2024年3月15日
映画『怪物』クィアめぐる批判と是枝裕和監督の応答 3時間半の対話(朝日新聞 連載:カルチャー・対話 Re:Ron リロン)
昨年6月に公開された映画『怪物』。是枝裕和さんが監督を務め、カンヌ国際映画祭では坂元裕二さんが脚本賞を受賞するなど高く評価された。一方、「クィア」をめぐる表現や発信のあり方について当事者たちから批判の声が上がった。クィアの表象については近年、その取り上げ方や、当事者たちにもたらす���響について国際的にも議論が高まっている。何が問題とされたのか。どうすればいいのか。当初から指摘していた映画文筆家の児玉美月さんとライターの坪井里緒さんが、是枝監督と3時間半にわたって語り合った。
「クィア」をめぐる発信とスタンスについて、ラストシーンを含む物語と批評について、さらに日本映画界の変化と課題について。「お二人が作品と僕の言葉と向き合って批判してくれたことで、今回とてもいい気づきになりました」と是枝監督。約2万字という異例の長さではありますが、あえて分割はせず、1本の記事として3部構成でお伝えします。
第1部 クィアを隠さないで マイノリティーをまなざす
【坪井】はじめに、「クィア」という言葉は既存の社会規範・カテゴリーに則さない性的マイノリティー及び態度を主に指しますが、彼らへの連帯を示す表現としても使用されます。ただ、この説明はあくまでクィアを指す多くの意味のひとつに過ぎません。クィアという言葉の持つ意味は広く多様であり、「定義」してしまうことによってその包括性を狭めるべきではないと考えています。
【児玉】まずこの鼎談に至った経緯ですが、私は『怪物』を試写の早い段階で観て、マスコミ向けに非規範的なセクシュアリティーやジェンダーに関わる展開を「ネタバレ」扱いするような箝口令が敷かれていることを知りました。これまで映画宣伝において異性愛、シスジェンダー規範のもとでそれらをギミック(仕掛け)として扱い、批判されてきた歴史があります。当初SNSで作品名は伏せてそのことを批判していましたが、その後カンヌ国際映画祭で『怪物』がクィア・パルムを受賞した報道がされ、そこで初めて広く『怪物』が「クィア映画」として認知されることになり、その作品が『怪物』だったと明かしました。
それが起きたのが日本を代表する映画監督と脚本家の作品だったこともあり、批判したままで終わってしまってはいけないと思っていました。
一方で、こうした経緯がありながら、そもそも是枝さんがよくこの場に来てくださった、とも思います。
【是枝】カンヌでの記者会見後に友人から、「(LGBTQに)特化した映画ではない」という僕の発言について「炎上している」と教えてもらいました。「LGBTQの映画ではない」と言ったと報じられている、と言われて「えっ」と思ったのが最初でした。『ベイビー・ブローカー』(2022年公開)でもそうでしたが、SNSで意図と違う捉えられ方をしたことや炎上に対し、反論すると「反論自体に権力勾配が……」と言われたこともあり、SNSはちょっと難しいと思ってやめていた。ただ、(誤解とは異なる意味で)批判に関しては耳に入ってきて、それに対する応答はしたほうがいいと思いながらも、でもSNSでやるのは嫌だと思っていた。
すると、事務所の若手から「その態度はどうか」「失望する」と言われて。それでSNSを見るなかで坪井さんの批評記事に出会って、反省したし気づきにもなった。ただ、すべてに納得できているわけじゃなかったから、「僕はこう考えるんだけど」というのをやりとりしたいと思った。
児玉さんの『文藝』に寄稿された文章(2023年春季号「クィア映画批評と〈わたし〉を巡るごく個人的な断想」)も読み、勉強になったのですが、2人の文章を経て考えたときに、いかに自分の言葉が無防備だったかが分かって反省しました。
ただし、自分としては、「LGBTQの映画ではない」とは一言も言っていない認識でした。
記者からの質問が「日本では性的少数者を扱った作品は少ないと思うが」という、当然この映画はLGBTQの映画である前提を踏まえた上で、テーマは他にもあると伝えるために、「特化していない」という言葉を使った。児玉さんの文章にあったように、いかに映像表象においてクィアが隠されてきたか、僕なりには学んでいたつもりでしたが、当事者の苦しみをもっと深く理解できていたら、記者会見に臨むにあたってもう少し適切な表現を選択できたと思います。
「特化していない」という否定的なニュアンスによって、当事者の方々に「また自分たちの存在を隠された」と感じさせてしまうかもしれない可能性があると、思い至るべきだった。「当然これはクィアの少年たちを描いた映画ですが」という前提をきちんと繰り返すとか、プロデューサーや配給側と詰めておくべきだったというのが一番の反省点です。
【坪井】『怪物』の問題点の指摘を児玉さんと��画研究者の久保豊さんが早い段階でしていましたが、同時に2人に対する誹謗中傷とすさまじい攻撃が起こりました。私には2人がなぜここまで強く警報を鳴らさざるを得ないかというのが見えていたのもあって、自分の言葉で発信しようと思い立ち、文章を書きました(映画『怪物』を巡って――「普遍的な物語」を欲するみんなたちへ https://lighthouse226.substack.com/p/94f?sd=pf別ウインドウで開きます)。
『怪物』は、事前に公開されていた予告に関しても情報が無かったと思います。結果、受け手側にクィアを描いた映画だということが全く届いていないままにクィア・パルムを受賞し、さらに是枝さんの「特化した作品ではない」という発言があり……とすべてが重なってしまった形でした。
映画『怪物』について、ライターの坪井里緒さんがつづった記事
【是枝】クィアを「ネタバレ」扱いしていると捉えられてしまう文言はやめてほしいと映画会社には伝えていたんですが、チェックが遅れてしまった。確認したところ、児玉さんが観た段階ではそういう文言があり、宣伝担当者にもそうした発言があったかもしれないと聞きました。僕自身は第3章で隠されているのはクィア性ではなく「私たちの加害性」であり、それが再帰的に捉えられていくと認識している。「怪物とは私たちのことだったのだ」と分かっていくプロセスなので、そこは伏せたいと映画会社とも話していました。
【児玉】 映画を論じる上で物語のどこを伏せるのかも批評行為の一種だと思っているので、そもそも「ネタバレ」を送り手が指定すること自体にも疑問があります。
私は、第3章を伏せることがどうしてもクィア性を隠すことにつながってしまうと捉えました。発信側の意図がどうであれ、そうした広報のあり方が「クィアは伏せておくべきもの」だと社会に対してメッセージを伝えてしまえば、それは差別になる。これは差別の構造と類型の話なので、意図は関係なく結果的に対象が不利益を被ってしまうなら、やはり問題があるのではないかと。
【坪井】登場人物や観客を含めた「マジョリティー側」が自分たちの加害性に気づけるのは子どもたちのクィア性が明らかになるからですし、クィア性が伏せられているというのは否定できない。
クィアはこれまで何度も普遍的な物語に埋没させられ「改修」されてきました。同性同士のラブストーリーなのに、「好きになった相手がたまたま同性だっただけ」と塗り替えられたり「“特別な人”の物語だと思われたくない」というマジョリティーに都合の良い理由でアイデンティティーや慕情が消されたり、透明化されてきた歴史があります。それを思えば、伏せておくという行為そのものが危険だったと、私も思います。
【是枝】今回の題材は僕が考えていた以上にセ��シティブで、当事者の置かれた状況もより切迫していたがゆえに、いつも通りの発言のつもりが違う広がり方をしてしまった。「特化していない」発言のほかにも、なるべく前情報を入れずに観た方がいいといろんなところで言われて、僕もその方がいいと言ってしまった。それを坪井さんに、「マジョリティーの気づきを優先している」と指摘してもらった。
坂元裕二さんも僕もそうなんですが、いつも特定の誰か一人に向かって作っているんです。公の場では口にしないけれども、語り口としては確実にそこへ向かう。『怪物』に関していうと、僕自身がその立場でもあるし、マジョリティーの側が観た時にどういう気づきがあるかということは、どうしてもベースになる。
あの少年たちと同じような状況の子たちへの勇気づけとか、寄り添って肩を抱くみたいなスタンスはおこがましいと思ってしまう。それはテレビのドキュメンタリーをやっている時からそうで、むしろ弱者に寄り添って分かったつもりになることを回避したいと思ってきた。
ただ2人の文章を踏まえて考えると、スタンスの見直しが必要なのかもしれない。今、それが自分の中では課題です。
マジョリティーの側にいる人間がマイノリティーの題材を扱う時のスタンスとして、僕は彼らの側に立ちますという宣言がイコール唯一の誠実な態度だとは思えない。でも、マイノリティーの方たちは一番観てほしいと思っている人たちでもあるのに、その彼らに「自分たちの映画ではない」と思われてしまうのであれば、僕のスタンスが違うんだと思う。
【坪井】特定の誰かへ向けて作ること自体は悪いとは思わないし、私も誰かに向けて作るタイプです。
けれど、「マイノリティー当事者を描いた作品をつくる」のであれば、本編に描かれた者と同様に弱い立場に置かれている者たちが作られた映画をどう受け取るかというのと向き合い彼らを“まなざす”ことと、自分はあなたたちに決して差別の矛先を向けない、敵にならない、と明らかにするのは最低限必要だと思います。「これはクィア映画でもある」と表明することは、「あなたたちを透明化しない」というスタンスの明示になり得る。
私たちは誰もが別々の存在だから、完全に分かり合うことは無理だし、個のつらさや経験はその者だけのもので、他者が勝手に代弁してはならない。だからこそ、分かったつもりになるのではなくて、分からないからこそ尊重する、のが重要だと思います。
【児玉】クィア映画には固有の歴史や文脈があるので、それをやろうとした時に、既存のスタンスが汎用できないことはあると思います。是枝さんが自分はマジョリティーだからクィアの立場で何かを代弁するのは傲慢だと考えているのは分かりますが、その誠実さとしての一線を維持したまま、これは性的マイノリティーのあなたたちの物語なんだ、と言うことはできる。これまでマジョリティーを自認する作家たちはあまりにも、「あなたたちの物語」ではなく「みんなの物語」だと言い過ぎてきたように思います。
「クィア映画」を「普遍的な映画」と称することがなぜ危ういかというと、物語を彼らのもとから奪って、「普遍」とされる自分たちマジョリティーの枠組みに押しやってしまっているからです。その人たちの物語を取り上げないことが大事だし、より広く受け入れられることばかりが優先されてきてしまって、そこに描かれた人の方をまず真っ先に向く振る舞いをする作家がこれまで少なかったかもしれません。
【坪井】『怪物』は加害側の気づきに重きを置いているのもあって、クィアが受けている/過去受けていた、であろう加害描写がいくつもあります。そうした映画を前情報なく観られること自体が、マジョリティー側であるし、特権ではないでしょうか。
まさに「今」、同様のアグレッション(無意識に行われた攻撃のこと)を受けている子ども――あるいは過去強烈な加害を受けてトラウマを抱えながらも生き残ってきたクィアが、何の情報も無く映画館で『怪物』を観たらフラッシュバックを起こすかもしれませんし、強い言い方をすると命の危険もあります。
これは日本映画全体の問題として、観た者の痛みがあまりに軽んじられているように思います。自死や性暴力のシーンがあるのであれば、事前にアナウンスするべきです。
送り手は受け手が必要な情報によって観るかどうかを選べて、受け取る準備ができるようにしてほしい。『怪物』と同時期に公開された『CLOSE/クロース』という映画がありましたが、自死の展開があるので公開2日後に公式サイトにトリガーアラート(本編で扱うテーマや描写に攻撃的な内容やショッキングなもの、注意が必要な事象が含まれる場合に事前に開示される警告)が設けられていました。
【是枝】『怪物』が当事者をどこまで命の危険にさらすのか、僕は彼らの身になってそこまで深刻には考えられていなかったんだと思います。
基本的にどの映画でも僕は直接描写をなるべく避けて間接的にとどめる方なので、実はそんなに心配していなかった。『CLOSE』も自死はストレートに描かれず、心理的な描写になっている。主人公である少年が彼の死で自分を責めていく気持ちの揺らぎが丁寧で素晴らしい作品でしたが、『CLOSE』のような描かれ方だったとしても、やはりトリガーアラートは必要でしょうか?
【坪井】「傷つき」というのは個々によるものです。個にとって受けるアグレッションがどれほど大きいのかは、他者には判断できませんよね。であれば、傷になり得る・傷痕をえぐるかもしれない表現が「ある」こと自体を明らかにするのがなぜマイナスになるのか、と個人的には思います。
例えば震災の描写や実際の事件にひも付いた描写は最も開示されやすいですが、性暴力、自死、虐待やいじめ、差別描写となってくると伏せられている作品が多い。どうして開示されやすいトリガーと、されにくいものがあるのか。「傷つき」は決して、「大きさ」や「数」で比べられてはいけないし、比べられない。そもそも詳細には踏み込まずに、単にトリガーになりうる描写がある、と最初に提示することは作品の良しあしに直結しないですよね。それらを伏せることで作品の面白さが損なわれるのであれば、ただ単に作品の力不足にすぎないと思います。
【是枝】坪井さんの記事で、実はその指摘が一番効きました。そんなことを隠さなければ観られないものはその程度のものだ、と。何を伏せてどこで明かすのかは脚本を書くときに皆がやるものだけれど、ジェンダーやセクシュアリティーに関することをギミックの一つとして消費するべきではないという批判は、よく分かりました。
ただ、この3部構成について海外メディアに逆に質問したのですが、例えば「不誠実だ」というような批判的な指摘はスペインで一つ。あとはイギリスでもフランスでもアメリカでもなかったんです。ですから、もしかすると作品自体の構造以上に、宣伝の段階での僕自身の言葉の選び方に起因する部分が大きいのかなと思いました。
【児玉】もうひとつ批判が起きたのが、クィアの子どもを支援している団体から「あの年齢(11歳)の子たちが、例えば自分がゲイであるという自認、もしくは他認をするということはまだ早い段階」と助言をもらったと報道された時でしたね。
【坪井】「一時の気の迷い」であるかのような「まだ早い段階」という言葉はその年齢、あるいはそれ以前から自認していた者にとってはアグレッションになってしまったと思います。自認するのに“適切な年齢”を他者が決めるべきではないですよね。
【是枝】お会いした性的マイノリティーの当事者の方たちも自分はその年齢ではこうだったという経験をそれぞれ語ってくれて、僕ももちろんその認識は今回の映画の中での子どもたちに限っての話だと思っていました。作品を前提としたあくまで湊や依里の場合のつもりでした。そこが報道では、一般論かのように伝わってしまったようです。
【坪井】アイデンティティーに関する定義や一般論は、それ自体が問題です。アイデンティティーは定義できないものなので。私も何かを発信する時には一般論に聞こえないように、これはあくまで自分の話だ、と限定的に前振りするようにしています。
【児玉】今回は一般論として伝わってしまったことに問題があったと思いますが、そもそも色々な考え方があるので、複数の団体に聞くことも重要だと思います。
【是枝】プロデューサーと相談しながら、いくつかの候補を挙げていただき、実際に来ていただいたのは1団体になりました。最初に『怪物』のプロットを受け取った時、これはちゃんと勉強しないと描いてはいけないと思ったので、まず専門家の話を聞こうと。LGBTQの子どもたちを中心に支援している団体の方に来てもらって、演じる子どもたちやスタッフに性的マイノリティーについての講習をしてもらいました。
【児玉】団体に限らず、クィア表象の専門家や有識者の監修を入れることは考えていなかったのでしょうか。
【是枝】それは考えませんでした。インティマシー・コーディネーターの浅田智穂さんに入ってもらったり、今回は子どもをケアしたりする方向性に傾きました。なのでもし今後またクィアの作品を撮るとしたら、もっと監修などは考えたいですね。
【坪井】『怪物』が公開された6月は「プライド月間」と呼ばれていて、クィアにとって大事な月でした。権利を奪還するための運動が活発になる月というのもあって、その分、腹立たしいことですが差別を強くぶつけられる月にもなってしまっています。そういう側面でも何か発信があってほしかった、という気持ちがあります。
【児玉】日本のクィア映画は、これまであまりに社会や政治と切り離されてきたのではないかと思います。表象だけにとどまるのではなく、現実に生きる性的マイノリティーの権利や地位の向上にくみするような社会的アクションにもつなげていってくれれば、と。
【是枝】特別な月なのだから、一つの作品として何かを発信するという提案があってしかるべきだったと思います。そこは反省点です。
映画を撮ることが社会参加である、という意識が、自分も含めて日本ではまだ希薄だと思います。そこも今後、変えていかないといけないところかもしれないですね。
第2部 描かれなかった場面 ラストの解釈と批評
【児玉】主に映画の外の話をしてきましたが、『怪物』の作品そのものに深く入っていきたいと思います。決定稿を掲載したシナリオブックも出ていますし、完成された映画との違いについて。
【坪井】湊の隣の席のクラスメート・美青のエピソードが本編ではカットされていましたね。
脚本では美青はBL作品を好んでみている子として描かれ、湊と依里の親密さを自らのなかで勝手に恋愛関係だと決めつけて「応援してるの」という言葉をかける。「カミングアウト」(自分のアイデンティティーや慕情などの属性を開示すること)という言葉を使用して、湊たちに対し自分の決めつけた慕情の開示を迫るシーンまで書かれていました。
あれはまさに特定のクィアに対して、その者の属性を勝手に推測して当てはめるという暴力、実際に存在するクィアを自分の快楽のために相手に分かる形で同意なく消費する暴力、カミングアウトという個にとって生存に関わる重要な事柄を勝手に暴露する「アウティング」(当事者が同意していないのにもかかわらず、アイデンティティーや慕情などを第三者が暴露すること)、という三つの暴力。クィアを消費するマジョリティーへの批判のように読めました。美青の話を入れ込むべきだったのではという声は、クィアコミュニティーからも多かった。
【是枝】そのシーンはタイミング的に映画の終盤に差し掛かっていたので、カミングアウトを促す第三者の目が入るより、2人の関係そのものに絞り込んでいくべきだと判断しました。
【坪井】カミングアウトを強いることがどれだけ当事者にとってリスクが高いのか、アウティングが命に関わる加害であるかが今の社会では認知されていないので、美青のエピソードが映画に存在したらどうだったかな、と想像しました。湊と依里を第3章まで見つめてきた観客には、湊と依里が望まないカミングアウトを迫る美青がどれだけ危険な行いをしているか、アウティングがいかに当事者を追い詰めるかが伝わったのではないかと。
ただ、BLや百合が必ずしもクィアを消費しているかというとそれは違います。BL作品を消費するのが悪いのではなく、湊と依里の関係性を勝手に恋愛関係だと決めつけたうえで、当人に分かる形で消費しているのが問題であるのだとメッセージを限定しなくては危ういので、その点が難しかったかもしれません。
【是枝】正直なところ、その描写自体が言い訳に見えてしまったんです。こういう目配せも作り手はしているんだという匂いが撮りながらしてしまって、ない方がいいと判断しました。
【坪井】もう一つ、虐待を受けた依里を風呂から助け出した湊が力尽きて倒れた後、校長が倒れている2人を見つけて介抱し、ぬれた服を着がえさせてあげるシーンもカットされていましたね。
【是枝】脚本の段階で校長先生のエピソードに関しては、そのシーンか、音楽室で湊と校長が楽器を吹くシーンか、どちらかだと思っていました。そうでないと、第3章が少年2人の話ではなく、校長先生の話になってしまう。で、音楽室を選びました。
【坪井】大人たちによる差別と暴力により死にかけていた2人にあたたかい服を着せてあげて、彼らが自由に走っていけるように送り出すというシナリオにどうしても意義を感じてしまいます。
それまで本編に出てきた大人たちは皆彼らを「傷つける側」だったけれども、明確に2人のために動いて実際にケアをしてくれる大人が出てきたのが重要だったなと。音楽室のシーンはあくまで湊と校長2人だけのシーンだったというのもあって。
【児玉】久保豊さんが『CINRA』に寄稿していた批評でその音楽室のシーンに触れていましたが、「秘密を抱えた二人が言葉ではなく、楽器を通じた咆哮を学校中へ響かせる」が「その選択肢は、湊と依里が生き残る先を描いてのみ有効なのではないか」と疑問を投げかけていましたね。自分自身のマイノリティー性を具体的な言葉にすることもできない抑圧が働いてしまう現状の社会で、そうした音響の技巧的な表現が果たしてどれだけ有効なのか、という問いだと私は受け取りました。言葉にせよ映像にせよ、まだまだはっきりと可視化させていく段階なのではないかと。
【是枝】「一番大事なことは言葉になっていない」と僕もメディアで発言していたから、結局それもクィアの隠蔽(いんぺい)だと思われてしまったのかもしれない。そういう広がり方をしてしまったことは確かなので。
【坪井】制作段階でトランスジェンダーやゲイなどアイデンティティーや慕情に関する具体的な言葉は出なかったのでしょうか。
【是枝】話し合いの場ではもちろん出ていますが、せりふとしては一度も出ていないです。初稿の段階では、湊が自分の性的指向をカムフラージュしようとするような行為をとる場面があって。わざと携帯に水着姿の女の子の写真を残して寝て、寝室に入ってきた母親がそれを見てぷっと笑って安心する描写だったのですが、当事者の方たちへの取材の際に「気づきの段階にバラつきがある」という言葉を聞き、湊の行動を考え直し、3カ所ぐらいそういう描写をカットし、統一感をもたせました。それもこの映画が性的マイノリティーを描いた作品であることを隠しているような方向で捉えられた一因になってしまったのかもしれないですけど、その辺が判断としては難しいところでした。
ただ、その段階からゲイという具体的な言葉でまだ名付けられていない子どもたちとして描くことは坂元さんとも話していた。まだ自分でも名付けられないからこそ、「怪物」という言葉が外から入ってきてしまうことにしようと。
【坪井】『怪物』というタイトルになった経緯については、最終的にプロデューサーと是枝さんが推して決まったんでしたよね。
【是枝】しばらく『怪物(仮)』の状態のまま、途中で一度『なぜ?』に変わったんです。僕は『なぜ?』よりは『怪物』がいいと思っていたんですが、坂元さんが難色を示していてずっと(仮)を取らなかった。
【坪井】クィアな子どもたちのことを「怪物」だと思われたら、という懸念からでしょうか。
【是枝】明言しなかったけど、そうかもしれません。また件の「特化していない」発言につながってしまいかねないですが、「怪物」が指し示すのは少年たちのことだけではないので、最終的には良いタイトルなんじゃないかとみんな納得しました。
【坪井】「人間」を「非人間化」するのはまさに差別構造そのものですよね。
相手を自分と同じ人間ではないと見なせば加害をする免罪符になる、という誤った手法はこれまで起こった・今起こっている虐殺、及びあらゆる差別において繰り返し使われてきました。そもそも人間でなければ殺してよいわけではないのにもかかわらず、です。その差別の歴史を考えれば「怪物」というタイトルはクィアな「人間」を「非人間化」しているように捉えられる危うさからは逃れられていないように思います。
【是枝】実は、「怪物たち」というタイトル案も出していたんです。でも逆にそういう意図が明解になりすぎてしまったので、引っ込めたんです。
【坪井】「怪物たち」だと印象が違いますね。マジョリティーに対する比喩だと伝わります。とはいえ、本当の怪物はマジョリティー側なのだという制作陣の意図が観客に適切に伝わったとしても、「怪物」という存在に有害性を押し込めてしまい、差別という構造の問題を個人に集結してしまっているように読めるという問題点は残りますね。
【児玉】タイトルに関してもそうかもしれませんが、是枝さんの作家性は余白をあえて持たせるというか、両義性にあると思います。『怪物』の結末はかなり意見が分かれましたよね。
【是枝】この10年で、「オープンエンディング」に対して結末まで描かないでずるい、逃げていると批判されるようになりました。
『そして父になる』(2013年公開)で僕と樹木希林さんがQ&Aをした時に、客席からあれは最後どうなるのかと質問が出た。そしたら希林さんが、あなたはどうなると思うのかと問い返した。「私はあの家族がどうなるかは分からないわよ、だけどきっと二組の家族はああでもない、こうでもないってこの映画で描かれた時間を、考え悩んだことを無駄にはしないこれからの人生を一緒に生きるんじゃないの。それでいいじゃない」と言ってくれて。なんてかっこいいんだろ���と思った。だから、そういう終わりをいつも目指しているんです。
【坪井】映画の結末の後も登場人物たちの人生が続いていくように感じさせるのと、映画としての結末の解釈に幅を持たせるのは意味が違うのではないでしょうか。
前者は私も好きですが、後者は観客に結末を投げているように感じられるし、視点が高いなと思ってしまいます。「最後どうなったのかは皆さんが判断してくださいね」って言っているそっちは、じゃあどこに立っているんですか、本当に結末を決めましたか、って思ってしまいます。
【是枝】それも最近よく言われるようになりましたね。しょせん、他人事なのか、と。
物語が終わった後に観た人が、あの人たちは明日どうやって生きていくんだろうと想像してもらえるような終わり方を、これまでずっと変わらず考えてきた。でも、昔は言われなかったことを随分言われるようになって、オープンエンディングはこの時代にはそう受け取られるんだなと思っています。
僕が難しいと感じているのは、何が当事者をエンパワーメントするのかという問題。『怪物』がマジョリティーの気づきにはなっているが、当事者のエンパワーメントにはなっていないという批判に、どう応答できるのか。この作品ではない場所で坂元さんとも話したのですが、死んだら不幸で生き残ったら幸せなのか、と。そんなに単純な物語を描いているつもりはないと言っていて、それは僕もその通りだと思っている。
要するに、最後は2人が死んだという前提で、クィアを不幸にしてマジョリティーが涙を流すための道具にしたと書かれている批評が結構あったんだけど、僕らとしてはあの2人を待っているのが「死」のつもりはなかった。撮影の現場でも少年2人にはそう説明していました。そもそも「死」だとエンパワーメントにつながらなくて、「生」にすればエンパワーメントなのか。そこは作り手の側から問いたい点ですけど。
【坪井】私も作品を書いていて「死んだら負けなのか」というのはすごく考えます。社会において特に自死は逃げだ、負けたんだと言われてしまいがちですが、私は��うではないと思います。加えてあえて言うならば逃げることの何が悪いんだよ、とも。
ただ、自分で選択した死と“選ばされる”死は違いますよね。本人が数ある選択肢のなかから自分の思想や気分で選び取った死と、とても生きてはいられない環境に社会・他者によって追い込まれた末に選ばざるを得なくなって起こった死はまったく違う。
クィア映画におけるクィアの死は後者がほとんどです。環境のせいで選ばなければならなくなった「悲劇の死」。クィアにとって、クィア映画における「死」はその存在そのものが猛烈なアグレッションなんです。
【是枝】僕は『怪物』を、むしろ“生”を選んだ話のつもりで作っていたんです。だからそこを根拠にした批判にどう答えたらいいのか、正直分からないまま、ここに至っています。
【児玉】映画技法としても、画面が白飛びになったりするあたりを含め、よくある死の表現のクリシェになってしまっていたかもしれませんよね。
【坪井】これは脚本にしかないシーンですが、トンネルの先へ走り去った馬を見て湊が「生まれ変わったお父さんかもしれない」と思う展開がありますよね。トンネルの先は生まれ変われる場所、つまりこの世界ではない天国のような場所なのではないかと読めます。2人はトンネルを通って『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)を思わせる列車に乗り込む。
また、映画にもあるシーンでは、「(猫を)土に埋めて燃やせばなりたいものに生まれ変われる」という会話が第3章にあります。「土に埋める」という儀式的な行為とラストの土砂崩れが被るんですよね。けれども2人は燃やされずに、土から這い出る。ただそれだけだと死んだんじゃないか、生まれ変わったのではという解釈の余地があるために、這い出た先で「生まれ変わったのかな」「そういうのはないと思うよ」「ないか」「ないよ。もとのままだよ」「そっか。良かった」という会話があったんだろうなと私は読んだんですけど、それでも「死」という解釈に引っ張られた方はかなりいたと思います。
【是枝】「死」と捉える人はいるだろうとは思っていたのですが、割合的には2割ぐらいだと予想していました。あの白飛びは確かに危険だなと思いましたが、文脈の流れの中で「生まれ変わったのかな」というせりふを聞いてもらえば、あえて言いますが、それほど「誤読」は起きないだろうと思っていました。
【児玉】是枝さんが本当に“生”として描きたかったのであれば、クィアと死がたやすく結びつけられる背景を考慮して、もっと明瞭に“生”の方へと舵を切らなければいけなかった気もするんです。
【坪井】クィアは物語においていつも悲劇的な死の役割を担わされる、という歴史的な背景に加えて、第1章から第3章にかけてずっとクィアへのアグレッションが繰り返されているので、結末に至る時、クィアな観客は精神的に弱っていると思うんですよね。こんな環境では到底生きてはいけないと認識した後の白飛びなので、やっぱりクィアは死ななきゃいけないんだと思わされてしまうのかもしれません。
ラスト、2人が廃線を走っていきますが、その先は木々が鬱蒼としていてどうなっているのか分からない。そういった整備されていない獣道にクィアが進んで行くというのも不穏で厳しい未来の暗示に捉えられるだろう、とも思います。
【是枝】2人には、最後はありのままの自分で生きていく喜びの表現をとにかくしてほしいと話しました。あそこは3回走ってもらったんです。
もっと楽しそうに、もっと叫んでいい、まだ足りない、そう言いながら撮っているし、台風で飛ばされたことにして、それまで2人の行方を閉ざしていた線路の柵を外して先まで行けるようにした。それは、未来が開けたという意味でした。
カメラを振った時に思った以上に光が強くて、一瞬白飛びするので、死後の世界として捉える人が出てくるかもしれないとは思いました。けど、それはむしろ「祝福の光」として捉えようと僕は思っていた。台風も過ぎ、彼らの“生”が祝福される演出ではある。
ただ、カンヌでも随分と最後がどっちなのか聞かれたし、「死」の結末に捉えた人が想像以上に多かったのは間違いない。僕は初めて『怪物』の脚本を読んだ時、これはカムパネルラとジョバンニが生き残る話だと思った。だから両方死なずに戻ってくる話だと思っていたんだけど、そこもちょっと甘かったのかもしれない。
【坪井】最後に2人が笑顔なのも、逆に現実が苦しいから、しがらみのあるところからやっと魂が解き放たれたようにも見えますね。脚本では、最後に2人がこちらを見返しますが、映画では変わっています。あそこでこちらを見る2人がいれば、私たちとまだ同じ世界にいるということが分かるので、かなり違いましたよね。
【是枝】そこも僕が坂元さんに決定稿に足してもらって、撮影した上で自分で削った部分です。何カ所かそういうところはあります。
確かにこちら側を批評するまなざしとしても、少年たちが見返して終わった方がメッセージは明らかでした。最初の試写段階でも残っていたのですが、走り切って黒に落とした方が圧倒的に終わりとしては力強くて鮮やかだったので、結果的には削りました。要は、私たちはもうあの2人には追いつけない。先生も母親も大人たちも、誰も手が届かない。作品の意味的には、もちろん見返す方が明確だったと思います。ただ、もう彼らには手の届かないところまで走って行ってほしいという感情が勝ちました。
でも、仮に死と捉えられたとしても、批評は批評として独立したものだから、それでいい。作品に従属する必要はないし、監督が考えている以上のことを書いてくれた方が面白いし、そういうものを読みたいです。
【児玉】坪井さんの文章は『怪物』のことを、本気でとことん考えたことが分かりますもんね。批判的な批評をすると、すぐに「表現の自由」を奪うつもりかと言われるなど、単純に作品への「攻撃」と見なすような風潮がますます強まっているようにも感じますが、正当性のある批判には映画文化を底上げしていく価値があるじゃないですか。
【坪井】『怪物』についての記事を出した時「お前は是枝さんのこと嫌いなんだろ!」みたいな反応がありましたね。気にしすぎ、とか映画の本質を理解していない、ただの難癖だ、というコメントもありました。
今回、怪物に関してSNSで批判をしたクィアに対しても似たようなコメントがぶつけられていたように思います。他の作品でも、そうした批判を封じようとする動きや冷笑をよく目にします。
是枝さんがおっしゃったように、批評は批評として独立したもので、私は一つの作品だと思っている。監督の意図に反していたり、想定を超えたりしている読解があっていいんだと強く言いたい。
好意的な批評だけが素晴らしくて、批判的な批評は全部「難癖」みたいなのは納得いかない。私は批評を一種のリスペクトとして書いているので、作り手が嫌いなんだという指摘は明確にズレています。
【是枝】それが僕にはよく分かったので、響いたんです。児玉さんと坪井さんに関して言うと、これは受け止めなければいけない本気の言葉だと思った。こういう時間は大切ですよね。
批判した側と批判された側でこうして関係が成立していることが外に出ていくのは、いいことだと思います。
【児玉】日本を代表する作家たちが手がけ、かつ高く評価されている大作を批判することは怖いことでもあるかもしれませんが、真剣に考えて本気で言葉を紡いだ観客もたくさんいたと思います。
【是枝】傷つけてしまった人たちに対しては取り返しがつかないかもしれないけれど、お二人が作品と僕の言葉と向き合って批判してくれたことで、今回とてもいい気づきになりました。
第3部 映画界の変化と課題 批判と応答これからも
【児玉】『怪物』から少し離れて、昨今の日本映画界のさまざまなイシューについてもお話ししていきたいです。是枝さんは映画の中で子どもを多く描いてきましたが、撮影する上で今どんなことに気をつけなければいけないのか。例えば『怪物』には性的な描写がありますが、どんな配慮があったのでしょうか。
【是枝】脚本には車両の中で湊と依里が抱き合って湊が勃起する描写があったんですが、子どもたち自身もその意味をどの程度理解しているか分からなかったので、まず保護者の方に問題ないかを確認した上で、「命育」という団体に相談をして紹介いただいた助産師さんにきていただき、インティマシー・コーディネーターの浅田さんにも同席してもらいつつ身体的な変化など性教育の講義を実施してもらいました。その上でこの映画の中で事前にどう抱きしめるのか、その時にどう感情が動き、身体的な変化が起きるのか、といったことを頭で理解してもらった上で、感情的なところに落とし込むプロセスを踏んでもらいました。
【児玉】少年同士の親密なシーンを撮影する時の現場は、どういう状況でしたか。
【是枝】そのシーンはロケ地が森だったので、電車の中は必要最低限のスタッフにして、カメラマンと僕、それから浅田さんだけでしたね。
【坪井】子役にシーンの意味を伝えないままに撮ってしまう現場もあると思うので、助産師による授業が設けられたのは大きいですね。
日本は性教育が遅れています。生理の仕組みや射精の原理、妊娠や中絶、避妊に関する知識など、性にまつわる情報は皆が小さい頃から知っておくべきなのに、私が小学生だった頃は男子と女子に分けられて、まるで秘密にしなければいけないことのように教えられた記憶がある。
まずその「男女」という二元的な分け方自体が問題です。性を知る権利の侵害は己の身体に対する自己決定権を奪われることなので、知識を身につけた上で演じられるのは重要だと思います。
【是枝】浅田さんに『怪物』の初期の脚本を読んでもらった時に、アメリカだとこれは児童ポルノとして搾取される可能性があると指摘されました。例えば大人のペニスを見るシーンがあれば完全に別撮りで、違う何かを見せてリアクションだけさせて、トラウマになるような撮影は一切しない。日本でも、この間放送されたNHKのドラマ『拾われた男』で、怒鳴ったり殴ったりするシーンは子どものリアクションを別撮りにしたらしいです。
『万引き家族』(2018年公開)で、もちろん保護者には事前の了解は取っているんだけど、子どもが夕立にあって家に帰ってきたらお父さんとお母さんが抱き合っていて裸を見てしまうシーンを同じ空間で撮ったんです。浅田さんにそれを話したら、アメリカだともうそういう撮影は許されない、と。別撮りでセットも分けるとなると予算的に難しいんですが、世界的な基準を踏まえた上で、何ができて何ができないかを模索し始めたところです。
【児玉】セバスチャン・リフシッツが監督したフランス映画で『リトル・ガール』というトランスジェンダーの子どもを描いたドキュメンタリーがあります。例えば風呂のシーンなどで肌の露出があったために批判が起きました。是枝さんは子どものヌードに関してどう考えていますか。
【是枝】『そして父になる』で風呂のシーンは男の子だけだったので、上半身とお尻までは見せているのですが、リリー・フランキーさんが演じる父親の家にいた3きょうだいの真ん中が女の子だった。風呂から出てきてぬれたまま走って、父親がバスタオルを持って追いかけるところを撮ろうと思ったんですが、その子が幼稚園か小学校に入りたてくらいで、確か既に上半身は見せてはいけないルールでした。ただ『万引き家族』の時に、安藤サクラさんが演じる女性が拾ってきた女の子のお風呂に入るシーンはどうしても撮りたかったので、裸ではなく盗んだ水着を着て喜びながら風呂に入っているシーンにしました。それは制約があったおかげで、むしろ良いシーンになりました。
映画『怪物』について語り合う、是枝裕和監督(左)、ライターの坪井里緒さん(中央)、映画文筆家の児玉美月さん=2024年2月9日、朝日新聞東京本社、上田幸一撮影
【坪井】以前、子どもがいる役者さんも撮影現場に参加しやすいように、役者さんが芝居をしている間、面倒を見られるような環境作りを考えたと聞きましたが、それは『怪物』撮影時のエピソードですか。保育士を雇って現場に呼んだんでしょうか。
【是枝】厳密には、スタッフの中に保育士の資格を持っている方がいたので、現場にお子さんを連れてきたらそのスタッフが面倒を見られるようにしましたが、本来であれば専属のスタッフを追加で加えなければいけないと思います。ロケ場所の学校に空き教室がたくさんあったので、畳を敷いたりして環境作りをしました。ついこの間まで撮影していた現場は蒼井優さんがよくお子さんを連れて来ていたんですが、シッターを雇っていて、撮影の合間には蒼井さんもお子さんと一緒に散歩に行ったりしていましたね。だからシッターの給料を制作が賄うか、現場に施設が整備されているか、選択肢を提示できるのがベストだと思う。まだ実験的な段階ですが、直近の2作ではそのような対応をとりました。
【坪井】現場で働いているスタッフにとっても、子どもが居る状態でどう撮影現場に参加するかは大きな課題ですよね。
出産するタイミングで現場を抜けた後、もう一度復帰しようにも仕事が無い、あったとしても不規則な撮影時間であるためにライフスタイルと合わない事態が起きています。その点、脚本はどこでも書けるから辞めずにすむよ、と大学時代に言われた覚えがあります。
【児玉】テレビではつい最近、脚本家や原作者をめぐるトラブルが報道されていたばかりでしたよね。映画業界の脚本家の立場や地位は、どのような感じなんでしょう。
【坪井】著名な書き手であれば状況は違うと思いますが、脚本家の立場は監督と比べると弱いと思います。
脚本は是枝さんも話していたように、基本的にプロデューサーと監督とで直していく場合が多いと思うんですが、個人的にはもっと全体とコミュニケーションが取れる状況があってもいい気がします。原作モノの脚色なのに、脚本家と原作者が会えない、なんていうのもありますよね。
【是枝】過去の経験から、僕は原作ものを監督する時は、とにかく最初に原作者に会わせてほしいと伝えるようにしています。
『海街diary』(2015年公開)では、原作者の吉田秋生さんに会った時、こうしてほしくないということがあったら言ってくださいと伝えたら、作中しばしば話題には上るけど絶対に出てこない人物がいて、その「アライさん」だけは出さないでほしいと言われたんです。それを聞いて、『海街diary』は出てこない人が大事な物語だと分かった。原作者と会って話せば、きっと映画を作る上で大事なヒントにもなると思うんですよね。
【坪井】原作モノの映像化は原作者と監督・脚本家やプロデューサーなどが直接話し合う場が必要ですよね。ここは譲れないというすり合わせは密に、かつ第三者の言葉を介さずに行われる必要があると思います。伝聞の形を取ってしまうと本来落としてはならない部分が抜け落ちてしまう危険がありますし、誤解が生まれやすくなるのを避けられない。
映画化する際、原作と違う媒体に変えるわけですから、原作をそのまま映画に置き換えたら成立しない箇所は多々あります。原作の雰囲気や重要な軸を壊さずに作る必要がある際は、原作がいったい何を大切にしているのかが分からなければ作りようがない。故に対話というすり合わせは必要不可欠だと思います。監督や脚本家という作品の骨組みから肉付けを率先して担う立場が、原作者に直接会いづらいという慣習は映画界にもテレビ業界にもずっとあるみたいですが、一刻も早く廃れてほしいです。
【是枝】女性の働き方の話に戻ると、フランスで『真実』(2019年公開)を撮った時、撮影部のチーフが女性だったんですが、2人のお子さんを育てているシングルマザーでした。でも撮影が晩飯前には確実に終わり、保育園へ迎えに行ってご飯を子どもと食べることが撮影中もできる状況なので、日本でもそれができれば現場を離れずに済む。それを実現するために、映画業界の労働改革の働きかけをいろんなところにしています。例えば保育施設を撮影所の中に作ろうとすると、映画の現場だけにとどまらない話なので、厚生労働省まで巻き込まないといけなくなってしまうので大変です。
潤沢な予算があって長期にわたって同じ場所で撮影ができて、施設が用意できる状況が作れれば、いったん現場を離れているスタッフを戻せるのではないか。一度やってみようと思っているんです。
【坪井】まずは長時間かつ不規則な撮影時間の問題をどうクリアにしていくかですよね。夜中に帰っても、日が昇る前には出ないと間に合わないというような過酷な現場もまだまだあります。厳しい環境にもかかわらず、薄給というのも珍しい話ではない。
【是枝】日本の映画人には文化祭の延長で映画を作る楽しさとか、お祭り気分の一体感のようなものが好きで、それを手放したくない人たちがいるのも間違いない。でもそれは映画愛を利用しているし、スタッフ、キャストのやりがい搾取だから。もうそこに若い人たちだってついてこない。
【坪井】是枝さんが共同代表を務めているaction4cinema(日本版CNC設立を求める会)は昨年10月、制作現場のハラスメント防止ハンドブックを発表しましたね。現場で働く同期の話を聞いていて、激務の次に業界を去る理由になっているのはこのハラスメントだと認識しています。権力を持たされやすい・権威を帯びやすい役職から「下」とされてしまっている部署へのハラスメント・いじめ・性暴力がいまだに常習化しているのにもかかわらず、声を上げにくい状況が続いている。当事者が訴えるのではなく、周りが動いて暴力を止めたり防いだりで��る環境作りが求められているように思います。
【是枝】それこそ、フランスのCNC(国立映画映像センター)のような統括機関が必要なんですよね。ハラスメント窓口すらない状況なので、どこに訴えたらいいのかがまず分からない。日本には映画の撮影チームを、監督の名前で何々組と呼ぶ文化がある。そうすると、組の中の倫理の方が勝ってしまったりするので、その組で起きていることに対して、他の組の監督が口を出すような文化ではないというか。それももうここで変わらないといけない。
action4cinemaに関しては、監督だけでなくプロデューサーの目線が入った方がいいという意見も出ていて、今年メンバーが少し変わる予定です。
若手から「ご自身では反体制だと思っているかもしれないけど、もう業界においてはあなたも権威なんだから、正しい権威になってくれ」と言われて……。『怪物』で批判が起きた時に、そういう立場の人間がスルーしてはいけない、と突き上げを食らいました。そこは真摯に反省して、映画界を良くするためにできることをやっていきたいと思います。
【坪井】作って発表して、それが観客という第三者に見られることで作品は「作品」になり、届いた「その先」も背負うのが制作側の責務だと私は作り手のひとりとして考えていて。今日は「その先」のひとつの場として鼎談が設けられたと認識しています。
作り手と受け手が互いに意見を交わし合う機会が更に増えていくと良いですよね。映画全体の手綱を握るのは監督だけれども、プロデューサー、脚本、演出、撮影、録音、編集、美術、制作、配給会社に宣伝会社と、多くの力によって映画は生み出され、観客に送り出されている。議題によって、各部署を担う方々がそれぞれ参加できるともっと良いのではないか、と思います。
今回はクィアへのまなざしに関係する批判を中心に対話を重ねましたが、被差別属性側を描いた作品の場合、まず���判を含めた当事者の声を聞いていかない限り、その作品自体が制作側の望まない方向に進んでいくのは免れず、それは作り手にとってもマイナスなはずです。
作り手の意図と受け取った側の解釈の間に暴力的な隔たりが生まれてしまった時、作り手が「実はこう考えていた」「ここは今から改善する」と明かし、「ここはよくなかった」と謝罪することに対して、ただの言い訳だ、という意見ももしかしたらあるかもしれない。ですが、至らなかったと謝るのと、応答せず無視し続けるのとでは、私は後者の方が無責任だと強く言いたいです。
【児玉】これまで、日本のクィア映画に対する当事者、批評家や観客からの批判に対して、作り手たちが十分に応答できていたかというと、なかなかできていなかった。
批判だけが空中分解して消えていってしまうので、作品と批判が建設的な形で架橋されない。例えば宣伝に対する批判が起きてその後に何かしら変更になったとしても、具体的にどこに問題があると認識して改善に至ったかという対外的に出すべき説明が抜け落ちてしまっているケースも多い。日本でクィアのテーマを扱う作品がつくられることに、反射的に不安や懸念を覚えてしまう人たちが一定数いる状況が続いてしまっているように見えます。
是枝さんが日本映画を代表する監督であることは間違いなく、そういう立場の人がこうして公に批判に応じたことは日本映画界にとって画期的なことで、大きな意義を持っていると思います。次世代を担う監督たちもきっと見ているはず。ここから続いていってほしいという期待もあります。
【是枝】そう言っていただけると、ここに来たかいがありました。こういう対話を一つ一つ積み重ねていくしかないですね。何か批判が起きた時に、自分はこう考えたとか、ここは反省しているとか、ここは改善できるとか、そういうことをできるだけ指摘してくれた人に対しても公にしていきたいと思っているんです。
ですが、矢面に立つのが監督なのは当然としても、映画は監督だけのものではない。作品を代表して発言するのが難しい時もある。
『怪物』に関してもそうで、一度カンヌにいる間に僕自身は何かしら声明を出すべきだと思って自分の考えを文章にまとめていたんですが、結局自分の判断で引っ込めました。公開から長い時間が経ってしまいましたが、自分が何を考えたのかということはまとめて表に出したいと思っていたので、こういう機会をいただけて、改めてありがとうございました。(構成=映画文筆家・児玉美月)
これえだ ひろかず 1962年、東京都生まれ。テレビドキュメンタリーの演出を手がけ、2014年に独立し制作者集団「分福」を立ち上げる。95年に『幻の光』で映画監督デビュー。主な作品に『誰も知らない』(04年)、『歩いても 歩いても』(08年)、『そして父になる』(13年)、『海街diary』(15年)など。18年に『万引き家族』がカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。日仏合作の『真実』(19年)、韓国映画『ベイビー・ブローカー』(22年)など海外での制作にも取り組む。
こだま みづき 映画文筆家。映画に関する文章をさまざまな媒体に寄稿。共著に『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』(フィルムアート社、2023年)、『反=恋愛映画論――「花束みたいな恋をした」からホン・サンスまで』(ele-king books、2022年)など。
つぼい りお ライター。1995年生まれ。在学中、映画脚本を専攻。言葉に関する活動を幅広く行う反差別のクィア。主な寄稿記事に、〈映画『怪物』を巡って――「普遍的な物語」を欲するみんなたちへ〉(本屋lighthouse)、〈映画『炎上する君』 燃え盛るのではなく、世界の果てまで延焼する〉(『映画芸術』484号)。
コメントプラス
仲岡しゅん(弁護士)【視点】 お三方の鼎談の中で、「クィア」「当事者」という言葉がよく出てくるが、当然ながらクィアの当事者でも全く一枚岩ではなく、見る角度や目線はそれぞれ大きく異なるという点は指摘しておかなければならない。
私はいわゆるクィアの当事者の一人ではあるが、記事中の「当事者たちからの批判の声」とは全く違った感想を抱いている。
私は、この「怪物」という作品から、他の映画や作品では到底感じたことがないほどの深い慰めを受け、勇気を受け取った。
あまり予備知識なく初めてこの「怪物」を映画館で観て、大きな衝撃を受けたのは、昨年の夏。
それから残業の合間に幾度もレイトショーで深夜の映画館に足を運び、その度に打ちのめされ、そして不思議な勇気と自信を得て帰る、という経験を繰り返した。
この作品は、確かにクィアの登場人物たちを描いている。
だが、決して「クィア」や「LGBT」という明確な切り口から描いてはいないし、むしろ「普遍的な物語」として描きつつ、しかし当事者たちを取り巻く状況についての勘所は押さえた上で描かれていた。
だからこそ、クィアの当事者である私に刺さったのだ。
今や私たちは、とにかく「LGBTQの人」といったカテゴライズをされがちだ。しかし、「LGBTQ」という言葉は、一方で当事者たちの連帯を生む概念でもあり、他方で、その外側からは安易なカテゴライズの道具として使われがちでもある。
だが、私たち個々の人生も生きざまも実に多様で、平凡で、そこにあるのは、普遍的な一人の人間像でしかない。
そして、とりわけ思春期以前の当事者にとってのそれは、LGBTQという言葉では言い表せない、「名前のない何か」だ。
「怪物」という作品は、そこに安易な名前を付けることなく「普遍的な何か」として描いたからこそ、私自身も子どもの頃に感じていた、得体の知れない怪物のような何かを生々しく描けたのだと思う。
私はむしろ、この作品が、クィアやLGBTQという要素を全面的に出してプロモーションしていたならば、かえってありがちな、陳腐なものになってしまったのではないかとすら思っている。
そしてラストシーンについても付け加えておきたい。
鼎談でも上がっているように、ラストシーンに「死」のニュアンスを感じ取った観客もいたようだが、私は全く逆で、自分を肯定できた子どもたちの「生」への祝福に感じられた。
そして、その後は描かれなくて正解だったろう。
その後の人生を作っていくのは、嵐を乗り越えて自己を肯定した当事者それぞれであり、私たちそれぞれだからだ。
私もかつて嵐のような何かを乗り越えて、今こうして生きていることを、「怪物」という作品は思い出させてくれた。これほど勇気と自信を与えてくれた作品は他にない。
南極大陸本土で鳥インフル感染初確認、ペンギンに感染リスク(ロイター 2月27日)
[ブエノスアイレス 26日 ロイター] - スペイン科学研究高等会議(CSIC)は25日、H5型高病原性鳥インフルエンザが南極大陸本土で初めて確認されたと明らかにした。同大陸に生息するペンギンへの感染リスクも出ている。
アルゼンチンの科学者が24日、南極のプリマベラ基地近くで発見した海鳥少なくとも1羽の死骸からウイルスを確認したという。
南極地域ではこれまで、近隣の島でジェンツーペンギンなどの鳥インフル感染が確認されていた。この数カ月、H5N1型鳥インフルが世界各地でまん延している。
南極大陸とその近くの島々ではペンギンが密集してコロニーを形成しており、鳥インフルが容易にまん延する恐れもある。
南極研究科学委員会も同基地で感染が確認されたとしている。
ペンギンも鳥インフル感染 南極で急拡大の様相(時事通信 3月15日)
南極で列をつくって歩くアデリーペンギン=2012年1月(EPA時事)
【サンパウロ時事】南米チリの政府機関チリ南極研究所(INACH)は14日までに、高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)に感染したペンギンが南極大陸で初めて見つかったと発表した。南極大陸では先月に鳥インフル感染例が初めて確認されたばかりで、集団で行動するペンギンにも急速に広がる様相を呈してきた。
南極でペンギン532羽死ぬ 鳥インフルが原因か―豪大(時事通信 4月5日)2024年3月15日に追記
南極で氷山から飛び降りるアデリーペンギン=撮影日不明(ニューヨーク州立大ストーニーブルック校など提供)(AFP時事)
南極で氷山から飛び降りるアデリーペンギン=撮影日不明(ニューヨーク州立大ストーニーブルック校など提供)(AFP時事)
南極大陸で先月、少なくとも532羽のアデリーペンギンが死んでいるのが見つかった。オーストラリアのフェデレーション大学が明らかにした。調査団は被害が数千羽に及ぶと推定。高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)が原因の疑いがあり、現地からサンプルを研究所に送り、詳細を調べている。
鳥インフルは2022年に南米で確認され、野生動物の間で急速に感染が拡大。南極大陸では今年2月に、最初の感染例が確認された。調査に参加した同大の生物学者メーガン・デュワー氏は「気候変動などによって既に影響を受けている野生動物に甚大な被害を及ぼしかねない」と語った。
英南極研究所によると、南極大陸では約2000万組のペンギンが毎年繁殖を行い、絶滅が危惧されるコウテイペンギンも含まれる。専門家は鳥インフルによって、コウテイペンギンなど南極に生息する野生動物が大量死する可能性があると懸念している。(ロイター時事)。
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