Tumgik
sarahofaugust · 6 years
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«Наш Денис»より③
お断り
当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
Channel KAZAKH TVによるデニスへの最後のインタヴュー
(訳注:以下インタヴュアー=イ、デニス=デ)
イ:デニス、あなたは足首の怪我に長い事悩まされてきましたよね。他にも怪我がありましたし。今はどうなんですか?
デ:残念ながら、このオリンピックイヤーに、僕は人生で一番深刻な怪我を負ってしまいました。ですが、それに対して冷静に対処しています。こういう事もあるし、何だって起こり得ます。今はかなり良くなっています。まさに今月、初めて氷の上に戻って、トレーニングを開始して、そしてこう思いました、じき100%の状態になるだろうと。
イ:その怪我は非常に深刻で、回復に時間が掛かるものでしたよね。でももう(訳注:治療の)効果が出てるんですか?
デ:足首が断裂しちゃったんですよね。靭帯というのは、4本で構成されています。それは日常生活をするためにも、プロフェッショナルな分野で活動するためにも、最も大事な靭帯です。僕は2本の靭帯が断裂し、3本目も危機的損傷を受けました。足首は4本目にしがみついて、お蔭で僕は人間としての姿勢を維持出来たのです。これは不快な怪我の最たるものです。
(訳注:次の質問及び答えは、よくわからないので省略。オリンピックの事を訊かれ、「人生をオリンピック前、オリンピック後と分けて考えたくはない」「一番の成功体験とはならなかったし、一番楽しい気分でもなかったが、(中略)これも人生、ここで諦める必要はない」「一つの問題にとりつかれる事はない。僕は成長を続けている」等と語っている模様。)
イ:オリンピックの後、あなたはSNSには消極的になっていますね。閉鎖的になって……。
デ:ただSNSが好きじゃないだけです。メディア人間になりたいと思った事は一度もないし、知名度を上げる事への憧れもありません。ある時気づいたんです、僕にとってSNSは、僕が責任を負っている人々に報告を行うための機会に過ぎないと。それにオリンピック後、僕は自分の人生を生き始めました。一休みしたんです。幾つか趣味もあるし、その他の生活もあるし。あと、リハビリもまだありましたしね――そんなの、退屈な話ですよ。誰が興味を持ちます?
イ:スケーターは、宇宙飛行士にだってなれるでしょう。フィギュアスケートは――身体的に最も複雑なスポーツなのですから。どうでしょうか、あなたの身体は次のオリンピックへの道のりにも耐えられそうですか? また練習を開始し、準備するという可能性はあるんでしょうか。
デ:率直に言いましょう。今の僕のタスクは――回復する事です。その時まで、僕は四六時中治療に励みます、完全に治るまで。何年もの間ずっと、様々な怪我に苦しんで来ました。そんな状況の結果として――僕は2~3年間、摩耗した身体で頑張らなくてはなりませんでした。この体では持ち堪えられません。足首を怪我した後、韓国で全身を分析してもらったら、お医者さんがこう言いました。"どうしたいというのですか、あなたの腰はひっくり返ってる(訳注:?)し、背中は役割を果たしてないし、膝は飛び散りかけてる。残ったのは何だと思います? そう、足首です。これは起こるべくして起こった怪我です"。
イ:長く休養するのは考えものだと、あなたは言っていました。何故なら交代が利かず、カザフスタンのナショナルチームであなたの代わりになる人がいないから、と。
デ:僕はカザフスタンに華やかなスケーターの集団が現れてくれる日を、ずっと夢見ています、大人(訳注:のスケーター)だけじゃなくね。僕が第一歩を踏み出した時、グループには他に誰もいませんでした。皆言ったものです、君はただ一人のスケーターだね、って。でも違います。僕らは100人、600人、1000人の集団で……。
イ:その内の何人が、プロフェッショナルになりました?
デ:僕だけです。皆疲れたり、やりすぎたりして。僕はモスクワへ行き、大勢の人の先頭に立ちました。誰もが、チャンピオンになりたがっていた。誰もが、喜びのためにスポーツに取り組んでいました、それと目標のために。でも、良い結果にはなりませんでした。これにはとても胸が痛みました。それから、今やスポーツは値段に見合うだけの価値があります。例えば、僕達の国には、前向きな状況があります。セクションに空きがあるし、外国にも連れて行ってもらえるし。例えばアメリカでは、子供にフィギュアスケートをさせるなら、親は大金持ちである必要があります。莫大な費用ですよ、その費用を専門家達に払って、リンクに払って、設備に払う――毎年、新しい設備が出来ますからね。
イ:コーチ業に携わりたいという欲求はないのですか? 子供達が通えるようにご自分の学校を作って、スケーターの新世代育成に関わりたいとは思わない?
デ:大勢の人からそう言われるんですけど……僕には面白いコンセプトもあるし、アカデミーを作りたいとも思いますし――僕が外国でやって来たのとは別のやり方で。問題は、いつそれをする準備が出来るかという事。僕は自分の知識を共有したいですし、子供達と一緒にやりたいです。でも、コーチになるという事は、多大な責任を意味します。既に僕が非常にリスペクトしているスペシャリストもいますから、(訳注:カザフスタンは)そうネガティヴな状況でもないとは思います。が、彼らはとても少数で、一団体に過ぎないのです。
イ:もう5年以上、アメリカに住んでいますよね。この期間を、どう表現しますか?
デ:アメリカでは、何も見ていないんです。映画館にすら、行った事がありません。ディズニーランドも行ってませんよ、1時間のドライヴで行ける所に住んでいるのにね。
イ:ロスアンジェルスですよね?
デ:ええ、そうです。僕はそこでスポーツをしてるんです。リラックスする時間はありません。
イ:でも、欲求はあるでしょう?
デ:正直、欲求もないです。だって、職業のためにそこに居るんですから。僕は単に専門家達、つまり一緒に仕事をしている人達と、僕を取り囲む環境のためだけに彼の地に居るのです。そこがプロフェッショナルな雰囲気だからこそ。僕はこの国(訳注:=カザフスタン)のいちファンでしょうか、それとも外国を発見するのが好きな人でしょうか? (訳注:そうではなく、)僕はそもそもカザフ人です。気持ちの上でも、物質的にも、気質的にも。僕はここで生まれました。僕は何を決断する時でも、この国でするのと同じようにしています。
イ:あなたの解釈では、愛国心とは何でしょうか。
デ:多分、それは精神的なものなんでしょうね。僕達は自国をリスペクトするべきであり、故国をリスペクトするべきです。けれども僕の愛は、口でも、文書でも言い表せません。基本的には、こうです。通りを歩いていたとします(中略)。その人がどれだけタフかとか、どれだけ成功しているかとかは関係ありません。自分が最初の人間なのです。自分が人生を持った最初の人間であり、且つ誰もが平等な存在。そこはとても儚い土地であり、明日はどうなるか誰にもわからない……。僕にとってはこれが、愛国心で、母国への愛で、そしてこうした基本的な事を自覚する国民の姿なのです。
イ:ご先祖は、大韓帝国時代によく知られた、韓国軍の将軍ですよね。彼について、何を知っていますか?
デ:僕の高祖父は、韓国独立に於ける、15人の最も傑出した戦士のリストに入っています。1907年に彼は亡くなり、そしてそれが、僕が結果的にカザフスタンにいる事になった理由です。彼の家族は逃亡せざるを得ませんでした、将軍の家族は通常、敵の手によって滅ぼされるものだったからです。
イ:あなたにとってスポーツは、終点ではない? 何か他の分野に、ご自分を見出す事はありますか?
デ:スポーツが全てだと考える事は――出来ません。スポーツは――僕の人生ですけど、でも、これは一つの段階に過ぎませんから。
イ:何か、挑戦してみたい分野はありますか?
デ:空き時間には、何にでも挑戦しています。僕には決まったスケジュール、つまりトレーニングや、達成しなければならないものが沢山あります。学業もあって、これにも締め切りと試験がありますね。その他にやっと空き時間があり、そういう時に僕は打ち込むのが好きなのです、例えば音楽や、グラフィックデザインに。今年、僕は自身初のモバイルアプリの開発を始めました。デニス・テンからの課題図書も3冊ありますよ。(中略)アイン・ランドの『肩をすくめるア���ラス』、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』。オスカー・ワイルドは本当に好きです。ロシア語の本に関して言うなら、ヴィクトル・ペレーヴィン、セルゲイ・ドヴラートフですね。
イ:2013年から、"Denis and his friends"というショーもやっていますよね。このプロジェクトは、あなたにとってどんな意味があるでしょう。その狙いは?
デ:このプロジェクトには僕にとって沢山の意味があります、だって特別ですし、カザフのショーなんですから。2013年に、実験的にやってみたものではありましたが、それでも皆、(訳注:このプロジェクトを)信頼してくれました。
イ:結局のところ、このプロジェクトは精神的な位置づけなのでしょうか、それとも商品としての存在?
デ:2013年にこのショーを開催した時には、メディアの強力な共鳴があり、そして2014年には、500人ものツーリストが日本一国からやって来てくれました。何故日本について言及したかというと、僕らは代理店と一緒に仕事をして、結果彼らはツアーを組み、僕達に報告もしてくれたからです。このショーのファンが、ロシア、イスラエル、イタリア、韓国からも来てくれたのを知っていますし、それに中国人達のために僕らはヴィザも発行しました。僕にとって、このプロジェクトはスポーツに関するグローバルなアイデアを共有する絶好の機会です。唯一無二のプロジェクトで、僕は全力を注いでいます、これは僕だけの話じゃなくて、カザフスタンにとっての話でもあるのです。
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sarahofaugust · 6 years
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«Наш Денис»より②
お断り
当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
(All sportによる、2009年の世界選手権後のインタヴュー)
(訳注:以下、インタヴュアー=イ、デニス=デ)
イ:デニス、世界選手権以降、ジャーナリスト達が解放してくれないのでは?
デ:ええ、してくれません(微笑)。僕についての記事を幾つか読みましたけど、個人的に話をしていない人(訳注:記者の事か)は殆どいないですね。それにロスアンジェルスの世界選手権では、フリープログラムの後、ミックスゾーンでも長い事解放してもらえなくて。僕、もう脚の感覚がなかったのに(笑)。
イ:世界選手権で、あなたはあっと言わせましたね。正直に言って、こんな結果は予想しましたか?
デ:ロスアンジェルスへのプランは、極めて控えめなものでした――オリンピックに出る資格を得ること。僕らは、24位以下にならなければ大丈夫だろうと思っていました、でも現地で、定員が17人に減らされている事がわかったんです。ですから、丁度17位になったショートプログラムの後に考えたのは、どうやってこの位置をキープするかという事だけでした。コーチ達はスコアの低さに不満を言っていましたが、僕はそれについてはあまり考えず、瞬時に次の日に向かって切り替えました――フリープログラムに。僕はそれを生涯忘れないでしょう。あんな風に滑れた事、今までないんですから!
イ:もうあなた個人のファンはいるの?
デ:はい、韓国でのグランプリファイナルの後から。全く予想外の事でした。手紙や、プレゼントの入った小包をもらうようになって。それにロスアンジェルスでは、ウォームアップに出て行ったら――僕の写真入りの大きなバナーが目に入ったんです。ほんと、信じられない事ですよ!
イ:世界選手権の後、あなたの中で何が変わりましたか?
デ:まず最初に、世界選手権が教えてくれたのは、まだ僕の前にどれほど長い道のりがあるのかという事でした。初めてそう感じたのは、今年ジュニアもシニアも同時に開催されたグランプリファイナルです。よく憶えていますが、僕はヴァーニャ・バリエフ(訳注:イヴァン・リギーニのこと)とスタンドに座って、シニア男子のショートプログラムを見ながらお互いに顔を見合わせて、こう言ったんです。"僕ら、これからどれだけ練習して、学ばなきゃならないんだろう。頑張ろう……!"って。
イ:でも、もう既に沢山やって来たでしょう。どのようにしてフィギュアスケートに従事する事になったのか、教えて下さい。
デ:母が、学校の授業と並行して僕にスポーツをさせたがったんです。保健のグループから始めたんですけど、そのうち飽きちゃって(微笑)。同時に、僕は音楽学校で学んでいました――聖歌隊で歌っていました。凄く真面目にやっていて、2002年のプサン(韓国)での合唱オリンピックでは、銀メダルを獲りさえしたんですよ。けれどやがて選択を迫られました、音楽かフィギュアスケートか。僕は後者を選びました。正直なところ、カザフスタンでの練習環境はあまり良くないんです。夏にはスケートリンクは閉まっちゃうから、ショッピングモールのリンクに行かなきゃならなかったし。最初のコーチはアイグル・クワニシェイヴァ。彼女には数々の恩があります! その後2002年か2003年に、"クリスタル・スケート"で僕はエレーナ・ボドレゾワに見いだされ、そして彼女の許へ招かれました。
イ:モスクワへはどうやって行ったの?
デ:当初は本当に困難でした。全ての金銭的問題を、自分達で解決したんです。宿泊施設に、衣裳に、試合への旅費など。でも国際試合で初めて勝ってからは――ジュニアのグランプリです――、カザフスタンが積極的に支援してくれています。これについては、勿論、物凄く感謝しています!
イ:大勢のロシアのファンが、世界選手権の放送を見ながら、悔しがってこう思ったと思います、"ああ、何故彼はロシア人じゃないの!? "。スポーツでの市民権を変えようと思った事はないのですか?
デ:具体的な提案がなかったので、それについては考えた事がないです。小さかった頃は、気に留めた事すらありませんでした、どの国旗のもとで滑るかなんて。成績の事も、メダルの事も、競争する事も考えませんでした――ただただ楽しんでいたので。
イ:では、依然、成績について考える事はなく、今もご自分のために滑っているのですか?
デ:違う気がします。10歳か11歳の時、全てが変わりました。それ以降、僕は自分自身のために決断して来ました。一度この稼業を始めたら、真剣に対処しなければならないから。精神的に言っても、スポーツに対する姿勢が違うレベルへと移行しました。僕はトレーニングが大好きだし、試合も大好きだし、年上の経験豊富なスケーター達と話すのも大好きです。ロスアンジェルスの世界選手権には早く到着したので、あるウォーミングアップのグループで滑ったんです、エヴァン・ライサチェクや、ケヴィン・ヴァン・デル・ペレン、トマシュ・ヴェルネルと一緒に。驚異的な体験でした――あんな名人達の近くに行けるなんて! 内心では、どうにかして早く肩を並べたい、このレベルに行きたいと思っていました。そういう時に、自分が何のために滑るのか、わかるんです。
イ:他の人と比べて、より好きな選手は?
デ:僕のアイドルはアレクセイ・ヤグディン。彼はスーパーなジャンプや不可侵の根性を持っているだけでなく、途轍もなく、エキサイティングで、感情的なスケートをする唯一無二のスケーターです。イリヤ・クーリックも、僕に多大な感銘を与えたアスリートです! 11年前、彼はアマチュアのキャリアを終えましたが、今でも完璧な体型を維持しています。お手本にするだけの価値はありますよ(笑)。沢山のクーリックの演技の録画を見つけて、観てみたんですけど――物凄かった! まるでエヴァン・ライサチェクみたいです、特に昨シーズン以降の、色々変わって強さが加わった後のね。切り札のエースは――鋼の精神。ジュベール? ブライアンも勿論採用です、子供の頃からそうです(笑)。彼と会ったのは、ニース杯だったと記憶しています――言葉も出ませんでしたよ。本物のジュベールだ! って。口をポカンと開けて、目を見開いて、近づいて写真を撮ってもらって、サインももらって... その上、ロスアンジェルスの世界選手権のフリープログラムの後、彼が僕のところにやって来て、お祝いを言ってくれて、僕らの出会いを憶えてるって言ってくれたんです。
イ:専門家達は、満場一致で、あなたに偉大な未来が待っていると予見しています。
デ:勿論、僕は自国やコーチたちのために、大いなる期待を抱いています。僕のフリープログラムの録画をYouTubeで見ましたが、人々がコメントを付けてくれていて、"彼は未来のオリンピックチャンピオンだ"って書いてありました。それを読んだ時は笑っちゃって、冗談、冗談、って……。いつもなら、シーズンの終わりはリラックスして、休息を取るんですけど、でも今回は、僕の内なる全てが沸騰しています。緊張が解けず――寧ろ、早く来シーズンの準備を始めて、新しいエレメンツを習いたい、上達して前進するために。やる事が沢山あって、時間に追われています! 僕は目標を下げたくはありません。自国と自分の家族を尊厳を持って代表するには、それが大事です。僕の高祖父――ミン・グンホは、大韓帝国の有名な将軍でした。祖母が教えてくれました、韓国では、彼の伝記を一年生で習うんだって。僕は、偉大な祖先に相応しい人間になりたいです。
イ:あなたの、成功の秘訣は何でしょう?
デ:自分の生業のファンであること――それが秘訣の全てです。トレーニングが大好きなんですよ、150%のベストを尽くす事が。僕は浅田真央の勤勉さを称賛しています。彼女の練習ぶりをみるとね、休みなしに週7日練習しているんです。彼女と一緒に居ると、自分が恥ずかしくて気まずいくらいですよ――僕なんて全然練習もトレーニングもせず、ちょっとしか滑ってないみたいで。彼女の努力と意志の強さには、脱帽です。そしてそれを、お手本にしたいものです。
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sarahofaugust · 6 years
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«Наш Денис»より①
お断り
当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
(2016年11月の、"Soviet Sport" のインタヴューの再掲)
「この炎は燃え続けるべきだと思った」
インタヴュアー(訳注:以下イ):デニス、復帰についてですが――自分が何処へ戻りたいか、わかったのでしょうか?
デニス(訳注:以下デ):そうです、完全に。アスリートというのは、自ら選んだシナリオの中で生きるキャラクターなんです。僕がスポーツを始めた時、最初のモチヴェーションとなったのは、自己能力の開発への欲求でした。そしてトレーニングが始まったら、既にそこには成績への思いが生じていました。ソチでのオリンピックの後、これは一度ならず言いましたが、何か他の事をやっても良いかなという気になったんです。でも、僕は自分の中に新たな資質を見つけました――それでスポーツ界に留まりました。昨シーズンは、寧ろ、失敗してしまいました、試合には出たのですが。ちょっと道に迷った感じでしたね。それでも今は、自分が何をしていて、どの方向へ進んでいるのか、理解しています。
イ:今の目的は、結果を出す事ですか、それともプロセスを楽しむ事?
デ:今僕は、その完璧なバランスを求めているんだと思います。長い事、僕は誰かや何かのために、フィギュアスケートに従事して来ましたけど、最近は、自分のしている事を楽しもうと努めてるんです。とはいえ、当然ながら、一番の目標はオリンピックですし、また様々な変化がこの目標に結びついてくれる事です。例えば、コーチングチームを更新する事で、僕に内面の成長と、新たな力の漲りをもたらしました。僕の人生の今の時期において、これはとても重要な潮の流れだったのです。
イ:「誰かや何かのために」とは、どういう意味でしょうか。
デ:例えばね、僕は常に、自分のためだけでなくカザフスタン全土のために演技してきたんです。僕は、世界選手権とオリンピックでメダルを獲得する機会を得たカザフスタン初のスケーター、という非常に稀な栄誉に与りました。この国で、僕はフィギュアスケートのシンボルとなったのです。何しろスケートを始めた頃は、僕にはどんな条件も揃ってませんでしたから。この話は、2022年のアルマティ五輪招致の申請の際、国際オリンピック委員会の人にもしましたけれども。僕達の国には、スケートリンクも、何の設備もありませんでした。初めて履いたスケート靴なんて、ガロッシュ(訳注:ゴム製のオーバーシューズ)みたいに柔らかくて、それで父が何とかそれを補強しようと、ペットボトルを半分に切って、内側に取り付けたんですよ。お蔭で靴が強化されて、やっとこさジャンプの練習が出来たくらい。けれど今は、フィギュアスケートの大会がTVで放送され、スケートリンクもあり、フィギュアスケートのグループは子供達で溢れ返り、アイスショーだって開催される。これら全てが、カザフスタンのためにメダルを獲った一人のスケーターと関連があると思っています。そして、僕はいつでも、自分に課された責任を理解しています。そう、僕自身、故郷に帰って子供達と遣り取りをすると、彼らが如何に僕に倣おうとしているかがわかるんです。僕のスケートからどれほどインスピレーションを受けているかも。まさにそれこそが、僕がソチの後もスポーツ界に留まった理由です。カザフスタンに於けるこのフィギュアスケート熱の高騰は、終わってほしくない。僕は気付きました、僕がこの炎を燃やし続ける手助けをするべきなのだと。
イ:と同時に、あなたはお国の、いわばスポーツ界のアンバサダー(訳注:大使)でもありますよね。
デ:アンバサダーは、多分言い過ぎじゃないかな、ちゃんと大使館で大使の役職に就いている人たちがいるんですから(微笑)。でも、こうも言えると思います――そう、僕は折しも、世界選手権とオリンピックでメダルを獲ったカザフスタン初のフィギュアスケーターになりました。これは両親と、僕と一緒にやっている素晴らしいチームとコーチの功績です――ただ、同時に、僕を今の僕にしたユニークなイヴェントが度重なったのだとも言えます。カザフスタンに於けるフィギュアスケートの復興を何もかも作り上げる、それが僕の使命だとは言いづらいですね。嘗ては、そういった目標は持っていませんでしたので。でもそれを持って以来――僕はずっとその荷を自分で背負っています。そしてそれは、キャリアを続けるモチヴェーションにもなりました。
イ:カザフスタンの大統領、ヌルスルタン・ナザルバエフ氏とはお知り合いですか?
デ:はい、何度もお会いしましたし、僕にとって大変光栄な事でした。概して、カザフスタンでは、アスリートは国の規範であり、シンボルなのです。それはスポーツ選手であって、例えば舞台や映画――カザフスタンでの主なスター――のような代表者ではありません。僕達トップアスリートは、特別大勢いるわけではない、然もウィンタースポーツではね。絶えず活動する名誉アスリートであり、また全般的に、スポーツは更なるハイレヴェルに向かおうとしています。アスリートは国の英雄として、然るべく歓迎され、大統領もスポーツに多大な注意を払ってくれています。彼が僕にオリンピックの「Kurmet」勲章を授けてくれて以降は、あちこちのイヴェントでお目に掛かっています。
「スケーターの動きを見れば、何処で練習しているかわかる」
イ:フィギュアスケートに話を戻しましょう、より正確に言えばコーチングチームを変えたところに。ニコライ・モロゾフはどういう経緯で出て来たのですか?
デ:モスクワへ行ったんです、アイスショーでプログラムを披露しに。ニコライもそこに居たんです。彼と一緒に少し仕事してみて、僕らは連携を続けたいと思い、且つそれに同意し、そこから何が生じるか見てみる事にしました。それと同時に、僕はアメリカのコーチ、フランク・キャロルとの連携も続けました。彼とはパリで会いました、彼がカナダ人の専門家と一緒に居た時に。でも今は、殆どをニコライと共に仕事しています、彼は僕のチームの主要リンクなのです。パリで、二人で設定し準備して来た目標を一緒に達成出来た事を、とても嬉しく思っています。
イ:今現在は、モロゾフとは何に取り組んでいますか?
デ:それは広範囲に及びます。昨シーズン、僕は不成功に終わり、一年中怪我をしていました。いっそシーズンをスキップした方が理に適っていたかもしれません。実際、僕は試合に出られていませんでしたし。だから鍛え直す必要がありました。OFPのトレーナーと沢山の時間を過ごしましたし、夏にはインドにリハビリに行きました。今、氷に乗ったり動いたりしても、(訳注:怪我をしていない)他の筋肉ですら、以前よりも調子が良いと言えるほどです。僕らの共通の目的は、今後2年スポーツが出来るようにする事であり、ニコライはその計画の大いなる助けです。他の過失を引き起こす失敗はしないようにします。ほら、プロのアスリートというものは、何か上手く行かない事があっても、順応するための洗練された方法を見つけるものでしょ。僕も最終的には順応出来ました、体が"飛び始めてるんだ"って考えて。それゆえに、今は前とは違った状態でいます、これは僕にとって新しい事で、僕を物凄くハッピーにしてくれるんです。まだ23歳とはいえ、15歳の時から僕は大きな大会に出て沢山の経験を積んで来たわけですが、止まらずに成長し続ける事は、とても大事だと思っています。
イ:今や、異なる4回転ジャンプという武器を持ったスケーターが、どんどん出てきていますよね。ボーヤン・ジンに、ネイサン・チェンがその際立った例でしょう。どう思いますか、あなたの金メダルへの道でも、新たな4回転に取り組むべきですか?
デ:長い目で見れば、他に方法はないでしょう。今はフィギュアスケートの新しい時代です。新世代のスケーターの身体を見ても、皆凄くよく似ています。新たなアスリートの、新たな形式が出来上がっているのです。このスポーツを前進させている、ネイサンやボーヤン、そして羽生結弦、そうした人たちが居る事は実に喜ばしい。僕はといえば、勿論、時代に遅れないようにしますよ、そもそも自分がベテラン役だとは思ってませんけれどね。それどころか、僕は今とても良い時期にあるんです。今年僕が増加させるのは、いわばジャンプのサイズです。僕にかかっている、進歩するための技術的計画は、何でもやります。然しそれと同時に、僕には独自の能力と、芸術的観点があります。この分野に関しても、僕は発展させたい。パリでは、プログラムの一つのヴァリエーションを披露しました。でも、シーズンの終わりには、それも甚だしく変化している事でしょう。僕らは今、技術と芸術性の良いバランスを見つけようとしているんです。現に、チャンピオンはいつだってその中庸を見出すのですから。
イ:これまでのキャリアで、沢山のコーチと共に取り組んで来ましたね。でも徐々に、ご自身でトレーニングするようになり始めたのではないでしょうか――つまり、ご自分に何が必要かわかっているという事では?
デ:間違いなく、僕には自分の意見とヴィジョンがあります。実際、僕はラッキーでした――キャリアの中で、タチアナ・アナトーリエヴナ・タラソワや、エレーナ・ゲールマノヴナ・ボドレゾワ、フランク・キャロル、ローリー・ニコル、シェイ=リーン・ボーン、ステファン・ランビエルといった人達と、そして今はニコライ・モロゾフと一緒に仕事が出来て。彼らは皆傑出したスペシャリストで、どの人からも、僕は新しい何かを得、そして全てのコーチがこのスポーツに対して独自のビジョンを持っている事がわかりました。然もそれらは、必ずしも相容れるとは限らない。これは非常に興味深い事です。自分がアスリートで、ロシアの領域で育ち、その後フィギュアスケートに対するよその価値観には覆われていないアメリカの地に行けた事を、幸運に思っています。後になって、僕はヨーロッパ流のフィギュアス���ートとは何なのかを認識しました。観客の目にはどこまで明確に映るかわかりませんが、僕には、例えばそのスケーターの動きで、その人が何処の人か、或いは何処でトレーニングしている人かが判断出来ます。コーチに関して言うなら、勿論、誰かと意見の不一致があればその連携は終了し、同じ考え方をする人の所へ行くのです。ニコライとは、あらゆるものに関する僕らのヴィジョンが収斂します。ですがこれは指摘しておかなければなりません、全てのアスリートが、思考に向いているわけではないと。
イ:自分でやらずに、コーチの指示に従うのは簡単なのですか?
デ:誰もが個性的です。人生はいつでも、僕に考えさせてくれます。成功への一本道はないと僕は思っていますが、でも物を考えるアスリートは、いつでも好きですね。例えば、僕のお気に入りのサッカー選手はティエリ・アンリなんですけど、彼は思想家と呼ばれていました。僕テニスも大好きで、理由は作戦の要素がいっぱいあって、瞬時に考える事が必要とされるから。動きを教わったロボットのように、じっとしてなきゃいけないアスリートもいますね。カーリングなんかも大好きですよ。
イ:氷上のチェスですね!
デ:そう。でも、誰かが脳との接続を遮断して、それで上手く行ったなら、それは間違ったアプローチとは言えません。賢明だったためにチャンピオンになれた人もいますけれど、何も考えずに戦って――それで勝った人もいます。
「アメリカでは、アスリートはコーチから何を得たいのかを自覚している」
イ:アメリカでトレーニングするアスリートは沢山いて、曰く、その主要原理は自分のやっている事を楽しむ事だと彼らは言います。こちら(ロシア)では全面的な管理と、常時かかるプレッシャーはありますよね、コーチや連盟からの。アメリカに向かった時、この点に違いを感じましたか?
デ:(訳注:ロシア時代に)改革は、勿論、ありました。でも僕には苦じゃなかったんです、何故ならロシアは、言うなれば、僕自身のようなものだったから。ですがアメリカのシステムが全く異なるというのは事実です。ロシアでは、これはそもそも注目に値する事ですけれど、独自のスポーツサポートがあります。カザフスタンにも似たようなものがあって、これは素晴らしい事ですよね――環境が整っていて、他のスポーツのように自分で考える必要がないんですから。アメリカでは、アスリート達は非常に自立しています。これは彼らが、嘗てのソ連が受け入れていたように、キャリアの終了後にコーチになったりはせず、まるで異なる分野の専門家になる事にも表れています。例えば、エミリー・ヒューズはグーグルで働いていますし、ミシェル・クワンは政界、エヴァン・ライサチェクは不動産業に従事しているし、ティモシー・ゲーブルは法律家、ジョアニー・ロシェットは医学生。向こうでは、スポーツ選手は自分のお金をどう使うか、コーチから何を得たいのか、常に考えているんです。その点、全く違った心理です。
イ:心理の問題に加えて、こういう意見も依然としてあります、アメリカのコーチはロシアほどタフではないと。
デ:フランク・キャロルは極めて厳格ですよ。僕が彼の許に行ったのは、もうオリンピックチャンピオンを育て上げた時だったにも拘わらず――エヴァン・ライサチェクと、ミシェル・クワンとの長年の仕事でね。僕は、彼が典型的なアメリカのコーチとは全く違うのだと知らされました。そして勿論、僕はアメリカに移った後、順応するために暫く時間を費やさなければなりませんでした。トレーニングと生活の両面で。初めは、僕と母はホテル暮らしをして、トレーニングには徒歩で、歩道の無い道路を歩いて行っていました。向こうでは誰もが車を持っていますから、僕らは何だか同情されてさえいる気がしました。そして最初のシーズンでは、僕はあまり進化出来ませんでしたけれど、長期的には、経験が進化を充分に与えてくれました。
イ:大躍進はカナダのロンドンでの、パトリック・チャンをも破りかけた世界選手権でした。恐らく、こういう感情が芽生えたのではありませんか、全ては無駄ではなかったと。
デ:僕はいつもそう思っていました。スポーツでは、何事もゆくゆくは起こってくれるものだと。敗北も、勝利も。それに関しちゃ、僕はいつもラッキーだったんですよ――子供時代から、僕は"当たり屋"でしたからね。子供の頃、音楽に従事していた時でさえ、いつだって家でするリハーサルよりも、試験で弾く時の方が上手く弾けたので。
イ:幸先が良かったんですね!
デ:これはね、とても重要な性質だと思いますよ。それにカナダのロンドンでは、僕の望みに沿う結果となった。これが人生をスポーツに捧げ、両親も僕のキャリアの為に人生を捧げてくれた事の理由になりました。今回も容易ではなかったし――ええ、今現在も依然厳しい状況です。でも結果を見れば、全部辻褄が合うんです。
イ:とりわけ重要なのは、恐らく、ソチオリンピックであなたの隆盛は偶然ではないと裏付けられた事では?
デ:全く以てそうです。ほら、外から大会を見てると、客観的な評価をするのって難しいでしょう。だから、僕のロンドンでのメダルについても、たまたまだって言われました。僕自身わかっていました、まだやっと自分のポテンシャルを見せ始めたばかりなのだと。丁度その頃、怪我にも苦しんでいました。実際、最高得点を更新出来たのは、ソチから一年経って、怪我が治ってからなんです。でもそれが、きっと、スポーツの神秘なのだと思います。誰がどんなポテンシャルを持っていて――それがいつどこで煌くかわからない。だからこそアスリートの技術は、一コマの写真ではなく長いビデオであるのです。あの時、チームの努力を通じて、僕らが一定の成果を挙げられた事をとても嬉しく思います――そして今、新たな物語が始まった事も。
「アスリートでいる間は、趣味は棚上げします」
イ:"一コマの写真"という言葉を使われましたね。あなたの写真に対する情熱について訊かずにはいられません。それはどこから来るのですか?
デ:概して、スポーツ以外の僕の趣味の殆どは、怪我をしている時期に生まれてるんですよ、何かで時間を潰そうとした時にね。興味のあるものは本当に沢山あります――IT分野、経済学、創作活動に、芸術。とりわけ興味があるのが、視覚的美学。友達がスマートフォンのアプリを開発しまして、それは写真の基礎を説明したものなんですけども。それで構図のレッスンが出来るんです。で、憶えてるのが、そのアプリをテストするために彼らは僕に写真をいっぱい送って来て、そして僕は合理的な一枚を選ばなきゃならなかった。何の予習もなしで、僕は選びました――すると彼らが言ったんです、"見ろよ、彼には写真と画像のセンスがあるぞ!"
イ:あなたの写真をプロに見せたんですけど、彼らも言っていましたよ、その通りだと。
デ:そうなのかもしれませんね。そうだ、これはフォントとも関係があります。誰かのロゴを見ると、僕はそこで使われているデザインやフォントの、合理性の欠如を判別出来るんです。だから写真に興味があるんです。よく携帯で写真を撮って、インスタグラムに掲載していましたが、ある時点からプロフェッショナルなカメラにしました。僕にはカザフスタンに、女優や、モデルや、写真家の友人が大勢います。写真撮影業に従事しているクラスメイトの一人と、僕の写真への情熱について議論した時、フォトセットを作ってみた方がいいかもねって言ったんです。彼女、僕のために全部計画してくれました。僕は、水中のモデルを撮りたいと伝えました。それが僕の、初めての写真撮影経験となりました。とはいえご存知のように、ロシアのスター、セルゲイ・シュヌロフが一度言っていましたよね。"仕組みを知ってしまえば、忽ち興味は薄れる。"それが僕の写真趣味にも起きました。写真の後は、音楽を作曲する事に夢中になりました。「デニス・テン・アンド・フレンズ」っていうショーを開く事になって、全部僕がやりました、看板のデザインに至るまで。パンフレットも書いて。そのショーの全ての参加者が――個性的で、その人達の個別のストーリーを書きました。ある時点では、「デニス・テン・アンド・フレンズ」っていう同じタイトルの本を出すっていうアイデアもあったんですよ。
イ:じゃあ、もう写真は撮らないんですか?
デ:はい、でも今新しいアイデアもあって――僕、グラフィックが好きなので。もしかしたら、またカムバックするかも。だけど、繰り返しますが、そういった全てはスケートが出来なくなってからの話。スポーツに戻った時、僕は意図的に全部のアイデアを棚上げし、先送りにしようと努めました。いずれにしても、そういったものは皆、気が散りますから。カザフスタンでMBAの講義も取っていますが、頭を使い過ぎてしまうのも、やはりあまり正しい事ではありません。例え全てが順調で、一定の精神的ストレスの中にいる事が――難しい時でもね。
イ:スポーツのキャリアが終わった後、何をするかというプランはありますか?
デ:ええ、でもそれってコロコロ変わちゃうんですよ。新しいアイデア、そしてまた新しいアイデア、って。まあ時間が教えてくれるでしょう。今僕はフィギュアスケートに従事しており、回復もしたし、朝から夜までリンクで過ごしています。帰宅は夜。スポーツが僕の大部分を占めている事を理解しています。怪我をした時はよく考えるんです、僕の15歳から20歳のスポーツ人生の中で、心に残る事って何だろう? と。だけどこれほどの困難にも拘わらず、僕はスケートを深く愛していて、スケートが恋しくなるだろう事に気づくんです。そして今、自分のしている事に関して、新たな愛の高まりを感じています。今や僕は、自分をいちアスリートという以外、他の何者だとも思っていません。はっきりと言えるのは、僕は韓国のオリンピックの前にリンクに出て行くし、そして多分その後も、スケートを続けるだろうという事です。
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sarahofaugust · 6 years
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デニス・テン(カザフ)は、オリンピックシーズンの準備期間に怪我と闘う (ISU公式サイト、2017年9月27日の記事より)②
お断り
当記事は、あくまでも趣味の範囲で翻訳したものです。
多少の誤訳と意訳、及び諸々の細かいミスには目を瞑って頂ける方のみ、ご覧下さい。
I: 今年はオリンピックシーズンです。それに向けてはどういった取り組みを?
D: このオリンピック大会は、僕にとって特別なものになるでしょう。まず第一に、全ては韓国で行われるのです。僕はこの国と特別な絆があります、それは気持ちの上でも、この国で残した結果から言っても。韓国で、僕は生まれて初めて国際的な賞を獲得しましたが、何とも面白い事に、それはスポーツとは関係がないんですよ。釜山で開かれた、2002年の合唱オリンピックでの銀メダルでした。この国ではまた、スポーツに於いて最も輝かしい瞬間を何度か経験しました――2008年のISUの(ジュニア)GPファイナルの後、初めて僕にファンが出来たし、現時点での僕のキャリアでのベストスコアも、2015年の四大陸選手権です。 原州市には、僕の高祖父、韓国の有名な将軍のお墓があるし、親類も何人か、かの国に住んでいます。
ここ2年間は、間違いなく、僕の望んだ通りにはいきませんでした。故障と、その他の気が散る出来事のせいで、自分の目指すレヴェルに到達出来なかった。焦点は、主に問題を解決する事と、自分がパフォーマーではなくアスリートなのだと自覚する事にありました。これが、停滞への終止符を渡してくれました。だけど僕は、怪我にも他のあらゆる困難にも、人質にとられたくない。オリンピックは特別なイヴェントです、立場と場所を考えると、僕には二重の意味でね。ですから、自分に打ち克ち、際立ったスケートを見せて遺産を残す事を、自分に望んでいます。
I: 新しいプログラムについて、言える事はありますか?
D: キャリアの間ずっと、運命は僕を世界最高のエキスパート達の許へ導いてくれました。タチアナ・タラソワ、フランク・キャロル、ニコライ・モロゾフ、ステファン(エンビエル)、シェイ=リーン(ボーン)、ローリー(ニコル)の事です。ローリーとは5年間一緒にやってきて、今や僕らの仲はプロフェッショナルな絆だけでなく、精神的な絆を持つまでに発展しました。彼女とは特別な関係にあります、キャロル先生とのように。
そうは言っても、僕はこの夏、 お互いがジュニアだった頃に競技者だった、若い(振付師の) ブノワ・リショーと仕事をする機会を得ました。それから、僕が長年その創造性に富んだ仕事ぶりを追い続けてきた、デイヴィッド・ウィルソンとも。
今年のプログラムには、特別なキャラクターが組み込まれています。僕は自分のあらゆる最大の強みを、その中で一体化させたいです。フリープログラムは僕にとって独特な象徴となりましたし、ショートプログラムに関しては、畏敬の念を持っています。そのアイデアは笑えるシチュエーションから生まれたんですけど、でも僕にとって何よりも価値があるのは、曲をカザフのアーティストが演奏しているという事。そのミュージシャンとその曲とには、強い繋がりを感じています。これは確かにプレッシャーにはなるけど、一方で、僕はこれ程大事なものを見つけられる機会は滅多に訪れないという事を、理解していますから。現段階では、プログラムについて語り過ぎないようにしたいですね。込み入った作業が必要になりますが、それでもこのプログラムを初めて観客に披露する時には、僕自身が感じている感情をシェア出来たらいいなと思います。
I: どんなプランがありますか? GPS以外では、どの試合に参加したいですか。
D: 世界選手権の悲惨な結果の後で、二つのGPSのイヴェントに出られるチャンスをもらって、とても嬉しく思いました。ただ当時は、試合への気持ちは少し萎んできていました――この何か特殊な気持ち、どこか深遠な気持ちは、まるでちょっと前のようでした。もっと以前なら、ワールドやその他の大きな試合は、僕にとって精神的な象徴となってきていたのです。氷の上に出て行くと、僕は別人になったし、その事が大いに役立っていました。でもその後、怪我や他の要因により、その「時計のような規則正しさ」が少しずれてきて。僕はあの力を取り戻したい。それは失われたわけではないし、他の分野では発揮出来たりもするけれど、フィギュアスケートに集中したいんです。だから今シーズンは、従来よりももっと頻繁に試合に出る事になりそうです。
I: 昨シーズンには、4回転の「爆発」的なものがありましたよね、スケーター達はプログラムに4~5つの4回転を盛り込み始めました。この発展については、どう思いますか?
D: 僕には、自分達が今異例の時代に生きているように思えます、何故ならこの目を瞠る現象……スポーツに於ける凄まじい技術的進歩の一翼を、僕らは担うようになったのですから。過去、フィギュアスケートは決してこんな風ではなかったけれど、今やこのスポーツは明らかに、この先何年も続く進路を選んだのです。技術のみならず、生理学に於いてさえ、基準が上昇しました。嘗て、きら星の如く存在するアスリート達の背中を押した、アレクセイ・ヤグディンとエフゲニー・プルシェンコとの戦いの時代がありました。僕達に忘れられないプログラムを残してくれた、ステファン・ランビエルや高橋大輔、ジェフ・バトル及び他の選手達による、芸術的な個性の時代もありました――どのアスリート達も、彼らの後に戦う世代に影響を与えました。今、新たなコントラストを作り出す全く新しい流れが生まれたのです。そしてこの流れは、再び足跡を残さずにはおかないでしょう。僕にとっては、素晴らしい事です。我々のスポーツのコミュニティにとっても、フィギュアスケート全史に於けるこの新しい変化の章に接する事は、素晴らしい事です。
I: 学業はどうですか?
D: まだ過程にあります。カザフ=ブリティッシュ工業大学で、ガソリン産業のMBAの学位を取ろうとしています。今日現在で、経営管理学の基礎教科は殆ど修了しましたが、まだ専門科目とインターンシップをやらねばなりません。スポーツがあるので、他の生徒達よりも遅いペースで勉強していますけれど、何か新しい事を学ぶ過程が本当に好きです。オンラインの教育プログラムも契約しました。時間のある時はよく、追加のオンライン授業を受けています。例えば、今年は凄くラッキーな事に、オフシーズンにスタンフォード大学が無料講習会を開いてくれたんです、「経済学原理」の。やや基礎的な授業でしたが、僕は楽しんで参加しました。それは秋に終わって、丁度僕の大学での勉強が再開する時期だったので、練習外の時間に大学と遣り取りを続けるのには絶好の機会だと思いました。
I: 他に何か新展開は?
D: 全てのアスリートが、怪我を抱えています。でも悪い出来事にも、ポジティヴな点を見つけられる側面があるものです。自分自身を何とか退屈させないようにと沢山の物事を熟考する事以外で言えば、こうした時代にあって僕は全く違う分野に身を置く事に成功しました。写真、執筆、将来のプロジェクトに向けての詳細なプランニング、そして残る二つの気晴らしは、音楽とアニメーション。こうした全ての分野で、僕は何某かの結果を出せました。
暫くの間、音楽は実に興味をそそられる旅となっていました、音楽家になるよう挑戦してみたらと言われるほどにね。僕は特定の楽器を完璧に弾きこなしはしませんが、全然違うジャンルの曲を複数作るのは、僕には容易い事なんです。ある時など、友人の一人であるカザフスタンの一流音楽プロデューサーが、僕の曲のデモ版を送ってくれと頼んできました。幾つかは完成してたんですけど、ちょっと充分な時間がとれなくて。アニメーションに関してはどうかというと、カザフスタンの才能あるアーティストと一緒に、プロジェクトを準備しています。こうしたプロジェクトの一つの前半部分は、日本のメッセンジャーツールLINEで利用可能になる予定ですし、その他の全ても、もう少し後で見通しがつく予定です。
I: オリンピックシーズン後のプランは?
D: 正直に言って、オリンピックの後何が起こるかについては、まだ考えていません。更に言えば、自分に対してフィギュアスケートの事以外は何も考えさせないくらい、今シーズンには凄く集中したいんです。当然、たった今話した趣味など、論外です――創造的小休止をとります、スポーツだけに打ち込む為に。
今年は、僕の参加する二本の映画が公開になる予定です。一つはショートムーヴィー。アメリカの、才能のある映画人グループによって、オリンピックチャンネルのプロジェクトの一環で撮影されたものです。二つ目の方は、ノーカットの映画で、インディペンデントのプロジェクトですね。きっとこれらの映画を通して、観客は僕の事をより詳しく知る事が出来るでしょう。
つい最近、僕はその映画に関するインタヴューの一つで、アスリートとしての僕の人生は永遠ではないという事実、そうした一種の見識に目を向けさせられました。無論、以前にもその事は考えましたし、それは一度ならずでしたが、でもこの感謝の気持ち、スポーツへの感謝、経験、いつでも側に居てくれるファン達――これらは、ある意味、いつも平行線上にあったのです。きっと、キャリアを終えた多くのアスリート達も、この考えに賛同してくれるでしょう。
今、僕の選択肢を分析してみても、自分がいつまでスケートをするのかわかりません。高い確率で、平昌の後もスポーツ界には残ると思います、でも同時に、やがて「Xデー」がやって来て、プロのアスリートなら誰しも必要な決断を自分も下さなければならないのだという考えを、捨て去る事は出来ません。
過去を振り返ってみると 、将来起こる事とは無関係に、僕は素晴らしいキャリアを持てた事に気が付きました、何が起こった時でも――好調の時も不調の時も、数々のメダルも落胆も、素敵な思い出も、そんなに素敵ではなかったものも、独特のイヴェントや出会い、それに多くの魔法のような出来事。またキャリアとは、たった一つの業績や特定のメダルによって築かれるものではなく、概して全てのイヴェントの年表によって築かれるものです。そう考えれば、スポーツは全く違った意味を持ちます。いつか僕は実感するのでしょう、僕は非常に充実したスポーツ人生を送った、本当にラッキーな人間だと。
I: 5年後の自分は、どうなっていると思いますか。
D: 経済活動が科学と見做されている金融学の世界ではこういうジョークがあって、毎年、同じ質問に違う答えが返って来るって言うんです。この場合、僕もそれとそっくりの状況にいますね。難しい質問です。毎年、僕の生活の好みの領域に、新しいものが加わります、フルタイムで従事したいと思うものが。現代社会は、目まぐるしく変化しています。21世紀に於ける生活の雛形は、とても移り気だし、進歩的。「安定性」という言葉は従来とは同じ意味ではなくなったし、若い世代の人々は時代感覚に合った、流動的な個性で出来ています。年々、創作に対しても、専門的な気質についても、僕は違う考えを抱くようになっています。でもきっと、スポーツでの未来の後、僕が実際に何をするのかは、時間が経てばわかるでしょう。一つだけ確かなのは――僕はプー太郎にはならないという事です。
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sarahofaugust · 6 years
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デニス・テン(カザフ)は、オリンピックシーズンの準備期間に怪我と闘う (ISU公式サイト、2017年9月27日の記事より)①
お断り
当記事は、あくまでも趣味の範囲で翻訳したものです。
多少の誤訳と意訳、及び諸々の細かいミスには目を瞑って頂ける方のみ、ご覧下さい。
(訳注:序文省略。以下インタヴュアー=I、デニス=D)
I: 8月に独自インタヴューを行った直後、右足首の酷い怪我に見舞われましたね。現在は何処におられるのですか?
D: スポーツの怪我を専門に扱う、(韓国はソウルの)総合医療センターでリハビリを受けています。ここに一緒に居る「仲間」達は、殆どがサッカー選手ですが、病院ではフィギュアスケートを含む、他のスポーツ出身のアスリート達も治療を受けています。当初は、去年の12月に疲労骨折を負ったパク・ソヨンも、僕の戦友(訳注:病院での、という意味か)でした。
韓国は、僕にとって外国ではありません。この国では非常に居心地の良さを感じます、道を歩けば僕が楽々と群衆に溶け込める事に始まり、史実上の故国への果てしない好奇心でもって終わるような(テンは韓国系である)。
僕の韓国訪問は、2018年のオリンピックと関係があったんです。2018年の平昌のプログラムでのショーは、 高陽市で計画されていましたし、このイヴェントに招いてもらって光栄でした。これがどんなに象徴的な事か、おわかりになるでしょうか? 本番の前に、オリンピック開催国を訪問してシーズンをスタートさせる事が。まさにこのショーで、僕はフリープログラムをお披露目したかったし、 初めてオリンピック用のプログラムを、取り分けその構成を、故国の氷上で見せたかったんです。然しながら、屡々起こる事のように、全部が全部計画通りにはいきませんでした。そのショーには、松葉杖でしか姿を見せられなかった。それでもなお、少なくとも話し手として、僕は出演すべきであると決断しました、韓国のファンの為だけでなく、特に日本や中国からやって来てくれた、その忠誠心を無視するのは躊躇われるファン達の為に。そんな状況について僕がどう感じたか、言葉では言い表せません。まるで風刺みたいでしたよ――闘う気満々で韓国にやって来といて、結局負傷兵みたいになって終わるなんて。それはさておき、ステージには初めて松葉杖無しで上がったんです。この件で僕は自信をもらいました、リハビリを先延ばしにせず、且つ怪我した脚は使わずに、トレーニングを続けようと。
I: 何が起きたのでしょうか?
D: その事件自体は、リンクの外で起きました。怪我をした時、それが酷い状態だったので、僕にはこの世の終わりがやって来たように思えました。幾つかの病院の異なる医師の許を訪ねては、これでもかと気味の悪い診断をされた時の事を憶えていますけど、こう思ったものです、「最高のタイミングだ、何だって今シーズンに起こるんだ!」と。
その前にも、怪我とは闘っていました。というか、このドミノ倒しは既に2017年から始まっていました。よく憶えています、というのも、いつもこの時期には万全の体調を備えているものなんです。然しその一方で、様々な事が積み重なり過ぎました――腰も、背中も、両足首も(訳注:其々の怪我という意味か)、日程も、予定が少し狂ってしまって。その夏(2016年)の終わりまでには、身体的な不慮の出来事が山積みになっていました。何とも間の悪い贈り物でしたよ。
けれども、深く考えてみれば、不運な出来事に理想のタイミングなんて無いですからね。起こる時は起こる。出来るのは、事実を受け止め、先へ進む事だけ。折に触れて、人生は僕に天候を思い起こさせてくれます、晴天が雷雨に変わった時、そして雷雨が過ぎ去った時、一本の虹が光り輝く事を。だからって、明日雪が降らない保証はありませんけど。
どうやらこれが僕の運命らしいです、晴天ではなく、主として幾つも襲い来る嵐の中、舵を取るのがね。
I: どうやって、その楽観主義を維持できているのですか?
D: 自分を勇気づける為、僕はいつも韓国に長期滞在したいと思っていました、この場所を一層深く探求しようと。無論、現在僕がここで小休止している理由は、ここに留まりたいと思っていた理由からはかけ離れていますが、それにも拘わらず、医師に言ったジョークがあって、「僕の夢は、どうやら実現しちゃう癖があるみたいだね」って。この次は、より具体的な計画を練ってから、夢を見るようにしますよ。
I: 回復の状況はどうでしょうか、そして次のプランは?
D: そろそろ、ハードなリハビリによって、足首がしっかり強くなってきたところです。右脚を使ってのジャンプは出来ませんが、慎重なランディングはもう出来るようになっています。既に子供の頃、軽度の痛みに関しては自分で学んできたので、ですから、僕は痛みは怖くありませんし、怪我が引き起こす不快感も克服出来ます。
嘗ての精確な足の動きが戻り、筋肉量も回復するには、少し時間が要るでしょう。その為に僕らは取り組んでいます。然し何より大事なのは、進展があった事。僕はロステレコム・カップで戦いたい。毎年、GPSの初戦をスキップするという事が、最早僕の悪しき伝統になってしまっています。元々は、今シーズンはもっと試合に出たいと思っていたし、その考えを捨ててはいないんです。
多分、今週ロスへ戻ります(フランク・キャロルの許へ)。その後で、僕のプランはより明確になるでしょう。でも、諦めたりへこたれたりする気はありませんよ。
I: では、独自インタヴューに戻りましょう。昨シーズンを振り返ると、あなたにはGPSフランス大会の銀メダルや、ユニヴァーシアードの勝利といった山もありましたが、怪我の問題による谷もありました。昨シーズンについては、どう感じていますか?
D: 楽なシーズンではありませんでしたが、同時に有益でもありました。昨シーズン、僕は新しいエキスパート達と仕事をする機会を得、また新しい知識と経験を得ました。母国(カザフスタン)でのユニヴァーシアードや、フランスのGP(パリ)といった忘れ難い幾つかの瞬間もあり、とびきり不成功に終わったやや憂鬱なイヴェントもありました。
ファンの皆さんや、フィギュアスケートを恐らく初めて観に来てくれた人達をがっかりさせた事、そして今僕が、演じたいスケートのレヴェルをお見せ出来ない事を残念に思います。然しながら、他方では、上達するためには学習し、ミスを乗り越える必要があります。この事はあらゆるスポーツのキャリアにとっても、あらゆる人生にとっても、その一環なのですから。
昨シーズン、僕は探求していました。新しい自分と、スポーツに於ける新鮮なモチヴェーションを探求していたのです。割と実験的な年でしたけれど、現に、僕は沢山のものを得ました。異なるトレーニングプランにも挑戦しましたし、何が僕にとってより良いか、結論に達する事が出来ました。
I: 世界選手権の後、どんな対策をしていますか?
D: 失敗の改善に取り組む事は、日頃からしている事の延長です。かなりきめ細かな自己分析は、不振な大会の後では最重要事項です、苦い経験を再現してしまい、且つそこから教訓を引き出すべく措置を取る事が重要であるならば。前回の世界選手権に関しては、非常に複雑な心境で居ます。フリーの後、どうやってリンクから降りたか、今でも憶えています。あの日は、沢山の事が僕に作用しなかった。でも更衣室へ向かう途中で、IOC会長のトーマス・バッハが僕に会いたがってると聞かされました。僕らはとても意欲的な会談をしました。アルマトイの2022年五輪への名乗りを憶えていてくれた事に加え、会長は優秀なアスリートとして、貴重な教訓を共有させてくれたのです。僕はとても感動し、触発されましたが、同時に、僕は不調のうちにシーズンを終えた事で、自分に対して怒っていました。それが僕を強くしました。早くもその二週間後には、総合的な体調と、その年の間中ずっと僕を煩わせた慢性的な怪我の改善の為、サマートレーニングキャンプに出発しましたから。
I: 今シーズンへの準備はどうですか? 何か変化した事は?
D: オフシーズンの間、実質的に世界中を旅しました。種々のトレーニングプログラムの一環で、ロシアと、イタリアと、カナダ、それからアメリカに行きました。そののち、日本と韓国のアイスショーで演技する為、アジアにも。去年、僕は異なるスタイルのスケーティングと、新鮮なアプローチでのトレーニングに挑戦する機会がありました。けれども、このオリンピックシーズンに向けては、僕のキャリア全てをかけて集めた知識の、その本質を見せるつもりです。更なるトレーニングの為、ロスに戻りはしますが、確実に今の僕は、以前の僕とは違います。
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sarahofaugust · 10 years
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Interview With Denis Ten ("Is That A Skate Guard In Your Pocket Or Are You Happy To See Me?" 2014.6.28の記事より)
お断り
当記事は、あくまでも趣味の範囲で翻訳したものです。
多少の誤訳と意訳、及び諸々の細かいミスには目を瞑って頂ける方のみ、ご覧下さい。
     
  
 ディック・バトン、クリスティー・ヤマグチ、ポール・ワイリー、ナタリア・ベステミアノワ、ヨゼフ・サボフチク、メーガン・デュアメル、エレーナ・ベチケ、ベアトリクス・シューバ、ティム(訳注:ティモシー)・ウッド・・・・・・どのオリンピックメダリストも押並べて素晴らしい、それは素晴らしい方々ばかりで、私はこのブログを介して彼らと面識を得、彼らの話を彼ら自身の言葉でお伝えする栄誉に浴してきた。そして、私がインタヴューさせてもらえたオリンピックメダリスト達の中にまた新たな名前を加えられることは、光栄の至りである・・・・・・今回は、先般のオリンピックの銅メダリスト、デニス・テンだ。世界選手権のメダリストであり、国際大会のチャンピオンであり、三度のカザフスタン選手権王者であり、母国のスケート界のアンバサダーでもあり、超注目の選手であるテンは、2014年のソチオリンピックで、ついに彼の母国にとって史上初のオリンピックのメダルを獲得するまでになった。恐らくこのインタヴューによってデニスをより深く知る事で皆さんに伝わる最大の価値は、彼がいかに理知的で魅力的な人物か、という事だろう。音楽の経歴や、自身の先祖であるミン・グンホの事など、スケートにまつわる彼の過去、現在、未来について語ってくれたデニスは、快く沢山の事を教えてくれ、インタヴューの受け手として全く非の打ちどころがなかった。皆さんにお楽しみ頂ければ幸いである。
  
  
Q:冬季五輪(訳注:フィギュアスケートで、という意味だろう)と世界選手権でカザフスタン選手初のメダリストとなって、歴史を塗り替えられましたね。これはあなたにとって何を意味し、また結果的に母国の生活では何が大きく変わりましたか?
A:ありがとうございます! 勿論多くの意味がありました、僕にとっても、家族にとっても、コーチ達や、それから国全体にとっても。カザフスタンには嘗てフィギュアスケートが存在しなかったんです。僕もスケートを始めたのは屋外リンクでしたし、その後も10歳になるまでショッピングモールで練習していました。今考えると、ここまで来るのは長い道のりだったと思いますし、僕のキャリアを信じられないほどずっと支えてきてくれた両親には、途轍もなく感謝しています。ともかく、2011年、冬季アジア大会で僕が金メダルを獲ってから(これはカザフスタン開催だったんですけれど)、このスポーツが国民に認知されるようになったんです。政府も、国際基準に匹敵するようなスケートリンクを沢山建設してくれました。僕らがやっている美しいスポーツを、鑑賞するだけじゃなくて自分でもやってみようって皆に思ってもらえるきっかけになったのです。2011年以来、スケートの知名度は大幅に上昇して・・・・・・実際にカザフスタン最大のリンクの一つでは、一般開放で20万人以上を集客しました。言うまでもない事ですが、アスタナにはそこだけでも7つぐらいのリンクがありますし、どのスケート教室も今や満員。スケートが好きな子供達ばっかりなんです。こうした発展を見るのは本当に嬉しいし、それに僕としては、もの凄く大勢の若い選手が僕の事を見ているんだという大きな責任感を、大会の時に真摯に感じるようになりました。だからこそ、僕はこのスポーツの中でただの一選手としてのみ存在するのではなく、カザフスタンのフィギュアスケート界のアンバサダーにもなっているのです。
  
Q:スケーターとしても人としても、あなたの一番の長所と短所は何だと思いますか?
A:難しいですね。これまで物凄く沢山の課題と向き合ってきましたし、特にここ2年間は怪我に悩まされてきました。こうした問題を抱えてしまうと、ちゃんと練習出来ない時もあったり、国際大会で思うように戦えなかったりもします。ですが、たとえ何が起ころうと、大事な大会の時にはどうやって冷静になればいいかはわかっていますし、僕はいつもそうしてきました、音楽学校に通っていた時も、学校に行っていても、スケートをしていても。それが僕の一番の長所かなと思います。
  
  
Q:あなたの未来には何が待ち受けているのでしょうか? このまま前進を続けて新プログラムに着手するのか、それともプロになるとか、もっとご自分のやりたいスケートの道を切り開いていくとか?
A:シーズンが終わった後次に何をするかを決めるのには、少し時間がかかりました。先程お話ししたように、この2年怪我に苦しんできたので。その意味では、今年は悪夢みたいでしたよ! 次から次に怪我をしたんです。オリンピックのほんの2週間前まで、足首の靭帯のひどい故障で殆ど歩けなかったんですよ。それがかなりストレスになっていました。その数週間前に靴も壊れたって言いましたっけ? あんなに辛抱強く僕に付き合ってくれたキャロル先生には、頭が下がる思いです! 五輪の後は、怪我を回復させる時間と、他の事をするための自分の時間を作りました。もうずっと多忙だったものですから。幾つかショーをやって、色んなメディアにも出て、以前成功に終わった僕自身のショーの再演も企画しました。ショーの後には、カザフスタンの若いスケーターとそのコーチのために5日間のセミナーも開きました。そういう素晴らしい仕事に携わる中で、また4年間競技を続けようという気持ちになれたんです。ご存知かもしれませんが、アルマティ(僕の地元ですね)は2022年の冬季オリンピックの立候補地の一つです。僕も招致委員会のアンバサダーで、いつかカザフスタンでオリンピックが開催される事を心から願っています。当然今回は大チャンスなわけですが、最近「もしこの国が勝ったら、2022年までスケートを続けようと検討しますか?」って皆さんに訊かれるようになって。どうなるでしょうねぇ。今のところは、2018年のピョンチャンを目標にしていますけれど。
  
  
Q:音楽学校に通われて、聖歌隊では2002年の韓国での世界合唱オリンピックで銀メダルも獲得されたのですよね。音楽はあなたの生活の中でどのくらい重要なものなのでしょうか、どんな音楽や歌をよく聴きますか?
A:母がプロのヴァイオリニストなんです。カザフ国立音楽院を出て、僕が生まれる前は世界中で演奏していたんですよ。それで子どもの時から、音楽は常に僕の成長の傍らにありました。音楽学校ではピアノを勉強していて、聖歌隊でも歌っていましたね。残念ながらモスクワに練習拠点を移す時に音楽学校は辞めてしまったので、5年生までしか通えませんでした。昔はソルフェージュ(訳注:実技ではなく、楽譜を中心にした基礎の勉強)が嫌いだったんですけど、今となっては凄く恋しいですね。ソチが終わって、また音楽の世界にのんびり、好きなように復帰する時間が持てたんです。僕の友人に、カザフスタンのとても有名な作曲家のRenat Gaissinという人がいまして。めちゃくちゃ才能のある人なんですよ! 実際彼が僕のショーの曲を作ってくれて。で、この夏に一緒に仕事をして、僕が作った曲を録音する事にまでなったんです。ちょっと個人的な作品なので、それを人に聴かせる事はないと思いますが、でも彼は「独創的だ」って評価してくれました。お蔭で将来音楽学校に復学しようという気持ちがまたちょっと強くなりました。
  
  
Q:何人もの最高のコーチや振付師と一緒に組んでこられましたよね――フランク・キャロル、タチアナ・タラソワ、ステファン・ランビエルにローリー・ニコルといった方々ですが。あなたがアーティストとして成長するのに、それぞれどんな役に立ってくれましたか?
A:こんなに多くの偉大なコーチ達につけたなんて、僕は本当に世界一果報者の選手です。沢山の事を教わりました。ロシアのエレーナ・ブイアノワとタチアナ・タラソワの下で練習したことで、僕はプロフェッショナルなスケーターになりました。素晴らしい時期を過ごしましたし、彼らが教えてくれた事すべてに本当に感謝しています。かけがえのない経験が出来ました。フランク・キャロル、ローリー・ニコル、ステファン・ランビエルと仕事をする事でも、スケーターとして成長しました。フランクは僕が今までの人生で会った中で、最も上品で博識な人です。ローリーは全スケートの振り付け界の中でも最高のプロですから、彼女ともう4年も続けて仕事させてもらっているというのは光栄な事です。ステファンに関しては、僕がいつも尊敬していたスケーターであり、この人は僕の知る限り一番天才的なスケーターだなと、初めて会った時に思った人。彼がやる事は、彼じゃない限り出来っこないんです。あの人、全部の三回��を左右両回りで跳べるんですよ。想像できます? 2012年からは、エキシビションのプログラムはみんなステファンに振り付けてもらっています。
  
  
Q:フィギュアスケートの大会を通してできた交友関係について聞かせてください。今まで会って、或いは一緒にやってみて、一番魅力的だったスケーターはどういった方々でしょう?
A:まずはステファンの話からになりますね。僕にとって彼はいちスケーターだけでもいち振付師だけでもなく、最高の友人でもあります。このスポーツに多大な業績を残した人物であるにも拘わらず、彼は依然として優しくて気楽な感じの人なんです。一緒にいて楽しいし、ステフと過ごした思い出は本当に、かけがえのないものです。カロリーナ・コストナーも同様に素晴らしい人で、友人です。シーズン中もずっと連絡を絶やさないし、いつでもお互いをサポートし合っています。まだまだご紹介ししたい人はいるんですが、そちらのウェブサイトのスペースが足りなくなってしまうと思うので!
  
  
Q:オールタイム・フェイバリット・スケーターを3人挙げるとしたら誰でしょうか、また何故でしょうか?
A:アレクセイ・ヤグディン・・・・・・伝説的なスケーターですからね。ずっと僕のアイドルだったんですけれど、サイコーの仲間でもあるんですよ。
ステファン・ランビエル・・・・・・先述の通り、最も天才的で優秀なスケーターだと思うからです。彼こそ真の芸術家です!
あとはヨナ・キムかな。なんとなく。
  
  
Q:もし無人島で遭難したとして、3つだけ何か持ち込めるとしたら、それは何でしょうか?
A:スケート靴じゃないのは確かですね。難しい質問だなぁ。多分太陽光発電機と、ナイフと・・・・・・友だち?
  
  
Q:あなたのひいひいおじいさんのミン・グンホさんは、朝鮮独立運動の時代の韓国の、独立運動家の将軍ですね。彼の話について何か聞かせてもらえませんか?
A:凄く感動的なんです。尤も、子どもの頃は、高祖父の存在すら知りませんでした。自分が韓国系だというのは当然知っていましたが、彼の話は2010年までは話題に出た事がなかったと思います。2010年の1月に、四大陸選手権が韓国の全州で���かれました。その1か月ぐらい前に、韓国のKBS局がミン・グンホとその子孫のドキュメンタリーを作っていて、然も僕のことも撮影したいって言ってきて。祖母が僕にちゃんとミン・グンホの話をする時が来た訳ですが、僕は凄く感銘を受けました! 自分の家系に本物のヒーローがいたなんて、信じられなかったんです! 四大陸の後、僕達はテレビ局のスタッフと原州に行き、山の上の広大な敷地という特別な場所にある彼の墓所を訪れました。それからその愛国心に敬意を表して市が1999年に建設した、記念碑も見に行きました。これに刺激されて、僕は世界史に興味を持つようになりました、とりわけ1900年代の韓国の戦いに。合衆国に移った時の事を憶えていますが、ファンの人達が英訳された彼にまつわる記事を送ってくれたお蔭で、僕は読書をして夜を過ごしたものでした。彼の部隊は国内で最も大規模で、屈指の闘志を持っていたのです。百回近い戦いにも勝利していて、中でも一番記憶に残る戦闘はチェチョン、Jucksan(訳注:日本語での読み方がわからない)、チャンホウォン、ヨジュ、それからホンチョン。「彼は高潔の士にして、公明正大の徒、配下より篤い尊敬を集めた。優れた統率力を備えた断固たる指揮官であり、故にこそ多くの信奉者を持つ」これはミン・グンホ将軍の記念碑に刻まれている言葉です。1962年、没後に韓国独立への貢献を認められて建国勲章の大韓民国章(これは大韓民国において民間人に授与される最高勲章です)が授与されました。歴史をよく理解するようになって初めて、僕の第二の祖国である韓国の為に彼が本当に為した事は何だったのか、またそれがいかに偉大で、賢明で勇敢な事であったかに気がつきました。まず最初に、僕は一度あるショーで、日本と書かれた鉢巻を貰ってつけていた事があるのを恥ずかしいとさえ思ったのですが、ただあの時は、先祖の事は知らなかったんです。でも高祖父の経歴をちゃんと知った時、心の中で「もし彼がこれを知ったらどうするんだ、僕に失望でもされたら?」と思いました。初めのうちは、多少苛立ちを感じていましたが、然しそれから、戦争はもう終わって事情は変わったのだと考えるようになって、でもそれからというもの僕は常に彼の事を考えてスケートをするようになりました。立派な子孫であろうと務め、僕を誇りに思ってもらいたいと思っています。
  
  Q:あなたについて殆どの人が知らない事を一つ教えて頂けますか?
A:大抵の人が僕のことをすごい真面目人間だと思っていますが、それはまず間違いでしょうね。完全に間違ってます。
  
  Q:氷の上で何よりも一番楽しいのはどんな事ですか?
A:変に聞こえるでしょうけれど、僕がスケートで楽しんでいる事はただ一つ、それも僕個人の気持ちとは関係のないものです。僕は皆さんに喜びを感じてもらうのが好きなんです。
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sarahofaugust · 10 years
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2014.2.16 EUROsport 五輪特集番組"Davai Sochi" 生出演より
お断り
以下はおおまかな翻訳です。訳者の語学力不足に加え、手元にある録画及び記録が不完全なものであり、また現在大会期間中ということで、デニスの意に沿った誠実な翻訳を心掛けるだけの体力がありません(苦笑)。その点をご理解頂いた上で、ご覧下さいませ。
   
  
  
  
  
※冒頭部分は録画に失敗したため、ほぼ記憶とメモ書きを頼りに簡単に紹介します。
・まず司会者(Ms.Sandy Heribert)からデニスとペーゼラ氏の紹介、挨拶、賛辞の言葉が述べられる
・司会者が "カザフスタンのフィギュアスケート史上初のオリンピックのメダルとなりました。母国にメダルを持ち帰ることになって、どんなお気持ちですか" といった質問をする。デニス "勿論、この四年に一度の大きな大会で、カザフスタン初のメダリストになれて、とても光栄です。母国の皆さんから非常に沢山のリアクションを頂きました。" "長年待ち望まれていたメダルです" "去年の世界選手権以来沢山のプレッシャーがかかっていましたが、メダルを獲れて皆さんに喜んでもらえたと思うので、僕もとても嬉しいです" "まだオリンピックのメダリストになったという実感はないのですが、でも同時に、メダルを国に持ち帰る事ができて凄く良かったと感じています" などと答える。
・司会者、"ペーゼラ氏は<デニスはa great comebackを果たした>と言っていましたよ" と紹介
・ペーゼラ氏 "個人的には、正直デニスがあそこから這い上がるなんて思ってなかったんだ、羽生、チャン、フェルナンデスらのトップ選手は大会開始以来調子が良かったし、自信も見せていたし、だけど(SPとFSの間で)全てがひっくり返り、ドラマティックな夜になった。" などと発言。以下に続きます。
  
  
(以下、司会者=S、デニス=D、グウェンダル・ペーゼラ氏=G)
G:リンクに出て行った時は、メダルを狙って滑るつもりだったの? 自分でもカムバックを期待してた?
D:いえ、やっぱり、自分を追い込みすぎないようにはしていたのですが、SP(訳注:SPの結果)は、当然自分のミスだったわけで、つまり、自分で自分にものすごいプレッシャーを作っちゃったんですよ! もちろん、パーフェクトに滑りたいって凄く思っていました。前日には、ランスルーでSPをノーミスで滑れていたので、だから当然僕は本番を凄く楽しみにしていたんです、「よし、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ」って。でもそれから、実際あの後(訳注:SPの後)は、落ち込んで、よく眠れなくって、ただ、ええ、翌日には頭が切り替わっていて、そしてそれがロングプログラムでは幸いしました、僕はフリーを心の赴くままに滑るつもりはなかったからです。僕は、何としても、力強いスケートを見せようとしていたのであって、そしてそれが――(ペーゼラ氏「そしてついにやった!」)功を奏したんだと思います、はい。
G:今言っていた通り、プレッシャーは凄くあったわけだよね。SPではプレッシャーを自分にかけてしまったということだけれど、でもあの夜(訳注:FS)――数々のドラマがあったとすれば、それはあの場所にまさにプレッシャーが存在したということになる。それは一体どこから来るんだろう? 最初からそう感じてた? エヴゲニー・プルシェンコが棄権したせいだろうか? 氷のせいとか? 氷が凄くやわらかいって言ってた人もいるけど。君はあの大一番の夜にはどう感じていた?
D:それがオリンピックです、いつどんな事が起こってもおかしくはありません。そうですね、僕にはわかりませんが、全部が連鎖して起こったのかも知れませんよね。そう、難しいところですね、僕もSPの直後は「ああ、きっと氷のせいだ」なんて思って、でもそのあと「いや待てよ、そういうことじゃないよな!」って(笑)。まぁ、僕はプレッシャーっていうのは、自分自身とか、応援してくれる人達からくるんだと思います。僕も沢山のメッセージを貰いましたし、みんなが僕の幸運を祈り、その全員がメダルを期待していて、僕としては「いや、今フィギュアスケートのレベルはものすごく高いし、メダル候補といえる力を持っている人も15人ぐらいいるんだけどなぁ」って感じで。SPが終わっても、僕らはみんなかなり接戦で、ですから僕も9位ではありましたけれども、それは大した問題じゃないなと思っていました、3位とは2点か3点しか違わなかったので――
G:そう、ひしめきあってたよね。
D:はい。それも幸いしたと思います。
S:母国でのリアクションについて触れられましたよね。いつ帰国されるんでしょうか、それに帰ったらどんな風になると思いますか?
D:いやあ、どうなんでしょう、皆さん僕をTVや沢山の写真で見てくれたんじゃないかと――見てくれたと聞いています。皆僕の勝利を祝って下さっていますし、それにジョークが一つあって、あれは2月14日のセント・ヴァレンティンズ・デイの日だったから、誰かが……
S:「ヴァレンタインズ・デイ」ね?(笑)
D:ごめんなさい、ヴァレンタインズ・デイ、で誰かが我々はこれをセント…(噛む)セント・テンデイと呼ぼうじゃないか、って。
G:「セント・テンデイ」!(笑)
D:「セント・テンデイ」(笑)。可笑しかったです。勿論すごく嬉しいことでした――
G:君はもうヒーローだもの。
D:ええ、今日も首相とお話ししたばかりで、お電話を頂いたんですけれど、大変光栄でした。国の大統領からもお手紙を頂いて、もちろんこの上ない名誉でした! それ以外でも、市長など、もちろん、本当に沢山のサポーターたちがカザフスタンから来てくれています。ソチはそこまで遠くないおかげで、僕は観客の方々から、実際に、声援を受け取る事が出来ました。皆さんずっと懸命に応援し続けて下さって、あれもロシア人だと思われてるかもしれないけど、実はカザフスタンから大勢の方がやって来ていたんです。国旗も沢山目に入ってきて、素晴らしかったです。
G:みんな君のために来てくれたんだね。
D:これがまさにバンクーバーの時とは全く違う点だと思いますね、お蔭で素晴らしい経験となりましたし、この試合で3位になれた事がすごく幸せです。
G:ところでインタヴューの前に話してたんだけど、まだ調子を保たないといけないよね、オリンピックの大きなガーラがあるし、その後は今シーズンの世界選手権もあるわけだから。さて世界選手権には何を望みますか? 今までと違った準備をするのか、それとも……
D:ええと、正直に言いますと、僕の今シーズンは本当に苦難の日々だったんです、幾つも怪我をしてて、もはや笑い話です。全部話したらとても長くなって、時間が足りなくなっちゃうと思いますよ。だって次から次に怪我をして、それから靴も壊れて、ああもう靴まで壊れて、それで靴を変えなきゃならなくなって、それで今は、今回もそうなんですが、違うペア(訳注=対、取り合わせ)の靴を履いてるんです。つまり、ペアも違えば、それぞれ素材も違うわけです。ですので全く――
G:銅メダルを獲れた事が嘘みたいだね!
D:ええ、ここまで来るのに障害やチャレンジが沢山ありましたし、だからこそ、僕はメダルの事は本気で考えてなかったんですから。僕はとにかく、そう、とにかく出て行って、そして全力を出す事だけを望んでいました。みんなにメダルについて訊かれたりすると、それがまた……ストレスにもなりました。それで……
G:君もう本が書けるよ(笑)。
D:Ahhhh!(笑)
S:今はゆっくり過ごせるかと思いますが、会場から戻られたばかりなんですよね、グウェンダルと一緒にSP(訳注:アイスダンスの)を観戦されていましたから。今日のカップルたちの演技は如何でしたか?
D:えーと……とても面白かったです。ただ……ちょっとだけ落ち着かない感じでした、今日は自分が試合に出なくていいので(笑)。でも――
S:お休みですもの!(笑)
D:そう、勿論凄かったです。というのも、アイスダンスはとても面白いですし、優れたカップルがいっぱいいます。グウェンダルにも言ったのですが、凄く熾烈な試合でした、何せ、誰もがメダルを狙って戦ってるんですから。ただ、僕にはたまにわからないエレメンツがありますね、僕もこのスポーツを理解しようとしたり、彼らが氷の上で何をしているのか理解しようとしなくちゃならないような。僕からすれば、どの選手も本当に、それはもう、凄かったです。
S:グウェンダル、あなたのお立場からご意見を伺えますか?
G:デニスの言う通り、すさまじい試合で、そしてとても、とても素敵なスケートを見せてもらいました。思うに男子の試合は激戦、ペアの試合は完璧、そしてアイスダンスも、今のところ完璧な試合を進んでいると思う。氷は多分結構やわらかめだと思うんだけど、それはアイスダンサー達にとっては良いことなんです。そして、予想通り、今夜はアメリカのメリル・デイヴィスとチャーリー・ホワイトが安定したダンスでカナダのテッサ・ヴァーチューとスコットモイアに2点差をつけて首位に立った。どちらも本当に申し分のないスケートをして、本当に、本当に素敵でした。
S:あなたもそう思いますか?
D:ええ素晴らしかったです!彼らが大好きです、大好きです。
G:また、新たな、イタリア・カナダ・ロシア・フランス勢の戦い、最終的にはロシアとフランスになっていますが、こちらも起こっています。3位になったのはエレーナ・イリニフとニキータ・カツァラポフで、彼らは団体戦から参加していますがフリーのみでしたので、我々は彼らのSPをまだ見ていませんでした。ナタリー・ペシャラとファビアン・ブルザはSPをきちんと滑り、4位につけました。彼らはロシアの2組に挟まれていますね、ロシア勢の2番目・ボブロワとソロビエフ、実際団体戦では彼らに負けていますが、今夜は彼らに2点差をつけました。銅メダル争いは確実に大・大激戦となるでしょう。金・銀に関しては、今のところ特に心配はありません。
S:なるほど、素晴らしい試合が期待されますね!今夜はスタジオにお越し頂き、どうも有り難うございました、改めておめでとうございます。
D:有り難うございます。
S:あなたはお国とファンの皆さんの誇りだと思います。
D:どうも有り難うございます。
S:どうも有り難うございました。
G:お疲れさま。
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sarahofaugust · 10 years
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sk-sport 2013.12月初旬頃の記事より(抄訳)
お断り
当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
また、諸事情により、今回は一部を抜粋しての翻訳です。訳しづらい項目に加え、他の記事で既出の質問及び回答、本人が回答していない質問など、態々翻訳する必要があまりなさそうな部分は独断で割愛させて頂いております。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
  
  
  
   
  
  
  
カザフスタンのベストスケーター、デニス・テンとのオンライン・カンファレンス
  
  
Q. 今度のソチオリンピックでの目標は何ですか? 健闘を祈っています!(from ダイアナさん)
A. ありがとうダイアナ。僕には主に――プログラムに相応しいスケートをすることが目標です。
Q. デニス、あなたはとても忙しい人でしょう? ちゃんと私生活の時間はあるのですか? 彼女はいるの?
A. アスリートは誰しも忙しいものだと思いますが、それでも家族をあまり犠牲にしないでキャリアを続けたいですね(訳注:この訳はかなり怪しい)。私生活については公表したくありません。内緒にさせて下さい。:)
Q. こんにちは、デニス! つい最近怪我をした話を読みました。それはどのようにして起きたのでしょうか、また現在は健康状態はどうですか?
A. ひどい話でした。悲しいかな、プロのスポーツの世界では怪我はつきもので、ハイレベルのアスリートなら誰もが通らざるを得ない道です。今現在は、コンディションはかなり良くなって、練習も出来るし試合にも出られます。
Q. GPSの中国杯について教えて下さい、当初予定されていた要素を全部は行ってはいませんでしたが、あれは怪我のせいでしょうか?
A. ええ、要素の変更は――フィギュアスケートではよくあることです。
  
Q. ご自身とコーチのフランク・キャロルは、中国での演技をどう評価していますか?
A. 全て予定通りです。中国のGPへの参加は、本当にぎりぎりになって決めたものでしたから。僕達の目標は、まずこの重要な初戦でプログラムを見せること、それからスペ���ャリストに批評してもらうこと。この大会での最大の成果は、新プログラムがジャッジとファンの皆さんから好評を得たことですね。
Q. 11月、12月、1月の予定は? オリンピックの前に試合には出ますか?
A. 最近イタリアとオーストリアでISUのトーナメントに出ました。次は、12月10日~15日に開催されるユニヴァーシアード2013です。
Q. アメリカで練習する際には、一人でやっているんでしょうか、それともお母さまが一緒に住んで生活を支えてくれているのですか?
A. 状況によりけりですね。僕の「お世話」は、コーチングスタッフ、僕のチームがしてくれます。
Q. もしオリンピックで、プログラムを予定通りに、難しいエレメンツを全てミスなくこなしたとして、現実的にそれでオリンピックのメダルは獲れるでしょうか?
A. それについては僕には何とも答えかねますね、僕はジャッジではないので。僕の課題はプログラムを立派に滑ること、あとは時がたてば自ずとわかるでしょう。
Q. どういう経緯でアメリカ人のコーチにつく事になったのですか? あちらから話を持ち掛けてきたのでしょうか、それともあなたが「志願」したのでしょうか?
A. 僕の先生は――フランク・キャロルといいます。フィギュアスケート界で世界的に高名な方です。彼に育てられた名選手は世界中に綺羅、星のごとく存在し、世界フィギュアスケート殿堂入り、Professional Skaters Association(訳注:アメリカのプロスケーター協会、略称はPSA)名誉会員、その他栄えあるOlympic Coach of the Yearなど多数のさまざまな賞を受賞している人です。フランクとは2010年から一緒に練習しています。プロの世界では、自分から頼む事はありません。双方が提携に興味を持てば、正式に交渉が進められます。
Q. オリンピックまでに治療は間に合い、最大限の力で臨めそうでしょうか? 中国杯では、渾身の演技ではなかったように見えましたが。
A. 中国のGPは、僕の今シーズンの初戦ですから。怪我に加えて、適切な練習が出来ていなかった事も考慮に入れる必要があります。どんなスポーツでも、シーズンを通して合理的に調子を上げていく事が肝心です。中国杯の後に2試合戦って、毎回はっきりと進歩しているので、今のところ全て予定通りに運んでいます。
Q. これは日本のファン達からの質問です。新プログラム、素晴らしかったです! 音楽はどうやって見つけたのでしょうか? また、なぜそれを選んだのでしょうか。 それから、ショーで見せてくれたカザフスタンの伝統音楽のプログラムも好きなのですが、またあのプログラムを滑る予定はありませんか?(from エリさん)
A. エリと日本のファンの皆さん、有り難う。SPは僕の発案です。FSの曲を探すのには時間が掛かりました。僕のチームの探しているものが見つかるまで、毎日6時間ぐらいずっとスタジオに籠ってました。実をいうと、最初はローリー・ニコルと、僕の好きな作曲家の一人の曲で全然違うプログラムを作ろうとしてたんですよ。でも後から違うアイデアが浮かんだんです、のちに今のFSのプログラムになるものがね:)。カザフ音楽のプログラムに興味を持ってもらえて光栄です。この演出はカザフスタンでのアイスショーの為に用意したものでしたけれど、とても嬉しいことに、近いうちにまたこれをエキシビションで披露出来そうです。
Q. どのジャンプを跳ぶのが好きですか? あと、日頃はどんなものからインスパイアされますか?
A. 変に聞こえるかも知れませんが、上手くいったジャンプはみんな好きです。インスピレーションについては、成功した人から刺激を受けますね。だから、僕は伝記を��むのが好きなんです。
Q. デニス、もしプロのアスリートになっていなかったら、どんな職業を選んでいたと思いますか? キャリアを終えた後のプランはある?
A. 子供の頃は音楽を真剣に学んでいたので、もしフィギュアスケートじゃなかったら、そのまま音楽の世界にいたでしょう。将来に関しては、色んなアイデアはありますが、そのどれが実行されるかは、ともかく見ていてもらうしかありませんね。
Q. あなたのスケーティングの基礎は、CSKAで身に着いたものだということになるのでしょうか。ロシアの子供のスクールとアメリカのそれとでは、何が違うと思いますか? エレーナ・ボドレゾワとタチアナ・タラソワとはどんな思い出がありますか?
A. 僕は、フィギュアスケートに関してスタンダードな概念というものは持っていません。ロシアで教わったものもあれば、アメリカやヨーロッパで教わったものもありますよ。僕はエレーナ・ゲールマノヴナとタチアナ・アナトーリエヴナのもとで育ち、そしてフランク・キャロル、ローリー・ニコル、ステファン・ランビエルやその他色んな人のもとでも成長を続けています。スポーツって元々国際的なものだと思うんです。ロシアとアメリカ(或いはヨーロッパ、アジア)のスクールの違いは、国にではなく、そのスポーツの専門家個人のヴィジョンそのものにあります。どのコーチもフィギュアスケートに対する独自の考えを持っていて、独自のテクニック、芸術性も持っています。それが、それぞれのスケーターの違いを生み、僕らを別個のものにするのです。 CSKAのことは今も思い出します。沢山の事を教わり、鍛えてもらった素晴らしい学校でした。エレーナ・ゲールマノヴナとタチアナ・アナトーリエヴナには凄くお世話になったので、非常に感謝しています。僕らは今でも良い関係にあり、タチアナ・アナトーリエヴナとは時々メールしていますよ。
Q. デニス、長いことあなたのキャリアを見てきました。あなたの栄光と成功を信じています! この間のGPでは、プログラムにビールマンが入っていませんでしたね。プルシェンコとあなたこそがやっていたあのユニークなスピンは、もう見られないのでしょうか?
A. 今でもビールマンは練習していて、エキシビションでは定期的にやっています。競技用プログラムに入れない事にしたのは、全てのスピンでレベル4をとる為です。ISUのルールに従えば、最高難度を得るには、レベル4のスピンは一定のポジションをとらなければなりません。僕のコーチは――こういうことには本当に熟練ですからね! 今年選んだポジションは――ビールマンではありませんでしたが、でもそのうちまた、レパートリーにこのアイテムを戻せるといいなと思っています。:)
Q. デニス、こんにちは! * 今後3ヶ月の予定は何ですか、1月末の四大陸選手権だけでしょうか? * お正月は何処で祝う予定ですか? * カザフスタン以外ではどの街が好きですか? * カロリーナ・コストナーとは何語で会話するんでしょうか、英語、それともロシア語? * ショスタコーヴィチを選んだ時は、88年のブライアン・オーサーとボルト(訳注:曲名)の事も話題に上ったの? * 姪御さんにあげていたあのお人形は何でしょうか、インスタグラムの写真の事ですけれど。 * 休憩時間(訳注:「休日」かも)は何をして過ごすのでしょうか、フィギュアスケートからは離れるのか、それともお友達とスケートのことを話すの?
A. * 近々の予定では、トレントのユニヴァーシアードに参加します。 * お正月は家族のための祝日だと思いますし、だから伝統的に家で大好きな人達と祝うものですよね。でも今年はオリンピックシーズンなので、おそらくその伝統を変えなければならないでしょうし、バンクーバーオリンピックの前も、トレーニングキャンプでこの祝日をお祝いしていました。 * びっくりされるかも知れないけど、そこに大切な人がいるなら、僕は世界中のどの街も大好きです。 * カロリーナは5カ国語を喋れるのですが、残念ながらロシア語はわかりません。会話は英語で、時々は僕もイタリア語を覚えようとしてみたりしています。 * ブライアン・オーサーがドミトリー・ショスタコーヴィチの曲で滑っていた事は知らなかったんです。プログラムを作ってから、彼の演技の一部を見ました。僕達は同じ作曲家の音楽を使っているものの、ポイントはバレエの『お嬢さんとならず者』が、『ボルト』『黄金時代』『明るい小川』などを含むD.ショスタコーヴィチの有名な作品の集まりであるという点ですね。僕はブライアンとは違うキャラクター、違うプログラムの筋書きを演じているわけです。 * 姪には世界中から届いた物凄く沢山の贈り物をプレゼントしました。どの人形の話かはよくわからないけれど、きっと何か彼女と一緒に写っていたもののことかな。:) * 友人達にはあまり会えませんが、会えばいつも色んな話をします。たまにはスケートの事も話しますよ。
Q. * カザフスタンにはどのくらい帰っているのですか? * 好きな人はいるの? 気になる女の子は?
A. 思うようには、そうしょっちゅう帰れません。帰国するのはだいたい年に2回とコーチに決められています。 女の子については、僕達は世界で最も美しい人達に囲まれているのだということを指摘しておきたいですね! これは僕じゃなくて外国人の友達の意見なんですが。曰く、僕の国にいたらすぐに恋に落ちて我を忘れてしまうこと必至なので、だからコーチは僕を長いこと帰らせないんだよって。:)
Q. デニス、スポーツの他にも趣味はありますか? サッカーとか、ホッケー、バレーボールなんかはどう? それから、もし秘密でなければ、どこのスケート靴を使っているの?
A. チェスボクシングとスキューバ・リーディングにはまっています。嘘です。時間が足りないですね! 読書と、写真を撮ることと勉強が好きなのですが。スケート靴は「GRAF」と「Edea」を使っています。
Q. 子供の頃音楽学校に通っていたというのは本当ですか? 何の楽器を弾いていたの? コーラスの学校にも行っていたの?
A. ピアノを弾いていて、少年合唱団 "Isker"でも歌っていました。音楽学校の初等科だったのに、大人のコーラスに誘われたんですよ。2002年には、僕達のチームは釜山の世界合唱オリンピックに行きました。そして銀メダルをとって、僕はオリンピックの最年少出場者になったんです(9歳)。
Q. デニス、シングルスケーターじゃなくてペアになる気はありませんか?(笑)
A. シングルとペアは、実際には2つの違うスポーツですね。譬えるなら、数学の代数と幾何みたいなものです。基本は同じだけれど、ルールも、エレメンツも、スケーティングテクニックのニュアンスも全く違う。それでも、僕も何か新しいことに挑戦してみたいとは思っているんです。もしかしたら、いつかアイスダンスで勉強し直すかも。
Q. プログラムの曲はどうやって選んだのですか? また、どんな音楽を聴くのが好きですか?
A. この作業は非常に面白いものです。音楽を選び、プログラムを作るっていうのがね。まず、僕達は進むべき方向性を決めて、次に音楽を聴きます。僕の音楽編集者はカナダにいて、彼女のスタジオで何時間も過ごします……僕とコーチ達の気に入るものが見つかるまで。通常は予めアイデアを持って臨みますが、然し予想外の状況になることもあります。「なんでスケート選手はラジオで流れてるような曲を使わないの?」って訊かれる事も多いんですよ。実は僕達のスポーツには明確な決まりがあって、音楽の選曲に関してもルールがあるんです。例えば、競技では歌詞の入った音楽は使えないし、プログラムの長さも4分40秒を超えてはならないし、他にもいろいろ。ですから、選曲というのは何日も掛かる骨の折れる作業ですね。 音楽の好みですが、これについては僕はとてもフレキシブルなんです。僕は音楽学校で、あらゆる音楽を好きでいれば、あらゆる音楽に出会えるという事を教わったので。クラシックからハードロックまで、何でも。
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sarahofaugust · 10 years
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DOPPIO AXEL 2013 Summer(第38号)より Part 2
お断り
当記事は、イタリア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、また個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
 
      (訳注:以下、インタヴュアー=イ、デニス=デ)
イ:シーズン序盤は、その時点で既にプログラムは傑出していたにも拘わらず、コンポーネンツはどちらかというと低いスコアを付けられていましたよね。然し世界選手権では、ジャッジはそれをぐんと引き上げました。これについてはどのように理解されていますか?
デ:この2つのプログラムを作った当初を思い出すと、僕達は、何故SPもFSも同じ『アーティスト』のサウンドトラックから音楽を選んだのか、皆さんにわかってもらえないんじゃないかと心配していました。同じように、この(訳注:プログラムの)新しい面に対するジャッジの反応はどうだろう、特にこのコンセプトは正当だと理解してもらえるだろうか、と悩んでいました。僕はジャッジではありませんし、ですから意見を述べるのは難しいですが、ただ全シーズンを通して、どちらのプログラムも僕は地道に滑ってきました。上手く演技出来たのは世界選手権だけだったものの、だからこそ評価がはっきりと上がったんだと思います、ロンドンでは僕のスピードは以前と同じではありませんでしたから。お客さんとつながることで手にするエネルギーも全く違っていました、僕は凄くのびのび出来ましたし、お客さんは温かく僕を迎えてくれ、大きな活力を与えてくれました。あんなにサポートしてもらえるなんて予想していなかったです。スケーターは時に、試合が終わった時、その評価として感動的な瞬間を与えてもらえます。僕にはこれまでそういう事はありませんでした、ここまでの評価をしてもらえるなんて想像も出来なかったから、自分が受けたスタンディングオヴェーションにびっくりしました。きっと同じようなわけで、ジャッジも高評価���してくれたのでしょう。(訳注:この一文には特に自信がありません。もしかしたら正反対の内容で、「ジャッジには観客と同じような方法では評価は出来ない(=お客さんが一番の評価をくれた)」、という意味かも。)
    
イ:今年はポストオリンピックチャンピオンとしてのオリンピックシーズンが始まったわけですが、これはあなたにとってどんな意味を持ちますか?(訳注:この項も全体的に自信がありません。ご注意を。)
デ:まず、いまだ嘗てない特殊な責任を感じています、2位に入った事は間違いなく名誉なわけですから。母国では、僕が世界で2位になったのを皆が見ていて、今や誰もがオリンピックでのメダルを、それも出来れば金をと、期待しています。(訳注:オリンピックの)試合はきっと素晴らしいものになるでしょうが、あくまでもオリンピックの中の競技の一つですよね。表彰台で今の地位を守るためには、今以上にハードに練習する事が必要だと思います。でも、その事自体は一番の重要課題じゃない。基本的に僕が注視しているのは、どうやったら安定性を手に入れられるかということと、どうやったら上手くスケート出来るかということ、何故なら上手いスケートをすることだけが、高い評価を得る唯一の方法ですから。去年僕は改良を行ったわけですが、然しこれ以上の改良の余地を探すのは、正直難しいと思うんです。今季は過去の年と比べてより増したものをお見せしましたけれど、だから来季は、今まで見せたことのない、何か新しいものを見せたいですね。今現在は、もっと練習したくて仕方がないです。実は今までのキャリアでヴァカンスを取ったことって殆どないんですよ、どこかに旅行して休息したりっていうのは。そんなだから、大勢の人が僕に休みを取るようアドヴァイスをくれます、僕が怪我をしないようにと。でも彼らの計画(訳注:デニスを休ませる計画)は上手くいかないんです、僕が休んでる暇なんかない、まだまだ進化出来るんだから練習しなくちゃ、って思っているから。フランクはやっと責任と務めを果たせて、見るからに嬉しそうで満足そうにしていましたが、僕は、今年ワールドで2位になれてもそれは来年もまたそうなれるという訳ではないという事を忘れないようにしています。6位になるか5位になるか、はたまた1位か、それは誰にもわかりませんからね。フランクも過去のチャンピオンの例を幾つか話して聞かせてくれました。だから大丈夫です、頑張らなきゃって気持ちばっかりじゃなくて、ちょっと楽しみにもしていますし。僕は地に足がついていますよ!
    
イ:5月の24日と25日に、カザフスタンであなたを祝って2つのショーが開かれましたね、どんなお気持ちでしたか?
デ:企画してもらえて本当に幸せでした、世界各国で沢山行われている名だたるショーにも引けをとらないと感じました。参加したアスリート達が皆一つの大きな家族のような雰囲気で、あの2週間は、リンクの上でもオフアイスでも素晴らしい思い出が出来ました。実際には、ショーの時にスケーターがオフアイスでも皆一緒にいるって、そんなにない事なんですよ。特に思い出深かったのは、群舞で皆揃ってカザフの民族衣装を着て演技をした事です。実に特殊な光景でしたね、何せ、あなた方のお国のカロリーナ・コストナーや、他にもドイツ、フランス、スイス出身の人達が、皆その衣装に身を包んでいるのですから。このプログラムはお客さん達の琴線に触れることが出来ました。僕達がやっているフィギュアスケートは、まだ完全にポピュラーではありませんが、然し情熱に溢れたスポーツです。僕はフィギュアスケートは「発展する」と確信しました(訳注:この辺りは全てカザフスタンに於いての話だろう)。その上で、ソヴィエト時代からの伝統的なスケートも忘れてはなりませんね。アルマティのショーの方は満席で、嬉しいことに来年も、場所は一箇所になると思いますが、再演する予定です。
    
イ:来シーズンへのプランは?
デ:僕達は最初、プログラムを変更する価値はあるか、それとも昨シーズンのものを継続しようか悩んでいました。ワールドでの結果には、実際僕らはちょっと慌てさせられたんです。結局は変更案の方が勝りましたが、それは一方では、前のプログラムは非常に輝かしいものでしたから、それを捨てるという苦渋の決断をする事と同じでした。フランクは新しいアイデアならいっぱいあるよって言っていました。僕も元々は毎年プログラムを変える方が好きなんです。ローリー・ニコル、僕の振付師は、ふざけて僕の前のプログラムのテーマになぞらえて、まさにこの状況は、どうにかして落ちぶれまいと試行錯誤する本当のアーティストみたいねって言ってました。新シーズンの準備のためだけに、本来夏に予定されていたショーも全て断念しました。だからこうして6月からアメリカにいるんです。もうすぐカリフォルニアのエル・セグンドに戻るんですよ。そこは最高の環境で、以前はリンクが2つだったんですけど、今は3つあるんです。同じ施設でバスケットのロサンジェルスレイカーズとホッケーのロサンジェルスキングスも練習しています。しかもそこは実質エヴァン・ライサチェクのホームでもあって、エントランスには今も彼の写真が飾ってあるんですよ。トレーニングするには一流の場所ですし、きっとオリンピックを迎えるにあたってコンディションも良くなるだろうと思います。
  
  
イ:新プログラムに関するアイデアは?
デ:7月までには全部のプログラムを完成させたいですね。今のところカザフ音楽を使ったエキシビションナンバーがあります、日本で好評だったんですよ、音楽が面白いし独特だ、って。以前から競技用のプログラムを母国の音楽で作りたいと思っていたのですが、このエキシビションは人気があったので、恐らくこれを続けると思います。肝心なのは、でも、競技用の新プログラムがちゃんと洗練されている事ですよね。それは見てのお楽しみで!
  
  
イ:どの大会に出る予定ですか?
デ:グランプリ前に試合に出るかどうかはわかりません。通常だとネーベルホルン杯でシーズンをスタートするんですが、でも今年は、オリンピックの出場資格を懸けて大勢が参加するから大騒ぎになるでしょうし、僕は寧ろ平静でいたいんです。今はただ自分のグランプリ2戦をどうやってベストに戦うかを考えていて、そこでもし100%の力を出せていれば、ひょっとしたらユニヴァーシアードに出場するかも知れません、2017年の開催地はアルマティなので、母国にとってはとても重要な大会なんです。とはいえ、殆どはシーズンの成り行き次第で決めることになりますね。大事なのはオリンピックにピークを持っていく事ですから。(了)
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sarahofaugust · 10 years
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DOPPIO AXEL 2013 Summer(第38号)より Part 1
お断り
当記事は、イタリア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、また個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
  
  
 
デニス・テン 戦士の精神
  
(訳注:序文は省略。以下、インタヴュアー=イ、デニス=デ)
  
  
イ:デニス、世界選手権では、いつメダルが獲れたとわかったのですか?
デ:まず、多くの人達が、僕が演技の終わりに大喜びしているのを見て、僕がメダルを獲れたから喜んでいると思ったみたいですが、実際は僕はただただ自分が上手く出来たことが嬉しかっただけで、その時は何位になれたかなんて意識していなかったんです。なんだか馬鹿みたいな話ですけれど、キス&クライでVTRを見て初めて、自分の(訳注:演技後の)振る舞いに自分で驚いたんですよ(笑)。まぁ尤も、リンクを出てフランク・キャロルに最初に訊いたのは、「フランク、僕表彰台に残れると思う?」という質問でした。でもフランクも、同じく、まだ僕の演技に興奮していたので、「どうかな、まぁ今にわかるよ」としか答えられませんでした。その後スコアを見て、僕は他の選手の演技は知りませんでしたが、それでも170点以上あれば絶対3位以内に入るなと思いました。SPで91点を持っていましたから、仮に表彰台を逃したとしても、最低でも4位だろうと。そしてスクリーンに2位って表示が出たのを見た時は、ものすごく嬉しかったです。
  
  
イ:では今は、あれからちょっと時間が経ってみて、あなたにとってこの成功がどんな意味を持つようになりましたか?
デ:この世界選手権の日々でまず真っ先に思い出すのは、よく眠れなかったことですね。SPの後は、一方では非常に興奮していましたが、同時にすごくFSのことに集中していました。その両方が、僕を本来必要不可欠である眠りから遠ざけてしまったのです。それでも、次の日は良い練習が出来ました。そしてFSの前日も同様で(訳注:SPとFSは中一日を挟んでいた)、集中し過ぎて眠れなかった。にも拘わらず、素晴らしい滑りが出来ました。自国に対しても大変喜ばしく思っています。自分と、自分の国に対して幸せな気持ちです、カザフスタンでは、僕のメダルをあらゆるニュースメディア、テレビ、インターネットで祝ってくれているんですよ。カザフスタンフィギュアスケート史上初のメダリストになれて、とても嬉しいです。この世界選手権の前までは、僕の経歴にはフィギュアスケート史におけるささやかな記録があるだけでしたが、でも今はその正反対で、まさに、今まで僕が夢見ていた通りのものになったんです。
  
  
イ:表彰台に立った時は、どんなお気持ちでしたか。
デ:凄く驚いていました。あの時はまだ、自分が何をしたのか、本当の実感は湧いていなくて。何かを長いこと夢見てきて��そしてそれが現実に起こった時の気持ちって、手には負えないものなんですね。酷いシーズンのスタートを切った時の僕には、まさかこんな風に終われるなんて考えられなかった事でしょう。確かなのは、既に3度の世界王者であるパトリック、それにヨーロッパ選手権でそれは見事に優勝したばかりのハヴィエルと寄り添って表彰台に立てたのが、とても幸せだったということですね。
  
  
イ:大勢の人が、パトリック・チャンはフリーで多くのミスをした為、あなたが金メダルであるべきだと思っています。それについてはどう思われますか?
デ:そういう論調は沢山見かけましたが、僕は、パトリックと僕のスケートを比較する事が正当だとは思っていません。パトリックは非常に経験豊富で、僕よりも年上ですし、既にあの時には世界選手権を2連覇中でした。パトリックのコンポーネンツの評価が全てフィギュアスケートのスタンダードよりも上である事には疑問の余地がありませんしね、彼のスケーティング、特にその滑らかさは、世界でも類を見ませんから。僕も今年は、見直せる限りの凄く沢山の改良をして来ました。芸術的なレべルでは、高いクォリティを出せるようになったと感じています。僕たちは、プログラムや振り付けの細部を、非常にハードに練習して来ました。だからこそ、ジャッジに僕の努力を高く評価してもらえた事が、とても嬉しかったんです。最初はチャンと張り合うつもりなど全くなかったんですよ。SPが終わって2位になった時は、僕はただこの位置に留まれるだろうかと心配しただけで、パトリックを追い越そうなんて考えませんでした、だってパトリックはあのパトリックですよ、偉大なチャンピオンの。それで(訳注:FSを終えて)スコアを見て、あとたった1点獲れていれば彼に勝てたのだとわかった時も、悔しいとは思わず、「ただそれだけのこと」と思っただけでした。
  
  
イ:一方、フリーでは優勝して……。
デ:ええ、予期していなかった事でした。実はフランクとテーブルに着いてPDFを確認するまで、フリーで勝った事は知らなかったんですよ。そういうわけで、メダル授与式の時(訳注:スモールメダルの)に、思いがけず表彰台の真ん中に立つ事になったんです、この途方もないレベルの大会で。信じられません!
  
  
イ:このメダルから得た教訓はありますか? 精神面で苦労したと仰っていましたが、然し上手く緊張を抑えたままでいられたわけですよね。
デ:ふつう、ダメな試合の後って精神的に浮上するのは難しいんです、前回の記憶を追いやらないといけないので。一回敗けたからといって、それは単なる一つの結果でしかないのですが、でも敗けてしまったらもう、あとは家に帰ってまた練習して、敗けた事を理解して消化する、それ以外に出来る事は何もないですからね。これは楽な事じゃありません、だって「落とし穴」に落ちて、然もなんで落ちたのかもわからなかったら、そこから這い上がる気力を起こすのは大変でしょう。その意味では、僕は相当経験を積みましたよ(笑)。
  
  
イ:かなり不本意のように思われたシーズンの後で、どうやってその「落とし穴」から抜け出し、世界選手権に漕ぎつけたのでしょうか。
デ:四大陸選手権の後は自分の結果にとても惨めな思いで、家に帰った最初の日は最低の気分でした、落ち込んでしまったので。フランクはそれでも今度もとても前向きでいてくれて、そのお蔭で僕は常に励まされ、大いに救われたのです。世界選手権に向けてトレーニングを開始した時には、僕はこれが今シーズン最後の試合であること、だから自分の出来る限りのベストを見せなければならないということを、しっかり意識していました。ある意味で情けないことに、僕のプログラムには素晴らしいアイデアが入っているのに、これまでちっともそのポテンシャル(訳注:プログラムの)を証明出来ていませんでした。つまり、プログラムを作った時の僕の願いは、観客に僕の感情を伝えること、このプログラムの根本である振り付けを味わってもらうことだったというのに。この事があったから、僕はトレーニングの仕方を変えました。ダイエットに関しても変えました、より上質なエネルギー源を得る為に、違ったものを食べるようになりましたし、トレーニングのスケジュールによっては、摂取する栄養を調整しました。氷の上での練習時間も増やして、当初はフランクもレイク・アロウヘッドに来て、僕も彼についてパームスプリングスに行ったりしていましたが、そのうち僕は殆どレイク・アロウヘッドで練習するようになって。フランクは個人的な事情で、毎日僕を見る事は出来なくなったんですけれど、だから、かなりの時間、僕は一人で練習してたんです、夜までリンクに残って、自分に課した練習が出来るように、それからプログラムを完成させられるように、少なくとも毎日4時間はやりました。時々エヴァン・ライサチェクとも一緒に練習しました、彼はずっと僕のお手本なのですが、その理由の一つが、彼は凄く熱心で6時間から8時間も練習したりするからなんです。僕も同じくらいやってみせた! それから練習内容も強化して、全体的な体づくりにも更に励んだところ、違いが目に見えてきました。練習はきつかったけど、でもこんなにトレーニングしたのは初めてでした! 僕は自分の中に祖先の持つ戦士の精神を見ましたね、僕は何よりも自分自身と自分の中の恐怖と戦い、そしてついに勝ったんです。
  
  
イ:その厳しいフィジカルトレーニング(訳注:その内容、メニューなど)は、誰によるものですか? 自分一人で考えたのでしょうか、それとも誰かに教わって?
デ:一人で考えました。自分に本当に必要なことに照準を定めて、プランのアウトラインを考えて。昔、スイスで非常に優秀なトレーナーさんと知り合う機会があって、ものすごく沢山の事を教わったんです。自分でも記録しておいたし、彼らが他の人達とトレーニングしているところも観察しました。お蔭で(訳注:恐らく、スイスで良い経験をさせてもらえたことで)自分の国がどれほど僕をサポートしてくれているのかについても、それは深く考えさせられました。今カザフスタンでは、トップアスリートをサポートするための特別なプログラムが設けられていて、僕達は大いに助けてもらっています。ロンドン五輪でも僕達はメダルをいっぱい獲ったし、そういった成功例の数々に勇気をもらいました。それは皆が帰った後のリンクに来て、夜中までトレーニングする精神力にもなりました。勿論凄く疲れるわけですが、でも僕には目標がありました、世界選手権という、そこで持てる力をすべて発揮したいと望む大会、多くのシーズンの始まりに希望という名の最高の確信を僕に与えてくれる大会が。(訳注:この辺りの訳には少々自信がないが、恐らくシーズン最後の世界選手権で良い演技をして、その直後の新シーズンへの最高の自信を得た経験が何度もあった、という意味かと思われる。)そう、その確信に報いる時が来たんです。カナダでは、最初の練習から調子が良いと感じていて、フランク自身、今までこんなコンディションなのは見た事がないと言っていました。僕は肉体面だけじゃなくメンタル面でも、嘗てない強さを感じていました。ただし困った事があって、カナダに発つ前からもう右のスケート靴に問題を抱えていたんです、ブレードがぐらついてしまっていて。辛うじて問題を修正してロンドンにやって来たのですが、然し、これ以上はどうしようもありませんでした。僕はひたすらその事は考えないようにして、運を天に任せましたが、実際、結局、不具合は起こりませんでしたね。
  
(Part 2ヘ続く)
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sarahofaugust · 10 years
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2013.11.12付 「Вечерняя Астана」(Evening Astana)紙 web版より
お断り
当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、また個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
  
  
  
  
デニス・テン「カザフスタンは特別な国です!」
  
 先週末、カザフスタンの有名なスケート選手デニス・テンは、首都にあるアイスパレス「アラウ」で、若い選手のためにマスタークラスを開き、そして「SOS Children's village Astana」(訳注:児童養護施設)で子供たちに面会した。彼は、ソチでの冬季オリンピックを控えた過密なスケジュールの合間を縫って、スポーツや、交友関係や、祖国への愛着について、子供たちと語らう時間を設けた。  このカザフスタン人の有名フィギュアスケーター、デニス・テンは、その日首都に到着すると、まずSOS Children's village Astanaを訪れ、子供たちのあらゆる質問に答えた。一方で、(訳注:そこにいた)数名の大人たちは、このスケーターのもう一つの才能を発見する事になった。デニスは極めて気の利いた話し手だったのだ。
 ――皆さん、こんにちは! ――そう言って、デニスは集会を始めた――今日ここに来ることが出来て、とても嬉しいです。僕はずっとこの"子どもの村"に来てみたいと思っていました、どうしてかというと、僕には、あなた方が自分のこれからの将来のことを考えたり、自分が何に向いているのかや、人生の目標を考えたりする時の気持ちがわかるからです。僕の子供時代も、皆さんと同じで、そんなに簡単なものではありませんでした。僕はいろんなスポーツに挑戦してきました。両親は僕を、アクロバットや、テニスのサークルに連れて行ったし、絵画、ダンス、振り付けの教室にも通ったし、音楽の学校にも、フィギュアスケートにも通いました。その中でフィギュアスケートが一番好きだったわけですが……。けれども問題は、僕たちの国ではフィギュアスケートが全然発達していなかったことにありました。冬にしか滑ることが出来なくて、(中略)でも、他の子と、友達とお喋りしながら、不思議なくらい心地良い冬が過ぎていきました。
 スポーツにおいて、友達の存在はとても大切です。スポーツは人を孤独にさせるものですし、練習では、自分とコーチの二人だけになってしまうからです。だから子どもの頃に、信頼できる、一緒に育った友達がいるなら、それはこの先成長していく中での、モチヴェーションになることでしょう。
 暫くの間、僕は屋外リンクや、外でスケートをしていました。しかしその後、ある奇跡が僕たちに起こり、それは僕のスケートの転換点となって、気ままな暮らしから一気に僕を連れ出したのです。10歳になった時、僕はエレーナ・ボドレゾワという嘗ての有名なスケーターに招かれて、モスクワに移りました。また、そこで僕はタチアナ・アナトーリエヴナ・タラソワという偉大なコーチにも出会いました。その時から、僕のキャリアが始まったのです。次第に表彰台に上がれるようになり、国際大会に出場するために外国へ出かけるようになりました。でもどこにいても、母国ほど、僕を信じていてくれる国はないと思っていますけれど……。
 今日僕がここに来たのには、すごい経緯があるんですよ。僕は始終旅ばかりしているんです。なんと中国のグランプリで演技をして戻ってきたばっかりで、しかも来週には次の試合でイタリアに行くんです。今はそのちょっとした隙間で、今日は唯一のお休みなので、皆さんと一緒に過ごしたいと思います。今度の2月には――たいへん大きな大会、オリンピックがあります。今日の出会いはまさにその助けとなるでしょう。皆さんの目を見ると、僕にはわかります、あなた方は――違っている、と。皆さんは――既に多くの経験をしてきた子ども達で、年齢よりもかなり大人びています。これから試合で演技をする時、僕はきっと皆さんの目を思い出し、そしてそれが僕に自信を与えてくれることでしょう。さて、それではここで皆さんのご質問にお答えしたいと思いますが……
  
  
Q. あなたの勝利を支えてくれたのは誰ですか? A. そうですね、スポーツは――本当に苛酷なものだし、スポーツをしていると、浮き沈みもよくあるんです。だから僕は、僕を信じてくれた人達に支えてもらいました。
  
  
Q. どうしてこのスポーツを選んだのですか? A. フィギュアスケートは、芸術と、運動競技としての技とが組み合わされています。子どもの頃は、音楽学校に通っていました――母が音楽家だったので。僕はスポーツも好きだったし、音楽も大好きだったんです。フィギュアスケートなら、この2つのものを一緒にやることが出来ました。
  
Q. ご両親にはどのくらい会えるんですか? A. 父はカザフスタンに住んでいて仕事もあるし、僕はアメリカで練習しているので、あまり会えません。母は出来る限り僕のところに来ようとしてくれています。
  
  
Q. どんな音楽を聴くのが好きですか? A. クラシック音楽の、セルゲイ・ラフマニノフが大好きです。最近はカザフスタンの歌手も聴きますよ。カザフスタンの外にいても、ついこの空気が恋しくなってしまうので、音楽を通して、自分の生まれた世界に浸っています。
  
  
Q. 勉強はしているんですか? A. 今はアルマティにあるカザフスタンのスポーツと観光産業のアカデミーで勉強しています(訳注:当サイトにも掲載した記事→http://goo.gl/IpGOjsで話していた学校ですね)。冬に冬季ユニヴァーシアードが開催されますが、僕も自分の大学から出る予定です。
  
  
Q. スケートでは成功できないんじゃないかと思ったことはありませんか? A. 僕は、ロシアやアメリカの同世代の選手よりも環境に恵まれていないだとか、自分のスケートは他の国の同世代の人よりもひどく劣っているとか、そんなことは考えたことがないです。僕はただ純粋にフィギュアスケートを楽しみ、そして自分の時間のすべてを捧げてきました。今は大勢の若いスケーターの親御さんから、このスポーツは有利なのか、フィギュアスケートには自分の子どもを捧げる価値があるのかどうか、訊かれるのですが……僕には、何かほかの事をやった方が良いなんていうアドヴァイスは出来ません、何故なら、スポーツを始める時にその損得を合理的に計算するのは――間違っている���らです。
  
  
Q. 近年一緒に仕事をした有名なスケーターはいますか? A. ステファン・ランビエール――2度の世界選手権とトリノオリンピックのメダリストですね。ステファンは――うんと年上だけど、僕の親友なんです。よく彼を訪ねてスイスにも行きますよ。そして一緒にプログラムを作ります。例えば、冬季アジア大会の時のタンゴスタイルのSPはステファンが作ったものです。僕のEXプログラムは、殆ど――彼の作品です。彼は真の氷上のアーティストですね。僕の振付師のローリー・ニコルも――世界選手権の時の振付師の一人です。僕には素晴らしい指導者もいます。アメリカ人コーチのフランク・キャロルは、世界フィギュアスケート殿堂入りをした人で、伝説のコーチですから……。
  
  
Q. ソチ五輪には何を望んでいますか? A. この種のスポーツは、非常に主観的です。それに今年は、表彰台に上れる力のある選手が10人ほどいます。僕の仕事は――良い演技をすることです。
  
  
Q. 何ヶ国語を喋れるのですか? A. 今はロシア語と英語ですね。小さい頃はカザフ語も流暢に話せたのですが、すぐロシアに引っ越したので言葉を忘れてしまって、今ではカザフ語がわからない時には恥ずかしい思いをしています。カザフ語も覚えたいと思っていますし、フランス語と、韓国語にも興味がありますね。
  
  
Q. 子どもの頃の初恋は? A. 子どもの頃は、すごく移り気だったので……。
  
  
Q. 今彼女はいますか? A. 彼女は――フィギュアスケートですね。彼女に僕の時間のすべて、近い将来の目標のすべてを捧げています。真面目な話、僕、皆さんの中の誰かから、アメリカの女の子はどうですか? って訊かれるかなと思って待ってたんですけど……彼女たちも素晴らしいけれど、カザフスタンの人こそ一番美しいと思います。僕は全ての国に行ったわけではありませんが、それでもとても沢山の異国の人を見て、異国の文化に触れてきました。でもカザフスタンの人々は――ユニークです。(中略)我々の、世界に対する理解や、国際主義であるところや、考え方。世界のどこにも、こんな国はありません。カザフスタンは――まったく特別な国で、まるで金の繭のように、比類なきものなのです……。
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sarahofaugust · 10 years
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Express-K 2011.2.11の記事より
お断り
当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、また個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
  
  
  
   テン(訳注:=10日)より長い一日
(訳注:この見出しは、現・キルギス共和国、当時のソ連邦、キルギス・ソヴィエト社会主義共和国出身の小説家、チンギス・アイトマートフの代表作『一世紀より長い一日』の捩り。アイトマートフは特に中央アジア諸国では抜群の知名度を誇ると言われる。)
  
 17歳のカザフスタン人フィギュアスケーター、デニス・テン(写真)は、第7回冬季アジア大会で、シングル種目の"金"――我々にとってはこの15年来初(訳注:ソ連崩壊後、カザフスタンが独立国家として初めて参加した冬季アジア大会が、'96年にハルビンで開催された第3回大会である。そこから数えて15年という意味だろう。なおこの第3回大会に於ける各競技でのカザフスタン選手の活躍は極めて目覚ましく、金メダル獲得数は14個と開催国中国に次いで第2位の成績を残し、その他数多くのメダルを自国に持ち帰っている。詳しくは是非wikipedia等を参照されたい。)――を勝ち取った。  我々は、その日彼が勝者の演技をした後に、ホテルでこのアジア大会の主役と会った。尤もデニスは一晩中友人たちと過ごしており、我々と話をする頃には既に深夜0時を回っていたため、果たしてそれが本当に「その日」という認識で良いのかどうかは、わからないが。
  
  
(訳注:以下、インタヴュアー=イ、デニス=デ) イ:デニス、おめでとう! SPで首位になって、精神的にプレッシャーがかかったのではありませんか? 決戦前夜はよく眠れましたか? デ:ずっとプレッシャーでした。カザフスタンでこんな大会が開かれるのは初めてで、僕は初めてホームで滑るわけですから。だからSPに出て行く時もFSに出て行く時も、大変でした。でもやってのけることが出来て、嬉しいです。  よく眠れたか? 大丈夫です。それすらも考えないようにしたんですよ。眠れるとか、眠れないとか……。大事なことは――氷の上に出て行って、出来る限り全力を尽くすことだ���なので。
  
  
イ:最終滑走でリンクに出て行くというのは、気が重いものですか? デ:最後に滑ろうと最初に滑ろうと――何も違わないと思います。リンクに出て行ったら、最早何も考える余地はないですから。後戻りは出来ません。試合を開始し、滑り出さなければいけない。だから、抽選でくじ運が悪かったって言う選手がいると、僕はそれは言い訳だなって思うんです。そこがトップレベルのスケーターとビギナーとの違いです、最終滑走でも、例えば、3番目とかでも――違いがないというところが。
  
  
イ:では、大会期間中はどのようにして上手く平静を保っていたんでしょうか? ヨガとか、瞑想とか?...... デ:正直言って、そういうのは一度もやったことないんですけど、凄く興味があるのでいつかやってみたいですね。しかも今は大勢の有名なスケーターが――特にアメリカの選手など――すっかりヨガにハマっていますし。ただ新たなメソッドの類としてではなく、それは、どちらかというと、単なる趣味だと思います。(中略)ええ、ヨガは、多忙な生活を送るアスリートが心を休めるのには、多少有効みたいです。何せフィギュアスケートは、肉体的にだけじゃなく精神的にも負担のかかるスポーツですからね。それもものすごく。だからみんな、きっと、何かしらそれを解放するものが必要になるんでしょう。人によっては、ヨガだったり……。
  
  
イ:あなたに必要な解放は、どんなものですか? デ:カザフスタンに来ると、ここでは僕には毎日が休日のようです。友達と会えるのがとても嬉しくて。みんな子供の頃からの友達なんですよ。同世代で、一緒に育って、長く付き合いが続いている関係って、最高のフレンドシップだと思います。僕もほら、誠実なタイプですから。この友情にはとても感謝していますし、だからいつも、なんとか友達と会う時間を作ろうとしています。その中の一人は、学校があるのに、特別にアスタナまで来てくれたんですよ。お陰でトレーニングをする日でも、一切ストレスを感じませんでした。ホームにいると本当にハッピーです。
  
  
イ:一年のうちどれくらい外国で過ごすんですか? デ:いやぁ、相当ですね!...... 特にアメリカに移ってからは。
  
  
イ:FSが行われる前は、どうやって時間を過ごしていました? デ:普段通りです。何も新しいことはしていません。朝から――練習してました。大会期間中は時間があっという間に過ぎます。(後略)
  
  
  
イ:出番を待つ間は、何をしていましたか? デ:その時間は、各自が自分のやり方で過ごします。ある人はマッサージ師といたり、ある人は心理士と、またある人は専門のトレーナーと……。僕にはそういう、いつも決まったプランはありません。ただその時感じたことをするだけです。だって下のロッカールームに降りて行って、そこで長い時間を過ごしても、当然、凄く快適っていうわけにはいかないですから、昨日はリンクに残って――ただ何もしないで、考えをまとめていました。
  
  
  
イ:演技の前は、コーチは何と仰有っていました? デ:正直、憶えてないんです。あの時は集中していたので、後から細かい事を思い出すのはなかなか難しいんですよ。きっと夢みたいに忘れちゃうんでしょうね。目が覚めると――思い出せなくなってるみたいに。
  
  
  
イ:あなたのお考えでは、男子シングルの優勝候補の一人に、一体何が起こったのだと思いますか――四大陸選手権のメダリストである日本人の町田樹が、4位に終わってしまったのは。 デ:僕に何が言えるでしょう? 誰にだって浮き沈みはあります。僕は彼の演技も見ていませんしね、僕のすぐ前の滑走順ではありましたけど。
  
  
  
イ:それでも、やはり日本人は最大のライバルなのでは? デ:いいえ――自分自身です。試合中は気が散らないように、他の人の事は考えないようにしていました。何故なら僕は知っているからです、そういう時他の選手が良い演技をしてもしなくても、それは重要な問題ではないという事を。当然、僕だけに限らず――どのスケーターも、リンクの上では何よりもまず自分自身に打ち克とうとしているでしょう。そしてその後になって漸く――他の選手の事になるわけです。
  
  
  
  
イ:怪我をしているのに出場した、というのは本当ですか? デ:ええ、この大会は、僕には長い戦いでした。実は、脚が凄く痛くて前の週は殆ど練習出来なかったので、SPが終わって感激しました。コーチのラファエル・アルトゥニアンは、棄権すると思っていたくらいなんです。「全然滑れないかもしれないんだし、滑れたとしたって、」――彼は言いました、――「棄権するのが一番だろう」。僕はこの言葉にとても怒りました。だってこの大会は――4年に一度開かれるもので、そうそれどころか母国開催だっていうのに、それを棄権!? って。それに、ウォーミングアップをしてみて、これがやっぱり正しい選択だと思いました。たとえ脚が痛くたって、棄権するなんて論外です。まぁジャンプは、それこそ着地の時に足が痛むせいで、幾つか失敗してしまいましたけれど。でも実はフリーでは、着地には少ししか影響しなかったんですよ。だからこの一週間ずっと僕につきっきりでいてくれた、カザフスタンのショートトラックのチームドクターである、中国人のヤン・ヨンファさんには、改めて感謝したいです。もし彼女がいなかったら、僕は、間違いなく、リンクに出る事さえ出来なかったでしょう。
  
  
  
イ:表彰式の後はどちらへ行かれたんですか? デ:あ、まずプレスカンファレンスがあって、その後でドーピングテストが……。全部終わるのに凄く時間がかかるんですよ。だからみんな終わったら、ホテルに戻って寝るだけです。
  
  
  
イ:なんと、じゃあ「金メダル」のお祝いはしないの? デ:まだです、エキシビションが終わってからですね。でも友人は、そうは言ってももちろん、僕の成功を祝ってくれましたよ。すごく沢山のお祝いのメールが、色んな人から届きました。All Davaiという若者グループから電話が掛かって来た時は、とても嬉しかったです。(訳注:All Davai、またはAll Davay(いずれも英語表記、原語ではAll Давай)は、カザフスタンの男性3人組のシンガー。2011年の冬季アジア大会では、テーマソング(?)を手掛けていた模様。http://youtu.be/_1tJE22xIpY)ウエイトリフティング選手のイリア・イリン(訳注:カザフスタンの男子94キロ級ウエイトリフティング選手。北京五輪・ロンドン五輪を連覇、その他世界選手権でも多数の金メダルを獲得。)からも電話をもらいました。実際、イリアは僕にとって大変偉大な存在ですから、彼とお話し出来て、ご教示を頂けて、とても光栄でした。(後略)
  
  
  
イ:オリンピックのメダルを狙う為には、どうしてもアメリカへ渡る必要があるのでしょうか? デ:いえあの、そういうことじゃないんです。既に、これは何度もお話ししている事なのですが、どこで練習するかは問題じゃなくて、重要なのは――誰とするか、です。例えば、フランク・キャロルやラファエル・アルトゥニアンといったコーチ達と、仮にコスタナイ(訳注:カザフスタンの州名及び都市名。コスタナイ州は、首都アスタナのあるアクモラ州に隣接。)で練習する事になったとしましょう。そしたら僕はコスタナイに行ったでしょうし、その町が大好きになったでしょう。そういう訳で、今僕はカリフォルニアのレイク・アロウヘッドにいるんです。ロサンゼルスの近くですね。  レイク・アロウヘッドには練習環境がすべて揃っています。このスケートリンクは、非常に数多くの有名なスケーターを輩出しています――ミシェル・クワン、ジェフリー・バトル、エヴァン・ライサチェク、申雪・趙宏博。そこは専門的なリンクで、リンクに壁が無いんですよ――その代わり鏡になってるんです。そしてこのリンクのシンボルが――フランク・キャロルとラファエル・アルトゥニアンです。彼らに教わりたくて、世界中からスケーターがやって来ます。  そこでは新しい友達も沢山できました。実際フランクは今、大きな生徒達のグループ――今までに(訳注:「この間の」、かも知れない)全米選手権に出た事のある5人のスケーターを、一度に抱えています。僕達のグループはとてもフレンドリーで、お互いに温かく接しています。子どもの頃モスクワでスケートをしていた時は、友達が一人だけっていう事もあったので……。(訳注:この一文は特に自信がないです。すみません。)
  
  
  
イ:ところで勉強はどうしているのですか、デニス? デ:今モスクワのカレッジで勉強しています。当然、スポーツと勉強をちゃんと両立させるのは難しいことです。だから通信教育にしてみているのですが。でも今は、勿論、勉強は一番大事なことではありません。ただ、スポーツのキャリアを終えた時には、大学に入りたいなぁと夢見ています。今はまだ、本当のところ、何を専攻するかとかは、わからないんですけれど。
  
  
イ:では、好きな本はありますか? デ:好きな作家でもいいですか? パウロ・コエーリョ、チャック・パラニューク、Janusz Wiśniewskiが好きです。古典も大好きで――昔学校で読んだ、トルストイ、プーシキンなども。ガース・スタインが書いた『エンゾ レーサーになりたかった犬とある家族の物語』も素晴らしかったですね。あれは凄く気に入りました。
  
  
イ:英語圏の作家の本も、もう原書で読めるの? デ:何て言うか……英語でも読めることは読めるんですけれど、でもロシア語の方が、勿論、楽ですね。中にはなかなか理解するのが大変なものもあります。例えば、英語で『風と共に去りぬ』を読もうとする。そうすると、大きな難関にぶつかってしまうんです。アメリカ人にも、自分達でさえこの本は難しいよって言われましたけど。できれば、僕にも段々そういう作品が読めるようになるといいなと思います。
  
  
イ:英語は学校で勉強したんですか? デ:英語は一度も習ったことがないです。旅行していたお蔭で、いつもなんだかんだ(訳注:英語を)話していました。小さい頃から、かなりあちこち飛び回っていましたから。そんな風にして、ちょっとずつ、ちょっとずつ……。慣用句集なんかでは勉強しましたね。自分で喋ったり、人の言ってることを理解するのには、それで充分だったみたいです。ただそれとは別に、アメリカで耳が言葉に慣れるのには、時間が掛かりました。何故かというと、自分では全部理解出来たつもりでも、それは必ずしも、正確に全部理解出来ているとは限らないので。
  
  
イ:お手本にしている人はいますか? デ:そういう人達は沢山います――スポーツ界にも、他の分野にも。頂点まで登りつめた、すべてのトップスケーター達は、僕にとって偉大なお手本です。よく録画で彼らの演技を見るんですよ、一流のものを自分も吸収したいと思って。勿論、僕はエフゲニー・プルシェンコとアレクセイ・ヤグディンの競争を見て育ったし、彼らは僕の中で永遠にフィギュアスケートの理想であり続けるでしょう。
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sarahofaugust · 11 years
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icenetwork 2013.8.28の記事より
お断り
当記事は、あくまでも趣味の範囲で翻訳したものです。
多少の誤訳と意訳には目を瞑って頂ける方のみ、ご覧下さい。
  
  
      世界銀メダリストのテンは、「ならず者」になる
 この一年で、カザフスタン人スケーターのデニス・テンは、「とても有望な選手」から「世界トップのスケーター」へと文字通り飛躍した。テン本人ですら、シーズンの終わりには世界銀メダリストとなり、三度の世界王者であるカナダのパトリック・チャンにたった1.30点差で敗れて終わるなどとは、殆ど予想し得なかった事だ。
 その当然の成功が、長年厳しい練習を積んできたこのカザフスタン人のスケーターのもとに訪れ、彼にスポーツの世界での新たな視野を拓いた。オンタリオはロンドンに於ける、2013年世界フィギュアスケート選手権での彼の成功が、オリンピックシーズンを前にしてテンに更なる自信と刺激を与えたことは、間違いない。彼は現在、カリフォルニアのエル・セグンドで、フランク・キャロルコーチの指導のもと調整を行っている。
 テンはカザフスタンをフィギュアスケート界の勢力地図に載せただけではなく、国家イメージの保守や宣伝活動にも熱心だ。5月下旬には、フィギュアスケートのスター達を、母国開催のアイスショー「デニス・テン&フレンズ」に参加してもらうため招待している。この大掛かりなスケートの祝祭では、ステファン・ランビエルや、カロリーナ・コストナー、ブライアン・ジュベール、イリーナ・スルツカヤ、タチアナ・トトミアニナとマキシム・マリニンその他、大勢の演技が呼び物となった。
 目の眩むような成功を収めたにも拘わらず、テンは今もなお落ち着きがあり、ポジティヴで、練習熱心な人物である。アイスネットワークは、シーズンの幕開けや、新しいプログラム、そしてオリンピックへの考えについて、テンと話をした。
    (訳注:以下、Icenetwork=ア、デニス=デ)
ア:こんな大成功のシーズンの後だと、オリンピックシーズンへの準備にもきっと一層熱が入るでしょう。その辺りについて聞かせて下さい。
デ:昨シーズンのあの魅力的な終末は、とにかく出来るだけ早く練習を再開したいっていう、エネルギーとモチヴェーションの強い波を生みました。ロンドンでのエキシビションの翌日にはもう、次のシーズンのトレーニングプランを作ってもらいに、フィットネスコーチに会いに行ったんですよ。
 今度のシーズンに向けて、コーチのキャロル先生は、充分な環境のある練習拠点として、カリフォルニアのエル・セグンドのトヨタスポーツセンターを選びました。ここでは全部上手くいっていますし、僕もすごくポジティヴな気持ちでいます。
  
  
ア:来るオリンピック、また昨シーズンの業績などを考慮して、何か練習内容は変えましたか?
デ:練習内容はそんなに変えていません。僕達は引き続き全てのエレメンツに注意(細心の)を払います、それがジャンプであっても、スピンやステップシークエンスの質であっても。新プログラムには、高度な感情表現、クオリティの高いスケーティング、そしてそれに相応しい日々の厳しい練習が求められる、面白い趣向がかなり沢山入っています。
 このうち僕のお気に入りであり一番難しいパートでもあるのが、一連の新しいステップシークエンスです! ものすごく複雑なんですけど、でもすごくかっこいいんです。皆さんにはこのステップの真価を評価してもらえると嬉しいですね。
  
  
ア:今秋カップオブチャイナとスケートアメリカに参戦されますね。更に他のイベントをスケジュールに追加する予定はありますか?
デ:そうですね、後で考えると思います、GPシリーズの結果を基に。
  
  
ア:誰もがオリンピックには出来る限りのベストな状態で臨もうとするというのは、よく知られた話です。あなたはオリンピック前の大会にはどんな風にエネルギー配分をするつもりですか?
デ:確かに全ての選手の一番の課題は、オリンピックに調子のピークがくるようにする事ですし、僕も例外ではありません。ただそうは言っても、僕にはどの大会も大事ですから、毎回必ず全力を出そうとするでしょう。僕はオリンピック前の全ての大会を、いつも通り出場するものではなく、ソチへの準備の作業だと見做したいんです。
 去年一年は、夏のトレーニングを積極的にしたせいで(積極的過ぎたんです)、怪我に悩まされたので、今シーズンは同じ失敗はしたくないですね。エレメンツに関しては、きっとシーズンの始まりと終わりでは違うものになっていると思います、殆どの選手が大抵そうなるように。
  
  
ア:新プログラムと、その創作のアイデアについて教えて下さい。
デ:実際問題、『アーティスト』のようなスペシャルなプログラムの後に相応しい、感動的な音楽を見つけるのは、途轍もなく大変な事でした。昨シーズン、ローリー(ニコル)と僕は『アーティスト』の創作に心血を注ぎ、ステージングにもまるまる一ヶ月かけました。僕も僕のチームも、この2つのプログラムのイメージや、ユニークなコンセプトがあまりに気に入っていたので、今シーズンも持ち越そうと考えていたんです。でも世界選手権後に、変更をしようと決めました。
 SPはカミーユ・サン=サーンスの「死の舞踏」、FSには、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの、バレエ『お嬢さんとならず者』の曲を選びました。どちらも、去年のものと比べるとかなり違う感じで、それに、さっき言ったような、多くの感情表現が必要なプログラムです。
 僕らは、去年皆さんが見たものとは全く違うイメージでプログラムを演じる為の曲を、意識的に選びました。SPの音楽は僕の提案です。候補はいっぱいあったのですが、日頃からカミーユ・サン=サーンスの曲が好きでしたし、「死の舞踏」のテーマは僕の性格にすごく近いんです。とてもきついプログラムですよ。ものすごく複雑だし、でもジャッジやお客さんに僕の内なるエネルギーを伝えるための、強い味方となってくれます。
 ショートプログラムは現代的な振り付けですが、フリーのプログラムは古典的なロシアンスタイルです。プログラムのベースに、オリジナルのバレエの『お嬢さんとならず者』の要��を断片的に取り入れてあります。お察しの通り、僕はならず者をやります :)
 これは一人の男が上流社会の女の子と恋に落ちる話で、愛が人を善良に変える物語。僕は7年間ロシアに住んでいましたから、こういうスタイルはとても理解し易いんですけれど、それでも作品のイメージは非常に複雑で、精力的な練習が必要です。これに見合ったレベルのパフォーマンスをするため、ハリウッドでダンスレッスンのクラスもとり始めました。
  
  
ア:この間のご活躍はもちろん、あの壮大なアイスショー「デニス・テン&フレンズ」の後でも、沢山の人がカザフスタンに親しみを持ってくれたと思います。自国の国際イメージへの貢献を、ご自身ではどう評価されますか?
デ:今、カザフスタンという国がフィギュアスケート界ではっきり認識されるようになったことを、非常に嬉しく思います。僕が国際舞台に立ち始めた頃なんか、みんなこの国の名前もなかなか発音出来ませんでしたから。
 環境をがらっと変えてから9年が経ちましたが、それが直接的に僕にとびっきりの幸せを齎してくれたのだということも理解しています。スポーツを通じて、皆さんにカザフスタンに興味を持ってもらえたっていう事が、素晴らしいですよね。
 世界選手権のあと、近い将来カザフスタンに行ってみたいと思っているという沢山の手紙を戴いたんです。ある日本の女の子なんかは、この夏カザフスタンに旅行する予定で、僕たちの国と言葉を勉強するという計画を話してくれたんです。それを聞いてものすごくうれしかった!
 アイスショー「デニス・テン&フレンズ」に参加してくれたスケーター達も、カザフスタンへの旅にとても感動してくれたんですよ! その美しさ、文化、おもてなしに、びっくりしていました。スペシャルな催し物も用意してあったんですよ。よく知らなかった国のことを知っていくみんなの様子を見ているのが、僕は大好きでした。色々な小旅行も予定されていて、ミュージアムまで遠出したりしました。みんなには国で一番のホテルに泊まってもらい、最高のレストランでランチやディナーをとってもらったんです。
 一度などは、ランチをとりに、僕達はアルマティの山に登って、すごく背の高い(2メートル以上もあるんです)カザフ・バートル(田舎に住む伝統民族)に歓迎してもらいました。(訳注:「バートル」はカザフ語で「勇者、英雄」を意味する単語、敬称らしく、したがって「カザフ・バートル」が民族名なのかどうかは判らない。が、この単語は中央アジアなど周辺一帯で広く使われており、人名・地名にも散見される。)彼らはユルトと呼ばれる伝統的なカザフの家屋を見せてくれて、そして僕らは最高のカザフ料理を食べたり、その土地の民族音楽を聴いたり、伝統舞踊のダンサーを見たりする機会に恵まれました。これはどの選手にとっても真の冒険でした!
 アイスショーでは、誰もが期待した以上に、お客さんが温かく迎えてくれました。会場のあのパワフルな雰囲気にはみんな喜んでいました。アルマティのショーでは2500人超、アスタナでは約7千人を動員し、演技の終わりには毎回、選手達はスタンディングオヴェーションを受けたんです。忘れられないひとときでした。その時僕は気づいたんです、スポーツってほんとに世界を一つにするんだなぁって。
  
  
ア:きっと、ソチオリンピックの間は、あなたは国のメディアから一層注目を浴びるでしょう。時には、メディアの注目度の増加やファンからの期待が、選手に独特の緊張を生んでしまうこともあります。それについてはどうお考えですか? 恐らく2013年の世界選手権で、こうした要因にはすでに慣れたかと思いますが?
デ:あまり気にしないようにします。バンクーバーオリンピックでの経験があるので、今度のオリンピックは素晴らしいものになるんじゃないかと思っています。ちゃんと準備出来るでしょう。
  
  
ア:あなたの目標、それからオリンピックへの思いをいくつかお願いします。
デ:そうですね、我々のスポーツは、過去4年間で��きく発展しています。オリンピックシーズンがどんなに面白くなるか、想像してみてください! 今では、スケートのレベルが凄すぎて、誰か一人が際立つことはとても難しいですから。
 オリンピックについて、何か予言したりはしたくありません。僕の目標は、このメインイベントで、自分のプログラムに相応しいスケートをすることです。
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sarahofaugust · 11 years
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Megapolis 2010.6.14の記事より
お断り
当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、また個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
  
  
  
  
 デニス・テン、自身のキャリアの中で最もハードでストレスフルなシーズンを送った彼は、ゆっくりと休養していた。オリンピックと2つの世界選手権に参加したこのカザフスタンのフィギュアスケーターは、デトロイトでのマリナ・ズエワとイーゴリ・シュピリバンドとのトレーニングの後にようやく、短いヴァカンスに出た。メガポリスのインタヴューでは、インターネットで親しくやりとりをしていることで知られている、スポーツ界のニュースメーカー・プルシェンコとのサッカーのことや、人の顔をしたマトリョーシカについて語ってくれた。   
(訳注:以下、インタヴュアー=イ、デニス=デ)
イ:凄く長いシーズンで、疲れたでしょう? デ:正直に言って、去年は常にリンクに行きたい、練習したいって思っていたので、ヴァカンスを取ることには興味がなかったんです。ただ同時に、昨シーズンはかなり大変なシーズンでしたから、これ以上練習を続けても――良い方向にはいかないとわかっていたので。    イ:昨シーズンで一番良かったことを教えてもらえますか? デ:とても素晴らしい経験が出来た事です、競技においても、人生においても。僕は大きくなるにつれて、自分の仕事をもっと重視するようになりました。(中略。今は練習にとても意欲的であるというような内容である模様。)週末でさえ、時々練習したくなるんですよ。僕にとってフィギュアスケートは――麻薬みたいなものですね。    イ:スポーツの世界には「2年目のジンクス」という通説がありますよね、目覚ましく活躍した選手は、次の年には悪くなってしまうという。どう思われますか、あなたはこのジンクスを回避して上手くいくでしょうか? デ:ええ。今シーズンも上手く行くでしょう、何が起ころうと、誰が何と言おうと。そもそも今の僕はトップスケーターになれるような年齢ですらないという事を、考慮に入れる必要があります(訳注:そのジンクスに関して)。だからこそ、オリンピックに出られてとても嬉しかったんですから。それからコーチ不在で行ったトリノの世界選手権も、素晴らしい経験でした。そう、それに僕は、いつもこの哲学を念頭に置いていますしね、"上りもあれば、下りもある"と……。    イ:いつだったか、前任のコーチのエレーナ・ボドレゾワが、デニス・テンから忍耐強さを教わった、と言っていました。あなたの方は、彼女から主にどんな事を教わりましたか? デ:彼女のおかげで僕はプロフェッショナルなアスリートになったし、出来る限りの全ての事を教えてもらいました。それは何より大事なことで、僕は彼女に非常に感謝しています。    イ:つい最近、世界で最も優秀なアイスダンサー――マリナ・ズエワとイーゴリ・シュピリバンドと共に練習したのですよね。一緒にやってみた印象は? デ:とにかく天才的な仕事をしますね! 彼らの仕事ぶりや言う事には、舌を巻きました。仕事へのアプローチの仕方にも感心します。彼らと一緒に練習するということは、彼らの作品のプロセスの一部になるということなんです。世界でも最強のこの二人が刺激的なコーチであったこと、それに自分がこんなにも刺激を受けたことは、驚きでした。    イ:では、新しいコーチのフランク・キャロルのところへは、いつから? デ:ヴァカンスが終わってからですね、それから取り掛かります。    イ:今は休暇中ですから、寝る時間はたっぷりあるでしょう。でも早起きですか、それとも夜更かししちゃいますか? デ:まぁ、やっぱり早起きかな。と言っても、のんびりといっぱい寝るのも大好きなんですけど、出来ないんですよね、もう一日がそういう風になっちゃってるから。でもヴァカンスは毎日本当にハッピーですよ。    イ:あなたは既に世界中の様々な国を飛び回っていらっしゃいます。スケーター以上にスケジュールがタイトなテニス選手は、よく――飛行機に住んでるんだ、とジョークを言いますが。あなたはそんな風にお感じになることはありませんか? デ:僕も時々、空港に指定席があるから休憩しに行ってるんだよって、冗談を言ってます。実際は、飛行機やフライトには慣れていますね。たぶん、僕は旅行するのが好きなんじゃないかな。その上、素敵な本を読んだり、体を休めたりする絶好の機会ですからね!    イ:あなたのアイドルのエフゲニー・プルシェンコは、サッカーをするのが好きですよね。あなたは? デ:うーん…(訳注:サッカーの)ファンではないのですが、プレイするのは好きですし、特にフォワードが好きです。でもエフゲニー・プルシェンコのツアーの間、ジェーニャが僕らを(訳注:サッカーの)仲間に入れてくれたんですけど、彼が任命してくれたので、僕はずっとディフェンスをやっていました。    イ:では、より良いサッカープレイヤーだったのはどのスケーターでしたか? デ:ジェーニャです。沢山得点してたし、それに、彼がボールを扱っている時思いました、これぞまさに本物のサッカーだ!って。スケーターって大体みんな、ゆっくりサッカーするのが好きなんですよ――最高のウォーミングアップですからね、ボールと一緒に走るのは!    イ:ある時期に、あなたはフィギュアスケートか音楽かの選択を迫られたわけですよね。その選択には後悔していませんか? デ:わかりません。今は僕、音楽がやれたらなぁってすごく思ってるんです。でも以前は、そうでもなくて。音楽学校に通っていた頃は、ピアノを弾かされていたのですが、好きじゃなかったんですよ。ところが今は、専門的に教わりたいと思うようになった。必ずしもピアノじゃなくてもいいんです。ギターでもいいし、ドラムでも、或いは何か違う楽器でも。    イ:読書家でいらっしゃいますよね。とりわけ印象深かった本は何でしょう? デ:ああ! 読書は――今シーズンの中で唯一、時間のとれた趣味です。何でも――色んなスタイルの本を読みます。コエーリョや、Wisniewski(訳注:読み方がわからないが、'54生まれのポーランド人の科学者兼小説家。'01発表の『Loneliness on the Net』(英題)で知られる)、 ガース・スタインも好きですね。最後のやつ(訳注:ガース・スタインの本)は、犬が主人公の『エンゾ レーサーになりたかった犬とある家族の物語(訳注:邦題)』という素晴らしい本です。(中略)でも、最近は、百科事典とか読むようになりました。    イ:それじゃあ、百科事典で得た一番大きな知識は? デ:脳についてですね。自分の体にも、関係ある話だし(笑)。医学に興味があるわけじゃなくて、自分自身について知りたいんです。(訳注:この辺の訳は特に怪しいです。ごめんなさい。)僕はそういうのが好きなので。
   イ:昨シーズンに伺ったお話しでは、フィギュアスケートをやっていなかったら何をやっていたかはわからない、と仰っていましたね。ひょっとしたらボクサーだったかも、って。 デ:はい、子どもの頃はけんかが好きでしたから、ボクシングはまさにぴったりだったでしょうね! 僕はひどく感情的な子どもで、また無邪気だったので、だからけんかにのめり込んでいたんだと思います。尤も両親が学校に呼び出された事は一度もありませんでしたが――そういう問題に関しては、自分で解決していたので(笑)。    イ:けんかにはいつも勝ってたの? デ:ええ、たいていは。ただ、その頃はちっとも気づかなかったのですが、後々になって、以前は相手を泣かせていた事に思い至り、僕は彼に申し訳なくなりました。     イ:練習をしていて、上手くいかないと、誰かを殴りたくなったりしない? デ:「誰か」ってことはないです。幸い、僕、シングルスケーターですから(爆笑)。    イ:あれは本当なんですか、大会の後、夥しい量の沢山のプレゼントで部屋が埋め尽くされたというのは? デ:はい。沢山のプレゼントを戴きました。特にアジア人の方からですね。でもトリノの世界選手権の後には、ロシアの方からマトリョーシカをもらったんですよ……僕の顔の! 開けてみたら、僕の顔があったんです。僕は言いました、これはウェブサイトで行われたコンテストの賞品だ、って。僕、「Discovery of the year-2009」と「Best junior of last year」(訳注:日本語に訳しづらい為、いずれも英訳)という部門で一位だったんですよ。(訳注:このサイトのことだろうか?http://myhaven.ipb.su/index.php?showtopic=519)
  
イ:割に最近、人気のソーシャルネットワークのツイッターを始めましたよね。これはつまり、交流をしたかったからでしょうか、それとも流行に乗るため? デ:デトロイトでシュピリバンドとズエワとトレーニングしていた時に、友達に――スケーターの友達に、無理矢理開設させられたんですよ。僕、しばらく嫌がってたんですけど。だけど彼らがみーんなやっちゃったもんだから、今や僕は、更新しなくちゃならないんです(笑)。
イ:友達になったスターは?(訳注:ツイッターで、の意か。恐らくこの時このインタヴュアーは、ツイッターのフォローの意味をよく理解していなかった模様。) デ:うーん、アシュトン・クッチャーはもう既に、あとジム・キャリーとラッパーのアッシャーも「友達」になりました。といっても、彼ら���は僕のような人(訳注:フォロワー)が山ほどいるわけですけど。
   イ:来シーズンは、国のスポーツ委員会(訳注:正確な訳はわからないが、それ的な組織)としては、最重要事項は冬季アジア大会の開催だそうですね。あなたにとってはどうですか? デ:僕も冬季アジア大会です。僕達の国でこのイベントが開かれることを、たいへん誇りに思います。僕の今までの中で最高のレベルのものが出来るようにしたいし、ええ、そして、出来る限りの最良のパフォーマンスをするよう努力します。    イ:手強いライバルが――日本人の、ワールドクラスのスケーターが同時に3人も来ますが……(訳注:実際には無良さんと町田さんの2人だった筈だが、質問自体を誤訳してしまっているのかも)。 デ:僕には、氷上で誰と戦うことになろうと、問題ではありません。それに日本のスケーターはみんな――友達なんです。ただ、もしそうしたライバルについてどう思うか訊かれれば、それなら、僕自身にとって――一番の競争相手だと答えますね。     イ:あなたにとって重要なのは、単に結果だけではなく、どのようなスケートをしたかなのだと、度々指摘なさっていますよね。冬季アジア大会は、その価値観の転換点になるでしょうか? デ:難しい問題ですね。こう言いましょう、良いスケートをすれば、結果もついてくると。そうなるように努力していきますし、期待を裏切らないために、自分を励まし、そして自分を信じます。
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sarahofaugust · 11 years
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2013.3.28付 カザフスタン「Время」(time)紙 Web版より
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当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
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    デニス・テン「銀メダルは――金メダルへのパス(許可証)」
 カナダはロンドンにおけるフィギュアスケート世界選手権での一番のセンセーションは、19歳のカザフスタンフィギュアスケーター、デニス・テンだった(写真左)。彼は見事な銀メダルを獲得し、ブライアン・ジュベール、ケヴィン・レイノルズ、フロラン・アモディオ、ダイスケ・タカハシ、そしてハヴィエル・フェルナンデスといった名だたるスケーター達にも完全に勝利した。デニスは現在世界一のスケーターであるパトリック・チャンをも破ったのだ。尤も、ロングプログラムだけではあるが。スモール・金メダルも授与された。カザフスタンのフィギュアスケート史上には未だ嘗てなかったことだ! 少なくとも、誰がテンの才能を疑うだろう? 4年前、彼のシニア世界選手権デビューの折、15歳の少年は8位に入り熱狂を巻き起こした。当時既に、多くの専門家たちが「未来のオリンピックチャンピオンだ!」と興奮して騒いでいたものだ。デニスはといえば、ただ笑って「ええ、みんな冗談が上手いんですよ」と答えただけだったけれども。しかし、冗談はさておき……
  
(訳注:以下、インタヴュアー=イ、デニス=デ)
イ:小さい頃、モールのリンクで滑っていた少年には、いずれ世界の銀メダリストになると想像出来たでしょうか?
デ:まだ小さかった頃は、このスポーツに夢中で、カザフスタンには満足なスケート場がない事にも、他の選手と比べてあまり練習環境が良くない事にも、てんで気づかなかったんです。フィギュアスケートをするのが好き、それが全てでした。今も夢中になっていますけどね! そしていつも、チャンピオンになることを夢見ていました。ですからこうして頂点にまで手が届いて、とても嬉しいです。ロングプログラムでの金メダルも――サイコーです!
   イ:世界中の人が、あなたが銀メダルに飛び上がって喜んでいるのを見ました。ですが、今は金メダルを奪われたとはお思いになりませんか? かのエフゲニー・プルシェンコですら、この世界選手権の勝者はパトリック・チャンではなく、デニス・テンだ、と言いました。
デ:おわかりのように、初め僕はこう考えていたんです、自分の演技に凄く満足だ、って。今シーズンはとても苦労しました。でもこのカナダでの世界選手権は――プレオリンピックです。重要なのは、この大会で自分の持てる力を全て発揮すること。勿論、多少のプレッシャーは感じました。然し同時に、凄くしっかり準備が出来ていることもわかってたんです。そして全てが終わったとき、コーチ達の目に喜びが浮かんでいるのを見て、とても嬉しく思いました。その少し後には、僕達は当然、どうして勝って、どうして負けたのか、分析もしました。それについては、僕にはジャッジは出来ないけれど……2位に留まれたことは、本当に嬉しいです。何故ならフィギュアスケートは、非常に保守的なスポーツですから。僕は今年、カザフスタンにもフィギュアスケート選手がいるんだぞって見せつけました。プレ・オリンピックイヤーに自国に銀メダルをもたらす事が出来れば、それは、我々はソチでも表彰台を狙えるのだという希望の証になる訳ですからね。
  イ:今回はあなたのキャリアの中でベストのスケーティングでしたか?
デ:現時点では――そうです。然し完璧にベストを尽くせたわけではなかったので……。世界選手権が終わった最初の夜は、物凄い高揚感でいっぱいでした。でもそれからはもう、次のシーズンに集中し始めました。新しいフィジカルトレーニングのコーチに見てもらうため、カルガリーにも行って。ソチでは、このカナダのロンドンの時よりも、強くなっていたいですから。全体的に、更に進化するため、例年よりも練習量を増やす予定です。
   イ:これまでの世界選手権では、8位、7位と来て……ここで一気に銀メダル。心理的な観点から言って、突然メダルを獲るまでに至ったのには、何が功を奏したのでしょう。ご自身では、なぜ今大会では飛躍出来たのかおわかりになりますか?
デ:偶然の結果ではないでしょうね。コーチのフランク・キャロルが、この駄目なシーズン中にも、ずっと言い続けてくれたんです、「デニス、私達の最大の目標は――世界選手権だ。今季の他の試合のことは忘れなさい。一番大切なのは――カナダにピークを持っていくことだ。」って。だから僕達は、それはもう過酷に練習を積みました。コーチは常に僕をサポートしてくれて、僕を世界で最も優れたスケーターの一人だ、と言ってくれました。それが僕に自信をくれました。願わくば、このロンドンでの銀メダルが――フィギュアスケートのトップクラスへのパスになるといいなと思います。
   イ:世界選手権後すぐ、フェイスブックで、応援してくれたファンの皆さんにお礼を述べられましたね。実際、本当に海外からもサポートがありますか?
デ:いつもファンはサポートしてくれます。違う大陸からも、そしてそう、カザフスタン中からも、応援してもらっています。そしてそれは、勿論、僕の助けになっています。演技をする時も、カザフスタン国旗が凄く沢山振られているのが見えるんです。でも面白いことに、その人達の殆どはカザフスタン人じゃないんですよ。これはつまり、僕のファンと、僕の国のファンができたという事ですよね。世界各国の人々が、カザフスタンのファンになってくれたとわかって、とても嬉しいです。だって以前は必ず訊かれましたもん、「カザフスタンってどこ?」って。だけど、いつか僕が一位をとれば、これは僕がとても尊敬している、優勝経験のある選手が言っていた事なのですが、そうすればそんな事を訊いてくる人はいなくなるよって言われて。あれは凄くショックでした! それで僕は自分に誓ったんです、遅かれ早かれ、カザフスタンの知名度を上げてやるぞって。今、こういう結果になって、母国に対して信じられないくらい誇らしい気持ちです。
   イ:前のコーチであるタチアナ・タラソワとエレーナ・ブイアノワ――ボドレゾワ(訳注:旧姓)も祝ってくれましたか? 彼女達の新しい生徒・マキシム・コフトゥンは、ロンドンでは失敗に終わったわけですが。
デ:みんな、僕達が悪い関係にあると思っていますよね。でも、それは違います。タチアナ・アナトーリエヴナ(訳注:タラソワ)とエレーナ・ゲールマノヴナ(訳注:ボドレゾワ)は、僕にとても温かくしてくれます。フリーが終わった後、きっと、僕がロシア語で「ありがとう」と言ったのがわかったと思うのですが。僕は、会場で7千人ものカナダの人が自分にスタンディングオベーションをしてくれていることに、胸を打たれました。ですが、僕は気づいていました、一番最初にシートから立ち上がってくれたのは、タチアナ・アナトーリエヴナとエレーナ・ゲールマノヴナだったことに。これには本当に感動しました。僕の「スパシーバ(訳注:ありがとう)」は、彼女達に向けたものだったんです。
   イ:今のプログラム「アーティスト」は、スポーツ界に衝撃を与えましたね。おそらく、ソチまで継続する価値のある作品なのでは?
デ:僕も、「アーティスト」は反響を呼んだと思っています! ただ来シーズンは、何か特別なものをやりたいと思っているんです。何せオリンピックがありますからね。
   イ:フィギュアスケートは――かなり主観的なスポーツで、ジャッジが表彰台の順番を決めてしまっている様に見えます。それはソヴィエト時代から、今に至るまで。どうやったら、あなたに金メダルの順番が回ってくると思いますか?
デ:テレビをずっと見ていて頂ければ……そのうち回ってきてるんじゃないですかね(笑)。でも休んでいる暇はありません。ええ、僕は今年銀メダルを獲りましたが、それは来年には確実に��メダルが獲れるという意味ではありません。例えば、以前世界王者になった髙橋大輔も、今回は6位でした。それがスポーツです。予測は出来ない。ですから、僕の銀メダルが意味するのは、僕には大きな責任があるということ、それから僕はもっと練習しなければならないということ、それだけです。頑張りますよ。そしてその時、カザフスタンに金メダルをもたらす事が出来れば、と思います。
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sarahofaugust · 11 years
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sk-sport 2012.11.23 の記事より
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自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、また個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
        デニス・テン「この一年は――今までのキャリアの中で最高の年でした」
   寒さと雪に覆われたアスタナに、デニス・テンを訪ねた。世界レベルの選手であり、我が国のフィギュアスケート界の希望だ。芳しくなかったモスクワのグランプリシリーズのパフォーマンスの後、この19歳の奇才は小休止を取り、カザフスタンに戻ってきた。生まれ故郷でデニスは足首の怪我を回復させ、徐々にリンクに姿を見せ始めている。若手選手との初めてのトレーニングセッションも、「アラウ」のスケート場で開催された。そこでsk-sportの記者は、インタヴューに赴いた。
  
  
(訳注:以下、インタヴュアー=イ、デニス=デ)
足の痛み? 氷に向かうだけ!
イ:デニス、こんにちは! 足はどうですか?
デ:ありがとう、もう良くなってきています。万全の調子とは言えませんが。
      イ:当初、お医者さんはなんと?
デ:靭帯の故障だったんです。どのドクターもはっきりと診断出来たわけじゃないんですけれど。僕達も具体的にどう治療したらいいのかわからなくて。でもアルマティに戻って、また本格的に足の治療に専念しました。
      イ:スケートカナダ(6位)やロステレコムカップ(9位)のことは、二の次という感じ?
デ:そうですね、今年のGPシリーズを戦うのは、僕には極めて困難なことでした。スケートカナダが行われたウィンザーに出発する前の日に足を挫いてしまって、その日の夕方には殆ど歩けなくなってしまったんです。当然凄く調子が崩れてしまいました、それまでとても良い状態だったのに。コーチと、ショートとフリーでクワドを2本入れようとしていたんです。つまり、僕のプログラムはより複雑なものになっていたわけですね。
  ウィンザーに到着して、コーチのフランク・キャロルと、この足の問題をどうしたら良いか長いこと話し合いました。結局、出場しようって決めました。フランクは言ったんです。「足が痛んでも――氷に向かおう。痛みを抱えて滑ったことだってあるんだから。」それは実際そうでした。冬季アジア大会の時のことです。すごいことに、僕はその時もほぼ全く同じ問題を抱えていたんですよ。同じ右の足首で。ですから、スケートカナダにも出なければならないと僕は考えました。一般論で言えば、この大会に出るのは不可能な話だったでしょう。痛みを抱えて、良いスケートをするのはね。でも僕は元々、まさしくそういう主義でしたから。リンクに背を向ける事を拒む――何かを途中でやめてしまうのは、僕にとっては、逃げることと同じだ、という。
  まあ、ウィンザーの後、怪我は悪化しちゃったんですけど。まる一週間をスポーツセラピストと過ごして、鍼治療や理学療法を行いました。プラス、ハードに練習する必要もありました。結果的には、ロシアでは僕はまだ準備が出来ていなかったんです。そこでも僕はフランクと真剣に話し合い、やはりロステレコムカップにも出場することを決めました。
 モスクワでも少ししか練習出来ませんでしたが、リンクを出る時、良くなっているのを感じました。ところが新たな問題が発生したのです。(訳注:競技が)始まる前に既に、6分間練習の後に、それまで起こったことのない何かが僕に起きていました。スケート靴のブレードが踵から外れていたんです。スクリュードライバーで、これはいつも試合に持って行っているんですけど、このアクシデントを解決しようとやってみました。でも無駄にスクリューが回っただけでした。ちょっとその場面を想像してみて下さい、僕は出番を終えてリンクを出る、その右足には怪我、左にはグラグラしたスケート靴のブレード。その時は、正直言って、いっそ(訳注:試合を)始めるのをよそうかとか色々考えたのですが、然し実際には、僕はその不成功な一日を無事に終えることが出来ました。残念ながら、靴に関しての問題は――かなり深刻ですね。
     小さな戦車
イ:では、このトーナメントを振り返って、何があっても出場を希望されたことは、失敗だったと思われますか?
デ:それについてはずっと考えています。多くの人が不審がりました、「デニス、なぜ棄権しなかったんだ!? 調子が100%じゃないばかりか、もっと本格的に足を駄目にしてしまうかも知れないんだから、今シーズンはまるまるスキップしなきゃ!」。勿論、彼らの言うことは解ります。ですが先程述べたように、僕にはこのトーナメントを棄権する事は出来なかったのです。大まかに言えば、自分の取った行動には後悔していません。プログラムをもう一度滑ることが出来ましたから。お客さんにも、鑑賞してもらうことが出来ましたし。加えて、グランプリシリーズに出る事は――途轍もなく名誉なことです。格の高い選手たちばかりがやって来るのですから。これをスキップするわけにはいきません。そう、結果としては、僕はモスクワでは最下位に終わりました。それは、確かに、不愉快なことでしたけど、でも……あとで皆が僕のところに来て言ってくれたんです、「デニス、なぁに君が本当はこんな位置にいるような人じゃないってことは、みんなが知っているよ」って。誰にでもスランプは訪れるものです。アスリートには――つきものですものね。リンクの外には数万の人々がいて、中には批判的な方々もいます。勿論、そういう事にはもう慣れています、世の中というのはそういうものだと理解していますので。だけど、そこで人生が終わってしまうわけじゃありませんから。人は、転んでも、また立ち上がって、今度はもっと強くなるんです。
      イ:批判について触れられましたが。私の意見としては、問題はあなたがカザフスタンで唯一の、ワールドクラスの代表だという事だと思うんです。それは一方では良い面もあるでしょうが、また一方では……。あなたには常にプレッシャーでしょう。あなた一人に、世界の頂点まで上りつめる事をみんなが期待します。時には、プルシェンコとあなたを比較したり……。
デ:仰っていることはわかりますよ。僕についてのそういうネット上の記事があったのも憶えています。バンクーバー五輪のあった2010年に載っていました。当時僕は初めて五輪に出場し、11位という素晴らしい成績をマーク出来たんです。そうしたらある友人がこんな記事を見せてくれました、「テンはプルシェンコを倒せなかった」。正直、ナンセンスだと思いました、ただのティーンエイジャーと、フィギュアスケートの名人を比べるなんて。
 勿論、関心を持って下さった方々には大変感謝しているのですけれど……。現在も僕は、自分のチームというものを持っていません。例えば、日本のナショナルチームがやって来るとき、或いはアメリカでも、カナダでも、ロシアでもいいです。彼らはいつも大きな派遣団を伴っています。大勢のスタッフと全員で取り組むんです。彼らの連盟の仕事も正確です。全ての選手が、プロフェッショナルな準備をし装備を持ち、理学療法士や、心理学者、フィジカルコーチをもっている。その全部で一つのチームなのです。然し僕が世界選手権に行く時、僕の隣にいるのはアメリカ人のコーチ一人だけ。それで全部です。
  とはいえ、違う側面から見てみれば、ある程度の成果も挙がっている(訳注:カザフスタンのフィギュアスケート事情において)とは、もちろん、言えるでしょう。以前はカザフスタンにはフィギュアスケート自体が存在しませんでしたが、今は段々発展してきていますし、それに何より重要なのは、僕達は既に世界のレベルを知っているという事です。僕は自分自身を戦車みたいなものだと感じているんです、この道を開拓するための。もし上手く行けば、僕らの下の世代はもっとやりやすくなるでしょう。僕は自分の後にまた新しい名前が挙がることを、本当に願っています。
      当面の目標は――ソチ-2014
イ:いずれにしても、あなたは今もアメリカに住んで練習しなければなりませんよね。フランク・キャロルコーチのことと、海外での生活について、少し教えて下さい。
デ:彼はもうご高齢ですが、偉大なコーチです。アメリカに渡った初日からそれがわかりました。フランクは――僕が今まで出会った中で、最も賢明であり最高の人物です。彼と知り合う前の自分と今の自分とを比べたら、まるっきり天と地の様ですね。僕はよりプロフェッショナルになりました。今までは、殆どのエレメンツは才能でこなすもんだと思っていたんですけど、今ならそれがテクニックによって出来るのだとわかります。アメリカでの生活に関しては、もう慣れました。(中略)毎日のルーティンは、スタンダードなものです。練習、練習、そしてまた練習。それで殆どの時間を使い果たしてしまいます。でも毎日すごく楽しいですよ。
      イ:屋外でも練習するのですか?
デ:ごくたまにですね。それもスケート場の中でです(訳注:この一文の訳は曖昧……)。
      イ:今は一人暮らしですか、それともお母さまとご一緒?
デ:母が出��るだけ来てくれています。
      イ:合衆国に戻られるのはいつですか。
デ:今常にトレーナーとは連絡を取っています。彼は、真剣に足の治療をしようと言いました。今のところは、アルマティの自宅で過ごしますが。
      イ:この一年はあなたにとって収穫の年になりましたね。国際大会が沢山あって、ニースの世界選手権では過去最高の成績でしたし、ミンスクのジュニアワールドではスモールブロンズメダルもとりました。
デ:おそらく、今年は今までのキャリアで最高の年だったと思います。世界選手権の7位は、勿論、その筆頭ですね。でも僕は先のことを考えようとしていますし、既に来年に向けての大きな計画も立てています。
      イ:それは何でしょう? もし秘密でなければ。
デ:まずは健康状態を回復させることと、残りの問題を解決すること。その後で四大陸選手権に参加する予定です、それと、五輪への切符とでも言うべき、世界選手権にも。ソチへ行くことが僕の目標です。
      クラシックとミン・グンホのファン
イ:もしフィギュアスケートをやっていなかったら、何の分野でこのような成績を挙げていたと思いますか?
デ:音楽でしょうね。子供の頃はコーラスを歌っていました。
      イ:大好きな音楽は?
デ:クラシック。
      イ:子供の頃の夢は?
デ:スケートを引退したら、映画監督か、俳優か、歌手になろうと思っていました。
      イ:どんな映画を撮りたいですか?
デ:今は世界中で凄くレベルの高い特殊効果が出てきていて面白いですよね、たまにどこまでが本物でどこからがコンピュータなのかわからなくなるような。だから僕も、たぶん、アクションものをやりたがるんじゃないかと思います。
      イ:こう申し上げていいでしょうか、フィギュアスケートが――あなたの人生のすべてだと?
デ:フィギュアスケートは――僕の現在であって、将来は、引退した後には、違うことをやりたいと思っています。世界は狭いけれど、同時に無限でもあります。自分を枠に嵌めてしまうのはよくありません。人生は一度きりですから……
      イ:タイムマシンで過去に行けると想像してみて下さい。会ってみたい偉人などはいますか?
デ:僕のひいひいおじいさん――韓国の有名な将軍でミン・グンホといいますが、彼と話が出来たら面白いだろうなぁと思います。こういう人達は強いエネルギーを持っているものです。僕はそれを感じたい。お祖父さんにも会ってみたいですね、残念ながら、僕は一度も会えなかったので。身内の話によれば、この人も驚異的な人だったらしいですよ。
      イ:そうした、強い印象を与える人と出会ったことはありますか?
デ:ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領との出会いがそうですね。僕にとって彼は、真の男、真のリーダーの見本です。
      イ:今までの人生で一番の栄光は?
デ:冬季アジア大会での勝利です。
      イ:では、失敗は?
デ:自分のチームを持っていないことです。僕にはホームで練習する事が出来ません。そのせいで、家族にも会えないのですから。
      イ:では最後に――デニス・テンさん、あなたの一番の夢は何ですか?
デ:世界のフィギュアスケート史に名を残すこと、それから祖国カザフスタンの名を世界に広めたいです!
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sarahofaugust · 11 years
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Megapolis 2013.4.8の記事より
お断り
当記事は、ロシア語で書かれた原典を予め自動翻訳で英語に直し、それを更に私個人が強引に日本語に翻訳したものです。
自動翻訳の限界及び私の語学力の限界に於いて、少なからず誤訳が発生している可能性があります。不得要領な部分は省略乃至略解としておりますし、また個人的な趣味の問題で、意訳も多いです。
もとより概要を掴むための翻訳ですので、悪しからずご承知おき下さいませ。
 
 
 
デニス・テン「まだ道半ば、だからこのメダルは希望の味がします」
   
※序文及び各小見出しは都合により省略
(訳注:以下、インタヴュアー=イ、デニス=デ)
 
 
イ:世界選手権後のお話しで、芳しくなかった四大陸選手権のあと練習方法や食生活まですっかり変えたのだとおっしゃいましたね。何を変えたのでしょう?
デ:マクドナルドに行くのをやめたんです! 冗談です(快活に笑う)。四大陸が終わっても、結果自体には動揺はしませんでした。今シーズンはもの凄く沢山失望させられてきたからでしょう。そしてその時は落ち着いた反応をしましたが、でも練習に戻ると、ひどく焦りを感じました。とはいえ、まだシーズンが終わってしまったわけじゃない。世界選手権が残っています。そこで僕は悟ったんです、これは真剣に自分を変える必要があるぞ、目的も、練習方法も、全てのものを、短期間で進化するために。
 
 
イ:詳しく教えて頂けますか?
デ:今シーズンは常にスケート靴の問題を抱えていました。そして時々自分のスケート靴に不信感を感じていました。ロシアの試合の時には、ブレードが外れたこともあったんです。(中略)その後反対側の靴も壊れてしまいました。だから世界選手権は古いスケート靴で滑ったんですよ。なんでかっていうと、他にそれしかないから(再び笑う!)
 
 
イ:「古いスケート靴」――どれくらい前のものでしょう?
デ:去年のなんですけど。でも4回転を跳ぶようになってからこういう問題が起こり始めましたね、スケート靴はソフトに出来ているので、負担がかかっちゃうんです。練習の際は靴に何ヶ所かテーピングしてから、氷に乗ったりしていました。で世界選手権に発つ2日前に靴を脱いでみたら、かかとの所が取れかかってアコーディオンみたいになってて!(訳注:片側だけカパカパ開く様子のこと(笑)。) 以前も修理してもらった技師のところへ行って直してもらいました。巨大なスクリューで穴を開けたりして、どうにかこうにか固定してもらって。この人なら、また靴を復活させられるのは確実でしたからね。とは言っても、横側から辛うじて固定させたに過ぎません。世界選手権が終わったら、またブレードがぐらぐらしてました。だからソチまでに新しい靴が要るなぁ!
 
 
イ:なぜスケーターの靴はそうしょっちゅう壊れるのでしょう?
デ:複雑なエレメンツばかりですから、その負荷に耐えられないんですよ。僕らはそれに我慢することが大事です。
 
 
イ:アルマティの記者会見で、シャンパンをすすめられても「結構です」っておっしゃっていましたよね。キャンディーも差し上げようと思ったのですが、「ダイエット中ですから」って。食事はどんなものを召し上がるのですか?
デ:普通はダイエットに対する考え方というのは非常にシンプルなものですよね、食事を制限することと、体重を減らすこと。然しそうではありません。(中略)良質なエネルギー源が必要なのです。要は僕のダイエットの仕組みはこうです、必ず決まった時間に食事をすること。更に、体に必要な物を、必要な量だけ、規則正しく食べること、タンパク質、炭水化物その他ですね。
 
 
イ:あなたは今空港にいると思って下さい。そしてお腹がすいています。そこにはハンバーガーしか売っていなくて、ところがこれから11時間のフライトでその間何も食べられない、としましょう。そんな時はどうしますか?
デ:食べない方が良いでしょうね。ただそうは言っても…普段も色んな人に食事に誘われてしまうんですけど。(「でも、それは有り難いことよ」とおっしゃる、母・オクサナ・テンさんの方をちらっと見る。)
 
 
イ:トレーニングに関しては、何を変えたのでしょうか。
デ:アプローチの仕方です。僕のスケート靴は頑丈じゃないわけですから、気を付けて練習しなければならなかったわけで。1時間ずっと滑り続けたりするのが不可能だったんです。そのため、(訳注:練習の)量ではなく質を良くすることにしました。常に僕をサポートしてくれたフランク・キャロルコーチには本当に頭が上がりません、しかも今年は――ご姉妹(訳注:そのどちらかは不明)が亡くなられて、とてもご心痛でいらしたというのに。でもそうした事が僕等の関係に影響することはありませんでした。彼は常に前向きで、熱心に、僕は世界選手権で良い演技が出来るって繰り返し言ってくれました。全般的に、フランクを見ていつも思うことはただ一つ、僕もおじいさんになったら絶対フランクみたいになりたいなぁということ。彼はもう70歳を過ぎていますが、好んで新聞を読みますし、インターネットも使うし、車も乗り回すし、めちゃくちゃかっこいいです!
 
  
 
イ:2年前にお母様にインタビューしたのですが、オクサナさんは「キャロルはデニスの心を治療した」っておっしゃっていました。どのような"治療"が行われたのでしょう?
デ:(快活に笑って)言っている意味はわかります。フランクは温かい人で、僕を理解して接してくれるんです。彼は時間をかけて、辛抱強く、僕の気持ちや僕のメンタリティーを理解してくれます。僕が自分を解放出来るようにサポートしてくれたのです。初めてその練習風景を見た当初は、非常に驚いたものでした。ロシアでの練習とは全くやり方が異なっていたんです。アメリカで練習したいと思い、またそうする事が必要だと感じました。エヴァン・ライサチェ��がやって来て、コーチが居なくても蜂のようにハードに練習していたのにもびっくりしました。そしてその後彼は世界選手権とオリンピックで優勝したのです。その事が僕には強く影響しました。
 
 
イ:フランク・キャロルがこの2人の生徒、デニス・テンとエヴァン・ライサチェクを比較した事は一度もありませんか?
デ:ないです。ただ僕達がリンクにいると、マネージャーがよく僕達は似てるって言います。いつも僕は頭上を見上げて、「そうかな?」って訊くんですけど。(何故ならライサチェクは、デニスよりもずっと背が高いので。――編集部)(訳注:っていう、「こんなに見た目が違うのに?」というデニスのジョークですね(笑)。)でもマネージャーは言いました。「あなたたちには共通の姿勢がある。情熱に燃えているところだ。」って。
 
 
イ:そう思います。挫折した時や、希望が見えない時、スケートをやめたいと思ったりしますか?
デ:どんな人も、そういう興奮状態にある時に、深刻な決断をするべきではありません。決して良い決断にはなりませんから。だから練習で何か挫折を感じても、そこから抜け出すことが必要です。
 
 
イ:あなたはいつも結果は重要ではないとおっしゃっていますね(中略)。今世界選手権で銀メダルをとってみて、世界観は変わりましたか?
デ:この銀メダルは、これからトップクラスで戦っていくための自信をくれました。でもこれからは僕には責任が生じる事もわかっています。それは今までより大変なことでしょう。そういう全てが、必死に練習するモチヴェーションになります。今現在も、スケートをしない時でも、ジムにたくさん通って、体のトレーニングに励んでいます。以前よりも一層練習への意欲が強くなりましたね。世界観に関しては今までと変わりません、氷の上で、人々に豊かな感情を与えられるようなスケートがしたいんです。
 
 
イ:記者会見で、ヘミングウェイの『老人と海』を引用して大勢の人を驚かせましたね。最近読んだ本は何ですか?
デ:『星の王子さま』です。あらゆる年代の人に向いている本ですよね。因みに、世界選手権の勝利のあと…正確には銀メダルなわけですけど、沢山のファンの方から、本を含めたプレゼントを頂きました。読みたいものばかりです。でも残念ながら、まだスティーヴ・ジョブズの伝記が読み終わってなくて――道中(訳注:世界選手権の)には持って行けなかったんですよね、あれ余りにでかいし、場所塞ぎで!
 
 
イ:他に、支えになった引用句はありますか?
デ:お気に入りの本が、テニスプレイヤーのアンドレ・アガシの自伝なんですけれど。とりわけ、彼ともう一人の伝説の選手ピート・サンプラスとの戦いの場面が良いですね。嘗て、アガシはこの対戦相手にボロボロに完敗しました。アンドレのチームは皆、「ピートは男らしいプレイヤーだけど熟練されていないね、コーチも良くないし、彼は自分をコントロールする力がない。」って考えていたのに。でも一年後、メジャートーナメントでピートはアガシを完璧に倒したんです! 僕は、その人が自分を変えると、自分だけじゃなく世間の意見まで変えられるんだという事に心を打たれました。これには凄く勇気づけられました。世界選手権で僕が表彰台に上がった時も(微笑)、自分ですらそうだったんですけど、それでも人々の視線が大きな驚きをもって見ているのを感じました。
 
 
イ:ところで、世界選手権の後あなたのツイッターのフォロワーは凄く増えたんじゃありません?
デ:増えましたね。でもそんないっぱいでもないですよ、2千人くらいかなぁ。まぁ真面目な話をすると、僕の人生の目標は、ツイッターで人気者になることではないので。
 
 
イ:(前略。ジャッジとか、ルールとか、何かそういう問題について述べている模様。直訳では、「まるで癇癪のようだ」という表現も出てくる。)あなたは決してジャッジの評価に不平を言いませんね。それは主義でそうしているのですか?
デ:僕はそれが癇癪のせいだとは思いません。どうしてそうなるのかもわからないです。僕はどういう評価でも全て納得していますよ。今、世界選手権での僕の「銀メダル」は、憤慨されています。でも僕はこのメダルが誰かに敗れた結果なのだとは、思わないんです。そう考えるのは間違っています。フィギュアスケートはとても保守的な世界で、既にこの大会で勝った際に述べたように、僕は「自国初のフィギュアスケートのメダリスト」なんです。だからほんとに幸せです。
 
 
イ:あなたもよく耳にされると思いますが、海外では多くの人が、カザフスタンといえば映画『ボラット』だけを思い浮かべますよね?(訳注:'06のアメリカ映画で、邦題は『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』、有名なブラックコメディ映画。)
デ:もうみんな言いますね。「カザフスタンって本当にこうなの?」って訊かれたりします。だから即座にその場で説明するんですよ、あの映画のロケ地はルーマニアで、僕達とは何の関係もないんだよって。自分の国を笑われるのは侮辱を感じます。(中略)当のカザフスタンが、海外で自国がこういうやり方でからかわれているのを容認しているのも困りものです。チャンスがあると、僕達についてよく知らない外国人には携帯に入ってるカザフスタンの写真を見せてこう言っています、「これが僕達の国なんだよ、甘くみないで!」。
 
 
イ:セリク・サピエフ(訳注:カザフスタンのウェルター級のボクサーで、'05と'07の世界王者、'12ロンドン五輪金メダリスト)は、オリンピックの金メダルについて、血と痛みと骨折の味がしたと言っていました。あなたの世界選手権でのご褒美は、何の味がしますか?
デ:僕とセリク――あんな偉大な選手とじゃ、比較にならないですけど。彼のキャリアは申し分のない地位が揃ってるんですから。僕はといえばまだ道半ばですからね。だから僕のメダルは、希望の味がするかな。あ、希望っていっても――女の人の名前じゃないですよ(笑)。
(訳注:ロシア語で「希望」を意味する「ナジェージダ(ナジェジダ)」は、ロシア語圏の女性の名前でもある。因みにロシア語圏では、ファースト・ネームは宗教系の古代の偉人・聖人などの名を由来とした、普遍的な既存の名前を使い回すのがふつうで、特殊な名前の人はまずいない。したがって割と「会う人会う人ハメハメハ」状態である。そのため、こうした冗談もより通じやすいと思われる。)
 
 
イ:映画を撮りたいと思ったことはありませんか? 作曲をしたいとか?
デ:子どもの頃は、スポーツ選手のキャリアが終わったら、そうしようと思っていました――8歳の頃にね! また当時は、スポーツ選手をやめたら俳優か映画監督になりたいとも言っていました。それもハリウッドで、ってね。面白いことに、何年も経ってからこの話が本当になったんですよ。ロサンゼルスで、僕は何度も思ってたんです、「さあ、いつ映画撮ろうか?」って。だけど僕、昔そんなことを思ってたのなんて自分でも長いこと忘れてたのに! (訳注:この辺りの訳は曖昧です)  とはいえ、面白い映画を観ると、「ワーオ、なんて面白い世界だろう。自分もあそこに行けたらいいのに」と思いますね。
 
 
イ:その俳優になって演技する事を空想するような、そういう俳優はいますか?
デ:生憎俳優さんには詳しくなくて。とりあえずナタリー・ポートマンかな。でも、ほんとのこと言うと、クリント・イーストウッドと一緒に仕事が出来たら面白いだろうなぁって思うんです。彼は他のどの俳優や監督よりも、印象的です。
 
 
イ:今度ショーを開催されるそうですね。いつですか?
デ:5月24にアルマティで、それからアスタナで5月25日に。
 
 
イ:あなたの20歳のお誕生日プレゼント、といったところでしょうか。
デ:(快活に笑って)寧ろ、国へのプレゼントですね。このショーの目的は、人々をフィギュアスケートに引き寄せること。ずっと考えてきたんです、「カザフスタンでフィギュアスケーターを生で観る事は出来ないもんだろうか?」と。(中略)初めはTV放送も無理だったんですよ。ですから僕等の活動について理解してもらう必要がありました。特にショーは素晴らしい役割を持っていますし、また選手にとっても、ファンと存分に親しむことが出来ますしね。
 
 
イ:来年のオリンピック開催地のソチのお話を伺いたいのですが。この街には一度行かれたことがあるとか?
デ:CSKA(訳注:モスクワのスポーツクラブ)で練習していた時、サマーキャンプでソチに行きました。そこで一ヶ月ほど、フィジカル・トレーニングを。だから会場のある街のことは知ってるんです。でもあれからどう変わったのか、見るのが楽しみですね。そして、僕がこの間にどれだけ変わったのかも。
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