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#エミール・クラウス
nekomimibandou · 1 year
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calentitomusic · 2 years
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ユト/タッチ・ザ・ロック
UTO: Touch the Lock InFiné (RTMCD-1539)
キツネやアレックス・ゴッファー周辺から頭角を現した10年代フレンチ・エレクトロの人気アクト「サン・ミシェル」のメンバー、エミール・ラロッシュがボーカリストのネイサと組み新ユニット「UTO(ユト)」を結成。
シンセの音色はドリーミー、メロディやうたは抑制的でミニマル、リズムは複雑でパーカッシヴ、独特の緩急もあり。
ディーナ・アブデルワヘドやレオニー・ペルネ、ラベル、ギャスパー・クラウスらを手掛けてきたフランス屈指の目利きレーベル「InFiné」からのリリース。
詳細はジャケ写をクリック
試聴・ご購入は https://li.sten.to/rtmcd1539
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ryotarox · 2 years
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ラーテム派 Latemse school, Latemse Scholen
Latemse school - Google 画像検索
Arts Flanders Japan フランダースの光:ベルギーの美しい村を描いて
19世紀末から20世紀初頭にラーテム村に集った芸術家たちは、その美しい風景と素朴な村人をモデルに数多くの作品を制作しました。彼らは「ラーテム派」と呼ばれ、ベルギー美術史において重要な役割を果たすことになります ラーテム派は各々の作風こそ個性的なものですが、その根底に共通するのは村人や画家同士の交流を通して見出した心の解放でした。人物や自然を素直な視点をもって表現する、思想にとらわれない自由な感覚こそがラーテム村の芸術の魅力といえるでしょう。 ラーテム村の精神的支柱で象徴主義の彫刻家ジョルジュ・ミンヌ、印象派の影響を受けた光り輝く絵画様式リュミニスムの代表エミール・クラウス、表現主義をベルギーに持ち込んだギュスターヴ・ド・スメットやフリッツ・ヴァン・デン・ベルグ、そしてベルギーへ留学してクラウスに師事した日本人画家・太田喜二郎と児島虎次郎など
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konnoayaka0 · 6 years
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今野綾花 編集者、ライター/フィルムアート社編集部 東京芸術大学美術学部芸術学科卒業 鳥取市在住
連絡先:konnoayaka0(a)gmail.com
[企画・編集]
『視覚文化「超」講義』 石岡良治=著 フィルムアート社 2014/6/26
『キュレーションの現在 アートが「世界」を問い直す』 椹木野衣、五十嵐太郎、蔵屋美香、黒瀬陽平、新藤淳、松井茂、荒川医、石崎尚、遠藤水城、大森俊克、金井直、川西由里、菊池宏子、櫛野展正、窪田研二、芹沢高志、竹久侑、土屋誠一、筒井宏樹、中村史子、成相肇、橋本梓、服部浩之、藤川哲、保坂健二朗、星野太、桝田倫広=著 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2015/2/27
『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』 パブロ・エルゲラ=著 アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会=訳 フィルムアート社 2015/3/23
『漫画家、映画を語る。 9人の鬼才が明かす創作の秘密』 島田一志=編 松本零士、上條淳士、楠本まき、浅田弘幸、五十嵐大介、松本次郎、武富健治、山本美希、諫山創=インタビュー フィルムアート社 2015/5/25
『アーティストの目』 『ドローイング・テクニック』 『人間を描く』 『学ばないドローイング』 (HOW TO SEEシリーズ) ピーター・ジェニー=著 石田友里=訳 フィルムアート社 2015/7/25-2015/8/25
『マンガの現在地! 生態系から考える「新しい」マンガの形』 浅野智哉、天野昌直、粟岳高弘、飯田一史、太田克史、樹崎聖、木村仁、桐木憲一、さそうあきら、さやわか、スタンザーニ・ピーニ詩文奈、高狩高志、中野晴行、仲俣暁生、西島大介、ばるぼら、三上信一、吉田アミ=著 島田一志=著、編集 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2015/10/9
『感情類語辞典』 アンジェラ・アッカーマン、ベッカ・パグリッシ=著 滝本杏奈=訳 フィルムアート社 2015/12/25
『めくるめく現代アート イラストで楽しむ世界の作家とキーワード』 筧菜奈子=著 フィルムアート社 2016/2/18
『人工地獄 現代アートと観客の政治学』 クレア・ビショップ=著 大森俊克=訳 フィルムアート社 2016/5/24
『アートプロジェクトがつむぐ縁のはなし 絵物語・声・評価でひもとく 大巻伸嗣「Memorial Rebirth 千住」の11年』 「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」 事務局、東京藝術大学熊倉純子研究室=企画・制作 熊倉純子、藤枝怜、佐野直哉、槇原彩、篠原美奈=著 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 2022/3/17
[編集(共同編集)]
『現代アートの本当の学び方』 会田誠、荒木慎也、大野左紀子、苅宿俊文、暮沢剛巳、谷口幹也、土屋誠一、筒井宏樹、成相肇、橋本誠、日比野克彦、福住廉、三脇康生、村田真、山木朝彦、川崎昌平=著 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2014/3/26
『第8回恵比寿映像祭』公式パンフレット 東京都写真美術館 2016/1/31
『美術手帖』2018年8月号増刊「藤田嗣治」 美術出版社 2018/7/30
『美術手帖』2018年10月号増刊「エドヴァルド・ムンク」 美術出版社 2018/10/15
『これからの美術がわかるキーワード100』 美術手帖編集部=編 美術出版社 2019/4/8 「永遠の都ローマ展」公式図録 東京都美術館、福岡市美術館 毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション 2023/9/16
[記事の構成・執筆など]
『美術手帖』2016年8月号 特集:キャラクター生成論 美術出版社 2016/7/16
『美術手帖』2016年10月号 特集:サルバドール・ダリ 美術出版社 2016/9/17
『美術手帖』2017年2月号 特集:アウトサイダー・アート 美術出版社 2017/1/17
『美術手帖』2017年4月号 特集:池田学 美術出版社 2017/3/17
『美術手帖』2017年12月号 特集:これからの美術がわかるキーワード100 美術出版社 2017/11/17
『美術手帖』2018年4・5月合併号 特集:ART COLLECTIVE 美術出版社 2018/3/17
『美術手帖』2018年10月号 特集:上海アートシーン 美術出版社 2018/9/7
『美術手帖』2019年2月号 特集:みんなの美術教育 美術出版社 2019/1/7
『美術手帖』2019年6月号 特集:80年代★日本のアート 美術出版社 2019/5/7
『美術手帖』2019年10月号 特集:アーティストのための宇宙論 美術出版社 2019/9/6
『美術手帖』2019年12月号 特集:「移民」の美術 美術出版社 2019/11/7
『美術手帖』2020年2月号 特集:アニメーションの創造力 美術出版社 2020/1/7 『美術手帖』2020年4月号 特集:「表現の自由」とは何か? 美術出版社 2020/3/6 『美術手帖』2020年10月号 特集:ポスト資本主義とアート 美術出版社 2020/9/7 『ビジネス教養としてのアート』 造事務所=著 岡田温司=監修 KADOKAWA 2020/10/16 『美術手帖』2020年12月号 特集:絵画の見かた 美術出版社 2020/11/7 『美術手帖』2021年4月号 特集:アーカイヴの創造性 美術出版社 2021/3/5 『美術手帖』2021年6月号 特集:松山智一 美術出版社 2021/5/7 『美術手帖』2021年10月号 特集:アートの価値の解剖学 美術出版社 2021/9/7 『美術手帖』2021年12月号 特集:「NFTアート」ってなんなんだ?! 美術出版社 2021/11/7 『美術手帖』2022年2月号 特集:ケアの思想とアート 美術出版社 2022/1/7 『美術手帖』2022年10月号 特集:五木田智央 美術出��社 2022/9/7 『美術手帖』2023年4月号 特集:ブラック・アート 美術出版社 2023/3/7 『美術手帖』2023年7月号 特集:日本のストリートとアート 美術出版社 2023/6/7 『美術手帖』2024年1月号 特集:目[mé] 美術出版社 2023/12/7 『美術手帖』2024年3月号 特集:世界のアーティスト2024 美術出版社 2024/3/7 日本の写真史をなぞる存在。写真家・安井仲治の魅力とは?「生誕120年 安井仲治」展を企画した3館のキュレーターが語り合う 今野綾花=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/10/17 金沢21世紀美術館のキュレーター4名が語る「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット) ―次のインターフェースへ」展。AI、データ、衣食住──「DXP」という新たな惑星へようこそ 野路千晶=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/11/18 横尾忠則インタビュー「アートとデザインの境界線はこの先20年のうちになくなるんじゃないかという気がする」。87歳の作家が語る描くこと、身体と病、ジャンルの壁 成相肇=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/11/27 【AIとアート入門】前編:「コンピュータは創造的か」の問いに私たちはどう答えるか? レフィーク・アナドールから近年の研究事例まで(講師:久保田晃弘) 編集部=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/18 【AIとアート 入門】後編:「AI画家」のつくり方。ハロルド・コーエンの歴史的挑戦に見るAIのこれからの可能性(講師:久保田晃弘) 編集部=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/19 「MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ」(東京都現代美術館)を、いとうせいこうはどう見たか? 担当学芸員・森山朋絵とともに会場を見て歩く 野路千晶=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/30
[編集協力]
『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践 芸術の社会的転回をめぐって』 アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会=著、編集 トム・フィンケルパール、グラント・ケスター、星野太、高山明、藤井光、カリィ・コンテ、ジャスティン・ジェスティ=著 フィルムアート社 2018/7/26
『ART SINCE 1900 図鑑 1900年以後の芸術』 ハル・フォスター、ロザリンド・E・クラウス、イヴ-アラン・ボワ、べンジャミン・H・D・ブークロー、デイヴィッド・ジョーズリット=著 尾崎信一郎、金井直、小西信之、近藤学=日本語版編集委員 東京書籍 2019/6/5
『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出(Artist by Artist)』 ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/1/25 『エドゥアール・マネを見つめて(Artist by Artist)』 エミール・ゾラ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/3/14
『ミケランジェロ・ブオナローティの生涯(Artist by Artist)』 ジョルジョ・ヴァザーリ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/7/17 『レオナルド・ダ・ヴィンチを探して(Artist by Artist)』 ジョルジョ・ヴァザーリ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/8/31
『彫刻の歴史 先史時代から現代まで』 アントニー・ゴームリー、マーティン・ゲイフォード=著 石崎尚、林卓行=翻訳 東京書籍 2021/10/22
『ダムタイプ|2022』 ダムタイプ=著 美術出版社 2023/2/25 『六本木アートナイト事業評価報告書 2022』 佐野直哉、中谷美南子、三浦宏樹=著 六本木アートナイト実行委員会事務局 2023/3 「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?──国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」公式図録 国立西洋美術館 美術出版社 2024/3/12
*アートポータルサイト「ウェブ版美術手帖」編集協力(BT ARCHIVES) *有楽町アートアーバニズム[YAU]「YAU SALON」レポート執筆
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taramisuki · 4 years
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COCOON感想
公演当時ふせったーに投稿していたCOCOON感想をまとめました。 2019/5/11 19:31 【COCOON 月の翳り。初回見てきた感想】 私、大☆勝☆利🙌🏻🌟 すごいなんかなんていうかずっと思い描いていた解釈を7年越しに肯定してもらえた気分。 しかもそれでオマケまでつけてくれるのだから、なんていうかもう言うことないわ。 すごいTRUMPの一番最初に見た時のアンジェリコとラファエロを思い出した。 COCOONのアンジェリコとラファエロが持つ感情はTRUMPで描かれていたもの。 それを元にしているものだから、COCOON自体ははじめて見たものなのになんかすごく懐かしくて。そうだな、私が好きだと思ったものココにあったなって。なんかお話単品で見るというより、そういう環境を含めて今の私が見るべきだったし、見て良かったなあって気持ちになった。 最初こそピュアジェリコさまだ……!をしたのですけれど、その可愛らしいところから、段々と私の知ってるアンジェリコさまになっていって。そのキレ味とシフトチェンジからのエンジン温めていく段階本気ありがとうマジ……って言ってしまう。安西慎太郎なまえ覚えました。安西さんがやってくれて良かったを心から思いました。オタクが大満足する。 なんかもうずっと長いことアンジェリコさまについて考えてきたから、ゴメンだけどアンジェリコとラファエロ以外のところまで神経を回す余裕がなかった。 それでもジョルジュとモロー出てきたときはだよねえをするし、作中の役割オッ???イニシアチブそっち???からの、アンジェリコフィーバー(概念)ですよ! 主従になるくだりはもう本当に想像の外だったんですけど、そういう風に書いてくれる!?って。あそこめちゃめちゃ良かったですわ。あのくだりはグランギニョルのゲルハルトを書いたからこそ書けたくだりで。TRUMPだけのころのアンジェリコさまでは辿りつけない境地だと思うんですけど。でも良かった。見せ場として良かった。 あとラスト。ラストシーンの衣装は作中から意味を取るなら、血の赤なのだろうけど。古のオタクはTTTやん……って幻視を見てしまう。 TTTから七年越しに僕の考えた解釈に基づくアンジェリコさまとラファエロ!を立体化してもらったあとにそんな見せられたらTTTやん……ってなんか気持ちぶり返すしかないじゃないですか。 なんか今回そういうオタクの心が全部報われて亡霊もう思い残すことないよ……って成仏しそう。 本当に私はアンジェリコさまとラファエロにガチで殴りあいをしてほしかったのだ……。青春をしてほしかったのだ……。 ラファエロに関しては今までで一番人間くさいラファエロだったので。COCOONだけで見るとどこのラファエロにも繫がらないなあみたいな気持ちはあったんですけど。 それでもラファエロ自身が「愛して欲しかった」って口にできたことがすごく大きい。 その気持ちはTRUMPの時からずっと持っていたものであるけど、そういうふうに口に出来る時があったのだなって感慨深い。通常の状態ではないけれど。 本当に親世代子育て失敗してるなって感じと、ゲルハルトさんどんだけダリちゃん好きやねん……も思いました。 あとはグスタフがすっかり格好良くなってしまって。文句なくかっこよかったです。ストロングの記憶がもはや遠い。 ドナテルロさあ、出てきた時オッ知ってる名前じゃないですかついに!!だったんですけど、話進むにつれて、また面倒くさいオッサン増えたなあwって感じだった。でもビジュアルはドツボです。 ディエゴすごく良かった。ジュリオもとても良かった。 エミールはマシマシやん……って岩窟少年がよぎりますよ。 なんだろう。とにかく私はアンジェリコさまのことずっと好きだったなあって今回見て思いましたし、やっぱりめっちゃ好きだなあってなったので。 冷静な気持ちでは見れていないだろうけど、オタクとして見た時は本当にもう満足してしまった。 重たい話であるのだけど、それ以上のもので感無量というか、お腹いっぱいになってしまったので。私はCOCOON見て良かったと思う。 2019/5/11 22:42 【COCOONのラファエロはどのラファエロに繋がるのか】 から始まるアンジェリコさまの話。 初演TTTのTはお父様に愛されたかった。ウルを守ること��お父様に愛されることに繋がるので、ウルは愛されるために必要な道具である。 TTTのRはお父様に愛してもらえなかったから、変わりにウルに依存した。お父様はどう頑張ったって愛してくれないから、違うものに自分を愛してほしい。 D2もだいたい似た感じで。D2Rはより未熟な少年である部分が強調されていたように思う。 NuのTは全てをそういうものとして受け入れて、なおかつ新しい道を探すラファエロ。導くもの。 そもそもどこかに無理につなげる必要はないのだけど。繋がるとしたら、NuのTか、次点で洋平さんのラファエロ(初演もしくはTTT)なんていうか迷いを捨てたTラファエロがスタンダードなのだろうなって思う。初演再演はそれでもまだお父様に愛されたがっていたけど。 Nuは全てを受け入れて新しい道を作ろうとしていた、本当に大人との境目のラファエロだったから。可能性としたらそこかなああなんですけど。 でも荒木ラファエロは今までのどのラファエロよりも人間くさくて。COCOONでラファエロの見せた弱さの部分は、どちらかと言えばD2以降のRラファエロが見せた弱さに近いのかなって思う。そういう分では様々なラファエロ成分があるかもしれない。 ラファエロわからん。 ラファエロについて思うことは、ウルとアンジェリコどっちを選ぶんだの時、ラファエロがアンジェリコさまを選ぶ要素なんて微塵もなかったものなあである。迷う暇すらなかったと思う。 アンジェリコさまが必要としていたのは、自分と同じ立場であるラファエロであり、ラファエロ個人というわけではない。デリコ家のラファエロだからアンジェリコさまは必要とした。 ラファエロもアンジェリコも家名を窮屈だとは思っているはずなのに。アンジェリコさまがラファエロに家名を押し付けた。 アンジェリコさまはラファエロ個人にすごく近い場所にいたのに、そもそも最初の一手が誤っていた。 アンジェリコさまが求めたものは、ふたりで同じく痛みをわかちあい、同じ方向を向いて慰めあってこ、みたいなもので。 そもそもラファエロが求めていたものは慰めじゃなかったから。 見ているものが根本的に違うのに、アンジェリコさまはそこに気づけなかった。 だからラファエロはアンジェリコさまを選ぶはずなんてなかった。 アンジェリコさまは家名関係なく友達を作ることができていたら、ラファエロの態度ももうちょっと違ったかもしれないし、アンジェリコさま自身も、なんていうか心が豊かになれたと思う。アンジェリコさま友達つくるの下手すぎる。 2019/5/12 10:54 【ラファエロとアンジェリコの殴りあうシーンはラファエロの優しさでもあるのではないかと思う】 TRUMPの時点でアンジェリコとラファエロの関係は、アンジェリコの一人相撲なので。 アンジェリコがどれだけボールを投げたって、ラファエロは打ち返してこない。相手にされていない。 そういう関係から見ると、ラファエロがアンジェリコに向けて語りかけているってことがなんかすごい感慨深い。 アンジェリコはデリコ家のラファエロにいつもボールを投げていたけれど、ラファエロはただのアンジェリコに向かってボールを投げた。 家名という檻の中からアンジェリコはラファエロにアピールしているのですけど、ラファエロは檻の中にいながら檻の外に関係を作って見るのも良いのではないか的なボール?ここらちょっとまだわからない変わるかも。 TRUMPでの関係になってしまうというか、TRUMP時間軸での関係性から見ると、ラファエロからアンジェリコに働きかけることの異常さというものが存在してしまう。 COCOONではまだそういう接触があったのだなと思うと、それはなんていうか友情では?のような言葉にならない何かを考えてしまったりもする。的確な言葉がない。 私は「お前のその目が嫌いだよ!」はずっとアンジェリコ様なりの「I love you」だと思って生きていた。 アンジェリコさまはTRUMPの時点から偶像のラファエロを作っているなと感じていたのだけど、今まで私はそこに「アンジェリコさまの作る偶像のラファエロはアンジェリコのことを見ない。そのことはアンジェリコも薄々わかっている」のではないかと思っていたんだけど、COCOON見たあとだと、「アンジェリコ様は徹頭徹尾、自分と共に同じ方向を見て歩んでくれる偶像のラファエロを夢見ている」のだなあって。そこはちょっと感じ方が変わりましたね。アンジェリコ様はラファエロ大好きやな。 TRUMPだけ見てた時、ラファエロとアンジェリコが上手く行くためには、もう本音ぶつけあってガチで殴りあうしかなくない?って思ってたんだけど。 本音ぶつけあってガチで殴り合ってたのにわかりあえてなかったの本気ウケるってなりました。 ラファエロは根本が強い子なのだろうなは思います。なんだかんだで自分で自分の道を選べてしまった。自分の在りかたを定めることができて、それを成してしまった。 そこはアンジェリコさまにない強さなのだろうなと思います。アンジェリコさまはどこかしら幼さを残し続けるのだろうなって思う。 2019/5/24 23:08 【COCOON月と星の両方見た感想。ネガティブなことも書いている】 正直な感想を書くと、月はめちゃめちゃ楽しめたけど、星は全然楽しめなかった人になってしまった。 というのも、デリコ家の思い入れがどれだけあるかってとこが大きいのかなは思う。 元々COCOON自体が今までTRUMPシリーズを見てきた人向けに作られている(単体で見てもたぶん面白くないと思う) 星を一番楽しめるのは、グランギニョルからTRUMPシリーズに入った人じゃないかなあと思う。 グランギニョル→TRUMP→月→星がベストでは? COCOONの星はTRUMPを角度をかえて再構成しましたよの話に見えたのだけど。 私はTRUMPのTRUMPだけで閉じた緻密な世界観が好きだったのもあり。なおかつTRUMPという作品自体の思い入れが強すぎるゆえに、めっちゃ後付の蛇足を足されたなあって気持ちになってしまった。 でも月はTRUMPに対する思い入れの強さゆえに、私にとってはめちゃめちゃ面白い話だったんですよ。ずっと見たかったアンジェリコさまとラファエロの話。 長くシリーズが続いてくると公式が出してくる後付の設定に「公式が解釈違いです!!」みたいな言葉もあるけど、COCOON月は私にとっては「公式が解釈肯定してくれた!!!」みたいな。そのぐらいなんていうかハッピー?な感情だったんですよ。 でも星はそうはならなくて、その違いって何かっていうとデリコ家に対する思い入れ。 私は月はアンジェリコさまの話!と思って見たから。だからアンジェリコの受け答えとか話す言葉もわかるよそういうこと言うよねってなりながら見てた。アンジェリコさまの青春の話として見たから、めちゃめちゃ楽しかった。 でもラファエロについては、アンジェリコさまの言葉に対してラファエロはこういう受け答えするよなの推測はできたのだけど、COCOON時点でのラファエロ単体の心理っていうものがあんまり追いきれてなかったかもしれない。すごい人間っぽくてじゅくじゅくしたラファエロだって感想しかあまりない。 COCOON月の主人公はラファエロっていうのは納得する。 だからグランギニョル(ダリちゃん)→COCOON月(ラファエロ)→COCOON星(ウル)でデリコ家三部作はまあ確かにはする。 しかしCOCOON星はウルのお話というよりも、ダリちゃんのお話っぽかったなあはありますね。ダリちゃんから始まったデリコ家の結末の話。 そこら辺から、どれだけデリコ家に思い入れがあるか、にかかってくるような気がする。 シリーズ化するにつれて、一番キャラクター性というものが変化したのはダリちゃんだと私は思ってるんですけど。 末満さんダリちゃんお気に入りやなはめっちゃ思います。 そこら辺の変化が私の中で閉じていたTRUMPと嚙み合わなかったのかなで。だから星はあんまり気持ちが乗りきれなかったような気もする。 TRUMPの時点でのダリちゃんは家名に縛られ運命に翻弄されるキャラクターだった。 TRUMPダリちゃんの結末は、炎を前にして「ウル、ラファエロ、これが我らの結末か」だった。その言葉はある意味ダリちゃんにとって家名からの開放でもあった。 でもグランギニョルを経由したダリちゃんはその結末には至らないと思う。運命に翻弄されるところは変わってはいないのだけど、背負うものが増えたから。翻弄されっぱなしではなく、なんらかの答えにたどり着こうとする生き物になっていた。家名からは開放されず、託されたものを一生懸命背負い続ける存在。奔放さがなくなって孤独をたされている。 そういう、グランギニョルのダリちゃんとして見るか、TRUMPのダリちゃんとして見るかでお話自体の見え方が違ってくる気がする。 そもそもTRUMPだけで見るダリちゃんは子育て失敗マンでしかなくって、あんまり良いとこないからなあ……。 グランギニョルを見て、ダリちゃんがウルに託した願いの結果が欲しいと思うかが、COCOON星を楽しめるかどうかの境目かもしれないって今見たてで混乱している頭だとそうなる。 私はそこは観客の自由においといて良いかなと思ってたところ。 COCOON星は今まで自由に想像してくださいね、って託されていた余白が、いろいろと実はこうだったんだよを見せられて。まあシリーズ踏まえて見せたい関係性はわかるけど、私はそこは自由に置いておきたかったなあってなるから、蛇足感強いなあってなってしまったのかもしれない。 役者さんとかの素材はめちゃめちゃ良いので(そめダリめっちゃ好き。安西慎太郎ありがとう!!)場面場面は見応えがあるのだけど、一本の続けた話として見た時の気持ちの置きどころを少し探した。 ていうか星、最初私はコレなにを見せられているのだ???ってなった。TRUMPやん!!て。 萬里めっちゃソフィ以外にいけすかないヤツやな石舟育て方!!とかもしてたのですけど、アッあの態度もしかして初代萬里リスペクト???とかも思い出したので。やっぱりどこに気持ちの比重を置いて見るかで感想が変わるのかなって感じです。 そこら辺ほんとうに面白いよね。クラウス好きな人はクラウスの新しい心理見えたりするの面白いのでは?は思う。 個人的なことを言うなら、わたしはアンジェリコ様の次に思い入れが深いのはソフィです。しかし今回ソフィのお話ではないので。ソフィに関しては此処から先のソフィに繋がるみつやさんのソフィだなあという感じだった。マリーゴールドとかあとのソフィから若干逆算してるのかなとかも思いました。 映画館で見たから、いささか熱量的なものは削ぎ落とされて伝わっているかもしれない。 劇場で見たらまた違う見え方もするのかなは思うので。また大阪来るまでちょっと気持ちの整理をしておきたい。 2019/6/1 15:23 【安西慎太郎アンジェリコ様を生きてくれて本気ありがとうでしかない】 月見るとアンジェリコ様の生き様に打ちのめされちゃうよね。すごいどれだけ気高くてカッコイイシーンがあったって、最後には打ちのめされる運命にあるのだと思うともうなんていうか興奮しますね? そもそもCOCOONスタート時点のアンジェリコ様ってめちゃめちゃ孤独じゃないですか。それに寄り添うだけでもしんどいのに、さらに作中でさんざんな仕打ち受けるやん??? あまりにも過酷。叫びっぷりがすごい。なんていうか心を大事にしてほしい。 正直な話、ディエゴがラファエロにウルかアンジェリコどちらかを選べよって言われてウル選んだあとのアンジェリコ様の行動めちゃめちゃ好きなんですけど。 そう仕向けたディエゴに向かっていくのではなくて、ウルのとこに真っ直ぐ向かっていくの最高!!!ってなる。ディエゴのほうが位置的に近いのに、もう完全にラファエロの気持ちを持っていってしまったウルが憎くて憎くて仕方ないのだろうなって。それでこそアンジェリコさまだよなってしちゃう。ものすごくエグいシーンですけど。 あそこのラファエロはじめからウルのことしか考えてなくて、アンジェリコさまのアの字すら出てこないのが、アンジェリコさま一人芝居オンステージすぎて虚しくてそうだよなってしちゃう。 だから私は最後のラファエロがアンジェリコ様と殴りあってくれたのは、ラファエロの優しさだと思ってるんですよ。 真っ正面からアンジェリコさまにぶつかってくれるのあそこのシーンしかなくって。 「オレはお前のためには生きられない」って面と向かってふってくれてるんですよ!! アンジェリコ様はそれが望ましいことではないだろうけど。 星になくて月にあるものってここらへんのエグみかなあとかは思ったりしました。アンジェリコさまをよく生きてくれた。 でも私このあとどんな顔をして星でアンジェリコさまに会えば良いのかわからないの……ってなる。 2019/6/1 20:52 【星は二回目を見てようやく落ち着いた。ので、正直な感想書きました】 結論から言えば、COCOON星は観客の脳内にある記憶(グランギニョル、COCOON月、TRUMP)を利用して作る客席に寄りかかった話の構造であるが、観客の脳内にある記憶と思い入れは様々なので。人によっては作演出家の想定したゴールに辿り着くことができない。 COCOONはTRUMPとまったく別の話であるが、TRUMPとの共通点が八割ぐらいあるため、TRUMPを見ていることが返って認識阻害を引き起こしている。 みたいなとこだと思います。 一回目の星を見た時に思ったことは、「私はTRUMPという話を自分でもすごく大事にしていたのだなあ」ということだった。 大事なものとして置いておきたかったからこそ、星でその大事な話がいろいろと引っかき回されて、自分の思っていたものとどんどん違う方向に進んでいくことが辛かった。 いくらCOCOONって言っても、話の大枠がTRUMPならそれはTRUMPに見えてしまいますよ。 でもTRUMPではないから、TRUMPにあった緻密さはないし、どんどん求めていない新規要素が入ってくるし、視点もブレがちなのでどこに感情を置けば良いのかすらわからずに、途中で気持ちが冷めてしまって、結末まで自分の気持ちが持たなくて辿りつけなかった。 それでも二回目を見てようやく、結末まで辿り着くことができた。 書きたかったものは結末なのかってストンと落ちて納得できた。 二回目を見るとこれは確かにTRUMPじゃなくってCOCOONだわってなりました。 繭期のまま生を終えたウルの話。 一回目は正直COCOONはグランギニョルからTRUMPシリーズを見た人のためのものかなあって思いましたもの。 なんなの?ダリちゃんをカッコよく書きたいのか?ぐらいは思いました。ウルの話と言いつつダリちゃんエピソード盛り盛りだから、ダリちゃんとウルとで視点が行ったり来たりして、気持ちが持続できない。 そもそもグランギニョルとCOCOON月を経たデリコ家はグランギニョル以前のTRUMPとは繋がらない。後付なのだから当たり前なのだけど。その無理を押すための統合性が、自分の中にあった大事なTRUMPとおおいにズレていって、それで反発していた気持ちもあるのだと思う。 ダリちゃんはグランギニョルでそのキャラクター性が大きく変わった。 ラファエロもCOCOON月を経たラファエロの心境はTRUMPのラファエロとは同じにならない。 ラファエロは月を見てる時から、どのTRUMPのラファエロにも繋がらないなとは思っていた。 なんでかというと、TRUMPにおけるラファエロのコンセプトは「僕を愛して」だった。 基本Tラファエロは親の愛が欲しいからお父様の言いつけを守る真面目な子で、ウルはお父様に愛されるために必要なパーツでしかなかった。Rはバージョンによるけど、親の愛を得られないかわりにウルからの愛を得ようとして、代用品でもいいから自分を愛してくれる身内を求めていたりする。 (nu版はソフィを導くものって役割もあったので、僕を愛してがベースではあるけど少しだけ異なる) TRUMPのラファエロはラファエロ自身が迷いの中にあった。 でもそういうラファエロの「僕を愛して」ってキャラクター性はCOCOON月で昇華されてしまっている。 ラファエロは月の時点でその迷いをある程度払拭してしまった。自分にとってのウルとはなんなのかの答えを出してしまっている。 だから星のラファエロは「僕を愛して」って言うラファエロではなくて、「ウルを守るもの」であり、作中におけるラファエロが持つ役割というものがそもそもTRUMPと違っている。 そういうところをしても、自分の中にあるTRUMPとは違うもので。でも初見の時はその違いというものに辿りつけなくて。だからこそすごい違和感がある……ってなってしまっていた。 COCOON星はそういうグランギニョルでおおいに振り回されて託されたダリちゃんと、COCOON月で自分の道を見出したラファエロと、ウルの行く末の話。 COCOONはそういうものと割りきって、TRUMPとはこうであるはずのしがらみを捨てて見ると、書きたかったものは結末なのだなあって素直に入ってきて。ああなるほどこれは綺麗な話だなって落ち着けた。 なんていうか客席に求める難易度が高いなは思います。シリーズ見てるの前提かつ、理解してくれのハードルめっちゃ高い。 あとはできたら二作品一挙公演はやめてほしい。観客だって消化をするにも時間がかかります。
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weeklyliberty-blog · 7 years
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『ヨーロッパにおける自由主義の歴史』ヴォルフガング・グラッスルの書評
Wolfgang Grassl, “Review of Histoire du liberalisme en Europe,” The Quarterly Journal of Austrian Economics 11, No. 1 (2008): 69–75.
アメリカ学界で教育されるとおりの自由主義思想の標準的歴史によれば、この伝統はギリシア哲学に太古のルーツをもち、ジョン・ロックとアダム・スミス、アメリカ合衆国建国の父らに継続され、十九世紀にイギリスで本領を発揮し、そのとき多かれ少なかれ自由市場経済思想の最後に接した(そこでオーストリア学派村の長が特別な言及を受けてはならない)。それは概して英語圏の伝統であり、経済的パースペクティブに牛耳られた。テーマより時系列で秩序付けられた自由主義についての書籍ではこの還元主義的な歪曲が一層甚だしく、英語の出版物ではほぼ普遍的である。この都合の宜しい(政治的に役立つ)虚構に抗して、マリー・ロスバードとラルフ・レイコ、その他の学者たちは、まことに天晴れ、スコラ学の思想と十七世紀から十八世紀までのフランスとドイツ、そしてイタリアとスペインの思想家、英語圏ではあまり知られていない人物たちから来た重要な衝撃を認識することで挑戦した。今、最も注目すべき概論が、もう一撃、そのみっちり印刷された千四二七ページの重い一冊を加えた。
フィリップ・ネモ教授(パリ経営管理のESCP-EAPヨーロッパ学校)とジャン・プティト教授(社会科学高等研究院とエコール・ポリテクニーク)の指導の下、二〇〇一年から二〇〇五年までの期間にパリで、ヨーロッパ自由主義史についての一連のセミナーが開かれた。八国から集まった三十六人の研究者が三十八本の論文を提出し、これがフランス語原文かフランス語翻訳によってこの書籍で出版された。記事は六部に配列され、自由主義思想の起源と、フランスとイタリア、ドイツ、オーストリア他ヨーロッパ諸国(スペインとポルトガル、ネーデルラント、スウェーデン)での自由主義を扱っている。繰り広げられる著者と主題の幅は、他の出版物からも学ばれうる事柄よりは、典型的ではないことがらに集中する非常に選択的なレビューを必要としている。
編集者は広く一般に信じられている神話の誤りをすっぱ抜く導入を寄稿した。神話とはすなわち、アングロサクソン思想家は自由主義の歴史で特権的な役割を担った。自由主義理念はとにかく人権と民主制の要求の副産物であった。あるいは、人権思想は専らロック派の伝統に根ざしていた。実際には、自由主義思想とはもっと古い醸造のものであり、ギリシア‐ローマの政治的法的伝統とユダヤ‐キリスト教の道徳価値観の中世的総合から生じていた。自由主義の血統書は比類なくヨーロッパ的であるけれども、この大量の思想は「メタ政治的」スタンスを呈し、ゆえに「非常に多様な文化的伝統と文明で採用可能であり、国家がその主権的規制的機能をどう行使してよいかの詳細に関してはかなり中立的である」。骨子は「交易論的自己組織の動態が維持されること」(p. 14)である。ここでのミーゼス的な言用語は紛らわしい――市場を「エコシステム」と見せ、市場参加者の自発性を複雑性の事例とする理念はハイエク派のビンテージである。カント派伝統を、その人格的自由と法の支配、――カントの成句で人間の「非社交的社交性」と表現されるとおりの――多元主義の尊重のゆえに包含することで、編集者はその書籍の全寄稿論文に対する標準を定める。カントはアメリカ・リバタリアン界隈では――おそらく、少なからずは彼の後の追随者ジョン・ロールズのせいで――典型的には「劣った」自由主義者であるとみなされ、彼の権利の強調にもかかわらず、確かにリバタリアンではない。しかしそれは、この書籍は現行のアメリカン・カテゴリーには従わないということである。
この書籍への寄稿において、百人を優に超える個々の思想家が少なくとも或る程度の詳しさで討論される。強調点とアプローチ、意見の相違はもちろんかなりのものであり、これがまとめを寄り合い仕事にしている。しかし、彼ら自由主義者が何を考えたかより、むしろどう考えたかのメタレベルから、鳥の目からこの伝統を見るべきであるとしたら、ヨーロッパ自由主義の多数派の立場の特徴としては、以下の共通点が浮上する。
1       「リベラル」とは歴史的な意味で理解されており、自由の発展に好意的である人々をいう――どんな形容詞(「古典的」)や新語(「リバタリアニズム」)もなしで、まったく申し訳なさそうな素振りを見せない。
2       経済的な行動とその他の社会的な側面の間に区別を設けず、ゆえに「財政的」自由主義者(あるいはアメリカ語での「保守主義者」)と「社会的」自由主義者を区別しない。自由とは実際に分割不可能であると扱われる。
3       自由主義思想は多様なヨーロッパ諸国で発達し、社会と文化、政治的境遇の多様性によって深く形成された。イタリアとドイツがまだ国民国家ではなかった十九世紀最初の六十年においては、これらの国々では自由主義者とは法の支配に根ざす国民国家のビジョンに動機付けられた統一運動の最前線にいた。ヨーロッパの多様性はまた自由主義者をしてこの多様性それ自体の維持を主要目標に動機付けさせた。したがって、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトならびバンジャマン・コンスタンとアントニオ・ロズミーニ、ベネデット・クローチェ、ホセ・オルテガ・イ・ガセトにとって、自由とは生産と消費、貿易で停まるべきものではなかった。それはまた人格的自由と文化の自由にも相当すべきものである。この背景に照らせば、ドイツとイタリアの自由主義がつねにロックとスミスの「消極的自由」よりも「積極的自由」への強い意向をもっていたことが容易に分かる。
4       自由主義は、ハイエクが強調したとおり(p. 1119)、保守主義と社会主義に並ぶ、政治哲学の三つの古典的立場のうちの一つである。互いに寄り添うことはないが、自由主義思想家はしばしば他の陣営から理念を吸収し、彼らの思想がそれらの方向に引き寄せられることを経験した。
5       自由主義はしばしば過剰に権力を得たカトリック教会への反対の立場をとった。ヨーロッパ自由主義が全般的には人文学的や世俗的であると分類されうるのはこうして説明される。にもかかわらず、カトリック思想家は自由主義思想の発達にプロテスタントなどと同じだけ多く貢献してきた。
6       ヨーロッパ自由主義の発達に対しての(イギリスではなく)アメリカ思想の影響は相対的に地味であり、ピエール・サミュエル・デュポン・ド・ヌムールとアレクシ・ド・トクヴィル、近年の(せいぜい限界的な衝撃の)「リバタリアン��運動とのわずかな繋がりしかなかった。
7       アメリカ保守主義界隈で生まれた啓蒙(特にフランス啓蒙)の見解とは対照的にも、啓蒙思想のほとんどは、人権と、企業と貿易の自由を強調することで自由主義的なのであった。「レッセフェール」の標語の普及者アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴは、スミスと先数世代の自由主義経済思想に強い影響を及ぼす、需要ベース価格理論と市場価格に代わる「自然」価格のような、手に余るほどの多くの理念を導入しただけではなかった。彼はルイ十四世の財務総監として、また政府支出を削減し、ギルド体制を解体し、財産への単一税を導入し、国内穀物交易の制限を廃止した。
8       経済的自由は完全な人間的自由にとって十分条件ではなく必要条件である。相対的に自由な市場は全体主義政権の下でも継続するかもしれないが、自由社会は少なくとも経済的自由を保障しなければ決して可能ではない。したがって自由主義理想は「単なる」経済的自由以上を要求する。個人的権利を要し、この権利を守る法の支配を要し、個人的尊厳の価値を養う文化において、この種のすべてを要するのである。この図は抽象的で還元主義的なホモ・エコノミクスのモデルとはまったく異なっている。実際、(ジョン・スチュアート・ミルに代わる)非経済的擁護が優勢なのはヨーロッパ自由主義の特徴である。
9       もしも自由主義が包括的に理解されるならば、狭い着想の下には入らなかった多くの思想家が含まれるだろう。意見の多元主義と宗教的寛容、個人的責任を提唱した十六世紀と十七世紀の思想家――ミシェル・ド・モンテーニュとフーゴ・グロティウス、ピエール・ベール――は、真理を軽蔑したからではなく、前世紀のカール・ポパーのように、異なる見解の入場が真理の発見に良いチャンスを与えると信じたから、この意味での自由主義者である。
10    自由は民主主義とは、あからさまな反対関係ではなくとも、少なくとも緊張関係にある。幾人かの自由主義者(早期功利主義者、またフライブルク学派)は確かに民主主義の提唱者だったけれども、まず平等主義的で多数主義的なタイプではなかった。それと自由主義理想との両立可能性に懐疑的な、少なくとも同じだけ強い伝統が存在した(ギゾとロワイエ=コラール、コンスタン、トクヴィル、パレート、オルテガ・イ・ガセト、ハイエク)。
オーストリア学派は主にオーストリアにおける自由主義の部に(ヨーク・ギド・フルスマンとフィリップ・ネモ、ジャン・プティト、ロベール・ナドー、ジャン=ピエール・デュピュイ、ダリオ・アンティセリ、ヨセフ・シマ、ロベルタ・モドゥーニョの寄稿で)現れるが、ミハエル・ヴォルフゲムットの記事「ドイツ自由主義に対するオーストリア学派の影響力」にも現れる。フルスマンの寄稿論文はオーストリア経済思想をもっと古いスコラ学派実在論哲学と啓蒙改革主義の伝統に埋め込むが、多文化多言語オーストリア=ハンガリー帝国の特別な挑戦にどう反応したかをも示している。プティトの論文「ハイエクの市場秩序自動組織化理論」はこの書籍で最も異常である。本書に寄稿される他の彼の論文が自由主義の歴史に捧げられているのとは異なり、この理論的論文は「見えざる手」の形式的モデルと進化的ゲーム理論の繋がりを確立する。その議論は明晰で容認可能だが、ゲーム理論モデルがハイエクの市場過程(と様式認識)理論に投げかける光はそれほど明らかではない。モドゥーニョの論文「オーストリア人とアメリカ人リバタリアンの対話」は本書にはややそぐわない。これは概ね、かたや自然法に基礎付けられるとおりの権利と価値の理解、かたや帰結主義的倫理理論、以上についてのアメリカ内の対話を記述している。この討論はその主唱者の幾人かの起源を除けばヨーロッパ自由主義の歴史とほとんど関わりがない。しかしながらこの文脈で最も興味深いのは、ハイエクのフランス理性主義者の「偽の自由主義」に対するイギリス経験主義者の「真の自由主義」嗜好――「人間理性への蔑み」を露呈する選好(pp. 1302f.)――についての、ロスバードとレイコの批判に言及するところである。自由の根底に関するこの論争――人間の無知か人間の本性か――はアメリカ・リバタリアン自家製の論点であるように思われるかもしれないが、実際にはヨーロッパ自由主義思想の発散性の要素に基づいているのである。
本書の主な功績は、伝統的にはこの伝統の文脈には置かれていなかったか祖国の外ではあまり知られていなかった、自由主義史上の人物に当てられるスポットライトにあるかもしれない。ヴィルフレド・パレートを含む自由主義の歴史は少ないが、彼は理論的作品においてもジャーナリストとしても保護主義と社会主義の熱心な反対者であった、とはいえ晩年の社会学著作物では自由主義思想を放棄した(フィリップ・シュタイナー)。イギリス穀物法に抗するリチャード・コブデンの成功裏の闘争に気づいている自由主義研究者は少ないが、この法律は一八四六年に廃止されたし、その一世紀前にはフランスでは似た闘争が先例を作っており、ケネーとテュルゴが自由貿易を提唱していた(フィリップ・シュタイナー)。ほとんどの歴史書はフンボルトにドイツ自由主義思想の始まりを許すが、彼が十八世紀末の「新ドイツ自然法学派」に影響を受けていたことや、ヤーコプ・モーヴィヨンのことを知っているのはわずかであろう(ラルフ・レイコ)。十九世紀イタリア人司祭ルイジ・タパレッリ・ダツェーリョとアントニオ・ロズミーニを耳にしたことがある学者は神学の外では少ないが、彼らはともに自由の哲学者であり、カトリック教人格主義の基礎を設えた。(パオロ・エリティエ)スカンジナビアの外側では、十八世紀自由主義政治家、聖職者兼著述家アンデルス・キデニウスを知る者は少ないが、彼は当時スウェーデンの一部であったフィンランドに生まれ、啓蒙の男で、自由な貿易と産業、自由出版、国家影響力の削減を提唱した(ヨハン・ノルベルク)。フランス人哲学者エティエンヌ・ボノ・コンディヤック神父に気づいている経済学者は少ないが、彼はレッセフェール経済学を支持しながら、スミスの片意地に間違った労働費用説ではなく効用と稀少性に価値を基礎付けた(アラン・ローラン)。リバタリアンはフレデリック・バスティアの作品を継承したベルギー系経済学者ギュスターヴ・ド・モリナリの名に馴染み深いかもしれないが、彼が現在アナルコ資本主義と呼ばれているものを一八四九年の時点ですでに整合的に提唱していたことを知る者は少ない(ミシェル・ルテ)。この書籍が輝かせるヨーロッパ自由主義思想の歴史の虹は実に広く鮮やかである。
この書籍のたった一つの大きな弱点はイギリス伝統の排除にある。編集者は「一般的には非自由主義的とみなされる国々」に集中したいとのことでこれを正当化する(p. 1397)。しかしこれは真実か? スイスとネーデルラント、当時の他の国々(たとえばグリュンダーツァイト期のオーストリア=ハンガリーはおろか、ワイマール共和国期のドイツ)は、同時代のイギリスと同率かそれに近い法の支配と民主的諸制度、自由主義経済政策、社会的寛容を市民に差し出していなかったか? 大陸諸国はほぼすべてがイギリスより先に奴隷制を廃止していなかったか? パリのセミナーが大陸の伝統に焦点を当てたいのは難なく理解できるし、この伝統はフランス人研究科にさえあまり知られていなかったものだ。しかしそれは「最も独創的で最も深遠な理論的貢献は、アングロサクソン諸国ではなく、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとカール・ポパー、フリードリヒ・アウグスト・ハイエク、マイケル・ポランニー、ハンナ・アーレント、ウォルター・オイケン、ピエロ・ゴベッティ、ブルーノ・レオーニらによって、大陸ヨーロッパから来た」(p. 11)という本書の前提とは整合しない。またもイギリスが、非常に恣意的な仕方で、ヨーロッパから知的に孤立したものとして提示される。決してそうではなかったのだ。イギリス自由主義者と大陸自由主義者の繋がりは甚大であった。アダム・スミス���グロティウスとカンティロン、コンドルセ、モンテスキューから引用したし、デュポン・ド・ヌムールと連絡を取っていた。テュルゴは他の誰よりも彼の経済的著述に影響した。ジョン・スチュアート・ミルはジャン=バティスト・セーの家に留まったし、またグロティウスとコンディヤック、シラー、とりわけフンボルトに影響された。逆の方向にドーバー海峡を渡った多数の影響が本書のページに見受けられる。実際、これらはほとんどイギリス自由主義思想の排除の正当化とは思われない。
他の批判点はほとんどすべて、特定の思想家たちの包含か排除かや、部分的な歴史の切り詰めに関わる。フィジオクラートの包含については良い議論が提出されるかもしれない。彼らの農業生産への執着、個人主義と私有財産、レッセフェール市場システム、自由貿易の提唱だ。しかし、この書籍で考察される最初のフランス人自由主義者が、知的多元主義を信奉したカント哲学者だったが或る点で自由主義に批判的だったシャルル・ルヌーヴィエである理由は、はっきりしない。ベルトラン・ド・ジュヴネルとジャック・リュエフのような英領力のある自由主義知識人はまったく言及されない。ついでに、バンジャマン・コンスタンとスタール夫人はジャン=シャルル=レオナール・シスモンド・ド・シスモンディら「グループ・ド・コペ」のメンバーと同じくスイス生まれであった(フランスではなかった)けれども、生涯の多くをフランスで過ごしたといっていい。実際、本書で言及されなかったアンリ・フレデリック・アルミエルとデニ・ド・ルージュモンのような自由主義思想家とフライジン運動を加えるならば、スイス自由主義伝統への言及は正当化されるだろう。またも、包含と排除は自由主義の着想に依存する。クローチェの有名な区別によれば、リベリズモ(すなわち、功利主義心理学に基づく経済的自由)の伝統か、それとももっと包括的なリベラリズモ(すなわち、倫理的ビジョンに基づくもっと包括的な社会的自由)の伝統か。
この書籍での各章の焦点は個々の主唱者か、自由主義思想家の集団であるから、「大局」はなかなか現れない。しかしこれは欠陥というよりは長所である。というのも自由主義思想とは継続的な事業であり、満ち欠けするのは実際の政治への影響力だけだからである。余所からの鼓吹の有り無しにかかわらず、似た議論が発達したとはいえ、或る期間に重大な発明が持ち込まれた。たとえば、ミーゼスの一九二二年の『社会主義』は社会主義批判の哲学的社会的思想の長い伝統に立脚する。けれどもそれは新しい議論を持ち込みもした――経済効率の議論だ。すなわち、社会主義は需給の(動的)バランスを唯一許す自由な価格形成を妨げる。
多数の著者の寄稿からなるこの長さの書籍は不可避的に多くの疑問を呼び起こす。アクトン卿をイギリスの家系に連ねる議論はほとんどないから、彼はドイツの自由主義伝統に数え入れられるべきか、イタリアか、それとも超民族的カトリック教の伝統か? ノルベルト・ボッビオの「自由社会主義」は本当に依然として自由主義の部分なのか? アンジェロ・トザートの包含に十分な理由はあるのか? 自由主義に対するシスモンディの曖昧な態度は包含を正当化するか?
また、幾人かの著者の良い判断に関する疑問もある。ヨセフ・シマは「チェコ人と『オーストリア人』の理想」で、オーストリア学派のチェコ人メンバー、フランティシェク・チュヘルとカレル・エングリシュに言及する。しかし彼は、自由主義政策を放棄したかどで非難されるヴァツラフ・クラウスからしか自由主義の政治的影響を許さない。実は、十九世紀のボヘミアには畏敬すべき自由主義の潮流があった。もっと度量が大きく、経済的にもそこまで狭くない見解が、プラハ哲学者兼司祭ベルナルド・ボルツァーノの自由主義的な側面であったかもしれない。それはボルツァーノの後の同僚にして、その価値論においてカール・メンガーとオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクの主観的限界的理念を社会ダーウィニズムと結合しようと試みた、クリスティアン・フォン・エーレンフェルスを含めるかもしれない。それは、その国民主義政策よりも哲学的著述のゆえに、チェコスロバキア初代大統領トマーシュ・マサリクまで拡張さえするかもしれない。
セミナーのプレゼンテーションとして予想されなければならないとおり、幾つかの寄稿は他のより大なる重みと高い品質をもつ。幾つかは単なる立場の要約や引用の選集で、他のは正真正銘分析的である。千四二七ページもの書籍はどうやら名前の索引を許さなかったらしいが、これは本の末尾の広範な目次で部分的に償われている欠落である。けれども自由主義思想の貢献者の幾人かの欠落は際立っている。オランダ人人文学者デジデリウス・エラスムスとアイルランド系フランス人経済学者リチャード・カンティロン、ドイツ人歴史家兼詩人フリードリヒ・フォン・シラ��、スペイン人外交官兼歴史家サルヴァドール・デ・マダリアーガ、フランス人文芸批評家エミール・ファゲ、ドイツ人牧師兼政治家フリードリヒ・ナウマン、ハンガリー系イギリス人化学者兼哲学者マイケル・ポランニー、フランス人社会学者レーモン・アーロンはその名のわずかな孤立的存在を除けば議論の日の目を見ない。
この書籍はまたヨーロッパ自由主義史の興味深い事実を確認する。低地帯は十八世紀からの商業と草分け的な自由貿易提唱における指導的な役割にもかかわらず、重大な自由主義思想家をグロティウスしか輩出しなかった。唯一の例外は十九世紀オランダ人歴史家兼政治家、ヨハン・ルドルフ・トルベッケであろうが、彼は本書では言及されない。ネーデルラントの貢献は自由主義の思想――あるいはその政治的組織――を二十世紀のかなり及び腰の現象に見せる。
後書きとして、本書は哲学者バリー・スミスの論文「生命の意味と文明の測定」を特集する。その主な主張いわく、生命の意味は人生に「日常を超える」一定の形式を与えることからなる(p. 1406)。この成功の標準は公的で客観的に測定可能ではなければならない(学界の出版物のリスト、発明者の特許、あるいは作曲家に生産された楽譜)。そしたら、諸個人に対して彼ら自身の計画に従い、かくて意味ある人生に至ることを許す際に、自由主義社会秩序は他のいずれよりも優れている。しかしスミスの純粋に形式的な基準は十分だろうか? テロリストは確かに世界を変形し、人生に明瞭な形式を刻み込み、純粋には私的でない測定可能な「意味」を成し遂げることができる。そのような「意味」の創造を容易くする文明は他より優れているのやら。倫理的推理の長い歴史は、メタ倫理学は決して価値と規則の実質的倫理学に成り代わることができないと示している。
それにもかかわらず、貴重な本書の多くの論文は自由主義思想史の関心を発達させ、ひいてはおそらく自由主義秩序の優越を信じるための、十分な理由を差し出している。これまでのほとんどすべての自由主義史は長調でしか主唱者を紹介しなかった。本書は――フランソワ・ギゾとヴィルフレド・パレートのような「右寄り」自由主義者からグイド・カロジェーロとヴィルヘルム・レプケのような「左寄り自由主義者」まで――短調で同じように並べられる多くの声をまとめて持ってくる点にかけて独特である。もちろん、ドクトリネールな拘束具を適用せずに「自由の政党」すべてを包含するようなもっと包括的な自由主義の観念は、この概念を無差別に拡張することにより、結局はこの伝統を平凡化する危険のせいで不利に働くに違いない。本書が示すとおり、自由主義思想の市民はほぼ全員がその物差しの両極のようなカテゴリー化を超えている。実際、自由な諸個人が妨害されずに彼ら自身の計画を追及するという理想は不可分のものなのである。たとえ本書が知性史を体系的作品というよりは選集にしてしまうとしても、まさしくそのような包括的な見解が、どうしても必要とされてきたのだった。願わくは、その長さにもかまわず、この書籍が英訳でも利用可能にならんことを。疑いなく、本書は自由主義思想の歴史と本性に関するアメリカ学界他の捻じ曲がった見解を払いのけてくれる。
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