Tumgik
viriemandwatlangwag · 3 years
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同じ穴の狢
愛のコリーダが肉体を通して繋がろうとした男女の物語なら、戦場のメリークリスマスは精神を通して繋がろうとした男同士の物語である。(大島渚監督談)
厳密に言えば同性愛では無いが、そこには間違いなくエロティシズムが存在する。
監督や演者の意見を総括すると、あくまで同性愛者では無い二人の男が互いに親しみを覚え、繋がりを持とうと躍起になり、まるで恋い焦がれるかのような感情が生まれるのだ。
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ヨノイの法廷でのセリアズへの視線は、ほぼ間違いなく性的なものを孕んでいる。
始めて見るセリアズのことを下から上へと凝視し、セリアズの裸身に動揺する。
では、セリアズの方はどうだろうか?
ヨノイと比べると一見分かりづらいが、法廷でのセリアズは、間違いなくヨノイに親しみを感じていると言ってもいいのではないだろうか。
ハムレットの台詞を引用し、他の裁判官と違ってまともな尋問をするヨノイの態度は人間的であり、セリアズにとって有り難かったに違いない。
ジャワの司令官に命令されたわけではないのか?と尋ねるヨノイに、8月にジャワに訪れた自分が、3月に捕まったジャワの司令官にどうして命令されることが出来るだろう、と「あんたほどの男ならそれくらい分かるはずだ」とでも言いたげに答える。
ヨノイのことを筋の通った男だと、この時既に認めているのだ。
そして、相手の人物に興味を持たなければ、わざわざ名前を尋ねたりするだろうか?
なおシナリオ版には退廷するヨノイを見つめるセリアズのト書きもある。
名前を尋ねるセリフも、ト書きも、セリアズのヨノイへの関心を示すために脚本家が意図的に入れたとみて間違いないだろう。
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なにより、原作のセリアズはヨノイのことを自分と同類であると、初めから認識しているのだ。
演者であるボウイはインタビューでこう語っている。
「ヨノイとセリアズが互いに見出す共感が一体、性的なものなのか或いは精神的であったのかは明白でないけれど、多分両方だろう」
この発言から、ボウイはセリアズがヨノイに精神的にも性的にもある程度惹かれているとして演技をしたと、考えても良いだろう。
映画のセリアズは原作とは違う境遇にあるため、映画のこの場面以降のセリアズの心の動きはより複雑だ。
弟と既に和解を果たし、それまでの自分は周囲の期待通りにしか生きてこなかったことを既に自覚している原作のセリアズは、ヨノイがかつての自分と同じ境遇の人物であると見抜いている。
それに比べ、未だ自分らしく生きることが出来ていない映画のセリアズは、果たしてどこまでヨノイを理解し得ているのだろうか?
ローレンスに「同じ穴の狢だな」とこぼす場面の時点では、唯一公平に接してくれたヨノイと互いに親しみを覚えたにも関わらず、友人として関わりを持つことが許されない自分たちのことを言っているのかもしれない。
しかし、行を命じるヨノイへに反抗するかのように、セリアズは食べ物を持ち込み、不必要な騒ぎを起こし、ヨノイを煽る。
セリアズはここで、俘虜たちを、特に自分を切腹に立ち会わせたがったヨノイのことが、分からなくなってしまっているのでは無いだろうか。
相手のことを理解出来そうで出来ない焦燥感を覚えるからこそ、映画のセリアズの気持ちは恋情と似通っていったのかもしれない。
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脱走後、斬り合いを望むかのようなヨノイを見て、セリアズは初めてヨノイの死への渇望を理解する。
戦争に喜んで飛びついた自分とそう変わりないと、この時気が付いたのかもしれない。
脱走時、ヨノイに貰ったカーペットを何故かわざわざ持って行こうとしたり、ローレンスに「彼に好かれたな」と言われ、顔を伏せるセリアズ。
セリアズの言動には謎が多いが、ヨノイのことを大事に思う気持ちや、やはり自分たちは似たもの同士なのだと強く自覚する気持ちがあるからなのではないだろうか。 .
戦場のメリークリスマスは、男たちがそれぞれ思い思いの形で相手と繋がりを持とうともがく様を描いた映画だ。
(ハラとローレンスもそうである。二人は友人として互いを愛しているのに、思想が違うがために時にぶつかり、それでも分かり合おうとするのである。)
刀を持って対峙する場面と、セリアズがヨノイに接吻する場面、そして最期の別れの場面でも、同じ音楽が流れる。
斬り合うことでセリアズと繋がろうとし、失敗してしまったヨノイだが、セリアズからの接吻で二人はようやく繋がることに成功するのだ。
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viriemandwatlangwag · 3 years
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To be, or not to be? ハムレットからヨノイの心情を考えてみる
(2021年4月”ヨノイと武士道②”を大幅に加筆訂正)
ヨノイはセリアズに一目惚れをした(恋愛か否かは置いといて)。
最初は外見や態度に強烈に惹かれたのかもしれないが、セリアズの”My past is my business.”という鋭い言葉でヨノイの表情が大写しになる。
死に損ねたという過去に縛られているヨノイは、このセリアズの言葉にすっかりやられてしまう。
自分と彼は分かり合えるに違いないと、すっかり確信してしまうのだ。
この直後にヨノイは、ハムレットの有名な台詞を引用してセリアズに語り掛ける。
“To be, or not to be?“
有名な訳は「生きるべきか死ぬべきか?」だが、直訳すれば「このままであるべきか、あらざるべきか」が近い。
このまま耐え忍ぶか、いっそ戦って決着を着ける(そして自分も死ぬ)べきか、名誉ある男としてどちらがより相応しい?と悩む台詞なのだ。
死に遅れた恥と、そしてジャワに配属され任務を全うしなければという責任感と板挟みになっているヨノイは、この言葉に強く共感したのかもしれない。
このような生き恥を晒し続けて、本当に良いのだろうか、と。
そしてヨノイは、法廷で堂々と戦い、また過去について問われて苦悶の表情を見せるセリアズのことを、ある意味ハムレットだと思ってしまったのではないだろうか。
だからこそ、自分にとって大事な意味を持つこの台詞を、セリアズに投げかける。
この意味が、お前にも分かるだろう?と。
そして「兵士の中の兵士」と ローレンスにも言わしめるほどであるセリアズのことを自分が見込んだ通りの男であるとますます確信を深め、自分のことも理解してもらおうと躍起になる。
切腹をセリアズに見せたかったのも、ヨノイには確かめたいことがあったからかもしれない。
ハムレットは、復讐を遂げると同時に毒が回って最期を迎え、生きていれば偉大な王になったであろうと称えられる。
ヨノイは悩みながら生き延びつつも、ハムレットのように意味ある死が自分にも訪れることを、ずっと待っているのだ。
そしてそれはセリアズも同じではないか、あるいは理解してくれるのではないかと、切腹を見せることで確かめたかったのではないだろうか。
だから、セリアズと刀を持って対峙した瞬間を、喜んだのか。
互いが望む(とヨノイは思っている)名誉ある死を、やっと迎える時が来たのだと思ったのかもしれない。
しかしセリアズは、剣を捨ててしまう。
相打ちになるか、少なくとも運命の相手であるセリアズに命を奪われ高潔な死を迎えられるはずだったのに、セリアズは自分と同じものなど求めていなかったのだと、ヨノイはこの時初めて思い知らされる。
だからこそ落胆したヨノイは、「君の友人には失望した」と、ローレンスにそう言ったのかもしれない。
なおこの台詞の場面は、セリアズに乱されるヨノイの眼を覚まさせようと、割腹自殺を遂げたヤジマの葬式だ。
ヤジマの死以降のヨノイは一段と冷酷であり、それはヤジマの想いを受けて元の軍人らしい自分に戻ろうとしたからなのかもしれず、セリアズへの想いも、ここでは断ち切ろうとしているのかもしれない。
そして全員整列の時が訪れ、ヨノイは狂気に呑まれていく。
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viriemandwatlangwag · 3 years
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ヨノイと武士道
(2021年4月加筆訂正)
ヨノイとっての生き方も、愛情表現も、全て武士道に則っている。
でもそんな武士道と相いれない私情は、たとえ彼自身の意識の外にあろうと確かに存在していて、その矛盾こそがドラマになっている。
(敵である俘虜たち)皆を誘って花見がしたい!などと発言する映画のヨノイは、度肝抜かれるくらいに純粋。
そう、ヨノイは俘虜である英国人の彼らのことがそもそも好きなのだ。
(原作のハラも、自分の厳しい言動は俘虜たちを思ってのことだった、と発言している。)
彼の挙動を細かく見ていると、切腹や行云々を除いてローレンスや俘虜たちへの接し方は、実は結構思いやりがあり、ヒックスリーにすら丁寧にお辞儀をしている。
イギリス文学好きが影響してのことなのかは分からないが、彼らに過度に節度を求めるのも、彼らに期待しているからこそである。
イギリス文学の名誉を重んじる登場人物たちにヨノイは憧れていて、現代人である彼らに本の中と同じようなふるまいを期待してしまっているのかもしれない。
切腹を見せたり、行をやらせたりするのは、彼等なら日本人の考え方を理解してくれるかもしれないと期待しているから。
「分かってくれたな。私のために死ぬのだ。」とローレンスに向かって言う台詞は「日本人の考え方をついに理解してくれた。嬉しい」というニュアンスなのかもしれない。
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viriemandwatlangwag · 6 years
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君の名前で僕を呼んで
戦メリの楽曲、germinationが使われていると聞き、映画館に駆け込んできました。
83年といえば戦メリ公開の年であり、ボウイが人気絶頂となった年でもある。
ボウイが表紙の雑誌も作中ばっちり映っていて、割と戦メリと縁がありげな映画だった。
(「二人とも善良」「互いに「彼は僕より優れている」と思っている」という二人の関係を表したこの言葉、セリアズとヨノイにも当てはまる...かもしれない)
グァダニーノ監督、「愛のコリーダ」「御法度」そして「戦メリ」はタブーを探求した作品だ、だってさ。だよね。
https://www.washingtonpost.com/lifestyle/style/dont-believe-everything-you-hear-about-call-me-by-your-name/2017/12/14/db2c17be-dfae-11e7-bbd0-9dfb2e37492a_story.html?utm_term=.883cb1e33dda
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viriemandwatlangwag · 6 years
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歌が歌えたら
(2021年4月加筆訂正)
戦メリシナリオ版を読んで大きな収穫だったのは、終盤の全員集合のシーンでセリアズがローレンスに言う”listen”は「聞こえるか?」という意味だったと分かったこと。
原作でのこの場面のセリアズの耳には、彼にしか聞こえない音楽(遠く離れた弟にも同時に聞こえている)が聞こえているが、映画でも同��だったのだ。
(原作での弟には霊感があり(ひょっとしたらセリアズにも少し)この兄弟は以心伝心。ということは、今際の際に弟と会って話す幻覚も、セリアズの一方的な夢では、恐らくなかった。「家に入ろうよ」という弟の表情は、兄の死にゆく運命を察してか、どこか悲痛。)
ローレンスには聞こえていない様子であると気が付いたとき、音楽の正体が弟の心であると、その時セリアズにははっきり分かったのだろう。
そしてこの後セリアズが��く「歌が歌えたらいいのにな」とは、どういう意味なのか。
この台詞は恐らく、セリアズがヨノイを抱擁しようと駆り立てるまでに至る、伏線でもある。
このシーンの映画のセリアズの心境は、原作に比べて何倍も複雑なのだ。
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原作ではヨノイと出会う前に弟と和解を果たし、すでに過去のしがらみから解放された状態で俘虜収容所にやってくるセリアズ。
ヨノイのことを自分と同類であると感じ、文字通り命がけでヨノイのことを救うが、映画ではセリアズの心はいったいいつ救われたのか。
ヨノイを抱擁して救うと同時に自分も救われたのか、もしくは夢で弟と和解した時か。
しかし、セリアズ自身がまだ救われても居ない時点で、ヨノイを救うことなど可能だろうか?
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実は原作のセリアズが救われた瞬間というのは、厳密に言うと、弟と和解を果たした時ではない。
セリアズはその前にマラリア熱にかかり、自分がユダとしてキリストと対面する幻を見て、ついに弟と和解しようと決めている。
そしてその瞬間彼の心は自由になり、何年もの間失っていた自然への愛を、再び感じられるようになる。
つまりセリアズにとっての救いは、自分自身の心と和解を果たしたこの瞬間だったということ。
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そして映画では、「歌が歌えたら」の台詞の後に、周りを見渡すようにしておそらく風景のことを「美しいな。」と呟く台詞がある。
こういう言葉が飛び出すということは、この時点でセリアズは既に自分の心と和解を果たしているということになる。
ローレンスに自分の罪を懺悔することで、弟に謝りたい気持ちを自覚し、和解したいと願った彼の心は、恐らく届いたのだ。
弟に心が通じ、音楽/歌でもって弟が語り掛けて来てくれている。
セリアズもそれに応えたい。
だが、自分には歌が歌えない。
では弟の歌に応えるには、一体どうすればいいのか。
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そして目前に現れたのが、狂気に駆られるヨノイの姿であった。
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あの抱擁は、弟に対する返歌でもある。
この時のヨノイは自らの意思でヒックスリーを斬ろうとしているわけでは無く、過剰に「正しいこと」をしようとして自分を見失っているのだ。
ヨノイが自分に向ける視線から、彼が本当は情のある人間であることは恐らく分かっているセリアズ。
彼は周囲の期待に応えて軍人として冷酷に振舞っているにすぎないだけなのだと、原作でもこの時気が付いている。
本当は弟を助けたかったくせに「恒例行事だししょうがないから」と自分すら騙して、 周りが求める「正しいこと」をしようと必死なあまり、弟への愛を黙殺してしまったセリアズと同じように、ヨノイは自分を失って苦しんでいる人物。
そんなヨノイを見て、彼はすべきことをはっきりと悟ったのではないだろうか。
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それは、目の前で苦しむ愛する人を、今度こそ心のままに救うこと。
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愛を伝えたい弟は今いないが、今ここに愛を伝えるべき人物がもう一人いる。
セリアズも最初にヨノイと言葉を交わした時から、多分、彼のことが気になっている。
愉快そうな笑みを浮かべてヨノイの名前を聞き、(退廷するヨノイをじっと見つめるシナリオ版)、それを自覚してもいるし(同じ穴の狢)、「好かれたな」と言われ自分も同じだからこそ顔を伏せたのかもしれない。
心のままに行動することこそが弟への返事であり、セリアズにとって、またヨノイにとっての救いにもなったのだ。
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セリアズに接吻され気絶しても、敗戦しても、ついに自決することはなかったヨノイ。
押し付けられた価値観よりも、敗戦を恥とは思わない(そしてひょっとしたらセリアズに救われた身をみすみす捨てたくはない)自分の心を優先させたのだ。
それはあの接吻が、命を懸けたセリアズのヨノイへの救済だったことが、しっかり伝わったということ。
抱擁の瞬間にセリアズが自分の背負ってきた苦しみから解放されたように、ヨノイもまた同じだった。
ヨノイもまた、自分の心を取り戻すことが出来たのだ。
ヨノイを救いえたことを、彼に髪を切り取られた瞬間、セリアズは知ることが出来たのかもしれない。
まるで、そのことに安心して事切れてしまったかのようなセリアズ。
その顔は、微かに微笑んでいる。
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原作には弟のあの歌に続きがあり、それは炎の傍らでずっと待っていた人の元へ、遂にたどり着くというもの。
はるか遠く、炎の傍でずっと待っていた人とは、弟であり、セリアズ自身であり、またヨノイでもあった。
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viriemandwatlangwag · 6 years
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北米版戦メリブルーレイ
特典のインタビューなどが最高だったので、感想や妄想を交えてメモ。
日本版でこれらが収録されているものないんですかね...?
とりあえず、英語分かる方にはおすすめです。
日本のプレイヤーで視聴できました。
https://www.amazon.co.jp/Merry-Christmas-Mr-Lawrence-戦場のメリークリスマス/dp/B003UM8T3K/ref=pd_cp_74_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=PXBDVYTVED20SACH6QRX
ボウイ氏のインタビュー「大島監督の映画に登場するキャラクターは社会により、多くの場合は性的に抑圧されていて、それが暴力的な形となってブレイクスルーするんだ。この映画もまた、国、準軍国主義、そしてやはり性的な抑圧と、暴力的な形でのその発露という問題を扱っている。ヨノイとセリアズが互いに見出す共感が一体、性的なものなのか或いは精神的であったのかは明白でないけど、多分両方だろうね」(やっぱり両想いじゃないですか!!!ボウイ氏と解釈一致したので、もう何も怖いものないです!!!!)
大島監督(もともとは日本語でされたインタビューを英訳したものが冊子に掲載されていたので、さらに日本語にして抜粋しました。オリジナルの日本語インタビューどこで読めるんでしょう)「(愛のコリーダと戦場のメリークリスマスの繋がりについて)愛のコリーダでは身体的接触によるエロティシズムを描いたが、戦場のメリークリスマスでは身体的接触は描かれない。正反対の方法(精神的接触)で、エロティシズムを表現したかった。私たちは、人間同士が何らかの形で繋がりを持とうとする行為に、エロティシズムを見出す。」
メイヤズバーグ氏 「大島渚監督は『違う、絶対同性愛じゃない、戦場での男はこうなるものなんだ』と言っていたけど。でも同性愛的に解釈されると思ったし、案の定カンヌの後そういう反応を受けたよ。実際ヨノイはセリアズに一目ぼれをするしね。
......セリアズはクリスチャンだから、自分が昔犯した裏切りを罰せられねばならないと思っている。しかもその罰は、巡り巡って彼を愛してしまった男により与えられるんだ。(すげー胸熱だけど罰って何のこと言ってるんだ。ヨノイ何かセリアズに罰っぽいことした/しようとしてたっけ?俘虜長にしようとしていたこと?)
......当時ヨノイのような役職の人物は、本当に化粧していたんだよ。仮面をつけるみたいに、体裁を保つためにね。当時の天皇が非人間的な存在だったように。捕虜たちを動物のように扱い、自分たちは常に身ぎれいにして人間らしい尊厳を保つ事で線引きをし、情を抱くことを避けた。だがよりによって捕虜と関係を持ってしまう人こそが、化粧をし、制服にも染みひとつない、誰よりも人間離れしたヨノイなんだ。捕虜に恋をしてしまう彼は、その実誰よりも中身が人間だから。
…不思議なくらいあっさりと死刑になったことが明かされ、とても静かに物語から退場してしまうヨノイ。まるで現世を置き去りにしたセリアズとヨノイ二人の魂が、一緒にどこかへ旅立ってしまったみたいだよね」(←というとんでもなくロマンチックな締めくくり方をするメイヤズバーグさん。二人の関係をaffair呼ばわりしたり、監督の意見を跳ねのけてやたら二人の同性愛を推す脚本家...)
トム・コンティ氏「セリアズは同性愛じゃないと思う。ヨノイも違うと思うけどな」
メイヤズバーグ氏、キャラクターや関係性をパラレル上に、出来るだけ鏡のように対立させたとも言っていましたが(例:ヨノイとセリアズ、ローレンスとハラはパラレル的存在)「カネモトとデ・ヨン」と「ヨノイとセリアズ」という関係性も、また鏡でしょうね。
アジア人が西洋人に惹かれ、結果想いが通じ合い二人一緒に死んでいく様は、ヨノイとセリアズがこれから辿る運命を暗示するかのよう。
作り手の意見がかなり入り混じっていて、面白かったです。
何にせよ、厳密にいえば同性愛ではないけれど、エロティックなものは二人の間に存在していたということで…
抱擁の時にぴったり寄せ合った頬だけが、二人が共有することのできた熱だったんですね...。
映画ではセリアズもヨノイと同じく抑圧されているので、原作と違いかなり官能的なタッチになっているんだな、と思うようになりました。
戦場で、敵同士で、人種も違って、まともに言葉も交わすことも叶わず、それでも繋がろうとした二人。
「抑圧=エロス」がキーワードのひとつですね、戦メリは。
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viriemandwatlangwag · 6 years
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デ・ヨンと十字架
カネモトに犯された被害者であるはずが、割腹自殺をしたカネモトの目の前で舌を噛み切ってしまうデ・ヨン。
カネモトを実は愛していたから後追いした、というだけの単純な話ではない。
当時、同性愛が固く禁じられていたのは、神の教えによるもの。
カネモトに襲われた旨をローレンスに説明する際首の十字架に触れるデ・ヨンは、敬虔なクリスチャンであり、恐らく神の教えを疑いなくずっと守って来たのだろう、と想像がつく。
そんな彼の身に起こったことはまさに青天の霹靂であり、特に気弱で善良そうな彼が、罪の意識を感じるのは当然のこと。
その後表情から生気が消えていく彼は、強姦されたことに深く傷つき、追い詰められているようにも見える。
だが、死にゆくカネモトを見て悲痛の声を上げながら舌を噛み切ってしまうことから、そうでは無いことが分かる。
三日間優しくしてくれたカネモトに情が移っただけではなく、彼を心から愛したのではないだろうか。
何故なら自殺の瞬間に彼は、かつては縋るように触れた首の十字架を、手で引き千切ってしまっているのだ。
つまり彼はこの間ずっと、神への愛とカネモトへの愛との間で迷い続け、死にゆくカネモトを目にした瞬間、後者を選んだということに他ならない。
敬虔なクリスチャンにとって恐ろしいこととは、他人に危害を加えられることではない。(むしろそういうものから守ってもらうためにこそ信仰はある)
本当に恐ろしいのは、自身が誘惑に屈するという罪を犯してしまうことである。
デ・ヨンが追い詰められた様子だったのは、恐らく彼自身がカネモトに心惹かれていることを自覚しており、罪人になってしまうことが恐ろしくてたまらなかったのではないか。
神の加護を受けて生き続けるために、誘惑を振り払い、カネモトへの愛を捨てようとしたはず。
だが死にゆくカネモトを見たデ・ヨンの心は、カネモトへの愛に傾いてしまった。
神の加護を受けることはもはや叶わず、かと言ってカネモトと共に生きることも出来ない。
十字架を引きちぎることで神を捨てたのか、それともカネモトと自分に神の加護があるよう最期に願ったのか。
どちらにせよ最後に残された道は、死ぬしかなかったのだ。
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