勉強メモ
野口良平『幕末的思考』
第2部「内戦」 第四章「未成の第二極」1~3
細かいメモ
野口良平『幕末的思考』みすず書房
第2部「内戦」第4章「未成の第二極」1~3
きのう大まかに書いたことの、さらに書き留めておきたい細かいことどもをメモします。
【目次】
■中江兆民とルソー
■西郷に希望を託した若者たち
■会津藩士たち
■増田栄太郎と福沢諭吉
■中江兆民とルソー
中江兆民は、大久保に直談判して(司馬遼太郎『翔ぶが如く』で、中江青年が大久保の馬車を追いかけて、乗せてもらいながら売り込みをするシーン、印象的ですね。なんか、長い小説の中に、二回くらい、この同じシーンが出てきたような)岩倉使節団に随行する留学生としてフランスに学ぶ。
ルソーの『社会契約論』に目を拓かれ、これを訳して日本に紹介するが……
まず、ルソーの思想とは。
ルソーの最初の著書『人間不平等起源論』では、「すべての人間が本来平等である」という。
我々をつないでいる身分制度の鎖を解き放て! と。
(高校生の時、これを聞いてときめいた。平等だったのか! しらんかった! 生まれつき高級な人と、わたしのようなどうしようもないのがいて、そういうことは運命的に決められているのだと思っていた! 民主主義の時代に生きてる私でさえそう思うのに、身分制度の時代に生まれてそんなことを考えたルソーって天才だ! と。うれしかった。平等なんだ!! わーいと思った)
だけど、どうだろう。どこまでも自由だとしたら、力が強かったり悪知恵が働いて良心のかけらもない人が、気の弱い人や体の弱い人を押しのけて、奴隷にしたり餌食にしたりするのも自由、ってことになる。そしたら弱い者には勝ち目のない地獄になる(今の日本のようですね)。
この状態を、ホッブスは「自然状態」といって指摘した。
『人間不平等起源論』の七年後、ルソーはこれに答えるべく?『社会契約論』を書く。
強くて悪い者が好き放題する自由は、やっぱ困る。
で、こうまとめたそうだ。p176
《人間は、ルール(鎖)なしには自分を自由にする力を持たない。ルールには、正当化しうるもの(鎖)と、そうでないものとがある。》
その正当化しうる鎖とは、力ではなく約束。(じーん)
《正当化しうるルールの源泉とは、各人が自己保存と自己への顧慮を手放すことなしに、すべての人と利益を共有しうる結社の創設への合意(convention)すなわち「社会契約」である。》
しかし、難問が!
「えー。おれ強くて頭いいいから、好き放題してても困らない。ルールなんか従いたくないんだけど。自由がいい」という横暴な人たち(往々にして世の中の主流になる)を、どうやって約束の席につかせうるか。
↓
ルソーは「立法者」というスーパーマンの存在を考え出して、この人になんとかさせようとしている。
↓
中江も自分で考えた。
やっぱり答えは出ないけど、
徳が高くて強い立法者と、その補佐役がいたらいい!
とこのとき考えたそうだ。
そして、この立法者が西郷さんで、補佐役がオレ!
でも、中江の「フランスすばらしい!」は、航海中のベトナムでかげる。人権に目覚めたはずのフランス人が、ベトナム人に酷いあしらいをしている!
「人権を考え出したのはヨーロッパ人だが、実行するのはアジア人だ!」
しかしさあ、どうやって実現する? (むずい)
■西郷に希望を托した若者たち。
大久保たちの裏技を使ったやり方に敗れ、野に降った西郷。
(私としては、やめんでほしかった)
大久保たちのごり押し近代化(武士の禄を奪い、藩をなくし、誇りだった刀を強制的にやめさせ……)に異議申し立てせんという旧士族たちが、方々で叛乱を起こす。
(江藤新平のことももう少し知りたいなあ)
西郷は、慕ってきた子分たちと共に鹿児島で私学校を開いていた。
西郷自身は、ことを起こすことに対して慎重だったようだけど、
結局、大軍を率いて、東京へ押しかけ政府のやり方をあらためさせようと「挙兵」。
鹿児島を出発。
でも熊本で負けてしまい……。
明治10年9月、よくドラマに出てくる最期をとげる。
この節で、私が胸を衝かれたのは、
中江兆民世代の、ほんとに有望な人(小倉処平、宮崎八郎)、
迷える青年(増田栄太郎)らの戦死だ。
小倉処平は、
日向飫肥藩の仲間たちをひきいて西郷軍に参じた人望ある人。
かつては藩主に留学制度を進言し、選抜した青年たちを率いて長崎に学ぶ。のちロンドンにも留学。《英国仕込みの自由主義者であり、中央政府による急進的な近代化とは異なる、もう一つの近代化の可能性を探っていた人物だった。》p183 (滂沱)
宮崎八郎は、熊本荒尾村の庄屋の次男(実質長男)。
《人民の擁護者を任じる家風の中で育てられた》p179
(中岡慎太郎みたいね)
八郎は、はじめは、列強の理不尽への怒りや、政府の強引さへの不満から、征韓論に熱中し、征台義勇軍を組織するなど、物騒な感じだったが、中江訳『社会契約論』に目を拓かれる。
それがどうして、西郷の武装蜂起に参加?
→「キミの考えは西郷とは違うじゃないか、どうして西郷軍へ?」と聞かれて、
「西郷を助けて政府を倒してから、西郷を倒すんじゃ」
(西郷軍に身を投じた若者には、こういう人が多かったようだ)
けれどもどちらもならぬまま、戦死。
その克明な日記は、預かった人が川の徒渉に失敗して永遠に喪失してしまったと。
……このシーン、小説のよう。
川の畔に立ち尽くしたような気持ちに。
■会津藩士たち
また、西郷軍を熊本で果敢に防いだ政府軍には、多くの有能な旧会津藩士が加わっていたことも記される。
極寒不毛の斗南藩へ送られたのち、一族を率いて新政府の警視庁に出仕した、元会津藩家老の佐川官兵衛は、阿蘇山麓で戦死。(呆然)
同じく元家老の山川浩は、西郷軍に囲まれた熊本城を後巻きして救出する。
いっぽうで、同じく会津藩士だった長岡久茂は、政府打倒を試みて、獄死していた。
両極に別れたように見える彼らの行動を
著者は、「同じ動機」によるものと記す。
《彼らが目指していたのは(略)──戊辰戦争が勝者のためだけに戦われたものではなかったことを自力で証明してみせることだった。》p179
■増田栄太郎と福沢諭吉
増田栄太郎は、福沢の又従兄弟にあたるという。
増田は遅れてきた攘夷青年。それだけに、「攘夷に落とし前をつけなくていいのか」という答えを求めていた。
殺してやろうと思っていた福沢から「敵である列強の良いところを学べ」といわれて、一時は慶応大学にはいるが、すぐに退学。郷里で結社を作ったり、新聞を発行したりする。
これらの手当たり次第のような闇雲なガッツは、《内心の葛藤の受け皿を手探りで構想する作業だった。》p186
(個人的には激しく共感;; むしろ出来ブツの小倉処平さんより。ああ、この人、もっと長く生きていればなあ、生き方は見つかったに違いないのに)
そんな「迷走」のさなか、増田栄太郎は、西郷軍が田原坂で敗退してから、わざわざ敗軍の鹿児島勢に加わる。
何を思って?
その死には諸説あるが、曙新聞は「不敵な笑いを浮かべて処刑された」と報じた。
最期に披瀝したといわれる増田の言葉は、「西郷先生バンザーイ」というかんじのもの。
探していた思想はどこへ……。(余計に悲しい)
西郷の死と、救えなかった増田の刑死報道に衝撃を受けた福沢諭吉は、『丁丑公論』を窃かに書く。
西郷の敗北ののち、世論がいっきに「西郷=賊」視したことへの激しい疑問から。
福沢は言う。
政府が専横になることは仕方ないことだが、あまり野放しにするととんでもないことに。これを防ぐためにも抵抗は必要だ。と。
かつて『文明論之概略』で、“難題を抱えていながらそれで乱れない(戦争したりしない)のが文明というものだ”と喝破した福沢だが、この文明論は、何の役にも立たなかった。
西郷の死は、福沢の思想に深みを与えたと、著者は言う。
これまでの『学問のすすめ』『文明論之概略』では、
眠りから覚めている自分が、眠りこけているみんな(愚民)へ呼びかけていた。
『丁丑公論』では、
眠りから覚めるのが「速かった人」と「遅い人」の差があるだけだと、福沢は気付く。
このことに福沢は
《おそらくサイゴンの中江篤介よりも、城山の増田栄太郎よりも、遅れて気づいたのである。》p189
心がどよめいた。
どうしてだろう。
すっきりしたような、著者の福沢評にようやく合点がいった、ような。
いやちがう。
利口者の福沢の真摯な“愕然"が胸を打ってくる。
利口で視野が広いがために、低い苦しみの地平からものがみえなかった。
凡百の利口者なら死ぬまでそれに気づかないだろう。
だがやっぱり福沢は本物だったのだ。
私はまことに直感的に、福沢は信用できなかった。
なんだってこう上から目線なのか。何を持って自分は上から見てるつもりになっているのか。と。
でも、福沢も、その不思議な「特権階級」にあぐらをかくような人ではなかったのだ。
西郷の死と、フラフラしているかに見えた若い増田の問い掛けを、心と頭脳を駆動して受けとめたのだ。
そこを(これまで福沢をすごくひいき?にしてるように見えた)著者にとかれて、
こういう利口者が、真摯にがっくり「膝を折った」音に、心を叩かれたのかもしれない。
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2023/08/26 - Hirano Ryo's Twitter post
#Morimyu
Today we had two performances.
And today is Ryoki's* birthday.
He looks happy because many people congratulated him.
It makes me happy, too.
It looks like a family photo taken in a photo studio.
*Nagae Ryouki, the one playing Fred Porlock's role
Source: twitter
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【台東之旅】 2022.10.08 鹿野神社,池上伯朗大道,太麻里平交道,多良車站三日遊…
池上伯朗大道
台東多良車站
夢裡多良車站是口袋名單,但是台中到台東太遠去一趟不容易啊!
28歲搭火車從台中到台北轉花蓮,去過幾次花蓮,最遠到玉里車站。
大約38歲有一天忽然想環島,從台中搭火車到台東,
沒想到卻愛上台東的���氣,當天臨時在飯店住了一晚,印象深刻。
4年前2018年10月工作和同事出差到屏東,
工作結束後我自己搭火車到台東,
同事說今天下午普悠瑪自強號列車在蘇澳鎮新馬車站
發生脫軌事故,我抵達台東時在民宿打開電視機,
看到這個新聞時眼淚流了下來。
第2天我沒有搭火車往北走,我去找那家飯店,
卻找不到了,20年了這麼久~
我悄悄搭火車往南走回台中,長途車搭了6小時,
沒帶食物很辛苦的回到家。
雙十節連假3天 10/8 – 10 我安排台東之旅,
因為我的左腳斷了9個月,走路拖著走沒有辦法搭火車,
是朋友開車載我去,想到多良車站、太麻里平交道、
台東天后宮媽祖、鹿野協天宮關公,這樣~
台東飯店一個月前就訂好了,出發前我感冒4天,
希望到台東身體可以慢慢好…
10/8 我們先到屏東萬巒吃豬腳,直接開到台東知本住宿
高野大飯店 (富野溫泉休閒會館),好長的路啊 ~
屏東萬巒豬腳
南迴驛站
地址 : 台東縣大武鄉環港路56號
大武之心南迴驛站
很新潮的休息站
東知本高野大飯店 (富野溫泉休閒會館)
地址 : 台東縣溫泉村龍泉路30-2號
10/9 台東天后宮附近吃早餐
台東天后宮媽祖
地址 : 台東縣台東市中華路一段222號
紅葉少棒紀念館
地址 : 台東縣延平鄉紅谷路2號
先經過紅橋抵達紅葉少棒紀念館,
館內陳列紅葉少棒隊昔日使用的球具、少棒英雄史、
珍貴照片和文物等。
鹿野到了~
鹿野高台
地址 : 台東縣鹿野鄉高台路42巷84號
高台視野甚佳,可遠眺河階上方整齊的農田景緻。
每年6月至8月在鹿野高台升空起飛的熱氣球,
為台東天空帶來美麗繽紛的色彩。
鹿野神社
地址 : 台東縣鹿野鄉光榮路308號
鹿神社位於龍田崑慈堂左側的場地,崑慈堂主祭祀為瑤池金母,
裡面神尊土地公的鬍鬚長到接近地面。
池上伯朗大道
地址 : 台東縣池上鄉錦新三號道路
稻田中的自行車道,有山景,稻穗成熟時,
道路兩旁的金色稻穗隨風搖曳,寧靜的田園景緻~
在伯朗大道上的一顆茄苳樹,為當時拍攝金城武奉茶的拍攝地,
因而被稱為「金城武樹」。
池上火車站
地址 : 台東縣池上鄉鐵花路30號
中午吃池上便當
米國學校 - 關山鎮農會休閒旅遊中心
地址 : 台東縣關山鎮昌林路24之1號
關山鎮農會休閒旅遊中心將舊碾米廠改建成米國學校,
設有水稻文物館、米食DIY教室、米雕教室、農產品展售中心。
下午回程到鹿野協天宮關公這裡走走
鹿野協天宮關公
地址:台東縣鹿野鄉瑞豐村景新路60巷2號
10/10 車子往南開到太麻里平交道、多良車站,完成了我的夢想~
台東太麻里平交道
這裡是擁有山海美景的鐵路平交道,
因為酷似暢銷漫畫《灌籃高手》的場景而聞名。
台東太麻里車站
台東太麻里多良觀光車站
可以看到海天一線的太平洋海景,海水湛藍,十分美麗!
回程我們在屏東縣西南方沿海枋山鄉下車吃飯,
然後繼續開回台中,在高速公路上是塞車的,
我跟朋友說我沒辦法擠,找個城市住一晚,躲過車潮,
我明天中午上班來得及啊~
於是我們前往台南住一晚~
10/11 早上回台中,這次的台東之旅是這樣~
這一次的旅行感覺沒有開始,也沒有結束,
多良車站也看了,多良車站字樣也拍了,
下一步要怎樣? 人生啊~
在 Google 圖片看到石榴車站的字樣,
啊!好美的名字!
我要去斗六石榴車站看看~
生活又有了新目標~笑笑…..
作者 : 藝術小坊
拍攝器材 : iPhone 8 & iPad
居住地:台中市南區
參考資料 :
Google
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拙勉強メモ
野口良平『幕末的思考』第3部 第1章 ③に著者様からお返事頂いてしまいました!
野口良平『幕末的思考』みすず書房
第3部「公私」
第1章 再び見いだされた感覚──第三のミッシングリンク1~4 ③
の、福沢諭吉『痩我慢の説』のところ。
誰もが住みよい世の中をつくるのには、法(ルール)が必要。
なのだけど、「強い人たちも弱い者を搾取する自由を手放し、従いなさい!」という理屈の根本は何か。
ルソーと中江兆民は、それは強者だけが自由を謳歌する、「自然状態」がまずいからだ。と位置づけたのだけど、
福沢は「痩我慢の説」でこういっているそうだ。「公をつくるのは私情だ」と。
このあたりが、私はちょっとわからず、「自然現象がまずいから」という考えでは不正解なのか……。と疑問だったのです。
すごく貴重なお返事を頂いてしまって、自分一人で見るにはもったいないので、ご許可を頂いて、ここにアップいたします。
◆ 野口良平様からのお返事
・・・・・・・・(略)
自然状態のままだと弱肉強食が野放しにされてヤバいので社会契約を結ぶ。これが、ルソーと中江兆民が考えたことです。でもそのとき、すべての人がそれを「ヤバい」と気づけるわけではないのではと、二人は考えたわけです。
ルソーは、「立法者」と「市民宗教」を考えることで、その難問をクリアしようとして失敗しました。兆民は、その失敗に気づくことはできたのですが、その失敗を克服する明確な根拠を見出すことはできませんでした。
意外なことかもしれませんが、その根拠を見出したのが福沢だったのではないかというのが、私が出してみたた考えです。福沢は、弱肉強食は「ヤバい」と感じるものが、一個の「私」「私情」でしかないことに注目します。
ルソーは、「私」の大切さを痛いほど知っていましたが、私情というものが「公」をつくるだけの力をもつものだとまでは考えることができませんでした。言い換えれば、「私」というもののとらえかたがまだ浅く、「私」というものが経験のなかで広く、深いものに成長しうるものだとまでは考えることができなかったわけです。
「私」には公をつくる力がある。と同時に、どのような公にも回収しきれない固有の価値をもつ。こういうダイナミックな把握をなしえたのは、兆民よりも福沢だったのではないか。
一方、ひるがえってみれば、兆民自身、自分の思想にどこか足りないものがあるということに気づいていたふしもあります。国会議員をやめて再び野にくだったのち、いろいろな商売に手を出しては失敗し、辛酸をなめたのも、「公をつくるものとしての私」という考え方を試してみたかったのだ、と考えることも可能だと思われるのです。
今だったら、こういう説明も加えてみるかもしれませんね。そもそも、人間に私情というものがあるからこそ自然状態が生じた。と同時に、その自然状態を終わらせたいと思うのも、私情にほかならないのだと。「私情」には、それだけのふり幅が備わっているのではないか。
「私」には「公」をつくり、しかもその「公」のありようをチェックする力がそなわっている。福沢のこの考え方がなかったら、文学というものそれ自体の存在理由がなくなってしまうように、私には思えたのです。
***
福沢に対しては、さまざまな批判が寄せられていることは承知しています。どんな言論にも、可食部と不可食部というものはあるでしょう。福沢の考え方についても、どこまでが可食部で、どこからが不可食なのかということが、過不足なく見極められる必要があるのではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なるほどです。
なんとももったいなきご返信、ありがとうございます。
ルソーは、「私」の大切さはイヤと言うほど知っていたけど、「私」にそんな力があるとは気づいていなかった……。
そっかー。もしかしたらルソーは自分がすごい変人と知っていたので、そこまで「私」を大事にする自信がなかったのかなあ。
なんて、そんな奥ゆかしい人じゃないか。
そして、《どんな言論にも、可食部と不可食部というものはあるでしょう。福沢の考え方についても、どこまでが可食部で、どこからが不可食なのかということが、過不足なく見極められる必要が……》とのお話。
可食部と不可食部という言葉が、とても効き目があるなあ!
などとヨロコンデいたのですが、考えてみると、これは、もう少し強い「たしなめ」のお言葉ですね。
福沢のたくさんの言説の中から「醜業婦」発言に真っ先に注目して、福沢全体を否定してしまうのは、
りんごをもらってヘタに噛みつき「ぺっ、ぺっ、これ食べれない~」というのと同じじゃないですか、と。
◆ ウーマンリブの合い言葉「個人的なことは社会的なこと」について
頂いたお返事は、
(追記)「公をつくるものとしての私」という考え方は、The personal is political.という考え方を含みうるものだと、私は思います。ただ、ギリギリのところで、「私」には政治的な要素には還元できない性質が残されるように感じられます。福沢の「瘠我慢」は、The personal is both political and non-political.という考え方に近いのではなかという気がしますね。
「個人的なことは社会的なこと」というより「個人的なことは政治的なこと」ですね。
The personal is political.は、60年代にアメリカを席巻したフェミニズム第2波と反戦運動の合い言葉だったのですね。
私はそれを認識してないで、ウーマンリブのお姉さんたちが、世間から馬鹿にされながら「がんばろうね」「私たち自分勝手なわけじゃないよね。この苦しさは社会の問題だよね」と励まし合った、という感じの言葉だと思っていました。
どこかで耳に挟んでじーんとしたのです。
《「私」には政治的な要素には還元できない性質が残されるように感じられます。》
なるほど。
といって、野口さんのおしゃることが、自分にわかったのかどうか……そのうち、「あ」とおもうかもしれません。
野口さん、もったいなきお返事を、まことにまことにありがとうございます。
m--m
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