【黒バス】love me tender/tell me killer
2013/10/27発行オフ本web再録
※殺し屋パロ
「はじめまして」
「……はじめまして」
「っへへ、やっぱ声も思ったとおり綺麗だわ。な、俺、タカオっての。お前、名前は?」
伝統の白壁作りの家々は、夜の闇にその白さをすっかり沈めてしまっている。時刻は零時を丁度回ったところ。街路樹が全て色を変えた季節のこと。
この国の秋はもう寒い。話しかけられた男の方は、きっちりと白いシャツのボタンを首筋まで止め、黒���ネクタイを締め、黒いコートを風にはためかせている。コートを縁どる赤いラインがやけに目立った。話しかけた男はといえば対照的に、夜闇でも目立つ真夏のオレンジ色をしたつなぎを着ているのみだ。チャックを引き上げているとはいえ、その中身は薄いTシャツかタンクトップだろう。
しかし突然話しかけられたにも関わらず男は無表情を保ったままで、鮮やかな髪色と同じ、眼鏡の奥のエメラルドの瞳は瞬き一つしなかった。そしてまた対照的に、オレンジのつなぎを着た男は軽薄というタイトルを背負ったような顔で笑っている。不釣合いな二人は、真夜中の淵、高級住宅街の一つの屋根の上で会話をしていた。
「何故名乗らねばならん」
「え、それ聞いちゃう? だってそりゃ、好きな人の名前は知りたいっしょ」
「成程」
初対面である男に唐突な告白を受けても、緑色の男はやはり一つの動揺も見せなかった。その代わりに僅かに、それは誰も気がつかないほど僅かに、白い首を傾げた。白壁すら闇に沈む中で、その首筋の白さだけが際立っていた。
「ならば、死ね」
魔法のように男の手に現れたサイレンサー付きの拳銃から、嫌に現実的な、空気を吐き出す僅かな音。
雑多な人種が集い、少年が指先で数億の金を動かし、老人が路地裏で幼子を襲い、幼子がピストルを煌めかせるような腐った街で、世界を変える力など持たない二人の男が、この日、出会った。
【ターゲットは運命!?】
「ねえ真ちゃんー、愛の営みしようよー、それかアレ、限りなく純粋なセックス」
「お前が言う愛の営みの定義と限りなく純粋なセックスの定義を教えろ」
「やべえ真ちゃんの口からセックスって単語出てくるだけで興奮するわ」
高尾がそう告げ終わるか否かの瞬間に彼の目の前をナイフが通り抜けた。それは高尾が首を僅かに後ろに傾げたからこそ目の前を通り過ぎたのであって、もしもそのままパスタを茹でていたら今頃、寸胴鍋の湯は彼の血で真っ赤に染まっていただろう。壁に突き刺さったそれを抜き取りながら、彼は血の代わりに塩を入れる。
「お腹空いてんの?」
「朝から何も食べていない」
「ありゃー、それはそれは」
お仕事お疲れさん、と高尾は笑う。時刻は深夜一時、まっとうな人間、まっとうな仕事ならば既に眠って明日への英気を養っている時間帯である。
そしてその両方が当てはまらない人間は、こうやっておかしな時間帯に、優雅な夕食を食べようとしていた。落ち着いた深い木の色で統一されたリビングで、緑間はさして興味もない新聞を眺めている。N社の不正献金、農作物が近年稀に見る大豊作、オークション開催のお知らせ云々が雑多に並ぶ。
「しかし久々にやりがいがある」
「真ちゃんがそこまで言うなんてめずらし」
「ああ、俺の運命の相手だ」
緑間がそう告げた瞬間に、台所の方からザク、という壁がえぐれるような音がした。椅子に座る緑間は新聞から目を外すと、僅かに首を傾けてその方向を確認する。見慣れた黒髪と白い湯気。
「……ねえ真ちゃん、詳しく聞かせてよそれ」
「どうした高尾、腹が減っているのか」
「そうだね……俺は昼にシャーリィんとこのバーガー食ったかな……」
微笑みながら振り返る高尾の左手には先程緑間が投げたナイフが握られている。それなりに堅い建材の壁が綺麗にえぐれていることも確認して、彼は小さく溜息をついた。
(台所は本当に壁が傷つきやすいな)
寝所やリビングはもう少しマシなのだが、と周囲を見渡せば、そうはいうもののあちこちに古いものから新しいものまで、大小様々な切り傷や銃創が残っている。床、壁、天井、家具、小物にタペストリー。無傷なものを探すほうが難しい。彼は一通り確認して、もう一度台所に視線をやって、さらにもう一度、リビングを確認する。
(この家は本当に壁が傷つきやすいな)
そう認識を改めると、緑間は満足げに頷いた。自分が正しく現状を認識したことに満足して。もしもここにまともな感性の人間がいたならば、壁が傷つきやすいのではなく、お前たちが壁を傷つけているのだと頭を抱えただろう。良い家だが、と緑間は思っている。その良い家を傷つけているのが誰かというのは、気にしない。
「はい、真ちゃん、どうぞ」
高尾は左手でナイフをいじったまま、緑間の前にクリームパスタをごとりと置く。ベーコン、玉ねぎ、にんにく、サーモン、それから強めの黒胡椒。
「そろそろ引越しを考えるか」
「え、どうしたの、別に良いけど」
そして悲しいことに、あるいは都合のいいことに、この部屋にはまともな感性の人間など一人としていないのであった。
引越しだ、引越しをしなくてはいけない。
*
緑間真太郎と高尾和成はフリーランスの殺し屋である。特殊な職業だねと八百屋の青年は冗談で流すかもしれないが、それは特殊であるというだけであって、この街ではありふれた職でもあった。なんなら、その八百屋の青年は、夜になったら配達先でナイフを燐かせているかもしれない。その程度である。その程度のありきたりさで、緑間と高尾はコンビで殺し屋をしていた。
しかし殺し屋がコンビを組むのは珍しいことではないが、コンビを組んだまま、というのはこの街でも非常に珍しいことだった。報酬の取り分や仕事のスタイル、そういったことで直ぐに仲違いをして、どちらかがゴミ溜めの上で頭から血を流すことになるのがオチだからである。
かといって、誰もがそんな下らないことで命を落としたくないと考えているのもまた事実で、コンビを組むのは一回か二回、そこで別れるのが一般的にスマートなやり方とされていた。
殺すも殺されるも一期一会と下品な男たちは笑う。
「ま、俺と真ちゃんは運命だから、そんなことにはなりませんけど」
笑いながら高尾は、真昼の路上を歩いている。彼にとって報酬はどうでもいいものであり、ただ緑間真太郎の隣にいることが彼の報酬そのものといえた。
別れるくらいなら死んだほうがマシ。いや真ちゃんが悲しむから死なないけど、あーでも真ちゃんかばって死ぬならまあギリギリ有りかな……いやいや高尾和成、人事を尽くせよそこは一緒に生き残るだろう? でも真ちゃんが万が一俺と別れたいと言ってきたらどうする? 緑間真太郎を殺して俺も死ぬか? いやいやいやいや、何がどうあれ、俺が、真ちゃんを殺すなんてありえない。ありえない!
微笑みを浮かべながら闊歩する高尾の脳内は地獄さながらに沸き立っている。けれど誰も彼を気に止めない。夕飯の買い物やのんびりとしたランチを楽しむ善良な市民たちに溶け込んで、柔らかい日差しを吸い込んでいる。世界に何億人といる、特徴のない好青年。その程度の存在として高尾は歩く。歩きながら考えている。
そう、そもそもそんなことになる筈がないのだ。だって、俺の運命の相手は緑間真太郎その人なんだから。
「運命の相手、ねえ……」
昨晩、正式には日付を跨いでいたので今日の夜だが、その夜、に、当の緑間真太郎が告げた台詞が高尾和成を苦しめている。俺の運命の相手。運命の相手。運命。いやいやいや、俺の目の前で真ちゃん、他の男の話とか無しっしょマジで。
意気消沈する高尾は、しかしそれで諦めるほどかわいらしい精神をしていない。彼がみすみす獲物を逃すことはないのである。逃すくらいなら奪って殺す。けれど彼に緑間真太郎を殺すことはできない。何故ならば愛しているからだ。ならば、彼の取るべき手段は一つだけだった。
「運命の相手の方殺すしかねーだろ」
いや別に殺さなくてもいい、相手が緑間真太郎を振ってくれるならそれでいい。いや、あの緑間真太郎を振る? それこそ万死に値するお前ごときが何真ちゃん振ってんだよそれはそれで死ねよもう。
自分で出した問いと答えに自分で怒りを爆発させるという器用なことをしながら、高尾和成は尾行していた。緑間真太郎を。
真ちゃん、今日も一日美しいね。
*
「ねえ真ちゃん、真ちゃん今日一日何してた……」
「仕事だが」
「うん、そうだね、そうだよね」
ビーフストロガノフを頬張りながら高尾は溜息をつく。その向かいでは黙々と緑間が口にスプーンを運んでいる。湯気で僅かに眼鏡がくもっているが本人は気にしていないらしい。
「ねえ真ちゃん、ちなみにどんなお仕事なの」
「個人の仕事には口を出さないのがルールだろう」
「それも知ってた……」
そう、フリーでコンビを組んでいるとはいえど、二人の得意とする分野はまるで違う。だからこそ互いに補い合えるわけだが、逆に言えば苦手な分野でない限りは、どちらか一人で事足りてしまうのだ。
そもそもコンビを組むまでに築き上げてきた地盤もお互い全く別のもの。必要以上の情報は公開しないことはお互いのためにも必然だった。
「あーあー、もー。高尾くんがこんなに悩んでんのに真ちゃんはお澄ましさんだもんなー」
「悩んでいるのか? おめでとう」
「ありがと」
お前に悩むだけの脳みそがあったことに乾杯、と言いながら緑間は赤ワインを傾ける。それに応えながら、高尾は左手に持っていた食事用のナイフを壁に投擲した。それはまるでバターを切る時のように白壁に刺さる。とすり、と軽い音。
「今度引越しをしよう、高尾」
「それこの前も言ってたね」
「ああ、俺が運命の相手を見つけたら、すぐにでも」
なに真ちゃん別居宣言なのいくらなんでも酷くない?! 泣きながらビーフシチューを掻き込む高尾に緑間は首を傾げていた。
高尾、食べやすいからと言ってライスを噛まないのはよくないぞ。
*
尾行が四日目にもなれば、いくら『人生楽しんだもん勝ち』を座右の銘に掲げる高尾といえど、纏う空気は重くなるというものだった。それもそのはず、この四日間緑間真太郎はといえば、近くの図書館にこもりきりなのだから。
「いや、でも、わかったこともある……」
窓際に座る緑間が見える、図書館向かいのカフェでジンジャエールをすすりながら高尾は溜息をつく。
まず、緑間真太郎が本を読みに行っているわけではないこと。毎回場所を変えてはいるけれど、常に入口が見える位置に陣取っていること。つまり、緑間は図書館に訪れるであろう誰かをずっと待っている。
それはわかった。しかしそれは、一日目の段階から薄々わかっていたことであった。ならば後は緑間が接触した相手を尾行し、暗がりにでも連れて行き、少し脅してどこか地球の裏側に行ってもらうか空の国に行ってもらえばいいと、彼はそう高をくくっていたのである。ところが、だ。
「なんで真ちゃん誰とも会わねーの……」
そう、緑間は誰とも接触をしていなかった。ただ黙々と本の頁をめくり、そして閉館時間までそこにいるのである。本に何かの暗号が隠されているのではと、その後忍び込んでみたが、まあ面白い程に何も無かった。
では本の種類か、と思ったが一体全体星占いの本で何を伝えるというのか。では帰り道か、そう思ってつけてみれば、そのまま家へと直帰したので夕飯の支度をしていなかった高尾は慌てふためいた。何せまだ夜の八時、普段からすれば早すぎるのである。
どうやら緑間は運命の相手探しとは別に、他の仕事をいくつか同時に請け負っているようだった。それが無い日は早く、あれば帰りにさっとどこかに寄って仕事をこなして帰っている。そして今の仕事は図書館で星占いの勉強だ。どうなってる、と高尾は頭を抱えることしかできない。
つまり朝家を出て、図書館に行き、帰る、今の緑間は基本的にはそれだけのことしかしていないのである。たまに何か軽い仕事をして帰る。何かに似ていると思ったら、職を追われたことを妻に隠して公園で鳩に餌をあげるサラリーマンだった。
そして今日も緑間真太郎は閉館時間まで本を読んでいる。もうその本を確認する気にもならなかった高尾は、緑間が立ち上がると同時に立ち上がった。
この図書館に何かあるのは間違いない。館内は飲食禁止というのを律儀に守る緑間真太郎は、毎晩腹を空かせて帰ってくるのだから。昼を食べに外に出ることも惜しんでいるのだろう。その間にターゲットが来てはたまらないから。そこまで緑間に想われている相手が憎くもあり、羨ましくもあり、そして今日も出会わなかったことに少しの安堵を覚えつつ、夕飯は何にしようと、高尾はもう考え始めている。
まずは胃袋をつかめって言うしな!
*
「ねえ真ちゃん、俺に何か隠し事してない?」
「数え切れないほどあるが」
フリットを黙々と頬張りながら緑間真太郎は首を傾げる。この姿を見るといつも餌付けしているような気持ちになって、高尾の心の独占欲やら征服欲やらが幾分か満足するのだが、今ばかりはその小首を傾げた姿が憎らしい。昼飯を抜いている緑間はよく食べる。とはいえど、もともと食が細い方なため、これでようやく高尾と同じくらいなのだが。
「いや仕事以外でさ、仕事以外」
「む」
少し遠回りに何かヒントでも出して貰えないだろうかとやけくそで告げた言葉だった。しかしその瞬間に緑間の眉が僅かに跳ね上がったのを、高尾は見逃しはしなかった。何かある。間違いない。
もしも心暗いところが無ければ、こんな質問は一蹴されて終わりなのに緑間はまだ頬張った白米を咀嚼しているのだから確定である。きっかり五十回噛んだのち、緑間はゆっくりと口を開いた。
「何故バレた」
「バレたっていうか、自分であんだけ色々言っておいてバレたも何も無いっつーか……」
「仕方がないだろう。住所やら証明印やら保証人だか何だかが必要だとぐちゃぐちゃ抜かしてくるから、カードごと叩きつけてきたのだよ」
「ごっめん待って真ちゃん俺は一体全体何の秘密を暴いちゃってるわけ?」
全く噛み合わない会話に高尾は額を押さえた。これはまずい、とカンカンカンカン警鐘が鳴る。響き渡っている。これは、恋や愛などのロマンチックなものではなく、もっともっと切実な話だ。
「? 俺のラッキーアイテムのことを言っているのではなかったのか」
「真ちゃん今度は何買ってきたの?!怪しい骨董買うのはもうやめなさいって言ったでしょ?!」
「怪しくは無いのだよ。曰くつきではあるが」
ちらりと視線をやった先には緑間が愛用する真っ黒ななめし革の鞄。フォークを置くのもそこそこに高尾が飛びついて中を確認すれば、ご大層なジュエルケースが無造作に突っ込まれていた。
「し、んちゃん、これ、何カラット……?」
彼が震える手で開いてみれば、そこには美術館で赤外線センサー付きガラスケースに収まっているような宝石がごろりと存在感を放っていた。青い光が安い蛍光灯の光を反射して奇しく光る。角度を変えれば色も虹色にさんざめいた。
「百七だったか。ポラリスの涙とかいう宝石で、手にした者は皆その宝石の美しさにやられて、目から血を流して死んでいくだとかなんだとか」
「それってただ単にこの宝石巡って争い起きまくってきましたってだけだろ! おい待てこれちょっとおい怖い聞くの怖い、いくら俺でも聞くの怖い怖すぎる怖すぎるけど聞くけどいくら」
「オークションで七億」
「俺たちの全財産じゃねえか!」
緑間真太郎は占いに傾倒している。そのことを高尾は出会って少ししてから知ったが、その理由は知らない。けれど事実として、緑間は好んで占いの情報を入手するし、そこに書かれていることは実行しようとする。物欲の無い緑間の、唯一の趣味だと高尾は思って普段はそれを流しているが、それにしても今回のは過去最高額も最高額、記録をゼロ二桁ほど抜かしてしまった。
手の平に収まる石が高尾をあざ笑うように輝く。
「それが身分を確認するだとかなんだとか面倒くさいことを言うし、まさか言うわけにもいかないし、仕方がないから口座のカードに暗証番号書いて叩きつけて来たのだよ」
「ああ、なるほど、そこに繋がるわけね?! 確かに俺たちの口座普通に偽名だし辿られても問題ないと思うけど、待ってまさか分散させてた口座全部」
「叩きつけてきた」
「もう普通に殺して奪えよ!」
愛は盲目とは言うが、盲目であっても腹は減るし、愛で空腹は満たせないのである。名の通った殺し屋として法外の報酬を得てきた二人にまさか明日の食事を気にしなければならない日が来るとは高尾はついぞ思っていなかった。
カードに暗証番号を全て書いて怒りながら叩きつけた緑間を思うと、本当に何故そんな手段しか取れなかったのかと高尾は純粋に疑問で仕方がない。方法は他にもっとあった筈である。いや、そもそも七億の宝石を買おうと思う時点でおかしいのだが。せめて盗め、ていうかもう殺して奪え、そう思う高尾の主張は、ろくでなしとしては非常に正しかった。
「馬鹿が。普通に殺すとはなんだ。殺しとは普通のことではない。そして普通、モノのやりとりには正当な対価が必要なのだよ」
「そうだね、でも俺たち殺し屋だからね?!」
しかしそれは同じろくでなしである筈の緑間には全く通用しないらしかった。台詞だけを取り出せば間違っているのは高尾だろうが、この状況を見れば正しいのは自分だと彼は自分を慰める。知らぬ間に目尻に浮かんだ涙に、それを宝石に落としてしまっては一大事だと高尾は慌てて輝くそれをしまった。
そして、どうやら一文無しになったことを悟った高尾は項垂れた。確かに二人の口座は共有で、さらに緑間は、今はもう抜けた組織の下にいた頃に膨大な金を蓄えている。割合で言えば緑間の取り分の方が余程多いだろう。
それでもそのうち一億くらいは俺の取り分だったと思うんだけどな、と高尾は涙目を隠しきれない。それは自分の分の報酬を取られたことではなく、明日からの食事の献立を考え直さねばならないことに対しての涙だったけれど。
あまりにも凹んでいる高尾の様子に、流石に罪悪感を覚えたのか緑間は僅かに視線を泳がせながら打ちひしがれる高尾の方に手をおいた。
「高尾、その、なんだ」
「真ちゃん……」
「明日には二百万稼げるから」
「そういう問題じゃねーよ! いやでもそういう問題か?! じゃあ明日も豪華な飯作るからな?!」
半泣きになりながら告げる高尾に緑間は頷きながらグラタンが良い、と答えた。
また適度に面倒くさいモン注文するよなお前は。
*
「で、真ちゃんそれいつ買ったの」
「一週間前」
一度落ち着こうと、二人はテーブルでコーヒーをすすっている。緑間の方は牛乳を入れすぎてもはや殆ど白い色をしているがそれで本人は満足らしい。
「あーー、一週間前じゃもう完全に差し押さえられてるよな……」
「だろうな」
「はーあ、真ちゃんの我侭にも困ったもんだわー」
机に頬をつけるようにして高尾は溜息をつく。左手でくるくると回していたナイフを机に突き立てればあっさりとめり込んだ。その様子を見て緑間は繰り返す。高尾、引越しをしよう、と。それにへいへいと頷きながら高尾はまたそのナイフを引き抜いて、寸分違わずに同じ場所に差し込む。
「あーあー、もー、真ちゃんのこんな我侭許してあげんの、俺だけだからな? 真ちゃんの運命の相手だってこんなの許してくれないよ?」
「お前は何を言っている。運命の相手に許すも許さないも無いのだよ」
「あー、はいはい、もうそんなの超越してるって?でもさ」
「いや、だから」
お前は何を言っているんだ? 本気で当惑したような表情の緑間に、どうやらこれは腰を据える必要があると高尾は顔をあげた。机に刺さったナイフは幾度も繰り返し繰り返し差し込んだことでついに貫通してしまっている。
取り敢えず、真ちゃん、コーヒーのおかわりいる?
*
「小学生?!」
「ああ」
「し、真ちゃんって、そんな趣味だった、の、いやお前年上好きって……でも俺今から小学生に……」
「違う、が、その少年しか手がかりが無いのだよ」
高尾の動揺を全て無視して緑間は説明を続けた。曰く、その少年が持っている物がほしい。曰く、姿格好や出会った時間帯から小学生であることは間違いない。曰く、出会ったのは運命だ。
「で、なんでそれが図書館につながるわけ?」
「この街で小学校に通うということはそれなりに裕福な家庭だろう。服も仕立ての良いものだった���らな。そしてその年頃の子供の移動範囲は広くない。行ける施設も限られているだろう。治安が良い場所で、そんな小学生が行く場所といったら図書館しかない」
「いやいやいやいやいやいやいやいや」
自信満々に超理論を展開する緑間に、高尾は渾身の力で首を振った。この男は殺しに対してはとんでもない頭脳を発揮するし、普段からその利発さは留まることを知らない、才能の塊だと高尾は思っているが、たまに、とんでもなく、馬鹿だ。
「まあ小学生なのも移動範囲狭いのもいいとして、旅行者かもとか親に連れられてたかもとか色んなのも置いといて、なんで図書館なんだよ!」
「ほかに何がある」
「漫画あるとこでもいいし街中でもいいし公園とかでいいだろ! 図書館とか最も行かねえよ!」
あまりの言われように緑間も何か言い返そうと口を開いたが、「お前がいる間図書館に来た子供の数思い出せ!」という一言には反論ができなかったらしい。口を閉じて悔しそうに高尾を睨みつける。
いや、そりゃそうだろうと高尾は思う。そもそも図書館自体が上流階級の持ち物だ。緑間は何の気負いもなく入っていったが、高尾だってそうそう入りたい場所ではない。そこに、いくら身なりが整っているとしても子供が入っていく筈が無いだろう。
ふてくされた表情のまま、じゃあどうすればいいのだよと緑間は問う。
「その近辺の子供が行きそうな所しらみ潰しに探すしかねえだろ。路地裏とか屋上とか廃屋とか、公園とか、まあ、そういうの」
「面倒だな……」
「言いだしっぺお前!」
露骨に嫌そうな顔をした緑間に左手でナイフを投擲すれば緑間は瞬きもせずにその先を見送った。それは緑間の耳の真横を過ぎていったが、彼は微動だにもしない。ただ壁にナイフが刺さる音と、真新しい傷が一つ増えただけだった。
「てか何をそんなに探してるわけ?」
「俺もわからん」
「はあ?」
もう投げるナイフは無いんだけどなと思いながら高尾は笑顔で続きを促す。普通の人間ならばこの笑顔だけで凍りつかんばかりの恐怖を覚えるのだが、こと緑間にそれは通用しない。何も悪くないといった様子のまま、堂々と信じられない言葉を紡ぐ。
「わからん、が、あの子供に会えば自ずとわかるだろう。その少年が全てを握っているのだよ」
一体全体どこの組織の黒幕だ、といった内容だが、緑間の話しぶりからして恐らくただの中流のちょっと上くらい、育ちの良い所の坊ちゃんでしかないだろう。真に受けるにはあまりにも馬鹿らしい主張だが、緑間真太郎は嘘をつかない。会えばわかるのだろう。会えば。つまりどうしても会わなくてはいけないらしい。そして、一度決めた緑間真太郎を止める要素など高尾和成は持っていなかった。
「いーよ、協力するよ協力します」
「良いのか」
「いや、遠慮するポイントがいまいちよくわかんねーよ真ちゃん」
苦笑を浮かべながら、その表情にそぐわない満足気な声で、高尾はため息のように言葉を継いだ。
「俺はお前の目だからね」
その言葉を緑間は否定しない。否定しないということは肯定しているのと同じことだ。そのことは高尾を満足させるに十分である。
まあ、運命の相手が自分が考えていたものと違っただけえでも御の字とするべきだろう、そう高尾は���える。気持ちも浮上していく。つい先程七億円を失ったことなどすっかり頭の隅に追いやって、高尾はご機嫌に尋ねた。良いだろう、緑間真太郎が探すものならこの俺が探してやろう。俺の目から、逃れられるものなど、そういやしないのだから。
「で、真ちゃん、特徴は?」
サクッと見つけてこの問題を終わらせようとした高尾の、当然の質問は長い沈黙で返された。今まで一度も返答をためらわなかった緑間が、それこそ七億の時ですら堂々としていたあの緑間真太郎の目が泳いでいる。背中をつたう汗に気がついて、高尾の骨が僅かに震える。ここに来てまだこの愛しいお馬鹿さんは爆弾を落としてくれようというのか。おいまさか、おい、緑間。
「……………………ええとだな」
「特徴は?」
頑なに視線を合わせようとしない緑間の顎を掴んで無理矢理自分の方へと向けた高尾の瞳の奥は笑っていない。それでも視線を合わせようとしない緑間は、長い長い沈黙のあとに、聞こえなければいいというような小声で呟いた。
「………………小さかった」
「子供はみんな小さいし、だいたいの人間はお前より小せえよ! お前にデカいって言われるような小学生こっちがお断りだわ! てかお前それで探してたの?! あいかわらず人の顔覚えないのな?!」
「興味がないものを覚えても仕方がないだろう!」
「いや運命なんだろ?! 頑張れよ!」
「見ればわかる!」
「いやいやいや、俺が見てわかんなきゃ協力しようがないじゃん!」
ここぞとばかりに糾弾すれば言い返せないことが悔しいのか緑間の眉がどんどんひそめられていく。
鬱憤晴らしに顎を押さえていた手を離し、両手でエイヤと高尾が緑間の頬を挟めば男前も形無しの唇を突き出したような顔になって高尾は笑ってしまった。ここまでなすがままにされる緑間というのもレアである。どうやら今は何をしても良さそうだとその頬をいじる高尾の手は数秒後に跳ね除けられた。
流石にやりすぎたか、でも元はといえば真ちゃんが、そう言おうとした高尾の目に映るのは、僅かに微笑みを浮かべた緑間真太郎。
「そういえば高尾、お前、何故俺が図書館にこもっていたことを知っていた?」
先程投げて壁に刺さっていた筈のナイフがその手に握られている。
形勢逆転、ちょっと待ってよ真ちゃん。
*
「あ、緑のおじちゃんだ!」
「おじちゃんではない。おい、お前、この前のあの飲み物はどこで手に入れた」
夕方の公園、イチョウやカエデが舞い落ちる真っ赤な広場で、厳しい瞳をした緑間は無邪気そうな子供に話しかけている。高尾はといえばベンチに腰掛けてぐったりとしていた。
いくらなんでも瞳を酷使しすぎた。既にあの会話をした日から三日間が経過し、高尾はその広い視野を使って全力で子供を探していた。
ようやく見つけた少年は五歳ほどで、せめておおよその年齢くらいは指定が欲しかったと彼は目の周りをほぐしながら思う。
「この前の? 飲み物? ああ、おしるこのこと?」
「わからんがそれだ」
「あれはお母さんの手作りだよー」
遠くからその会話を聞きながら、いやわからないのにそれだとか断言しちゃって良いの真ちゃん、と高尾は心でツッコミを入れる。ナイフを投げる気力は残っていない。当の緑間はといえば、いたって真面目に、そうか、と頷くとコートの内ポケットから一つの袋と白い封筒を取り出してその少年に渡す。
「いいか小僧、あの味は素晴らしかった」
「そお? 甘すぎて僕そんなに好きじゃないなあ」
「あの良さがわからないとは……まあいい。今から俺が言う所にそのおしるこを持っていくのだよ。いいか、この紙と一緒に持っていけ。赤司征十郎に会わせろ、そう言うといい。手土産にはこれで十分だ」
しばらくやりとりを続けたあと、緑間が何を言ったのか高尾はもう聞き取れなかったが、どうやら子供は納得したらしい。明るい笑顔で駆けていった。その眩しい背中を見送る高尾に、緑間は、終わった、とそう一言声をかける。
「ねえ真ちゃん、あの子赤司ん所に送っちゃってよかったの?」
「何だ、何か問題でも」
「いや、普通、自分の命狙ってる奴のところに子供送らないでしょ」
緑間真太郎は友人であり元家族である赤司征十郎に指名手配されている。その原因でもある高尾は少しそのことを申し訳なく思っていなくもないのだが、当の本人だけは全く気にしていない。
「ふん、赤司は無駄な殺しはしないのだよ。俺に関わったというだけで殺していてはこの街が全滅だ」
逆に、関わったの定義が街全体に及び、その気になれば全滅させられるのだということを暗に示しているその言葉は恐怖しか呼び起こさないが、緑間は何故かそれを安全の担保にする。あいつは子供が好きだしな、という言葉には高尾の方が意外そうな顔をした。
「すでに行き詰まった大人と違って未来の可能性に満ちているから、らしいぞ」
「いやその資本主義やめようぜ」
高尾の言葉を無視して、緑間は家路を辿ろうとする。置いていかれそうになった高尾は慌てて立ち上がって隣に並んだ。真っ黒いコートと、オレンジ色のつなぎは夕日の色合いに似ている。そして高尾が必死についてくることを当然のように享受しながら、緑間は、まあともかく、と言葉を継ぐ。
「俺に関しては、ただちょっとばかし秘密を知りすぎているから取り敢えず殺しておけ、くらいのノリなのだよ」
「いや軽すぎ軽すぎ」
やはり変人の友人は変人だと、変人を愛する高尾は自分を他所にそう考えている。そして腹が鳴った瞬間に、そんなことも忘れてしまった。
「ま、全部終わったお祝いだし? 真ちゃん今日何食べたい?」
「できるだけ簡単なものでいい」
「ありゃ」
大げさに首をひねりながら、なんだろ、サンドイッチとかかな? と適当に言えば、ああそれが良いとこたえが返ってきた。
お祝いって言ってるのに、なんだか欲がないのね真ちゃん。
*
ガシャンと窓の割れる音がしたのと、二人がテーブルから飛びずさったのはほぼ同時だった。床板をはねあげて高尾はナイフを数本取り出し、緑間は棚を引き倒して奥にあるピストルを手に取る。
次の瞬間、ライフルとマシンガンの音が玄関先から飛んでくる。勿論、音だけではなく、銃弾も。入口からは死角になる場所で二人は身を小さくして様子を伺っていた。
「あーあー、食事中なんだけどな!」
「ふむ、やはり来たか」
「え、まさか真ちゃんだから簡単なので良いって」
「赤司のもとに人をやったからな。久々に真太郎を殺しに行ってもいいな、とか思われる可能性があるとは思っていたのだよ」
「だから軽すぎんだよお前の元家族!」
呆れた顔で高尾は手近にあった鏡を銃弾の嵐の中に投げ込む。投げた瞬間に全て粉々に砕けたが、その一瞬と散らばった破片で彼には十分だった。その動作を当たり前のように見ながら、緑間はやれやれとでも言いだしそうな顔で続ける。
「だから引越しをしようと言っただろう」
「いやいや、ええ、嘘だろ?! えっ、あれってそういうことなの?!」
運命の相手を見つけたら引越しをしよう。そんなことを確かに言っていたような気もするが、その説明は一言も無かった。もうちょっと説明があっても良いと思うんだけど、と、その言葉を口にはせずに高尾は鏡の反射で見えた人物像を緑間に告げる。男六人。全員黒髪で恐らくイタリア系。
「真ちゃん誰か知り合いいる?」
「いいや、知らん。外部から雇ったんだろう」
「そっか、じゃあ誰も殺せねえなあ」
鳴り止まない銃声の中で二人は呑気に会話を続ける。恐らく出口は全て塞がれている。銃声は段々と近づいてくる。どうやら絨毯爆撃ローラー作戦よろしくじわじわと追い詰めるつもりらしい。それでも二人に焦る様子は無い。
「真ちゃーん、貴重品は持ちましたかー」
「新しい銀行口座と印鑑持ったのだよ」
「俺との愛は?」
「お前が持ってろ」
台所に付けられたナイフの痕。あまりにも傷つきすぎて、それは、そう、きっと、大きな衝撃を与えれば崩れるだろう。爆発のような、大きな衝撃があれば、穴が空く。
良い家だったと緑間は笑う。笑いながら構えたのは、改造されたショットガンSH03-R。
「俺と真ちゃんの運命は切り離せないっての!」
轟音。
*
新居のあちこちに鼻歌をしつつ隠し扉や倉庫を作っていた高尾和成は、いつになく幸せそうな緑間真太郎の様子に首を傾げた。引越しの片付けを手伝うでもなく、ソファに座って何か手紙を読んでいる。この上機嫌は、先程届いた巨大なダンボール箱を開けてからである。あまりにも幸せそうな様子に、こっそりとその箱を覗いてみれば、そこにはぎっしりと同じ種類の缶が詰めこまれていた。
「新商品、デザート感覚で楽しめる魔法のスイーツ飲料『OSIRUKO』……?」
はっ、として会社を見てみればそれは赤司征十郎の経営する会社の傘下である食品会社の一つであり、オシルコという名前に高尾は聞き覚えがある。まさか、と思い振り返れば、緑間は同封された手紙を読み終わったところだった。
「し、真ちゃん、それ見せてもらえない?!」
「構わんぞ」
機嫌が最高潮に良いらしい緑間はあっさりと自分宛の手紙を高尾へと回した。そこに書いてある文面を読み終えて、彼は新居の床にうずくまる。
『親愛なる真太郎へ。
元気にしているようだね。少年から事情を聞いたよ。今年はアズキが豊作過ぎて廃棄していたから丁度良かった。お陰様で新商品が出来たので送る。お前が好きなら定期的に送ろう。それくらいの利益は出させてもらったのでね。刺激が足りないだろうと思って幾人かフリーの殺し屋を手配しておいたので一緒に楽しんでほしい。ではまた。これから寒さが厳しくなるが風邪などひかないように』
いやいやいや、殺そうとしてる相手に風邪の心配とか殺し屋サービスとかちょっと意味がわからないし、新商品? あのオシルコとかいう飲み物が? 緑間はそれを狙って赤司のところに少年を送ったのか? っていうかもう新居の場所バレてんじゃん?
数限りなく溢れてくる疑問とそれがもたらす頭痛に高尾は呻く。
高尾の視界の端で、緑間は幸せそうにオシルコの缶を開けている。よくよく見ればもう三缶目で、お前の運命の相手ってそういうことだったのと高尾は肩を落とさざるを得ない。そうだね、お前、コーヒー苦手だったもんね。
もういい、問題は全て投げ出してしまおう。やけくそになって高尾も缶のプルタブを開けた。勢いだけで喉に流し込む。噎せる。
どうも緑間の運命は、緑間に甘くできているらしい。
【昔の話Ⅰ】
「ひさしぶりー」
「そうだな、昨日ぶりだ」
暗に久しぶりではないと告げながら、黒いコートをまとった男の顔は目に見えて引きつった。初回に、死ね、と銃を顔面すれすれに撃ち込んでも瞬き一つしなかった、やけに自分を気に入っているらしい同業者のことはここ数日で危険人物として認定されている。この場から消えようにも、如何せん仕事前で、この場所は最も良いポイントだ。タカオと名乗る男は、恐ろしく目ざとくいつも彼を見つけた。
「ねえ、いい加減に名前教えてよ」
「断る」
「本当にほとんど毎日仕事してるよね? 疲れない? 休みたくならない? 手とか抜きたくなったりしない?」
「別に、そこにやるべきことがあるから人事を尽くしているだけだ」
お前には関係ないだろうと睨む緑髪の男には、出会った当初には伺えなかった諦めの色が僅かに浮かんでいる。どうせそう言っても、このタカオと名乗る男は気にしないのだろうと。
「���ーん、やっぱ格好いいわ。好きだよ」
百発百中の殺し屋、誰にも媚びず決しておごり高ぶらない、緑色の死神。
「なんだそれは」
「え、知らないの? 巷じゃこっそり噂になってんだよ。緑色の美しい死神がいるってさ」
「下らない」
取り付く島もない返事にも、タカオは楽しそうに笑う。一体全体何がそんなに楽しいのかわからないまま、死神と呼ばれた男は苛立ちだけを募らせていく。早いところ、殺してしまった方が良い。殺してしまったほうが良い。けれど、今はまだ出来ない理由が彼にはあった。
【ターゲットは瞳!?】
「ねえ真ちゃん、いっぱい働こうね」
「なんだいきなり」
「お前が男らしく七億使った直後に引越し、装備も半分くらい置いてく羽目になって揃え直し、まあ金がねぇんだよ! 借金まみれだよ!」
「働いているぞ、俺は」
「俺もね! それでも全然足りないの!」
カレーを頬張りながら不満げな顔をする緑間に、高尾はこめかみを押さえる。緑間の金銭感覚がまともではないのは出会った当初からだが、今まではそれを支えるだけの収入と貯蓄があった。しかしいかな売れっ子殺し屋の二人とはいえど、七億の宝石は手に余る存在だった。なまじ緑間が派手に買っていったためにしばらくは闇に流すのも問題がある。いまいち状況を理解していない緑間に恨みがましい瞳を向けながら高尾は苦言を呈した。
「ご飯にも困るし、三食赤司からのおしるこは駄目だろ」
「それはそれで構わないが」
「栄養考えて! 俺は別に糖尿病の真ちゃんでも愛せるけどさ! でも糖尿病になって欲しいかって別の話じゃん!」
そもそも俺甘いものそんな好きじゃねえし、そう泣き言を言えども、緑間はお前の好みなど知ったことではないと取り付く島もない。新居は白い家具で揃えられているが、そこに切り傷が付くのも時間の問題と言えた。
「言っておくけど、このままだとラッキーアイテムも買えなくなるぞ」
「それは困る」
最終手段として持ち出してみれば、ようやく緑間は食いついた。カレーを丁寧に掬い取って口に入れる前に、仕方がない考えておくのだよ、とありがたいお言葉が高尾に降り注いだ。
なに真ちゃん、三大欲求よりラッキーアイテムですか。
*
「昔ペアを組んだ相手?」
「ああ」
数日後から緑間は頻繁に外に出るようになったが、その表情は日に日に厳しくなっているようだった。これは緑間には珍しいことである。彼は基本的に性格に難アリでも仕事に関しては天才だ。行き詰まるということは滅多にない。日を追えば追うほど狙いに迫り、予定日に目的を果たす。緑間のグラフは右肩上がり以外の形を取らない。
その男が、日を重ねるほどに重い空気を纏う。はて、何か難航しているのだろうかと高尾が首を傾げた頃、緑間の方から声がかかった。
「次の依頼はお前の協力がいる」
「おお?」
シチューを煮込む手を止めて高尾が緑間のもとへ向かえば、人に物を頼もうとしているとは思えないほど嫌そうな顔が高尾を出迎えた。緑間が何かを頼む際はおおよそ常にこのような感じなので高尾はもう気にしていない。むしろ愛する人から頼られて嬉しくない男がいるだろうかと、反比例するかのように高尾はご機嫌である。
「なになに珍しいね、いいよ手伝うけどどういう感じなの?」
「お前がいれば簡単な仕事なんだがな、俺だけでは少し厳しい」
「それこそ珍しいね。なんで?」
「俺のやり方を知っている相手がいる」
「んんん? どういうこと?」
そして緑間の口から告げられた言葉に、新しい家に記念すべき一つ目の傷がつけられたのであった。
「昔ペアを組んだ奴が相手だ」
ねえ、なんか前も言った気がすんだけど、だから他の男の話なんてしないでよ真ちゃん。
*
「組んだのはお前と会う前の一度きりだったし、顔を見て暫くしてようやく思い出したくらいの奴なんだが」
「それでも、真ちゃんが覚えてるなんて珍しいね」
「ああ」
なかなかに、印象的な奴だったからな、と他意なく言ったのであろう緑間の言葉に高尾は手に持っていたフォークを机に刺した。
緑間真太郎は興味の無いことは覚えない。関係の無い人物は覚えない。それはいっそ清々しいほどに全て忘れる。その緑間の意識に残っているというだけで高尾からすれば嫉妬に値した。けれどシチューに生クリームを垂らしている緑間は気にすることなく食事を続ける。
「それで? そいつがどうしたって?」
「今回の俺の標的に、そいつがボディガードとしてついている。そして、ここからが一番問題なんだが、どうやら俺に狙われていることを今回の標的は知っているらしい」
「情報が漏れてるってこと?」
「恐らく」
緑間が嫌そうな顔をしている理由がわかって高尾も溜息をついた。引き抜いたフォークで青いブロッコリーを突き刺す。さくりといく。
標的が緑間のことを知っていることが問題なのではない、情報が漏れていることの方が致命的なのだ。今バレているということは、これからもバレる可能性がある。単純な話だ。そしてそれは暗殺という点で致命的だった。その流出源を突き止めるのは、人を殺すよりもよほど面倒で手間がかかる。
「まあそちらを突き止めるのは後回しだ。時間がかかるしな」
「あいよ。ボディガード雇うってことはどうせお偉いさんでしょ」
「ネムジャカンパニーの社長だな」
「ああ、あの。なんだっけ、この前新聞で見たわ。ガウロ氏だっけ。結構長生きしてる会社じゃん。十年前くらいから勢い増してるとこか。まあ勢い良くなるのと一緒に悪い噂も増えたけど」
「どうせどこかで恨みを買ったんだろう。どうでもいい」
緑間がどうでもいいと言うならば、彼にとってそれは本当にどうでもいいことなのだ。どうやらこの話題は彼にとってあまり面白くないものらしいと高尾は悟った。自分から振ってきた仕事の話なのになあと彼は溜息をつく。ウイスキーを割りながら高尾はこの話題を終わらせるべく次へ進むことに決めた。
「で、次のチャンスっていつなわけ」
「明後日だ」
あまりにも急な話に高尾の喉から漏れたのはウイスキーと細かく砕きすぎた氷の欠片だ。噎せている高尾を、緑間は汚いと一蹴する。ごめんごめんと謝りながらも、何故自分が謝っているのか高尾は分かっていない。
ねえ真ちゃん、連絡はせめて一週間前って習わなかった?
*
「射程距離は一キロ、標的まで直線が開いてさえいれば決して外すことのない百発百中のスナイパー」
B級映画のような宣伝文句、それを現実に実行してしまう男がこの世の中にいるとは誰も思わないだろう。そう、緑間真太郎と、出会わなければ。
オーダーメイドのスーツに身を包み、新品の革靴を光らせ、髪の毛をきっちりセットした高尾は薄笑いを浮かべながら、現在八百mほど離れた屋上にいる男に思いを馳せる。まあ人外だよな、と彼は思う。
熟練した銃の狙撃はただでさえ厄介だ。それが一キロ先ともなれば視認することはまず不可能。周囲一キロを全て護衛することなど大統領クラスでなければ到底できやしない。いいや、今まで暗殺に倒れた大統領の中で、誰が数百メートル先からの銃弾に当たっただろうか。それは全て、至近距離からのものではなかったか。キロ単位なんて前代未聞。
そして一キロの距離を、弾丸は一秒で詰める。
それを避けられる人間がいるならば見てみたいと高尾は思う。
「失礼」
するすると宝飾にまみれた人ごみを避けて高尾は歩く。その動きは不審ではないが、もしも誰かがじいっと見つめていたらその滑らかさに感嘆したかもしれない。
けれど、どれだけ滑らかに動けども、人が歩く速度には限界がある。乗り物に乗って移動するにも限度がある。バイクに乗っても一キロ先に行くのに一分はかかるだろう。
そう一キロ先からの狙撃とは、そういうことだった。捕まえることが、出来ないのだ。
仮に一分でたどり着くとしても、その一分の間に緑間は装備を解体して車に乗り込むことができる。後は逃げればいいだけだ。それも、一キロ離れた狙撃元を明確に理解できていたら、というとんでもない前提をもとにした話、実際はそううまくはいかない。探す時間を含めて三分で済めば奇跡だろう。そしてそれは逃亡するには十分な時間である。
サイレンサーを付ければ音も消え、狙撃元はよりわかりにくくなる。
まだ高尾が緑間と直接出会う前、緑の死神と風の噂で流れては来たが、彼の緑色を捉えた時点で、その人物は相当の人間だったのであろう。普通は、その姿を見ることなく全て終わるのだから。
「招待状をこちらへ」
「お招きに預かり光栄です、ガウロ氏のお屋敷一度拝見したいと思っておりました」
人好きのする笑顔を浮かべながら高尾は招待状を差し出す。ポーターは無表情のまま招待状を受け取って裏へと消えていく。その間は警備員が高尾を見張っている。招待状は無論偽物だがバレるとは思っていない。ここでつまづいていては話にならないのだ。裏で招待状が綿密にチェックされている間、欠伸を噛み殺して、彼は愛する緑間真太郎を思う。この寒空の下、呼吸すら失ってただ静かにタイミングを待っている男のことを。
銃の射程距離は遠距離狙撃で三キロ以上のものもある。一キロという着弾距離自体は、別にないものではない。しかしそれが、百発百中というのが問題なのだ。問題。そう、緑間のそれは災害とも言うべき問題だ。一キロ先。天候や筋肉の微細な動き、銃の調子、全てがそれを左右する。一ミリのずれは、一キロ離れればメートル単位の誤差だ。それが百発百中というのだから、その技術がどれだけ繊細で神がかっているかわかるだろう。
「ようこそおいでくださいました、ミスタ」
暫くして出てきたポーターは招待状を高尾に返すと僅かに微笑んだ。うやうやしいお辞儀に見送られながら高尾は赤い絨毯を踏みしめる。
着飾った婦人と紳士の間を交わしながら、彼はホールへと向かう。この豪邸から少し離れた場所では子供たちがゴミ山で暖を取りながら埋もれていることなど信じられないような、きらびやかな世界。
しかしその華やかさとは裏腹に、全てのカーテンは分厚く閉ざされ、少し閉塞感を生み出していた。ご丁寧に固定され、風や客の手遊びで開いたりすることのないようになっている。
(成程、こりゃ確かにバレてるわ)
しかし緑間の正確さ、それは逆に言えば、つまり緑間の視界から外れさえすれば、狙われることは無いということである。
見えないものに向かって撃つことはできても、狙うことは出来ない。
これが緑間の正確さの弱点でもあった。他にも緑間には、自分の信念に基づいた致命的に大きな制限がある。故に、彼を相手にする際、他者を巻き込むような乱射や爆破に注意する必要は無い。スナイパーライフルは巨大だし、小型のピストルだって会場の入口で持ち物検査で引っかかって終わりだ。今回も勿論高尾は綿密なチェックを受けている。そもそも近距離で殺してしまっては、そこから逃げ出せるという緑間の特性が全く生かされない。
わざわざシェルターに閉じこもらなくとも、カーテンを締め切るだけで、緑間の視界からは外れる。単純だが効果的な手段だ。一生、緑間の目から逃れられるなら、緑間に殺されることはない。
けれど、金持ちが誰にも合わずにいられるはずもないのだ。
全くもって皮肉なことだと高尾は思う。金持ちになればなるほど恨まれやすくなり、標的になりやすくなる。そして、金持ちであればあるほど、社会的に上の立場にいればいるほど、彼らはそれをアピールしなければならない。そういった付き合いをしなくてはいけない。自分の権力を、財産を、力を、知らしめなければいけない。それが彼らの仕事の一つだ。そうしてまた、恨みを買っていく。その連鎖。
今回、高尾が潜り込んだのは、手に入れた宝石のお披露目パーティーとやらであった。その話を聞いた時はあまりのくだらなさに呆けてしまったものである。命を狙われていると知っているのに、しかもそれが緑間真太郎であると知っているのに、こんな下らないパーティーで命を危険に晒すというのか。
(ま、しかし赤司さまさまだわ)
それとも、潜り込むことなど出来ないという自信でもあるのだろうか。確かに緑間は近接の暗殺には向いていないし、コンビである高尾の存在を知らない人間は多いだろう。そのためにも、二人、極力別々に仕事をしているという側面もあるのだ。
まあ、それが運の尽きだと、何の感慨もなく彼は飲み込む。高尾和成を知らないことが、運命に選ばれなかったということなのだと。
(確かに赤司いなかったら厳しかったかもだし)
金持ちの親戚付き合い知り合い付き合いというのは広い。誰それの娘婿の弟の従兄弟の云々。関係は蜘蛛の巣のように広がり絡まっていく。そして結束を強くし、いらないものを切り捨てて肥えるものは益々肥えていく、それが金持ちの常套手段だ。顔も知らない相手を、利益になりそうだからと平気で招く。だからこそ招待カードには華美と工夫が凝らされるわけだが、それさえ偽造できてしまえばあとはこちらのものだった。
そして大抵の招待状は赤司の元に届いている。
それを緑間がどのようなやりとりの結果入手したのかは知らないが、流石に本物を使うことは禁止されていたが、本物があれば高尾にとってそれを偽造することはたやすい。緑間と違って近距離、接近しての暗殺がメインの高尾が長年の間に身につけた技術であった。
立食形式になっているらしい会場で、白い丸テーブルがランダムに、けれど一定の景観を損ねないように並んでいる。盛り付けられた花やレースは美しく、どうやらプランナーは一流のようだった。主席が来るであろう位置を確認した高尾は、それに背を向けるようにして適当なテーブルに陣取る。手持ち無沙汰にしている一人の婦人を見つけて笑いかける。そしてボーイから二つグラスを受け取って近づいていった。
さて、どうしましょうかね。
*
耳に当てた通信機から、数秒おいて悲鳴と怒号が聞こえたことを確認して緑間は伸びをした。数時間同じ姿勢で微動だにしなかった筋肉は固まっている。ストレッチをしながら、耳元の悲鳴をBGMに、仕事が成功したらしいことを思う。
てきぱきと荷物を片付けると彼は走ることもなく、平然と階段に向かっていく。下手に目立つことをする方が危ないと彼は知っている。どうせ、この場所を見つけるまでに五分はかかるのだから。焦る方が間抜けだと彼は思っていた。
さて、これからどうやって情報流出者を突き止めようかと次のことを考えていた彼の耳元で、唐突に音が途切れた。叫び声が消え、途端に夜の静寂が彼に襲いかかる。聞こえるのは彼自身の呼吸だけ。
通信が途切れた緑間は首を傾げた。無音。自分の機械を確認してみるが電源は変わらずに点いている。
脱出し、落ち合うまで通信機は入れっぱなしであるのが常である。何か非常事態があって電源を落としたとも考えられるが、そもそも通信機は見た目でバレるようなものではない。持ち物検査でも気がつかれないのだ。緑間から高尾に飛ばせない、高尾から緑間への音声の一方通行である代わりに、最大限に小型化され、洋服に仕込まれている。
数秒固まった緑間は、僅かに眉を潜めると屋上でコートを翻して走り出した。手すりに引っ掛けるようにしたロープを掴んで、減速することなく飛び降りる。ビルの下にはバイクがつけてある。
今高尾は潜入するために丸腰だ。小型通信機の持ち込みだけで精一杯。故障や何かの不慮の事故で電源が落ちただけならばいい。
けれどもしもそうでなかったなら、もしも見つかってしまったなら。もしも、緑間の仲間だと気がつかれたなら。
さて、どうしてやろうか。
*
「よくまあ気づいたよなあ。俺、目立つような行動一切してなかったはずなんだけど」
「お前がシンと一緒に歩いている所を見た」
「んあー、成程、そういうこと」
顔面から血を流して高尾は笑う。骨折まではしていないようだが、十分に痛めつけられているとわかる姿で、彼は一人の大男に引きずられていた。手足は拘束され、身動き一つ取れない状況で、屋敷の奥へと無理矢理連れられながら高尾は笑う。
「そうだよなあ、真ちゃんは目立つからなあ」
「よくあの男をそんな風に呼べるな」
「真ちゃん? 真ちゃんを真ちゃんって呼んでいいのは俺だけだし、真ちゃんって言葉じゃ表現できないくらいにかわいくてかわいくて仕方ないけど、でも別にそのかわいさを教えてやるつもりもないしなあ」
「いや、わかった、お前も相当にクレイジーな奴だ」
捉えられている筈の高尾は陽気に、そして引きずっている筈の男のほうが顔を引きつらせながら曲がりくねった廊下を歩く。侵入者を拒むように、複雑に作られた屋敷。
セレモニーの場に現れた男、今回のターゲットが額から血を溢れさせた時、高尾はその男に背を向けて談笑していた。目の前の婦人の悲鳴、さもそれで気がついたかのように後ろを振り返り、緑間の仕事が見事に成功したことを悟り、気を失いそうな婦人を介抱するフリをして外へ出ればそれで高尾の仕事は完了だったわけだが、どうやら本当に運の悪いことに、緑間とペアを組んでいた男は、高尾の顔も知っていたらしい。
いや、緑間が顔を見て思い出したと言っていた。そのことを高尾はこの期に及んで思い出す。緑間から見えたということは、この男からも見えたということだ。その時、高尾が側にいなかったと、誰が断言できるだろう。自分の迂闊さに彼は血の味しかしない口をあげて笑う。
「で、なんで殺さないわけ……って、わかりきってるか、そんなの」
「ああ」
「大分ボコってくれたけど」
「人の命を奪っているのだから、それくらいの報いはうけろ」
「そりゃ、その通りだわ」
高尾の左ポケットに入れていた通信機は衝撃で壊れている。小型はヤワでいけないねえと彼は改良を心に決めた。緑間に現状を伝える術はない。それでも、引きずられている自分の姿と、その男から伝わる振動に、高尾は笑っている。
ああ、もう、本当に、これだから!
*
「ようこそ。君がシンの相棒?」
「ありゃ、随分とちっせえなあ」
高尾が連れてこられた場所は屋敷の最奥、巨大な樫の木の扉を開いた応接室だった。扉を正面に、革張りの椅子に座る人物は、その椅子の重さに比べて、随分と軽そうな、男。
「ええ、ですがあと数年もしたら伸び始めますよ」
そう、男というよりは、少年という方が的確だった。まだ伸びきっていない手足に、滑らかな肌、声変わりをしたのか定かではない柔らかい声。
「あんたがこの屋敷の主人?」
「ええ」
「随分若いんだね」
「今年十六になります」
「そりゃ良いね」
「いやあ、良い事なんて何も無いですよ」
椅子に合わせた机にも、少年の体は不釣り合いだ。それでも、そこに座るのが当然といった様子で彼は微笑んでいる。何かに似ている、と思った高尾は、一度だけ遭遇した緑間の元家族を思い出して溜息をついた。世の中には、たまにとんでもない子供が生まれるものだ。
「六歳の時に父さんや母さん兄さんを殺したまでは良かったんですけど、当時の僕は馬鹿でね、六歳なんて社会的になんの力も説得力もないということに気がついていなかったんです」。
「あんた、家族全員殺したのか」
「まあ、そういうことになりますけど、どうでもいいじゃないですか」
「そうかな」
「ええ」
僅かに目を細めた高尾に気がついているのか気がついていないのか、少年は話し続けている。その頬が僅かに上気していることに気がついて、高尾は僅かに哀れみを覚えた。
「殺してもらった彼は遠い遠い親戚なんですが、僕の力でここまで来れたというのに段々調子に乗ってきてね……まあ幸いにも、僕も自分の意思が認められる年齢になりましたから、ここらで死んでもらおうと思いまして」
これは、少年の自慢話なのだ。
「依頼主はぼくですよ」
種明かしをするように楽しそうに少年は笑うが、そんなことはこの部屋に入った瞬間から高尾にはわかっていたことであった。
「じゃ、なんで俺は捕まえられたわけ? あんたの希叶って良かったんじゃないの?」
「殺し屋を捕まえたほうが後継は楽でしょう」
そしてまた予想通りの答えに高尾は苦笑してしまう。
この少年が社会的にどういった扱いになっているのかはしらないが、ガウロを殺した実行犯を見つけ、ついでに誰か適当な人間をそのクライアントだったと糾弾し、自分がこの屋敷の正統な血統だと証明して跡を次ぐ。そんなシナリオを描いているのだろう。正直な話し、稚拙だ。稚拙で、単純である。しかし稚拙で単純なストーリーは人々の心に届きやすい。それは、わかりやすさに繋がるからだ。その点で、この少年は確かに正しかった。
「あなたたちのこと調べさせて頂きました。百%の達成率を誇る殺し屋。あの男が万全の警備をすることはわかりきっていましたしね、殺せないんじゃ仕方ない」
「別に俺たち以外にも適任は沢山いたと思うけど」
「調べさせてもらったと言ったでしょう。あなたがたは依頼された人物以外は殺さない。女子供老人若者、一般人もマフィアも。何故そんなポリシーを持っているのかは知りませんが、何より、敵に襲撃をされても殺さないというのは驚嘆に値します。だったら、僕が君たちを裏切っても、君たちは僕を殺せないでしょう?」
そう、少年の計画は単純ながら、単純ゆえに、正しかった。ただ、前提を圧倒的に間違えていただけであった。
「いや、君のこと頭良い少年かと思ったけど全部撤回するわ。君、ただの馬鹿だわ。それも、大馬鹿。ただのガキんちょ」
「なんですって」
「そんなちっこい体? あれ? 君百六十ある? ギリそんくらいだよね? まあそんな体でこんな計画して調子乗っちゃってんのはわかるけど、そんなでっけー椅子にふんぞり返って座っても大人にゃなれねえよ」
「負け惜しみですか」
「んん? 別にそう思ってもいいけど、真正面からお前に向き合ってる人間にそういうこと言うのはどうよ」
上気していた少年の頬は今怒りで赤く染まっている。それを見て、高尾はやはり哀れみしか覚えない。馬鹿だなあ、と、そう思うのみだ。そもそも十六歳という年齢に頼らなければ大人を従えられないという時点で器は知れていた。
赤司、お前と似てるとか言っちゃってごめん。少なくともお前は自分の年齢���言い訳になんて一度もしなかった。
「いやー、なんでこんな奴ん所で働いてるわけ?」
今までの全ての口上を無視して自分を連れてきた男に高尾は話しかけた。その様子に少年は気色ばんだが、話しかけられた男は、なんてことないようにその質問に答える。
「今度子供ができるんだ」
「なるほど」
満足げに笑って、高尾は少年に向き直った。その顔は笑ってはいたが、その瞳は猛禽類のように尖っている。少年は僅かに怯んだが、それはきっと、高尾に怯えるには少し遅すぎた。少年が、世界を知るには、遅すぎた。
口を開く最後の瞬間まで、高尾の表情は笑顔で象られていた。
「だってさ、真ちゃん」
「成程」
その瞬間、空気がかすれるような音が二発響いた。
いいや、殆どの人間には一発にしか聞こえなかっただろう。それほどまでにその音は連続しており、微笑む高尾の前で、少年は額から血をあふれさせている。そうしてそのまま、机にうつ伏せるように倒れた。その表情は高尾に怯えた瞬間のまま、自分が死んでい���ことにも気がついていない。
扉に空いた穴は一つ。正確な射撃は、一発目と全く同じ軌道で、一ミリもずれることなく二発目を撃ち込んだ。
障壁を壊す一発目はどうしても軌道がずれる。それをカバーするように、全く同じ軌道で撃ち込まれた二発目は正確に少年の額を貫いた。それは、先程ガウロを殺した時と全く同じ手段。
次の瞬間にドアノブが外側から高い金属音を立てて飛び散った。開く扉の向こうでは緑間が冷たい瞳で待っている。その瞳はたった今一人の少年を殺したとは思えないほど凪いでいた。
「俺の目から逃れられると思うな」
そう告げる緑間の言葉は、少年には届かない。
狙われた人間は緑間の視界から外れれば、死なないで済む。それは絶対の真理だ。緑間の目に、映らなければ。そう、風の噂で緑の死神を知っている人間はいれども、その死神にコンビがいることを知っている人間は少ない。
死神の瞳が、四つあることを、知っている人間は少ないのだ。
「久しぶりだな、ビル」
「廊下には十五人配置しといたんだけどなあ」
「百人用意しておけ」
十五人の警備がいたという廊下からは呻き声が聞こえる。死んではいないが、手足は使い物にならなくなっているのだろう。
うつ伏せて死んでいる少年に目もくれずに緑間は高尾のもとへと歩く。へらりと笑った頭を思い切り叩くと、拘束具をほどきにかかった。そのあまりの唯我独尊ぶりを、相変わらずだなとビルと呼ばれた男は笑う。
「あんたの相棒にちっとは手を出したが、そうじゃなきゃ俺が雇い主に疑われるんだ。骨まではやってねえ。勘弁してくれ」
ちらりと高尾から視線を上げると、緑間は暫く無言だったが、苦々しげに吐き捨てた。
「……まあ、お前には家族がいるしな」
その一言に、やはりまだあのルールは有効だったのかとビルは笑う。
緑間真太郎が自らに課した最も大きな制限、それは、家族がいる者は殺さない、そんな歪んだ正義である。その理由を知る者は少ない。緑間も正しいと思っているわけではなく、ただそれが彼のルールであるというだけだ。依頼を引き受けるか否かの基準も基本的には全てそれである。家族がいなければ良し、いれば断る。
彼が周囲の他の人物を殺さないのは、襲撃をされても決して殺さないのは、ただ、家族がいるかどうか咄嗟にはわからないから、その一点のみである。もしも天涯孤独の身の上ばかりをターゲットの周りに配置したならば、きっと緑間は無表情のままマシンガンを乱射していただろう。
「しっかしビルさん震えすぎだろマジで。俺笑い堪えんの必死だったわ」
「当たり前だ、緑の死神に依頼したって聞いた時はションベンちびるかと思ったぜ」
冗談を装っているが、実際にビルに触れてここまで連れてこられた高尾はその言葉が嘘でないことを知っている。彼はずっと怯えていた。元ペアを組んだ、緑の死神を、ずっと恐れていた。その振動は、引きずられている時から伝わっていた。その気持ちはわからなくもないと高尾は思う。間近で見ていたからこそ、その恐ろしさを知っている。
緑間の武器は銃全てだ。何もスナイパーライフルのみではない。ただ、安全面から遠距離を選択しただけ。近いのと遠いのだったら、逃げるとき遠い方がお得だろう、そんな単純な理論で彼は一キロ先からの狙撃を実現させた。
屋敷の奥、招待客がいなくなった場所で、緑間が遠慮する理由など一つもない。
「しかしまあビルさん、これから大丈夫なわけ? 依頼主死んじゃったし、報酬もないんじゃない?」
「別に警備団長ってわけじゃなし、そもそも殺し屋だ。こっち方面で評判が落ちたって気にすることじゃねえやな」
そうやって笑うビルには怯えた様子はもう見受けられず、なかなかにタフな男だと高尾は認識する。この世界で生き残っていくために必要な臆病さとタフさを、彼はしっかり兼ね備えているようだった。
「エリーは元気なようだな」
「お陰様で。今度見に来るかい」
「断固断る」
しかし目の前で高尾のわからない話を始める二人に、殴られても捕らわれても笑みを崩さなかった高尾はみるみるうちに不機嫌になっていった。
「ねえ真ちゃん!」
「なんだ」
「俺の前で前の男と話さないでよ!」
その瞬間に容赦なく振り下ろされた拳に、ビルは呆れたような溜息をついた。
緑の死神も、随分と俗物になったもんだ。
*
「え、真ちゃん、どうしたのこのお金」
「今回の報酬だ」
「いや、だって依頼主殺しちゃったじゃん?」
「俺のところに来た依頼は、カンパニーの社長を殺せ、という依頼だったからな」
「え?」
アタッシュケースを放り出した緑間は興味がないのか、くるくるとぬいぐるみの熊の手をいじっている。それは昨日までこの部屋に無かったはずのもので、どうやら緑間はまた散財をしたらしい。しかしそれを注意する余裕は今の高尾には無かった。
「何故名前の指定がないのかと思ったが、表と裏で二人いたのなら納得だ。全く、こんなことならもう少しふんだくればよかったのだよ」
「え、いや、だって依頼主ってその裏の少年の方で」
「ああ、そちらから、あの男、ガウロを殺せという依頼を受けて、ほかの奴からはカンパニーの社長を殺せという依頼がきた」
「同時に受けたの?!」
「同時期に来たのだから、両方受けて両方から金をもらうほうがお得だろう」
まあ今回は結局片方からしか受け取れなかったわけだが、零報酬よりはマシだったのだよと緑間は何でもないかのように言う。標的が同時期にかぶるというだけでも偶然の力は凄いが、じゃあお得だしという理由で両方同時に受けてしまう緑間の図太さも並大抵のものではない。
「嘘はついていないのだし」
と本人は言うがギリギリのところだろう。しかし。
「これで借金が返せるな」
と、そう言葉を継がれては高尾に返す言葉はないのであった。
真ちゃんって、本当に素直でかわいいおバカさんだよね。
【昔の話Ⅱ】
「いい加減に教えたらどうだ」
「何を?」
「お前の家族構成だ」
「えー、どうしよっかなー」
連日現れるタカオに、彼は苛立っていた。いらないことはべらべらと喋る癖に、肝心なことは一つも話そうとしない。
「早く教えろ、でなければお前を殺せない」
「情熱的だなあ」
へらへらと笑いながらも、タカオは彼に教えようとしない。銃口を突きつけても全く動揺する気配がない。家族構成を知らなければ殺せないと、口を滑らせるべきではなかったと彼は後悔する。けれど、最初の弾丸に全く怯えなかった時点で、この男に下手な脅しは無意味だと薄々気がついてしまったのだ。
「あ、じゃあさじゃあさ」
「なんだ、教える気になったか」
「名前! 教えてくれたら俺も教えるよ。どう?」
「却下だ」
一瞬もためらわずに切り捨てたことにタカオは落胆の色を隠さない。
「なんで? そんなに悪い条件じゃないと思うんだけど。俺はもう名前教えてるしさ、別に名前知られたら死ぬわけじゃないだろ? 日常生活、全部本名で暮らしてるわけじゃないだろうしさ」
「断る」
「なんで」
「名前は、家族だけが知っていればいいものだ」
「ええー」
一般とはかけ離れたその理論に、タカオは首を落とす。そうしてしばらく唸った後に、彼はさも名案を思いついたと言わんばかりにこう告げたのだった。
「じゃ、俺、お前の未来の家族になるわ!」
これは、いつかのどこか、昔の話である。
【ターゲットは君!?】
緑間真太郎が朝目覚めてみると高尾和成の姿がなく、朝食の準備もされていなかった。普段嫌というほどまとわりつき、朝になればベッドに潜り込んでいることもある煩い男は、忽然と姿を消した。
その日一日、彼は何も無いまま過ごした。そして高尾の作りおきのおしるこが無くなったことを確認して、缶のしるこを飲み、缶のしるこが残り八缶である、そのことを確認した。流石に夜になると腹が空いて仕方がなかったので、外に食べにでかけた。
そんなことを三日ほど繰り返したある日、彼は先日仕事で久々に再開した男にまた出会った。そういえば、と彼は思う。街で高尾と一緒にいるところを見られたのだから、似たような場所に住んでいる可能性は高かった。
*
「今日はタカオくん、一緒じゃないのか」
「消えた」
「え、大丈夫なのかよ、いつ」
「三日前の朝だ」
あまりにも常と変わらない緑間の様子にビルは戸惑っているようだった。以前の様子から、二人が互いのことを憎からず思っているのは自明の理のように思えた。それがどうだ、消えたというのに、片割れは平然とスパゲッティを口に運んでいる。
「お前、タカオくんのこと好き?」
「馬鹿か」
「あっそ、彼はのろけまくってくれたのにな」
「会ったのか」
「おう。つっても今日じゃねえよ。あれの四日後くらいかな。エリーって誰だって滅茶苦茶しつこく聞かれた。面白かったから言わなかったけどよ、お前、猫だって言ってなかったのか」
「そういえば言っていなかったな」
ビルの家族は猫だ。両親と死に別れたというビルは天涯孤独の身の上である。それを知った時、ではお前は殺してもいいな、と緑間は呟いたが、その時に彼は必死に主張したのだ。
確かに俺には親も恋人もいないが、俺にはエリーっつう大切な奴がいる。娘でもないし親でもないし恋人でもないが、俺の家族だ。
その主張を緑間は受け入れた。猫なんてあんな動物を家族と思うだなんて、お前は随分と変わっているなと、そのことは緑間の意識に強く残った。今度生まれるという子供も、そのエリーの子供だろう。
「そもそもお前、アイツと、タカオくんとどうやって出会ったんだよ」
猫を家族と呼んで憚らない男は、食事のつまみに思い出話を求める。
なあ、なんか、ロマンチックな出会いでもしたのか?
*
「何故昼間までついてくる……」
「いや、冷静に考えたんだよね」
「何をだ」
「なんで俺のこと信じてくれないかって。それで思ったんだけど、やっぱいきなり夜這いはまずかったよね。ちゃんとお日様の下、清く正しいデートをしてからのお付き合いが必要っつーか」
「死んでくれ」
仕事の時に毎回現れる男が、まっ昼間のカフェで現れた時、今度こそ彼は逃げようと思った。運ばれてきたばかりの前菜など知ったことではない。消えよう。立ち上がろうとする男に、タカオは勝手に向かいの席に座ると注文を済ませてしまう。そのタイミングでスープが運ばれてくれば、完全に彼は時期を逸してしまった。
「ねえ」
「なんだ」
「名前」
「断る」
サラダを食みながら緑髪の男はあっさりと切り捨てる。何度も尋ねればいずれ答えてもらえるとでも思っているのだろうか。何度聞いても答えはノーでしかないというのに、である。
けれどわざわざ昼間に出てくるだけあって、今度のタカオは少し方向性を変えたようだった。
「じゃあさ、あだ名教えてよ」
「は?」
「あだ名っつか、コードネームみたいなのあるだろ。仕事の都合で使う名前。本名じゃなくていいからさ」
「何故教えなくてはいけないんだ」
「だって俺これからもつきまとうけど、教えるつもりは無いんだろ? 俺に馴れ馴れしく『お前』とか呼���れ続けたい?」
「…………」
「な、本名じゃなくていいから」
そしてきっと、彼が折れてしまったのも、ここが長閑な昼間のカフェだったからに違いないのだ。
「…………シン」
「え?」
「シン、だ。呼ぶなよ」
「わかった! じゃあシンちゃんね!」
「は?!」
渋々教えた仕事用の名前が、そら恐ろしい響きのものとして返ってきたことに彼は驚いた。それは、怯えに近いほどに驚いた。彼はそのように呼ばれたことなど無かった。それを発したタカオはといえば、遂に名前のはし切れを教えてもらえたことが嬉しいのか上機嫌でシンちゃんシンちゃんと繰り返す。
「即刻やめろ。今すぐにやめろ」
「ふふふーん、シンちゃんシンちゃん」
「やめろと言っているだろう、タカオ!」
激高した彼は街中だというのに普通に怒鳴ってしまった。視線が彼に集中する。しまった、と思うがすでに遅い。しかし、それに対してタカオが反省するでも怒るでもなく、酷く嬉しそうにしているもので、周囲の注意は案外すぐに逸れることとなった。
「今、俺のこと呼んでくれたね?!」
「はあ?」
「初めて俺のこと呼んでくれたじゃん! うわ、超嬉しい!」
どうやら自分がうっかり相手の名前を呼んだことにここまで喜ばれていると悟って、彼は遂に体から力を抜いた。真剣に対応している自分が酷く馬鹿らしく、滑稽に見える。
運ばれてきたメインディッシュを見て、彼はフォークをひっつかんだ。食べることに集中しよう。そう思ったのである。
そもそも何故こんな奴にまとわりつかれなくちゃいけないんだ。
*
「お前は何故俺にこだわる」
「シンちゃんのことが好きだから」
「ふざけるな」
そういえばその理由というものをしっかり聞いたことがなかったと、彼はことここに至ってようやく気がついた。いつもいつも、好きだ愛してる名前教えてと適当な言葉で誤魔化されて、本心など聞く前に疲弊しつくしていたのである。
タカオは左手でくるくるとパスタを巻きながら笑っている。誤魔化すつもりらしい。けれど彼に折れるつもりが無いのだと悟ると、タカオにしては珍しい、気まずそうな表情で語りだした。
「俺さ、実は前にシンちゃんにあったことあるんだ」
「なんだと?」
「いや、会ったっつーか、会ってないんだけど、なんつーかさ」
そこで僅かに首を傾げる動作を入れて、タカオは考え込んでいるようだった。それは、話す内容に悩んでいるというよりは、話している自分に疑問を抱いている、といったような様子である。
「俺の獲物横取りされたわけ」
「は」
「俺もさ、こう見えてもそれなりに仕事にゃプライド持ってたし、ちゃんと周囲に他に人がいないかとか全部気をつけてたのに、それでもお前に気がつかなかった。まさか一キロ先から狙撃してくるとは思ってなかったけどさ、そういう想定外の存在がいたっつーのが、なんか、悔しくてな」
「悔しいのか」
「悔しいさそりゃ」
怯えられ、恐れられ、疎まれることこそ始終だったが、悔しいと言われたことが初めてだった彼は戸惑った。以前一度だけ都合上仕方なくコンビを組んだ相手も、お前が怖いと、はっきりと彼に告げていた。そうはっきりと告げるだけ、そのコンビの相手はやりやすかったとも言えるが、それでも、だ。それでも、彼の周囲につきまとうのは怯え、あるいは、それを上回る怒りのみだった。
それ以外の感情を、彼に教えたのは、唯一。
「お前は、少し、赤司に似ているな」
「アカシ? 誰それ」
「…………俺の家族だ」
今度こそ完全に口をすべらせたことを悟って彼は舌打ちをした。その様子をタカオは不思議そうに眺めていたが、小さく「アカシ、ね」と呟くと、何事もなかったかのように続きを話し始める。
「ま、そんなわけで悔しくて悔しくてぜってーいつかお前超えてやると思って色々頑張ったり調べたりしてるうちになんかすっかりファンになっちゃって、好きになっちゃって、以上」
「全くわからないのだよ」
「恋ってそんなもんじゃねえの。じゃ、次シンちゃんの番な」
「は?」
「俺ばっかり話しても仕方ないじゃん。タカオくんから質問ターイム」
ふざけるな、俺は話さないぞ、そう言う前にタカオは笑みと共にたたみかけた。
「アカシって誰?」
ああ、やはり、昼間に会うべきではなかったのだ。彼の胸に襲い来るのは果てしない後悔である。何が何でも消えれば良かった。けれど日差しは柔らかく、人々が笑いさざめいているこの穏やかな世界で、無駄な波乱を起こすことは、どうも彼にはためらわれたのだ。
「…………家族だと言っただろう」
「家族ねえ」
「ああ」
「家族かあ」
タカオは首を傾げている。シンちゃんは、家族を大切にするんだねえ、と一人で納得している。その様子が何故か不快で、これ以上話すまいと思っているにも関わらず彼の口からは言葉が飛び出した。
「家族を大切にしない奴はいないだろう」
「そうかな。家族でも酷いことするのなんてありふれた話じゃん」
「それは、家族ではないのだよ」
「ふーん?」
楽しそうにタカオは話を聞いている。けれど実際、楽しそうなのはその表情だけで、瞳の奥が全く笑っていないことに彼は気がついていた。家族は、誰にでも存在する、誰にでも存在するからこそ、誰もの傷に直結しているのだと、そう彼に教えたのも赤司だった。
「シンちゃんにとっての家族ってなにさ」
「家族は、家族だろう」
「血の繋がりってこと?」
「結婚した男女間に血のつながりはないだろう」
「そういうものじゃない。もっと精神的なものってこと?」
「そうだな、血が繋がっている必要は、無い」
「成程成程」
じゃあさ、とタカオは尋ねる。笑いながら尋ねる。けれど、その瞳の奥は確かに燃えている。彼にとって家族という存在が全ての基準になるように、タカオにとってもまた、その言葉は看過することのできない鍵の一つだったのだろう。
「もしも家族に殺されそうになったらどうすんの」
「家族は、殺さない」
「いや、そうじゃなくてさ」
「家族は、殺しあわないものだ。家族は、家族を殺さない」
そう、赤司が言っていたのだよ。そう告げた彼の表情を見て、タカオは先程までの炎はどこへやら、呆けたように彼を見つめていた。彼の、エメラルドの瞳を見つめていた。
「ごめん、ごめんシンちゃん、意地悪な質問した。ごめん。だから泣かないでよ」
タカオの言っている言葉の意味が彼にはわからない。泣いてなどいないのだよ。そう告げれば、でも泣きそうだよと笑われた。
「なあ、俺、わかった」
暫くの間、二人の間には沈黙が降りた。ウエイターが食後のコーヒーを持ってきたことを皮切りに、タカオはまた話し出す。俺、わかったよ。
「シンちゃんはさ、やっぱ、普通に幸せになるべきだ。素敵な幸せを手に入れるべきだ。こんなんじゃなくてさ。こんな殺し屋なんてやめちゃいなよ。シンちゃんなら他にいくらでもやりようがあるよ。この街ならやり直しなんていくらでもきく。そんでさ、幸せな家族作るべきだよ。『ただいま』って言ったら、『おかえり』って返ってきて、美味いメシとあったかい風呂があってさ、なんか適当にじゃれあいながらその日のこと話したりして寝るの。そういう、普通の幸せ。そういう家族をさ、手に入れるべきだって。」
微笑みながらタカオは畳み掛ける。シンちゃんはそれがいい。シンちゃんは、お日様の下が似合うよ。
「そしたら、俺は邪魔だけどさー」
笑いながら彼は告げる。暗殺者にふさわしくない、太陽のような笑顔で告げる。
シンちゃんがそれで幸せになるなら、俺は嬉しいなあ。
*
「真太郎」
「なんだ、赤司」
「次の依頼だ。ちょっといつもとは勝手が違う」
「どういうことだ」
「相手はお前と同じ殺し屋だ。どうも最近しつこく嗅ぎ回られて不愉快だからね」
「わかった」
「お前なら大丈夫だとは思うけど、一応相手もプロだから気をつけて。無理はするなよ。お前が怪我をするところはあまり見たくない」
「心配するな。俺なら問題無い」
「ああ、信じているよ」
「これが、資料か」
「ああ、そうだ。勿論相手に家族はいない。きっちり調べてあるから間違いない。遠慮なくいってくれ」
「…………」
「真太郎?」
「なんだ」
「僕はお前の家族だよ」
「……ああ、知っているのだよ」
「それなら良いんだ」
「赤司」
「なんだい?」
「…………いや、なんでもない」
「うん。それじゃあ、『行ってらっしゃい』」
*
「え、あれ、嘘、シンちゃんから会いに来てくれるとか、なにこれ夢かな?!」
真夜中の零時。彼の前でタカオは笑う。二人の距離は五メートル。走れば一秒かからないであろう距離。
けれど弾丸は、それよりも早い。
「なーんて、んな訳ないよなあ」
「っ、タカオ!」
銃声は一発、タカオが一瞬で左手に構えたナイフを弾き飛ばした。
それを成したのは常に彼が愛用しているスナイパーライフルではない。M28クレイジーホース、その愛機を彼は置いてきた。代わりに手にするのは近距離用リボルバー。
「はは、シンちゃん、手加減してくれたんだ」
直接撃ち抜かれたわけではないとはいえ、ナイフ越しに至近距離で当てられた左手は痺れて感覚も無いだろう。骨が砕けていてもおかしくない。
それでもタカオは笑っている。
「今、俺の頭撃ち抜けばそれで一発だったのに。それで全部終わったのに。なんでそういうことしちゃうかな、シンちゃんは」
「タカオ、お前は」
「俺、期待しちゃうじゃん」
その言葉が終わるか否かのうちにタカオは彼に向かって一直線に突っ込んできた。使えなくなった左手の代わりに、右手に別のナイフを持っている。
彼は咄嗟に、またそのナイフを狙った。迷いなく引かれた引き金は、そのナイフを弾き飛ばす。
「な、」
はずだったのだ。
けれど引き金と同じタイミングで、タカオはナイフを投げた。一直線に。真っ直ぐに。それは決して彼の弾道がブレないと信じているからこその賭けである。ナイフの中心を一ミリもずれずに狙った弾は、一ミリもずれることのないナイフに弾かれた。
次の瞬間、タカオの手には次のナイフが現れている。
「!」
次の瞬間には彼を押し倒すようにして、喉元にナイフをつきつけるタカオがいた。その額には、彼のリボルバーが突きつけられている。互いの命を互いが握っている状況で、タカオは笑っている。
「ダメだって、近距離戦じゃ。シンちゃんの武器はさ、それじゃないっしょ」
「お前、今の、ナイフ捌き」
「ああ、うん、気がついた?」
タカオは笑っている。悲しそうに笑っている。
「俺は右利きだよ、シンちゃん」
今まで、彼の記憶の中のタカオは常に左手を使っていた。物を食べるのにも、ナイフを構えるのにも、全て。
「お前に憧れて、左使ってただけ」
*
「お前、何故、赤司のことを調べ回ったんだ」
「……シンちゃんの家族が気になって」
「余計なお世話だ」
互いの急所に武器をつきつけて二人は会話している。今まで、こんなに近くに来たことがあっただろうかと、彼は場違いにも考えている。
出会ったのは、秋だった。木々の色が変わる頃。この国の秋は寒い。けれどどうだ、今はもう、日差しは柔らかくなった。いつの間にか冬すら超えて、季節はもう、春になろうとしている。
「赤司ってあのジェネラルコーポレーションの社長だろ。そんでもって、お前に殺しをさせてる張本人」
「俺が望んだことだ」
「おかしい、それは絶対に、おかしい」
「何が」
「だって、家族は殺しあわないんだろ」
かつて彼がタカオに告げた言葉が今返ってくる。彼の喉がひくりと震える。喉元に突きつけられたナイフは、その動きに合わせて僅かに深く刺さった。
「おかしいだろ。だって赤司は、お前を殺しの現場にやってんだろ。自分は安全な場所にいて、お前は死ぬかもしれない場所にやってる。それって間接的にお前のこと殺そうとしてるのと同じだろ」
「違う」
「違わない」
「違う」
「違わない!」
耳元で聞くタカオの怒鳴り声に彼は黙った。それは初めて聞く怒声だった。叫んだことを自ら恥じたのか、彼は顔を歪める。
「だが俺は殺し屋なのだよ。事実それ以外の道はない」
「そんなことない」
「ある」
「そんなことない」
「あるのだよ。お前は、俺のことを知らないだろう」
今度はタカオが黙る番だった。彼が言うことは正しかった。彼らはいくつかの季節を共に過ごしたかもしれないが、それが酷く偏った時間であることは自覚していた。否定することのできないタカオは、それでも必死に喉から声を搾り出す。
「……それでも、俺だったら、一緒に行くよ。行くなって言いたいけど、そこしか無いってんなら、その場所に行くよ。安全な場所で待ってたりなんかしない。お前が死にそうになってる場所に行って、一緒に死んでやれる」
*
どれだけの間、そのまま二人膠着していたのかはわからない。先に動いたのはタカオだった。首にかざしていたナイフをゆっくりと外して、放り投げる。彼の上からゆっくりと、どいていく。
「お前」
「はは、俺にシンちゃん殺せるわけないじゃん」
「タカオ、お前は」
「でも本当にさ、お前の方がずっと強いのにこんなことになっちゃうんだから、情けとかかけちゃダメだぜ。一発で決めろよ。できれば遠くから。そしたら多分、きっと、あんまりシンちゃん死なないだろうし」
対して、彼はゆっくりと立ち上がりながら、照準はずらさない。その銃口は、ぴたりとタカオの額を向いたままである。うっすらとタカオは笑っている。その瞳は燃えている。既に、覚悟を決めた瞳である。
「タカオ」
「なあに、シンちゃん」
「お前の家族構成を教えろ」
「……はい?」
今にも銃弾が額を撃ち抜くかと思っていたタカオは、想定外の質問に柄にもなく間抜けな顔をさらした。唖然、といった顔だった。段々と、その表情は苦笑に変わる。
「そんなの、もう赤司から情報回ってんだろ?」
「答えろ」
「いや、だからさ」
「答えろ!」
タカオにはわからない。何故彼が泣き出しそうな顔をしているのか。以前一度、泣かせかけてしまった時、その表情の美しさにタカオは一瞬見蕩れてしまったものだが、その時はタカオの言葉が原因だった。今はその理由がわからない。
いや、わかるのだ。ただ、それが真実だとタカオは信じられずにいる。
「赤司から、書類を受け取った」
「うん」
「だが、情報が一つ足りなかったのだよ」
「へ?」
「だから俺は、確かめる必要がある」
その声は震えている。眉を釣り上げ、睨みつけるようにして、彼は怒るように泣いている。その顔を見て、タカオは、自らの想像を確信に帰る。
「……おふくろは生まれた時にはいなかった。親父はアル中で、酔っ払ったところでマフィアに絡んであっさり殺されたよ。育ての親は俺のことが邪魔になった途端に殺そうとした。兄弟姉妹はいるのかもしれないけど俺は知らねえ。年齢はわかんねえけどまあ真ちゃんと大差ないくらいじゃねえかな。勿論誕生日もわからねえけどお前と相性が良いって信じてる。血液型はO型。これは前に輸血もらった時に聞いたから確実。そんでもって、」
「未来のお前の家族予定」
「……緑間真太郎だ」
「……へ?」
「俺の名前。色の緑に、時間の間、真実の真に、太郎は説明しなくてもわかるな」
「へ、あ、シンちゃん、いや、え、真ちゃん」
「家族の名前を知らないのは、おかしいだろう」
「……高尾和成です」
「高い低いの高いに、鳥の尾羽の尾、和を成す、で和成」
*
「何故お前に話さなくてはいけないんだ」
「へいへい、こりゃタカオくんも苦労するだろうな」
ビルの頼みをあっさり断って、緑間は珈琲を飲む。久々に飲むそれはミルクを大量に投入してもまだ苦く、彼は顔をしかめる羽目になった。
「それ、珈琲の味するのか?」
「する」
そういえば、高尾と初めて一緒に食事をした日、まだ互いの名前も知らなかった頃、同じことを聞かれたなと彼はふと思い出した。その時、緑間はなんと答えたのだろう。きっと、同じように答えたに違いなかった。
「なあ、シン、ずっと気になってたんだが」
「なんだ」
「お前さ、家族殺されたらどうするんだ?」
その問いも、やはり、あの日高尾が投げかけたものによく似ていた。家族に殺されかけたらどうする。
「一体全体どういう答えを求めているのかわからないんだが」
「求めてるとかじゃなくて、ただ気になるんだよ。お前の答えが」
「そうだな。もしもアイツが殺されても、別にいたぶったり懺悔させたり或いは……なんだ、まあ無駄なことをするつもりはない」
苦い珈琲を飲み干して緑間は答える。
「誰でも一発で殺してやる」
*
「いやさ、真ちゃんって家族持ち殺さないじゃん、けど俺って家族いねーわけ。天涯孤独の身の上だぜ? だからさ、全然真ちゃんは俺のこと殺しちゃって良いわけよ。だけど真ちゃん、俺が何しても俺のこと殺さないんだぜ? この前ベッドに押し倒したけど、ウザそうな目で『何してる』って言われただけで、それだけだぜ? いやいやいや俺も抑えましたよ、やっぱね、こういうのは順序踏んで優しくしたいからね。でもさ、これってすげーことだろ。真ちゃんは俺のこと殺さねーんだよ、家族もいない俺を殺さねーんだよ。やっぱ愛だよなこれって。だから俺も真ちゃんのことめいっぱい大切にしたいわけなんだけど、あー、でもいつか真ちゃんに家族って認められたらそん時はもうためらわずに行っちゃうかな。いっちゃうよ。もうなんつーか、狼になります。だって家族になったってことは、それってつまりオッケーってことだろ。いまはまだ家族予定だけどさ。うん? そうだよ。俺は、家族予定の候補者なんだよ」
*
一人取り残されたカフェで、いやはや、とビルは首を振る。おい、タカオくん、お前はどうやらとんでもない勘違いをしている。お前の執着は、どうやら、とんでもない勘違いをしている。
背中にびっしょりとかいた汗に気がつかないフリをしながら、彼はきつい酒をメニューから探す。
彼はわざと家族、と言ったのだ。一言も、高尾とは言わなかった。けれど緑間は自ら言ったのである。「アイツ」、と。それはそう、つまり、彼の中で、もう高尾は家族として認識されている。そうしてためらうことなく言うのだ。
「誰でも殺す」と。
こと緑間に限って、その言葉の重みをビルは知っている。誰でも。誰でも。恐ろしい言葉だ。家族の有無はそこに意味をなさない。いいや、究極的には、高尾の死に、関係が無くともいいのだ。誰でもとは、そういうことなのだ。老若男女、貧富も聖人悪人も何も関係なく、きっと彼は殺すだろう。例えばそれは、街一つくらいは。それくらいは軽くやりかねないと、正面からその時の緑間の瞳を見ていた彼はそう思うのだ。
なんで俺は、あいつに出会った時、いつもと変わらないなんて思っちまったんだろう。
*
「ただいま、真ちゃん」
「おかえり、高尾」
血まみれの高尾が入ってきた時、緑間真太郎はソファで興味の無い新聞をめくっていた。廊下にはぽたぽたと赤い染みがつき、折角引っ越したばかりの白い家具で統一された部屋を汚している。
「ごめんね真ちゃん、あったかいご飯食べよう」
「ああ」
その前に少し寝たらどうだと緑間は尋ねる。高尾は笑って、そうさせてもらおうかなと答える。実は結構眠くて死にそうなんだ、これが。
「死ぬなよ」
「死なないよ」
でも寝るわ。そう言ってバランスを崩した高尾を緑間は抱きとめた。さりげなく怪我を確認するが、いくつか深く切れている箇所は全て動脈を避けている。残りは返り血が主なようだった。
「真ちゃん」
「なんだ」
「今日も愛してるよ」
「そうか」
「真ちゃん」
「なんだ」
返事が返ってこないことに気がついた緑間は、腕の中で眠りに落ちている高尾和成に気がついた。僅かに首を傾げると、そのまま血が付くのも構わずに寝具に寝かせる。手早く応急処置をする。
安定した寝息に微笑むと、その額に僅かに触れるか触れないかの口づけを落として、緑間は笑みを崩さないまま、愛用するライフルの確認をした。それはあの日使わなかった、M28クレイジーホース。
「行ってきます」
*
高尾が目覚めてみれば、血だらけだった洋服は清潔な物に変えられ、傷には適切な処置がされていた。ああ、少し血が足りないなと思いながら彼がリビングへ向かえば、彼の愛する家族がリビングでつまらなさそうにナイフをいじっている。
「あー、真ちゃん」
「起きたか」
「色々ありがと」
「フン、洗濯もしてやったのだよ」
「嘘?! 真ちゃん洗濯できたの?!」
「馬鹿にするな」
「いや待って真ちゃん、これちゃんと染み抜きしてないっしょ! うわ、めっちゃまだらになってる! やっべえ俺の血でシーツめっちゃまだら! やべえ!」
「うるさい。さっさと飯の支度をしろ」
「はいはいはい」
笑いながら高尾は支度を始める。こんな生活がいつまでも続くはずがないと彼らは知っている。
いつか報いを受けて惨たらしく死ぬだろう。惨めに、哀れに、けれど同情の欠片もなく、唾を吐かれ踏みにじられて死ぬだろう。
「そうだ、言い忘れてた」
けれど今ここにあるのは、確かに一つの幸福な。
「おかえり、真ちゃん」
「ただいま、高尾」
Love me tender
Tell me killer
死が二人を分つまで
0 notes
山姥切探偵事務所
※いつものノリ※ちょぎくに※現パロです※いつも通り人を選ぶかもしれない 探偵事務所、と書かれている看板がある雑居ビルの目の前に安定は立っていた。うろうろと、しばらくの間、どうしようかと悩んでいる。やっぱり引き返そうと思ったところで、脳裏に親友が「安定は優柔不断だなあ」と悪気なく
(なのにどこか意地悪そうに)笑うの姿が過ぎる。想像上の親友の姿なのに、なんだか少しむっとして、負けず嫌いが働き、意を決して雑居ビルの脇にある階段で2階まで上がった。 というわけで、山姥切探偵事務所の門戸を叩いた安定は、中に入ってすぐに気がついた金髪の青年の姿を見て驚く。
まだ学生服を身にまとっていて、これがコスプレでなければ彼は学生だからだった。金髪の青年、まあまんばなんだけど、まんばは「…依頼人ですか」と存外低い声で、愛想なく訊ねる。「え…あ、はい…えっと…君が探偵さん…?」「いえ…俺は…座ってください、飲み物出すんで」
混乱しながらも、安定はまんばに促されるままにソファに座る。土曜昼すぎのテレビが、人気タレントのトーク番組を流していて、特に意味もなく眺めていたら、「どうぞ」とさっき聞いた声がして、ソファの高さに合わせた高さのテーブル、安定の目の前にカタン、と小さな音を立てて、
氷が入ったコーヒーが出された。ぱちぱちとそのグラスを見つめていると「…コーヒー苦手でしたか」とお盆を持つ青年が目を泳がせている。何年下(多分)に気を遣わせてるんだ僕…!と安定は慌てて両手を振って、違うとポーズをとって「ち、違…!…えっと、ミルクとお砂糖ってあります…か?」と続けた。
人が来たからか青年はテレビの電源を切って、それから、ミルクをたっぷりいれたコーヒーに口をつける安定に「うちの…所長は、今不在で…もうすぐ帰ると思うんですが…」と申し訳なさそうにする。安定としては、やっぱりこの子が探偵さんではないのか、と少しほっとした。
「じゃあ、君が探偵というわけではないんだ」「それは…俺、高校生ですよ」これで分かるかと思ったんですが、と学生服のブレザーを自分で指さす。よく見れば、そこにある校章はそれなりに有名な私立校。だから敬語とかも大丈夫です、とたどたどしく話すまんばに、安定もすっかり緊張がとけていく。
「じゃあここのお手伝いさんなんだね、アルバイト?」「手伝い…そんなところ、です…バイト、ではないですが」「じゃあ実家のお手伝いかな、ふふ、偉いなあ…」「そんなんじゃ…」そんなふうに話をしていると、探偵事務所の出入口から音がする。
かと思えば、次には、「国広!だから、制服のままで来客対応をするなと言っただろう!」と怒っているような困っているような声が響いた。 「あんたが昼に出るからしばらく頼むとLINEを寄越したんだろう、今日は土曜、学校が終わるのが12時20分、間に合わせるのがどれだけ…」」
「だからと言って…未成年の学生働かせてるとかバレたらどうなるか…ハンバンガーチェーン店じゃないんだよ、ここは」「借金カタにその未成年を好きに使ってる立場のくせに…」「助けてやったんだろうが人聞きの悪い…あー、もういい…ほら、上で着替えてきなよ、俺の服でいいから」
「…とか言って、また変なのじゃないよな」「人前で人を変態趣味みたいに言うんじゃない!」安定が2人のやり取りに呆然としていると、先程まで話をしていたまんばが奥の階段の方へと消えていく。代わりに、現れた男性が安定に向き直り、にこりと微笑んだ。
「うちの助手がすまなかった。…さて、用件は依頼、かな」その所作があまりにも完成されていたものだから、安定はすっかり、今しがた交わされていたあまり穏やかではない単語も飛び交う応酬のことなど忘れて、「はい」と返事をしてしまったのだった。
「…脅迫を受けているんです」安定が話始める頃には、少し大きめのパーカーに着替えたまんばが降りてくる。そのまま何も言わず、座って話を聞く姿勢の長義くんの後ろに立った。それに気づいた安定は気まずそうに話を止めてまんばの方を見る。「あ、君…えっとこれは依頼で…」
「わかってます、俺は居ないものと思って貰って問題ないです、続けてください」「そうは言っても…」さっきの話だと未成年というじゃないか、子供に依頼内容を聞かせてしまっていいものか、そう思って安定が逡巡していると、すかさず長義くんがフォローに入る。
「俺が許可してるんですよ、助手、とは言ってもこいつが主に動くこともあるんで、こいつも同席させてください」「…そう?それじゃあ…ああそうだ、立って聞いてるの疲れちゃうでしょ、せめて座って…って、僕が言うのはおかしいか…あの、いいですよね?」安定がそうたずねると、
まんばは目で長義くんに合図を送る。長義くんが顎で自分の隣を指すので、まんばは周囲を伺うように少し目を左右に動かしたあと、なぜか安定の座るソファの後ろを回って、ちょこんと長義くんの隣に控えめに腰掛けた。「…さて、話を続けてください」「え、はい…それで、届いた脅迫状がこれです」
「…失礼、手に取って見ても?」「はい…」そう言って長義くんは、安定が鞄から取り出した、届いたという脅迫状をじっと見る。印刷された無機質な文字は誰のものか判別が出来ない。「…ファッションショーを中止にしろ、ねえ」よくある文面に、長義くんは顎に手を当てて紙の裏表を確かめたりしていた。
それをちらりと横目で見たまんばは、深刻そうな表情の安定に声をかけた。「あの、大和守さんはデザイナーか何かで?」「…うん?いいや、違うよ。デザイナーなのは僕の親友兼幼馴染…だから、正確にはその脅迫状も、僕じゃなくてそいつに届いたもので…」「その親友は何か言ってるんですか」
「こういうやっかみは人気が出るとよくあるから気にするな、と…でも僕心配で…」まんばが何か返そうとしたところで、さっきまで脅迫状を見ていた長義くんがそっと制する。安定は気付いてないようで、思いが溢れ出すように次々と言葉をつむぎ始めた。
「僕、これが悪い冗談だと思えないんです…清光、この前事故にあいかけて…あの車、赤なのにスピード落とすこともなかったし…それに、こういうの何度も来てるみたいだし、郵便受けに直接投函されてたこともあるみたいなんです…なのに、通報しようって言っても、
沖田くん…えっと、僕と彼の師匠みたいな人なんですけど、その人、ずっと入院してて、もう長くなくて、だから、最後になるかもしれないから、このショーは絶対成功させたいって、沖田くんに見せたいから、中止には出来ない、だから警察にも言わないでって…その気持ち、僕にもすごくよくわかるから、
どうしたらいいのかわからなくなって…」「…それで、秘密裏に探偵事務所に来た、と」「…はい」「事情はわかりました、それで、大和守さんとしてはどうされたいんでしょう」長義くんがそう返すと、安定は話を信じて、依頼を受けてくれそうな雰囲気に、ほっと肩をなでおろす。
そして、息を吸い込んで、何か思い切るような調子で続けた。「ショーを無事に終わらせたい、僕だってショーを中止にしたくなんてない、沖田くんには笑ってほしいし、清光にも…でも、大切な人だから、危険な目にだって遭ってほしくないんです…警備はもちろん厳重にすると思いますが…
それでも心配なんです…」そこまでいうと、「お願いします」と深く頭を下げた。「…つまり、秘密裏に犯人を特定、出頭させてしまうのが早いかな。よし、わかりました、依頼を受けましょう…さしあたっては…」
「お前、何勝手に探偵なんて雇ってんの…」とりあえず、そのデザイナーには話をしよう、ということで、2人が安定に連れられて来た場所は加州くんのもと。いきなり現れた2人組を見て不思議そうにしていた加州くんに、長義くんはことのあらましを説明する。
最初こそ、きょとんとした表情で聞いていたものの、加州くんはどんどん眉を顰めていき、話を聞き終えると、責めるような視線を安定に向けた。「だって心配なんだ…お前の制止を無視したのは悪いと思うよ、けど、僕はお前がもし…」「はあ…別に、過ぎた事だしもういいよ。
だからじめじめしない!きのこ生やさない!お前のその心配性は昔からだし、俺も知ってることだし。…それで、探偵さんは俺に何を聞きたいわけ?」「話が早くて助かるよ。手っ取り早くいこう、心当たりはある?」「あったらもっと手を打ってるよ。
まあ、仕事柄目立つし、多少は有名税だと思ってはいるけど…けど、個人的にはさっぱり…あ、」思い当たる節がない、と言おうとしていた加州くんは、急に何かを思い出したかのように声を上げた。「心当たりがあるのか?」「そういえば、以前うちのをパクったってうるさかったやつがいたなあって。
紛うことなき俺のデザインだったし、確認してみたけど全然似てもいなくて、酷い言いがかりだと思ったんだけどね、あの時は家に押しかけられたりもして、大変だったよ」「…そいつは?」「さあ?急に何も言ってこなくなったから、懲りたのかと思ってたけど…ああ、でも…もしかしたら…」
「何かあったの?」「…いや、この業界から干されたのかなあってだけ、なんでもないよ」加州くんの口調は、あくまでなんでもない風を装っている。本当に、こういった業界ではその手のことは日常茶飯事なのかもしれない。一番険しい顔をしていたのは、まだ高校生のまんばだった。
長義くんは少し考えてから、そうだな、と独り言のように呟く。「…名前と、顔もわかればそれも。そいつのことを調べてみよう」その言葉を受け、加州くんはさらさらとメモ用紙に何か書き綴り、紙を2枚重ねにして手渡した。
そんなこんなで、まんばは安定と一緒にパーティー会場にいくことになっていた。お互いそれなりの正装で、どこから用意したのやら、長義くんが用意した2人分の招待券片手に潜り込んでいる。「あいつ、本当にここに来るのかな…」「わからない。でも、来なくてもハズレという情報が落ちるんだ、
無駄じゃない…です」「ふふ、探偵さんの助手さんも探偵さんみたい」御堂隆義という男性の名前と、いかにも、といったやや強面な男性の写真を加州くんに提供された長義くんは、それをもとにひとつの手がかりにたどり着いた。しかし、何か自分で動くというわけではなかったらしく、
「というわけだから、御堂家の人間も出ているパーティだ、衣類は一式用意するから、お前が行ってこい」とまんばを放り出した。「…お前は?」とまんばが問えば「俺は他にやることがある」と返される。協力出来ることならなんでもする、と言った安定は、
「方針はわかったけど、でも子供をひとり危険に晒すわけにはいかないよ」の一心で同行することになった。
「それにしても、不思議だね、あの探偵さんとの関係」「まあ…普通はそう考えると思います」「バイトじゃないんだっけ…そうだよね、こうやって調査を本格的にしてるもんなあ」「…えっと、それは…」「あ!踏み入ったこと聞いちゃってごめん、でも気になって…」「…いいです、変なのは事実ですから」
パーティー入りした��はいいが、どう動けばいいかわからなかった2人は、なるべく目立たない隅、壁の花になりつつ、該当人物の姿を探しながら何となく会話を始めた。話は探偵事務所のことに移る。プライベートに踏み込み過ぎたかと思って、安定が謝った。まんばは別段気にする様子はない。
「…俺は、あいつに会わなければ今頃生きてはいないと思うんです」「え?」「聞いていたでしょう、バイトではないですが、金銭的な問題で…まあ、そういうこと、です」金銭的な?そういえば、借金がどうとか言っていた。多額の借金で生きるか死ぬか、と言ったところを助けられたとでも言うようだ。
こんな子供が?なぜ?そう思うことはあれど、安定はさすがにこれ以上は不躾がすぎる、と聞くに聞けない。「…そっか。色々あったんだね」「大和守さん?…あ、」安定がひとり納得したように呟くのを、なにか聞かれたのかと思ったまんばは不思議そうに見る。
その時、まんばの耳は雑談の波の中ひとつ、目的の人物かもしれない話題を拾い上げた。 「隆義さん、もしもお亡くなりになっていなかったら、今日は記念すべき日になっていたのに」 先程までしていなかったのに、急に息を潜めるようにして会話は続けられる。思わず、まんばも息を殺そうとしてしまった。
「…?どうしたの?何か…」「向こうで会話が聞こえる」まんばの様子に安定が疑問に思ってたずねると、短くそう返された。その言葉を聞いて、安定も納得したようにそちらに注意を向ける。会話はまだ続いていた。
「あら、それはどうかしら?」「どういうことだい?」「隆義さん、事業に失敗したらしいじゃない。借金もあったって。でも、その後急に返済したらしくて、何か危ない仕事をしているんじゃないかって専ら噂よ」「へえ、聞かなかったな」「御堂家の恥だもの、あまり大声では言わないわ」
「…御堂家…御堂…まさか」「国広くん?顔色が…」その会話を聞きながら、だんだん青ざめていくまんばに気付いた安定は何度か声をかける。「…すまな、風、あたってくる」口元を抑え、耐えるような声でそれだけ言うと、まんばは急ぎ足で会場の外へと走り出す。安定もまんばを追いかけ外へと向かった。
唐突な過去編。 遠い記憶のこと。 いつかはこうなるだろうと思ってはいた。学校から帰ると家がなかった。アパートの一室にあるものは何もかも差し押さえられていた。両親はおらず、よく分からない大男が何人も家にいて、玄関で呆然としていると、
そのうちの一人が自分に気がついたようで振り返り近付いてきた。「おう、おかえり」そう言って頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。それだけなら悪い人だとは思えないはずなのに、なぜかぞっとして、縫い付けられたようにそこから動けなくなってしまった。「お前の母さんと父さんは酷ェやつだな」「え…」
「可愛い息子捨ててトンズラなんざ、少なくとも善人がやることじゃあねェ」豪快に笑う大男に、僅かに身動ぐ。手にあるのは小型のナイフだろうか。逆らえば最後、殺される、と思った。それから少しの間、真っ白になった頭の中で、なのにぐるぐると渦巻くような感覚の中で、
どっどっと煩い心臓が余計に焦燥を煽る中で、そこにいた。ふと思い出したように大男が自分に向き直る。「…知ってるか?」「…っ、は、何…が、」「お前さんの値段さ」例えばここ。そう言って先程のナイフがピンッと制服のシャツのボタンを飛ばす。丁度胸元の位置だ。
「心臓、とか…ははっこれも親孝行かもなあ?」その言葉で、ぱちん、と張り詰めた糸が切れた音がした。やばい、これはやばい。その一心で、先程まで自由のきかなかった体を動かしてその場を飛び出す。偶然にも不意をつく事が出来たのか、なんとか男に追いつかれることはなかった。
けれど、行くあても当然なかった。とにかく走って、走って、少しでも止まるともう動くことが出来なさそうで、どこまで来たのか、足が縺れて転んで、顔を上げた眼前に、どこかの公園を見つけた。大切にしていたもの全て、写真の1枚すら持っていくことは出来なかった。
辛うじて引っ掴んできた鞄の中身は教科書とノート、体育のジャージ、学生証、定期券程度のもの。学校は携帯電話の持ち込みが出来なかったから連絡手段はない。財布も家の中で落としたままなのか、持ってきていなかった。水道で怪我をした肘を洗い流して、ベンチに座って日の落ちた空を見た。
どうしよう、どうしよう、と頭の中に浮かぶ言葉はそればかりで、なのに公園のベンチなんかじゃあ、なんの打開策も見当たらない。そうしてどのくらいたったか、突然目の前に現れたのは若い男性だった。中学生の自分よりは年上、けれど、はっきりした年齢はわからない。あえて言うなら20代に見えた。
身に纏う衣服はどれも高級そうで、住む世界が違うのだろうと思い知らされる。「…お前、何してるの」そんな異世界の住人は、こともあろう事か根無し草になってしまった自分に声をかけてきた。「…何も」「今日は冷えるよ、上着は?」「…」「えっと…甘いものは好き?コーヒーと紅茶ならどっち?」
「…」「あーもう!なにか言えよ、その口は飾り?」「…っ、ごめ、なさ」「…はあ、適当に買ってくるから、ここで少し待っていろ」そう言ってしばらく経つと、本当にその人は戻ってきた。手には缶コーヒーとホットココア。そのうち、ココアの方を渡してくる。
「甘いのが苦手、とか言われてももう知らないからな」「あ…え、俺…?」「ほら、早く飲んだら?冷めるよ」手渡されたココアはひどく暖かい。悴んだ手には熱いと感じるほどで、制服の袖を伸ばして持ち直した。ひとくち口に含むと、その名の通り甘くて温かい。無機質な大量生産の缶が、
なんだかやたらと優しく感じて、またじわじわと涙が込み上げてくる。「な、何、なんで泣くんだよ…まさか泣くほど美味しい?」「…っ、おれ、俺…」そこからは嗚咽ばかりがもれて、何も言葉にならない。どうしたらいいか分からなくなったのかその人は、ポケットからハンカチを取り出して、
あまり慣れていないような仕草で拭ってきた。「とりあえず、なんか俺が泣かしたみたいで気分悪いから泣き止んでくれないかな」と、困ったような声でそんなことを言いながら。
帰る家がない、と言えば、その人は深くため息をついた。面倒事にでも捕まった、と言いたげだ。けれど、そのくせ「じゃあ、今日はうちに来なよ。外で寝ると風邪ひくよ」と、未だ泣き続ける自分の手を引いて、家(だと思われるところ)まで連れ帰ってきた。コートも何も着ていない、制服姿だったけれど、
上着を脱いでも部屋の中は暖かい。「第二ボタンも、取れてるね。まさかこんな冬に卒業式だったわけでもあるまいし…」「これは…」「うーん、俺、料理と裁縫だけはめっきりダメなんだよね、悪いけど直せないから、新しいのを用意させよう。それでもいい?」「あ、え…いいん、ですか」
「ボロボロの格好で家にあげたくないだけだよ。俺の敷地内にいるんだから、ちゃんとしててくれないとね」そういえば、ボタンを取られたんだった、と上着を脱いでから思い出した。すかさず気がついたその人は、冗談めかしてそういうと、服のサイズを聞いてくる。次にはどこかに連絡したのだろうか、
「届けさせるからもう少し待ってて」と言ってスマホをテーブルに置いた。もう少し、と言うのは言葉の通りで、本当に30分くらいで宅配が来て、ラフなスウェットと替えのシャツを当然のように渡されることにな���のだった。
大男の正体は、税金滞納だか破産��かなどで訪れるような、よく仕組みは理解していないけど、とにかくそういう国の、正式な人などでは勿論なくて(そりゃそうか、とは思うけど)、もっと裏社会の、闇金業者の人だと知らされた。どこからどう調べたのか、その人はそういうと、
「全く、やることが下衆で味がない」と冷ややかに呟く。たしかに怖いはずなのに、家にいた大男よりも安全なように感じる。武器を持っていないからだろうか?わからなかった。「危ないから、しばらくは学校は休みにしてもらうよ。ここは安全だから安心して?
あー…勉強が不安なら…そうだな、代わりに俺が見てあげる…疑っているようなら最初に言っておくけど、俺はイギリスにある…」「う、疑ってない…です。でも、学校行かないと…出席日数とか」「真面目だなあ…心配には及ばない。義務教育はね、ちゃんと卒業出来るようにできているんだよ。
君、保健室登校してるのに聞かされなかったのか?」「なんでそれを知って…」「…学生証。個人情報には気を付けようね、こういうことする大人がいるんだから」俺みたいな、ね…と言いながら取り出してきたのは、なんとか持ってきた鞄に入れていた学生証だった。
いつの間にとられていたんだろか、決まってる、寝ているときだ。「あ、ちょ、返し…」「もういいよ、貸してくれてどうも」「貸してないです!」奪い取るように学生証を掴む。手はあっさり離れて、そもそも最初から返すつもりだったようだった。逆に言えば、もうこれで調べることは無いということか。
あまりにも怪しすぎる。安全な場所、衣類、それからデリバリーで運ばれてくるご飯。それを疑うことなく受け入れるには、自分は成長しすぎていて、けれど、跳ね除けて立っていけるほど自分は大人でもなくて。命の恩人なのに、目の前のその人を探るような眼差しをやめることは出来そうにはなかった。
唐突に時間軸が戻るよ! まんばと安定がパーティーに行くあいだ、長義くんは勿論サボってなどいなくて、ひとり埠頭にまで足を運んでいた。加州くんが渡してきた紙の2枚目、隠すように渡してきたそれが示す場所がここだった。字は手書き。加州くんの字ではない。脅迫状が手書きではないため、
犯人はそういったことには慎重なはず。ゆえに、これは届いた脅迫のひとつではない。加州くんの、本当の心当たりだ、と長義くんは考え、ここまで来たのだった。自らの出自の関係で、こういった悪い取引の行われている場所には異様に詳しくなってしまったような気がする。
「…潰そうとしているものを利用している、というのも皮肉なものかもね」ぽつりと呟く声に反応するものは当然ない。あまりにも捜索範囲が広い。見つからないかもしれないな、と1人考える。とはいえ国広を連れていくわけには行かないと、なんやかんやでよく働く助手のことを考えた。
安定は子供を一人で危険なところに行かせるわけにはいかない、と言っていたが、国広はその「危険なところ」の当事者だったことがある。それを拾った自分もまた、似たような存在だったりする。「…知らぬが仏か」向こうは大丈夫だろうか、うちの助手は間違いなく働き者だけれど、特別強いわけではない。
ずっと過酷な環境にいたから、年齢にそぐわない程度には多少場馴れしてはいるけど、あれで年相応に柔いところも沢山あることを数年の暮らしでよく知っている。だから、ハズレっぽい所にあえて行かせたのだ。ただ、もしも向こうがあたりだったとしたら…とそこまで考えて、すぐに考え直した。
「大和守さんもしっかりしてるから、大丈夫か」自分がついていてやれないことに、少しの悔しさを覚えつつも、長義くんは捜索活動を再開した。 しばらく見て回っていると、何か声が聞こえてくる。「…当たり、かな」もう少し近付いて物証を手に入れたい。レコーダーをオンにしてそっと物陰から近付く。
易々と会話を手に入れられそうだった。 「御堂の奴、よかったのか?」「何、あのデザイナーに証拠握られてるんだ、捨て置くのが一番だよ、あれくらいなら高く売れるし…それより…」 中身は取引だった。薬物ではなく、武器でもない、人身売買の類だ。
やっぱり国広を連れてこなかったのは正解だった、と長義くんは息をつきそうになる。まだこちらとしても油断はできない。…見つかったら、こいつらを消さなければならなくなってしまう。とりあえず持ち合わせた護身用のナイフをそっと確認して、再び息を潜めた。
続き! 長義くんが埠頭を出てすぐ、スマホに連絡が入った。見ればこれで3回目の電話、名前を確認すると安定からで、何かあったのかと少し慌てて通話ボタンをタップする。「もしもし、何かあった?」「すみません、その、国広くんがすごく具合悪そうで…会場からは出たんですけど…」「国広は?」
「もう問題ないから…と。でも顔色悪いし、とりあえず近くで休ませています、場所伝えますね」「そのままその馬鹿押さえておいて。そいつ動いてた方が忘れられるとか言ってオーバーワークしがちなんだ、すぐ行く」「忘れ…?わかりました、待ってます」
長義くんは会場となっているホテルからほど近い施設の敷地内にある広場へと向かう。公園よりひっそりとしている私有地は、当然必要もないのに立ち入ることは本来許可されていないところだ。あえてそこを選んだのは恐らく安定ではなく国広の方だろう、と長義くんは考えながら、
埠頭の離の方に隠すように止めておいた車に乗り込む。公園よりも騒ぎを起こせば目立つことが出来る場所でもある。逃げるならこう行け、と教えこんだのが役に立っているようで何よりだった。 埠頭からホテルまでは大した距離はない。ふたりのいる場所も同様だ。10分ほど車を走らせて、目的地に着く。
適当に(とはいえナンバーを覚えられたらやっかいなので、やはり死角を選び)駐車して車から降りた。少し敷地に入ると、人影がふたつ、ベンチに座っている。「よかった、すぐに見つかった」そう言って近付くと、人影のひとり、安定はぱっと顔を上げて、心底ほっとしたと言ったように表情をやわらげる。
まんばはそんな安定に背中をさすられていた。「ありがとうございます、国広くん、立てる?」「…大丈夫、です」「何があった?…人酔い?」「ちが、う…長義、俺は大丈夫…だから、」「そうは見えないんだよ…それとも、何か思い出した?」そう問えば、まんばは図星だったのか、ギクリと肩を震わせて、
観念したように小さく頷く。何か聞いてしまったのだろうか。そう思えば、まんばは小さく「御堂、聞いた名だと…」と呟く。当たりを引かせてしまったかもしれない。失敗した。「…帰ろうか、裏に車を止めてある」
3人で事務所まで帰って、まんばには上の階(実は今の住まい)に行くように伝えた。まんば自身も自分のことはわかっているのだろう、存外素直に頷いて、思ったよりもしっかりとした足取りで階段を上っていく。とりあえず今日はもう休ませた方がいいだろう、話を聞くのは明日だ。
まんばの階段を上る足音が止むのを待って、長義くんは安定に向き直り、少しだけいいかな、と言って安定にソファに座るよう促した。「さて、夜分遅くまで申し訳なかったね」「いえ、依頼したのは僕ですから…それより、国広くんは」「しばらく休めば大丈夫…それに、前にもあったことだから」
あまり深入りしない方がいい話題だろう、そう感じた安定は出されたミルクティーを一口飲んで、話題を変えようと口を開いた(コーヒーに大量にミルクと砂糖を入れていたのを見られていたようだ)。「…えっと、それで、何かわかったのでしょうか」「そうだね、とりあえず単刀直入に言おう。
心当たりの御堂隆義だけど、彼はすでに亡くなっている…それも恐らく殺されて、ね」「殺…なんで、そんな…清光、まさかそれで何かを知って、狙われてるとか…」長義くんの言葉に、安定の表情はさあっと青ざめた。あくまで表情を変えていない長義くんは、それを一瞥しつつも安定に訊ねる。
「あいつ…国広は、パーティー会場で何を聞いていたかわかる?」「あ、はい…僕も途中から聞いてたから…御堂隆義の事業が失敗して、危ない仕事に手を出したって感じのことを…」「そう…単刀直入に言うけど、御堂家は旧財閥系から分かれた家系でね。…いや、旧財閥系から追い出された、
と言った方が正しいかな、裏で指定暴力団と関係を持っていて、そちらでも稼いでるんだ。恐らく薬物か武器か、と思っていたんだけど…商品は人間だったみたい」「人?…それって、まさか…」「そう、人身売買。それで、加州さんだっけ、彼もなかなか強かだね、事情はわからないけど、
その証拠を偶然にも持ってるんだと思う、そして、御堂家の証拠を例のファッションショーでばら撒く算段なんだろう」「そんな…なんでそんな危険なことを…」「わからない。けど、やっぱり大和守さんには話していなかったんだね」そういうと、長義くんは加州くんに渡されたメモを安定の前に差し出す。
「メモ…?」「彼は俺にこのメモを渡してきた…今日埠頭で取引があったんだけど、そのメモだ。加州さんがどこからかこれを手に入れたのは確実だと思う…そして、それを大和守さん、君には本当は知られたくない。だから、こっそり俺に渡してきた…きっと、危険な目にあわせたくないから、
止めて欲しくないから、そんなところだろう」「それって、僕が清光を止めて、警察に通報することでもっと悪いことが起きる…みたい、な…そうだ、沖田くん! 沖田くんの病院が何か関わってたりしませんか」「ああ、共通の知人は関係あるかもしれない、明日案内願おうか」
唐突な過去編再び。 生まれたその時には将来が約束されている人、というのはいくらでも存在する。恵まれた立場ともいうし、ある意味では自由がないとも言うし…その辺は認識の問題だけれど、とにかく、自分の生まれはそういったものに近かった。ただし、華々しい表の道
――たとえば、絵本の中の王子様であるとか、漫画みたいにどこかの財閥の跡取り息子であるとか――ではなかった。山姥切という名は、その手の界隈では広く知られている。物心着いた時には舎弟みたいな奴らが何人もあてがわれていて、自分よりもうんと年上のそいつらを”使う”方法を身につけさせられた。
とはいえ、厳しい環境だったかといえばそうではない。末っ子の自分は、もう両親も歳をとってから産んだ子供だったことやら、年の離れた兄が3人ほどいたことやらが相まって、ほとんど孫を可愛がるような状態、逆に言えば、自分の裁量というのは全くなく”なんでもやってあげる”という状態で
幼少期を過ごした。その時の自分の認識といえば、不自由はないが自由とは言えない。端的に言えば不満だった。自分は兄よりも優れた仕事が出来るはずだ、なのになんで自分だけ何もせずそこにいるだけ、なんて立場に甘んじていなければならない?…とかなんとか、そんな不満を抱えて生きてきたから、
対象の汚点はいやでも目に付くようになる。小学生の頃は、それでも仲良くなったクラスの友達が、ある日急に遠巻きにしてくる、みたいな目にはあったものの、それだけだった。けれど、中学生、高校生くらいにまでなると、さすがに自分の家がヤバいからだ、ということに気がつく。
ヤバい、というのは、家庭環境が劣悪、たとえば暴力を振るう親がいるだとか親がアル中だとか、そういう類のものではない。そう、我が家は、一家がまるまる暴力団(それも国内でも有数の)の取りまとめを行っている、そんな、簡単に言えばヤクザの家だった。幸いにして、可愛がられていたことで
汚れ仕事からは遠ざけられ続けてきた自分にとって、調べれば調べるほど出てくる家族の犯罪履歴は、軽蔑するにあまりあるものだった。だから、高校二年生の時についに家を飛び出した。自分も大いにその恩恵に預かっていたというのに、軽蔑する家族の存在に、自分がその家にいるということに、
何よりそいつらが血の繋がった家族だということに、同じ空気を吸っていることに、何もかもに、耐えきれなかった。転がり込んだのは、事情を知りつつも親身に接してくれた担任教師(長船光忠という名前の、まだ若い担任だ)だった。その時の自分といえば、どうみても家出をした非行少年だ。
けれど、その先生は何も言わず家で匿ってくれた。もちろん、捜索願いなど出されるはずもない。家は裏稼業だから、あまり公で騒ぎを起こしたくないのだというのはわかっていた。けれど、家もそんなに甘くはない。子供の考える家出先など、3日もあれば簡単にバレてしまった。
自分にずっとついていた部下が、先生の自宅まで堂々と迎えに来たのは、3日どころか、わずか2日後だったのを覚えている。絶対に帰らない、と言えば、一時的な子供の我儘、駄々をこねているのだと見なされたのか(事実そうなのだが)、わかりました、とあっさり引き下がった。
「しかし、先生のお宅にお世話になるなら、お金はどうするのですか」とも、その時訊ねられた。先生は「いいんですよ、落ち着くまでここにいてもらって。僕は大丈夫なので」と優しく笑ってくれた。この問答は、そこは一応、犯罪一家である以前に子供を預ける立場だったのだと今になって思うが、
頭を下げたのは俺ではなく部下、つまり家だった。「せめて金銭の方はこちらでなんとかするから」と家の方が押し切って、結局、家出したというのに、家から金銭援助を最大限に受けつつ、高校卒業まで都合よく担任教師の家に世話になったのだった。
大学進学は最初考えていなかったけれど、家族と聞く度に威嚇するような状態だった自分は、先生に「一度、もっと広い世界をみてみたらどうかな」とアドバイスされ、どうせなら、と海外を選ぶことにした。完全に子供の甘えで、実際はおんぶにだっこだったわけだが(先生はあくまで親子の問題として、
親に自分の様子を報告していたらしいことを、後々になってから聞かされた)、その時は距離的に家から離れることで、自立した気分に浸っていたというわけだ。イギリスにある某名門校、もちろん自分の実力を疑うわけではないけど、留学にあたって必要な費用についても出所は家だった。
…恐らく、その金も違法薬物やら武器の売買、どこかからせしめたもの、脅迫、といった諸々から得た金なわけだが。早い話が、自分でなんでも決めたつもりでいて、その実、そんなことは全然なかったわけだ。 それに気付いたのは大学在学中のこと。もちろん怒りが沸いた。家族にも、自分にも。
そして、そっちがその気なら、と方向転換した。甘やかされている自分の立場を大いに利用することにした。今の自分は、言ってみれば金持ちの家の放蕩息子と言ったところだろう、それならそれで思う存分甘んじてやろうじゃないか、と思ったのだった。まず始めたのは、家と繋がりのある組の把握だった。
部下だったやつに伝えれば、長い反抗期が終わったと喜んでくれた。人生でおそらく最初で最後の親孝行ってやつなのだが。これは裏切りだ。やろうとしたことは、家の為に動くことじゃない。自分の潔癖な性分は、やっぱりこの家を許すことは出来なかった。末端組織から潰してやろう、そんな算段だった。
日本から帰ってきて、今後どうやって家を潰すか、ということばかり考えていた。そんな夜のことだ。公園のベンチで、それは寒そうな格好で、しかもその服も汚れていてボロボロな、そんな子供が泣いているのを見つけた。これは上手く乗せれば売れるな、などと頭の片隅で少し考えてしまったのを振り払う。
そんなことを考えたことを否定したかったのか、自分は家のものとは違うのだ、と誰が見ている訳でも無いのに、誇示したくなった。まず、部下に連絡をとった。子供の特徴と制服を伝え、身元をわれないか伝える。それから、今見かけました、100%善意です、といった笑みを貼り付けて声をかけた。
子供は話しかけても黙りこくっていて、すぐに苛立ちが勝った。同時に、自分にこんなことはあっただろうか、と考えずにはいられない。結局どうすればその子供の恐慌状態を取り除けるかわからなくて、物で釣ることにした。あまりにも安易だった。中学生くらいの子供が飲むものなんて分からなくて、
自販機の前でしばらく悩んだ。結局適当にホットココアを押して、押し付けるように渡したら、ようやく自分に応えた。安易な選択だったのに、打算だったのに、それが少し嬉しいと思って、少しだけ、ちくりと罪悪感が肺の辺りを刺して、どうすればいいのかわからなくなった。
気の迷いだった。子供を連れ帰って、ボロボロな服の替えを調達し、夕飯のデリバリーも頼んで、そのまま自分のベッドに寝かせて、すぐに連絡が来た。子供の身元はあっさり割れた。国広、という名前であること。近くの公立中学に通っていること。ボロアパートの2階に住んでいること。
両親は共に子供を育てるような能力のないやつだということ。学校ではいじめにあっていて、今は保健室登校していること。好きな科目は理科、嫌いな科目は英語、だなんてことまであっさりわかってしまった。それから、今、彼には2億5千万相当の額がついている、ということも。
同時に、思いついてしまった。 彼には今、自分しかいないのではないか?もしも、彼を上手く扱うことができたなら、自分の目的達成に使えるのではないか?と。上手い言い訳を考えているうちに夜はあけた。そうして、暫定的な対応として、国広にここで過ごすことを、半ば強制的に提案したのだった。
続き。また時間軸は現在に戻ります。 まんばは布団に横になると、頭まですっぽりと布団を被った。長義に気を遣わせてしまった、それに大和守さんにも、と考える。今頃2人は今日のことを話しているのだろう。カーテンを閉めて電気を切った部屋は暗くて静かだ。
いつもは遅くまで、何をやっているのか(仕事か、そうでなければ碌でもないことだとは思うが…)、夜型の長義は起きていて、ライトが漏れる中で眠りについているので、こんな暗い中で眠るのは随分と久しぶりな気がする。久しぶりすぎて、少し対処に困ってしまう。
御堂、聞いたことのある名だ。あの日、アパートの2階にいた男だ。長義が捕え損ねたと言っていた、あの。そこまで考えて、またざわざわとした悪寒の様なものが背中の方にはりついた。この感覚をよく知っている。恐怖だ。まんばは逃げるようにぎゅっと目を瞑って、やり過ごすうちに眠ってしまっていた。
「ほら、朝だよ」「んん、…朝…?」「ああ、おはよう国広…なんて言うと思ったか、寝坊だよ寝坊」目を擦りながら体を起こすと、目の前にいたのは既に出掛ける準備を整えた長義だった。「寝坊…?まだ7時…え、7時?」まんばは時間を確認して、ようやく覚醒した。長義くんは夜型。
だから、朝の7時にしっかりと起きていることは珍しい。「まさかもう夜…」「そんなわけあるか」そんな、まるまる1日寝て過ごすなんて、そんなことを、とまんばが青ざめていると、音を立ててカーテンが開く。眩しさに朝だと言うことがわかった。
「長義、この時間に起きてられるんだな」「人を寝起き最悪みたいな言い方しないでくれるかな」「だが事実いつも…」「いいから、早く支度する!それと、朝食は外でとるよ。いつものところでいいね?」「構わないが…どこへ行くんだ…?」「病院。大和守さんが来る前に調べておきたいことがある」
今日は日曜日だからたいてい休診日じゃないか、というまんばの意見は聞き流され、急かされるままに身支度を整えて、2人は揃って事務所の上にある住まいを出た。 近所にあるカフェチェーン店に入って、お好きな席に、と言われるまま、2人は出来るだけ隅の方を選んだ。
長義くんはメニューを見ることなく、まんばに確認することもなく、モーニングセットを2つ頼む。「…それで、昨日はあの後どうなったんだ」「どうって?」「急に病院に行く、と言い出したから。何か思う所でも出来たのかと思ってな」「…そうだな、あまり美味しい話にはならないけど」
「分かってる…だって、御堂隆義は、」まんばはそこで言い淀んでしまい、誤魔化すように水を飲む。長義くんの方も気まずそうに目を伏せた。「…昨日はその、悪かった」「お前が謝るなんて珍しい、傘がいるか…今日は一日晴れの予報だったんだがな」「たまに殊勝な態度を取ればこれだ、可愛くない」
「たまにしかとらない自覚はあるんじゃないか。…それで?どうなったのか知りたい」「御堂隆義は死んでる、そうだね、消された、と言った方が適当だ…ここまでは、お前も想像ついてるだろうけど。…それから、あのデザイナーは、何か持ってる、隠してるというか…
警察に言わないのは何もショーを中止にされたくないからじゃないだろうね」「…それで、なんで病院なんだ?」「彼と依頼人の共通の知人が入院している。…俺は、こいつが鍵だと考えた」そこまで言ったところで、店員がモーニングセットを2つ分運んでくる。「さっさと食べて行くぞ」「…ああ」
長義くんは、あまり依頼人に言えないような方法で情報を獲得することがあった。それをまんばは知っている。だから、今回も安定に知られたくない方法を病院で使おうとしているのだろうと言うことは、何となく思っていた。まんばとしてはどうかと思っているが、
自分もそれに助けられた身なのであまりどうこう言えず、結局やりたい放題にやらせてしまっているのだった。 ついた病院は街の中心部にある総合病院だった。総合病院、とはいえ日曜日は初診は行っておらず、科によっては休診日になっていた。朝も早い時間こともあって、中は比較的閑散としている。
「沖田さん、と言ったか…病室を探すのか?」「いや、それは後でいい。どうせその人自身は何も知らないだろうし。それより、彼のカルテを覗き見たい…そうだな、俺が上手く引き付けておくから、俺が言う情報を見てこい。ついでにこれ、許可証だから無くすなよ」「…またそう無茶苦茶なことを」
長義くんが何をしているのかはよくわからないが、ただの高校生のはずのまんばが、恐らく偽造したのか借り物か、それは分からないが許可証、とか言うのを持ちながらとはいえ、あっさり立ち入り禁止区域に入れる程度には口八丁なようだった。まんばは当たりをつけてカルテを探す。
こういったことは助手として働いて、やたらと上手くなってしまった。「…いいんだろうか、いや、よくはないんだが」ぽつりと呟いて、そうだろうと思われるカルテを見つけた。同姓同名の人がいなければいいのだが、と思いながら内容を確認する。「えっと…心疾患か、担当医は佐々木浩二、経過は…」
約束の時間は10時だったらしい。まんばが戻ると、続きは今度だ、と言って病院を出た。それから、ぐるりと裏を一周して、表側の入口付近で待っている安定に長義くんは声をかける。「待たせたかな、すまないね」「いえ、大丈夫です。…国広くん、もう平気?」「俺は大丈夫です、ちゃんと休んだんで」
安定はぺこりと小さく頭を下げて挨拶をした後、長義くんの少し後ろにいるまんばにも声をかける。まんばがしっかりとした受け答えをしているのを確認し、「よかった」と心底安心したような声を漏らすと、「それじゃあ、病室に案内しますね」と言って病院内に入っていった。
「沖田くん、入るよ…えっと、今日はと、友達…?を2人連れてきたんだけど…」安定はそう言って病室に入る。2人も「失礼します」と挨拶をして後に続いた。沖田くん、という人物は入院着を着ていて、点滴を受けていて、
病室のベッドから体を起こしてなにやら雑誌を見ていた。安定の声に気がつくと病室の入口に顔を向けて、「いらっしゃい」とにっこり微笑む。「…雑誌?」「ああ、君たち、加州とは知り合い?デザイナーをやっててね、絶対大成してみせるから見ててねって」「そう、ですか」
「それに、今度は何かショーがあるみたいで。…とはいっても、僕はあまり詳しくないんだけどね、ふふ、楽しみだなあ」ずっと入院していて先も長くない、と聞いていた2人は、穏やかで、朗らかに、無邪気さすら含んだ笑みを浮かべる沖田くんなる人物に少々面食らう。
同時に、なるほど2人が慕うような人物なのだろうとも考えた。「…あの、加州さんは、どういう方なんですか」「…うーん、ずっと一緒だったからなあ…可愛い後輩だよ、僕ら皆剣道をやっていてね、僕が先輩で、2人は同じくらいの時期に道場に来た後輩。あいつお洒落が好きなのに、
小さい頃は自分にはお洒落なんてする資格がないって泣いてたんだ…気負いすることなく好きなことを出来るようになったみたいで、僕もあいつの先輩として嬉しいよ、それから…」「沖田くん沖田くん、2人が驚いてる」「え、あ…ごめんね、僕お喋りが好きで…病室一人のことも多いし、
話し相手がいるとね、ついつい…」沖田くんは楽しく話を続けていて、2人は話に入るタイミングを見失う。特にまんばは、何度か「あの…」だとか「えっと」だとかもらして、途中で諦めた。つらつらと話し続ける沖田くんを安定がやんわりと止めると、沖田くんはハッとして二人を見やり、
困ったように笑いながら謝る。「いえ…構わないです、俺なんかで良ければ…」「それに、俺達は貴方の話を聞きにきたんですよ」「…僕の?ということは、病院のことかい?何か面白い話題でもあったかなあ…」「佐々木浩二という人間について、知ってることを教えてほしいんです、
些細なことで構いません…俺達は、こういう者でして」そう言うと、長義くんは沖田くんに名刺を手渡す。「え、探偵?すごいね、漫画みたい…でも、佐々木先生のこと、と言われてもなあ…僕の担当医ってことくらいしか分からないや。あ、担当医だから、専門はここだよ…って、探偵ならもう調べてるよね」
ここ、と言いながら、沖田くんは自分の胸の当たりを自分で指差す。安定の表情が僅かに曇った。それを横目に長義くんは質問を続ける。「悪い噂などは聞きませんでしたか?」「あはは、自分の担当医の悪い噂って嫌だなあ…さすがに不安になっちゃうよ」「…じゃあ、良い噂は?」
「良い噂かあ…良い…どんな病気でも治してくれる名医…なんてね、そんな人いないよな。どこかから呼ばれた先生らしいくらいで、本当に何も無いと思う。お役に立てなくてごめんね」「あ…えっと、」「いえ、参考になりました、聞かれたくないことだったかと思いますが協力ありがとうございます」
長義くんはそう言うと、まんばに病室を出るように合図する。まんばもそれに続いて「今日はありがとうございました」と一礼した。「そう?それならよかった、よく分からないけど、お仕事頑張って。それから、安定と…よければ清…加州のことをよろしくね」
病室を出て、示し合わせるように目を合わせ頷き合う。「”どこかから呼ばれた”」「…ああ」「やっぱり恐らく、横流ししてる…下劣だな」「…沖田さん、転院できないんだろうか。こんな所じゃ危ない…し」「何も知らない沖田さんには、当然転院の意思はないだろう?…手遅れ、というのもあるけれど」
先程カルテを盗み見た時に書かれていた内容から、沖田くんなる人物は本当にもう長くないことがわかっていた。「…そうか」「とにかく、そう沈んでいても始まらない、どうにか止めないと」「ああ…命を狙われているのは本当だが、あの脅迫状は捏造…いや、ああやって大事にするように脅されている、
脅迫状が届いたけれどもショーを行う、ということに意味がある」「お前もだいぶ板についてきたじゃないか…そう、そしてその脅迫を行った人物、それこそがこの病院の佐々木浩二、その人だ…以前、加州が御堂隆義と揉めた時にでも偶然そのつながりを聞いてしまったんだろうね…
それで、御堂はこの病院と取引していたわけだ」「でも、どうするんだ、俺達が手に入れた佐々木が黒って証拠も、合法的に手に入れたものでは無いだろう」「そうだな…まあ、任せておけ。なんとかしてみせよう」長義くんはそう言うと、得意そうに口角をあげて見せた。
過去編再び。 怪しい。怪しすぎる。そう思ってからは早かった。1週間くらいたっただろうか。慣れない不自由のない生活ではあるけれど、あまりにもおかしすぎる。疑心暗鬼はひとつの道筋をうんでいた。ひょっとして、アパートにいたアイツらと長義は仲間で、自分を匿うのは嘘で、
本当は、油断したところで自分のことをあいつらに売るつもりなんじゃないか、なんてちょっとした陰謀論だった。陰謀論、とはいえ何も突拍子もない話なんかじゃない。現に、生徒手帳を勝手に見られて調べられた。あれだって、俺が”売り物”を知りたかったんじゃないか?と思う。そうした疑心で、
長義のパソコンを勝手に盗み見た。パスワードは使う時にお茶を出すフリをしながらこっそりと見て覚えて、長義が出かけている隙を見計らって起動する。メール辺りを探してみるのがいいだろう、誰かとのやり取りに、怪しいものがあれば黒だ。そうやって、知ってしまった。長義が、
いわゆるヤクザと呼ばれるような家系の人間であること、その家との縁は切れておらず、自分に関わるやりとりをしていることを。 高層マンションだから飛び降りて逃げ出すなんてわけにはいかなかった。エントランスホールを上手く抜けるために、人が来るのを待って、影に隠れるようにして逃げた。
今度は身一つで、学生証はどうしようかとぼんやり考える。当時の自分はまだ中学生で、子供で、だから詰めも甘くて、これでとりあえず逃げきれた、と思っていた。まだアパートにいたやつらは自分を探している、という長義の忠告だって忘れていた。声をかけられた。
振り返ろうとして、その声が聞き覚えのあるものだと気がつく。やばい、と思った時には、頭の後ろ、首の辺りにビリッとした激痛が走り、意識を失っていた。 目を覚ますと、薄暗いところに寝かされていた。辺りを見回しても、身に覚えのない倉庫のような場所で、僅かに潮の匂いがした。
背の高い建物がいくつも積んであって、体を起こそうと試みたところで、自分の手足が自由に動かせないことに気がつく。縛られていた。藻掻くと縄のような感触が擦れて痛む。相当きつく縛ってあり、簡単には抜け出すことが難しそうだった。小さく舌打ちして、他の手立てを考える。
とりあえず、もう暫く寝たふりをしておいた方がいいだろうか、そう思った時だった。声が聞こえた。「こいつなかなか目を覚まさないな」「ガキなんだからしょ���がないでしょ」ガキ、子供、自分のことだろう。どうやら結構な時間が経ってしまっているらしい。
そういえば自分は何をされた?そう思ってみると首の違和感にも気付く。火傷をしてしまったような気がする。何か、危害を加えられて気絶してしまったらしかった。「まあ下手に暴れられる方が困る。移動は明朝予定、一晩はここに置いとくしか…」
「そういやコイツ、山姥切んとこの息子といるとこ見たって奴がいるらしいけど、問題ないんスかね」「は?そんなの聞いてねぇぞ…」どうやら、こいつらは長義を知っているが、手を組んでいると言うわけではないらしいことに、内心ほっとした。同時に、疑ったことを申し訳なくも思った。
今の自分にとって、本当に外は危険で、本当に長義は自分のことを匿うつもりだったのだ、と思うと、こんな勝手をしたことに罪悪感すら覚えた。長義も危ない団体の一員であることは本当だし、軟禁状態だったことは確かだし、勝手に個人情報を漁られたのも確かだったのだけれど、
異常な状況に置かれすぎて、少し頭が混乱していたこともあったとは思う(こういうの、なんとか症候群と言うんだったか)。 今下手に目を覚ましてしまえば、”大人しく”させるために手段を選ばないだろう、そう思って、未だ何やら話している2人の会話にはもう蓋をした。疲れていた。
もう諦めよう、せめてあまり痛い思いはしたくはない、そう思って寝たふりを続けようとした矢先、腹部に重い衝撃が走った。声にならない声が漏れて、びっくりしてそのまま目を開ける。ズズっと体が地面に擦れて、蹴られたのだとわかった。「いい加減目ェ覚ませ。移動だ」「…ッう、…い、移動…?」
襟首をつかんで締め上げるように立たせたそいつは、力強く背中を叩きつけて、よろめいた俺はそのままもう1人の元まで動いてしまう。「…ぁ、」さあっと青くなった。そいつはアパートで自分に話しかけてきたやつで、そう、自分のことを”高く値がつく”と言っていたような気がする。
その時のことを鮮明に思い出してしまうと、いよいよ前後もわからないくらい怖くて、この場から離れないと、と思うのに、ガタガタと震えて身動きがとれなくなってしまった。ぐい、と男に引っ張られて、また1歩と足を踏み出してしまう。
「や、…やだ…嫌、」その場から動かまいと力を込めても、大人の男の力に子供である自分が敵うはずがない。嫌だ、と何度も言ったって聞いてくれるはずもない。男はそんな自分の微かな抵抗など構うことなく、引っ張るように連れ出されて、不格好に、いちいち転ぶみたいについて行くことになってしまう。
制服を着てでたけど、シャツは捨ててしまっていたから貰い物だった。悪い事をしたな、とやっぱり思ってしまって、怖いのと不安と罪悪感で、頭の中どころか、もう身体中がいっぱいだった。「逃げ回ったツケは払ってもらうぞ」そう言われて、押し込むように車に乗せられそうになる。
これに乗ったら最後だと、本気でそう思って、ふと顔をあげた先、涙目が一瞬とらえた景色に声が出なかった。突然押されていた力が抜けた。何者かが何かで男を殴ったのだ。けれど、殴ったという事実より、誰が、という部分の方が衝撃的だった。
「…ちょう、ぎ?」「…ったく、匿ってやったというのに世話のやける」そう言って、コンテナ近くにある材木片手に息を切らしていたのは、逃げ出したはずのあの家の主、長義その人だったからだ。
「長義、どうしてここに…っ」「話は後だ、逃げるぞ!余計な証拠を残したくない!」「証拠って、あの人は…」「生きてるに決まってるだろう!俺はあんなのとは違う!」そう言うと、長義は手早く縄をナイフで切って、そのまま腕をつかんで走り出す。
そこでようやくわかったのが、ここが湾岸部の、あまり治安が良くないとよく言われている場所ということ。通りへ出ると一台車が止まっていて、「乗って!はやく!」と急かされるままに車に乗り込む。自分が乗ったのを確認すると、長義も素早く運転席へ乗り込んで車を発進させた。
不思議と、あの時感じた危機感は、再び感じることはなかった。 暫く走って、車の通りの多い道路に出た。明るい街灯、右も左も車が行き交う。横断歩道を歩く人々はいかにもサラリーマンといった風体の人々ばかりで、会社帰りなのだろうか、と考える。日常風景と言われるような光景は丁度こんな感じで、
けれど今の自分にとっては少し眩しい光景だった。信号が赤に変わり、車が止まる。バックミラー越しに長義が見えた。「…だから、外は危険だと言っただろう」「あんたも、同じくらい危険に見えた」「…まあ、そうかもね」「…助けたことにも、意図があるんだろ」
「無鉄砲なガキのくせになかなか冴えてるじゃないか、褒めてやろう」「…隠さないんだな」「必要ないだろう?…さて、詳しい話は夕飯を食べてからだな」しばしの沈黙。再び車が止まって、その頃にはもう、少し前に長義に連れてこられて、出ていったはずのあの建物が目の前にあった。
長義はデリを頼んで、そのあいだ俺は着替えさせられた。「全くボロボロにしてくれて…」「う…すまない…」「まあ子供の服なんてそんなものか。とりあえず夕飯がつくまで着替えておいで」「え、俺が作らなくてもいいのか」「怪我人にあれこれさせるほど鬼じゃないよ」「…そう、か」
なんて会話をして、しっかり用意されていたスウェットに着替える。着替えてリビングに戻れば、長義がちょいちょいと手招きをした。素直にそちらへ向かえば、手にあるのは救急箱だ。「夜も遅いし、今日はもう外には出ない方がいいし、もしも大きい怪我があったとしても病院とかは明日になるけど…」
「大したことな…っ痛、いきなり何するんだ!」「消毒だよ消毒、手足以外は?」長義はなんの予告もなしに腕をつかんで引き寄せると、縄で擦り切れ痕が残った手首を消毒だと言って、丸めた消毒綿を押し付けにかかる。予期していなかった痛みに呻くと、今度はまじまじと俺を見てそう言ってきた。
視線が痛い。「特には…」「そう?とりあえず、足も見せろ」「え…、痛…ッ、だから触るなら言ってから… っ」「って、お前、手足だけかと思ったらほかも結構派手にいってるな…痛くないの?」「痛いに決まってるだろう!現に今そう言って…」「いや、そうじゃなくて、
車でもそういうふうに見えなかったから、」「…それは、非常時だったから」「ふぅん、まあいいけど」何度かそんなやり取りをして、少し緩く包帯を巻かれたり、微妙な形に切り取られたガーゼを当てられたりして、満足気に長義が「終わり終わり。夕飯にしようか」とやっと離れる頃には夕飯が届いていた。
「さて、どうしてここから逃げようと思ったのかな」「…見たから」そう言ってパソコンのある方に視線を向けると、了解したのか長義は「…ああ」と納得したような声を上げる。「まあ、そうだろうと思った。お前、抜け目ないね、この前茶を出した時に指の動きで覚えたんだろう?」「…ああ」「怖い?」
「今は、そうでもない。あいつらとは、違うんだろ…そう言っていた」あんたが、と続けて真っ直ぐに長義を見る。海の底のような瞳は、見つめたところで何も分からなかった。「ああそうだ、あんなのと俺は違う。…お前の処遇についても話そうか」「…売るわけじゃないんだな」
言えば、長義は箸を止めて自分の方を見る。意外なものを見る目だった。「そうか、話していなかったね…俺が買うんだよ」「…誰を」「お前」その言葉に呆気に取られた。何を言っているのかさっぱり分からなかった。 帰ってみれば国広の姿がなかった。
念の為GPSを忍ばせておいた制服の上着を着ていってくれたのは幸いだった。怪しまれることはしたし、まあ妥当な判断だとは思う。けれど、今は本当にあいつにとって外は危険だった。「…明日までに見つけないと」1人そう呟いて、GPSで居場所の探知を始める。キーボードの位置が少しずれている。
どんな方法を使ったのかはともかく、これを見たのだろう、というのはわかった。国広の居場所はこの街を離れ、海、もっと言えば湾岸部へと向かっているようだった。恐らくまだ移動中だろう。思ったよりも早く見つかった。部下に連絡して、うちとの取引に…と考えて、やめることにした。
そんなことしたら家に借りを作ってしまうし、何より国広を好きに出来なくなる。それはまずい、といつもの部下にだけ連絡事項を伝えて家を出た。国広に掛けられていた金額を用意すること、もちろん全て俺のところから出してくれて構わない、責任は俺が持つ。そう言うと、部下は驚いて「いいんですか?」
と確認をとってくる。それもそうだろう、いくら金があれど、あいつにふっかけられた金額を支払うのはかなり痛い。だが、今はそんなことは関係なかった。この辺りで気付くべきだったと思うが、ほんの短い期間にも関わらず、俺は損益を考えることを放棄する程度には国広へと入れ込んでいた。
利用価値を考えるなら、国広を上手く売ってしまった方がいいはずなのだけれど、国広を使って家を、という計画を頓挫させたくなかった。 色々と準備を整えているあいだに日は落ち始めていた。まだ寒い冬だから、日も長くない。倉庫方面につく頃にはもう夜で、1人夜に倉庫に、堂々と正面から入った。
「…国広は?」そう問えば、俺を知る者は情けなく逃げ出したり、知らない者は威嚇したり、とにかくざわついて、その雑音の中、代表の1人が目の前に立つ。「山姥切が何の用だ?」「訂正させてもらうと、俺個人の用だよ。さて、取引といこうか」
取引の中身は単純だ。国広に掛けられた金全てをもって、俺が国広を買取るというもの。あれには利用価値がある、それくらい払うだけの。とにかくそう思っていたから、自分自身では道理だと思ったけれど、相手にはそうは見えなかったらしい。
「は?何言ってるんだ、山姥切んとこがアレを買い取って何の得がある?」「だから、俺個人の取引だと言っているだろう。どうする?今あいつを引き渡せば、確実に今2億は入るけれど?…言っておくけど、あいつ案外小賢しいぞ、油断をすれば逃げられるかもしれない。
それなら俺との取引に応じた方が賢明だと思わないか?」ペラペラとそれらしく捲し立てている間に、向こう側は応じる気はないのか仲間に連絡をとっていたらしい。「あのガキ連れ出しました」と小さく耳打ちしているのがうっかり聞こえてしまった。「ふぅん、あいつは12番倉庫か」「はっ、どうだかな」
「…そ、交渉決裂、かな。ならば無理にでも取り返すだけだ」このあたりの位置把握ならば、家の都合上完璧だと自負していた。迷わず12番倉庫方面に向かうと、丁度国広が何者かに引きずられている所。これはまずい、と思って、次にはもう、武器になりそうな物を適当に掴んで男のに向かって叩きつけた。
こんなことがあったからか、国広は始終大人しく、もう暫くは言うことを聞くモードのようだった。その夜には、部下から、国広を売ると伝達があった旨を伝えられる。どうやら名の大きさに今更恐れをなしたらしい。こちらとしてははじめから穏便に済ませたかったのだが残念だ。さて、これからどうするか。
国広には、家を潰すために動き回ってもらわなければならない。そう育てる必要がある。俺も情報がまだまだほしい。疲れが限界になったのか、眠ってしまった国広をベッドまで運びながらも今後について考えた。考えて、そうだとひとつ考えついた。
「まず、俺はお前を買取った。値段は2億7538万9623円…ちなみにまだ桜中生徒で世間知らずなお前に言ってあげるけど、一般的なサラリーマンが一生で稼ぐ金額は2億弱と言われている…どういうことかわかるね?」朝食もどこかで頼んだものが運ばれてきた。そんな食事をとりながら、
長義はなんでもないように昨日の話の続きを始める。「…俺は、何をすればいい」言わんとしていることはわかった。俺は、長義に対して一生かかっても返せないくらい借金があるのだ。その返済を、長義は求めている。しかし、俺は中学生だし、親は消えたし、家もないし、当然金もなかった。
身売りでもしろというのだろうか、と長義の方をうかがえば、長義はやたらと機嫌が良さそうだった。「話が早くて助かるよ。…俺は探偵事務所を開く。お前はそこで働いてもらう…危険は伴うが、代わりにお前の生活は全て保証してやろう、福利厚生ってやつだね。
それで、依頼のうち、お前が手伝ったものに関しては報酬の3割を俺への借金の返済としてやろう…帰る家もないお前にしてみれば、悪くない条件だろう?」「探偵…」「お前がみたとおり、俺の出身はああいうところでね。けれど、俺はあんなのとは違うんだ、その証明する…
そのための探偵だ、いかにも対立軸にありそうだろう」どうする?と再び聞かれたが、拒否権なんてあるはずがなかった。もう、俺にはこの場所で藻掻くしかないのだから。長義の手を取って「よろしく頼む」と言えば、長義はますます機嫌が良さそうに手を握り返して、「こちらこそ」と少し笑った。
終わらせてなかったので残り!長いよ! 舞台は現在に戻ります。 「要は、あのグループを仕留めて、言質をとってしまえばいいんだ。そうすれば、加州も全てを話してくれる」「仕留めるって…いいのか」「俺たちは警察じゃないからね、正攻法である必要もない」
それに、すでに正攻法ではないだろう?なんでもないようにそう言う長義くんに、まんばはまた始まったとばかりに苦い顔をする。自分がこっそり見に行ったカルテのことだ。けれどいちいち止めることもしない。まんば自身長義くんのそれに助けられた身だし、
長義くんの最終目的も知ってたし、それらをとうにわかった上で今まで付き合ってきてるのだし、それにまんばには長義くんに対して借金があるので、依頼解決の方が優先で、つまり今更のことだった。
長義くんの考えは単純だった。先日の埠頭で取った音声では、次の取引についても話がされていた。同じ場所でもう一度、といった内容のものは、ショーの前日だのものだ。そこで、長義くんは自身の名を使って黙らせる。家には御堂とその関係者についての不利切り捨てを促させておけば、
あとは勝手に消し合うだろう。問題は佐々木の方だった。こちらもその実御堂の筋の人間なのだろう。しかし、こいつを叩かず御堂を叩けば、逆上し依頼人や依頼人の周りの人に危害が及ぶ可能性がある。だから、佐々木は先に見つけ出して自ら黙らせる必要があった。場所の見当はいくつかついている。
「というわけで、もうお前は戻っていろ、あとはこっちで…」「嫌だ」「お前…」我儘を言うな、とため息をつく長義くんをまんばはじっと見る。折れるまで動かない、とでも言いたげな頑なさは長義くんもよく知るところだった。「お前わかっているだろう、お前の知るあの御堂の人間が関わっているんだよ。
現にパーティーでも…」「あ、の時は…だが、二度はないと誓う!これは俺の問題でもあるんだ。俺の問題を、勝手に他人に明け渡したりするものか!たとえお前でも、だ!」そう言い放つと、長義くんは呆れたというようにため息をついた。「…そういうところが子供だって言ってるんだ。
まあいい、精々人質に取られないように、隠れ方は教えたね?」「ああ、わかってる」「それじゃあ行こうか」そうしてまず向かった先は、加州のいる事務所だった。
扉の前で聞き耳を立てると、加州と男の声が聞こえる。早速当たりをひいたようだった。長義くんとまんばは気配を殺して会話の方に集中した。「…かに、お…くんは、…だよ。でも、」扉越しに聞こえる音はやや小さい。もっと、とまんばは寄ってみる。
「治らないのはわかってるよ、何度も聞いたし、何度も諦めさせられたんだ、わかってるよ。もう一度言う、俺はお前の移植手術の話には応じない!ちゃんと脅迫状は安定に見せてる、あいつは動いた。もう満足でしょ?」「ああ、非常に残念だよ。患者の命を救えたかもしれないのに…」「…っお前!」
「証拠は十分…かな。さて、そこまでだ」その言葉を聞いて、長義くんは遠慮なくドアノブを捻った。鍵はかかっておらず、あっさりと侵入を許す。突然の乱入者に、2人はハッとしてそちらを見る。長義くんは2人の注目などものともせずにレコーダーをチラつかせながら話を続けた。
「沖田さんは心臓を患っているそうだね。…確かに移植手術自体は近年増加傾向にあるけど…彼は認可を受けている施設に動く予定もなさそうだし、本当に患者を治す気があるのかな…それとも、奇病の患者の心臓が惜しい?少なくとも俺は聞いたことの無い病名だったし…」「な、何を…」
「お前が御堂の…そう、人身売買を扱う外道共と手を組んでいるのは知ってるんだよ。証拠はここにある…それに、」そう言って、長義くんは少し後ろに視線をやる。まんばは隠れていて、2人からはなんの行動かはさっぱり読めない。佐々木はその一瞬の隙をついて、長義くんに突っかかってくる。
狙いは証拠となるレコーダーだった。軽々と腕を掴まれて、その衝撃でレコーダーは地に落ちる。「っ痛…手荒だな、お前のその行動、それが全部記録してるよ」「壊せば問題は何も無くなるなァ?」「ちょ、探偵さん!」加州くんがやばい!と動く前に、押さえつけられたままの長義くんの目の前で、
レコーダーはあっさりと壊される。長義くんは特にそちらは気にせず、佐々木の方を見る。「持たぬお前に教えてあげようか。まず、お前は医者でありながら、患者の手術に度々、わざと失敗している。…意図的だ。人身売買を行っている御堂と繋がりがあるからね、それはそうだろうな。
けれど、そんな藪医者掛かりたいやつなんていないからね、勤め先の病院については頻繁にうつっていたようだ。もちろん、名前で検索をかけてしまえば悪評はわかってしまう。だから、御堂の人間に火消しを頼んだんだ。��うしてお前は人畜無害な医者を装っては患者に近づいては、
非健康的な臓器を売っていた…何に売れるのかは、知りたくはないけどね。健康体なら、あの手の輩は別の方法でとれるものだ…だから、売れたんだろう」「はっ、それがどうした?」「でも、御堂の家の息子がしくった。御堂は表では旧財閥系の分家のようなもの。
そこから人身売買なんて漏れたらたまったものじゃない。なぜしくったのか。加州が偶然、お前と御堂隆義の会話を聞いていたとか、そんなところだろう。沖田を次に売ることを知った加州はもちろん、そんなことを許せない。だから交渉したんだ。彼の大きなファッションショーは埠頭に近い。
ここに大量の警察をつぎ込めば向こうは手薄になるね?つまりこう、『次のショーで脅迫されたことにするから、沖田には手を出すな』と言ったところだろう…違う?」「…」「無言は肯定と受け取ろうか。けれど、加州とて犯罪の片棒を担ぐのはごめんだ。だから渋った。…けれど、その用意した脅迫状を、
大和守に見られてしまい…そして、彼から俺に依頼が来たんだ。次のショーで大事にすればお前達の取引をしやすくしてしまう…加州は大和守に被害届を出すとは言えないよね…どうかな?」加州は黙ったまま。佐々木はイライラとして、ぎり、と長義くんを押さえつける力を強める。
「お前…言わせておけばあることないことをベラベラと…!」「へえ、それじゃあ、どこまでが本当でどこからが虚構なのか聞かせてもらおうか」ものともせず、長義くんは変わらず佐々木を睨む。佐々木が殴りかからんとしたところで、ついに加州が声を上げた。
「…っ、ほ、本当だよ!そいつがどういう取引をしてるとか、そういうのは知らない!けど、俺のことについては、全部本当だ!」「お前…っ!」佐々木が長義くんを弾いて加州の方を向いたその時。「…国広!」「ああ!」長義くんのその言葉でまんばが長義くんに何かを投げ渡しつつ、
そのまま佐々木に特攻した。手荷物のはスタンガンで、全くの遠慮はなくそれを佐々木の首の後ろに押し当てる。突然の電流に叫ぶ佐々木に、呆然とする加州。その手を引いたのはまんばで、「立てるか?これは護身用のよくあるやつだから、そんなに持たない。早くここからでるぞ」と半ば無理やり立たせて
部屋の出口に向かう。逃がした獲物になんとか注意を向けたが最後、残っていた長義くんはあっさり背後をとった。「最後に教えてやるけれど、お前が壊したのはダミー、本物は今受け取ったんだけどよく取れてるよ」って聞こえてないか、と長義くんはのびた佐々木を見ながらそう呟き、悠々と電話をかけた。
「ちょっと、お前…!」「なんだ?」「いや、何じゃないでしょ、どういうこと?!あの探偵置いてきていいわけ?!」「構わない。事務所で落ち合う予定になっている…それに、あいつなら上手くごまかせる…あ、です」「ごま、…何が?」「…、ファッションショー、頑張ってください」
「言われなくても頑張るよ!ってそうじゃなくて!」走って向かった先、電車まで勢いで乗ってしまった加州は、息を整えながらまんばに抗議の声をあげる。「大和守さんに連絡取ります。もう大丈夫なので」「大丈夫って何が!」「…沖田さん」「…え、」「もう、全部大丈夫…なので」
「…はあ?あーもう!後で全部聞くからね!」そう言いながらも電車はあっという間に数駅を過ぎ、まんばが「降ります」と言えば加州くんも渋々着いていく。事務所の最寄り駅だった。行く道すがら見たところ、駐車場には車がもうあるようだった。帰ったのだろう、早いなと思いつつあがる。
「…ただいま。事情聴取は?」「面倒だから任せてきた」「…そうか」「…それ任せられるものなの?」訝しげに眉を寄せながら加州くんが部屋に入る。その先にはソファにちょこんと座る安定がいた。
こっからエピローグ。ほんと長くてすみません。 翌々日のこと。「…ということで、もう不安の種は取り除かれているかと。犯人は警察に通報されていますし、主治医ですが、変更になるそうです」「そうですか…ありがとうございました」「こちらは証拠品の類ですね。警察のガサ入れはあると思いますが
…そちらに来た折には提出してください」長義くんはそう言って事務的に調査資料を渡していく。「…はい。あの…国広くんは?」「あいつは…あいつなら熱を出したみたいで、部屋で休ませてます。最後ですし…挨拶させましょうか?」「あ、いえ…無理させちゃ悪いですから」安定がそう言って断り、
事務所の外へと見送られ、出入口へと来たところで、上の階から人が降りてくる。確認するまでもない。この数日一緒にいた高校生、国広だった。やや高級そうな素材のパジャマ姿のまま降りてきて、「長義」と呼ぶ声は、何度か話をした時よりも少し幼い。長義くんは断りを入れると振り返って
「お前、そのままで降りてくるなって言っただろう。大体、依頼人に風邪がうつったらどうするんだ」などと諌めるようにしながらまんばの元へ寄る。「…長義の声が下からしたから」「これ終わったら上に戻るから」「仕事あるだろう…俺が下にいればいい」「病人は布団被って大人しくしてろ馬鹿」
その様子をみながら、安定はそうだ、と今しがた寄り道をしたスーパーの袋に入っていたゼリーをもうひとつのビニール袋に入れて、開けようとしていたドアから離れ、長義くんの元へと駆け寄り、ビニール袋を渡した。「あの、これ」「え、いいんですか?」「お見舞い用といえばお見舞い用なので。
それに、彼にもたくさん頑張ってもらいましたから…お礼です」「俺、は…そんな、」言いながら咳き込んでしまうまんばの姿に安定は入院前の沖田くんを重ねてしまって、違うと首を振る。「そ、それじゃあ、本当にありがとうございました!」
そう言って、安定はビニール袋を押し付けると、足早に去っていった。残された長義くんは、ビニール袋を確認する。「…グレープ、みかん、もも、りんご」どれがいい?と訊ねて、まんばにも見えるようにビニール袋を大きく開いた。まんばはぼーっとしながらもビニール袋の中をしばらく眺めて、
小さく「もも…」と呟く。「わかった。食べたら寝るんだよ…俺も今日はもう上に行くから」長義くんのその言葉には声はなく、こくりと小さく頷いてみせた。 あの日、全ての事情を説明した翌日、起き出した時にはまんばには酷い倦怠感と頭痛が襲っていた。ふらふらと起き上がって、
ふらふらと朝食の準備をしていたところを、少し遅く目を覚ました長義くんが発見し、そのまま慌てた様子の長義くんによって、まんばはベッドに強制送還された。その流れで投げ捨てるように渡された体温計で熱を測ると、しっかりと38度を少し超える熱が出ている。
「パーティか病院で貰ってきたか…あるいはストレス性だろうな。今日はもう休め」「でも学校…」「お前は馬鹿なのかな。他人にうつすなって言っているんだよ」「う、すまない…」「医者は…連れていくのもな…呼ぶか。食事も用意させるから…あとは…」長義くんが呟きながら思案していると、
くいと服の裾を引っ張られる。犯人は言うまでもない。「長義、」「…どうしたかな?」「…俺、頑張れただろ」「…うん」それ以上のことはまんばはなにも言わなかった。気まずそうに目を逸らして、なんでもないと言葉を紡ぐことをやめてしまう。長義くんはベッドサイドの端に座って、
目元にかかったまんばの前髪を軽く払ってやった。結構熱くて、少し戸惑う。「…もっと、俺…頑張る、から」「…うん」「だから、今だけ、」それきり、まんばは眠ってしまう。彼に頑張らせるように強いたのは他ならぬ自分だというのに、長義くんは若干の罪悪感にまんばを撫でた手を止める。
彼には確かに退路はなかった、けれど、公的機関に助けを求めさせることをせず、依存させたのは自分だというのに、ふと、同情しそうになってしまった。「…ごめん」眠っていて、視線が合わないことはわかっているのに、何故か顔を見れない。届かない謝罪が、ぽつりと部屋の中に響いた。 おしまい!
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