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yuasa81 · 4 years
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この度、新しい著書を刊行しました
湯浅博雄 『贈与の系譜学』、講談社選書メチエ、定価1650円(税別) 
贈与というテーマを考え始めたのは、ずいぶん前のことです。長期留学していた時代、主にランボーとボードレールを読み、ランボーに関する博士論文を書いていたのですが、バタイユもよく読んでいました。
『呪われた部分』のなかで言及され、評価されていたモースの『贈与論』に関心をそそられ、関連書も含めて少しずつ読み始めたのが最初です。
他の仕事がたくさんあったので、贈与について集中して考察することはなかなかできませんでした。ここ数年かけて、アリストテレスの倫理学(正義論)、初期キリスト教(『新約聖書』)、カントの実践哲学などを検討し、考えてきました。
そして、ジャック・デリダの思想(『時間を与える』など)は、深く考えさせられる卓見に満ちていると思われました。湯浅の書物は、ひとつの試論ですが、ご批評、ご批判をいただければ幸いです。
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yuasa81 · 6 years
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「未来」2018年夏号(No. 592)
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前回の投稿から随分空いてしまいました。
「ランボー「言葉の錬金術」の詩学を探求するために」というテーマについて、未來社の季刊誌に連載をはじめました。是非ご覧ください。 
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yuasa81 · 6 years
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ブランショ『終わりなき対話』をめぐって
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長い時間をかけて、少しずつ進めていた翻訳が、ようやく全三巻、完結しました。 モーリス・ブランショの主著のひとつ、『終わりなき対話』の翻訳です。 この三巻について、簡潔に説明した文章をかきましたので、どうぞご覧ください。 http://www.webchikuma.jp/articles/-/1173
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yuasa81 · 7 years
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二冊の翻訳書の刊行について
 しばらく前のことですが、十月末には、デリダの『信と知』が刊行されました。そして、十一月末には、ブランショの『終わりなき対話』(第一巻)がようやく上梓されました。
 もっと正確に言うと、次のようになります。
ジャック・デリダ『信と知: たんなる理性の限界における「宗教」の二源泉 (ポイエーシス叢書)』、湯浅博雄・大西雅一郎訳、未来社 
モーリス・ブランショ『終わりなき対話 I複数性の言葉 (エクリチュールの言葉)』、湯浅博雄・上田和彦・郷原佳以訳、筑摩書房
 私(湯浅)は、かつてバタイユ『宗教の理論』(ちくま学芸文庫)を訳しました。その本は、主として、原始宗教における〈聖なるもの=ル・サクレ〉の発生を問い、サクリファイスや祝祭に意味について深く探究していました。デリダの『信と知』は、そういう問いも含みつつ、さらに信=信仰の経験が持つ強い意味あいを探究しています。今日における宗教を、また宗教の名のもとに実行されている政治的な暴力を考えるために、この本は多くの土台を提起してくれるだろうと思われます。
 ブランショの『終わりなき対話』は、長らく翻訳が待たれていた名著です。ボヌフォワの「詩の行為と場所」を出発点にして、ヘルダーリンの詩句を読みながら、詩の言葉のなしうること、なしえないことを探り、詩的言語の方向性を位置づけていく「大いなる拒否」。レヴィナスの「全体性と無限」との対話を続ける「未知なるものを知ること」、「言葉を保ち続ける」など。読むのに時間はかかるでしょうが、きわめて興味深く、面白いテクストであると考えます。
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yuasa81 · 8 years
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共同論文集
四月のことですが、遅れていた共同論文集が出版されました。
本のタイトルは、『共にあることの哲学 ―― フランス現代思想が問う〈共同体の危険と希望〉1 理論編 』(書肆心水)というもので、広い意味あいでの共同体=共同性の問題系を数名の著者が各自の視点から論じる書物です。
私の論考は、「国家のような共同体に抗する共同性について――ブランショ、バタイユの思索から発して」と題するものです。400字詰め原稿用紙で、90枚くらいの紙葉をいただいて、まだまだ考えるべき点は多いけれども、かなりのことを論じられたのではないか、と思っています。
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yuasa81 · 9 years
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近況報告
今春より特任教授として 獨協大学に勤務しております。
今後とも宜しくお願い致します。
https://www.dokkyo.ac.jp/profinfo/15004.htm
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yuasa81 · 9 years
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ドゥルーズ
ドゥルーズの書物としては、他に、『差異と反復』、『意味の論理学』など熟読し、大いに学ぶところがあった。(留学時代から、高等師範学校におけるジャック・デリダの講義に参列しており、『声と現象』、『グラマトロジーについて』、『余白――哲学について』などを、わからないなりに繰り返して読んだが、筆者の場合、ドゥルーズの『差異と反復』を精読することによって、より深く理解が進んだように思う。両者の思想的試みは、ある人たちが言うほど、隔たってはいない。ドゥルーズが差異化の運動に伴う反復を熟考しているように、デリダは、「署名・出来事・コンテクスト」のなかで、刻印=しるし的なものが、すなわち広義のエクリチュール=書き記されているものが、つねに、そして既に反復されることから始まること、そういう反復は差異化の動きと切り離せない仕方で一体化していることを鋭く示唆している。)
ニーチェにおいてひとつの頂点をなすのは〈永遠回帰〉という思想であると思う。バタイユは、この思想が、プラトン主義(およびキリスト教)のイデア(理念・理想)中心主義によって覆い隠されていた、人間存在の真にリアルな次元を開いたのであり、〈存在すること〉を、過去から現在へ、そして未来へと続く、直線的な時間の概念から解放し、「来るべき」真実の世界を目指すという目的論からも解放して、いまこの瞬間に、此処で生きること、絶え間なく生成することをやめないままに生きることに結びつけたと評価している。
ドゥルーズは、〈永遠回帰〉を、独特な〈反復〉の思想のうちに取り込んで理解している。ドゥルーズの出発点は、差異それ自体を肯定することである。つまり、いつも、そしてもう既に成立している、実定的な諸項(さまざまな事象たち)のあいだの相違や対比・対立とは異なる、差異それ自体(差異としての差異)を肯定することである。そして、常識的な反復(もともと同一なものが、同じまま、あるいは類似したままに繰り返される反復)ではなく、差異化する動きに促される反復、また同時に、差異化する動きを内包している反復を探究している。
長くなるので続きはまた。
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yuasa81 · 9 years
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ブログを引越しました
【管理者より】
本日、新しいドメインに引越しを完了しました。 今後は http://yuasa-hiroo.com を宜しくお願い致します。
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yuasa81 · 9 years
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ニーチェ
ジル・ドゥルーズの『ニーチェ』を翻訳しながら、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『ツァラツストラはこう語った』、『ギリシア人の悲劇時代の哲学』などを読み、わかりにくいところもあるものの、大いに関心を刺激された。 ドゥルーズやバタイユ、ブランショ、フーコー、デリダたちが、なぜニーチェを現代思想の先駆者として高く評価しているのか、その理由がよくわかる気がした。ニーチェは(キリスト教的・プラトン主義的な世界観や道徳への異議提起という点で)ランボーの精神上の血族でもあって、むかしから読んできた思想家であるが、今後とも深く読み込んでゆきたいと思う。 ドゥルーズの書物については次の機会とする。
ニーチェ (ちくま学芸文庫) 価格:¥ 950(税込) 発売日:1998-05
(2014/10/14 投稿分)
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yuasa81 · 9 years
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長いあいだ、いくども読み返し、また繰り返して翻訳を試みてきたモーリス・ブランショの評論集の、『終わりなき対話』第一巻の翻訳作品が、ようやく完成に向かいつつあります。『終わりなき対話』の第一巻は、「複数性の言葉」と題されています。
 「はしがき」のあとにまず、二人の人物が対話を交わす「終わりなき対話」が置かれています。 そして次に、九編の論考が収められています。 「思考と不連続性の要請」、「このうえなく深い問い」、「言葉を語ることは見ることではない」、「大いなる拒否」、「未知なるものを知ること」、「言葉を保ち続ける」、「第三類の関係--地平のない人間」、「中断--リーマン面のうえであるかのように」、「複数性の言葉」の九編です。 これらの論考は、一九五〇年代の末から始められた部分も含んでいますが、主に六〇年代に書かれたものです。つまり、ブランショの歩みにおいては、「文学と死への権利」(『火の部分』所収、一九四九年)、『文学空間』(一九五五年)、『来るべき書物』(一九五九年)に続くものとなっています。
(2014/07/20 投稿分)
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yuasa81 · 9 years
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日本フランス語フランス文学会 2014年度春期大会(Congrès de printemps 2014)の ワークショップⅡ で発表します。
5月25日(日) 13:00~15:00 会場:お茶の水女子大学、共通講義棟3号館 テーマ:共にあるとはどういうことなのか?――共同体論再考 http://www.sjllf.org/taikai/
(2014/05/05 投稿分)
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yuasa81 · 9 years
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直前のお知らせとなってしまいますが、2つの講演に参加いたします。 まだ申込み可能ですので、興味ある方はぜひご参加、ご連絡下さい。 4月20日(日) 午前の部(9:30~) 「日仏翻訳交流の過去・現在・未来」@日仏会館   《思想・人文科学の翻訳》 http://www.mfj.gr.jp/agenda/2014/04/19/2014041920_traductions_francej/index_ja.php
4月27日(日) 13:30〜15:30 「東京大学名誉教授 湯浅博雄氏による講演と公開対話型授業」@代々木ゼミナール本部タワー   第1部 湯浅博雄氏による講演   第2部 リベラル読解研究受講生たちとの公開対話型授業 http://www.y-sapix.com/articles/13728/ (こちらはSAPIXに在席の生徒・保護者が対象とのことです)
(2014/04/03 投稿分)
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yuasa81 · 9 years
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バタイユ
ランボー読解と並んで、筆者(湯浅)の研究の両輪をなすのが、バタイユを読み、考えることである。バタイユの著作は、ブランショの書物とともに、学生時代から少しずつ読んでいたが、博士論文を書くまではランボー中心で進み、帰国して明治大学で教え始めたころから、『宗教の理論』の翻訳を実践しつつ、主要なテクストを読み進んで行った。 バタイユは、1930年代に、高等研究院でA・コジェーブのヘーゲル読解講義に出ており、もともとヘーゲルをよく読んでいたが、とりわけ『宗教の理論』は、『精神現象学』から多大な影響を受けている。筆者は、ドイツ語原文、イポリットによる仏訳、三種類の和訳を手元において、「感覚的確信」の項から始めて、とくに「自己意識の自立性と依存性――支配と服従」などを繰り返し読んだ。難解な箇所もあるが、「意識」の始まりから「自己の意識」へ、そして「理性」の働きと「精神」の知的な運動へ、最終的には絶対知へと向かう、人間の意識がたどる経験を、総体的に、かつ根柢からみごとに記述していると思われた。バタイユやブランショが実行した読みを参照しつつ、繰り返し、熟読すべき名著であると考える。
(2013/12/29 投稿分)
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yuasa81 · 9 years
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近況報告
現在は、二つの大きな作業に取り組んでいます。
一つは、モーリス・ブランショの未訳の大著(原書で650ページ以上)を、初めて日本語に翻訳する作業。三巻に分けて刊行するうちの、第一巻『複数性の言葉』を、来年五月か六月には出版したい。 もう一つは、プルースト『失われた時を求めて』の読解も踏まえながら、、『反復論序説』をさらに発展させ、真実の探究としての文学・芸術の価値付けの方向へ展開する試み。長期戦のつもりです。
(2013/12/27 投稿分)
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yuasa81 · 9 years
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ランボー
ランボーについては、フランスで開催されたシンポジウムでの提題・講演などを、十数回行なっている(講演原稿は、フランスの雑誌に掲載)。日本語では、最初の評論集『ランボー・バタイユ・小林秀雄をめぐって』において、主として散文詩集『イリュミナシオン』を論じている。キー・ワードは、次の詩篇にある「新たな愛」と「新しい諧調」と言える。
「おお 愛するとは、プシュケー(心魂)の危難か、それとも力か?」(「青春、II ソネット」)。 「きみの指が太鼓を一弾きすると、あらゆる音が放たれ、新しい諧調(ハーモニー)が始まる」(「ある理性に」)。 「おお 彼と私たち! 失われた慈愛(隣人愛)よりももっと好意に溢れた誇り。  おお 世界! そして、新しい不幸の数々の明るい歌よ!」(「精霊」)。
『ランボー論――〈新しい韻文詩〉から〈地獄の一季節〉へ』(思潮社、1999)においては、後期の自由な韻文詩の時代から始めて、ランボーの行なった思索と文学的な試みを、〈地獄の一季節���という詩的散文による物語を読みつつ、浮かび上がらせようと試みている。 最新の論考「〈錯乱II 言葉の錬金術〉の詩学について――「見者の手紙」と 「言葉の錬金術」との関わりを中心に」(『翻訳のポイエーシス』所収、未来社、2012年)では、ランボーにおいて〈見る〉ということは、通常の知覚である〈私は見る〉ことではなくて、ほとんど〈ひとは見る〉ことなのではないか、つまり知性による理解、言語活動による既成の区切りに応じて見るのではなく、そういう知的概念を抜け出して、もっと身体的・感覚的な刺激に即して見ることではないか、そのことは、「言葉の錬金術」で産み出される、不思議なヴィジョン、新しい詩的イメージとどう関わっているのだろうか、といった問いかけを深めている。
未知なるもの=他なるもの―ランボー・バタイユ・小林秀雄をめぐって 価格:¥ 2,205(税込) 発売日:1988-03
(2013/12/23 投稿分)
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yuasa81 · 9 years
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