Tumgik
sill-boy · 4 years
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どうも、僕です。
久しぶりの投稿になりますね。
丁寧に書き出したけどクソ長いから引くなよ。
この緊急事態宣言下、皆様いかがお過ごしでしょうか?
僕はポッと与えられた急な休暇(ほぼ自宅に限る)の過ごし方に頭と腰を抱えております。いたい。
そもそも横丁に来てからの3年間、週に月〜土の週6日は店に立って過ごし、年末年始と祝日くらいしか休みという休みがなかった上にその大半を飲みに遊びに出かけて過ごしてたもんで家に長時間居るのに慣れなさすぎて参っちゃいます。
さて、今回は少しお話しさせていただきたいことがあります。
多くの方々が仕事が減ったり、特定の業種の方々が店を閉めなければならない事態に陥っております。
うちも例外じゃありません。
頑張って10人入るかな、の小さい店ですが打撃はかなり大きいです。
叔父と2人これは存続の危機だと話していた矢先、常連のゆきえがある提案をしてくれました。
クラウドファンディングです。
お店を開けられない今、僕らに提供出来るのは再開後に多少おトクに使えるチケットくらいではありますが
何卒お助け頂けたら幸いです。
https://camp-fire.jp/projects/view/257466
お涙頂戴的かも知れません店の歴史的な話と今立ってる俺の話をします。
でもやっぱクソ長いんで暇な時にでも読んでください。読みづらいから。
おでん屋「なだ一」は
母方のひいじーちゃんばーちゃんが戦後渋谷の地で屋台で始めました。
生のハチ公を見ていたらしいですが、ひいばーちゃん曰く「ハチは利口な犬じゃないよ」との事らしいです。
いつから始めたのか、ひいじーちゃんばーちゃんは俺が生まれる前に亡くなってるし、
ばーちゃんからもちゃんと聞いた事ないからわかんないけど
横丁が出来た時からあるからもうそろそろ70年くらいらしいです。
系譜としては
ひいばーちゃん→ばーちゃん→叔母さん→俺です。
今でもプルプル気味のおじいさんが「俺は学生の時にあんたのばーさん(多分ひいばーちゃん)にお世話になったんだよ」と言って訪ねてくるから驚く。
そこからばーちゃんが継いで、叔母さんも手伝ってるくらいから俺の記憶もあるんだけど
幼稚園くらいの時は店には連れてって貰えなかった。
親父が「みんな仕事して家庭を忘れて飲みに来てるのにガキが居たら家を思い出す」って言ってからなんだけど
そんなに飲み行くのって家庭に後ろめたさあんのかよと独身の俺は思う。
まぁ、親父も今や独身だけどな!いや我が家の離婚をネタにするのはやめとけ!
ちなみにそんな親父もひいばーちゃんの時の「なだ一」の客。
輪ゴムみたいな白滝が好きだったらしい(当時は出汁のレシピが違ったのでもっと黒かった)。
中学生くらいになってばーちゃんが引退して、叔母が継いでから店に行く機会も増えた。
叔父の店「まぐろ処」のメニューも「なだ一」と共有してるから叔父の店におでんを持ってったり刺身を持ってきたりするのを行くたびに手伝ってた。十数年後にそれがお前の仕事になるんだよなぁ...
大学生になった。大学はあんま行ってなかったけど。
渋谷経由するし飲み会の前とかに顔出す機会も増えた。
「お前うちの会社に来いよ!」ってめっちゃ言われた。
酔っ払いの言う事だからもらった名刺に連絡した事ないけど、これなら就活しなくていいなと思った。大学はあんま行ってなかったけど。
人生初のボトルキープを「まぐろ処」でした。
叔父と2人で飲んだらキープ出来なかった。
大学を辞めた。あんま行ってなかったから。
バイトしてた高田馬場「ロッシーニ」でピザを焼いて過ごした。
大学辞めるって話を誰にもしてなかったから同級生のケントとかが辞めるタイミングで一緒に辞めてみたりした。
戻ったけど。
その後時給が上がらなすぎてもう一回辞めてみたりした。
戻ったけど。かげちゃんには感謝。
戻ったら時給が上がった。
その後入ってきたイカれた髪色の専門学生も同じ時給だった。
ひでとじゃないってば。
社員になっちゃえば?と言われた。
会社で働いた事ないからイマイチよくわかってなかった。
かーちゃんに相談したら叔父に話が行って
「飲食でやってくならうちで働け」と言われた。
ものすごい悩んだけどひいばーちゃんからやって来て後継ぐ人いないよなぁとか、ここ無かったら親父とかーちゃんも出会ってないし俺居ないよなぁ、別れたけど。とかいろいろ考えて働くことになった。
2017年4月1日、横丁に足を踏み入れた。
「まぐろ処」と「なだ一」を行ったり来たりするのが仕事で、正直あんまり楽しくなかった。
どっちかに固定で居るわけでもないし、自分が何かを作るわけでもないし。
そんなことを思っていた矢先、叔母が倒れた。
叔母がそのまま検査入院するから「なだ一」に臨時で立った。
「あれ、女将さん休みなの?」
「そうなんですよー、ちょっと検査入院中で」
そんなやりとりをしながら叔母のファン達を相手にして過ごした。
橋渡しの仕事よりはやりがいを感じると同時に引き継ぎがあったのは出汁のレシピだけだからスーパー手探り状態で何が正解かわからなかった。
叔母は癌だった事がわかった。
ものすごいスピードで人が弱っていくのを見た。
叔母とばーちゃんは一緒に住んでたから俺がばーちゃんちに越して、仕込みしてご飯作って店に行ってと言う生活になった。
主婦の偉大さを知った。
「あれ、女将さんまだ休みなんですか?」
「そうなんですよー、検査が長引いてて」
 
正直気が気じゃなかった。
お見舞いに行くと店の事を聞かれた。
いろんな事を考えたけど自分に出来るのは店をやる事だけだった。
そして叔母が亡くなった。
告別式の喪主の挨拶で叔父が言った。
「店は甥の秀が継ぎますので今後ともよろしくお願いします」
そうしておでん屋の店主になった。
軸足が固定されてると言うのは非常に厄介だ。
苦手な人が来ても帰ることはできないし、会える人も限られる。
でも会いに来てくれる人がたくさん出来た。
これはとんでもなく幸せな事なんだなとずっと思ってる。
自分を軸にコミュニティが出来るというのはなかなか体験し得ない事で、そんな経験をさせてもらえてる事に感謝してる。
ただ、今。
正直言ってピンチなんです。
もちろんそれが自分だけの話でないのは重々承知の上で。
あんまり好きじゃないんです、というかした事ないんです、営業メールとか。
でもなりふり構ってらんない局面に到達してます。
またみんなでくだらない話に花を咲かせて、美味しい酒と自慢のおでんで楽しい時間を過ごしたいんです。
どうか一度お目通しいただければ幸���です。
https://camp-fire.jp/projects/view/257466
久方振りに真面目かは置いといて長い文章を書きましたね。
mixi日記以来です。
たまにはこういうのも人の暇つぶしになったりするのかな。
でも俺自分で何書いてんだかよくわかんなくなんだよね。
読みづらい文をここまで読んでいただいてありがとうございました。
また次回お会いしましょう。
今度はお店でだといいなー
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