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#酔うと化け物になる父がつらい
mangacapsaicin · 9 months
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mariko kikuchi’s a life turned upside down: my dad's an alcoholic || 菊池真理子の『酔うと化け物になる父がつらい』
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kushanna · 1 year
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A Life Turned Upside Down: My Dad's an Alcoholic | 酔うと化け物になる父がつらい
Mariko Kikuchi
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tutai-k · 4 months
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2023年が終わるらしい
2023年のはじまりは、3月から転職も決まっていたし、持病の悪化による日常生活への不安もあったので、2月いっぱいまで休職した。 療養もかねて尾道に一週間滞在したが、出発の日に地元が大雪ですっころび、カメラのレンズを破壊するという暗黒の始まりを告げるなど、つらいことがたくさんあった。 2月も、結局、休養することがないまま、次の職の仕事をずっとしていた。どこかで休みたいと思いながら、全く休めないまま、2023年が終わりそうだ。 意外だったのは、誰の力も金銭的援助も借りずに十年近くひとりでやってきたこと、というのは、なんだかんだ「使える」ということだった。通用するんだ、これが。というおどろきは大きかった。手応えがあったとか、結果が出たとか、そういう意味ではなく、するっと不安なくやっていける。いままでやってきた、他人の顔色をうかがい、他人の動作に合わせて平均的に働くというのとは違った。積んできたものが、無駄にならない機会に巡り会えてよかったと思う。 休みたいと思いながら、休めないでここまで来たし、年始の休みも8日まであるけど、いろいろと休めないことが多い。雇用契約のある労働は休みだが、個人的な仕事はいくらでもあるし、なんなら山積みになっている。九日間で終わるのだろうか…と思いながら一日目をもう半日終えてしまった。(2024年のしいたけ占いには、おまえはだいたい気づいたら働きまくっていて休んでない、みたいなことが書かれていてちょっと悲しかった)
毎年毎年、何を年間のまとめに書いていただろうかと思うわけで、今年も悩んでいるわけだが、全然答えが出ない。とりあえず、読んだ本とか作った本をまとめていたような気がするから、それをやる。
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★作った本★ 1月 『山梔の處女たち』 pixivのいつだったかの百合文芸で佳作をもらったオメガバース百合「首輪とロマンス」、恋愛/性愛から離れたところで手を取り合う少女たちの魔法学園小説「魔女の選択」収録の短編集。Kindle版は、いつだったかのKino-Kuni文学賞で大賞をもらった滅び行く漁村の女二人の物語「迎え火」も収録している。
5月 『けものと船乗り』 現代物、というか、現実世界の不均衡や理不尽に焦点を当てたものがたりを多く書いてきたな、という自覚もあり、あと「幻想文学はもう書かないんですか」とたくさん声をかけてもらったりもしたので、ひさしぶりに幻想文学らしい幻想文学を。 全ての船を沈めてしまうけものが棲むという「島」を望む岬でまちのひとたちにこれまた「けもの」と呼ばれている存在が、船乗りを拾って海へこぎ出そうとするお話。 『ヤールルカ』 写真家の女の短い物語。撮ること/撮られることの暴力を考えているので、そのこととかを中心に、これは短い物語だったが、もう少し長く書けたらいいなと思ってちょっとずつ書いてる。ひとつ、暴力的な経験を「してしまった」ので、それも書けるか…とすごくいやな気持ちになりながら思っており、だが、これは書くことでしか報復も抗議もできないという思いがあるので、この物語とは2024年以降きちんと向き合いたいと思う。
9月 『ゆけ、この広い広い大通りを』 日々詩編集室から出た本。二児の子持ちの専業主婦・バイクと音楽がすきなトランスの女性・都会で働けなくなったフェミニスト、三人の同級生が「地元」でささやかな試みをするお話。 「ちがいのある人がともに過ごせる共有地をつくる」をコンセプトにしている団体を母体にもつ出版社から出る本だったので、いろいろ考えたし、思っていた以上にいままで読んでくれていたひと以外のひとに受け取ってもらえてよかった。自分が持つ切実な課題とかもたくさん載せた物語だったので、ベストをつくしたし、2023年のベストだと思う。この物語に全力をつくしていたので、2023年は、ヨモツヘグイニナでは大きめの物語は作らなかった。 この本は、ヨモツヘグイニナの通販の他に、本屋lighthouseさんとか、シカクさんとか、mychairbooksさんとか、日々詩編集室とかでも買えるので、お気に入りの書店さんで買ってもらえるとうれしい。 『いづくにか、遠き道より』 再録短編集。たくさんたまっていたのでつくった。2014年に書いた小説とかをおそるおそる読み返したら、思っていた以上に「小説」だったのでほっとした。
11月 『アルバトロスの語りの果てへ』 売れない作家のノイと、そのパートナーで人気役者のターが、アルバトロスの繁殖ボランティアに参加するお話。 物語を自分自身が語るとき、そこには当然自分も含まれている物語のこともあるし、そうでないこともある。だけど、埒外にあっても内にあっても、ひとは、語ったり語られたりせずとも、勝手に他者に物語を見いだし、それを消費してゆく構造がある。『山梔の處女』収録の「魔女の選択」によく似た内面を持つ物語だと思うが、他者のふるまいや言動に「物語」を見いだすとき、「なにを見ているか」に自覚的になりたいよね…というようなことを考えながら書いていた。
12月 『浜辺の村の大みそか』 日々詩編集室で出た小さい本。『浜辺の村でだれかと暮らせば』の番外編みたいなやつ。いまから日和と八尋がやったような大晦日をわたしも過ごします。
★読んだ本とか観た映画そのほか★ 色々読んだけど、印象深かったものについて。 『銀河英雄伝説』全巻 銀英伝のコンセプトバーやカフェにいくので読んだ。相変わらずめちゃくちゃおもしろい。 『豊穣の海』全4巻 来年参加する八束さんのアンソロジー父親の死体を棄てに行くやつの資料(?)イメージをつかむのに読んだ。今西が金閣寺のように燃えて、それを本多が眺めている(『暁の寺』)がよかった。あと、大人になって読み返してみると松枝清顕……「全部おまえが悪いじゃん!」ってなるのがおもしろかった。勲に対しては共感するところも多かったし、あいかわらず『天人五衰』が一番好き。 『雨の島』 今年の1月1日に読み終えてた。呉明益の本、『歩道橋の魔術師』も読みたいんだけど、未訳のチョウチョのなんとか…?が読みたい。 『苦海浄土』 ネイチャーライティングをやろうとすると必ず出てくる石牟礼道子、の代表作。水俣へ3月と10月といくことになったし、石牟礼道子を筆頭に水俣関係の本をとてもたくさん読めた一年だった。とてもよかった。来年は『水俣病を旅する』『苦海浄土』(全3巻)を読みたい。 『アフターヘブン』 八束さんの本。めちゃくちゃよかった。 『フィリックス・エヴァー・アフター』 すっごくおもしろくて、何度でも読み返したい! 『鋼鉄紅女』 最高だった……「地獄へようこそ……」って武則天が宣言したところから、もう一気に読んだ。家父長制と、男女の二人の「ペア」というかたちに反旗を翻す最高のSF小説。 『私と夫と夫の彼氏』 2023年で読んだ中で、一番一番おもしろかった漫画!11巻が待ち遠しい! 『琥珀の夢で酔いましょう』 この漫画もめっちゃおもしろかった~! 『父の時代、私の時代』 堀内誠一の自伝的エッセイ。「ウッチェロ!!!!!!!」澁澤龍彦・瀬田貞二との思い出を添えて。めちゃくちゃ古本価格高騰していたので文庫で出してくれてありがとう! 『ガザに地下鉄が走る日』 ずっと読みたかったけど、なかなか読めずにいて(岡真理さんの本は『記憶/物語』を2020年に読み、もう一度これも今年再読した)やっと読む。見過ごしてしまわないように、何が出来るかを考え続け、アクションを取る、できることをやるしかないんだけど、「人間が人間として生活するということ」が、誰にでもある世界にたどり着きたい。 本だと、吉田育未さんの翻訳作品を井上彼方さん/紅坂紫さん編集の『結晶するプリズム』で知り、『聖なる証』『星のせいにして』を読む。めちゃくちゃおもしろかった!年越し読書本は『イエルバブエナ』。「このひとが翻訳している本ならぜったいおもしろい!」という翻訳者さんに出会えたのがうれしかった。 映画もいろいろみたけどとくに『バービー』『his』『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』がよかったな~。結局体力がなくて窓際のトットちゃんを見に行けなかったのがちょっとさみしい。 さいたま文学館で開催されていた澁澤龍彦の展示にはいけた。パンケーキも食べた。 12/24にITOプロジェクトの『高丘親王航海記』を見に行く。それについてのくわしいことは静かなインターネットに書いた。
★旅行★ 「今年はいろんなところへ行ったんじゃないですか?」と言われたけど実はあんまり行ってなかったりする(さみしい) 1月 尾道 ライターズインレジデンス尾道でまたみはらし亭に滞在する。だいたい伊勢うどん食べてた。 3月 水俣 はじめて水俣へ。というか九州自体がはじめて。いろんなひとに出会い、いろんなことを学び、いろんなおいしいものを食べた。『常世の船を漕ぎて』を水俣病歴史考証館で買った。 5月 東京 行ったという記憶しかない。なにしたっけ…?なにもしてないのか…もしかして…。 9月 大阪 銀英伝のバー「海鷲」へ行く。ロイエンタールの透けてる板を買った。文フリ大阪も行った。 10月 東京 銀英伝のカフェ「イゼルローンフォートレス」へ行く。かおりさんと会う。ながいことSNS上ではお付き合いがあるのに生身で会うのは初めてで、だけど「すっぱいものきらいだもんね」とか長年付き合ってきた人間同士の会話ができてとてもおもしろかった。次の日は吉祥寺や多磨へいき、緑色のインコとオナガを見る。 水俣 ふたたび水俣へ。熊本市内も立ち寄ったが、土砂降りだったので熊本大学と、橙書店へ行く。島尾ミホと石牟礼道子の対談集というめちゃつよBOOKを買った!めちゃくちゃ楽しかった。 11月 文フリ東京。ヒマラヤ鍋を食べる。次の日は埼玉文学館へ。武蔵野うどんに衝撃を受ける。
★来年の予定とか★ 1月14日に文フリ京都。辰年なので澁澤龍彦のコラージュみたいな『兎島にて』という本をだします。こういう物語で「兎」って単語がでると、誰か特定の人をみんな思い浮かべると思うんですけど、その特定の人は卯年のわたしです。他の誰でもありません。 3月までに出さないといけない原稿がめっちゃいっぱいあるので頑張ってます。 オープンにしてるのは八束さんの家父長制アンソロだけだけど、そのほかもまた媒体に載るなどしたらお知らせします。 やりたいことは、三宅島・舳倉島・天売島、この三つのどれかの島にいきたい!2023年は労働が忙しすぎてぜんぜん鳥写に行くことがなかった(かなしい)一年になっちゃったから、2024年はちゃんと鳥写したいです。 あと、日々詩編集室から『ゆけ、この広い広い大通りを』もでたことだし、もうちょっと小説を書いて発表する幅みたいなものをひろげたいかなと思っている。つらいことがたくさんありすぎたから、アンソロは主催も参加もいやだったけど、そういうのとか……あと、書いたらお金がもらえるタイプの原稿とかも、書ける媒体があるのなら書いていこうかと思っている。 これはずっとそうなんだけど、賃労働をしながらほかにわたしの体力で「できる」ことが「小説を書く」ことしかなかったので……。タイミングや機会があれば、頑張ってみようと思っている。
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yukamiliya · 3 months
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今日も例に漏れず酔っ払いました。
私は気持ちの整理をするのに言葉を出して繰り返し目で追って自分でふむふむとなって納得していく方法がとても心地よいので今日も整理として書きます。
私自身のことなので必要のない方はお帰りください😌
また良いタイミングで近づいてね
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ここ数日はほどほどに向き合ってほどほどに目を逸らして悲しくなったり楽しく過ごしたりを繰り返している。
父が病気になってから看取るまでの間、私自身の死生観は大分変わったと思う。
今までの私は割といつ死んでもいいし見える物以外知らないしかなりドライで自分も、他人の痛みですら無視する節があった
死を前にすれば何事もどうでもいいじゃない、的な少し自暴自棄的な思考だったと思う
父が余命が短いと言われ、父の死に向き合うにあたり、死にゆき自分の意識がなくなってしまうということはなんて悲しくて寂しいんだろうって思うようになってきた
それだけその期間に関わる人のあたたかみとかを覚え、離れ難いと思ったこともあると思う
でももっと根本的な部分で捉え方が変わったなと思って。母とちゃんと向き合えなかった?こととか、すべてをひっくるめて、ふたりは私の事許してくれるよねって思たような気がしてるんですよね。
こんなどうしようもない私やけど、しょーがないなー、でもこんだけやってくれてありがとうねと、思ってくれているだろうなってようやく思えたのかもしれない
ACP(アドバンスケアプランニング)のことも、父の病気が分かってからは割としっかり話せたなと思っていて
父も私が強いから頑張ろうと思うと言ってくれて
でもこういう知識がなかったらきっと戦えなかった
ありがたいけど、知識がなくてモヤがかかった状態で戦っている人たちはどんなだろうと考えてしまうよね
父は緩和病棟の看護師さんに
「自分はずっと仕事ばっかりしてきて娘には好きなことを自由にしてほしいって伝えたらほんとうに好きなことしかしてない。」と笑いながら言ったそう。
私にはもっと私のことを見ていたいなーと言ってくれた。
見せてやろうじゃん!て、気持ちです
話は変わるけどヤングケアラーの本を読んだ
うっすら思ってたけど言語化?形骸化???するのは苦手だったのでそうだとは敢えて思わなかったけど、私と似たようなエピソードを持つ人がいて安心した
し、きっと自分でその時に気付けないしんどさを持つひとびとに何か関われたらと思ったわけですよ。
ちょっと色々構想段階なのだけど、行動に移そうとしているのでまっていてくれ。。
まだ頭がぼーっと回ってないようなかんじです
ここで整理させてもらいつつ、ゆっくり考えていこう
ぼかぁ今日だいぶ頑張った〜
明日もほどほどに、がんばろ
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movie0924 · 8 months
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映画『こんにちは、母さん』
前売り券を持って公開日の9月1日に映画館に行ってきました。いつもより混んでいる映画館を見て今日がファーストデイってことに気付いて、映画製作に携わるものとしてこんな事思っちゃいけないんだけど、少しショックをうけちゃいました。円安とか価格高騰とか水道光熱費の増加とか…やむを得ない事情ではあるけれど、映画料金の値上げによって映画から離れていく人も少なからずいるのかなと思うと少し悲しい。ファーストデイやレイトショーを活用してお得に映画を楽しんでいただければと思います!はい、決して映画館の回し者ではないです。そんなこんなで今回も映画を見てから、ながのによるながの視点のながのの為の感想文(ネタバレ含む)を読んでいただけたらと思います。皆さまからの感想もお待ちしております。
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「おかえり」「ただいま」が夢のように優しい山田作品。今回は「こんにちは」。新しく知った恋する母の素顔に、新しい生き方を選んだ自分に「こんにちは」! 連なるビル群が邪魔をして青空は半分しか見えなくて、何度も映り込むスカイタワーが象徴するのはきっと便利さを最優先とする現代社会。そこから下を見下ろせば、まだまだ残っている昭和の下町のような雰囲気と人とのつきあいを大切に生きる人々の暮らし。二階がきしむ音、セミの音、やかんの音、花火の音、土間から居間を映すカメラワーク、夕方の窓から入る日差し、昭和の時代に生きてそれらを直に感じたわけじゃないのにどれも懐かしく感じるような、時代が変わっても変わらない生活を続けている人達がまだいるという、素晴らしく温かい演出から感じられる山田洋次監督の健在さが沁みた。あんな人情味溢れた下町が本当にあったのかとか、さすがに平成のこの時代に残ってないだろとか、少なからず古臭いという人もいるんだろうけどそういうことじゃなくて。人にはこうあってほしいという小さな〝願い〟のようなもの。
吉永さんが演じるのは神崎福江。吉永さんは相変わらず美しくて可愛くて暖かくて、そんな魅力的な部分が福江さんにもリンクしている瞬間がたくさんあって素敵。ころころと変わる幸せそうな表情から何歳になっても恋ってするんだなぁって嬉しくなったし、そんなおばあちゃんを一番近くで見れて応援できてキュン!ってして恋っていいなって感じた。そしてなにより、恋してるおばあちゃんは凄く可愛かった。お酒を飲んだ時の明らかに酔っているわけではないけどいつもと少し違う、そんな言葉では表現できない小さな変化に、吉永さんが演じる〝母さん〟の人間味を感じた。冒頭でも似たようなことを書いたけどやっぱり吉永さんはお綺麗。ながのもあんな風に歳をとりたい。 大泉さんが演じるのは神崎昭夫。大泉さんらしさ全開のコミカルで癖のある少しオーバーな演技は、喜怒哀楽の起伏がある人情劇にはぴったり。大企業の部長になっても母親の前では子どもっぽい父は、父であり子でもあり、見ていて微笑ましかった。妻との離婚問題や娘との関係、会社の人事問題に最後には退職と不幸が重なりどん底に落ちるのだが、そこでの一言「落ちきればあとは上がっていくだけ」という言葉はまさにその通り。不幸はその人間の主観に過ぎなくて、捉え方によって不幸か幸せかなんて簡単に変わってしまうように見えた。ながのとしても舞としても、やっぱり父や母に対してある種の甘えみたいなものから気持ちが高ぶる瞬間があったりぶつけたくなったりもして、だけどそういうのを全部受け止めてくれる〝お父さん〟でした。 そしてながの演じる神崎舞。ながのにとっては2度目の山田組。吉永さんと大泉さんの心地いい掛け合いから作られていく世界観に、二人の前には出ないけれどしっかりと魅力的に支える舞の人物像が見えた。吉永さんにとって福江さんは初めての〝おばあちゃん〟役。ということは、吉永さんにとってながのは初めての〝孫〟役。「一緒にやって、おばあちゃんになって良かった」そんな言葉をいただけて〝孫〟として生きれたことを誇りに思った。最初は家出をし心が荒れている舞だけど、終盤には一緒に花火を見に行くような異性を見つける。不幸から幸せへ、父とは逆の描かれ方。舞の目が希望に満ちていればいいなと願う。山田組に再び参加できたこと、そして約2ヶ月という短い期間だったけど、吉永小百合さん、大泉洋さんと家族になれたことをとても光栄に思います。
「二度とこの家に戻ってくるか!」と言って家を出たいい大人が、最後には生家に戻り母と暮らす。不安、不幸、生き方をお互いにさらけ出し、新しい一面を見た親子の暮らしがここから始まる。「ただいま、母さん」じゃない。「こんにちは、母さん」!
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blue-aotan · 9 months
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ハロー(´ー∀ー`)2023.8.1
最近の推しは間宮祥太朗さんです。
(いきなり何の話やねん
今期のドラマ…真夏のシンデレラはもう切ります←間宮くん見たいけどあまり面白くない😭
自然にバッタリ出会うとかじゃなくて、なんかもうストーカーかなというレベルで接点を作る脚本に私はちょっと無理やなという気持ちになってしまったよね。
(あと幼馴染の男にイライラする←
好きだから会いに行く、みたいなのは分かるけどね。
吸い寄せられるように行ってしまう、みたいなのもあるよね😂
というか!!!
この間、また職場でイラっとする事があったんですよ
(¬_¬)
(日々ババーにムカついてるけど←
取引先の営業のおじさんで、この人めちゃくちゃゴマスリ野郎で元々嫌いだったんだけどこの間なぜか話しかけられて、どこ住みですかー?みたいな。
で最近引越したんですよねぇ一人暮らししたくてって言ったら
「え?ここから地元もめっちゃ近いのに?わざわざ一人暮らしがしたいだけで?」
とか半笑いで言われたんですよ。
あぁん!?💢
何やキサマ
ゴマスリのクソジジーが
てめえに私が何か迷惑かけたんか?何でそんな言い方されないといけないんだ?
お前が納得する理由じゃないと一人暮らししたらいけないのか?
老害クソジジーは黙れ!
カーッ(゚Д゚)≡゚д゚)、ペッ
って心の中で言っておきました💛
こういう言い方しかできない人、いますよねー。
自分よりも立場の上の人にはヘコヘコゴマスリしまくるくせに、女とか目下の人は見下してハラスメントしてくる奴。
こんなしょーもない大人にはなりたくないですね。
私が今まで出会ったクソジジーの体験から、クソババーも大概ストレスなのですが既婚男性から受ける独身差別とか結婚マウントとかも結構えげつなくてタチ悪いなーと感じています。結局全部モラハラだよね。
既婚=ステータス
ってそう考える人もいるんだろうけど、そこを勘違いして自信過剰で何を言っても許されるor自分のやり方が正解みたいな人いますよね。
社会的地位もあって家庭もあって自分に自信があって満足してて自己陶酔して、だからといって人を傷つけるような事言っていい訳じゃないし社会的に成功しているからといって人間関係も成功している訳じゃないんよねーそこ勘違いしないでもらえます?
って思う。
自己陶酔の痛い既婚男性って結構みかける。
そういう人は自分を振り返りもしないし、結婚までに苦労してない人なら未婚差別も平気ですると思う。
結婚したくてもできない人の気持ちなんか分かる訳もないし考えもしないし配慮なんてない。
結婚してるしてないに関わらず、人間力の乏しい人とは距離を取るべきですね。
既婚や未婚で差別し、人を蔑んだり馬鹿にしたり地位や財力で人を値踏みするような輩はみんな足の小指を角にぶつける呪いをかけておきまーす😌
毎日小指粉砕しろ🥹
色々言いたい放題しましたが、これが既婚差別と言われ逆ハラになると言われるのであればもうお手上げですわ🤷‍♀️
話が通じない人間ってどこにでもいますからね…
一生分かり合えることはありません。
これが私が20代とかで結婚してる世界線があったら、それはそれでまた違う価値観の元に好き放題言ってるんだろうねぇ…
環境によるものって(考え方とか)大きいよね。
人間って勝手な生き物だよね←
40〜50代の男性が20代女性に対してデレデレしてるのが最近本当に無理で、また私の男嫌い(病気)が加速してます笑
職場の40代既婚男性も「若い子は皆可愛いーー」とか言ってたし(盗み聞きw)それを聞いてたおばさんが「若い子には優しいけどあたしらおばさんには冷たいもんねあなたは」って言ったら
「そりゃそうでしょ、だって若い子は可愛いんだから」
って普通に言ってて耳を疑ったよね←
こんな世界もあるのね。
そういうデレデレおじさん達は、若い子達にいいように利用されて都合のいいただの金ヅルにされてるんだよねってこと。
荷物持ちやら便利屋にされてるだけなのに、進んで若い子に何でもしてあげるアホ男をおばさん達は冷たい目で見てるんだよねってこと。
傍から見たらかなり滑稽で馬鹿馬鹿しいよね。
そして心が荒んでいく笑
職場のババーがね「私の娘結婚できるのかしら〜汗」って言ってて、そもそも何で結婚しないといけない前提な���だろう?って疑問に思ってたら別のババーが
「大丈夫大丈夫!女の子はいつの間にか相手ができてすぐ結婚するんだから!」
って言ってて、いつの間にか相手ができないし結婚してない人がここにいるんですけど?ってなったよね。
その謎理論なんなん?
みんな結婚できて当たり前なん?
何で既婚者の方が身分上みたいな言い方なん?
って色んな疑問が光速で頭の中を埋め尽くしたけど、一瞬にして無になりました←
田舎のクソババー理論←
最低しかない😇
田舎のクソジジー理論もありますよ〜
昔言われたのは「女は子供を産んでからが一人前」
死ねばいいのに😇
荒む心を止められない←
そんなこんなで現実逃避の為に
「ミッションインポッシブル デッドレコニングパート1」
観ました。
2時間45分もあったんだよ。それで2部作←
シリーズでは7作目。
ネタバレありますので注意⬇️⬇️⬇️
映画サイトのレビューはびっくりするくらい高かったんだけど、あお評価は★★★☆☆3.5です。
高評価の理由はきっと、トム本人によるアクションシーンがすごいからだと思います。
それはね、本当にすごかったです。
(表現力なくてごめんなさい
すごかったんだけど、私的には始まって2時間くらいは退屈なシーンも多くて何回か眠くなったよね←
アクションシーンもあるんだけど、イルサがいるのに他の女とのロマンスコメディっぽい流れがあったりだとか😕
潔癖の私にはちょっとそれどうなのって感じだったよねー。
今回ベンジーがめっちゃ走って頑張ってた気がするwこのシリーズにおいての1番の癒し系だよね☺️
終盤40分くらいが本当に面白くてね。
映像・迫力がすごくてトムクルーズは化け物か?って(褒め言葉)思ったよねー。スタミナオバケ←
トムって本当、エネルギーの塊みたいな人だよね。
根暗ですぐ表情が死ぬ私からしたら、根明でポジティブエネルギー全開な人って本当に羨ましいんだよね。
(一緒に居たら疲れそうだけど笑
私が願うのは、体を張りすぎて撮影中に事故とかで亡くなってほしくないな…ってことだけです。
この映像体験はトムだからできる事なんだろうな。
そして今回イルサが死んじゃうんです😭
もう…これ以上イーサンに試練を与えないで😭
そして黒幕がAIって、いかにも現代の問題なのよねぇ。都市伝説寄りというか、もしかしたらこれが現実になるかもしれないというか。
これはどうやって終結させるんだろうか…って思いました。最新テクノロジーを駆使してスパイ活動してたことが、AIに逆手に取られて後手後手になってしまうって問題です。
アクションは凄まじいんだけど、ストーリーが私としてはいまいちで…やっぱりゴーストプロトコルが1番好きなんだよねぇ。
でもパート2も観に行きたいと思います。
それと。
アマプラにて「ガールインザベースメント」を観ました。
これは父親が実の娘を地下に監禁して子供を4人産ませる話で…なんだこの胸糞悪いストーリーは!と思っていたら何と実話なんだってね。
事実は小説よりも奇なりとは言うけど、こんな地獄みたいな現実…怖すぎますよね。
でもこんな状況になっても自死を選ばなかった娘、すごくない?って思った。
やっぱり現実って残酷だよね。
このブログを温めているうちに、また書きたい事が色々あったのですが長くなりそうなのでまた次回です
(´ω`)
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aizumin · 10 months
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ムー旅 平将門巡り「胴と首をつなぐ」崇敬の旅 ・その2
さて、再び🚍に乗り込み、次の目的地は東京に戻って神田明神……ですが、高速に乗ってしばらくした所で渋滞にハマりました😰
運転手さんが頑張ってくれて、何度も車線変更しつつ行ってくれるのでそれ程はノロノロ運転というわけではなく、完全に止まることもほぼありません。ところが、ここで地獄に陥った方がお1人。🚍内で缶🍺を持ち込みほろ酔い気分になってたのが、いきなりの尿意に襲われたそうで。いつものクールなイメージがすっかり崩れ落ちるほど悶絶しまくられた挙げ句、松原タニシ氏からは、
「尿意(如意)輪観音のご加護」
という凄ぇパワーワードを送られーーあまりにも素晴らしい弄りに🚍内大爆笑でした。さすが関西出身だけあって、弄り方がプロですな😅他にも「平将門の呪い」って仰ってたけど、そこは濡れ衣だと思います😂
そうこうして東京はまだかーーなどとなっているうち、三郷を過ぎいよいよ限界が……😖となったところで。
八潮PAの看板が!!
救いの神です。迷わず🚻休憩が入りました。戻られたあとは、再び「今度からオムツした方がいいんと違います?」と弄られておられましたけど😅
そのままスカイツリーを横目に、堀切~鐘ヶ淵~両国で高速を降りて、浅草橋からお茶の水へ。ここら辺になると、ほぼ庭ですね😊神田明神に到着した頃はとうに6時をまわってましたが、このようになお明るい。
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⛩️の前で一礼して山門を潜ると、おお、さすが6月。夏越の祓の茅の輪がデデーンと目に飛び込んできましたo(^-^o)(o^-^)o
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穢れを祓う為の人形(ひとがた)が貼り付けられています。取りあえずここで神職の方の説明(多分待ちかねておられたんじゃないかと💦💦)があるので、一旦茅の輪くぐりは脇に置いといて。
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神田明神(神田神社)についての説明を受けました。何度かお詣りに来てるので概要は知ってましたけど、やはり奉職なさっておられる方からの説明はそれ以上に知識が深い。
前編では、延命院や國王神社には常駐の神主さんも住職さんも居られないと書きましたが、例祭の折は神田明神(正式名称は神田神社だけど、生まれも育ちも東京在住者にはこちらの方が馴染みが深いので、そのまま神田明神と呼ばせてもらいます)からも神職者が派遣されるそうです。なるほどー😲
そもそも、将門塚保存会から石碑を贈ったりするくらい、坂東市と東京の繋がりって深いんですよね。将門ネットワーク。
神田明神は関東大震災で本殿が焼失しており、現在のものは「二度と燃えるところを見たくない」という氏子さん達の意見を取り入れて、鉄筋コンクリート造りで再建したそうです。当然構造上は木造より強度が増しているので、柱はそれほど必要とはしていない。なのに本殿の支柱が多いのは、日本の神社建築に沿った建物にする為。確かにこの方が威容がありますもんね。
説明のあとは茅の輪を慌てて8の字にくぐり、ツアー参加の皆さんがずらっと並んでいるのを尻目に境内にある波除神社を参拝。ここだけは将門さんとは関係がありませんが、父方の祖父が戦前築地に勤めていた関係で(波除神社は築地からの分霊なんです)どうしても頭を下げておきたかったの!!
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時間に余裕があったら他にも(神社裏の階段とかw)寄りたいところですが、それはまた個人で💪😁
ようやく待っている人が少なくなったところで、本殿に二礼二拍手一礼。本当は神拝詞も唱えたいところですが、あれをやると隣にいる人がぎょっとして、変な人認定される可能性があるのと、時間がないからカット💦💦
すぐに🚍に戻り、最後のそして最大の目的地である将門塚(首塚)へ。流石にここでは日没しており、
薄暗い逢魔が時の中での参拝になりました。
しかーし、
2020年からの改修工事により、以前あった筈の植え込みがほとんど失くなっちゃってる😳
もうね、まっ更な綺麗な塚以外は何んにもない空間なんですよ。
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子供の頃とか、よく「首塚の写真を撮ろうとファインダーを覗くと生首が飛んでくる」という噂がまことしやかに囁かれて、都市伝説となっていましたが、そんなおどろおどろしさは全くなく。単なる史跡になっちゃってました。確かに参拝はしやすくなったろうけど、これはちょっとクリーンになり過ぎ💦💦
恐らく、パワースポットとしての役割はほとんど消えちゃったんじゃないでしょうか?お詣りする人の念が溜まっての意味もあるもんな、アレは😥
ちなみに将門塚の改修工事に伴い、将門塚���延命院とで互いの土を交換しているとのこと。
ともかく、私にとっては付近はさんざん歩くものの、生まれて初めての将門塚訪問。
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い・ろ・は・すで簡単にお清めをして、手を合わせました🙏お賽銭入れにはやはり九曜紋。こちらの石碑が先程の神田山延命院と対をなすものか……どうぞ安らかに東京の街を護って下さいーーそう願って、ここを後にしました。
さて。時間は7時を過ぎ、トークショーとディナーを頂く為に浅���ビューホテルへ到着。こちらが最終地点となる為に、🚍とはお別れです。お疲れさまでした。そして、ツアー初めから色々とお世話になりました🙇‍♀️
運転手さんが親切に教えてくれたお陰で、座席難民にならずに済みましたもん💺
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ホテルでのイベントはムー旅のみだったので、至る所で案内板が💦💦
そして通された宴会場広ーーーい!!
いちテーブル大体5名ほどで、まずは乾杯用のソフトドリンク(オレンジジュースとウーロン茶の2択)が配られました。
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司会はムー編集部のM氏。三上編集長との阿吽の呼吸の掛け合いが楽しいです。ここでパワーポイントを使っての旅の振り返り。松原タニシ氏と同行されたカメラマンの方が撮影されてたのかな?
トークショーは撮影禁止でしたが、ディナーのフルコースのみ撮らせてもらいました。
凄い豪華だったんですよ。こんな本格的なご馳走にありつけると思ってなかった😍💕
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蓴菜の餡といくらの乗った胡麻豆腐、お刺身はマリネされてサラダ仕立て、白身魚(スズキっぽかった)の香草焼き ラタトゥイユソース添え、ほたて入りのパエリア?(サフランライスかな?バターが効いててコクがあり、とても美味しかったです💕最初ちょい少なめについじゃったので、後から余っていたのをおかわりさせてもらいました💦)、コンソメスープ。デザートはいちごのムース フルーツ添え、コーヒーはデミタスカップでしたが、エスプレッソではなかったです。香りが良かった💕
ツアー参加者が食べている間もずっとトークショーは続き、ちょっと申し訳なく思ってしまいました💦💦
トークの内容は、事前に🚍の中で記入してホテル到着時に回収された、参加者からの将門さんに関する質問が中心……の筈だったのに、いつの間にか三上編集長個人への質問が😳
それアリなんですかーー🤣
Q:いつも黒い服を着ていらっしゃいますが、私服なのですか?
A:私服です。そろそろクリーニング代を計上しようかな(え!?)
Q:正月カレーは何日続きましたか?
A:100日続けました(元旦から🍛を食べ続けておられたそうで……それを知ってるムー民の方からの質問が濃いい😂)
Q:お化けを見る方法を教えて下さい
A:出るところに行けば見れます。
ここで、聞きたくなかった情報が……霊能者の方はほぼ体温が低いそうなんですね。私、平均体温が35.6℃なの😰更にコロナが5類になるまでは、外出先で体温測ると大概エラーマークが出ました。34.6℃とかが普通だったから💦💦
ほぼ零感だけど、たま~に怪音を聞いちゃった経験があるのに加えて視える人間が周りにごろごろいるの。てことは、今は視えてなくてもいつか条件が合致しちゃうと、視えちゃうようになる可能性もあるのかも😱
嫌だー、面倒臭いぃーー‼️
トークショーの締めくくりで、三上編集長が「無事かえる」の話をしておられました。これは、将門さんの首が晒されていた京都から戻ってきたことを表しているという説が主流ですが、更に蛙(かわず)⇒河衆⇒河童の意味もあるそうで。行きの🚍の中でたたらの話も出てたもんなー。ともかく、旅から無事に家に着きますように、と。
楽しいツアーでした。ムー的にも歴史的にも、多方面で濃いい話が満載でした。
余談ですが、家にある将門さん関連で読みたいなと思っていた何冊かの📚
もしかしたら、今なら簡単に見つけられるんじゃないかな🤔と考えて、探してみました。どこに置いたかすっかり忘れてて、見つかるまで何時間かかかっても仕方がないかな😥って思ってたんですが……何とわずか15分くらいで全部出てきちゃったんです😌
ご縁が出来るって、こういうことか!!
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hachinana87 · 1 year
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ハミルトン劇評翻訳
ハミルトン独語版(ハンブルグ公演)プレミアおめでとう〜!ということで戯れに2016年のハミルトン評を訳してみました。そもそもこの作品の何が凄いのか?というのが解題されてて面白いです。
なぜハミルトンがミュージカルの歴史を作るのか 
サラ・チャーチウェル  2016.11.5 
【このカッコは私の注釈です。英語やミュージカル全然詳しくないので誤訳必須。気になる方は原文↑読んでね。この記事は初演一年近くすぎて英国公演が迫ってきた時の記事で、ちょうどブレジグットのときでした】 
建国の父アレクサンダー・ハミルトンがブロードウェイのヒップホップミュージカルの意外なスターになっている。来年には来英するが、移民の包括の描写はこれ以上ないと言うほどタイムリーなものだろう 
 7月23日の夜、私はニューヨークの劇場にいて、彼の国の独立、そして連邦政府のために奔走した男についてのミュージカルを見ていた。ジョージ3世が「太海は隆起し、帝国は堕ちる/その間助け合ってきたじゃないか」と歌う間、英国ではヨーロッパ連合を離れるか否かの投票が行われていた。『ハミルトン』がアメリカの独立の物語を来年ロンドンに持っていく頃には、その約束された成功はあらゆる種類の歴史の皮肉を描き出すだろう。 
 『ハミルトン』はアメリカン・ミュージカルの歴史にとって滅多にない変革的経験となった。『ショウボート』や『オクラホマ!』、『ウエスト・サイド物語』のようなゲーム・チェンジャー。その後に出るものを永遠に作り替える革新的な作品となった。しかしこれらの先駆の作品などと違って、ハミルトンは一人の男、リン=マニュエル・ミランダーー作曲・作詞・脚本を全て担ったーーによって作られたのだ(スティーブン・ソンドハイムも同じように全てを担ったが、彼の作品はブロックバスターではなかった)。『ハミルトン』はアメリカのポップミュージックのサウンドトラックと、歴史上最も独創的な脚本を使いながら、アメリカの歴史と現在の政治を結びつける。結果的に、ショウのなかのほとんど全ての歌が複雑な歴史劇コンサートとなる。古風な音楽と現代的な音楽の重なり合いは、歴史上の出来事と現在の政治と混じり合うのと同じようにそれぞれのレイヤーを重ねる。2年もしない間に、「ハミルトン」はボックスオフィスの記録を塗り替え一ー1億ドル以上のチケットを売り上げたーー、演劇関係の賞を総なめにし(ピューリッツァー賞戯曲部門を含む)、他の作品ではこれまでなかったような大仰な賞賛を集めた。しかし「ハミルトン」はそのすべての賞賛を超える作品である。 
 ミランダが休暇中にロン・チャーナウのアレクサンダー・ハミルトンの自伝を読んだ時、彼はすでに成功したミュージカルを作っていた(『イン・ザ・ハイツ』)。(この気まぐれのお陰でロン・チャーナウは『ハミルトン』の売り上げの1%を手にすることとなり、金持ちになった)ハミルトンはアメリカの歴史上の一種の変質を表象していていた。建国の父でありながら、歴史から神話に作り変えられることはなかった。それには多くの理由がある。ハミルトンの立ち位置が今の神話に相容れないものであると言うことは無視できない点だ。例えば彼はエリート主義を公言したし、終身大統領制度を支持した。彼が推進した連邦政府の拡大は1794年のウイスキー反乱を引き起こしたが、それは暴力的に鎮圧された。これらの事実はミランダの「若く、貧しく、飢えた」西インド諸島からの移民が、知能と努力と大胆さでアメリカン・ドリームを掴むというミュージカルには出てこない部分である。ミランダは移民社会と平等主義と業績主義のシンボルとしてハミルトンを讃える神話を作った。歴史の視点で言えば拡大解釈だが、演劇的には天才的な所業だ。 
 ハミルトンはアメリカ独立のヒーローとなり、ジョージ・ワシントンの右腕となり、アメリカ初代財務大臣となり、連邦政府の州政府に対する上位性を示す文献的根拠となった「フェデラリスト・ペーパー」の共同執筆者(ジェームス・マディソンと共同)となる。国立銀行について論争し、国の証券や国債を作り、アメリカの経済的成功の礎を築いた。彼のドラマチックな人生は現職の副大統領アーロン・バーとの決闘で殺されるという結末でメロドラマティックな終わりを迎えた。このような業績とドラマにも関わらず、ハミルトンはアメリカの歴史の中で主流から追いやられていった。ワシントン、ジェファソン、ジョン・アダムスは数えきれないほど小説、映画、ミニシリーズ・ドラマとなったし、彼らが一堂に会するミュージカル『1776』にもなった。『1776』は独立宣言を描いた作品だが、ハミルトンは名前すら出てこない。【1776は独立宣言のころの話で、その頃ハミルトンは大尉ぐらいなので作中に出てこないのはそんなに不自然ではないかな?こんなに大がかりではないですが、ハミルトンの伝記はちょくちょくフィクション化もされてた模様。ゴア・ヴィダルのバーの小説にも出てきます。まぁ派手な経歴の割に他よりも少ないというのはそうなんでしょうな】 
 脇に追いやられると言う扱いは、彼自身プエルトリコの移民の息子であるミランダと共鳴した。個人としても、アメリカの歴史としても、かの国の移民への扱いを体現しているからだ。この対の洞察が、この歴史・文化・政治参画に関してのミュージカルの中で煌めいている。建国の父たちのキャストはほぼ有色人種である(建国の母たちもいるが、キャストは圧倒的に男性中心)。その結果が、想定もしない現象を生み出した。政治・経済・人種の歴史に関する歴史劇が、今のアメリカの政治・経済・人種の状況を皮肉る、ブロードウェイ・ヒット。このショウの全てが「メタ」で、あらゆる層に重ねられている。『ハミルトン』はメタ演劇で、メタ歴史、メタミュージカル、そのあらゆる層へのメタなのである。 
 作品には、ミランダの幅の広く正確な音楽参照が多分に含まれている。歪んだブリットポップ風のジョージ3世に始まり、デスティニーズ・チャイルドのように歌うスカイラー三姉妹。ノートリアスB.I.Gからケンダー&エッブへの目配せ。ミランダは詳しい知識を駆使し、『ショウボート』『ウエストサイド物語』の様な作品がメインストリームのマイノリティ文化に関する認識で重要な転機をもたらしてきた業界ーーアメリカのポップカルチャーの縮図に等しいーーについて機知に富んだ会話を導く。『ハミルトン』はこのプロセスを用い、サブカルチャーの音楽を使いながら、メインストリームの歴史を読み解いていく。ロジャース&ハマースタインの『南太平洋』から引用された人種差別に関する台詞(“you’ve got to be carefully taught”)はバスタ・ライムスと肩を擦り合わせる。ソンドハイムが『太平洋序曲』で試みた視点の実験は、スヌープ・ドックに出会う。ジョン・アダムスに関しては、『1776』からミランダが借りてきた節を使ったギャグもある。『1776』のオープニング・ナンバーは大陸議会がアダムスを黙らせようとする「Sit down, John」なのだが、ミランダも同じように、アダムスと彼が表象するアングロ中心のアメリカ社会に、脇にどけと伝える。ミランダはアダムスを劇中に登場させておらず、名前が出てくるのは二幕以降になるが、そこでハミルトンは「座れジョン、デブのマザーファッカー!」と歌う。もう少し(色んな意味で)控えめなものでは、ミランダはハミルトンに印象的な「満足することはない(I will never be satisfied)」の節を与えるのだが、これは『1776』のアダムスの台詞、「私はいつも不満足なんだ I have always been dissatisfied, I know that.”」に呼応する。 
 ミランダの詞は目が眩むようだ。ソクラテス(Socrates)は凡人(Mediocrities)とライムし、その前には農奴解放(manumission)と奴隷解放(abolition)と武器(ammunition)がつながる。ギルバート&サリバンはサンプルされるだけでなく、洗練される。ミランダは記者たちにギルバートの有名な歌詞を改善したと嬉々として語る。それは今やワシントンのラップとなる(Now I’m the model of a modern major general / The venerated Virginian veteran whose men are all / Lining up, to put me up on a pedestal.”)【ミランダはギルバート&サリバン『ペンザンスの海賊』の歌詞をここで引用していて、ずっとgeneralの韻はmineralじゃかっこわるいと思ってた、とインタビューで話すのが好きなのです】言葉に酔った陽気な作家のように、駄洒落が溢れている(“Local merchants deny us equipment, assistance / They only take British money, so sing a song of sixpence.”) 
 『ハミルトン』はオペラと同じように、ほぼ歌い通しである。話す台詞はほぼない。多くの人が示唆するほどは、ラップは多くない。ラップが現れるとしたら、それはジェファソンとハミルトン��閣僚会議をエミネムの8mileばりのラップバトルで表すような「実用的で戦略的な聡明さ(practical tactical brilliance)」を伴っている。ハミルトンとバーの宿命的な決闘はギャング抗争と関連づけられ、自身もギャング抗争が元で亡くなったノートリアスB.I.Gの「Ten Crack Commandments」がサンプリングされる。「ワシントンの後ろ盾があるのはなんと素晴らしいことだろう」とバー、ジェファソンとマディソンは歌う。これは一義的にはハミルトンの後ろ盾のワシントン大統領のことを言っているのだが、同時に現代のワシントンDCから疎外された(政治から疎外された)市民が感じる政治的不平等とも呼応する。”Wait for It”はバーの性格に関する歌であるが、同時に「順番を待て」と言う言葉が有色人種のコミュニティにとってなんと破滅的なものをもたらすかということについての歌でもある。 
 詞と同じく、音楽も、単にスコアとしての意味だけではなくむしろ歴史的な要素としても利用される。ジェファソンとバーはそれぞれ二幕に大きなソロがある(ミランダは寛大にも、自分ではなく共演者たちに良い曲を振っている)。パリから帰ってきたジェファソンが歌う“What’d I Miss?”は、ブギウギ調のピアノリフを生かしたストライドやラグタイムの混じったディキシーランドジャズ【初期のジャズ】的な音楽だ。このラップの祖父としてのジャズの起源の召喚は少し場違いでーーしかもジェファソンを演じるダヴィード・ディグスは「ジャズ・ハンド」まで使って演じるーー同時にシリアスなものだ。ジェファソンはハミルトンや他の閣僚よりずっと歳上だからなのだ。ミランダは若いキャラクターにヒップホップの影響を与え、ジェファソンにオールドスクールなジャズを歌わせるが、またそのジャズの中にもキャブ・キャロウェイのような、ラップの起源を感じさせるボーカルにもオマージュをはらっている。劇が進むたび、ジェファソンのバーにもたらす影響は強まっていく。二幕の最大のバーの見せ場“The Room Where It Happens”では彼の音楽スタイルはシフトし、ジェファソン風のディキシーランド・ジャズスタイルを取り入れていく。バーの歌はコール・ポーターの“Blow, Gabriel, Blow”やフランク・レッサーの”Sit Down, You're Rockin' the Boat”のような1世紀以上使われ続けるゴスペル風の、観客が足を弾ませるようなコーラスをバックにしたショー・ストッパーだが、これらの楽しく、あまり意味がない歌とは違い、“The Room Where It Happens”は歴史の記録について語ったーー足を踏み鳴らしたいぐらい素晴らしいーーインスタント・クラシック・ナンバーである。 
 この曲は劇の多くの意味での転換点となる。バーは待つのをやめる。歴史の空白は政治的排除のメタファーとなる。“The Room Where It Happens”は、語られる歴史がどのように権力の神話を作り上げるか、または現実の政治がどうなされるかの歌だ。バーは「誰も実際は知らない/政党がどう同意に持ち込まれるか/チェスの試合で何が捨て駒にされたか/何かが起こったとはわかるが/実際にそれが起こった部屋には(自分達は)いない」そして力強いバース「ことが起こる部屋に/自分も居たい」の前にバースをつなげる。 
 ミランダは「ことが起こる部屋」に、移民や奴隷の子孫、黒人や、ラティーノやアジア系、未来に対して希望が持てない貧しい子供たちを置く。「煙が充満した部屋」に残された個人の野望は、権力から排除された人々の象徴となる。「我々は救世主を求めるが/彼らが捨てたものを知らない/私たちは新しい始まりを望むが/夢みるのは多くは闇」。この歌は、通して歴史の記述と国の語り手の権力に対して疑問を投げかける劇全体を要約している。ハミルトンの妻イライザは、最初のうちは歴史の一部となることを望むが(「あなたの物語の一つとなりたい/いつか誰かが描く物語の」)、ハミルトンの裏切りに遭い、手紙を燃やし、自分の語りをコントロールしようとする。しかし、ハミルトンは若くして死に、イライザは「物語に戻る」。ミランダは終幕に戻り、ワシントン、ジェファソン、マディソン、イライザの歴史を語るが、結局問われるのは「誰が生き、死に、誰が物語を語るのか?」ということだ。 
 ただ、「何が語られなかったのか」という疑問は、『ハミルトン』自体の神話化��も言えることである。ミランダはカラーブラインドネスを使い歴史を告発するが、『1776』の公演は1969年でありながら、今日の「ハミルトン」が言及するよりも直接的に奴隷制について言及した。まあ確かに、『1776』は白人だけのキャストが奴隷制の是非について議論するものではある。ジェファソンは金髪の妻が恋しすぎるあまり、彼女が来るまで独立宣言が書けないと嘆くのをえがきつつも、彼の奴隷サリー・ヘミングス(おそらくジェファソンの私生児を6人ほど産んだ)は言及されない。しかし、『1776』はショッキングなまでにフランクで残酷な「糖蜜をラムに」で終わる。この中では北部の制度の欠陥を指摘し奴隷制度に対する欺瞞をも暴く。『ハミルトン』はヘミングスのことに対して一度だけ言及し、奴隷制に対する言及もあるが、ジェファソンだけが奴隷を所有していたと示唆し、歴史が証明するよりもハミルトンを奴隷制廃止に熱心に描いている。実際は、ワシントンもマディソンも奴隷を所有していたし、ハミルトンは妻の家族のために奴隷取引をしていたこともあるし、農奴解放については冷淡だった。 
 『ハミルトン』は有色人種の俳優を取り上げるが、実際の奴隷の描写はない。これはしかし、まさに彼の語りに欠かせない選択だ。彼は長きアメリカの語りの伝統である白人の「ブラック・フェイス」を取り上げ、それをひっくり返したのだ。然るべきところに音楽を置き換え、歌詞を書き換え、政治をひっくり返し、ショーに合うように作り替えた。そうすることで同時にアメリカの現代の現実への批判、アメリカ独立のパワーの賞賛、アメリカンミュージカルの歴史への祝福を歌った。もし英国にお住まいならば、来年の11月まで待たなければいけないが、これを見るときは、あなたも「ことが起こる部屋」に居合わせることになるだろう。
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akutukarino · 2 years
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4日記-13
今日、旅行から帰ってきました。田舎最高、自然最高って全く思えない人間です。
田舎の良さも多少わかるし、自然が好きじゃない訳ではないんですけど、自分と接触する自然はそこまで好きじゃないですね。まず虫が苦手ですし、植物も嫌いなんですよ⋯主に触ったりするのが嫌いで⋯微妙に湿ってて気持ち悪いし青臭いし、木もトゲが刺さるのを考えると苦手ですね⋯完全に加工されてるのは好きですけど。あと高所恐怖症なので三重苦で山が全く楽しくない。高いところに登ると落ちることばかり想像して足元がふわふわして余計にリアルに落ちる感覚がして⋯橋の上とかでものぞき込もうとするとそのままふわっと柵を乗り越えて落ちそうに感じるんですよね⋯夢で落下する感覚を起きてても味わう感じでめちゃ不安になる。あと雨で滑って階段で落ちかけた経験があるのでそれも伴って怖い。
まぁ楽しくはありました、旅行ですし。温泉は楽しいですし宿泊も楽しい。嫌なのは自然が豊かすぎるところと親が酔っ払うことと俺だけベッドが簡易ベッドでただでさえ眠り難いのがさらにしんどいところですね。楽しかったですよ。
あと残りの休みは明日のみ、今日は親の都合で帰ってきた段階でまだ午前中だったので明日の負担を減らす目的で好きな作品のコラボカフェを目的に原宿行ってきましたよ。行列も覚悟で。
原宿ってなんかギャルがいっぱいいるイメージだったんですけど、今日は家族とかようやく東京に来れた中学生とかがいっぱいいた印象ですね。家族旅行で憧れのロールアイス食べに来たんだなぁ⋯⋯とほのぼのする気持ち半分、家族旅行がこれでいいのかな⋯という気持ち半分。お一人様は俺くらいだったので気楽に待ちながら呑気に食べてきましたよ。ロールアイスって美味しさ的には普通と変わらないのでは⋯?と思ってましたが実際まぁ、変わんない気がしますね⋯⋯俺、味覚貧乏で余計に食感の違いとかもわからない⋯でも美味しかったですね!!!!生クリームいっぱい食べても気持ち悪くならない!!!!バナナも美味しい!!!!ただまぁ、見せ物要素が強いせいで回転率が悪くなってるなっていうのが強い。まだ慣れてない店員さんをずっと応援してました。
そのあと父からのリクエストでニュージーランドで有名なクッキーの専門店の日本店行ってきたんですよ。高校の修学旅行の時、見たことあるなぁって懐かしさも含めて。そっちでも並んだ。ロールアイス約2時間に対してこっちは1時間くらいでしたが。こっちはこっちで行列と相性が悪すぎる、店の中に商品が陳列してるのに列があるせいで一人だと見て回れない上に値段が高いので気安く買えずに悩む、そして取りに行くのもしんどい。まぁ、大体のお目当てがおそらくカウンターで受け付けてるドリンクメニューとかアイスとかっぽいのでいいのかな⋯でも次行くときは父親引っ張っていきますね。店内をもっとゆっくり見たい。そして看板商品の一つっぽい店内焼き上げのクッキー、お値段は高いがその分めちゃくちゃうまかったですね!!!!カントリーマァムの上位互換版というか、生感覚っていうのもわかるくらい中心の辺りがねっとり濃厚で美味しい!!!!並んだかいはありましたが、次はもっとど平日に行きますね、絶対。
あとはロールアイス屋で買ったドリンクの処理法に迷った挙句に持ち歩き、氷を溶かして飲み切りどっかで捨てようとふらついたあげくクッキー屋までがっつり残ったのでリュックの中で固定させる危険な方法に及んでたり(中身は氷以外残ってないが蓋なし)、ライフガードのよくわからない建物見つけた上でチェリオのヤベェドリンク(キャラメルポップコーン味の炭酸飲料)見つけて好奇心だけで買ったり、youは何しに日本へのロケ班見つけて興奮したり、楽しい休日でしたね。DSの充電確認して充電してたらもっと完璧だった⋯⋯。
明日は課題関係で行きたい場所後半、新宿に集中してる戦争、服飾関係の博物館巡りとちょっとの買い物かもしくは余裕があれば上野の博物館行きたいです!!!!
以下ガチでどうでもいい追記
上でちょっと書いたやり場に困ったドリンク、結局家まで持ち帰っちゃったんですよね⋯半分ヤケクソで⋯⋯氷全然溶けないし、ゴミ箱もない、好きな作品のイラスト描いてあるしな、せっかくなら⋯って。
結構丈夫なカップでシールもしっかりしてそうなので、少し前に流行ってたお菓子ポーチみたいな感じで蓋の部分をファスナーで作って筆箱にしたいなって。今使ってる筆箱、推しカラーに推しの好きなもので最高なんですけど、お洒落特化すぎて容量が少ないし、プチプチがこれ以上潰れるのも嫌、その前のクッキーのやつも結構パンパンなので⋯結構でかいし、丈夫そう、見た目も可愛いのでは⋯?
明日都合によっては世界堂で保護テープとあとどっかで蓋用の布とファスナー可愛いの買ってきたい。ダメなら別の機会に。
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mangacapsaicin · 2 years
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mariko kikuchi’s a life turned upside down: my dad's an alcoholic || 菊池真理子の『酔うと化け物になる父がつらい』
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kachoushi · 3 months
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅱ
花鳥誌2024年2月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
  山寺の宝物見るや花の雨
 季語は「花の雨」で『新歳時記』では「花」の傍題。山寺で宝物に見入る「寂び」の境地を云々されたこともあったが、『虚子百句』の立子の評は、それを覆している。
 父はあまりお寺やお宮などの宝物に興味を持っていないと思います。それが特に宝物を見るというのは何か余儀なくそうして時間をつぶしたという心持ちがあるのでしょう。
 つまり、「宝物見るや」と「や」で謎をかけておいて、「花の雨」で降り籠められただけだったんだよと明かし、軽い「笑い」を受け取れば、それでいいのだということである。虚子は『俳句はかく解しかく味ふ』の冒頭で、歴史を詠んだ古俳諧を取り上げ、こう言っている。
 俳句の詠史は漢詩や和歌などと違うてその事柄を優美にしたり、荘重にしたりすることはしないで、むしろその事柄と反対に卑近な物を持って来たり、滑稽な物を持って来たりして頓挫を与えるものが多い。(中略)
 同じく滑稽味と言ったところで、これらはげたげた笑うような滑稽ではなくて底には淋し味も含んだ品のいい滑稽である。ユーモアというような部類に属するものである。  
 巻頭で語っているから、これは俳句の本質論でもあって、下品なくすぐりは感心しないが、「頓挫」があって「ユーモア」がある、というのが、虚子の言う、漢詩・和歌に対する俳句の特質であったわけだ。
  力無きあくび連発日の盛り 虚子
 虚子はよく欠伸をしたという。選句中は虚空を見上げたとも(『俳句と自分』)。俳句は深呼吸のようなものだ、という言葉も残している。欠伸や深呼吸をすれば、必ずいい句が生まれるというものではないが、息を詰め、肩を怒らす、そのような心持ちで俳句は詠むものではないという思いも伝わってくる。
 いい意味の虚子の「余裕」を、この句にも見るべきだというのが、立子の言いたいところなのである。山寺の幽玄な雰囲気に浸っていた、などという解釈こそが、芭蕉を神に祭り上げた「月並」と同様の陥穽ではないのか、とも解せる。
 『虚子百句』のレイアウト上の構成を考えれば、前に掲げた〈美しき人や蚕飼の玉襷〉は、完全な人事句。それに比して「山寺」句は叙景に近い。句集の編集の妙は「変化」にある。さらに、「や」の使いように注目すれば、「や」の位置と、上に来る言葉の性質の違いはあるものの、両者「頓挫」がある。片や品のある美人のうなじをさりげなく暗示し、片や所在ない山寺の退屈を笑ってみせた。二物衝撃などという肩ひじ張った合理的機能を言い立てる前に、俳諧以来の技法の「底」を浚う方が、地に足がついている、とも言いうる。
 なお、この句は題詠であって、単純な嘱目ではない。『年代順虚子俳句全集』第二巻では「桜十句」の題で八句は記録され、その中に掲句が確認できる。
  花見船菜の花見ゆるあたり迄
  山駕や酒手乞はれて桜人
  藪原や櫛売る家の遅桜
  花の雨蒲団ぬらして誰が庵
  大江山花に戻るや小盗人
  山寺の宝物見るや��の雨
  夜桜や栂川楼を出る芸者
  夜桜や用ありげなる小提灯
 「藪原」は明治二七年の木曽の旅、「栂川楼」は柳巷花街の柳橋のことと本井英は考証している(「虚子『五百句』評釈(第七回)」『夏潮』二〇一六年六月)。ともかく、山寺句は、子規在世当時、蕪村に倣った修練法「一題十句」において成立した句だった。並んだ句はみな小説の一場面といった趣きである。
 虚子はこの頃、『俳句入門』(明治三一年)で、写生とともに題詠の重要性を説いて、特に「一題十句」は、遊戯的な仕掛けを通して、言葉の取捨選択や、季題への深い理解につながるものがある、と言う。今の伝統派にも残る修練法だが、見るだけでなく、記憶し、想起することも写生の中に含まれることも明記しておきたい。書は前の句に比べて薄いムラがある。
  芳草や黒き烏も濃紫
 『五百句』注記に、「明治三十九年三月十九日 俳諧散心。第一回。(九段上)小庵。会者、(高田)蝶衣、(松根)東洋城、(岡本)癖三酔、(岡本)松浜、(柴)浅茅。尚この俳諧散心の会は翌明治四十年一月二十八日に至り四十一回に及ぶ。」(括弧内、井上注記)とある。
 「俳諧散心」は、子規没後ライバルであった河東碧梧桐を意識した鍛錬句会のことである。橋本直「「俳諧散心」と近代個人句集の起こりについて」(『夏潮別冊虚子研究号』10)に詳しい。「ホトトギス」の事務と編集を担当していた松浜が謄写版で句会稿を翻字した「芳草集」が虚子記念文学館に所蔵される。
 「散心」は元来仏語で、仏事に専心しない散漫な状態を言うが、転じて、そのような凡夫の心にも一心に念仏すれば成仏する意味を含み、ここは俳句の鍛錬に集中する「行」の会を意味する。
 『虚子俳句全集年代順』第二巻(昭和十五年)には、「俳諧散心」の虚子句を集中して掲載しており、掲句は、「第一回、草芳し十句」と記されている通り、一題十句の中の一句であることが確認できる。掲句の他三句に絞って記しているので、挙げて置こう。
  垣間見る好色者に草芳しき
  人屋出てふむ時草の芳しき
  芳しき小草もゆるや塔の下
 このうち「好色者(すきもの)」の句は、『喜寿艶』に載るが、掲句は春の光を受けて烏の漆黒も濃い紫に見える、というわけである。子規の最晩年に
  黒キマデニ紫深キ葡萄カナ
 という句があり、意識したかも知れない。拙著『子規の内なる江戸』で指摘したことだが、二つの色を比較して際立たせる手法は、典型的な子規の写生の方法で、洋画からの発想である。有名な碧梧桐の、
  赤い椿白い椿と落ちにけり  
 という句もその成功例であり、印象明瞭な子規派の俳句の新味であった。虚子もこの路線で詠んだわけである。
 問題は、「芳草」という季題の表記であろう。字数の加減で、上五にこの言葉を持ってくるとき、「芳草」と漢語にして文字を惜しんだことは、容易に想像がつく。しかし、それだけのことなら、ごまんとある自句から掲句をわざわざ選んだりはしないだろう。「春の草」「草芳し」でもよかったことになる。
 漢語の「芳草」を持ってきて「や」で切る形は、調べから言って、漢詩のような格調をもたらす。また、掲句は取り合わせの句である。その取り合わせた中七・下五でポイントになるのは「も」である。この言葉は、「AもBも」という現代でも使う意味の他、『万葉集』以来「〜さえも」という含意を持つ(上野洋三『芭蕉論』「も考」)。
 烏の背景は、「芳草」の若々しい「緑」である。その背景の「春光」によって、烏の羽の漆黒さえも「濃紫」の艶を得たということなのである。ここに「緑」「碧」「青」の字を置いては、くどくなってしまう。匂いたつほどの緑を暗示する格調高き「芳草」としておくことで、下五の「濃紫」から反転して「緑」が感得できるようにしたのが、この句の眼目なのである。
 色の比較の句は、つい知的な操作に終始してしまい、季題を生かすことから逸れてしまいがちになる。しかし、掲句は子規や碧梧桐の色の配合句に負けない、季題という中心点を把握して見せた出来栄えのいいものだ。虚子と言えば、一物仕立てという公式は当てはまらない。これくらいのことは、虚子もやってのけた、というわけである。
 なお、一題十句は、蕪村の『新花摘』に学んで子規らが始めた修練法で、その始まりは明治二十九年にさかのぼる。虚子は『俳句入門』(明治三十一年)で以下のようにその効用を述べている。題をころころ変えて、一句しか詠まないより、この方法の方が、題をあれこれ考え、十句のうちから幾つかは佳句を得やすい、と。つまり、袋回しで題をいくつも詠むより、費用対効果がいいわけである(井上『近代俳句の誕生』)。虚子の、特に青年期の修養がこうして題詠を中心になされていたことは記憶にとどめておくべきである。
『虚子百句』より虚子揮毫
  美しき人や蚕飼の玉襷
  山寺の宝物見るや花の雨
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(国立国会図書館デジタルコレクションより)
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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toshiki-bojo · 3 months
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「虚子への俳話」168
「花鳥」令和5年2月号より転載
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「金子兜太・黒田杏子 対談」2017年5月30日・NHK学園にて
 この対談はかつてNHK学園で私が第一部とし��虚子の講演をした、その後第二部としておこなわれた金子・黒田氏の対談の模様を私が会場で速記をしたものです。このお二人とも故人となられた。誤謬などはご容赦を。
坊城俊樹
「俳句人生」
金子兜太・・
 旧制水戸高校・十九歳のとき俳句の道へと考えた。一九三八年のことだった。まもなく結社「海程」は白寿をもって閉づるつもり。これは私一代のみのもの。当初は自分の句を作るため、作らせるためのものだった。  しかしここに来て終刊を宣言せざるを得なかった。いまは生き苦しいから。しかし来年の白寿にすれば良かったかも。発表が早かった。本当の自分の腹はまだ出来ていない。しかし生き場所が無い思いも。淋しいがさっぱりとしたかった。でも一年様子を見たかったが。今後は一人ぶらぶら、二人ぶらぶらでやる。自由で行くつもり。
黒田杏子・・
 朝日新聞俳壇の選者を六十代でなされたときは伝統俳句派の新聞不買運動もありました。(金子氏は対立する現代俳句派の頭領と目されていた)今でこそ無いですが。  八十代まではハングリーでやると。お顔も元気だが顔面神経痛もされたとか。しかしジャンギャバンに似て来られた。つまり人間が深化されたのでは。  私は十九歳年下で、かつて戦場経験をされた時の聞き役もしました。長生きの道を柔軟に歩くこと。そんな生き物の先輩であられる。俳句も一句一句だから一九一九。そんな人生なのではないですか。
金子兜太・・
 答えられんよそんな質問、難しすぎて。  ともかく旧制高校に入ってから俳句を作った。わたしは母が十七歳のときに産まれた子。母は紙問屋の番頭の子だつた。母は徳利のような体でビア樽のような尻をしてた。  なんでも宇都宮聯隊の浜田という友人のとこにビア樽のような娘が居ると言うことで父と結婚することに。父(もとはる)は無理矢理開業医にされた人。本当は新聞記者になりたかった。嫌で試験は白紙で出したのだが、結局京都府立医大にはいった。 そして軍医となる。
 やがてビア樽は未婚のままで兜太を産む。まさに偶成。ちなみに私の「造形論」も偶成の句の作り方。名前は「兜太」で役場登録。中国では東方の太い気性の意味らしい。しかし父はあそこが太いと勘違いしていたらしい。私は魂もそんな太くない。すけべではあるが。  兎に角私は母が十七歳で生まれた子、法的にも最少出生は女性で十六歳とかの頃。子供は十代で産めという時代だったのか。父は上海の学校の校医もしていた。妹も上海で生まれた。兄弟は六人もいた。 その後帰国し秩父で開業をする。
 少年期のころから母が気の毒だった。農家の大家族に生れ、旧姓は島谷。姉妹は四人。母はいじめられたらしい。子供なのに饂飩打ちの麺棒で打たれていたとか。  母はその棒で饂飩を作り、私が小学校のころから父は俳句を作りはじめた。  秋桜子は父の同級生。医者同士で俳句の「馬酔木」をやることに。会は月に一二回か。もっとも、饂飩を食って・酒飲んで・俳句会。それは母がすべて差配した。
 母は大家族制度の女性の立場を見てきた人。医師嫌いになった、たぶん俳句も。そのため私は母のいじめの理由を調べるために帝大で経済学を学んだ。しかし俳句を憎む母は父らわれわれをずっと「人非人」と呼んだ。句会の人たちもまた。  私は実際のところ、正式には俳句は出沢三太郎という友人の影響で作り出す。最初の句は、
  白梅や老師無心の旅に棲む 兜太
 これは句会の最高点だった。そこから病みつきに。水戸時代の色街が舞台で、女衒の舞台でケヤケヤ踊りというのがあり、その際どい踊りを詠った。(筆者拄、この句とあまり関係無いような気がするが、私の記録違いかも)  今後のことについて。今となっては、家族や友人たちとの「牧歌的な回想」がある、しかし「独りの道」というように切り替えてみれば、昔の私などはどうでもよい。
 今後は「一人でどんな俳句が出来るか」「うまく行けばノーベル賞まで」と考えている。こんな野心こそがエネルギーかと。なんのこともない、結局母は百歳の時も俳句を作った。波郷、石塚友治の「鶴」のころも投句していた。  その金子ハルこそもっとも私の尊敬する人なのである。
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qofthequinine · 4 months
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バウムテスト
木を描くやつである。見る人が見れば、ものすごい正確だ。緊急搬送されたときに書いた絵の結果は、「神経過敏で不安が強い。そして、何か衝動性を備えているが、それをぶつける場所がない」とのこと。
封切り直後にマトリックスを見に行った。まだ小学生の前だったと思う。親に連れられて行って、そこからAKIRAや攻殻機動隊やカウボーイ・ビバップにたどり着くのは高校卒業直前。でもまあね。攻殻機動隊の言わんとするメッセージは、実はもうすでに行われているのかもしれない。「ビジネスとしての戦争」。朝鮮特需が示すように、国同士が争うと、その他の国がテクノロジーを開発してしまう。核爆弾が代表的だけれど、正直、今やもっと特定の人物を暗殺する技術はいくらでも考えられる。スター・ウォーズのデス・スターのど真ん中に爆弾を落とすのは至難の業だったが、素人でもあのレベルのことができる。やっちゃダメだよ。絶対に。(でもこの頃、なんとなくみんな捨て身を覚えてると思う。生きなきゃ)
そんなことを思いながら、最近気がかりなのは菊地成孔のおじさんで、罹っていた昔の難しいガンが再発したらしい。でも、彼は次の舞台をちゃんと用意している。「必ずやる」と宣言した。でもその直前に楽器を競売にかけたり、なんかいろいろ終活みたいな感じだったので、嫌な予感がする。彼は非常に接しにくい人だと思う。でも才能はある(岸辺露伴は動かないの音楽担当)。
ただ、最後のマネキンとして選んだ小田朋美氏が、さてどこまで本物だろうか?ということなのだが、彼女はピエロというかクラウンというか、どこまでもエンターテイナーで、ライブツアー前の煽りとかも、ふざけるだけふざける。そんで舞台ではやばいんだからいいよね。東京藝大の作曲科の人なのに、なぜかジャズの畑に降りてきた。あとまあ、『ながいよる』の服選びのセンス。鎖骨よ。本当もう、なんかね、菊地氏に接して以降、服が変わったように思う。
で、まあ個人としては、暴れたりないのはもちろんのこと、一方で暴れたりなさを自分の精神的ダメージにしちゃうのが、よくないなあと思ってる。でも暴れれば暴れるほど、さらに暴力性が増す(エントロピーの増大)から、結局、長生きはできないだろうね。要注意は、ホームラン王とされた清原和博氏が、ホームランの快楽を忘れられずに白い粉に手を染めたことで、自分は絶対に違法薬物は摂取しないと決めている(大麻グミ怖すぎ)(もらいタバコもしない)。というか、緩和ケアとして大麻成分を使っていいってのは、なんかこう、人間が死に向き合うことを全く尊重していないように思う。確かセネカは、首の静脈を切って、可能な限り苦しんで死ぬことを選んだ。やっぱりね、今生との別れは、ちゃんと苦しくあるべきだよ。
ここからは日記というか、我が家はセルフメディケーションをよしとするんだけど、特におばあちゃんが、ブロン中毒気味というか、明らかに飯食ったときの咳き込み方が、ジヒドロコデインの喉の狭まり方故かなあと思う。で、用法は守っているとはいえ、やっぱり夏のあいだ中、ブロンの液剤をヘビーに使ってたのが気になる。言うて、自分もまあ、あんまり人のことは言えないまでも、コデイン系は消化器に来るからむずい。あとまあ、寝ると息が止まったりするからね。
さらには、母の朝一の咳き込みなんだけど、年齢ゆえだろうか?元々喉が弱いとはいえ、朝一番だけ咳き込む。歯磨きのやり方が良くないのかもね。
逆に、大学時代から食事の代金をビールに突っ込んでさらに日雇いしなきゃならなかった父が、もうすでに肝硬変起こってておかしくないのに、肝臓の数値が悪いぐらいにしかならない。化け物の類か?その子であり、母もべらぼうに強いので、自分は40%720ml二本飲み尽くして急性アル中で、病院にも運ばれずに翌朝登校した(流石に二日酔いにはなったけど)。
弟のみ、そういう不摂生を一切しないが、彼は強い人間不信があり、虚無僧みたいな感じ(鍵を無くしたチャリを学校から担いで帰るなど)なので、あいつだけはここから離れた場所で生きるべきだと思う。
まあいいや。
とにかく、やはり、悲しむときに悲しんで、苦しいときに苦しいと言って、喜んだり笑ったり、そういうのを素直に表現するのが人間だと思うけどさ、「わがまま」なんだよね。そういう教育があった。
でももっとさ、誰かに何かをしっかり言っていいんじゃない?喧嘩が嫌いなのはわかるよ。でもね、喧嘩してでも伝えなきゃならんことってあるよね。大事なことなんじゃない?
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ewweird · 5 months
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前日譚映画の感想
『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』(原題:WONKA) 『夢のチョコレート工場』『チャーリーとチョコレート工場』 原作「チョコレート工場の秘密」と続編「ガラスの大エレベーター」 他のロアルド・ダール作品についても触れているネタバレと個人の見解を多く含んだ感想です。
日本ではティム・バートン監督の『チャーリーとチョコレート工場』が有名ですが、本作は原作「チョコレート工場の秘密」と、1971年に同原作から映画化された『夢のチョコレート工場』をオマージュを捧げた前日譚映画です。 この視点を踏まえて鑑賞すると、より楽しむことができると考えます。
基となった原作は、フォーブスが毎年公開する「死後も稼ぎ続ける著名人ランキング」で2021年初の1位にもなった(ネットフリックスがダールの作品を管理してきた英ロアルド・ダール・ストーリー・カンパニーを約6億8400万ドル(約780億円)で買収した為)、世界的に有名な英国の作家、ロアルド・ダールが執筆した「チョコレート工場の秘密」です。
原作「チョコレート工場の秘密」から実写映画化されたのは、1971年の『夢のチョコレート工場』と、2005年に再構築された『チャーリーとチョコレート工場』の2作品です。 物語の中で登場するウィリー・ウォンカは、原作でも謎に包まれた人物であり、二つの映画もそれぞれ独自の解釈に基づき、ジーン・ワイルダーとジョニー・デップが演じました。両者の演技は原作を尊重しつつも異なる解釈を提供しており、ウォンカのキャラクターが異なる視点で魅力的に描かれています。
日本での宣伝は「あの『チャーリーとチョコレート工場』を覚えていますか?」と日本テレビ放送「金曜ロードショー」でウィリー・ウォンカの吹替声優を担当した宮野真守がナレーションを務めるCMを流すといった、誤解を招くプロモーションを行われていたため、数多くの日本の方々のレビューにて「"父親が歯医者で、幼少期に歯の矯正器具をつけられ、お菓子を禁じられ、父親の目を盗み食べたチョコに魅了されてショコラティエになった"2005年版『チャーリーとチョコレート工場』のウォンカの映画オリジナル幼少期設定との整合性がつかない」点への不満や「ティム・バートン版のダークさが足りない」「ティム・バートン版の前日譚だと思って観に来たのに全然違う」といった感想を多数見受けられました。
そして、レビューサイトでの今作品への評価へ影響を与えている為、日本でのプロモーションは作品への弊害が大きく、改善が切に望まれますが、現状も『夢のチョコレート工場』を紹介したプロモーションを行われない点からも、残念ながら望みは薄いかと考えます。
2005年版『チャーリーとチョコレート工場』はティム・バートン監督による独自の解釈と、ロアルド・ダールの毒気のあるダークな作風に焦点を当てた奇妙でダークな作品です。ウィリー・ウォンカの幼少期の映画オリジナル設定や続編『ガラスの大エレベーター』のオマージュを含め、これまでのティム・バートン監督作品の要素を巧妙に組み込み、名作映画のパロディも取り入れています。この一作で完結しています。私も大好きな作品です。
そのため、日本語の邦題タイトルロゴデザインが2005年版と酷似している点は、映画化された過去の作品にも今作に対しても敬意が欠けていると感じられます。さらに、パンフレットでは『夢のチョコレート工場』に触れず、作品紹介ページでは2005年版に1ページを使って紹介され、1971年版は1ページの半分にも満たしていませんでした。唯一の言及がポール・キング監督によるインタビューだけであることも確認されました。この情報をあらかじめ知っていれば、私は日本国外版を購入していたかもしれません。日本での宣伝がこの作品にとって最大の痛手となっている可能性が高いです。非常に残念です。
さて、肝心の今作の映画の内容ですが、
ファミリー向けのミュージカル前日譚映画として観ると、楽しめます。『夢のチョコレート工場』を予習してから観ると、もっと楽しめます。ロアルド・ダールの児童書を沢山読んでいるなら、もっと楽しめるはず。明るく楽しいポール・キング監督の独自解釈が加わった愛にあふれたウィリー・ウォンカのファンフィクション前日譚映画でした。というのが全体の私的な総括です。
ポール・キング監督とサイモン・ファーナビーの脚本は、原作『チョコレート工場の秘密』と1971年版『夢のチョコレート工場』へのオマージュ、ロアルド・ダールの他作品のエッセンスもちりばめた素敵なものでした。
また、全体の美術の作りも、基が児童書であり、夢のあふれる彩度が高く明るい、子どもたちに向けた作品であることを意識されています。ディズニーランドの初期デザインを手がけたハーパー・ゴフがアートディレクターを務めた『夢のチョコレート工場』へのリスペクトを込めた作りとなっていました。 音楽に至っても『夢のチョコレート工場』の名曲"Pure Imagination"、"Oompa Loompa"はもちろんの事、今作のオリジナル曲もポップで思わず身体が踊りだし、心の弾む楽曲が多く、ウォンカが「空飛ぶチョコ」(Hoverchocs)を唄いながら紹介する"You've Never Had Chocolate Like This"の楽曲は、ウォンカが自身の発明した商品をご機嫌で説明する、原作のような語尾に感嘆符をつけて話すテンションが高いウォンカを想起させる曲でした。
予告編からも『夢のチョコレート工場』の名曲"Pure Imagination"、"Oompa Loompa"を取り入れ、ウォンカの有名な台詞「So much time and so little to do. Wait a minute. Strike that. Reverse it.」(時間が沢山あるのに、やることがない。 待った、逆にして。)から派生した「So quiet up and listen down. Nope. Scratch that, reverse it.」があった所や、オレンジの顔色に緑の髪色のウンパルンパのデザインからもそうですね。しかし、身長は原作に記述のある「No higher than my knee!」(私の膝までしかないわ!)という身長設定を採用しているといった点からも、ポール・キング監督は原作と『夢のチョコレート工場』の設定をオマージュした前日譚にしたんだな!と、最初の予告編を観た時からとても興奮したのを今でも覚えています。
それと同時に上記の台詞は、二つの単語を入れ違うことに意味のあるジョークですので、その派生した台詞の翻訳が予告編では意訳されていたことから、日本語翻訳に対しても一抹の不安があったのも覚えていました。 しかし、本編での翻訳は予告編で意訳されたものから変更され、二つの単語の意味を少し取り違えたものとなっており嬉しかったです。 ロアルド・ダールの言葉遊びたっぷりの英語を日本語翻訳することはとても骨が折れる作業だと思われます。
ポール・キング監督とサイモン・ファーナビーが手がけたこの脚本は、原作や『夢のチョコレート工場』へのオマージュが多数含まれており、見つけるたびに楽しいイースターエッグが隠れていました。
「Pure Imagination」や「Oompa Loompa」などの名曲はもちろん、階段を上り下りする足さばきや、杖の回し方、階段の形は、チョコレートルームに入る際のシーンを連想させました。
お金のコインが側溝に落ちるシーンは、1971年版のチャーリーが同じく側溝でお金のコインを拾う場面とリンクしていますね。
シルクハットから次々に物を取り出すシーンでは、「ガラスの大エレベーター」でウォンカがプラム色のジャケットのポケットから様々なアイテムを取り出す場面を思い起こさせます。
宿屋で書かれる長い契約書は、5人の子どもたちがチョコレート工場に入る前に書かれる契約書にオマージュを捧げていますね。
宿屋から洗濯場へ直結するランドリーシュートへ放り込まれるシーンは、ベルーカ・ソルトが焼却炉へ落とされる未来の予兆を示唆しているのかもしれません。
洗濯の仕事を教わる過程でのシーンは、1971年版のチャーリーが母親の働く洗濯屋で同様に木べらを使って混ぜるシーンにリンクしています。
「Willy Wonka's Wild and Wonderful Wishy-washy Wonka Walker.」という発明品の名前に込められた"W"の使用法は、1971年版の「Wonka Mobile」や「hswawknow」(「WonkaWash」を逆から綴った)や原作のチョコレートバーに見られるネーミングセンスと共通しています。
「Willy Wonka's Wild and Wonderful Wishy-washy Wonka Walker.」の形状は、フルコースが味わえるガムの製造マシンに酷似しています。
警察署長の体型が変化しお腹のベルトがはじける場面は、バイオレット・ボーレガードがお腹のベルトがはじける場面を連想させます。
ウォンカが店を持つ想像するシーンでのピンクに染まる壁は、原作の工場内の長い廊下の壁がピンクであることを示唆しているのかもしれません。
倒れない杖のシーンは、1971年版でのウォンカの工場登場のパフォーマンスを思い出させます。
ウンパルンパのトランクの中身がお酒だらけである事は、原作のバタースコッチとバタージンの部屋でのウンパルンパたちが酔っているシーンを連想させます。
「ホバーチョコ」(Hoverchoc)は、「炭酸上昇ドリンク」(FIZZY LIFTING DRINKS)からインスパイアされており、チャーリーとジョーおじいちゃんが飛んで行くシーンも酷似しています。
チョコレートまみれになるウォンカとヌードルは、オーガスタス・グループがチョコレートの川に落ちるシーンを想起させます。
チョコレートカルテルの三人が歌う「Sweet Tooth」の歌詞には、1971年版のウォンカのソルト氏に耳打ちする"Candy is dandy, but liquor is quicker."のセリフが引用されていますね。
ウンパルンパが盗み際に話す「I said,Good Day.」は、1971年版のウォンカがオフィスで怒鳴る場面の台詞「Good Day Sir!」から派生した台詞ですね。その後のウォンカが「彼が勝ちました」と話すことからも「You Lose!」を思い起こしますね。
ウォンカのお店にお爺さんをご招待するシーンでは「Make a wish Count to three」を思い出す台詞がありましたね。
ウォンカがお店で、お花の形のカップをかじるシーンは、1971年版のオマージュであり、ラストシーンのウンパルンパが手にしているお花のカップとの類似性が際立っています。
ピストルを突き付けられる場面は、原作と1971年版のマイク・ティービーがおもちゃのピストルを持っている場面と関連しているかもしれません(これは微妙ですが)。
ウォンカが母親から年に一度の誕生日にチョコレートをプレゼントされる描写は、原作のチャーリーを連想させますね。
地下に隠されたチョコレートタンクは、後に原作のウォンカが地下ならばどれだけ工場を広げても大丈夫だという発想に繋がったのかもしれませんね。
船の上でウンパルンパが虫眼鏡を使ってウォンカにつけられた指輪の跡を見るシーンは、オフィスでウォンカが虫眼鏡を使って契約書を読み上げるシーンを連想させます。
私が発見できていないだけで、まだまだたくさんあると思います。思い出したら追加していくつもりです。このような細やかなディテールやリンクは興味深く、楽しめました。
宿屋の二人に関しては、ロアルド・ダール原作の『いじわる夫婦が消えちゃった!』(原題:The Twits)からもインスパイアを受けているキャラクターであるかもしれません。
ウォンカとヌードルは、ウォンカとチャーリーのような存在のコンビに描くのだろうかと想像して観に行ったのですが、鑑賞して、ああこれは、ウィリー・ウォンカとマチルダ・ワームウッドの相棒コンビのようにしたのだなと思いました。
マチルダ・ワームウッドとは、ロアルド・ダール原作の児童書『マチルダは小さな大天才』(原題:Matilda)に登場する主人公の本が大好きな天才少女のことです。
ヌードルは酷い大人たちに囲まれて、本の虫(ブックワーム)であり賢いが、とても辛い人生を送りました。 「お仕置き部屋」に閉じ込められるヌードルのシーンは、『マチルダ』に登場するトランチブル校長の作り出したチョーキー(お仕置き部屋)を想起させましたね。
ポール・キング監督は映画制作のプロセスの中で、ロアルド・ダールの物語を日がな一日読むことができたことが、一番良かった部分だったとインタビューで語っていました。ヌードルを含め、映画オリジナルキャラクターを作成する際に、ロアルド・ダールの他の作品からエッセンスを取り入れ、ダールの雰囲気に近づけて物語に調和を持たせようとしたのだろうと考えています。
ヌードルは、これまで一度もチョコレートを食べたことがないと打ち明けました。ヌードルはマチルダともチャーリーとも異なり、ホットチョコを飲みながら本を読んだり、年に一度の誕生日プレゼントでさえもチョコレートを味わったことがないのです。チョコレートの魅力を知らないヌードルは、ウォンカにとって衝撃的な存在であり、2人の人生観は大きく異なります。 ウォンカは「一生分のチョコを渡そう」と話します。 この言葉は、後にゴールデンチケットに書かれた文言を暗示しているのかもしれません。
ウォンカとヌードルの関係は、まるで子どものような大人と大人のような子どものコンビのようです。私は一度は考えたことのある「もしもウォンカとマチルダの物語があったらどんなものだろう」というファンフィクションのような設定を楽しみました。 しかし、ヌードルの設定は、ダールが描いたマチルダのような親の愛情を受けず、血のつながりのないハニー先生との養子縁組を組むという設定とは真逆です。代わりに、ヌードルは血のつながりのない宿屋のミセス・スクラビットに育てられ、しかし愛情は受けられません。物語は、ヌードルが血のつながりのある母親と再会するという展開を迎えます。このキャラクターの背景は、作風の系統がやや異なるなと思います。
また、キリンが登場しますが、それはおそらく『こちらゆかいな窓ふき会社』(原題:The Giraffe and the Pelly and Me)に登場するキリンからの影響かもしれませんね。
そうですね、制作陣がイースターエッグのようにオマージュを散りばめたと話していた通り、多くのオマージュが含まれており、それを見つけることに夢中になりすぎました。
視点を変えて、前日譚としての話の整合性について考えてみると、本作は原作「チョコレート工場の秘密」と、1971年に初の実写映画化された『夢のチョコレート工場』にオマージュを捧げた前日譚映画ですが、原作や『夢のチョコレート工場』の前日譚として、つながるかと問われれば明確に確実にはつながると言えません。
『夢のチョコレート工場』の公開は1971年であり、"引退の時が近い"雰囲気の彼の若い頃を想定して、時代設定を最終的に1948年から1949年頃と設定したと話されています。 この時代設定のウィリー・ウォンカの前日譚としてのラストシーンから、1971年版のウォンカに繋がるとすれば、これらの出来事の間には約20年の時間が経過しており、この期間に何らかの出来事が起きなければ、物語がつながるのは難しいでしょう。 例えば、あのチョコレートカルテル三名が復讐に燃えて、スパイを送り込む描写をどうするのか、別のオリジナルエピソードが盛り込まれたり、他のウンパルンパがルンパランドからどう工場へ来るのかなどが考えられます。
また、作中でウォンカが字が読めないことを話しますが、1971年版のウォンカはラテン語やフランス語などの詩を引用して話すことからも語学が堪能であり「Nil desperandum(ラテン語) 絶望しないで! Au revoir, adieu, auf widersehn!(フランス語) さようなら、さよなら、もっと広く!」といった言葉を使用しています。原作の設定においても、世界地図に載っていないウィリー・ウォンカがたどり着いたルンパランドで、ルンパ語を駆使して交渉したエピソードや、工場内に住むウンパルンパがルンパ語ではなく英語を話すエピソードから考えると、ヌードルから文字を教わり、この前日譚映画から1971年版までの約20年間で本を読み学ぶ可能性も考えられますが、現状ではこの前日譚映画単体で考えると、設定に少々矛盾が生じます。
本作の若い頃の彼は、世界中を7年間駆け巡り、世界中でチョコレート作りを学び材料を集めてきたという設定でしたが、文字は読めないとしても��の人々との交流を介して、船でチョコレート作りのコックとして働きながら、人の親切によくしていただき、世界中の材料を集めたと想像すれば良いのでしょうかね。日本のさくらんぼ手摘み職人の説明も、この視点から考えると理解できるかもしれません。
ウォンカが自身のチョコレートによって人々が結ばれ、恋におちるといった、まるで恋のキューピッドのような役割を果たす理由は、おそらく彼が自らが創り出した驚くべき効果を持つお菓子を多くの人に届けたいと考えているからでしょうか。ウォンカのチョコレートによって恋が芽生える様子を観たいと思われるかと問われれば、私は特にそうとは感じませんでした。個人的には、このシーンが物語にどれほど必要か理解できませんでした。 また、「魔法のチョコレート」という表現に疑念を感じました。原作では、ウィリー・ウォンカの従業員にスパイが忍び込んでレシピが盗まれ、他のお菓子会社で同じお菓子が作られてしまいます。これにより、ウォンカのお菓子は魔法のようなものではあるものの、レシピ通りであれば一般の人でも作ることができることが示唆されています。したがって、「不思議なチョコレート」なら理解できますが、「magical」などの表現には疑念を感じました。
インタビューにて『wonka2』を示唆した回答が行われましたが(リップサービスの可能性もありますが)2が制作されれば整合性があるかもしれません。
今回の前日譚映画は、ポール・キング監督にとって「子どもの頃から何度も何度も見て、DNAに刻まれた、とても神聖な存在」である1971年版『夢のチョコレート工場』の世界観のイメージの中にいる、独自の解釈したウィリー・ウォンカの若き頃を描いた前日譚でした。
「原作者が既に死去している作品の、他人が解釈し後付けで設定を行ったメディア化作品」は現在世の中に多く存在しています。 「チョコレート工場の秘密」(原題:charlie and the chocolate factory)は特に読んだ人にとって印象がとても色濃く変わり、「ウォンカは4人の子どもたちがひどい目に遭う出来事からも子どもが嫌いな人だ」「ウォンカはお小遣いが少ない子どもたちのためのお菓子を作ってるから子どもが好きな人だ」といった焦点の違いによって印象が異なります。そのため、謎が多く、想像の余地が多い作品であり、人それぞれのウィリー・ウォンカ像が存在すると考えられます。
ティム・バートン監督と脚本家ジョン・オーガストによる「父親が歯医者で、父親の目を盗み食べたチョコレートに魅了されてショコラティエとなったが、従業員の中にスパイが潜り込まれレシピが盗まれた事件をきっかけに、人間不信に陥り工場に引きこもり、久方ぶりに工場外の人間と交流したため戸惑いを隠せないウィリー・ウォンカ」も同様ですね。
そして今回のポール・キング監督とサイモン・ファーナビーによる「母親との船旅を経て、母の作ったチョコレートの味を忘れられず、世界中の人に届けたいと夢見る、人の親切を信じて育ってきたが、グルメ・ガレリアにて世界の厳しさを知る青年ウィリー・ウォンカ」というウォンカの善性に特化した若き頃を創造されていますね。
現在制作については謎に包まれていますが、『マイティ・ソー バトルロイヤル』で『夢のチョコレート工場』のパロディを取り入れ、"Pure Imagination"の音楽も劇中歌にしたタイカ・ワイティティ監督が、脚本、監督、製作総指揮を務めるNetflix長編アニメシリーズ『Charlie and the Chocolate Factory』が進行中です。『スポンジ・ボブ: スポンジ・オン・ザ・ラン』や『パウ・パトロール ザ・ムービー』を手掛けたCGアニメーション制作会社Mikros Animationも関与しています。この長編シリーズでは「チョコレート工場の秘密」の他に「ガラスの大エレベーター」もアニメーション映像にする予定で、「ウンパルンパ」に焦点を当てたオリジナルストーリーも制作予定だそうです。楽しみですね。
私はロアルド・ダールの「チョコレート工場の秘密」のメディア化作品を、「他人が解釈したウォンカ」を楽しみに鑑賞しています。簡単に言えば、「ウォンカのマルチバース」として観ています。「原作に近い」や「原作に基づいた」「原作のような」メディア化は多いですが、万人が完全に解釈一致するウィリー・ウォンカの作品が存在することは難しいだろうと思います。今回の前日譚映画も「ポール・キング監督とサイモン・ファーナビーによるウィリー・ウォンカの解釈」を楽しませていただきました。
『チョコレート工場の秘密』(原題:Charlie and the Chocolate Factory)は、1964年に初版が刊行され、1973年に原作者ロアルド・ダールにより改訂されました。日本では、田村隆一氏による1972年初版の旧訳版と、柳瀬尚紀氏による2005年初版の新訳版が存在します。旧訳版では改訂前のウンパルンパの表現がそのまま残っていますが、Augustus Gloopについては「オーガスタス・グループ」と、ほぼ登場人物の名前がそのまま訳されています。一方、新訳版では「オーガスタス・ブクブトリー」といった独自の翻訳がなされています。前日譚映画の公開に合わせて、新たな翻訳版が刊行されることを期待していましたが、残念ながら実現しなかったようです。
ちなみに、先述した『マチルダは小さな大天才』(原題:Matilda)は、映画化された2つの作品が配信されています。こちらもぜひご覧いただければと思います。
また、ウェス・アンダーソン監督による連続短編映画『ヘンリー・シュガーのワンダフルな物語』『毒』『ネズミ捕りの男』『白鳥』もNetflixで視聴可能ですので、こちらもぜひお楽しみください。
さらに、『いじわる夫婦が消えちゃった!』(原題:The Twits)もアニメーション映画化が2025年に予定されており、これも楽しみですね。
Tumblr media
今回の前日譚映画には、ロアルド・ダールの児童書を、読者が再び手に取りたくなるような小ネタもたくさん含まれています。この作品をきっかけに、多くの方が本を読む楽しさを再発見してくれるといいですね。
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