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#イラガの繭
ayanos-pl · 2 years
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街路樹のタブノキの幹に、古いイラガの繭がたくさんついていた。幼虫がたくさんいたときもあったのかな(人が通るところなので、それはちょっと危ない)。
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ekcajineb-t · 7 months
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イラガはどうやってあんなに硬い繭から羽化しているのか疑問だったんだけど
(成虫には顎も、まして食べ物を摂取するような口もない)
どうやら繭作りの段階で丸く、蓋が開かない程度に切れ込みを入れているようだ。
それで羽化するときに頭で押すとパカっと開くようになってるらしい。
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20220831
雑記(イラガの繭、村上春樹、UFO?見た)
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しめやかなる秋のけはひ、いとものあはれなりコロ助なり。
なんだか急に秋だ。
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穴がまん丸。枝についたイラガの繭の抜け殻。探せば木の根元のどっかに蓋が落ちてんのかしら。
去年の冬に庭で見つけて害虫とはわかりつつもちょっとくらいええやないけと放っておいたのだが気づいたら羽化してもぬけの殻となっていた。幼虫は電気虫と呼ばれるくらいその棘に刺されると痛えらしい。この枝を何か作品に組み合わせたい。
自分の手で作ったものと自然のもの、拾った寄りものやなんかと組み合わせたいと思うのだが精神の基部の辺り、古層からやってくる感覚である気がする。
対称性思考というやつか。
伸び放題のピンクネコヤナギの枝も剪定して作品に使おっと。
日課
ボケ防止に先手必勝と4年続けている100問計算ドリル、1分3秒の新記録。1秒縮めるのに5ヶ月かかった。1分切るまであと少し。老人ホーム以外では誰もやらんという意味では孤独な戦いだ。
読書
大島直行『月と蛇と縄文人』(音読)と村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』(黙読)読了。
『色彩を持たない多崎つくると〜』
縁もゆかりもない誰かの話であると同時に私の身の上話であるような、自分の想念や人の話、出来事。あらゆる過去の記憶を書き出してハサミでバラバラに切り抜いてから再構成した物語であるような気がしてくる。主人公と同じく暗い精神の影の領域に光を当てるようなある種通過儀礼的な読書体験だった。
村上春樹にとっての『ノルウェイの森』とはなんだったのか、その逡巡の過程であるようにも感じた。
物語の舞台となる名古屋について。
震災直後ぐらいのDOMMUNEで、あるノンフィクション作家が名古屋という街の特殊さ、自動車の世界的企業を中心とした都市国家のような閉塞した社会空間で人々のライフサイクルが完結する構造とそこから東京へ放逐されたハイマートローゼ(故郷喪失者)としての作家みたいなテーマでトークをしていた、あるいは流れでそういう話になったおぼろげな記憶があって(作家名も思い出せず検索しても出てこないのだが…)案外村上春樹もそれを見てたのではないかという気がしてくる。名古屋出身で震災直前に原発の街のルポを書いた作家だった気がするのだがどうしても名前が思い出せん。
主人公が過去の出来事と向き合う切っ掛けとなる、恋人(未満か)のサラが指摘する主人公との間に過去の亡霊が横たわっている、というやりとりはクリストファー・ノーランの『インセプション』のコブ(でかぷり夫)の潜在意識下に住み、顕在意識を不安定にするモルという死んだ嫁ハンの幽霊みたいな感じもして出版時期的にも「インセプション見たな」とか勝手に想像するのも面白かった。
河合隼雄の本を何冊か読むと村上春樹の小説のざっくりとした構造みたいなのがぼんやり掴める気がする。以前だったら蛇足だと思うような行き場のないエピソードや何かの象徴が(今作で言えば「ホルマリンの第六指」にまつわる話のような)とても重要な要素であって、それでいてやはり意味や目的は持たないというようなこと。
思えば日常の潤滑油のようなものは非合理でオチもなく他人からすれば他愛もない話だったりするわけだが、妙に腑に落ちたり何かをパッタリとやめて新しく何かを始める契機になったりする。
UFO的な
この流れで言ってしまえばですね、先日Unidentified Flying Object、略してUFOを見たのだ。
N先生と富士山の山仕舞いのお祭りに行った後、夜ウォーキングに出かけたのだが方角的には東、天上山の上にある木星か土星の上に金色に光る横長にぐちゃぐちゃっとした形の大きな連星があった。光に瞬きはない。
プレアデス(すばる)にしちゃ明るすぎるし見たことがない星。初めは自分のメガネに反射した街灯か何かの光か、眠気で星がブレて見えているのかとも思ったが違う。はて?と、星や宇宙に詳しいN先生に私は「あの星何?」と聞いた。
N先生が「なんだろうね…」とか何とか答えた瞬間、その刹那。その光はまるで電気をぱちっと消すように忽然と消えてしまったのだった。
N先生は前職で科学にまつわるお仕事をされていたのもあり、また非常に怖がりな性格でもあるのでどちらかといえば冷静に科学の子であろうとする(ように私には見える)。だが今回に関しては不可解な現象を二人同時に見てしまったため判断に困った様子だった。
つかまじであれなんだったんだろう。
私がUFOの類を見たのは過去に二回ある。
物心つくぐらいの幼少期に親父がお客さん相手に夏、天体望遠鏡を出して天体観測していた時にみんなで東から西に向かって飛ぶUFOを見たのが一回。
二回目は五年ほど前、横尾忠則氏の対談本を読んでいる途中でコンビニに行ったら横尾忠則氏本人(あと糸井重里氏)に遭遇し、その五日後に南に向かってISSのように夜空を一直線に飛び富士山の手前で急に30度の鋭角で北西に向かう小さな光を見たことがあるくらい。読んでいた本が『見えるものと観えないもの』という多分にオカルティックな内容の本だったこともあり神妙な気分になったのだった。(インドでYMOの細野さんとUFOを呼んだ話など)その次の日には姉と甥が犬の散歩の途中森でUFOを見たという。真偽はともかくそのタイミングを不思議に思った。
N先生は一人暮らしというのもあり、怖がっていたので少し気の毒に思ったが、私としては残りの人生で何かしらの表現をしていこうとする上での見えざる資格のようなものをもらった、言ってみれば「聖痕」のような体験に思えた。数年前に横尾さんと偶然会った時と同じく何か救われた気がしたのである。ふわっと風が吹いたような。
思えば数年前山の頂上の岩の中で一晩過ごしたことも、霧の真夜中に山道を歩いたことも頭のどこかで超越的な現象と出会いたいがためだった気がする。しかし分かりやすく不思議な出来事などは不純な気持ちの時には殊の外起こらないものであって全く意図しない時に出会ってしまうものなのだなと思った。
蛇、虹ときてUFO。
次はなんだろうか。
個人的に今から来年の3月までが勝負になる気がしている。
5年続けて来たここもその時役目を終えるのだろう。
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