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#ドイツ劇場研修日誌
theatrum-wl · 5 years
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【連載】弓井茉那のドイツ劇場研修日誌
第13回 ドイツで出会った親友・イラク人のハミドについて
弓井 茉那
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イラク人のハミド(Hameed Al-Obaidai)と出会ったのは、2017年2月。 私が日本での演劇公演出演のために日本に一時帰国して、そしてデュッセルドルフに再び帰って来た後でした。
デュッセルドルフ在住の日本人の方が主催の食事会で、私とハミドは隣の席になりました。彼はオーバーオール姿でニコニコして席に着いていて、「スーパーマリオに似ている」と思ったのが、ハミドの第一印象でした。 月に一度ライン川をきれいにしようと日本人たちで行っているゴミ拾いに参加して来たのでオーバーオール姿だということ、日本が好きだという話をしたことを覚えています。その時はそれくらいしか話しませんでしたが、良い人そうだと思いました。それから、デュッセルドルフ劇場の『Café Eden』に誘って、その時にいろんな話をしたことがきっかけで仲良くなりました。
彼はとても紳士的な人でした。誰に対しても丁寧に接していました。特に日本人に対しては、幼少期に空手を習っていた影響や日本人に良くしてもらった思い出のおかげで、尊敬の気持ちを持っているようでした。ハミドはまた、敬虔なイスラム教徒でした。
ハミドから、ブレーメンという街に3.11のチャリティーイベントを主催している日本人がいるから行ってみるといい、と誘われたことがありました。 その時はデュッセルドルフ劇場で日本人コミュニティ向けの企画をやり始めたばかりだったということもあり、参考のためにも行ってみたかったのですが、本当にお金がない時で、「行きたいけど交通費がないから残念ながら行けない」と答えると、「じゃあ僕が出すから」と交通費を出してくれたことがありました。
その時は、ハミドがどうしてそんなことまでしてくれるのか分からず、受け取っていいかも分からなかったのですが、「イスラムの教えでは困っている人にお金を出すのは当たり前なんだ。」と教えてくれました。ハミドは私だけでなく、シリアから逃げて来てどこかの国で足止めされている知り合いでもないシリア人家族のことをインターネットで知って、寄付していました。何も彼がお金持ちだからできることではなく、政府からもらっているわずかな難民のための給付金や自分の貯金から出しているのです。
あとで知ったことですが、クルアーンに基づくイスラムのお金の考え方は少し特殊で、所得の2.5%ほどは必ず困っている人への寄付する(ザカート)と、自由意志による寄付(サダカ)があるそう。 ザカートはただの寄付でなく、成長しそうなビジネスに投資するという考え方で、ビジネスがうまく行った場合には、利益の半分は社会福祉事業にまわり、残り半分は出資者に分配されるそう。私はこの話を聞いた時に、ハミドが私にお金をくれた、イスラム教徒が持つ他者やお金への価値観が少し分かった気がしました。彼のおかげで、私はイスラム教には良いイメージしかありません。
そんな穏やかな彼でしたが、アメリカに強い嫌悪感を持っていること、ヨーロッパの価値観に失望していることが段々分かってきました。ドイツで暮らすということに全てをかけている、私が出会った他の難民とは少し違う気がしました。
ハミドはドイツ在住の難民です。そしてイラク戦争に人生をめちゃくちゃにされた人でした。
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〔ハミド(Hameed Al-Obaidai)〕
ハミドはイラクのバグダットで生まれました。父親は外交官だったので、裕福な家庭に育ったそうですが、父親は裕福さに甘んじさせず、貧乏な暮らしがどんなものかということも幼い頃のハミドに経験させてくれたそうです。「そのことに感謝している」とハミドは言っていました。
ハミドは宇宙飛行機の工学を学ぶために、バグダット大学を出て、留学のためにドイツに来ました。それが2002年。イラク戦争が起きたのが、2003年のことです。「戦争によって豊かだった故郷は全て壊された」そうハミドは言います。
サダム・フセイン政権の頃のイラクは、お金持ちの豊かな国でした。その頃は日系企業もたくさん進出していて、イラクの病院のシステムは全て日立が作ったのだということ、「戦争後復興した日本人の精神を見習わなければいけない」とフセイン元大統領がよく言っていたことをハミドが教えてくれました。
ハミドと話すと、彼(とイラクの人たち)がどれだけフセイン元大統領を愛していたか分かります。彼はいまだにフセイン元大統領の顔が印刷された腕時計を身に着けています。私は当時テレビで見た、フセイン元大統領像が倒されていく映像を思い出していました。当時の小泉政権がイラク戦争を支持したこと、それにより開戦の追い風が吹いたことを当時はよく分かっていませんでした。(そのことについてどう思っているかハミドに聞くと「がっかりした。でもそれは政治のことだから、日本人への好意は変わらないよ」と言っていました)。それどころか、当時のマスメディアの影響で「フセインは悪者である」との思い込みを私は強く持っていました。それは、ハミドの話を聞くことにより大きく揺らぎました。
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〔難民宿舎のハミドの部屋。2人1部屋で、キッチンやトイレ・シャワーは共同。建物は新しいが、プライバシーが無い暮らしだとハミドは言っていた〕
2006年に家族を訪ねるためイラクに一時帰国したハミドは、アメリカ占領下の新政府への批判記事を書いていたために政府に名前が知れていて、8ヶ月もの間拘束されます。その8ヶ月の間、ハミドはイラク兵と、そして米兵から拷問をされることになります。
イラク兵のそれは、殴る、蹴るなど分かりやすい暴行でした。しかしアメリカ兵の拷問は「ある意味でもっとクレバーだった」とハミドは言います。後ろ手に縛られて目隠しをされる。そして耳に向かって拡声器で「What’s your name?」と何度も何度も来る日も来る日も大きな声で聞かれる。100万回は聞かされたと彼は言っていました。他にも大音量で音楽を聞かされ、精神的にジリジリと追いつめるやり方だったと言います。ハミドの左耳はそのせいで難聴になってしまいました。
彼を助けようと彼の父親が保釈金を払ったりしたそうですが、8ヶ月後に急に監禁状態を出されたそうです。その時アメリカ兵が「ごめんねー」と軽く言ったことが今でも忘れられない、とハミドは言います。そのあと、スイスの赤十字に耳のことを訴えますが、相手が兵士なので補償は難しく、ハミドは亡命を余儀なくされました。
2007年、スェーデンに亡命しようとします。そこで7カ国語話せるハミドは政府からスパイに勧誘されますが、断ったため亡命拒否をされてしまいます。そのあとデンマークを経由して、恋人や友達がたくさんいるドイツに戻って来たのが2010年。ドイツの学生ビザは監禁の間に切れていたので不法で入国しました。
そしてそのあと6年ほど、難民申請をしながら滞在許可を待ち続けました。就労の許可がおりなかったのでブラックで仕事をしたそうです。その間、ハミドの状況を助けようとした人は何人かいましたが、残念ながら状況はなかなか改善されませんでした。ようやく難民申請が認められたのが2017年のこと。 移民局の指示により、デュッセルドルフにやってきました。
彼には一切の自由がありません。 ドイツの航空宇宙機器開発会社エアバスから、能力を認められてインターンとして入社するチャンスを得ましたが、引越し、就労が許されず現在もかなっていません。航空宇宙機器のエンジニアを学び目指す彼にとっては千載一遇のチャンスです。そのチャンスの機会を逃してしまうかもしれない。
彼は移民局に何度も赴き、事情を相談しましたがずっと待たせ続けられて今に至ります。パスポートも取り上げられているために、他国でのチャンスにかけるということもできません。
「自分がイラクで反政府活動をしていたからかもしれない。でも根底にあるのは差別だ」と、ハミドは力なく私に呟いたことがありました。
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〔2018年ドイツ宇宙センター アメリカでいうとNASAのようなところから賞をもらった時の写真〕
移民局の対応だけでなく、対個人にもハミドがドイツ人に冷たくあしらわれている場面を、私は何度も傍で見てきました(もちろん、中にはやさしい人たちもいます)。そのうちに、ハミドはすっかりヨーロッパの価値観を疑うようになってきました。日本人もそうです。
彼は仲良くなりたいと近付くけれど、多くの日本人は偏見のために彼を疑い逃げてしまいます(私も日本人の人に彼との付き合いをやめるように言われたことがありました)。その度に、ハミドは少しずつ傷ついてきたのだと思います。
「今の一番の望みはなに?」と聞いた時に、「尊厳のある暮らしをすること、正式な滞在許可を得ること、問題なく生きること……いつか日本で暮らしてもみたい」と言いました。
難民は多かれ少なかれ何か問題を抱えるようで、演劇プロジェクトで出会った私が出会った青年たちは、まだ幸運な方なのかもしれません。
ハミドとは状況はかなり違いますが、私がドイツでやりたい仕事がなかなかできずにもがいていることに、ハミドはとても共感してくれました。自分のいたいところに住んで、自分のいたい人と暮らし、好きな仕事をする、そんな自由を獲得して、人間としての尊厳を全うしながら生きている人は少ないのかもしれません。だとしたら何のために世界が、生があるのでしょう。
ハミドの話を聞く時に、私はいつも自分の無力さを感じて惨めになります。これを書いている今、私は日本にいます。パスポートを持っているから、国内の情勢も不安定でないから帰って来ることができました。
私ができるほんの少しのことは、彼の存在を忘れないこと、友人で居続けることだと思っています。
次回は連載最終回です。日本に帰国するきっかけになった、南アフリカでの出会いについてお話します。
プロフィール
● 弓井 茉那(ゆみい・まな)
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俳優/演劇教育者 http://yumiimana.com/
京都市生まれ。京都造形芸術大学卒業、座・高円寺劇場創造アカデミー修了。東京・京都を拠点に、現代演劇や児童演劇の俳優活動を軸として、子どもや市民対象のドラマワークショップの企画・進行の活動を行っている。乳幼児を観劇対象とするベイビードラマのシアターカンパニーBEBERICA主宰、演出
2014年〜2016年までSPAC-静岡県舞台芸術センター制作 クロード・レジ演出『室内』に出演し、アビニョン演劇祭など世界7都市でツアーを行った。2014年〜2016年STスポット横浜芸術教育プラットフォーム コーディネーターアシスタント。2017年デュッセルドルフ劇場アウトリーチ担当。同年南アフリカで行われたASSITEJ 世界会議にて、次世代の児童演劇担い手のプラットフォーム『Next Generation』に日本代表として選出され参加。「マレビトの会」プロジェクトメンバー。
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ari0921 · 4 years
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江崎道朗著『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』(育鵬社)
日本版「ヴェノナ文書」が明らかにした戦前の日本外務省のインテリジェンス能力
 コロナウイルス禍による外出自粛で、家にいる時間が増えた人たちにおすすめしたい本を紹介する。今回は、評論家の江崎道朗氏の最新刊『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』(育鵬社)である。
 本書は、日本の外務省アメリカ局が昭和16年に上梓した極秘文書「米国共産党調書」を読み解いたインテリジェンス・ヒストリーだ。  江崎氏はこの調書について、「ルーズヴェルト政権下でソ連・コミンテルン、米国共産党のスパイがどの程度大掛かりな秘密工作を繰り広げていたのか。その全体像を提示しているのがこの『米国共産党調書』だ。ある意味、『ヴェノナ文書』に匹敵するぐらい、衝撃的な内容がここには記されている。」と述べている。  この調書には、コミンテルンが米国共産党を操り、ハリウッドやマスコミから労働組合、教会、農家、ユダヤ人、黒人まであらゆるコミュニティで反日世論を煽った手口を、日本外務省が細部に至るまで把握していたことが描かれていた。  この本を読めば、戦前の日本のインテリジェンス、特に調査・分析能力は優れていたことが分かるだろう。本書から「はじめに」の文章を紹介したい。
インテリジェンス・ヒストリーという新しい学問
 「我々はなぜ、中国共産党政府の軍事台頭に苦しまなければならないのか。我々はなぜ、北朝鮮の核に苦しまなければならないのか。こうした共産主義国家がアジアに誕生したのも、元はと言えば民主党のF・D・ルーズヴェルト大統領が一九四五年二月のヤルタ会談でスターリンと秘密協定を結んだことに端を発している。よってルーズヴェルトの責任を追及することが、米国の対アジア外交を立て直す上で必要なのだ」  米国の「草の根保守」のリーダーであった、世界的に著名な評論家・作家のフィリス・シュラフリー女史は二〇〇六年八月、私のインタビューにこう答えた。  この発言の背後には、以下のような問いかけが含まれている。 ○ 現在、東アジアでは中国の軍事的台頭や北朝鮮の核問題が起こっているが、そもそもなぜ、このようなことになってしまったのか、その原因を探っておかないと、再び同じ失敗を繰り返すのではないか。 ○ 中国共産党政府と北朝鮮が誕生したのは第二次世界大戦の後であった。戦前、我々米国は、アジアの平和を乱しているのは「軍国主義国家」の日本であり、日本を倒せばアジアは平和になると信じた。だが、実際はそうならなかったのはなぜなのか。 ○ 言い換えれば、今、中国共産党と北朝鮮がアジアの平和を乱しているが、軍事的に中国と北朝鮮を倒せば、アジアに平和が本当に訪れるのか。 ○ 少なくとも第二次世界大戦で日本を倒せば、アジアは平和になるという見通しは間違いだった。その見通しを立てた当時の米国政府、F・D・ルーズヴェルト民主党政権の見通しは間違いであった。では、ルーズヴェルト政権はなぜ見通しを間違えたのか。 ○ 第二次世界大戦におけるルーズヴェルト政権の対アジア政策を振り返ると、ルーズヴェルト政権は、ソ連に対して好意的であり、一九四五年二月のヤルタ会談においてソ連が戦後、アジアに進出することを容認した。その結果、ソ連の支援によって中国大陸に中国共産党政権が誕生し、朝鮮半島には北朝鮮が生まれた。 ○ では、なぜルーズヴェルト政権は、ソ連に好意的であったのか。当時、ルーズヴェルト政権とソ連との関係はどのようなものであったのか。  このような疑問を抱いて、第二次世界大戦とルーズヴェルト政権、そしてソ連とソ連に主導された国際共産主義運動との関係を検証しようとする動きが米国には存在している。  読者の中には、「ソ連という国はもうなくなったはずでは」「国際共産主義運動とはどういうものか」と、疑問を抱かれる方も少なくないかもしれない。  確かにソ連は一九九一年に崩壊し、現在のロシアになった。ソ連の崩壊とともに共産主義は過去のものになったと日本では言われてきている。  だが、アジアでは、中国、北朝鮮、ベトナムなど、共産党が政権を握っている共産主義国家が今なお現存している。よって共産主義の脅威はまだ続いている。少なくとも同盟国アメリカの中では、そう考えている人が少なくない。 「なぜ第二次世界大戦当時、ルーズヴェルト政権は共産主義を掲げるソ連に好意的だったのか」  この疑問に答える機密文書が、ソ連の崩壊後、次々に公開されるようになった。  一九八九年、東西冷戦のシンボルともいうべきドイツのベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国は次々と共産主義国から自由主義国へと変わった。ソ連も一九九一年に崩壊し、共産主義体制を放棄し、ロシアとなった。  このソ連の崩壊に呼応するかのように世界各国は、情報公開を始めた。第二次世界大戦当時の、いわゆる外交、特に秘密活動に関する機密文書を情報公開するようになったのだ。  ロシアは、ソ連・コミンテルンによる対外「秘密」工作に関する機密文書(いわゆる「リッツキドニー文書」)を公開した。この公開によって、ソ連・コミンテルンが世界各国に工作員を送り込み、それぞれの国のマスコミや対外政策に大きな影響を与えていたことが立証されるようになったのだ。  一九一七年に起きたロシア革命によって、ソ連という共産主義国家が登場した。このソ連は世界「共産」革命を目指して一九一九年にコミンテルンという世界の共産主義者ネットワークを構築し、各国に対する秘密工作を仕掛けた。世界各国のマスコミ、労働組合、政府、軍の中にスパイ、工作員を送り込み、秘密裏にその国の世論に影響を与え、対象国の政治を操ろうとしたのだ。  そしてこの秘密工作に呼応して世界各地に共産党が創設され、第二次世界大戦ののち、東欧や中欧、中国、北朝鮮、ベトナムなどに「共産主義国家」が誕生した。その「秘密」工作は秘密のベールに包まれていたが、その実態を示す機密文書を一九九二年にロシア政府自身が公開したのである。 「ああ、やっぱりソ連とコミンテルンが世界各国にスパイ、工作員を送り込み、他国の政治を操ろうとしていたのは事実だったのか」  ソ連に警戒を抱いていた保守系の学者、政治家は、自らの疑念は正しかったと確信を抱き、「ソ連はそんな秘密工作などしていない」と弁護していた、サヨク、リベラル派の学者、政治家は沈黙した。  ロシア政府の情報公開を契機に、米国の国家安全保障局(NSA)も一九九五年、戦前から戦中にかけて在米のソ連のスパイとソ連本国との秘密通信を傍受し、それを解読した「ヴェノナ文書」を公開した。その結果、戦前、日本を追い詰めた米国のルーズヴェルト民主党政権内部に、ソ連のスパイ、工作員が多数潜り込み、米国の対外政策に大きな影響を与えていたことが立証されつつある。  立証されつつあると表現しているのは、公開された機密文書は膨大であり、その研究はまだ始まったばかりだからだ。  誤解しないでほしいのは、第二次世界大戦当時、米国がソ連と連携しようとしたこと自体が問題だったと批判しているわけではない。  第二次世界大戦の後半、ナチス・ドイツを打倒するため、米国はソ連を同盟国として扱うようになった。敵の敵は味方なのだ。共産主義には賛同するつもりはないが、目の前の敵、ナチス・ドイツを倒すために、ソ連と組むしか選択肢はなかった。  問題は、戦後処理なのだ。ルーズヴェルト政権は、ソ連のスターリンと組んで国際連合を創設し、戦後の国際秩序を構築しようとした。その交渉過程の中で一九四五年二月、ヤルタ会談においてルーズヴェルト大統領はこともあろうに東欧とアジアの一部をソ連の影響下に置くことを容認した。このヤルタの密約のせいで終戦間際、アジアにソ連軍が進出し、中国共産党政権と北朝鮮が樹立されたわけだ。  「なぜルーズヴェルト大統領は、ソ連のアジア進出、アジアの共産化を容認したのか。それは、ルーズヴェルト民主党政権の内部に、ソ連・コミンテルンのスパイ、工作員が暗躍していたからではないのか」  多くの機密文書が公開され、研究が進んだことで、こうした疑問が米国の国際政治、歴史、外交の専門家たちの間で浮上してきているのだ。  ソ連・コミンテルンは、相手の政府やマスコミ、労働組合などにスパイや工作員を送り込み、背後からその国を操る秘密工作を重視してきた。この秘密工作を専門用語で「影響力工作」という。  残念ながら工作員、スパイなどというと、ハリウッドのスパイ映画を思い出すのか、日本ではまともな学問として扱ってもらえない。しかし欧米諸国では、国際政治学、外交史の一分野としてこのスパイ、工作員による秘密工作が国際政治に与える影響について考察する学問が成立している。「情報史学(インテリジェンス・ヒストリー)」という。  こうした学問分野の存在を教えて下さった京都大学の中西輝政名誉教授によれば、一九九〇年代以降、欧米の主要大学で次々と情報史やインテリジェンスの学部・学科あるいは専攻コースが設けられ、ソ連・コミンテルンの対外工作についての研究も進んでいる。  この動きは英語圏にとどまらず、オランダ、スペイン、フランス、ドイツ、イタリアなどにも広がっている。
共産主義の脅威は終わっていない
 中西輝政先生らの懸命な訴えにもかかわらず、残念ながら日本のアカデミズムの大勢は、こうした新しい動きを無視している。  後述するが、インテリジェンス・ヒストリーという学問に取り組むとなると、必然的に共産主義の問題を避けて通るわけにはいかなくなる。ところが日本の大学、それも国際政治や近現代史においては今も、共産主義の問題を批判的に扱うと白い目で見られ、出世できなくなってしまう恐れがあるのだ。  こうした現状を変え、 なんとしても世界のインテリジェンス・ヒストリーの動向を日本に紹介したい。そう考えて二〇一七年、『日本は誰と戦ったのか―コミンテルンの秘密工作を追及するアメリカ』(KKベストセラーズ)を上梓した。この本は、著名な政治学者であるM・スタントン・エヴァンズと、インテリジェンス・ヒストリーの第一人者であるハーバート・ロマースタインによる共著Stalin’s Secret Agents(スターリンの秘密工作員・未邦訳)を踏まえたものだ。  エヴァンズらが書いた原著は、日米戦争を始めたのは日本であったとしても、その背後で日米を戦争へと追い込んだのが実はソ連・コミンテルンの工作員と、その協力者たちであったことを指摘している。しかも彼ら工作員と協力者たちは、日米の早期停戦を妨害し、ソ連の対日参戦とアジアの共産化をもたらそうとしていたのだ。  日本からすれば、先の大戦で戦ったのは米国だったが、その米国を背後で操っていたのはソ連だった、ということになる。  しかも、このようなインテリジェンス・ヒストリーの議論を踏まえて国際政治を考える政治指導者が現れた。二〇一六年の米国大統領選挙で当選した共和党のドナルド・トランプ現大統領だ。
共産主義の犠牲者を悼むトランプ大統領
 トランプ大統領はロシア革命から百年にあたる二〇一七年十一月七日、この日を「共産主義犠牲者の国民的記念日(National Day for the Victims of Communism)」とするとして、ホワイトハウスの公式サイトにおいて、次のような声明を公表した。 《本日の共産主義犠牲者の国民的記念日は、ロシアで起きたボルシェビキ革命から百周年を記念するものです。  ボルシェビキ革命は、ソビエト連邦と数十年に渡る圧政的な共産主義の暗黒の時代を生み出しました。共産主義は、自由、繁栄、人間の命の尊厳とは相容れない政治思想です。  前世紀から、世界の共産主義者による全体主義政権は一億人以上の人を殺害し、それ以上の数多くの人々を搾取、暴力、そして甚大な惨状に晒しました。  このような活動は、偽の見せかけだけの自由の下で、罪のない人々から神が与えた自由な信仰の権利、結社の自由、そして極めて神聖な他の多くの権利を組織的に奪いました。自由を切望する市民は、抑圧、暴力、そして恐怖を用いて支配下に置かれたのです。  今日、私たちは亡くなった方々のことを偲び、今も共産主義の下で苦しむすべての人々に思いを寄せます。  彼らのことを思い起こし、そして世界中で自由と機会を広めるために戦った人々の不屈の精神を称え、私たちの国は、より明るく自由な未来を切望するすべての人のために、自由の光を輝かせようという固い決意を再確認します》(邦訳はドナルド・トランプNEWSによる)  日本のマスコミが黙殺した、この声明のポイントは四つある。    第一に、ロシア革命百周年に際して、改めて共産主義の問題点を強調したことだ。その背景には、米国で現在、共産主義に共鳴し、自由主義、民主主義を敵視する風潮がサヨク・リベラル側の間で強まっていることがある。  第二に、二十世紀において最大の犠牲者を生んだのは戦争ではなく、共産主義であったことを指摘したことだ。  第三に、共産主義の脅威は現在進行形であることを指摘したことだ。日本では東西冷戦の終了と共に、共産主義の脅威はなくなったかのような「誤解」が振り撒かれた。だがトランプ大統領は、共産主義とその変形である全体主義の脅威が北朝鮮、そして中国において現在進行形であることを理解している、極めて珍しい指導者なのだ。米中貿易戦争の背景には、共産主義に対するトランプ大統領のこのような見解がある。  そのうえで第四に、アメリカ・ファーストを掲げ、国益を第一に考えるが、共産主義・全体主義と戦う同盟国と連携し、「世界の」自由を守る方針を貫くと表明したことだ。
ソ連・共産主義体制の戦争責任を追及する欧州議会
 この「共産主義体制と断固戦う」と宣言したトランプ大統領と全く同じ趣旨の決議を採択したのが、ヨーロッパの欧州議会だ。  第二次世界大戦で戦勝国となったソ連は戦後、ナチス・ドイツを打ち破った「正義」の側だと見なされてきた。  だが冷戦終結後、旧東側諸国の民主化が進むに伴い、旧ソ連、共産主義体制の戦争犯罪の実態が知られるようになっていく。バルト三国、ポーランド、チェコ、ハンガリーなどの旧共産圏の国々が戦時中のソ連の戦争犯罪、そして戦後のソ連と共産党の秘密警察による人権弾圧の実態を告発する戦争博物館を次々に建設しているのだ。  その影響を受けて、「ソ連・共産主義の戦争責任、人権弾圧を正面から取り上げるべきだ」という議論がヨーロッパで起こっていて、ヨーロッパの政治をも揺り動かしている。  例えば、第二次世界大戦勃発八十年にあたる二〇一九年九月十九日、欧州連合(EU)の一組織である欧州議会が、次のような「欧州の未来に向けた欧州の記憶の重要性に関する決議(European Parliament resolution of 19 September 2019 on the importance of European remembrance for the future of Europe)」を採択している。 《第二次世界大戦は前例のないレベルの人的苦痛と欧州諸国の占領とをその後数十年にわたってもたらしたが、今年はその勃発から八十周年にあたる。  八十年前の八月二十三日、共産主義のソ連とナチス・ドイツがモロトフ・リッベントロップ協定と呼ばれる不可侵条約を締結し、その秘密議定書で欧州とこれら二つの全体主義体制に挟まれた独立諸国の領土とを分割して、彼らの権益圏内に組み込み、第二次世界大戦勃発への道を開いた》  ソ連は第二次世界大戦を始めた「侵略国家」ではないか。そのソ連を「正義」の側に位置付けた「ニュルンベルク裁判」は間違いだとして、事実上、戦勝国史観を修正しているのだ。  実際、ソ連は第二次世界大戦中、ヨーロッパ各国を侵略・占領した。決議はこう指摘する。 《ポーランド共和国はまずヒトラーに、また二週間後には���ターリンに侵略されて独立を奪われ、ポーランド国民にとって前例のない悲劇となった。  共産主義のソ連は一九三九年十一月三十日にフィンランドに対して侵略戦争を開始し、一九四〇年六月にはルーマニアの一部を占領・併合して一切返還せず、独立共和国たるリトアニア、ラトビア、エストニアを併合した》  ソ連の侵略は戦後も続いた。戦時中にソ連に占領されたポーランドやバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)では、知識人の処刑、地元住民に対する略奪・暴行などが横行した。  しかも第二次世界大戦後、ソ連に占領されたこれらの国々では、ソ連の武力を背景に共産党政権が樹立され、ソ連の衛星国にされた。だが冷戦終結後も、ソ連と国際共産主義の責任は追及されてこなかった。よってこう指摘する。 《ナチスの犯罪はニュルンベルク裁判で審査され罰せられたものの、スターリニズムや他の独裁体制の犯罪への���識を高め、教訓的評価を行い、法的調査を行う喫緊の必要性が依然としてある》  ソ連もまた悪質な全体主義国家であり、その責任が追及されてこなかったことは間違いだったと、欧州議会は認めたのだ。そしてソ連を「正義」の側と見なした戦勝国史観を見直し、旧ソ連と共産主義体制の責任を追及せよ。こう欧州議会は提案しているのである。
日本版「ヴェノナ文書」の存在
 実はこのソ連・国際共産主義の秘密工作の実態を当時から徹底的に調べ、その脅威と懸命に戦った国がある。国際連盟の常任理事国であったわが日本だ。  コミンテルンが創設された翌年の一九二〇年、日本は警察行政全般を取り仕切る内務省警保局のなかに「外事課」を新設し、国際共産主義の秘密工作の調査を開始した。一九二一年二月には、内外のインテリジェンスに関する調査報告雑誌『外事警察報』を創刊する。  内務省警保局と連携して外務省もソ連・コミンテルンの対外「秘密工作」を調査し、素晴らしい報告書を次々と作成している。  その代表作が本書で紹介している『米国共産党調書』である(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10070014000、米国共産党調書/1941年(米一_25)(外務省外交史料館)」)。  ルーズヴェルト政権下でソ連・コミンテルン、米国共産党のスパイがどの程度大掛かりな秘密工作を繰り広げていたのか。その全体像を提示しているのがこの『米国共産党調書』だ。ある意味、「ヴェノナ文書」に匹敵するぐらい、衝撃的な内容がここには記されている。  あの外務省が、コミンテルンや米国共産党に関する詳しい調査報告書を作成していたと聞いて驚く人もいるかもしれない。しかもその内容たるや、スパイ映画顔負けのディープな世界が描かれている。 「戦前の日本外務省や内務省もなかなかやるではないか」という感想を持つ人もいれば、「これは本当に日本外務省が作成した報告書なのか」と絶句する人もいるだろう。 どちらの感想を持つにせよ本書を読めば、戦前の日本のインテリジェンス、特に調査・分析能力は優れていたことが分かるはずだ。  同時に、その調査・分析を、戦前の日本政府と軍首脳は十分に生かせなかったこともまた指摘しておかなければならない。対外インテリジェンス機関がいくら優秀であったとしても、その情報・分析を政治の側が生かそうとしなければ、それは役に立たないのだ。  近年、日本も対外インテリジェンス機関を創設しようという声を聞くが、いくら優秀な調査・分析ができるようになったところで、政治家の側がそれを使いこなす大局観、能力がなければ宝の持ち腐れになってしまう。その意味で、政治家のインテリジェンス活用能力をいかに高めるのか、という課題も問われなければならない。  本書を通じて戦後、ほとんど顧みられなかった戦前の我が国の対外インテリジェンスに対する関心が高まり、日本の機密文書を踏まえた「インテリジェンス・ヒストリー」が発展していくことを心より願っている。 江崎道朗(えざき・みちお) 評論家、拓殖大学大学院客員教授。1962(昭和37)年東京都生まれ。九州大学卒業後、月刊誌編集、団体職員、国会議員政策スタッフを務 めたのち、現職。安全保障、インテリジェンス、近現代史などに幅広い知見を有する。論壇誌への寄稿多数。2019年第20回正論新風賞受賞 。最新刊は『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』(育鵬社)。
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xf-2 · 5 years
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いたるところに、漢字、漢字、漢字が…!
「你好! 安田先生!(こんにちは!安田さん)」
小さいが清潔感のある空港から外へ出ると、私の名字が書かれた紙を持っている青年が流暢な中国語で声をかけてきた。彼の中国語名は子辰。紙には中国語で「歓迎」、日本語のひらがなで「ようこそ」と書いてある。彼は日本語はわからないが、Google翻訳で調べて書いてくれたという。
“子辰”と握手を交わした私のすぐ横を、機内で隣席に座っていた中国国営企業(資源系)に勤務する北京出身のビジネスマンの集団が歩いていく。彼らとは宿が一緒だったので「再見!(またね)」と挨拶を交わして見送った。
「四川電力阿壩公司」
現地の通貨を下ろすためにATMの列に並んでいると、またもや目の前に漢字があった。私の前に並ぶ男が、なぜか中国内陸部のインフラ企業・四川省電力公司アバ支社のサッカーチームのレプリカユニフォームを着ていたのだ。さらにミネラルウォーターのボトルを捨てる場所を探すと、中国語で「リサイクル」「その他のゴミ」と書かれたゴミ箱があった。
待っていてくれたピーター(子辰)と、空港付近で見かけた中国語の数々。ゴミ箱は中国の援助で設置されたらしく、英語よりも漢字のほうが文字が大きい。
そもそも、カタールのドーハで飛行機を乗り換えて以来、私はほとんど中国語しか使っていない。英語はせいぜい機内でのドリンクの注文と、入管で渡航意図を説明したときにちょっと喋った程度だ。
だが、私が来た場所は北京でも成都でもない。東アフリカの内陸部に位置する山岳国家・ルワンダの首都のキガリである。標高1500メートルほどの高原地帯に位置するキガリは、ほぼ赤道直下にもかかわらず、年間を通じて最高気温・最低気温の平均がそれぞれ約27度・約18度、湿度も低くて過ごしやすい。
“子辰”のルワンダでの名前はピーター・ムホザという(さらにフランス語でジャン・ピエール・ムホザという名もある)。意思疎通にほぼ問題がないレベルの中国語を話し、漢字のニックネームまで持っているが、れっきとしたルワンダ人だ。
ピーターとは、現地への渡航にあたり、北京の中国地質大学で恐竜学を学ぶ黒須球子(まりこ) さんのルームメイトのモザンビーク人留学生の友達の友達……という、恐竜とアフリカ系中国人材というカオスな人脈をたどった果てに知り合った。
(黒須さんについては、こちらの記事も参照いただきたい→https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64445)
中国を見るならアフリカを見よ!
ところで、私はなぜルワンダに行ったのか? 理由は簡単だ。いま、中国本土以外で中国ウォッチャーが最も見ておくべき場所は、アフリカだからである。
中国は1950年代以来、反帝国主義や第三世界の連帯を唱えてアフリカ諸国と独自のコネクションを築いてきた。イデオロギー主導の外交は1980年代にいったん下火になったが、21世紀に入ると資源エネルギー需要の増大や中国企業の対外進出(走出去)政策、さらに習近平政権下での一帯一路政策を受けて、アフリカとの関係が再び強化された。
※取材謝礼であるヤマハのステレオを手にテンションが爆上がりのピーター。ビックカメラの英語ページから欲しい商品を選んでもらったが、彼が選んだ液晶テレビは中国メーカーのハイセンス製だったので、第2希望のヤマハ製品を持っていった。
近年は中国の対外援助の5割近くを対アフリカ援助が占めている。「政治的条件のつかない援助」を合言葉に、相手国の政体にかかわらず(=たとえ独裁国家が相手でも)手を差し伸べる中国は、専制的な国も多いアフリカから見ればありがたい相手だ。旺盛な経済関係もあって、アフリカ諸国の対中好感度は軒並み高く、国連などの場でも中国の応援団として振る舞うことが期待されている。
そんなアフリカ諸国のなかで、私が今回訪ねたのがルワンダだ。1994年に50〜80万人もの犠牲者を出したルワンダ虐殺から、今年はちょうど25年目にあたる。いまこそ見ておくべき国だと言っていい。
詳しくは後述するが、内戦終結後のルワンダは「アフリカのシンガポール」を合言葉にスマート国家への脱皮を図っている。政治は専制体制、経済はニューエコノミーを重視した国家資本主義……と、国土面積が四国の1.4倍程度の小国にもかかわらず、中国さながらの国家を作ろうとしているのだ。
私は北京から約8000キロ離れたこの小さな国へ、「中国っぽいもの」を探す旅に出たのであった。
習近平は素晴らしいリーダーだ!
「最近のルワンダはアメリカと少しギクシャクしているけれど、中国との関係はすこぶる良好だ。いまのルワンダにとっていちばん重要な国は中国だと思うよ」
空港からのタクシーの車内で、ピーターがそう説明してくれた。
1990年生まれの彼はルワンダ虐殺で父を失ったが、内戦後は母子家庭のなかで勉学にはげみ、成績優秀者を選抜するルワンダ国家の奨学金を得て同国では数少ない高等教育機関であるルワンダ国立大学を卒業した。やがて2015年に中国政府奨学金留学生として北京科技大学に留学して、バイオ燃料にかかわる論文で修士号を取得している。
ピーターは細身の長身で、黙っていると横顔がちょっとウィル・スミスっぽくてかっこいいのだが、お調子者で不器用な性格が玉に瑕である(ただしルックスがよいのでモテる)。もっとも優秀なのは確かで、北京留学中は留学生の代表として訪中したルワンダ大統領のポール・カガメ(後述)にも会った。今年か来年、中国政府から再度の奨学金を得て北京で博士号を取るのが当面の目標だ。
「習近平は素晴らしいリーダーだと思うね。中国のリーダーはロング・タームでものを考えて、実行できている。多くのアフリカのリーダーも見習うべきだろう」
その経歴からしても当然、ピーターは親中派である。もっとも、こういうエリート層は最近のルワンダ(のみならずサブ・サハラ各国)ではそれほど珍しくない。例えば、2日後に私が会ったピーターの友人で、中国語教師のガット(32歳、中国語名「田文」)も言う。
「ルワンダがモデルにするべき国家は中国だ。政治的安定、経済発展、イノベーションを実現するには中国みたいな体制が理想的なんだ」
ガットも94年のルワンダ虐殺の生き残りである。ピーターと同じくルワンダ政府の奨学金を得て大学へ進学し、やがて中国政府の国策にもとづく語学教育プロジェクト・孔子学院の奨学金を得る形で重慶師範大学で漢語教育分野での修士号を取った。帰国後はそのままルワンダ国内の孔子学院に就職し、母国の後輩たちに中国語を教えている。
中国語とソロバン、広がる影響力
孔子学院はあくまでも語学教育プロジェクトであり、日本で一般に思われているほどゴリゴリのイデオロギー教育がなされているわけではない。ただ、ルワンダにとって最大の輸入相手国である中国の言語を教え、さらに奨学金を通じて「先進国」中国への留学の機会を提供してくれるので、現地のインテリ層の対中好感度を上げるうえでは一定の役割を果たしている。
2018年12月現在、アフリカ全土で孔子学院は59施設、より小規模な孔子課堂が41施設あり、のべ140万人以上が学んだとされる。ルワンダだけでも孔子学院・課堂は約20施設があり、ガットが教えているのはキガリからバスで3時間ほどの距離にある地方都市の教室だ。
ルワンダの孔子学院で、学生側が負担する費用は入学手続き料の30000ルワンダ・フラン(約3600円)のみ、入学後の学費は完全に無料だ。学位は取得できないとはいえ、将来を切り開く上ではかなりお得な教育機関だと言っていい。
※もう一人の孔子学院奨学金OBの中国留学経験者で、キガリ市内で旅行会社を経営するガテラ氏。アフリカ大陸のど真ん中にもかかわらず、中国語人材を探すとどんどん見つかる
孔子学院以外にも、私が目にした中国のソフトパワーを紹介しておこう。それはピーターの仕事である。彼は現在、北京に本社を置いて世界展開するソロバン教育塾チェーン「Shenmo(神墨)」グループのルワンダ・ブランチの運営にたずさわっているのだ。
キガリ郊外にある教室に遊びに行くと、6〜11歳の子ども十数人が、一心不乱にソロバンの玉を弾いていた。一通りソロバンを使わせた後は暗算である。算数の基礎能力を付けるうえでは、ソロバンは有効だ。
授業は英語でおこなわれるものの、教材は中国からそのまま持ってきたもの。漢字で書かれた答案用紙に、子どもたちが答えを書き入れていく。
かつてルワンダは旧宗主国のベルギーが教育に不熱心だったこともあって、1960年代まで大学が存在せず、その後も内戦などで教育の混乱が続いた歴史がある。Shenmoはまだ小規模だが、教育産業の需要それ自体はある国だ。
「ルワンダの教育環境は、はっきり言って現在でも全然よくない。理数系に強い人材を育てなきゃいけないんだ」
そう話すピーターは、半年ほど前に隣国タンザニアのダルエスサラームでShenmoのブランチ代表としての研修を経験した。イラン・ルワンダ・タンザニアの代表が集められ、中国人コーチからソロバンの特訓を受けたらしい。ライオンだらけの国に、中国ソロバン塾の「虎の穴」があったのだ。
父は穏健派だから殺された
ピーターのソロバン教室で学ぶ子どもたちは人懐っこく、あれこれと私に話しかけてきたり、時計やカメラをいじり回したりと��真爛漫だ。だが、彼らが生まれる前にルワンダが経験した歴史は重くて暗い。
ルワンダは過去にながらく、旧宗主国のドイツやベルギーによって作り出されたツチ・フツの「民族」対立に苦しんできた。ツチとフツの言語や宗教はほぼ同じで、両者の差異は実質的にほとんどないが、植民地時代に少数派のツチが「白人に近い」とみなされ中間支配層として活用されたことで対立の芽が生まれた。
ツチとされた人たちは人口の約14%、フツとされた人たちは約85%である(他に先住民である「トゥワ」が1%)。ツチ・フツは外見上でも区別できないが、植民地政府が作ったIDカードに「民族」を記載する項目が設けられたことが悲劇の遠因になった。
1962年のルワンダ独立後は多数派であるフツが権力を握り、初代のカイバンダ大統領時代にはツチがしばしば虐殺された。2代目のハビャリマナ大統領(服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記』にも「ハビさん」の名で登場する)の時代の末期、1990年代前半にも激しい内戦が起こり、権力の維持を図った同政権の取り巻き集団を中心にフツ至上主義(フツ・パワー)が喧伝された。
ツチへの憎悪を煽った雑誌『KANGRA』。ルワンダ虐殺の当時、ツチの民兵たちの間でよく読まれていた。キガリ市内の虐殺記念館にて許可を得て撮影
ついに94年、このハビャリマナ大統領の暗殺を契機に混乱がいっそう拡大し、民兵組織や地方有力者の扇動を受けた一般のフツ系住民が、ツチや穏健派フツをわずか3ヶ月間で50万〜80万人(一説には100万人)も虐殺するルワンダ虐殺が起きた。単純計算でも、内戦前の人口(約720万人)の10%近い人数が犠牲になったことになる。ソロバン先生のピーターも、この事件で父親を失っている。
「当時は4歳だったから、僕には父さんの記憶も、虐殺の記憶もない。父さんがフツで母さんがツチだったらしいけれど、父さんはフツなのに虐殺に加わらない穏健派だったから殺されたみたいだ。ただ、どうやって亡くなったのかはよくわからない」
いっぽう、孔子学院の講師であるガットは、父親がツチで母親がフツだった。ガットが7歳のときに発生した虐殺で父親の一族は皆殺しにされたが、当時は母親がフツの男性と再婚していたので、連れ子であるガットはかろうじて難を逃れている。ガットは言う。
「私みたいな話はいくらでもあるが、みんな我慢している。被害者も加害者も大勢いるし、(虐殺の)当時に何をしていたかは、他人に聞ける話題じゃないさ。過去に直接手を下したことがわかっている人についても不問に付す。それが未来のためだ」
虐殺25年後の強権と経済発展
1994年のルワンダ虐殺は3ヵ月ほどで終わった。隣国ウガンダに亡命していたツチ系勢力を中心とするルワンダ愛国戦線(RPF)が内戦に勝利し、虐殺が停止されたからだ(ちなみに同年9月〜12月にはルワンダ難民への人道救援活動として、自衛隊が隣国ザイールの難民キャンプに派遣されている)。やがて政情は徐々に安定し、2000年からはRPFのリーダーだったポール・カガメが大統領となった。
近年、カガメは強力なリーダーシップのもとで「アフリカのシンガポール」を目標にルワンダの国家改造を進めている。カガメはかなり独裁的だが、ジンバブエのムガベや中央アフリカのボカサのような、従来のアフリカにありがちな国家を私物化するタイプのリーダーではなく、あだ名は「ルワンダのCEO」だ。植民地時代から行政や教育現場で用いられてきたフランス語も、英語に置き換えられた。
ルワンダの一人当たりGDPはまだ750ドル程度で、国家予算の3割を援助に頼る。だが、ルワンダの汚職の少なさや政府の行政能力、良好な治安、起業の容易さなどは国際的にも高く評価されている。国外からの投資も集まり、2008年〜2017年の10年間のGDP成長率は約7.5%に達した。人口も虐殺当時の倍以上となる約1220万人まで増え、社会には若者が多く活気がある。
近年は政府の政策により清掃に力が入れられていることもあって、キガリ市内の中心部はかなり清潔だ。路上にゴミはほとんどなく、他のアフリカの都市と比較しても清潔感がある。夜間のひとり歩きも、それほど怖くない。
カガメ政権下では従来の民族対立も強引に押さえ込まれ、いまや「ツチ」「フツ」はもちろん「民族(ethnicity)」という単語すらおおやけに語ることはタブーだ。もっとも実際のところ、内戦前は人口的に多数派のフツ系が支配層だったが、内戦後はカガメ自身を含めたツチ系のリーダーたちが台頭するようになっている。
現在、ICT分野で起業をしたり、中国に留学したりするような「意識の高い」ルワンダ人の青年エリートは(ピーターはフツ系だが)多くが幼少期に虐殺を生き延びたり、亡命先から母国に戻ってきたツチ系の人たちである。彼らはそれぞれカガメを手放しで称賛する。
「カガメ大統領は凄い。彼はルワンダ国民を愛しているし、ルワンダをもっと発展させてくれる。国家が発展するときは、ああいうストロングなリーダーの政治が必要なんだ。マスコミや野党の統制だって、ときには必要とされる場合があるのさ」(ピーター)
「カガメの政策は庶民の希望と合致している。彼ら(=RPF)はルワンダを虐殺から救ってくれたし、カガメに代われる者はいない。みんなが、カガメにもっと大統領を続けてほしいと思っている」(ガット)
中国人から「言論の自由がない」と評される国
ルワンダではカガメについて「褒める」以外の評価が許されていないとはいえ、かなり多くの国民が本気でカガメを支持しているのも確かだ。これはピーターやガットのようなエリート層だけに限った話でもない。
ただし、カガメ政権は経済発展以外の分野でもシンガポールや中国を参考にしているらしく、マスメディアを強力に統制し、野党を強力に弾圧している。さらに2015年には、憲法を改正して大統領任期を事実上17年間も延長してしまった。
プロパガンダ雑誌の表紙をかざるポール・カガメ。「ルワンダのCEO」のイメージを損なわないための演出なのだろうが、反政府ゲリラの元リーダーがこれだけスマートに振る舞っているのは驚きだ。
ルワンダの報道統制は凄まじく、中国系の民間シンクタンクが昨年8月に発表したレポート『非洲国家民衆眼中的中国形象—盧旺達(アフリカの国家・民衆から見た中国の姿:ルワンダ)』のなかでも「言論の自由は相対的に制限されている」「(現地メディアは)民衆の真実の感想や視点を反映したりよく伝えたりすることが比較的少ない」という記述がある。中国人が見てすら「言論の自由がない」と感じてしまうほどの国なのである。
従来、欧米各国はルワンダ虐殺への配慮もあってカガメ政権への批判を手加減してきたが、近年はさすがに批判が強まり、ルワンダの対米関係も悪化しつつある。ただ、それゆえに専制体制を気にせずに仲良くしてくれる「大国」の存在は歓迎される。つまり中国のことだ。
CNNによれば、中国は過去12年間でルワンダに4000億ドル(約4兆3900億円)を投資してきた。ルワンダの道路状況は地方を含めてかなり良好だが、こうした国内道路の7割は中国企業の建設によるという。昨年7月、習近平は中国の国家主席としては初めてルワンダを訪問して一帯一路構想への参加を歓迎し、一説には道路建設に1億2600万ドル(約138 億円)規模ともいう融資を決め、さらに病院や新空港の開発でもルワンダ政府と合意に達した。
ルワンダの目覚ましい復興は「アフリカの奇跡」として国際的にも高い評価を得ている。だが、その成功を支えるものは、広い意味での中国モデルの国家体制である。
「虐殺」の後には中国きたる
以前、私は『さいはての中国』(小学館新書)で、カンボジアでの中国の存在感の増大について書いた。かつて内戦とポル・ポトの虐殺を経験したカンボジアは、1990年代前半にUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)をはじめとした国際社会の支援のもとで議会制民主主義が導入されて国家を再スタートさせたが、近年は中国の強い影響化に置かれるようになった。
現在、カンボジアは急速な経済発展で投資家の注目を浴びるいっぽう、与党が国民議会の全議席を独占するなど、フン・セン首相の独裁体制が固められている。フン・センと中国の関係は強固で、カンボジア国家は、中国からの多額の借款を受け入れている。ASEANの会議などで南シナ海の領土問題が持ち出された際に、カンボジアが必ず中国を支持する光景もすでにお馴染みだ。
虐殺の後には中国きたる――。この構図はカンボジアのみならず、ルワンダもまた同様だ。
米中対立の激化が進むなか、今年5月12日付けのAFP(日本語版)は、フランス国際関係研究所のアリス・エクマン氏の見解を引用する形で、世界の各国が米中のいずれの勢力に属するかの選択を突きつけられる時代の到来を予告している。中国に「新冷戦」を本気で戦い抜く覚悟と体力があるかは不明だが、近年の中国の国際的プレゼンスの拡大を受けて、第三世界の諸国のなかには、かつての毛沢東時代さながらに中国側へなびく国が出てきている。
ルワンダをめぐってはかつて冷戦下の1960年代に、西側寄り(フランス寄り)のフツ系政権を牽制する目的から、複数のツチ系反政府勢力がソ連や中国の支援を受けていた歴史がある。現在の中国とツチ系のカガメ政権との関係は、半世紀前の共闘の構図が新冷戦の時代に装いを変えて復活したもの、という見方もできるだろう。
アフリカで中国を探す私の旅は、まだ始まったばかりである。
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thetaizuru · 3 years
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 「グロテスク」 の語源は、「洞窟」を意味するイタリア語「grotta」からきている。 西暦64年のローマ大火の後に皇帝ネロが建設を開始した「ドムス アウレア」という宮殿群が放置され地中に埋もれていたのが、15世紀末になって偶然発見された。1480年代あるいは1490年代にトンネルを掘って内部に侵入する試みが始まり、1490年代には画家たちが地下歩廊から各部屋の装飾を見学するようになった。その宮殿の壁面装飾模様をラファエロがバチカン宮殿回廊の内装に取り入れ、 これが地中の「洞窟」で発見された装飾様式であることから「グロテスク装飾」と呼ばれるようになった。ラファエロが復興させ、装飾体系として昇華させたことから「ラファエレスク文様」とも呼んだ。版画を通じて広まり、16世紀ヨーロッパの芸術上のレパートリーとなった。  人、動物、植物などをモチーフとし、自然法則や本来の大きさを無視して人から植物へ、さらには魚、動物へと連続して変化する奇妙な模様ではあるものの、似たような模様は中世にも見られた。ラファエロらルネサンス期の芸術家たちを驚かせたのは、古代ローマ人たちが、幻想的かつ形式ばらない軽快で優美な様式を採用していたということであり、古代ローマの人たちも自分たちと似たような感覚を持っていたのかもしれないということを垣間見ることができたことだった。  「グロテスク」という言葉は時間を遡って語義が拡張され、中世の装飾写本における、余白に装飾模様として描かれたキャラクターなどを指す「ドロルリー」も現代の用語ではグロテスクと呼ばれ、中世ヨーロッパの教会建築の装飾に見られる奇怪な生物の彫刻もグロテスクと呼ばれる。今日ではさらに、風変わりで歪んだ奇怪なことなどを指す総称的な形容詞としても使われる。  文学においては、共感と嫌悪感の双方を抱かせるような人物が「グロテスク」であると通常考えられ、 ヴィクトル ユーゴーの『 ノートルダム ド パリ (ノートルダムの傴僂男)』(1831年)は、文学で最も有名なグロテスクの一つとされる。
 時代区分として、中世は、西ローマ帝国が滅亡した476年あたりに始まるとされる。  中世後期、1300年頃のフィレンツェ共和国では、教皇派と皇帝派が争い、教皇派が辛くも勝利するものの、自治政策を掲げる富裕市民層の支持からなる白党(ビアンキ)と、教皇に深く結びつこうとする封建貴族の支持からなる黒党(ネーリ)との内部対立から真っ二つに割れた。当初、白党が政権を握ったものの、翌年の1301年には黒党が政変を起こして実権を握った。白党から選出された三人の統領(プリオーレ)の一人であったダンテ アレギエーリは、フィレンツェ共和国を追放された。流浪をしながら「喜劇」と題した詩を書き続け、それが書き上がった1321年に亡くなった。その詩は後に「神聖喜劇」『神曲』と呼ばれるようになった。
 1326年、フィレンツェで大砲が開発される。
 ダンテと同じく白党に属しフィレンツェを追放されたセル ペトラッコの息子であるフランチェスコ ペトラルカは、中世にはだいぶん形の崩れていたラテン語を古代ローマの古典的形式にならって純正化することを考え、各地を旅して古代の写本を研究し、詩作した。これが人文主義の始まりとされ、ペトラルカは人文主義の父と呼ばれる。
 1431年、バーゼル公会議が教皇派と公会議派に分裂し、教皇派らはイタリアに移転し、1438年、フェラーラ公会議が開催される。しかし、フェラーラでは財政的な困難や疫病の流行という事態に直面したため、教皇庁の金融を担当していたコジモ デ メディチの申し出を受けて、1439年に公会議はフィレンツェに移転した。こうしてビザンツ皇帝や東方教会の聖職者たちがフィレンツェを訪れた。この公会議開催によってメディチ家は、教皇庁での地位を強化し、フィレンツェ共和国の実質的な統治者となった。  これらの公会議では、主に東方正教会とローマ カトリック教会の再合同について議論された。 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、オスマン帝国からの圧力を受けて、西ヨーロッパ諸国からの支援を求めていた。ビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは、東西融和の一環として東西教会の分裂の収集を提案した。  しかし合同の実現は果たせなかった。  1453年、オスマン帝国軍がコンスタンティノポリスを陥落させ、東ローマ帝国は滅亡した。  通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり、近世の始まりとされる。
 コジモが基礎を作った学芸サークルであるプラトンアカデミーには多くの人文主義者が集い、東ローマ帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって伝えられたギリシア語の文献のラテン語への翻訳や研究、��論などが行われた。  この「ネオプラトニズム(新プラトン主義)」と、ルネサンスという時代は、コジモの孫ロレンツォによって最盛期を迎える。そしてフィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。  1481年、プラトンアカデミーに集まった人文主義者の一人であるクリストフォロ ランディーノが『ダンテ『神曲』註解』を出版し、そのための挿絵をボッティチェリがメディチ家により依頼されて描いたと言われる。  ランディーノのこの著作を、ダ ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロらも読んだと言われ、ミケランジェロはダンテに捧げる詩を詠んだ。  彼らは、『神曲』はネオプラトニズムのさきがけで、フィレンツェの文化的アイデンティティの象徴と目した。これは『神曲』をフィレンツェという都市国家の文化的覇権を内外に示すためのアイコンとした、メディチ家による‛国家的事業‛となった。  ロレンツォは、『神曲』で使われたのと同様の俗語、すなわち現在のイタリア語の基となった言葉で詩作もし、フィレンツェで広く歌われたと言われる。  ロレンツォは、各勢力が乱立するイタリアのバランサーとして外交手腕を発揮した。その外交の特徴は勢力均衡と現状の維持だった。彼はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣した。これはロレンツォの外交政策の一端だった。これにより、フィレンツェのルネサンス美術は、イタリア中に広まったと言える。  一時的であったとはいえ、イタリア諸国家間の勢力の均衡を保たせることに成功し、フィレンツェのフローリン金貨はヨーロッパの貿易の基準通貨となり、フィレンツェの商業は世界を支配した。
 「フィレンツェ」は、古代ローマ時代に花の神フローラの町としてフローレンティアと名付けられたことが語源とされる。直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって退役軍人への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。そのため、フィレンツェには古来より創世神話として、カエサルがこの市を作ったという伝承があった。  「第二のローマ」、すなわち古代ローマの後継者としての地位とアイデンティティを確立しようという理想は、東ローマ帝国の滅亡によって刺激され、ルネサンス(再興)という名を持って花開き、世界史の転換点を飾った。  ラテン語のエピック『アエネーイス』を書いた古代ローマの詩人ウェルギリウスとともに地獄と煉獄を遍歴したダンテの『神曲』はイタリア語のエピックとなった。
 1492年、 ロレンツォが亡くなり、長男のピエロがメディチ家当主となるが、1494年、フランス軍の侵攻にあってその対処を誤り、市民の怒りを買い、メディチ家はフィレンツェを追放される。  その後、かねてからメディチ家による実質的な独裁とフィレンツェの腐敗を激しく批判していたサンマルコ修道院の修道院長サヴォナローラが共和国の政治顧問となり、以降、神権政治が行われる。サヴォナローラは次第に教皇国をも批判し、1497年には教皇アレクサンデル6世から破門される。 同年、サヴォナローラの支持者たちにより、「虚飾の罪」またはその罪を犯す可能性のあるものとされた化粧品や装飾品、不道徳とみなされる本や美術品などを、 シニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われた。市民生活は殺伐としたものになり、不満も高まっていた。1498年、サンマルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。サヴォナローラは、教皇の意による裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処された。  その後のソデリーニ政権下で1498年に第2書記局長に選出されたマキャヴェッリは、国民軍の創設を計画し実現させたが、国民軍は期待された成果を挙げることなく、ソデリーニ政権は1512年、メディチ家のフィレンツェ復権を後押しするハプスブルク家スペインの前に屈服し、マキャヴェッリは第2書記局長の職を解かれた。1513年、(ロレンツォの次男)ジョヴァンニ デ メディチ新政権下起こったボスコリ事件に加わった容疑で、マキャヴェッリは指名手配され、実際には加担していなかったと言われるが、自ら出頭して逮捕された。一か月後に、 ジョヴァンニが教皇に選出されたことにより、大赦で釈放された。ジョヴァンニは ローマ教皇レオ10世となった後はフィレンツェを弟のジュリアーノ(ロレンツォの三男)に任せた。 1516年に急逝したジュリアーノの後任に 甥のロレンツォ2世(ピエロの長男)が就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられ、 謁見の場で『君主論』が献上されたと言われる。
  ミケランジェロの代表作「ダビデ像」は、1504年にフィレンツェの共和制のシンボルとして造られたが、その頃にはルネサンスはフィレンツェを離れていた。
 東ローマ帝国の滅亡により、シルクロードの要であったコンスタンティノープルが失われ、その後制限が加えられたことから、ヨーロッパではコンスタンティノープルを経由しないルート開拓として大航海時代が始まった。 ジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、一地方都市へと転落して行くこととなる。航海士達の多くは、スペインやポルトガル等のイベリア半島の新興国家に移り、大航海時代に大活躍をする。  ジェノヴァ出身のクリストファーコロンブスが、1492年、スペインの援助を受けて大西洋を航海し、「新大陸」に上陸する。コロンブスは自身が上陸したのはインドだと誤認しており、新大陸を発見したとは認識していなかった。  フィレンツェ共和国のメディチ本家と分家の両方に仕えたヴェスプッチ家のアメリゴ ヴェスプッチは、1497年から1502年まで3度(2度という説もある)にわたってスペイン、ポルトガルの船に同乗して大西洋を横断し、1503年頃、調査の結果をまとめた『新世界』を刊行。 この中で、大西洋を横断した先にあるのはアジアではなく、全く異なる新大陸であることを指摘した。当時は北米と南米が繋がっていることは判明していないので、彼の『新世界』は南米大陸についてのみ論じている。ヨーロッパの古代からの伝統的世界観、アジア、アフリカ、ヨーロッパからなる三大陸世界観を覆すこの主張は、ヨーロッパ全体にすぐ浸透したわけではないものの、人文主義者たちにはセンセーショナルに受け入れられた。  1507年、南ドイツの地理学者マルティン ヴァルトゼーミュラーがアメリゴの『新世界』を収録した『世界誌入門』を出版した。その付録の世界地図にアメリゴのラテン語名アメリクスの女性形からこの新大陸にアメリカという名前が付いた。これがアメリカ大陸という名を用いた最初の例となった。
2021年7月 塔と星
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fujimoto-h · 6 years
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ここであえての2016年の観賞記録と
2016年の映画観賞回数135回。
『クリード──チャンプを継ぐ男』(ライアン・クーゲラー) 『ジョン・ウィック』( チャド・スタエルスキー、 デヴィッド・リーチ) 『ヒトラー暗殺、13分の誤算』(オリヴァー・ヒルシュビーゲル) 『黄金のアデーレ──名画の帰還』(サイモン・カーティス) 『エール!』(エリック・ラルティゴ) 『白鯨との闘い』(ロン・ハワード) 『顔のないヒトラーたち』(ジュリオ・リッチャレッリ) 『シャーリー&ヒンダ──ウォール街を出禁になった二人』( ホバルト・ブストネス) 『Re:LIFE』(マーク・ローレンス) 『ムーン・ウォーカーズ』(アントワーヌ・バルドー=ジャケ)
『海賊じいちゃんの贈りもの』(アンディー・ハミルトン、 ガイ・ジェンキン) 『ローマに消えた男』(ロベルト・アンド) 『コードネームU.N.C.L.E.』(ガイ・リッチー) 『ブリキの太鼓』(フォルカー・シュレンドルフ) 『パリ3区の遺産相続人』(イスラエル・ホロヴィッツ) 『ストレイト・アウタ・コンプトン』(F・ゲイリー・グレイ)2回。 『ザ・シャウト──さまよえる幻響』(イエジー・スコリモフスキ) 『ブリッジ・オブ・スパイ』(スティーヴン・スピルバーグ) 『クリムゾン・ピーク』(ギレルモ・デル・トロ) 『PEACH──どんなことをしてほしいのぼくに』(坂西伊作)
『エージェント・ウルトラ』(ニマ・ヌリザデ) 『恋人たち』(橋口亮輔)2回。 『知らない、ふたり』(今泉力哉) 『バットマンVSスーパーマン』(ザック・スナイダー) 『ニューヨーク──眺めのいい部屋売ります』(リチャード・ロンクレイン) 『オデッセイ』(リドリー・スコット) 『不屈の男──アンブロークン』(アンジェリーナ・ジョリー) 『ひつじ村の兄弟』(グリームル・ハゥコーナルソン) 『最愛の子』(陳可辛) 『クーパー家の晩餐会』(ジェシー・ネルソン)
『ヘイトフル・エイト』(クエンティン・タランティーノ) 『キャロル』(トッド・ヘインズ) 『ズートピア』(バイロン・ハワード、 リッチ・ムーア) 『ポテチ』(中村義洋) 『奇跡』(是枝裕和) 『テラフォーマーズ』(三池崇史) 『弱虫ペダル Re:RIDE』(鍋島修) 『弱虫ペダル Re:ROAD』(鍋島修) 『劇場版 弱虫ペダル』(長沼範裕) 『殿、利息でござる!』(中村義洋)
『マッドマックス──怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー)5回。通算10回達成。 『海よりもまだ深く』(是枝裕和) 『ルーム』(レニー・アブラハムソン) 『これが私の人生設計』(リッカルド・ミラーニ) 『三等重役』(春原政久) 『フルートベール駅で』(ライアン・クーグラー) 『社長太平記』(松林宗恵) 『マネー・ショート──華麗なる大逆転』(アダム・マッケイ) 『リリーのすべて』(トム・フーパー) 『レヴェナント』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)
『駅前旅館』(豊田四郎) 『スポットライト──世紀のスクープ』(トム・マッカーシー) 『ミラクル・ニール!』(テリー・ジョーンズ) 『欲望』(ミケランジェロ・アントニオーニ) 『グランドフィナーレ』(パオロ・ソレンティーノ) 『アイアムアヒーロー』(佐藤信介) 『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』(クリス・マウカーベル) 『最高の花婿』(フィリップ・ドゥ・ショーヴロン) 『マクベス』(ジャスティン・カーゼル)2回。 『ヘイル、シーザー!』(ジョエル・コーエン · イーサン・コーエン)
『アイヒマン・ショー』(ポール・アンドリュー・ウィリアムズ) 『ハロルドが笑うその日まで』(グンナル・ヴィケネ) 『夏の夜の夢』(ジュリー・テイモア) 『コップ・カー』(ジョン・ワッツ) 『ボーダーライン』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ) 『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』(マイケル・ムーア) 『デッドプール』(ティム・ミラー)2回。 『モヒカン故郷に帰る』(沖田修一) 『ディストラクション・ベイビーズ』(真利子哲也) 『君がくれたグッドライフ』(クリスチアン・チューベルト)
『団地』(阪本順治) 『ヒメアノ~ル』(吉田恵輔) 『アウトバーン』(エラン・クリーヴィー) 『ブルースブラザース』(ジョン・ランディス) 『トリプル9』(ジョン・ヒルコート) 『FAKE』(森達也) 『プリンス/サイン・オブ・ザ・タイムズ』(プリンス、 アルバート・マグノリ) 『ミスター・ダイナマイト──ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』(アレックス・ギブニー) 『忌野清志郎 ナニワ・サリバン・ショー 感度サイコー!!』(鈴木剛) 『クレイマー、クレイマー』(ロバート・ベントン)
『帰ってきたヒトラー』(デビッド・ベンド) 『日本で一番悪い奴ら』(白石和彌) 『トゥーヤングトゥーダイ!──若くして死ぬ』(宮藤官九郎) 『嫌な女』(黒木瞳) 『ふきげんな過去』(前田司郎) 『セトウツミ』(大森立嗣) 『超高速! 参勤交代リターンズ』(本木克英) 『マシュー・ボーン「ザ・カーマン」』(マシュー・ボーン、ロス・マクギボン) 『スーサイド・スクワッド』(デヴィッド・エアー) 『エクス・マキナ』(アレックス・ガーランド)
『フリーウェイ』(マシュー・ブライト) 『二ツ星の料理人』(ジョン・ウェルズ) 『教授のおかしな妄想殺人』(ウディ・アレン) 『ONCE──ダブリンの街角で』(ジョン・カーニー) 『シング・ストリート──未来へのうた』(ジョン・カーニー) 『王立宇宙軍──オネアミスの翼』(山賀博之) 『シン・ゴジラ』(庵野秀明、樋口真嗣)2回。 『裸足の季節』(ドゥニズ・ガムゼ・エルグヴァン) 『ロング・トレイル!』(ケン・クワピス) 『グッバイ、サマー』(ミシェル・ゴンドリー)
『ブルックリン』(ジョン・クローリー) 『後妻業の女』(鶴橋康夫) 『トランボ──ハリウッドに最も嫌われた男』(ジェイ・ローチ) 『ラスト・タンゴ』(ヘルマン・クラル) 『AMY エイミー』(アジフ・カパディア) 『グエムル──漢江の怪物』(ポン・ジュノ) 『フラワーショウ!』(ヴィヴィアン・デ・コルシィ) 『ストリート・オーケストラ』(セルジオ・マシャード) 『ニュースの真相』(ジェームズ・ヴァンダービルト) 『阿弖流為』(いのうえひでのり)
『怒り』(李相日) 『ジャニス──リトル・ガール・ブルー』(エイミー・バーグ) 『高慢と偏見とゾンビ』(バー・スティアーズ) 『オーバー・フェンス』(山下敦弘) 『リトル・ボーイ──小さなボクと戦争』(アレハンドロ・モンテベルデ) 『ハートビート』(マイケル・ダミアン)2回。 『神様の思し召し』(エドアルド・ファルコーネ ) 『THE BEATLES──EIGHT DAYS a week the touring yeas』(ロン・ハワード) 『永い言い訳』(西川美和) 『生きうつしのプリマ』(マルガレーテ・フォン・トロッタ)
『はじまりはヒップホップ』(ブリン・エヴァンス) 『奇跡の教室──受け継ぐ者たちへ』(マリー=カスティーユ・マンシオン=シャール) 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(ロバート・ゼメキス) 『この世界の片隅に』(片渕須直)2回。 『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(ロバート・ゼメキス)
2016年の本読了冊数80冊。(同人誌は除く)
渡部直己『小説技術論』(河出書房新社) アレイヘム『牛乳屋テヴィエ』(岩波文庫) デーレンバック『鏡の物語』(ありな書房) ウォー『愛されたもの』(岩波文庫) いとうせいこう『鼻に挟み撃ち 他三編』(集英社) 畑山博『いつか汽笛を鳴らして』(文春文庫) ウォー『ご遺体』(光文社古典新訳文庫) 栗林佐知『はるかにてらせ』(未知谷) ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮文庫) 川田順造『聲』(ちくま学芸文庫)
ブレヒト『アンティゴネ』(光文社古典新訳文庫) 藤野裕子『都市と暴動の民衆史』(有志舎) アリストパネース『蜂』(岩波文庫) 香山リカ『ヒューマンライツ』(ころから) 小野寺拓也『野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」』(山川出版社) ベルンハルト『石灰工場』(早川書房) いとうせいこう=奥泉光+渡部直己『小説の聖典』(河出文庫) 春日太一=サンキュータツオ『俺たちのBL論』(河出書房新社) 大江健三郎=古井由吉『文学の淵を渡る』(新潮社) 岡和田晃『向井豊昭の闘争』(未来社)
岡本かの子『家霊』(ハルキ文庫) 岡和田晃=ウィンチェスター『アイヌ民族否定論に抗する』(河出書房新社) ドゥルーズ=ガタリ『カフカ』(法政大学出版局) 外岡秀俊『北帰行』(河出書房新社) オニール『言説のフィクション』(松柏社) アレン『間テクスト性』(研究社) スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房) スピヴァク『いくつもの声』(人文書院) バトラー『権力の心的な生』(月曜社) 『朝鮮近代文学選集3 短編小説集 小説家仇甫氏の一日 ほか十三編』(平凡社)
パク・ミンギュ『カステラ』(クレイン) バトラー『自分自身を説明すること』(月曜社) カダレ『夢宮殿』(東京創元社) バトラー『アンティゴネーの主張』(青土社) ベルンハルト『ある子供』(松籟社) ハン・ガン『菜食主義者』(クオン) 木村友祐『聖地Cs』(新潮社) 木村友祐『イサの氾濫』(未來社) いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社) 吉村萬壱『ボラード病』(文藝春秋)
フックス『フェミニズムはみんなのもの』(新水社) ムージル『愛の完成/静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫) 赤司英一郎『思考のトルソー・文学でしか語られないもの』(法政大学出版局) 北島玲子『終りなき省察の行方』(上智大学出版) 時田郁子『ムージルと生命の樹』(松籟社) ムージル『愛の完成/静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫) ムージル『三人の女/黒つぐみ』(岩波文庫) 古井由吉『ロベルト・ムージル』(岩波書店) ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー(上)』(河出文庫) ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー(下)』(河出文庫)
橋本陽介『日本語の謎を解く』(新潮選書) カルペンティエル『時との戦い』(国書刊行会) カルペンティエル『この世の王国』(水声社) カルペンティエル『追跡』(水声社) シェイクスピア『から騒ぎ』(ちくま文庫) シェイクスピア『冬物語』(ちくま文庫) カルペンティエル『エクエ・ヤンバ・オー』(関西大学出版局) カルペンティエル『失われた足跡』(集英社文庫) カルペンティエル『バロック協奏曲』(サンリオSF文庫) シェイクスピア『ヘンリー六世 全三部』(ちくま文庫)
シーラッハ『犯罪』(創元推理文庫) シーラッハ『罪悪』(創元推理文庫) シェイクスピア『じゃじゃ馬馴らし』(ちくま文庫) 松岡和子『深読みシェイクスピア』(新潮文庫) 温又柔『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社) ウルフ『灯台へ』(岩波文庫) シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』(ちくま文庫) カルペンティエル『光の世紀』(書肆風の薔薇) ソローキン『青い脂』(河出文庫) 寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書)
師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書) 温又柔『来福の家』(白水uブックス) 木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社) 木村友祐『イサの氾濫』(未來社) ブコウスキー『パルプ』(ちくま文庫) 町山智浩『最も危険なアメリカ映画』(集英社インターナショナル) 『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』(青月社) カルペンティエル『方法異説』(水声社) 滝口悠生『死んでいない者』(文藝春秋) 崔実『ジニのパズル』(講談社)
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theatrum-wl · 5 years
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【連載】弓井茉那のドイツ劇場研修日誌
第12回 難民の青年たちとの演劇プロジェクト(4) 弓井 茉那
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〔バウツェンのフェスティバルの会場にて。撮影:弓井 茉那(以下同)〕
4回に渡って続いた、難民の青年たちとの演劇プロジェクトについての記事は、今回で最終回です。
難民の青年たちとの演劇プロジェクト『よその場所へようこそ』の、デュッセルドルフ劇場での上演は、とても上手くいきました。わたしたちは本番を無事に終えることができたという充実感を携えて、いよいよフェスティバルでの上演のために、ドイツ北東にあるバウツェンという街に向かいました。
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〔バウツェンの町なみ〕
バウツェンはドレスデンから更に東に進んだところにある、ポーランドとの国境にほど近い旧東ドイツの街です。
かつてのボヘミア王国の領地であったバウツェンは、中世の面影を残す美しい街であり、ドイツの少数民族・ソルブ族が暮らす街でもあります。ソルブ族は西スラブ系民族の一派で、ソルブ語という固有の言語を持っています。今や人口の3%にまで減ってしまった少数民族ですが、バウツェンはソルブ族の保護に努めていて、街の標識は全てドイツ語とソルブ語の両方で書かれています。
このようにバウツェンの政治は少数民族の保護を積極的に行っています。しかしその顔とは裏腹なバウツェンのもうひとつの顔があります。バウツェンでは、ドレスデン同様ネオナチが台頭しており、2016年には、難民宿舎に改装中であった元ホテルの建物が放火されるという事件が起きました。幸いこの放火で死傷者は出なかったものの、難民にとってはとても恐ろしい事件になりました。
しかしバウツェン市としては、ドイツ政府の難民受け入れの国策の元、「わたしたちは難民を受け入れます」という態度をアピールしたい思惑があり、今回の難民の演劇フェスティバル開催地に決まった経緯があります。
このことについては、ワークショップ中に話題になったことがありました。ファシリテーターがみんなにこの話をして、「率直にどう思うか?」と聞きました(このやり取りはとてもドイツらしいと思いました。青年たちだからといって子ども扱いせず、進行役たちが問題提議をしてくれて良かったと思いました)。
「バウツェンに行くのが正直ちょっと怖い」と言った意見が挙がったり、難民二世のメンバーは、「カフェに入ろうとして、外見だけで入店拒否されたことがある」という苦い経験をシェアしてくれたりしました。また、「難民である自分たちが政治利用されているようで、何だかよい気持ちがしない」というような意見もありました。とにかく無理をせず、なるべく団体行動をする、という約束をしてその日の話し合いは終わりました。
少しの不安を抱えつつ、わたしたちはデュッセルドルフからバスで8時間掛けて、バウツェンへ向かいました。バスの中ではおしゃべりしたり歌ったり。私にとっては久しぶりに学生時代に戻ったようでした。
到着してみると、バウツェンはとても綺麗な街でした。
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〔バウツェンの山〕
そこかしこに残る中世の建物はどれも美しく、街は観光客も少なく落ち着いています。山があるのでデュッセルドルフよりも空気がきれいなところで、想像していたような物々しい雰囲気はありませんでした。 私たちは近くのゲストハウスにチェックインし、フェスティバルのメイン会場のバウツェン劇場に向かいました。 劇場に入ってみると、他にも今着いたばかりなのか、若い青年たちが集まっていたり、劇場ではチームごとにリハーサルを行ったりしていました。
『Willkommen Anderswo III(よその場所へようこそ)』という名のこのフェスティバルには、ドイツ中から9つの公共劇場(バウツェン・ドイツソルブフォルクスシアターとバウツェンセンター、ベルリン・マキシムゴーリキーシアター、ハンブルク劇場、ハイデルベルク劇場、ミュンヘン・カンマーシュピーレ、ニュルンベルク劇場、プラウエン劇場、ミュールハイム・アン・デア・ルール劇場、そして私たちデュッセルドルフ劇場)を主体としたプロジェクトが招聘されていました。
スケジュールは、一日目にリハーサルを行い、二日目にはそれぞれのプロジェクトの上演が順番に行われ、夜にはパーティーが開かれました。そして三日目には参加者がそれぞれの興味に分かれて、オブジェクトシアターやパントマイム、ステージ・コンバットなどの演劇ワークショップに参加し、クロージングというスケジュールでした。
グループごとにゲストハウスに泊まり、食事は劇場のカフェテリアで支給されて、合宿のような雰囲気でした。
各劇場のプロジェクトのテーマは、「難民の青年たちと作品をつくる」でしたが、それぞれにアプローチが異なり、大変興味深いものでした。
ベルリンのマキシムゴーリキーシアターは、『EXILE ENSEMBLE』なる難民・移民の所属俳優がいて、多様なバックグラウンドを持つ人との創作に慣れていることがあるのか、クオリティの高い鮮やかな作品でした。
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〔マキシムゴーリキーシアターの上演〕
アフリカ系、中東系、ドイツ人が混じる17名程の出演者たちが、「ベルリンと���う街について嫌いなところ」を吐露するモノローグをひたすらに話し、次第に「わたしたち似てるね」ということに気付いていく構成で、若者の心を掴む音楽を演出として多用していました。プロの俳優でないということを疑うほど、出演者たちの演技には真実がありました。ラストはマイケル・ジャクソンの『Black or White』が爆音で流れる中で、観客をどんどん舞台に上げて、踊りまくって大団円という作品。日常に問題やストレスを感じている出演者を通して、同じ立場にある観客を誘い込み、特別な関係を築くことに成功していて、10代の青年たちの心理がよく分かっているなと感じた作品でした。
それぞれの発表が終わったあとのパーティーはダンスができる賑やかな場であったのですが、同時に自然とお互いの作品に対して感想を言い合う時間になりました。デュッセルドルフのメンバーは誰かに褒められて嬉しそうだったり、演劇づくりに積極的でないように見えたメンバーが、「マキシムゴーリキーの方がおもしろかった」と悔しそうな表情を浮かべていたりするのを見ました。自分たちが作ったものを誰かに見てもらえる機会があることの重要性を感じました。
私にとっては、デュッセルドルフのメンバーとゆっくり話ができる最後の時間でもありました。
「プロジェクトを通してどうだった?」という私の質問に対して、「俳優になることが自分の夢になった」というイラクから来た10代のメンバーがいました。かたや、「今回で演劇に参加するのは最後かなぁ」とつぶいた20代のシリア出身のメンバーもいました。「何故?」と私が問うと、彼は苦い顔をして「演劇はとても楽しいけど、僕を食べさせてはくれないし。今は何としても早く仕事を見つけなきゃいけない」と答えました。切実な言葉だと思いました。 とても遠いところからやって来た彼らの何を、演劇は救ったのでしょう。日常のストレスや孤独を一時忘れさせてくれるものだったのか(このプロジェクトでの私がそうであったように)、外国人としてドイツ社会で生きる上での何かの力を与えてくれたものだったのか。少なくとも私にとっては、演劇に没頭できたこと、分かり合えないという想いを抱えながらも、難民のみんなと演劇を通じて対話ができたことは大きなことでした。
賑やかなパーティーの傍らで、そんなことを考えながら、フェスティバルそしてプロジェクトは終わっていきました。
滞在中、幸い誰も危ない場面に遭遇することなく、進行役たちもホッとしていました。バウツェン市が警備に力を入れたという話を聞きました。
このあと、およそ2ヶ月後にこの作品をデュッセルドルフ劇場の児童・青少年劇場メインホールで再演することになりましたが、その時には私のビザが切れてしまう予定でした。そしてこの時には、何とかしてドイツに滞在し続けるのか、日本に帰国するのか、はたまた第三の地に行くのか決められていませんでした。
帰るところがある、という大きな違いはありますが、私もまた難民のみんなと同じ未確定な未来のなかにいました。
次回は、ドイツ滞在中に出会った難民の親友のことについて書きたいと思います。
プロフィール
● 弓井 茉那(ゆみい・まな)
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俳優/演劇教育者 http://yumiimana.com/
京都市生まれ。京都造形芸術大学卒業、座・高円寺劇場創造アカデミー修了。東京・京都を拠点に、現代演劇や児童演劇の俳優活動を軸として、子どもや市民対象のドラマワークショップの企画・進行の活動を行っている。乳幼児を観劇対象とするベイビードラマのシアターカンパニーBEBERICA主宰、演出
2014年〜2016年までSPAC-静岡県舞台芸術センター制作 クロード・レジ演出『室内』に出演し、アビニョン演劇���など世界7都市でツアーを行った。2014年〜2016年STスポット横浜芸術教育プラットフォーム コーディネーターアシスタント。2017年デュッセルドルフ劇場アウトリーチ担当。同年南アフリカで行われたASSITEJ 世界会議にて、次世代の児童演劇担い手のプラットフォーム『Next Generation』に日本代表として選出され参加。「マレビトの会」プロジェクトメンバー
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theatrum-wl · 6 years
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【連載】弓井茉那のドイツ劇場研修日誌
第8回 日本人コミュニティ アウトリーチプロジェクト(3) 弓井 茉那
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〔Cinema Paradiso日本特集の様子〕
長かった冬が過ぎ、デュッセルドルフに春が訪れて暖かくなって来た頃。 ドイツの西側にある経済都市デュッセルドルフの公立劇場で、日本人コミュニティを対象としたアウトリーチプロジェクトを進めていました。
「日本人をデュッセルドルフ劇場に連れてくる」が日本人コミュニティへのアウトリーチ・プロジェクトの目標です。「日本人を集めて何かイベントをやれないか」という芸術監督のアイディアを受けて、日本人が初めて劇場に来るきっかけになるようなことができないかと考えていました。
そこで、劇場で毎週月曜日に行っている、難民を含むすべての市民に劇場を開放する取組、「Café Eden」(「Café Eden」については第4回「全ての市民の広場、《Café Eden》について」をご参照下さい)にて日本にフォーカスした「リトル・ジャパニーズ・ナイト」という企画を行うことを思いつきました。日本人が劇場と出会うきっかけになるだけではなく、「Café Eden」で、普段は交わる機会の多くはない難民、ドイツ人、日本人が、国籍の垣根なく交流できる機会になるといいと思いました。
早速「Café Eden」の担当者に相談したところ、快諾してもらって、日時が決まりました。いつもは紅茶やスープを無料でふるまっている「Café Eden」ですが、この日は日本茶を私が淹れて提供することにしました。お茶は、京都の宇治茶を海外へ向けて発信されている「おぶぶ茶苑」に相談し、格安でご提供いただきました。
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〔日本茶体験〕
また、「Café Eden」担当者の提案で、毎月行っている「Cinema Paradise」というミニシアターを上映する企画があり、そのなかで日本の映像系大学や専門学生や若い人が作ったショートフィルムを上映することになりました。
あとはパフォーマンスができたら良いと思い、何かできないかと考えていました。そんな時に、たまたまシェアメイトが出演するデュッセルドルフ日本クラブのオーケストラ演奏会を観に行くことになりました。デュッセルドルフ日本クラブとは、デュッセルドルフに住む日本人のための、文化やスポーツの活動クラブとして歴史ある会で、会員になるとさまざまなクラブに入って活動できる他、日本語の本を集めた図書館や会議室、調理室、サロンなど、日本クラブの施設を利用することができます。
その演奏会は日本人学校の体育館で行われていました。中高校生を含めた約30人がステージに上がって演奏し、客席は見渡す限り200人ほどの日本人やドイツ人、小さな子どもを持つ家族連れも多く観に来ていました。演奏はクラシックの名曲から、日本のポップミュージック、流行の曲など幅広く、体育館は熱気と拍手で盛り上がっていました。
これだけ多くの人が集まっているということに驚きました。プロのハイクオリティな演奏という感じではないですが、とっつきやすく、観る人も楽しめる工夫が凝らされていて、誰もが享受しながら表現することができる文化芸術の豊かさに溢れた演奏会でした。
この演奏会を見たことで、「Café Eden」で何かパフォーマンスを企画するなら、市民団体にお願いしたいと、この考えに賛同してくださった日独混合の和太鼓のグループ「Aman-Djaku」を、日本クラブを通じて紹介していただき、和太鼓の演奏を行ってもらうことになりました。
短い時間の中ではありましたが、日本クラブで広報のご協力をいただくなど、在デュッセルドルフの日本人向けの情報サイトでの広報を行いました。そして当日。たくさんの難民、ドイツ人が「Café Eden」に遊びに来てくれました。 日本茶体験は盛況で、たくさんの難民の人たちが、初めて飲む日本茶に関してたくさん質問をしてくれました。
和太鼓のパフォーマンスは素晴らしく、終わった後は、和太鼓を初めて見た難民の子どもたちが興味を持って近付いて行き、太鼓を叩いてみる時間もあって、とても賑やかでした。
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〔Aman-Djakuの和太鼓パフォーマンス〕
しかし肝心の日本人の参加者はというと……なんと5人にも満たない数でした。劇場に来る際には予約はいらないので、どれだけの人が来るかは未知数でしたが、ここまで日本人が少ないとは思っていなかったのでがっかりしました。
平日の夜の開催だったこと、数週間前に「Japan Tag」という、何十万人も動員する日本文化紹介の大きなイベントがデュッセルドルフであった直後で、イベントへ足を運ぶという気持ちになりにくかったであろうこと、単純に日本人への広報が行き届いていなかったことなど理由はいくつもあると思います。広報についてもっとできたのかもしれない、これでは力を貸してくれた人たちに申し訳ない……と反省していた時でした。来てくれた日本人の知り合いが私に、「知り合いの駐在員の奥さんたちが話していたのを聞いたんだけど、この辺って難民の人が多くて治安が良くないって聞くよ。お金持ちの駐在員の家庭の人たちがこんなところに近寄る訳ないよね。」と何気なく言ったことに、とどめを刺された様な気がして落ち込みました。それぞれのコミュニティとの出会いの場にしようなんて、奢った考えだったのだろうかと悩みました。
一体、私はなんのためにやっているんだろう?一体だれに望まれてやっているんだろうか?
日本人コミュニティへのアウトリーチプロジェクトを自分から提案をしておいて随分勝手な考えだと思います。しかしこの時は、劇場側との意思疎通もうまくいかず孤立していた時だったので、日本人側にも特に必要とされていないという当たり前のことを改めて突きつけられた気がして、プロジェクトについてのモチベーションが大きく揺らいだ出来事でした。
こうしてイベント自体は良かったものの、日本人の集客はさんざんに終わった「リトル・ジャパニーズ・ナイト」でしたが、この頃には芸術監督は他のことに忙しい時期だったので、結果については特に気にされずに終わりました。
「リトル・ジャパニーズ・ナイト」を実施した成果がもし少しでもあるとしたら、本当に少しですが、初めてデュッセルドルフ劇場に足を運んだ日本人がいたことが挙げられるでしょう。その内の何人かが、「テレビやニュースで見るだけだった難民のひとたちと初めて話せたことが印象的だった。」と言ってくれました。また、難民にとっても、初めて日本人と話した機会になったと思います。コミュニティへの働きかけは時間のかかることです。このような取組は失敗を重ねながらも継続的に行うしか価値を持たないと言えるのではないかと思います。
プロフィール ● 弓井 茉那(ゆみい・まな)
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俳優/演劇教育者 http://yumiimana.com/ 京都市生まれ。京都造形芸術大学卒業、座・高円寺劇場創造アカデミー修了。東京・京都を拠点に、現代演劇や児童演劇の俳優活動を軸として、子どもや市民対象のドラマワークショップの企画・進行の活動を行っている。乳幼児を観劇対象とするベイビードラマのシアターカンパニーBEBERICA主宰、演出。2014年〜2016年までSPAC-静岡県舞台芸術センター制作 クロード・レジ演出『室内』に出演し、アビニョン演劇祭など世界7都市でツアーを行った。2014年〜2016年STスポット横浜芸術教育プラットフォーム コーディネーターアシスタント。2017年デュッセルドルフ劇場アウトリーチ担当。同年南アフリカで行われたASSITEJ 世界会議にて、次世代の児童演劇担い手のプラットフォーム『Next Generation』に日本代表として選出され参加。「マレビトの会」プロジェクトメンバー。
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theatrum-wl · 5 years
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【連載】弓井茉那のドイツ劇場研修日誌
第14回(最終回) ドイツ滞在の終わり、そして。
弓井 茉那
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〔写真1 ケープタウンの街を見下ろす山の上から〕
一年間のワーホリビザがまもなく切れる2017年5月、私は自分がどうするべきか考えていました。デュッセルドルフ劇場で行っていた、日本人コミュニティ アウトリーチ・プロジェクト(連載第6回、7回にプロジェクトについて書いています)を、何とか事業として成立させたかったのですが、劇場とのコミュニケーションがうまくいかず、次年度以降継続のきざしは見えませんでした。ちょうど劇場のシーズンが終わる時期だったので、ワークショップや鑑賞会を実施した幼稚園にアンケートを実施し、プロジェクトを終える準備を行っていました。
しかし私はその後の自分のことを決めかねていました。劇場に何らかの形で残れる見込みはない。それでも、学生ビザやフリーランスのビザをとって、ドイツに居続けた方がいいか、もしくは日本に帰国するか、はたまた第3国に可能性を見出すか…。自分が何をどこを選ぶべきか決断できずにいました。
そんななか、南アフリカ・ケープタウンで行われたアシテジ(国際児童青少年舞台芸術協会)の世界会議、そして児童青少年演劇フェスティバルである、『CRADLE OF CREATIVITY 19th ASSITEJ World Congress』にて行われた、『NEXT GENERATION』というプログラムのメンバーに選ばれて、南アフリカ・ケープタウンに3週間ほど滞在する機会を得ました。
 『CRADLE OF CREATIVITY 19th ASSITEJ World Congress』は、児童青少年演劇の国際組織であるASSITEJが、オリンピックのように3年に1度、いずれかの都市で開催する世界会議(19th ASSITEJ World Congress)と、ASSITEJ南アフリカ主導で行われる、国際児童青少年演劇フェスティバルとが同時に開催されたイベントで、2017年はアフリカ大陸で初めての開催地に選ばれた南アフリカのケープタウンで、5月16日〜27日まで行われました。
 この期間には、全世界からの選りすぐりの児童青少年演劇作品が集まって上演されるだけでなく、ASSITEJの世界理事が集まり、さまざまなテーマでカンファレンスが持たれたり、各国の青少年・児童演劇関係者が世界中から集い、ネットワーキングのイベントやワークショップ等の様々なイベントが開催されたりします。
『NEXT GENERATION』はそのなかのひとつのプログラムとして、児童・青少年演劇の若い担い手が世界中から集まり、各自の文化的背景と共に児童青少年演劇における関心、経験、創造課程を分かち合い、児童青少年演劇のための国際的ネットワークの構築を目指すプログラムです。
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〔写真2 Nextメンバー〕
2017年は約300の応募の中から選ばれた、19カ国28名が参加しました。南アフリカ出身者が最も多く10名。アフリカ大陸からは、カメルーン、ジンバブエ、マラウイ、ケニア、ウガンダ、ガーナ、ナミビアから各1名ずつ。その他、アメリカ、インド、カナダ、キューバ、デンマーク、イギリス、韓国、チリ、ロシア、スイス、そして日本から各1名ずつの参加者が集まりました。
フェスティバルの会期中、私たちは、作品をとにかくたくさん観て、感想をシェアしました。また、ASSITEJの会議に一緒に参加したり、ワークショップの時間ではお互いを知るためにプレゼンをしたり、それぞれの持つシアターゲームやワークを共有しました。そして、最後にはパフォーマンスとしてエクスチェンジの成果を発表しました。
『NEXT GENERATION(以下、NEXT)』は、私にとって、同世代の演劇人と国境を越えて出会い、お互いのことを共有することができた、かけがえのない機会になりました。そこで出会ったメンバーと一緒に過ごした時間はわずかでしたが、お互いのこと、お互いの挑戦を無条件に肯定し合い、励まし合える関係性ができました。「世界中に仲間ができた」、というようなポジティブな気持ちになれたことは、悩み・迷いの最中にあった私にとって心強いものでした。
またもうひとつ、南アフリカで忘れられない出会いがありました。 私は自身のカンパニー、BEBERICA(ベベリカ)で2016年から乳幼児とおとなを対象とした演劇作品・ワークショップを制作しています。 フェスティバル期間中、Next のメンバーに誘われて、南アフリカの乳幼児演劇のパイオニア、ジェニー(Jennie Reznek)にインタビューをする機会を得ました。ジェニーは1987年にプライベートカンパニー・マグネットシアター(Magnet Theatre)を立ち上げました。日本では、2012年の「キジ���ナーフェスタ」(現在の「りっかりっか*フェスタ」)で『毎日毎日私は歩く』というアフリカ難民についての作品を上演しています(偶然にも私はこの作品を見ていました)。
ケープタウンの、治安の良くないと言われているエリアに、マグネットシアターの劇場はあります。倉庫を改修して作ったという劇場は、広くて、味がありました。ブラックボックスの劇場、ロビー、事務所も、劇場に必要なものは全てありました。マグネットシアターは、良質の児童向け作品の制作も行っていますが、素晴らしい社会活動も行っています。
貧富の差の激しいケープタウンでは、放っておけば非行に走ってしまう青少年が少なくなく、彼らのほとんどは何らかの事情で大学などの高等教育機関まで通うことができません。そんな青少年たち20人に、2年間に及ぶ舞台芸術のトレーニングと雇用創造のプログラムを2008年から提供しています。プログラムは月曜日から金曜日の9時から16時まで。トレーニング料は全て無料。また、ほとんどの若者が劇場に来る交通費を捻出することさえ難しいため、2年の間は、交通費とその日の食事が賄える手当を支給します。身体表現、声楽、演奏などをジェニーや劇場のディレクター・俳優たちが指導します。
このプログラムにより、まったく演劇や芸術に興味を持っていなかった若者たちが、プログラムが終わる頃にはすっかり演劇に楽しみを見出し、これまでの卒業生の内の23人が芸術を学ぶために大学に入学しました。その他の70%ほどは、技術者や制作者、俳優として、演劇業界に就職したとのこと。その内8名がマグネットシアターで働いています。
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〔写真3 プログラムの風景〕
ジェニーは海外のフェスティバルで、良質な乳幼児演劇を見たことがきっかけで、2014年から乳幼児演劇の取り組みを始めました。2015年には、アイルランドのカンパニーを招聘し、南アフリカで初めての乳幼児演劇を上演したそうです。
また、マグネットシアターではあかちゃんを持つ母親たちの交流の場となるよう、『Baby bank』という取り組みを毎週行っています。子育て中の母親が孤立してしまうのはケープタウンでも同じで、そのような母親たちに声を掛けてあかちゃんを連れて来てもらい、母親たちにお茶や本を自由に読める場所を提供し、リラックスして他の母親と交流を持てるような時間をつくる。その間、あかちゃんは劇団員が面倒を見ながら、クリエーション中の作品で試していることを見せてあかちゃんの反応を確認する。まさに一石二鳥のこの取り組みのおかげで、2016年にはマグネットシアターで3本の乳幼児向け作品ができました。
乳幼児演劇は新しいものであるがゆえに周囲の理解がなく、財源の確保なども初年度はうまくいかなかったとのこと。私がBEBERICAで乳幼児演劇に取り組んでいること、日本での乳幼児演劇の実践も発展途上であることを話すと、ジェニーは私の目を見てゆっくりと、「いろいろ大変なことはあるだろうけど、自分がいいと思ったものを作って、進み続けてね」と言ってくれました。うまく言葉では言い表せないのですが、そのことに何だか無性に胸を打たれ、勇気づけられました。
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〔写真4 ジェニーとNextのメンバーと、マグネットシアターにて〕
ジェニーの話を聞いて、その熱が冷めやらないまま、Nextのメンバー2人とランチをしました。その時に、ふと頭に浮かんだこと……ゆくゆくは自分の地元・京都に、児童演劇に特化したアートスペースを持つことができないかという思いつきを2人に話しました。実はこれは、今まで一度も考えたことがないことでした。ジェニーにすっかり感化されて、思わず自分の口をついて出た思いつきに自分自身が一番驚いていたと思います。しかし一方で、なぜ今までそのことを思いつかなかったのだろう、思いついても良さそうなものだったのにというしっくりくる感じもありました。
とは言え、まったく具体性のない思いつき。それを人に話してしまったことの恥ずかしさのような後ろめたさのような、相手に何と言われるのだろうという不安などが入り交じった気持ちを味わっていると、Nextのメンバーが驚きの表情を示しながら口を開きました。「マナ!それってすごく良いアイディアよ!!絶対やるべき!!」そう言って私の話を聞いていた二人は、私以上に興奮して盛り上がり、「これをこうして、だれだれに相談して、で、これはこうして…」と早くもいろいろなアイディアをくれたのでした。
「マナ、大変かもしれないけど、とても素敵なアイディアだから、あなただったら絶対やれるわ」
そう言って、まるで自分のことのように目を輝かせてくれた二人がおかしく愛おしく、わたしはとてもワクワクする気持ちでいっぱいになりました。
ドイツの滞在ビザが切れる直前で、これからどうするべきかさっぱり分からなかった私にとって、このときのことは、自分のこれからを決める印象的な出来事になりました。私はこの出来事のおかげですっかり勇気づけられ、日本に帰国することを、そして10年ぶりに地元・京都に帰ることを決意しました。おそらく、マグネットシアターでジェニーの話を聞くだけでは、この重要な決定には至らなかったと思います。
こうして南アフリカからドイツに帰って、難民の青年との演劇プロジェクトに出演のため、劇場から就労ビザを出してもらって滞在を延ばし、日本人コミュニティ アウトリーチ・プロジェクトの報告書をまとめて、劇場の芸術監督や同僚、お世話になった人々に挨拶をして日本に帰国しました。
ドイツに滞在した約一年の時間は、振り返ると発見と驚きと喜びと孤独と悔しさと無力感に満ちた特別な時間でした。日本では出会えなかった人に出会うことができて、日本では感じることのできなかった感情に気付く経験がありました。願わくば、ドイツにはいずれ演劇人として帰って来たいなと思います。
これを書いている今現在、私は地元の京都にいます。アートスペースを作るという目標はまだ叶えられていませんが、BEBERICAでの乳幼児演劇の活動を発展させ��がら、いずれ場を持てるように日々模索しています。また、ドイツや南アフリカで出会った人たちとの親交やネットワークを発酵させていけるように、力をつけていかなければと思っています。
この回で『弓井茉那のドイツ劇場研修日誌』は終わります。稚拙な文章だったかと思いますが、約一年半の連載を読んでくださって有難うございました。 いつか機会があれば、感想をうかがえると嬉しいです。
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〔写真5 デュッセルドルフの名所、ライン川とラインタワー〕
プロフィール ● 弓井 茉那(ゆみい・まな)
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俳優/演劇教育者
http://yumiimana.com/ 京都市生まれ。京都造形芸術大学卒業、座・高円寺劇場創造アカデミー修了。東京・京都を拠点に、現代演劇や児童演劇の俳優活動を軸として、子どもや市民対象のドラマワークショップの企画・進行の活動を行っている。乳幼児を観劇対象とするベイビードラマのシアターカンパニーBEBERICA主宰、演出。2014年〜2016年までSPAC-静岡県舞台芸術センター制作 クロード・レジ演出『室内』に出演し、アビニョン演劇祭など世界7都市でツアーを行った。2014年〜2016年STスポット横浜芸術教育プラットフォーム コーディネーターアシスタント。2017年デュッセルドルフ劇場アウトリーチ担当。同年南アフリカで行われたASSITEJ 世界会議にて、次世代の児童演劇担い手のプラットフォーム『Next Generation』に日本代表として選出され参加。「マレビトの会」プロジェクトメンバー。
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theatrum-wl · 6 years
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【連載】弓井茉那のドイツ劇場研修日誌
第10回 難民の青年たちとの演劇プロジェクト(2) 弓井 茉那
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難民の青年たちとの演劇作品のクリエーションは、デュッセルドルフ劇場が新しく作った、市民プロジェクト専用劇場の稽古場で行っていました(プロジェクトの概要は前回の記事「第9回 難民の青年たちとの演劇プロジェクト(1)」をご覧ください)。
メンバーの難民の青年たちとも、回を重ねるごとに少しずつ打ち解けて、お互い拙いドイツ語と、人によっては英語を使って話をする機会も増えてきました。
私がまだワークショップに参加したばかりのある日、帰り道に、アフガニスタンからやって来た最年少の14歳の女の子、ザーラと話をする機会がありました。
「どうやって日本からドイツに来たの? 飛行機で来たの?」と聞かれて、「そう、乗り換えもして20時間くらいかかったかな」と私が答えると、「いいねぇ。私は歩いて、2ヶ月もかかったよ!」という言葉が返ってきました。 ドイツまでアフガニスタンから歩いてここまで来た、ということは情報としては既に知っていたことですが、彼女の口から改めて聞くと、自分の恵まれた境遇に対して無性に申し訳なさを覚えました。
ワークショップに参加したメンバーで女性はザーラだけでした。のちにバウツェンで行われるフェスティバルでも、ヒジャブを巻いた女性の姿はほとんど見られませんでした。イスラム教の考え方から、女性が男性と一緒に何かを行うことは良くないこととされるようで、彼女の両親もザーラがこのプロジェクトに参加することには反対でした。また、演技やカーテンコールで男性と手をつなぐなどの身体的な接触はできないとのことだったので、ザーラと男性の間には必ず女性メンバーが誰か立つように配慮していました。
彼女はアフガニスタンから両親と弟とドイツにたどり着いて、一緒に暮らしています。ドイツ語の習得に苦労をしている両親と、まだ幼い弟のなかで、一番ドイツ語ができるという理由で14歳でありながら家族の大黒柱となって、難民申請などのさまざまな手続きをやっているとのことでした。 彼女はこのプロジェクトを誰よりも楽しんでいて、演劇に日に日にのめり込んでいくのが分かりました。
今回のプロジェクトでザーラが書いたテクストに「早くドイツ人になりたい」とあったことが印象的でした。 「勉強して、ドイツ語ができるようになって、ドイツ人になりたい。ニュースで、アフガニスタンに強制送還させられている人がいることを目にすると、自分たち家族にもそんなことが起きるんじゃないかと不安になる」。
私はこのテクストを彼女が読み上げるのを聞いたとき、驚き、複雑な気持ちになりました。私ならどうだろう。私は今まで日本国籍を捨てて、他の国の国籍を持ちたいと思ったことがありませんでした。いや、日本にいた時は日本人であることが当たり前のことで、そんなことは考えたこともありませんでした。しかしそのくせ外国に出れば、日本のことを聞かれると嬉しかったし、聞かれれば、特に詳しくもない能の説明を意気揚々としましたし、安っぽいアイデンティティがムクムクと湧き上りました。ドイツという外国のなかで、私は日本人でした。それしかすがるものが無かったのだと思います。私から「日本人であること」をとったら…? そう考えると心許なくなります。しかしもし「日本人のままではここでは生きられない」と迫られたら?と考えると、ザーラのテクストが抱える複雑な感情を想像しました。 「ドイツ人になりたい」そう語る彼女はしかし、ヒジャブを巻き、イスラム教の考えをとても大切に守っていました。14歳のザーラのなかでは、アフガニスタン人である自分と、ドイツ人にならないとこの社会で生きられないと分かっている自分とが同時に存在しているように見えました。
ドイツでは、「庇護手続迅速化法」の「滞在法」のなかで、難民申請者の、ドイツ語の講習が義務付けられています。難民申請者がドイツ語やドイツの法律、歴史等を学び、ドイツ社会への統合を目指すことは、政府の難民政策の基本的な立場です。
統合のひとつとして、2016年に与党の州内務大臣が発表した「ベルリン宣言」のなかでは、ブルカ(主にアフガニスタンの女性が身につける全身を覆う衣裳)の着用で全身を覆うことは、女性軽視の象徴として、女性の人権と尊厳に矛盾するものであり、統合の妨げになるとし、着用の禁止の提言がなされました(しかし内務大臣の「憲法上問題がある」との認識から、ブルカ着用の全面的な禁止はしていません)。
ドイツが難民の統合にここまで厳しい背景には、ここ数年ドイツ内で頻発している、欧州の反イスラム化を謳うデモなどの運動、その影響を受けたと指摘されている、難民襲撃事件が頻発したことがあります。そして、極右政党「ドイツのための選択肢」の選挙での躍進もありました。難民大量流入後の「難民危機」を受けて、統合についての法整備が急いでなされた背景があり、社会の雰囲気としても難民にドイツ社会への統合を求める機運が高まっていた様に感じました。
そういった政策や法律や社会の雰囲気が変わりつつあるそのなかただ中に生きて、ザーラを始め私が出会った難民の青年たちの多くは一刻も早くドイツ社会に馴染めるように言語習得の努力をしていました。もちろん、彼らのなかにも様々なスタンスの違いがありました。演劇プロジェクトのメンバーのなかには、「家や全財産を売って家族全員でドイツに逃げて来た。でもいつか、ことが収まって状況が改善したら祖国に帰りたい」と話した人もいました。
私は難民ではありませんが、ビザを取得するために何度も外国人局に通うなかで、日常生活のささいな場面で、ドイツ語が話せない自分に後ろめたさを感じ続けました。外国に暮らす上では当たり前の話かもしれませんが、のびのびとはいられない、外国人として生きることはそういうものなのだろうと分かっていながら、私でさえ気持ちが揺れていたので、私よりもっとハードな状況に置かれた彼らの気持ちを想像しました。
次回は、プロジェクトを通して感じた、難民とともに生きようとするドイツ社会について、そのことの難しさについて書けたらと思います。
プロフィール
● 弓井 茉那(ゆみい・まな)
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俳優/演劇教育者 http://yumiimana.com/ 京都市生まれ。京都造形芸術大学卒業、座・高円寺劇場創造アカデミー修了。東京・京都を拠点に、現代演劇や児童演劇の俳優活動を軸として、子どもや市民対象のドラマワークショップの企画・進行の活動を行っている。乳幼児を観劇対象とするベイビードラマのシアターカンパニーBEBERICA主宰、演出。2014年〜2016年までSPAC-静岡県舞台芸術センター制作 クロード・レジ演出『室内』に出演し、アビニョン演劇祭など世界7都市でツアーを行った。2014年〜2016年STスポット横浜芸術教育プラットフォーム コーディネーターアシスタント。2017年デュッセルドルフ劇場アウトリーチ担当。同年南アフリカで行われたASSITEJ 世界会議にて、次世代の児童演劇担い手のプラットフォーム『Next Generation』に日本代表として選出され参加。「マレビトの会」プロジェクトメンバー。
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【連載】弓井茉那のドイツ劇場研修日誌
第7回 日本人コミュニティ アウトリーチプロジェクト(2) 弓井 茉那
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〔日本人街にある日本寺、惠光寺。日本文化を紹介する文化センター、幼稚園が併設されている。幼稚園では鑑賞会を実施した〕
前回の記事では、デュッセルドルフで日本人コミュニティへのアウトリーチ・プロジェクトを始めることになったきっかけと概要を書きました。今回は具体的に、何をやったかを書きたいと思います。
5箇所でのヒアリングの結果を経て、最終的には3つの幼稚園で演劇活動を実施できることになりました。そのうち内の2つは、園が劇場に来ることが難しいので、私が園に赴き、演劇ワークショップを行いました。あと1つは劇場に子どもたちを連れて来ることができるということだったので、劇場での鑑賞会を企画しました。
ワークショップを行うことになった幼稚園の内のある園では、担当の先生と相談し、ワークショップで何をやるのかを決めました。最初にワークショップを行った幼稚園では、保護者参観のなかの1コマを使って、演劇ワークショップを行いました。年少から年長までの子どもが一緒に活動を行う少人数制の幼稚園でした。ワークショップでは、普段の園での活動グループごとにシアターゲームを行ったり、参観に来ていたお母さんたちにも参加してもらって、子どもたちにみんなの思うデュッセルドルフの街を身体で作ってもらいました。園児たちは、お母さんと一緒にやる演劇体験をとても楽しんでいたと思います。 実施後の振り返りの時間では、幼稚園の先生たちから、演劇ワークショップを通じて、園で普段しない活動ができたこと、お母さんたちに園児のさまざまな様子をみてもらえたことがよかったという声が上がりました。
もうひとつの幼稚園では、年少・年中・年長に分けて、合計3回の演劇ワークショップを行いました。昔話や絵本の話を、私が語りながら演じながら、要所要所で、「もし自分が主人公だったらどうする?」と園児たちに投げ掛けて、考えてもらったり、自分が主人公になったつもりで物語の一場面を演じてもらいました。
鑑賞会をすることになった幼稚園には、劇場のレパートリー作品を紹介し、鑑賞する作品を選んでもらいました。鑑賞会で見る作品が決まると、チケット手配(チケットは園の購入で、園は保護者からチケット代を徴収)や日時の調整、保護者に渡す作品の説明資料の作成などを行いました。 鑑賞会当日には60人の園児と幼稚園の先生や研修生の7人が劇場に来てくれました。演目は、『アダムの世界』(グレゴリー・カエース演出)という2歳から観劇可能な、ノンバーバルの児童演劇作品でした。主人公のアダムが自分の精神世界を旅して、アマゾンや海の中などを冒険するお話です。
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〔『アダムの世界』劇場webpageより〕
ノンバーバル作品とは言え、日本の児童演劇とはテイストが違うので、楽しんでくれるか多少の不安もありました。しかし、始まったら私の心配なんて何のその。子どもたちは楽しそうにゲラゲラ笑って、最後まで飽きることなく集中して見ていました。思わずガッツポーズをした瞬間でした。 園からの要望があり、終演後はバックステージツアーを行いました。『アダムの世界』の物語に関連付けて、劇場の事務所で働いている人たちをアマゾンの動物に見立てたり、階段を冬山に見立ててみんなで寒がりながら登ったり、舞台裏のブルーライトが灯っている通路を海の中に見立てて泳ぎながら通ったり……というようなツアーをファシリテーションしました。子どもたちは作品鑑賞のみならず、劇場に来るという非日常の体験自体を存分に楽しんでいる様子でした。 劇場に子どもを連れて来ることができなかった二つの幼稚園には、公演の広報協力をお願いしました。劇場公演の案内チラシを日本語で作成して、園に置いて貰ったり、希望者にはチケットを用意したりするなど、劇場での観劇がより身近に感じられるようにしました。
ワークショップや観劇会を実施することができた幼稚園ではこうしたアウトリーチの取り組みは概ね好評でした(全て一人で進めていたので、実施が重なった時はてんてこまいになってしまったことや、私の専門である演劇しか提供できるものがなかったなどの反省点はありましたが)。劇場からの要望である、アウトリーチ活動を通して劇場に来てもらう観客を増やすという点は課題として残されています。
デュッセルドルフ劇場からワークショップなどのアウトリーチ活動をしに行く時は、学校や幼稚園からはお金はとれません。劇場からアウトリーチをしに行く時の予算はどこから持ってくるかと言うと、プロジェクトごとに財団等からの助成金を獲得するか、もしくは劇場の予算の範囲内で実施するかのどちらかになります。劇場はアウトリーチ活動に、劇場に来てもらう観客を増やすという広報的役割を期待しています。
日本人コミュニティに対するアウトリーチ・プロジェクトで、幼稚園全体での鑑賞会を開催できたことは劇場から高く評価されました。その次の段階として、100人の日本人を劇場に集めて、食事会を行おうというアイディアが芸術監督から出ました。 100人の日本人を劇場に呼び込むのは難しいように思いましたが、日本人にとって劇場に来るきっかけが必要だと思いました。何か気軽に来れるイベントができないかと考えて、それでは、と「Café Eden」で日本フィーチャーのイベント『リトルジャパニーズナイト』の企画を提案し、実施することになりました(「Café Eden」については第4回「全ての市民の広場、《Café Eden》について」をご参照下さい)。しかし、この『リトルジャパニーズナイト』は集客という点で大失敗に終わることになったのです。 次回は、この苦い経験についてお話しします。
プロフィール ● 弓井 茉那(ゆみい・まな)
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俳優/演劇教育者 http://yumiimana.com/ 京都市生まれ。京都造形芸術大学卒業、座・高円寺劇場創造アカデミー修了。東京・京都を拠点に、現代演劇や児童演劇の俳優活動を軸として、子どもや市民対象のドラマワークショップの企画・進行の活動を行っている。乳幼児を観劇対象とするベイビードラマのシアターカンパニーBEBERICA主宰、演出。2014年〜2016年までSPAC-静岡県舞台芸術センター制作 クロード・レジ演出『室内』に出演し、アビニョン演劇祭など世界7都市でツアーを行った。2014年〜2016年STスポット横浜芸術教育プラットフォーム コーディネーターアシスタント。2017年デュッセルドルフ劇場アウトリーチ担当。同年南アフリカで行われたASSITEJ 世界会議にて、次世代の児童演劇担い手のプラットフォーム『Next Generation』に日本代表として選出され参加。「マレビトの会」プロジェクトメンバー。
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1927年に権力者になった蒋介石は宣教師たちを蔑んでいた。
 しかし、ある時から自身が洗礼を受け、宣教師たちを擁護するようになる。それは自身の保身のための策略であった。
 ドイツの将軍を軍事顧問に迎えて万全の防御態勢を固めた上海戦で敗北すると、「宣伝戦」に切り替える戦略を採用する。孫子の兵法で称揚されているもので、自国の立場を有利にするプロパガンダ作戦である。
 蒋介石はそのための組織を1937年11月に整えるため、国民党中央党部と国民政府軍事委員会を改組して中央宣伝部を組織する。
 これは、上海戦で敗北し、南京への追撃戦が展開されている時であり、軍事力に代えて、「タイプライターで闘う」戦術への転換である。
 宣伝部副部長には米国の大学を卒業し、新聞編集にも長じた董顕光を当てる。留学以前にはわずかな期間ながら、蒋介石の英語教師をしたこともあり、戦後は台湾の駐日大使となる。
 また、宣伝部の下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処を設け、その処長には大学教授で文学者の曾虚白をあてる。
 国際宣伝処の本部は重慶(南京後の国民政府の首都)に置くが、上海と香港に支部を開設、昆明や米英加豪墨印星(シンガポール)の首都か大都市に事務所を設ける。
 特に米国ではワシントンのほかにニューヨークとシカゴにも事務所を構えた(北村稔著『「南京事件」の探求』、以下同)。
 国際宣伝処は蒋介石に直属して各地の党機関と政府機関を管轄して活動する。本部、支部、事務所がそれぞれに刊行物を出し、通信社も設立する。
 宣伝に信憑性をもたせるために処長が採用した方策は、「中国人は顔を出さずに手当てを支払うなどの方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的手法」である。
 この国際友人として働く中心的な人物が、オーストラリア人の元ロイター通信記者で、当時は英国のマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員のティンパーリー(中国名・田伯烈)である。
蒋介石の国民党・国民政府の顧問になり、「百人斬り競争」の武勇伝や「怒濤のごとく南京城内に殺到した」などと日本の新聞が報じると、これらを取り込み「日本軍の悪行」に歪めて『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)をロンドンで上梓する。
 中国語版の『日軍暴行紀実』が同時並行して出る手際の良さは宣伝網が有効に機能していたことを示している。
 また、ティンパーリーからの話を受けて、金陵大学教授で安全地帯国際委員会委員でもあったスマイス(中国名・史邁士)が南京戦で日本軍が与えたとする被害状況『南京戦禍写実』(通称「スマイス報告」)を著述する。
 いずれも1940年のことで、「両書は一躍有名になった」というが、蒋介石政権の威信をかけた宣伝戦であり、当然であろう。
蒋介石の米国世論操縦策
 日中戦争時の1939年4月から12月まで重慶の国民党国際宣伝処で働き、のちにピュリッツアー賞も受賞するセオドア・ホワイト(中国名・白修徳)は回想録『歴史の探求』で、蒋介石の米世論操縦について明かしている。
 米国への接近は米国で教育を受けた蒋介石夫人の宋美齢が、夫を説き伏せてメソジストに改宗させたことから始まるという。
 そして主要な部長(閣僚)、たとえば財務部長(オバーリン大・エール大卒)、外交部長(エール大卒)、教育部長(ピッツバーグ大卒)、情報部長(ミズーリ新聞学校卒)は米国の大学卒で、政府内の米大学出身者を数え上げたらきりがなかったという。
 そうした中でも、各国に派遣された大使の面々は、圧倒的に米国の名門大学卒業生で、ワシントンにはコーネル大・コロンビア大卒、ロンドンにはペンシルバニア大卒、そしてパリにはコロンビア大で3つの学位を取得した顧維鈞を任命していた。
 顧維鈞は国際聯盟で日本非難の演説を行った人物で、息子もハーバード大に在籍しているのを自慢にしていたという。
 また、中国銀行頭取(ハーバード大卒)、司法院長(コロンビア大・カリフォルニア大卒)、国家保健監督官、海外貿易委員会、塩務署など中央機関のトップも多くが米国の大学出身者が占めていた。
 ハーバード大学を1938年秋に最高学位で卒業したホワイトは、世界旅行の給費を受け、ロンドンを皮切りに、パリからスーダンやパレスチナ、インド、シンガポールなどを旅して、39年初めの数カ月間を上海で過ごす。
上海を根城に北京にも出かけ、また日本軍のスポークスマンに取り入り、満州も旅行する。
 英米人などに牛耳られた上海では工場労働者の少女たちが日に何人もごみの山に捨てられている状況も見てショックを受ける。
 いままでに見たこともない不条理が記者になる決意をさせ、4月から重慶の蒋介石政権の宣伝員に繋がる。
 自身のハーバード大の学位はボストンよりも中国でずっと意味があり、「中国ハーバード・クラブを結成したが、会員にはジョン・F・ケネディ(大統領)がワシントンでハーバード・クラブを作ってもこうはなるまいと思えるほど、蒋介石政府高官の割合は大きかった」と述懐している。
 米国の学歴を持つ中国高官が多かったのは、ホワイトには「好都合な人脈であったが、中国国民にとっては大いなる悲劇であった」と冷静である。
 立派な英語を話す政府高官たちではあったが、「自国の民衆とは異質の存在で、民衆に対する理解を―重慶という古都についての理解さえも―欠いている」ので、「中国で何が起きているのか」さえ知らないと手厳しい。
 ホワイトは蒋介石に最初は尊敬と称賛の念をもっていたが、「次第に憐れみを感じ始め、最後は軽蔑するようになった」という。
 それでも「私はアメリカの世論を操るために雇われたのだ。日本に敵対するアメリカの支援は、政府が生存を賭ける唯一の希望だった。アメリカの言論を動かすことは決定的(に)必要なのだ」と述べる。
 当時のホワイトは、軍国主義日本に対する中国政府は正義という認識に立っており、「アメリカの言論界に対して嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだということをアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、それは必要なことだと考えられていた」と明言している。
報道の真実性
 ホワイトは国際宣伝処で「自身が脚色した」戦時報道の実例を2つ挙げている。
 一つは、日本軍に占領されていた浙江省のある所の劇場で、日本軍兵士が観劇中に蔡黄華(ツアイ・フアン・フー)という中国人女性が手榴弾を投げ込んで数人を殺し、無事に逃げおおせたという中国語の記事を目にしたことである。
 ホワイトは文字から忠実に「ミス・ゴールデン・フラワー・ツアイ」とし、「ゲリラの首領、中国抵抗戦士団の巴御前」と英語に翻訳し、少しだけ脚色したというのだ。
 すると、ニューヨーク・タイムズ特派員のダ―ディン記者を除き、通信員たちは飛びつき、各通信員の本社���らは写真を要求してきたという。
 そこで情報部の同僚が、腰に二挺拳銃を下げた若い中国人女性の写真を提供すると、彼女は「二挺拳銃のゴールデン・フラワー嬢」となる。
 通信員たちはますます情報を欲しがり、情報部は気前よく彼らの要求に応じ、数カ月のうちに「ゴールデン・フラワー」ツアイは、蒋介石夫人に次ぐ抵抗運動のヒロインになったというのである。
 リライトマンの手にかかった彼女の偉業は、米国で伝説となり、ホワイトがタイム誌の極東部長になっていた3年後には、タイム誌で取り上げたらどうかとの提案が持ち上がり、作り話の張本人であったことを白状しなければならなくなったというのである。
 もう一つは難民と彼らの苦難についての記事で、1937年から38年の漢口陥落までの14か月間に、国民救済委員会は難民キャンプに2500万食配ったというものである。
 ところが「どうしてか間違って」、記事では「統計によると中国が抵抗を始めた最初の数年間に日本軍侵略者の手を逃れてきた人々の数は、2500万人にのぼる」となってしまったという。
 数字は海外に伝送され、新聞社の資料に残り、雑誌の記事に使われ、日中戦争の学術的数値となって何度も現われ、「すでに歴史の一部となってしまった」と述べる。
 実際は「二百万あるいは五百万だったかもしれない」が、「二千五百万という数字がほとんど全ての歴史書にしっかり残っている」ので、「日本軍による混乱を(正しくは)誰一人知ることはないだろうと悟った」と自省している。
 誰も否定できない「嘘」の独り歩きは、「南京大虐殺」の構図を想起させる。
中国における米国人宣教師たち
 1931年に上海副領事として赴任し、第1次上海事変を体験した米外交官のラルフ・タウンゼントは、その後福建省副領事となるが33年に帰国すると外交官を辞する。
 そして、中国の真実が外部世界に伝わっていないとして著述したのが『暗黒大陸 中国の真実』である。
 中国に住んでいる外国人で中国の国情を把握しているのは宣教師、民間事業家、そして領事館員や外交官等の政府役人であるが、宣教師は事実が知られると援助が打ち切られる危惧を持ち、事業家は不買運動を恐れ、政府役人は外交辞令的なことしか言えないわけで、一種の「箝口令ともいうべきものが敷かれる」結果だという。
 3年の外交官生活でしかなかったが、新聞記者と大学教授をそれぞれ3年づつ経ての外交官であり、他方で書籍を通しての中国しか知らないで赴任したことや好奇心が旺盛であったことなどから、「中国の真実」が全く伝わっていないことを痛感し、その現実を宣教師と事業家と政府役人の在り様に見つけたのだ。
 全10章のうち大部は中国人と中国の実情、そして阿片に費やし、日本(人)と中国の関係などもあるが、中でも宣教師と布教については2つの章を割いて実例を挙げて「糾弾」ともいえる記述をしている。
 事業家や政府役人は概ね都市部に所在するが、宣教師は啓蒙などの使命から、辺鄙なところに所在し、危険なところなどにも出かけたりして、中国の実体を事業家や政府役人より詳しく知っているからである。
 他方で、米国では富める人も貧乏な人も分に応じた寄付をすすんで行うのは、それが有効に使われているという認識に立っているからであるが、中国での布教は不毛の歴史であったし、いま(当時)の布教活動の実態は国民の期待に沿うようなものではないとバッサリ切り捨てる。
 カトリックやプロテスタントを問わず、ミッション・スクールには米国から多大の金が投入されているが、聖職者になるのはほんのわずかでしかない。宣教師が中国人の孤児を育てても、成人して泥棒の親玉になって育てた宣教師を狙う話なども書かれている。
 宣教師の敷地を貸したら、ついには住みついて、返却を要求しても逆に損害賠償を請求される状況であるという。
 こうした事例をいくつも挙げ、他にも理解できないようなこと、理不尽なことが数え切れないほどあるが、ともかくこうした実態は何一つ本国、なかでも支援者たちに全然伝わっていないし、事実は全く逆のことになっているという。
 タウンゼントは上海や福建省で見た宣教師を主体に論述しているが、南京の宣教師たちも日本軍を悪者にする嘘を捏造してでも報告するのが中国(蒋介石政権)を助ける道という意識が通底していたと思われる。
 だからこそ、南京の宣教師たちは、日本軍兵士が行ったとする掠奪、強姦、放火(これらも中国敗残兵によるものが多いとみられるが)などを大虐殺に仕立てる蒋介石のプロパガンダ作戦に進んで協力したのだ。
宣教師による米国内の宣伝行脚
 国民党・政府の意を受けて大活躍するのはティンパーリーである。
 日本の罪行を告発する『WHAT WAR MEANS』を著述する前から、国民党外交の主目的である米国への工作を推進する。
 南京安全区国際委員会委員で国際赤十字委員会委員長でもあったアメリカ人のジョン・マギー牧師が撮影した金陵大学病院で治療中の民間人負傷者を示す16ミリ・フィルムが宣伝に活躍されることになる。
 ティンパーリーは米国人のジョージ・フィッチが持参したこのフィルムを見て、一計を案じる。フィッチはYMCA理事で、教会の関係者として、またロータリー・クラブの会員など交友範囲が絶大なことから、全米の宣伝マンにする発想である。
 「ハル(国務長官)からはきっと会見を申し込まれるだろうし、もしかすると、大統領(ルーズヴェルト)とも会うようなことになるかもしれません。彼のワシントン行きは、将来アメリカの中国政策にとって重大な意義をもつようになるでしょう」(北村著)とまで述べている。
 実際にマギーのフィルムをもって渡米したフィッチがたどった道を眺めてみよう。
 1938年1月19日、日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに南京から上海へ行く。
 このとき、虐殺場面を撮ったとされるネガ・フィルム、8リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)をオーバーの裏地に縫い込んでいたため、「少し気を遣った」という。
 上海では直ちに複写するためにコダックの営業所に行き、4セットを作成する。
 フィッチは約5週間滞留しており、ティンパーリーに会い、米国での面会者などの根回しをしたに違いないが、ティンパーリーのことも、滞在間に何をしたかについても一切言及していないとされる。
 2月25日に上海を立ち、香港を経て広州からハワイに飛ぶ。ホノルルでは「ある中国人グループと食事をし」、次のサンフランシスコでは中国総領事に会い、「中国人の友人」も交えてチャイナタウンで会食する。
 さらに「ロサンジェルスなどで持参のフィルムを交えた2、3の講演会を行った」という。
4月18日、ワシントン着。国務長官や大統領には会えなかったが、国民政府の米国大使・王正廷に会い、また旧知のホーンベック国務省次官(彼は反日親中の中心人物)の斡旋で中国に関係の深い米国人の要人たちに面会し、下院の外交委員会、戦時情報局、新聞記者団に件のフィルムを見せている。
 その後、ニューヨークに赴き、6月に中西部を経由して7月に再び西海岸に戻り、サンフランシスコで講演する。
 このとき、会場にいた唯一の日本人から「脅迫に近い抗議を受けた」とされる。北村氏は、この頃に日本側もフィッチの反日的言動をマークし始めていたとみる。
 フィッチはこのあと再びニューヨークに戻るが、やがて体調を崩して入院。11月10日に西海岸のロングビーチから中国への帰途に就く。
 「フィッチのアメリカでの活動は文字通りの大旅行であり、多額の資金と周到な計画を必要としていた。これら全てが、国民党国際宣伝処によりアレンジされたことは容易に想像がつく」と北村教授は述べる。
当時の日本側の見方
 『スマイス報告』は、昭和15年、興亜院(1938年に設置され、42年に大東亜省に吸収)に勤務していた吉田三郎氏が上海に調査に行き、同所でアメリカ長老教会のミリカン夫人を知り、同夫人から紹介された金陵大学のベイツ教授から説明を受けた時に入手する。北村教授の前掲書中の「『スマイス報告』の徹底的検証」から、当時の日本がどのように見ていたかが分かる。
 吉田氏は「こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、いわゆる科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく見ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」と報告を見抜く。
 その理由として、「南京地方における損害の統計を作る場合に、(中略)火災の場合についていえば、支那軍が逃げる時に放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。・・・これで見ると皆日本軍がやったことのように見えるのです。斯様に巧妙なる科学戦争というものが世界中に、この機関を通してまかれている事実を見た」というように、的確に指摘している。
 また、ベイツ教授は「今度の戦争による被害が支那全体でどの位あるかということを書いたものですが、それを是非読んで貰う必要ある」として「WHAT WAR MEANS」を紹介する。吉田氏は上海の書店で入手する。
殺人競争の章を見て、「材料は日本の新聞から取ってありました。何々少尉武勇伝という記事がそのまま載せてあったのであります。そういうように新聞記者が日本の文献その他日本側に不利な情報を編集してできているのがこの本でありまして、かような排日的な宣伝文書は外国人の間に多く読まれている」として危惧する。
 ミリカン夫人にこのことを話すと、「ぎょっとして『あれはあまりよい本ではない。あの書物は熱を以て書かれているのだから、歴史家があれをそのまま談じては困る。あなた方は歴史家であるから、もっと客観的にものをみなければならない。・・・ああいうものが全部であると思われては困る』と言って居りました」と、外国人でも疑問視していたことを指摘している。
 「その書物を見ますと、日本の官憲の或る部分はこの書物を出すことを支持していると書いてある。・・・恐らくそれは嘘だろうと思います。この書物による利益は皆赤十字社に寄贈すると書いてある。なかなか上手に出来ています。かような種類の本がどんどん売れているのですから全く困ったことです。日本の左翼の人がそれを訳すことを許可してくれといって盛んにミリカンのところへ来る」と聞いたと述べる。
おわりに
 当時の日本人の方が賢明ではなかっただろうか。世間の信用をバックに、戦争に伴う「通常の犯罪」(もちろんないに越したことはない)を「大虐殺」に衣替えさせるのに米国人宣教師たちが大いに関係していたのだ。
 すべては全世界に巧妙に張り巡らせていた国際宣伝処の仕業であったことが今や明確になってきたのではないだろうか。
 日本軍も犯罪は犯した。しかし、それは中国が主張するような人道に悖る何十万人の市民を虐殺するなどではなかった。
 中国は依然として「南京大虐殺」を主張し、拡大流布さえしようとしているが、論点のすり替えや証拠資料としていたものの撤去など、綻びも見えてきた。
 日本は決然と否定することが大切ではないだろうか。
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◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成30年(2018年)4月16日(月曜日)          通巻第5673号  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  孫政才の裁判で再び浮上した温家宝(前首相)一族の闇   段偉紅という謎の女政商が、悪名高きインサイダー取引の裏側で何をしたのか ****************************************  簫建華が香港で拉致されてから一年以上になる。消息はまったく途絶えており、北京に拘束されているのか、或いはすでに消されたか?  中国共産党は拉致の事実さえ認めておらず、香港の主権を侵した事実を消した。この簫建華なる男は「明天証券」という金融の旗艦企業を拠点に、中国市場で、ほとんどのインサイダー取引に絡んだ元締めだった。 しかも簫建華は江沢民派と強い絆で結ばれていた。共産党幹部の子弟らが依拠する太子党のビジネスに深くコミットしてきた。かれの背後にいたのが、米国へ亡命し、盛んに習近平、王岐山らの秘密を暴露している郭文貴であり、その黒幕は江沢民の右腕、曽慶紅である。郭文貴はブレア首相夫妻と親しくなり、英国政界にも深くコミットし、そのコネを利用して中東の大金持ちとも親交があった。  4月12日、突如失脚して拘束されていた孫政才(前重慶書記、政治局人)の裁判が開始された。うなだれて法廷に立った孫は嘗ての栄光の雰囲気は消えうせ、悄然として孫は収賄の罪を認めた。 この裁判で再び浮かび上がってきたのが温家宝(前首相)一族との裏での繋がりであった。温家宝一家の腐敗ぶりは米国のメディアがとくに熱心に取り上げた。夫人は中国の宝石ビジネスの黒幕といわれ、また平安保険の本社ビルの大きな部屋をあてがわれて、多くの利権に絡んだ。息子はインサイダー取引にせっせと手を出していた。  この温家宝一家のスキャンダルを追っていくうちに、突然消えた政商がもう一人いることが判明したのである。 大富豪で実業家を自称する段偉紅女史は簫建華と同じく、拉致されたのか、逮捕拘束されたのか視界から消えて、まったく所在不明となっていた。 この段偉紅(49歳)は個人資産が60億ドルともいわれた。何をしているか分からない投資グループ「開封財団」を率いて、米国の教育関係の「アスペン財団」に多額の寄付をしつつ米国社交界でも有名な存在だった。 彼女は米国などで文化財、骨董などを買い集め、NYとロンドンにも私邸を保有し、謎の女傑政商として、欧米のメディアにもよく登場した。 段偉紅の出世物語も、温家宝一族と絡んでいた。 北京五輪前に不���産開発に乗り出し、北京空港周辺の土地を買い占め、さらには平安保険の株式を上場前に3%取得した。購入金額は6500万ドルだったが、上場後、この株式の時価は37億ドルに跳ね上がっていた。 JPモルガンは中国進出にあたり、この女性を2006年から二年間、どのような役割を担ったのか曖昧な「顧問」として契約し、月給を7万500ドル支払っていたとNYタイムズがすっぱ抜いた(同紙、2018年2月7日)。 こうして簫建華と段偉紅という「行方不明」だった二人の動静が、孫政才の裁判を通じて明らかにされ、二人の裁判も近く始められるとの予測が香港情報筋からあがり始めたのだ。       ○◎▽み□△◎や◇◎□ざ▽◎○き○□□ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   ビットコインの投機的な暴騰、そして直後からの暴落が何を意味するか  仮想通貨は「ネズミ講」が基本スキーム、誰も最後には得をしない「暗号資産」   ♪ 渡邊哲也『今だから知りたい「仮想通貨」の真実』(ワック) @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@  ウォーレン・バフェットは、自らが主催するバークシャー・ハザウェイの年次総会のあと、テレビに出演し「仮想通貨はろくな終わり方はしない」と明言した。  その記憶が鮮明な頃、評者(宮崎)はラオスに取材に行った。首都ビエンチャンの中心地のレストランの看板に「ビットコインの支払いOK」とあって、驚いてしまった。金融システムの未整備なラオスで、しかも自国の通貨が信用されていない国で、はやくも仮想通貨決済が進んでいるとは!  日本政府、中央銀行は仮想通貨の導入に前向きだった。ブロックチェーンの研究と開発、実践化に意外と積極的であり、またメジャーな銀行も大商社と組んで仮想通貨発行に意欲を燃やしていた。  正反対にビットコイン規制に乗り出したのが中国と韓国だった。  韓国は甚大な被害に見舞われ、おそらく北朝鮮のハッカー集団と見られる犯行グループにあらかたの資産を強奪された。中国の場合は、狂信的なブームを前に一党独裁の中国共産党が、人民元の価値が、政府のコントロールの行き届かないところで下落したり、いや大暴落を演じるリスクを恐れたからである。あくまで経済の末端までを管理支配しようとする独裁メカニズムがさきに働くからだった。 さてビットコインを仮想通貨と翻訳したのは印象操作の類いで、英語圏では、これを「暗号通貨」と読んでいる。事実、3月にブエノスアイレスで開催されたG20で、ビットコインを含む仮想通貨を「暗号資産」と呼ぶことになった。 基本スキームは「ねずみ講」である。日本でも安愚樂牧場、トヨタ商事、等々、高利で資金を募って回転資金に回していた詐欺行為の悪例がやまのようにあるが、ビットコインの基本概念も、これと同じと考えて良いだろう。 今後、ビットコインに前向きの姿勢を取るのか、規制を強化するのか、日本の最終的な態度はまだ決まっていない。 日本の財務省はブロック・チェーンの普及に前向きである。この政府の姿勢が曖昧なため、コインチェックをマネックス証券が買収すると報じられるや、後者の株式が異様に上昇するという不思議な現象も市場では起きた。 しかし政治経済学の基礎に戻れば、通貨とは「主権」の問題であり、米国はドル基軸態勢を脅かす仮想通貨を敵視するスタンスを変えることはないだろう。 著者の渡辺哲也氏は、この面妖なる通貨の将来についてこういう。 「通貨としての価値を保証する資産の裏付けがなく、国や公的機関による利用者保護もほとんど期待できず、一日に20−30%の値動きも珍しくない投機性の高い仮想通貨は、ハイリスク、ハイリターンのマネーゲームを煽っている面が強く、それを保有することで、日本国民の多くが得をし、幸せになる要素はほとんどない」  基本を理解する上で、本書はこのうえない参考書である。       ◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇◇   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   ♪ 樋泉克夫のコラム @@@@@@@@ 【知道中国 1717回】          ――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(6)   『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)    ▽ やがて遼陽の地を離れ、「熱い満洲の日を右頬に受けて長春線の線路を歩」み、「愈深く滿洲の廣野と高粱の美を感じ」ながら奉天へ。清朝発祥の地である奉天でも清朝ゆかりの地を歩くが、その多くが「幾世の風雨に曝されて丹朱も剥げ、柱楹も蟲喰み、?金色した瓦も落ちて、いたましい程に草が生へて居る」。ここで再び日本式漢文口調の詠嘆の辞に続いて、彼らを案内した「支那通の梅森氏」の「支那人は廢滅と云ふ間際でないと修繕などは加へませぬ」と解説が記されていた。 やはり「支那人は廢滅と云ふ間際でないと修繕などは加へ」ないのである。  2種の「旅行日誌」の後に「第五 ?育状況の一般」「第六 大連中央試驗所参觀記」「第七 通信部報告」「第八 衞生部報告」「第九 會計部報告」「付録一 殖民地?育と南滿洲(講演要領筆記)」「付録二 殖民地?育展覧會概況」と続くが、そのなかから興味深い記述を拾っておきたい。   先ず「第八 衞生部報告」の「上海及び南京衞生雜感」から、  「城内は街幅狹く馬車人車等相會する時は實に困難を感ず。道は石を敷きあれどもか甞修繕を加へざれば一凸一凹頗る歩行に難む。不潔なる事は言語に絶し異臭鼻を打ち一たび此地に足を入れば再びするの勇氣なし斯く不潔汚穢のありたけを盡して流行病の傳播せざるこそ不思議なれと思へば決して然らず。コレラ赤痢の流行は珍しからず只支那人市街に隠匿して世に知られざるまでと聞きて尤の次第なりと思へり」―― 次いで「第九 會計部報告」。旅行中の諸費用を含めじつに子細な会計報告がなされているが、殊に興味深いのが「會計係所感」だが、そのなかの「支那人と金錢」から以下に引いてみたい。  「支那人の終局の目的は金をためることである。と言えば何だか彼等を侮辱したようであるが實際に於て支那人の大部分はこの金を得んが爲めには如何なる手段をも敢えてするのである」。「思慮の淺い目先ばかりを見る者どもは物を僞り人を瞞かして小利を得ようと」し、「遠き慮をなす者は眼前の利に迷ふことなくよく大局を見とゞけてあくまで忍耐刻苦して目的の貫徹を期するのである、故に支那人の中にはどうしても信用の置けない人間も多いがまた取引等に於て甚だ堅い大商人も少なくないのである」。かくして「何にしても金の儲かる所には如何なる苦しみにも耐へてよく勤めるといふのが支那人の特質」となる。 続いて「支那人と金錢」の視点から辛亥革命と反袁世凱の第二革命を論じている。 先ずに辛亥革命ついては、「其名目は如何にも花々しく支那民族覺醒の聲を聞くようであるが(中略)丸で是れ利慾の輩の暴動である、銃劍や衆力を以て強奪を試みようといふのが彼の革命の動機の一半であるらしい」。  次いで第二革命における反袁世凱勢力が敗北した原因は、「砲の響の威嚇よりも財布のチャランチャランの魅力」が袁世凱軍に「比して遥に劣つて居たからだ」。  総じていえることは、支那三千年の?史を見れば随分偉い人物も出て居る、併し彼等が率ひる萬衆は皆利の爲めに動くといふ輩であるからしてこれに啗はすに少ない利を以てすれば忽ち背を向けるといふ有樣だ、で彼等史上の偉人物の生涯には波瀾が非常に多く光明の後には必ず暗憺の影の添ふのを見るのである」。  以上は「只觀察見聞によつて痛切に感じた」ことだが、「旅行中尤も五月蠅く感じた」「車夫馬丁の賃錢をねだる事」から「彼等の金錢に對する執着心」を身を以て知っただろう。 やがて廣島高等師範學校を卒業し先生となった彼らが、実際に教室で生徒に接して隣国の状況をどのように教えたのか。旅行中の体験を、必ずや熱く語ったに違いない。 《QED》         ▽□◎ひ▽□◎い□▽◎ず□◇◎み▽□◎   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者���声 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜    ♪ (読者の声1)貴誌6672号「シリア情勢」ですが、私は馬淵睦夫先生のユーチューブでのお話を聞いたり、著作をよく読ませていただくのですが、氏によれば、トランプ大統領が中東撤退の意思を示している今、シリアが毒ガスを使う理由はなしし、その証拠もない。証拠を出しているのは「人権団体」という最も信じてはいけない組織だけとおっしゃっていました。 さらに言えば、メインストリームメディアは、フェーク写真(例:油まみれの鳥、土座衛門の子供、911同時テロも?)や、フェークニュース(慰安婦、ロシアゲート、アベゲート等々)で世論をコントロールしてきた実績がありますし、証拠が無ければ南京虐殺ねつ造問題と同じことです。 また、メディアは挙証責任をシリア側に転化しています。 参考: https://www.youtube.com/watch?v=VWN9ZZmrDNs  株式市場については、私の見立てでは、日本株市場は短期的にシクリカルな上昇トレンドに入り、アメリカ株下落も一段落したようにみえます。 但し、長期的な世界株式市場全体には、1)米金利上昇、2)メルケルの今後とEURO、3)シナ経済崩壊(シナ共産党がドイツ大企業株主)という巨大時限爆弾が潜んでいますから、中期長期は見込み薄とみています。 宮崎先生が掛かれているようにシナと関連の深い東南アジア市場(マレーシア、タイ、シンガポール、インドネシアなど)も影響は深いと思われます。結局長期的には、世界経済の大矛盾は中規模の(短期間の)戦争によって終わるのではという悲観的な予感がしています。 トランプ大統領がツイッターしたミサイル攻撃は共和党主流派のガス抜きと米ロ会談への口先効果を狙ったものではないでしょうか。 前回のミサイル攻撃のように、ロシアに事前に連絡のうえでロシア軍とは関係のない地点へミサイルを撃ち込むという国内向けデモンストレーションはありえますが、ロシアは地中海艦隊を死守する腹だろうし、シリアを破壊すれば難民がEU圏へ入ることになる。ネオコンにはメリットあるかもしれませんが、トランプ大統領(アメリカ)にメリットはありません。 トランプ、プーチンの両大統領の認識は一致しており、日本伝統の「腹芸」を世界的規模で繰り広げているような印象を受けます。   (R生、ハノイ)   (宮崎正弘のコメント)シリアの子供達が化学兵器でやられている映像、どうしてあの「現場」に居合わせ、迫力ある画像を撮影できたのか。あれほど劇映画のように立ち会えたのでしょうね?  欧米露中、そして中東の政治とは、このような手口は常習です。  トこう書いている間に米国はシリアを英仏と共同でミサイル攻撃し、地上軍を派遣することはせずに、「作戦は終了した」としました。   ♪ (読者の声2)貴誌前号のシリアの化学兵器ですが、軍事評論家の鍛冶俊樹氏の「軍事ジャーナル」(4月13日)に「シリア化学兵器は北朝鮮製か?」と題して次の考察があります。 (引用開始)「シリアがまたしても化学兵器を使用したとかで、米軍がシリア攻撃を検討している。奇妙なのは、4日にトランプ大統領がシリアからの米軍撤退の準備を指示した3日後にシリアで化学兵器が使用されている点だ。シリアのアサド政権にしてみれば、シリアの反体制派を支援している米軍が撤退してくれることは、この上ない僥倖である。化学兵器などを使用しないでいれば、米軍の撤退は目に見えている訳で、ここで敢えて米軍を挑発するような行動を取る理由が不可解であろう。 米軍の駐留の継続を望むのは、シリア反体制派であるから反体制派の仕業と言う見方も成り立つ。同胞を犠牲にする筈はないと思うのが常識だが、常識の通用しないのが中東である。また一口に反体制派と言っても色々な派閥があり、必ずしも同胞とは限らないのである。 米軍が攻撃に慎重な姿勢を示すのも、この辺を見極めようとしているのであろう。ところが昨日、フランスのマクロン大統領が「アサド政権が化学兵器を使用した証拠を掴んでいる」とテレビのインタビューで述べた。シリアはかつてフランスの植民地であり、現在でもフランス情報部のシリアへの浸透は米英独を上回りロシアと並ぶ。そのフランスの大統領が断言した以上、この情報は信頼できる。つまりアサド政権は化学兵器を使用したのである。 昨年4月にもシリアでは化学兵器が使用され、トランプ大統領がフロリダの別荘で習近平との会談の最中に、シリアにトマホーク59発を撃ち込んだのは記憶に新しい。この時もトランプ政権がアサド退陣を求めないと声明した4日後に化学兵器が使用された。つまり今回と同様、アサド政権が化学兵器を使用するメリットがないのである。これについては昨年4月9日号「シリア化学兵器は北朝鮮製」で詳述したから参照されたい。 http://melma.com/backnumber_190875_6512306/ 要するに、前回の化学兵器が北朝鮮製だとするならば今回も北朝鮮製だと見るのが当然の理である。北朝鮮の狙いは米軍を中東に釘づけにして対北攻撃を回避する事だ。一方米国は英仏をシリアに代理介入させて、米軍主力を予定通り東アジアに振り向ける算段であろう」(引用止め) 以上です。 (NK生、茨城)
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theatrum-wl · 5 years
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【連載】弓井茉那のドイツ劇場研修日誌
第11回 難民の青年たちとの演劇プロジェクト(3)
弓井 茉那
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つい先日、ドイツ首相のアンゲラ・メルケルが2021年の任期満了と同時に、首相を退任する意向を示した、とニュースが報じました。背景には、メルケル率いるキリスト教民主同盟(CDU)の地方議会選での大敗があり、メルケルはその責任を受けての辞任表明を行うことで、連立政権の崩壊に歯止めをかけたい意向があるようです。事実上ドイツが主導して来た、理想的な欧州連合づくり、そして難民政策への、EU市民・ドイツ国民の評価が下った、とも言えるこのニュース。ヨーロッパが統一の理想を掲げたひとつの時代の終わりを象徴する出来事になりそうです。
キリスト教民主同盟(CDU)の支持率低下のきっかけには、2015年の「難民の無制限受け入れ」という、メルケル首相の大胆な決断がありました。そしてその年末ケルンで起きた、難民による集団暴行事件が引き金になって、極右政党ドイツのための選択肢(AfD)、左派政党緑の党の躍進がここ数年で目立つようになってきました。
私がデュッセルドルフにいた、2016年〜2017年の間は、欧州難民危機に対する政治的な動きを肌で感じながら、遠い地からやって来た難民とドイツ国民がどう共生するか、誰もが手探りで模索していた時期だったように思います。
街中には、《難民カフェ》という、紅茶やジュースを楽しみながら、地元の人と交流する場がいくつかありました。 私が研修し、そのあと働いていたデュッセルドルフ劇場でも、公立劇場のミッションのもと《Café Eden》という、難民に劇場を開放する取組を行っていました。また、ドイツのフリーシーン(小劇場)で活躍するカンパニー、《アンドカンパニー&Co.》を招聘し、第二次世界大戦中の亡命をテーマにしたラブロマンス映画『カサブランカ』を、現在の難民問題にアダプテーションした作品を上演していました。他にも「難民のこと」をテーマにした作品がいくつも上演されていました。
私が参加していた、難民の青年たちとの演劇プロジェクト《よその場所へようこそ》も、その名の通り、ドイツ国民が難民たちと共に生きるため、そのこと自体を考えようとしたドイツの公共劇場主導の取組でした。 ドイツのいくつかの公共劇場でそれぞれに同時に進行していたプロジェクトだったので、それぞれの劇場でどんな演劇作品を作るか、カラーが違ったのですが、私たちデュッセルドルフ劇場は、参加者それぞれの「物語」を共有するということをやっていました。
参加者それぞれの物語についてテキストを書いてもらったり、個々の物語を語ってもらったりしました。例えば「理想の世界」についてテキストを書いたとき、参加者のひとりの在独難民二世の女の子が「女も男も難民も何もかものボーダーがなくなってみんな同じであればいい」と言っていたことが興味深かったです。 他にも「私は○○で、どこから来て、将来は何をしたくて……」など、自分のことを語り、演劇づくりに提供する場面はいくつもありました。 自分の物語を語ることは演劇づくりの場ではよく用いる手法ですが、このプロジェクトでは、お互いを理解しあうために必要な作業であったと思います。お互いというのは、一口に「難民」と語られながらもそれぞれ違う国から来た参加者である、わたしたち「よそ者」同士、進行役である大人たちと「よそ者」、そして「よそ者」と観客です。
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わたしたちの作品の初演はデュッセルドルフ劇場でしたが、デュッセルドルフ劇場の観客のほとんどはヨーロッパ系ドイツ人です。ドイツのどこの公共劇場でも同じ様な状況ではと推察しますが、劇場の会員の多くはヨーロッパ系の高齢者です。公演でアラブ系やアフリカ系の移民難民を劇場で見かける機会は多くはありません。この状況には公共劇場も危機感を抱いています。そんな状況のなかで《Café Eden》は例外で、回を増すごとに難民の来場者が増えていました。
私たちの演劇プロジェクトの作品は、大義としてはドイツの統合政策の元に、「難民のドイツ語習得」という目的があり、そのために創作の助成金を獲得していました。それ以外の意義としては、「難民である自分が、ここで声を出す機会を得ること」であり、「自分をさらけ出してドイツの人たちに受け入れてもらう機会である」と同時に「ドイツのひとたちが難民を理解する機会」という役割を担っていたプロジェクトだったように思います。 そのために「物語」が必要でした。
参加者としてこのプロジェクトに関わりながら、実はそのことにモヤモヤする時もありました。みんなの話を聞いて、演劇を作っていくことはとても楽しい。「なんだ、わたしたち似ているね」と思える瞬間があるからです。でも、「自分は○○であり、将来は○○になりたい」とフォーマットに入れて自分のことを語れば語るほど、自分の「物語」が誰か他者にいいように消費されていくような気がしました。参加者である、難民の青年たちの物語を聞きながら、自分もどこかで彼らの物語を消費し、彼らを理解したような気になっている時もあったと思います。もし自分たちの共同体に誰かよその土地から人が来た時に、わたしたちはどういう態度で彼らを「理解」するべきなのでしょうか。
ある日、「小さかった頃にしていた遊び」というテーマで、一人一人自分のエピソードを発表したことがありました。 アフガニスタンから6年前にドイツに来た20代前半の青年が、小さい頃の遊びの話をしてくれました。アフガニスタンの路上で弟たちと地面に絵を描いて遊んでいた時に、車が突っ込んで来て弟がはねられてしまった、というショッキングな内容でした。弟は軽い怪我で済んで大丈夫であったが、弟のことを守れなかった自分が情けなくて自分を責めた、という内容で、その場にいた進行役も仲間もみんな「そうだったんだね…」と何も言えなくなって沈黙した場面がありました。 その発表の時間が終わり休憩に入ったときに、私は彼に近付き、「すごく大変だったんだね……」と声を掛けました。すると彼は私の耳元で私にだけ聴こえる様な小さな声で、「あれ全部嘘だよ」と言いました。私は心底驚いて彼を見ると、彼はあっけらかんとした様子で舌を出しておどけた表情を私に見せました。その瞬間、彼はドイツで過ごして来た6年間を通じて彼なりにこの社会でどう生きて行くかを考え、処世術を身につけたんだと悟り、「強いなぁ」と感心させられたのでした。
確かに「物語」は語るだけでなく、作ることもできる訳だと、ハッとさせられた体験でした。何もマイノリティとして誰かにいいように「物語」を消費されるんじゃない、全て分かった上で新しく自分をつくる、そういう彼の態度に清々しささえ感じたのでした。
圧倒的なリーダーなき後のドイツで、今後難民との共生がどのように目指されるのか、ドイツがどこへ向かうのか、今はまだ見えない混乱の最中にあるようですが、それは他国も日本も例外ではありません。わたしたちはこれから、主体的にわたしたちの新しい物語をつくる必要があるんだと考えさせられた体験でした。
プロフィール
● 弓井 茉那(ゆみい・まな)
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俳優/演劇教育者 http://yumiimana.com/ 京都市生まれ。京都造形芸術大学卒業、座・高円寺劇場創造アカデミー修了。東京・京都を拠点に、現代演劇や児童演劇の俳優活動を軸として、子どもや市民対象のドラマワークショップの企画・進行の活動を行っている。乳幼児を観劇対象とするベイビードラマのシアターカンパニーBEBERICA主宰、演出
2014年〜2016年までSPAC-静岡県舞台芸術センター制作 クロード・レジ演出『室内』に出演し、アビニョン演劇祭など世界7都市でツアーを行った。2014年〜2016年STスポット横浜芸術教育プラットフォーム コーディネーターアシスタント。2017年デュッセルドルフ劇場アウトリーチ担当。同年南アフリカで行われたASSITEJ 世界会議にて、次世代の児童演劇担い手のプラットフォーム『Next Generation』に日本代表として選出され参加。「マレビトの会」プロジェクトメンバー。
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