アゲートの蜂
あの孤独な冬の事を思い出していた。充実した暖房施設のお陰で部屋はあたたかく、間接照明に照らされた私自身の影がただ所在無さげに辺りをさまよっていた。常に寂しさを感じていた。寂しさでどうにかなってしまうのではないかと、そう感じた事もあった。一人で街を歩いていても、部屋に居ても、何をするにつけても孤独であるというその真実が思考にしがみついて離れなかった。博物館島を歩く。すり減った黒いドクターマーチンの靴底。帽子を被り、マフラーに顔を埋めて、タイツを二枚履いた。外気に晒した皮膚が、すぐに水分を奪われて凍結してしまうのではないかという恐怖を抱いた。木は枝が剥き出し。雲は分厚く、その上に陽が輝いているとは思えず。石橋から川を見下ろす。街の中心を流れる淀んだ川だ。人々はそんな冬を耐えるように、ただ静かに時間をやり過ごしていた。どこに行けば気持ちが癒されるのか。どうしたら孤独が消えるのか。楽になる方法も分からずにただただ耐えるのは息が詰まったけれど、何だかそれが当然のような気がした。忙しくしていた時は、五感や六感が麻痺してそれを認識出来ていなかっただけで、孤独や寂しさはもしかしたら今までずっと、そばにあったのではないか。そんな気がした。いや、そうに違いないと言う気がした。だから、この厳しい冬国で一人石畳を歩いて���る時は、どこかほっとした。逃げずに向き合っているという事それ自体に安心していた。寂しさは指の先を伝って心臓までやってくる。心臓まで到達した時、息苦しくて、だれかになにかに助けを求めたくなる。でもひとりでどうにかしなければならなかった。沈黙を保ってやり過ごす。時折視線をあげると、同じように耐え忍ぶ人たちが通り過ぎていくのが見えた。石畳。灰色の中の黒い木の枝。黒い服に身を包んで耐えるように通り過ぎる人たち。シナゴーグの金色の天井。黄色い塗装にオレンジの蛍光板のトラム。行き先は街の東の奥の方。私がたどり着けない東の街。マーケットのほのかな電飾。ホットワインを口に含んだ時の暖かさと母の紅茶に似た安心感。南に向かう乗車客の少ない電車。何もない駅のホーム。たまに通り過ぎる少しだけ大きな駅。紙魚だらけの一人の部屋。私は確かに夏の間もあの町に住んでいた筈なのに、思い出すのは、思い返すのは冬の事ばかりで。冬の街の事ばかりで。それがたまに恋しくて仕方がないような気がする。ただひとりで孤独と寂しさに向き合っていたあの時。何者でもない身分で街に漂い続ける。今、あの頃抱えていたのと同じ寂しさを感じる事はほとんどない。違う種類の寂しさや苦しさを自覚する事はあっても、あの時のような気持ちを感じる事はない。母国では冬は全く別のものだ。きっと、私があのときに抱いていた気持ちはまだベルリンの街を漂い続けている。湿気一つない、つんとした冬の香り。澄み切った木の匂い。バスを乗り継いで、古い建物の市役所の前までやってくる。大通り。たくさんの店。アジアンマーケット。三パック3ユーロの冷凍納豆。夏にたくさん黒い服を買った安い洋服屋。貴方は歓迎しないと言われた銀行の ATM置き場。高架下のおもちゃ屋さん。誕生日にも食べたケーキ屋さんのケーキ。ベルリン訛りの、白髪で、長い鼻毛が飛び出たいつもタンクトップに作業着の怖い管理人。地下の洗濯場が怖くて、洗濯はほとんど手洗いだった。あの廊下の電気にもいつの間にか慣れて。部屋の間接照明。自分の影しか映らない。フリードリヒシュトラーセの大きな本屋。好きだったあの本は結局買えず終いで帰国してしまった。マウアーパークのバスケットコート。ドッグラン。バルコニーを見つめて人々の生活に思いを馳せ。大人数で食べた火鍋。何時も集まったあのビールバー。ベルリナーピルスナー。ポツダムでのカヌー。湖の真ん中の教会。大雪のサンスーシー宮殿。サンスーシー宮殿横の、ガラス張りのカフェで冬にアイスを食べた。ノーレンドルフプラッツのレインボー。ホテルグニアの優しい人たち、シーツの香り、新しい生活への期待と不安。目の前のビルバー。ドイツの朝ご飯。
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オートマティズム
君に味方した事はないけど、君に悪口だって言った事はないよ。
この葉脈を辿っていけばきっと見えるはず。
冷えた水滴を肺に注ぐ。
貝殻と瑪瑙、石英。
こうして途方もない時を容易く越える。
壁の四隅の反射光。
木彫りの蝶々。銅板の蛾。アゲートの蜂。
張り詰める糸に不釣り合いな撫で肩。
どこにも行けない事で掬われたような気持ちになった。
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横隔膜のむずむず
なんとなく耐えられずに筆を取る。
毎日仕事から帰宅して、何かを口にして、枕元の灯りの中で本や漫画を読んで、目蓋が重くなってきた頃に灯りを消す。そうして過ごす日々は、暇つぶしとして考えると丁度いいのけれど、なんだか最近張り合いがなくなってきて、横隔膜がむずむずするような気持ちになっている。特に飾らない言葉でいろいろ考えてみようと思う。私の文体とは?
久しぶりに、ただ自分の為だけに書く文章。わたしはどのようにして話していたっけ。まずそれを取り戻す所からだろう。丁度、バージニア・ウルフの「自分だけの部屋」を読んでいて、ジェーン・オースティンの文体を褒めていたので。嫌味のない、飾らない、率直な私の言葉?自分が訴えたい何かに最適化したことば?自分が他者に与えたい影響を考慮した言葉?
誰かに向けて何かを発信したいというよりも、自分の思案の貯蔵庫としてこの場所を使おう。だからなるべく率直な言葉がよい。
そういえば、今度の日曜日に絵画教室の体験に行くのだ。前々から自分の気持ちを昇華する手段が欲しいと思っていて、でもあれもこれも足りなくて。全て中途半端で。今年に入ってからというもの、月に一度くらいのペースで美術館を訪れているし、体系的に・積極的に美術の知識を取り入れる事を始めたので、その一貫という事で絵の勉強をはじめて見ようと思った。きっと技術的な知見が身に付けば、また絵の見方も変わるだろう。そういう期待を込めて。頭の中に浮かぶイメージを表現したいと思っても技術がそれに及ばず悔しい気持ちになった事もあったし。それから仕事でいろいろとコーディングをする機会もあって、私は技術に対してそれなりの敬意を払っているらしいこともわかってきた。0から1を生み出すアイデアマンは確かにすごいと思うけれど、どちらかといえばそれを実現する技術の方に私は興味があるのだろうと思う。だからコンセプトアートよりも絵画の方が好きだし、システム設計よりも実際のコーディングの方が好きだし、職人芸と呼ばれるものを見るのも好きだ。
昔からどちらかと言えば知識を貯えるほうが好きな性質で、自己表現と言われてもあまりよくわからないところがあった。なにかテンプレートがある方が理解しやすかった。自分はまだまだ知識不足だから、アウトプットするには早いと思っている節もある。その気持ちはあまり変わっていない。
でももう25なのだし、そろそろそんなこともいっていられないのでは、と言う気がした。一旦止揚する事をやめて、今現在の成果物?集大成?ひとに対して何かを提供する事?の手段を模索し始めてもいいのでは、と思うようになった。というか、その繰り返しでしか質は向上しないのだ、とプログラミングの勉強を通じて思った。
前までは何を伝えたいのか、何を書きたいのかがいまいちわからなくて、ほとんどこういうのは長続きしなかったけれど、こうして書き出してみると、以前よりは前に進んでいるような気がするようなしないような。
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