日本の空間における光は、ただ闇という原型質のなかに、時たま明滅するだけのものだ。陰翳と谷崎が呼ぶのは、光が投げかけられたときにつくりだされる影ではなくて、光が闇の中をよぎるときにときに取り残されたすべてなのだ。それゆえに、光は絶対的ではあり得ない。常に一時的であり、かならず消え去るために存在するものなのだ。そのように空間は光の濃度となって出現するが、その濃度は変化し、遂には闇となって消えてしまう。日本の空間にはたちこめる闇がかならずつきまとう。そういう闇は対位法とはなしえない。絶対的な暗黒であり、あらゆる現象がそれを背景としてはじめて起こりうるような、ぼくらの観念を内側からささえているなにものかだ。
磯崎新「空間へ」p173
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メンバーが辞めた気がしないというのは、たぶん僕らは敗北を知らないまんまということだと思うんです。何かに敗れて辞めるわけではなくて、まあ、これは、勝ったまんま終わるんですよ。勝ち逃げっちゅうやつですね。でも、僕らが毛皮のマリーズである以上は、常に何がしか勝利を手にしていないと、毛皮のマリーズではいられなかったし、じゃあ、なんで辞めたんだって言われるならば、酷な答えを出さなければならないけど、これ以上は僕ら4人では勝利を手にできない季節が来るであろうと予測できたからであって、だからぼくは今辞めようと思って。何か大きい勝利を手にしたまんま、この季節を終えようという。
「完全犯罪、或いはそれに似た -毛皮のマリーズ ラストライブ "Who Killed Marie?"」より
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場所とは、アイデンティティを構築し、関係を結び、歴史をそなえるものであると定義できるならば、アイデンティティを構築するとも、関係を結ぶとも、歴史をそなえるとも定義することのできない空間が、非―場所ということになるだろう。
マルク・オジェ「非-場所 スーパーモダニティの人類学に向けて」p105
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永遠が崩れていくような感じがして好き
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