Tumgik
onaikotaro · 7 days
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占いをきみはチェックする夜明けのコインランドリー光に充ちて/青松輝
(青松輝『4』ナナロク社)
コインランドリーは詩になる。それこそ平安時代からコインランドリーは和歌の題材になっていたし、映画『パターソン』ではWu-Tang ClanのMethod Manがコインランドリーでラップの練習かリリックづくりかをしていた。たぶん占いはタロットとかではなくて星占い、全人類を十二種類に分けただけの大雑把な占いだろう。そのいいかげんさが夜明けのコインランドリーにふさわしい。〈星の存在 きみと話しているときに僕はこわれるほど高画質/青松輝〉の星も恒星とかではなく、星占いの星くらいのものだろう。「きみ」は同じ人かもしれない。夜明けのコインランドリーには気怠い恋の予感がある。
〈初恋を思い出したりするのかな、コールドスリープ後のわたしって/青松輝〉のコールドスリープもコインランドリー感があるものだ。ボタンをおして一定時間経つと中の変化が外の変化と違っているという意味で。そういうものがいまは多すぎる。
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onaikotaro · 10 days
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十年後などと思えば足元が風草のごとかなしくなりぬ/永田紅
(永田紅『いま二センチ』砂子屋書房)
風草はイネ科の植物、これぞというべき代表的な雑草だろう。十年後は自分の十年後であるし、児の十年後である。いまは赤子であってもそのころには小学校に通っているだろう。そして、それだけではない。十年後を思えば二十年後や五十年後を思わざるをえない。あるいは百年後をも。そのとき、この世界には児がいても、自分はいないかもしれない。だからこそ足元に風草とその風草を戦がせる風とを思う、千の風になる。そのときこの児は笑っているだろうか、と。雑草短歌としてはほかに〈形なき水が涙となるまでに視界を揺るるキバナコスモス/永田紅〉がある。
〈あっという間のことだったのよと言うだろう何年か先の子どもの前で/永田紅〉ただ、先のことばかり考えていても、今は今でしかない。その温度は今の温度だ。
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onaikotaro · 19 days
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ふっくらと陽のあたる街 ここに住む誰もが泣いたことのある人/工藤吉生
(工藤吉生『沼の夢』短歌研究社)
「泣いたこと」は産声だとしたら、そうだしそれは底流にあるのだろうけれど、すこしつまらない。たぶん丘の上とか、駅ビルの上とかすこし高いところから昼の街を見ている。笑っているように見える人も、怒っている人も、みんな泣いたことがあるんだな、つまり陽のあたる光の部分だけではない影の部分、あるいは影の部分の記憶がちゃんとこの街のあちこちにちゃんと息づいているのだなと読むことでおもしろくなる。
〈カップ麺を持ち運ぶとき手の中にほんの小さな波の音する/工藤吉生〉の波の音に気づくような微細さへの関心が掲歌にはある。
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onaikotaro · 21 days
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なぐさめのように誰かが歌いだすその曲をみんな知っていたこと/伊藤紺
(伊藤紺『気がする朝』ナナロク社)
集中に明喩の歌が多い気がした。そのなかでも好みはこの歌。〈その曲が始まるとみんな喜ぶというよりすこし美しくなる/伊藤紺〉と同じ見開きにあるからほんとうにみんなが知っている曲なのだろう。たとえば「翼をください」のように学校やスポーツイベントで「みんな」が歌う曲、スピッツの「ロビンソン」やMr.Childrenの「innocent world」のように「みんな」が属している年代の人たちが心にこびりついた結晶のように知っているヒット曲、あるいは「鳥の詩」や「アンインストール」のようにある特定の人たちが共同幻想として抱いている世界を歌う曲、なのかもしれない。どうやら「君が代」ではなさそうだ。「なぐさめのように」だから明るい希望を歌う曲だといいな。みんながすこしずつ上を見上げてしまうような。そうすると坂本九の「上を向いて歩こう」か。
「みんな」が知っている曲を選曲して歌う人がいる場、そして「みんな」が知っているという表情をする場、そんな場のやさしさが伝わる歌だ。きっと、それは、かけがえのない場なのだろう。ちなみに〈売りに出せばほとんどただになるようなうつくしい石が恋なんだね/伊藤紺〉から「硝子の少年」も連想できる。
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onaikotaro · 3 months
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車が搬んでいるのは体 くり返す異常誕生譚の出だしを/湯島はじめ
(「Spinel」ヤー・チャイカ 2024 年新春号)
「搬」の字遣いがいい。「運」を使わず車を重複させないところに哥の立ち姿への美学を感じる。異常誕生譚は海外ならΜινώταυροςだろうが、日本なら桃太郎や一寸法師や竹取物語だ。そうするとふつうの昔話、さらに「出だし」ならありきたりな定型文「むかしむかしあるところに〜」だ。冒頭は霊柩車めいているが、なんだか、こどもを車のチャイルドシートに寝かしつけて、子守唄がわりに聞かせる昔話という育児詠についての歌のようにも捉えられる。「異常」が穏やかな日常を下支えしている不思議がある。いや、霊柩車もまた日常か。
物語行為の歌は連作中に〈先祖とは仔馬の話を年の瀬に仔馬は死んでもう話すことがない/湯島はじめ〉や〈星のようなサブレ交互に齧ってはするのは窓のない話だけ/湯島はじめ〉がある。仔馬の象徴性は印象に残りやすく、「窓のない話」はモナドのように捉えられる。les monades sont sans portes ni fenêtres. 互いに抗争することなく予定調和的に連関していく人と人、そしてその体系。
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onaikotaro · 3 months
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考えてごらんよきみは土星にも意識を飛ばす活字のように/我妻俊樹
(「海岸蛍光灯」『現代短歌パスポート2 恐竜の不在号』書肆侃侃房)
「考えてごらんよ」だからきみは自分の力にまだ気付いていない。「活字のように」とあるけれど活字が実際に「土星にも意識を飛ばす」のかはふつうは不明だ。およそ他の惑星にも意識を飛ばすように活字も印刷されて誰か見知らぬ人に意味をもたらすということだろう。このように掲歌は意図しない伝達への歌だ。そんな不確かな伝達を「土星」と表現して魅力的に捉えている。また、〈どうしても枯草だけがにおってる自分が深夜の道だとすれば/我妻俊樹〉、も同じようににおいという意図しない伝達を描く。人は他人に伝わる自分のにおいの原因を知りえない。「どうしても」は実感だ。
同じ本のほかの連作「恐竜の不在」の〈蛇に肋ぎつしりとあるうれしさの、たとへば人を持たぬ星系/川野芽生〉も違う趣きだが佳い。「肋ぎつしり」は人を寄せつけないありさまを示す。そのうれしさはきっと余人には伝わらない。そして蛇と星系という大小の対照が鮮やか。土星と星系はどこか通じるものがありそう。
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onaikotaro · 3 months
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コンビニで百円払う わたくしが淹れているわたくしのコーヒー/吉田恭大
(「フェイルセーフ」『現代短歌パスポート1 シュガーしらしら号』書肆侃侃房)
「わたしくが淹れているわたくしのコーヒー」は当たり前のことと思うけれど百円という金銭を払っている代償がセルフサービスであることを「わたくし」の繰り返しで強調している。お金を払えば誰かが淹れたわたくしのコーヒーを飲めた時代が前提にあって、それを塗りかえる新しいシステムをおもしろがっているのだろう。
同じような繰り返しは〈終点で降りると夜のバス停で、夜のバスがそこから引き返す/吉田恭大〉、この「夜のバス」の繰り返しはおよそ夜のバスが夜のバス停である終点から引き返したら朝のバスや別のバスになるのではなくそのまま夜のバスのままである「夜のバス」システムをおもしろがっている。また〈いつの間にかあなたが猫を飼いはじめ、あなたの部屋で育ちゆく日々/吉田恭大〉これも「あなた」の繰り返しだ。この場合、育ちゆくのが猫ではなく「日々」かもしれない曖昧な構造が歌をおもしろくしている。視線のおかしさ。
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onaikotaro · 3 months
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誰もが思い浮かべるようなわかりやすい卵や仔というものが入稿にはない 荒野にひとすじ細く煙が立ち それきりだという/谷脇クリタ
(谷脇クリタ『市民たち、売り切れのフロイデ』)
入稿の擬人化、あるいは擬獣化である。作者の入稿への強い思いいれを想像できる。入稿は繁殖する生き物らしい。でも「わかりやすい卵や仔というもの」がなく、そして入稿の姿は細い煙だという。そしてその姿によって繁殖し、増え、入稿はし続けるのだ。わかるのは愛着のある入稿にかたちを与えようという藻掻き、足掻き。
掲歌は入稿連作の一つ。他に〈もういいよといいながら手放したくないと思っている 廊下に延びる入稿の影 息をひそめて秒針になる/谷脇クリタ〉や〈入稿と書かれた升目に好きな種類の昆虫を 目の前ではないところで鳴る警笛を 誰かが誰かにつけた名前を/谷脇クリタ〉などあり、自由律の破調、息遣いが好ましい。
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onaikotaro · 3 months
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心の垢、と書いて錆へと書きなおし朝の身体にふる秋の雨/富田睦子
(富田睦子『声は霧雨』砂子屋書房)
心の垢を心の錆と書き直したことでやわらかさは消えトゲトゲしさが際立つ、心を一瞬で肉の器官から金属へと変質させた。そういう、やわらかさを失った心が、秋の雨のなかにあるのだと強調されている。それに確かに心の垢は「朝の身体」にとって生々し過ぎる。夜の空気がもたらした錆の方が詩としての飛躍にもなる。
そういえば垢も錆も水によってうまれる。そこで秋の雨の水気が活きてくる。他に秋の雨の歌に〈秋はふいに訪れ雨の週明けのいつもの起床時間が暗い/富田睦子〉も。掲歌と同じ秋の朝だ。心象はいずれも似通っているだろう。
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onaikotaro · 3 months
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牛乳を買うと寄り道できなくなる星の数よりすくない星座/山階基
(山階基『夜を着こなせたら』短歌研究社)
星座だから冬かもしれないが、牛乳を買って寄り道できなくなるのだから夏だろう。そして朝か夕かと言えば朝だろう。帰路の夕の方が可能性は高いが、牛乳に刻まれた消費期限という数字が暑さとともに減るのを感じながら星の数や星座の数の「すくな」さを連想するとしたら朝焼けがふさわしい。〈あさやけパンは朝焼けのパン朝焼けの味をわたしはわからないけど/山階基〉パンと一緒に牛乳を飲むのかもしれない、夜勤帰りの眠りの前に、あるいは職場で勤務前に。
ほかに朝焼けの歌は〈朝焼けにどうするつもりなのですか朝焼けにどうするつもりなの/山階基〉、夕焼けの歌は〈夕焼けを引き留めそびれみずうみは深まるように色を失くした/山階基〉。『夜を着こなせたら』という歌集の題、夜を強く感じるなら朝か夕だろう。
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onaikotaro · 4 months
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沈没船の骨格ほのかにうかびくる眠りを待ちて閉ぢてゐる目に/川野里子
(川野里子『ウォーターリリー』短歌研究社)
不眠症短歌。「眠りを待ちて」はもう眠れない。眠るときは眠りを待っているあいだにすでに眠りに落ちているものだ。自分の体の外殻が沈む感じ、ずれていく感じを意識しはじめてしまうと眠るのは難しくなる。つづく〈不眠症なわれは潜水艦として闇にゐるなり息を凝らして/川野里子〉もそうだろう。連作タイトルが「2時間40分」でタイタニックが沈没するまでの時間であり、三首目〈可聴域超ゆる音つねにひびきゐむ鉄の船あまた眠る深海/川野里子〉で人には聴こえない大音量とともに私の眠りと船の眠りとが入れ代わるのが鮮やか。
冒頭七八の間延びが掲歌からはじまる連作において沈没船の巨大さを予言している。
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onaikotaro · 4 months
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すりへった靴底鳴らし夕暮れを歩く身体に金魚を棲ませ/塚田千束
(塚田千束『アスパラと潮騒』短歌研究社)
靴底が磨り減るのはよく歩く人だからだろう。夕暮れまで歩き回ったその人の身体のなかに宿る金魚は、熱や発想や光だと思う。よく動き、よく人と接する人だからこそ疲労と引き換えに宿るエネルギーのようなもの、金魚発電。また、この金魚は明るさの別名ともいえる。明るさのモチーフは集中にあふれており〈踏み込まず金額だけを告げるレジお金のやりとりだけの明るさ/塚田千束〉や〈花柄の傘を選んだ瞬間はひどくあかるいいきものだった/塚田千束〉や〈近づけば近づくほどにほの暗く触れられないものばかり明るい/塚田千束〉など。もちろん明るさはプラスなことばだけれど、それを支える暗さへも目が行き届いている。
すりへる靴のモチーフは他にも〈叱るたび磨り減ってゆく靴底が私の足を鈍らせてゆく/塚田千束〉。靴底は比喩として私の何かのバロメーターを示している。人生は常に摩耗するものだという諦念があるのだろう。
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onaikotaro · 5 months
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冷やされた郵便配達人の手を温めるオスセイウチの脇のぬくもり/しんくわ
(しんくわ『しんくわ』書肆侃侃房)
十二月、最高気温が十度を下回る頃から郵便配達人の手は翌三月まで軽い凍傷状態になる。特に郵便物の手触りが分からなくなるからと言って手袋を使わない人は。簡易的に温めるために太腿の間に手を差し入れることはあるけれど、オスセイウチの脇も似た感覚なのだろう。北極辺りに棲息する巨大獣の歌は〈北極熊に対峙するべく寝不足の少年達はラインに並ぶ/しんくわ〉も。日常へ突如挿入される北の異界が印象的だ。
他に郵便配達員の歌は〈犬が嫌い 犬が嫌いだ 郵便を配る男がつぶやく真昼/しんくわ〉とあり、妙にリアル。
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onaikotaro · 5 months
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こめかみを流れゆく汗ふるさとの淋しい川にも名前あること/北山あさひ
(北山あさひ『ヒューマン・ライツ』左右社)
こめかみを汗が流れる。きっと体を動かして何かをがんばって流れ、重力に従って垂れた汗だ。しかし誰もそれに名前をつけて、なんのために流れた汗なのかを認めてくれない。ふと、ふるさとの何でもないような淋しい川にも名前はあるのにな、と思う。ふるさとならばこの汗に名前をつけてくれるかどうか、なんて。
日常の近景へとうとつに遠い自然風景の描写が差し挟まれるのは〈芸人がセンターマイクへ駆けてゆく真裏で樹々も喋っているよ/北山あさひ〉もそう。小さな景色と大きな景色とが歌のなかで共鳴しあい諷刺する。
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onaikotaro · 5 months
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逆風のなかでそんなに葩にまみれていたの 目を閉じないで/榊原紘
(榊原紘『koro』書肆侃侃房)
葩に「はなびら」とルビ。葩は逆風がもたらしたものでない、きっと逆風のなかにいるその人の内心から湧いたものだろう。「そんなに〜いたの」は意外さからくる驚き。いままで気付かずにいてごめんの意もこめられている。またはそんなになるまで放っておいたの、という呆れのニュアンスもある。葩はもともと傷という文字だったのかもしれない。「目を閉じないで」とは外界と、作中主体である私とのつながりを自ら断たないでと伝えている。断ってしまったらもう仕方ないけれど。葩は同じ連作の〈忘れないようにしたくて(でも何を?)臓器のように花を毟った/榊原紘〉の花と通じ、肉的だ。
国際補助語エスペラントのkoroには心臓のほかに本心や中芯や愛する人への呼びかけがある。
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onaikotaro · 6 months
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盤上の駒を正しい位置に置き、それから先のことは知らない/佐クマサトシ
(佐クマサトシ『標準時』左右社)
読点は「それから先のこと」を将棋やチェスの対局から外している。もし読点がなければ対局とも読めたけれど読点があることにより「それから先のこと」は対局ではなくなる可能性が高くなる。〈バスタオルきれいにたたむ 空港に住所があるのを認められない/佐クマサトシ〉や〈AならばBでありかつBならばAであるとき あれは彗星?/佐クマサトシ〉のように明らかに飛ばしているのではない〈そう、その日のローソンはひどく凪いでいて、僕は朝を手にレジへ向かった/佐クマサトシ〉のような同じ時空間上のズレみたいに。違う世界線の同じ時空間と言えば伝わりやすいだろう。
全て配置してあげてあとは他の人に委ねる、そういう役回りの生き方もある。それから先は知りたいわけではない、感心が、ない。権外のことは気にしない。冒険したいわけじゃない、単に整えたいだけだ。
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onaikotaro · 6 months
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深刻になればなるほど学校は指紋ばかりの雨の日だった/郡司和斗
(郡司和斗『遠い感』短歌研究社)
「深刻にな」る、それほど重大なことがあると学校の生徒は窓縁に集まるのだろう。窓ガラスに手をついて話し合う。そのとき指紋がつく。あるいは学校から逃げたい生徒が窓ガラスを開けようとして指紋がつくのかもしれない。学校創立から何十年たったのかは分からないが、そのようにして校舎の窓ガラスには無数の生徒たちの指紋が重なってこびりついている。晴れの日には目立たないけれど雨で冷えるなどして曇ると指紋が目立つ。不安の象徴のようにして折り重なる指紋。
「学校は」「雨の日だった」という主述の曖昧さ、「指紋ばかりの」「雨の日」という修飾・被修飾のゆがみが学校にまつわる指紋の不思議さを印象づける。
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