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#第二次オイルショック
herbiemikeadamski · 1 year
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 1月17日(火)#先勝(乙亥) 旧暦 12/26 冬土用入 月齢 24.7 年始から17日目に当たり、年末まであと348日(閏年では349日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . やっぱり自家用車がある生活って 一気に生活水準が上がった気分に なり、ゆとりと云うか生活に潤い がありますよね✋雨も寒さも気に ならない✋ストレスから解放されます。 週末日曜と暖かな日が続きました が、昨日は雨で寒く午後より晴れ 間も見え夕焼け🌆も綺麗でしたが 雨で辺りが浄化され冷えた感じが しましたよ✋まぁ~これが普通の 冬の時季ってもんでしょ✋20日の 金曜日には「大寒」ですからね✋ . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #防災とボランティアの日.  1995(平成7)年12月の閣議で制定されました。 1995年(平成7)年1月17日(火)仏滅.に発生した阪神淡路大震災。 そのときにボランティア活動が大きな力となったことから、災害への備えとともにボランティアの大切さを認識する日とされている。 . . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). 陰陽道(おんみょうどう)の六曜日の一つ。 この日は勝負ごと、訴訟や急用などに運がよいとされ、早い時刻ほど良くとされ、午後は凶になるなどの俗信がある。 . #月徳合日(ゲットクゴウビ). 他の吉と重なると特に吉の日です。 引っ越しや結婚、リフォームなどにも吉とされます。 . #大犯土(オオツチ).  選日の一つ。  土、椎、槌。  庚午から丙子までの7日間を大犯土、戊寅から甲申までの7日間を小犯土という。  その間の丁丑を間日、犯土間日、中犯土といい、この日は犯土には含まれない。あるいは犯土には含まれても犯土の禁忌は存在しない。  犯土期間には土公神が本宮、あるいは土中にいるため土を犯してはならない。  土に休養を与えるべき日とされ、土に関することは慎むべきとされています。   . . #阪神淡路大震災記念日.  1995(平成7)年1月17日(火)仏滅.午前5時46分、淡路島北端を震源とする兵庫県南部地震が発生しました。 . #防災とボランティアの日.  1995(平成7)年12月の閣議で制定されました。 . #おむすびの日. 米に関係する民間企業やJA等でつくる「ごはんを食べよう国民運動推進協議会」が2000(平成12)年11月に制定し、2001(平成13)年から実施。 . #第二次オイルショック(#Oilcrisis). 1979年に第二次オイルショック。 . #ウェーク島占拠. 1899(明治32)年1月17日(火)大安.に軍事政策の一環で基地構築の為にアメリカ合衆国が領有宣言した。 . #湾岸戦争開戦記念日.  1991(平成3)年(木)先勝.アメリカ軍を主力とする多国籍軍が、イラクとクウェートのイラク軍拠点に攻撃を開始し、湾岸戦争が勃発しました。 . #尾崎紅葉祭(#静岡県熱海市). . #ひょうご安全の日(兵庫県) . . . #国産なす消費拡大の日(毎月17日). #いなりの日(毎月17日). #減塩の日(毎月17日). . . ■本日の成句■. 一輪咲いても花は花(イチリンサイテモハナハハナ). 【意味】 たとえ小さく目立たない存在でも、その存在自身には何ら変わりはないと云う事。 . . 1986(昭和61)年1月17日(金)先勝. #長谷部優 (#はせべゆう) 【女優、元アイドル/dream、DRMのメンバー】 〔岐阜県〕. . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/CnfS0eoh9yy4O6LqmlyNO_mPuHAm4WXJulwYTg0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kennak · 9 months
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2021年に米国発のウッドショックが起きた。1970年代の「オイルショック」になぞらえた単語だ。コロナ禍のテレワークで郊外への移住が進んだことや、歴史的低金利で建設・住宅需要が伸びた。巣ごもりのDIYブームもあった。また、もともと脱炭素を推進する関係で森林伐採を縮小させていた。さらにアジアでは移動制限とロックダウンで労働者もコンテナも不足した。さらに米国の各港で物流が滞り、不足に拍車をかけた。木材価格の指標となるシカゴ・マーカンタイル取引所の先物価格が2021年には異常値をつけていたほどだ。次に起きたのがロシアのウクライナ侵攻だった。森林認証機関であるPEFCとFSCがベラルーシ産とロシア産を、紛争鉱物ならぬ紛争木材として認証を停止した。紛争鉱物とは、人権蹂躙を引き起こす地域で、テロ組織などが資金源とする天然鉱物を指す。当該地域から調達するほどテロ組織に加担することになる。有名なのはコンゴ民主共和国で採掘されるスズやタンタル、タングステンだ。だから米国などを中心に、これら紛争鉱物を調達しないように進めてきた。その木材版だ。PEFCとは国際基準に則って林業が操業されていると第三者が認証するものだ。FSCも似た仕組みだ。PEFCが紛争木材とみなしたベラルーシとロシアの森林面積は世界の認証面積の12・5%にいたっていた。欧州はベラルーシからの木材調達を制限。結果、欧州の木材が不足し高騰した。ロシアも対抗措置を講じた。非友好国へ木材や製紙材料やバイオマス発電用の木材チップなどを輸出停止すると発表した。このように米国とロシアの大国発の第一次・第二次ウッドショックが世界を襲った。なお、日本にとっては木材だけではない。コンクリートの原料であるセメント、その燃料である石炭はロシアに頼っている。影響は大きい。
日本はなぜ木材を外国に依存するのか? 「ウッドショック」で買い負ける日本が森林大国なのに木材を自給できない理由|au Webポータル国内ニュース
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rosaliaolenyeva · 2 years
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📛 67) セントラル・パークのリーブ・シュレイバー。
本日の "2時のロードショー" は わたしが いまは無き 新宿厚生年金会館で朝に催されました (本日の上映作品の) 試写会を観に行った帰りに 街角で 大量のアナログ盤が捨てられていたことが映画よりも鮮明に覚えていたりして、何が何だかなメルメル映画 「身代金」 が上映されているやうですけれど、そんな中で 忍澤勉という方の 「終わりなきタルコフスキー (寿郎社 2022年)」 の巻末に広がる年譜を、この頃 ゲイリー・シニーズってどうしているんだらうな、なんて思いながら ゆるりと眺めているのですけれど、日露戦争 (1904)、第一次世界大戦 (1914)、タルコフスキーうまれる (1932)、第二次世界大戦 (1939)、第五福竜丸とビキニ環礁と水爆実験 (1954)、キューバ危機 (1962)、ケネディ大統領暗殺 (1963)、第一次オイルショック (1973)、第二次オイルショック (1979)、 タルコフスキーこの世界からいなくなる (1986)、チェルノブイリ原発事故 (1986) といったあたりに スッと目が止まりました。
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774 · 3 years
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日本の医療が置かれてきた歴史を知る必要があります。1960年当時、日本の人口当たりの医師数は、先進国の平均とほぼ同じでした。しかし、70年代にオイルショックが起きて経済が低迷すると状況が変わります。 83年、行政の適正・合理化を調べるための政府の諮問機関、第二次臨時行政調査会(土光臨調)で日本経済の足を引っ張る「張本人」として、コメ、国鉄と並んで健康保険(医療)がやり玉に挙げられたのです。保険医療にカネがかかりすぎるから国の財政が圧迫される。医師の数を減らすことで、結果的に無駄に使われていると考えられていた医療保険による診療費が減れば、結果的に国の赤字が少なくなる。そういう理屈です。当時の厚生労働省の保険局長は、大蔵省(現在の財務省)に迎合するように「医療費亡国論」を唱えていたのです。
新型コロナ以前から崩壊寸前!? 日本の医療の根本的な問題とは?(週プレNEWS) - Yahoo!ニュース
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rpm99 · 5 years
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 そんな中、ビールや日本酒などの提供をメインに、料理も手がける「総合居酒屋」が躍進を始める。そのパイオニア的な存在が養老乃瀧だ。  同社は戦前、長野県内で食堂業としてスタートし、56年12月、横浜市に「大衆酒蔵 養老乃瀧」の第1号店をオープンした。大衆食堂と酒場をミックスしたような業態で、当初は24時間営業で大繁盛した。従業員が食事をとる時間もないほど混雑したため、時間がかかる料理メニューをやめて、手軽な「居酒屋メニュー」にシフトしていった。これが「総合型居酒屋」の元祖とされる。  高度経済成長の波に乗り、「会社帰りに少々飲んで空腹も満たす」というサラリーマンたちのニーズに応えた。FC加盟を広く呼びかけ、私鉄沿線の駅の近くなどに店舗を展開、73年には1000店舗を達成。その後も「全国2000店舗」を目標に掲げ、90年代後半から2000年代にかけては郊外への進出に力を入れた。 「居酒屋御三家」あの看板を最近見ないワケ  「村さ来(むらさき)」も、御三家の一角を占めたチェーンだ。画期的だったのは、若者をターゲットに低価格をアピールするため、「マージンミックス」という仕組みを採用した点だ。  マージンミックスは、原価率が低く、利益率が高い商品と、��の逆の「薄利多売」型の商品を両方販売することで利益を上げる手法だ。原価率の高いビールを手ごろな値段で売る一方、原価率が低く高収益商品の「酎ハイ」(焼酎に柑橘(かんきつ)系などのシロップを足したサワー)を開発、ブームを巻き起こした。  酎ハイのブームに火を付けたのは、村さ来の創業者、清宮勝一氏(故人)だ。開発した酎ハイは120種類以上。若者を中心に人気が広がり、80年代前半には、日本酒やウイスキーに代わって消費量を増やし、ビールに次ぐ定番商品となった。  70年代半ばまでは6~7店舗しかない小規模チェーンだったが、マージンミックスにより、低価格でも高収益を確保するビジネスモデルを構築し。80年代後半から90年代にかけ、900店舗に迫る勢いで成長した。  そして、御三家の残る一角が「つぼ八」だ。73年、石井誠二氏が札幌市のパチンコ店の2階の飲食フロアで創業。この店舗の広さが8坪だったことから「つぼ八」と名付けられたエピソードはよく知られている。  創業当初は、若いサラリーマンなどに照準を合わせ、「全品150円均一」の価格設定を売りにした。これにより、第2次オイルショックで景気が停滞する中でも顧客を増やした。まず、札幌を中心にチェーンを拡大。大繁華街のすすきのに300坪500席という国内最大の居酒屋を開店して話題となった。82年には商社・伊藤萬(その後イトマンに社名変更、1993年に住金物産〈現日鉄住金物産〉が吸収合併)と合弁で「つぼ八東京本社」を設立し、全国にチェーン展開。82年からの5年間で、FCを中心に400店舗を出店した。
「居酒屋御三家」あの看板を最近見ないワケ(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース
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reconquistatokyo · 5 years
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St. David's star charm ダビデの星のチャーム。 ご存知のとおりイスラエルの紋章で、国���にもデザインされていますが、世界各地で見られる魔術的なシンボルでもあります。 17世紀にイエズス会により、DAVIDの最初と最後のDを古代ヘブライ文字のΔ(正確にはギリシャ文字のΔに似ていたであろうことから)に置き換えて重ねた六芒星をユダヤ人の旗印にしてはどうか、という提案から決まったことが始まりです。 さてユダヤ人というと特にネットの世界では シオン賢者の議定書という偽書に基づいた「ユダヤ陰謀論」やイルミナティ、あるいはパレスチナの土地の収奪、アメリカをバックに建国した、現在のユダヤ人はカザール人だ、などといった内容がまことしやかに語られ、信じるか信じないかはあなた次第ですというような無責任な拡散がなされています。 僕個人の見解としては、以上のような話は全て嘘であると考えています。 建国に至る背景については誤解もとても多いように感じています。 そもそも中東の混迷を語るうえでは、アラブ人の国を作ると約束した「フサイン・マクマホン協定」、ユダヤ人の国を作ると約束した「バルフォア宣言」、そのうらで英仏間で取り交わされた「サイクス・ピコ協定」という英国の三枚舌外交を念頭に置く必要があります。 そして建国に至る経緯ですが、そもそも第二次大戦後の1947年11月、国連においてパレスチナ分割決議案が採択され、ユダヤ人とパレスチナ人が土地を分けあって住むということは国際的に承認されています。 また、ユダヤ人は大戦終結前から、オスマン帝国領下のパレスチナに入植していきますが、これは正当な不動産取引によって、合法的に土地を獲得したものです。 AD70年に古代イスラエルが滅亡してから実に1900年の長きにわたり、世界各国に離散したユダヤ人は様々な迫害を受けてきました。 ヨーロッパにおける反ユダヤ主義というのは、ホロコーストやポグロムといったドラスティックなものだけではありません。 どこへ行っても利用され捨てられる、安住の地もなくさまよう流浪の民ユダヤ人が建国の意思を明確にしたのが、テオドール・ヘルツルが主宰した1897年の第一回シオニスト会議です。 その後、東欧出身のユダヤ人を中心に、分割決議案採択の半年後の1948年5月14日、イスラエル建国が宣言されます。 初代首相ベン・グリオンはドイツ生まれです。 歴代の首相、ゴルダ・メイアやベギンもドイツ出身のようです。 こうした人々は実は無神論の社会主義者であったようで、これにはやはりホロコーストやポグロムといったジェノサイドが大きく影を落としているようです。 建国前は英国が委任統治していましたが、建国宣言がなされるとその翌日5月15日にエジプトをはじめとするアラブ諸国がイスラエルに進軍します。 この時にエジプトがガザ地区を、ヨルダンがエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を取ります。 この2つの地区を第一次中東戦争で押さえたのはアラブ人なのです。 ここにこそ、パレスチナ人の居住地が混迷をきわめた原因があります。 ここから実に4度に渡る戦争が行われ、日本にもオイルショックという影響が及ぼされました。 さて現在では強固な繋がりのあるユダヤ人とアメリカですが、建国に際してアメリカは全く賛同していません。 トルーマン大統領は比較的支持していましたが、国務長官マーシャルはじめ閣僚は猛反対します。 アラブ諸国の産油国との関係を考えればこれは当然ともいえます。 また、度重なる中東戦争においても、アメリカはイスラエルに非協力的でした。 イスラエルは自らの力で、砂漠地帯での戦いに重要な空軍の力を増大させ、押し寄せるアラブ諸国との戦いから自国を守ったのです。 世界一とも言われる軍事力をもつ現在のイスラエルでは男性は3年間・女性は21~22ヵ月の兵役が義務づけられています。 また高校からそのための試験が何度となく行われ、何十という階級に分けられていきます。そして特に優秀な者はサイバー分野の特別な部署に配属されます。 除隊後に彼らはその能力と経験を生かして、コンピューター・IT関連の分野で起業することも多く、イスラエルのベンチャーが優秀である理由はこんなところにあります。 ユダヤ人はその歴史から、優秀にならざるを得なかった民族なのです。 世界人口の僅か0.2%に過ぎない彼らが、ノーベル賞受賞者の20%を占めています。 これはAD70年からの長い長い離散生活のなかで、彼らが積み上げたものの結果です。 確かに、とてつもない軍事力でパレスチナ人への報復がなされているニュース映像などを見ると、いくらなんでもそれはやり過ぎではと思うこともあります。 大きなロビー団体もあります。 金融も想像もつかないような大きな影響力を持っているでしょう。 だからといって、歴史を検証することなく、事実とは反する事を広めるのはいかがなものか、と僕は思うのです。 記憶を頼りに書き連ねたので間違いがあればご指摘ください。 https://www.instagram.com/p/BqZFatTljqM/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=ynk8sj34vuhe
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cotlove · 3 years
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Cot Opening Exhibition「津波石」 text
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life&eatdesign2018.2.18
「醸されるモニュメントについて」
cotはもともと、40年前に建てられた古い木造の一軒屋だ。 建てられた当時はオイルショックはあったにせよ、直前まで60ヶ月近く続いたいざなぎ好景気の 流れや、第二次ベビーブームといった中で、多くのお父さん達が「一国一城の主」を目指してロー ンを組み必至に働いていた。世界は終わらない拡大再生産を続けていくかのようにみえた。
それから40年経った現在、価値観、働き方、婚姻の形式の多様性、医療技術の発達といった状況 によって、少子高齢化は課題でも問題でもなく、必然であり状況としてただ目の前にある。騒ぐ ことでも嘆くことでもなく、ここから何ができるのかを考えるための起点。これが、今年42歳に なる僕の見立てだ。 少子高齢化が課題になった時期はあった。1980年代にその課題に多くの人が気付いて対策をして いたら少子高齢化は現在より緩やかだったという試算があるそうだ。80年代、日本はバブルに浮 かれ、それどころではなかった。
僕は未来に対して前向きでいたい。変わらない状況を嘆き続けるぐらいなら、この状況のなかで どんな事をするべきなのか考えることの方が楽しく感じる。量や規模を目指すのではなく、質に 目を向け知恵を練っていくことこそ、日本に生まれた我々が創造性を発揮できる余地というもの だろう。世界のどこでもそんなことに知恵を絞っている人はいない。世界の課題トレンドは人口 爆発問題だ。
これからこの場所では糀のラボを作ると聞いた。直接的な意味でも比喩的な意味でも、この場で 展開していくことは、文化を醸(かも)すことだと思う。醸すということは量を増やすこととは 異なり、今ある素材を菌の力で変質させて、より美味しくて栄養価の高い食べ物や飲み物へと変 えていくことだ。つまり質の変化に主眼が置かれる。
質の変化というのは結果だけを比較すればその差は一目瞭然だが「変化の過程」というのは人間 の目で観察するのは難しい。cotのオープニング展覧会を飾るのはアーティストの下道基行だ。下 道作品は、僕の目にはいつも「モニュメントとその変化」を扱っているように思える。モニュメン トは、人が持つ「象徴を読み解く力」に依拠して成立している。モニュメントそれ自体が何かを表 現することはなく、人がモニュメントに見出してしまう、文脈と読み解く人間の関係によって、そ の存在が純化されていく。そしてその象徴される背後の意味すなわち読み解く人間の視点もまた、 時とともにゆっくり微かに質的な変化の過程を辿るという性質を持つだろう。
この場所が多くの人々の手によって、じっくりと文化を醸す場所へと変容していくのが今から楽し みである。
会田大也
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herbiemikeadamski · 2 years
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 1月17日(日) #仏滅(乙丑) 旧暦 12/5 冬土用入 月齢 3.9 年始から17日目に当たり、年末まであと348日(閏年では349日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . さて4週目の1月も折り返しです。 昨日はドライブ🚘久々に四つ輪 乗りましたけど😅💦高速道路も 久々で高速料金が跳ね上がってる のには驚きました‼️こんなに高く て良いんですかって⤵️私なんか 月給が30年も変わらんのに⤵️⤵️ しかし、四つ輪は楽ですね🤚って かヌクヌクで眠くなりヤバイですよね🤚 いつも二輪だから極寒に慣らされ てるから🤣😂🤣🥶🥶🥶🥶 . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #ウェーク島占拠. 1899(明治32)年1月17日(火)に軍事政策の一環で基地構築の為にアメリカ合衆国が領有宣言した。  第一次世界大戦が起こる15年余りの前の事であるが、アメリカ軍は41年後の1940(昭和15)年には  アメリカ合衆国陸軍と海軍の拠点が設置される事になる。  これは、日本の中心部の東京までの距離が3,198kmの地点にある為、日本国を占拠しようと  計画を企てて居たのでしょう。  しかし、太平洋戦争が開戦と同時の1941(昭和16)12月8日(月)に大日本帝国海軍は攻撃開始。  日本はこの島を占領し、直轄地として「大鳥島」と命名したうえで統治を行った(アメ弱っ💦)。 .  その後も日本による占領・統治が続いたが、連合軍(ABCD同盟陣)が日本の拡大政策を牽制  するという名目の元に二発の原子爆弾や軍人以外への一般平民に武力行使を行い多くの犠牲  を出す事になった為、日本国は降伏せざるを得ない境地まで追いやられました。  その後は連合国の1国であるアメリカ軍による統治に戻ったのである。  そもそも、このウェーク島にはアメリカ本土やハワイ島に居た先住民など無視し占拠するという事には  変わらないのである💢生粋のテロリスト軍団であるのではないかとψ(`∇´)ψケッ!   大の戦争犯罪者はアメリカであると私は言いたいW(=0=)W ガオォー!! .  #大明日(ダイミョウニチ). 民間暦でいう吉日の一つ。  この日は、建築・旅行・婚姻・移転などすべてのことに大吉であって、他の凶日と重なっても忌む必要がないともいう。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 . #母倉日(ボソウニチ).  暦で、母が子を育てるように、天が人間をいつくしむという日。 . #月徳日(ゲツトクビ).  家の建築やリフォーム、土を動かすことが良いとされる吉日です。 . #三隣亡. 九星の俗信の一つ。 建築関係において大凶日。 . #第二次オイルショック(#Oilcrisis). 1979年に第二次オイルショック。 . #阪神淡路大震災記念日.  1995(平成7)年1月17日午前5時46分、淡路島北端を震源とする兵庫県南部地震が発生しました。 . #防災とボランティアの日.  1995(平成7)年12月の閣議で制定されました。 . #おむすびの日.  阪神大震災ではボランティアの炊き出しで被災者が励まされたことから、いつまでもこの善意を忘れない為、1月17日を記念日としました。 . #湾岸戦争開戦記念日.  1991(平成3)年、アメリカ軍を主力とする多国籍軍が、イラクとクウェートのイラク軍拠点に攻撃を開始し、湾岸戦争が勃発しました。 . #三十路の日(一月第三日曜日).  神奈川県横浜市の「MISOJI MATSURI 実行委員会」が制定。  20歳の「成人の日」から10年、それぞれの人が積み重ねた経験を元に新たなチャレンジをしていくきっかけの日としてもらうのが目的。 . #尾崎紅葉祭(#静岡県熱海市). . #ひょうご安全の日(兵庫県) . . #国産なす消費拡大の日(毎月17日). . #いなりの日(毎月17日). . #減塩の日(毎月17日). . . ■今日のつぶやき■. #言うは易く行うは難し(イウハヤスクオコナウハカタシ) 【解説】 口で言うだけならどんなことでも簡単だが、実行となると口で言うほど簡単ではないという教え。 . . 1986(昭和61)年1月17日(金) #長谷部優 (#はせべゆう) 【女優/dream、DRMの元メンバー】 〔岐阜県〕 . . (浅草駅) https://www.instagram.com/p/CYznhkUhT1wVEY1R-yWCmnHxz_B1rYMfrQFALM0/?utm_medium=tumblr
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kennak · 2 years
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押し寄せる近代・怒濤の国際化  大正最後の年となる大正15(1926)年の年末、大正天皇が崩御され昭和と改元、「昭和」という時代が始まります。大正時代から続く資本主義経済の急速な発展や近代化の象徴ともえいえる学校制度の拡充発展期ではあったものの、翌昭和2(1927)年の未曾有の農村不況や金融大恐慌に見舞われ、さらに昭和4(1929)年にアメリカで勃発し全世界が巻き込まれた世界大恐慌にも襲われた重苦しい始まりとなりました。  国内外を巻き込む暗い影響は、1930(昭和5)年のロンドン軍縮会議、右翼社会主義の台頭、統帥権干犯問題、昭和6(1931)年の満州事変、昭和7(1932)年の満州国建国、五・一五事件、オタワ会議、昭和8(1933)年の国際連盟脱退等、日本帝国主義の矛盾を拡大させていきます。さらに昭和11(1936)年の二・二六事件、昭和12(1937)年の盧溝橋事件、日中戦争等を経て、昭和14(1939)年の第二次世界大戦の開戦となります。  そして昭和15(1940)年に日独伊三国同盟と翌年には日ソ中立条約が締結された一方、ABCD包囲網が始まります。さらに昭和16(1941)年にハル・ノートの提示と日米交渉決裂、真珠湾攻撃をもって日米開戦となり、日本も第二次世界大戦禍に飛び込んでいくことになります。翌年以降はミッドウェー海戦と東南アジア侵攻が開始され戦禍は拡大を続けますが、昭和20(1945)年の東京大空襲、アメリカ軍の沖縄上陸、原爆投下、日ソ中立条約破棄を経て、ポツダム宣言を受諾。第二次世界大戦は終結し、日本は敗戦国となります。  敗戦後の日本はGHQの占領政策下に置かれます。婦人の解放、労働組合の結成奨励、学校教育の自由主義化、専制政治の廃止、経済制度等の民主化が進められるなか、昭和21(1946)年には東京裁判が行われ、日本国憲法が制定されます。  また、戦争と敗戦による食糧難とインフレの昂進に苦しむ一方で、昭和25(1950)年に始まった朝鮮戦争の影響も受けて、特需による好景気が始まります。そして世界的には、東南アジア諸国の独立運動が活発化を始めます。 加速する大衆・列島の平準化  昭和26(1951)年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が締結し、さらには翌年のサンフランシスコ講和条約の発効と同時にGHQは廃止され、日本は主権回復となりました。しかし安保闘争や自衛隊問題など、その後に続く日米安保体制下の新たな課題を生むことになっていきます。  一方、神武景気とも称される好景気を迎え、昭和30(1955)年代には、「国民所得倍増計画」が掲げられ、関門トンネル開通、東京タワー完成、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催など、戦後復興が開始されたカラーテレビ放送によって、全国に届けられます。他方、イタイイタイ病、水俣病、四日市ぜんそくなどの公害問題が大きくなるなど、高度経済成長の功罪が浮き彫りになっていきます。  また世界に目を向けると、昭和28(1953)年に朝鮮戦争休戦協定成立後に平和共存の潮流が活発化し、アジアだけでなくアフリカ諸国民の植民地主義への反対や、民族独立を求める力が強まっていきます。そして、昭和35(1960)年のベトナム戦争、昭和37(1962)年のキューバ危機、昭和40(1965)年の日韓基本条約締結など、国際的な戦争と平和への動きに各国がより深刻な影響を及ぼしあうようになっていきます。  昭和43(1968)年には東名高速道路開業し小笠原諸島が返還されます。昭和44(1969)年に東大安田講堂事件が発生した同年、アメリカはアポロ11号による人類初月面着陸に成功します。翌年の昭和45(1970)年に日本初となる人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功し、日本万国博覧会(大阪万博)は大盛況をおさめます。しかし同年のよど号ハイジャック事件、翌年のあさま山荘事件など、過激な事件も目立ちました。  昭和47(1972)年からは「日本列島改造論」による政策が実施され、いよいよ列島が平準化されていきます。札幌オリンピック開催、沖縄返還、オイルショック、ロッキード事件、成田空港開港、日中平和友好条約締結など、社会的に関心が高い出来事が起こる一方、昭和58(1983)年には東京ディズニーランドが開園し、ファミリーコンピューターが発売されるなど、大衆化された娯楽も変化していきます。  昭和60(1985)年頃からは、資産価額の高騰によるバブル経済に突入します。筑波万博の開催、青函トンネル開通、瀬戸大橋開通など科学の進歩を体感する一方で、日本航空123便墜落事故やチェルノブイリ原発事故が発生します。  そして、昭和最後の年となる昭和64(1989)年の年明け早々に宝算87歳をもって昭和天皇が崩御。平成に改元され、「昭和」という時代が終わることとなりました。
「昭和」とはどういう時代だったのか? | テンミニッツTV
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jaguarmen99 · 4 years
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マルコスは戒厳令によって強力な権力を握ることで、従来まで特権階級に独占されていた権益を、貧困層に解放しようとしました。 しかし、実際のところ貧困層にはなにひとつ分け与えられることはなく、特権階級から奪った富や権益は、マルコスとイメルダ夫人、そしてクローニーたちへと分配されるに留まりました。 権益をなお貪るために、家族を次々と公職に就けています。イメルダ夫人はマニラ首都知事 に任命され、娘のアイミーは国会議員、息子のボンボンはマルコスの出身地である北イロコス州の知事に任命されました。 恐怖と報酬をちらつかせることで、誰もがマルコスに逆らえない状況が生まれていました。マルコス一族とクローニーによる支配は国軍と警察にも及んでいます。 国軍参謀長にはマルコスと同郷のファピアン・ベールを据え、将軍職の半分以上を同郷の軍人で固めました。国軍はマルコスに絶対的な忠誠を誓いました。 政敵が排除された長期独裁政権下では、政権が内部から腐っていくのが世の常です。マルコスとクローニーたちは、自己の利益を貪ることに夢中となり、ひたすら不正蓄財に励みました。 公金の横領をはじめ、海外からの援助や融資を彼らは着服したとされています。 こうして私利私欲を貪る政治を続けた結果、戒厳令初期には好調に見えたフィリピン経済は大きく傾くことになります。1970年代末に起きた第二次オイルショックが追い打ちとなり、フィリピン経済は急速に悪化しました。
【独裁者マルコス②】マルコス・イメルダ夫人 VS ニノイアキノ・コラソン夫人
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ysugie · 4 years
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アフターコロナ
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新型コロナウイルス感染症対策の自粛で、自宅待機の生活を続けつつも、僕はこの半年間ブログを更新せずに考え続けました。世界は新型コロナの影響で根底から変わりつつある。それは経済的にリーマンショックやオイルショックどころではなく、第二次世界大戦以来最大、いや戦前の世界恐慌レベルのダメージであると報道されました。
この先、世界はどうなってしまうのだろう。という疑問に答えられない自分は、記事を書く資格が無いような気がして、執筆を控えてきました。今日は先日亡くなった台湾の李登輝氏の話、香港で逮捕された周庭(アグネス・チョウ)さんの話を踏まえて、中国共産党と民主主義国際社会の対立を書くつもりでした。
しかしそれは後日ゆっくり書くことにして、やはりここは自分なりに新型コロナ問題を一度総括しておく必要があると思いました。今は2020年8月ですが、コロナ禍は今年に入ってすぐに拡大し(厳密には20…
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thetaizuru · 4 years
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1969年10月5日 テレビアニメ『サザエさん』放送開始。
(1969年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4)
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 1969年7月20日、アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たした。  8月15日-17日、 米ニューヨーク州サリバン郡ベセルでウッドストックフェスティバルが開かれた。1960年代アメリカのカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。
 SF作品などを通して夢見ていたことが実現し、若者たちが共有した理想を高らかに歌い上げていた一方、8月9日、米ロサンゼルスで、狂信的カルト指導者チャールズ マンソンの信奉者3人組によって、女優シャロン テートが殺害された。
 第二次大戦終戦後、‘科学と民主主義’に夢と希望、理想を抱き、信じ、それは民主国家に限らず世界共通のはずだとも信じて、SFなどの作品や文化を通して楽しんでいた社会は、アポロ月面着陸とウッドストックのあった1969年に一つの到達点に至る。  しかし、ベトナム戦争は止められず、カルトは暴走、麻薬は蔓延。政治的敗北に打ち拉がれる。  何か大きな勘違いをしてたんじゃないかと困惑してたところに、「チャールズ・マンソンがビートルズのファンだった」という話と、その歪んだ愛が凶行にまで至ったということが追い打ちをかける。
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「ちょっとした愉快な解釈の違いは以前からあったけど、どれも無害で、くすっと笑えるものだった……でも、そういうささいな解釈のあと、とうとう最高に恐ろしい解釈が現れた。あの時点から全ておかしくなった。でも僕らのせいじゃない。僕らに何ができるって言うんだい?」
(殺人鬼チャールズ・マンソンの歪んだビートルズ愛「この音楽は無秩序な力を引き起こす」 ローリングストーン 2019/08/10 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31701/1/1/1)
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 日本では学生運動/大学紛争、新左翼運動が全国に波及、社会問題に発展していた。 1969年1月18日-19日 東大安田講堂攻防戦 10月21日 国際反戦デー闘争 11月16日-17日 佐藤首相訪米阻止闘争 11月17日 佐藤栄作首相訪米、11月21日 3年後の沖縄返還合意を取り付ける。
 1967年から続いた学生運動、新左翼運動の高揚に一つの終止符が打たれた。
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1970年3月31日 よど号ハイジャック事件
 犯人グループは出発時に「われわれは明日、羽田を発たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである」(原文そのまま) という声明文を残している。
(よど号ハイジャック事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%88%E3%81%A9%E5%8F%B7%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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1972年2月19日-28日 あさま山荘事件
 2月21日19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国ニクソン大統領の中国訪問のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。 「私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 」
(あさま山荘事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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2つのニクソン・ショック: 1971年7月15日 第1次ニクソン・ショック; ニクソン訪中宣言、翌1972年2月 北京訪問 1971年8月15日 第2次ニクソン・ショック; ドル・ショック、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言、ブレトン・ウッズ体制の終結。
 1972年2月21日のニクソン大統領の中国訪問は、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換、冷戦時代の転機となった。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。また、「ニクソンが中国に行く」という政治用語も生まれた。
(ニクソン・ショック https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF ニクソン大統領の中国訪問 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F)
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 当時を知る人たちからは怒られっかもな勝手な解釈で言うと、カウンターカルチャー/ヒッピーカルチャーはビートルズの活動にレペゼンされていて、ビートルズ活動停止-解散のあたりでほとんど終焉。
 1970年 ビートルズ解散 (1971年3月12日ビートルズの解散が法的に決定された)。 (ビートルズの解散問題 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%95%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C)
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 何か大きな勘違いをしてるんじゃないかと省みることも困難になっていた。  「総括」という言葉はこの時、怖いものになっていた。
 総括とは、本来は全体を取り纏める事であり、1960年〜1970年代の左翼政治運動家の間では、活動を振り返ることで反省・改善策を見出す思考法として好んで用いられていたものである。工業界でいうところのPDCAサイクルの「C (チェック、点検・評価)」に相当する。  日本の新左翼党派である連合赤軍において、「真に総括させるために殴る」ようになりエスカレート、29名のメンバー中12名のメンバーを死に至らしめる要因となった。(山岳ベース事件: 1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件)
(総括 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%8B%AC_(%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D) 山岳ベース事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
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 PDCAサイクルとよく比較されるフレームワークにOODAループ(「観察 Observe」「仮説構築 Orient」「意思決定 Decide」「実行 Act」) がある。  PDCAサイクルは明確な工程がある場合の業務改善に最適なフレームワークであるのに対し、OODAループは意思決定をするためのフレームワークであり、不明確で常に変化していく状況の中で、現状にあるものから最善の判断を下し、即座に行動を起こすことを目的としている。
 OODAループを発明したジョン ボイド(アメリカ合衆国の戦闘機操縦士、航空戦術家、軍事著作家)は、朝鮮戦争終戦後、アメリカ空軍戦闘機兵器学校においてF-100の教官を務めた。学生機との模擬空戦において、「不利な位置から開始して、40秒以内に位置を逆転させる(後方の攻撃位置を占位する)」との賭けをたびたび行ない、6年間/3000時間におよぶ戦闘訓練で無敗を誇った。このことから、戦闘機教官としてのボイドには、「40秒ボイド」という渾名が進呈された。
(OODAループとは?PDCAサイクルとの違いと具体例 https://achievement-hrs.co.jp/ritori/?p=2213 ジョン・ボイド https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%89_(%E8%BB%8D%E4%BA%BA))
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 「解釈で言うと~」みたいな言葉は、事実誤認が見つかった時や、状況が変わったときの修正/変更が可能/必要なポイントに印をつけとくためだったはずが、自分の解釈/思想/気持ちが優先されることで、修正不可能になり暴走、思考サイクル/ループは崩壊する。
 1970年代、過激な政治志向が消えた後の「シラケ」の時代になる。  表現においては、敗北後のPTSD(シェル ショック)の心理療法としての「プライマルスクリーム」と「無知のヴェール」に覆われた状態(ジョン ロールズ『正義論』1971年刊)の時代、バカを装って叫ぶ「パンク」の時代へと移行する。
(『正義論』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E8%AB%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA))
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戦闘ストレス反応( combat stress reaction, CSR)とは一般に戦闘によってもたらされる心理的な反応をいう。戦争後遺症とも称される。
軍事心理学や軍事医学の研究では戦闘ストレス反応は戦闘を経験した兵士が陥るさまざまな反応を含む幅広い心理的障害(心身症)として定義されており、例えば研究者のノイは戦闘において兵士が被る非物質的な損害であると定義している。
第一次世界大戦において兵士の戦闘ストレス反応を研究した軍医は爆音を伴う塹壕に対する砲撃によってこのような障害が生じると考え、このような症状をシェル・ショック (shell shock)(日本語で砲弾ショック、戦場ショックとも) と呼んだ。しかし後に砲撃に関わらず長期間に渡る戦闘によっても反応が見られることから戦争神経症 (war neurosis) へと呼称は変化する。この兵士達の観察を基にして、ジークムント・フロイトは反復強迫的な外傷性悪夢について研究した。
第二次世界大戦にかけて呼称はさらに戦闘疲労 (combat fatigue) とも呼ばれ、戦闘の期間があまりに長期間にわたると性格や能力に関わらず全ての兵士がこのような反応を示すことが明らかにされた。
朝鮮戦争では従来のような戦闘ストレス反応による損耗は減少し、精神病的損害 (psychiatric casualities) という名称で戦闘ストレス反応に関連する症状を示す兵士が評価されるのが通例となった。しかし研究の焦点は戦闘行動によって示す古典的な戦闘ストレス反応から新しく後遺症に移ることになる。
1980年代にかけてベトナム戦争からのベトナム帰還兵が、社会復帰後に深刻な心理的障害を示すことがアメリカ精神医学会で研究されるようになり、これは心的外傷後ストレス障害 (post traumatic stress disorder, PTSD) と命名された。
(戦闘ストレス反応 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%97%98%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E5%8F%8D%E5%BF%9C)
ベトナム戦争: 1973年1月27日 パリ和平協定調印 1974年8月9日 ニクソン米大統領辞任 1975年4月30日 サイゴン陥落
(ベトナム戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89)
 ベトナム戦争の終戦を、1969年に一つの到達点に至り崩壊を始めたカウンターカルチャーの「終わり」と見立て(1979年の映画『地獄の黙示録』で流れるドアーズの「ジ・エンド」)、そこから明るい文化がはじまる(『スター・ウォーズ』(新たなる希望)1977年公開)。  一方で、それまでのSFの流れや、暗い1970年代のイメージを汲んで、‘終末後の世界’を描いたものが「サイバーパンク」になっていく。「ロボット/レプリカント(模造品、量産品)の異常変異と反抗」や、「対立する価値観の間での葛藤」または「心理サイクル崩壊後の暴走」などがサイバーパンク作品のモチーフやテーマとして使われていく。
 1985年 プラザ合意。日本はバブル景気へ。1980年代は結構明るい時代。
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ざっくり言うと: 1960年代; ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (素敵) 1970年代; ニクソンが中国に行く (ショック) 1980年代; 星の王子ニューヨークへ行く (超おもしろい)
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 「サイバーパンク」のビジュアルイメージを強烈に打ち出した『ブレードランナー』(リドリー スコット監督、1982年)と『AKIRA』(大友克洋監督、1988年)という二作品が描いた‘2019年’の50年前である1969年に、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。
 SF作品ではテーマの一つとして「社会(都市)の変化により人の心はどう変わるか」という都市論的考察も多く描かれた。
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 1964年10月10日から10月24日までの15日間、日本の東京で開かれたオリンピック競技大会(第18回オリンピック競技大会、1964東京五輪)は、開催期間には、10月14日のソ連のフルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(東京五輪には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。  東海道新幹線(開会式9日前の10月1日に開業)や首都高速道路などのインフラや、国立競技場、日本武道館などの競技施設が整備され建設需要が高まった。またオリンピックを見るためにテレビを買ったりと、日本の都市と生活の一つの転換点でもあった。
 1964東京五輪開催が決まった1959年(5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された)、その年度の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」というフレーズに、感覚が伴い始めたのが1964年の東京五輪が過ぎた後だった。  1959年度白書の言葉は「もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」という事実認識だった。
「1964年以降の高度成長期後半は(1973年のオイルショックまで成長は続いた)、お父さんはバーやキャバレーやダンスホールで騒がず、ケーキとプレゼントを買って、郊外の家に帰っていった。 高度成長期は、暴力的だった祭りが、すこし人がましくなっていく時代だった。元気ではあるが、少しは文化的に暮らそう、と考える余裕が出てきたのだ。戦後の混乱期は、ようやっと1964年を境にきれいにおさまっていったのだろう。」 (2017.11.16 1964・東京オリンピックは「社会の熱気」を持ち去った…!? https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53500?page=3)
(1964年東京オリンピック https://ja.wikipedia.org/wiki/1964%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF#%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E9%96%8B%E5%82%AC%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%B5%8C%E7%B7%AF オリンピック景気 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E6%99%AF%E6%B0%97 2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた日本経済の課題 https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2015/05/201502-03_69.pdf)
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 戦後が終わり、東京五輪が終わり、‘戦争を知らない子供たち’が若者になり(『戦争を知らない子供たち』作詞: 北山修、作曲: 杉田二郎。1970年発表)、‘科学と民主主義’が一つの到達点に至った。1969年は、時代の転換点の一つだった。
 その1969年のさらに50年前、ヴェルサイユ条約が締結された1919年、なんかやばいことめっちゃ起きてた。
(cf. 1919年 https://ja.wikipedia.org/wiki/1919%E5%B9%B4)
 「ファシズム」と「共産主義」、「革命」と「戦争」、「20世紀の様相をかたちづくってきたもの」、「科学」と「民主主義」。  それぞれの時代や場所、その時の感情や取り巻く環境、そして言語によって、それらの言葉は何を連想させ、何を変え、何に変えられてきたのだろう。
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 新しい知識体系を学ぶということは、「隠されたもの」を語源とする「オカルト(秘学、神秘、超自然的なもの)」に近い側面がある。
 英語の「アルジェブラ(代数学)」の語源となる著書や、名前が「アルゴリズム」の語源となったことで知られる、9世紀前半のイスラム科学の学者、天文学者、数学者であるアル=フワーリズミーは占星術師でもあった。  天文学と占星術が分離されるのは17世紀科学革命後であり、分離後も占星術は現代に至るまで引き継がれ、1960年代のカウンターカルチャーにも影響を与え、現在も���ブカルチャーのひとつとして残っている。
 科学と、疑似科学あるいはカーゴカルトのようなものを峻別するには困難がつきまとい、たとえ疑似科学、オカルト的言説であっても社会的な需要に応えることで残り続ける。  形だけを真似ただけの、正直さに欠ける行為が、本質からの逸脱を招く。
 逸脱を招かないため、逸脱してしまった時に戻るため、困難に打ち勝つため、正直さを失わないために重要な心の領域を分析する心理学的手法も、占星術は導入している。  さまざまな手法の上に独自の解釈を組み込みドグマ化していくというのは、疑似科学やオカルト的言説に限らず、絶対的指導者不在の自ら進んで設立または参加した集団でも、どんなところでも起こりうる。  かつての自分自身の考えと、今また考える自由に、引き裂かれもする。
(フワーリズミー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%BC 西洋占星術 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93 カーゴ・カルト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88)
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 ユング心理学で「布置」と訳されるコンステレーションという言葉がある。(constellation「星座」の意。 そこから転じて“点と線で連なっているもの”を表す語としても用いられることがある。)
 個人の精神が困難な状態に直面したり、発達の過程において重要な局面に出逢ったとき、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくることを、布置(コンステラツィオーン、独語:Konstellation)という。
(分析心理学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)
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 一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、それらが一つのまとまりとして、全体としての意味を持ったものに見えてくることがある。あるいは、新しい言葉を手に入れたり、新しい体験をしたことで、認知のパターンが変わり、今までも見ていたはずなのに認識できていなかったものが見えてくることがある。  一方で、混沌を秩序づけ世界を理解可能なものにしたいという感情が、ランダムな物事の中に何らかのパターンを認識させてしまう。データの違いを無視して類似性を強調することにより、誤った結論を推測するという誤謬に陥る危うさがつきまとう。
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 振り返ると、転換点ばかり。
 僕たちは回転している。
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2019年12月 プレリュード
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usagi33 · 4 years
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非現実的な夢想家として 村上春樹 カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文
「非現実的な夢想家として」  僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。  僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。  でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。  ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1・8秒短くなるほどの規模の地震でした。  地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。  台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。  にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。  なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。  日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。  「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。  どうしてか?  桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。  そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。  今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。  でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。  結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。  ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。  僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。  十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。  なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。  また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。  我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。  日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。  しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理���規範に深くかかわる問題であるからです。  ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません  僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。  戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。  広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。  「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」  素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。  そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。  何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?  理由は簡単です。「効率」です。  原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。  そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。  そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。  原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。  それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。  「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」  我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。  ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。  「大統領、私の両手は血にまみれています」  トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」  しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。  我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。  それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。  前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。  壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。  その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。  僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。  カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。  日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)
以下サイトより転載しました
https://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/5e18920119e56de25a99aaaf81a16a4f
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maconn · 7 years
Text
カタルーニャ国際賞の授賞式で、スピーチする作家の村上春樹さん=スペインのバルセロナで2011年6月9日、ロイター
 9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)
 「非現実的な夢想家として」
 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。
 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。
 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
 どうしてか?
 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。
 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下)
 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。
 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
 理由は簡単です。「効率」です。
 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
 「大統領、私の両手は血にまみれています」
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c3oyama · 4 years
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10/23霜降& 電信電話の日 誕生日/ #秋篠宮眞子 #渡辺直美 #小原正子 #矢部浩之 #ペレ #はしのえみ #坂口良子 誕生日 1760年 華岡青州(医学者) 1849年 西園寺公望(政治家) 1871年 土井晩翠(詩人) 1932年 渡辺美佐子(女優) 1940年 ペレ(サッカー) 1948年 岸ユキ(女優) 1954年 アン・リー(映画監督)   1955年 坂口良子(女優)[2013年3月27日歿]  1955年 篠田節子(作家) 1956年 渡辺真知子(歌手) 1958年 神津カンナ(エッセイスト) 1959年 奥田英朗(作家) 1961年 小柳昌法(元リンドバーグ・ミュージシャン) 1966年 石橋守 (騎手) 1971年 矢部浩之(ナインティナイン・タレント) 1973年 はしのえみ(ブカブカ・タレント) 1973年 川村知砂(歌手) 1974年 伊藤美奈子(タレント) 1975年 小原正子 (お笑い芸人(クワバタオハラ)マック鈴木の妻) 1975年 松井稼頭央(野球) 1978年 シューベルト綾(タレント) 1983年 磯山さやか (タレント) 1983年 藤原まゆか(タレント) 1985年 浦野一美 (タレント(SDN48)) 1987年 渡辺直美 (お笑い芸人) 1991年 眞子内親王殿下 (皇族,秋篠宮文仁親王の第一女子) 誕生花・誕生石 誕生花は ミニバラ、花言葉は“特別の功績”、 誕生石は アメシスト(amethyst)、宝石言葉は“心の平和”です。 霜降(そうこう・二十四節気のひとつ。露が冷気によって霜となって降る) 電信電話記念日 電気通信省(後の電電公社、現在のNTT)が1950(昭和25)年に制定。 1869(明治2)年9月19日(新暦10月23日)、東京~横浜で公衆電信線の建設工事が始まった。 津軽弁の日 津軽弁の日やるべし会が1988(昭和63)年に制定。 方言詩人・高木恭造の1987(昭和62)年の命日。 モルの日(Mole day) 主として北米の化学者たちが、10月23日の午前6時02分から午後6時02分までを、物質量の単位である「モル」を記念する日として祝っている。 1モルは6.02×10の23乗個(アボガドロ定数)の粒子(分子・原子など)からなる物質の物質量と定義されており、この6.02×10の23乗という数字を6:02 10/23に当てはめたのが「モルの日」である。 歴史・出来事 0711年 貨幣の流通を目的とした、蓄銭叙位令発布 1629年 江戸幕府、風俗統制のため女歌舞伎禁止 1869年 日本初の公衆電信線の建設工事が着手される 1873年 征韓論敗れ、富国強兵推進へ 1935年 江戸幕府の五人組にならい、隣組制度化 1949年 横綱前田山の不祥事発覚・野球見たさに場所休場 1973年 第一次オイルショック 1973年 江崎玲於奈、ノーベル物理学賞受賞 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #こんにちは #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #C³ #色のみかた #シーキューブ (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CGqkmZCghmY/?igshid=1mlxlizyjkx6s
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honyade · 5 years
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森山大道 × 長澤章生トークイベント&サイン会 『蜉蝣』『記録41号』(Akio Nagasawa Publishing)刊行記念
1972年に発行された森山大道によるヌード写真集『蜉蝣』新装版と私家版写真誌最新号『記録41号』の発行を記念して、森山大道氏と長澤章生氏(AKIO NAGASAWA GALLERY/PUBLISHING代表)によるトークイベント&サイン会を開催します。
これまでの『記録』を編集した映像をプロジェクターで投影しつつ、写真集『記録』と『蜉蝣』にまつわるエピソードをお話しします。
※サインは銀座 蔦屋書店にてご購入いただいた『蜉蝣』『記録41号』に限ります。
……………………………………………………………………………………………………………………………………… ■対象書籍のご紹介
復刻森山大道ヌード写真集『蜉蝣』 『記録』、『写真よさよなら』と同年の1972年発行された、森山大道によるヌード写真集『蜉蝣』の新装版。 団鬼六(1931-2011)による協力のもと撮り下ろした緊縛写真を中心に再構成し、未公開カットも収録。
私家版写真誌『記録41号』 1972年から 1973年にかけて刊行された幻の私家版写真誌『記録』。 この極私的な写真誌は、他者に向けてというよりも、まず自らに向けてという性質のもので、日常の気ままにスナップしたものの中から自らが恣意的に選んだ写真を16ページに纏めた私家版だった。 しかし、折からのオイルショックによる制作費の高騰などもあり、『記録5号』を出版し1973年に休刊となる。 そして、34年の時を経た2006年に、Akio Nagasawa Publishing より『記録6号』を出版し、再度記録の発行を始めたのである。 この『記録』誌は、その時々の森山大道の“気分”を体現しつつ現在も継続される、森山大道のライフワークとして存在している。
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【参加条件】 銀座 蔦屋書店にて下記の対象商品をご購入いただいたお客様にご参加いただけます。 ・イベント参加対象書籍『蜉蝣』:12,960円/税込 ・イベント参加対象書籍『記録41号』:3,024円/税込
【申込方法】 ・店頭 ・お電話 03-3575-7755 ・オンラインショップ ※オンラインショップでの受付は2019年6月18日(火)午前9時の受注分までとさせていただきます。
【注意事項】 ・イベント会場はイベント開始の15分前から入場可能です。 ・当日の座席は、先着順・自由席でお座りいただきます。 ・参加券の配布はお1人様1枚までとさせていただきます。 ・お客様都合でのキャンセルは承っておりません。 ・参加券の再発行・キャンセル・払い戻しはお受けできませんのでご了承ください。 ・定員に達し次第、受付を終了させて頂きます。 ・止むを得ずイベントが中止、内容変更になる場合があります。
【プロフィール】 森山 大道(もりやま だいどう) 1938年大阪生まれ。 写真家・岩宮武二、細江英公のアシスタントを経て64年独立。 写真雑誌などで作品を発表し続け、67年「にっぽん劇場」で日本写真批評家協会新人賞受賞。 68-70年には写真同人誌『プロヴォーク』に参加し、ハイコントラストや粗粒子画面の作風は“アレ・ブレ・ボケ”と形容され、写真界に衝撃を与える。 ニューヨーク・メトロポリタン美術館やパリ・カルティエ現代美術財団で個展を開催など世界的評価も高く、12年にはニューヨークの国際写真センター(ICP)が主催する第28回インフィニティ賞生涯功績部門を日本人として初受賞。 2012-13年にはウィリアム・クラインとの二人展『William Klein + Daido Moriyama』がロンドンのテート・モダンで開催され、絶大な人気を誇る二人の競演は世界を席巻した。 2019年ハッセルブラッド国際写真賞受賞。
長澤 章生(ながさわ あきお) Akio Nagasawa Gallery/Publishing ディレクター、森山大道写真財団理事 自身のギャラリー Akio Nagasawa Gallery(銀座&青山)にて 年間各5本程度の展覧会を開催し、展覧会に併せ、自身の出版社より多数の写真集を出版する。 主な写真集そして、森山大道個人写真誌『記録』、ウィリアム・クライン『東京1961』、川田喜久治『地図』(復刻版)、須田一政『風姿花伝』、細江英公『シモン私風景』、サラ・ムーン『FROM ONE SEASON TO ANOTHER』などがある。
日程 / 2019年6月19日(水) 時間 / 19:30~21:00 場所 / BOOK EVENT SPACE 主催 / 銀座 蔦屋書店 共催・協力 / Akio Nagasawa Gallery/Publishing 定員 / 60名 問い合わせ先 / 03-3575-7755
チケットのご予約はこちら オンラインショップでの受付は2019年6月18日(火)午前9時の受注分までとさせていただきます。
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