、メールだって届く。音楽だってかかる。番組はなかなか賑やかである。しかし読み進むほどに、否応無しに読者は、それらが、あの地震と津波にかかわっているということ、いや、すべてがその話なのだ、ということに気づかされることになる。作者はもちろん、そのことをいつまでも隠したりはしない。DJアークに何が起こり、彼が語りかけている「想像ラジオ」のリスナーたちとは誰なのか、読者には程なく分かる。だから私はそれを書かない。この小説は五章立てであり、第二章と第四章にはDJアークとは別のSという作家が登場する。彼はどこか(というかあからさまに)作者いとうせいこうを思わせる人物である。Sはボランティアに行った宮城と福島で、非常によく似た「樹上の人」の噂を耳にした。大津波が何もかもを押し流していった後、しばらく杉の木の上に引っかかっていた人がいた、という話。それぞれの「樹上にいたのが同じ人であるはずもないが、私にはふたつの体が同一のように思えて仕方なくなったし、それどころかありとあらゆる場所にその体があって我々を見下ろしているように感じられた」。彼は「樹上の人」の声を聴きたいと思うが、しかし「その声が私には聴こえない」。だから「私はもっと集中するべきだと思う」。  第二章で、福島からの帰路、車中でボランティアたちが交わす議論がある。リーダー格の若者が「樹上の人の声」にこだわるSに対して、こう言う。「あのですね、俺らは生きている人のことを第一に考えなくちゃいけないと思うんです。亡くなった人への慰めの気持ちが大事なのはよくわかるんですけど、それは本当の家族や地域の人たちが毎日やってるってことは体育館でも仮設住宅でもいくらでも見てきたじゃないですか。(中略)その心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、直接何も失ってない俺らは何か語ったりするよりもただ黙って今生きてる人の手伝いが出来ればいいんだと思います」。これを聞いて、Sは自分を軽々しい人間だと思って恥じ入るが、それでも事態に無関係な者は、他人の死にかかわる「心の領域」に入り込むこと、すなわち「想像」などするべきでない、という考えに完全には納得出来ない。そると別のボランティアの青年が、バイト先の植木職人の親方から又聞きした東京大空襲の話を始める。
 ……亡くなった人が無言であの世に行ったと思うなよ、とおやじさんが仕事帰りに植木道具を置きに行くと奥の座敷から廊下に出てきて茶碗酒片手で俺によく言うんだよ。叫び声が町中に響き渡ったはずだし、悔しくてどうしようもなくて自分を呪うみたいに文句を垂れ続けたろうし、熱くて泣いて怒って息を引きとるまで喉の奥から呻き声あげたんだぞって。先代の親方は、自分が知らないその夜のことをおやじから聞いて、しょっちゅう夢見て飛び起きたんだって言ってたけど、先代は話を聞いて公開したことねえぞって言うんだ。  俺は亡くなるまでのその声を考えるのと、亡くなったあとを想像するのにそれほど差があんのかって思う。恨みはあるし、誰かに伝えたかったこともあるし、それが何だったか考える人がいてもいいし、いやいなくちゃいけないし、それがSさんだったりするんじゃないかって……
 しかしボランティアのリーダーは反論する。「それは遠い過去になったから語る人が色々でもむしろ事実を忘れないためにいい」のだが、しかし直近の震災で「自分一人だけ生き残った人に対して、あなたのご家族は今あの世でこんなことをつぶやいてるんじゃないかなんてことを、いくらなんでも口に出来ない」のではないか。その上で彼はSにこう告げる。
 これは失礼な言い方でほんとに申し訳ないんだけど、Sさんは元は博多の人で長く東京に住んでて、親戚の誰一人東北にいないし、友達が亡くなったわけでもないと聞いています。そういう人が死者への想像を語る時期でも、そもそも語る問題でもないと俺は思うんです。まして亡くなった人のコトバが聴こえるかどうかなんて、俺からすれば甘すぎるし、死者を侮辱してる。
 ボランティアという行為自体が、「甘い想像で相手に接してる限り何度でも、お前に何がわかるんだとつっぱねられるんですよ」と彼は厳しく言う。そこに、更にもう一人のボランティアが話に加わってくる。確かにその通りだ。生半可な同情や想像など、被災地の人たちからしたら、単なるこちらの自己満足、自己欺瞞以外の何でもない。「問題は役に立つか立たないかで、あとは全部考えをやめる」という態度は正しい。だが、それでも「亡くなった人の声を自分の心の中で聴き続けることを禁止にしていいのか��とも思う。「行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか」。
 作家っていうのは、俺よくわかんないけど、心の中で聴いた声が文になって漏れてくるような人なんじゃないのかと思うんですよ。その場で霊媒師みたいに話すんじゃなくて、時間かけてあとから文で。しかも確かにそれが亡くなった人の一番言いたいことかもしれないと、生きている人が思うようなコトバをSさんは、なんていうか耳を澄まして聴こうとしていて、でもまったく聴けないでいるってことじゃないか。
 これこそ「遅さ」の効用というべきものである。だがリーダーは「禁止してるんじゃない」と応じつつも、それでもやはり、こう述べる。「いくら耳を傾けようとしたって、溺れて水に巻かれて胸をかきむしって海水を飲んで亡くなった人の苦しみは絶対に絶対に、生きている僕らに理解出来ない。聴こえるなんて考えるのはとんでもない思い上がりだし、何か聴こえたところで生きる望みを失う瞬間の本当の恐ろしさ、悲しさなんか絶対にわかるわけがない」。  このように第二章は、当事者性と想像という行為にかんするディスカッションと言えるものになっている。無論それは作者自身の自問自答でもあるだろう。ところで、第一章の終わりで、DJアークは一曲かけていた。アントニオ・カルロス・ジョビンの「三月の水」。ボランティアたちの車内に沈黙が降りたとき、それまでずっと黙っていた運転席の、中一の時に阪神淡路大震災を体験し、それから何年か言葉を喋らなかったという青年が、カーラジオのスイッチは切ってある筈なのに、なぜか音楽が聴こえてくる、と言う。それはジョビンの「三月の水」だ。繰り返しかかっている。誰か男の声も聴こえたと言う。だが、Sには何も聴こえない。  『想像ラジオ』は、痛ましさとやり切れなさに覆われた小説である。十六年ぶりの本格的な小説の題材として、このようなものを選んだ、選ばざるを得なかった、いとうせいこうという作家の勇気に、私は静かに戦慄する。ここでは想像すること、書くことへの、強い動機と強い疑いとが、同時に存在し、激しく鬩ぎあっている。「震災小説」を、「以後の小説」を、ただタイミング良く、小器用に書いてみせるのとは、わけが違うのだ。作者には、この小説が必然的に帯びてしまうだろう、隠しようもない欺瞞が、最初から見えていた。たとえ感涙する読者が居るとしても、その感涙の内にこそ、当事者でないがゆえの、安全地帯から見守っているがゆえの、無傷な憐憫というしかないものが仄見えていることを、書き出す前からよくよくわかっていた。それでも、どうしてもこれは書かれなくてはならなかったのだ。書けない/書かないことへの、ギリギリの否定/逆転としての、書くこと。  先の星野智幸との対談で、いとうせいこうはこんなことを述べている。    死者の声を聴くっていうことが、やっぱり歴史なんだと思うんです。批評家がよくこの小説には歴史がないとか言いますけど、その歴史って小説で考えたら、死者の声でしかないんですよ。相手が大勢であっても、たった一人であっても、死者の声にじっと耳を傾けることにしか歴史はない。もちちん死者っていうのは今生きていないっていうことでいえば、未来の人の声でもある。だからリアルな今の状況を写せば小説家といったら決してそうではなくて、小説が作れる現実というのは死者の声を過去からも未来からも聴いて、その時間が渾然一体となって同じ平面に出ることなんだと思うんです。同じ平面ということでいえばそれが小説のきわめて不自由な側面でもあり、しかし同時に多声的に読める自由さでもあるんですよね。
 死者の声を聴く小説。いや、小説とは死者の声を聴くことなのだ。けれどもこの発言は、他でもない『想像ラジオ』を書き終えたからこそ出来たものでもある。いとうせいこうは、あの紋切り型の問い、けっして安易に問われるべきではないのに誰彼無しに何度となく問われてしまった問い、すなわち「〜に何が出来るのか?」という問い、つまり、小説には何が出来るのか、という問いを、真っ向から引き受けるために、ほとんどただそれだけのために、長いブランクを経て、ふたたび小説を書いたのだ。このことは強調しておかなくてはならない。小説は遅くて不自由なものだが、それでもやれることはある。小説にしかやれないこと、小説だけが切り拓く自由が、確かにある。だったらば、やってみる価値はあるのではあるまいか。誰もそれをやっていないようであれば尚更。  しかしもちろん、それは同時に、小説という形式に耽溺すること,小説という行為に安住することを意味しているのではない。いとうはこんなことも言っている。「特に純文学をやっていらっしゃる方々は、間接性しか取らないんですね。直接的にものを言うことを避ける。3・11の後、「とにかく募金を集めよう」って普通に各々のサイトとかにデカデカと書けばよかったように思う。それをやらずに間接的なやり方が目立った。エンターテインメント畑は違ったと思う。ストレートであることを恐れなかった」。『想像ラジオ』の作者は、アクティヴィストでもある。だからこそ彼は、こんな小説を書いた/書けたのだ。「文学者が直接的に言葉を使わなかったということは、逆に言うと作品が間接的に書けていないからじゃないですか? 間接的に書けてこそ、直接性が怖くなくなるんじゃないでしょうか?」。この問い、いや挑発に、一体どれだけの「文学者」が抗弁出来るのだろうか?  小説の終わり、DJアークの「想像ラジオ」は、遂に放送終了の時を迎える。彼はおもむろに「この機会にしゃべっておきたいこと」を語り出す。    今日も明日も想像を求める新しいDJが次々と世界にあらわれる。何人も何人も、日々あらわれる。それどころか、あらわれない日がないんです。いや、今この時もすでに無数のDJたちがやかましいくらいに自分の番組をオンエアしてる。彼らはゴキゲンな放送を続けるでしょう。僕だっていつでも戻ってくる。語りかけるし、話を聴く。その声に必ず耳を澄まして欲しい、リスナーたちよ。また新たに生まれるリスナーたちよ。
 この後どうなるのか、もちろん私はそれを書かない。
31。「午後二時四十六分十八秒」
 山下澄人の「水の音しかしない」は「文學界」の二〇一一年十二月号に発表され、現在は作品集『ギッちょん』に収録されている。他の山下作品と同様、小説による/小説における「野性の思考」をまざまざと体現したかのような、自由奔放かつ繊細精緻な書法によって、或る出来事が描かれる。  「出勤途中によく駅で会う男がいた。土日をのぞいてほぼ毎日、その男に会った。だからお互い、顔をあわすといつの頃からか、軽く会釈をかわすようになっていたのだけれど、わたしはそれが実は鬱陶しくて面倒くさくて、だから今朝、電車の時間をひとつ早いのに変えた」。それにもかかわらず、彼はその男と今朝もやはり会ってしまい、仕方なく初めて挨拶を交わし、車内で話をする羽目になる。「わたし」は「斉藤」、男は「中嶋」と名乗る。ふたりの家族構成は子どもの年齢も含めて、まったく同じだった。「わたし」は、明日は電車を更に一本早めようと考えつつ、「中嶋」と別れ、会社に着くと、何故か自分の机が移動されている。そればかりか、隣席の「真島」をはじめ、同僚たちの姿がひとりも見えない。課長の「溝口」だけが、昨日と変わらずに居る。怪訝に思って「わたし」が尋ねると、おもむろに「溝口」は答える。
「昨日だよ。すべてが変わったのは。斉藤はいなかったっけ? 昨日の午後、何時だ? 二時過ぎか?」  知らない女が来た。髪が金髪だ。溝口はその金髪の女に 「昨日のあれは、何時だったかな」  と聞いた。女は 「二時四十六分です」  といった。 「だって」  と溝口は私にいった。わたしは話がまったく見えなかったので、それは何ですか、と溝口に聞いた。 「それが何だ、といわれても、それはそれだ、だから何だ、としかいいようがないよ斉藤ちゃん。昨日の午後二時、ええと」 「四十六分」  とわたしはいった。 「そう。四十六分。その時、すべては変わったんだよ。すべてというのは、すべて。全部。全部というのは何もかも。一切合切。外も中も全部。ただ」  溝口はのっそりと立ち上がって、ホワイトボードに黒いペンで「ただ」と書いて、ふたつの字の上に傍点をつけた。
 ああ、これはそういう話なのか、と読む者はここでいきなり気づかされることになるのだが、当然のごとく、山下澄人は、この作品をあからさまな「震災小説」として書こうとはしていない。  翌日の朝、電車をもう一本早めたのに、「わたし」はやはり「中嶋」と会ってしまう。ふたりは一昨日の帰宅困難について語り合う。職場に行くと、「溝口」と金髪の女「森林サリー」に加えて、新しい人間が居る。「わたし」と同じ名前の巨漢の男「ビッグ斉藤」と、「わたし」の妻の「ナオミ」によく似た若い男。山下澄人の小説は、通常われわれがリアリズムだと思い込んでいる常識を、あちこちであっさりと逸脱しているが(そして同時に、こっちの方が真の意味でのリアリズムなのではないか、と強く思わせもするのだが)、このあたりからこの作品も、視点や時制や描写が、ゆるゆると解けてゆく。あの日の「二時四十六分」に起こったことを、「わたし」は忘れてしまったのか思い出せないのか、それとも覚えているのだが自分で留め金を架けているのか。あの日のあの時間、一体「わたし」はどうしていたのか。それからどうなったのか。「わたし」以外の連中はどうなったのか。そして「わたし」は今、ほんとうはどうしているのか。何もかもが曖昧にされており、どうにもよくわからない。  それでもどうやら読み進むにつれて、事の次第らしきものが少しずつ推察可能になってくる。「水の音しかしない」が、他の山下澄人の小説と一線を画していると思えるのは、誰もがどうしたって明確な事実性と結びつけざるを得ない、他ならぬ「二時四十六分」に因っている。それゆえに、ここは評価の分かれるところかもしれない。事実は虚構の支えになるが、同時に重石でもあるから。そして確かに『緑のさる』や「ギッちょん」や「トゥンブクトゥ」のような過激な跳躍ぶりを、この小説は必ずしも見せてはいないようにも思える。しかし、それでもこれは山下澄人にとって、どうしても書かなくてはならなかった、書かれなくてはならなかった作品なのだと私は思う。  後半には、次のような場面が現れる。    溝口はタクシーの中にいた。現場に向かうつもりが、そこでの作業は早々と終わったことをタクシーに乗る前に溝口は真島から聞いて、そのまま帰っても良かったのだけれど。せっかくここまで来たのだからと、浜へ向かっていた。運転手にはなまりがあった。午後二時四十六分ちょうどだった。  その十八秒後、突然、広大な土地にいる人間、猫、犬、うさぎ、ネズミ、いたち、ゴキブリ、等々のからだ、建物、電信柱、木、草、地面が、山が、海が、揺れた。  同時に香山が声をあげたから、からだが揺れたのはわたしだけではなかったのだとわたしは思った。揺れる中わたしはカモメが何羽も飛ぶのを見た。揺れがおさまり、興奮した真島が十年以上前に経験した遠い土地での大きな地震の話をはじめた。真島にいわせると、そこでの地震のほうがずっと激しいものだったらしい。 「縦に揺れてから、横に揺れたからな」  わたしたちは浜からあがって、溝口を待った。溝口はタクシーの運転手とさっきの地震の話をしていた。運転手がつけたラジオはどこも地震のニュースだった。「津波」とアナウンサーがいうのが確かに聞こえた。しかしほとんど溝口も運転手も聞いていなかった。わたしはそんなニュースが流れていることすら知らなかった。香山が携帯電話を見ながら原口と何か話していたけれど、その時も確かに「津波」と聞こえた気がするけれど、わたしは飛び交うカモメを見ていたので��ちゃんと聞いてはいなかった。頭の禿げた男が寝グセのついたきれいな女の肩を抱いて浜を上がって来た。女は泣いていた。どこかでサイレンが鳴った。しかしわたしには、というかわたしたちには何のサイレンかわからなかった。
 この部分だけを読んだら、紛れもないリアリズム小説の一節だと思われるかもしれない。そしてこのあと、阿部和重の「In A Large Room With No Light」の「日山昭伸」が、いとうせいこうの『想像ラジオ』の「樹上の人=DJアーク」が見舞われたのと同じ事態が、「わたし(たち)」を襲う。  だがしかし、かといってこの小説は、あの日の「午後二時四十六分十八秒」へと遡行してゆき、取り返しのつかない出来事へと収斂していって、悲劇が露わになって、それで終わるわけではない。むしろそこで、むやみと混乱した、だが同時にすこぶる透明な筆致で描かれているのは、あの『想像ラジオ』とはまた別のかたちで、そこにいつまでもいつまでも留められて、繋がれてあるさま、である。そして、そうあるしかないのは、他でもない「わたし」というものが存在しているからである。山下澄人の場合、それは「存在していた」と、過去形で言ってもまったく同じことだし、「わたし」ではない誰か/何か、と言ってしまっても、おそらく同じである。さしあたり「わたし」は「斉藤」という名前を持っているのだが、それは誰もがとりあえず名前を持たされているからに過ぎず、何よりも重要なことは、この体験をした者が現に居た(かもしれない)ということなのだ。「現に」というのも一通りの意味ではないのだが。  結末に向かって、この小説はふたたびしどけなく解け始める。時間が弛み、記憶が変調し、「わたし」の意識が、意識と呼ばれる何かを表す言葉たちが、段々と溶け始める。ふと気づくと「わたし」はまた「中嶋」と、電車内で話している。
「あれからどうしてた?」  あれからというのは、どれからかわたしにはわからなかったけれど、適当に見当をつけて話し始めた。いつも会う男と話すようになった事、会社から真島たちがいなくなっていた事、かわりに森林サリーとビッグ斉藤とナオミに似た若い男がいた事、溝口までいなくなった事、そして結局、会社からいなくなった溝口や真島たちの行方はわからずじまいであり、その事を気にしていても仕方がないと、それ以上考えないようにした事。 「うん」  あとは、ナオミに似た若い男が倒れて、ビッグ斉藤と食事をして、終電に乗り、記憶喪失の夢を見て、終点まで寝過ごしてしまい、公園でそこに住む事を妄想して、そこに住む男を妄想して、妄想した男と会話して、港へ出て、その前に商店街で若い女と子供を見て、港で海に浮かぶ木材を拾い上げて、そこに真島たちがあらわれて、みんなで行った焼き鳥屋でさっき別れたビッグ斉藤が働いていて、ホテルでは森林サリーが働いていて、隣にいた男の顔が思い出せなくて、明くる日みんなと海に行って、原口が何度もはねる魚を見て、地震が来て、揺れて、その後、津波が来て、そしてその津波にのまれた事などを話した。
 これはそのまま、この小説の簡潔なあらすじになっている。だが、では、そしてそれからどうなった? どうなったのかを「わたし」は言うことが出来ない。それを言えるのは一人称の話者である「わたし」しかいないにもかかわらず、それからどうなったのかを適当に見当をつけて話すことが「わたし」には出来ない。そうすることがどうにも出来なくなってしまっている、ということが、この小説に書かれていることだと言ってもいいかもしれない。かろうじて可能なのは、解け切った「わたし」の、たとえば次のような混乱した述懐だ。    空は曇っていた。わたしから見える限りの空はねずみ色だった。雨が降っていた気がわたしはしていたが、わたしのからだはたえず濡れていたから雨をあまり意識出来ていなかった。というか、わたしはわたしのからだが濡れているのかどうかさえ、ほんとうはよくわかっていなかった。しかしまだ、濡れるのはよくない、という意識だけはかすかにあったから、わたしは水につかっていた足をわたしのからだが乗っている、わたしが、何か、としか認識していない青い屋根の上に面倒くさいと思いつつ、さっき上げた、と思っていたが、しかし実際はそれは昨日の事だった。わたしは水に飛びかかられた事はおぼえていた。その轟音も。何度も「ごうおん」という音が、なのか、言葉が、なのか、轟音の中、わたしの頭に点滅した。どれくらいの時間、わたしはこうしているのか、わたしはわかってはいなかった。何度か暗くなった事はおぼえていたが、その記憶もわたしからは消えかけていた。それでもわたしは生きていた。息を吸い、吐いていた。心臓は休みなく鼓動し、他の臓器もそれぞれの役目をまだきちんと果たしていた。わたしはまだ生きていた。
 「わたしはまだ生きていた」。だから、今、こうして過去形で語っているのである。だが「今」とはいったい何時のことなのか? そもそも「過去形」とは何なのか? 「中嶋」が「あんたとは駅で話すようになんなきゃいけないんだから、元気出してよ」「まだほんとうは俺はあんたに名乗ってもいないんだからさあ」と「わたし」に話し掛けてくる。「この事、思い出せるかな」と「わたし」はふと口に出す。「電車で会った時にさ」。男はもういない。水の音しかしない。   32。良いニュースと悪いニュース
 二〇一三年四月十二日、村上春樹は書き下ろしの長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を発表した。発売当日まで、題名以外の一切の情報は明らかにされていなかった。小説としては前作に当たる『1Q84 BOOK 3」が出たのが二〇一〇年四月十六日だったので、ほぼ三年ぶりの新作ということになる。それは、次のような物語である。  タイトルにある通り、主人公の名前は多崎つくる。三十六歳の独身男性で、西関東の鉄道会社の駅舎設計管理部門に勤めている。彼はどういうわけか、幼い頃から「駅」が大好きだったので、夢をかなえたのだと言ってもいい。実際には関東地方に新たに駅を作ることは稀であり、ほとんどの仕事は改修工事絡みなのだが。実家のある名古屋での高校時代、つくるには四人の親友が居た。頭脳明晰な優等生のアカこと赤松慶、熱血漢のラグビー部キャプテン、アオこと青海悦夫、誰もが認める美人で、ピアノを流麗に弾きこなすシロこと白根柚木、熱心な読書家だが、さっぱりとした性格のクロこと黒埜恵理。五人は高校のクラスのボランティア活動を通じて仲良くなり、あっという間にどんな時にも行動を共にするほど親密になった。まったくと言っていいほど性格やキャラクターは異なっていたが、むしろそれゆえにこそ彼らは他の四人に魅力を感じ、必要とし、惹かれ合ったのだ。ただ、つくる以外の四人は、姓に色を示す字が入っていた。だから互いに色のあだ名で呼び合うようになったのだが、色彩を持たないつくるだけは「つくる」だった。そのことにつくるは少しだけ疎外感のようなものを感じていたが、だからといって五人の関係に歪みはまったくなかった。それはまるで正五角形のように完璧な友情だった。  つくるは「駅」を造るという将来の夢のために東京の大学に進学した。他の四人はそのまま名古屋に留まった。それでも五人の仲に変わりはなかったが、大学二年の夏、二十歳を目前に帰省した折、つくるは何の前触れもなく、四人から絶交を告げられた。理由は説明されず、彼にも思い当たることは皆無だった。つくるは甚大なショックを受け、絶望し、放心して、引きこもり、一時は死を強く願うほどの状況に陥る。そしてギリギリの窮地から現実に引き返して来た時には、彼は激痩せして別人に見えるほどの変貌を遂げていた。それからの十六年間、彼は五人の元親友たちと一度も再会していない。そしてこの経験は、つくるの他者へのかかわり方に、当然のことながら多大な影響を及ぼした。その後の大学時代に、たまたまプールで知り合った年下の大学生、灰田文紹(言うまでもなく、ここにも色が含まれている)と親しくなったが、灰田もまた唐突に、つくるの前から姿を消す。それからつくるは、けっしてそう決めたわけではないもの��、男女を問わず、誰かと一定以上に距離を詰めることなく生きてきた。だがつくるは最近、仕事の関係で知り合った旅行会社に勤める二歳年上の女性、木元沙羅から、十六年前の五人組からの追放の真相を、今こそ確かめるべきだと言われる。彼女はつくるに「あなたはたぶん心の問題のようなものを抱えている」と指摘し、それを解決しなくては二人の関係は先に進めないと告げる。こうしてつくるは、長い時間封印していたパンドラの匣を開けるべく、彼の「巡礼」の旅に赴くことになる。  多崎つくるの「巡礼」は、故郷名古屋へ、そしてフィンランドの町ハメーンリンナへと、彼を誘う。そこで俄に明らかにされる遠い過去の思いがけない秘密と、そこから掘り出されてくる幾つもの新たな謎、それらに宿る途方もないやりきれなさと不条理、そしてつくると沙羅の関係の展開にかんしては、これ以上は述べない。それよりも、なぜこの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が、ここで取り上げられているのか、ということについて語らなくてはならない。全十九章から成るこの小説の第三章、つくるが死の間際から何とか生還し、だが体重が七キロも落ちていたという記述に続いて、次のような文章が置かれている。
 死にかけているように見えたとしても、それは仕方ないかもしれない。彼は鏡の前で自らにそう言い聞かせた。ある意味では、おれは実際に死に瀕していたのだから。木の枝に張りついた虫の抜け殻のように、少し強い風が吹いたらどこかに永遠に飛ばされてしまいそうな状態で、辛うじてこの世界にしがみついて生きてきたのだから。しかしそのことがーー自分がまさに死にかけている人のように見えることがーーつくるの心をあらためて強く打った。そして彼は鏡に写った自分の裸身を、いつまでも飽きることなく凝視していた。巨大な地震か、すさまじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離せなくなってしまった人のように。
 この小説において、「二〇一一年三月十一日」に多少ともかかわっていると読める言及は、ただこの一箇所のみである。そしてこれは読んでの通り、喩えに過ぎない。周知のように村上春樹は、現代作家としては例外的なほどに比喩を多用する作家だが、ここでの「のように」は、この小説にも膨大に投じられている他の無数の「のように」とは、どこか性質が異なっているように思える。それは言うなれば、いささか唐突に、取ってつけたように見えるのだ。だがそれゆえにこそ、妙に気になってしまう。  もちろん、この点を取り上げて、村上春樹が自身のフィクションを無理矢理「震災」に結びつけようとしているとして批判することは可能かもしれない。ほんとうは全くの無意味な、単なる仄めかしでしかない、真摯さを欠いたはしたない行為であると。だが私は、それとは正反対のことを、これから主張したいと思うのだ。  物語がまだ始まったばかりの第二章で、つくるは沙羅に十六年前の出来事、これまで誰にも話したことのなかった辛い想い出を告白する(それはそのまま読者に対する過去の説明にもなっている)。彼女は当然のごとく、どうしてその時にちゃんと理由を問いたださなかったのか、と尋ねる。
「なにも真実を知りたくないというんじゃない。でも今となっては、そんなことは忘れ去ってしまった方がいいような気がするんだ。ずっと昔に起こったことだし、既に深いところに沈めてしまったものだし」  沙羅は薄い唇をいったんまっすぐ結び、それから言った。「それはきっと危険なことよ」 「危険なこと」とつくるは言った。「どんな風に?」 「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を変えることはできない」。沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を消すのと同じだから」
 「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」。沙羅の言葉は、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説の通奏低音として、物語の深い所に潜行しつつ、静かに鳴り響いてゆくことになる。タイトルにもある、かつてシロがよく弾いており、灰田がつくるにレコードをくれたフランツ・リストのピアノ曲集『巡礼の年』のように。それはつまり、一度起こったことは二度と消えない、ということである。あったことはなかったことにはならない。これはいわば当たり前のことだ。だがひとはしばしば、さまざまな理由から、時にはやむにやまれぬ事情によって、歴史=過去から目を背けようとするし、忘却どころか記憶や記録からの抹消を試みさえする。そしてそれに成功することもある。しかし、ほんとうは過去は消えてはいない。それはずっとそこにあり、あり続けるのだ。  だがしかし、それはそうであるとしても、なぜわざわざ、忘れた筈の、思い出すことをやめた筈の、ほとんどなかったことになりつつあった筈の過去への「巡礼」に向かわなくてはならないのか。それは、しなくてもいいのではないか。しなくていいのなら、しないままの方が幸せな場合だってあるのではないか。むしろそうすることによって、過去と現在が一直線で繋げられてしまうことによって、過去が現在に襲いかかり、すべてを台無しにしてしまうことが起こり得るのではないか。過去の中には、そっとしておくべきことが、誰にだってあるのではないか。そうも思える。そして実際、つくるの「巡礼」の旅は、世界そのものの悪意と呼んでもいいような、あまりにも酷薄きわまりない事実を明らかにする(登場人物のひとりは「それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった」と表現する)。それでも、それを知らぬままに済ますことは「あなたという存在を消すのと同じ」だというのだろうか。最後まで知らずにいた方がいいことだって、人生には確実に存在しているのではあるまいか。  つくるは名古屋でアオ、アカと十六年ぶりに再会する。アオはレクサスの販売代理店でディーラーとして働いていた。つくるは彼から十六年前の絶縁の理由を聞かされる。それは想像もしていなかったものだった。アオはつくるに謝罪する。十六年経っても、彼は真っ直ぐな人間のままだ。東京の有名大学に十分受かるだけの優秀な成績でありながら、敢て名古屋大学に進学し、大手銀行に就職したものの二年でサラ金へと転職し、更にそこも辞めて自己啓発セミナーまがいのビジネスを始め、大成功をおさめているアカは、表面的には高校時代とはずいぶん人間が変わっていたが、それはむしろ時間と共に彼の芯の部分が露出してきたということかもしれない。アオはアカの商売を快く思っていないようだったが、つくるはアカの率直な話しぶりから、優等生の顔の裏に反骨精神を隠した昔の友人の姿を感じ取る。別れ際に、アカはつくるにふと、こんな話を披露する。   「おれがいつも新入社員研修のセミナーで最初にする話だ。おれはまず部屋全体をぐるりと見回し、一人の受講生を適当に選んで立たせる。そしてこう言う。『さて、君にとって良いニュースと悪いニュースがひとつずつある。まず悪いニュース。今から君の手の指の爪を、あるいは足の指の爪を、ペンチで剥がすことになった。気の毒だが、それはもう決まっていることだ。変更はきかない』。おれは鞄の中からでかくておっかないペンチを取りだして、みんなに見せる。ゆっくり時間をかけて、そいつを見せる。そして言う。『次に良い方のニュースだ。良いニュースは、剥がされるのが手の爪か足の爪か、それを選ぶ自由が君に与えられているということだ。さあ、どちらにする? 十秒のうちに決めてもらいたい。もし自分でどちらか決められなければ、手と足、両方の爪を剥ぐことにする』。そしておれはペンチを手にしたまま、十秒カウントする。『足にします』とだいたい八秒目でそいつは言う。『いいよ。足で決まりだ。今からこいつで君の足の爪を剥ぐことにする。でもその前に、ひとつ教えてほしい。なぜ手じゃなくて足にしたんだろう?』、おれはそう尋ねる。相手はこう言う。『わかりません。どっちもたぶん同じくらい痛いと思います。でもどちらか選ばなくちゃならないから、しかたなく足を選んだだけです』。おれはそいつに向かって温かく拍手をし、そして言う、『本物の人生にようこそ』ってな。ウェルカム・トゥー・リアル・ライフ」
 いかにも自己啓発セミナー的に思えるこのエピソードは、先の沙羅の言葉と組み合わされることにより、この小説の核心を成す、重要なテーマを示すものだと、私には思える。この話が表している世界観/人生観のようなものは、読んでのごとくきわめてペシミスティックである。だが、ポイントは話される順番にある。まず「悪いニュース」が提示される。それはおそろしく惨い仕打ちである。出来ることなら回避したい。逃げ出したい。だが「それはもう決まっていることだ。変更はきかない」。この宣言は、明らかに沙羅の言葉と対になっている。彼女が「過去=歴史」について述べていたことを、アカは「未来」について語っているのだ。とにかく途方もなく惨いことが、これから行なわれるのである。それから「良いニュース」が提示される。だがしかし、そこには選択の余地がある。確かにそれはどちらを選ぼうと惨事には変わりなく、だから選択自体が虚しい行為と呼ぶべきかもしれない。だが選ばなければ、自分で選択しなければ、事態はもっと確実に悪くなるのだ。この場合、選択肢の決定それ自体には、実のところほとんど意味はない。そうではなくて、それでも選択する意志を持てるかどうか、悲惨の渦中にありながら、欠片ほどの自由を行使することが出来るかどうかが問題なのだ。どっちもたぶん同じくらい痛い。でもどちらか選ばなくちゃならない。だからしかたなく選んだだけ。そんなおおよそ積極的とは言い難い選択に対して、ウェルカム・トゥー・リアル・ライフという言葉が与えられることの意味、そこにこそ、どうして村上春樹が、突然この小説を書いたのか、という謎へのヒントがある。  最終章、つくるはフィンランドへの「巡礼」から戻ってきたが、沙羅にはまだ会えていない。彼女に報告することが、そして彼女にどうしても問わなくてはならないことが、彼にはある。物語は終わりに向かっている。だが、まるで終着駅の手前で急に電車が点検に入ったかのように、この小説は奇妙な停滞を見せる。つくるはJR新宿駅に来ている。彼はこの駅を眺めるのが好きだ。彼は朝のラッシュアワーの雑踏のことを考えている。「よく暴動が起きないものだ。事故による流血の惨事がもたらされないものだと、つくるはいつも感心する」。そこで、次のような記述が現れる。    もしそんな極端に混雑した駅や列車が、狂信的な組織的テロリストたちの攻撃の的にされたら、致命的な事態がもたらされることに疑いの余地はない。その被害はすさまじいものになるだろう。鉄道会社で働く人々にとっても、警察にとっても、もちろん乗客たちにとっても、それは想像を絶する悪夢だ。にもかかわらず、そのような惨事を防ぐ手だては今のところほとんどない。そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ。
 村上春樹が、オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者たちに取材して著したノンフィクション『アンダーグラウンド』は、一九九七年三月に書き下ろしという形で刊行された。地下鉄サリン事件が起きたのは一九九五年三月二十日だから、ちょうど二年後のことだった。先にも述べておいたが、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、二〇一三年四月十二日に書き下ろしで刊行された。二〇一一年三月十一日の東日本大震災から二年と一ヶ月が経っていた。二つの出来事と二冊の本は、ほぼ同様の時間的な関係を持っている。このことは何を示唆しているのだろうか。何かを示唆しているのだろうか。『アンダーグラウンド』が地下鉄サリン事件に対して有していた位置と意味を、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は東日本大震災に対して有している、たとえほとんどそうは読めなくても、ほんとうのところは、そうなのではないか。いや、むしろすぐにはそうと思えないからこそ、それはやはり、そうなのではないのか。そう考えてみると、この小説の物語、この物語のあらゆる挿話、それらの挿話の細部の何もかもが、実はすべて、あのことを語っている、語ろうとしているのではないかと思われてくる。  私はこれを穿ち過ぎだとは思わないし、殊更に好意的に解釈してみせているのでもない(何度も繰り返し述べてきたように、小説であれ何であれ、私は「震災」を取り上げること自体に意義があるとは全然思っていない)。村上春樹という作家の最大の特長は、彼の書く小説が、リアリズムからも私小説からも限りなく遠い、という点にある。村上春樹の作品には、現実がそうであるように意味性を欠いた要素はひとつとして存在していない。その意味が明らかにされないことはあっても、そこには必ず、それがそこにあり、それがそうであるということの理由が存在している。この意味で、村上春樹の小説は、基本的に現実世界との接点を持っていない。それは最初から最後まで作家の脳内にあるのだ。村上春樹の小説はリアリズムとは関係がない。それは常に一種のファンタジーなのである。そしてまた、彼の小説における主人公、一人称ならば「僕」と称し、三人称なら固有名詞で呼ばれる人物は、その物語を語り、この小説を書いている「村上春樹」自身と、他の作家とはかなり異なる形で、曖昧に混じり合っている。それは初期の「僕」たちよりも、近年の作品群、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のような三人称小説において、その特異性を露わにする。たとえば先ほどの引用の最後の「その悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」の「実際に」には強調を示すダッシュが振られているが、それは誰がしているのか? むろん、村上春樹がしているのである。この小説は、多崎つくるという主人公の視点と主観によって綴られていくわけだが、結局のところ、彼はいわゆる物語の主体とは、かなり違っている。つくるは自分を「色彩を持たない」空っぽの存在と感じているが、それを言うなら一色ずつを配された他の登場人物たちは、それぞれの役割と機能を作者から割り振られた、いわば叙述上の要素であるに過ぎない。色を持っていないつくるは、空だからこそ、彼にかかわる人物=要素たちが齎す、さまざまな真実や秘密や嘘や謎を、丸ごと包含することが出来る。そうして、多くの線路が交叉する「駅」をつくるのである。  「巡礼」の最後には、こんな場面が置かれている。
 そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。
 私小説とは、作者が自分自身と同一か、でなくとも限りなく自分に近い存在を小説の中心に据えることにより、むしろ逆に「私」を虚構化してゆくプロセスのことだ。村上春樹がしているのはこれとは真逆である。彼は「多崎つくる」というあからさまな虚構の存在を拵え、その周囲にやはりあからさまに虚構の何人かを拵えて、その関係性の内側に幾つかの虚構の事件を配して、そうすることで、そうすることによってしか可能ではないやり方で、紛れもない現実に起こった、けっして忘却も消去も出来ない過去に起こった、二年前のあの出来事に対して、小説家として、言葉を差し伸べようとしている。彼には言いたいことがあったのだ。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は「以後の小説」である。
33。「言葉たち」、イントロダクション
 あれから二年と数ヶ月が過ぎた。あの日に起こったこと、あの日から起こったこと、今もまだ続いており、いつまで続くのか、いつ終わるのか、いつか終わるのか、いつか区切りが付けられるのかどうか、そもそも何をもって区切りと呼んだらいいのかもわからない、ひと繋がりの、だがけっしてひとつではない、無数の出来事にかんして、たくさんの言葉が、対話が、鼎談が、議論が、さまざまな機会に交わされてきたし、今も交わされている。私は、そうした「あの日」と/の「以後」にかかわる「言葉」の応酬を、幾つも読んできたし、時には直接耳にしたこともあれば、時には(ごく限られた機会にではあるが)自分自身が語ったこともあった。   それらの「言葉たち」の中から、幾つかの断片を拾い出して、以下に並べてみたいと思う。配列はランダムだが、読み進む内に、前後の文脈から抜き出された「言葉たち」が、本論がこれまで辿ってきた道程と、さまざまに響き合ってゆくさまに気づかれることだろう。尚、引用はひとつのまとまりごとに行なっており、基本的に省略はしていない(一箇所だけ中略した部分は「*」で示しておいた)。
34。「言葉たち」その1、ノイズ
高橋源一郎 このあいだ、千宗屋さんていうお茶の武者小路千家の次代の宗主になる人の茶室に招かれたんですけど、その茶室は麻布にあって、東京タワ−向きに窓が作ってあって、反対側には六本木ヒルズが見えるんですけど、茶室って行ったことあります? いい茶室。 大友良英 お寺とかにあるのを見学させてもらったことくらいしかないですね。 高橋 茶室って、千利休が基本形を作ったんだけど、まず狭い、そして暗い。入る時に狭いにじり口から入って、暗いのに窓もない。そしてこれがおかしいんだけど、茶室には掛軸がかけてあって、お茶の作法では、最初にそれを見なくちゃいけない。見て何かを言うわけです。だったら、合理的に考えたら、「明るくしろよ!」ってなる(笑)。鑑賞す���っていうのが作法に入ってるのに、わざわざ暗く、ほとんど見えない状況にしている。「なんでこんなことしてるのかね?」って訊いたら、「感覚を鋭くするためです」と。  つまり普段の僕たちは、実は何も見てないんです。明るい中で目に入ってくるものを受け止めているだけ。見るっていうのはお茶で言う「拝見の型」みたいに意識を働かせて、対象に前身して、全神経を込めて見るっていうのが、本当の「見る」。だから普段の「見る」は、見ているうちに入らないっていうのが茶室の思想なんですね。音についても、茶室は真っ暗だから目の次に頼るのは聴覚です。茶室ではお湯を沸かしてるでしょ? 茶を立てる時に何をしてるのかと言うと、お湯がどういう状態かをずっと聴いてるんだって。ずっとシーンとしてるので、聞こえてくるのは自分の鼓動とお湯の音だけ。それではじめてものを考える、と。ここにはある種の合理性がありますよね。一瞬ノイズと反対のような感じがするけど、でも、これは暗くしてノイズを増やして、そして見る、ということ。  なんでこんな話をしたかというと、これを社会にあてはめると、社会のノイズっていうのは弱者なんです。障害を持っている人とか老人とか病気の人とかっていうのはノイズで、そういう人がいないほうがいいって考える。でも、それだと殺さないといけないので、どうするかと言うと、施設に入れちゃう。つまり遠ざける。昔はみんな家にいたでしょ。だから、ノイズが周りにあった。これは実は全部同じ問題で、近代というのは、すべてのノイズをなくそうとする時代です。するとどうなるかと言うと、わかりやすくなって、強い人だけが残る。意味があるものだけ。そうしたかたちが続いてきて、それが今の社会を作っている。だからね、音楽のノイズが一番正当的なんですよ、大友さん!(笑) 大友 いやいや(笑)。でも、ノイズの世界にいる人たちってやっぱりどこか感覚的にそれがわかっているところがあると思うんです。そうやって社会��不要としてたものの中に、自分にとっての大切なもんが実はいっぱいあって、そのことを感覚的に、もしかしたら身体感覚のような感じで知ってるんですね。どうもみんな、強いものとか権威のあるものに対して牙をむくクセがついちゃってるのは、そのためだと思うんです。それは反体制とか、政治的なポジショニングとは明らかに違う。もっと生きてくことの原始的な感覚として、そうなってるような気がします。 (大友良英×高橋源一郎「世界のノイズに耳をすませて」、『シャッター商店街と線量計−ー大友良英のノイズ言論』)
35。「言葉たち」その2、花火
中沢新一 日本のデモの様式は、本当に「様式」です。型がもう決まってしまってるんですね(笑)。僕が学生のときにデモというと、もう「序破急」みたいな……。何か、そういう独特のスタイルがあった。 國分功一郎 (笑) 中沢 でも、外国のデモを見ていると、あまり様式がないでしょう。道端までいっぱいに拡がって、みんな勝手にシュプレヒコールを叫んでいる。そういうのを見ていると「やっぱり日本は様式の国なんだな」と感じますよね。安保闘争のときのデモにもはっきりした様式があって、これに対する機動隊も様式的に振る舞っていた。しかも、そういうデモってだんだん組合主導になってくるじゃないですか。組合主導のデモの様式というのが、また気に入らなかったなあ。 國分 たぶん、みんなそれが嫌で、だんだんやらなくなったんでしょうね。 中沢 センスが悪いから(笑)。それでセンスのある人たちはデモに行くのが嫌になっちゃった。でも、この間の首相官邸前デモではずいぶん風景が違いましたね、半分くらいが「ファミリー・エリア」にいて、「どこが一番よく見えるの?」とか会話していて、これはもしかして花火大会なのかなと(笑)。近年のデモの様式の変化には、高円寺の「素人の乱」のサウンド・デモの影響も大きかったとは思います。 國分 流れている音のリズムや雰囲気もお祭りに近いものでしたね。 中沢 花火大会とデモが接近しているんです。花火大会だと、みんな動かなくていいじゃないですか。デモにおいては「動く」ということは重要な要素ですが、同時に動くと危険性も発生します。歩いていると、押されて警官にぶつかったりして、場合によっては公務執行妨害で���捕されますからね。でも、花火大会の場合は動かない。動いてくれるのは花火ですから(笑)。集まっているだけで動かなくてよかったというのが、官邸前デモが拡がった大きな要因の一つじゃないかな。 (『哲学の自然』中沢新一、國分功一郎)
36。「言葉たち」その3、アクチュアル
相馬千秋 今回の『光のない。』『光のない II 』の上演は、震災へのいち早い、演劇からの応答でした。しかし、それを持ってアクチュアリティがある、だからよいというふうに受け取られるのは本意ではないんです。では、単なる内容主義や時事ネタではない形で、社会に演劇が必要とされるためにはどうすればいいか。演劇はどのように他のメディアと拮抗し、その特性を発揮できるか。そういった演劇の「政治性」について皆さんはどう考えられていますか。 高山明 僕は結構、『国民投票プロジェクト』なんて名前のせいもあって、政治的なものをモロに扱う作家だと勘違いされるんですよね(笑)。でもあれだって実際は中学生のインタビューを見せているだけで、内容として政治的なところはないし、そもそも政治運動に興味があるわけでもない。それよりは、さっきの「迷子」の話みたいに(註:これに先立つ部分で高山は、迷子になった外国人が道を尋ねているのを見て、奇妙な感覚に襲われたと語っている。「そこで感じたのが、この失調感覚は、震災後、僕が一時パニックになった時の感覚と似ているなということでした。秩序の崩壊を目の当たりにして、何かがおかしいけれど、それが何かは分からないまま過ごしていた頃の、放射能を体に感じられるくらいのビリビリとした感覚が、その時蘇ってきたんです」)、作品を通じてその人の置かれた環境や思考に亀裂を入れたり、溝を作ったりするようなことができれば、その方が政治的なんじゃないかなと思います。ですから「アクチュアリティ」という言葉は、僕の中では「距離」という言葉と結びつきます。三浦さんも以前発言されていましたが、みんなが共有している時事ネタを扱って、「これがアクチュアルだ」というような舞台は僕も勘弁です。むしろ、そういう距離のない状態になってしまったものに、いかに距離を入れられるかを考えていった方がいい。たとえば、新橋を歩いていても、一九七一年という年を思い出すことはない。でも、『光のない II 』の出発地であるニュー新橋ビルと、福島第一原発が、同じ年に作られたというふうに並べられることで、一九七一年が呼び起こされてくる。そうやって「いま」という時間に中断や亀裂が入ることをアクチュアルと呼びたいし、政治的と呼びたいなと思っています。 三浦基 僕が批判したのはマスメディアで「絆」とかいってお金を集め、思潮社を動員するような、安いモラルのことなんです。もちろん演劇だって政治に利用されることはあるし、いろんな宣伝文句を使って動員したりもします。特に日本人はみんなで集まってワーッと盛り上がりたいってのがあるし。でもそういうことに歯止めをかける効果は必要だし、意義のあることです。それも税金を使って、経済としては絶対に無理なことをすることに意味がある。ダメな芸術家は「経済効果にはならないけどやる価値があるんです」って言う。もっとダメな人は「少しでも興行収入を増やして、半官半民でやります」って言っちゃう。でも、そういう経済の論理に呑み込まれること、その議論に参加すること自体、絶対にしては行けないと僕は思います。基本的には、現代演劇は無駄。でもしょうがなくて、やるしかない(笑)。それが豊かなことなんだと、私たちは言っていかなくてはいけない。イェリネクの上演にしても、原発の問題を扱うのは辛い。でもそれは日々、われわれが問われていることだし、うすうす抱いているマスメディアへの違和感を提示するきっかけにもなる。それがまず必要なことなんです。 (高山明×三浦基×林立騎×相馬千秋「ことばの彼方へーーイェリネクの演劇言語をめぐって」、『フェスティバル/トーキョー12ドキュメント』)
37。「言葉たち」その4、儀式
磯部涼 小熊さんが言う官邸前デモの達成とは、著書『社会を変えるには』のあとがきで柄谷行人氏の言葉を引いて書かれているように、「デモをやって何が変わるのか」と問われれば「デモができる社会が作れる」ということですよね。そこをどう評価するのか、という問題にようにも思えるのです。 東浩紀 僕は、「デモをやることによってデモができる社会が作れた」というのはトートロジーなので、意味はないと思う。たとえば、「ゲンロンカフェを作ることによって、こういうスペースができる東京になりました」などと言っても仕方がないわけで、スペースを作ったらその次のステップを駆動するために別の目標を決めなくてはいけない。 小熊英二 それについての私の意見は『社会を変えるには』でもっと詳しく書きましたから、ここではくりかえしません。東 言い替えれば、僕はある種の「儀式」を求めている。形式主義者なんだと思います。僕は脱原発というのは「メッセージ」でいいと思っている。「何年までに全廃」とか具体的な行程の話になると、必ずいろいろなところから異議が出て潰れてしまう。そうではなくて、「福島という悲惨な事故があった以上、われわれは基本的に原子力をなくす方向でいきます」という、極めて抽象的なメッセージを掲げて、それを国是としていくというのが大事なんです。  いま政治というとすぐ実現性を求められる。実際にスケジュールを切って、「何年までに脱原発できるの?」と問われれば、いくらでも反論が出てくる。でも僕は原発の問題に関しては、「基本なくす」ということをきちんと宣言し、抽象論として共有するということこそ、政治の役割だと思うんですね。 * 東 民主主義は、そもそもそういう儀式がなくては成立しないものだと思います。 小熊 私の言い方に翻案すれば、「原発が止まることだけが目的なのではなくて、『自分たちの力で止めた』と思える事が大切だ」ということですね。それは冒頭に私が言った運動の二つの評価基準(註:「ひとつは、政策的な運動の目的を設定して、それに即して手段を考えるということ。もうひとつは、目的達成のために人々が参加して、それを通じて成長していくということ」)で言えば、政策的な目的を実現できればいいだけではなくて、みんなが力をつけて政治決定に参加できた自覚を持てることが大切だということです。儀式が必要だというのは、ある意味ではロマンティシズムかもしれないけれど、それがないがために、政治や運動に対する無力感を現実以上に広げてしまったことの影響は大きいですから。 東 日本では99までは成果が積み上がるんだけど、最後の1個のピースがいつもない。僕がこの5、6年ずっと思っているのは、ある種のビジョンを立ち上げることが必要だということです。ビジョンと言うと「大きな物語」のようで悪い印象がありますが、それは「最後の一歩」のことなんですよ。実質をずっと積み上げていった時に、最後にそれをどう名付けるか。そういう儀式が必要なんです。この名付けるという行為がないと駄目なことってあるんです。 (小熊英二×東浩紀「どう“社会を変える”のか」、『踊ってはいけない国で、踊り続けるためにーー風営法問題と社会の変え方』磯部涼編著)
38。「言葉たち」その5、パノラマ
伊東豊雄 2012年の初めに東京都写真美術館で畠山さんが展覧会をされて、最後の部屋で被災前の陸前高田と被災後の陸前高田の写真を同時に展示しておられましたね。ヴェネチアでも同じように被災前と被災後の展示をされて、さらに、会場全体を取り巻くパノラマ写真で被災後1年以上経った陸前高田の写真を展示されました。  畠山さんの写真は、僕が今まで見た畠山さんの写真の中で最も感動的というか、こんなに沈黙してる写真はないと思ったのです。カタストロフィの悲惨な風景でもなく、かといって日常的でもない、あの写真が沈黙すれば沈黙するほど、逆に何かそこに込められている思いみたいなものがすごく伝わってくる。  畠山さんは、昨年お願いした時点では「僕はまだ写真を撮る期になれないんですよ。とてもそんな前向きな気持ちにはなれません」と言われました。決して前向きにとらえた写真ではないのですが、でもあの会場(註:第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展。伊東豊雄のディレクションの下、乾久美子、藤本壮介、平田晃久の三人の若い建築家と、写真家の畠山直哉が参加した。この展示は彼らが陸前高田で取り組んできた「みんなの家をつくろう」プロジェクトのドキュメントとなっている)を覆っていた写真1枚によって、畠山さんはきっとまたひとつ新しい境地に到達したんだなということを実感したのですが、ご本人がいかがですか。 畠山直哉 写真家はとても��思議な立場に置かれている人種です。自分の行為をよく理解できないんですね。  私は今回、4人のアーティストのひとりとしてクレジットされていますが、同時に国際交流基金のカメラマンを奉仕で兼ねました。それで会場設営作業なども撮っていたのですが、展示が完成して「じゃあ、みんな並んで撮りましょう」というときに、僕はカメラの後ろにいるでしょう。そうすると、参加アーティストとしての僕がフレームの中にいないことになる。伊東さんたちがあわてて「畠山さんも入ってくださいよ。こっち、こっち」と呼ぶんですが、もし僕がそっちに行ったら、シャッターを切る人がいなくなる。  まぁ、そのときは、僕もにこにこ笑いながらみんなの間に入って、誰かにシャッターを切ってもらったのですが、そういうときに、カメラマンというのは、やっぱり出来事の外に出なくちゃ仕事にならないんだな、ということを深く感じます。  僕は常に出来事の外に出るという癖がからだにしみついています。だから、大変な出来事を前にしても、自分で意識しないままに、ついそこから外に出ちゃうという態度で振る舞っていることがあまりに多くて、自分でもちょっと精神的にこれは危機ではないのかと思える瞬間がたくさんあります。  日常そういうふうにして写真を撮っていますから、実際に写真を褒められても、ピンとこないわけですね。たぶん時間が経つと、あのときの自分の行為はこういうことだったんだなとわかる瞬間がくるかもしれませんが、今、伊東先生がおっしゃったパノラマ写真で新しい境地に達したかどうかは、今のところ、あまり自分では分析できていないです。 伊東 畠山さんが、写真家はそうやって外側に立たなくてはならないと。そのことをさっきナレーターという言い方で言われたのだと思いますが、あのパノラマ写真は、写真技術の問題としてどうか、あるいはカメラの使い方がどうかという問題を抜きにして、今年の初めに写真美術館で見た畠山さんの被災後の写真は、外側に立てていないという感じがすごくしましたが、今回派もう一度外側から見ることができるようになったのかな、という気がしています。それと畠山さんには陸前高田とほかの場所を撮るのではまったく違う想いがあって、やはりそこがビエンナーレの写真の感動に繋がっているのではないでしょうか。 畠山 そのパノラマ写真について補足しておきますと、あれは今年の6月24日にもと陸前高田駅があった場所のそばにある瓦礫の丘から撮ったものです。撮影をしながら気がついたのですが、カメラをパノラマ雲台に載せてパンニングしていたら、県立高田病院の建物がファインダーに入ってきて、その4階の破れた窓にファインダーの中心線がピタッと合った。そのときに僕は、「あっ、そういえば、あそこまで津波が来たんだっけ!」と思い出したんですよ。カメラは完全に水平が出ているわけですから、僕がそのとき立っているところ、僕のカメラのレンズから下も、水だったんだ!と、その瞬間想像できました。  そう想像しながら、360度のパノラマ写真を24カットに分けて撮影しました。ですから日本館の壁に写真を展示したときは、そのことを英文で入れました。「この写真は津波が来た高さと同じ高さから撮られています。ここから下はすべて水没していたのです」と。目の高さにその文章がありますから、読み終えた瞬間に、自分の目から下が水没しているという想像を観客に与える。そういう効果もあの写真にはあります。 (『ここに、建築は,可能か』伊東豊雄、乾久美子、藤本壮介、平田晃久、畠山直哉)
39。「言葉たち」その6、消失/喪失
和合亮一 自分が消滅するということをどうして求めるのかなってずっと考えてきたんですが、今回の震災で少しわかった気がするんです。消滅する、消えていく、消失する、言葉を失う、家族を失う、平穏な日常を失う、……いろんなものを失ってきたし、あるいは失ったひとをたくさん見てきた……。だからこそ、よりはっきりしてくる「生」といったらいいのかな。一回、一回、そういうものを求めたい、はっきりとした存在を求めたい、確然とした世界を求めたいから、自らの手で消滅させるんだなって思った。言葉を失って、写真を撮ってもう一度、言葉を取り戻した感覚を持ったとき、震災前までは自分の言葉にしがみついてたんだなってわかったんです。やってきたことにしがみついていて視界を狭くしていた。でもすべて消し去って、ぜんぶ投げ出したときに、すごく拙い何かが自分のなかに現れてきた。そういうことを能楽師のかたはおっしゃっていたのかもれないって(註:この直前に、和合は能楽師の津村禮次郎と会話に言及している。「能楽でいちばん自分がうまくいっているときってどんなときですかってお聞きした。そうすると即座に、自分がこの世界にいないって思えたときだっておっしゃった」)。 吉増剛造 言葉を変えると、本当に巨大な喪失、底知れない喪失、あるいは巨大な虚無みたいなもの、……それが世界の次の光を見せるんだよね。……その声を聞かせるんだよね。だからそれは作品、とくに詩をつくっていると必ずぶつかります。いろんな雑音が出てくるし、いろんな言説が出てきますよ。だけどね、それを突破するようなときと、生きかたを与えられたんだよね、……。歌声とシャッターから、何かが詩の傍に出てきた、……ヴィジョンが出てきた、……だから今度の詩集がたいへんな評価を受けるとかさ、芸術家ってそういうことを考えるし、そういうことも大事ではあるけれども、本当はそれだけじゃない、……もっともっと大きな洞穴の眼みたいなものを見たからさ、……だから、これからダンテの『神曲』みたいなものを書かなくちゃいけないのかもしれないし、……だね(笑)。 (吉増剛造×和合亮一「四辻の棒杭、つぶやきの洞穴」、現代詩手帖二〇一三年五月号)
40。「言葉たち」その7、アート
宇川直宏 デモの話なのですが、まず3・11に関するデモはエクストリームである必要性がないのではないか? と。今回の場合は、別に社会的に威圧された少数派の主張を公の場に唱えているわけではないですから。「反原発!」「NO NUKES!」これは八〇年代のハードコアパンクのクリシェでもありましたが、放射性物質によって生活環境が汚染されてしまって、健康が脅かされ、内部被爆の危険に晒されている現状、脱/反原発は大衆の生の声であり、すでに全体意志である訳だから、別にここでエクストリームな主張はむしろ必要ないとさえ思います。マイノリティを含め様々な立場に存在する日本国民が連帯して、法で定められたルールにのっとったうえで、原発問題と対峙して、広く大衆にその主張を知らしめることが目的ですから、逆にマジョリティとしてのアピールが必要なんですよ。つまり暴走しないほうが国民の声として拡散されて行くし、賛同者も増える。DOMMUNEではデモの番組をたくさんやっていますけど、表現のスタイルとしてのエクストリームはけっこうありますよ。このまえ「怒りのドラムデモ」というのがあったんですが、とりあえず打楽器を持っている人たちだけがただ叩いているだけ(笑)。もちろんスネアでもジャンベでも和太鼓でも、自転車のベルでも、フライパンでも、クッキーの缶でもなんでもいい、利権を守っているやつらの鼓膜をぶち破るように、抗議の感情でドラムを叩き続ける!(笑)これは表現として、ある意味エクストリームですよね。 東浩紀 うーん。しかしそれははたしてデモなんでしょうかね。 宇川 デモです。つまりデモは社会の注目を集めて、公共の側に主張を拡散していく、それを世論に変えて行くことが目的なので、怒りや悲しみが、大衆に伝わるのであれば、どんな表現方法をとってもいいわけですよ。しかも現代のデモは、ゴミ拾いも同時に行なわれているので、デモ隊が通ったあとの路上は綺麗になっています。これって巨大な掃除機ですよ。デモ隊はダイソン以上の吸引力(笑)。これって現代アートの世界では赤瀬川原平さんたちハイレッド・センターが、メンバー全員白装束で、とにかく掃除して街並みを綺麗にしてみせた「首都圏清掃整理促進運動」という直接行動と同じで、暴力的なパフォーマンス以上にむしろ異質、ゆえにアピールとして成功しているのだと捉えることもできます。 東 ちょっと意見が違うかな。  僕は、むしろそういう行動は、逆に世の中で許されている感じがするんですよね。居場所が確保されたうえで変なことをやっている。そもそもいまでは、「アート」という言葉自体、本来はエクストリームだったものに社会的な承認を与え、馴致するために使われるものになっているでしょう。要は、「アート」と名づけられた瞬間、攻撃性を失ってしまうわけです。デモにも同じことが言えないですか。だから僕としては、『思想地図β』で震災特集号を作ることを選んだのだけど。  たとえば柄谷行人さんが、反原発デモで「デモをすることによって、日本の社会は変わる。なぜならば人がデモをする社会に変わるからだ」と演説をしていました。僕はちょっと待てと思うわけです。いま柄谷行人に求められるのは、そんな自己肯定的な演説をして聴衆に拍手されることなのか。むしろ柄谷行人は本を書くべきではないのか。デモに一〇回行くよりも本を書くほうがずっと大変なはずではないのか。これはいま、言論人やアーティストがなにをやるべきなのか、一般的な問題と関わっています。政治運動、イコール、デモみたいな発想は疑問です。 宇川 仰るとおり、3・11以降、東さんのような言論人、そして僕のようなアーティストは、どんなアクションを起こすのか? 社会示唆的な価値を問われているのは確かです。とくに自然災害のような人知の及ばない強大な力を見せつけられたあと、作家の本質は炙り出されますからね。でも僕らはそんなステージに本来立っていたのだし、それは作家の宿命だとも言えます。なので、柄谷行人さんは、本を書きながらデモに参加すればいいのだと思います。 (宇川直宏×東浩紀「「ばらばら」から始まるエクストリーム」、東浩紀対談集『震災ニッポンはどこへいく』)
41。「言葉たち」その8、言語
山田亮太 3月11日の後に、詩人の中でもいま詩人は何をすればいいのかと多くの人が考えました。沈黙する人もいれば、いまこそ詩の力をと積極的に行動する人もいました。外からも詩の言葉が求められることが多かったと思います。そんな状況を谷川さんはどう考えられていたのでしょうか。 谷川俊太郎 僕は被災者じゃないから書かないという立場ですね。出来る限り平常心を保った方がいいと考えているから、津波とか震災のことを気にしないようにしてるんだけど、���識下にはあるから、書くと自然にそういうものが出てきてるとは友人に言われましたね。詩ってそういう多義的なところがあるから、流行ったんじゃないかと思うね。 山田 書きたいという衝動はなかったですか? 谷川 ないですね、ぜんぜん。僕は自分から書くとかないんだもん。「どういう気持ちで書いてますか」ってよく聞かれるけど、「原稿料いくらかなと思って書いています」って言うと凄いしらけるのね(笑)。僕はあまり言語を信じていないんですよ。だから書けたところがあって、ああいう災害があった場合に自分の詩が役に立つっていう意識では書けないんです。和合(亮一)さんは自分も被災者として何か言いたくて仕方がなかったし対話したかったというのは凄く理解できるんですが、僕は災害について詩を書くことには後ろめたさがあります。いくつかは書きましたけどね。詩を書くくらいならお金を出した方がいいという立場です。 (現代詩手帖特集版『はじまりの対話  Port B「国民投票プロジェクト」』)
42。「言葉たち」その9、日本語
高橋源一郎 震災の直後、作家たちはみんな「書きにくい」という話をしていました。なぜ書きにくいのかというと、自分の書いたものが読めないんです。日常生活の底に潜む危機とか夫婦の不安とか、存在の不安とか、バカバカしくて書けないし、読めない。つまり、いままでの書き方では危機に対応できない。ただ、これは震災に始まったことでもないという気がします。どういうことかと言うと、ちょうど一週間前に、同じ会場で古井由吉さんの作品集の刊行を記念してトークイベントがありました。僕も登壇したのですが、そこでおもしろいなと思ったのは、古井さんはいま七五歳で、震災以降も書き続けていて、日本文学の王道を行くような人にもかかわらず、自分では全然そう思っていないと言ったんです。僕はその理由を聞いてびっくりしたんですが、自分より若い作家たちは文章がきれいすぎると。彼はいわゆる「内向の世代」に属する作家ですが、彼ら以前の作家たちは、そもそも文法的に誤りがあったり、てのをはが間違っていたりと、文章がめちゃくちゃだった。それに比べて若い作家たちはなぜ、みんなきちんとした日本語を書いているのだろう、と疑問に思ったと言うんです。すごく繊細に、細かな違いを描き出そうとしているのだけれど、その前にもっと考えるべきことがあるだろうと。たしかに古井さんの小説は、いま読ん���も日本語が変なところがある。  なにを言いたいのかというと、僕はやはり三月以降、ほとんどの小説が読めなくなりました。自分のなかで言葉に対する感覚がものすごく鋭くなっていて、まさに危機対応の状態なので、ほとんどの小説が読めなかった。たとえば和合亮一さんの詩も、すごくまじめに書かれているのだけれど、だからこそ読めない。一方で、古井さんの文章は読めたんですよ。なぜかと言えば、いろいろなものが間違っているから。つまりどういうことかと言うと、きちんと書けるということは、文章のことしか見ていないということでもあるのではないでしょうか。この世界についてもっと知りたい、それを書きたいと思うと、言葉がおかしくなるはずです、もちろん、小説家は技術によって言葉を整えるのだけれど、そういう、言葉しか見ていない作家の文章は読めなくなってしまった。僕は3・11以降とくに顕著になったのだけれど、本当はいつでもそうでなきゃいけないのかもしれない。 (高橋源一郎×市川真人×東浩紀「3・11から文学へ」、『震災ニッポンはどこへいく』)
43。「哲学」に何が出来るか?
 最初からそのつもりだったわけでは必ずしもないのだが、結果として本連載は、二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災と、それに続く福島第一原発事故、ふたつの固く結びついた出来事によって分割されたとされる時間軸をめぐって、より精確に言うなら、あの日「以後」ということ(「問題」という語は敢て使わないでおく)へのかかわり合い、コミットメントのありようをめぐって、とりわけ広義の「芸術」や「表現」或いは「言論」と呼ばれる領域において、私なりに思考を巡らせてみる、というものになっていた。それはもとより何らかの答えなり結論なりを目指してきたわけではない。私はただその時々に出会った/見知った「芸術」や「表現」や「言論」から対象を選び、言葉を書き連ねてきただけである。そしてその道程も、まもなく終わろうとしている。  デイヴィッド・ヒューム研究を出発点とする一連の因果論(『原因と結果の迷宮』『原因と理由の迷宮』『確率と曖昧性の哲学』など)で知られる哲学者の一ノ瀬正樹は、茨城県南部の自宅二階の書斎で、あの日あの時を迎えた。「最初はいつものこととたかをくくっていた。しかし、揺れが激しさを増す。ドアの敷居のところに行って身を守ろうとする。まもなく、生まれて初めて経験する大きな揺れが襲ってきた」。
 ここから新しい世界が始まった。まもなく水道が止まり、電気もストップした。私はラジオを持っていなかったので、その日の晩遅くに車載のワンセグでテレビが見られることに思い至るまで、一体何が起こったのか分からずにいた。ようやく情報を得て、東北地方でとてつもないことが起こったことを知る。巨大地震と大津波、東日本大震災である。下半身から力が抜けていくような感覚を覚える。数日間、ロウソクともらい水の生活をした後、ようやくライフラインが復旧するかと思った頃、津波震災の結果として、福島第一原子力発電所一号機から四号機までが次々と爆発した映像を目の当たりにすることになる。三月十二日から十五日にかけてのことである。
 それから約二年の時を経て、一ノ瀬正樹は『放射能問題に立ち向かう哲学』という書物を上梓した。右はその「はじめに」から引いた。このように(誰もがそうするように)自身の体験と実感の記述から始めながら、この本の著者の姿勢は、他の数多の「以後の論者たち」とは、かなり異なっている。この本は「東日本大震災と原発事故に起因する放射性物質拡散の問題について、原発それ自体の是非をめぐる政治的問題性やイデオロギー性から一旦切り離して、あくまで放射線被爆の健康影響にまつわる事実認識・事実評価を論じるというスタンスから、哲学専攻の著者が少しずつ書きためてきた哲学ノート」なのである。  『放射能問題に立ち向かう哲学』で展開/吟味される主張は主として四つ、それらはあらかじめ「はじめに」に提示されている。以下に掻い摘んで記すと、(1)「たとえかりに被災地からやや離れた地域に住む人が、放射線被爆によって二〇年後に病死するという事態が発生したとしても、二〇一一年三月十一日に津波によって溺死や打撲死したという人々の方が、圧倒的に余命が短かった」のだし、また「避難生活や仮設住宅暮らしを余儀なくされている方々の、そうした生活に起因する苦悩も、現在進行形の物理的な苦しみであり、晩発的な苦しみよりずっと実在的である」。従って「放射能問題」ばかりクローズアップすることは、却ってマイナスになりかねない。(2)「放射能が原発から漏れ出してしまったという事実はすでに起こってしまったのであり、キャンセルできない」。ゆえに「日本に暮らす限りは、以前よりなにがしか多い不必要な放射線被爆をする蓋然性がやや高いという事態(現存被爆状況)に向き合うしかない」。だからこそ「現存被爆状況」を「程度の問題(a matter of degree)」として冷静に認識しつつ、「この環境の中で私たちはどのように生き抜いていくか、どのように社会を構築し、復興していくか、ひいてはどのように生きる目標や喜びを見いだしていくか」を課題にするべきである。(3)だが「少なくとも放射線被爆という生体的影響に関わる点では、外部と内部の両方の被爆に関して、最初に懸念されていたほどには深刻にならずにすんだという事実も確認するべきである」。「被爆線量の情報からして、余計な被曝はせいぜい胸部CTスキャン一回の医療被曝と同程度」か、それ以下である。そしてこれは国や電力会社の責任や原発の是非とは別個の問題である。 (4)しかしながら「津波震災そして原発事故が人々の心に及ぼした影響は、大変に甚大である」ことは言うまでもない。それゆえに不安や不快や不信、不当な差別や不毛な論争などといった「不の感覚」が、今も大量に社会全体を覆っている。「もしかしたら、この事態こそが放射能問題がもたらした困難の核心、最大の有害性かもしれない」。このような事態の克服をこそ目指さなくてはならない。そのためには「一つの発言、一つの行動には、良い面と悪い面の両方が伴う」という「道徳のディレンマ」に敏感であることが必要である。  これら四つの論点を、一ノ瀬氏は本文で「専門家や有識者の見解に学び、それに沿って考えていく」。『放射能問題に立ち向かう哲学』に先立ち、伊東乾(音楽)、影浦峡(情報論)、児玉龍彦(分子生物学)、島薗進(宗教学)、中川恵一(放射線医学)の諸氏と交わした討議と論考を纏めた『低線量被曝のモラル』も出版されている。各論点の詳細には立ち入らないが、かくのごとき一ノ瀬氏の主張が、少なからぬ反論や疑問に晒されるであろうことは想像に難くない。とりわけ「反原発」をエモーショナルに信奉しているような者には、おそらく大いに不満だと思われる。『放射能問題に立ち向かう哲学』の「おわりに」で、一ノ瀬氏は、現在の状況下では「安全性の度合いを高めること」と「度合いが高められないことが判明したものは少しずつなくしていくこと」、すなわち「度合い」と「少しずつ」という二つの概念が必須であると述べ、だがこのことがなかなかわかられていないと書く。「しかし、どうも私とは異なる捉え方をする方々がおられた。「度合い」と「少しずつ」という論点などは関係なしに、「いかなる被曝も危険」とか「不安を抱くのは当然」といった言説が流通し、そういう捉え方がむしろ社会正義を体現するかのような報道が多々なされたのであった」。
 放射線を徹底的に避けること、そういう行動が容易に実行可能であり、しかもそうすることで別の害を発生させないのであるならば、そういう行動を取ることはまったく個人の自由だし、むしろ推奨されるだろう。けれども、残念ながら、私たちの世の中の多くのことは、もっと複雑なのである。一つの害を避けるという行為はそれ自体としてはの労力を必要とするのであり、そのことによって、別の害を産み出してしまうことがあるのである。(略)  放射線被曝を避けようとする「避難」という行為に、まさしくこのことが当てはまる。正直なところ、(中略)いかなる被曝も危険だと主張する方々が何を述べたいのかが私には本当の意味では理解できないのだが、もしそれが、福島原発周辺の広範な地域に住む人々に「避難」を勧めているということだとするならば、それは、現状に関するこれまでのデータからして、有害な勧奨であることはほぼ間違いない。人々を救うどころか、かえって人々を苦しめ、場合によっては死に至らしめてしまいかねない、迷惑な、そして危険な勧めである。(略)ネットなどを通じて、子どもを守るのは親の当然の務めだとして、避難したり、福島産の産物を忌避することなどを宣言している人がいるが、それは、長い目で見るならば、結果として、自分自身に、そして他人にも、害を及ぼす恐れのある危険な行為であることに気づくべきである。せめて、人に語ることなく、自分だけで実行するところでとどめてほしい。他人を巻き込まない行為は、自身が受ける害益はどうあれ、基本的に自由だからである。
 この、ほとんど静かな憤怒ともいうべき文章の意味するところを、どう受け止めるかも、読む者によってかなり異なるだろう。私自身はといえば、一ノ瀬氏の主張に概ね同意すると同時に、極私的な「不の感覚」の膨張に突き動かされて、「度合い」と「少しずつ」を頭で理解はしても採用することが出来ず、やみくもに「避難」や「忌避」を表明したがる心性を、やはり否定することは出来ない。私自身はまったくそうは思わないが、そうなってしまう人が存在することを前提にしないで、「以後」を考えることは不可能だと思うからである(一ノ瀬氏の立場も実際にはこれに近い)。ともあれしかし、繰り返しておくが、『放射能問題に立ち向かう哲学』という本の主題はあくまでも「放射線被曝の健康への影響」であり、著者はその中で「原発」にかんして肯定/否定いずれのステイトメントも述べてはいない。そして「放射線」にかんして、科学的なデータや資料、専門家による多数の研究を援用しつつ、論述の構えとしては、一ノ瀬氏が「あの日以前」から長年継続してきた「因果」や「パラドックス」についての思考、すなわち「哲学」を駆使している点が、この本の最大の特長である。つまり一ノ瀬正樹は、こう言ってよければ、単に自分にやれることをやったのである。それはしかし、哲学者としての責務でもなければ、もちろん権利でもありはしない。書名に選ばれた「立ち向かう」という言葉の意味を、私たちは、よくよく考えてみなくてはならない。
44。「私小説」に何が出来るか?
 佐伯一麦の『光の闇』と『還れぬ家』は、これまで幾度か取り上げてきた「以後の小説」の風景に、また新たな光を投げかける。どちらも「二〇一一年三月十一日」を挟んで書き継がれたものである。『光の闇』は「欠損感覚」をテーマとする連作として雑誌「en-taxi」に数年がかりで発表された七編の短編に、やはり「欠損」が描かれているが「私小説」ではない「二十六夜待ち」を加えて一冊としたものである。「鏡の話」では聴覚、「水色の天井」では左足、「髭の声」では視覚、「香魚」では嗅覚、「……奥新川。面白山高原。山寺」では声の欠損が、それぞれ主題とされている。佐伯一麦の多くの作品と同様に、それらは作者自身の実人生に想を得ていると思しく、各編に登場するさまざまな欠損を負った人物たちも、おそらくは実在している。健常者であれば、ごく普通に身体に備わっている筈の感覚を何らかの理由によって失った人たちが、しかし「欠損」を殊更に否定的にも肯定的にも捉えることなく、いわば人生のありのままの現実として静かに受け止めている姿が、いつもながらの淡々としつつも鮮やかな筆致で描かれている。  連作が五作目まで発表された後、あの日が訪れた。その後に書かれた「空に刻む」は、一作目の「鏡の話」の後日談である。仙台在住の作家である「僕(「茂崎皓二」という名前を持っている)」は、市民センターの文学講座で知り合ったろうの老人の「堀井さん」が、やはりろうの夫人と二人で住む海に近い自宅を「鏡の話」で訪問していた。「堀井さん」は講座に熱心に通ってきて、「僕」と筆談で会話を交わすようになり、やがてFAXでの個人的なやりとりも始まった。「ろうの人が自分で書き記した体験の話は少ないんです。それを、私は書き残してから死にたいんです。ですから文章の指導をお願いします」と、ある時のFAXにはあった。「鏡の話」では、堀井宅でのひととき、「僕」がロンドン土産に買ってきた万華鏡を夫妻に手渡しつつ、染めた糸を編んで服やアクセサリーを作るアーティストである妻が工芸展に出店するのに同行したロンドンで、急に入り用になった大きな鏡を探して町中を奔走した際の苦労話を筆談で物語る。言葉がちゃんと通じない外国での体験と、耳の聞こえないろうの人々の日常感覚が、穏やかに、やんわりと織り重ねられる。  それから三年近い月日が過ぎた「空に刻む」は、震災後、「僕」が宮城県立美術館で、聴覚障害者でもある画家の松本竣介が一九三七年に描いたとされる『郊外』を見た時のことから語り起こされる。「何層もの深いみどりの森の中にある白い建物は小学校だろうか。その校庭で子供たちが遊んでいる。犬もいる。瀟酒な家々も緑の中に見え隠れして点在している」。それは「メルヘンチックとさえも感じられ、正直のところこれまでは、その絵の前に立つと僕は、多少の気恥ずかしさを覚えないでもなかった」。ところが、あらためて見た『郊外』は、印象がまるで変わっていた。
 そこには、震災以後、何度となく想像させられることになってしまった光景が描かれているように、僕には感じられた。  左右に黒っぽい青と深い緑の海藻がゆらめく海の底に、小学校らしい白い建物が沈んでおり、その校庭では子供たちが遊んでいる。犬もいる。そして、背後の“みどりの波間”に、津波に浚われた白い瀟酒な家々が見え隠れしている……、というふうに、同じ画面が、震災前に目にしていたときとは、一変して見えた。  もちろんその風景は、絵を描いた当時に住んでいた東京の落合とも、幼少年期を過ごした岩手県の花巻や盛岡とも言われているが(現実を自由に再構築する名手だった松本竣介だけに、そのどちらでもあったのだと僕には思えるが)、ともかく地上の郊外を描いたことは確かだ。だが、そのときの僕には、地震の後に津波に襲われて流され、海の底に存在しているもう一つの世界の光景と思われてならなかったのだった。
 その絵の前で立ちつくしながら「僕」は「堀井さん」のことを考える。海沿いの土地に住んでいた「堀井さん」と奥さんは「家から一キロほどの距離の中学校に逃げ込んだものの、奥さんのほうが津波に呑み込まれて行方不明となっている」。そして「堀井さんは、娘さんの所に身を預けることになったが、いまは誰とも会いたくない、と固く心を閉ざしている」。震災から十日ほど経った頃、「僕」は「鏡の話」と同じように、以前に「堀井さん」の自宅があった場所に行ってみようとする。だが、津波の被害はあまりにも惨く、そこまで辿り着くことさえ出来なかった。  「空に刻む」は、震災から四ヶ月後(それはつまりこの小説が書かれた時のことだ)に「僕」が「堀井さん」に宛てた手紙で終わる。「堀井さんはいま、どこでいかがお過ごしでしょうか」と書き出される文面は、やがて美術館で松本竣介を見たことを語る。『郊外』と一緒に『白い建物』という作品も見た。「絵の中の建物の上には青空が描かれていました。その受苦の色の青を目にして、以前堀井さんから教わった空文字のことを思い出していました」。「空文字」とは、筆談用の紙がない際に、宙に文字を書くことをいう。この言葉を「鏡の話」で「僕」は「堀井さん」から教わったのだった。
 堀井さんが、樹々の緑や草花、そして青空に目を留めるようになるのはいつのことになるでしょうか。そのとき、青空に空文字を一文字書くとしたら、どんな文字となるでしょうか。
 言うまでもあるまいが、この短編の幕切れがこの上なく感動的なのは、筆談で会話を交わしてきた「堀井さん」に向けて、小説の中の手紙という形で、「僕」が、いや、佐伯一麦自身が、声を投げ掛けているからに他ならない。誰とも会おうとしない、どこに居るとも知れない「堀井さん」は、だがしかし、もしかしたら、これを読むかもしれない。たとえ返事はなかったとしても、この小説の姿を纏った手紙を(それは「手紙の姿を纏った小説」と言っても同じことだ)読んだかもしれない。そんな微かな希いが、この「空に刻む」という小説が書かれた動機であり、存在理由となっている。つまり、この「手紙=小説」も、一種の「空文字」なのである。  連作の末尾となる表題作「光の闇」では、「髭の声」に登場した「僕」の旧友である盲学校教師の「棚橋」が、東北地区の盲学校の弁論大会の審査員を「僕」に依頼してくる。あいにく「棚橋」自身は異動となり、大会には不参加だったが、「僕」は引き受け、盲学校の生徒たちの弁論に耳を傾ける。震災時の体験が聞けるかと思っていたのだが、実際には「すべてが自分の障害に関するエピソードを語ったものだった。自分がいつ、どこで失明したのか。そこからどう立ち直ったのか」。震災から一年後、「僕」は「棚橋」、そしてやはり「髭の声」に登場していた盲学校の「吉岡先生」と「中山先生」、そして初対面の「太田先生」と居酒屋で語り合う。三人の先生いずれも全盲者である。「僕」は気づかなかったが、じつは三人とも、あの弁論大会に出席していたのだった。彼らは「僕」が聞きたかった震災体験を、それぞれに語る。七つの短編小説から成る連作は、こうして幕を閉じる。  長編小説『還れぬ家』は「新潮」の「二〇〇九年四月号」から連載が始まり、約三年半にわたり書き継がれて「二〇一二年九月号」で終了した。途中何度か休載が挟まるが、「二〇一一年四月号」から「二〇一一年七月号」まで二ヶ月のブランクがある。もちろん震災によって中断したのである。連載が再開されたのは第八十章からだと思われる。その間の事情について、やはり佐伯一麦とほぼイコールである「私」は、作中に登場する「二〇一一年三月十五日火曜日」という日付の付いた「震災以後の出来事のメモ」に、こう記す。
 電話がようやく繋がるようになり、S編集部より見舞いの電話あり。「還れぬ家」、今月は取りあえず休載とさせてもらうことにしたが、これから先を書き継ぐことが出来るのか、大いに不安となる。連載の今の時点では、作中の「私」は、二〇〇八年八月を生きているところ。そして、父は、連載を始めた翌月の二〇〇九年三月十日に死んだ。あと数回を費やして、その父の死までの半年余りを、現在進行中の出来事として再現させるつもりだった。だが、三月十一日の大震災によって、小説の中の時間も押し流されてしまったのを痛切に感じる。もはや、前に続けて書き進めることは無理かもしれない。父のことが、急に遠景に退いたように感じられる。その実感に就き従って、小説に段差が生まれるのを恐れずに、現在進行中の出来事から回想へと表現を変えるべきか。
 そして実際、重度の認知症に陥った父親と、息子の「私」、「私」の妻、母親という四人の家族(他に兄と姉も居るのだが、実家の近隣には住んでいない)の数年間を克明に描いてきたこの小説は、第八十章以降、いきなり父親の死後に記述が跳び、それからは当初の予定であった「父親の死へと至る時間」と、執筆時の現在である「震災以後の時間」が、並行して語られてゆくことになる。それは当然、唐突さを拭えないし、いささか混乱した印象も与えている。それでもやはり、作者はそうすることを選んだ。そうせざるを得なかったのだ。  右の「メモ」とほとんど同じ心境を、佐伯一麦は二〇一二年二月三日に東京大学本郷キャンパスで行なわれた公開講義『震災と言葉』(岩波ブックレットで冊子化されている)の中で語っている。この講義の時、まだ連載は継続中だった。「僕が主に書いている小説は「私小説」と言われるジャンルです。(略)その時に思ったのは、自分の実感を裏切りたくない。ということでした。それを裏切らないことが、自分の小説表現の一つの立場であろう、と。そうすると、その前に書いていたやり方では書けなくなってきたという実感が、やはりどうしようもなくあるわけです」。
 もう少し具体的に言いますと、例えば小説を書いている時には、時間の流れというものがある。明日とかあさってとか、三ヶ月後とか、あるいは三年前に父はこうだったとか、時間の流れみたいなものがあるわけです。すると、着々と時間の経緯というものがある場合は、それで通用するのだけれども、明日、といってもまだ余震がずいぶん続いているような状況で、明日どうなるか分からない。二週間後とか三週間後とか書いても、自分自身が二週間後や三週間後を信じられない、そういう言い方を、肉体の方が信用していないわけですね。自分自身が、三週間後はこの状態のまま続くとはとうてい思えないという場合に、その三週間後とはどういう意味合いを持つのか。一年後、二年後というのも同様です。
 「時間の流れみたいなものを書こうとするだけで、手がこわばるといいますか……」。「メモ」にあった「段差」という言葉が、講義では「断層」とも言い換えられる。「時間の断層」によって「小説」が塞き止められてしまっているのだ。「小説の言葉というのはあくまでも時間の推移というものが信じられるぐらいの日常性がないと、そもそも出てこないということです。それがないと、言葉による表現は成り立たないのではないか」。だが「日常性」は失われてしまった。
 さすがに今回の震災みたいなものだけは、事前に考えようにも考えられなかった。いくら仙台では三十年以内に九十九%の確率で大きな地震が起こると言われても、こんなふうになるとはやはり考えられなかった。しかし、それについて僕自身は、書き手としても何となく敗北感のようなものをいまだに持っているのです。ただし、そういう状態の中で、この作品を最後まで書き切るということでしか、これは自分としても乗り越えられないのではないかと思っています。
 そして佐伯一麦は、こう語ってから残り数回の連載を経て、『還れぬ家』を完結させた。小説は第百八章まで続いたのち、「早瀬光二の手記」と題されたエピローグで終わる(「早瀬光二」とは作中の「私」の名前である)。「平成二十年三月十一日に、アルツハイマー型の認知症である、と診断された父は、それからきっかり一年の余命を送り、翌年の三月十日に亡くなりました。父の存命中に筆を起こしたときには、これほど早く父が逝くことになってしまうとは思っていませんでした」という述懐から始まる。前に述べたように「新潮」で連載が開始されたのは「二〇〇九年四月号」だった。同誌が発売されたのは三月初旬、雑誌に入稿されたのは二月、ということはつまり、ほんとうに「これほど早く」父親は亡くなったのだ。『還れぬ家』は、その出発時から間もなく、既に一度、或る「断層」を超えていたのである。  この小説自体が「私=早瀬光二(=佐伯一麦)」による一種の「手記」と言えるのかもしれないが、その最後にあらためて「早瀬光二の手記」として置かれた文章には、それまで描かれていなかった父親の葬式、そして震災後に重篤な被害に遭った地域に赴いた時のことが語られている。そこに「聴覚障害者のMさん」の話が出てくる。「ご主人が運転する車で避難所に指定された中学校の建物へ辿り着いたものの、車を駐車場に入れようとした夫が、突然襲ってきた津波に目の前で流されてしまい行方不明となってしまった」という「Mさん」は「震災以降、誰とも会いたくない、と娘のところに身を寄せている」という。「Mさん夫妻」の家には「大きな鏡」があったというのだから、いやがうえにも「鏡の話」と「空に刻む」の「堀井さん」を思い出してしまう。だが、頭文字は異なるし、津波で行方不明になったのが夫なのか妻なのかも違う。しかしそれは、何らかの配慮によるというよりも、「私小説」とは、「小説」とは、そういうことをするものなのだ、ということなのではないか。「堀井さん」や「Mさん」が、実はまったくの虚構の人物であったのだとしても、その事実によって、これらの作品の意味が根こそぎ損ねられてしまうわけではない。なぜならば、そのようなひとは、間違いなく現実に居たに違いないからだ。
45。「世界」が君に救われるように
 稲川方人の『詩と、人間の同意』は、『彼方へのサボタージュ』と『反感装置』(いずれも一九八七年刊行)以来、およそ四半世紀ぶりとなる詩人の随想集である。『彼方』は詩論、『反感』は映画を中心とした評論の集成だったが、この本は、ちょうどその中間の表情をしている。  もともとは、もっと前に出る筈だったのが、著者自身の意向によって、この二〇一三年の五月まで、刊行���遅らせられた。更に、当初の予定から書名を変更し、内容や構成も一部改められている。稲川方人は、その理由を、冒頭に据えられた「はじめに」で明確に述べている。
 本書の初校ゲラが二〇一一年三月以前に組まれてあったからである。一年ほどゲラを手にすることも避けていて、二〇一二年六月になってようやく目を通した。この「まえがき」も改めている。書名を変えたからといって何が変わるわけでもない。初校に組まれてあったいくつかの文章を割愛したりもしたが、変えようとすること、そして、だが変わらないことーー二〇一一年三月から一定の時間を経たいまの苦い心象だ。ただ、私個人を吐露すれば、変わらないことと「詩」の終わりとはもはや同義にしか思えなくなった。
 稲川方人という詩人は、登場した時から「詩の終焉」と共にあった。それは「文学の終焉」と言い換えてもよい。だがその「終焉」は、いつまでも真の幕引きを迎えることはなく、「終わり」の儀式を限りなく引き延ばしながら上演してきた。稲川の言葉は「詩=文学」を終わ��せる決意を漲らせながら、しかしその終わらなさから目を背けることもなく、数十年の時間を過ぎ越してきた。そして「二〇一一年三月」があった。そこで何かが決定的に変わったのではなく、それでも変わらなかったということが、終焉が竟にやってきたのではなく、それでも終わらなかったことが、言葉が失われたのではなく、それでも言葉が今なお延命していることが悲劇なのだ。「私の個人的な任意でしかないことだが、「人間の同意」を希求しながら「同意」自体が詩から(文学から)奪われていく過程がこの二十数年だった。二〇一一年三月の出来事がそれを明らかにしたのではなく、以後の時間がそれをあからさまに象徴したのである。そして、その被剥奪の象徴はまだ完了してはいない。この認識をできるだけ直線的に了解したいと私は思う。詩的な(文学的な)当為が無意味かどうかを問うことにたしかにいまは消耗しているが、それが「震災以後」という言説の特権であろうはずはない。また「震災以後」という言辞をめぐる理性的かつ知的な議論も消耗である」。そして詩人は、一切の勿体抜きに、おもむろにこう告げる。
 私は福島県南部の区域に生まれ、ある年齢までそこで暮らした。そこが私の「郷里」であり(無意味なことを言うが)それゆえ、自分の生に唯一、同一性を持つ場所である。個人的で超越的なその場所とそこでの経験に即して私は二篇だけ随想を書いたことがある。当初はそれも収めてあったが、削除した。国家/資本の余りにも脆弱な根拠による、余りにも無造作と言うよりほかない「殺戮」と「暴力」から、自分のなけなしの同一性を避けておきたいからだ。また、何ら特異でもなく、なんら特殊でもない「福島」という地名の、この間の異様な顕現にもいっさい与したくない。
 この本の最後には、書き下ろしの文章が収められている。「郷里が避難区域になったら、俺はそこに戻って被曝しながら抵抗するよと、オーストラリアン・リトルホースに耳打ちした」という長いタイトルの付けられたその文章は、それ自体かなり長いものだが、読点は一つきり、つまりひと続きの一文である。「国家・共同体そして生命領域に決定的なことが起こっているし、いまこの時刻にもさらに決定的なことが起こりつつあり、またこれ以後も次々に決定的なことが起こるというのがいまわれわれが経験している震災からの予断のない日々であり、その決定的ななにものかは、「以後」とか「以前」とかの理性的なチャートが無意味だと拒んでいるようにも思えるので……」という書き出しを読みながら、私は背筋が伸びるような気がする。そして「私は、ただ私が見るべきものを見て、知るべきものを知るということにしか自分の態度はないと思うようになり、その狭い意志の範囲でも、見るべきもの、知るべきものは多くあって、そのひとつ、ほんとうなら断じて見たくはないし、断じて知りたくはない事象なのだが」、福島第一原発の近くで、罪なき生きものたちの殺戮が起きていることを、詩人は見て、知ってしまった。それから詩人は、かなしみと怒りに打ち震えながら、二十数年ぶりに編まれつつあった本の作業を中断したのだった。
 福島第一原発から七十数キロの地に位置する、福島県中通りにある小さな町に生まれ育ち、いまは無産者のひとりでしかない私は、何をするべきかではなく、何を考えるべきなのかと、それを自分の重責とするよりほかないそんな折りふと思い出すのは、子供のころ、と言っても十代の終わりのころは自分には二十一世紀は関係ないと思っていたことであり、一九四九年に生まれている私の年齢が五十歳を越えるのと二十世紀が終わるのとはほぼ同じで、五十歳を越えるころに自分はこの世からいなくなるのが妥当だと子供のころは確信していたので、余分な二十一世紀が始まって間もなく、たとえば二〇〇一年の九月には、ほらやっぱり無用に生きているから見る必要のないものを見てしまうことになるんだと昔の自分のいかにも文学的な感性が正しかったかを痛感したが、それから十年経って、しかし今度は、見るべきものを見る必要に直面している自分を、やはり無用な生を生きてしまったのかと思いながら、
 読み続けながら私は、このような文章を、詩人が何を思いつつ書いているのだろうかと考える。ここにあるのは諦念でも断念でもない。それは限りなく絶望に似ているが、しかし彼は、それでも書くことを選んでいる。いったい何のためになのか。そんな問いには、何の意味もありはしない。ただ彼は書いたのであり、だから私はそれを読んでいるのだ。  私は、この連載を、『詩と、人間の同意』の終わりの、長い長いひと続きの文章の終わりで終えたいと思う。
 子供や猫や小さな生き物には暮らし難い私の住む借家のある住宅地から多摩川上流へ、いつものように自転車を走らせていると、黒と茶のなんとも優しい顔をした柴犬に出会い、声をかけると、名前はチャミオだと教えてくれたその飼い主の訛りのイントネーションが間違いなく私の郷里の近くだと分かり、「棚倉ですが」と言うと「須賀川だよ」と答えたその声に涙を堪えるのが精一杯で、苦難にある互いの田舎のことを話す気にはまるでならず、行儀よく足下に座ってふたりを見上げていたチャミオに、世界が君に救われるようにと言うしかなかったが、須賀川にいる兄弟たちに見舞金を出すのに苦労したよと言う飼い主のおじさんはもちろん理解してはくれなかったし、「世界」という言葉がいかにも虚しく響いて苦笑いもできなかった。
(了)
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komyu27 · 3 years
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松岡英明ツイキャスプレミア配信 『音楽でおうち時間をハッピーに♡』企画第4弾! 《LIVE FUTURE TOY》1,000円ポッキリ!!  ファン感謝プレミア配信  (2003年6月14日開催@原宿アストロホール) 初回配信:2021年3月14日(日)
『おうち時間をハッピーに♡』シリーズは 過去に発売されたDVDを 視聴者の皆さんと 松BOWとともに視聴して 貴重なエピソードを聞いたり、 ツイキャスでのコメントで盛り上がったり、 おまけにアーカイブ期間は 2週間あり、 正に『おうち時間』が ハッピーになってしまう企画。
しかも今回は 初回配信がホワイトデー♡ということで、 ファン感謝プレミア価格の 『1,000円ポッキリ!』 良いのですか!!
そして、今回も初回配信のほか、 視聴会が2日設定され、 そのすべてに 忙しいスケジュールの中 松BOWも参加。 ファンの皆さんと コメント欄で盛り上がるのも楽しくて DVDを持っていても 参加したくなる。
今回も意外なエピソードが聞け、 『楽しい』以上の 有意義な1時間だった。
セットリストはこちら。
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アルバム《Future Toy》を全曲プレイするライブ。 これまで松BOWが数回開催している 『コンプリートライブ』シリーズを彷彿とさせる。 アルバム全曲をライブで聴けるって レアで贅沢だ。
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DVDのパッケージと盤面。 『押し入れの中で眠っているFuture Toy』のイメージだろうか。 映画のポスターのようなストーリー性を感じる。 写真は植田敦氏。 リーフレットにも素晴らしく素敵なフォト。 植田氏は、当日の現場で背景の絵を描いたそう。 (松BOWによるツイキャスコメント)
では、セトリの順に、 ライブや視聴会の様子を 綴っていこう。
オープニングは アルバム《Future Toy》プレミアムエディション収録 【LOOK@ME(Mix@Mix)】が流れる中、 バンドメンバーの紹介映像。 (ちなみにプロデュースは TV-NOiZのメンバーティービーこと Super DJーYuuki 氏!) ステージ上の映像だけでなく、 リハーサル風景らしき映像や、 アルバムのブックレットに掲載されていた 名古屋の鶴舞公園でのショットも挟まれ、 ファンにはたまらない映像。 曲に合わせての 映像の切り替わりがカッコ良かった♪
〈メンバー〉
Vocal:Hide@ki Matsuoka
Electric + Acoustic Guitars:Eiji Kawai
Keyboard:Hajime Fukuda
VJ:Super DJーYuuki
【01 Future Toy】 松BOWが映し出されると、 ベリーショートの髪型にちょっとした驚き。 素敵、端正な顔立ちが際立つ。 Vネックの黒の(フード付き?)カットソーに赤いパンツ。 赤の指なしグローブに、 バックルチョーカーは赤と白。 腕には白の太めレザーバングル。 スタイリッシュなサングラスは クリスチャン・ロスのものだそう。 (松BOWコメントによると、 色違いも含めて三個所有されているとか) 映画『マトリックス』をふと思い出した。 王子的衣装も、 英国紳士的な衣装も素敵だけれど、 近未来的でちょっとワイルドな雰囲気の 衣装も新鮮でお似合い。 (何お召しになっても以下略) 音に関しては テクノサウンドがベースになっており、 非常に好み ♪
松BOWコメントによると、 【Eyes of the EINSTEIN ZOO】で挑戦した セリフを歌にするというのを もう少し音楽的にと作ったそう。 ラップと違ったものにしたかったと。 納得。
それにしても 【Future Toy】(未来のおもちゃ)って発想! 物ではなく生き物としてのってところも! 個人的に大好きなアルバムなので、 ライブ映像とともに楽しめるのがとてもうれしい。
【02 Blow Up】 【03 天使】 ここまではアルバムと同じ順。 【Blow Up】の熱さ! 『大人の熱』が感じられる大好きな楽曲。 2曲目ですでにヒートアップ。 サングラスを外す仕草もカッコ良かった。
【天使】も人気曲。 タイトルから受けるイメージと違い 力強いメッセージに心打たれる。
ここから衣装チェンジ。 黒のフリルたっぷりのブラウスに 白のエアリーなフード付きシャツジャケット。 先ほどの衣装とイメージががらりと変わり、 ゴージャスでエレガント。 松BOWコメントによると、 【以心伝心】と同じく 『天使』という日本語を 洋楽みたいな気分でメロディに乗せたかったと。
貴重な制作エピソード続々である。 今回の配信や視聴会は特にそんな印象を受けた。
【04 Edge of Space】 これも↓松BOWコメント シングルのB面的なイメージで作った曲で アルバムに入れるのを迷ったそう。 ライブでお披露目した時に 客席がザワザワして、 歌い終わった後に 『お帰りなさい!!』という掛け声があったと。
こちらもコメントを拝見していると人気曲。 私自身はライブで聴いて好きになった。
宇宙的な広がりあるサウンドには あたたかくてロマンティックで、 松BOWらしい包容力の大きさを思わせる。 【百年の恋】の歌詞とリンクしているとのこと。
【05 Life in Tao】 この曲は、老子の道教(TAO)を抜きにしては語れないだろう。 私も数年前買って読んでみたけれど、 コロナ禍の今、 再び読み返してみたい、 心の支えとなる言葉に溢れた教えと思う。 松BOWコメント↓ 歌詞にある『真円の虹』は 空から見ると虹はまんまるだと聞いたことがあって 是非使いたかったとのこと。
そして、少ない言葉でこの曲の世界観を表現するのに 凄く苦労したとのこと。 モノクロながら、墨の濃淡で 豊かな色彩を感じさせる 墨絵のような楽曲。 松BOWの引き出しの多さ、 広さを思う。
【06 LOOK@ME】 聴けば説明のいらない 人気のアッパーチューン。 奈良部氏から提供された ジャングル・ビートのループにインスパイアされて作ったそう。
間奏で素晴らしいマイクパフォーマンス。 左手に持っていたマイクを 右手へと投げて受け止め そのまま一回転させキャッチ! 成功率低いのに (何回に1回とコメントされていたけれど失念失礼!) 本番で成功させるあたり、 ホント松BOWだわーと思う。 めちゃカッコ良く決まっていたので リピートした場面 ♪
【07 Mysterious Stranger from Mars】 こちらはライブ本番での映像ではなく、 当時ライブに参加したファンには サプライズ映像だったそう。
セピア色の画面。 スーツ姿(アルバムのブックレットでも着用) が非常にお似合い。 (個人的にこちらのスーツ姿が一番好きなので 心の中で絶叫。 色香の漂い方が違う。) この曲も本当に好きな曲で 言葉を失う。 楽しい。
↓松BOWから制作に至ったエピソード紹介↓ 『アリーナ37℃』という音楽雑誌の連載で 自身の楽曲を題材にした 『(Matchan‘s Marchen)マッチャンズ・メルヘン』という 短編小説の中の 【Visions of Boys】の回で、 架空の曲【Mysterious Strager】を 松BOWが歌う場面がある。 (ご自身の著作《Not for Sale》にも掲載されています) それをいつか曲にしたいとずっと思っていて、 時を経て実現させた楽曲。
また、その 【Mysterious Strager】という原題の マークトウェイン作『不思議な少年』の紹介もあった。 こちらも読んでみたけれど、 インスパイア受けたのだろうなと思い当たる内容。 ミステリアスでシニカルな少年が 何故か松BOWにも重なったり。 未読の方ぜひ。
【08 百年の恋】 悠久の愛を感じる名曲。 こちらも制作のきっかけとなった エピソードが披露された。 余命数年の旦那さまと、 奥さまの闘病の日々を追った ドキュメンタリーに触発され 作ったとのコメント。
限りある時間の中だからこそ 感じられる永遠の時。
素敵なエピソードだった。
【09 Cherry Parade】 こちらはアンコール曲だろうか。 グッズのTシャツ (松BOWがお召しになられていたのはグリーン。 とても可愛い。欲しい!)にキャスケット。 バンドメンバーも全員何かしら被っており、 皆さんキュート♪
歌いながら行進したり 敬礼したりと 非常にキュートで、 オープニングの クールなイメージとのギャップ!
松BOWの好きな、Betty Boo的なラップと ビートルズ的なサビを融合したかった曲とのコメントに納得!
手持ちのカメラによるステージからの撮影も ( Super DJーYuuki 氏の撮影) 臨場感あって(近い近い!) 良かった。
【10 Emelard Tablet】 インストゥルメンタルの曲で、 ステージにはVo松BOWの姿はない。 バンドメンバーの演奏の様子や、 植田敦氏によるCDブックレットなど撮影風景、 (貴重な映像! 松BOWはフォトジェニックな方だけに 引きで見る撮影風景も美しい) スペイン旅行の様子も織り交ぜながらの映像。 (スペインの風景、とても素敵だった。 いつか行ってみたい。)
このDVDは、 編集も凝っていて、 ライブDVDということを忘れる瞬間が何度もある。 素敵な映像にも心酔。
曲が終わり、 スタッフロールが流れ、 余韻に浸っていると、 新たなステージ映像が映し出される。
【11 夜と星の列車】(ボーナストラック)だ! DVDにまでサプライズ! こちらはファンクラブ限定で開催された 《Toffee & Lemonade hideaki matsuoka unplugged 2003》からの映像。 〈メンバー〉 Vocal :Hideaki Matsuoka Acoustic Guitar:Hiroshi Hiruma Electric Guitar:Takeshi Masuda Percussion:Noki Mstsumoto Bass:Lenzie Crosby Sax:Naoki Ii Keybord:Hajime Fukuda Human Beat Box:Kei
ジャジーなサウンド、 心地よさそうに歌う松BOWの 声も艶やかで色香漂う。
バラエティに富んだ 『松岡英明の音の世界』を最後まで堪能できた 贅沢なライブ映像だった。
お蔭でおうち時間をハッピーに過ごせた2週間だった。
が、これからもDVDやCDでハッピー継続 ♪
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DVDの中に封入されているリーフレットの松BOWによる言葉。 ツイキャスコメントにて、 ご本人から『読んで下さいね』とメッセージ。
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アルバム《Future Toy》(プレミアムエディション)は CDが2枚。 2枚目のCDにはMixやアコースティックヴァージョンが収録されている。 こちらも必聴! (松BOWのMix、ホント好き)
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《Mysterious Strager from Mars》のタイトルの元になったという マーク・トウェインの『不思議な少年』(原題《Mysterious Strager》。 右は続編の『不思議な少年44号』
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ボーナストラック【夜と星の列車】は ファンクラブ会員限定で開催された 《Toffee & Lemonade hideaki matsuoka unplugged 2003》からの一曲。 ライブDVDも販売する予定でのライブ収録だったようで 販売が実現されなかったことを残念に思いつつ ライブに参加できなかった身としては、 1曲でも映像で拝見できることをうれしく思います。
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スクラップブックより、 レコーディング日記とスペインでのスナップショット。 レコーディングにまつわる詳細が綴られている。 松BOWのこういうところありがたい。 制作のご苦労や喜び、 実感や共感することはできなくても、 その時の思いを知るだけでも、 (それも松BOWらしい表現で!) ファンとしてはうれしい。 作品を理解したり、 より楽しんだりも。
次回は《The One》シリーズの配信ライブの 様子をレポートする予定。 最新の松BOWのお姿、 最新の『松岡英明の音の世界』を楽しめるライブ! すでに初回配信とアーカイブを視聴しているけれど、 どんどん進化&深化しているのが凄い。 この後も視聴会開催が予定されている。 ご本人と観る視聴会開催も珍しいのでは?
どんだけファンを楽しませたら気が済むのか! 感謝、深く。
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short-span-call · 3 years
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#044 ボーイ
 日本国千葉県市川市塩浜二丁目にある市川塩浜というなにもかもが中途半端な駅の安っぽいベンチに、その男の子は座っていた。毎日いた。毎晩いた。日がな一日そこにいた。あるときは、菓子パンを頬張っていた。あるときは、ペットボトルを握っていた。あるときは、電車のドアが閉まるタイミングに合わせてフエラムネを鳴らしていた。あるときは、ぶんぶんゴマを回転させていた。どこで湯を調達したのか、カップヌードルに蓋をして、三分、じっと待っていることもあった。だいたいは小ぶりのリュックサックを背負っていたが、コンビニのビニール袋だけを持っているときもあった。紙袋を横に置いているときもあった。いつも、何も持っていないような顔をして、そこにいた。  市川塩浜駅の利用客は、周辺の工場や倉庫に努めている会社員や契約社員やアルバイトがほとんどだった。あとは、周辺の工場や倉庫に視察にきた本社の人間。男の子はそのことを知らない。なんだかみんな、一様に、具合の悪そうな顔で電車から出てくるな。男の子はそう思っていた。  ごくまれに、駅のホームで電車を待っている人が、男の子に話しかけてきた。ぼく、どうしたの? 学校は? お母さんは? 話しかけてくる人は、なぜかほとんどが女性だった。小さなツヤツヤしたバックを肩から下げ、パンプスかヒールを履いているような。視察の人間。男の子はそのたび、相手をじっと見つめ、意味ありげなジェスチャーと、意味ありげな口パクをした。自分の耳の辺りを指したり、言葉にならないうめきのような声をかすかに出した。そ��すると、だいたいの人は黙り込んだ。困った顔もした。そしてそのあと、大抵の人が慌てた様子でカバンから紙とペンを、あるいはスマホを取り出した。男の子はそれを受け取り、毎回、こう書いた。 「ひとを まっています だいじょうぶです ありがとう さよなら」  相手は安心と困惑とバツの悪さが入り混じった顔をして、手を降って男の子から離れる。だいたいそんな感じだった。  男の子は考える。どうして話しかけてくるとき、最初にぼくが付くんだろう。なんだか、名前みたいだ。マイネームイズボク。男の子は不思議だった。僕はただここにいるだけなのに、話しかけてくる人は、どうしてみんな学校のことや親のこと(それも、なぜか必ず、お父さんじゃなくて、お母さんのこと)を聞いてくるんだろう。どうしたの? と言われても、答えようがなかった。そっちこそ、どうしたの? と、逆に聞いてみたかった。みんな、どういう答えを求めているのだろう。  男の子はその日、小さな巾着袋を持っていた。中にはパインアメが袋いっぱいに詰まっていた。男の子はパインアメを舐める。眼からじわじわと湧き出る涙で、男の子はこの駅にも春がやってきたことを知った。男の子は、花粉症だった。 「最近悪夢ばっか」  男の子のとなりに男が座っていた。男の子は男がしゃべりだすまで、男が近づいてきたことにも、となりに座ったことにも気がつかなかった。男の子は横目で電車の発着を告げる電光掲示板を見て、自分がほんの少しの間、眠っていたことを知った。 「この前見たのは、嵐の二宮とピアノコンサートをする夢。ステージ上にヤマハのグランドピアノが二台置いてあって、客席から見て俺は右、ニノは左のピアノの前に座って、演奏したんだ。俺はその楽譜を、そのとき初めて見た。知らない曲だった。当然、弾けない。それでも俺は頑張った。でもダメだった。コンサートは大失敗だった。俺は曲の途中でステージ上から逃げ出して、ペットショップで犬用のトイレを買った。それからあとは、覚えていない」  男は、男の子の方を見ながら、オーバーな表情と身振りで話し続けた。 「そのさらに前は、映画を撮る夢を見た。俺は寂れた小学校みたいなところで寝泊まりしていて、隣の部屋で寝泊まりしていたカメラマンみたいな奴にカメラを渡されるんだ。で、こう言われる。『俺の代わりに映画を撮ってくれないか』俺はカメラを渡される。録画機能のない、古いタイプのデジタル一眼レフカメラだった。俺は写真を撮りまくった。写真を撮るっていう行為が、つまりは映画を撮るってことだった。それから色々あって、俺は幼なじみと二人で、サバンナみたいな場所を、大量のチューバを担いで、幼なじみは引きずって、歩いていた。それからあとは、やっぱり覚えていない」  男は缶コーヒーを持っていた。プルトップは開いていない。熱くてまだ飲めないのだ。男は、猫舌だった。 「昨日は、ヤクザになった友達から逃げ続ける夢を見た」  男は、あらかじめ決められていたかのように背中を曲げて、男の子の顔をのぞきこんだ 「なあどう思う?」  男の子は男の方を向き、あらかじめ決められているジェスチャーと口パクをした。耳の辺りを人差し指でトントンと叩き、うめき声をあげた。男は眼を少しだけ見開いて、笑いを堪えるように口を尖らせた。それから、缶コーヒーのプルトップを開けて恐る恐るコーヒーを口に入れた。 「ふうん」  缶コーヒーの中身は男の舌でも味がわかるくらいぬるくなっていた。男は缶コーヒーを、今度はさっきより勢いをつけて飲み、男の子の耳元に顔を寄せた。 「つくば山に、喰いつくばあさん」  男はささやいてから、吹き出すのをこらえるような顔をして、缶コーヒーに口をつけた。男の子はそれが、駄洒落だということに遅れて気づく。男の子の脳裏に、つくば山を食い荒らす巨大な婆さんの画が浮かんだ。男の子は、自分の顔が歪むのをなんとか堪えた。 「あの、人を、待ってるから」  男の子は、口を開いた。なんだかもう、嘘をついてもどうしようもないような気がした。 「係長がさあ」男は男の子の言葉を無視して言った。 「係長が、俺に言うんだよ。『社員にならないか』って。冗談じゃねえって話だよな。部長だか支店長だか知らないけど、とにかく係長より偉いおっちゃんもそれに賛成しているふうでさ。たまったもんじゃないよな」  男は缶コーヒーを飲み干した。 「どうしたもんかしらね。やんなっちゃう」  男は立ち上がり、缶コーヒーをホームの白線の上に置いて、助走をつけて思い切り蹴飛ばした。缶コーヒーは向かいのホームの壁に当たり、地面に落ちてころころと転がった。向かいのホームにも、男の子と男がいるホームにも、男の子と男以外に人はいなかった。向かいのホームの電光掲示板とスピーカーが、電車がまもなく到着することを簡潔に伝えていた。 「みんなさ、忘れてるんだよ。俺、ちゃんと言ったんだよ。面接のときに『半年で辞めます』って、ちゃんと。忘れてるんだよな。半年。頑張ってると思うわ」  男はジーパンの尻ポケットからぱんぱんに膨らんだ長財布を取り出した。 「なんか飲む?」 「いらない」 「あ、そう」男は立ち上がり、自販機に向かった。「てか耳、聴こえてんじゃん」  男はさっきと同じ銘柄の缶コーヒーを買って、男の子のとなりに戻ってきた。男は男の子に爽健美茶のペットボトルを渡した。男の子は、それを左手で受け取った。  向かいのホームに電車が止まり、しばらくして、また動き出した。電車に乗る人も、降りる人もいなかった。男は缶コーヒーを右手から左手に、左手から右手に、何度も持ち替えながら、缶コーヒーが冷めるのを待っていた。最初からつめた〜いの方を押せばいいのに、男はそうしなかった。男は、ぬるい缶コーヒーが好きだった。 「どうしたもんかしらね……。やんなっちゃう」  男の子は、それが男の口癖なのだと知った。 「だから、なーんか今日、起きたときから行く気、しなくって。こんなところにいるわ」  男はジーパンのポケットからiPhoneを取り出し、男の子に見せた。 「ほらこれ、係長、しつこいんだから」  男はiPhoneを男の子のほうに向けながら、指で画面を下にスライドさせた。 「こんなに。連絡しない俺も俺だけど。どんな病気がいいかなあ。風邪って言えばじゅうぶんかな? どういう咳ならそれっぽいかな?」 「なんの仕事」 「いつの時代も、流行り病は仮病だよ。係長、困っちゃってんだよ。俺がいないと仕事、回んないから。大幅にペースダウンよ。結局、ペースダウンするだけよ。代わりなんていくらでもいるって。やんなっちゃう。いいんだけど」男は言った。「仕事? 倉庫だよ倉庫」 「どこの倉庫」男の子は言った。 「どこだっていいよ」男は言った。「あっちのほう。海の近く」 「海沿いなのに潮の匂いがしないって、やんなっちゃうよな。この駅もそうだよ。もっと漂ってきてもいいだろって。いいけどさ。山派だし」 「耳が悪いのは、ほんとだよ」男の子は言った。 「仮病?」男は缶コーヒーを振った。缶コーヒーは、着々と温度が下がってきていた。 「ちがう」 「いやでも、あの演技はなかなか。将来有望なんじゃないの」 「ちがう」男の子は言った。「きいて」 「やなこった」男は缶コーヒーのプルトップを開けた。「さっきの駄洒落、最高じゃない?」 「もっといいの、知ってる」 「ほーん」男は恐る恐るコーヒーを口に入れた。「言ってみ」 「ブラジル人のミラクルビラ配り」 「それは早口言葉だ」男は言った。「ブラジル人のミラクルビラ配り! しかも、あんまり難しく、ない!」 「おやすみなさいを言いに行くと、ママ、いつも戦争してる」  男の子と男がいるホームの電光掲示板とスピーカーが、電車がまもなく到着することを簡潔に伝えていた。その電車は、東京まで行くらしかった。男の子は、眼をこすった。主に眼にくるタイプの花粉症だった。 「去年の大晦日はひどかったな。普段は五、六個の駅も二〇とか三〇だし、舞浜なんてただでさえいつも出荷数が断トツで多いのに、一五八だぜ。一五八。やんなっちゃったよ。ほんと。シールの束がこんな量、あんの。あれは戦争だった」男は缶コーヒーをぐびぐび飲んだ。 「それで、だんだん、耳がおかしくなった」男の子は言った。「戦争って、うるさいから」 「俺も俺の周りのバイトもひーこら言いながらカゴにひたすらダンボール積んだよ。いや、言ってないけど。実際は黙々としてたよ。静かなもんだったよ。うるさいのは係長とそのとりまきの契約社員どもだけ」  男の子と男がいるホームに電車が止まり、しばらくして、また動き出した。電車に乗る人も、降りる人もいなかった。電車は二〇分ほどで東京に着く。東京駅には、電車に乗る人も、降りる人も、たくさんいた。 「今思えばあれはバケツリレーみたいだった。あんまり数が多いもんだから、みんなカゴ持っておんなじ場所に集まっちゃうんだよ。とてつもない流れ作業で、なんとか普段通りの時間に帰ることができたけど。でももう、無理だね」男はタバコが吸いたかった。「無理だね、もう」  男の子は、巾着袋からパインアメを取り出し、口に入れた。 「あ、ずる」男は言った。「ちょうだい」  男の子は、男にパインアメを一つあげた。  男は、それを口に入れた。  パインアメが溶けてなくなるまで、男の子と男はほとんど口を開かなかった。男の子と男は、それぞれ違うものを見つめていた。男の子は向かいのホームに転がっている缶コーヒーを、男は男の子のうなじを見つめていた。男の子の髪は陽を浴びて、輪っか状に光っていた。天使の輪っか、と男は思い、そんなことを考えてしまう自分が気持ち悪いとも思った。駅のホームには男の子と男以外誰もいなかった。男の子と男以外、みんなみんな、工場で、倉庫で、コンビニで、それぞれの場所で働いていた。係長はいつものように奇声を発しながら嬉しそうにフォークリフトでパレットを移動させている。バイトや契約社員はカゴ台車で、あるいはローリフトにパレットを挿して、駅構内の売店へ出荷するための飲料水が詰まったダンボールを駅別の仕分けシールを見ながらどんどん積み上げている。シールの束を口に加えて全速力で倉庫の中を端から端まで走り抜けている。そのことを男は知っていた。男の子は知らない。  男の子と男がいるホームを快速列車が通過したとき、男の子と男の口からパインアメはなくなっていた。男は空になった缶コーヒーを両手でもてあそんでいた。男の子は右手で両眼の涙を拭った。男は、花粉症ではなかった。 「将来の夢は?」男は言った。缶コーヒーをマイクに見立て、男の子の前に差し出す。 「ふつう」 「ふつう、て」男は缶コーヒーを下げた。「どうしたもんかしらね」 「たのしいよ」 「うそつけ。ママの戦争でも終わらせてから言いな」  男は立ち上がり、伸びをした。 「んーあ」 「ママ、神様が死んじゃったことに気づいちゃった」 「へえーえ」あくび混じりの声で男は言った。「そいつはすげー。もはやママが神様なんじゃないの」 「ある意味、そう」男の子はパインアメを舐め始めた。「ママ、なんでもできるよ」 「ある意味?」男はまたベンチに座った。 「うん。……うん」  男の子は、神様が死んだときのことを思い出していた。つい最近のことだ。男の子が家に帰ると、神様はリビングのホットカーペットの上で、あお向けの状態で小刻みに震えていた。男の子は震える神様を両手でうやうやしくすくいとり、テーブルの上にティッシュを二枚重ねて、その上に神様をそっと寝かせた。朱色だった身体は見る間に灰色に変わっていき、柔らかな尾ひれは押し花のようにしわしわに乾燥していった。男の子は神様の前で手を合わせ、しばらく眼を閉じてから、ティッシュで神様をくるんで持ち上げ、近所の公園の隅に小さな穴を掘って埋葬した。線香が無かったので、台所の引き出しから煙草を一本抜き出し、それに火をつけて、埋めたばかりでまだ柔らかい土にそっと差し込んだ。男の子は、もう一度神様に手を合わせた。 「僕が勝手に埋葬したから、怒ってるんだと思う」  向かいのホームに箒とちりとりを持った駅員がやってきて、掃除を始めた。男と男の子は、それを黙って見つめていた。ここからでは何かが落ちているようにも、汚れがあるようにも見えないけれど、きっといろんなものが落ちているのだろう。男は思った。駅員はこっちのホームにも来るのだろうか。何かが落ちているようには見えないけれど、きっとやって来るのだろう。駅員は階段のそばの点字ブロック付近を執拗に箒でなぞるように掃いていた。  男は、自分がまだ男の子だったころのことを思い出していた。朝が苦手で、ドッチボールと給食の牛乳が好きで、放課後はランドセルを武器にして誰かとしょっちゅう戦っていた。まあだいたい、今とさして変わんないな。男は兄のことを思い出した。 「兄妹は?」男はもう一度缶コーヒーを男の子の前に差し出した。 「いない」男の子は言った。 「一人っ子ぉ〜」男は言った。「ま、俺もそんな感じだけど」  男がまだランドセルで戦っていたころ、男の兄は家からいなくなった。車の免許を取ったあと、親の財布から抜き出したお金を使って北海道まで飛び、ネットで知り合った人の家や車を転々としながら徐々に南下し、今は沖縄本島の小さな民宿で、観光客に広東語やフランス語を教えてもらったりしながら住み込みで働いている。お金が無くなったら自殺するつもりで家を出たんだ。一年ほど前、カメラ通話で外国人みたいな肌の色をした兄が笑ってそう言うのを、男は白けた気分で聞いていた。 「行かなくていいの」男の子はパインアメを舌で転がしながら言った。 「ん? 何?」缶コーヒーが男の子の前に差し出された。「仕事?」 「そう」 「何をいまさら」男はふふんと笑う。「そのセリフ、そっくりそのままお前にお返しするわ」 「僕は人を待っているから」 「いつまで?」 「いつまでも」 「そうですか」男は缶コーヒーをベンチの下に置いた。「やんなっちゃう」 「帰らないの」 「帰ってもいいよ。でも」男はベンチの上であぐらをかいた。「でもお前が待ってた人って、実は俺のことなんじゃないの」 「……」 「あ、それ、わかるよ。絶句、ってやつだ」男は男の子を指さして笑った。 「人を待っているから」男の子は繰り返した。溶けて薄くなったパインアメを歯でガリガリと砕く音が、男の子の耳にだけ響いた。 「ああ、ほらこれ、係長からラブコール」男は震え続けているiPhoneを取り出し、男の子に見せた。「係長も、どうやら人を待ってるらしい」  やがてiPhoneの震えは止まり、男はiPhoneをジーパンの尻ポケットに押しこむようにしまった。  男と男の子は、喋りながらまったく別々のことを考え続けていた。男は兄と、兄がいたころの自分を。男の子は、神様について。思い出し、考えていた。ほんとうはどうするべきだったのか。何か間違ったことをしたのだろうか。何か決定的な間違いをおかしてしまったのだろうか。男と男の子は、それぞれが何を思って、考えているのかを知らない。ふたりは知らない。  ふたりのホームに鳩がやってきて、数歩ごとにアスファルトをついばみながらベンチの前を横切った。鳩の片足には短いビニール紐のようなものが絡まっていて、鳩が歩くたびにカサカサと微かに音が鳴った。 「帰ろうかなあ」男は男の子の左手にある未開封の爽健美茶のペットボトルを見た。「次の電車で帰るわ」 「これ」男の子は爽健美茶を男の鼻先に掲げた。「いらない」 「パパにでもあげな」男は言った。「最後の質問。お名前は?」 「ボク」 「は」気だるそうに立ち上がりながら男は短く笑った。「ママの戦争が終わるといいね」 「待ってる人が来れば、終わるよ」 「うそ。お前次第だろ」男は腰に手を当てて線路を見た。腰の形に沿ってシワができたTシャツを見て、この人ちゃんと食べているんだろうか、と男の子は思った。 「あーあ、俺も行きてえ〜、南の島」  男はあくびを噛み殺しながら、線路を見つめ続けていた。
 ○
 男の子は、日が暮れて夜になっても、市川塩浜駅のホームのベンチにずっと座っていた。帰宅ラッシュでホームが人で溢れ、ベンチがすべて埋まっても、男の子は座ったままだった。ラッシュも終わり、駅のホームがふたたび廃墟のような寂れた静けさを取り戻したころ、男の子は立ち上がった。巾着袋をベンチに置き、ベンチの下にある缶コーヒーを拾ってゴミ箱へ捨てた。左手に爽健美茶のペットボトルを、右手に巾着袋を持って、男の子は二三時五六分発の東所沢行きに乗った。  人の少ない電車の中で、男の子は少しだけ眠り、少しだけ夢を見た。夢の中で、男の子は大学生だった。数人の友人と数人の先輩に囲まれて、お酒を飲んだり煙草を吸ったり、笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだり、走ったりうずくまったりしていた。それは夢にしてはあまりにもありふれた、だけどどこか切実な、現実の延長線上に���るような夢だった。  目が覚めた男の子は、停車駅の看板を見てまだ電車が二駅分しか移動していないことを知る。男の子は夢を見たことすら覚えていなかった。男の子は発車ベルを聞きながら、眠っている間に床に落ちてしまった爽健美茶を拾った。  男の子は想像する。駅のホームを行き来する電車のこと、その電車に乗る人のこと、駅員のこと、そして今この電車に乗っている人のこと。みんなの家のことを。その神様のことを。そして自分の家を思う。新しい神様を見つけないといけないのかもしれない。母親を戦場から引っ張り出すには、それしかない気がした。男の子は頭を窓にくっつけて、眼を閉じた。今度は、夢を見なかった。
 ○
 男の兄は、何かと繊細なやつだった。人混みや集団行動が苦手で、電車に乗ったり、ひどい時は家から外に出ただけで歩き出せなくなるほどだった。ネット上には大勢の友人がいた。変なところが凝り性で、パソコンのマインスイーパーやタイピングゲーム、パズルゲームをひたすらやりこんでいた。肉が駄目で、馬のように草ばかり食べていた。首筋と腕の関節部分にアトピーのような肌荒れがあり、四六時中かきむしってフケのような皮膚のかけらをあたりにばらまいていた。男が兄について知っていることは、それくらいだった。  男はアパートに帰ってから、敷きっぱなしの布団の上でしばらくボーッとしていた。係長はもう、男に電話をかけてこなかった。誰も男に電話をかけてこなかった。それでいいと男は思った。 「ブラジル人のミラクルビラ配り」  男はあお向けに寝転び、眼を閉じて呪文のように何度もつぶやいた。簡単すぎるな、そう思った。つぶやき続けているうちに男の口はしだいに動かなくなり、静かに息を吐いて、眠りはじめた。  日付が変わる少し前、男は起き上がった。頭をかきながらしばらく時計と窓を交互に見つめ、水を飲み、トイレに行ったあと、兄に電話をかけた。自分から兄に電話をかけるのは初めてだな、と男は電話のコール音が鳴ってから気づいた。 「おお」 「よお」 「もしもし?」 「うん。もしもし」 「急にどうしたの。めずらしい」兄の声は穏やかだった。 「沖縄は今、何℃だ」 「えっと……えーっとね」兄の声がくぐもって聞こえる。iPhoneを顔から離して、天気情報を見ているのだろう。「22℃っす〜」 「元気か」 「まあ元気」 「焼けてんのか」 「そりゃもう。こんがり」 「野菜ちゃんと食ってんのか」 「それ俺に言う?」 「もう死なんのか」 「そうだね」兄は間髪入れずにそう言った。「まあなんとか、生きてみようと思ってるよ。今んとこ」 「つまんね」 「なんだそれ」兄は笑った。「そっちはどう?」 「何が」 「元気か」今度は兄がインタビュアーだ。 「ノーコメント」 「家賃とかちゃんと払ってんのか」 「ノーコメント」 「野菜ちゃんと食ってんのか」 「ノーコメント」 「話にならねー」兄はまた笑った。「両親は元気か」 「しらん」男は間髪入れずにそう言った。「知ってたとしても、お前には教えないね」 「そりゃそうか。ま、いいや。とりあえず生きてるでしょ、たぶん」  男と兄はしばらく黙った。通話口からは、よくわからない言葉で笑い合う人の声が聞こえた。沖縄語も外国語も、同じようなもんだな。そして兄の言葉も。男の部屋は、静かだった。隣の部屋の生活音も聞こえない。 「電話出て大丈夫だったのか」 「いまさら。大丈夫。宿泊客と酒盛りしてただけだから」 「タノシソウデナニヨリデスネ」 「なんだよ。もしかして酔ってる?」 「ノーコメント」 「めんどくさいなー」笑いながら兄は言った。 「来週の日曜日、ヒマか」 「ヒマかどうかはわかんないけど、まあ、この島にはいるよ」 「そうか」 「何?」 「俺、お前んとこ、行くよ」 「あ、ほんとに?」 「お前をぶっ殺しに行くわ」 「わ、殺害予告」 「通報でもなんでもすりゃいいよ」 「しないよ。ワターシノアイスルブラーザーデスカラ」 「つくづくお前はつまんねえ」 「知ってるよ、そんなこと」 「逃げるなよ」 「逃げないよ」兄の声は優しかった。兄が家にいたとき、こんな声で話したことがあっただろうか。男は思い出せなかった。「まあ、おいでよ。待ってるよ」 「ファック」  男は電話を切り、電源も切ってからiPhoneを放り投げた。男は本気だった。部屋を出て、コンビニへ行き、ATMで残高を確認した男は、これから自分がやるべきことを考えながら、昼間と同じ缶コーヒーを買った。まずは、包丁。
 ○
 男の子がグランハイツ東所沢の四〇五号室の玄関扉を開けたのは、日付が変わってからおよそ一時間半後のことだった。男の子はリビングのテーブルの前に爽健美茶のペットボトルを置いた。床に散らばっていた不動産のチラシを一枚手に取り、テーブルの上に無造作に転がっていた赤ボールペンでチラシの裏に大きく「パパへ」と書いて、爽健美茶のペットボトルの下に挟んだ。  男の子はキッチンでお茶碗に炊きたてのご飯をよそい、フライパンの中からサンマの照り焼きを小皿によそい、リビングのテーブルの上にそれらを置いて、立ったまま食べた。男の子は、少食だった。それから男の子はお茶碗と小皿を簡単に洗い、自分の部屋から着替えを取って風呂に入った。男の子は、風呂が嫌いだった。浴槽に浸からずシャワーだけ浴び、男の子は風呂を出た。それから洗面台の前で入念に歯を磨き、綿棒二本と竹の耳かきで両耳を入念に掃除した。男の子は、きれい好きだった。それから男の子は、風呂場と洗面台と、リビングとキッチンの電気を消し、玄関へと続く狭い廊下の途中にある白い扉の前に立った。部屋の中からは、銃撃、爆撃、悲鳴、ファンファーレなどの音が絶えずとてつもない大きさで聴こえていた。男の子は、扉をノックした。それから、返事を待たずに扉を開けた。男の子は部屋の中に入る。 「おやすみなさい」  男の子は、この言葉が好きだ。
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hekiyuduki · 6 years
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ポイントカードや会員カードでお財布がパンパンに膨らんでいるフレンズのみなさん、こんにちは。 すっごーい! 君はポイントをためて賢くお買い物をするのが得意なフレンズなんだね! とはいうものの。 やはりお財布が膨らんでいると持ち歩きにくいし、お財布の中のどのカードポケットにどのポイントカードを入れたのかわからなくなってレジで探しているうちに後ろに長蛇の行列が……なんてことにもなりかねません。 よく行くお店ならいいんですよ。でも靴屋とか地方のお店とか、地方に住んでいる人は都会のお店とか、普段あまり行かないところで作ったポイントカードって滅多に出さないからどこにしまってあるのかわからなくなる。 カードポケットが十個もあると探すのが大変ですよね。 それだけお財布が膨らんでしまいます。 で、前回お財布を買い替えてカードポケッ���が十個から半分の五個になったということで、カードを減らそう! とキラっと☆ひらめいたわけです。
1.何をするのか。 セブンイレブンのチャージ式ICカードnanacoや、無印良品、東急ハンズのポイントカードは、実はすでにスマートフォンのアプリで使っています。 そう、会員証やポイントカード機能がある各店舗の公式アプリを片っ端から入れて、お財布の中をスマートにしようという目論見です。 まず最初に思ったことがあります。 いちいち各店舗の公式アプリを入れるのは面倒くさいな、何か一つのアプリでポイントカードを管理できないかな? と。 そんなアプリがあった気がする。 そう、Stocardというアプリがありました。 このアプリはバーコード式のポイントカードや会員証をスマートフォンのカメラでスキャンしておいて、お店で提示するというアプリです。 しかし問題がありました! それはStocardでのポイント加算を拒否する店舗が増えてきているということ。なぜか? 以下のつばき寮さんのブログ記事を読んでみてください。 Stocard - ポイントカード 店舗で拒否されまくり: つばき寮 そりゃそうだ。Stocardというアプリは各企業のロゴを無断で使用しているそうだ。それは権利侵害だろう。 自分が経営者の立場に立って考えてみるといい。どこのドイツだか知らないが、アプリで自社ロゴを無断使用している上、そこにバーコードをスキャンしておいてポイントをつけてもらおうなんて不正もいいところである。 アプリのコンセプト自体は素晴らしいと思うんですけどね。ただ、何の断りもなしにやっちゃダメだろう、というわけでこいつは却下。 以前スマートフォンアプリ制作会社に勤めていたとき、僕は管理部にいたので実務には携わっていませんでしたが、クーポンアプリやプレゼント企画などをやるときには営業さんが必ずスポンサー企業にご挨拶にお伺いしていましたね。 というか、やってることは単に無断転載ですからね。 話がそれましたが、前口上はこれくらいにして本題に入りましょう。 2.カード機能がある公式アプリはどのくらいあるのか? 普段使っているのは、上記でも述べたようにnanaco、無印良品、東急ハンズ。 あとすでにスマートフォンに入っているのは、ヨドバシゴールドポイント、ビックカメラ。ヨドバシゴールドポイントアプリは店頭でクレジットカードを使う際ポイントをつけたいなら必須アプリです。ポイントカードじゃダメなので。 では、まとめてみましょう。まずは今財布に入っているポイントカードで、アプリで使えるもの。
アプリ名 企業名 使用可能店舗 おサイフケータイ ヨドバシゴールドポイントカード ヨドバシカメラ ヨドバシカメラ × ビックカメラ ビックカメラ ビックカメラ コジマ ソフマップ ○(※すでにカード所有の場合、レジで手続きが必要) ケーズデンキあんしんパスポート LocationValue ケーズデンキ × ドスパラアプリ サードウェーブ ドスパラ × ジョーシン 上新電機 ジョーシン × ハンズクラブアプリ 東急ハンズ 東急ハンズ × MUJI passport 良品計画 無印良品(※マイルは貯めるのみで、ポイントとしては使用不可。貯めたマイルに応じてショッピングポイントが付与される。) × アニメイトアプリ アニメイト アニメイト × Tポイントアプリ カルチュア・コンビニエンス・クラブ TSUTAYA ファミリーマート(2017年8月15日~) サークルKサンクス カメラのキタムラ ガスト バーミヤン 夢庵 ジョナサン ウェルシア ハックドラッグ オートバックス など △(店舗によってはバーコードスキャン) LAWSON Pontaカードポイントアプリ ローソン ロイヤリティ マーケティング ローソン 大戸屋 HMV コジマ ORIHICA SEGA など △(ローソン、ローソンストア100、 ナチュラルローソン以外の提携店はバーコードスキャン) nanacoモバイル セブンイレブン セブンイレブン イトーヨーカドー 西武 そごう デニーズ かっぱ寿司 上島珈琲店 コメダ珈琲 マクドナルド ミスタードーナツ ビックカメラ コジマ ソフマップ 上新電機 LOFT ディスクユニオン ココカラファイン セイムス アリオ Esso Mobile ラウンドワン タイトー スパリゾートハワイアンズ サンリオピューロランド など ○ LOFTアプリ LOFT LOFT × honto with トゥ・ディファクト 丸善 ジュンク堂書店 文教堂 × クラブ三省堂 三省堂書店 三省堂書店 × ココカラファイン ココカラファイン ココカラファイン セイジョー ドラッグセガミ ジップドラッグ などココカラファイングループ店舗 × ビッグエコー 第一興商 ビッグエコー ×
3.まだまだある! アプリで使えるポイントカード 以下、私は使っていませんが、ポイントカードを持っている方もいらっしゃるでしょう。
アプリ名 企業名 使用可能店舗 おサイフケータイ ヤマダ電機 ケイタイde安心 日本ユニシス ヤマダ電機 コナカ サカイ引越センター ANA など × UNITED ARROWS UNITED ARROWS UNITED ARROWS × マツモトキ��シ マツモトキヨシホールディングス マツモトキヨシ × dポイントクラブアプリ NTT DOCOMO ローソン マクドナルド サンマルクカフェ かっぱ寿司 はなの舞・花の舞 アニメイト ジョーシン ノジマ ORIHICA PLAZA 近畿日本ツーリスト イオンシネマ など × ニトリ公式アプリ LocationValue ニトリ × UNIQLOアプリ UNIQLO UNIQLO × ミスタードーナツ ダスキン ミスタードーナツ ×
4.財布に入れるカードはこれだけになった!
タワーレコード
イシバシ楽器
Mac House
ヴィ・ド・フランス
ソヨカポイントカード
とらのあな
ゲーマーズ
メロンブックス
古本市場(TAY-TWOポイントカード)
ユナイテッド・シネマ
TOHOシネマズ
SMT Members(松竹マルチプレックスシアター)
カラオケ館
アトレカード
セキチューカード
アイラックス(キグナス石油)
まだまだ多いですね……。 それでも、かなり減らすことができました。 イシバシ楽器のアプリは存在はしているものの、アプリ内でただwebサイトを表示しているだけのまったく役に立たない代物です。しばらくすると会員番号とパスワードを再入力しなければならないので、アプリとしての存在意義はありません。 意外にもタワーレコードや映画館の会員カードがアプリ化していません。 とらのあなやゲーマーズもアプリ化していませんが、最近やっとメロンブックスがスマートフォンサイトに対応したので、まだまだこれからといった印象です。 古本市場に至ってはECサイト(インターネット通販)から撤退したので、アプリを作るメリットは一切ありませんが、新しくTAY-TWOポイントカードに加盟したので、運営会社であるテイツー・グループにはアプリを作るメリットがありそうなので期待したいですね。 5.こんなのもある! 「薄い財布」! まあ薄い財布がいいのなら、アブラサスのその名もズバリ「薄い財布」を買うという選択肢がありますけれどもね。   この「薄い財布」ですが、パズルのピースのように革と革が重なり合わず、カード5枚、コイン10枚というミニマルデザインな財布です。 ちなみに、カードは5枚未満だと落っこちてしまったり、出しづらかったりするそうなので、5枚入れておく必要があるとのことです。 小銭はちょうど999円入る仕様らしいです。 しかし、どうなんでしょうね。使いづらいと思います。まあ使ってみると良さがあるのかもしれませんが、なんとも言えないです。 デザインは好きなので、一度検討してみるのもありなんではないでしょうか。東急ハンズとかに売ってるので、実物を見るのも大事かな。 6.まとめると!? カードはカードケースに入れ、マネークリップと小銭入れを持つスタイルが良いのではないでしょうか。 特に海外旅行に行く人は、財布を持っているとすられてしまう危険性が常にあるので、現金は裸で持つ(サイフとか入れ物にいれないで、そのままポケットとかに突っ込む)といいらしいと聞いたことがあります。 それかボディーバッグに入れてアウターで隠しちゃうとかね。シークレットな感じの、薄くて小型のウエストポーチのようなものです。旅行用品売り場とかに売っています。 海外はキャッシュレス化が進んでおり、現金を持ち歩く人はどんどん減っているそうです。 日本はもはや技術後進国ですから、そのあたりを自覚して自分にとってベストなお金の使い方をする必要があるでしょうね。 現金じゃないと使いすぎてしまうという人や、コンビにでおにぎり1個買うのもクレジットカードという人もいますし、人それぞれです。 日本がここまで後進国になってしまった理由の1つとして、企業やタンス貯金の内部留保が問題になっていると言われていますね。 景気が上がっても、賃金が上がらなければ経済は回らない。まして若者は搾取され続けているので、若者はお金をあまり使わない世の中になっていますよね。 最近は、お金の市場価値がどんどん下がっていっていると思います。お金そのものには元々価値とかなくて、ただの紙切れだし、ただの金属なわけですが、その紙切れないし金属が品物やサービスなどの価値に値するという思想がお金というものですよね。 もらえるお金は少ないし、日本の企業で働いていても全然稼げないので、稼ぎたい人や技術のある人は今、どんどん海外に行っています。 しかもブラック企業が蔓延り、取り締まりも遅々として進まないいたちごっことなり、なおかつブラック企業といわずともかつてのバブル期の働き方を今の現役世代に押しつけようとする団塊世代が世の中を疲弊させています。働いても働いても我が暮らし楽にならざる社会なら、誰が好き好んで長時間労働などしますか。ふざけるな。ボーナスだってもらえないし。 だから仮想通貨がここまで流行ってるんだと思い���すよ。日本でのお金の市場価値は下がっていますし、資本主義経済の幻想を誰もが誰も信じなくなったんでしょう。それも上記の理由から自明の理ですね。 ブログでは政府批判など政治関連の話はタブーなのでしませんが、今後日本社会はどうなっていくんでしょうね~。 テロ組織を作って政府転覆を企み、「得体の知れない不安」を世の中にばらまくことで政府への不信感を煽り、政権を執ることができれば……石持浅海先生の『攪乱者』のラストのような日本になればいいのになぁ、なーんてね。
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groyanderson · 4 years
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ひとみに映る影シーズン2 第二話「高身長でわんこ顔な方言男子」
☆プロトタイプ版☆ こちらは無料公開のプロトタイプ版となります。 最低限の確認作業しかしていないため、 誤字脱字誤植誤用等々あしからずご了承下さい。 尚、正式書籍版はシーズン2終了時にリリース予定です。
(シーズン2あらすじ) 私はファッションモデルの紅一美。 旅番組ロケで訪れた島は怪物だらけ!? 霊能者達の除霊コンペとバッティングしちゃった! 実は私も霊感あるけど、知られたくないなあ…… なんて言っている場合じゃない。 諸悪の根源は恩師の仇、金剛有明団だったんだ! 憤怒の化身ワヤン不動が、今度はリゾートで炸裂する!!
pixiv版 (※内容は一緒です。)
☆キャラソン企画第二弾 青木光「ザトウムシ」はこちら!☆
དང་པོ་
 時刻は十四時三十分。MAL五八便が千里が島に到着してから既に五分以上経過した。しかし乗客はなかなか立ち上がれない。体調を崩して客室乗務員に介抱される人や、座席備え付けのエチケット袋に顔を突っ込んでいる人も見受けられる。機内に酸っぱい臭いが充満してきたあたりでようやく、私達したたびチームを含め数人がフラフラと出口に向かった。  機体と空港を繋ぐ仮設通路は『ボーディングブリッジ』というらしい、という雑学を思い出しながらボーディングブリッジを渡る。ある先輩俳優がクイズ番組でこれを『ふいごのトンネル』と珍回答して笑いを取っていたけど、なるほど確かにこれはふいごのトンネルだ。実際に歩きながら、言い得て妙だと感じた。  空港に入って最初に目についたベンチに佳奈さんが横たわった。ドッキリ企画の時から着っぱなしだったゴシックタキシードのボタンを外し、首元のヒラヒラしたスカーフで青い顔を拭う。 「うぅ、吐きそう……もらいゲロかも……」 「おいおい、大丈夫ですかぁ? トイレまで歩けます?」  一方ケロッとしているタナカD。口先では心配しているような言い草だけど、ちゃっかりカメラを回し始めた。 「やめろー撮るなぁー! ここで吐くぞー……うぅるぇっ……」 「ちょっと、冗談じゃなく本当に吐きそうじゃないですか! 大惨事になる前にトイレ連れてってきます」  私は佳奈さんに肩を貸してトイレへ向かう。タナカDの下品な笑い声が遠のいていった。洋式の個室で彼女を降ろし、自分も二つ隣の空いている洋式個室に入る。チャンスだ。まず壁にかかったスイッチを押し、滝音と鳥のさえずりが合わさったエチケット音声を流す。次にトートバッグから小さなクナイ型の物を取り出す。これは『プルパ龍王剣(りゅうおうけん)』という密教宝具だ。私が過去に浄化した悪霊を封じこめてあり、そいつから何時でも力を吸い出す事ができる。 「オム・アムリトドバヴァ・フム・パット」  口を閉じたまま、他人に聞こえるか聞こえないかギリギリの声で真言を唱える。すると、ヴァンッ! プルパは私から黒々とした影を吸い上げ、龍を刺し貫いた刃渡り四十センチ程のグルカナイフ型に変形した。 「う……うぅ……」  プルパに封印された悪霊、金剛倶利伽羅龍王(こんごうくりからりゅうおう)が呻き声を漏らす。昔こいつは人を呪ったり、神様の振りをして神社を乗っ取ったり、死んだ人の魂を監禁して怨霊に育てたりと悪行の限りを尽くしていた。ご立派な名前に似合わず、とんでもない奴だ。 <機内での騒動を聞いていたな。あの毛虫みたいな化け物は何だ?>  影を介したテレパシーで、私は威圧的に倶利伽羅に囁く。ついでに壁のボタンを押し直し、エチケット音を延長。 「ア……? 俺様が知るわけがぼがぼぼごがぼごがガガガ!?」  しらばっくれようとした倶利伽羅の顔を便器に沈めて水を流した。 <どこからどう見てもお前と同類だったろうが! その縮れた灰毛、歯茎じみて汚い皮膚、潰れた目! もう一度問う。あれは何だ?> 「げ、っほ、うぉ゙ほッ……! あ、あれは散減(ちるべり)……『母乳を散り減らせし虫』……」 <母乳?> 「母乳とは……親から子へ引き継がれる、『血縁』のメタファーだ。母乳を奪えば子は親の因果を失い……他人の母乳を飲ませれば、子とその相手は縁で結ばれる」  縁。そういえば千里が島の旧地名は散減島で、縁切りパワースポットだったか。あの怪物、散減は、どうやらその伝承と関係があるようだ。それにしても、 <ならその散減とお前には如何なる縁がある? またお前を生み出した金剛有明団(こんごうありあけだん)とかいう邪教の仕業か> 「知らん! だいたい貴様、そうやって何でもかんでも金剛のせいにがぼろごぼげぼがぼげぼろこゴゴポ!!?」  流水。 <資源の無駄だ。節水に協力しろ> 「ゲッ、ゲエェーーッ! ゲホガホッ! 本当に知らな」 <それとも次は和式の水を飲みたいか> 「知らないっつってんだろぉ!! 確かに散減も母乳信仰も金剛の叡智だ。だがそれをこの田舎島に伝来したのは誰か知らん! 少なくとも俺様は無関係だ!!」  残念だけど、こいつから聞き出せる情報はこの程度のようだ。私は影の炎で倶利伽羅を熱消毒して、洗面台でプルパと自分の手を洗った。 「ぎゃああああ熱い熱い!! ぎゃああああああ石鹸が染みるウゥゥ!!」  霊的な炎にスプリンクラーが反応しなくて良かった。  ベンチに戻ると、佳奈さんは既に身軽なサマードレスに着替えていた。脱水防止に自販機でスポーツドリンクを買い、大荷物を待っていると、空港スタッフの方が私達のスーツケースを運んできてくれる。 「ようこそおいでなすって、したたびの皆さん。快適な空の旅を?」 「いやあ、それがとんでもない乱気流に入っちゃいましてね。だぶか墜落せずにここまで運んでくれた機長さんは凄いですなぁ」 「乱気流が! ははぁ、そいつぁコトだ。どうか島ではごゆっくり」  尻切れトンボな口調でスタッフの方がタナカDと会話する。これは『南地語(なんちご)』と呼ばれる、江戸の都から南方にあるこの島特有の方言だ。『~をしましたか?』が『~を?』、『~なのです』が『~ので』、といった調子で、���里が島の人は語尾を省略して喋るんだ。 「佳奈さん、私南地語を生で聞くの初めてです。なんだか新鮮ですね」 「千里が島スタイルでは南地語(なっちご)って読むんだよ」 「へえ、沖縄弁がうちなーぐちみたいな物なので?」 「そうなので!」 「「アハハハハ!」」  二人でそれらしく喋ってみたけど、なんかちょっと違う気がする。案外難しい。それより、佳奈さんがちょっと元気になったみたいで良かった。今日この後はホテルで企画説明や島の情報を聞くだけだから、今夜はゆっくり休んで、気持ちを切り替えていこう。
གཉིས་པ་
 空港出入口の自動ドアを開いた途端、島のいやに生ぬるい潮風が私達を出迎えた。佳奈さんがまた気分を悪くしそうになり、深呼吸する。私も機内の騒動で平衡感覚がおかしくなっているからか、耳鳴りがする。 「ともかくお宿に行きたいな……」  そう独りごちた矢先、丁度数台の送迎車がバスターミナルに列をなして入ってきた。特に目立つのは、先頭を走るリムジンだ。白く輝く車体はまるでパノラマ写真のように長い。 「わぁすっごい! 東京からテレビが来たってだけあって、私達超VIP待遇されてる!」 「いえ、佳奈さん、あれは……」  ところがリムジンは大はしゃぎする佳奈さんを素通り。入口最奥で待機していた河童の家一団の前に停車する。すかさず助手席からスーツの男性がクネクネしながら現れ、乗降ドア前に赤いカーペットを敷き始めた。 「どうもどうもぉ、河童の家の皆様! 私めはアトムツアー営業部の五間擦(ごますり)と申します。さあさ、どうぞこちらへ……」  アトムツアー社員は乗車する河童信者達の列に跪いて靴を磨いていく。全員が乗りこむと、リムジンはあっという間に去っていった。 「……あーあ。やっぱ東京のキー局番組じゃないってバレてたかぁ~。リムジン乗りたかったなぁ」 「ただの神奈川ローカルですからね、私達」 「こう言っちゃなんですけど、さすがカルト宗教はお金持ってますなあ」 「タナカさん、今の台詞はカットしなきゃダメですよ」 「あっ一美ちゃん! 私達の、あっちじゃない?」  リムジン後方から車間距離を空け、一糸乱れぬ隊列を組んだバイク軍団が走ってくる。機体はどれも洗練されたフォルムの高級車で、それに乗るライダー達も全員眩しくなるほど美少年だ。 「「「千里が島へようこそ、お嬢様方! アトムツアー営業部ライダーズです!」」」  彼らは私達の目の前で停車すると、上品なダマスク柄の相乗り用ヘルメットを取り出し白い歯を見せて微笑んだ。 「えーっ、お兄さん達と二ケツして行くって事!? やーんどうしよ……」  佳奈さんがデレデレと伊達眼鏡を外した瞬間、 「きゃー!」「ライダー王子~!」「いつもありがとぉねぇー!」  加賀繍さんのおばさま軍団が黄色い悲鳴を轟かせ、佳奈さんを突き飛ばしてイケメンに突進�� 一方イケメンライダーズは暴れ牛をいなす闘牛士の如く、キャーキャー飛び跳ねるおばさま達にテキパキとヘルメットを装着し、バイクに乗せていく。ところがおばさま軍団の殿を堂々たる態度で歩く加賀繍さんは、彼らを見るや一言。 「ヘン。どれもこれも、モヤシみたいのばかりじゃないか。コールもろくに出来なさそうだねぇ」  イケメンライダーズには目も合わそうとせず、一番大きなバイクにどかっと着席。バイク軍団は颯爽とリムジンを追いかけていくのだった。 「……あーあぁぁ。やっぱ小心者モデルじゃイケメンバイクはダメかぁ~」 「腹黒極悪ロリータアイドルじゃダメって事ですねぇ」 「加賀繍さんも稼いでるもんなあ。コールですって、きっとホスト狂いですよぉあの人」 「タナカD、その発言OA(オンエア)で流したら番組打ち切りになるよ」  三人で管巻いていると、少し間を置いて次の送迎車が現れた。トココココ……と安っぽいエンジン音をたてて走る小型シャトルバスだ。私としては別に河童の家や加賀繍さん方みたいな高級感はいいから、さっさとホテルで休ませて欲しい。ランウェイを歩いていた午前中から色んな事が起こりすぎて、もうヘトヘトなんだ。「あ、あの……」しかしバスは残酷にも、私達の待つ地点とは反対側のロータリーに停車。玲蘭ちゃんと後女津一家を乗せて去っていった。「あの、もし……」小さくなっていく『アトムツアー』のロゴに、佳奈さんが中指を立てた。私もそれに倣って、親指を 「あの! お声かけても!?」 「ふぇ!? あ、は、はい!」  声をかけられた事に気がつき振り返ると、背の高い男性……を通り越して、日本人離れした偉丈夫がいつの間にか私達の背後に立っていた。しかも恐縮そうに腰を屈めているから、まっすぐ立ったら少なくとも身長二メートル以上はありそうだ。 「遅くなっちまって失礼を。僕は千里が村役場観光事業部の、青木光(あおきひかる)です。ええと、したたびさんで?」 「ええ。しかし、君が青木君かい!? 大きいなあ、あっはっは!」  タナカDが青木さんの胸のあたりをバシバシと叩いた。青木さんはオドオドと会釈しながら後込む。身体が大きいから最初は気がつかなかったけど、声や仕草から、彼は私と同い年か少し年下のようだとわかる。 「あ、あのォこれ、紅さんがいつも髪にチョークされてるので、僕も髪色を。ど、どうです……派手すぎで?」 「あ、ヘアチョークご自分でされたんですか? すごくお似合いですよ!」 「い、いえ、床屋のおばちゃんが! でも……お気に召したなら、良かったかもだ」  青木さんは全体をホワイトブリーチした目隠れセミロングボブを、毛先だけブルーにしている。今日は私も下半分ブルーだからおそろいだ。ただ、このヘアメイクに対して彼の服装はイマイチ……素肌に白ニットセーター直着、丈が中途半端なベージュカーゴパンツ、ボロボロに履き古された中学生っぽいスニーカー。確かに、『都会からテレビが来るから村の床屋さんが髪だけ気合い入れすぎちゃった』みたいな情景がありありと目に浮かんでしまう。もうロケそっちのけで青木さんを全身コーデしたくなってきた。 「それより青木君、私達の車は?」  佳奈さんが荷物を持ち上げる。 「え。いえその、言いにくいんですけど……」  青木君は返答の代わりに、腕を左右にスイングしてみせた。まさか…… 「徒歩なんですか!?」 「すす、すみません、荷物は僕が! 役場もコンペに予算とか人員を削がれちまって、したたびさんのお世話は僕一人などと。けど僕、まだ仮免だから……」 「「コンペ?」」  首を傾げる佳奈さんとタナカD。私は飛行機内で聞いた除霊コンペティションの話をかいつまんで説明した。 「困るよぉそれ! 除霊されたらこっちの撮れ高がなくなるじゃんかよ!」 「ゲ、やっぱり! 聞いて下さい青木さん。この人達、宝探し企画とか言っておきながら、本当は私を心霊スポットに連れて行く気だったんですよ!?」 「ええっ肝試しを!? 島のお化けはおっとろしいんだから、それはちょっとまずいかもけど!」  目隠れ前髪越しでもわかるほど冷や汗を流しながら、青木君は赤べこみたいにお辞儀を繰り返す。 「そら見なさい、触らぬ神に祟りなしですよ。私達だけ徒歩になったのだって、きっと罰が当たったんだ」 「そーだそーだ! 青木君に謝れタナカD!」 「なんだと? あなただって紅さんを地上波で失禁させるって息巻いてたじゃないか!」 「佳奈さん!!」 「そこまでは言ってないし!」 「ややや、喧嘩は!」 「あ、気にしないで下さい。私達これで平常運転ですから」  この罵り合いはホテルに到着するまで続く。したたびロケではいつもの事だ。私達は良く言えば忌憚なく話し合える仲だし、悪く言えば顔を合わせる度に言葉の殴り合いをしている気がする。それでも総括的には……仲良しなのかな、どうなんだろう。  空港からホテルへは、石見サンセットロードという遊歩道を行く。海岸沿いの爽やかな道とはいえ、心霊スポットという前情報のせいか海が陰気に見える。船幽霊が見えるとかそういう事はないけど、島の人も霊も全く外を出歩いていなくてだぶか不気味だ。  到着した『ホテル千里アイランドリゾート』はそこそこ広くて立派な建物だった。それもそのはず。青木さんによると、ここは島で唯一の宿泊施設だという。但し数ヶ月後には、アトム社がもっと大規模なリゾートホテルを乱造するんだろう。玄関に到着すると、スタッフの方々が私達の荷物を運びに…… 「って、玲蘭ちゃんに斉一さん!?」 「あっ狸おじさんだ! ……と、誰?」  そうか、普段メディア露出をしない玲蘭ちゃんを佳奈さんは知らないんだった。 「この方は金城玲蘭さん、沖縄の祝女……シャーマンですね。私の幼馴染なんです」 「初めまして志多田さん、タナカさん。金城です。こちらの彼は……」  玲蘭ちゃんが話を振る直前、斉一さんの中にさりげなく、ドレッド狸の斉二さんが乗り移るのが見えた。代わりに斉一さんらしき化け狸が彼の体から飛び出し、 「どうも、ぽんぽこぽーん! 幸せを呼ぶ地相鑑定士、毎度おなじみ後女津斉一です!」  彼はすっかりテレビでお馴染みの風水タレントの顔になっていた。芸能界で活躍していたのはやはり斉二さんだったみたいだ。 「あの、どうしてお二人が?」  客室へ向かいながら私が問いかけると、二人共苦笑する。 「一美、実は……私達、相部屋だったんだ」 「え!?」  すごすごと玲蘭ちゃんが襖を開けると、そこはまさかの宴会場。河童の家や加賀繍さん達で客室が埋まったとかで、したたびチームと玲蘭ちゃん、後女津家が全員大部屋に押しやら���てしまったのだという。 「はぁ!? じゃあ私達、川の字で雑魚寝しなきゃいけないワケ!? 男女分けは……まさか、えっこれだけ!?」 「すみません、すみません!!」  佳奈さんが宴会場中央の薄っぺらい仕切り襖を開閉するリズムに合わせ、青木さんはベコベコと頭を下げる。 「やめましょうよ佳奈さん、この島じゃ誰もアトムには逆らえないんですから」 「ぶっちゃけ俺や金城さんも、半ばアトムに脅迫される形でここに連れてこられたんだよねぇ……あ、これオフレコで」 「いやいや狸おじさん、もう全部ぶっちゃけたっていいんですよ。うちのタナカが全責任を負って放送しますから」 「勝手に約束するんじゃないよぉ! スーパー日本最大手の大企業に、テレ湘なんかが勝てるわけないんだから!」 「「「はあぁぁ……」」」  全員から重たい溜め息が漏れた。
གསུམ་པ་
 簡単な荷物整理を終え、したたびチームはロビーに移動。改めて番組の企画説明が始まった。タナカDが三脚でカメラを固定し、語りだす。 「今回は『千里が島宝探し編』。狙うはもちろん、徳川埋蔵金ですからね。お二人には明後日の朝までに、埋蔵金を探し出して頂きます」 「見つからなかったらどうなるんですか?」 「いつも通り、キツい罰ゲームが待っていますよぉ」 「でしょうねぇ」  埋蔵金なんか見つかりっこないのは分かりきっている癖に。完全に出来レースじゃないか。 「もちろん手掛かりはあるよ」 佳奈さんが机に情報フリップを立てかけた。書かれているのは簡略化された千里が島地図だ。 「山の上にあるのが噂の縁切り神社、『御戌神社(おいぬじんじゃ)』。そこから真下に降りたところ、千里が島国立公園のところに書いてあるこのマークが『ザトウムシ記念碑』。一美ちゃんは、民謡の『ザトウムシ』は知ってるよね?」 「もちろん知ってますよ。お店で閉店前によく流れる曲ですよね? あれって千里が島の民謡なんですか」 「そうなの。そしてザトウムシの歌詞は、一説によると徳川埋蔵金のありかを示す暗号だと言われてるんだ!」 「へえ、そうなんですね。じゃあ暗号は解けてるんですか?」 「それはこれから考えるんだよ」 「はぁ……」  なんだか胡散臭い手掛かりだ。 「だいたい、埋蔵金なんて本当にあるんですか? そもそも、千里が島と徳川幕府に関係性が見えないんですが」 「じゃあまずは千里が島の歴史を知るところからだね。青木君ー!」 「はい、ただいまー」  佳奈さんが呼びかけると、大きなホワイトボードを引きずりながら青木さんが画角内に入る。実はさっきから、彼は私達の真横でずっとスタンバイしてくれていたんだ。青木さんはホワイトボードにゴシック体みたいな整った字で『千里が島と徳川家の歴史』と書き、解説を始めた。  千里が島、旧地名散減島。ここは元々江戸時代に都を脅かした怨霊を鎮めるためだけに開拓された地で、その伝説が縁切りや埋蔵金の噂に繋がる起源なのだそうだ。  事の発端は一六七九年。徳川幕府五代将軍、徳川綱吉が男の子を授かった。名を徳松という。しかし徳松は一歳を過ぎても母乳以外なにも飲み食いできず、見るからに虚弱だった。これを訝しんだ綱吉が時の神職者に相談してみると、徳松は江戸幕府征服を目論む物の怪によって、呪われた悪霊の魂を植え付けられていたと判明する。 「物の怪は徳松の体のミルクから、縁を奪ってたんですだ」 「ミルクから……縁?」  既に倶利伽羅から軽く説明を受けていたけど、番組撮影のためにも改めて青木さんから話を聞く。 「昔の伝承じゃ、おっかさんのミルクにゃ親子の縁が宿るなど。ミルクをとられた子は親と縁が切れて、バケモノになっちまうとか。だから徳松は、本能的にいつまでもミルクを」 「へえ、そういう信仰があったんですね」  神職者が提示した儀式は、三歳、五歳、七歳……と二年毎に分けて行われる。魂が完全形成される前の三歳の時に悪霊を摘出し、代わりに神社の聖なる狛犬の魂を素材として魂を作り直す。五歳になったら身を守るための霊能力を与えて修行を積ませ、七歳で悪霊退散の旅に向かわせる。それが幕府と神職者が本来描いていた運びだった。 「ちなみにこれが七五三参りの起源なんだよ……だがしかしィーっ!」  佳奈さんがフリップに貼ってある付箋を勢いよく剥がす! 「デデン! なんと徳松は五歳で死んでしまうのです!」 「えぇ? 七五三参りの起源になった子なのに、七歳まで生きられなかったんですか!?」 「まあ現在の七五三参りは、男の子は五歳しかお参りしませんけどね」  タナカDが画面外から補足した。徳松は修行の途中物の怪に襲われ、命を落としてしまったんだ。それでも彼は物の怪を体内に封印し、二年間耐え抜いた。しかし物の怪は激しく縁に飢え、徳松の精神をじわじわと狂わせる。そして一六八五年、人の縁を完全に失った徳松の魂は大きな狛犬のような怨霊となって江戸中の縁を貪った。徳松に縁を食われた人々は不幸にみまわれ、家族や仕事を失ったり、人間性を欠きケダモノめいて発狂したりと大パニックだ!  ついに諦めた幕府と神職者は、徳松を江戸から追い出してしまう。彼らは江戸中の女性から母乳を酒樽一斗分集め、それを船に乗せて江戸から遥か南の無人島に運んだ。徳松も船を追って海を渡ると、そのまま神職者は島に神社を建て、徳松の魂を神として奉った。以降徳松は悪縁を食べてくれる縁切り神として有名になり、千里が島は今日も縁切りパワースポットとして名を馳せているんだそうだ。 「では一美ちゃん、ここでクイズです! 怨霊事件から更に二年後、一六八七年。怨霊がいなくなった後も徳松の祟りを思い出してノイローゼになっていた綱吉は、ある法律を制定しました。それはなーんだ?」 「え、法律!?」  急に佳奈さんがクイズを振ってきた。歴史は得意でも苦手でもない方だけど…… 「ええぇ、徳川綱吉で法律といえば、生類憐れみの令ぐらいしか……」 「ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん!!」 「え、生類憐れみの令でいいんですか!?」 「その通り! 綱吉は犬畜生を見る度に徳松を思い出してしまう! そして祟りを恐れて動物を殺さないように法律を作った。それが生類憐れみの令の真実なのだあ!!」  ババババーン! と、オンエアではここで安っぽい効果音が入るのが想像に難くない。しかし七五三参りだけでなく、あまつさえ生類憐みの令まで徳川徳松が由来だったなんてさすがに眉唾な気がする。 「徳松さんってそんなに歴史的に重要な人だった割には、あまり学校じゃ習わないですね」 「今青木君と佳奈さんが説明した伝承は、あくま���千里が島に伝わる話ですからな。七五三も生類憐れみの令も、由来は諸説あるみたいですよ」  タナカDが蚊に食われた腕を掻きながら再び補足した。すると佳奈さんが反論する。 「でもだよ! もし千里が島の伝説が本当なら、法律にしちゃうほど当時の江戸の人達が徳松を恐れてたって事だよね! だったら幕府は、だぶか大事な物は千里が島に隠すと思うんだ。まさに埋蔵金とか!」 「うーん、百歩譲ってそうだったとしても、それで私達が埋蔵金を見つけて持って行っちゃったら、徳松さんに祟られませんか?」 「もー、一美ちゃんは相変わらずビビりだなあ。お化けが怖くて埋蔵金がゲット出来るかっ!」 「佳奈さん。そんな事言ってると、いつか本当にとんでもない呪いを背負わされますよ」 「その子の言う通りさね」 「え?」  突然、誰かがトークに割り入ってきた。私達が顔を上げると、そこにいたのは加賀繍さんと取り巻きのおばさま軍団。なんてことだ。恐れていた展開、ついにアサッテの霊能者に絡まれてしまった。
བཞི་པ་
 ホテルロビーの椅子と机はフロントより一段低い窓際に位置する。フロント側に立つ加賀繍さんとおばさま方に見下ろされる私達は、さながら熊の群れに追い詰められた小動物のようだ。 「あんた、志多田佳奈だっけか? いい歳して幼稚園児みたいな格好して、みっとみないね。ご先祖様が泣いてるよ」 「ですよねぇ先生、大人なのに二っつ結びで」「嫌ーねー」  初対面で早々佳奈さんを罵る加賀繍さんと、それに同調するおばさま軍団。 「これはゴスロリっていうんですーっ」  佳奈さんがわざとらしく頬を膨らませた。こんな時でもアイドルは愛想を振りまくものだ。 「ゴスロリだかネンネンコロリだか知らないけどね。あんた、ちゃんとご先祖様の墓参りしているのかい? この島は特別な場所なんだから、守護霊に守って貰わなきゃあんた死ぬよ。それこそネンネンコロリだ」  出た、守護霊。日頃お墓参りを怠っていると、ご先祖様が守護霊として仕事をしなくなり不幸になる。正月の占い番組でよく聞く加賀繍さんの常套句だ。更に加賀繍さん直営の占い館では、忙しくてお墓参りに行けない人に高価なスピリチュアルグッズを売りつけているという噂だ。現に今も、おばさま方が怪しい壺やペットボトルを持って、私達をじっとりと見つめている。 「それから、そっちの黄色いの。あんたはちゃんとしてるのかい?」  黄色いの? ……ああ、アイラブ会津パーカーが黄色だから私の事か。佳奈さんは芸名で呼ばれたのに、ちょっと悔しい。 「定期的に帰ってますよ。家のお仏壇にも毎日お線香をあげてますし」  実家では、だけど。ここは彼女を刺激しないようにしたい。 「ふぅんそう。けどそれだけじゃあ、この島じゃ生きて帰れないだろうさ。仕方ないね、今回はあたしが特別にエネルギーを分けてやるよ」  そう言い加賀繍さんは指を鳴らす。するとおばさま方が私達のテーブルからフリップや資料を勝手にどかし、怪しい壺とペットボトル、銀のボウルをどかどかと並べ始めた! 慌ててタナカDが止めにかかる。 「ちょっと、加賀繍さん! 困りますよぉ、撮影中です!」 「はあ? 困るですって!?」 「あなた! 加賀繍先生が直々に御力添えして下さるのを、まさか断るってんじゃないでしょうね?」 「あ、いえ、とんでもございません」 「もー、タナカD~っ!」  しかしおばさま方に気圧されてあっさりと机を譲ってしまった。佳奈さんがタナカDの頭をペチッとはたいた。おばさまの一人がペットボトルを開け、ボウルに中身を注ぎ始める。ボトルには『悪鬼除滅水』という何やら物騒な文字が書かれている。横で加賀繍さんも壺の蓋を開ける。何か酸っぱいにおいが立ちのぼり、佳奈さんが私にしがみついた。 「エッヤダ怖い。あの壺、何が入ってるの!?」  小声で佳奈さんが囁く。加賀繍さんはその壺に……手を突っ込んでかき混ぜ始めた! グシュ、ピチャ、ヌチチチチ。まるで生肉か何かを攪拌しているような不気味な音がロビーに響く。 「やだやだやだ! 絶対生モノ入ってる! まさか、ご、ご、ご先祖様の……ご、ご、」 「ご遺体を!? タナカさん、カメラ止めにゃ!」  気がつくと青木さんまで私にしがみついて震えていた。かく言う私はというと、意外と冷静だ。あの壺や水からは、なんら霊的なものは感じない。強いて言うなら加賀繍さんご本人の中に誰かが宿っている気がするけど、眠っているのか気配は薄い。それより気になるのは、ひょっとしてこの酸っぱいにおいの正体は…… 「ぬか漬け、ですか?」 「そうさ」  やっぱり! 加賀繍さんは壺から人参のぬか漬けを取り出し、ボウルの悪鬼除滅水でぬかを洗い落とした。 「あたしん家でご先祖様から代々受け継がれてきたぬか床さ。これを食えばあんたらも家族と見なされて、いざという時あたしの強力なご先祖様方に守って貰える。ほら、食え」  加賀繍さんが人参を佳奈さんに向ける。でも佳奈さんは受け取るのを躊躇った。 「うわぁ、せ、先祖代々って……なんか、それ大丈夫なんですか?」 「なんだって!?」 「ひい!」 「し、しかしですねぇ加賀繍さん、お気持ちは有難いんで大変申し訳ないんですが、演者に生ものはちょっと……」 「カメラマン、あんたも食うんだよ」 「僕もですか!? いえ、僕はこないだ親戚の十三回忌行ったばっかだから……」 「美味しい!」 「一美ちゃん!?」「紅さん!?」  誰も手をつけないから私が頂いてしまった。これは普通に良い漬物だ。塩気や浸かり具合が丁度よくて、野菜がビチャッとしていない。ぬか床が大切に育てられている事がよくわかる。 「美味しいです加賀繍さん! 福島のおばあちゃんの漬物を思い出しました。佳奈さんも食べてみればいいじゃないですか」 「一美ちゃん案外勇気あるなあ……。じゃ、じゃあ、いただきます……エッ美味しい!」 「でしょ?」 「はははははっ!」  私は初めて、ずっと仏頂面だった加賀繍さんがちゃんと笑う所を見た。 「あんたは本当にちゃんとしているんだね、黄色いの。よく墓参りをする人は、親や祖父母の実家によく帰るだろ。だから家庭の味ってやつをちゃんと知っている。人にはそれぞれ家族やご先祖様がいて、それが良縁であれ悪縁であれ、その人の人生を作るのさ。だから墓参りはしなくちゃいけないんだよ。この島の神様は縁を切るのが仕事のようだけど、あたしゃ自分に都合の悪い縁を切るなんて愚かだと思っているのさ」 「そうなんですね。ちなみに私、紅一美です。覚えて下さい」 「あ? 紅? じゃあ何でそんなに黄色いんだい。今日から黄色ちゃんに改名しな! ハハハハ!」  どうやら私は加賀繍さんに気に入られたようだ。地元を引き合いに出したのが良かったみたいだ。それにしても、彼女の話はなかなか説得力がある。どうする事もできない悪縁を切るために神様を頼るのが間違っているとまでは思わないけど、そうする前に自分のご先祖様や恩人との縁を大切にする方が大事なのは明白だ。彼女がアサッテだからって偏見の目で見ていた、さっきまでの自分が恥ずかしくなった。ところが…… 「じゃあ、これ御力添え代ですわ。ほい」 おばさま方の一人がタナカDに請求書を渡す。するうちタナカDは「フォッ」と声にならない音を発し、冷や汗を流し始めた。あの五百ミリリットルサイズの悪鬼除滅水ボトルに『¥三,〇〇〇』と書かれたシールが貼ってあった気がするけど、人参のぬか漬け一本は果たしていくらなんだろう。それ以外にも色々な手数料が加算されているんだろうな……。 「加賀繍さんにパワーを貰えてラッキー! 果たして埋蔵金は見つかるのか!? CMの後、急展開でーす! はいオッケーだね、じゃ私トイレ!」  佳奈さんは息継ぎもせず早口でまくし立て、脱兎のごとくホテル内へ去っていった。 「あっコラ極悪ロリータ! 勝手に締めて逃げるなぁ!!」 「青木さん、私ぬか漬け食べたらお茶が飲みたくなっちゃったなー!」 「でしたらコンビニなど! ちぃと遠いかもけど、ご案内を!」 「おい青木と黄色! この裏切り者ーーーっ!!」  私と青木さんもさっさと退散する。まあタナカさんには、演者への保険料だと思って何とかして欲しいものだ。でも私は内心、これで番組の予算が減れば今後大掛かりなドッキリ演出が控えられるだろうと少しほくそ笑んでいた。
ལྔ་པ་
 新千里が島トンネルという薄暗いトンネルを抜けた所に、島唯一のコンビニ『クランマート』があった。アトム系列の『プチアトム』ではなくて良かった。私はカフェインが苦手だから紙パックのそば茶を選び、ついでに佳奈さんへペットボトルのピーチサイダーを、タナカDへは『コーヒーゼリー味』と書かれた甘そうな缶コーヒーを購入した。青木さんも私と同じそば茶、『おおきなおおきなエビカツパン』、梅おにぎりを買ったようだ。青木さんが持つエビカツパンは、なんだかすごく小さく見えた。  外は既に夕日も沈みかけて、夕焼け空が夜に切り替わる直前になっていた。黄昏時……そういえば、童謡『ザトウムシ』の歌い出しも『たそがれの空を』だったな。私はコンビニ入口の鉄手すりに腰掛け、先程タナカDから渡されたペラペラのロケ台本をめくる。巻末の方に歌詞が書いてあったはずだ。するとタイミング良く、クランマートからも閉店ミュージックとしてザトウムシが流れ始めた……。
【童謡 ザトウムシ】  たそがれの空を  ザトウムシ ザトウムシ歩いてく  ふらついた足取りで  ザトウムシ歩いてく
 水墨画の世界の中で  一本絵筆を手繰りつつ  生ぬるい風に急かされて  お前は歩いてゆくんだね
 あの月と太陽が同時に出ている今この時  ザトウムシ歩いてく  ザトウムシ ザトウムシ歩いてく
 おうまが時の門を  ザトウムシ ザトウムシ歩いてく  長い杖をたよって  ザトウムシ歩いてく
 何でもある世界の中へ  誰かが絵筆を落としたら  何もない灰色を裂いて  お空で見下ろす二つの目
 ああ月と太陽はこんなに出しゃばりだったのか  ザトウムシ歩いてく  ザトウムシ ザトウムシ歩いてく
「改めて読むと、確かに意味深な歌詞だな……」  私が独りごつと、隣の鉄手すりに座ってエビカツパンを咀嚼していた青木さんが口を拭った。 「埋蔵金探しは、したたびさんより前にも何度か。大体皆さんザトウムシ記念碑からスタートされて、『ザトウムシ』という歌詞の数だけ歩くとか、夕焼けの時間にどっちの方角を向くなどと……。けど、それらしい物が見つかったのは一度もだ」 「そうなんですね」 「そもそもどうしてザトウムシを……徳松さんに縁があるのって、どちらかと言えば犬では? けど何故か、島ではザトウムシを特別な虫だなどと」 「言われてみれば、生類憐みの令といえばお犬様! ってイメージがありますね。……ていうか、なんか、すいません。余所者のテレビ局が島のお宝を荒らすような真似して、島民の青木さんはいい気持ちしないですよね」 「そ、そ、そんな事! だぶか!」  青木さんは慌てた様子で私の方を向き座り直した。 「僕は嬉しいんだから! だって今まで、おっとさんらは島のこと僕に何も教えてくれないし、何もさせてくれなくて。けど今回は、社会人として初めて仕事を任されたので……ので……」  緊張したような様子で青木さんの姿勢が丸まる。コンビニから流れるザトウムシのメロディに一瞬振り返った後、彼はパンの袋を両手で抱えて更に縮こまった。 「……僕だって縁切りやお化けなんか、ただの迷信と。だけどこの島の人は実際、内地に比べてよそよそしいかもだ。何も言わず友達が引っ越してたり、親戚がいつの間にかおっ死んじまってたりなど……。それで内地の人と関われる役場の観光課に入ったのに、アトムさんがリゾート開発おっ始めて公務員は御役御免。僕は島に縁を切られたので?」 「青木さん……」  私も会津の田舎町で育ったから、彼の気持ちはわかる。狭いコミュニティに住む人々は、距離が近いようで時にとても排他的になるものだ。それは多かれ少なかれ互いを監視し、情報共有し合っているから当たり前の事だけど、���切りで有名なこの島は特にそういう土地柄なのかもしれない。 「したたびさんのおかげで、やっと僕にバトンが回ってきたんだから。僕達で絶対埋蔵金を見つけにゃ。それで島のおっとさん方もアトムも、お化けも霊能者の先生方も……」  青木さんは腰を上げ、猫背をやめて私の前にまっすぐに立った。 「僕達の縁で、みんなを見返してやるんですだ!」  その瞬間、風が彼の重たい前髪をたくし上げた。彼の子犬みたいな笑顔を見た私は初めて、以前雑誌のインタビューで適当に答えた『好きな男性のタイプ』と青木さんが完全に一致している事に気がついたのだった。
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hananien · 4 years
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【キャプトニ】フィランソロピスト
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ピクシブに投稿済みのキャプトニ小説です。
MCU設定に夢と希望と自設定を上書きした慈善家トニー。WS前だけどキャップがタワーに住んでます。付き合ってます。
ピクシブからのコピペなので誤字脱字ご容赦ください。気づいたら直します。
誤字脱字の指摘・コメントは大歓迎です。( Ask me anything!からどうぞ)
 チャリティーパーティーから帰ってきたトニーの機嫌は悪かった。スティーブは彼のために、知っている中で最も高価なスコッチウイスキーを、以前彼に見せられたyou tubeの動画通りのやり方で水割りにして手渡してやったが、受け取ってすぐに上品にあおられたグラスは大理石のバーカウンターに叩きつけられ、目玉の飛び出るくらい高価な琥珀色のアルコール飲料は、グラスの中で波打って無残にこぼれた。  「あのちんけな自称軍事評論家め!」 スティーブは、トニーが何に対して怒っているのか見極めるまで口を出さないでおこうと決めた。彼が摩天楼を見下ろす窓ガラスの前でイライラと足を踏み鳴らすのを、その後ろから黙って見つめる。  トニーは一通り怪し気なコラムニストの素性に文句を言い立て、同時に手元の情報端末で何かをハッキングしているようだった。「ほーらやっぱり。ベトナム従軍経験があるなんて嘘っぱちじゃないか。傭兵だと? 笑わせてくれる。それで僕の地雷除去システムを批判するなんて――」 左手で強化ガラスにホログラムのような画面を出現させ、右手ではものすごい勢いで親指をタップさせながら、おそらく人ひとりの人生を破滅させようとしているわりには楽しそうな笑みを浮かべてトニーは言った。「これで全世界に捏造コラムニストの正体が明かされたぞ! まあ、誰かがこいつに興味があったらニュースになるだろう」  「穏やかじゃないチャリティーだったようだな」 少しトニーの気が晴れたのを見計らって、スティーブはようやく彼の肩に触れた。  「キャプテン、穏やかなチャリティパーティーなんてないんだ。カメラの回ってないところじゃ慈善家たちは仮面を被ろうともしない。同類ばかりだからね」  トニーは振り返ってスティーブの頬にキスをすると、つくづくそういった人種と関わるのが嫌になったとため息をついた。「何が嫌だって、自分もそういう一人だと実感することがさ」  「それは違うだろう」  「そうか?」 トニーはスティーブの青い目を見上げてにやりと笑った。「僕が人格者として有名じゃないってことは君もご指摘のとおりだろ?」  「第一印象が最悪だったのは、僕のせいかい」 これくらいの当てこすりにはだいぶ慣れてきたので、スティーブは涼しい顔で返した。恋人がもっと悪びれると思っていたのか、トニーはつまらなそうに口をとがらせる。「そりゃそうさ。君が悪い。君は僕に興味なさそうだったし、趣味も好きな食べ物も年齢も聞かなかったじゃないか。友人の息子に会ったらまずは”いくつになった?”と聞くのがお決まりだろ。なのに君ときたらジェットに乗るなりむっつり黙り込んで」  「ごめん」 トニーの長ったらしい皮肉を止めるには、素直に謝るか、少々強引にキスしてしまうか、の二通りくらいしか選択肢がなかった。キスは時に仲直り以上の素晴らしい効果を与えてくれるが、誤魔化されたとトニーが怒る可能性もあったので、ここは素直に謝っておくことにした。  それに、”それは違う”と言ったのは本心だ。「君は自分が慈善家だと、まるで偽善者のようにいうけれど、僕はそうは思わない――君が人を助けたいと思うのは、君が優しいからだ」  「僕が優しい?」  「そうだ」  「うーん」 トニーは自分でもうまく表情を見つけられないようだった。スティーブにはそれが照れているのだとわかった。よく回る口で自分自身の美徳すら煙に巻いてしまう前に、今度こそスティーブは彼の唇をふさいでしまうことにした。
 結局、昨夜トニーが何に怒っていたのか、聞かずじまいだった。トニーには――彼の感情の表現には独特の癖があって、態度で示していることと、内心で葛藤していることがかけ離れていることさえある。彼が怒っているように見えても、その実、怒りの対象とは全く別の事がらについて心配していたり、計算高く謀略を巡らせていたりするのだ。  彼が何かを計画しているのなら、それを理解するのは自分には不可能だ。スティーブはとっくに、トニーが天才であって、自分はそうではないことを認めていた。もちろん軍事的なこと――宇宙からの敵に対する防備であるとか、敵地に奇襲するさいの作戦、武器や兵の配置、それらは自分の専門であるからトニーを相手に遅れをとることはない。それに、一夜にして熱核反応物理学者にはなれないだろうが、本腰を入れて学べばどんな分野だって”それなりに”モノにすることは出来る。超人血清によって強化されたのは肉体だけではない。しかし、そういうことがあってもなお、トニーの考えることは次元が違っていて、スティーブは早々に理解を諦めてしまうのだ。  べつにネガティブなことではないと思う。トニーが何をしようとも、結果は共に受け入れる。その覚悟があるだけだ。  とはいえ、昨夜のようにわざとらしく怒るトニーは珍しい。八つ当たりのように”自称軍事評論家”とやらの評判をめちゃめちゃにしたようだが、パーティーでちょっと嫌味を言われただけであそこまでの報復はしないだろう(断言はできないが)。彼への反感を隠れ蓑に複雑な計算式を脳内で展開していたのかもしれないし、酔っていたようだから、本当にただの”大げさな怒り”だったのかもしれない――スティーブは気になったが、翌日になってまで追及しようとは思わなかった。特に、隣にトニーが寝ていて、ジャービスによって完璧に計算された角度で開かれたブラインドカーテンから、清々しい秋の陽光が差し込み、その日差しがトニーの丸みを帯びた肩と長い睫毛の先を撫でるように照らしているのを何の遠慮も邪魔もなく見つめていられる、今日みたいな朝は。  こんな朝は、キスから始まるべきだ。甘ったるく、無駄に時間を消費する、意味だとか難しい理由なんかこれっぽっちもないただのキス。  果たしてスティーブの唇がやわらかな口ひげに触れたとき、トニーのはしばみ色の瞳が開かれた。  ……ああ、美しいな。  キスをしたときにはもうトニーの目は閉じられていたが、スティーブはもっとその瞳を見ていたかった。  トニー・スタークの瞳はブラウンだということになっている。強い日差しがあるとき、ごく近くにいるとわかる、彼の瞳はブラウンに緑かかった、透明水彩で描かれたグラスのように澄んだはしばみ色に見える。  彼のこの瞳を見たことのある人間は、スティーブ一人というわけではないだろう――ペッパー・ポッツ、有名無名のモデルや俳優たち、美貌の記者に才気ある同業者――きっと彼の過去に通り過ぎていった何人もの男女が見てきたことだろう。マリブにあった彼の自宅の寝室は、それはそれは大きな窓があり、気持ちの良い朝日が差し込んだときく。  けれど彼らのうち誰も、自分ほどこの瞳に魅入られ、囚われて、溺れた者はいないだろう。でなければどうして彼らは、今、トニーの側にいないのだ? どうして彼から離れて生きていられるのだ。  「……おはよう、キャップ」  「おはようトニー」 最後に鼻の先に口付けてからおたがいにぎこちない挨拶をする。この瞬間、トニーが少し緊張するように感じられるのは、スティーブの勘違いではないと思うのだが、その理由も未だ聞けずにいる。  スティーブは、こと仕事となれば作戦や戦略のささいな矛盾や装備の不備に気がつくし、気がついたものには偏執的なほど徹底して改善を要求するのだが、なぜか私生活ではそんな気になれないのだった。目の前に愛しい恋人がいる。ただそれだけで、心の空腹が満たされ、他はすべて有象無象に感じられる。”恋に浮わついた”典型的な症状といえるが、自覚していて治す気もない。むしろ、欠けていた部分が充実し、より完全な状態になったような気さえする。ならば他に何を案じることがある? 快楽主義者のようでいてじつは悲観的なほどリアリストであるトニーとは真逆の性質といえた。  トニーが先にシャワーを浴びているあいだ、スティーブはキッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。スティーブと付き合うようになってから、いくつかのトニーの不摂生については改善されたが、起床後にコーヒーをまるで燃料のようにがぶ飲みする癖は変わらなかった。彼の天災のような頭脳には必要不可欠のものと思って今では諦めている。甘党のくせに砂糖もミルクも入れないのが、好みな��か、ただものぐさなだけかもスティーブは知らない。いつからかスティーブがティースプーンに一杯ハチミツを垂らすようになっても、彼は何も言わずにそれを飲んでいるので、実はカフェインが入っていれば味はどうでもいいのかもしれない。  シャワーから上がってきたトニーがちゃんと服を着ているのを確認して(彼はたまにごく自然に裸でキッチンやタワーの共有スペースにご登場することがある、たいていは無人か、スティーブやバナーなど親しい同性の人間しか居ないときに限ってだが)、スティーブもバスルームに向かった。着替えを済ませてキッチンに戻ると、トニーは何杯目かわからないブラック・コーヒーを飲んでいたが、スティーブが用意したバナナマフィンにも手をつけた形跡があったのでほっとする。ほうっておくとまともな固形食をとらない癖もなかなか直らない。スティーブはエプロンをつけてカウンターの中に入り、改めて朝食の用意を始める。十二インチのフライパンに卵を六つ割り入れてふたをし、買い置きのバゲットとクロワッサンを電子オーブンに適当に放り込んでセットする。卵をひっくり返すのは危険だということを第二次世界大戦前から知っていたので、片面焼きのまま一枚はトニーの皿に、残りは自分の皿に乗せる。半分に割ったりんご(もちろんナイフを使う。手で割ってみせたときのトニーの表情が微妙だったため)を添えてトニーの前に差し出すと、彼は背筋を伸ばして素直にそれを食べ始めた。バゲットはただ皿に置いただけでは食べないので手渡してやる。朝食時のふるまいについては今までに散々口論してきたからか、諦めの境地に達したらしいトニーはもはや無抵抗だ。  特に料理が好きだとか得意だとかいうわけでもないのだが、スティーブはこの時間を愛していた。トニーが健康的な朝の生活を実行していると目の前で確認することが出来るし、おとなしく従順なトニーというのはこの時間にしかお目にかかれない(夜だって、彼はとても”従順”とはいえない)。秘匿情報ファイルであろうとマグカップだろうと他人からの手渡しを嫌う彼が、自分の手から受け取ったクロワッサンを黙って食べる姿は、人になつかない猫を慣れさせたような甘美な達成感をスティーブに与えた。  「今日の予定は?」  スティーブが自分の分の皿を持ってカウンターの内側に座る。斜め向かいのトニーは電脳執事に問い合わせることなく、カウンターに置いたスマートフォンを自分で操作してスケジュールを確認した。口にものが入っているから音声操作をしないようだった。ときどき妙にマナーに正しいから面食らうことがある。朝の短時間できれいに整えられたトニーの髭が、彼が咀嚼するたびにくにくに動くのを見て、スティーブは唐突にたまらない気分になった。  「僕は――S.H.I.E.L.D.の午前会議に呼ばれてるんだ。食べ終わったら出発するよ。それから午後は空いてるけど、君がもし良かったら……」 トニーの口が開くのを待つあいだ、彼の口元を凝視していては”健全な朝の活動”に支障を来しそうだったので、スティーブは自分の予定を先に話し始めた。「……良かったら、美術館にでも行かないか。グッケンハイムで面白そうな写真展がやってるんだ。東アジアの市場のストリートチルドレンたちを主題にした企画で――」  トニーはスマートフォンの上に出現した青白いホログラムから、ちらっとスティーブに視線を寄越して”呆れた”顔をした。よっぽど硬いバゲットだったのか、ようやく口の中のものを飲み込んだ彼は、今度は行儀悪く手に持ったフォークをスティーブに向けて揺らしながら言った。「デートはいいが、そんな辛気臭い企画展なんかごめんだ」  「辛気臭いって、君、いつだったか、そういう子供たちの救済のためのチャリティーを主催したこともあったろ」  「ああ、僕は慈善家だからね。現地視察にも行ったし、NPOのボランティアどもとお茶もしたし、写真展だって行ったことがある、カメラが回ってるところでな」 フォークをくるりと回してバナナマフィンの残りに刺す。「何が悲しくて恋人と路上生活者の写真を見に行かなくちゃならない? ”世界の今”を考えるのか? わざわざ自分の無力さを痛感しに行くなんていやだね。君と腕を組んでスロープをぶらぶら下るのは、まあそそられるけど」  「まったく、君ってやつは……」 スティーブは苦笑いするしかなかった。「じゃあ、ただスロープをぶらぶら下るだけでいいよ。ピカソが入れ替えられたみたいだ。デ・キリコのコレクションも増えたっていうし、展示されてるなら見てみたい。噂じゃどこかの富豪が画家の恋人のために、イタリアのコレクターから買い付けて美術館に寄付したって」  「きみもすっかり情報機関の人間だな」  「まあね。絵が好きな富豪は君以外にもいるんだなって思った」  「君は間違ってる。僕は”超・大”富豪だし、べつに絵は好きで集めてるんじゃない。税金対策だよ。あと、火事になったとき、三億ドルを抱えるより、丸めた布を持って逃げるほうが効率いいだろ?」  「呆れた」  「絵なんて紙幣の代わりさ。高値がつくのは悪い連中が多い証拠だな」  ところで、とトニーはスマートフォンを操作し、ホログラムを解除した。「せっかくのお誘いはありがたいが、残念ながら僕は今日忙しいんだ。社の開発部のやつらが放り投げた……洋上風力発電の……あれやこれやを解析しなきゃならないんでね。美術館デートはまた今度にしてくれ。その辛気臭い企画展が終わった頃に」  「そうか、残念だよ」 もちろんスティーブは落胆なんてしなかった。トニーが忙しいのは分かっているし、それはスティーブが口を出せる範囲の事ではない。ふたりのスケジュールが完全に一致するのは、地球の危機が訪れた時くらいだ。それでもこうして一緒の屋根の下で暮らしているのだから、たかが一緒に美術館に行けないくらいで残念がったりはしない。ごくふつうの恋人たちのように、夕暮れのマンハッタンを、流行りのコーヒーショップのタンブラーを片手に、隣り合って歩けないからといって、大企業のオーナーにしてヒーローである恋人を前に落胆した顔を見せるなんてことはしない。  「スティーブ、すねるなよ」 しかしこの(肉体的年齢では)年上の恋人は、敏い上にデリカシーがない。多忙な恋人の負担になるまいと奮闘するスティーブの内心などお見通しとばかりに、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてからかうのだ。「君だってこの前、僕の誘いを断ったろ? しかも他の男と会うとかで」  「あれはフューリーに呼び出されて……」  「ニック・フューリーは男だ! S.H.I.E.L.D.の戦術訓練なんて急に予定に入るか? あいつは僕が気に入らないんだ、君に悪影響を与えるとかで」  「君に良い影響を与えてるとは思えないのかな」  スティーブはマフィンに刺さったフォークでそれを一口大に切り分け、トニーの口元に運んでやった。呆気にとられたような顔をするトニーに、首をかしげてにっこりと微笑む。  トニーはしてやられたとばかりに、さっと頬を赤くした。  「この、自信家め」  「黙って全部食べるんだ、元プレイボーイ」  朝のこの時間、トニーはとても従順な恋人だ。
 トニーに借りたヘリでS.H.I.E.L.D.本部に到着すると(それはもはやキャプテン・アメリカ仕様にトニーによってカスタムされ、「なんなら塗装し直そうか? アイアンパトリオットとお揃いの柄に?」と提言されたが、スティーブは操縦システム以外の改装を丁重に断った)、屋内に入るやいなや盛大な警戒音がスティーブを迎えた。技術スタッフとおぼしき制服を来た人間が、地下に向かって駆けていく。どうやら物理的な攻撃を受けているわけではなさそうだったので、スティーブは足を速めながらも冷静に長官室へと向かった。  長官室の続きのモニタールームにフューリーはいた。スティーブには携帯電話よりもよほど”まとも”な通信機器に思える、設置型の受話器を耳に当て、モニター越しに会話をしている。というか、怒鳴っている。  「いつからS.H.I.E.L.D.のネットワークは穴の開いた網になったんだ? 通販サイトのほうがまだ上手にセキュリティ対策してるぞ!! あ!? 言い訳は聞きたくない、すべてのネットワーク機器をシャットダウンしろ、お前らの出身大学がどこだろうと関係ない。頼むから仕事をしてくれ、おい、聞いてるか? ああ、ん? 知るか、そんなの。あと二時間以内に復旧しなけりゃ、今後は機密情報はamazonのクラウドに保存するからな!!」  「ハッキングされたのか?」  長官の後ろに影のように控えていたナターシャ・ロマノフにスティーブは尋ねた。  「そのようね。今のところ、情報の漏洩はないみたいだけど、レベル6相当の機密ファイルに不正アクセスされたのは確定みたい」  「よくあるのか?」  「こんなことがよくあっては困るんだ」 受話器を置いたフューリーが言った。「午前会議は延期だ、午後になるか、夕方になるか、夜中になるかわからん」  「現在進行中の任務に影響は?」  「独立したオペシステムがあるから取りあえずは問題ない。だがもしかしたら君にも出動してもらうかもしれない。待機していてくれるか」  スティーブは頷いた。そのまま復旧までモニタリングするというフューリーを置いて、ナターシャと長官室を出る。  「S.H.I.E.L.D.の���キュリティはどうなってる? 僕は専門外だが、情報の漏洩は致命的だ。兵士の命に関わる」  「我々は諜報員よ、基本的には。だから情報の扱いは慎重だわ」 吹き抜けのロビーに出て、慌しく行きかう職員の様子を見下ろす。「でもクラッキングされるのは日常茶飯事なのよ、こういう機関である故にね。ペンタゴンなんてS.H.I.E.L.D.以上に世界中のクラッカーたちのパーティ会場化されてるわ。それでも機密は守ってる。長官があの調子なのはいつものことでしょ」  「じゃあ心配ない?」  「さあね。本当に緊急なら情報工学の専門家を呼ぶんじゃない。あなたのとこの」  すべてお見通しとばかりに鮮やかに微笑まれ、スティーブは口ごもった。  トニーとの関係は隠しているわけではないが、会う人間全てに言って回っているわけでもない。アベンジャーズのメンバーにも特に知らせているわけではなかった(知らせるって、一体どういえばいいっていうんだ? ”やあ、ナターシャ。僕とトニーは恋人になったんだ。よろしく”とでも? 高校生じゃあるまいし)。だからこの美しい女スパイは彼らの関係を自力で読み解いたのだ。そんなに難しいことではなかっただろうとは、スティーブ自身も認めるところだ。  ナターシャは自分がトニーを倦厭していた頃を知っている。そんな相手に今は夢中になっていることを知られるのは居た堪れなかった。断じてトニーとの関係を恥じているわけではないのだが……ナターシャは批判したりしないし、クリントのように差別すれすれの表現でからかったりもしない。ひょっとすると、彼女は自分たちを祝福しているのではないかとさえ思う時がある。だからこそ、こそばゆいのかもしれなかった。  「ところで……戦闘スタイルだな。出動予定があったのか」  身体にぴったりとフィットした黒い戦闘スーツを身にまとったナターシャは肩をすくめて否定した。「私も会議に呼ばれて来たの。武装は解除してる」  スティーブが見たところ、銃こそ携帯していないが、S.H.I.E.L.D.の技術が結集したリストバンドとベルトをしっかりと装着していて、四肢が健康なブラック・ウィドウは未武装といえない。だかこのスタイル以外の彼女を見ることが稀なので、そうかと聞き流した。  「僕は復旧の邪魔にならないようにトレーニングルームにいるよ。稽古に付き合ってくれる奇特な職員がいるかもしれない」  「私は長官の伝令だからこの辺にいるわ。復旧したらインカムで知らせるから、とりあえず長官室に来て」 踵を返して、歩きながらナターシャは振り向きざまに言った。「残念だけど電話は使えないわよ。ダーリンに”今夜は遅くなる”って伝えるのは、もうちょっと後にして」  「勘弁してくれ、ナターシャ」  聞いたこともない可愛らしい笑い声を響かせて、スーパースパイはぎょっとする職員たちに見向きもせず、長官室に戻っていった。
 トニーの様子がおかしいのは今更だが、ここのところちょっと度が過ぎていた。ラボに篭りきりなのも、食事を取らなかったり、眠らなかったり、シャワーを浴びなかったりして不摂生なのも、いつものことといえばいつものことで、それが同時に起こって、しかも自分を避けている様子がなければスティーブも一週間くらいは目をつぶっただろう。
 S.H.I.E.L.D.がハッキングされた件は、その日のうちに収拾がついた。犯人は捕まえられなかったが、システムの脆弱性が露見したので今後それを強化していくという。  スティーブがタワーに帰宅したのは深夜になろうかという頃だったが、トニーはラボにいて出てこなかった。これは珍しいことだが、研究に没頭した日には無いこともない。彼の研究が伊達ではないことはもうスティーブも知っているから、著しく不健康な状態でなければ邪魔はしない。結局、その日は別々に就寝についた。と、スティーブは思っていた。  次の日の朝、��にトニーはいなかった。きっと自分の寝室で寝ているのだと思い、先に身支度と朝食の用意を済ませてから彼の居室を訪れると、空の部屋にジャービスの声が降ってきた。  『トニー様は外出されました。ロジャース様がお尋ねになれば、おおよその帰宅時間をお伝えするようにとのことですが』  「どこへ行ったんだ? 急な仕事が入ったのか?」  『訪問先は聞いておりません』  そんなわけがあるか、とスティーブは思ったが、ジャービスを相手に否定したり説得したりしても無駄なことだった。乱れのないベッドシーツを横目で見下ろす。「彼は寝なかったんだ。車なら君がアシストできるだろうけど、もし飛行機を使ったなら操縦が心配だ」  『私は飛行機の操縦も可能です』  「そうか、飛行機で出かけたんだな。なら市外に行ったのか」  電脳執事が沈黙する。スティーブの一勝。ため息をついて寝室を出た。  ジャービスはいい奴だが(このような表現が適切かどうか、スティーブには確信が持てないでいる)、たまにスティーブを試すようなことをする。今朝だって、”彼”はキッチンで二人分の食事を支度するスティーブを見ていたわけだから、その時にトニーが外出していることを教えてくれてよかったはずだ。トニーの作った人工知能が壊れているわけがないから、これは”彼”の、主人の恋人に対する”いじわる”なのだとスティーブは解釈している。トニーはよくジャービスを「僕の息子」と表現するが――さしずめ、父親の恋人に嫉妬する子供といったところか。そう思うと、自分に決して忠実でないこの電脳執事に強く出られないでいる。  「それで……彼は何時ごろに帰るって?」  『早くても明朝になるとのことです』  「えっ……本当に、どこに行ったんだ」  『通信は可能ですが、お繋ぎしますか』  「ああ、いや、自分の電話でかけるよ。ありがとう。彼のほうは、僕の予定は知ってるかな」  『はい』  「そう……」 スティーブはそれきり黙って、二人分の食事をさっさと片付けてしまうと、朝のランニングに出掛けた。  エレベータの中で電話をかけたが、トニーは出なかった。
 それが四日前のことだ。予告した日の真夜中に帰ってきたトニーは、パーティ帰りのような着崩したタキシードでなく、紺色にストライプの入ったしゃれたビジネススーツをかっちりと着込んでふらりとキッチンに現れた。スティーブの強化された嗅覚が確かなら、少なくとも前八時間のあいだ、一滴も酒を飲んでいないのは明らかだった。――これは大変珍しいことだ。今までにないことだと言ってもいい。  彼は相変わらず饒舌で、出来の悪い社員のぐちや、言い訳ばかりの役員とお小言口調の政府高官への皮肉たっぷりの批判を、舞台でスピーチするみたいに大仰にスティーブに話して聞かせ、その間にも何かとボディタッチをしてきた。どれもいつものトニー、平常運転だ。しかしスティーブは、そんな彼の様子に違和感を覚えた。  彼が饒舌なのはよくあるが、生産性のないぐちを延々と口上するときはたいてい酔っている。しらふでここまで滔々としゃべり続けることはないと、スティーブには思われた。べたべたと身体に触ってくるのに、後から思えば意図されていたと思わずにはいられないくらい、不自然に目を合わせなかった。スティーブが秘密工作員と関係のない職種についていたとしても、自分の恋人が何かを隠していると気付いただろう。  極め付けはこれだ。スティーブはトニーの話を遮って、「君の風力発電は順調?」とたずねた。記憶が確かなら、この二日間、彼が忙しかったのはそのためであるはずだ。  「石器時代のテクノロジーがどうしたって?」  スティーブはぐっと拳を握りたいのを我慢して続けた。「だって、君――その話をしてただろ?」  「ああ……」 トニーは一瞬だけ、せわしなく何くれと動かしていた手足を止めた。「おもい出した。言ったっけ? ロングアイランド沖に発電所を建設するんだ。もう何年も構想してるんだけど、思ったよりうちの営業は優秀で――何しろほら、うちにはもっと”すごいやつ”があるんだし――そう簡単に量産は出来ないけど――それで僕は気が進まないんだが、州知事がGOサインを出してしまってね、ところが開発の連中が怖気づいてしまったんだ、というか、一人失踪してしまって……すぐに見つけ出して再洗脳完了したけど――冗談だよ、キャップ――でも無理はない事だとも思うんだ、だって考えてみろ……今時、いつなんどき宇宙から未知の敵対エネルギーが降ってくるかもしれないのに、無防備に海の上に風車なんて建ててる場合か? 奴らも責任あるエンジニアとして、ブレードの強度を高めようと努力してくれてるんだが、エイリアンの武器にどうやったら対抗出来るってんだ? 塩害や紫外線から守って次元じゃないんだろ? いっそバリアでも張るか? いっそそのほうが……うーん、バリアか。バリアってのはなかなか面白そうなアイデアだ、しかしそうすると僕は……いやコストがかかりすぎると、今度は失踪者じゃすまなくなるかも……」  スティーブは確信した。  トニーは自分に何か隠している。忙しいとウソまでついて。しかもそれは――彼がしらふでこんなに饒舌になるくらい、”後ろめたい”ことだ。
 翌朝から今度はラボに閉じこもったトニーは、通信にも顔を出さなかった。忙しいといってキッチンにもリビングにも降りてこないので、サンドイッチやら果物をラボに届けてやると、その時に限ってトニーは別の階に移動していたり、”瞑想のために羊水カプセルに入った”とジャービスに知らされたり(冗談だろうが、指摘してもさらなる馬鹿らしい言い訳で煙に巻かれるので否定しない。羊水カプセル? 冗談だよな?)して本人に会えない。つまりトニーはジャービスにタワー内のカメラを監視させて、スティーブがラボに近付くと逃げているのだ。  恋人に避けられる理由がわからない。しかし嫌な予感だけはじゅうぶんにする。トニーが子供っぽい行動に走るときは、後ろめたいことがあるとき――つまり、”彼自身に”問題があると自覚しているときだ。  トニーの抱える問題? トニー・スターク、世紀の天才。現代のダ・ヴィンチと称された機械工学の神。アフガニスタンの洞窟に幽閉されてもなお、がらくたからアーク・リアクターを作り上げた優れた発明家にしてアイアンマン――億万長者という言葉では言い表せないほどの富と権力を持ち、さらには眉目秀麗で頭脳明晰、世間は彼には何の悩みも問題もないと思いがちだが――そのじつ、いや、彼のことを三日もよく見ていればわかることだ。彼は問題ばかりだ。問題の塊だといってもいい。  一番の問題は、彼が自分自身の問題を自覚していて、直そうとするどことか、わざとそれを誇張しているということだ。スティーブにはそれが歪んだ自傷行為にしか見えない。酒に強いわけでもないのに人前で浴びるように飲んでみたり、愛してもいない人間と婚約寸前までいったり(ポッツ嬢のことではない)、パーソナルスペースが広いわりに見知らぬファンの肩を親し気に抱いてみたり、それに――平和を求めているのに、兵器の開発をしたり――していたのは、すべて彼の”弱さ”であるはずだが、トニーはもうずいぶんと長いあいだ、世間に向けてそれが”強さ”だと信じさせてきた。大酒のみのパーティクラッシャー、破天荒なプレイボーイ、気取らないスーパーヒーロー、そして真の愛国者。アルコール依存症、堕落したセックスマニア、八方美人のヒーロー、死の商人というよりもよっぽど印象がいい。メディアを使った印象操作は彼の得意分野だ。トニーは自分がどう見られているか、常に把握している。  そういう男だから、性格の矯正はきかないし、付き合うのには苦労する。だからといって離れられるわけがないのだから、これはもう生まれ持ってのトラブル・メーカーだと割り切るしかない。  考えるべきことはひとつ。彼の抱える問題のうち、今回はどれが表面化したのか?
 トニーに避けられて四日目の朝、スティーブは再びD.C.のS.H.I.E.L.D.本部に出発しようとしていた。先日詰められなかった会議の再開と、クラッキング事件の詳細報告を受けるためだ。ジャービスによるとトニーはスティーブの予定を知っているようだが、ヘリの準備を終えても彼がラボ(あるいは羊水カプセルか、タワー内のいずれかの場所)から出てくることはなかった。見送りなんて大げさなことを期待しているわけではないが、今までは顔くらい見せていたはずだ。  (これじゃ、避けられてるどころか、無視されているみたいだ)  そう思った瞬間、スティーブの中でトニーの抱える問題の一つに焦点が合った。
 ナターシャはいつもの戦闘用スーツに、儀礼的な黒いジャケットを着てS.H.I.E.L.D.の小さな応接室のひとつにいた。彼女が忙しい諜報活動の他に、S.H.I.E.L.D.本部で何の役についているのか、スティーブは知らされていなかった――だから彼女が応接室のチェストを執拗に漁っているのが何のためなのかわからなかったし、聞くこともしなかった。ナターシャも特に自分の任務に対して説明したりしない。スティーブはチェストの一番下の引き出しから順々に中を改めていくナターシャの後ろで、戦中のトロフィーなどを飾った保管棚のガラス戸に背をもたれ、組んだ腕を入れ替えたりした。  非常に言いにくいし、情けない質問だし、聞かされた彼女が良い気分になるはずがない。だがスティーブには相談できる相手が彼女しかいなかった。  「ナターシャ、その――邪魔してすまない」  「あら構わないのよ、キャップ。そこで私のお尻を見ていたいのなら、好きなだけどうぞ」  からかわれているとわかっていても赤面してしまうのは、スティーブの純潔さを表すチャームポイントだ、と、彼の恋人などはそう言うのだが――いい年をした男がみっともないと彼自身は思っていた。貧しい家庭で育ち、戦争を経験して、むしろ現代の一般人よりそういった表現には慣れているのに――おそらくこれが同年代の男からのからかいなら、いくら性的なニュアンスが含まれていようが、スティーブは眉ひとつ動かさないに違いない。ナターシャのそれはまるで姉が弟に仕掛けるいたずらのように温かみがあり、スティーブを無力な少年のような気持ちにさせた。  「違う、君は……今、任務中か? 僕がここにいても大丈夫?」  「構わないって言ったでしょ。用があるなら言って」  確かにナターシャの尻は魅力的だが、トニーの尻ほどではない――と自分の考えに、スティーブは目を閉じて首を振った。「聞きたいことがあるんだけど」 スティーブは出来るだけ、何でもないふうに装った。「僕はその、少し前からスタークのタワーに住んでいて――……」  「付き合ってるんでしょ。なあに、トニーに浮気でもされたの?」  スティーブはガラス戸から背中を離して、がくんと顎を落とした。「オー・マイ……ナット、なんでわかったんだ」  「それは、こっちの……台詞だけど」 いささか呆気にとられた表情をして、ナターシャは目的のものを見つけたのか、手のひらに収まるくらいの何かをジャケットの内ポケットに入れると、優雅に背筋を伸ばした。「トニーが浮気? ほんとに?」  「ああ、いや……多分そうなんじゃないかと……」  「この前会ったときは、あなたにでろでろのどろどろに惚れてるようにしか見えなかったけど、ああいう男は体の浮気は浮気だと思ってない節があるから、あとはキャップ、あなたの度量しだいね」  数日分の悩みを一刀両断されてしまい、スティーブは一瞬、自分の耳を疑った。音もなくソファセットの前を通り過ぎ、部屋を出て行こうとしたナターシャを慌てて呼び止める。「そ、そうじゃないんだ。浮気したと決まったわけじゃない。ただトニーの様子がこのところおかしいから、もしかしたらと思って――それで君に相談ができればと……僕はそういうのに疎いから」  「おかしいって? トニー・スタークが?」  まるでスティーブが、空を飛んでいる鳥を見て”飛べるなんておかしい”と言ったかのように、ナターシャは彼の正気を疑うような目をした。「そうだよな」 スティーブは認めた。「トニーはいつもおかしいよ。おかしいのが彼だ。何でも好きなものを食べられるのに、有機豆腐ミートなんて代物しか食べなかったり――それでいて狂ったようにチーズバーガーしか食べなかったり――それでも、何か変なんだ。僕を避けてるんだよ。通信でも顔を見せない。まる一日、どこかに行ったきりだと思ったら、今度はラボにずっとこもってる。ジャービスに彼の様子を聞こうにも、彼はトニー以外のいうことなんてきかないし、もうお手上げだ」  ナターシャはすがめたまぶたの間からスティーブを見上げると、一人掛けのソファに座った。スティーブも正面のソファに座る。彼女が長い足を組んで顎に手を当て考え込むのを、占い師の診断を仰ぐ信者のように待つ。  「ふーん……それって、いつから?」  「六日前だ。ハッキング事件の当日はまだ普通だったけど、その翌日はやたらと饒舌で……きみも付き合いが長いから、トニーが隠し事をしているときにしゃべりまくる癖、知ってるだろ」  「��れを聞いたら、キャプテン、私には別の仮説が立てられるわ」  「え?」  「来て。会議の前に長官に報告しなきゃ」  ナターシャの後を追いながら、スティーブは彼女が何を考えているか、じわじわと確信した。「君はもしかして、S.H.I.E.L.D.をハッキングしたのが彼だと――」  「最初から疑ってたのよ。S.H.I.E.L.D.のネットワークに侵入できるハッカーはそう多くない。世界でも数千人ってとこ。しかもトニーには前歴がある。でもだからこそ、長官も私も今回は彼じゃないと思ってた」  「どういうことだ」  「ハッカーにはそれぞれの癖みたいなのがあるのよ。自己顕示欲の強いやつは特に。登頂成功のしるしに旗を立てるみたいに、コードにサインを入れるやつもいる。トニーのは最高に派手なサインが入ってた。今回のはまるで足跡がないの。S.H.I.E.L.D.のセキュリティでも追いきれなかった」  「トニーじゃないってことだろう?」  「前回、彼は自分でハッキングしたわけじゃなかった。あの何か、変な小さい装置を使って人工知能にやらせてたんでしょ。今回は自分でやったとしたら? 彼がMIT在学中に正体不明のハッカーがありとあらゆる国の情報機関をハッキングした事件があった。今も誰がやったかわかってないけど――」  そこまで言われてしまえば、スティーブもむやみに否定することはできなかった。  「……ハッキングされたのは一瞬なんだろう。トニーがやったのなら、どうしてずっとラボにこもってる」  「データを盗めたとしても暗号化されてるからすぐに読めるわけじゃない。じつのところ、まだ攻撃され続けてる。これはレベル5以上の職員にしか知らされていないことだけど、現在進行形でサイバー攻撃されてるわ。たぶん、復号キーを解析されてるんだと思う。非常に高度なことよ、通信に多少のラグがあるだけで、他のシステムには全く影響していない。悪意あるクラッカーやサイバーテロ集団がS.H.I.E.L.D.の運営に配慮しながらサイバー攻撃するなんて、考えられなかったけど――もしやってるのがアイアンマンなら、うなずける。理由は全く分からないけど」  ナターシャはすでに確信しているようだった。長官室の扉を叩く前に、スティーブを振り返り、にやりと笑った。  「ねえ、よかったじゃない――浮気じゃなさそう」  「それより悪いかもしれない」 スティーブはほっとしたのとうんざりしたのと、どっちの気持ちを面に出したらいいか迷いながら返した。恋人が浮気したなら、まあ結局は許すか許さないかの話で、なん���かんやでスティーブは許してしまったことだろう(ああ、簡単じゃないか、本当に)。しかし、恋人が内緒で国際平和維持組織をハッキングしていたのなら、まるで話の規模が変わってくる。  ああ、トニー、君はいったい、何をやってるんだ。  説明されても理解できないかもしれないが、僕から隠そうとするのはなぜだなんだ。  「失礼します、長官。報告しておきたいことが――」 四回目のノックと同時に扉を開け、ナターシャは緊急時にそうするように話しながら室内に入った。「現行のサイバー攻撃についてですが、スタークが関わっている可能性が――」  「報告が遅いぞ」 むっつりと不機嫌なニック・フューリーの声が響く。部屋には二人の人物が居た――長官室の物々しいデスクに座るフューリーと、その向かいに立つトニー・スタークが。  「ところで、コーヒーはまだかな?」 チャコールグレイの三つ揃えのスーツを着たトニーは、居ずまいを正すように乱れてもいないタイに触れながら言った。ちらりと一瞬だけスティーブに目をくれ、あとはわざとらしく自分の手元を注視する。「囚人にはコーヒーも出ないのか? おい、まさか、ロキにも出してやらなかった?」  「トニー、君……」  スティーブが一歩踏み出すと、ナターシャが腕を伸ばして止めた。険の強い声音でフューリーを問いただす。「どういうことです? 我々はサイバーセキュリティの訓練を受けさせられていたとでも?」  「いや、彼は今朝、自首しにきたんだ、愚かにも、自分がハッキング犯だと。目的は果たしたから理由を説明するとふざけたことを言っている。ここで君たちが来るまで拘束していた」  ナターシャの冷たい視線を、トニーは肩をすくめて受け流した。  「本当か? トニー、どうしてそんなことをしたんだ」  「ここだけの話にしてくれ」 トニーはスティーブというより、フューリーに向かって言った。「僕がこれから言うことはここにいる人間だけの耳に留めてくれ」 全く頷かない長官に向かって、トニーはため息をついて両手を落とした。「あとは、そうだな。当然、僕は無罪放免だ。だってそうだろ? わざわざバグを指摘してやったんだ。表彰されてもいいくらいだろう! タダでやってやったんだぞ!」  「タダかどうかは、私が決める」 地を這うように低い声でフューリーは言った。「放免してやるかどうかも、その話とやらを聞いてから決める。さっさと犯罪行為の理由を釈明しないなら、この場で”本当”に拘束するぞ。ウィドウ、手錠は持ってるか」  「電撃つきのやつを」  「ああ、わかった、わかった。電撃はいやだ。ナターシャ、それをしまえ。話すとも、もちろん。そのためにD.C.まで来たんだ。座っていい?」 誰も頷かなかったので、トニーは再びため息をついて、革張りのソファの背を両手でつかんだ。  「それで、ええと――僕が慈善家だってことは、皆さんご承知のことだとは思うんだが――」  「トニー」 自分でもぎょっとするくらい冷たい声で名前を呼んで、スティーブは即座に後悔したが――この場に至っても自分を無視しようとするトニーに、怒りが抑えられなかった。  トニーは大きな目を見開いて、やっとまともにスティーブを視界に入れた。こんな距離で会うのも数日ぶりだ。スティーブは早く彼の背中に両手を回したくて仕方なかったが、その後に一本背負いしない自信がなかったので、ナターシャよりも一歩後ろの位置を保った。  「……べつに話を誤魔化そうってわけじゃない。僕が慈善家だってことは、この一連の僕の”活動”に関係のあることなんだ。というより、それが理由だ」 ゆらゆら揺れるブラウンの瞳をスティーブからそらせて、トニーは話し始めた。
 七日前にもトニーはS.H.I.E.L.D.に滞在していた。フューリーに頼まれていた技術提供の現状視察のためもあったが、出席予定のチャリティー・オークションのパーティがD.C.で行われるため、長官には言わないが、時間調整のために本部内をぶらぶらしていたのだ。たまに声をかけてくる職員たちに愛想よく返事をしてやったりしながら、迎えの車が来るのを待っていた。  予定が狂ったのは、たまたま見学に入ったモニタールームEに鳴り響いた警報のせいだった――アムステルダムで任務中の諜報員からのSOSだったのだが、担当の職員が遅いランチ休憩に出ていて(まったくたるんでいる!)オペレーション席に座っていたのはアカデミーを卒業したばかりの新人だった。ヘルプの職員まで警報を聞いたのは訓練以外で初めてという状態だったので、トニーは仕方なく、本当に仕方なく、子ウサギみたいに震える新人職員からヘッドマイクを譲り受け(もぎ取ったわけじゃないぞ! 絶対!)、モニターを見ながらエージェントの逃走経路を指示するという、”ジャービスごっこ”を――訂正――”人命と世界平和に関する極めて責任重大な任務”を成り代わって行ったのだ。もちろんそれは成功し、潜入先で正体がばれたまぬけなエージェントたちは無事にセーフハウスにたどり着き、新人職員たちと、ランチから戻って状況の飲み込めないまぬけな椅子の男に対し、長官への口止めをするのにも成功した。ちょっとしたシステムの変更(ほら、僕がモニターの前に座って契約外の仕事をしているところが監視カメラに映っていたら、S.H.I.E.L.D.は僕に時間給を払わなくちゃいけなくなるだろ? その手間を省いてやるために、録画映像をいじったんだ――もしかしたら。怖い顔するな。そんなような気がしてたんだ、今まで)もスムーズに成立した。問題は、そのすべてが完了するのに長編映画一本分の時間がかかったということだ。トニーの忠実な運転手は居眠りもしないで待っていたが、チャリティーに到着したのは予定時刻から一時間以上は経ったころだった。パーティが始まってからだと二時間は経過していた。それ自体は大して珍しいことではない。トニーはとにかく、パーティには遅れて到着するタイプだった(だって早く着くほうが失礼だろ?)。  しかし、その日に限って問題が発生する。セキュリティ上の都合とやらで(最近はこんなのばっかりだな)、予定開始時刻よりも大幅にチャリティー・オークションが早まったのだ。トニーが到着したのは、もうあらかたの出品が終わったあとだった。  トニーにはオークションに参加したい理由があった。今回のオークションに限ったことではない。トニーの能力のもと把握することが出来る、すべてのオークションについて、彼は常に目を光らせていた。もちろん優秀な人工知能の手も借りてだが――つまり、この世のすべてのオークションというオークションについて、トニーはある理由から気にかけていた。好事家たちの間でだけもてはやされる、貴重な珍品を集めるためではない――彼が、略奪された美術品を持ち主に返還するためのグループ、「エルピス」を支援しているからだ。  第二次世界大戦前や戦中、ヨーロッパでは多くの美術品がナチスによって略奪され、焼失を逃れたものも、いまだ多くは、ナチスと親交のあった収集家や子孫、その由来を知らないコレクターのもとで所有されている。トニーが二十代の頃に美術商から買い付けた一枚の絵画が、とあるユダヤ人女性からナチ党員が二束三文で買い取った物だと「エルピス」から連絡があったのが、彼らを支援するきっかけとなった。それ以来、トニーが独自に編み上げた捜索ネットワークを使って、「エルピス」は美術品を正当な持ち主に戻すための活動を続けている(文化財の保護は強者の義務だろ。知らなかった? いや、驚かないよ)。数年前にドイツの古アパートから千点を超す美術品が発見されたのも、「エルピス」が地元警察と協力して捜査を続けていた”おかげ”だ。時間も、根気もいる事業だが、順調だった。そして最近、「エルピス」が特に網を張っている絵画があった。東欧にナチスの古い基地が発見され、そこには宝物庫があったというのだ――トニーが調べた記録によれば、基地が建設されたと思わしき時期、運び込まれた数百点の美術品は、戦後も運び出された形跡がなかった――つまり宝物庫が無事なら、そこにあった美術品も無事だったということだ。  数百点の美術品のうち、持ち主が明確な絵画が一点あった。ユダヤ人投資家の男で、彼の祖父が所有していたが、略奪の目にあい彼自身は収容所で殺された。トニーは彼と個人的な親交もあり、特に気にかけていた。  その投資家の男がD.C.の会場にも来ていて、遅れてやってきたトニーに青い顔で詰め寄った。「”あれ”が出品されたんだ――」 興奮しすぎて呼吸困難になり、トニー美しいベルベッドのショール・カラーを掴む手にも、ろくな力が入っていなかった。「スターク、”あれ”だ――本当だ。祖父の絵画だ。ナチの秘宝だと紹介されていた。匿名の人物が競り落とした――あっという間だった――頼む、あれを取り戻してくれ――」  (なんて間の悪いことだ!) 正直なところ、トニーは今回のオークションにそれほど期待していたわけではなかった。長年隠されていた品物が出品されるとなれば、出品リストが極秘であろうと噂になる。会場に来てみてサプライズがあることなど滅多にない。それがまさかの大当たりだったとは! こんなことなら、時間つぶしにS.H.I.E.L.D.なんかを使うんじゃなかった。トニーは投資家に「落札者を探し出し、説得する」と約束し、その後の立食パーティで無礼なコラムニストを相手にさんざん子供っぽい言い合いをして、帰宅の途についた――そして、ジャービスに操縦を任せた自家用機の中で、匿名の落札者について調べたが、思うように捗らなかった。もちろん、トニーが本気になればすぐにわかることだ――しかし、ちょっとばかり酔っていたし、別に調べることもあった。そちらのほうは、タイプミスをしてジャービスに嫌味を言われるまでもなく、調べがついた。  網を張っていた絵画と同じ基地にあった美術品のうち、数点がすでに別の地域のオークションや美術商のもとに売り出されていた。
 「これがどういうことか、わかるだろう」 トニーは許可をとることをやめて、二人掛けのソファの真ん中にどさりと腰かけた。デスクに両肘をついて、組んだ手の中からトニーを見下ろすS.H.I.E.L.D.の長官に、皮肉っぽく言い立てる。「公表していないが、ナチスの基地を発見、発掘したのはS.H.I.E.L.D.だろ。ナチスというより、ヒドラの元基地だったらしいな。そこにあった美術品が横流しされてるんだ。すぐに足がつくような有名なものは避けて、小品ばかり全国にばらけて売っている。素人のやり方じゃないし、僕はこれと似たようなことをやる人種を知っている。スパイだよ。スパイが物を隠すときにやる方法だ」  「自分が何を言ってるかわかってるのか」 いよいよ地獄の底から悪魔が這い出てきそうな不機嫌さで、フューリーの声はしゃがれていた。「S.H.I.E.L.D.の職員が汚職に手を染めていると、S.H.I.E.L.D.の長官に告発しているんだぞ」  「それどころの話じゃない」 トニーは鋭く言い放った。「頂いたデータを復号して、全職員の来歴を洗い直した。非常に臭い。ものすごい臭いがするぞ、ニック。二度洗いして天日干しにしても取れない臭いだ――」 懐から取り出したスマートフォンを操作する。「今、横流しに直接関わった職員の名簿をあんたのサーバーに送った。安心しろ、暗号化してある。解読はできるだろ?」 それからゆっくり立ち上がって、デスクの正面に立ち、微動だにしないフューリーを見下ろす。「……あんた自身でもう一度確認したほうがいい。今送った連中だけの話じゃないぞ。……S.H.I.E.L.D.は多くの命を救う。僕ほど有能じゃなくても、ないよりあったほうが地球にとっては良い」  「言われるまでもない」  「そうか」  勢いよく両手を合わせて乾いた音を響かせると、トニーは振り返ってスティーブを見つめた。ぐっと顎に力の入ったスティーブに、詫びるようにわずかに微笑んで、歩きながらまたフューリーを見る。「で、僕は無罪放免かな? それとも感謝状くれる?」  「帰っていいぞ。スターク。ひとりでな」  「そりゃ、寂しいね。キャプテンを借りるよ、長官。五分くらいいいだろう」  言うやいなや、トニーはナターシャの前を素通りすると、スティーブの二の腕を掴んで部屋を出ようとした。  「おい――トニー――……」  「キャップ」 ナターシャに視線で促され、スティーブはトニーの動きに逆らうのをやめた。うろんな顔つきで二人を見ているフューリーに目礼して、スティーブは長官室を後にした。
 「トニー……おい、トニー!」  トニーの指紋認証で開くサーバールームがS.H.I.E.L.D.にあったとは驚きだった。もしかしたらこれも”システム変更”された一つかもしれない――トニーは内部からタッチパネルでキーを操作して、ガラス壁を不透明化させた。そのまま壁に背をもたれると、上を向いてふーっと長い息を吐く。  スティーブは壁と同様にスモークされた扉に肩で寄りかかり、無言でトニーを見つめた。  「……えっと、怒ってるよな?」 スティーブが答えないでいると、手のひらを上げたり下ろしたりしながらトニーはその場をぐるぐると歩き出した。  「きっと君は怒ってると思ってた。暗号の解析なんか一日もかからないと思ってたんだが、絵画の落札者探しも難航して――まあ見つかるのはすぐに見つかったんだが、西ヨーロッパの貴族で、これがまた、筋金入りの”スターク嫌い”でね、文字通り門前払いをくらった。最初からエルピスの奴らに接触してもらえばもうちょっと話はスムーズについたな。それでも最終的には僕の説得に応じて、返還してくれることになった――焼きたてのパンもごちそうになったしね。タワーに帰るころには解析も済んでるはずだったのに、それから数日も時間がかかって――」  「何に時間がかかっていようが、僕にはどうだっていい」 狭い池で周遊する魚のように落ち着きのない彼の肩を掴んで止める。身長差のぶんだけ見上げる瞳の大きさが恋しかった。「僕が怒ってるのは、君が何をしていたかとは関係ない。それを僕に隠していたからだ。どうして、僕に何も言わない。S.H.I.E.L.D.に関わりのあることなのに――」  「だからだよ! スティーブ……君には言えなかった。確証を掴むまで、何も」  「何をそんなに……」  「わからないのか? フューリーも気付いたかどうか」 不透明化された壁をにらみ、トニーはスティーブの太い首筋をぐっと引き寄せて顔を近づけた。「わからないのか――ヒドラの元基地から押収した品が、S.H.I.E.L.D.職員によって不正に取引された――一人の犯行じゃない。よく計画されている。それに、関わった職員の口座を調べたが、どの口座にも大金が入金された痕跡がない。……クイズ、美術品の売り上げは、誰がどこに流してるんでしょう」  「……組織としての口座があるはずだ」  「そうだ。じゃあもう一つ、クイズだ。その組織の正体は? キャップ……腐臭がしないか」  「……ヒドラがよみがえったと言いたいのか」  「いいや、そのセリフを言いたいと思ったことは、一度もない」 トニーは疲れたように額を落とし、スティーブの肩にもたれかかった。「だから黙ってたんだ」  やわらかなトニーの髪と、力なくすがってくる彼の手の感触が、スティーブの怒りといら立ちを急速に沈めていった。つまるところ、トニーはここ数日間、極めて難しい任務に単独で挑んでいた状況で――しかもそれは、本来ならばS.H.I.E.L.D.の自浄作用でもって対処しなければならない事案だった。  体調も万全とはいえないトニーが、自分を追い込んでいたのは、彼の博愛主義的な義務感と、優しさゆえだった――その事実はスティーブを切なくさせた。そしてそれを自分に隠していたのは、彼の数多く抱える問題のひとつ、彼が”リアリスト”であるせいだった。彼は常に最悪を考えてしまう。優れた頭脳が、悲観的な未来から目を逸らさせてくれないのだ。  「もしヒドラがまだこの世界に息づいているとしても」 トニーの髪に手を差し入れると、そのなめらかな冷たさに心が満たされていく。「何度でも戦って倒す。僕はただ、それだけだ」  「頼もしいな、キャプテン。前回戦ったとき、どうなったか忘れた?」  「忘れるものか。そのおかげで、今こうして、君と”こうなってる”んだ」  彼が悲観的なリアリストなら、自分は常に楽観的なリアリストでいよう。共に現実を生きればいい。たとえ一緒の未来を見ることは出来なくとも、平和を目指す心は同じなのだから。  「はは……」 かすれた吐息が頬をかすめる。これ以上のタイミングはなかった。スティーブはトニーの腰を抱き寄せてキスをした。トニーはとっくに目を閉じていた。スティーブは長い睫毛が震えているのを肌で感じながら、トニーを抱きつぶさないように自分が壁に背をつけて力を抑えた――抱き上げると怒られるので(トニーは自分の足が宙をかく感覚が好きじゃないようだ、アーマーを未装着のときは)、感情の高ぶりを表せるのは唇と、あまり器用とはいい難い舌しかなかった。  幸いにして、彼の恋人の舌は非常に器用だった。スティーブはやわらかく、温かで、自分を歓迎してくれる舌に夢中になり、恋人が夢中になると、トニーはその状態にうっとりする。うっとりして力の抜けたトニーが腕の中にいると、スティーブはまるで自分が、世界を包めるくらいに大きく、完全な存在になったように感じる。なんという幸福。なんという奇跡。  「きみが他に――見つけたのかと思った」  「何を?」 上気した頬と涙できらめく瞳がスティーブをとらえる。  「新しい恋人。それで、僕を避けているのかと……」  トニーはぴったりと抱き着いていた上体をはがして、まじまじとスティーブを見つめた。 「ファーック!? それ本気か? 僕が何だって? 新しい……」  「恋人だ。僕が間違ってた。でも口が悪いぞ、トニー」  「君が変なこと言うから――それに、それも僕の愛嬌だ」  「君の……そういうところが、心配で、憎らしくて、とても好きだ」  もう一度キスをしながら、トニーの上着を脱がそうとしているうちに、扉の外からナターシャの声が聞こえた。  「あのね、お二人さん。いくら不透明化してるからって、そんな壁にべったりくっついてちゃ、丸見えよ」  スティーブの首に腕を回し、ますます体を密着させて、トニーは言った。「キャプテン・アメリカをあと五分借りるのに、いくらかかる?」  唐突にガラスが透明になり、帯電させたリストバンドを胸の前にかかげたナターシャが、扉の前に立っているのが見えた。  「あなた、最低よ、スターク」  「なんで? 五分じゃ短すぎたか? 心配しなくても最後までしないよ、キスと軽いペッティングだけだ、五分しかもたないなんてキャップを侮辱したわけじゃな……」  「あなた、最低よ、スターク!」  「キーをショートさせるな! 僕にそれを向けるな! 頼む!」  スティーブはトニーを自分の後ろに逃がしてやって、ナターシャの白い頬にキスをした。「なんだか、いろいろとすまない。ナターシャ……」  「いいわ、彼には後で何か役に立ってもらう」  トニーがぶつぶつと文句をつぶやきながらサーバーの間を歩き、上着のシワを伸ばすさまを横目で見て、ナターシャに視線を戻すと、彼女もまた同じ視線の動きをしていたことがわかった。  「……トニーを巻き込みたくない。元気にみえるけど、リアクターの除去手術がすんだばかりで――」  「わかってるわ。S.H.I.E.L.D.の問題は、S.H.I.E.L.D.の人間が片をつける」  ���ターシャの静かな湖面のような緑の目を見て、自分も同じくらい冷静に見えたらいいと思った。トニーにもナターシャにも見えないところで、握った拳の爪が掌に食い込む。怖いのは、戦いではなく、それによって失われるかもしれない現在のすべてだ。  「……もし、ヒドラが壊滅せずにいたとしたら――」  「何度だって戦って、倒せばいい」 くっと片方の唇を上げた笑い方をして、ナターシャはマニッシュに肩をすくめた。「そうなんでしょ」  「まったく、君……敵わないな。いつから聞いてたんだ」  「私は凄腕のスパイよ。重要なことは聞き逃さない」  「いちゃつくのは終わったか?」 二人のあいだにトニーが割り入った。「よし。ではこれで失礼する。不本意なタイミングではあるが――ところでナターシャ、クリントはどこにいるんだ?」  「全職員の動向をさらったばかりでしょ?」  「クリントの情報だけは奇妙に少なかったのが、不思議に思ってね。まあいい。休暇中は地球を離れて、アスガルドに招待でもされてるんだろう。キャップ……無理はするなよ。家で待ってる」  「トニー、君も」 スティーブが肩に触れると、トニーは目を細めて自分の手を重ねた。  「僕はいつでも大丈夫だ。アイアンマンだからな」  ウインクをして手を振りながら去っていくトニーに、ナターシャがうんざりした表情を向けた。「ねえ、もしかしてこの先ずっと、目の前で惚気を聞かされなきゃいけないの?」 そう言って、今度はスティーブをにらみつける。「次の恋愛相談はクリントに頼んでよ!」
 ◇終◇
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sayasaan · 1 year
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♡ ⁡ ⁡ #今度はネットではなく人にピントが合うも推しはピンボケ ⁡ ⁡ たっっっくさんのピンボケ写真の中から 奇跡的にピントが合っている写真もあるので 見てみると……… ⁡ #田島選手 にピントが合い 推しコーチは安定のピンボケ。 ⁡ ⁡ #どうしたらインスタなどに上がってる素敵な写真が撮れますか? #カメラの性能とはいえ買い替えるなら名古屋へ行く ⁡ ⁡ ⁡ ✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧ ⁡ #田島選手は何も悪くない #どなたか私に荒木コーチの写真を送ってください #ドラゴンズ #ドラゴンズファン #ドラゴンズファンと繋がりたい #ドラゴンズ愛 #中日ドラゴンズ #ドラゴンズ好き #ドラゴンズ大好き #ドラゴンズ頑張れ #荒木コーチ #荒木雅博 #アライバのアラ #荒木コーチ推し #荒木雅博71 #ドラゴンズコーチ #推し活 #推しの写真は癒し #推しはどんな状況でも最高 #田島選手と荒木コーチ遠くにたぶん本田選手 #得意のピンボケ写真 #ピンボケ #ベルーナドーム #オープン戦 #西武ライオンズ #ドラゴンズvsライオンズ (ベルーナドーム) https://www.instagram.com/p/CpmQeTrv9xz/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yo4zu3 · 5 years
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やさしい光の中で(柴君)
(1)ある日の朝、午前8時32分
 カーテンの隙間から細々とした光だけがチラチラと差し込む。時折その光は強くなって、ちょうど眠っていた俺の目元を直撃する。ああ朝だ。寝不足なのか脳がまだ重たいが、朝日の眩しさに瞼を無理矢理押し上げる。隣にあったはずの温もりは、いつの間にか冷え切った皺くちゃのシーツのみになっていた。ちらりとサイドテーブルに視線を流せば、いつも通り6時半にセットしたはずの目覚まし時計は、あろうことか針が8と9の間を指していた。
「チッ……勝手に止めやがったな」
 独り言のつもりで発した声は、寝起きだということもあり少しだけ掠れていた。それにしても今日はいつもに増して喉が渇いている。眠気眼を擦りながら、キッチンのほうから漂ってくる嗅ぎ慣れた深入りのコーヒーの香りに無意識に喉がこくりと鳴った。
 おろしたてのスウェットをまくり上げぼりぼりと腹を掻きながら寝室からリビングに繋がる扉を開けると、眼鏡をかけた君下は既に着替えてキッチンへと立っていた。ジューという音と共に、焼けたハムの香ばしい匂いが漂っている。時折フライパンを揺すりながら、君下は厚切りにされたそれをトングで掴んでひっくり返す。昨日実家から送ってきた荷物の中に、果たしてそんなハムが入っていたのだろうか。どちらにせよ君下が普段買ってくるスーパーのタイムセール品でないことは一目瞭然だった。
「おう、やっと起きたか」 「おはよう。てか目覚ましちゃんと鳴ってた?」 「ああ、あんな朝っぱらからずっと鳴らしやがって……うるせぇから止めた」
 やっぱりか、そう呟いた俺の言葉は、君下が卵を割り入れた音にかき消される。二つ目が投入され一段と香ばしい音がすると、塩と胡椒をハンドミルで少し引いてガラス製の蓋を被せると君下の瞳がこっちを見た。
「もうすぐできる。先に座ってコーヒーでも飲んどけ」 「ん」
 顎でくい、とダイニングテーブルのほうを指される。チェリーウッドの正方形のテーブルの上には、今朝の新聞とトーストされた食パンが何枚かと大きめのマグが2つ、ゆらゆらと湯気を立てていた。そのうちのオレンジ色のほうを手に取ると、思ったより熱くて一度テーブルへと置きなおした。丁度今淹れたところなのだろう。厚ぼったい取手を持ち直してゆっくりと口を付けながら、新聞と共に乱雑に置かれていた郵便物をなんとなく手に取った。  封筒の中に混ざって一枚だけ葉書が届いていた。君下敦様、と印刷されたそれは送り主の名前に見覚えがあった。正確には差出人の名前自体にはピンと来なかったが、その横にご丁寧にも但し書きで元聖蹟高校生徒会と書いてあったから、恐らくは君下と同じ特進クラスの人間なのだろうと推測が出来た。
「なんだこれ?同窓、会、のお知らせ……?」
 自分宛ての郵便物でもないのに中身を見るのは野暮だと思ったが、久しぶりに見る懐かしい名前に思わず裏を返して文面を読み上げた。続きは声に出さずに視線だけで追��ていると、視界の端でコトリ、と白いプレートが置かれる。先程焼いていたハムとサニーサイドアップ、適当に千切られたレタスに半割にされたプチトマトが乗っていた。少しだけ眉間に皺が寄る。
「またプチトマトかよ」 「仕方ねぇだろ。昨日の残りだ。次からは普通のトマトにしてやるよ」
 大体トマトもプチトマトも変わんねぇだろうが、そう文句を言いながらエプロンはつけたままで君下は向かいの椅子に腰かけた。服は着替えたものの、長い前髪に寝ぐせがついて少しだけ跳ねあがっている。
「ていうか同じ高校なのになんで俺には葉書来てねぇんだよ」
 ドライフラワーの飾られた花瓶の横のカトラリー入れからフォークを取り出し、小さな赤にざくり、と突き立てて口へと放り込む。確かにクラスは違ったかもしれないが、こういう公式の知らせは来るか来ないか呼びたいか呼びたくないかは別として全員に送るのが礼儀であろう。もう一粒口に含み、ぶちぶちとかみ砕けば口の中に広がる甘い汁。プチトマトは皮が固くて中身が少ないから好きではない。やっぱりトマトは大きくてジューシーなほうに限るのだ。
「知らねぇよ……あーあれか。もしかして、実家のほうに来てるんじゃねぇの」 「あ?なんでそっちに行くんだよ」 「まあこんだけ人数いりゃあ、手違いってこともあるだろ」 「ったく……ポンコツじゃねぇかこの幹事」
 覚えてもいない元同級生は今頃くしゃみでもしているだろうか。そんなどうでもいいことが頭を過ったが、香ばしく焼き上げられたハムを一口大に切って口に含めばすぐに忘れた。噛むと思ったよりも柔らかく、スモークされているのか口いっぱいに広がる燻製臭はなかなかのものだ。いつも通り卵の焼き加減も完璧だった。
「うまいな、ハム。これ昨日の荷物のか?」 「ああ。中元の残りか知らないけど、すげぇいっぱい送って来てるぞ。明日はソーセージでもいいな」
 上等な肉を目の前に、いつもより君下の瞳はキラキラしているような気がした。高校を卒業して10年経ち、あれから俺も君下も随分大人になった。それでも相変わらず口が悪いところや、美味しいものに素直に目を輝かせるところなんて出会った頃と何一つ変わってなどいなかった。俺はそれが微笑ましくもあり、愛おしいとさえ思う。あとで母にお礼のラインでも入れて、ああ、それとついでに同窓会の葉書がそっちに来ていないかも確認しておこう。惜しむように最後の一切れを噛み締めた君下の皿に、俺の残しておいた最後の一切れをくれてやった。
(2)11年前
 プロ入りして5年が経とうとしていた。希望のチームからの誘いが来ないまま高校生活を終え、大学を5年で卒業して今のチームへと加入した。  過酷な日々だった。  一世代上の高校の先輩・水樹は、プロ入りした途端にその目覚ましい才能を開花させた。怪物という異名が付き、十傑の一人として注目された高校時代など、まだその伝説のほんの序章の一部に過ぎなかった。同じく十傑の平と共に一年目から名門鹿島で起用されると、実に何年振りかのチームの優勝へと大いに貢献した。日本サッカーの新時代としてマスメディアは大々的にこのニュースを取り上げると、自然と増えた聖蹟高校への偵察や取材の数々。新キャプテンになった俺の精神的負担は増してゆくのが目に見えてわかった。
 サッカーを辞めたいと思ったことが1度だけあった。  それは高校最後のインターハイの都大会。前回の選手権の覇者として山の一番上に位置していたはずの俺たちは、都大会決勝で京王河原高校に敗れるという失態を犯した。キャプテンでCFの大柴、司令塔の君下の連携ミスで決定機を何度も逃すと、0-0のままPK戦に突入。不調の君下の代わりに鈴木が蹴るも、向こうのキャプテンである甲斐にゴールを許してゲーム終了、俺たちの最後の夏はあっけなく終わりを迎えた。  試合終了の長いホイッスルがいつまでも耳に残る中、俺はその後どうやって帰宅したのかよく覚えていない。試合を観に来ていた姉の運転で帰ったのは確かだったが、その時他のメンバーたちはどうしたのかだとか、いつから再びボールを蹴ったのかなど、その辺りは曖昧にしか覚えていなかった。ただいつまでも、声を押し殺すようにして啜り泣いている、君下の声が頭から離れなかった。
 傷が癒えるのに時間がかかることは、中学選抜で敗北の味を知ったことにより感覚的に理解していた。君下はいつまでも部活に顔を出さなかった。いつもに増してボサボサの頭を掻き乱しながら、監督は渋い声で俺たちにいつものように練習メニューを告げる。君下のいたポジションには、2年の来須が入った。その意味は、直接的に言われなくともその場にいた部員全員が本能的に理解していたであろう。
『失礼します、監督……』
 皆が帰ったのを確認して教官室に書き慣れない部誌と共に鍵を返しに向かうと、そこには監督の姿が見えなかった。もう出てしまったのだろうか。一度ドアを閉めて、念のため職員室も覗いて行こうと校舎のほうへと向かう途中、どこからか煙草の香りが鼻を掠める。暗闇の中を見上げれば、ほとんどが消灯している窓の並びに一か所だけ灯りの付いた部屋が見受けられる。半分開けられた窓からは、乱れた黒髪と煙草の細い煙が夜の空へと立ち上っていた。
『お前まだ居たのか……皆は帰ったか?』 『はい、監督探してたらこんな時間に』
 部誌を差し出すと悪いな、と一言つけて監督はそれを受け取る。喫煙室の中央に置かれた灰皿は、底が見えないほどの無数の吸い殻が突き刺さり文字通り山となっていた。監督は短くなった煙草を口に咥えると、ゆっくりと吸い込んで零れそうな山の中へと半ば無理やり押し込み火を消した。
『君下は……あいつは辞めたわけじゃねぇだろ』 『お前がそれを俺に聞くのか?』
 監督は伏せられた瞳のまま俺に問い返す。パラパラと読んでいるのかわからないほどの速さで部誌をめくり、白紙のページを最後にぱたりと閉じた。俺もその動きを視線で追っていると、クマの濃く残る目をこちらへと向けてきた。お互いに何も言わなかった。  暫くそうしていると、監督は上着のポケットからクタクタになったソフトケースを取り出して、残りの少ないそれを咥えると安物のライターで火をつけた。監督の眼差しで分かったのは、聖蹟は、アイツはまだサッカープレーヤーとして死んではいないということだった。
 迎えの車も呼ばずに俺は滅多に行かない最寄り駅までの道のりを歩いていた。券売機で270円の片道切符を購入すると、薄明るいホームで帰路とは反対方向へ向かう電車を待つ列に並ぶ。間もなく電車が滑り込んできて、疲れた顔のサラリーマンの中に紛れ込む。少し混みあっていた車内でつり革を握りしめながら、車内アナウンスが目的の駅名を告げるまで瞼を閉じていた。  あいつに会いに行ってどうするつもりだったのだろう。今になって思えば、あの時は何も考えずに電車に飛び乗ったように思える。ガタンゴトンとレールを走る音を聞きながら、本当はあの場所から逃げ出したかっただけなのかもしれない。疲れた身体を引きずって帰り、あの日から何も変わらない敗北の香りが残る部屋に戻りたくないだけなのかもしれない。一人になりたくないだけなのかもしれない。
『次はー△△、出口は左側です』
 目的地を告げるアナウンスで思考が現実へと引き戻された。はっとして、閉まりかけのドアに向かって勢いよく走った。長い脚を伸ばせばガン、と大きな音がしてドアに挟まる。鈍い痛みが走る足を引きずりながら、再び開いたドアの隙間からするりと抜け出した。
 久しぶりに通る道のりは、いくつか電灯が消えかけていて薄暗く、不気味なほど人通りが少なかった。古い商店街の一角にあるキミシタスポーツはまだ空いているだろうか。スマホの画面を確認すれば、午後8時55分を指していた。営業時間はあと5分あるが、あの年中暇な店に客は一人もいないであろう。運が悪ければ既にシャッタは降りているかもしれない。
『本日、休業……だあ?』
 計算は無意味だった。店のシャッターに張り付けられた、チラシの裏紙には妙に整った字でお詫びの文字が並んでいた。どうやらここ数日間はずっとシャッターが降りたままらしいと、通りすがりの中年の主婦が店の前で息を切らす俺に親切に教えてくれた。ついでにこの先の大型スーパーにもスポーツ用品は売ってるわよ、と要らぬ情報を置いてその主婦は去っていった。こうやって君下の店の売り上げが減っていくという、無駄な情報を仕入れたところで今後使う予定が来るのだろうか。店の二階を見上げるも、君下の部屋に灯りはない。
『ったく、あの野郎は部活サボっといて寝てんのか?』
 同じクラスのやつに聞いても、君下のいる特進クラスは夏休み明けから自主登校となっているらしい。大学進学のためのコースは既に3年の1学期には高校3年間の教科書を終えており、あとは各自で予備校に行くなり自習するなりで受験勉強に励んでいるようだ。当然君下以外に強豪運動部に所属している生徒はおらず、クラスでもかなり浮いた存在だというのはなんとなく知っていた。誰もあいつが学校に来なくても、どうせ部活で忙しいぐらいにしか思わないのだ。  仕方ない、引き返すか。そう思い回れ右をしたところで、ある一つの可能性が脳裏に浮かぶ。可能性なんかじゃない。だがなんとなくだが、あいつがそこにいるという確信が、俺の中にあったのだ。
『くそっ……君下のやつ!』
 やっと呼吸が整ったところで、重い鞄を背負うと急いで走り出す。こんな時間に何をやっているのだろう、と走りながら我ながら馬鹿らしくなった。去年散々走り込みをしたせいか、練習後の疲れた身体でもまだ走れる。次の角を右へ曲がって、たしかその2つ先を左――頭の中で去年君下と訪れた、あの古びた神社への道のりを思い出す。そこに君下がいる気がした。
『はぁ……はぁっ……っ!』
 大きな鳥居が近づくにつれて、どこからか聞こえるボールを蹴る音に俺の勘が間違っていない事を悟った。こんなところでなにサボってんだよ、そう言ってやるつもりだったのに、いざ目の前に君下の姿が見えると言葉を失った。  あいつは、聖蹟のユニフォーム姿のままで、泥だらけになりながら一人でドリブルをしていた。  自分で作った小さいゴールと、所々に置かれた大きな石。何度も躓きながらも起き上がり、懸命にボールを追っては前へ進む。パスを出すわけでもなく、リフティングでもない。その傷だらけの足元にボールが吸い寄せられるように、馴染むように何度も何度も同じことを繰り返していた。
『ハッ……馬鹿じゃねぇの』
 お前も俺も。そう呟いた声は己と向き合っている君下に向けられたものではない。  あいつは、君下はもう前を向いて歩きだしていた。沢山の小さな石ころに躓きながら、小さな小さなゴールへと向かってその長い道のりへと一歩を踏み出していた。俺は君下に気付かれることがないように、足音を立てないようにして足早に神社を後にした。  帰りの電車を待つベンチに座って、ぼんやりと思い出すのは泥だらけの君下の背中だった。前を向け喜一、まだやれることはたくさんある。ホームには他に電車を待つ客は誰もいなかった。
(3)夕食、22時半
 気付けば完全に日は落ちていて、コートを照らすスタンドライトだけが暗闇にぼんやりと輝いていた。  思いのほか練習に熱中してしまったようで、辺りを見渡せば先輩選手らはとっくに自主練を切り上げて帰路に着いたようだった。何の挨拶もなしに帰宅してしまったチームメイトの残していったボールがコートの隅に落ちているのを見つけては、上がり切った息を整えながらゆったりと歩いて拾って回った。
 倉庫の鍵がかかったのを確認して誰もいないロッカールームへ戻ると、ご丁寧に電気は消されていた。先週は鍵がかけられていた。思い出すだけで腹が立つが、もうこんなことも何度目になった今ではチームに内緒で作った合鍵をいつも持ち歩くようにしている。ぱちり、スイッチを押せば一瞬遅れて青白い灯りが部屋を照らした。
 大柴は人に妬まれ易い。その容姿と才能も関係はあるが、自分の才能に胡坐をかいて他者を見下しているところがあった。大口を叩くのはいつものことで、慣れた友人やチームメイトであれば軽く受け流せるものの、それ以外の人間にとってみれば不快極まりない行為であることは間違いない。いつしか友人と呼べる存在は随分と減り、クラスや集団では浮いてしまうことが常であった。  今のチームも例外ではない。加入してすぐの公式戦にレギュラーでの起用、シーズン序盤での怪我による離脱、長期のリハビリ生活、そして残せなかった結果。大柴加入初年度のチームは、最終的に前年度よりも下回った順位でシーズンの幕を閉じることになった。それでも翌年からも大柴はトップに居座り続けた。疑問に思ったチームメイトやサポーターからの非難や、時には心無い中傷を書き込まれることもあった。ゴールを決めれば大喝采だが、それも長くは続かない。家が裕福なことを嗅ぎつけたマスコミにはある事ない事を週刊誌に書き並べられ、誰もいない実家の前に怪しげな車が何台も止まっていることもあった。  だがそんなことは、大柴にとって些細なことだった。俺はサッカーの神様に才能を与えられたのだと、未だにカメラの前でこう言い張ることにしている。実はもう一つ、大柴はサッカーの神様から貰った大切なものがあったが、それを口にしたことはないしこれからも公言する日はやって来ないだろう。
「ただいまぁー」 「お帰り、遅かったな」
 靴を脱いでつま先で並べると、靴箱の上の小さな木製の皿に車のキーを入れる。ココナッツの木から作られたそれは、卒業旅行に二人でハワイに行ったときに買ったもので、6年間大切に使い続けている。玄関までふわりと香る味噌の匂いに、ああやっとここへ帰ってきたのだと実感する。大股で歩きながらジャケットを脱ぎ、どさり、とスポーツバッグと共に床へ投げ出すと、倒れ込むように革張りのソファへとダイブした。
「おい、飯出来てるから先に食え。手洗ったか?」 「洗ってねぇ」 「ったく、何年も言ってんのにちっとも学習しねぇ奴だな。ほら、こっち来い」
 君下は洗い物をしていたのか、泡まみれのスポンジを握ってそれをこちらに見せてくる。この俺の手を食器用洗剤で洗えって言���のか、そう言えばこっちのほうが油が落ちるだとか、訳の分からない理論を並べられた。つまり俺は頑固汚れと同じなのか。
「こんなことで俺が消えてたまるかよ」 「いつもに増して意味わかんねぇな。よし、終わり。味噌汁冷める前にさっさと食え」
 お互いの手を絡めるようにして洗い流していると、背後でピーと電子音がして炊飯が終わったことを知らせる。俺が愛車に乗り込む頃に一通連絡を入れておくと、丁度いい時間に米が炊き上がるらしい。渋滞のときはどうするんだよ、と聞けば、こんな時間じゃそうそう混まねぇよ、と普段車に乗らないくせにまるで交通事情を知っているかのような答えが返ってくる。全体練習は8時頃に終わるから、自主練をして遅くても10時半には自宅に着けるように心掛けていた。君下は普通の会社員で、俺とは違い朝が早いのだ。
「いただきます」 「いただきます」
 向かい合わせの定位置に腰を下ろし、二人そろって手を合わせる。日中はそれぞれ別に食事を摂るも、夕食のこの時間を二人は何よりも大事にしていた。  熱々の味噌汁は俺の好みに合わせてある。最近は急に冷え込んできたから、もくもくと上る白い湯気は一段と白く濃く見えた。上品な白味噌に、具は駅前の豆腐屋の絹ごし豆腐と、わかめといりこだった。出汁を取ったついでにそのまま入れっぱなしにするのは君下家の味だと昔言っていた。
「喜一、ケータイ光ってる」 「ん」
 苦い腸を噛み締めていると、ソファの上に置かれたままのスマホが小さく震えている音がした。途切れ途切れに振動がするので、電話ではないことは確かだった。後ででいい、一度はそう言ったものの、来週の練習試合の日程がまだだったことを思い出して気だるげに重い腰を上げる。最新機種の大きな画面には、見覚えのある一枚の画像と共に母からの短い返信があった。
「あ、やっぱ葉書来てたわ。実家のほうだったか」 「ほらな」 「お前のはここの住所で、なんで俺のだけ実家なんだよ」 「知るかよ。どうせ行くんだろ、直接会った時に聞けばいいじゃねぇか」 「え、行くの?」
 スマホを持ったままどかり、と椅子へと座りなおし、飲みかけの味噌汁に手を伸ばす。ズズ、とわざと少し行儀悪くわかめを啜れば、君下の表情が曇るのがわかった。
「お前、この頃にはもうオフだから休みとれるだろ。俺も有休消化しろって上がうるせぇから、ちょうどこのあたりで連休取ろうと思ってる」 「聞いてねぇ……」 「今言ったからな」
 金平蓮根に箸を付けた君下は、いくらか摘まんで自分の茶碗へと一度置くと、米と共にぱくり、と頬張った。シャクシャクと音を鳴らしながら、ダークブラウン���瞳がこちらを見る。
「佐藤と鈴木も来るって」 「あいつらに会うだけなら別で集まりゃいいだろうが。それにこの前も4人で飲んだじゃねぇか」 「いつの話してんだよタワケが、2年前だぞあれ」 「えっそんなに前だったか?」 「ああ。それに今年で卒業して10年だとさ。流石に毎年は行かねぇが節目ぐらい行ったって罰は当たんねーよ」
 時の流れとは残酷なものだ。俺は高校を卒業してそれぞれ違う道へと進んでも、相変わらず君下と一緒にいた。だからそんな長い年月が経ったことに気付かなかっただけなのかもしれない。高校を卒業する時点で、俺たちがはじめて出会って既に10年が経っていたのだ。  君下はぬるい味噌汁を啜ると、満足そうに「うまい」と一言呟いた。
*
 今宵はよく月が陰る。  ソファにごろりと寝転がり、カーテンの隙間から満月より少し欠けた月をぼんやりと眺めていた。月に兎がいると最初に言ったのは誰だろうか。どう見ても、あの不思議な斑模様は兎なんかに、それも都合よく餅つきをしているようには見えなかった。昔の人間は妙なことを考える。星屑を繋げてそれらを星座だと呼び、一晩中夜空を眺めては絶え間なく動く星たちを追いかけていた。よほど暇だったのだろう。こんな一時間に何センチほどしか動かないものを見て、何が面白いというのだろうか。
「さみぃ」
 音もなくベランダの窓が開き、身体を縮こませた君下が湯気で温かくなった室内へと戻ってくる。君下は二十歳から煙草を吸っていた。家で吸うときはこうやって、それも洗濯物のない時にだけ、それなりに広いベランダの隅に作った小さな喫煙スペースで煙草を嗜む。別に換気扇さえ回してくれれば部屋で吸ってもらっても構わないと俺は言っているのだが、頑なにそれをしようとしないのは君下のほうだった。現役のスポーツ選手である俺への気遣いなのだろう。こういう些細なところでも、俺は君下に支えられているのだと実感する。
「おい、キスしろ」
 隣に腰を下ろした君下に、腹を見せるように上を向いて唇を突き出した。またか、と言いたげな顔をしたが、間もなく長い前髪が近づいてきてちゅ、と小さな音を立てて口づけが落とされた。一度も吸ったことのない煙草の味を、俺は間接的に知っている。少しだけ大人になったような気がするのがたまらなく心地よい。
 それから少しの間、手を握ったりしてテレビを見ながらソファで寛いだ。この時間にもなればいつもニュースか深夜のバラエティー番組しかなかったが、今日はお互いに見たい番組があるわけでもなかったので適当にチャンネルを回してテレビを消した。  手元のランプシェードの明かりだけ残して電気を消し、寝室の真ん中に位置するキングサイズのベッドに入ると、君下はおやすみとも言わないまま背を向けて肩まで掛け布団を被ってしまった。向かい合わせでは寝付けないのはいつもの事だが、それにしても今日は随分と素っ気ない。明日は金曜日で、俺はオフだが会社員の君下には仕事がある。お互いにもういい歳をした大人なのだ。明日に仕事を控えた夜は事には及ばないようにはしているが、先ほどのことが胸のどこかで引っかかっていた。
「もう寝た?」 「……」 「なあ」 「……」 「敦」 「……なんだよ」
 消え入りそうなほど小さな声で、君下が返事をする。俺は頬杖をついていた腕を崩して布団の中に忍ばせると、背中からその細身の身体を抱き寄せた。抵抗はしなかった。
「こっち向けよ」 「……もう寝る」 「少しだけ」 「明日仕事」 「分かってる」
 わかってねぇよ、そう言いながらもこちらに身体を預けてくる、相変わらず素直じゃないところも君下らしい。ランプシェードのオレンジの灯りが、眠そうな君下の顔をぼんやりと照らしている。長い睫毛に落ちる影を見つめながら、俺は薄く開かれた唇に祈るように静かにキスを落とした。
 こいつとキスをするようになったのはいつからだっただろうか。  サッカーを諦めかけていた俺に道を示してくれたその時から、ただのチームメイトだった男は信頼できる友へと変化した。それでも物足りないと感じていたのは互いに同じだったようで、俺たちは高校を卒業するとすぐに同じ屋根の下で生活を始めた。が、喧嘩の絶えない日々が続いた。いくら昔に比べて関係が良くなったとはいえ、育ちも違えば本来の性格が随分と違う。事情を知る数少ない人間も、だからやめておけと言っただろう、と皆口を揃えてそう言った。幸いだったのは、二人の通う大学が違ったことだった。君下は官僚になるために法学部で勉学に励み、俺はサッカーの為だけに学生生活を捧げた。互いに必要以上に干渉しない日々が続いて、家で顔を合わせるのは、いつも決まって遅めの夜の食卓だった。  本当は今のままの関係で十分に満足している。今こそ目指す道は違うが、俺たちには同じ時を共有していた、かけがえのない長い長い日々がある。手さぐりでお互いを知ろうとし、時にはぶつかり合って忌み嫌っていた時期もある。こうして積み重ねてきた日々の中で、いつの日か俺たちは自然と寄り添いあって、お互いを抱きしめながら眠りにつくようになった。この感情に名前があるとしても、今はまだわからない。少なくとも今の俺にとって君下がいない生活などもう考えられなくなっていた。
「……ン゛、ぐっ……」
 俺に組み敷かれた君下は、弓なりに反った細い腰をぴくり、と跳ねさせた。大判の白いカバーの付いた枕を抱きしめながら、押し殺す声はぐぐもっていてる。決して色気のある行為ではないが、その声にすら俺の下半身は反応してしまう。いつからこうなってしまったのだろう。君下を抱きながらそう考えるのももう何度目の事で、いつも答えの出ないまま、絶頂を迎えそうになり思考はどこかへと吹き飛んでしまう。
「も、俺、でそ、うっ……」 「あ?んな、俺もだ馬鹿っ」 「あっ……喜一」
 君下の腰から右手を外し、枕を上から掴んで引き剥がす。果たしてどんな顔をして俺の名を呼ぶのだと、その顔を拝みたくなった。日に焼けない白い頬は、スポーツのような激しいセックスで紅潮し、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。相変わらず眉間には皺が寄ってはいたが、いつもの鋭い目つきが嘘のように、限界まで与えられた快楽にその瞳を潤ませていた。視線が合えば、きゅ、と一瞬君下の蕾が収縮した。「あ、出る」とだけ言って腰のピストンを速めながら、君下のイイところを突き上げる。呼吸の詰まる音と、結合部から聞こえる卑猥な音を聞きながら、頭の中が真っ白になって、そして俺はいつの間にか果てた。全て吐き出し、コンドームの中で自身が小さくなるのを感じる。一瞬遅れてどくどくと音がしそうなほどに爆ぜる君下の姿を、射精後のぼんやりとした意識の中でいつまでも眺めていた。
(4)誰も知らない
 忙しないいつもの日常が続き、あっという間に年も暮れ新しい年がやってきた。  正月は母方の田舎で過ごすと言った君下は、仕事納めが終われば一度家に戻って荷物をまとめると、そこから一週間ほど家を空けていた。久しぶりに会った君下は、少しばかり頬が丸くなって帰ってきたような気がしたが、本人に言うとそんなことはないと若干キレながら否定された。目に見えて肥えたことを気にしているらしい本人には申し訳ないが、俺はその様子に少しだけ安心感を覚えた。祖父の葬儀以来、もう何年も顔を見せていないという家族に会うのは、きっと俺にすら言い知れぬ緊張や、不安も勿論あっただろう。  だがこうやって随分と可愛がられて帰ってきたようで、俺も正月ぐらい実家に顔を出せばよかったかなと少しだけ羨ましくなった。本人に言えば餅つきを手伝わされこき使われただの、田舎はやることがなく退屈だなど愚痴を垂れそうだが、そのお陰なのか山ほど餅を持たせられたらしく、その日の夜は冷蔵庫にあった鶏肉と大根、にんじんを適当に入れて雑煮にして食べることにした。
「お前、俺がいない間何してた?」
 君下が慣れた手つきで具材を切っている間、俺は君下が持ち帰った土産とやらの箱を開けていた。中には土の付いたままの里芋だとか、葉つきの蕪や蓮根などが入っていた。全て君下の田舎で採れたものなのか、形はスーパーでは見かけないような不格好なものばかりだった。
「車ねぇから暇だった」 「どうせ車があったとしても、一日中寝てるか練習かのどっちかだろうが」 「まあ、大体合ってる」
 一通り切り終えたのか包丁の音が聞こえなくなり、程なくして今度は出汁の香りが漂ってきた。同時に香ばしい餅の焼ける香りがして、完成が近いことを悟った俺は一度箱を閉めるとダイニングテーブルへと向かい、箸を二膳出して並べると冷蔵庫から缶ビールを取り出してグラスと共に並べた。
「いただきます」 「いただきます」
 大きめの深い器に入った薄茶色の雑煮を目の前に、二人向かい合って座り手を合わせる。実に一週間ぶりの二人で摂る夕食だった。よくある関東風の味付けに、四角く切られ表面を香ばしく焼かれた大きな餅。シンプルだが今年に入って初めて食べる正月らしい食べ物も、今年初めて飲む酒も、すべて君下と共に大事に味わった。
「あ、そうだ。明日だからな、あれ」
 3個目の餅に齧りついた俺に、そういえばと思い出したかのように君下が声を発した。少し冷めてきたのか噛み切れなかった餅を咥えたまま、肩眉を上げて何の話かと視線だけで問えば、「ほら、同窓会のやつ」と察したように答えが返ってきた。「ちょっと待て」と掌を君下に見せて、餅を掴んでいた箸に力を入れて無理矢理引きちぎると、ぐにぐにと大雑把に噛んでビールで流し込む。うまく流れなかったようで、喉のあたりを引っかかる感触が気持ち悪い。生理的に込み上げてくる涙を瞳に浮かべていると、席を立った君下は冷蔵庫の扉を開けてもう2本ビールを取り出して戻ってきた。
「ほら飲め」 「おま……水だろそこは」 「いいからとりあえず流し込め」
 空になった俺のグラスにビールを注げば、ぶくぶくと泡立つばかりで泡だけで溢れそうになった。だから水にしとけと言ったのだ。チッ、と舌打ちをした君下は、少し申し訳なさそうに残りの缶をそのまま手渡してきた。直接飲むのは好きではないが、今は文句を言ってられない。奪うように取り上げると、ごくごくと大げさに喉を鳴らして一気に飲み干した。
「は~……死ぬかと思った。相変わらずお酌が下手だなお前は」 「うるせぇな。俺はもうされる側だから仕方ねぇだろうが」
 そう悪態をつきながら、君下も自分の缶を開ける。プシュ、と間抜けな音がして、グラスを傾けて丁寧にビールを注いでゆく。泡まで綺麗に注げたそれを見て、満足そうに俺に視線を戻す。
「あ、そうだよ、話反らせやがって……まあとにかく、明日は俺は昼ぐらいに会社に少し顔出してくるから、ついでに親父んとこにも寄って、そのまま会場に向かうつもりだ」 「あ?親父さんも一緒に田舎に行ったんじゃねぇの?」 「そうしようとは思ったんだがな、店の事もあるって断られた。ったく誰に似たんだかな」 「それ、お前が言うなよ」
 君下の言葉になんだかおかしくなってふふ、と小さく笑えば、うるせぇと小さく舌打ちで返された。綺麗に食べ終えた器をテーブルの上で纏めると、君下はそれらを持って流しへと向かった。ビールのグラスを軽く水で濯いでから、そこに半分ぐらい溜めた水をコクコクと喉を鳴らして飲み込んだ。
「俺もう寝るから、あとよろしくな。久々に運転すると疲れるわ」 「おう、お疲れ。おやすみ」
 俺の言葉におやすみ、と小さく呟いた君下は、灯りのついていない寝室へと吸い込まれるようにして消えた。ぱたん、と扉が閉まる音を最後に、乾いた部屋はしんとした静寂に包まれる。手元に残ったのは、ほんの一口分だけ残った温くなったビールの入ったグラスだけだった。  頼まれた洗い物はあとでやるとして、さてこれからどうしようか。君下の読み通り、今日は一日中寝ていたため眠気はしばらくやって来る気配はない。テレビの上の時計を見ると、ちょうど午後九時を回ったところだった。俺はビールの残りも飲まずに立ち上がると、食器棚に並べてあるブランデーの瓶と、隣に飾ってあったバカラのグラスを手にしてソファのほうへとゆっくり歩き出した。
*
 肌寒さを感じて目を覚ました。  最後に時計を見たのはいつだっただろうか。微睡む意識の中、薄く開いた瞳で捉えたのは、ガラス張りのローテーブルの端に置かれた見覚えのあるグラスだった。細かくカットされた見事なつくりの表面は、カーテンから零れる朝日を反射してキラキラと眩しい。中の酒は幾分か残っていたようだったが、蒸発してしまったのだろうか、底のほうにだけ琥珀色が貼り付くように残っているだけだった。  何も着ていなかったはずだが、俺の肩には薄手の毛布が掛かっていた。点けっぱなしだった電気もいつの間にか消されていて、薄暗い部屋の中、遮光カーテンから漏れる光だけがぼんやりと座っていたソファのあたりを照らしていた。酷い喉の渇きに、水を一口飲もうと立ち上がると頭痛と共に眩暈がした。ズキズキと痛む頭を押さえながらキッチンへ向かい、食器棚から新しいコップを取り出して水を飲む。シンクに山積みになっていたはずの洗い物は、跡形もなく姿を消している。君下は既に家を出た後のようだった。
 それから昼過ぎまでもう一度寝て、起きた頃には朝方よりも随分と温かくなっていた。身体のだるさは取れたが、相変わらず痛む頭痛に舌打ちをしながら、リビングのフローリングの上にマットを敷いてそこで軽めのストレッチをした。大柴はもう若くはない。三十路手前の身体は年々言うことを聞かなくなり、1日休めば取り戻すのに3日はかかる。オフシーズンだからと言って単純に休んでいるわけにはいかなかった。  しばらく柔軟をしたあと、マットを片付け軽く掃除機をかけていると、ジャージの尻ポケットが震えていることに気が付いた。佐藤からの着信だった。久しぶりに見るその名前に、緑のボタンを押してスマホを耳と肩の間に挟んだ。
「おう」 「あーうるせぇよ!掃除機?電話に出る時ぐらい一旦切れって」
 叫ぶ佐藤の声が聞こえるが、何と言っているのか聞き取れず、仕方なくスイッチをオフにした。ちらりと壁に視線を流せば、時計針はもうすぐ3時を指そうとしていた。
「わりぃ。それよりどうした?」 「どうしたじゃねぇよ。多分お前まだ寝てるだろうから、起こして同窓会に連れてこいって君下から頼まれてんだ」 「はあ……ったく、どいつもこいつも」 「まあその調子じゃ大丈夫だな。5時にマンションの下まで車出すから、ちゃんと顔洗って待ってろよ」 「へー」 「じゃあ後でな」
 何も言わずに通話を切り、ソファ目掛けてスマホを投げた。もう一度掃除機の電源を入れると、リビングから寝室へと移動する。普段は掃除機は君下がかけるし、皿洗い以外の大抵の家事はほとんど君下に任せっきりだった。今朝はそれすらも君下にさせてしまった罪悪感が、こうやって自主的にコードレス掃除機をかけている理由なのかもしれない。  ベッドは綺麗に整えてあり、真ん中に乱雑に畳まれたパジャマだけが取り残されていた。寝る以外に立ち入らない寝室は綺麗なままだったが、一応端から一通りかけると掃除機を寝かせてベッドの下へと滑り込ませる。薄型のそれは狭い隙間も難なく通る。何往復かしていると、急に何か大きな紙のようなものを吸い込んだ音がした。
「げっ……何だ?」
 慌てて電源を切り引き抜くと、ヘッドに吸い込まれていたのは長い紐のついた、見慣れない小さな紙袋だった。紺色の袋の表面に、金色の細い英字で書かれた名前には見覚えがあった。俺の覚え違いでなければ、それはジュエリーブランドの名前だった気がする。
「俺のじゃねぇってことは、これ……」
 そこまで口に出して、俺の頭の中には一つの仮説が浮かび上がる。これの持ち主は十中八九君下なのだろう。それにしても、どうしてこんなものがベッドの下に、それも奥のほうへと押しやられているのだろうか。絡まった紐を引き抜いて埃を払うと、中を覗き込む。入っていたのは紙袋の底のサイズよりも一回り小さな白い箱だった。中を確認したかったが、綺麗に巻かれたリボンをうまく外し、元に戻せるほど器用ではない。それに、中身など見なくてもおおよその見当はついた。  俺はどうするか迷ったが、それと電源の切れた掃除機を持ってリビングへと戻った。紙袋をわざと見えるところ、チェリーウッドのダイニングテーブルの上に置くと、シャワーを浴びようとバスルームへと向かった。いつも通りに手短に済ませると、タオルドライである程度水気を取り除いた髪にワックスを馴染ませ、久しぶりに鏡の中の自分と向かい合う。ここ2週間はオフだったというのに、ひどく疲れた顔をしていた。適当に整えて、顎と口周りにシェービングクリームを塗ると伸ばしっぱなしだった髭に剃刀を宛がう。元々体毛は濃いほうではない。すぐに済ませて電気を消して、バスルームを後にした。
「お、来た来た。やっぱりお前は青のユニフォームより、そっちのほうが似合っているな」
 スーツに着替え午後5時5分前に部屋を出て、マンションのエントランスを潜ると、シルバーの普通車に乗った佐藤が窓を開けてこちらに向かって手を振っていた。助手席には既に鈴木が乗っており、懐かしい顔ぶれに少しだけ安堵した。よう、と短く挨拶をして、後部座席のドアを開けると長い背を折りたたんでシートへと腰かけた。  それからは佐藤の運転に揺られながら、他愛もない話をした。最近のそれぞれの仕事がどうだとか、鈴木に彼女が出来ただとか、この前相庭のいるチームと試合しただとか、離れていた2年間を埋めるように絶え間なく話題は切り替わる。その間も車は東京方面へと向かっていた。
「君下とはどうだ?」 「あー……相変わらずだな。付かず離れずって感じか」 「まあよくやってるよな、お前も君下も。あれだけ仲が悪かったのが、今じゃ同棲だろ?みんな嘘みたいに思うだろうな」 「同棲って言い方やめろよ」 「はーいいなぁ、俺この間の彼女に振られてさ。せがまれて高い指輪まで贈ったのに、あれだけでも返して貰いたいぐらいだな」
 指輪という言葉に、俺の顔の筋肉が引きつるのを感じた。グレーのパンツの右ポケットの膨らみを、無意識に指先でなぞる。車は渋滞に引っかかったようで、先ほどからしばらく進んでおらず車内はしん、と静まり返っていた。
「あーやべぇな。受付って何時だっけ」 「たしか6時半……いや、6時になってる」 「げ、あと20分で着くかな」 「だからさっき迂回しろって言ったじゃねぇか」
 このあたりはトラックの通行量も多いが、帰宅ラッシュで神奈川方面に抜ける車もたくさん見かける。そういえば実家に寄るから���、今朝も俺の車で出て行った君下はもう会場に着いたのだろうか。誰かに電話をかけているらしい鈴木の声がして、俺は手持ち無沙汰に窓の外へと視線を投げる。冬の日の入りは早く、太陽はちょうど半分ぐらいを地平線の向こうへと隠した頃だった。真っ赤に焼ける雲の少ない空をぼんやりと眺めて、今夜は星がきれいだろうか、と普段気にもしていないことを考えていた。
(5)真冬のエスケープ
 車は止まりながらもなんとか会場近くの地下駐車場へと止めることができた。幹事と連絡がついて遅れると伝えていたこともあり、特に急ぐこともなく会場までの道のりを歩いて行った。  程なくして着いたのは某有名ホテルだった。入り口の案内板には聖蹟高校×期同窓会とあり、その横に4階と書かれていた。エレベーターを待つ間、着飾った同じ年ぐらいの集団と鉢合わせた。そのうち男の何人かは見覚えのある顔だったが、男たちと親し気に話している女に至っては、全くと言っていいほど面影が見受けられない。常日頃から思ってはいたが、化粧とは恐ろしいものだ。俺や君下よりも交友関係が広い鈴木と佐藤でさえ苦笑いで顔を見合わせていたから、きっとこいつらにでさえ覚えがないのだろうと踏んで、何も言わずに到着した広いエレベーターへと乗り込んだ。
 受付で順番に名前を書いて入り口で泡の入った飲み物を受け取り、広間へと入るとざっと見るだけで100人ほどは来ているようだった。「すげぇな、結構集まったんだな」そう言う佐藤の言葉に振り返りもせずに、俺はあたりをきょろきょろと見渡して君下の姿を探した。
「よう、遅かったな」 「おー君下。途中で渋滞に巻き込まれてな……ちゃんと連れてきたぞ」
 ぽん、と背中を佐藤に叩かれる。その右手は決して強くはなかったが、ふいを突かれた俺は少しだけ前にふらついた。手元のグラスの中で黄金色がゆらりと揺れる。いつの間にか頭痛はなくなっていたが、今は酒を口にする気にはなれずにそのグラスを佐藤へと押し付けた。不審そうにその様子を見ていた君下は、何も言わなかった。  6時半きっかりに、壇上に幹事が現れた。眼鏡をかけて、いかにも真面目そうな元生徒会長は簡単にスピーチを述べると、今はもう引退してしまったという、元校長の挨拶へと移り変わる。何度か表彰状を渡されたことがあったが、曲がった背中にはあまり思い出すものもなかった。俺はシャンパンの代わりに貰ったウーロン茶が入ったグラスをちびちびと舐めながら、隣に立つ君下に気付かれないようにポケットの膨らみの形を確認するかのように、何度も繰り返しなぞっていた。
 俺たちを受け持っていた先生らの挨拶が一通り済むと、それぞれが自由に飲み物を持って会話を楽しんでいた。今日一日、何も食べていなかった俺は、同じく飯を食い損ねたという君下と共に、真ん中に並ぶビュッフェをつまみながら空きっ腹を満たしていた。ここのホテルの料理は美味しいと評判で、他のホテルに比べてビュッフェは高いがその分確かなクオリティがあると姉が言っていた気がする。確かにそれなりの料理が出てくるし、味も悪くはない。君下はローストビーフがお気に召したようで、何度も列に並んではブロックから切り分けられる様子を目を輝かせて眺めていた。
「あー!大柴くん久しぶり、覚えてるかなぁ」
 ウーロン茶のあてにスモークサーモンの乗ったフィンガーフードを摘まんでいると、この会場には珍しく化粧っ気のない、大きな瞳をした女が数人の女子グループと共にこちらへと寄ってきた。
「あ?……あ、お前はあれだ、柄本の」 「もー、橘ですぅー!つくちゃんのことは覚えててくれるのに、同じクラスだった私のこと、全っ然覚えててくれないんだから」
 プンスカと頬を膨らませる橘の姿に、高校時代の懐かしい記憶が蘇る。記憶の中よりも随分と短くなった髪は耳の下で切り揃えられていれ、片側にトレードマークだった三つ編みを揺らしている。確かにこいつが言うように、思い返せば偶然にも3年間、同じクラスだったように思えてくる。本当は名前を忘れた訳ではなかったが、わざと覚えていない振りをした。
「テレビでいつも見てるよー!プロってやっぱり大変みたいだけど、大柴くんのことちゃんと見てるファンもいるからね」 「おーありがとな」
 俺はその言葉に対して素直に礼を言った。というのも、この橘という女の前ではどうも調子が狂わされる。自分は純粋無垢だという瞳をしておいて、妙に人を観察していることと、核心をついてくるのが昔から巧かった。だが悪気はないのが分かっているだけ質が悪い。俺ができるだけ同窓会を避けてきた理由の一つに、この女の言ったことと、こいつ自身が関係している。これには君下も薄々気付いているのだろう。
「あ、そうだ。君下くんも来てるかな?つくちゃんが会いたいって言ってたよ」 「柄本が?そりゃあ本人に言ってやれよ。君下ならあっちで肉食ってると思うけど」 「そうだよね、ありがとう大統領!」
 そう言って大げさに手を振りながら、橘は君下を探しに人の列へと歩き出した。「もーまたさゆり、勝手にどっか行っちゃったよ」と、取り残されたグループの一人がそう言うので、「相変わらずだよね」と笑う他の女たちに混ざって愛想笑いをして、居心地の悪くなったその場を離れようとした。  白いテーブルクロスの上から飲みかけのウーロン茶が入ったグラスを手に取ろとすると、綺麗に塗られたオレンジの爪がついた女にそのグラスを先に掴まれた。思わず視線をウーロン茶からその女へと流すと、女はにこりと綺麗に笑顔を作り、俺のグラスを手渡してきた。
「大柴くん、だよね?今日は飲まないの?」
 黒髪のロングヘアーはいかにも君下が好みそうなタイプの女で、耳下まである長い前髪をセンターで分けて綺麗に内巻きに巻いていた。他の女とは違い、あまりヒラヒラとした装飾物のない、膝上までのシンプルな紺色のドレスに身を包んでいる。見覚えのある色に一瞬喉が詰まるも、「今日は車で来てるから」とその場で適当な言い訳をした。
「あーそうなんだ、残念。私も車で来たんだけど、勤めている会社がこの辺にあって、そこの駐車場に停めてあるから飲んじゃおうかなって」 「へぇ……」
 わざとらしく綺麗な眉を寄せる姿に、最初はナンパされているのかと思った。だが俺のグラスを受け取ると、オレンジの爪はあっさりと手放してしまう。そして先程まで女が飲んでいた赤ワインらしき飲み物をテーブルの上に置き、一歩近づき俺の胸元に手を添えると、背伸びをして俺の耳元で溜息のように囁いた。
「君下くんと、いつから仲良くなったの?」
 酒を帯びた吐息息が耳元にかかり、かっちりと着込んだスーツの下に、ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。  こいつは、この女は、もしかしたら君下がこの箱を渡そうとした女なのかもしれない。俺の知らないところで、君下はこの女と親密な関係を持っているのかもしれない。そう考えが纏まると、すとんと俺の中に収まった。そうか。最近感じていた違和感も、何年も寄り付かなかった田舎への急な帰省も、なぜか頑なにこの同窓会に出席したがった理由も、全部辻褄が合う。いつから関係を持っていたのだろうか、知りたくもなかった最悪の状況にたった今、俺は気付いてしまった。  じりじりと距離を詰める女を前に、俺は思考だけでなく身体までもが硬直し、その場を動けないでいた。酒は一滴も口にしていないはずなのに、むかむかと吐き気が込み上げてくる。俺は今、よほど酷い顔をしているのだろう。心配そうに見つめる女の目は笑っているのに、口元の赤が、赤い口紅が視界に焼き付いて離れない。何か言わねば。いつものように、「誰があんなやつと、この俺様が仲良くできるんだよ」と見下すように悪態をつかねば。皆の記憶に生きている、大柴喜一という人間を演じなければ―――……  そう思っているときだった。  俺は誰かに腕を掴まれ、ぐい、と強い力で後ろへと引かれた。呆気にとられたのは俺も女も同じようで、俺が「おい誰だ!スーツが皺になるだろうが」と叫ぶと、「あっ君下くん、」と先程聞いていた声より一オクターブぐらい高い声が女の口から飛び出した。その名前に腕を引かれたほうへと振り返れば、確かにそこには君下が立っていて、スーツごと俺の腕を掴んでいる。俺を見上げる漆黒の瞳は、ここ最近では見ることのなかった苛立ちが滲んで見えるようだった。
「ああ?テメェのスーツなんか知るかボケ。お前が誰とイチャつこうが関係ねぇが、ここがどこか考えてからモノ言いやがれタワケが」 「はあ?誰がこんなブスとイチャつくかバーカ!テメェの女にくれてやる興味なんぞこれっぽっちもねぇ」 「なんだとこの馬鹿が」
 実に数年ぶりの君下のキレ具合に、俺も負けじと抱えていたものを吐き出すかのように怒鳴り散らした。殴りかかろうと俺の胸倉を掴んだ君下に、賑やかだった周囲は一瞬にして静まり返る。人の壁の向こう側で、「おいお前ら!まじでやめとけって」と慌てた様子の佐藤の声が聞こえる。先に俺たちを見つけた鈴木が君下の腕を掴むと、俺の胸倉からその手を引き剥がした。
「とりあえず、やるなら外に行け。お前らももう高校生じゃないんだ、ちょっとは周りの事も考えろよ」 「チッ……」 「大柴も、冷静になれよ。二人とも、今日はもう帰れ。俺たちが収集つけとくから」
 君下はそれ以上何も言わずに、出口のほうへと振り返えると大股で逃げるようにその場を後にした。俺は「悪いな」とだけ声をかけると、曲がったネクタイを直し、小走りで君下の後を追いかける。背後からカツカツとヒールの走る音がしたが、俺は振り返らずにただ小さくなってゆく背中を見逃さないように、その姿だけを追って走った。暫くすると、耳障りな足音はもう聞こえなくなっていた。
 君下がやってきたのは、俺たちが停めたのと同じ地下駐車場だった。ここに着くまでにとっくに追い付いていたものの、俺はこれから冷静に対応する為に、頭を冷やす時間が欲しかった。遠くに見える派手な赤色のスポーツカーは、間違いなく俺が2年前に買い替えたものだった。君下は何杯か酒を飲んでいたので、鍵は持っていなくとも俺が運転をすることになると分かっていた。わざと10メートル後ろをついてゆっくりと近づく。  君下は何も言わずにロックを解除すると、大人しく助手席に腰かけた。ドアは開けたままにネクタイを解き、首元のボタンを一つ外すと、胸ポケットから取り出した煙草を一本口に咥えた。
「俺の前じゃ吸わねぇんじゃなかったのか」 「……気が変わった」
 俺も運転席に乗り込むと、キーを挿してエンジンをかけ、サンバイザーを提げるとレバーを引いて屋根を開けてやった。どうせ吸うならこのほうがいいだろう。それに今夜は星がきれいに見えるかもしれないと、行きがけに見た綺麗な夕日を思い出す。安物のライターがジジ、と音を立てて煙草に火をつけたのを確認して、俺はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
(6)形も何もないけれど
 煌びやかなネオンが流れてゆく。俺と君下の間に会話はなく、代わりに冬の冷たい夜風だけが二人の間を切るように走り抜ける。煙草の火はとっくに消えて、そのままどこかに吹き飛ばされてしまった。  信号待ちで車が止まると、「さむい」と鼻を啜りながら君下が呟いた。俺は後部座席を振り返り、外したばかりの屋根を元に戻すべく折りたたんだそれを引っ張った。途中で信号が青に変わって、後続車にクラクションを鳴らされる。仕方なく座りなおそうとすると、「おい、貸せ」と君下が言うものだから、最初から自分でやればいいだろうと思いながらも、大人しく手渡してアクセルに足を掛けた。車はまた走り出す。
「ちょっとどこか行こうぜ」
 最初にそう切り出したのは君下だった。暖房も入れて温かくなった車内で、窓に貼り付くように外を見る君下の息が白く曇っていた。その問いかけに返事はしなかったが、俺も最初からあのマンションに向かうつもりはなかった。分岐は横浜方面へと向かっている。君下もそれに気が付いているだろう。  海沿いに車を走らせている間も、相変わらず沈黙が続いた。試しにラジオを付けてはみたが、流れるのは今流行りの恋愛ソングばかりで、今の俺たちにはとてもじゃないが似合わなかった。何も言わずにラジオを消して、それ以来ずっと無音のままだ。それでも、不思議と嫌な沈黙ではないことは確かだった。
 どこまで行こうというのだろうか。気が付けば街灯の数も少なくなり、車の通行量も一気に減った。窓の外に見える、深い色の海を横目に見ながら車を走らせた。穏やかな波にきらきらと反射する、今夜の月は見事な満月だった。  歩けそうな砂浜が見えて、何も聞かないままそこの近くの駐車場に車を停めた。他に車は数台止まっていたが、どこにも人の気配がしなかった。こんな真冬の夜の海に用があるというほうが可笑しいのだ。俺はエンジンを切って、運転席のドアを開けると外へ出た。つんとした冷たい空気と潮の匂いが鼻をついた。君下もそれに続いて車を降りた。  後部座席に積んでいたブランケットを羽織りながら、君下は小走りで俺に追いつくと、その隣に並んで「やっぱ寒い」と鼻を啜る。数段ほどのコンクリートの階段を降りると、革靴のまま砂を踏んだ。ぐにゃり、と不安定な砂の上は歩きにくかったが、それでも裸足になるわけにはいかずにゆっくりと海へ向かって歩き出す。波打ち際まで来れば、濡れて固まった足場は先程より多少歩きやすくなった。はぁ、と息を吐けば白く曇る。海はどこまでも深い色をしていた。
「悪かったな」 「いや、……あれは俺も悪かった」
 居心地の悪そうに謝罪の言葉がぽつり、と零れた。それは何に対して謝ったのか、自分でもよく分からない。君下に女が居た事なのか、指輪を見つけてしまった事なのか、それともそれを秘密にしていた事なのか。あるいは、そのすべてに対して―――俺がお前をあのマンションに縛り付けた10年間を指しているのか、それははっきりとは分からなかった。俺は立ち止まった。俺を追い越した、君下も立ち止まり、振り返る。大きな波が押し寄せて、スーツの裾が濡れる感覚がした。水温よりも冷たく冷え切った心には、今はそんな些細なことは、どうでもよかった。
「全部話してくれるか」 「ああ……もうそろそろ気づかれるかもしれねぇとは腹括ってたからな」
 そう言い終える前に、君下の視線が俺のズボンのポケットに向いていることに気が付いた。何度も触っていたそれの形は、嫌と言うほど覚えている。俺はふん、と鼻で笑ってから、右手を突っ込み白い小さな箱を丁寧に取り出した。君下の目の前に差し出すと、なぜだか手が震えていた。寒さからなのか、それともその箱の重みを知ってしまったからなのか、風邪が吹いて揺れるなか、吹き飛ばされないように握っているのが精一杯だった。
「これ……今朝偶然見つけた。ベッドの下、本当に偶然掃除機に引っかけちまって……でも本当に俺、今までずっと気付かなくて、それで―――それで、あんな女がお前に居たなんて、もっと早く言ってくれりゃ、」 「ちょっと待て、喜一……お前何言ってんだ」 「あ……?何って、今言ったことそのまんまだろうが」
 思い切り眉間に皺を寄せ困惑したような君下の顔に、俺もつられて眉根を寄せる。ここまで来てしらを切るつもりなのかと思うと、怒りを通り越して呆れもした。どうせこうなってしまった以上、俺たちは何事もなく別れられるわけがなかった。昔のように犬猿の仲に戻るのは目に見えていたし、そうなってくれれば救われた方だと俺は思っていた。  苛立っていたいたのは君下もそうだったようで、風で乱れた頭をガシガシと掻くと、煙草を咥えて火を点けようとした。ヂ、ヂヂ、と音がするのに、風のせいでうまく点かない。俺は箱を持っていないもう片方の手を伸ばして、風上から添えると炎はゆらりと立ち上がる。すう、と一息吸って吐き出した紫煙が、漆黒の空へと消えていった。
「そのまんまも何も、あの女、お前狙いで寄ってきたんだろうが」 「お前の女が?」 「誰だよそれ、名前も知らねぇのにか?」
 つまらなさそうに、君下はもう一度煙を吸うと上を向いて吐き出した。どうやら本当にあのオレンジ爪の女の名前すら知らないらしい。だとしたら、俺が持っているこの箱は一体誰からのものなのだ。答え合わせのつもりで話をしていたが、謎は余計に深まる一方だ。
「あ、でもあいつ、俺に何て言ったと思う?君下くんといつから仲良くなったの、って」 「お前の追っかけファンじゃねぇの」 「だとしてもスゲェ怖いわ。明らかにお前の��みそうなタイプの恰好してたじゃん」 「そうか?むしろ俺は、お前好みの女だなと思ったけどな」
 そこまで言って、俺も君下も噴き出してしまった。ククク、と腹の底から込み上げる笑いが止まらない。口にして初めて気が付いたが、俺たちはお互いに女の好みなんてこれっぽっちも知らなかったのだ。二人でいる時の共通の話題と言えば、サッカーの事か明日の朝飯のことぐらいで、食卓に女の名前が出てきたことなんて今の一度もない事に気付いてしまった。どうりでこの10年間、どちらも結婚だとか彼女だとか言い出さないわけだ。俺たちはどこまでも似た者同士だったのだ。
「それ、お前にやろうと思って用意したんだ」
 すっかり苛立ちのなくなった瞳に涙を浮かべながら、君下は軽々しくそう言って笑った。  俺は言葉が出なかった。  こんな小洒落たものを君下が買っている姿なんて想像もできなかったし、こんなリボンのついた箱は俺が受け取っても似合わない。「中は?」と聞くと、「開けてみれば」とだけ返されて、煙が流れないように君下は後ろを向いてしまった。少し迷ったが、その場で紐をほどいて箱を開けて、俺は目を見開いた。紙袋と同じ、夜空のようなプリントの内装に、星のように輝くゴールドの指輪がふたつ、中央に行儀よく並んでいた。思わず君下の後姿に視線を戻す。ちらり、とこちらを振り返る君下の口元は、笑っているように見えた。胸の内から込み上げてくる感情を抑えきれずに、俺は箱を大事に畳むと勢いよくその背中を抱きしめた。
「う゛っ苦しい……喜一、死ぬ……」 「そのまま死んじまえ」 「俺が死んだら困るだろうが」 「自惚れんな。お前こそ俺がいないと寂しいだろう」 「勝手に言ってろタワケが」
 腕の中で君下の頭が振り返る。至近距離で視線が絡み、君下の瞳に星空を見た。俺は吸い込まれるようにして、冷たくなった君下の唇にゆっくりとキスを落とす。二人の間で吐息だけが温かい。乾いた唇は音もなく離れ、もう一度角度を変えて近づけば、今度はちゅ、と音がして君下の唇が薄く開かれた。お互いに舌を���して煙草で苦くなった唾液を分け合った。息があがり苦しくなって、それでもまた酸素を奪うかのように互いの唇を気が済むまで食らい合った。右手の箱は握りしめたままで、中で指輪がふたつカタカタと小さく音を立てて揺れていた。
「もう、帰ろうか」 「ああ……解っちゃいたが、冬の海は寒すぎるな。帰ったら風呂炊くか」 「お、いいな。俺が先だ」 「タワケが。俺が張るんだから俺が先だ」
 いつの間にか膝下まで濡れたスーツを捲り上げ、二人は手を繋いで来た道を歩き出した。青白い砂浜に、二人分の足跡が残る道を辿って歩いた。平常心を取り戻した俺は急に寒さを感じて、君下が羽織っているブランケットの中に潜り込もうとした。君下はそれを「やめろ馬鹿」と言って俺の頭を押さえつける。俺も負けじとグリグリと頭を押し付けてやった。自然と笑いが零れる。  これでよかったのだ。俺たちには言葉こそないが、それを埋めるだけの共に過ごした長い時間がある。たとえ二人が結ばれたとしても、形に残るものなんて何もない。それでも俺はいいと思っている。こうして隣に立ってくれているだけでいい。嬉しい時も寂しい時も「お前は馬鹿だな」と一緒に笑ってくれるやつが一人だけいれば、それでいいのだ。
「あ、星。喜一、星がすげぇ見える」 「おー綺麗だな」
 ふと気づいたように、君下が空を見上げて興奮気味に声を上げた。  ようやくブランケットに潜り込んで、君下の隣から顔を出せば、そこにはバケツをひっくり返したかのように無数に散らばる星たちが瞬いていた。肩にかかる黒髪から嗅ぎ慣れない潮の香りがして、俺たちがいま海にいるのだと思い知らされる。上を向いて開いた口から、白く曇った息が漏れる。何も言わずにしばらくそれを眺めて、俺たちはすっかり冷えてしまった車内へと腰を下ろした。温度計は摂氏5度を示していた。
7:やさしい光の中で
 星が良く見えた翌朝は決まって快晴になる。君下に言えば、そんな原始的な観測が正しければ、天気予報なんていらねぇよ、と文句を言われそうだが、俺はあながち間違いではないと思っている。現に今日は雲一つない晴れで、あれだけ低かった気温が今日は16度まで上がっていた。乾燥した空気に洗濯物も午前中のうちに乾いてしまった。君下がベランダに料理を運んでいる最中、俺は慣れない手つきで洗濯物をできるだけ綺麗に折りたたんでいた。
「おい、終わったぞ。お前のは全部チェストでいいのか?」 「下着と靴下だけ二番目の引き出しに入れといてくれ。あとはどこでもいい」 「へい」
 あれから真っすぐマンションへと向かった車は、時速50キロ程度を保ちながらおよそ2時間かけて都内にたどり着いた。疲れ切っていたのか、君下は何度かこくり、こくりと首を落とし、ついにはそのまま眠りに落ちてしまった。俺は片手だけでハンドルを握りながら、できるだけ眠りを妨げないように、信号待ちで止まることのないようにゆっくりとしたスピードで車を走らせた。車内には、聞き慣れない名のミュージシャンが話すラジオの音だけが延々と聞こえていた。  眠った君下を抱えたままエントランスをくぐり、すぐに開いたエレベーターに乗って部屋のドアを開けるまで、他の住人の誰にも出会うことはなかった。鍵を開けて玄関で靴を脱がせ、濡れたパンツと上着だけを剥ぎ取ってベッドに横たわらせる。俺もこのまま寝てしまおうか。ハンガーに上着を掛けると一度はベッドに腰かけたものの、どうも眠れる気がしない。少しだけ君下の寝顔を眺めた後、俺はバスルームの電気を点けた。
「飲み物はワインでいいか?」 「おう。白がいい」 「言われなくとも白しか用意してねぇよ」
 そう言って君下は冷蔵庫から冷えた白ワインのボトルとグラスを2つ持ってやって来た。日当たりのいいテラスからは、東京の高いビル群が遠くに見えた。東向きの物件にこだわって良かったと、当時日当たりなんてどうでもいいと言った君下の隣に腰かけて密かに思う。今日は風も少なく、テラスで日光浴をするのには丁度いい気候だった。
「乾杯」 「ん」
 かちん、と一方的にグラスを傾けて君下のグラスに当てて音を鳴らした。黄金色の液体を揺らしながら、口元に寄せればリンゴのような甘い香りがほのかい漂う。僅かにとろみのある液体を口に含めば、心地よいほのかな酸味と上品な舌触りに思わず眉が上がるのが分かった。
「これ、どこの」 「フランスだったかな。会社の先輩からの貰い物だけど、かなりのワイン好きの人で現地で箱買いしてきたらしいぞ」 「へぇ、美味いな」
 流れるような書体でコンドリューと書かれたそのボトルを手に取り、裏面を見ればインポーターのラベルもなかった。聞いたことのある名前に、確か希少価値の高い品種だったように思う。読めない文字をざっと流し読みし、ボトルをテーブルに戻すともう一口口に含む。安物の白ワインだったら炭酸で割って飲もうかと思っていたが、これはこのまま飲んだ方が良さそうだ。詰め物をされたオリーブのピンチョスを摘まみながら、雲一つない空へと視線を投げた。
「そう言えば、鈴木からメール来てたぞ……昨日の同窓会の話」
 紫煙を吐き出した君下は、思い出したかのように鈴木の名を口にした。小一時間前に風呂に入ったばかりの髪はまだ濡れているようで、時折風が吹いてはぴたり、と額に貼り付いた。それを手で避けながら、テーブルの上のスマホを操作して件のメールを探しているようだ。俺は残り物の鱈と君下の田舎から貰ってきたジャガイモで作ったブランダードを、薄切りのバゲットに塗り付けて齧ると、「何だって」と先程の言葉の続きを促した。
「あの後女が泣いてるのを佐藤が慰めて、そのまま付き合うことになったらしい、ってさ」 「はあ?それって俺たちと全然関係なくねぇ?というか、一体何だったんだよあの女は……」
 昨夜のことを思い出すだけで鳥肌が立つ。あの真っ赤なリップが脳裏に焼き付いて離れない。それに、俺たちが聞きたかったのはそんな話ではない。喧嘩を起こしそうになったあの場がどうなったとか、そんなことよりもどうでもいい話を先に報告してきた鈴木にも悪意を感じる。多分、いや確実に、このハプニングを鈴木は面白がっているのだろう。
「あいつ、お前と同じクラスだった冴木って女だそうだ。佐藤が聞いた話だと、やっぱりお前のファンだったらしいぞ」 「……全っ然覚えてねぇ」 「だろうな。見ろよこの写真、これじゃあ詐欺も同然だな」
 そう言って見せられた一枚の写真を見て、俺は食べかけのグリッシーニに巻き付けた、パルマの生ハムを落としそうになった。写真は卒アルを撮ったもののようで、少しピントがずれていたがなんとなく顔は確認できた。冴木綾乃……字面を見てもピンと来なかったが、そこに映っているふっくらとした丸顔に腫れぼったい一重瞼の女には見覚えがあった。
「うわ……そういやいた気がするな」 「それで?これのどこが俺の女だって言うんだよ」 「し、失礼しました……」 「そりゃあ今の彼氏の佐藤に失礼だろうが。それに別にブスではないしな」
 いや、どこからどう見てもこれはない。俺としてはそう思ったが、確かに昨日会った女は素直に抱けると思った。人は歳を重ねると変わるらしい。俺も君下も何か変わったのだろか。ふとそう思ったが、まだ青い高校生だった俺に言わせれば、俺たちが同じ屋根の下で10年も暮らしているということがほとんど奇跡に近いだろう。人の事はそう簡単に悪く言えないと、自分の体験を以って痛いほど知った。  君下は短くなった煙草を灰皿に押し付けると火を消して、何も巻かないままのグリッシーニをポリポリと齧り始める。俺は空になったグラスを置くと、コルクを抜いて黄金色を注いだ。
「あー、そうだ。この間田舎に帰っただろう、正月に。その時にばあちゃんに、お前の話をした」 「……なんか言ってたか」
 聞き捨てならない言葉に、だらしなく木製の折りたたみチェアに座っていた俺の背筋が少しだけ伸びる。  その事は俺にも違和感があった。急に田舎に顔出してくるから、と俺の車を借りて出て行った君下は、戻ってきても1週間の日々を「退屈だった」としか言わなかったのだ。なぜこのタイミングなのだろうか。嫌な切り出し方に少しだけ緊張感が走る。君下がグリッシーニを食べ終えるのを待っているほんの少しの時間が、俺には気が遠くなるほど長い時間が経ったような気さえした。
「別に。敦は結婚はしないのかって聞かれたから答えただけだ。ただ同じ家に住んでいて、これからも一緒にいることになるだろうから、申し訳ないけど嫁は貰わないかもしれないって言っといた」 「……それで、おばあさんは何て」 「良く分からねぇこと言ってたぜ。まあ俺がそれで幸せなら、それでいいんじゃないかとは言ってくれたけど……やっぱ少し寂しそうではあったかな」
 そう言って遠くの空を見つめるように、君下は視線を空へ投げた。真冬とは言え太陽の光は眩しくて、自然と目元は細まった。テーブルの上に投げ出された右手には、光を反射してきらきらと輝く金色が嵌められている。昨夜君下が眠った後、停車中の誰も見ていない車内で俺が勝手に付けたのだ。細い指にシンプルなデザインはよく映えた。俺が見ていることに気が付いたのか、君下はそっとテーブルから手を離すと、新しいソフトケースから煙草を一本取りだした。
「まあこれで良かったのかもな。親父にも会ってきたし、俺はもう縛られるものがなくなった」 「えっ、まさか……昨日実家寄ったのってその為なのか」 「まあな……本当は早いうちに言っておくべきだったんだが、どうも切り出せなくてな。親父もばあちゃんも、母さんを亡くして寂しい思いをしたのは痛いほど分かってたし、まあ俺もそうだったしな……それで俺が結婚しないって言うのは、なんだか家族を裏切ってしまうような気がして。もう随分前にこうなることは分かってたのにな。気づいたら年だけ重ねてて、それで……」
 君下は、ゆっくりと言葉を紡ぐと一筋だけ涙を流した。俺はそれを、君下の左手を握りしめて、黙って聞いてやることしかできなかった。昼間から飲む飲みなれないワインにアルコールが回っていたのだろうか。それでもこれは君下の本音だった。  暫くそうして無言で手を握っていると、ジャンボジェット機が俺たちの上空をゆっくりと通過した。耳を塞ぎたくなるようなごうごうと風を切り裂く大きな音に隠れるように、俺は聞こえるか聞こえないかの声量で「愛してる」、と一言呟く。君下は口元だけを読んだのか、「俺も」、と聞こえない声で囁いた。飛行機の陰になって和らいだ光の��で、俺たちは最初で最後の言葉を口にした。影が過ぎ去ると、陽射しは先程よりも一層強く感じられた。水が入ったグラスの中で、溶けた氷がカラン、と立てたか細い音だけが耳に残った。
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yu-katsumata · 5 years
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ひとりの夜を抜け
認めたくはないけどもう秋なんだなと思うこの頃。 すっかり風は快適になり、幾分と過ごしやすくなった。 一番それを感じるのが朝。 あの寝汗がまとわりついた気持ち悪さは、もうない。 そして、明け方の空がとても綺麗だ。
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6月と8月に連続して舞台をやった関係でスローな毎日を過ごしている。 断り続けた飲みにも積極的に参加するようにしている。 やはり夜8時をすぎて向かう繁華街は心が踊る。 渋谷とか新宿はあんまり好きじゃないけど、 帰宅するサラリーマンたちに逆らうかのように向かう都心は煌びやかだ。 で、連日終電もしくは朝まで飲む。 話題の尽きない仲間がいるということはとても幸せだ。 で、舞台を見に行き、家で本を読み、映像を見る。 アウトプットしてばかりだったここ数ヶ月を埋めるかのように ひたすらにインプットを繰り返す。 しばしの休暇が終わったらまた怒涛の日々が始まる。 次の題材をずっと手探りで探っている。 ●ついにスマホを買い換えた
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6年使ったiPhone5s。 君は最高に使いやすいデバイスであった。 しかし、バッテリーが一時間くらいしかもたないのと、 タッチパネルが全然反応しなくなったので、仕方なく。 スマートフォンでタッチパネルが反応しないとか、 もはや持っている意味なし。 修理して使い続けようかと思ったけど、買い換えることに。 世間はiPhone11とかiPhone11 Pro一色ですが、 情報を知れば知るほどAppleの限界を感じてしまう。 目新しさ?何もないだろ。 ハードウェアもソフトウェアも、AppleはiPhone7あたりで止まっている。 まったく斬新なんかじゃない進化。 で、何を必死で売り出してるかというと、まさかのカメラ性能。 冷静に考えるとおかしすぎる。 電話にカメラがついてくる事が画期的だったあの頃はとうに昔。 言ってみればカメラに電話がついてくる時代になった。 しかもそのカメラの性能をプロ機顔向けのようなタレコミで必死で売り出している。 世間はこぞってその「いいカメラ付き電話」に手を挙げて歓喜する。 15万とか20万出して、それをゲットしようとする。 いやいやそもそも電話じゃないのか。これは。 おかしな時代。 おまけに機種名に「Pro」とついているあたり、 仕事で即使えるかと言えばNo。 端から端までがなんちゃって機能で、 「それなり」とか「それっぽい」ものを作るには適している。 僕らが求めているのはこれじゃない。 若者たちの間でフィルムカメラの「写ルンです」が 近年リバイバルブームになっている。 あれはティーンエイジャーからの反逆だと思う。 「それなり」とか「それっぽい」じゃない。本物が撮りたいんだ。 数百万画素とか、そんなのどうでもいい。 ただ一瞬を丁寧に切り取ることにわくわくしたいんだ。 で、僕らが電話に求めるもの。 それはとてもシンプルで、 安く、手軽で、わかりやすい料金体制だけだろ。 絶対にカメラじゃない。 偉そうな事言っておいて、結局何を買ったのかと言うと、 最新機種ではなく型落ちのiPhoneXsを購入。 ドローンを操縦するアプリがあって、スマホでモニタリングする関係で なるべくバッテリーの持ちがよくて、大きな画面が欲しかった。 そう、俺からしたら結局ドローンアプリのためのiPhoneXsであり、 ドローンアプリのための買い替えです。 最初はiPhone7とか8とかももっと昔の機種でいいかなと思っていたら、 なぜかこの機種のほうが安く売っていた。 いろんな人に聞いたらラッキーらしい。 で、速攻で18年契約しているソフトバンクを解約。 購入したiPhoneXsがフリーSimモデルのなので、MVNOに乗り換え。 いわゆる、格安Sim。 もともとソフトバンク時代から全然スマホを使わず、 月5000円くらいだったけど 格安Simなら月1500円〜3000円とかで済んでしまう。 大手通信のほうがそりゃあ安心だけど、何度も言うがこっちが求めているのは、安く手軽でわかりやすい料金体制だ。 シンプルイズベスト。 ●最近食ったラーメン 実際もっと食ってるけど、自分は気に入ったものばっか食う傾向があり、 同じ写真ばかりになってしまうので、重複してるのは割愛。
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夜中にふらっと出かけて食うラーメンの美味さよ。 汗だくだくで食べ終わって、外に出ると包み込む風の涼しさに切なくなる。 深夜の街は静かすぎて、世界が止まっているかのような錯覚。 あとラーメン調べる時は、 ステマと忖度だらけの某大手グルメサイトなんて見ちゃだめだぜ。 ラーメンマニアは黙って「ラーメンデータベース」。通称RDB。(多分俺だけがこう呼んでいる)
ラーメンデータベース
ここはガチだぜ。店に一切気を使わない本音だらけのサイト。 ●先日の話。 今まで行ったことのないラーメン屋に行った。 そこで出会った一人の中年の話。 店に着くと、先客が一人。 ちらっと顔を見ると、 40代後半くらいの中年小太り薄毛という三点セット。 しかも顔をよーく見ると敬愛なる上島竜兵そっくり! この時点で俺の視線はロックオン。 そしてなぜかやたら睨まれる。めっちゃ睨まれる。 どうやら彼は常連のようで、店主にやたら話しかけている。 「あの店は出汁がどうのこうの」、「ここの店は麺がどうのこうの」と、 やたら偉そうに話している。 真夜中に中年のおっさんがラーメンについて熱く語っている。 聞こえてくる会話で腹がひきちぎれそうになる。 気のせいか店主もうざがっている様子。 挙げ句の果てには「俺にラーメン語らせたら長いよ」。 いや、夜中のラーメン屋でラーメンについて長く話す奴がいるかよ! しかも若者ならまだしも、中年!しかも上島竜兵! その上島竜兵が 「じゃあ、てっちゃん(おそらく店主の名前)、今日は半チャーセットで」と 注文していたので、自分も半チャーセットを注文。 ※半チャーセットとは、ラーメンと半チャーハンのセット。 料理を待っている間も その上島竜兵は今度は自分の近況を語っていた。 しかし、ここが問題。 「いやーあれはワンチャンあったね」とか 「気分はすっかりテンアゲ」とか 「こっちだってオコだよ、オコ」とか、微妙に使うワードが若くて、 こっちは笑いをこらえるのが大変。 なにがワンチャンだよ、あんた。上島竜兵。 しまいには、 後から注文したにも関わらず俺の半チャーセットが先に出てきてしまい、 何か言いたげにじーっとこっちを見てくる上島竜兵。 結局ラーメンを食うよりも上島竜兵の一挙一動に注目してしまい 肝心の味を忘れてしまいました。 平日の夜中、ラーメンを偉そうに食べる彼は一体なんの仕事をしているのか、とか 職場ではどんな立ち位置なのか、とか もしかしたら職場でもやたらうんちくを語って、後輩たちにうざかられているんじゃないかとか ずっと考えてしまいました。 退店して、駐車場に向かうと だいぶ型落ちの古い軽自動車に乗り込み、颯爽と去っていく彼の姿。 なぜか俺に向けて、ブオンブオン!と、わざわざ空吹かしをしていた。 去っていく車を見て、なんだか忘れかけていたものを思い出した。 俺が本当に書きたいのはこういう男の話であります。 もちろんティーンや女子を描くのも好きですが、 たまにはスイーツもいいけど脂こってこての家系ラーメンみたいなのも作りたい心理と一緒。 世間の隅っこに追いやられ、自分の居場所を求め、夜のラーメン屋へ。 スナックとかキャバクラじゃない、庶民的なラーメン屋。 店主に自分の近況報告をしながら、 なぜかラーメン作りのアドバイスまでしてしまう始末。 1000円で満たした腹と、会話で隙間を埋めた心を乗せて、 型落ちの軽自動車は空吹かしを繰り返し、家路につく。 若者には負けまいと年下の店主に精一杯見栄を張り、若者言葉を駆使する。 で、後から入ってきた生意気そうな小僧に対してきちんと敵意をアピールしておく。 男とは本来、見栄をはる生き物であり、そこにロマンがある、と思っている。 異性に対して、後輩に対して、若者に対して、そして世間に対して、 おっさんという生き物は一生懸命見栄を張ってなんとか取り繕っている。 弱音を吐いたり、かっこ悪い姿を見せるわけにはいかない。 常に気丈に振る舞うことを強いられるのが、中年の宿命。 それが滑稽に映ったとしても、 きっと上島竜兵はそれすらも知らずにドヤ顔をしているのだろう。 影で笑われているとしてもそんなのつゆ知らず、 のほほんと生きているのだろう。 20代そこそこの若者からしたら「だせーな」と思うかもしれないけど、 男として若さを失った時、そこからが勝負なんだぜ、そこからが本当の勝負なんだぜ。 いや、実際俺も20歳くらいの時にあの人に会っていたら 「ああいう大人にはなりたくねーなー」と思ったと思う。 でも、40を手前にした今の俺には、なぜか眩しく見えてしまう。 そういうもんなんだぜ。 世の中には、中途半端に見栄を張って偉そうにしている大人で溢れている。 金にものを言わせたり、人脈をやたら見せびらかしたり。 そういう人種が求めるのは結局、金と名誉と女だ。 この3つの前では、見栄は簡単に崩れ去る。こっちのがダセーだろ。 彼らが求めているその3つに俺は同感できない。まぁそれだけの話。 だから俺にとって、 繁華街とは程遠い神奈川郊外の深夜のラーメン屋で 金も名誉も女っ気もな���そうだけど、なぜか偉そうに振る舞う男が眩しく映る。 彼が求めているものに対して100%同感できるからだ。 軽自動車で空吹かしなんて、中学生の発想だし、 注文したものが前後されただけでじっとこっちを睨みつけるなんて、 大人気なさすぎる。 しかしその人間味が溢れた一挙一動には嘘がない。 かっこつけようとしているのかもしれない。 しかし結局のところ、まったくかっこよくない彼をとても愛おしく思ってしまう。 いつか映画や演劇などで、 「深夜のラーメン屋で偉そうに店主に話しかける男」が出てきたら、 彼をモデルにしたと思ってください。 軽自動車で空吹かしなんかしてたら100%彼です。
「俺にラーメン語らせたら長いよ」 またどこかであのセリフを吐いているのだろうか。 軽自動車は今日も夜の街を走っているのだろうか。 見栄と意地と、男のロマンを乗せて。
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ひとりの夜を抜け、俺もおっさんも、そして君も。 必ずどこかにたどり着く。
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doanob1 · 5 years
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あいちトリエンナーレに行ってきた
あいちトリエンナーレに行ってきた。
夏休みにどこか行こ。電波の入らない離島に行って(コナンくんが来たら死ぬだろうな〜)って想像するのと、大阪に行って昔から興味があったみんぱくに行ったり美味しいものを食べたりするのとどちらがいいかな、と考えていた。
ぼんやり色々考えているうち、名古屋在住のフォロワーさんが東京に来た時、「ご飯を一緒にどうでしょう」と連絡をくださった(とてもうれしい)。そうして一緒に食事をしたりお散歩をしたり、なによりたくさん話したりした。
そして後日、その方が「自分の目に新宿がどう見えたか」を文章にして公開していて、これが新鮮で面白く、今思えばこのとき自分が見たものを書いておく・公開するってことの魅力にちょっと興味を持ったのだ。
今回私が名古屋に行って、また同じ方とお食事をしたりおはなししたりしたのだが、今度はその方の絵日記を少し見せていただいて、これもとても素敵だと思ったのだった。
私はいま新宿に住んでいるが、ここに住んでいるといろいろなことがわからなくなると思う。こんなにオリンピックの看板が出ていること、地下鉄で窓の代わりに光るモニターの広告、そうしたものにもう慣れてしまった。「こんなにオリンピックの広告がたくさんあって驚きました」と言われ、はじめて、「そうかこんなに広告があるのは異常だな」と気づいた。
自分が立っている場所のことは自分では見えない。だから、他の人と一緒に自分が住む街のことを聞いたり話したりすると、新鮮で面白くて、自分がどんどん鈍くなっていることを知って恐ろしい気持ちになる。
むかし、地方の天候不順や災害のニュースを見たとき、「今年は野菜が高くなるわね」と言った人がいた。私はこれを聞いて(地方はお前の畑じゃないぞ、住んでいる人間も誰かの生計もあるんだぞ)��思ったものだが、だんだん、私は都市の生活に慣れて、こう言いはなつ人間になってしまう気もする。
近しい人間に「私がこういう無神経な人間になったら頭を打ち抜いて欲しい」と頼むのは、半分冗談で半分本気だ。私が無神経な人間になってしまったとき、自分ではそれと気づくことができないだろうから。ゾンビのように、生きているように動いてももう人の心もなく、ただ他人にかみつこうとする存在はいくらでもいる。じぶんがそうならないなんて言い切れない。
旅行先は愛知にしよう、と決めたのはこのときだ。
ちょうどこの頃、あいちトリエンナーレに対しての脅迫が連日報道されていて、わたしは脅迫する側の気持ちがまったく理解ができなかった。ただ少女が座っているだけの平和的な像が「反日」で、戦時下の性暴力に反対する行為が「国に対する侮辱」?いまでももちろんまったくわからない。でも、いずれ私も彼らのような振る舞いをしないと言い切れるだろうか?この国は貧しくなりつつある。来月から消費税は大幅に増え、生活は確実に苦しくなる。その状況で心まで貧しくならないなんて言い切れない。いずれ私もゾンビになるかもしれない。
隣の国でも、遠くの地方であっても、どこであっても人間が住んでいることを忘れていたくはない。が、いずれわからなくなってしまうかもしれない。
私が毎日なにかを書いているのは、漂流中の人間が書く航海日誌のようなものだ。たったひとりで暮らしながら、正気を確かめながら書く。 書いている途中に、自分でも気づかないまま、もう人の心をなくしてしまうかもしれない。 そのときに、昔の自分が書いたものを読んで、少しでも思い出せればいいと思う。 これから書く旅行の話も、いずれ自分がゾンビになってしまったときに、人間(だった時代)を思い出すために書いていた日記をまとめたものであって、もともと公開するつもりはなかったがせっかくなので載せておく。冗長な描写が続くが元が個人的につけている日記なのでご容赦ください。
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1日目。 7:30にバスタを出て13:30にささしまライブ着。 今回はバスで行ったんだが、名古屋市内に近づくにつれて巨大な船舶が泊まる港が見え、整然と並ぶ輸出用の車が見え、そして現実味の希薄な原色のレゴランドが見え・・・という光景に妙な感慨を覚えてしまった。その後バスが走った市街地でも、看板が大きかったり(走る車からでもよく見えるようにだろう)、店の規模も駐車場も大きかったり、そもそも道路自体が大きかったり、車社会を感じる。この車社会・そしてトヨタとの関係は、トリエンナーレを巡る今回の旅程を通して実感することとなるのだが、それはまた後ほど。
ささしまライブに着き、ホテルまで歩いて荷物を預けて、名駅地下の適当な店で味噌カツを食べる。「味噌カツを食べた」という事実が欲しいがために適当な店に入ってしまったのだが、味噌カツ、高級なソースかつみたいな味がした。駄菓子のアレ。私が貧乏舌なのか、その店に原因があるのかは永遠の謎。
ホテルは安さだけを重視して選んだら「オーバールックホテルからオシャレさと清潔感を抜きました!」みたいなところだった。ホテル名をグーグルに入れると「(ホテル名) 幽霊」とサジェストされる。きっと実際に何かしらの事件があったんだろうな・・・怖くてクリックしてないけど・・・まあ泊まってみたら双子の幽霊も血まみれエレベータもなかったからヨシとしよう・・・。立地は名駅西側のところで、周りも水商売のお店が多く、あとで「西側は治安悪いところですよ」と言われる。新宿にも水商売密集地帯はあって、年季の入った建物の感じや路地裏の感じは似ているが、同じ古い風俗街でもちょっと印象が違うなと思った。新宿の場合、建物自体は古くとも、店の入れ替わりが激しく看板だけは新しかったりするのだが、名駅西側のあたりは「昔からあるのだろうな」というフォントの大きな看板が目立ったからだろうか。
そしてこの日は月曜日だったんだが、月曜はトリエンナーレ全体がお休みなのを忘れていて一度円頓寺会場まで行ってしまったよ。あほ。ホテルに引き返して、持ってきた仕事をしたりごろごろしたりしてたら夜。
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円頓寺の通り。
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円頓寺のかっこいい佇まいの一例。
夜。フォロワーさんと円頓寺で待ち合わせてご飯に行く。「連れて行きたいお店があるんですけど怖いおばあさんがいて・・・お酒を頼まないと怒られるんですよね・・・私はお酒が飲めないんですが、のぶさんお酒飲めますか?飲める人がいないと行けないので・・・」と聞かれたので元気よく「飲めます」とお答えして連れて行ってもらう。連れて行ってもらった先の居酒屋さんは、手の跡が残っているような木でできた煤けたたたずまいであった。店内から曇りガラス越しに見える通行人の影が、舞台装置のようでとてもよかった。通行人の影が傘を差しだして「あ、雨が降り出したんだな」とわかる光景。演劇の演出のようだった。
どて煮と手羽を食べ「これでナゴヤ飯を食べたと言えます」とフォロワーさんから太鼓判をいただく。やったね!「お酒飲んでもらってありがとうございます」とも言われ、(お酒飲んで褒められるなんて生まれて初めてだな!甘やかされてる!)と思った。
このお店で、隣り合わせたおじさんに話しかけられ、手羽からを食べろと渡されたり無視しても声をかけてきたりしたんだが、なんだかすごく寂しいおじさんだな、と思った。お店の人に「飲み過ぎだ、帰った方がいい」と言われても「帰ってもすることないねん」と答えていて、なんてさみしいひとなのか・・・と思ったのだが、この翌日、私ひとりで食事に行ったときも似たようなおじさんにまた話しかけられるのだった。この話も後述。
居酒屋さんのあと、ベトナム料理屋さんに行って、チャーっていうあのあまいやつを飲む。フォロワーさんと政治の話や芸術の話をたくさんできてうれしかった。SHERLOCKをきっかけに19歳からTwitterをはじめてもう八年経とうとしている。現実で出会っていたとしたら、こんなにいろいろな話をするまでに多くの時間がかかるであろう人とも、いやそもそも出会っていないであろう人とも、こうして会って食事をして政治の話をできることが不思議だ。
Twitterがあってよかった。
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2日目。
八時頃ホテル出て電車で名古屋城へ。 名古屋城、堀の幅が広くて深くてびっくり。整然とした石組み。お城へ行く道々に、忍者のかわいいお菓子がたくさん看板に載っていた。 この日は天守閣に入れず、本丸御殿に行ったのだが、本丸御殿だけでも十分満足してしまった。ゴテゴテしているわりに、描いてある鳥獣は間が抜けてたり廊下は異様に質素だったり、全体を通すと上品に見えるのが不思議。ネコ科の動物大集合のお部屋と金具のリスがよい。天井がきれい。質素な廊下を抜けるとキラキラ豪華絢爛な空間が現れて、森の中の滝やお寺みたいだ。
以下は本丸御殿の内部。これはネコ科の動物づくしという素晴らしいテーマのお部屋。トラやヒョウやジャコウネコがいるよ!
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ネコ科のお部屋パノラマ。
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↑これは鳥のお部屋。写りが悪いけれども鳥が色々描いてある。
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金具のリス。
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綺麗な天井。
帰りがけに忍者がいた。「よく参った!」と言われて笑ってしまった。名古屋城は忍者がおもてなししてるのね。そういえば昨日はフォロワーさんから「おもてなし武将隊」というライトな観光アイドル的なものも教えてもらったのだった。 私はいつも旅先からお手紙を送るのだが、ジャコウネコとや虎のポストカードを買ったので、明日、フォロワーさんに教えてもらったキッテで発送しよう。名古屋にもキッテがあるらしい。 ポップオーバーというお店でお昼を食べて移動。芸術文化センターへ。このあたりから暑さと日差しが辛くなってくる。 名古屋は車社会で道路が幅広な分、簡単に横断できず、歩道橋や立体通路や地下を経由する必要があってちょっと移動が大変。見えてるのに簡単にいけない感じがRPGっぽい。まあ近くなのに移動が面倒、という点に関しては東京もよそのこと言えないか・・・。
芸術文化センターの展示について。
慰安婦像の対応をめぐり、作家さんの意思で展示中止措置が行われたため、見られない作品も数多かった。その一連を報道した新聞で全体が覆われて隠されている作品もあった。
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これらの新聞記事は全て慰安婦像に対する抗議とその対応を書いた記事が載っている。
ウーゴ・ロンディオーネのピエロの作品、造形のみならず薄くて伸縮性のある布が表面を覆ってる感じとマスクの塗装が超リアル。入った瞬間ぞくっとした空間。でも、彼らの間を歩くうちにだんだん親しみがわいてくる。愛嬌のある一体、自分に近い一体を見つけていって、部屋を出る頃には最初の小さな戦慄がなくなっていた。
ペルーの作品は展示していなかった。クラウディア・マルティネス・ガライのやつ。見られなくて残念。とても興味深いディレクションが記してあったので。
あとラテンルーツの人びとがパーティする映像も公開されてなかったけど、暗い空間の中に残されたパーティグッズのもの悲しさそのものがいまの事態に対する静かな悲しさを示した展示のようだった。
石場文子の作品は自分のパートナーを思い出した。一部がマジックで強調してある日常の風景を移した写真。一見ただの写真に見えるが、一部が人為的に強調してあるので、ぱっと見たときに違和感があって詳しく見ていくとそれがだんだん明らかになってくる。 あれは本人/当事者たちにしかわからない「思い出」「時間」を強調して可視化しているのかしら。 人と暮らしていると、ただの日常の道具や風景でも、私たちにしかわからない特別な意味が生まれてくるものだなーと実感しているので、(おそらく)誰かと暮らしているのであろう風景をあのように表現した展示に自分たちの暮らしを思った。
永田康祐の三つの料理の映像は、レヴィストロースの料理の三角形論と、ローストビーフの由来を持たないローストビーフ(分子料理)のところがすごくすき!なるほどと思った! 私自身の住んでいる場所が多国籍な地域なので、いろんな国の料理屋さんに入った時のメニューを見ている感覚を思い出した。メニューに現地の文字による原語名と、日本語に翻訳した言葉が載っているけど、例えばタイ料理屋でも中華料理屋でもミャンマー料理屋でも日本語では「チャーハン」って書いてあるものがあって不思議だったんだ。日本語にするとそれが一番伝わりやすいからこう書いてるんだろうけど、実際葉もちろんそれぞれ別物なわけで、頼んでみるまで実際のものがわからないドキドキ感も思い出した。
田中功起の四人の家族の物語は自分の仕事や生活と重なる部分もあって、とても興味深かった(職がバレるので感想は割愛)。ただ、映像はいいと思ったけどドローイング部分がちょっとよくわからない。
伊藤ガビンのプロジェクションマッピングは、ちょっとネットノリな感じのギャグの部分と、揺れるカメラや遠近感を表現したような部分とで好みが分かれそう。私は後者の部分が好き。鉄骨のなかを降りるような映像が、ゴーグルをつけない空間VRって印象。
ヘザーデューイハグボーグのDNA再現は、過去の遺体を再現するような(アイスマン等)のロマンもあって怖さや気持ち悪さのみでない魅力も感じる。あとやっぱガタカを思うね。かつてここにいたけれどもういない人の痕跡をたどっていくのは、歴史や捜査ドラマのようで、少しわくわくするよ。
ガラスのドローイングは異様な奥行き感があって、「なんでこんなに立体的に見えるんだ?」とうろうろして眺めてしまった。ガラスに書いているという構造だけではなくて、直線と曲線を組み合わせているからあれほど立体的に見えるのだろうか?立体的に見える最大値を全部計算して書いているんだとしたらものすごい手間だ。
「その先を想像する」の大量の単純な映像、見ているうちに恐怖や怯えの予感に身構えてしまうような感覚を覚えた。殴られる前に身構えてしまう予感というか。例えば対面した相手が手を上げれば殴られると思って身構えてしまうが、それはある程度自分の学習に基づく予測なんだな、と考える。
「10分の遺言」日本的というか世界系というかエモい系というか、今回一番サブカル的わかりやすさを内包した作品だったなと思う。十分の時間制限をつけて、ネット上の不特定多数から「死ぬ前の文章」を収集してる作品なんだが、完成した文章そのものではなくそれを打ち込んでいる過程を映像にしてすべて流してるのね。削除したり、カーソルを戻したり、言葉を選んでいるのかためらったり、そういうての後を全て映像で記録して流している作品。映像キーロガー的なシステムはとても興味深かった。ああいう形で人が文章を書くのを記録できるのね。
ステルス機の白い枠線は、事件現場の死体をかたどった白い跡のようだった。(これが落ちてきたらみんななくなるんだろうな)とか(見えないけどいまも頭の上にあるのか)とか、DNA再現の展示でも感じた「痕跡の再現」を思った。
シルクスクリーンを一万回繰り返したやつ、3Dプリンターと同じ構造だけど遙かに手のにおいがするところが、アナログとデジタルの交差点という印象。
誰もいない台湾の町を延々とるやつ、ゾンビ映画の冒頭のようだった。(「28日後・・・」の全裸キリアンマーフィです)映像を見てから作品撮影の背景(軍事的な訓練のため誰も外出しない日であるため、街が無人)を知るとそれも含めてさらに映画的な印象を受ける。爆発する遊園地のほうは、ループものの作品のようで、まどマギを思った。
リングホルトの大きな時計は裏の構造が簡潔で理解しやすくてよい。ずっと見ていられる精神安定作用がある。
ガラスの箱を段ボール箱に入れて、輸送中に破損した実物を展示しているやつ、「これしか壊れないのか!」という驚きがあった。空輸であれだけしか壊れないなら御の字では?なにも梱包せずあれだけの損傷にとどまるのか。
空港のX線で現像した写真の展示は手法に納得し、中身に戦慄した。シリア大使館の荒れ果てた内部だったのか。見ることにできないはこの中をX線で現像して見せている。映画「アルゴ」の映像を思い出す。
木版画の巨大な虫たちの絵は、古代から伝わる壁画のような荘厳さがあった。神話的だ。細部まで書き込まれていて好み。
手にインクで番号を押すやつが閉鎖されていて残念。フォロワーさんが「国際的にも有名な展示で、匂いがするんです」と教えてくださっていたので期待していたんだけど、匂いって「涙を流させる仕組み」のことだったのか。涙を流すべき事態にも泣かない人間のための装置、という説明があった。香港のデモの催涙弾使用のことを連想して、この作品が展示中止されている事態と香港の事態は地続きだなあ、と思い至る。
写真の中の謎の物体を調査するやつは、ちょっと構成がわかりづらくすぐ移動しちゃった。あんまり立ち止まってみられる感じでもなかったのが残念。
ミリアムカーンの美しい青、実に美しかったが、難民というテーマとあの人の他の作品と並べられていると異質に映ってしまう逆転現象。
キャンディスブレイツの「ラブストーリー」は、六人の難民の抱く壮絶な背景に圧倒されると共に、役者のスキル、そして人間の持つ先入観について見事に表現していると思った。俳優さんの演技力がすごい。すごい。「本物」の難民が持つ、どこか意識が遠くにいるようだったり少し曖昧だったりといった要素が剥ぎ取られて、説得力を与えるようコントロールされている役者の演技の方が「本物っぽい」矛盾。面接やなんかにも通じると思うが、よりそれらしい、本物っぽくみせる技術はお金を払ってまで習得するスキルとされている。でも、それを「見ている」側のジャッジってめちゃめちゃ一方的だ。それにしても役者さんの演技がすごかった。表情も仕草も言葉も間合いも、あんなにコントロールできるものなのか。どう見えるか・どう見せたいかを完璧に解体しそして表現するまでが役者の能力なのかと思うと、途方もない仕事だ。
このあと名古屋市美術館に移動。あつい。顔が溶ける。ヒースレジャーのジョーカーみたいになる。退館した後で気づいたけど、国旗が印刷された野外のゴミ袋も作品だったのか。オシャレな袋がかかってるゴミ箱だな~としか思ってなかった。
空から垂れ下がるオーガンジーの刺繍、一見ファンシーで商品のような明るい魅力があるけど、DNA構造に基づき一対になっているデザインや作品背景に気づくと深みが増す。シャーレの構造もそう。清浄で真っ白な空間と生命を生むシャーレが病院のような斎場のような雰囲気だった。
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陶器の展示、とても面白かったー!陶器としてのデザインと、静物や風景が立体化しているあの作品群は、今回のトリエンナーレでもっとも万人に通用する明確な魅力があると思った。いつまでも見ていられる立体的なだまし絵のような発想、繊細な古典的表現!わたしにとっての付喪神ってこんな感じだな。あと刀剣乱舞。山口晃さんの作品への好感につながる魅力を感じる。
いっぱい写真撮っちゃった〜。
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モニカメイヤーのピンクの付箋の作品、すでに書かれたものを破ったのではなく白紙のものを破ったのか。もはや書くことができない、声を上げられないという状況の表現。新しい作品表現。視覚的に痛々しい光景だった。
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ホドロフスキーの展示。 ホドロフスキーが考案したという心理療法を実践する様子をおさめた記録映像と、書簡、そして小冊子の三点で構成されている展示。 映像のなかでホドロフスキーの指導のもとセラピーを受けているのが白人ばっかりで驚いた。 ビートルズにしろホドロフスキーにしろ、芸術分野がスピリチュアルな組織構造と結びつくのはまったく珍しくないけど、広々とした古典芸術的な劇場の中で白人だけが集まって手を繋いだりトランス状態に陥っているのはちょっと異様な光景である印象。
人工授精と刺繍の展示。私はこれが今回一番よかった。 18歳の時、自分が人工授精で生まれたことを知って、史上初のクローン羊・ドリーに関心を抱いて実際に海を渡って取材したり、出産や育児について表現したりしている作家さんの展示。 ドリーが生まれた街の写真が拡大されて一面を覆っていて、その上に金糸銀糸のきらきらとした刺繍が施されていて、部屋の中央には人形の家のような小屋があり、内部を除くと家庭的な居間が見える。展示場所やその居間の中や至る所に、ゾートロープによるアニメーションで羊や作者自身の姿がゆっくりと回転している。 18歳の時に自分が人工授精で生まれたと知って以降、「幼い頃からの過剰な愛情が理解できた」「女である自分もいずれ出産することを期待されている」と書く作者の言葉に、私は今回のトリエンナーレの中で一番心からの共感を覚えた。 今回は「しんかぞく」といい家族や出産に関わる展示が多く見られたが、これも津田さんによる「男女同数の作家を呼ぶ」取り組み成果だと思う。
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部屋の壁の前面を覆う刺繍の様子。
知らない言語を書き取る様子を撮った映像作品では、言語の学習過程や異国になじむ過程のようだと思った。まったく知らない音や言葉を、すでに自分の中にある言葉で置き換えて咀嚼しようとする行為。学生時代に語呂合わせで英単語を覚えようとしたことや、自分の素地になんとか近づけて多言語を習得しようとしたことを思い出した。これもまた「異国に生きる」ということとつながっているんだな。
GIFの繰り返しの展示、ヨシキさんがトークイベントでよく紹介してくれたyoutube動画のようで、映像式現代版ドラッグのようだった。ずっと見てしまう。
終盤に、愛知県内の小学生とともに作った段ボールのお部屋があって、それが細部までずっと見ていられる空間だった。
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入り口を入ったところ。
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種々のダンボールから切り取ったらしきロゴが貼られたボード。これを作った子はロゴやフォントに興味があって気になって作ったのだろうか。
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おそらくシャチホコ。尻尾の表現が好き。
ここまでの展示は会場が美術館だったので、トリエンナーレの作品以外にも美術館の常設展示が観覧できた。この常設展示で裸婦像が多く展示されていたが、男女同数を実現し差別に関する問題や出産・育児についても多く扱っているあいちトリエンナーレと対称的だ。古典芸術世界における、女性の客体化と、それに対する問題提起としての現代美術。女性の意思を扱っているトリエンナーレ作品がある一方で、美術館の常設として古典的な裸婦像が山ほど飾られている部屋という、その対称性も象徴的だった。
ほかにも、常設展示では、児童文学の挿絵のような、会社に絡みつくドラゴンの像もあってこれがおもいがけず大好きになってしまった。紙幣=消費者から得た金で作られた、大量生産品を扱う会社とドラゴン。よく見ると窓や道にそれぞれ人間がいる。窓の清掃員やビルから現れる作者自身。ロアルドダールやティムバートンの作品のようだった。
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ここで円頓寺へ移動。あつすぎる・・・
一丁目長屋の中の古い写真を拡大したものは、祖父母のことを考えずにはいられなかった。祖父母のこうして誰かの持つ写真の中に背景として映っているのか。私の誰かのスマホで撮った写真に映り込んでいるのか。祖父母のことが大好きなんだけど、誰かのアルバムのなかでこうやって残っていてくれたらいいなと思うよ。ちょっとでも。
葛宇路は発想が好き。きっとこうやって生まれた道ってたくさんあるんだろうな。昔から。勝手に公共空間に作用していく人の行動が面白いと思う。古代から道の名前ってこうやって決まってたんじゃないだろうか。人の名前も、町の名前も。
移動する洋品店の展示も祖母を思わずにはおれなかった。それとここに限らず、展示場所が超狭い雑居ビルの二階だったり、趣ある巨大な古いお屋敷だったり、距離は大して離れていないのにまったく異なるのが面白い。異世界感。
弓指さんの、自動車事故の犠牲者である小学生六人をモチーフにした展示は、超車社会でトヨタ車がたくさん走っているのを見てここまで来た身からするとチャレンジングな展示だと思った。毒山さんの映像の中でも「トヨタ王国」「愛知からトヨタがいなくなったらやっていけない」との言及があったし。途中で運転席からの景色が見える展示構成がよい。
毒山さんの展示、おそらく私の祖父母と同年代の人びとの映像だが、その老人がいまでも子どもの頃に殴られたり屈辱を受けたりした経験を泣きながら語る様子がつらくて、見ながら泣いてしまった。いまでもこれを書きながら泣いてしまう。今回の展示のなかで唯一泣いてしまった作品。自分たちの祖父母だったら、と思うとつらくてつらくて仕方がない。 本人たちは「いい教育だった」と言っていても、それが本心だとは限らないし、それを疑う余地もない教育を施されたのだろうし、いまはもういない彼ら自身の父母の世代はどれほどつらかっただろうと思う。
円頓寺は最後に寄った伊藤家住宅がすごくよかった。中庭の感じとか蔵と蔵の間の空間の怖さとか。津田美智子の作品は不具合で見れなかったけど、蔵の中の岩崎さんの作品は緻密ながら空襲後の世界を思わせる光景で見入ってしまった。燃えた家財道具と建物と炭。どこかに通じる橋のような構造物がすき。三人しか入れない極小空間という処も含めて、秘密基地のような、子どもの頃にしか出会えない何かが住んでいる空間のような、魅力的な展示だった。
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全て炭で作られた作品の様子。
ゆざーんの演奏は、修行というのでもっと簡潔で寺院っぽい空間を想像していたら地下にあるライブハウスみたいなカラフルな壁画があってちょっと意外。タブラの音ってきれいだ。
ホテルに戻って、外食しようと思って外に出たらまたもや知らないおじさんに話しかけられ、「明日は絶対外に出ないで何か買い込んで宿で食べよ・・・」と堅く心に誓う。
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三日目。
朝起きて九時くらいまで昨日の日記書く。ポメラ毎日使ってるけど買ってよかった。旅行先でもいつもと変わらず書けるしバッテリーの持ちが最高。
チェックアウト後キッテへ。ハガキを発送して名古屋駅から東山線で栄駅、舞鶴線に乗り換えて豊田市駅へ。ホテルに荷物を預けて喜楽亭へ。
喜楽亭は建物自体も面白かった。料亭のようなことをしていたらしい。お寺のようだった。古くはあるけど清潔で使い込まれた空間。進むにつれてだんだんと輪郭や映像の出典がわかっていく構成と建物がよく合っている。映像の書簡形式。特に二階の構成がよい。日本のアニメ・漫画作家による二次大戦中のプロパガンダ作品と、それらが彼の記念館に収められていないこと、そして彼自身も特に後悔はしておらず「また政府から要請があったら同じことを行う」「国民としての責任を果たした」と語っている映像。そして、小津安二郎と彼の作品について論じ、作中の幼い兄弟が「大きくなったら軍人になりたい」と語っている映像とプロパガンダアニメが同時に背景に映り込む演出は素晴らしかった。小津安二郎の墓に「無」と刻んであるのはこの展示ではじめて知った。奥の巨大なプロペラの展示は舞台装置っぽい。カタカタ鳴る装置も舞台演出的だ。
ここから豊田市美術館へ。激坂のぼるの熱くてつらかった・・・。
美術館のレストランでお昼ごはん。
空から落ちる花が開くような展示は、みんなが上を見上げたり床に寝転がったりしながら作品を見て笑って話している空間自体が好きで、ずっと見入ってしまった。シャーレの展示もそうだが、美術館の広くしろい空間になにかが上から下がっているって独特の非日常。
豊田市美術館から歩いて近くの高校のプールの展示を見る。これもフォロワーさんから「友人がとても褒めていた」とのお話を伺っていたので期待して向かう。 実際に目にすると、青空にプールと廃校と夏の濃い緑、というのがすばらしい。エモい。バンタンの撮影に使用して欲しい。私はスクールもの時代のバンタンが好きだ。 垂直に立ったプールの壁面が真っ青な空に伸びている、という、飛び込みや空に落ちること・そしてもしかしたら飛び降りを連想させる光景がとてもよい。バンタンの撮影に使用して欲しい(2回目)
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青ずぎる空と校庭と合成のような鳥居が異世界っぽい。
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豊田市駅に移動して、架空のトヨタの遺跡モニュメントの展示三点としんかぞく(レンタル家族)を見る。 しんかぞくは正直、「実際に死産を経験したり子どもを失っている人から見たら残酷すぎる」と思った。流産を扱うことそのものを問題視しているわけではない。テーマパークという形にして、「エンターテイメントとして見せていること」・そして「実際に死んだわけではない想像上の子どもを作り出して、(おそらく)本物の水子と一緒に作品の題材にしていること」がちょっとひどいと思った。水に流す演出の意味や、最初に押すキーボードの意味などは「なるほど」と思ったけれど、原宿の店先に並んでいそうなポップな色合いで作品にするにはあまりに敬意がないのでは。 架空のトヨタの遺跡を再現する展示、発想と映像のなかのとってもうさんくさいおじさんのインパクトが強烈。最初あの胡散臭おじさんが作家さんかと思った。人為的に作られた出土品を見ているのが楽しく、また、「現実にも出土品を偽造していた考古学者がいたけど、こういう感じだったのかな」と想像を巡らせた。
なにかを売り出したいときや権威づけたいときに、古くからの神話や土地の歴史に絡めるのは常套手段だけど、これは逆にトヨタ神話を皮肉っているようでもあって、単純な「この土地と切っても切り離せないトヨタ」を礼賛しているわけではないと感じる。
アンナヴィッテのトヨタのダンスの映像も同じことを思った。あのダンスの映像は発想がとても好き。(明言はされていないがおそらく)トヨタの工場労働者たちを集めて複数回お互いの仕事について話し合う様子を撮っている。彼らは流れ作業で部品の点検等単純な労働に従事していて、「これから自分たちの仕事はどうなるか」「仕事は楽しいか」「なぜ仕事をしているか」といったことがらについて各々の意見を述べていく。そして、彼らが毎日繰り返している仕事の動作を再現してもらい、それを元にダンスを作り上げる。彼らが踊る映像と、自動制御のロボットがラインで単調な動作を繰り返しつつ車を作り上げていく映像が流れる。
ホテルに戻り、もうおじさんに話しかけられたくないなと思ったのでトヨタ駅近くの松坂屋地下でご飯を買って部屋で食べる。文章を書いて本を読んで眠る。
------------------------------------------------------------------------------------------- 四日目。 六時に起きてご飯食べてこれの下書きを書く。 チェックアウトして東岡崎駅へ。閑散とした駅にタピオカのスタンドがあり、まったく繁盛していないのを見て諸行無常を感じる。おごれるものは久しからず。高速バスでバスタへ向かう。 バスに乗ったら顔を覆うシェードがあった。はじめて見た。しかし使ってみると超快適で爆睡。隣の人の顔が見えない、見られないってこんなにもノーストレス!
いい旅行だったな。
街の中、しかもこれほど複数の場所に点在したトリエンナーレに初めて行ったので、土地と干渉し合う作品鑑賞も初体験で多く発見があった。
まず、炎天下を歩いて回って、歩く道々で見る建物や風景や、だんだん暑くてボーッとしてきたころ突如現れる作品や、全て込みで作品のようだった。特に円頓寺は一区画入ると全く趣の異なる建物・作品が現れて、街の中に潜む異世界をめぐるようであった。
そして、トヨタに関わる作品も数多くあって、トヨタの影響が色濃い街を歩く中でそれらを鑑賞して「これはこの土地で見るからこそ意味があるな」と思った。単純にどこか別の都市の美術館に全部入れていてもこんなに意味合いを考えたりしなかっただろう。
バスに乗って愛知に来たとき、ミニカーのように整然と並ぶ大量の車や、輸出入の船がたくさん止まる港や、突如現れるレゴランド、幅の広い道、超車社会、等々を見て「あートヨタのちからよ…」と思った。事故の犠牲者6人を追悼する作品で「加害者、被害者、クルマ」を提示していて(トヨタのお膝元でやるにはチャレンジングだな)と思ったけど、酔客にグローバル企業のロゴをかぶせる映像展示では「トヨタがなかったら名古屋はやっていけない」と行ってたり、豊田市駅の展示では架空のトヨタの遺跡を発掘する展示があったり、そしてその会場に向かう駅の歩道には「交通死亡事故一位の汚名返上!」という(展示ではなく警察やトヨタによる本物の)巨大な横断幕があったり、街中を巡ってみる展示だからこその効果を感じた。街中を歩いて車社会を実感しながら作品に会いに行き、そしてその作品たちが相互に作用していく体験が初めてのもので、「自分の目が変わっていく」過程が新鮮だった。土地を体験した自分の目が作品に向ける眼に影響していく。人間はどんどん変化していくけど、これほどの短期間で明らかに変わっていくのがわかる体験は、あいちトリエンナーレの素晴らしい強みだと思う。これからいく方にはぜひ、なるべく多くの作品を歩いて巡ってみてほしい。
それから、私が道中でさびしいおじさんとフェミニズム作品について。1日目二日目と、夕食を食べに行ったら知らないおじさんに声をかけられ、うんざりして三日目はビジネスホテルでもそもそご飯を食べたのは前述の通り。はっきりいって不愉快だし、心底不快だけれど、それ以上に「この人たちはさびしいんだろうな」という気持ちが先に立った。これは愛知に限らず、東京でもあまた経験しているので、今から書くのは今回の旅だけではなく普遍的な話。
旅行先で食べてみたいものがあっても、おじさんに話しかけられると思うとうんざりする。男の人ならどこでも好きなところへ好きなものを食べに行って、話しかけられて嫌な思いをするかもなんて微塵も考えないのかしら。ここでわたしが「旅行先で隣になった人とめっちゃ盛り上がった笑笑笑!おごってもらった笑笑笑」って書くタイプならむしろ旅のいい思い出になるだろうし、「こう感じるタイプの方が生きやすいんだろうね」、って話はフォロワーさんともしたけれど、私がこうやって知らないおじさんに話しかけられてめちゃめちゃ不愉快になるのは、「さみしい」という気持ちを検知するからだと思う。たまたま隣に座った私に話しかけ、少しでもさみしさを埋めたい、というのは侮辱ではないのか。一方的に話したり、相手が立場上・性格上反論できない局面で話を押し付けたりするひとってめっっっっっっっちゃいる。
私は今回のフェミニズム作品、そして作品中止に至るまで作家さんの行動の一連も根本は「対話を行わない」という侮辱に対するものだと思っている。一歩的に作品の撤去を求めること。それに対し、作家さんたちと十分な対話を行わず、実際に撤去をしたこと。
侮辱されている、舐められている、と察知する能力は人間にとって能力だなmと今強く思っている。このまま私は進もう・・・
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2019年・夏【往路】
【はじめに】
8月9日、仕事を片付けて帰宅。さて、明朝から旅に出るぞ!と、上機嫌に洗濯を回していると何やら・なぜか・何かがおかしい。アマゾンプライムで流していた「いろはに千鳥」の音が急に消えたのだ。アレ、アイフォンで流してるはずだけどな?そろっとアイフォンに目を遣ると画面は真っ暗、全く充電されていないのである。アラ、旅直前にして壊れちまった!これは困るなあ、とトチ狂ったようにガシャガシャ充電のケーブルを抜き差し。しばらく格闘し爽やかに汗を流した直後、気付く。愕然。もしかすると。ハア。ご名答である。普段、マックにぶっ刺したハブ経由でアイフォンを充電しているのだ。その通り。なんと「ひんし」だったのはアイフォンではなくマックの方だったのだ(通りでアイフォンまで電気が通らない)。さて、ド真夜中。ポケモンセンターなら24時間営業・無償かもしれんが、アップルストアは要予約、はてさて一体おいくら万円掛かるのかしら。どうあれ、マックをマサラタウン(実家)まで連れて行くのは取り止めだ。旅行先で細かい仕事を片付けるつもりだったのになあ。しかし、自宅に置いておくとはいえ旅から戻ってもマックが壊れたまんま、というのは色々とマズイ。ライトニングケーブルと闘い続けたボクサーは、明朝アップルストアに殴り込むべく改めて拳を高く掲げるのであった。余談だが、ポケモンセンターのお仕事って、とってもブラックではないだろうか。ずっとナースのネーチャンいるよなあ。兎にも角にも、明日はホワイトな林檎マークに向かい「めざせ!ポケモンセンター」すると決めて、私は軽やかに寝落ちしたのであった。
【1】
明朝。日付で言えば8月10日。フツーに寝坊した。11時半、めちゃくちゃ素敵なお昼時である。マックどうのこうの、の件で出発を遅らせたが、そもそも朝の出発は難しかったのではないか、いやはや。さて、9時過ぎ。早速アップルストアに問い合わせる。お姉さんの声・電子音ver.が流れた後、人間のお姉さんが対応する。「あの、マックがブチ壊れてしまって」(中略)「赤坂見附のビックカメラであれば本日受付可能です」。というわけで、「まずは湘南を目指して」「熱海をカメラに収めたい」はずの青春のひとり旅は、「まずはポケモンセンターを目指して」「赤坂のビックカメラに任せたい」を経由して始まることが確定。マック赤坂当選ならぬ、マック・赤坂見附・通せんぼである。
最寄りの中野駅発、中央線・丸ノ内線を乗り継いで赤坂見附へ。ビックカメラに到着するや否や、特筆すべき話題もなく私のマックはカウンターの奥へと引き取られ消えて行った。達者でな、というかお前壊れるタイミング考えろや、という本音ダダ漏れで見送った後、急に腹痛が。こちらのダダ漏れはヤバイ。一旦四ツ谷駅まで移動し、やけにオシャレなトイレへと駆け込んだ。ハイ。ここまでの文章を、電車を乗り継ぎ、だらだらと、最終的にはトイレでウ◯コしながら書いている。この上「性春18禁」などとタイトルを決めてしまったので最早ほとんどスカトロAVである。フツーに出発してフツーに終わると思っていたけれど、どうも私はいつでも地獄を突き進むらしい。こんな調子ではございますが、「性春18禁ひとり旅」開幕です。
【2】
四ツ谷で始まるとは思っていなかった「性春18禁ひとり旅」。元々1日目で京都まで行きたい!と思っていたけれど本日の残された時間を考えると中々に難しい。難しいならいっそ四ツ谷でめしを食ってしまうか!と思い切り、街へと飛び出した(「飛び出した」と言っても駅前の横断歩道を一本、二本渡っただけだが)。パッと目に入った店に入ろう、と決めてテキトーに歩いていると「アジア大衆料理」を謳う独特なカラーリングの看板を見付けた。冷静に考えると、「アジア料理」って何やねん。店の前にはベトナムと書いてある。ドアにはパッタイの写真。最早和食すらあるんちゃうか?という謎の店構え。ええやん、入ったるわ、と猛スピードで飛び込んだ。横断歩道を渡るのとはワケが違う。店に入ると気のイイ感じのオバチャンが「イラッシャーイ」とお出迎え。「アジア料理屋のオバチャン」って一体ナニジンやねん、というツッコミは色々とアレなので避けておき、颯爽と席へ着く。一人も客おらんがな。オバチャン大丈夫かいな。メニューをパッと開いて目に入ったのはパッタイ(タイ風やきそば)だった。どうやらイチオシらしくデカデカと載っているのだ(キャッチコピー付き)。なるほどタイ人の方なのね、とアジアンオバチャンを呼ぼうとしたその時。オバチャンが客入っとんのに華麗にYouTubeをみているではないか。「オイ注文やで」と声を掛け「コレくださいな」とオーダーするその間、私はタイ風焼きそばのことなど一寸と考えていない。オバチャンが何を視聴しているのかが気に掛かって仕方ないのだ。目を細めて画面をみる。みえないので姿勢を変える。おっ、みえた。アレ?並んでんの漢字だな。ん?コレ中国版「朝まで生テレビ!」的なヤツじゃね?うむ、どうやらオバちゃんは中国の方らしい。しかし中華料理はメニューに並んでおらず、「エスニック」と括られる系の異国の料理の写真ばかりが載っている。一体全体彼女はどういうルーツの方なのよ、と小さな飲食店で「坩堝」的な何かすら感じてしまっている。
【3】
色々な生き方があるもんだね、と妙に感心して間もなく気付く。アレ、この店厨房ないやんけ!ぐるぐる店の中を見回しても、ない。暫くぎょろぎょろと周りを眺めているとアジアンオバチャンが、私が口を開くまでもなく質問事項を読み取り、「リョウリハ、ウエヨ」と先回りして教えてくれた。二階で料理しとんのかいな。わざわざ持って降りるんかいな?と思ったその時。ウィーン。リフトである。こういうタイプの店でリフト採用しとんのかいな。高架下と駅二階両方に入り口あるタイプのマクドナルドかい。
色々とツッコミどころのある店だったが、こういう類のぐちゃぐちゃ感はなぜか憎めない。遂にオバチャンはYouTubeをみながらめしを食い始めた。ぜんぶ許しましょう。もう暫く滞在したい気持ちもあったが、せめて今日中に熱海までは出てしまいたいのである。金を支払い出発する直前、オバチャンが話し掛けてきた。「ナツハ、オヤスミカイ」「あい、休みでこれから旅しますねん」。そう伝えると急にオバチャンが奥からゴソゴソと箱ティッシュを取り出した。旅にティッシュ?旅人を見送る中国特有の伝統か?ワケもわからずティッシュを引き出す私。困惑する私に、オバチャンが「ハナミズ」と。私が鼻水垂らしてるだけかいな。気付かんかったわ。どんなタイミングでティッシュ差し出しとんねん。ありがとう。
やることなすこと一つとして納得できない店だったが、妙に愛らしく思えてしまう。今回の旅はこんな素朴な出会いから始まった。いや、まだ始まってないのか。ちなみにマクドナルド四ツ谷店のパッタイは大変すこぶるビミョーであった。
【4】
「青春18きっぷ」���は、「四ツ谷」と判子が押されている。さて、まずは新宿へ。湘南新宿ラインと東海道本線を乗り継ぎ熱海を目指すのだ。そう言えばフツーに「性春18禁ひとり旅」なんて言っているが、これって一体なんぞやと。ハイ、私の故郷は東京より西に下ったその先の、鳥取という地にありまして。そちらを終点と定めて夏・冬に鈍行ひとり旅(帰省)を決行しているのでございます。この度も御多分に洩れず東京は四ツ谷を始点(図らずも)として旅が始まろうとしているのでした。「性春18禁」に深い意味・意図はございませんので悪しからず。
さて、熱海に着いた後間に合えば名古屋まで走りたいところだが、はてさてどうするか迷いどころ。ビミョーなパッタイを濃い味・名古屋めしで搔き消したいのだが、そもそも電車の本数があるかないか次第なのである。一旦流れに身を任せ。
ひとり旅漸くスタート!と言ってもぶっちゃけ電車の中は暇。今回はマックがブチ壊れてしまったので、車内で映画みる・ゲームするなんてことも難しい。もうホント、やることがない。画面真っ暗のせいで、お先真っ暗である。
代わりにいくらか本棚から摘んだエッセイを持ち込んだ。この辺りを読み込んで時間を潰したが、暫くして飽きた。コーヒーを飲んだ。お茶を買い忘れた。もうそろそろ熱海に着く。名古屋まで行きたいな、などとぼやいていたが辿り着くにはやっぱり時間が足りないらしい。というワケで、本日の終着点を浜松と定めた。その前に、どうあれ熱海で2時間ほど休むことにしたのである。
【5】
間もなくして熱海に到着した。大して歩いてもいないのに、身体が痛い。さてこの地では何が起こるか。地獄へGOしてしまう性分の私に何が待ち受けているか。地獄巡りとは、本来そんな意味ではないのだが。温泉だよなあ、温泉。温泉?いや、やっぱり熱海に来たからには海なのか?海に臨まねば。テキトーに歩いている内に、目的地は海へと変わっていた。しかし土地勘のない私はひたすらに歩き回る。テキトーに辿り着けない立地ではないはずだ。潮風の方へ(グーグルマップを見ろよ)。
暫くして海に到着した。しかし、防音壁なのか何なのか、真っ白の壁に覆われているではないか。壁の向こうに海があるのに見えない状況。思い付いたのは超古典的「高台」作戦である。シンプルに高い所から見下ろせばいいのでは?と、目に入った「何に繋がるのかワカラナイ階段」を登った(今思えばアレ、廃病院とかだったんちゃうか)。まあ良き夜景の広がること。スゲー!と言いたいものだが、流石に熱海じゃ街の光量が足りず、海は真っ暗、街明かりもまあまあ許せる程度といった感じである。この弱さ・儚さがイイんだよな、と私はにやけているが、私の周りにいたお兄さんお姉さん方はこの夜景をどう思っているのかしら。隣りのニーチャン・ネーチャンは海を見ながらラーメンの話をしていた。
【6】
海を見たら満足した。やけに満足してしまった。折角来たのに熱海は終わりかなあ。しかし、海だけで終わらせるのはどうにも勿体ない。時間もあるのでフラフラと散策した後、軽食を摂ることにした。道中、坂を登ったり階段を走ったり。熱海特有・街の高低差に体力を奪われながら、昭和の香り漂うスナック喫茶「くろんぼ」へと辿り着いたのである。
渋さと可愛らしさを兼ね備えた看板を眺めつつ階段を降りていくと、「よくある喫茶」と「よくあるスナック」が融合した憩いの空間が広がっていた(当たりだ!)。出迎えてくれたのはアジアンオバチャンとは異なるタイプのお淑やか・オバチャンだった。このオバチャンも看板・内装に負けず劣らず渋&キュートを極めている。席に着いて思わず「フーッ」と息を吐いた私に、「旅です?」と投げ掛ける渋キュー。「ええ、東京から来てんス」と返すとその後は特に何を語ることもなく、一人微笑んでいた。
ザ・日本食、花柄の皿に盛られたカレーライスと緩く冷えたアイスコーヒーをいただく。渋キューさんに向けて道中について話そうと試みたが、ぶっちゃけ道中であったことなど何もなかった(マックが壊れた、パッタイがビミョーだったなどは決して旅の話ではない)。ふと我に返る。そっか、まだ旅してないんだなコレ。そう思い始めると少し笑ける。目的も持たず、観光地を巡らず、ただ歩く。一般的に言えばコレは旅ではないのかもしれん、と思うと笑けてきた。どうせフツーに旅などできないのだ、もうこの砕けた旅を続けるのも一つアリではないか。そんなことをぼうっと考えている内に、緩く冷えたコーヒーは放ったらかしすぎて半分水になっていた。
また来ますねえ、と目処の立たない口約束を交わして喫茶「くろんぼ」を後にする。てくてくと熱海駅に戻る道中にホンモノのマクドナルドを発見した(パッタイはない)。立ち寄らねば。決してハンバーガーを食べたいわけではない。充電がないのだ。先程コーヒーを飲んだところなので、またコーヒーを頼むのと胃が破れる。紙パックのミルクをオーダーし、暫し場を繋いだ。結局充電は10%ほどしか溜まらず、胃の中の水分だけが増えたのだった。
【7】
さて。電車は走る。お次は沼津へ向かうのだ。時刻は22時。現在静岡。近くで花火大会があったのだろうか、電車の中は浴衣を纏った中高生やマイルドヤンキーたち(見た目の話)で溢れている。マイルドヤンキーといえば、いつの時代もその類の人々は見た目で何となしに分かってしまうものだが、随分私のガキの頃とはルールなのか、流行りなのか色々と変わっているらしい。昔はキティちゃんのサンダルにプーマのジャージを着た輩風のニーチャン・ネーチャンがなんかイケてる扱いをされていた。当然私は、といえば冴えないフツーの子だったために(エッヘン)。そんな文化に染まることなくコンバースのスニーカーを履いていたのだった。
充電の溜まらなかったアイフォンを触っていては後々困るからと、手持ちの本を読み進める。しかし一度読んだ本。流石に早々飽きが来る。満員電車内で座ることもできず、いつの間にか旅が面倒臭くなっている自分がいる。誰が決めたんだ、ああ。お前がやる言うたからやんけ、と自身を奮い立たせるべく、ウコンの力スーパーを激しく一気飲みした。効果は未知数(何もない)。旅に対するだらけた気持ちが芽生えた頃、取り敢えず身体だけでも沼津へと到着した。さて、ここから静岡・浜松と移動して今日の旅はお終いなのだ。後一踏ん張り、飽きずに頑張って欲しいものである。ぜひ良ければ心も、追い付いていただきたい。
【8】
浜松に到着、日付変わって8月11日0時26分。青春18きっぷに2つ目のスタンプが押された。この時期はやっぱり18きっぷで旅する人々が多いらしい。改札にスイカを翳して(あるいはイコカなのか)、すっと抜けて行く人々の横、駅員さんによる目視での確認を待つ行列が伸びていた(青春18きっぷはJR一日中乗り放題の権利を、なんと5日分も手に入れられるという魔法の切符なのである。使い方は簡単。1枚の切符に例えば「8月10日」のスタンプが押されれば、後はそのスタンプを駅員さんに見せることでどこへでも行けてしまうのである)。もちろん私も青春18きっぷを確認していただくべく、その行列に追随する。おや、私の前のオッチャンが何やら揉めているのだ。どうやら、8月10日中に浜松に到着したかったのに乗り換え等々失敗してしまったらしい。繰り返すが、日付変わって8月11日0時26分。たったの26分過ぎたことで、青春18きっぷには次の日のスタンプを押されてしまうのだ(私の場合は明日もどうせJR乗り回すからスタンプ押されてもオッケーなのだ。どうもこのオッチャンは翌日JRを乗り回す予定がなかったらしい。すると1日分の切符が無駄になってしまうんだね)。どうもこの仕組みに納得できず、ギャーギャーごねていたのだ。遂には話を捻じ曲げて、「電車が遅延したんだ!」と言い出す始末。スタンプ押さずに通せ!と。おお、駅員さんも大変やね、という気持ち半分。早くしてくれ、という気持ち半分以上(足して100%越えているのは悪しからず)。しかし強面の駅員さんは、青春18切符にそんなルールはねえんだ、とハードボイルド対応で眉間に銃を突き立てていた(嘘ですよ)。結局たったの26分にスタンプ1個を捺印され、オッチャンは儚くも浜松の地に散っていった。次に並んでいた私もスタンプを1個押されてしまう。ま、先述の通り、私は明日も旅をするので全く関係ないのだけれども。
さて、浜松に着いたはいいが、ここから何をするということもあるまい。お宿を探すのだ。残り数%しかないアイフォンでグーグルマップ。近くのカラオケを探し出す。北口に「まねきねこ」があったので今夜はここで歌い叫びながら一泊することにした。烏龍茶を注いで、14号室へ。よし、折角歌える宿に来たのだ。何か歌ってから寝よう、と何も考えなくても歌える、くるりやら何やら数曲を予約した。「ロックンロール」を歌っていると、途中金髪のニーチャンが間違えて入って来た(天国のドアを叩いている途中に地獄のドアを開くなよ)。歌い疲れて靴を脱ぐ、靴下を脱ぐ。ソファの上に横になる。グー。就寝前、タオルで身体を拭き、Tシャツを着替えたが、本当は流石に一風呂浴びたかった。明日は米原経由で京都に向かう。京都に着いたらサウナに行こう。梅湯に行こう。
【9】
アラームが鳴る。5時40分。さて、3時間ほど寝れたので旅を再開する。浜松駅から米原までは直通で2時間半。寝ようと思ったがどうも寝付けず、じゃあ本でも読むか、と読み始めて間もなく眠気が襲った。ふと目が覚めた時には既に米原。車内の人々が乗り換え時の席の奪い合いのためか、ほとんど競走馬然としている。ここが勝負だからな、とハイテンションに語るジーチャンはいざドアが開くと若者たちにガンガン抜かれていった。京都駅まで1時間。米原まで散々寝た私は、まあ座れんでもええか、くらいに考えていたのでこの熱気に共感できなかったが、案の定座れなかったジーチャンは、悔しそうに、クソ、クソ、などと申していたのが逆に笑けてしまった(言葉、ママではない)。とはいえ、ジーチャンなのですから誰か譲ってあげてもいい気がするが。
座れなかった、もとい座らなかった私は、本を読んだりアイフォンを突っついたりして時間を潰す。すると、急にオッサンがマスターベーションに興じている動画がエアドロップで送り付けられてきた。ははん、最近巷で噂のエアドロップ痴漢ってヤツだな、と若干興奮を覚えながらも充電食いそうだったので拒否しておいた。スマンな、オッサンのチ◯コ。躍動感ある下腹部の様子はサムネイルのみ拝見させていただいた。
そんなこんなで松沢呉一を読み耽り1時間を費やす。
【10】
いよいよ古都・京都府へと馳せ参じたのだった。駅構内を進んでいると、ぽてっと落ちている免許証を発見。改札出るついでに渡しておいた。これは割とどうでもよい話。
まだまだ発育している途中、伸び続けていると噂の京都タワー(嘘です)。デカブツを横目に東へと、北へと進み目指すは「サウナの梅湯」である。「性春18禁ひとり旅」の際、毎回立ち寄る素朴な銭湯。その名の通り、レトロな浴槽並ぶ向こうにサウナが併設されているのだ。カラオケで一夜を過ごした私は、汗ばんだ身体を癒すべく、この古びた湯屋の暖簾をくぐるのであった。
至福の瞬間である。汗を流して、湯に浸かる。壁面にはスタッフが手作りで仕上げた新聞が並んでいた。他に眺める物もないので、手書きの文字をじーっと追う。「京都に住んでいたわけではない、大学に入ってはじめてこの土地に来たのだ」という女子学生の手記。暫く読んで、「最近くるりの“京都の大学生”を聴く」、と続く。わかっているねえ。京都の大学生、心に来はったわ。
サウナと水風呂を繰り返し、腕時計(防水)に目を遣る。そろそろか。実はこの無計画の旅にも多少の計画が成されておりまして。なんと、同期のイラストレーター・もちがわが、丁度京都にて個展を開いているのであった。折角なら酌み交わそうと、電車乗り換え・梅湯の隙間に時間を作り、フラフラ新京極へと向かう。
【11】
五条から四条。地下鉄で走り新京極に降り立つ。「この店で昼呑みをしたい」と事前にもちがわから提案されていた酒屋(定食屋?)があった。「京極スタンド」である。12時開店に合わせて行ったのだが既に行列が続いている。早めに向かって正解だった。ちなみにスタンドへ向かう途中に、有名な判子屋さんで「ターバン男」という名の判子を買った。これもそこそこどうでもよい話。
中は素朴。「イイ意味で」小汚い単なる定食屋である。昼呑み目的で来ていることは店員・顧客ともに同意の上なのか、席に着くや否や酒のオーダーについて声を掛けられる。大瓶とグラス2つ、暫くしてポテサラ・ハモ天・冷やしトマト・うにくらげ・ホルモン焼き・ハムカツという奇跡の役満オーダーを叩き出した。いつも東京で呑んだくれている二人が敢えて京都の地でアルコールを摂取する。
「昔から京都にちらほら来てたんよねえ」「そうそう」同期・もちがわのこれまで、などというと大袈裟か、どうか。そんな類の話を聞いた。いつも会っている同期のはずが、場所と食事を変えればまた違う。そして、どう話しても、どう黙っても塩山椒の乗るハモ天は旨い(旨いなあ、と思いつつ最後の一切れをもちがわに譲った私はとてもエライのである)。ホルモン焼きはこれまでか!という量のガーリックにまみれていた。うにくらげも、クセなく絶品。
【12】
ごちそうさんでした、と出口へ。そろばんでのお会計。丁度よい程度に酔いが回った。地下鉄が来ちまうから一旦四条駅近くまで移動しよう、と炎天下のアーケードを闊歩する。東京のカラっとした熱気とは異なる、じんわりと体力を奪う熱、夏。会話も、あっちいなあ、あっちいなあ、ばかり。途中、言うても次の列車まで時間あるよなあ、ということでパッと目に入った喫茶に入った。夏バテ予防に、普段頼まないトマトジュースを注文し、飲み干す。程良い酸味が頭をしゃっきりさせる。書き忘れていたが、京極スタンドに入店する直前に八つ橋を買った。東京からの帰省なのだから、実家で待つ家族たちは東京土産を待っているだろう。依然無視して土産は京都の生八つ橋である。正直有り難みはない(地元鳥取は言うても関西が近いので、八つ橋くらい簡単に入手できてしまうのである)。でも旨いよなあ、ニッキの八つ橋。色もイイよなあ。
さて、「めざせ!ポケモンセンター」から始まったこの旅も終盤に差し掛かっている。マサラタウン(実家)に戻るため、改札前、もちがわに見送られつつ私はエンジュシティ(京都)を旅立つのであった(というと、そもそもマサラタウンのモデルは静岡県だったはずだ。マサラタウンに向かう、というのは、はてさて「カラオケ「まねきねこ」まで戻るという意味に捉えられるのではないか。いえ、それはご勘弁願いたい)。
京都から姫路、姫路から上郡。上郡からは智頭急行に乗り換える。JRではないため、上郡から鳥取までは青春18きっぷが使えない。とはいえ、1200円のフリー切符で移動できてしまうのだから、お安いもんである。今回タイミングが合わなかったのか、上郡から鳥取まで直通で移動できる列車に乗れなかった。一旦「大原行き」に乗り込んで降車。大原から鳥取まで向かう列車を待つ。その間、何となしに待合室にあったご当地鉄道ピンズガチャガチャを回す。「スーパーはくと」が当たった。ちょっとカワイイ。
【13】
最後の列車に乗り込んだ。流石にもう何もない。後はこの列車に乗っていれば故郷、鳥取に辿り着くのだ。寝るか。ちょっと本読むか。旅の終わりをどう過ごすか考えていた、その最中。ボックス席に一人で座っている私に、一人のオバチャンが近付いてきた。私の向かいの席にドーン!と何かを投げ付ける。からあげクンである。「これ、ローソンに売っててん」。うん、からあげクンはローソンに売ってるだろね。「食べ物に悪魔ってネーミングしてんねん!(ガチギレ)」。おう、めっちゃキレてんな。その後暫く黙っていたが、車内の全員に向けて演説を始めたのだ。「コンビニは変なものを売っている!日本を取り戻せ!」といった趣旨のお話である。添加物がどうのこうの!この話をSNSで拡散しろ!だの色々とまくし立てている(正直笑い話に昇華してよいのか甚だ絶妙なラインである)。散々お言葉を述べられたオバチャンは結局、再び私の元へ来て、からあげクンを回収した(くれないのかよ)。その後、なぜか裸足で大量のおかきを食べ漁っていたのである(おかきはいいんだね)。しかし、他にも乗客がいた中でなぜ私が「からあげクン事件」のターゲットになってしまったのか。そして、なぜコンビニ嫌い・悪魔ネーミング嫌いのオバチャンは、このからあげクンを購入し売り上げに貢献してしまったのか。平和に終わると思われた私の旅は幾多の謎を残したまんま、やっぱり地獄に終わってしまうのだった。食べ物に対する意見は様々だろうが、公共の場を荒らすのはなるたけご勘弁いただきたい。ここまで書いて、今度はオバチャンから「スパイシーひまわりの種」が飛んで来た。はてさて。他の人を当たってくれ。
【おわりに】
途中、列車に乗っているだけの時間が続き張り合いのない文章になってしまうなあと思っていたところに、最高に悪魔風でスパイシーな話題が飛び込んだのだった。事故である。それはさておき、知らない間に故郷へ着いてしまった。
さて、「おわりに」という形で〆にしようとしているが、どうせ実家に滞在している間もたくさんの地獄に出会うのであろう。ちょこちょことメモして残しておくとする。さて、長々と書きましたが一旦この辺で終わります。
一体何のために書いたのか。実はこの性春18禁ひとり旅、実に3回目なのである。毎度それぞれドラマが生まれるので文章で記録したら面白そうだなと。本当にそれだけの気持ちで始めたものだったのだが、多少は笑けるエピソードが生まれたのではなかろうか(やけにオバチャン多めだったのはなぜだろうか)。ぜひぜひ、復路もご期待いただきたいのである。こんな形で「往路」編、終わります。再び地獄で会いましょう。
フチダフチコ
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