Tumgik
#ナウシカとセルム
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20190117
ピカソ版画展
夕方のローカル情報番組で南アルプス市立美術館がリニューアルしてピカソの版画展が巡回してきてるらしーとのことで水曜の休みに行った。
途中御坂峠で富士山の写真を撮る。スメナ35はどう撮れるのか分かんないので絞りを変えて2枚ずつ撮る。フィルムは富士フィルムの業務用100。デジカメ撮るの減ったかもしれない。気付いたらブログに載せる今日の写真すら撮っていない。お金も懸かるしギャンブル的なところもあってある種の満足感があるからだろうか。
昼頃着く。入館料500円で安かった。
展示はダーッと一気に見て気になったこと3つあればいいやという感じで、気になったのをもっかい見直して終わり。昔からずっとこんな感じだ。
五木田智央がピカソの手指の描き方をサンプリングしてたり、坂口恭平の粘土や立体もピカソを意識しているように見えてピカソは何年か前から気になっていた。
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マリー・テレーズの顔(1928)
画像は拾いもん。この絵を見て、子供の頃から気になってた宮崎駿がナウシカの原作版で描く西洋人の不気味な顔の描き方の元ネタじゃないかなと思った。これに諸星大二郎の細かい線のタッチの影響が混ざっている。「庭」の主のヒドラ、墓所でヴ王付きの道化が庭の主に思考を乗っ取られて顔が挿げ変わった時の描写、また森の人の青年セルムが時折見せる影のある顔など。庭の主は人造人間のため性別は無いが、遠い顔をした母親のような顔をしておりユング心理学で言うところの元型「グレートマザー」の顕現ではないかと感じた。母性と言えば聞こえは良いがその懐に全てを飲み込む恐ろしい存在でもある。
何故ユング心理学にすんなりはまったのか今気付いたがナウシカの原作がユング心理学そのものだからだ。絵と物語によって理解の下地が出来ていた。思うに宮崎駿は河合隼雄の著作を読み込んでいると想像する。
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ミノタウロマキア(1935)
言語化上手く出来ないが気になった作品。これも画像は拾いもん。ピカソは牛に拘っていたらしい。半獣半身の牧神やキリスト教以前の古代ギリシャやケルト的な土着神みたいなモチーフは、岡本太郎が縄文と自分を接続するのと同じ感じだろうか。キュビスムは遠近法を否定した新しい表現というよりも旧石器的無限遠近法の発見みたいにも感じる。この絵からは動物と人との境界、現在と過去の境界、光と闇の境界、天と地の境界といったことを感じた。ちゃんとキャプションの説明読めば良かったな。
思ったのは適当なドローイングの線描で下手に見せていてもピカソは絵のうまさを隠しきれていない。故につまらなくて仕方なかったんだろうなと天才の退屈と倦怠を想像してみたりした。
余りに記号化されすぎた作家だからやけに新鮮だった。
結局ピカソを出汁に好きな作家に話を持っていってしまうなあと思ったがそれで良いのかもしれない。最近気になるのは魔女の宅急便のウルスラの描いていた絵とかナウシカに出てくる壁にかけられたタペストリーのような古い使徒の絵なんかが気になる。祈りみたいな表現。
そうだ祈りなのだ。祈り。
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マンガの『ナウシカ』では、くりかえし、ナウシカを「虚無」がおそいます。乱暴に言ってしまえば、それは絶望とか、投げやりとか、そういうものをあらわしていると思います。破滅的な難局を前にして、ナウシカだけでなく、私たちの前にこの種の誘惑が何度も訪れます。いま、世界全体が、地球環境のことにしろ、核兵器のことにしろ、民族戦争のことにしろ、難局にあります。一人の人生についてもいえるかもしれません。そこから「虚無」、絶望や投げやりに陥りたくなります。自殺もそのひとつでしょう。ナウシカはいちど絶望し、自殺をはかり、大海嘯にのみこまれるシーンがあります。そして、その「眠り」にあるとき、「虚無」がおそい、ナウシカはあやうくそれに呑み込まれそうになります。真実を見きわめること(浄化された世界)、周囲の励まし(セルム)によって、ナウシカは「虚無」から脱出します。これ(虚無)が、ナウシカ(そして私たち)を待ち受ける一つの罠です。
 そして、その反対の極に、もう一つの罠がまっています。これが「墓所の主」であり、ちょっとうまく表現する言葉がありませんが、ユートピア的な「進歩と理想の思想」です。「墓所の主」は、人間のみにくさを「浄化」して滅ぼし、新世界をつくろうと呼びかけます。そのために人間の知識と技術を動員しよう、とよびかけています。ナウシカはこれを痛烈に批判します。  「墓所の主」は、愚かしく凶暴な人間を、賢明で穏やかな人間にとりかえ、理想社会を築こうという呼びかけです。  ナウシカは、人間はどこまでいっても清濁あわせもち、その愚かしさゆえに、これからも殺戮と破壊をくりかえすだろうが、自分と自分の愛しいものをまもりつづけて生き抜いていくし、生きねばならない、と主張しています。それは、『ナウシカ』のラストで、ほかに呼びかける言葉もなく、「生きねば…」というただそれだけの倫理が残されてつぶやかれることにもあらわされています。
” - 『風の谷のナウシカ』批判 (via gkojax)
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jculture-ja · 5 years
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新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」ユパ役の尾上松也、セルム役の ...
#歌舞伎 #尾上松也 [ナタリー]宮崎駿「風の谷のナウシカ」を題材とした「新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』」の出演者、配��が発表された。 「新作歌舞伎『風の谷のナウシカ …
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kabukiinfo · 5 years
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sawayakaoshibori · 7 years
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20170120
朝、リビングがユキヤナギの花のいいにおいがした。まだほとんど花が咲いていないのに結構香りがする。そのうちいっぱい咲くかな。出勤中に雪が降ってきた。やっぱり冬は1月からが本番だな!帰ってきてから急に漫画が読みたくなって、押入れからこの世界の片隅にとナウシカを出して読んだ。なんとなく選んだけど両方戦争の話でめちゃくちゃしんどくなった。どこまでいっても戦争…なんでわざわざこの二冊を続けて読んでしまったんだ!?完全に精神をいじめるチョイス。両方とも「人間は汚濁併せ持つ生き物だけどがんばって生きよう」って内容だったけど、やっぱり人類は全滅したほうがいいのでは…人間は害すぎるのでは…と根暗だから思ってしまう。でも姫姉さまが生きろって言ってるからな~しょうがないよな~。ナウシカを読むとここまで完全に世界を作れる宮崎駿はやっぱり神なんだなと思った。小学生のころはセルムよりアスベルのほうがいいと思ったので、なんでアスベルはケチャとねんごろになってしもたん…と思ったけど今なら絶対セルムだ。アスベルは少年すぎる。さらに言えばセルムよりクロトワだし、ナウシカの男性は好感度が高い順に言うとユパ様→ミト→チヤルカ→クロトワ→ナムリスで二人ともランク外だ。セルムもなんかちょっとめんどくさそうなんだよな。ナウシカはおっさんがかっこいい。ユパ様は宝塚でいう轟悠さんだから遠くから見ていたい。ミトは結婚したいタイプ。でもやっぱりクシャナ殿下が一番だ。この前ナウシカのアニメを見ていたら、クシャナ殿下が出てきたところでみんすけに「あっ!少佐(私)の性癖を作った人だ!」と言われた。そうなんだよな、クシャナ殿下みたいなキャラクターが好きすぎる人生になってしまった。あと榊原良子さん。ほんと好きすぎて銀河英雄伝説のミス・グリーンヒルが榊原さんって気づいたとき「あまりにも声が優しくて気づかなかった!!!!!榊原さんに(ヤン提督が)優しく話しかけられてる!!!!しかも告白したら榊原さん(ヤン提督と)結婚してくれる!!!!」って興奮して吐きそうになったもんな。宮さんはすぐ女の子の髪の毛切ってボブにしちゃうんだけど、クシャナ殿下だけは切らないでほしかった。あの編みこみヘア、死ぬほど好き。戦場に行くなら絶対にクシャナ殿下かハマーン様の部下になりたい。
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20180616
私家版風の谷のナウシカ考「統合」篇
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「風の谷のナウシカ」宮崎駿(徳間書店刊) 第六巻 P74より
宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の原作版において、土鬼(ドルク)諸候国というアジアとよく似た文明を有する連合国家がこれまた西洋的文明を有するトルメキア王国に対し、遺伝子操作され成長すると猛毒の瘴気を吐き出す粘菌の新種を培養し生物兵器として使用するという場面が出てくる。腐海の蟲たちは集合無意識のようなもので異変を察知しその場所に向けて大移動を開始しており、王蟲は主人公ナウシカとの念話の中で「南の森が助けを求めている、お前は北に帰れ。」と伝える(うろ覚え)。粘菌の新種は菌輪を形成し地上のあらゆる物を食べ尽くし猛威を振るう。しかし猛毒を撒き散らす子実体の形成には至らず最終的には蟲や腐海の菌類や植物とお互いに食べたり食べられたりして混ざり合い安定化するという結果に終わる。
粘菌の新種は自身が呪われた存在であることやそれによって人間から向けられている憎悪、生まれた事それ自体に対する恐怖で怯えていることがナウシカによって語られる。それを蟲たちは「森が助けを求めている」と表現しこの粘菌という孤立した存在を身命を賭して森へ迎え入れようとする。
思うにこれはエゴが意識に統合されていくメタファーのように思う。
ここでの「エゴ」とは一般的な人格を表す「自我」を含め、それ以前の段階の、世界から分離され怯えた粘菌のような「生存」を最優先とする自動運転のサバイバル・モードの状態、真我に対する言わば偽我や仮の自我の状態を言っている。入力された情報に対して前頭葉というコンピューターでいうOSを介さずに反射で出力を行う。これは発達障害や自己愛性人格障害、統合失調症などとも関係しているように思うが、このホモ・サピエンスの機能不全としてのエゴは、エックハルト・トール著「ニュー・アース」に詳しい。分厚く難解で地味な本だが、「もう自分自身と付き合っていられない」というような境地に至った人は一読されると良いと思われる。
話を戻す。
またこの精神における「統合」の隠喩は別の場面にも出てくる。
土鬼諸候国を統べる神聖皇弟ミラルパは若かりし頃は慈悲深い名君であったがやがていつまでも変わらない愚かな民衆に対して失望し豹変して狂気の圧政を敷く。後に実の兄ナムリスに誅殺されると怨霊となってナウシカに付きまとう。そしてナウシカはとある事情から王蟲の漿液に包まれ仮死状態となり、タブーとされてきた王蟲の心の深淵を覗いた際に森の人セルムという若者の導きによって自身の心の森に分け入る。そのイニシエーションの最中にミラルパは無防備なナウシカに取り憑こうとする。
ナウシカは心の森に入る際に、取り残され虚無の闇に飲み込まれかけたミラルパの手を取り森へ引き入れる。森の人セルムは呆れるように「闇から生まれた者は闇に返すべきだった。」と言い放つがナウシカは「闇は私の中にも在る。」と答える。餓鬼のような年老いた身体に子供のような振る舞いをするミラルパの未成仏霊はナウシカの母のような眼差しの中で共に心の森を巡る。やがてナウシカたちは腐海の極相の果てに辿り着き、森の人セルムに浄化された世界の存在を知らされる。清浄な世界を眺めるナウシカに見守られ宿業の人であった土鬼神聖皇弟ミラルパは水鳥を追いかける内に水面の波紋となって成仏するのである。
このミラルパは恐らくナウシカの中で抑圧された暗部や闇の投影であり、ユング心理学でいうところの「シャドー(影)」であるが、ミラルパがナウシカに執着するのもかつて自身から切り離した光の投影をナウシカに見ているからである。それ故に両者は引き合い統合を求め出会ってしまう。ナウシカはこの影の存在を自身の中に認め統合を経て心の深淵から現実世界に帰還する。
個にして全、全にして個
かつて私は人間の、また自身のエゴは克服されるべきもの、コントロールされるべきものだと考えていた。しかしその発想自体がエゴである。そこには優越の感覚が潜んでいる。心理学者カール・ユングが「抵抗するものは存在し続ける」と述べたように、エゴや事象に力を開け渡しているのは私自身であることにまず気が付く事である。そして嫌悪や反目によって他者に投影し抑圧するのではなく身の内のエゴの存在を認めその言い分に耳を傾ける。自分の子供やかつて子供だった自分を見るような眼で見つめる。健気にもエゴは与えられた役割に忠実に私を外部から守ろうとしていただけなのである。ただそれが自身を滅ぼすだけでなく他人や自らの種や他の生物や環境すら滅ぼしかねない機能不全であるということであって、エゴも宇宙の中の一つの要素である。
どこかの段階で自身から分離した要素を統合した結果として何が起こるのかはまだわからない。私はたまたま夢の中でこれは夢であると気付き始めただけでまどろみの中で未だ眠り込むことも多い。しかし眠りは確実に浅くなってきている。これは世界全体で同時多発的に起きているように思えるが、それはインターネットの発達と恐らく関係している。統合への意識は連鎖し加速していく。そしてこの流れは不可逆である。
しかしエゴが統合された結果偉くなるわけでも大金持ちに成る訳でもないことは確かであり今までと別の視点を獲得する、ただそれだけである。
それに間抜けな錯覚かもしれない。
思えばスターウォーズのルークとダース・ベイダー、プラトーンのエリアスとバーンズなど、善悪、陰陽、聖俗といった二項対立からの投影と統合を表現した物語は神話の時代から星の数程語られてきた。それは人類の来るべき世界を指し示しているからだろう。
ナウシカの原作は節目ごとに読むがいつも新たな発見や気付きがある。
例えば、作中において「森の人」という火を捨てて森に入った人々がエフタルの王族の末裔であるとも、武器の材料として組織的に王蟲の甲皮狩りを行い自らの帰る祖国を滅ぼした死の商人たちの末裔であるとも語られるのだが、歴史学者の網野善彦(中沢新一の叔父)の日本の中世史を読んでいるとかつて山中に住み非人とされた木材の加工を生業とする木地師と呼ばれる職能民の始祖は戦乱のさなか山中に逃げた高貴な身分であったとされ(そしてそれは樹を自由に伐採する為の山の民の偽証であったともされる)、宮崎駿の教養とその知識を創作に落とし込む手腕に恐ろしさを感じる。
ナウシカの物語はその語終局に向かって単純な統合だけでは解釈できない展開を迎え、それは一つの宇宙観を示す現代における神話や黙示録のような世界だが、それについてはまたの機会に譲る。
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