Tumgik
nylon-pa66 · 2 years
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"ひかりのくにから ぼくらのために"
『シン・ウルトラマン』を観てきました。
■前置
特撮は好きだけど、どちらかと言えば等身大ヒーローの方が好きなのでウルトラマンにとても詳しいわけではないです。
各ウルトラマンの区別と名前くらいはわかるのと、コミカライズ作品の『ウルトラ超闘士激伝』、『ULTRAMAN 』あたりを読んでるので有名どころの怪獣やエピソードはなんとなく知ってるくらい。
庵野作品は直撃世代なので興味があるところは履修済み。 TV シリーズエヴァは副読本を読むくらいにはどっぷり。なので、『ウルトラマン』が『新世紀エヴァンゲリオン』においてどれだけ重要な作品であるかは理解しているつもりだし、どちらかと言えばエヴァの流れで『シン・ウルトラマン』を観ようと思った感じ。
■感想
観た直後の感想としては、個人的には面白かったけど他人に薦めるのは躊躇うくらい。 題材に興味がある人は観に行くといいと思います。 点数化すると75点くらいかな。 ただ、流行りモノだからと観に行くと、結構ポカーンとする結果になるんじゃないかな、と。
万人受けの度合いで言えば、シンゴジの方がバランスが良く、『シン・ウルトラマン』はあくまで庵野秀明版『ウルトラマン』とその派生の物語であって、『シン・ゴジラ』のようなそれまでのシリーズ作品とは異なった切り口で描かれた作品ではない、と感じました。
『シン・ゴジラ』と同様に、俳優陣の演技は素晴らしく、いわゆる物語パートは十分に映画として楽しめる出来になっているし、観るにあたって他作品の予習などは特にしなくていいと思います。 加えて、この作品の評価は『ウルトラマン』への思い入れによって大きく変わる(強ければ強いほど評価がブレやすい)な、とも。
以下、ネタバレについてあまり考慮せずに書くので、これから観られるご予定の方はご注意ください。
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元々万人受けする題材ではないのでエンタメ化するにしても限度がある、というか。
そもそも『ウルトラマン』を大好きな庵野さんが過度なエンタメ化を許さなかったような、そんな印象を受けた。
そういう意味で、シンゴジはエンタメ性に振り切った結果として大成功していると個人的には思っている。
※監督は樋口さんだけど、庵野さんはスタッフロールで総監修:庵野秀明ってクレジットされてるので、実質……
ストーリーラインは『ウルトラマン』からエピソードと登場怪獣をストレートに持ってきつつ、『シン・ウルトラマン』のエピソードとしてアレンジして無理なく落とし込んでるので、展開全てがファンサになっている。
小ネタも盛りだくさん入っていて『ウルトラマン』が好きな方は冒頭からとても楽しいだろう。
ただ、気になったのは、構成プロットというか作品の思惑が大筋で3つくらい感じられ、その混ざり具合のチグハグ感を感じたりもした。
・『ウルトラQ』の流れを組む、怪奇特撮としての『シン・ウルトラマン』
・『シン・ゴジラ』のフォーマットに落とし込んだ『シン・ウルトラマン』
・(既にしてるんだけど)グローバル展開を見据えたヒーロー特撮としての『シン・ウルトラマン』
開幕のタイトルクレジットからもわかるように、序盤の30分くらいは(おそらく)庵野さんが撮りたかったであろう、"怪奇特撮としての『シン・ウルトラマン』"という感じを受けた。 ダイコンフィルム版『帰ってきたウルトラマン』のセルフオマージュかなとも思ったりする。
「ヒーロー特撮」でなく「怪奇特撮」として撮られているため、物語の主役はそれに遭遇する人間側の主観として展開される。 ヒーロー特撮の流れから見るとだいぶコミカルな描写に映る禍特対。 人間に対する脅威として描かれる禍威獣と、空からの来訪者。 主軸は人間であるところからブレることなく第一幕とも言えるこのパートは終わり、掘り下げパートというか、いわゆるシンゴジフォーマットによる作劇へと続く。
現場の問題がそれより大きな組織に派生して、人間関係や、利権などが絡まったヒューマンドラマとしての展開。 ここは俳優陣の演技も素晴らしく、物語も大きく動くので、観に来た大半の人が期待していたパートかなと思う。
ただ、モチーフの持つ属性的にシンゴジほどガッツリ展開出来ず、またシンゴジと比較されることが明白だった為か政治ドラマ的展開はだいぶ控えめ。 政治色を薄めて、禍特対中心のドラマ展開にしたのは良い差別化だと思ったけれどメインストーリーの展開要素も多くて、禍特対を掘り下げきるにまでに至らなかったのは少し残念に思う。
原作オマージュとはいえメフィラス編冒頭の表現は賛否両論かもな、、、とか。 でも、居酒屋パートはとても好き。
終盤パートは急にマクロ的展開のヒーロー特撮になって、観てる時から(映画を)終わらせる為のパートに思えてしまった。 題材はとても『ウルトラマン』なのに、その扱いの粗さがどうにも、、、
展開的にもシンゴジのなぞりに感じられやすく、かと言ってシンゴジほど丁寧に描写されている訳でもなく。 シンエヴァの時にも感じたけれど、丁寧な序盤に対して終盤のたたみ方がどうにもパワープレイで尻すぼみ感が拭えない。
こう、先に挙げた構成プロットのラインが綺麗に整えられているとは思えず。全体的にやりたいことはわかるのだけど、、、と思わざるを得なかった。
あとは、もう完全に好みの領域だけれど。 CG による戦闘パートがどうにも物足りない。 『ウルトラマン』らしいといえばらしい戦闘なのだけど、らしさの再現に終始していて個人的にはイマイチ。 終盤の八つ裂き光輪なんてなんの冗談かと思った。 ゲーム版『ファイティングエボリューション』的な戦闘がシネスコで観れると勝手に思ってたから余計に、、、だし、とてもとてもこちら側の勝手なのだけど。
そして全体の構成として、冒頭の『ウルトラQ』の流れのパートで庵野さんのやりたいことが全部消化されてしまっているのも気になる。 続くパートにも怪奇物語としての作劇は継続しているし、俳優陣の演技に関しても物語の動きにかんしても続くパートの方が特筆すべきところは多いのだけれど、、、『ウルトラマン』として作品を捉えると、どうにも冒頭30分で全部を出し切ってしまっているように感じる。 ……なんか、「シンゴジライクでひとつ」ってオファーの残滓を感じるのが、少しだけ残念だった。いや、これも仕方ないとは思うけど。
とは言え、作品はとても高水準でまとまっている。
ヒーロー特撮として比較的マニアックなポジションにある『ウルトラマン』を、怪獣特撮としてメジャーなポジションにある『ゴジラ』と並ぶラインに押し上げるという制作意図は十分に果たしていると思う。
続く『シン・仮面ライダー』はどうなるのか、とても楽しみです。 あと、米津さんによる主題歌の『M八七』が曲も MV もジャケットもとても良いので是非聴いてください。
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nylon-pa66 · 2 years
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“Catch up, latency”
知人(と言っても、1週間ほど前にお会いして少しだけお話しさせていただいただけなんですが)がアルバムをリリースしたのでその感想です。
https://twitter.com/tlgpda/status/1466787076003995649?s=20
今日(2021/12/5)の21時頃からインスタライブもされるそうなので、よろしければ併せて是非。 https://www.instagram.com/bakubakubaku00/
以上がこの記事の本題になるので、以下は読まなくても大丈夫です。 こんなところ誰が読んでるかわからないですが、少しでも動員のお助けになれば(ならない)
DM で送るにはあまりにも冗長で取り留めがない文章なので、tumblr に。 他の人の曲のタイトル付けるのどうなの?と自分でも思ったりしますが、作品のタイトルを冠するわけにもいかないので。
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表題イメージにそぐわない綺麗な主旋律と、それを遮るノイズとして訪れる嗚咽のようなディストーション。 主旋律も歪みも一度消えて下水へと流れ行く。 そしてまた繰り返され、後に残るのはいつもの拍動だけ。 その身から溢れるものはいつもいつも綺麗なのだけど、残されていく身体と向き合って、引き摺って、次へ。
表題から受けるおどろおどろしさとまた反するような旋律と細く高音のヴォーカルで奏でられる2曲目。 表題が表すのは『三枚のお札』のお札や『古事記』でイザナミが使う黒御縵や櫛の歯を指す。 それは、お話におけるデウス・エクス・マキナであり、劇中人物の"願い"、"祈り"の表出である。 聴き取れるか否かのレベルで重ねられたヴォーカルは、それこそがパーソナルな願いであり、祈りとも言える。 祝詞も呪詛も伝わってはいけない。秘められた事にこそ意味があって、意味を持つ。
吐き出し、願いを込めた後に駆け出す。 それまでの大人しめの旋律と異なり少しだけアップテンポになって、ヴォーカルも少しだけ聴き取りやすくなる。 それでも気分が晴れる訳ではなく、どこまでも灰色の旋律は何処かに存在する陽だまりを求めて彷徨う様を表しているようにも思える。
多分、一番キャッチーな曲なのではないだろうか、と私は思ったりする。 耳馴染みの良いポップさを含んだメロディ、それでも唄われるフレーズは何処か湿度をはらんでいる。 "かなしみ"は個人のものであるからこそ、客観視された"かなしみ"は何処までも冷たく、本人でさえ滑稽にポップに語れてしまったりするのだろう。
人間は想像する生き物であって、その想像力は計り知れない。 殊に悪い方向への想像はどこまでもどこまでも先の見えない森を駆け抜けるかのように。 そしてそれは旋律とともに加速していく。
冠された名前からインスパイアされた曲なのか。 比較的湿度をはらんだ収録曲の中で、他とは異なる明るさを感じる。 それまで内観に向けられていた感覚が、外的因子により開かれたような。 光、のようなものに不安の森のその先で出会えたのだろうか。
表題とまた反して、高音の冷たさとは異なり旋律に熱を感じる。 冬の時代はやがて明けて訪れる春への準備期間であり、ともすれば蓄えているこの期間こそが春や夏よりも、もっと熱量を持っている時なのかもしれない。 それまでの楽曲が外面の静けさ(おとなしさ)を表しているのであれば、この曲は内面に秘めた熱量や、やがてそれが放出される瞬間に至るステップを予感させる。
残響の使い方が好きです。
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"敬具、結んでくれ 僕(たち)が正しくなくても”
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nylon-pa66 · 2 years
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"ひらいた、のち"
こちらの記事は前の記事の続きです。 引き続き 映画版 『ひらいて』、そして原作小説版の内容に多々触れています。 閲覧につきましては予めその旨ご了承の上ご覧ください。
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映画版を観た余韻そのままに原作小説を読んだ。 結果、求めていた答えはそこには書かれていなかった。 と、いうか映画版でひっかかった疑問、その全てが映画版の独自要素で監督による作家性の部分だった。
映画版で歪に描かれていた親の姿。
細かな設定は異なるものの、子供の障壁としてもしくはこの物語において破られる一つの殻としてのたとえの父親はほぼそのままであったものの、地の文では現れるもののシーンとしては作中でほぼ描かれる事がなかった美雪の母親。 そしてなによりも、私が一番恐怖を感じた愛の母親においては、その作中の登場タイミングはそのままであるものの、どちらかと言えば一般的な、むしろ娘に対する理解のある母親として描かれ、物語終盤においては愛の背中を押す役割さえ与えられる。
……あの映画版のお母さん何処から来たの?
映画の中盤以降、警笛を鳴らすかのように挿入される目覚まし時計のアラーム音。 それも原作小説版では鳴ることすらない。
原作小説は映画版と扱う物語は同じではあるが、初めから完全に恋愛小説である。 原作小説版において、階下に向けてわざとゴミ箱が投げ捨てられるなんてことは無く、心惹かれている異性とのささやかな触れ合いを求めて手伝いをお願いをする。 映画版よりも打算的で臆病な愛が原作小説版では描かれる。 原作小説版では愛のモノローグで構成される地の文により、愛の内面や思考が描かれている為、映画版で破天荒とも映る突飛な行動の背景が順序立って説明されている。 思考のプロセスはその年齢特有の未成熟な不条理を孕むものの、「それ以外考えられない」、「それしか方法が浮かばない」為そこに至るのは仕方ないとも思える。 あくまでモノローグのある愛については、だけど。
映画版においての身勝手とも暴走とも言える愛の振る舞いには、自制出来ないことの自覚も含めた、あの時期特有の葛藤が確かにある。 自分の振る舞いが他人の眼にどう映るか、それがどう関係性に影響するかの怖れ、そして関係性の変化とともにその怖れがまた異質なものに変化していく。
パンフレットのインタビューにもあるように、 映画版と小説版の決定的な違いは視点であり、 美雪視点のパートが検討されたり映画版の脚本を手掛けるにあたって原作小説からあえて距離を置いてみたりの葛藤の末に形となった映画版は首藤監督を通した『ひらいて』になっていた。 愛の主観を意図的に廃したことによって、観客は愛達を客観的に見ざるを得ない立場になる。
原作小説の後半、自暴自棄とも言える状態になった愛の主観的で夢現な状態。 それは映画版では客観的にしっかりと周囲から受け入れられない奇行として描かれる。 原作小説版で深くは描かれないたとえの父親と美雪の母親。 この二つは愛の視点から伺えるものでは当然なく、この物語を客観的に描き直す場合には(配役の都合もあるもの)ディテール追加の必要性が出てくる。 私が(青春キラキラ映画にとっては)歪と感じた親の描写は、ディテール追加と客観性の増幅の役割を兼ねていた。
中盤以降、繰り返される目覚まし時計のアラーム。 一種のジョークのように思えるあれは、音通り警鐘だと思う。 モノローグ廃した結果、何かしら愛(と観客に)に自身の異常性を知らせるギミックが必要になる。
アラーム、自転車の爆走、たとえ父との決着。話の都合上、物語を進めるためのシーン演出がどうにもコミカルだったのは何故だろう。
映画版は原作小説の映像化ではない。それでも同じ物語だ。 監督のフィルターを通して、原作の要素が抽出され、エピソードの前後関係を入れ替えたり重ねてたりして再構築されている。 それでも原作小説の要素を損なうことなく余すことなく取り出して作品中にちりばめているのは、首藤監督が原作小説の大ファンだからに他ならないからだろう。
この物語の主題はやはり恋愛であり、青春であり、それらを通しての成長だ。原作小説の終盤では「ひらく」ことへの渇望がはっきりと羽化について、孵化について記される。
原作小説を読み終えて、愛について特異性を感じることは無かった。 過剰なまでにストレートだな、とは思ったけれど、これくらいの打算と臆病さなんて彼女に限らず誰もが持っている。 乙女心とはこうも同時に色んなことを考えるのかと変な感心をしたりはしたけれど、結果として歪な選択をしてしまう未熟さも自然に感じた。 抱えたそれらを発露するか否か、その手法の選択に愛という人物の"らしさ"が出ているとは思う。
たとえについても違和感はない。 ごくごく平凡な、どこにでもいる男の子である。
ただ、美雪には得体のしれない気持ち悪さがある。 単純に愛の対比として造詣された結果なのかもしれないけれど。 「こんな奴いねぇ」と「こんな奴存在して欲しくねぇ」とが混在する拒否の感情だけが沸いた。 一見して善性に見えるそれに、背負った背景のよわさが纏われて、根拠を持たない正当性が根拠なく裏付けされる。 振り返っても、美雪のような子は何人か存在した。 正しく、正しさを、伝えてくる女の子。社会経験の乏しい集団の中で、社会性を武器に蚊帳の外から善性で狙撃してくる、黄門様の印籠のような女の子。 パンフで触れられているように、映画版の美雪は原作小説版を基に新しく作られた美雪であり、その印象も原作小説版とは異なる。
映画版の美雪には原作小説版ほどの善性を感じなかった。 原作小説版よりも狡猾で打算的で、欲望や好奇心がある人間味のある美雪に思えた。 抱えている持病の影響も印象が違っていて。 それにより、一種の特異性/完全性を手に入れているように見える小説版の美雪に対して、映画版の美雪は持病の影響によっていくつかを削られている印象を持つ。 孤立の齎す影響の描き方が大きく違うな、と思った。その実は変わらないのだろうけれど。 たぶんこれも、視点の違いによる客観性の影響なのだろう。
���…と、ここまで好き勝手に書き連ねておいてなんだけど、どう考えてもこれらの感想は観客個々による。 観客それぞれの極個人的な経験や思い出によって、感情移入の先も登場人物それぞれに抱く感情も異なる。
原作小説版の『ひらいて』を首藤監督が映画版『ひらいて』としたように。
私にとって小説版『ひらいて』は恋愛を主題とした青春小説であり、映画版はサイコホラーだ。 小説版の終盤の電車の件。 小説版でタイトルを強調するために描かれた一連のシーケンスは映画版でも最初はあったという。 公開された映画版、その一連のシーケンスは主題歌に置き換えられて同様の意図を描いていた。
そして、大森靖子による主題歌版と言える『ひらいて』
映画版で意図的に廃された愛のモノローグを異なった形で表現したようなそれは、流れるエンドロールとともにそれまでの120分を振り返る 3:30 になる。
"ひらいて もっとひらいて 最初のすこし自分でしたその先 ひらいて" -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
全然関係ないけれど。
映画版『ひらいて』好きな人は『SSSS.GRIDMAN』も好きなんじゃないかと思う。 愛と美雪の最初の絡みを観たときに、「旧劇じゃん……」と心の中でつぶやいたことも記しておく。 ヒザについては、「自転車の爆走シーンって足元も映すとこんなにカッコ悪いんだな……」って思いとともに印象に残った。
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nylon-pa66 · 2 years
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"ひらいて"
ほとんど期待をせずに観に行ったけれど、その後もう1本観る予定を取りやめるくらい映像体験として満足だった。
本当は 1st day に観るはずだった。
チケットを予約して上映開始10分前くらいには劇場に着くように家を出たけど、運悪く電車が大幅に遅延していて。 本編開始にすら間に合いそうにないからその日は諦めた。
近場の映画館はコロナ禍の影響により毎週水曜日は特別料金になる。 朝起きて、空席状況を確認して再びの予約を取った。 午前中から別の用事の為に出掛けていたけど、また電車のトラブルに巻き込まれて予定が狂った。
巡り合わせが悪いのかな、と少しだけ思った。
有名小説を原作に人気俳優陣を起用した、青春キラキラ映画。
流行病のように、公開時に少しの間だけワイドショーや CM を賑やかし、鑑賞後に観た人が少しだけ前向きになる、そして忘れられていく。 そんなよくある、季節ものの麻疹のような邦画。 その類だと思って観に行った。
私は原作小説をまだ冒頭までしか読んでいないけれど。映画版は原作小説と同じ物語を意図的に異なる描き方、異なる色合いで精細に再描写していて面白かった。
多少、その熱に浮かされている感じが残っているので少し感想などを書こうと思う。
以下、映画版の展開描写を多分に含むので自己責任でご覧ください。
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私が観たのは恋愛映画じゃなくてサイコホラーだった。
青春キラキラ映画なんて思い込みは、上映開始数分後にゴミ箱と一緒に投げ捨てられた。
全般に散りばめられる、無言の間の中での視線の応酬と、表出しない(させない)感情による殴り合い。 中盤以降、意図的に繰り返されるアラーム音。 作中の台詞でも触れられるように「自分の世界」で生き続ける人達。
個人的に一番恐怖を感じたのは愛の母親。 序盤の登場シーンとの対比も相まって、後半大量のカップケーキとマドレーヌを(単身赴任の?)父親に送る為に梱包するシーン。 「特になんでもない日」という台詞と真逆のその姿、起こっている現実を捉え切れていない発言にゾクッとした。
映画のメインターゲットからは確実に外れているであろう私が、懐かしさを感じる青春描写(……原作の綿矢さんとはあまり歳が変わらないのでそれはそうかもしれないし、青春のステレオタイプとは大凡ああいうものであるとも思える)と、突きつけられる現実描写の対比のエグさ。
誰もが視野の狭さから「自分の世界」を抱えこみ、その事を他人に悟られぬように大切にしていると同時にその萌芽を期待し続けている時期。
そんな時期を往々として青春と呼ぶのだろうとなんとなく思う。 劇中の愛、たとえ、美雪については価値観に対する多少の世代格差こそあれ、描かれる青春自体にはそこまで大きな違和感もない。 ただ、彼らを取り巻く大人達も「自分の世界」を抱え続けているように描かれていることに恐怖と違和感を覚えた。
『ひらいて』というタイトルは、終盤での台詞でも触れられるように精神的な寛解や、青春を経ての萌芽や孵化、羽化のニュアンスが大きいように思う。 とすれば劇中でのあの親達の描かれ方は、それらがうまく出来なかった雛の果ての姿であり、それぞれの子供達が嫌悪して巣立ちを決意する為の舞台装置ではあるのだろう。
"鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生れようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。"
ヘルマン・ヘッセが『デミアン』で書いたように、破られるべき殻として親達は物語の中に配置されている。
たとえにとっては直接対峙する存在として、 美雪にとっては近い未来で障壁となる存在として、 愛にとっては理解出来ない、いつか対峙する存在として。
それぞれの家庭に劇中であまり深く描かれない過去があり、事情がある。 そして、それぞれの親が「自分の世界」に囚われながら目を背けている。
劇中でわかりやすく描かれているたとえの父、 糖尿病の娘の自立から目を背けている美雪の母、 「(たとえ娘の)顔がわからなくなっても爪の形でわかる」と急に言い出す愛の母。
……怖いんだよ、愛の母親。
青春キラキラ映画としては不要と思えるその歪な親の描写。 シーンとして多くはないものの、限られた尺の中で削る事が出来なかったこれらのシーン。 そしてそれぞれの親と子との対比描写は『ひらいて』という作品を映像化する上で必要不可欠だったのだろうかと想像する。
そもそも、青春キラキラ映画なんて思い込みは開始数分でゴミ箱と一緒に吹っ飛ばされてるんだけど。
幾つかの答え合わせをしようと原作小説を読み始めたけれど物語進行は同じでも受ける印象が大きく印象が違うので夜の学校進入迄で一旦読むのを止めて感想を書いている。
パンフレットのインタビューで触れられているけど、映画版は原作小説と視点を意図的に変えている、と。
愛の主観で地の文も愛によるモノローグで描かれる原作小説はその導入から恋愛小説であり、映画版序盤の愛の破天荒じみた動きも原作小説を読むとそれなりに得心が行く。 映画版は愛から引いている演出になっているので、登場人物が織りなす物語のその場所にたまたま居合わせた誰かの視点として描かれる。
結果、愛という人物を客観視する事が多くなるので受ける印象は大きく異なる。
映画版は(サイコホラーは言い過ぎだけど、)恋愛ジャンルとして括るにはジャンルが狭過ぎる。なんというか、純粋に出演陣のファンで青春キラキラ映画を期待して観に来た人が気の毒になるくらいに他の要素が強い。 映画作品として、若手、ベテラン含めて演技が好演だったし満足度も高い。 間と視線と表情による無言の演出はだいぶ攻めていて好きだし、構成も展開も卒なくまとまっていると思う。
愛が自分よりも大きな邪悪を真のあたりにして正義に目覚める、多少のご都合主義展開に対するコミカルな演出が気になったけど……
何処までが原作小説通りなのか答え合わせをしたいと思った。 でもきっと映画版は二度と観に行かない。 パッケージ版は買うかもしれないけど、きっと観ない。
そんな映画だった。
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nylon-pa66 · 3 years
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“NO MAN’S LAND”
似たような感想、似たような感覚を抱かなけば異物となり 異物であれば敵だという
今日日、映画やゲームのモブですら至らないような易い、浅い思考が溢れていて気持ちが悪い 同じ口で多様性の尊重だとか個性だとか、偏った選民思想にしか聞こえないことを語り始める
近似値が寄せ集まった結果として本来の形まで不確かになり、あまつさえ誤差の範疇をきっかけとして更に小規模な諍いを起こしてみたりする
あゝ、あいもかわらず平和でくだらないなと思う
水平思考の果てに、借り物の感想や感覚をコピペして消費した気になっている 消化を伴わない消費に意味はあるのだろうかと、購入しただけで積み上げているプラモデルの箱を眺めながら考える
当たり前のように消費と消化は異なる
消費の量と消化の質は異なる尺度であり、そもそも並列で比べるようなものではない。 誰かの噛み砕いたそれをさも我がことのように語っても、それは消費であって消化ではない
既知であること
その一点に於いて同じように見えるそれも、暗記科目と応用科目くらいには異なる 答えを知らなければ 0 であるそれと 答えを知らなくても 0 以上に出来るかもしれないそれと
消費の速さをもって、消化の遅さを嘲笑う
一過性のマウンティングの為のそれに何か意味があるのだろうか 「よく噛んで食べなさい」とは言われなかったのだろうか
五月蠅い、黙れ、五郎さんに怒鳴られろ
「子供がまだ食ってる途中でしょーがっ!」
食物であれ、文化であれ、咀嚼を経ないと身にはならない どれだけ消費しても、消化を伴わない消費では 0 のままだ
土壌がない
その憤りは妥協という絶望を選択"しない"為の憤りである だがそれを受け入れる土壌はない そもそも憤りは土壌も含めて全てに対して向けられているものである
成長がない
消化のない土壌では成長がない 土壌が痩せこけて種が育まれない どんなに良質な種が撒かれたとしても種の持つポテンシャル以上の成長は無く、実りこそすれ、やがては根腐れてしまう
0 のままの土壌がどこまでも広がっていく そして、広がり続ける土壌は実りを求める 実りを自らの糧にすることもままならない
それでは水も滞り、流れていかない いつかそのうち、種すらも撒かれなく
そんな様を眺めている気分になる
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nylon-pa66 · 3 years
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月刊根本宗子 vol.18 『もっとも大いなる愛へ』20201107@本田劇場 無観客配信
感想に満たないメモ。
根本さんの作品は8本目くらい? ちょっとネタバレ有。
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お互いに同じことを捉えている
ただそれに対する解釈や考え方は個々に依存する 人と人との交流において、普遍的に繰り返されるやり取りとその根底にあるもの
相手と異ならないために 相手に寄り添おうとする
でも、上手くはいかない
お互いに
背丈も違えば、体重も違う 性別も違えば、年齢も違う 物理的なそれら以外でも得てきた経験や通り過ぎてきた歴史、ともなう感情、考え方が違う
異なっている
だから、互いに寄り添おうとする でも、上手くはいかない
何度繰り返して試みても
「話をしたいのだよ、私はお姉ちゃんと」
寄り添おうとする根底を、人と人が触れ合おうとする根底を、結果としてすれ違い、顕になる理由が、表題に帰着する
「私と姉は家族だから特別な存在だけど、彼にとって貴方だって同じ存在なはず」
同じ空間で語られる男女パートと姉妹パートで決定的に異なる関係性 自らの意思とは関係なく過去から続く関係と、自らの意思による未来へと続くかもしれない関係
異なる関係の元であっても、異なる事のないモノがある そして、また表題へと帰着する
他者に対しての在り方を自問する二人に対して 祝福するように、もしくは鉈を振り下ろすように歌が始まる 感情が立ち上がり、踊り始める
最後をどう捉えるかは観客に委ねられているだと思うが 私には鉈だったように思う 降り下ろされた先も含めて
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以下、どうでもいい駄文。
完全に好みの問題なので、 お話が好きかそうではないかはちょっと傍らに置いておいて、試みについて。
「観ていなかったかもしれない」という状況を孕んだ上で行われる演劇の進行と空間演出はカメラの画角によって切り取られる事で異質なモノに変わってしまった様に思う。
ただ、この異質な状況に於いての選択としては正しいのだと思った。 作中の台詞でも触れられるように、「伝えたい事を正確に伝える」為には。
モノローグが主観で向けられるのは、どちらかと言えば映像的手法であり、観客の視点誘導が難しい演劇ではとれる演出法ではない(サスで空間を強制的に切り取ることがスタンダードな手法であるように) 演劇と映像のハイブリットである試みによる演出であると思うが、カメラ目線で語られるモノローグはどうしてもカメラの存在を意識してしまうのでそこがどうしても気になった。 あと、空間的な構図は少なかったな…… その昔の『HR』とかではどうだったっけ、などと思いながら。 もっとも、何処までが意図、演出された画であるかは観客にはわかるすべもないんだけれど。
この作品のこの上演形態において、ニノミヤさんはもはや演者であって第四の壁を操る劇中存在になっている。 他の公演日では切り取られる視点も別のものとなるので、受ける印象もまた異なるんだろう。その差は並べて見てみたくもある。
結果として、画面に映された画は撮影担当のニノミヤさんと映像作家としての根本さんとのコラボレーションであり、同時に映像作家のニノミヤさんと劇作家の根本さんとの競作であることが面白かった。 
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nylon-pa66 · 4 years
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"TOON WORLD"
技術は日に日に進歩し、私たちは常にその恩恵にあやかっている
あらゆるものは小型化が進み、一定の大きさが必要となるもの以外はあらかたポケットに収まる時代がやってきた 近い未来、車や家だってポケットに収まる
ポイポイカプセルだ 漫画の世界だ その内きっと、願いを叶える龍も、猫型ロボットもポケットに入る、たぶん やがては世界そのものだって、きっと
まだいくつもの物理的な衡はあるけれど その昔に比べれば、意思疎通も、情報伝達も、物理的な移動も速度は格段に上がっている
でも
距離は変わっていない 速度が上がり、所要時間が削減されただけで それは、いつか「どこでもドア」が発明されたとしても変わらない 結果としては近くなったように感じはするけれど別に距離は縮まっていない
精神的な部分についても同様で 伝達手段と伝達量が増えて、意思疎通の機会も頻度も増えて質も良くなった 精神的にも近くなったように感じるかもしれない けれど距離は変わっていない 受け渡しできる速度や量が速く、多くなっただけだ
256x240 ピク���ルでしか描けなかった世界が、今やフルCGで理論上無制限に細部まで描画できるようになった 電子の世界で、物理的な世界を置き去りにしたまま、あらゆる速度が上がった 結果として解像度が上がり、よく見えるようになりよく聞こえるようになった
物理的な距離はそのままで 相手の所作が見えやすくなり、相手の情報が得やすくなった
これらはすべて送信の話であって、受信の話は別
果たして私は、情報を正しく受け取れているだろうか ポケットに収まっているデバイスが日々受け取るパケットが組み上げる情報を、その何千分の一を、果たして私は理解しているだろうか
電子の世界では圧縮技術の進歩や送信手法の進化により、加速度的に単位時間での伝達量が増大している 片や、人間の脳は(文化遷移の影響は多少あれど、)然程変化していない
誤るなというのも無理だ 既にそういう世界であり、正解は無数にある 此方の不正解は、彼方で正解であり、此方の正解は、彼方で不正解である 正だろうが不だろうが、解は人の数だけある
情報の奔流に呑まれたうえで、注ぎ込まれる膨大なそれを選択して咀嚼して判断を下す必要がある かみ砕いている間も絶え間なくそれらは注ぎ込まれる あらゆる角度から
解像度は上がった 全てのモノが死角なく綺麗に見えるようになったし、魅せれるようになった
どう見るか、どう受け取るか、どう飲み込むかそれらが意味をもつ世界になった もう随分と前からそういう世界の筈だ
連続していく世界を、自分の視野で切り取らなくてはいけない 同時に切り取ることに責任を負わなくてはいけない 切り口に個が宿り、断面の集積によって形が作られる
切り取ることが出来ない莫迦が世界をつまらなくする この世界の回転を鈍らせる
断面から流れ出る本質を舐めとり、吟味する必要がある
切り取ることを恐れているのか、めんどくさがっているのか、やり方がわからないのか 口に運んでもらうまで、もしくは口に押し込まれるまで咀嚼をしない、することが出来ない莫迦が結果として世界を殺していく
流し込まれ続ける情報は、受けきることが出来ない だからその多くを取り溢していく 総てを受けきるためにはアップデートが必要である 流量に耐えうる許容量もしくは流量に耐えきることが出来る処理能力
それこそ漫画の世界だ 人間の速度は上がらない
それこそ漫画の世界だ 人間は変われない
人間の成長こそが、なにより幻想なのだとしたら こんな皮肉なことはない
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nylon-pa66 · 4 years
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I don't want to commit suicide all at once, but when I'm depressed, I have a destructive urge.
After all, I think it's just an introverted and diplomatic difference. And it doesn't come forever to work on the inside.
It is not pleasant because there is no clear purpose even if it is said that it is destructive impulse. As a result, the melancholy days continue.
Simply, I have been in a bad mood for a long time.
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nylon-pa66 · 5 years
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"curse diagram"
生きていく限り、意図せずに続いていく何かがあって。
それは時に呪いのように『今』に左右する。 直接的だったり、間接的であったり。
性分、と呼ばれるそれはそれまでの生を結果で形成されていて、拭うことや抗うことに大きな力を必要とする。 むしろ、意識せずに見過ごしていることの方が圧倒的に多いのだろう。 いくつか抱えている、呪いにも似たそれのうち、どうにも厄介なものがあって。
自分が抱いたモヤモヤを時間をかけて客観的に分析する癖。
なかなか溶けない飴玉のようなそれを、少しずつ、口に含んでから、それまでに通り過ぎた事象と照らし合わせて関連性を探りながら溶かしていく。 これが思いのほかに消耗するらしく、気付かない内に疲弊していたりする。
気にしないようにすればいいのにね。 大抵は考えても仕方ないことや、自分に関係ないことなんだから。
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行為の正否は別として。
誰かから掛けられた水は、掛けられた側からはすべて汚水であって。 掛けた側がいくら"それが冷や水である"と主張しても、それはどこまで行っても平行線なんだろう。
伝わるのであれば、そんなことにはなっていないでしょ、と。 そして、その水掛け論はまた新しい呪いを紡いでいく。
それがめんどくさいな、と。 とてもめんどくさいな、と。 嗚呼、めんどくさいな、と。
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そんなことを頭の片隅に抱えながら、ちょっと勇気を出して赴いてみたところがあって。 そこでは、知った人たちの知らない一面がいっぱい見れて楽しかったし、幸せだった。
抱えていたモヤモヤを忘れて、救われたように思う。 願わくば、この人たちがそんな呪いに苛まれないといいなと思いながら帰った。
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摩擦の中でしか生きられない私たちは、絶えず何かを傷つけ続けていく。 傷は痛みを生み、痛みは辛みを憎しみを、呪いを育む。
受肉して生き続ける限り、呪憎して呪いは増え続ける。 意図していようが、いまいが。 なら、それらとどう付き合っていくかということなんだろう。
でも、出来ることなら意図して増やしてくれるな、と。 つかまだ続いてるのかよ、と辟易している。
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……連休が苦手な理由は、内観する時間が増えるからだろう。 だったらその時間、筋トレでもしろよってそれだけの話。
……筋トレしよ。
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nylon-pa66 · 5 years
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"Final Letter"
Romancing SaGa Re:UniverSe 忘備録
年末くらいからはじめて、暇を見つけてはハムハムしているそんな毎日。 最初はドットの綺麗さと、フォロワーの人たちが始めてるのを見てなんとなく。 実際、SaGa シリーズはあんまり手を出していなくて、GB の魔界塔士シリーズ、サガフロ2、ミンサガくらいしかキチンとプレイしていない気がする。
とまぁ、前置きはさておき。「技・術覚醒」についての忘備録。
メインの 5-2-12 をクリアすることで使用可能になる道場メニューの「技・術覚醒��� 主にハード、ベリーハードで手に入る覚醒素材とオーラムを用いて好きな技・術の消費BPを下げることが出来る機能ですが、これには少しだけ注意というか留意点があります。
RSRS は基本的に周回ゲー(俗にいうハムスターゲー)です。 その為、周回に便利な機能として、コマンド入力を簡略化するオートが2種類(正確にはリプレイオート含めて3種類)搭載されています。
今回はそのうちの、技・術を使用する全力オートと「技・術覚醒」との関係についてです。
まず、現在の仕様としてキャラクターの初期 BP は10/20です。 そして、ターンごとの BP 回復値は3で設定されています。
そして、全力オート選択時、キャラクターは所持 BP 内で打てる技・術の内、消費 BP が1番大きい技・術を使用するというアルゴリズムになっています。
先に提示しておきますが、個人的には下記のようにするのが良いかな、と思います。 "覚醒後"の消費BPが 11>:全力オート時、条件(後述の WAVE シフトを挟んで所持BPが11以上になる)が揃わない限り打たない技・術(ロマン技) 
10-7:全力オート時、初手に使用する技・術 覚醒してBPがこの範囲に収まる全体範囲攻撃を優先的に覚醒すると良い
6-4:全力オート時、2ターン目以降に繰り返し打つ技・術
3以下:全力オートの挙動が大きく変わるので「技・術覚醒」時に注意が必要な技・術
そして、挙動を制御しやすくするために消費BPが 4-6-10 に調整すると良いです(理由は後述)
例として SS キャットを挙げます。
Tumblr media
非覚醒時の SS キャット(継承無)で全力オートを選択した場合のキャットの挙動は以下のようになります。
初期BP10 - サブミッション(BP8) =BP2
BP5(2+3) - 空気投げ(BP4) =BP1
BP4(1+3) - 空気投げ(BP4) =BP0
BP3(0+3) - 通常攻撃(BP0) = BP3
BP6(3+3) - 空気投げ(BP4) = BP2 .....以降、2巡目から繰り返し
上の例は敵が全滅せずに WAVE シフトが発生しなかった場合です。 技・術使用前に敵が全滅して WAVE がシフトすると BP が 3 回復するため挙動が変化します(キャットの場合、すばやさが速いのであまりそうはならない)。
さて、それではキャットの技・術をそれぞれ最大まで覚醒した場合、この挙動はどう変化するでしょうか。
ふみつけ(BP12)を最大覚醒した場合(BP12→9)
初期BP10 - ふみつけ(BP9) =BP1
BP4(1+3) - 空気投げ(BP4) =BP0 
BP3(0+3) - 通常攻撃(BP0) = BP3 
BP6(3+3) - 空気投げ(BP4) = BP2 
BP5(2+3) - 空気投げ(BP4) = BP1  ......以降、2巡目から繰り返し
初手が「ふみつけ」に変わるだけで大きく変化はしません。 初手がサブミッションが良いか、ふみつけが良いかは挑むクエスト次第や好みだと思うのであまり影響はないと思います。
サブミッション(BP8)を最大覚醒した場合(BP8→6)
初期BP10 - サブミッション(BP6) =BP4
BP7(4+3) - サブミッション(BP6) =BP1 
BP4(1+3) - 空気投げ(BP4) = BP0 
BP3(0+3) - 通常攻撃(BP0) = BP3
BP6(3+3) - サブミッション(BP6) = BP0
BP3(0+3) - 通常攻撃(BP0) = BP3 
BP6(3+3) - サブミッション(BP6) = BP0 ......以降、通常攻撃とサブミッション繰り返し
結構大きく変わります。 サブミッションには腕力低下のデバフが付いているので、多めに使ってくれるのはありがたいと個人的には思います。
空気投げ(BP4)を最大覚醒した場合(BP4→3)
初期BP10 - サブミッション(BP8) =BP2
BP5(2+3) - 空気投げ(BP3) =BP2 
BP5(2+3) - 空気投げ(BP3) = BP2 
BP5(2+3) - 空気投げ(BP3) = BP2 ......以降、空気投げマシーン
これも大きく挙動が変わります。 先に消費BPを3以下にする際は注意が必要としたのはこのためです。 ターン毎の回復値が3であるため、他の技・術の消費BP値次第では、ひたすら同じ技を繰り返す挙動になります。
空気投げには確率中のスタン付与がついているので悪くはないかなとも思いますが、耐性の関係もあるので、サブミッションを使ってくれた方がうれしいかなと思います。 まぁ、これも挑むクエストや好み次第かと。
以上は最大覚醒した場合ですが、最大覚醒させずに 4-6-10 で留めておいたほうが良いとした理由も記載しておきます。
先にも書きましたが、キャラクターの初期BPは10/20です。そして毎ターン3ずつBPは回復します。
つまり、BP消費の多い高威力全体攻撃系の消費BPを10まで下げ、その後、繰り返し使用して欲しい技・術の消費BPを4-6に調整することで全力オート時の挙動を下記のように調整することが可能となります。
キャットの場合、使い勝手の良い全体攻撃はクリスマス S キャットの錬気掌でしょうか(私はクリスマス S キャット持ってません、畜生)。 なので、覚醒は以下の通りとなります。
<SSキャット> サブミッション(BP8→6)※最大覚醒
<クリスマス S キャット> 錬気掌(BP11→10)※1段階覚醒
挙動は以下の通り。
初期BP10 - 錬気掌(BP10) =BP0
BP3(0+3) - 通常攻撃(BP0) = BP3 
BP6(3+3) - サブミッション(BP6) = BP0 
BP3(0+3) - 通常攻撃(BP0) = BP3
BP6(3+3) - サブミッション(BP6) = BP0 ……以降、繰り返し
もちろん、キャラクターによっては使い勝手の良い技・術は異なりますし、上の例の場合、錬気掌を最大覚醒(BP9)にしても挙動は大きくは変わりません。 ただ、4-6-10で留めておくと、試算が楽というだけです。 BP3以下に出来る技・術で使い勝手の良い技・術(ライトボールとか)を持つキャラクターはそれを連発するのも良いかもしれません。 また、新実装時の継承とか考えだすとキリがありません。
ただし、現時点で「技・術覚醒」は書の取得制限があるため自由には出来ません。 また、BP構成次第ではいまいちな挙動になったりします(正月 SS ヘクターが払い抜けをひたすら繰り返したりしますね……)。
長々と書き連ねましたが、覚醒によるBP調整で全力オート時のアルゴリズム調整ができるよ、というお話でした。
おすすめ技・術も今後の実装で大きく変化するのであくまでも参考までに。 それでは良き塔士ライフを。 ……本当にクソ長くなった。
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nylon-pa66 · 5 years
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"Covenant"
その昔、こ��なことを書いた
"だから、次に会うような事がもしあれば。 僕達は本当の意味での友達になれば良いんだと思う。"
それから驚くことに 6 年も経ってしまったのだけれど 6 年も経った今年、ふとした気まぐれで再会することになったのだけど 本当はもっと早く会いに行くつもりだったんだけど
再会を経て、僕達は友達になったのかもしれない もっと、それよりもずっと前に友達になっていたのかもしれない それこそ、実は 6 年よりもずっと前に
でなければ、僕は 友達でもない人の家にのこのこと上がり込み、友達になって帰ってきたことになる
最寄り駅まで迎えに来てもらって、お昼をご馳走になり、その日は泊めてもらい、翌日は送ってまでもらっておいて、二日もお世話になっておいて そんな物言いはあんまりに失礼だと思うし、勿論そんなことは露程も思ってはいない
でも
折角なので、その関係性に線を引く必要があるのかを少し考える その行為に意味があるのかを 境界があり、それよりも前は友達ではなくそれよりも後は友達なのだと
友達でも、恋人でも、家族でもいいけれど
それを経てしまった後では意味を持たないのかもしれない、もしかしたらとても重要な意味を持つのかもしれないことについて
果たして僕達は、いつから友達だったのか 果たして僕達は、いつから恋人だったのか 果たして僕達は、いつから家族だったのか
その境界はいつだったのか はじめて出会ったのはいつだったか はじめてその関係性を得たのはいつだったか はじめてその関係性を認識したのはいつだったか そして、いつその関係性は失われてしまうのか
それを経てしまった今では意味を持たないのかもしれない、もしかしたらとても重要な意味を持つのかもしれないこと 覚えているだろうか、覚えていられるだろうか とても大切な瞬間を忘れてしまったのではないだろうか
ネットワークの進化で通過儀礼が変化して 僕達は友達だよね?と確認するタイミングが失われた
「そんなこと、確認する必要なんかないんだよ」と君たちは優しく微笑むかもしれないけれど その昔の盟約のようなものに対する憧れを、僕は 今でも 持ち続けている
まぁ、聞いて回ったりなんて野暮なことはしないんだけどさ
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nylon-pa66 · 6 years
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"8がつ32にち"
平成最後の夏は終わり、平成最後の秋が訪れた。 昭和が終わる時、こんな騒がれ方はされなかったように思う。 そもそも、予定通り年号が終わる事など今までなかったから当たり前だけれども。
終わらない夏休みを感じた。 それはとてもとても幸せな感覚だった。
あの場に集った人が、義理とか付き合いとかではない心からの祝福を持ち寄って。 それらでずっと満たされていた空間だった。
数週間前、自宅から 300 km離れた島で感じた幸福感、多幸感を、自宅からバスで30分足らずの場所で再び感じる事が出来た。
平成最後の夏が終わったと、さも劇的な出来事のように語られた今日。 平成最後の秋が訪れたはずの今日。
この宴に参加できたことがとてもとても幸福だった。
たぶん、事情を知らない人が見たら、いい歳した大人たちが馬鹿騒ぎしてるようにしか見えなかったとは思うけれど。
けれど。
いい歳した大人たちが馬鹿騒ぎ出来るって事が、このめんどくさい世の中でどれだけ素敵で幸せなことなのか。 愛憎渦巻くのがデフォルトのこの世の中で、愛しかない空間を生み出すことがどれほど凄いことなのか。
なんなら拡声器片手にあの空間の素晴らしさを、そこにいる人の素敵さを触れ回りたいくらい楽しかった。
主催のお二人は勿論のこと、あの場に居てくれたすべての人にただただただただありがとう。
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nylon-pa66 · 6 years
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"Phototaxis"
走光性と呼ばれる習性がある。 生物が光刺激に反応して移動することをさし、光のある方向へ近づくような行動は『正の走光性』、光から離れるような行動は『負の走光性』とされている。 所謂、『飛んで火にいる~』のそれなのだけど......暗闇を怖れる人間も『正の走光性』を有しているとされている。
先週末、八丈島に行ってきた。 自身の夏休みを兼ねて、八丈島で開催される超歌手大森靖子の LIVE に参加するために。
私は旅行があまり好きではなく。 見知らぬ土地を歩くのは好きだけれど、旅行の楽しさよりも道中に感じる不便さが上回ってしまうことが多い。 それだけで異常に気疲れするため、旅行は苦手であまりいい思い出が無い。 ……あー、なんかめんどくせぇな、私。
最近思ったけれど、単純に外での遊び方が下手なだけなんじゃ……。
そんな私が。 帰りの飛行機で滞在期間を振り返り、ちょっと泣きそうになった。 どうやらとても楽しかったらしい。
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本題。
人は光に集まる、と。 それを強く感じた。 同時に、人は光を持ち寄る、とも。
あの場に居た誰か一人でも欠けていたらあの場は成立しなかったし、終演後各々の持ち帰った特別もまた違うものになっていたように思う。
都心から約 300 km ほど離れた東京に、私たちは日常を翻して非日常を持ち寄った。
MC で語られたように。 そんなことをしている私たちは、きっと変人です。 その変人ゆえの特異性と、各々が持ち寄った非日常が有する特別性が同じ場に集うことで混じり合い、積層して舞台を形成した。 形成された舞台は、奏でられた音や歌によって彩られステージとなり特別が訪れた。 ビールケースで作られたステージの上に。
そしてその特別は、私たちに向けられたギフトというわけではなく。 私たちの持ち寄った各々の特異性や特別性が、それぞれに光を反射して、時に光を放ち、それらの集積によって創り出され訪れたものであると。 頭上で輝くミラーボールを眺めながら、ぼんやりとそう思った。
私たちに音連れた特別は過ぎ去ってしまうわけではなく。 特別に触れた後の日常として、この先も継続していく。
きっと。
薄れはするかもしれないが。 その特別は終わる事なく、日常に、生活に組み込まれ、それまでと比べて少しだけ特別な日常へと変化する。
それは本来、どのステージでも同じ事だった筈なのだけれど。
それを強く意識したのは、あの場所の持つ特別性によるのかもしれない。 そして、その場所に私たちを惹きつけたのは、まぎれもなく光としてそこに居てくれた大森さんの力なんだろう。
大森靖子の夏休み2018@八丈島ポットホール 2018.08.12
Op1. 観覧車 act.おむすび Op2. Baby Bayby(銀杏BOYZカヴァー) act.篠原モータース Op3. ドレス act.おむすび Op4. 家族 act.篠原モータース #01. I love you #02. わたしみ #03. hayatochiri #04. アナログシンコペーション #05. きもいかわ #06. 死神 #07. PINK #08. IDOL SONG #09. ミッドナイト清純異性交遊 #10. コーヒータイム #11. どこかの校歌~済美高校校歌(リクエスト) #12. みっくしゅじゅーちゅ(リクエスト) #13. VOID #14. 新宿 #15. 東京と今日 #16. さようなら ~enc~ En1. お茶碗 ~心を込めない Ver.~ En2. ハンドメイドホーム En3. 朝+(リクエスト) En4. 超新世代カステラスタンダードMAGICマジKISS(リクエスト。ハプニングにより Short Ver.) En5. 夏果て En6. サマーフェア En7. キラキラ
「ないろんさんってあんまり曲の感想とか書かないですよね」って、とある人に言われたのでたまには。
大森さんの弾き語り LIVE を聴くときは、曲つなぎを一番の楽しみにしている。 セトリを定めずに、曲間をあまり空けないスタイルなので、前曲の進行が次曲のアレンジへと昇華されるそれがとても楽しみだ。 今回の LIVE はそれが大盤振る舞いで大満足だった。
#01. I love you~ #02. わたしみ~ #03. hayatochiri のつなぎからのアレンジは圧巻で、#03. に至っては楽曲の新しい面を垣間見たような気がした(私は今までバンドアレンジの方が好きだった)。
#05. きもいかわ ~ #06. 死神とつなぎそこから定番曲に行くと見せかけて?の#07. PINK。 #07. 後半の歌詞はアドリブから MC へ。 MC 中盤くらいまではリズムが残っていて、このまま曲に戻るんじゃないか……とか思っていたけど、そのまま MC に。
MC で前日の花火大会に出演していた全力少女Rさんのファンの人たちが来てくれていることに触れ、おもてなし?の #08. IDOL SONG~ #09. ミッドナイト清純異性交遊
#10. コーヒータイムで少しゆったりして、そのままリクエストタイムに。
#12. みっくしゅじゅーちゅ から #13. VOID へつなぎ、八丈島出身の MONO NO AWARE (だった筈……確か。)が良いという話に。
MC の流れから自分の背景を描いた曲として #14. 新宿
#15. 東京と今日 ~ #16. さようなら へとつなぎ、秒で enc へ。 #15. は歌詞と状況が合致して大きく感情が揺さぶられた。
#16.から秒で始まった enc ちょっとした幕間のような時間を挟み、En5. 夏果て ~ En6. サマーフェアと夏にちなんだ楽曲から「さ~い~ご~」で En7. キラキラ。 大森さんはご自身が無音恐怖症とどこかで言われていたけれど。 有音と無音のバランス感覚がやはりずば抜けていると改めて思ったのです。
無音であるべきところと、有音であるべきところの選別と、その幅。 他にも時間の感覚とか、空間に対する感覚とか、凄いなと思うこと事は多いんですけれど。 なんとなく総ずると、有無の境���に関する感覚が凄いのではないのかな、と。
狭間の感覚というか。
ある点を境に、有るなら有るで、それ以降はどれだけ有っても結果としては同じだとか。 ここに有るか、無いかが何よりも大事とか。
0と1の狭間に関する感覚がずば抜けていて、それらが時間とか空間とか、音楽にまつわる感覚に通じているんだなぁ、と。
……結局、曲については書けてない気がするけど、まぁ、いいか。
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LIVE の翌日。 思いがけないところで、前日ステージに立っていた方の日常に接した。 私の非日常が、誰かの日常に重なっていると改めて思った。 昨日の私の非日常は、この人にとっては日常だったのか非日常だったのか。 今、私と目線を合わせてはにかみ、僅かながらのこの瞬間に、私と昨日を共有しているこの人は、今日の日常にいるのか、昨日の非日常にいるのか。
そもそも。 何処がとか、いつとか、たまたまそこにあった何かが、特別なものに変わるわけではなく。 何処でも、いつでも、なんでも、それらは全て、既に特別なものであって。
見上げた青空も、交わした挨拶も、好きな人たちと見上げた夜空も、それを彩った花火も。 酌み交わしたお酒も、露天風呂から眺めた景色も、何気ない会話も、冗談も。 ビールケースの上で奏でられた音も、歌声も。
どこであろうと、いつであろうと、私たちの過ごしている時間はすべて特別で。
切り取った瞬間や、切り取られた瞬間に一喜一憂するのでなく。 続いていく生活の、続けていく生活に組み込まれた特別性をもっと誇っていいのではないかな、と。 そんなことを再確認した 3 日間だった。
続いていれば、続けていけば、また何処かで会えるし。 もしかしたら、その延長線上でお酒を酌み交わす事も、語らいあい笑いあう事もできるかもしれない。
この 3 日間は、そこそこに生きてきた残念な大人が高度 10000m の上空で、思い返して泣きそうになるくらい楽しかった。 この 3 日間に触れ合えた人たちに、直接的にせよ間接的にせよ会えてよかった。 あそんでくれて、そこにいてくれて本当に本当にありがとうございました、と本気で思っている。 誰がこんなクソみたいな文章読んでくれているのかわからないけれど。
出来ることならば。 同じ光に誘われて、来年もあの島で会いましょう。
今年会えた人も、会えなかった人も。 また、みんなの少しだけ特別になった日常を持ち寄りましょう。
それはね、きっと、たのしい。
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nylon-pa66 · 6 years
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"YOUR'S YOU"
『… そうね おとこのこは いつか たびにでるものなのよ うん… テレビの はなしよ!』
今では世界的AAAタイトルになった某ゲームのスタート直後のおかあさんとの会話。 発売時、主人公の性別選択はなく"おとこのこ"しか選べなかったが、その後のリメイクで主人公の性別が選択式になり"おんなのこ"が追加された。
『… そうね おんなのこって いつも たびを ゆめみて いるものよ うん… テレビの はなしよ!』
性差について議論するつもりはない。 大学で心理学を専攻していた時、臨床試験の検査項目に性差が必ずあり、それが試験の有意判定に大きく影響を与えていたことが不思議だった。 良いとか、悪いとかではなく。 単純にその時はそういう時代だったんだろう、と思う。
"おとこのこ" であることも、"おんなのこ" であることも、それ以外であることも。 どうありたいかは自分で選べばいいし、過去や過程は今においてどうでもいい。 今はそういう時代に変わりつつあるように思う。 良いとか、悪いとかではなく。
結果として少年/少女は旅に出る。 架空(テレビ)の話ではなく(ゲームの中での、フィクションだとしてもの)現実(プレイヤーの仮想的な実体験)として。 スタート地点である自宅のテレビが指し示すように。
テレビで えいがを やってる! おとこのこが 4にん せんろのうえを あるいてる… …ぼくも もう いかなきゃ!
テレビで えいがを やってる! おさげの おんなのこが れんがの みちを あるいている… …もう いかなきゃ!
それぞれの映画が『スタンド・バイ・ミー』と『オズの魔法使い』であり、これらが示す幼少期の冒険をストーリーの下敷きとしていることは有名であるが。 ゲームの目的として掲げられた目標と「死体を見つけて、有名(英雄)になる」という目標はそれなりに重なりはするものの、「竜巻に巻き込まれて得体のしれない地に飛ばされてしまったので帰りたい」というのは少しズレているような気がしている。 "おとこのこ" でも、"おんなのこ" でも関係なく。 そんな状況におかれたら誰だって帰りたい……これもきっと、そんな時代だったからだ。
何年だか前、知人の家でプリキュアを初めて観たとき。 "女の子" が魔法のステッキからのビームを使わずに、ゴリゴリの肉弾戦を繰り広げているのを観て結構驚いた覚えがある。
もう随分と前から、"おとこのこ" であろうが"おんなのこ" であろうがそれ以外であろうが。 誰もが主人公として旅に出るような時代なのだ。
今であったなら、「オズの魔法使い」ではなく何の映画が引用されるのだろうか。
主人公の性別を選ぶことは、生き方を選択するということだ。 その(架空の)世界での、自分の生き方の選択。 そのうち、途中で変更することもできるようになるんだろうけど。 海外のゲームは替えれるゲーム多いけれど、国産タイトルはそうでもないな……
前置が大変長くなったのだけれど、大森靖子さんの『GIRL'S GIRL』という楽曲とそれを取り巻くもろもろについての個人的な考察。
いきなり話が逸れるが。
大森靖子さんの曲に『IDOL SONG』(アルバム『kitixxxgaia』収録)という曲がある。
youtube
私がアイドルについてまったく明るくないので、使用されているフレーズやそのフレーズを実際に使われているアイドルの方々については全く言及できない。
なので、きっと、曲の持つ面白みの半分以上��理解できていないようにも思うけれど。
私はこの曲のサビの後半部分が文章的に、楽曲構成的にとても好きだ。
"はーい 好きでいいよ はーい もっと簡単に" "はーい 好きでいいよ はーい もっと叫べ"
"はーい 好きでいいよ はーい もっと大胆に" "はーい 好きでいいよ はーい もっと叫べ"
この部分はコール&レスポンス的に゙展開され、基本的にはアイドルのファンとアイドルのそれを模していると思う。 ただ、「はーい」の部分をコーラスとせずに、地の歌詞としている点は意図的なもので、これにより前述の解釈に加えて主観を逆転させた解釈も可能となる。
ファンの存在証明に対して。 アイドルが、好きで(いてくれて)いいよと。簡単でいいから(好きを)叫べと。大胆に(好きを)叫べと。 アイドルがファンを肯定する(同時に謝辞を述べる)サビとして取れる。
アイドルの存在証明に対して。 ファンが、好き(なままで)でいいよと。簡単でいいから(存在を)叫べと。大胆に(存在を)叫べと。 ファンがアイドルを肯定するサビとも取れる。
最初にこの曲を聴いたときに、どちら側の曲なのだろうと考えた。 アイドルによるファン肯定ソングなのか、それともファンによるアイドル肯定ソングなのか。 歌詞の多くを実在するアイドルの登場フレーズ?で構成されているため、大森さん自身の意図は読み取りづらい。 そこも含めての楽曲デザインなのだろうけど。
ライブで演奏された時に、オーディエンスは「はーい」を高らかに歌い上げ、大森さんはどちら(のパート?)も歌い上げる。 それは超歌手という演じ手と、アイドルファンという受け手の両方をもつ彼女ならではなのだろう。 いつかこのコール&レスポンスが逆転されることを、私は待っていたりする ……全然、『GIRL'S GIRL』に触れないね。
大森靖子さんの曲に『ロックンロールパラダイス』(アルバム『洗脳』収録)という曲がある。 ライブ会場における MC 的なSEから始まるが、おそらく MC 台詞の状況と比べて小さい規模でのライブを想定されたであろう短い曲だ。 その戯曲的構成から、演じ手としての希望と、ニヒリズムを感じる曲である。
小さなライブハウス(もしくはストリートライブ)からホールでのライブを空想するような。 活動を続けた結果として、公演規模が大きくりオーディエンス一人一人と向き合うことが困難になっても、一人一人と向き合い続けたいと。 二律背反とまではいかないが、音楽活動を続けていくうえで生じうるジレンマを短いフレーズに内包した(前述の台詞部を含めた)文章がとても綺麗。
"その30分限りのために 一生かけても全然いいよかみさま"
あたかもホール会場で行われているライブのような歓声と手拍子の SE ではじまるこの曲は、最終的には伴奏を伴わない独奏で終える。 私は文章構成も曲構成も含めて、この曲がとても好きだ。 うん……全然、『GIRL'S GIRL』に触れないね。
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大森靖子さんの曲に『GIRL'S GIRL』という曲がある。
youtube
というか最近出たアルバム『クソカワPARTY』に収録されている。
タイトルや歌詞が示す通り、"女の子" についての曲……のように思うが、それだけではないように思い、この文章を書いている。
この文章を書いてる私は、いい歳した "おとこのこ" なので。 "女の子" を主題とした曲の理解はとても浅いし、共感もなかなかしづらい。 ただ、この曲に限っては何というか少しばかりの違和感を感じた。
先に申し上げておくが、以下はすべていい歳した "おとこのこ" による考察を模した妄想に過ぎない。
だったらいいな……という願望を多分に含んでいる。
タイトルから少し考えてみる。 『GIRL'S GIRL』は『GIRL'S SONG』ではない。 ということは『GIRL'S GIRL』は "女の子の歌" ではない。 『IDOL SONG』は主観の解釈幅はあったものの、どっちの主観だったとしてもまぎれもなくアイドルの歌であると言える。
Google さんに聞いてみよう。 短縮形 'S は is もしくは has もしくは does もしくは us の短縮を表す。 和訳としては "女の子の女の子" もしくは "私たちの女の子"
"女の子の女の子" とはなんだろう。 そして、"私たちの女の子" の示す "女の子" はなんのことだろう。
『GIRL'S GIRL』は "女の子の歌" ではない。 もう少し補足すれば、『GIRL'S GIRL』は"女の子"についてだけ歌われた歌ではない、と私は思う。
繰り返しになるが、これはすべて。いい歳した "おとこのこ" の妄言だ。 違和感から書き始めたが、"女の子" でない自分のための文章とも言えるかもしれない。
楽曲が公開された時に、"女の子" の素晴らしさ、大変さをとりあげた歌詞に対する共感の感想が幾つも挙がった。 私も最初は、大森さん流の "女の子" 応援ソングだと思った。
ただ、MV を観たときに少しだけ違和感を感じた。 ミスiD の起用が大森さんによる発案なのか、監督の二宮さんによるものなのかはわからないが。 『GIRL'S GIRL』MV にミス iD を起用した意図は、『サイレントマジョリティー』や『愛してる.com』、『生kill the time 4 you、、』とは異なるのではと。
MV の感想は Twitter に少し書いたが。 その映像構成から、私はそれぞれの "かわいい" を手に入れた後の "おんなのこ" の起動の物語であると思った。 そして MV の中で "かわいい" を手に入れて起動するのは、必ずしも "女の子" とは限らない。
また『GIRL'S GIRL』の収録されているアルバム『クソカワPARTY』で掲げられたドレスコードは『自分』である。 『GIRL'S GIRL』を "女の子" 応援ソングするのならば、掲げられたドレスコードが少し歪んでしまうのではないか。
私が最初感じたように、この曲が大森さん流の "女の子" 応援ソングであり、対象を "女の子" に限った曲なのであれば、
"性 警戒しないで BOY"
という歌詞は出てこないのではないかと思う。
再三になるが、これはすべて。いい歳した "おとこのこ" の戯言だ。 もしかしたら、『GIRL'S GIRL』で繰り返される "女の子" とは、大森さんの女性としての主観によって、暫定的に定められた "女の子" であり、その実はもっと広いモノを対象とした歌なのではないかと、そうだといいなと願っている。
『ロックンロールパラダイス』にせよ、『IDOL SONG』にせよ、『GIRL'S GIRL』にせよ、それらの曲に限らずとも。 大森さんの曲の多くは各々の生き方の肯定を歌っている。 多岐に渡る生き方の肯定は、"らしさ" の肯定だ。
"誰かに選ばれたいわけじゃない" "私が私を選びたい" "ありふれたかわいいとか無意味" "突き抜けてかわいくなりたいんだ"
『GIRL'S GIRL』 の中で、"女の子" は様々な "かわいい" を手に入れる。 そして個々の思い描く完成に近づいていく。 この、自分自身で選んだありふれていない "かわいさ" というのはその "女の子" の個性になり、"らしさ" へと転じるのではないだろうか。
そして、"らしさ" を手に入れた "女の子" は "らしさ" そのものであるともいえる。 とすれば Google で雑に和訳した "女の子の女の子" は "女の子のらしさ" に言い換えることができ、"私たちの女の子" は "私たちのらしさ" とも言える。
この場合、あくまで "女の子のらしさ" であり、画一化されありふれた "女の子らしさ" とは断絶的に異なる。
とすれば、この曲は(肉体的な性別の話は置いておいて)誰もが持ち得る "おんなのこ" について歌った曲なのではないだろうか。 いい歳した "おとこのこ" ですら持ち得る "おんなのこ" を肯定することによって それを内包する個々の "らしさ" を肯定する意図があるのではないかと。
完全に願望だけれども。 なんとなく、そうだといいなと思っている。
"牽制しないで新しい時代を"
それぞれの個があり、個が個として成立するために差異を見出す以上、どこかの観測点からは優劣が生ずる。 優劣はどちらも個性であるが、主に取り立たされるのは優性となり、劣性は取り置かれるか、論いの対象になる。 それは性別であっても同じで。 様々な場面で性差が取り立たされるのは……まぁ、うんざりするくらい多々あるんだけど。
そういった性別も含めた個性の優劣を、凸凹を、強弱を。 すべてひっくるめて "らしさ" として肯定する強さを。 すべてひっくるめて自分として受け入れる強さを。
そういったことの。 そういった時代の肯定であればと。 なんとなく、そうだといいなと思っている。
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"おとこのこ" であることも、"おんなのこ" であることも、それ以外であることも。 どうありたいかは自分で選んで、自分で肯定していけばいい。 最低限の責任をもって。  
これだけ長々と書きなぐっておいてアレだけど。 結局、"全然わかっていない" んだと思う。
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nylon-pa66 · 6 years
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"It's Only the End of Society"
この半年で驚くほど知人が増え、中には友人だとまで言ってくれる人もいる。 純粋に、そのことを嬉しく思うし感謝もしている。 きっと伝わってはいないだろうが、ありがとう。
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私は自分の痛みに対して鈍い。 物理的にも、(たぶん)精神的にも。 何故だか知らないけれど、痛いという状態に私はすぐ"慣れる"ことが出来る。 痛みを感じた瞬間はあたりまえのように痛いけれど、数分もすればその痛みを当たり前のように平常化してしまう。
※※※別にノーダメな訳ではないので、ダメージが致死量を超過すれば当たり前のようにしぬ※※※
なので誰かに言われたような、「ないろんさんは、何の前触れもなくいきなり電車に飛び込んじゃったりしそう」ということは起きないと思われる。
たぶん、おそらく、きっと。
だって、それはものすごく痛い(はず)。 私は継続する痛みに対しての耐性は高いっぽいけど、瞬間的な痛みに対しては(耐性云々でなく)単純に嫌だ。 だからそんなことはしない。
たぶん、おそらく、きっと。
私が突発的にしぬとしたら。 どちらかといえば「あしたのジョー」的に気付いたら灰になってるパターンなのではないだろうか。 それもあんなに劇的ではなく、全然ドラマティックじゃない場面で。 家の郵便受けを開けた瞬間とk ...:.a;::.n.i;::: .:.;: サラサラ
 ………。 ふっかつのじゅもんを いれてください
ゆうて いみや おうきむ こうほ りいゆ うじとり やまあ きらぺ ぺぺぺぺ ぺぺぺ ぺぺぺ ぺぺぺぺ ぺぺぺ ぺぺぺ ぺぺぺぺ ぺぺ
自分の痛みに鈍いことの反動か、誰かの痛みを想像することが嫌いだ。 物理的な痛みであれ、精神的な痛みであれ。
自分ではないので防御力がわからない。 回避率も魔法耐性の値も推測でしかない。 おかれている状況も、敵対している相手の攻撃力もレベルも、とりまく何もかもが推測でしかない。 常に最悪を想定する思考の所為で、想像上はそれはもう悲惨な有様である。 大抵が杞憂に終わるのがなによりだったりするけれど。
だから。
たかが社会の終り、と。 そう考えられたら良いのに、と思うことがよくある。
私たちの "社会" は、私たちの "世界" の和集合であると考えていて。 そして、それら2つは決定的に異なっている。 "社会" は(能動的、受動的問わず)生きて "いく" と定めた場所。 "世界" は(そういった思惑なんかと関係なく)生きて "いる" 場所。 "社会" は誰かの "世界" との和集合なのだから、 "社会" に貴方の "世界" は浸食されてはいけない。
もっと言えば。 "社会" の痛みによって "世界" が本質的に損なわれてはいけない。
とはいえ。 地続きなのだから、影響は勿論受けるし。 場合によってはドライに切り離せることではないのだけど。
それでも。 "世界" を終わらせることは、よっぽどのことが無い限りするべきではないと私は思っている。 よっぽどのことが無い限り、その終わりをチラつかせるべきではない、とも。
でも。 "社会" は自分の意志で好き勝手に終わらせればいいと思う。 「そこで生きていきたくない」と思ったのなら、余計な傷を負う前にさっさと。
そして。 "世界" の痛みとは懸命に立ち向かわなくてはいけない。 文字通り、命を懸けて。
個人のリソースなんて、まぁ、たかが知れていて。 "社会" の痛みにも、 "世界" の痛みにも十全に対応できる程多くはない。
なんというか。 貴方の "世界" を守る為に、 "社会" を切り離すことは別に悪いことではないです。 "社会" なんかを守る為に "世界" を損なわないでください。 "社会" は、 "世界" の和集合です。 "世界" が損なわれたら、 "社会" も損なわれます。 "世界" が継続されれば、 "社会" は幾らでも作られ��す。 幾らでも。
あ。 もし。 "社会" がなかなか切り離せないのだとしたら。 そもそもの問題はそこにあるのだと思います。
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"世界" を守るのが "勇者" で、 "社会" を守るのが "英雄" ならば、という戯言。
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nylon-pa66 · 6 years
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"Even if the world is full of shit."
もう20年以上前のことになる。 ある人のとても近しい人が亡くなったときのお話。 読んでためになる類の話では決してない(そんな話、ここには一つもないが)。
梅雨が明け、春から夏に季節が変わるくらいの時期。 あの子はその命を絶った。 決して綺麗とは言えない姿で、最期を迎えたあの子。 皆が口々に、
「あの子は、"かわいそう"な子だった」
と。
その表現に憤り(だったと今は思える感情)を覚えた。 湧いた感情の昇華の仕方がわからなかった。 走馬灯ではないけれど、共に過ごした時間が過った。 あの時、笑っていたあの子も。 あの時、怒っていたあの子も。 あの時、泣いていたあの子も。
それまでのあの子の、決して長くはない人生が。 いくつもの感情を含み、その生一杯に 積み重ねられたそれまでの日々が。 短いけれど、何かしらの意味を持って紡がれたその全てが。
その糞尿と唾液と涙と、よくわからない体液にまみれた決して綺麗とは言えない最期ゆえに。 "かわいそう"で全て上書きされた。 全て。
その最期を。 夕闇の残光の中で、最初に見上げたある人は 少しばかりの間、気を病みしばらく外が歩けなかった。 全ての電柱にあの子がぶら下がって自分を見下ろしている気がした。 歩むべき道が、流れ出たよくわからない体液に満たされて泥濘んで見えた。
もう20年以上前のことになる。 なので、この時期に感傷に耽るようなことも、もうない。 空を見上げることにも今は抵抗はない。 この話も笑いながら話すことが出来る(こんな話ヒかれるからしないけれど)。
それなりに(結果として残念な)大人になり、その時の"かわいそう"も理解できる"ようには"なった。
抗うことの出来ない親族の死にも立ち会った。 抗えたかもしれない友人の死にも立ち会った。 生きていれば、やがていつか、どこかで、死ぬ。
でも。
7年前に愛犬が死んだとき、ひどく後悔をした。 ひどく。 上京して3年、色んなものに慣れた時期だった。 先延ばしにし続けていた"大人"になったような勘違いをしていた時期だった。 自分でなんでもできると思いあがっていたときに訪れたその死は、また大きく、ある人を変えた。
手の届く範囲の好きな人 / モノに、自分の感情を注がないということは、いつか大きな後悔を生み、自身の何かを大きく損なう、と。
強い、とよく言われる。 そりゃあ、あなたたちよりは。
でも、これは"強さ"ではないと思う。 ただただ、"弱さ"を露呈したくないだけだ。 "強く"あろうなんて思っちゃいない。 "弱さ"を見せる気なんかはない。
可能な限り、フラットに。 "軽く"あれ、とは思う。 "身軽であれ"と。 気負いや、懸念や後悔も、とりあえず置いておいて。 掴めるものは掴まなくては。
でないと高みに登れない。 高く登って、あの子の首にかかる紐を外さなくてはいけない。 あの子に貼られた"かわいそう"も弱いままではいつまで経っても引き剥がせない。
いつまで絶っても。
綺麗な緑に囲まれた湖畔で、ふと思い出してしまった。 それを悟られないように饒舌になった。 あー、下手くそだったなぁ、と悔やんでいる。 そうして、また一つ積むのだ。
あなたがその生をかけて、積み上げたそれは。 たとえ歪であったとしても醜くても、誇るべきものであり。
その高みから見える景色は。 意に叶う眺めとは程遠いのかもしれないけれどそれなりに。
綺麗なのではないですか。
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nylon-pa66 · 6 years
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"Live as you Wish."
すべて思い違いであるかもしれないが。
私の好きな文章を書くなー、と。 私は音を意識して書かれた文章が好きだ。 単語や、句読点に、リズムが意識された文体が単純に好きだ。
自分がその好きな文章を書けているかどうかは知らないけれど。
届いていない、届きはしないのだ、と思っていた。 どうやらそれは思い違いで、きちんと受け止められているようだ。
ただそれを、それらを飲み込むことはしばらくは難しいのかもしれない。
どういうわけか、こんな偏屈な人間に悩み事を打ち明ける人は多い。 言葉の強度は相手によって変えるけれど。 私は基本的に俯瞰した上での意見を述べ、感情や背景については慮ったりしたりしない。
背景や、感情は私のものではなく、その人のものであり。
そこに踏み入ることは相応の覚悟を要する。 それは相手の庭に踏み入ることであり、他人の庭というのは本人の自覚とは裏腹に、いとも容易く荒らす事が出来てしまうものである。 なので、もし踏み入るというのであれば、慎重に繊細に振る舞わなければならず。
それは私にとってはとてもめんどくさ心力を要することだ。
戯れに拙い英語を用いて一歩的に捲し立てたとき返答があった。
Live as you like. How…
文章としては誤っている。 正しくは Live as you wish. とすべきなんだろう。 正確には覚えてはいないが、意図的に wish を like に書き換えたように思う。
望めば叶うような世の中ではない。 確か、そういう話をしていた。
「どうやって…」 その疑問は正しい。 ただ、私の持ち合わせはストレートな答えではなく。
好きにやれ。
と。
叶うだとか、叶わないだとか。 成せるとか、成せないとか。 報われるだとか、報われないだとか。 そういった結果に纏わるものはものは、とりあえず全て傍らに置いておいて。
好きにやれ。
勿論、責任だけは最低限取らなくてはいけないし、その対価を払いたくないとゴネるほど子供でもないはずだ。
望��だ世界を作り上げ、維持しながらが生きていくことはとても大変だけれども。 臨んだ世界で好きにしながら、自身をもって生きていくことは、意外と面白い。
世界はあなたが畏れるほど残酷でもなく、あなたが鼻歌交じりでこなせるほど容易くもない。
だから、努力は必要なのだ。
自由に振る舞う為に。 好きにやる為に。 世界を好きになる為に。 それなりに、物事を面白がる為に。
それこそ、報われるために。
努力は必要なのだ。 5億円とか、当たらないかぎりは。 あーあ、……当たらないかなー、5億円。
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