Tumgik
mashiroyami · 4 years
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It’s white. However, it’s dark.
プロローグ 第一章 ウォルタにて
Page 1 : 本日は快晴なり Page 2 : ウォルタ Page 3 : 時 Page 4 : 忠告 Page 5 : 日常 Page 6 : 暗転 Page 7 : 恐怖 Page 8 : 名前 Page 9 : 炎 Page 10 : 静寂 Page 11 : 弟 Page 12 : 暗 Page 13 : 旅立ち Page 14 : 行先 第二章 バハロにて
Page 15 : 追憶 Page 16 : 新たな仲間 Page 17 : 話 Page 18 : バハロ Page 19 : 女の子 Page 20 : 走 Page 21 : 頑な Page 22 : 激動 Page 23 : 討ち合い 第三章 トレアスにて
Page 24 : 目覚め Page 25 : 笑い Page 26 : 料理 Page 27 : 再開 Page 28 : 衝撃 Page 29 : 遺跡 Page 30 : 賭博 Page 31 : 理由 Page 32 : 出発 第四章 リコリスにて
Page 33 : トローナ Page 34 : 止、進 Page 35 : 紅崎圭 Page 36 : 交流 Page 37 : 思い Page 38 : ポケモンたち Page 39 : 老爺 Page 40 : 知りたい Page 41 : 動向 Page 42 : ホクシア Page 43 : 危険 Page 44 : 誘い Page 45 : 死ねない Page 46 : 収束へ Page 47 : 落 Page 48 : 決断 Page 49 : 笑って 第五章 キリにて
Page 50 : 湖畔の町 Page 51 : わだかまり Page 52 : 嵐の到来 Page 53 : 驚き Page 54 : アイスクリーム サプライズ Page 55 : とびたつ Page 56 : 疑問 Page 57 : 其々の思案 Page 58 : 再会 Page 59 : タブー Page 60 : 秘めしもの Page 61 : 空にて、地上にて Page 62 : 時間 Page 63 : 「   」 第六章 道中にて
Page 64 : 遺志 Side 1 : ブラッキー Page 65 : 散在 Page 66 : 真想 Side 2 : エーフィ Page 67 : 点と点 第七章 首都にて
Page 68 : 熱 Page 69 : 光る花 Page 70 : 相見へ Page 71 : 交わりの始まり Page 72 : 住処 Page 73 : 首都での生活 Page 74 : コミュニケーション Page 75 : 陰にて Page 76 : 動きゆく Page 77 : 夜の始まり Page 78 : 探り合い Page 79 : 侵入 Page 80 : 呪縛 Page 81 : 憔悴 Page 82 : 変化 Page 83 : 衝突 Page 84 : 逆光の中で Page 85 : 棘 Page 86 : 雨 Page 87 : 変貌 Page 88 : 地下 Page 89 : 崩壊 Page 90 : 傷 Page 91 : 友達 Page 92 : 邂逅 Page 93 : 刹那 Page 94 : よびごえ Page 95 : 真夜中の夢へ Page 96 : 朝の目覚めより Page 97 : 笹波白 Page 98 : あの空のむこうがわ Page 99 : 叫び Page 100 : ひかり 第八章 フラネにて Page 101 : 静かな旅路 Page 102 : 地を這う者たち Page 103 : 取捨選択 第九章 続・キリにて Page 104 : 不在 Page 105 : 孤独な旅路の終着点 Page 106 : 壁の外 Page 107 : 迷子たち Page 108 : 虚実 Page 109 : 口止め Page 110 : 親子の夢 Page 111 : 過去と未来 Page 112 �� 変移 Page 113 : 疑念 Page 114 : 月影を追いかけて Side 1-2 : ブラッキー Page 115 : 月影を追いつめて Page 116 : 空と底 Page 117 : 水底の森 Page 118 : 魂の在処
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mashiroyami · 4 years
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Page 117 : 水底の森
 冷たい場所で、赤い目が覗き、揺らいだ碧い空間を見る。  初めは殆ど暗闇だった。明確な太陽の光は一切無いが、さほど時間もかからないうちに視界が慣れていく。元々かの獣は夜を生きる種族だ。だが、そうしてまみえた光景は彼の記憶のどこにも繋がることがなかった。脆く揺らめく碧は煙のようで、陽炎のようでもあった。ほんの僅かに青白く光る、その光源がどこにあるのか定かではないが、天とする高さを見上げれば窺える。朧月夜が揺蕩っているようであるが、幾重もの霧に遮られたようにあまりに遠く、暗闇を明らかにするにはとても及ばない。  身体に描かれる月輪は機能しておらず、闇に溶け込んでいた。その身体は酷く重く、真っ暗な地面に打ち付けられている感覚にとらわれながら、彼は優れた夜目で周囲を見渡し、隣で俯せに倒れている存在に気が付いた。魚ではなく、ましてや鳥でもない。見慣れた人間だった。  身体を突き動かしていた衝動ともいうべき激情は切り離されたのか、暴走が嘘のように落ち着き払っていた。  重い身体をのそりと立ち上がらせ、眠ったままの彼女を見て、額を合わせた。瞼を舐めると、かすかに痙攣し、闇の中で瞳が覗いた。周囲があまりにも暗いから、色の判別はつかなかった。  力無い手が漆黒を伸びて、ブラッキーの輪郭をなぞった。何か言葉を吐こうとしたのか口が動いたが、声の代わりに唇を割って出てきたのは泡だった。息を吐き出そうとするたび、喉からごぽりと低い音を立てて、泡は浮かんでいき、消えてなくなっていく。泡沫の行く末を遠く見守りながら、アランは身体を起こした。ブラッキーと同様に、彼女も身体は重力を普段より何倍も背負っているように、動きが鈍い。  伸びた髪がゆらゆらと海月のように揺らめき、地面は堆積した砂や岩が丸く敷き詰められている。全て深く碧い闇の中だったけれど、アランもブラッキーと同様、視野に慣れて、周囲の輪郭がはっきりとしつつあるのか、じっと凝らした目で観察していた。  そこは、水底としか形容できなかった。  湖面ばかりが煌めく外側からすればどれほど深いかもわからないが、渦潮に巻き込まれて還れぬままに沈んでいき辿り着いた、光の届かぬ、湖底の世界。  しかし、そうであればアラン達が容易に目を開けていられるはずもないし、勿論息ができるはずもない。声は出ないが、息苦しさは無いようで、アランは喉に手を当てる。口を開ければ水を呑み込んでいるはずなのに、苦しくはないようだった。まるで、彼女達自身が、水の中に同化した存在となっているかのように。 「……」  アランが立ち上がり、ぼんやりと歩き出すと、黙ってブラッキーもその後を付いていった。  彼女達がいる広い暗闇の空間をたとえるとすれば、水底の森である。  木のような高く痩せた幹が遙か上まで伸びていて、似たような木々が平面上に無限に広がっている。彼等が歩いている場所は明確な道になっているわけではなく、木々の隙間を縫っているだけだった。碧は深く、木々は���に深い闇の色に染まっている。影をそのまま帯びていて、どれも底無しに黒い。葉は見えず、枯れた枝ばかりだ。僅かな光を求めて上へと伸びているものもあれば、朽ちて折れてしまっているものもある。酸性雨を浴びて枯れ果ててしまった森に似ている。或いは、戦争の爪痕が深く残り、人の手が入らなくなった場所に似ている。  足に引っかかるものがあり、アランは立ち止まる。巨大な倒木が行く手を阻んでいた。直径は彼女の胸のあたりまであり、迂回しようにもその場からは幹の先が見えず、森を両断するような随分とした長さと錯覚する程だった。どうやら、しがみついて乗り越えなければならないようだ。慎重にアランの指が触れると、指先で、ざらついた樹木の鱗がはらりと剥がれ落ちた。樹皮の欠片は塵となり、水に溶けていく。  いつもなら軽やかに跳躍するであろうブラッキーだが、重い引力がそれを許さなかった。跳躍はおろか、足を上げることすら億劫であった。  アランは身体を倒木に倒しこむようにして無理矢理上り、上を跨ごうとしているところで、前足を伸ばして立ち往生をしているブラッキーの身を引いた。主の手に引かれて漸く枯れた倒木を越える。  碧と黒の霧中を進んでいくように、ゆっくりと彼等は歩む。  その間、殆ど景色に大きな変化はなかったけれど、無造作に育った森の遠景には木とは異なるシルエットが点在していた。それらは、強いていえば建物の影に似ていた。自然物というよりは人工物に近いが、廃墟らしく、屋根や壁は崩れ、恐らく近くに赴けば瓦礫や土塊が無残に積まれていることだろう。  生き物らしき存在はアランとブラッキーの他には無い。水中であれば魚の一匹や二匹、水ポケモンが泳いでいてもなんらおかしくはないが、気配も無い。よくよく目を凝らすと、樹木や岩に張り付いているだろう、苔やカビの類すらも無かった。中身の無いひび割れた貝殻や枯葉が散らばっているだけ。泡を放っているのは、アランとブラッキーの口許のみだ。あらゆるものが死滅し、破壊されたまま朽ちゆくのを待つ、終末世界の様相をしている。  行くあてはないが、進むことしかできないから、アランとブラッキーはぼんやりと無機質な表情で、お互いに目を見合わせることもなく木々の間を迷い続ける。仮にここが水中であるならば浮き上がらなければ地上には出られないだろうが、重たい身体では叶わない。見えない鎖が底から彼等を引き繋いでいる。  獣道ですらない道筋は、まっすぐに歩いているかすらも危うい。ここには地図もなければコンパスも無く、方角も解らない。だが、たった一人と一匹、唯一傍にいる見知った同士は離れない。アランの行く道をブラッキーがぴったりと付いていくような形である。  どこまでも平行に続く、死に絶えた森を歩いて行くと、不意に、遠くが壁のように黒く染まっているのが解った。  近付いていってみると、そこは遠くに林立していた人工的な壁ではなく切り立った崖に近く、岩壁の隙間から這い出してそのまま枯れた木が壁面を覆い、あるものは無造作に空へ伸びて、成長を止めている。  岩壁を迂回しようと重い足取りで周囲を歩いて行く。すると、彼等は唐突に開いた横穴の入り口へと辿り着いた。壁に沿い手を当てていて手元が不意に浮いたので、アランはほとんど暗闇の中でもすぐに気付くことができた。  久しぶりにアランはブラッキーと目を合わせ、逡巡してから、横穴を覗き込む。  これまでの道程も暗かったが、更に真っ暗闇に塗り潰されている洞は一寸先すら殆ど何も見えない。外ともいうべきところで辛うじて薄く浮かんでいる碧い光のような幻も、洞窟の中では無に帰している。  そこに入っていくのは、好奇だけでなく、多少なりとも勇気を必要とするだろう。底知れない暗闇は、恐怖を呼び覚ます。  ブラッキーは、自身の肌が僅かに粟立っていると感じていた。本能が小さく叫んでいる。この先には、何かがある。何かがなんなのかは何も分からないが、確実に何かがある。それも、おぞましいものが。  しかし、アランはその中へゆっくりと一歩を踏み出した。  虚ろな瞳で、まるで中へと呼ばれているように。  見えぬ糸に引かれていく主人だけを先に行かせるわけにはいかないと思ったのか、ブラッキーは意を決して彼女と共に洞窟の中へと入っていった。  洞窟はアランよりも頭二つ分ほどの高さがあり、背を屈める必要も無く進められた。岩壁にそうしていたように、アランは左手を壁に付け、一寸の光も無い黒い世界を探っていく。  何も見えないために道がまっすぐなのか曲がっているかすら不明だが、少なくとも行き止まりに当たることも、天井が低くなることも、穴に落ちてしまうことも無く、足下すら見えない暗闇以外は一見なんの問題も無いようであった。  ただ、暗いだけではなく、形容しがたい厭な雰囲気が辺りには満ちていた。元々の重みに加えて、絡みついて彼等を本当に暗闇に同化させてしまおうと引き摺り込むような、その瞬間を虎視眈々と、洞窟まるごとが窺っているような、そんな息苦しい気配であった。  やがて、異変がブラッキーに起こる。  足下にも気を配っていたのだろうアランは、ブラッキーの動きが更に重いものになっていると気付いていたのか、自身の速度もぐんと落としていた。しかし、不意に完全に隣の気配が止まる。ふと振り返り、水中を藻掻くようにゆっくりと足下を手で探り、まだ遠くない後方で、倒れているブラッキーを探し当てた。  身体をさすっても、叩いてみても、全く返事が無い。まるで置物のようだが、柔らかな弾力はやはりブラッキーのもので間違いなかった。本来ならば暗闇で光るはずの彼の模様もこの場所に迷い込んでからは力を発揮していない。  ブラッキーが起きないとみると、アランは口から大きな泡を吐き出す。そして獣の身体に腕を差し入れると、そのまま抱きかかえた。アメモースを抱えるには慣れたものだが、ブラッキーは経験が無い。少女が抱えるにはかなりの負担があるはずだが、彼等が実感している重力に比べてしまえば、不思議と軽いのか、アランはさほど苦しい表情を見せずに歩き始めた。  手元すら見えない中、手に感じる岩肌と、抱えるブラッキーの重みだけが、確かに彼女がここにいるのだという証明たりうる。  しかし、不意に現れた、唐突な、雪のようにちらついた光に、アランは目を見開いた。  暗闇のずっと先に、碧く僅かな光。  正気を失ってもおかしくないであろう暗闇を緊張と共に手探りで進んできた彼女の視界に、その光は果たして希望として映っただろうか。  アランは変わらぬ速度でその光へと近付いていく。  奥へ行くほど、ぽつんぽつんと、蝋燭が少しずつついていくように碧い光は増えていった。一つ一つは儚く、道を照らすこともできないような僅かなものであった。光に誘われるままアランは、最初に見つけた光の傍へと辿り着く。やはり、太陽の眩しさには到底及ばない、気休め程度の光量であった。辛うじてその周囲を僅かに照らしており、荒い洞窟の壁を碧く浮かび上がらせている。近くで見ると、岩肌に埋め込まれた宝石が自ら発光しているような印象を受けた。アランはぐっと目を近付けるが、宝石には何も映らず、光の奥にも何も無い。  更に奥に点在し始めた光を、順に追っていく。光は左右分かれながらも、ほぼ直線に浮かんでおり、果てなく、ただまっすぐと続いている簡素な洞窟だという全景が浮かんでくる。  歩き進めるにつれて、光はだんだんと密度を増していく。ぽつぽつとひとりぼっちでそれぞれ光っていたものが、密集していき、深淵に等しい闇に続いていたはずの道が見えてきたのだ。やがて両側や天井を埋め尽くすほどになると、あまりにも心許なかった光が鮮明となり、アランは漸くブラッキーの表情を視認することができた。決して険しい顔つきではないが、ぐったりと目を閉じており、どれだけ光に照らされようとも眩げに動くこともなかった。  そして、遂に長かった横穴は到達点へと辿り着く。  細い道を造り出していた光る宝石達が、大きな空間を造るようにその場所を広げ、出口を示す。  奥は巨大な半球をいびつに描くドーム状の洞が広がっており、その天井には道標となった宝石が音も無く輝き、碧い星のちらつくプラネタリウムを彷彿させた。  天井こそ幻想的であったが、地に目を向ければ、洞窟の外で渺茫と群を成していた木々を拾って敷いているような無造作な倒木や、遠景でぼんやりと建っていた廃墟の石壁の残骸が転がっている。明らかな光に照らされている分、全容が事細かに判明しかえって荒廃が浮き彫りになる。およそ整然とは言い難い。  その入り口で立ち尽くすアランは、ドームの奥に座り込んでいる、彼等とは別の存在に出会うこととなる。  それは、壁に寄りかかるように目を閉じていた。光で浮かびあがる、横たわった巨大な美しい碧い四足の獣が寄り添っている。いや、その獣の方に、寄り添っているのかもしれない。獣の胴体を背もたれにして、それは座っていた。巨大な巻き貝を模したものを頭部に被り、倒れている獣よりもずっと小柄な身体をしていた。  その目が開く。  そして、アランと目が合い、それは、微笑んだ。 (……水神様?)  不思議なことに、ブラッキーに対して出てこなかった言葉が、泡と共に水中を揺蕩った。普段空気中で発するよりもずっと濁った、朧気な発声――発声とすべきかも定かではないが――が口をついて、アランは目を見開いた。  それは、何も言わなかった。ただ微笑み、アランを見つめている。  アランは慎重にドームの中へと入っていった。奥に鎮座するそれは、何も発さず、ただ在るだけのように存在している。ドームは、やはりここ自体もまた廃墟のようだった。植物も動物も生きていない、孤独に残された場所に、それはただひとり佇んでいる。  枯れた枝や尖った瓦礫の破片、それに朽ちた骨や割れた貝といった様々な欠片を踏みしめ、アランはそれの数歩手前で立ち止まった。  それは、優しい表情をしていた。穏やかな老人を彷彿させるような、しかし浮世離れした不思議な優しさを含んだ笑みだった。 (呼んだのは、貴方ですか?)  泡と共に、水を通して言葉が届けられる。  それは返答しない。張り付いたような微笑みのまま、手がのんびりと動いた。白い小さな爪が並んだ丸い手が地面を叩いた。横たわって眠っている碧い獣にもたれかかる、ちょうど隣。  座れ、という意図なのか。  それは何も言葉を発さないが、アランは引き寄せられるように示された地点までやってくると、ブラッキーを丁寧に横たえ、腰を下ろした。ぬくもりもなければ、つめたさもない。僅かに尖ったおうとつが座り込んだ場所から刺激する。  通ってきた洞窟と同じように暗闇の深い瞳で、アランはそれを見やり、背後に倒れる獣を見た。巨大な獣は目を閉じ、オーロラを彷彿させる薄いベールを纏い擬似的な星の光を反射して輝いていたが、近くでよく観察すると、ぼろ布と同様に破れ、汚れ、焼けたように縮れている。肌は干からびたように痩せぼそっている。恐らく、実に美しい姿形をしていたのだろう。しかしこれでは転がる倒木や廃墟と同然だった。  傍に横たえたブラッキーの頭を、それは撫でる。額を撫で、輪郭を辿り、最後に瞼を覆うように包んだ。  暫くして、硬直していたブラッキーの腹は穏やかな眠りについたように緩やかに膨らんでは萎み、その行為を繰り返すようになった。  どこか、割れたら全てばらばらに瓦解してしまうような、繊細な営みをしているようだった。アランは慈愛の籠もったそれの表情を横から直視する。視線を感じたのだろう、それの顔がゆったりと上がり、真正面からアランを捉えた。ブラッキーを深い睡眠へと落としていった掌が近付く。アランは縫い付けられたようにそれの視線から目を離すことができなかった。水に揺らぐ髪の毛を分けて、ブラッキーにそうしたように冷たい掌が額に当てられ、まずは右の瞼を覆い、そして次に左をなぞる。通ったところに添って密やかな淡い光がかすかに明滅し、力が抜けて、アランの瞼は抗う事無く閉じていた。膝を抱えた腕も含めて全身が脱力し、背後の獣の胴体に倒れ込んで、僅かに開いた唇の隙間から細やかな泡が一定の間隔で零れていく。  倒れた迷い子達を、それは温和に伏せた瞳で見つめ、そして自身も同じように目を閉じる。  どこか遠くに閉じ込められた水底で、アランは深く、深く、眠りについたのだった。 < index >
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mashiroyami · 4 years
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Page 118 : 魂の在処
 彼女は夢を見た。  久方振りの夢だった。  時に、赤い獣の眼に囲まれ、腹から止めどなく血を流す弟の姿、全てを焼き尽くす暴力的な炎に食い尽くされるような悪夢に、夜中に眼が覚めることもあった。逆に、一生眼を覚ましたくないほどに幸福な夢を見ることもあった。弟が笑いながら背の高い向日葵畑に歓声をあげていて、世話になった叔父夫婦が遠くで師弟を見つめている、そしてエーフィやブラッキーがくるくると踊るように甘えてきて抱きしめる、たとえばそんな夢。  この時は、夜の夢だった。長い暗闇を歩いた先だったから、記憶に引き摺られたのかもしれなかった。  彼女は乾いた匂いの立つ草原に座り、夜空を見ていた。星の敷き詰められた空だった。天の河は本当に河のように星がゆっくりと流れていて、満天の星空には瞼がまたたくたびにいくつもの流星がちらつき、白であったり、青であったり、赤であったり、はたまた虹色であったり、様々な色を発している。輝いては、さっと、消えていく。あっけなく跡形もなく消えていく。零れおちてきそうなほどたくさんの星に満たされていながら、不思議と騒がしい印象はない。静かだった。静粛で、息を呑んで見守る他無い、広大無辺の空間であった。しかし、幻想的に静かに輝く夜空の下、遙か彼方で佇む真っ黒な山間のあたりには赤い別種の光があった。妙にお互い繋がりながら脈打つように輝いていた。それは森を燃やす炎の光だった。  これだけの光が広がっているにも関わらず星光はあまりにも遠く、彼女の座る場所は殆ど周囲がはっきりとしなかった。耳を撫でる草の音や、さわさわと身体を撫で付ける草叢の感触で今ここは草原だと判別できるだけで、それが無ければ、ひとり、宇宙に浮かんでいるような光景だった。  不意に、彼女は肩を叩かれ、隣を振り向いた。  見覚えのある顔に、虚ろな瞳が見開く。  僅かな星の光を浴び、青年、アラン・オルコットが微笑んで、なんでもないような素振りで隣に座っていた。嘗ての日々、笑っていたあの頃のままの、幻。  昂ぶる感情があるのか、彼女は口を開けては閉じて、言葉を発することすらできずに彼をじっと見つめる。彼女より背丈の高い青年は、小さな子供を可愛がるように、優しく栗色の髪を撫でた。  あたたかな行為で決壊したように、彼女は彼の胸へと跳び込んで、背中ごと強く抱きしめた。そして、言葉の代わりに泣いた。  彼の肩口が濡れていく。咎めず、突き放さず、彼もまた彼女の背に手を回して、あやすように背中を優しく叩いた。声は無く、なんてことないように笑っていた。一定のゆっくりとしたリズムに、不規則な嗚咽が混じり、闇夜に染み込む。  張り詰めていたものが解かれ、ただの子供へと戻った彼女は、ゆっくりと顔を話し、腫らした瞼のままですぐ傍の彼をもう一度目視する。  事あれば隙間無く喋り続けていた彼だったが、声を失ってしまったように口を閉ざしたままだ。暫く沈黙を挟み、彼女は、ごめん、と言った。涙が彼方の星光を反射していた。彼はゆるく首を横に振った。依然何も言わないままで。  彼は姿勢を崩し、ゆっくりと立ち上がる。繋いだ手に引かれて彼女も重たかった身体を起こした。ずっとそこに座って閉じこもっていたけれど、夜の中に立ち上がり、ほんの少しだけ宇宙に近付いた。彼女は泣いた分だけ幼くなって、彼の掌にすっぽりと小さな手を収め、ぎゅっと硬い指を握りしめた。  おーい。  不意に、懐かしい声が彼女の隣から発された。彼の声だった。繋がれていない手を頬に当て、遠くに向けて呼びかけた。闇に吸い込まれていったその先に、淡いオレンジ色の炎が揺れている。  彼女はつぶらな栗色の瞳を瞬かせて、鬼火のような淡い炎を凝視する。  炎を纏った仔馬がぼんやりと振り返る。その傍に、足下だけ浮かび上がっている、誰か。炎にも星にも照らされることなく、誰かがいることは解るのだけれど、誰なのか判然としない。まるで、足だけ残して、絵を無理矢理上から黒く塗り潰して消したような、そんないびつな姿をしていた。
 口から泡が鈍い音と共に吐き出されて、自らの衝撃に叩かれアランは夢から醒めた。  急いで身体を起こし、掌を見ると、いつも通りの大きさでそこにある。水に揺らぐ袖を捲ると、鳥肌がびっしりと立っていた。汗が垂れる環境であれば、額に脂汗が滲んでいたことだろう。  おもむろに周囲を見渡す。眠る前と同じく球形を半分に切り取ったドーム状の洞は変わらず、よりかかる傍には置物と化した巨大な獣が横たわっている。ブラッキーも同様で、彼の方はまだ眠っていた。苦悶という程ではないが、安堵でもない、僅かに眉間に皺を寄せた表情で眠っている。彼もまた夢を視ているのかもしれなかった。  彼女を眠らせたそれは姿を消していた。  ふと、アランは左肩に手を当てた。  ブラッキーの鋭い牙に穿たれた傷は無く、服も破れてはいない。僅かな穴すら無く、綺麗なものだった。一瞬の出来事ではあったが、彼女の記憶に深く根ざしているのだろう。しかし、丁寧に指を添わせ何度確認しようとも、結果は同じだった。  そしてブラッキーも、ガブリアスの残虐ともいえる逆鱗の連続に身体が抉られたはずだ。宙に舞った血液が、晴れ渡った蒼穹には鮮明な対比を成していた。アランは黒い体躯に掌を当て探るが、まるで傷は見当たらない。天井にちらつく碧い光が照らす薄暗い環境下で、相変わらず月の輪が光らない点も妙だった。  そもそも、この場所自体、得体が知れない。  明らかに水中なのだけれど、アラン達はその中で容易に眼を開けていられる。息苦しさも無い。泳いでいるというわけでも沈んでいるというわけでもなく、身体が異様に重いだけで、地上を歩くように移動することができる。けれど、水に揺れるように髪や服は靡いていて、口から零れるものは泡沫である。  確かに彼女とブラッキーは、湖に飛び込み、そして沈んだ。意識が途切れて気が付いてみれば、不思議な水底の森に倒れていた。初めの形が想像できぬほど瓦解した廃墟は、エクトルが地上の教会でアランに語った、嘗て湖底に沈んだ元々のキリの残骸、水底の遺跡と考えるのが自然か。しかし、それにしては不自然ばかりの場所である。  碧い廃墟を見回していると、長い洞窟とを繋ぐ出入り口に影が揺らぎ、それが帰ってきた。散歩にでも赴いていたような素振りで踏み入れてくると、目覚めたアランに気付いて瞳を丸くした。憎めない顔つきである。  手ぶらのままのんびりとした足取りで座り混んでいるアランの傍までやってくると、巨大な貝殻を填め込んだ重たげな頭を下げた。つられてアランも礼を返す。 (あの)  アランは恐る恐る言葉を発する。水、のような周囲に薄められながらも、相手には届いているらしく、それは小首を傾げる。 (ここは……どこですか? 本当に湖の底なんですか? 貴方は、水神様、なんですか?)  それは明らかに人間ではなく、獣の類の形をしていた。そしてクラリスは、水神はポケモンだと断言していた。  しかしそれは何も返さず、沈黙だけ流れていく。 (元の場所に、帰られるんですか?)  それは何も言わない。 (……帰らせてください)  懇願するような目つきで見上げると、漸く、それが動いた。返答は、否。首を横に振る。何故かと彼女が問う前に、それが手を差し出してきた。顔の前に出されたその仕草には既視感を抱いただろう。彼女は警戒を強め動こうとしたが、身体はその場に縫い付けられているのか、腰が浮かなかった。  それは、しかし再び彼女を眠りにつかせようとはせず、腰を曲げて肩に手を置いて、二度軽く叩いただけだった。  アランは意図を図りかねたのだろう、怪訝な表情を浮かべていたが、自由に身動きがとれなければ抵抗のしようがない。  困惑を拭えないでいると、それはアランの隣に屈んでくる。壁に寄りかかって眼を閉じている巨大でしなやかな獣を撫でる。その手つきに愛おしさが滲んでいて、アランはまじまじと見つめた。触れられた獣は眼を開けることはなく、ぴくりとも動かない。  きっと、死んでいる。  この世界は死に絶えている。動いているのは、獣を撫でるそれと、アランと、静かに寝息を立てているブラッキーだけ。  アランは水に揺れる自らの掌に視線を落とす。 (私、死んだんでしょうか)  既に諦念が滲んでいる声音に、それは顔を上げる。  生を超越した空間であるなら、数々の不自然は、誰も経験することがない人智の届かぬ世界では成り立つ可能性がある。  掌がゆっくりと畳まれる。 (実感が無い……)  俯いた顔は、光を閉ざして真っ暗だった。その中心の双眼が抱えるは、更に深く昏い、沼底の色。  ぱっと顔が上がったのは、項垂れた手に他の手が重ねられたからだった。望みを失った平坦な表情が、間近でそれの顔を見る。全く違う種族のそれが、彼女の両手を包んで、首を振って、微笑んだ。  絶句するアランを導くように、それは立ち上がり、出入り口に視線を向けた。つられてアランも視線を遣ると、この洞へ伸びるあのおぞましい程に暗い横穴の奥に白い影が見えた。暗闇の中に映える光のようだった。碧い光ばかりが点在している世界に浮かび上がる、異様な揺らめきであった。  固唾を呑んでアランは近付いてくる存在に眼を凝らす。  そして、ぐっと瞳孔が縮まる。 (なんで)  声が微細に震えた。  白壁が鮮やかに映えるキリの町を象徴するようなその存在は、全身を覆うゆったりとしたワンピースのような純白の布を身につけている。目深に被ったフードを模した布が顔を半分ほど覆っているが、綺麗に切り揃えられた黒髪がその隙間に窺え、水に揺蕩うように揺れていた。 (クラリス)  俄には信じ難いといったようだった。ごくごく短期間だったにも関わらず強烈な印象を残していった友人を、彼女は忘れるはずがなかっただろう。 (クラリス……!)  アランの口から大きな水泡が溢れ出した。  俯いた白い衣の下から、淡い化粧を施した唇が動き、僅かに布が浮いて露わになった漆黒の宝石のような両眼がアランを捉えた。凪いだ湖面のように静かだった表情が一瞬驚愕にぶれた。まさしく彼女はクラリス・クヴルールその人であった。  しかし、動揺は瞬時に潜む。ぐっと瞳を閉じ、胸の前で合わせた手の指先に力が籠もる。そのまま前へ、つまりはアランとそれが待っているドームの奥へと歩みを進めていく。  反応に手応えがなく、アランは固唾を呑んで彼女の行動を見守る。  円の中心に向かうのはクラリスだけではない。地に縫い止められたアランを置いて、それも歩み出す。  音すら死に絶えた場所で、惹かれ合うように両者は出逢い、正面で向き合い視線を絡ませる。それは頭に被った貝殻が巨大で、何もせずに立っていると目線はクラリスの方が上になる。クラリスは瓦礫と貝殻の破片が敷き詰められた地に両膝を折り、深くそれに礼をする。  それも返礼し、右手を出す。その指が、クラリスが被る衣の隙間を縫って、額に触れた。  一瞬、衣に隠れたクラリスの瞳が戦慄き、それを隠すように瞼が閉じられる。  暫し石像のように彼等は動かず、クラリスの身につけている純白の柔らかな衣だけが、生きた魚のたおやかな鰭のように靡いていた。不思議な光景を、アランは静観していた。  やがて、クラリスは俯いたままで瞳を開け、ゆっくりと立ち上がった。そのまま顔を隠していた衣が剥がれて、今度は、それの背後で座り込んでいるアランに視線が移った。  心臓が大きく跳ねたアランだったが、クラリスは平静な表情を浮かべていた。そこには、友愛とも呼べるような感情は読めない。  それがおもむろに振り返り、奥へ戻っていく。クラリスもそれを追い、呆然とするアランの前に両者が立った。 (クラリス)  もう一度アランは名を呼んだ。  あの日、あの瞬間、湖上で叫んだ名を。  しかし、近くにしたクラリスは俯いた眼差しを湛えており、焦点が合っていなかった。 (……漸く、話せる)  待望であった声はアランの耳にも届いただろう。透いた声は水底にお誂え向けであったが、表情と同様に声にも感情の起伏はなかった。  アランははっきりと違和感を抱いたのか、瞬時に眉間に皺が刻まれる。 (そう怒ることではない。噺人を通さなければ言葉を交わせないのだ)  クラリスの唇が動き、小さな泡が零れては上っていき、消える。  アランは隣に立つそれを見やり、もう一度クラリスを見た。 (……クラリスじゃない?) (察しが早くて助かる)  それが微笑んだ。クラリスは無表情のままで。  そして、それはしゃがみ込み、座るアランと視線の高さを合わせる。 (直接貴方に語りかければ、貴方を破壊する可能性があった)語るはそれの方だが、実際の声は脇で棒立ちになっているクラリスであるというのが不思議であった。(噺人以外を呼んだのはいつ以来か。よく参った) (呼んだ……)  アランは戸惑いながら、それを見据える。 (貴方は、水神様ですか?)  この空間にやってきた際の問いをアランは再度投げかける。 (今や、形だけだがね)  水神は、自嘲めいて呟いた。正しくは、呟いたのはクラリスの口ではあったが。 (あまり驚いているようには見えんな) (驚いていますよ。でも、そうだろうなとは思っていたので) (最初、私にそう問いかけたね。虚を突かれたものだった。貴方は想像を少しだけ違えてくる)  水神は微笑んだ。 (だから興味深い。人間は皆、面白いのだがね。……たとえば、ずっと尋ねたかったのだが、貴方は、ここにやってくる時何も感じなかったのか)  感じる、とアランは呟いて口から小さな水泡が零れた。 (暗闇が纏わり付いてくるような感覚。無性に不安に駆られるような、或いは囁きが聞こえてくるような、厭なものを、何か感じなかったか) (何も。……いえ、確かに、厭な感じはありました。重くて、寒気がするような。でも、それだけで) (そうか)  水神は眼を細める。  そのままゆっくりとクラリスの横を擦り抜けて、アランの前に屈むと、右手が彼女の頬に触れた。アランは一見毅然とした表情で、ぶれることなく水神の顔を見つめる。 (まみえた時に先ず解った。とても昏い目つきをしている)  頬を撫でる仕草には、慈愛を含んでいるようであった。 (心を閉ざしているのだね)  揺れる毛先を手で避ければ、碧い光に照らされるばかりの栗色の双眼が露わとなる。 (ここではむしろ心は露わとなる。肉体に守られている精神が剥き出しになれば、自ずと安定を失い、蔓延る気配に毒される。以前、多くの異形の者達が砕かれていった。この世界には癒やされることのない怨念が沈み、根付いている) (この世界は、どこなんですか?) (どこだと思う)  アランは暫し一考し、顔を上げる。 (死後の世界) (当たらずとも遠からず)  水神は苦笑する。 (それが真だとすれば、貴方もそこの獣も、このクラリスも死んでいることになる) (ああ……)  納得したようにアランは相槌を打つ。  水中でありながら生きているように存在している不思議な状況下で、アランやブラッキーの存在がいかほどかは不明であっても、クラリスは水神の言葉を民に伝えるためにキリに戻る。であれば、彼女は死んでいるはずがない。 (でも、ここは、キリの湖の底でしょう、きっと。私は湖に跳び込んで溺れるブラッキーを助けようとして、そうしたら突然大きな波が立って、水の中に引き摺り込まれて、それはなんとなく覚えているんです。……眼が醒めたら、ここにいました) (確かにここは湖の底だ。しかし、異なる。水底の更に奥。生ける者は来られない場所)  アランは唇を噛む。 (それって、死んでいるということでは) (いいや。貴方も獣も死んではいない。肉体は鼓動を続けている。辛うじてだがね。肉体と精神が離れているだけで、死ではない。今の貴方という存在は、貴方という魂そのものなのだ。獣も、クラリスも同様) (魂……) (理解したかね)  アランは自分の手を覗く。碧い暗闇に浸り、水の動きに合わせて指先が揺れている。しかし、薄れるわけでも溶けるわけでもなく、確かにそこに存在していた。 (全然、解りませんし、変な感じですけども)ぽつりと言う。(死んでいないということは、信じます) (充分)  満足げに水神は微笑む。  水神はのっそりとした動きでアランの正面に座る。クラリスは対面する彼等の中間地点で、双方の顔が見える位置に無言で続いた。純白の衣が動きに合わせて海月のように揺れる。クラリスは相変わらず無表情であり、そこに自我は無い様子だった。 (貴方を呼ぶのに)  両者に挟まれたクラリスの声で、水神は語りかける。 (特別な理由は無い。しかし、貴方のことは知っていた。彼女が噺人として初めてここにやってくる日、貴方が彼女の名を湖で呼んでいたと、知っている) (……え) (必死に呼んでいただろう。喉が枯れるほどに叫んでいた)  アランは目を丸くし、まじまじと水神を見つめる。 (聞こえていたんですか) (聞こえていた。視えていた、という感覚が近いが) (そんな)  アランは小さく狼狽える。  エクトルですら湖上に少女とエアームドの姿があったと人伝に後から聞いたという話だった。であれば、クラリスに届くはずもなく、誰の耳にも入ることのない無意味な行為として消えたはずである。 (まさか、クラリスにも聞こえていたんですか) (彼女からは聞いていない。しかし、クラリスは貴方の話をしていた。それから、貴方の友人や従える獣の話も。噺人でクヴルール以外の話題、それも外部の人間に関する話をするとは随分珍しいから興味深かった。湖上で呼んでいたのが貴方だとすぐに解った)  アランは意志を持たないクラリスを見やった。  整った横顔は凜とした気配を漂わせながらも、決してそこに彼女は居ない。 (だから私は貴方を認知したのだ。湖面に触れた瞬間に理解した。血の気配は標になった。そして呼んだ。貴方を呼んで、そして貴方はここに来た。長い行程だったろう)  水神は静かに慮る。  水底の森を探りながら進み、辿り着いた長い洞窟を、碧い灯りを頼りに抜けてきた。窮してもおかしくはない暗い道程を思い返したのか、アランは沈黙し、静かに頷く。視界はほぼ暗闇であり、本来であれば暗闇に作動するブラッキーの発光習性も全く機能しなかった。慎重な旅路ではあったが、暗闇に屈せずに歩く姿は、光を求めて手探りで彷徨う生き物そのものだった。 (自分の足音すら聞こえなかったのに、何故かずっと誰かに呼ばれているような気がしていたんです。見えない糸を、ずっと手繰ってここまで来たような) (事実、私は確かに呼んでいた。声ではなく、意識を寄せていた。意志を拡げれば、私達は繋がることができる。その波紋を掴んだ貴方はここに来た。だが、この外はあまりに深い森だから、迷い込んだまま自分の形すら失う魂も少なくはない) (それは)一度考え、アランは再び口を開く。(消える、ということですか) (消えるわけではない。迷ったままなのだ。しかし迷い込んだことも解らなくなり、いずれ自分を忘れる。そうして自分の輪郭を保てなくなり、砕け、暗闇に溶ける。水は蒸発しても消失しないだろう。同様に、魂は消えず漂い続ける。そこに意志は最早無いが、彼等の思念が更にこの世界を濃くする。暗い、寂しい、悲しい……母を呼び、父を呼ぶ。愛する者を呼ぶ。私はいつも耳を傾けている。目を瞑ると、聞こえてこないか)  促され、アランは躊躇いがちに瞼を伏せる。  碧い光が遠くで揺らぐ中、暗い空間を暫く見つめていた栗色の瞳が静かに姿を現す。 (聞こえません)  凜とした言葉には、偽りも強がりも透けてこない。  クラリスの声で、そうか、と水神は呟く。 (水底に響く激情を抱えながらも完全に閉ざすとは考えにくいが。それでいてここまで辿り着いた。不思議なものだ) (閉ざすって、心を?) (そう。魂そのものでありながら、その器の更に内側に心をしまいこんでいる。だから干渉されない。その獣が歩く力すら失ったのは、無数の魂に感化されたためでもあるだろう) (ブラッキーが……いなくなるかもしれないんですか?) (その獣は、ブラッキーというのだね)水神は微笑みを深くして、ブラッキーに視線を遣った。(それは彼次第であり、貴方次第でもある。少なくとも貴方がブラッキーを覚えている限り、彼は彼で在り続けるだろう) (忘れるなんて) (人は忘れる生き物だ)  水神はアランの言葉をしんと遮る。 (この獣はそうでなくても不安定だ。強い憎悪を感じる。彼を繋ぎ止めておきたいなら意識を向けなさい。肉体から離れた魂は脆い。記憶は存在証明となる。心象によって存在は形作られる。クラリスのことも、きちんと覚えていられるように) (クラリスも……) (彼女の場合は少し特殊だがね。けれど、感情豊かな彼女を形作るのは、貴方達の存在も小さくはない) (クラリスは……怨念というものが、平気だったんですか) (噺人と私の間では繋がりが殊更強い。だから彼女達は誘いを辿って迷い無くここにやってくることができる。そこにたとえ感情が無くとも)  淡々と話す水神の言葉に、アランは沈黙する。 (むしろ、感情はできるだけ無い方が安全ともいえる。魂に共感して不安定になるためだ。噺人が外の世界からの干渉を断つのはそこに所以がある。彼女達を守るための方法でもある)  心をできるだけ清らかに保つ。さもなければ、水神の元へ辿り着くことすら出来ない。地上にて、エクトルはアランにそう語った。 (でも、そんなのは) (言わんとすることは理解する。噺人を呼び止めようとしていた貴方のこと。私も、正しいばかりではないと考えが移りつつある)  アランは憂う水神の表情を凝視した。 (だから暫く噺人を選ばなかった) (……クラリスは、久しぶりの噺人、なんですよね) (よく知っている。彼女から聞いたか) (はい) (未来を視る鳥獣のことも知っているか) (ネイティオのことですか) (彼等には惨い思いをさせた) (そうしたのはクヴルールの人達です) (きっかけを作ったのは私だ。そんなつもりはなかったと言っても、漂う獣達は許さないだろう)  水神と同様、未来を正確に導き出す特殊なネイティオを作り出すまでに、クヴルールは生まれない噺人の代わりにネイティオを水神の元へと送りこもうと試みた。しかし、ネイティオの魂は水神の元に辿り着けずに魂は壊れたのだろう。嘗て傷だらけになって帰ってきたという鳥獣の肉体と別に、帰り損ねた心は永遠に水底を飛び続けている。 (ネイティオが可哀想で、噺人を選んだんですか) (いいや)水神は僅かに首を振る。(人間の行動は意外ではあったが、気にも留めていなかった) (じゃあ、どうして)  水神は沈黙した。クラリスに劣らずまっすぐとした言葉を投げかける。 (ここには時間という概念が殆ど無い)  ぽつりと水神は呟く。 (貴方はキリの人間ではない。噺人の本来の由来を知らないだろう)  アランは頷く。 (元々は、ここに留まる私達に時を報せ、水底に朽ちた嘗ての町の噺を伝聞するための存在だった。未来予知は副次的なものに過ぎない。彼等の欲するものを与えただけ。……嘗て、キリの民は私の教えた未来を信じて生活していた。ほんの少し、いくらかの日を超えれば嵐が来る、或いは初雪が降る、晴天の吉日、些細な事象を含めて分け与えた未来を一つの柱として生きていただろう。しかし、今や、私が居なくなろうと、その役割は私だけのものでないと証明された。水神という存在を必要としない者も多くいるだろう。私の与えるものに価値は消えつつある。それは人間にとっての私自身の価値に等しい)  存在そのものを尊重された生き物が、長い時を経て、人々の記憶から失われていき、代わりに生まれたものによって価値は低下していく。新しきが古きを駆逐し、変容していく様と同じように。  そして、少しずつ忘れられていき、朽ち果てていく。 (……それでも、噺人をまた選んだのは……)  アランがしんと入り込む。 (寂しかったから、ですか?) (寂しい、か)  情緒的だ、と水神は言う。 (太陽も月も無い、時間の無い水底における時の指針。それが噺人。貴方が現在を知るために空を仰ぐように、私は噺人を寄せた。それだけのこと) (でも、未来を視ることができるんですよね) (未来は過去の先にあり、現在の先にある。現在という点が解らなければ、視える点を測ることは出来ない。春の嵐、夏の夕立、秋の木枯らし、冬の吹雪、重なり得ないものが重なる。今が解れば何が過去で何が未来なのかは自ずと判明する)  アランは顔を顰める。 (解るような、解らないような) (生きている貴方は理解しなくてもいい。生きるとは時間の中にいることに他ならない。生物は存在そのものが今であるのだから) (……水神様は、生きてないんですか) (私は長く水底に居座り続けている。この場所自体が時の流れから隔絶されている。死んでいるとも、生きているとも言える)  相変わらずアランが悩ましげな表情を浮かべている姿を、水神は微笑ましく見守った。 (貴方は知りたがりのようだ。ここに居ればいずれ自然と理解できるだろう)  水神は立ち上がり、アランの一歩前にやってくる。天井の碧い光を浴びて、アランには水神の作る大きな群青の影がのしかかる。彼女の目はぼんやりと濃く碧い逆光の中にいる水神を見つめ返した。 (私と居るか)  時の流れない、誰の言葉も届かないこの水底に。  アラン���再度口を動かした。しかしその直後、がくんと頭が前に揺れる。瞼が重くのしかかろうとしている瞬間を耐えるように持ち堪えた。 (負荷が大きいのだろう) (何……) (少し眠るがいい。心配せずとも、ここでは時は無限だ) (でも……、まだ……)  水神の右手がアランの瞼に迫る。彼女が水神の棲むこの場所へやってきた時と同じ動きであることにアランは気付いたかどうか。碧い影に更に暗闇が被さって、クラリスを映した暗い視界を遮り、柔らかな掌が触れた。強張った表情が和らぎ、抗う隙も無く彼女の瞼は閉じられた。  浮かぶことなく、地上で重力に従って倒れ込むように、アランはそのまま前へと倒れていった。  意志を失った魂を水神は受け止める。  そしてゆったりとした動作で上半身を起こし、背後に横たわる巨大な獣にまた寄り添わせた。眠るアラン、ブラッキーの顔は苦しみとは無縁で、穏やかな顔つきをしている。  おやすみなさい。水神はぽつりと呟き、クラリスとの回路を切断した。 < index >
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mashiroyami · 4 years
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Page 116 : 空と底
 ブラッキーの牙が、アランの身体に突き刺さった。  激しい飛沫が五感を遮ろうと、栗色の双眸は獣の動きを克明に捉えていた。直前の行動は意志というよりも反射であった。アランは辛うじて身を捩り、それは首ではなく左の肩口を襲った。致命傷こそ避けたが、アランは堪らず痛みに声をあげた。深く、ヤミカラスを食い破ったいくつもの牙が穿たれたまま離れない。ブラッキー自身から溢れるものと合わせて、赤い色水をぶちまけていくように傷からあっという間に赤が広がっていく。  それでもアランは強くブラッキーを頭から抱擁した。しかし、服が水を吸い込み、痛みは一気に体力を奪う。だんだんブラッキー諸共、沈んでいき、辛うじて顔を出すのに精一杯であった。  湖畔から呆然と見つめていたエクトルは水タイプのポケモンを持ち合わせていない。だが、漸く脳内でスイッチが入ったように、背後を見やった。 「ガブリアス、来い!」  背中越しにドラゴンを呼ぶと、逆鱗直後とは考えられぬほど従順に命に従い、涙目で地面にへたり込んだフカマルを置きざりにしてガブリアスはすぐさまエクトルの傍へ来た。一瞬振り返った後にまた湖面に視線を投げると、目を疑った。  平穏な湖に異変が起きている。  彼女らを中心として、湖面にゆるやかに渦が発生している。いわば渦潮である。ほとんど水流の生まれていない今、それも比較的浅い岸辺、自然現象としては起こるはずのない出来事だった。  しかし、エクトルはその光景に対して既視感を抱いた。何故と動揺し判断を失念した間に、初めは細波程度であった勢いが、瞬く間に強くなった。見えない巨大な力で乱暴に掻き回される。上空は不変に広がる蒼穹、照る太陽の光が波間で反射する。まるで湖にだけ嵐が起こり始めたようだった。勇敢なヒノヤコマやピジョンが柵を越えて救助を試みようとするが、水の勢いがあまりに強く近付くことすら叶わない。  二対の声が小さくなって、とぷん、と、中心に吸い込まれるように、不意に掻き消された。  ざわめくのは、渦巻く激流の荒れた音と、空疎な羽ばたきと、錯乱するエーフィの叫び声のみ。  エクトルの脳裏で湖へと引き込まれていく主人の姿が重なった。  浮かんでいた血は荒い白波にほだされて、深い青に沈んでいった。
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 湖面が遠ざかっていき、鮮血が煙のように上がっていく。  突如として襲った渦潮に巻き込まれ、激しく突き動かされながら、その流れから漸く手を離された時には、戻りようもないほど深い場所へと彼等は身を沈めていた。  身体を覆う服が重く、浮き上がることは叶わない。  傷つけられた身体は更に渦潮に打ち付けられ、空気を吸いこむ間もなく水中に引き摺り込まれた。少女は獣を離さなかったけれど、最後に苦しげに口から水泡が絞り出されて水面へ浮かんでいった頃には、とうにはっきりとした意識は失われていた。  晴天が放つ陽光が遙か遠くで木漏れ日のように輝いていた。誰も居ない暗闇へと誘われていく。月輪が朧気に光り、暗闇で位置を示しながら、抵抗無く沈みゆく。底に向かう程に冷たくなっていく感覚を、彼等の肌は感じていることだろう。
 *
 きっかけは、地震だった。  吉日と指定されて熱に浮かれた秋季祭の中心地にも、その地響きは僅かに伝わった。静かに一人座り込んでいれば辛うじて感じ取れるかといったような、ほんの少しの違和だった。だから、ザナトアはその不自然な一瞬を自らの足先から電撃のように伝わった直後は、気のせいだと思った。ポッポレースを終えて選手も観客も労いの空気に包まれていて、誰も気付いていなかったからだ。  揺れる直前には、ザナトア率いる野生ポケモン達のチームが参加する自由部門のレースは殆ど終了していた。  ポッポレースが終わってしまえば、ザナトアにとって秋季祭という大イベントは殆ど終わる。  ヒノヤコマを初めとして、群れを牽引する者の不在を、ザナトアは少しも不安に思っていなかった。たとえ群れに馴染めなかったとしても厳しい野生の世界で逞しく生きていくために育成を施してきた子達の、集大成にあたる舞台なのだ。結果的に、誰一匹として離脱することなく、チェックポイントを全て回り、ゴール地点まで還ってきた。順位は下の上といったところだろう。充分な結果だ。遠くないうち、冬が本格的に始まる前に野生に返す準備をしなければならない。彼等にとってのザナトアの役割は終わりを迎えようとしている。喜ばしいことだ。しかし少しだけ寂しい。彼女はおやではないが、おやごころが芽生えるのだ。たまにヒノヤコマのようにそのまま卵屋に棲み着いて離れない者もいるけれど、ザナトアは微妙な胸中に立たされる。複雑なおやごころである。  当初の予定よりずっと少ない面子の乱れた羽毛をブラシで丁寧に梳かしてやり、一匹一匹に声をかけていた最中だった。 「……地震?」  ぽつりと呟いて、周囲を見渡した。  だが、誰も顔色を変えずに歓談している。地面が、一瞬だけ突き上げるような、浮かぶような力が加わったように感じた。視線が上がり、白く塗られた電灯同士を渡る旗の飾りが、揺れているのを発見した。留まっていたポッポが羽ばたいたために大きく揺さぶられていた。  果たして、ブラッキーはどうなっただろうか。水面下での懸念事項がはっきりと浮かび上がる。  ザナトアは、アラン達なら大丈夫だと考えていた。楽観的だととられるかもしれないが、アランは依然未熟なトレーナーであるものの、ポケモン達は彼女を見捨てていなかったからだ。獣が強いほど、弱い人間は嘗められる。だが、エーフィ達は決してトレーナーを見下しているわけではない。  アラン達が寂れた育て屋を訪れた日、ザナトアはかのポケモン達に問いかけた。あのトレーナーのことが好きか、と。アメモースはどっち付かずな反応を見せたが、エーフィとブラッキーはすぐに首肯した。良くも悪くも複雑な思考をする人間より、獣はずっと素直で正直だ。彼等の詳しい経緯をザナトアは知らない。これからも知ることはないかもしれないが、ただ一つ確実なことがあったとすれば、あのトレーナーとポケモン達の間には、ザナトアが一瞥しただけでは理解できなかった繋がりが存在している。  ポッポレースの表彰式を促す放送が周囲に響き、熱気の冷めやらない人集りが移動し始めた。  顰めた面をしたザナトアの手が止まったことに不満を抱いたのか、毛繕いを受けていたムックルが鳴いた。声に弾かれ、ザナトアは我に返る。  不意に気付く。大丈夫だと思い込みたいだけなのだ。  無性に胸が掻き立てられて仕方がなかった。
 *
 薄暗くなってきた祭の露店に明かりが灯る。自然公園に設営された屋外ステージで行われたポケモンバトルも幕を閉じ、熱い拳握る真昼から一転、涼やかな秋風が人々の蒸気を冷まし、ちらほらと草原に人が集まり始める。子供から老人まで、配布された色とりどりの風船を持つ姿は微笑ましい光景だ。  秋の黄昏はもの悲しさを秘める。生き生きとした夏が過ぎて、豊かな穂先は刈られ、花々は枯れ、沈黙の冬に向けて傾いていく。雨は冷たくなり、やがて雪に変わる。積雪の下には、次の春へ向けた生命がひそやかに眠る。季節は循環する。儚く朽ちてゆく間際、最も天高くなる時期、人々の願いと感謝が込められた風船は夕陽が沈む瞬間を見計らって、高々と空へ昇る。来る瞬間へ向け、準備が個々で進められていた。  その中には、エクトルの友人であるアシザワの姿もある。  幼い子供は沢山貰ったお菓子をリュックに詰めて、同じ年頃の友達と自然公園を無邪気に駆け回っていた。きゃあきゃあと黄色い声が飛び回る。  湖面に迫る夕陽を前にして一人佇んでいると、普段は思い出しもしないことが浮かんでくる。たとえばそれは聞き流していた音楽だったり、記憶だったり、要はノスタルジーに包まれる。思い出といえば、大役を解かれ休暇を貰ったというのだから無愛想なあの男も暇潰しにでも来るかと思ったが、的外れだったようだ。 「何をぼーっとしてるの」  ぼんやりと芝生に座って三つ分の風船を持ち子供達の姿を眺めていたところ、声をかけられて顔を上げた。朱い夕焼けより少しくすんだ、けれど綺麗な赤毛をした女性に、アシザワはおどけた表情を返し、アンナ、と呟いた。 「何も」 「そう? なんだか珍しく寂しそうだった気がしたけど。はい」  と言って、アンナはアシザワに瓶ビールを手渡した。既に王冠は外されている。湖面を渡るポッポの絵が描かれたラベルが貼られた限定品だ。 「ありがと。お、ソーセージ」 「美味しそうでしょ。列凄かったんだから」 「かたじけない」  アシザワが仰々しく頭を下げると、わざとらしさにアンナは吹き出した。 「李国式だ」 「古風のな」  にやりとアシザワは笑む。  彼女は大ぶりのソーセージがいくつも入ったパックを開ける。湯気と共に食欲を刺激する強い香りが漂う。祭で叩き売りされる食事というのは、普段レストランで味わうものとは違った、素朴でジャンクで、不思議な希望が詰められた味がするものだ。子供も大好きな一品。添えられたマスタードをたっぷり絡めるのがアシザワは好きだった。その良さを知るには子供はまだ早いのが残念なくらいである。 「風船持とうか�� 「いい、適当にするから」  瓶���傾け、一気に喉にビールを流し込む。まだ明るいうちに喉を通る味は格別だ。これもまた子供には早い。無邪気に遊び回る子供は自由で時折羨ましくなるけれど、不自由なことも多い。やがて適当に流すことを覚え、鬼ごっこやおもちゃとは違う楽しみを覚える。 「手紙、書いた?」  風船に括り付けるもののことである。人によっては、感謝だったり、祈願だったり、愛の告白だったり、様々な思いをしたためる。  昔は、湖に沈んだ町や大洪水に呑まれた魂を悼み、天空へ誘うポケモンを模していたと聞いている。だが、現代になるにつれ外部の観光客も楽しめるポップな様相へと変わっていった。それでいいとアシザワは思う。水神の未来予知だって、現代は科学が発展して天気予報は殆ど当たる。災害予測も技術が進めば可能だろう。宗教を盾に権力を振りかざして胡座をかいているクヴルールは正直気に入らないところがある。若者を中心に、そう考えている人間は少なくはない。時代が変われば文化も考え方も変わる。  瓶ビールを半分ほど一気に流し込んだところで、口を離した。 「そんな恥ずかしいことはやらねえ」 「ええ? 去年は書いたじゃない。家内安全って」  アシザワは苦い表情を浮かべる。 「そうやって覚えられるから嫌なんだよなあ」 「子供みたい」  くすくすと笑う。真新しい薬指に銀の輪が嵌められた左手が夕焼けに煌めいて、金の輝きを放つ。  赤と、青と、黄色、三原色の風船が穏やかな風に揺れている。湖面の方角からやってくる秋風が心地良い。  秋季祭が終わっていく。 「あーっチューしてる!」  目敏く幼い少年が叫んだ。  いつの間にそんな言葉を覚えたんだ、と思いながら、アシザワは振り返った。その先で黒い影法師が二人分ずっと伸びているのを見て、これは風船があってもばれるなと気付いた。まあいいか。ビールを置いて、走っても走ってもなお体力を有り余らせている子供に向けて、誤魔化すようにソーセージを高々と見せた。ご馳走を目にして歓喜の声をあげながらやってくるユウにも、隣で笑うアンナにも、思いがけず強い感情が込み上げる。この瞬間を、幸福と呼ばずしてなんとするだろう。
 *
 長い時を経て、縁の途切れていたエクトルとザナトアが再会したのは、秋季祭が夜に沈んでいこうとする頃。   喚くようにヒノヤコマ達がザナトアを探しに来た。宥めても混乱が収まらず、明らかに様子がおかしかった。彼等に連れられて、老体に鞭打ち、通行規制が解かれた湖畔に足を運んだ。場は騒然としていた。罅の入った道路を早急に隠すように工事準備が進められ、車道は片面通行となっている。エーフィは芝生に座りこみ、憔悴した顔で、鳥ポケモン達の声に気が付き縋るように振り向いた。隣にはアメモースもいる。目玉を模した触角は垂れ下がって動かない。彼女の傍をフカマルも離れないようにしていた。腕白小僧には似つかわしくない気落ちした表情をしている。鮮明なテールランプが夕焼けを切り取って回転している。ザナトアは立ち尽くし、言葉を失った。更に奥で、水ポケモンに指示を終え、救急隊が全身ずぶ濡れになって蒼白になった少女と黒い獣を担架で運んでいる。その様子を、嘗ての愛弟子は、ザナトアが本当の息子のように想っていた男は、至極冷静な表情で見つめていた。  遙か向こう、祈りの風船が群を成して、夕景に昇っていった。 < index >
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mashiroyami · 4 years
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Page 115 : 月影を追いつめて
 上空はネイティオ率いる鳥ポケモン達が隊列を組む。元々の群れを成して飛ぶ習性に加え、日々重ねてきたレースの訓練の成果が如実に表れ、整然と飛んでいる。  地上から追いかけるアラン達は歓楽街にほど近かった教会から離れ、湖の方角へと向かう道を走っていた。人が集中しているのは町の中心地から湖畔の自然公園へかけた大通りを中心としており、そこからは距離を置いている現在地においては人通りは未だ少ない。ポッポレースも既に始まっている。郊外で営む店も今日は朝からしまって、祭に精を出しているのだろう。閑散とした住宅地、家を出ていない住民もいるだろうが、人気のない道はゴーストタウンすら彷彿させる。  強くなりつつある日光を反射して、キリの町を象徴する白壁はますます輝きを増し、影は小さく濃くなっていく。  乾燥した石畳を駆けながら、ネイティオが右に曲がる。それを追って、アラン達は細い路地に入った。昨晩の雨の影響で湿り気が漂うが、とうに水溜まりは蒸発していた。  エーフィを先頭に縦に列が伸びる。間をアランが保ち、しんがりでエクトルが走る。短い路地を突き当たりまでやってきたところで、鳥ポケモン達は左へ舵を取った。 「こんなに大勢で向かって、ブラッキーは気付かないでしょうか」  道がまた広くなり併走に切り替えたエクトルに、息を切らしながらアランは横から声をかける。 「布石は打ってあります」 「布石?」 「ええ。それより、覚悟はできていますか」  アランは息を静かに荒げながら、沈黙し、頷く。  大人しくボールに収まってくれればいい。しかし、悪く転がれば、戦闘に縺れ込む可能性がある。エーフィの表情も、いつもの朗らかさは潜み、硬いものになっていた。そのエーフィの主要な攻撃技はサイコキネシス、悪タイプであるブラッキーに直接ダメージを与えられない。実質、現在の手持ちの一体として名を連ねているアメモースも本来であれば十分に渡り合えるだけの能力を持っているが、今戦闘の場に出したところで、自在に動けなければ満足に力を発揮できない。何より、アラン自身、バトルの経験が殆ど無い。 「戦闘になったら」アランは力強い眼差しを前に向けながら言う。「その時は……お願いします」  他に選択肢がない。エクトルが以前はポケモンバトルを生業としていたことを、アランは既に知っている。言質を取ったエクトルは首肯する。 「元よりそのつもりです」  可能ならば、穏便に済むに越したことはないが。  人前での戦闘には正直なところエクトルは躊躇いを抱いている。しかし、背に腹は代えられない。  行き違う人々の視線を無視して走るうち、ネイティオの速度が明らかに落ちる。  恐らく、近い。  やがて鳥ポケモンの群れが分散し、各々屋根や旗の紐に止まる。一部は大きく右に曲がっていき、建物の向こうへ姿を消した。  白色の住宅が並び花が微風に揺れるその場所の、建物の間を抜けていく道路。  ネイティオは地面に下りて、翼を広げる。目的地への到着を示しているのだろう。  アラン達は減速し、ネイティオに追いつくと、ゆっくりと立ち止まる。肩を上下させて息を切らしたアランは、熱い顔に滴る汗を手で拭った。  影が差した道には、誰一人、獣一匹とて、見えない。  道の途中や、向こう側に、ぽつんぽつんとマメパトやピジョンが点在し、待機している。挟み込んでいるのだ。  ヒノヤコマだけは道のまんなかに降り立ち、その背に乗ったフカマルも慎重に降りる。そして、彼は、誰かに声をかけるように、聞き慣れた親しげな温度の声をあげて、右手を挙げた。  現れる、どころではない。ネイティオはブラッキーの居場所を予知した。  エクトルがアランに目配せする。アランは深く頷き、鞄から真新しくなった空のモンスターボール――ブラッキーの入っていたもの――を握り、緊張するエーフィを傍に引き連れ、強張った足取りで歩みを進めた。  ブラックボックスに、手を入れる。  音を立てないようにして、アランは角を曲がり開けた道路に入った。  フカマルはそれ以上歩もうとはせず、アランを見やった。見上げた先のアランの表情は影になっている。ドラゴンの弱々しい鳴き声が虚しく落ちる。  半分は日光が差し込み、半分は建物の影となった道路の先、影になった方へ栗色の視線が向いた。 「……ブラッキー」  白い住居の間は元々あった建物を壊したのかぽっかりとした空き地となっていて、雑然と整えられた敷地内で黄色い輪が光っている。身体をもたげている奥は柵が設置されており、行き止まりとなっていた。気怠げな様子とは裏腹に、赤い瞳は鋭利に光っている。  フカマルの呼びかけに応えなかったブラッキーは、ラーナー達の来訪に気が付くと、おもむろに立ち上がる。  エーフィがか細く声をかけるが、返答しなかった。朱い眼の細い瞳孔が陽炎のようにふらふらと揺れながら、彼は体勢を低くした。明確な威嚇行為にフカマルも足を竦ませ、アランの背後に隠れ様子を覗う。  獣の小さな主は張り詰めた空気を吸い込んだ。表情に湛えるのは哀しみでも戸惑いでもなく、アランは静かにブラッキーと対峙した。この地点は分かれ道だろう。手元に握ったボールに戻るか否か。戦闘に踏み込むか否か。 「ブラッキー」もう一度呼びかけた。「ずっと苦しかったんだよね」  距離は三メートル弱。電光石火で瞬時に詰められる間合いである。エーフィにとっても、ブラッキーにとっても。その気になれば、一瞬で喉元に牙は届くだろう。 「体調が悪いことは知ってた。でも、どうしたらいいか解らなかった。私が、未熟だから……。……きっかけは、首都で、守るを使ったから?」  問いかけられたブラッキーは動かない。アランの言葉に耳を傾けているかも判断できない。  堅く握りしめているその手は、死を渇望する少年の命を此の世に縫い止めるために突き放し、そして反動をそのままに彼女は高層ビルの屋上から身を投げた。あの瞬間瞬間のうちに、自ら判断したことだった。ブラッキーは壁を伝って電光石火を繰り返し、あわや地上に激突する寸前で守るを発動し、全ての衝撃を相殺し、文字通り命を懸けて彼女を護り抜いた。  生き残った彼女は、そしてまた自分で選択し、首都から離れ、旅を共にしてきた仲間と袂を分けた。ブラッキーは、あの頃を境に、息も絶え絶え生きている主人に同調するように崩れていった。  アランは瞬きも殆どせずに暫く待った後、続ける。 「ブラッキーの考えていること、全部は、解ってあげられないけど」  零れる言葉もどれほど獣に届いているか。  アメモースをちゃんと見ろと、言葉が通じずとも理解しあえると、トレーナーの迷いはポケモンに伝わると、ザナトアは繰り返し説いてきた。今、アランの表情には怯えも惑いも無い。ブラッキーから目を逸らさない。ブラッキーの鋭い眼光をものともしていないように、受け止め、対話を試みる。 「ヤミカラスを殺したのはブラッキーの意志? でも、ブラッキーはそんなことをしない……普通だったら。もし、ブラッキーの望みでないなら、一緒に考えるよ、これからどうしていくべきか。……どうしてこうなったのか、わからないけど。お母さん達や、黒の団が関わっているのなら……今度こそ向き合う。一生懸命、考えるから」  す、と息を吸って、ボールを持たない左手を差し出した。  「きみを、守るから」  握手を求めるように、無防備な掌が開かれる。 「帰ってきて」  誰もが息を詰め、対話を見届ける。  この場にはエクトルやエーフィを含め、多くの生き物が集合している。しかし、今はアランとブラッキー、ただこの二つの存在のみが呼吸をしているかのようだった。たった一人と一匹だけの世界。町を彩る花も、清廉な白い風景も、眩くも儚い秋の青空も、どこかで沸き上がる歓喜も、静かなる祈りも、力強い羽ばたきも、波の弾ける音も、鳴き声も、泣き声も、何も干渉することはない。あるのは静寂である。強く引き合う糸が視線の間に結ばれ、たゆむことなく繋ぎ止める。緊張を解いた方が屈服する。互いに譲らず、時間ばかりが過ぎていく。  やがて、動いたのはブラッキーだった。  強い唸り声が返答となり、アランは唇を噛んだ。  すぐにエーフィがブラッキーとアランの間を切断するように前に出る。  黒き体躯がその場を弾いた。エーフィは身構え自らも電光石火で応対しようとしたが、紫紺の瞳はブラッキーの行く先が自分ではないと見切った。ブラッキーは黒い影から飛び出し、太陽の照る反対側の壁へ足を突いた。すぐにまた壁を蹴り上げ、身軽にも上へと向かう。地上を封鎖されたがため屋根を伝って逃げるつもりだ。上空に待機していた鳥ポケモン達は咄嗟に反応できず、あっさりと逃亡を許そうとした。  しかし、ブラッキーは逃げられなかった。  彼の後ろ足を何者かの手が握る。灰色の巨大な手が影から伸びるように現れ、ブラッキーの跳ぶ勢いを殺し、力尽くで引き戻したと思えば整地された地面へと叩き付けんとした。  最中、ブラッキーは空中でバランスを整え、地面に足をめり込ませながらも着地した。邪魔をされ苛立ちに満ちた瞳が空を捉えた。陽光に照らされて、影に身を潜めていた存在が明らかになる。赤い、炎のような一つ目がブラッキーを見下ろす。二メートルにも達する巨躯にはもう一つの顔を模した模様が描かれ、先ほど足を引き下ろした大きな掌をブラッキーに向け、おどろおどろしく空に漂う。 「下がっていてください」 「エクトルさん」  力の抜けたアランの隣に歩み出て、エクトルはブラッキーを睨む。  大人しく戻ってこなければ、恐らく戦闘に入る。それはアランも承知していたことであり、だからこそ対話は最後の可能性だった。かすかな願いが散ってしまえば、力尽くで引き戻す必要がある。ボールに無理矢理閉じ込めたところで、自力で脱出する術を得ているブラッキーには効果的な意味を成さない。捕獲の鉄則と同様、弱らせる必要がある。 「既に黒い眼差しを仕込んでいます」 「黒い眼差し……?」 「ヨノワールの技です。これでブラッキーは逃げられませんが、ボールに戻すこともできません。ブラッキーとヨノワールのどちらかが倒れるまでは」  突如影の中から姿を現したヨノワールも、彼のポケモンの一匹であった。エクトル達よりも先にブラッキーの元に向かわせ、とうに黒い眼差しを発動させてブラッキーが逃げないように監視させていた。  エクトルは右の人差し指を立て、小さく関節を曲げた。その仕草に吸い寄せられるように、鳥の形をした大きな影が彼等の真上を通り過ぎる。 「シャドーボール。ネイティオ、電磁波!」  指示を受けた霊獣、ヨノワールは素早く両手を合わせ、瞬時に禍々しい漆黒を掌の間に形成する。黒は深くなり、あっという間に球を成すと、ブラッキーに向けて放たれた。ブラッキーは素早い身のこなしで跳び上がり避けたが、その先を待ち構えていたようにネイティオは電撃を念力で作り上げ、空中で自在に避けようもないブラッキーを襲った。未来を視るネイティオには造作も無い予測である。狙いは的を射る。  シャドーボールが地面を抉り散った砂を含んだ風が巻き上がる最中、ばちんと痛烈な音を立てて火花が散り、月の獣は電撃を纏う。 「ブラッキー!」 「麻痺させただけです」  背中から地に落ちたブラッキーを見て思わず声をあげたアランの横で、エクトルは淡泊に言う。  シャドーボールの影響で薄い土煙が漂い微風に払われてゆく中、ブラッキーがよろめきながら立ち上がる様子をエクトルは観察する。  電磁波を受け、明らかに動きが鈍くなった。身体の筋肉が電気を浴びて痙攣し、動くにも痛みを伴っていることだろう。これで機動力を抑えられる。  エクトルの背後で、ネイティオの動きが鈍り、堪らず地上に降り立つ。おっかなびっくり見つめるフカマル同様、アランは目を瞬かせた。鳥獣の身体は、反射されたように電撃が迸っている。が、嘴が上下に動き、仕込んでいた小さな木の実を呑み込む。シンクロは想定範囲内、道連れは許さない。同調した麻痺はすぐに癒えていくだろう。  いくら祭で人が出ているとはいえ、住宅街で騒ぎを起こせば目立つ。ある程度戦闘で道を破壊しても適当に話を付ければどうとでも補修は効くが、住宅に及べば少々厄介なことになる。狭い立地では、ブラッキーやエーフィのような身軽なポケモンの方が有利な上、タイプ相性としても二匹ともブラッキーに対しては分が悪い。時間をかけるのは得策ではない。さっさと片を付けなければならない。 「気合い球!」  電磁波が強力な足枷となっている隙を狙う。  ヨノワールは再び両手を合わせ、今度は先程の黒く混沌としたシャドーボールとは裏腹に、白く輝く光球を造り出した。光は留まることなく輝きを増す。抱え込むような大きさまで膨らんだと同時に、赤い瞳が妖しく光り、ヨノワールの叫びと共に渾身の力で投球、黒い標的へと一直線に走る。ブラッキーは咄嗟に黒い衝撃波を自らの周囲に形成、発射した。悪の波動。黒白のエネルギーがぶつかったが、相殺とはならず、気合い球が波を切り裂いた。止まらぬ勢いに朱い眼は見開かれ、本能的に回避を試みた。が、身体に電気が迸り、地を滑る。筋肉は痙攣、黒い足が折れた。見守るアランは息を呑んだ。  剛速球はブラッキーに直撃し、先程より派手な音が路地を抜けて周囲へ及んでいく。  頭の高さを遙か超えて粉塵が舞い、アランは咄嗟に翳した腕をどけて、煙が晴れるのを待つ。エクトルも時を待つ。瀕死でなければ、すぐに追撃を指示するつもりでいた。しかし、当たってさえいれば効果的な一撃である。幾度の修羅場を乗り越えてきたブラッキーといえど、まともに喰らえばそれなりの深手を負わせられる。  が、風に煙が払われていくその中に、硝子のような煌めきが混ざっていることにエクトルは気付く。  煙が晴れる。  ブラッキーは地に伏しているどころか、四つ足でしっかりと立っていた。表情は険しいが、それは攻撃に対する純粋な嫌悪に過ぎない。ダメージを受けた形跡は無い。細かな輝きはアラン達の横を通り過ぎ、風に消えていった。 「……守る」  アランは呆然と呟いた。  エクトルは眉間を歪めた。  型破りな防��技は、生成に時間がかかる。連続すれば失敗しやすくなるとされるのは、いかに緻密で、巨大なエネルギーを消費する技であるかを物語る。ブラッキーは、気合い球を避けるつもりであったはずだ。それは彼の僅かな挙動が示し、そして電磁波による麻痺で阻害された。加えて悪の波動を放った直後で隙も出来ていた。そこまではエクトルの目は追えていた。あの瞬間、既に気合い球は彼の目前まで迫っていたはずだ。距離を置いているならまだしも、肉薄しようとしていた至近距離で、後出しの守るで防ぎきるか。  確かに訓練次第で技の精密性は上がるだろう。それにしても発動が速過ぎる。  エクトルが無意識に抱いていた油断を自覚したとも露知らず、ブラッキーは唸り声をあげる。細かく並んだ牙が顔を出した。月輪が輝きを増し、短い体毛を割って威嚇の毒が滲み出す。瞬く間に変容していき、禍々しい気配が彼の空気を支配した。  ブラッキーは完全にエクトル達を敵と見なした。  後方から見守っていたアランは表情を僅かに歪める。  僅かな動揺が隙となり、ブラッキーは瞬時に間を詰めた。電光石火で空に浮かぶヨノワールに襲いかかる。  しかし、その体当たりはヨノワールの身体を弾くことなく、そのまま何にも触れず通り抜けていった。充血した瞳が見開く。  電光石火はゴーストタイプには無効だ。トレーナーにとっては常識でも、ブラッキーには解らなかったか。判断力が低下しているのならばエクトルにとっては好都合である。 「もう一度気合い球! ネイティオ、怪しい風で援護しろ!」  戦闘の勘が鈍っていようと、相手のミスを逃す愚かな真似はしない。  二匹は通り抜けたブラッキーを振り返る。ネイティオは翼を大きく羽ばたかせ、紫紺に輝く突風を巻き起こした。強力だが、同じゴーストタイプのヨノワールにその風が影響することはない。またも空中で体勢を崩されたブラッキーに向け、ヨノワールは再び光球を育てる。  ブラッキーは音が聞こえてきそうなほどに歯を食い縛り、その足が向かい側の壁を捉えると、痺れる筋肉を酷使する。垂直落下する前に、足先に力を籠めた。再度、電光石火。ヨノワールに襲いかかる。  何故、とはエクトル、そしてアランも恐らくは考えただろう。まだ僅かしか形成していない気合い球に肉薄したところで然程威力を発揮しないが、それ以前にヨノワールに一撃を喰らわせるには電光石火では意味が無い。つい先程身を以て理解したはず。単調な攻撃。判断力が鈍っているのか。目にも止まらぬ速度でヨノワールに近付く。  直後、鈍い、破裂音のような奇怪な音が、ヨノワールから発された。  獣であり同時に霊体でもある奇怪な霊獣は、血の代わりに黒い靄を嘔吐して、低い呻き声を漏らした。  やはり擦り抜けてきたブラッキーに、ヨノワールの発する黒い靄と、それとは別種の黒い火花のような残滓を身体に迸らせて、着地した。  生まれて間もない気合い球は空に収束し、浮かび上がっていた巨体は力無く落下し、地に臥した。  冷たい沈黙が訪れ、やがて彼等は漸く呼吸を思い出した。  悪の波動はヨノワールに効果抜群。ブラッキーが悪タイプの技を持ち合わせている可能性は考慮していたが、ブラッキーは元来攻撃面に恵まれていない。対するヨノワールも自惚れではなく十分に鍛えてある。たった一発効果覿面な技を喰らったところで、耐えられる自信はあった。しかし、ヨノワールは倒れた。その理由の理解に至り、エクトルは顔色を変え、落下したヨノワールに駆け寄る。  ただの気絶に留まらない一撃であった恐れがあった。エクトルはすぐにヨノワールの顔を覗き確認する。意識を失っているものの、僅かに開いたヨノワールの瞳の最奥は赤い灯を失っていなかった。しかし、風が吹けば消えてしまいそうな蝋燭の火さながら、あまりにも弱々しい。  電光石火はヨノワールを擦り抜ける。しかし、それを裏手にとり、彼は擦り抜けようとしたその瞬間、つまりはヨノワールの体内にあたる地点で、悪の波動を発した。  あらゆる外傷から守るために生物は身体の外側を皮膚などで覆い、その内側に張り巡らされた筋肉、血管や神経、更には内臓、繊細な器官を守る。が、守りとは外側に向けられたもの。鎧の奥、内部、守られるべきものに直接内側へ手を下せば、それは則ち急所である。  相性の不利は承知の上だったが、加えて、無防備な内側への直接攻撃。相性以前の問題である。ブラッキーに一切の躊躇は無かった。ヤミカラスを殺した事実、ポッポを殺したという可能性が急速に現実味を増し、エクトルの脳の芯は急速に冷えていく。  彼は的確に敵を殺そうとした。  逆立った体毛は更に刺々しく荒さを増し、ブラッキーは吠え、再び悪の波動を放とうと黒いエネルギー波を溜め込んだ。 「スピードスター!」 「エアスラッシュ!」  攻撃される前に、攻撃を打ち込む。考えたことは同じだったのだろう。観客に回っていたアランが堪えきれずエーフィに指示したのと、エクトルがネイティオに向け指示したのはほぼ同時。  躍り出たエーフィの額が赤く光り、輝く五芳星が素早く地上を走りブラッキーへ向かう。ネイティオも、力強く羽ばたきを繰り返し、見えぬ風の刃が無造作に地上へ叩き込まれた。  波形状の漆黒の波動は相殺される。しかし、全てを防ぐことは叶わない。波動は全域に渡り、周囲の壁や柵に炸裂した。破壊音が響く一方、衝撃を潜り抜けて五芒星が軽やかに滑空した。スピードスターは必中技。大きな威力こそ無いが、ブラッキーの体力を削る。その身に遂に打ち込まれた攻撃。が、ブラッキーは易々と耐え抜き、常時の彼とはあまりにかけ離れた劈いた声をあげた。  そして、赤い目は正面で険しく対峙したエーフィを捉え、すぐさま飛翔するネイティオに目標を切り替える。  強靱な脚力は、痺れていても衰えない。一直線にネイティオに飛びかかる。咄嗟にネイティオは風を起こし対応したが、ブラッキーが競り勝つ。  ブラッキーの前足がネイティオの身体を掴み取る。噴出する毒の汗が立てた爪を介してやわらかな鳥獣への侵入を試みる。小さく不安定な足場で、更に、その牙が露わになった。 「ブラッキー!!」  止まれ、と、制止を促すようにアランは叫んだが、ネイティオの胴体、翼の根元めがけてその牙が落とされようとした瞬間。 「振り落とせ! 電磁波!」  俊敏にエクトルの指示が入り、ネイティオはアクロバティックに頭から落ちるように急降下、ブラッキーの体勢が瞬時に崩れ、地上すれすれの位置で超至近距離で電撃が再び弾けた。無論、ブラッキーは既に麻痺している。が、強力な静電気で反射的に指先が仰け反る様と同様、ブラッキーの身体は強制的に弾かれ、地面に激しく打ち付けられた。  その地点、アラン達から僅か一メートルすら無い。あまりに近い場所でアランとブラッキーの視線が堅く交差する。一瞬の衝突である。  ヨノワールが倒れたことで、黒い眼差しによるしがらみから彼は解放された。自由となった足で蹴り出すと、アラン達の来た道を辿る。丁字路を右へ曲がっていき、逃亡を許した。 「追いかけますよ」  立ち竦むアランの腕を無理矢理掴み、走るように促す。息絶え絶えであったヨノワールは既にダークボールに戻していた。我を取り戻したアランは、流されるままに頷いた。  鳥ポケモン達は既にその場を飛び立ち、ネイティオも羽ばたき、先行してブラッキーを追っている。最も足が鈍いフカマルは、エーフィがサイコキネシスで運び、一同はブラッキーの後を辿った。 「広い場所へ誘導しましょう」  エクトルの提案に、アランは目をやった。 「こうも狭い場所では満足に戦えません。逃げ場所が増えるリスクはありますが、見通しが良ければ追うのも簡単です」 「広い場所って、どこに?」 「湖畔に向かわせます」  言いながら、エクトルはスーツの下で手首に巻いているポケギアを操作した。 「でも、今は祭が!」 「祭は自然公園と大通り沿いが中心です。湖畔の領域全てが使われるわけではありません。通行規制して、人が入らないようにします。このまままっすぐの方角へ向かえばいずれ湖畔に着きますが、できるだけ東の方へ……」  ポケギアのスピーカーから、通話音が入る。簡単に言ってのけるが、クヴルールの権力を振りかざしている。が、この際職権乱用と刺されても構わないだろう。錯乱状態に陥っているブラッキーを放置しておく方が余程危険だ。緊急事態だと適当に御託を並べて人員を用意させた。祭を滞り無く終わらせることが本日の最重要事項であるのだから、秋季祭に良からぬ影響を与える可能性があるとご託を並べればひとまずは動くはずだ。  走りながら通話し始め準備を進めるエクトルの横で、アランは暫し考え、速度を落とし、後方で浮かんでいるフカマルと目を合わせた。 「フカマル」  真剣な眼差しに、フカマルは目を丸くした。 「ヒノヤコマ達に伝えてきてほしいことがある。……お願いできる?」  まだ幼い彼にどこまで人語が理解できるか。しかし、話しながら、首を傾げていると、エーフィが通訳をするように彼等の間に挟まった。 「いける?」  なにも難しい指示ではない。フカマルは頷き、エーフィはサイコキネシスで一気に彼を上昇させる。  サイコキネシスによる浮遊も当初こそ慣れぬ様子であったが、今はなんの抵抗も無く受け入れている。無為に身体を動かすことなくエーフィに委ね、彼はヒノヤコマ達に声をかけ、その背中に乗った。その先で、アランの指示を伝えているのだろう。直後、彼等は左右に分かれ、速度を上げた。  エクトルはポケギアの通話を切った。 「何を指示されたんですか」 「逃げる場所を一つに絞らせます。湖畔に誘導するために」  キリの町は縦横無尽に路が張り巡らされている。逃げようと思えばいくらでも路地を曲がり行方を眩ませられるだろう。しかし、曲がろうとする場所に、先んじて鳥ポケモン達を配置し、それを繰り返す。背後からはアラン達が追いかける。誘導したい先を敢えて空けておく。  今のブラッキーの状態では、野生でまともに育てられても居ない鳥ポケモンなど驚異でもなく、阻んだところで躊躇無く突破される可能性もある。成功するかは別だが、打つべき手は打っておくに越したことはない。エクトルは納得したように頷き、上空を仰いだ。 「ネイティオ、シンクロでサポートを」  端的な指示を受けて、ネイティオは加速する。未来を予測する眼と、他者に同調する特性、そして元来持ち合わせている念力。司令塔としての役割である。目に見えぬ力が空を伝い鳥獣の間でネットワークを形成し、ブラッキーに対する包囲網を強化する。  アランは、ただ前を見て、直走る。  以前、彼女はこの策に捕まったことがある。  あの時、無垢な少女は今のブラッキーの立ち位置にいた。迫る殺意から逃げるために、暗い水の町の路地を、混乱を整理しきれずにただ逃げるために走っていた。その先が行き止まりとも知らずに。  果たして、この逃亡劇の先に何があるのか。  まだ遠くの視界には黒い月影が見える。曲がっても、鳥ポケモン達を信じ同じ道を辿り、湖畔の方へ向けば、またその尾が見える。真昼に輝く白の中で、黒い姿はよく映えた。結果的に、ネイティオの放った電磁波がブラッキーに与えた技の内最大の功績と言えるだろう。明らかに動きは鈍くなっている。  花や旗で彩られた華やかな白い道を疾駆する。道程で秋季祭の中心地から逸れた、或いは向かう途中である人間と擦れ違い、そのたび何事かと怪訝な表情が向けられるが、構っている暇などない。  エクトルは腰のベルトに付けたボールのことを考える。再起不能であるヨノワールは言うまでも無くもう使えない。ネイティオは健在だが決定的な攻撃を浴びせるには役不足だ。彼が携えているボールは、全部で三つ。残りは一匹。 「ブラッキーの技は、守ると、悪の波動、電光石火、他には?」  走りながら尋ねる。息を切らしながら、アランは足がもつれないように答える。 「月の光です」 「回復技ですか」  長期戦は不利になる。瞬時に発動できる守るが最も厄介だ。  ブラッキーに会うまでの顔つきより、ずっと冷たく、鋭利なものになっているエクトルを、アランはじっと、洞の広がったような瞳で見つめていた。
 長く白い路地を抜けて、先にブラッキーにとっての視界が一挙に開ける。  僅かな雲すら見えぬ、一面の青。夏空に彩度は及ばずとも、まるで穢れを知らぬ高みは、地上の生き物たちの目を奪う。  彼の背後からはすぐに追っ手が迫っている。上空は鳥ポケモン達が、地上は彼のよく知る人間と相棒が来る。  道路を跨いだ無効の湖畔を沿う堤防へ、その場所はなだらかな坂となっており、コンクリートの道路と地続きの芝生が敷かれた僅かな坂を上れば、中央の自然公園からずっと伸びている柵が湖と地上を分かつ小高い空間となっている。  迅速な通行規制が間に合ったのか、道路を車が走ってくる気配は無く、人払いが成されている。先だってはこの場所にも人が並び、ポッポレースで湖畔に散ったチェックポイントを渡りゆく鳥ポケモン達を応援していたものだった。レースは終盤へ移ろうとしているのか、縦に伸びた様々な翼が遠景でそれぞれ堂々と羽ばたいていた。彼方で行われている楽しい祭の軌跡である。通過点として既に役割を果たした地点を人々は後にし、エクトルの根回しで此の場所には他に入れないようになっている。  広い場所は、しかし隠れるところが無い。姿形が全て太陽のもとに晒され、ブラッキーは歯を食いしばった。  道路の中央部に立ち尽くしたブラッキーに、汗を散らして走ってきたアラン達が追いつく。遂に動きを止めたブラッキーを見て、エクトルは最後の一匹を閉じ込めたハイパーボールに一言呟くと、躊躇わずに投擲した。  吉日に相応しい雲一つ無い晴れやかな空に向け高々と上がった一擲。真っ二つに割れた中から、白い光が飛び出し、ブラッキーの前にその姿を瞬時に形成する。  咄嗟に間合いをとり警戒するブラッキーと、アラン達の間に降り立った獣。青く光る鱗に覆われた身体に朱色の腹を抱き、両手の先には鋭利な牙のような立派な爪を生やしている。二つ足で立つ様は細くしなやかな印象を抱かせるが、身体を支える太股や巨大な尾は強靱な肉体を主張する。  濃紺のドラゴンは、柔い羽がその場に落ちるように静かな立ち居振る舞いで姿を現した。 「ガブリアス……」  激しい息づかいをしながら、呆然とアランは呟いた。  上空で、ヒノヤコマに乗ったフカマルが、ぱかんと口を開けてガブリアスを見下ろす。  チルタリスとガブリアスの間に生まれた子供だと、小さなドラゴンの父親が永眠する墓前でザナトアは語った。  母親は子供には気付いていない。最終進化形まで逞しく育てられた勇ましいドラゴンは、一点のみ、目の前で威嚇するブラッキーのみを揺るがずに捉える。数多の群を抜いて気高く生きる種族に相応しい、清閑で、どこまでも冷たい眼差しで。  相手から視線を逸らさず、耳だけは彼女がこの世で唯一認める主人の声を待つ。  息を整え、堅く結んでいたエクトルの唇が動く。 「行け」  ごく短い指示が、氷のような温度で伝わり、ガブリアスの枷が外された。  スレンダーな巨躯が沈黙を叩き割り、直線上に立つブラッキーに接近した。身体に合わぬ速度は、ブラッキー達の電光石火の瞬発力にこそ劣っても、虚を突くには充分な効果を果たす。  振り上げられた爪の軌道を読んで、ブラッキーはその場を跳んだ。ブラッキーの居た地点めがけて叩き付けられた爪の一撃が、まるでいとも簡単にコンクリートの舗装を抉って、アランは目を見開き、額に汗が滲んだ。あれは果たして技か、ガブリアスの筋力がものを言わせたか。いずれにせよ、あの爪がブラッキーに突き刺されば只で済むはずがない。  空中でブラッキーは歯を食いしばり、崩れた体勢のまま悪の波動を放つ。禍々しい波及攻撃が至近距離のガブリアスを攻撃するが、硬い鱗に覆われたドラゴンは狼狽える様子すら見せない。羽虫でも当たったように何事も無く跳ね返し、直後にはブラッキーの傍まで跳び上がっていた。  横一直線に蒼き一閃。硬質な翼が黒い体躯を襲う。  同時に、咄嗟の判断だったのだろう、ブラッキーはすぐさま守るを発動。まばたきと同じリズムで、両者の間に煌めく壁を瞬時に形成した。切り裂くガブリアスの攻撃は阻まれたが、まさしく煌めくエネルギーの硝子が木っ端微塵に粉砕される音と共に、絶対守備のエネルギーは瓦解した。  ブラッキーは激しく後方へ転がりながら、形勢を立て直す。防御の反動で揺らいだドラゴンの隙を逃すまいと、顔を上げた。硬質な竜の鱗は全身を覆う。しかし、ガブリアスにも急所は存在する。狙うは首元。渾身の電光石火を叩き込んだ。  顎へ急接近した一撃は脳を震わせる。ドラゴンの頭は堪らず仰け反ったが、頑丈な足は揺れない。脳天への衝撃を押し殺す。紺の影が回転、長い尾が襲い掛かり、接近したブラッキーに脇から一撃喰らわせた。骨を切らせて肉を断つとでも言わんばかりに。重い一打。ブラッキーのやわらかな身体が空を舞った。 「剣の舞。ネイティオ、追い風を起こせ」  激しい転倒の最中、エクトルから技の指示が下される。  麻痺の残る身体を震えながら起こした頃には、飛翔を続け静閑していたネイティオが激しい風を巻き起こす。ブラッキーは目を細めた。強い風が正面から彼の動きを阻む。逆に援護されたガブリアスは自身で編んだ剣の波動を呑み込んでいた。次いで、鱗の下で筋肉が盛り上がり、地面を蹴り抜いた。  その足元から、亀裂を模した光が地面を這う。  周囲が揺れた、と思うと、突き上げるような激しい縦揺れの激動が大地を伝った。広範囲の攻撃はアラン達にも影響、とても立っていられず倒れ込んだ。  地を伝う衝撃はブラッキーを逃さない。裂いた地面に足下を呑み込まれる。 「逆鱗!」  冷めた瞳に、激しい炎が点火した。  それまで僅かな声も漏らさなかったガブリアスの、全てを声で薙ぎ倒すような鋭い咆哮が劈いた。風が、空気が震え、コンクリートの向こう側にある青々とした穏やかな草原が仰け反った。罅の入った道をガブリアスは疾駆する。蹴り上げた先から一気に加速。背後から追い風を受けたその速度はブラッキーの電光石火にすら迫る。地震で足場を崩されたブラッキーは防戦に持ち込む他無かった。またも、彼の目前で透いた壁が輝く。彼の身体に巡る獣の力を空に編んで、激情するドラゴンの頭から突進を受け止めた。二匹の間が弾けたが、凶暴化したガブリアスは隙を見せず地を蹴る。接近、右腕が振り上げられた。再度守るを発動、中心を穿たれ、空に放たれる破裂音。ガブリアスは、止まらない。三度目、反対側の爪がすぐさま繰り出される。それも、守る壁が跳ね返した。  五回分は超えている、とエクトルは静かに思う。  あのブラッキーがどれほど守るを使い続けられるかは不明だ。しかし、いずれ技を編み出す力は必ず底を突く。精密かつ強力であるほど、集中力も尋常でなく削られる。自我を失っているように見えて、ブラッキーの行動は的確だ。だが思考がぶれれば隙は必ず生まれる。電磁波による麻痺は確実にブラッキーを蝕み、ガブリアスは追い風を受けてますます加速する。剣の舞の効果は後に引くほど効くだろう。とめどなく攻撃を続け���いれば必ず折れる。そうなれば後はドミノ倒しの如く落とせる。確実に。  振り落とした二対の爪を、今度は突き上げる。黒獣の腹へ入れ込む衝撃。竜の業火は跡形も無く燃やし尽くさんと肥大化していく。加熱してゆく威力そのまま、ブラッキーは遂に攻撃を許した。黒い影が、空へ放り上げられた、その過程に血が踊った。  アランは、歯を食い縛った。隣でエーフィが、彼女を見た。戸惑いの視線であった。  血の色をした双眸いっぱいに、ガブリアスの姿が容赦無く映り込んだ。鬼の形相の竜に、ブラッキーの顔が強張った。  縦に回転。  止まらぬ激昂をそのまま体現した、硬質な尾がブラッキーの身体を捉えた。  次瞬、地面に再び衝撃。一瞬で直下していったブラッキーを中心に、先程の地震で傷ついた道路が窪んで、高い噴煙が上がる。しかし、ガブリアスには煙など目眩ましにもならない。すぐに追いかけ、直下に飛ぶ翼が煙をその過程で払っていって、中心に倒れる無防備にブラッキーに向け、上空からの加速をそのまま爪に乗せるような、攻撃が突き刺さった。躊躇なく、突き刺さって、彼のしなやかな体躯を抉った。串刺しになったブラッキーが悲鳴を上げる間もなく、すぐに引き抜かれると同時に月の獣の身体が浮き、固い翼を持つ腕がすぐに追随する。横に殴った勢いでぼろきれのようにブラッキーはなすすべもなく荒れた芝生に叩き付けられた。真っ赤な飛沫をアランは見た。エーフィも見て、そしてその場にいる全てのポケモン達が圧倒されて硬直していた。つい数日前まで、育て屋で戯れていた獣が瀕死に追いやられていく過程に誰もが震え、怯えた。ただ一人、それを指示するエクトルを除いて。  とどめだと、トレーナーは声にこそしなかったが、冷酷な視線はガブリアスに制止をかけなかった。  駆け上がる逆鱗。  止まらない激情。  意識が果たして残されているかすら危ういブラッキーに、ガブリアスが肉薄した。熱い返り血を浴びて刺激されたドラゴンの目は狂気に支配されたまま。捉えるは動かない的となった獲物ただ一つ。赤い、ブラッキーの血肉に濡れた爪が振り上げられた。 「サイコキネシス!!」  静観していたエクトルが、叫んだアランを見た。  エスパー技は直接ブラッキーには通じない。彼女の指示の意図は、詳細を伝えずとも、隣のエーフィにぴったりと通じていた。指差した先、まっすぐにドラゴンを射貫く。  黒い土煙の中心で、ガブリアスが硬直した。強力なサイコキネシスがドラゴンの動きを封じている。  しかし、卓越した念力を操るエーフィでも、ガブリアスの動きを完全に止めるには強い集中力を要した。逆鱗で我を失いかけている竜を抑えるのは容易ではない。激しい抵抗を無理矢理抑え込んでいるのだろう、普段は涼やかなエーフィの表情が険しく歪む。 「……何故?」  エクトルは素直に疑問を投げかけた。  アランは、苦虫を噛んだような表情を浮かべていた。 「戦闘になれば任せると言ったのは貴方でしょう。貴方は何もしなくていい」  烈火の如き戦闘を前にしてもエクトルは何も感じていないかのようだった。何も感じず、何の疑いもなく、制御すべき義務を放棄し、ただ、見ている。ブラッキーが刻まれていく様を。 「ブラッキーを、殺すつもりですか」  予感ではなく確信であろう。氷のような沈黙が両者の間に流れた。  エクトルに動揺は一切無い。冷え切った表情が、彼の抱えた意志を物語る。 「何を仰いますか。ブラッキーを弱らせる必要があるのは、貴方も解っていたでしょう」 「弱らせるなんてレベルでは、ないです」 「貴方が気にされることではありません」 「誤魔化さないでください……お願いですから」  アランは苦く懇願する。震える肌。恐怖を浮かべながら、必死の抵抗を見せていた。  暫しの沈黙を挟み、諦めたように、エクトルは長い溜息を吐いた。 「あのブラッキーは、貴方の手に負えるものじゃありません」 「……」 「理性を失い、衝動のままに周囲を破壊する……ヤミカラスはその片鱗に過ぎません。ヨノワールも運が悪ければ即死でした。あの獣を手元に戻して、制御できるとお思いですか。未熟な貴方には到底無理です」 「だから」絞り出すようにアランは抵抗した。「だから……殺すと」 「時に、その方が彼等にとっても安楽です。大きすぎる力はポケモンもトレーナーも滅ぼします。これは貴方のためでもあります。どういった経緯かは存じませんが、あの異常な力の捻出、自我の喪失、戦闘への執着……あそこまでいけば、元のようには戻れない」 「どうして、エクトルさんがそう言い切れるんですか」  問いながらも、すぐに言葉を変えた。 「いえ……エクトルさんも、知っているんですね」  何を、とは言わなかった。  エクトルは幾度も重ねた思考をまた浮かべた。果たして、こんな子供だっただろうか。こんなにも疑い、真実を見抜こうとする目をしていただろうか。このキリの町に戻ってきて、彼女は変化し続けている。それとも、元々そういう人間だったのか。 「貴方も、見たことがあると?」  エクトルは、努めて冷静に返す。  彼女が内包している、純粋な怒りが眩しい。  きっと嘗ては自分もこんな怒りを心に秘めていた。ポケモンに自ら手を下すなど、考えもしなかった。いや、下しているのは正しく言えばガブリアス達だった。望郷の地に残してきた者達は知らぬ間にみな死んだ。この手は直接命の重さを知らない。 「あります。よく似た、ザングースを」  アランは僅かに震えた声で応えた。  エクトルは沈黙し、この奇怪な引き合わせを呪いのように思った。二人が抱く、決して交わらないはずの記憶が、遠からぬ場所でよく似た色を帯びる。 「ブラッキーは」深い洞を抱えた黒い瞳は、栗色の中に燃える魂を見た。「数多死んでいったネイティオと酷似しています」 「ネイティオ……」 「噺人の不在を埋めるために、代わりとなるネイティオは能力を極限まで引き上げる必要がありました。その過程、耐えられない個体は数知れなかった。ブラッキーはそれによく似ている。いずれ己の力に潰され自滅します」  アランは刹那、絶句する。 「……でも、だからって、ブラッキーを殺していいとは繋がりません」 「そうですね。貴方は正しい」  エクトルはすんなりと静かに頷く。 「しかし、貴方の正しさが、他にとっての正しさでもあるとは限りません。貴方の甘さはブラッキーに余計な苦しみを与えます」諭すように言う。「それでいいのですか?」  エクトルの脳裏に、自我を持たぬうちに死んでゆくネイティの姿が浮かんでは消え、自らの力に溺れ脳が停止したネイティオ達の姿が浮かんでは消えた。黙って見つめている自分がいた。  アランは首を横に振る。 「死が救いなんて、そんな悲しいこと、あるべきじゃないです」  耐え抜くように両の拳を握った。掌で爪が深く食い込み、その痛みを支えにして、顔を上げる。 「もう誰も失いたくないんです。私は、確かに甘くて、未熟です……だからこうなってしまったけど、だったら! 強くなります。トレーナーとして強くなって、ブラッキーを救う方法を探します! だから……もっと、こんなことじゃなくて、もっと違う方法があるはずです……!」 「甘いです」  断言し、聞く耳を持たないエクトルはガブリアスとブラッキーを見やった。  良くも悪くも、未来を信じている者の言葉。まだ、未来がずっと先まで続いていくと信じている子供の言葉。眩くて、空疎で、無力で、自らに未来を突き動かす力があると過信する傲慢を抱いている。  恨まれるだろう。そんなことは今更だ。既に失うものなど何も無い。 「ガブリアス、躊躇うな!」  エクトルが叫ぶと、ガブリアスの鋭い咆哮が拮抗を叩き割った。  周囲にいる誰もがドラゴンを凝視した。遂にサイコキネシスによる束縛を無理矢理解いた。根負けしたエーフィが、アランの隣で足を折り、か細い声で鳴いた。まるで、ブラッキーを切実に呼ぶように。  アランは、本来であれば切ることのないカードに手を出した。アランに、エーフィに呼応するように揺れていたモンスターボールを乱暴に掴み、願うように、祈るように、戦場に向け投擲した。太陽の下、翅を失ったアメモースが躍り出た。アランは叫んだ。アメモースも叫んだ。戸惑わず、躊躇わず、嘗てフラネの町でがむしゃらに放った銀色の風を、やはりがむしゃらに三枚の翅で巻き起こした。明確な意志をもって、抗うために。乱れた風はアメモース自身が空でバランスを失い地に落ちるまで続いた。だが、所詮、不完全な技はガブリアスを止めるには遠く及ばない。悪あがきにガブリアスはびくともしなかった。アメモースは自身の無力を呪っただろう。それでもまた立ち上がろうとして、しかし覚束ない動きしかできなかった。  逆鱗で直情的になったガブリアスは、怒りを、エーフィでもアメモースでもなく、すぐ傍で倒れ込んで動かないブラッキーに向けた。既に月の獣は虫の息だった。広がる血溜りの温もりと太陽の温もりの混ざった場所で、細くなった赤い瞳は振り下ろされようとする鋭い爪の軌道をぼんやりと見つめていた。  止められない。  アランが悲鳴をあげようとした瞬間、上空から、鋭くも幼い叫び声が跳び込んできた。  ガブリアスめがけて、ヒノヤコマが一気に下降する。その背に乗るフカマルが、叫び声をあげながら、ふと声に引き寄せられたように目線を動かしたガブリアスに向け、跳び込んだ。  小さなドラゴンの渾身の頭突きが、ガブリアスの頭にクリーンヒットし、頭蓋が激突した形にへこんだと錯覚するような、鈍い音がした。  小柄な体躯にその衝撃は足先まで響いただろう。ぶつかりにいった小さい獣は目を回し頭を抱えたが、ふらついた足取りで立ち上がった。ガブリアスの方といえば、幼稚な頭突き程度で倒れるほど柔ではない。鋭い視線がフカマルに推移した。  睨み付けられたフカマルは、一瞬硬直したが、めげずに今一度体当たりを仕掛ける。同時に、ヒノヤコマが遅れて、翼をガブリアスに鋭く見舞う。  ガブリアスと比較してしまえば取るに足らない、鍛えられてもいない野生ポケモン達が、一斉にガブリアスに向けて攻撃を始めた。上空に残るピジョン達が殆ど同時に翼を激しく羽ばたかせ、大きな風を起こした。  その風はガブリアス周辺に留まらず、後方に下がっているアラン達も激しく揺らす。  しかし、激しい砂嵐の中でも自由自在に動き回るというガブリアスは、すぐにその激しい風起こしに順応する。苛立ちが勝ったのか、上空に視線が動いた。ブラッキーをいとも簡単にねじ伏せたドラゴンの強さを目の当たりにし恐怖に竦んでいたポケモン達だが、怯まない。ガブリアスが跳躍しようとしたところを、すかさずフカマルがその左脚に必死にしがみついた。少しでも縫い留めようと。凶暴な金の瞳がフカマルを射貫き、左の翼が太陽を反射して鋭く鱗が光る。 「止まれ!!」  暴風を突き抜ける、遂にかけられた制止の指示に、ガブリアスの動きが止まった。  爪がフカマルに、あとほんの少しで突き刺さるという、その寸前。すぐ傍まで迫った脅威にフカマルは腰を抜かし、座りこんだ。  アランは咄嗟にエクトルを見た。男の顔に、狼狽が窺えた。  ガブリアスを止めて再び生じた沈黙。ブラッキーが力を振り絞るように起き上がると、���ぐに硬直したガブリアスのみぞおちめがけて体当たりを仕掛けた。意識は既に朦朧としているだろう。爪の立てられた場所から絶えない流血を抱いたまま放った一撃。僅かに揺らいだドラゴンの足下。その隙を縫って、ブラッキーは逃げようとした。不安定な走りで、方向感覚も失われながら、アランやエーフィからは離れるように、つまりは湖面へ。  ゆるやかな坂を駆け上がるその瞬間は、電光石火でそのまま止まれないかのように一気に上がる。鮮血が芝生に落ちて道筋を作る。  誰もが、ブラッキーの行動に目を奪われた。  高くなった柵の向こうに、黒い身体が消えて、激しい水飛沫の音が代わりに響いた。  声をあげる間も無く、彼等は走った。すぐに柵までやってくると、穏やかな湖に小さな飛沫が上がっている。赤い染みが穏やかな青に混ざり、抵抗もできずにブラッキーは必死に空気を吸い込まんと頭だけは出そうと藻掻いているが、瞬く間にその気力も失われていく。  溺れる。そう思ったエクトルの傍。  鞄をかなぐり捨てて、躊躇無く柵を跳び越えた、アランの姿が、はっきりと、エクトルの視界に焼き付いた。  栗色の瞳はただ一点、ブラッキーだけを見ていた。手を柵にかけて軽やかに越えると、脚からそのまま湖面へと吸い込まれていく。  二度目の激しい飛沫が高く突き上がる。 「な」  驚愕するエクトルを余所に、青に沈んだアランはすぐに浮上し、藻掻くブラッキーに向かって、みるみるうちに重くなっていく身体を引き摺るように泳いでいった。 「ブラッキー!」  獣に向けて手を伸ばす。ブラッキーの前脚に彼女の腕が掴まると、一気に引き寄せる。再び触れることは待望であった。その黒獣の身体は水に溶けながらも厭な臭いを放ち、微かな滑りけを含んでいた。傷から溢れる血液も、体外に放出された毒も止まらない。 「大丈夫――大丈夫!」  打ち付けるような水が口内に入ってきながらも、アランはブラッキーに呼びかける。しかし、ブラッキーは劈く叫び声をあげた。 「大丈夫! ブラッキー、落ち着いて!」  猛る黒獣をアランは強く抱き寄せた。その身体に、隠された爪が立ち、彼女の耳元でブラッキーは奇声をあげた。掴まりながらも、息も絶え絶えであったはずの身体のどこにその力が眠っているというのか。これではモンスターボールに戻したとて繰り返すだけだ。必死に宥めるアランを突き放そうとするように暴れ回る。激しい飛沫が一心不乱に暴れ回る。 「ブラッキー!!」  抑え込み自我を蘇らせようともう一度叫んだ、その瞬間、肩越しにブラッキーの口が大きく開き並ぶ牙が外に露わとなった。彼の視界が、アランの首元を捉えていた。その瞬間を、アランもほんの目と鼻の先で直視した。  エーフィの悲鳴が湖畔を劈いた。 < index >
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mashiroyami · 4 years
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Side 1-2 : ブラッキー
 にの。  にの。  どこにいる。  ここはどこ。  わからない。  おれはだれ。  にの。  りゅーど。  らーなー。  せるど。  えーふぃ。  ちのにおい。  ちのにおいがする。  ころしたい。  ころす。  とまらない。  さみしい。  ああ。  だれかのこえがする。  うたがきこえる。  ちのにおいがする。  こえがきこえる。  うるさい。  だめだ。  これいじょうはだめ。  あのこ。  らな。  ないてしまう。  ころす。  だめ。  ころしたい。  あいつをころす。  なにがあっても。  まもってあげて。  どんなことをしてでも。  まもるよ。  こんどこそまもるよ。  しね。  まもりたかったんだよ。  だまれ。  にの?  ここはどこ。  きこえないんだ。  わからないんだ。  どうしてないてた。  どうしてきずつけた。  どうしてしんだ。  どうして?  どうして。  どうして。  どうして。  どうして。  どうしても。  どうしたって。  にの。  いたいよ。  いたい。  やめて。  やめろ。  やめて!!  にの。  だれ。  にの……。  暗転。  雑音。  衝動。  憎悪。  殺意。  破壊。  切断。  静寂。  意識を辛うじて掴んだ時闇夜に立ち上った血の臭いは己から漂っていた。牙が抉る肉は最期の躍動に震えていた。悲鳴すら噛み砕いた。本能とも怨念とも狂気とも線引きのできない衝動に身を任せた直後何も見えなくなった。胸の内を月光が閃いて黒い土砂降りに消えた。力が湧いた。巨大な力が溢れた。全身の隅々まで力が渡った。止まらない。止められない。煽られた心はまた殺意に変容しただ剥き出しで肉を喰らい熱い血潮が口内を満たしそのまま喉を突いて通り過ぎていったあまりに鮮やかな瞬間が内側から理性を破壊して獣の心を赤銅に蝕みことごとく支配せんとした。 < index >
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mashiroyami · 4 years
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Page 114 : 月影を追いかけて
 静かな空間では、時に、些細な音も雷鳴のごとく響く。ポケギアが鳴り、アランの表情は瞬時に緊迫した。  たった一人登録された、限られた人物からだと画面で確かめ、すぐに回線を繋ぐ。 「もしもし」 『手がかりがありました』  前置きも無く、開口一番端的に告げられたため、アランは一瞬耳を疑ったが、聞き違いではない。息を詰め、耳を傾ける。  次のように続く。  クヴルールの伝を使い町のいたる地点に設置された防犯カメラを確認したところ、キリの中心市街地にて何度か光の輪の残像が発見された。夜間照明に照��された黒い肢体はまさにブラッキーのものであったという。とはいえ、町をあげた祭ともあり前日から外部から多数の観光客が足を運んでいるため、かのブラッキーであるという確証は無い。しかしそもそも希少価値の高い種族であり、誰も彼もトレーナーの傍を離れて夜の町を疾走しているとは考えづらい。野生である可能性も低い。となれば、あのブラッキーである可能性は自然と高くなる。  問題は現在地である。 『現在作動しているカメラにはどこにも姿が見えません。記録を元に足取りを追うと可能性が高いのは中心街付近となりますが』 「昨日もその辺りは行ったんですが」 『歓楽街の方面は?』  アランは口を噤んだ。  日が沈んで代わりに起き上がる場所、夜の店で煌めき、ネオン色が明滅し、色香が漂い酔い狂う歓楽街はキリにも存在する。特に昨夜は祭の前日ともありとりわけ人通りが多かった。エーフィを従えていたとはいえど、土地勘が無く気圧されたアランは踏み込めなかった。鮮やかな嬌声の纏わり付く賑やかな場所にブラッキーが潜り込むとも考えづらかったということもあっただろう。回り込んで他の場所をあたっていた。  しかし、夜の街は朝に眠る。夜が明けた今ならば、人通りはあっても夜間に比べれば安全だろう。エクトルが傍らに居れば尚更である。 『その付近に居た形跡も残っています。とはいえ、遠く移動している可能性も否定できません』 「勝手な予想ですけど、そう遠くまでは行っていない……行けないと思います」 『何故?』 「むしろ、動き回る姿の方が想像できません、最近の元気の無さを思い返すと。今は例外なんですけど」  エクトルは沈黙した。 「考えが甘いですかね」 『いえ。……いや、甘いといえばそうかもしれませんが、ブラッキーを一番理解しているのは、貴方でしょう』 「そんなことは、ないです」  一つ一つの音に力を込めて弾き出すように、語気を強くした。 『……とにかく、行ってみる価値はあるかと。ネイティオには引き続き未来予知で探らせます』 「分かりました」  まだ部屋にいることを伝え回線を切断すると、アランは身支度をする。身支度といっても、改まってするといえば、うなじを完全に覆うように伸びた髪を小さな尻尾のように括るだけだ。  エーフィと共に部屋を出る。急ぎ足で外へ向かうと、部屋に居ては気付けなかった町の賑わいに足を止めた。  雲一つ無い爽快な空から降り注ぐ白い朝日が町を照らし、白壁は眩しく反射する。大通りの方面から薄らと明るい笑声や音楽が流れてきて、陽光と混じって白壁を反射し町へ浸透している。早朝は誰一人見かけなかったホテル前も、ずらずらと人波が出来ていた。道行く人々は揃って湖へと向かっている。それぞれの傍で種類豊富な羽ばたきが行き交った。もうじき祭の目玉の一つであるポッポレースが開催される。  エーフィに気が付いた人はさり気なく若紫の柔らかな肢体に目配せする。注目自体は既に幾度も経験している。首都の人口密度に比べてしまえば空いているものの、好奇を寄せられる数が、明らかに多い。アランは小さな両の拳を固く握った。 「ブラッキーを、早く見つけなきゃ」  焦燥は滲んでいない。締まった顔つきで呟くと、エーフィも肯いた。  栗色の視線が上がる。エクトルは道路を挟んで向こう側、建物の屋根の下にいた。 「エクトルさん」  器用に立ったままノートパソコンを操作しているエクトルに声をかけると、彼は画面から目を離した。 「ああ。少しは休まれましたか」 「はい、ちょっとだけ」  病的なまでに青白かった頬は僅かに血色を取り戻し、声にも張りがある。頷いたエクトルは、パソコンをひっくり返し、アランに画面を見せる。  画質は悪いが防犯カメラの映像が敷き詰められており、それぞれ蠢く人影がリアルタイムで映し出されていた。アランは目を丸くする。 「こんなの、ここで見ていいんですか」 「さて」  濁した横で絶句するアランをよそに、欠片も悪気を感じていないようにエクトルは淡々と操作し、無数にあるうちの一つの映像を拡大する。 「この時間帯に」  昨晩、二十時十一分。  電灯に設置されているものか、僅かに上空から映した道路を一瞬、黒と黄色の残像が横切って、すぐに停止する。時間を調節して、まさに横切ろうとした瞬間で止めると、その姿形は街灯の下に明らかとなる。  探し求めている姿を画面越しに発見し、アランは息を止めた。 「……良かった」  ぽつんと零して、エクトルは彼女を見た。  顔が綻ぶと思いきや、安堵を示す言葉とは裏腹に緊張は保たれている。 「少しは、安心されましたか」 「はい」アランは言う。「どこかで動けなくなってるんじゃないかとか、誰かに捕まっていないかとか、そういうことにはなっていなさそうで、良かったです」  エクトルは小さく頷く。  確かに、ブラッキーは稀少なポケモンであるが故、野生と勘違いされれば、血気盛んなポケモントレーナーの前に現れれば捕獲に傾くのも可能性としてはある。小規模とはいえ、ポケモンバトルの大会もイベントとして行われるのだから、腕自慢のトレーナーがいてもおかしくはない。だが、捕獲用のボールに入れられ「おや」が認証されているポケモンは、基本的には捕獲できない。ポケモンについて少しでも知識を囓っていれば誰もが知る常識事項である。  一方、例外もある。  トレーナーのいるポケモンが犯罪行為に及んでいる際、現場を抑え込むために特殊なボールを使って強制的に「おや」を上書きし捕獲に踏み込む場合がある。倫理規定の側面からすれば黒寄りのグレーゾーンだが、小さくはない抑止力を持つ。一歩間違えれば犯罪に使われかねないため、普段は首都アレイシアリス・ヴェリントン中央区にある警察庁にて厳重に管理されているとエクトルは噂に聞いている。必要時にはテレポートで各地に飛んでいけるだろうが、今回のような片田舎のたった一匹の脱走劇に使用されるとは考えにくい。  制止し難い行為、たとえば、無差別な殺戮さえしなければ。最も、そのような事態に至れば捕獲というレベルに収まらない場合もある。  幸い、ブラッキーが攻撃行為に及んでいる話は流れてきていない。恐らくは、彼はただ逃げて、どこかに身を隠している。既に理性を取り戻していれば、ひとまずは穏便にアランの元へ帰ってこられるだろう。だが、ブラッキーに会わなければ話は進まない。 「比較的人通りの少ない細い道を選んでいるように見えますね。稀少なポケモンですから、近辺に聞き込みをすれば、目撃情報も得られるかもしれません」  エクトルはパソコンを操作し、今度は画面に地図を広げる。色素の薄い画像はキリの中心街を示しており、目を引きつける赤のマーキングが点々とつけられている。ブラッキーの姿を確認した地点である。彼の辿った道筋が浮き上がってくる。  まっすぐ道を疾走しているのではなく、迷うように右往左往としていた。同じ場所を数回通過している様子が窺えるが、二十二時頃を境に足取りが忽然と消えている。既に半日近く経過している。遠方に逃げ去っている可能性も捨てきれないが、中心街を彷徨っている様を汲み取れば、まだ希望は捨てきれない。 「隠れているんでしょうか」 「その可能性もあります」 「行きましょう」  アランが即座に言う。エクトルは頷いた。  場所としては遠くない。徒歩で中心街の方面へ向かう。  大通りに出て彼女達の視界を埋め尽くすのは、朝から活力を漲らせている祭の光景であった。  各地から町を繋ぐ駅を要し活発に人が行き交うそこは、湖畔とは別に、花々の飾り付けは勿論のこと、食事や雑貨の並ぶ出店が立ち並び、香ばしい匂いが漂う。大道芸人が道端でパフォーマンスを披露して歓声が飛び、青空に相応しい金管楽器の華やかな音声が突き抜ける。クラシックギターを使った弾き語りに観衆が聴き入っている横で、人慣れしているのであろうピジョットのような大きな体格の鳥ポケモンが注目を浴びていた。上空の旗には小型の鳥ポケモンが並んで毛繕いに勤しんでいる。駅前から湖畔へ伸びる大通りは朝から歩行者天国となっており、浮かれた子供達が走り回る声に、忙しなく湖畔へ足を向ける町民や観光客の期待を込めた声に、彩色豊かにごった返していた。  仮にあのフカマルがいれば、喧噪に煽られ盛り上がる姿が見られたことだろう。もしかしたらザナトアと共に今頃湖畔で楽しんでいるかもしれない。  晴天の吉日、白い輝きに満ちた町は、アラン達との温度差を明確にする。  活気を膨らませた空気に馴染むことなくアランは周囲を見渡す。首都に負けるとも劣らない熱気ある人混みの中では、ブラッキーの姿は当然のように無い。エーフィに目を配るが、彼女も首を横に振った。  途中、以前エクトルと共に訪れた、アシザワの経営する喫茶店の前を通った。扉には閉店を示す看板がかけられている。赤いレインコートで雨中を踊っていた少年と赤毛の上品な女性を引き連れて、どこかに出かけているのだろうか。  場所を変える。  エクトルに連れられ、アラン達は出店の並ぶ大通りを外れて歓楽街の方面へ足を向ける。人の少ない路地を進み、奥まった建物の入り口や看板の足下、屋根の方までそれぞれ目配せする。壁の隅で蹲り顔を伏せている男の前を通り抜ける。表だった華やかな空気は少しずつ変容する。  夜こそスポットライトが盛大に当てられ多くの人間で賑わう歓楽街は、朝を迎えてしまうと夢であったように静かになる。闇夜に輝くライトは全て消灯し、競うようにひしめきあっている看板はいずれも沈黙している。昨夜は大いに盛り上がったのか、空いた酒の瓶や踏みつぶされた花飾りが道路の端に転がり、ところ構わずといったような吐瀉物を見つけて思わずアランは眉を顰めた。  閉めた店ばかりだが、独特の残滓が漂っている。それは、薄らぎながらも、濃厚な空気感だった。人通りが全く無いわけではないが、通り道に使うのみだったり、帰り際であったり、気怠げに壁に寄りかかって煙草の煙を燻らせている男女がいたり、まばらに気配は佇んでいる。頭上を飛ぶポッポは、巷の賑わいに一役買っていた姿とは裏腹に、閑古鳥の役割を担っていた。  途中、シャッターを閉めかけた夜の店の前、道を陣取るように止まっているトラックの横で二人の男性が話し込んでいる。扉が開けられた荷台には段ボールや瓶のような物体が窺える。店で使う酒を仕入れている最中のようだった。 「失礼」  目を付けたエクトルが、二人の間に割って入る。不審な視線が彼にぶつかったところで、胸ポケットからカードを取り出した。 「クヴルールの者ですが、お聞きしたいことがあります。お時間いただいても構いませんか」  差し出された身分証に目を通して、少ししてから、店員とおぼしき男性の方が顔色を変えたのを、アランの目も捉えた。 「この辺でなんかあったんすか」 「いえ。ただ、何か変わったことが無かったか確認している所です。本日は秋季祭ですので」  はあ、と怪訝に返しながら、男性は出しかけていた煙草をしまう。エクトルも身分証を戻した。 「昨晩、この周辺で不審なポケモンを見かけませんでしたか」 「不審なポケモン?」 「コラッタならいくらでも居ますよ。店の裏でゴミ食って、邪魔なんすよね。なんとかなりませんか、ああいうの」  店の責任でやってくれ、と返したくなるところを抑え、無視する。 「コラッタ以外では?」 「あとはヤミカラスも困ったもんすけど。他は、でも鳥ポケモンは夜は大体いませんし」視線を横に移す。「そんな変わったことあったか」 「知らんよ」  店員に話を振られた傍らの男性はむすっと首を振る。無理も無いが、警戒心を顕わにして隠そうとしていない。 「ま、夕べは祭の前日ですし、見慣れないお客さんも他から来るから、外部のトレーナーが自慢げにポケモン見せるってことはありますよ」 「たとえば、ブラッキーは?」  背後にいるアランがさり気なく視線をエクトルの背に向ける。 「ブラッキー?」  男は眉を潜める。  見覚えが無いというよりも、種族名自体を知らないのだろう。ぴんとも引っかからない表情を浮かべ、隣を見やるが、視線を受けた方も微妙な顔つきをしていた。 「イーブイの進化形ですが」 「イーブイなら解るけどなあ」  稀少ではあるが、愛くるしい外見から愛玩用としてたびたびメディアでも取り上げられる。その進化形も他のポケモンと比較すれば知名度の高い部類に入るが、彼等は興味を持っていないのか、曖昧な返答である。  エクトルは溜息を呑み込み、手に提げていた黒革の鞄から一枚の写真を取り出す。アランのブラッキーかどうかは定かではないが、くっきりと全身が写された画像が印刷されている。  差し出されたものを確認して、二人して声をあげた。 「見覚えがありますか?」 「あ、いや」慌てて店員は首を振る。「こいつがブラッキーかって思っただけで。これならテレビで見た覚えがある」 「俺も。……こんな場所で見るか? 結構珍しいんでしょ」  記憶には引っかからないようだ。エクトルは早々に諦め、二人に礼を告げて別れた。下手に詮索して勘付かれては困る。 「……なんか、おっかなかったな」  遠のいていく背中が、声の届かない範囲まで歩いて行った頃を見計らい、運転手は肩の力を抜いてぽつりと呟いた。 「クヴルール��マってやつだよ。余計なことを言ったら締められる」 「なんだそれ」  真面目な顔で言う店の男をせせら笑ったが、冗談ではないようで、笑うに笑えないような居心地の悪い空気が漂った。 「あの大男もそうだけど、俺はあの後ろの子供もなんか変な感じがして、厭だったな」 「ああ」  図体が大きく、佇まいのみで威圧するエクトルの背後。  大人同士のやりとりを、一歩下がってアランは静かに睨むように見つめていた。殆ど瞬きもせずに、顔の皺の動き一つすら逃さずに記憶に留めておこうとするような小さな迫力があった。ただの子供だというのに、見張られている感覚には、大の男であっても脅迫的なイメージすら持たせた。 「というか、何、知らないのか」 「何が」 「何がって。あのカード見てなんも思わなかったわけ」 「そんな大層な輩だったのか?」 「大層というか」  面倒臭げに頭を掻いてから、店の男は苦い顔で呟いた。 「自警団ってやつ? クヴルール家に害ありと判断したら、誰であろうと容赦無くこう、らしい」  と言って、片手で首を横に切る仕草をしてみせた。
 エクトル自身ははなから大した期待はしていなかったが、初発は空振りに終わった。その後も注意深く周囲を確認しながら、ブラッキーが映っていた防犯カメラの付近に向かう。どれほど理性的に行動しているか不明な相手に対して、地道に足取りを辿る行為に意味があるかは解らないが、現場の確認はしておくに越したことはない。 「ここですね」  エクトルはそう言って、立ち止まる。三叉路にあたり、左右に分岐する地点に向けて防犯カメラが電柱に設置されている。アランは現場に立ち、ブラッキーが一瞬映った場所に立つ。彼は突き当たりとなっている部分を左側へと走って、画面外へ消えた。  雪道でも泥道でもないのだから、足跡は残っていない。僅かな痕跡を探るように、エーフィは周囲を嗅ぎ回る。  左へ曲がって道を辿ると、両脇を雑居ビルが立ち並び、細い隙間のような路地が通っている。朝の日差しを浴びながらも、昨日の水溜まりが乾ききらない、閉塞感を抱かせる湿り気がある。 「ああいう外付けの階段とか、簡単に昇れそうですよね」  アランはビルの壁に沿うように設置された階段を見ながら呟く。 「屋上の可能性ですか」  エクトルが上空を仰ぐと、アランは肯く。 「上の方も探していないので。ブラッキーの身軽さだったら、屋上を跳んで渡るのもできそうな気がします」 「このくらいの距離なら、可能でしょうね」  隣接したビルならば遠くてもせいぜい二、三メートルの距離だ。建物の間を繋いでいるケーブルや、旗の紐を足場にすればより容易なように見える。 「ただ、ビルの高低差がありますから。ブラッキーの体調が万全でないのならそう簡単なことでもないかもしれません」  と、彼方から小さな花火の音が聞こえてきた。  ぽん、ぽん、と、軽快な響きに、アランは自然と音のした方に顔を向けた。 「ポッポレースが始まりますね」  腕時計を確認しながら、エクトルは呟く。 「ポッポレース……」 「出場する予定でしたか?」  すぐにアランは首を振る。ザナトアが出場することは噤んだ。 「エクトルさんは、大丈夫でしたか」 「何が、でしょうか」  彼にとっては何気ない一言だったが、些細な言動にどこか棘のあるような色が含まれる。尋ね返されて、アランは一度閉口した。 「その、お祭りに、行かなくて」  エクトルは僅かに目を丸くした。苦笑いを浮かべる気にもなれず、静かに首を振る。 「祭に浮かれるような人間ではありません」 「お祭りの仕事もありませんか」 「今は休んでると言ったでしょう。やることも無いんです。お気になさらず」  人の様子を必死に嗅ぎ取ろうとしている、とエクトルは思う。ただ顔色を覗うだけではなく、その奥にある真意も探ろうとしているような目つき。  アランが探りを入れても、エクトルにとって祭に対する思い入れは薄い。  祭もポッポレースも、エクトルに参加した記憶があるのはかすかな少年期のみだった。クラリスに仕えるようになってからは、祭日は屋敷から出ずに、クラリスと共に、窓から遠景に見える鳥ポケモン達の羽ばたきや、花火を眺めるぐらいのものだった。普段は立ち入ることのできないクヴルール家の屋敷の面した湖畔だが、祭日は例外で、かなり接近することができる。それは外敵の侵入を比較的容易にする時間帯でもある。クヴルールはキリで随一の権力を持つが敵も多い。のんびりと目を輝かせているクラリスの傍で、彼女とは異なる意味で目を光らせていた。癖は簡単に抜けるものでも無く、エクトルには秋季祭も気を張り詰める日である認識が強い。その役割が終わってもなお、結局祭の賑わいからは縁遠い立ち位置にいるとは、笑い話にもならない。 「ブラッキーに集中しましょう」  逸れた気を戻すようエクトルが促す。自らに言い聞かせる言葉でもあった。  暫く道なりに進めば、やがてブラッキーが最後に防犯カメラに映った地点に近付いていく。歩いてみれば、先ほどの地点からそう遠くはない。迷うように道を行き来していたのか、休息をとりながら移動していたように予想される。  その途中、ふとアランは足を止めて、左手の方へ視線を向けた。  薄汚れた白壁が立ち並んでいた中、石造の、他より幾分古びた建物が現れる。町の中に追い込まれたようだが、しかし屋根の高い建造物。天に向けて高く伸びていた。緑青色の屋根は長く酸化し続けて変容させてきたような、独特の色合いをしている。 「教会ですね」  見とれていたアランの隣で、エクトルが言う。 「水神様の、ですか」 「はい」  祭日を祝ってであろうか、町に並んでいるような花を模したカンテラが巨大な扉を挟むようにこじんまりと飾られ、硝子に囲まれた炎がちらちらと揺らいでいる。その下には吊り下げられるように青い花が飾られていた。  祭日とはいえ、人は湖畔や大通り沿いの方面に偏っているためだろう、人気は無かった。 「……中に入ってみてもいいですか?」  アランが尋ねると、エクトルは目を瞬かせた。 「ブラッキーが中にいるかもしれない、と?」 「はい……居なくても、何か手がかりがあるかもしれません」  エクトルは小さな教会を改めて見やる。少なくとも、昨夜、この周辺にいたのは間違いない。深夜帯以外は自由に出入りが出来るようになっているが、逆に夜間に隠れるには絶好の場所になる。目の付け所としては悪くないか。水神を信仰する教会は基本的にクヴルールの管轄であり、エクトルの顔も効きやすい。彼は頷いた。  開かれた小さな門を潜り、入り口を隠すような形になっている壁の横をすり抜ければ、すぐに中へと続く玄関がある。冷えた印象を持たせる灰色の床を踏み抜いて、中へ入ると、高い屋根の印象を裏切らない空間が目前に広がった。  古びているとはいえどちらかといえば白の印象を持たせる外観だったが、天井には群青をベースに、人や、鳥ポケモンや湖のポケモンと見受けられる生き物達が躍動的に描かれていた。両脇の巨大な磨り硝子��無色だが、正面のステンドグラスは薄い青の硝子を張っており、入り口から見ると白い陽光と青い陽光が混ざり合うようだった。  建物を支える柱には翼を持つ獣や人の巨大な石造が並び、天井まで意匠は凝らされている。  地上にはいくつもの石造のベンチが整然と並べられ、一番奥は一段高くなっている。目を引くのはその中央を陣取る、獣とも、人間ともとれるような、不思議な石造だった。天を仰ぐ右腕は人のもの、左腕は獣のもので、布を纏った身体には鱗のような模様も窺える。その周囲を鳥ポケモンの石造が豊かに舞い、今にも動き出しそうな実に躍動的な姿が彫られていた。  入り口に立ったまま動かないアランをエクトルは急かそうとはしなかった。軽く内部を視線で探ってみるが、ブラッキーはひとまず見当たらない。 「……水底にいるみたい」  ぽつんと呟いたアランを、エクトルは横目で見やる。 「……昔、水神様と人間は、同じ空間で生活を共にしていたと言われています」  アランは隣に立つエクトルを見上げた。 「しかし、嘗て町を沈めるほどの巨大な豪雨が訪れました。水神様は人間とポケモン達を助けるため、彼等に遠くへ逃げるよう指示し、町を深く巨大な穴のように沈め、そこに大量の雨が流れるように仕向けました。そうして雨水は全て穴に流れ込み、現在の湖になり、水神様はかつての町と共に水底に沈まれたと伝えられています」 「……」 「以来、水神様はいずれやってくる大きな災害を予兆し、民の生活を救おうとされている……そのために、水底から町の未来を視て、地上の民に伝える。その伝達を担うのが、人間と水神様を繋ぐ、噺人」 「それが、クラリス」 「ええ」  アランは、正面の奥に佇む、半獣半人の石造を見つめる。 「あれは……水神様ではなく、噺人を模しているんでしょうか」 「真正面の石造ですか」 「はい」 「水神様ではなく?」  言うまでも無く、信仰対象は水神であり、噺人ではない。 「はい。……水神様は、ポケモンだと、クラリスが言っていました」  するりと出てきた言葉にエクトルは眉を潜め、反射的に周囲に目配せしたが、近くに人は居ない。しかし人が居ないが故に声は通りやすい。 「言葉には気をつけてください」  わざと語調を強めると、アランは俯いた。 「すいません」強制的に話を終わらせるように、アランは不器用に微笑みを浮かべた。「ブラッキーを探しましょう」  微妙な距離感を保ち、二人は奥へと進む。石の床を叩く足音が上へと抜けていく。  エーフィは軽快な身のこなしで動き回り、長椅子に跳び乗ってそれぞれ確認する。  最奥にある一段高い敷居の手前には腰の高さの鉄製の柵が設置されている。明確な区画だが、ブラッキーにとってはあってないような柵だろう。巨大な半獣の石造を中心として、柵の向こうはゆとりのある空間がとられている。アランは青い逆光に照らされている石造を再度見上げてから、柵の前に立ち、装飾の隙間に彼の影が無いか目を凝らすが音も気配も感じ取れない。冷たく整然としていて、虫一匹紛れ込む隙の無いような雰囲気すらある。  ここにもいないのだと、彼等の間を諦念が流れ出す。  と、背後、入り口の方から足音がした。氷のように冴えた沈黙では、音の一つ一つが響く。  弾かれアラン達が振り返ると、月の獣ではなく、漆黒のコートのような、足下まで裾が伸びた服を身につけて玄関口に立つ女性がいた。ザナトアほど老いてはいないが、エクトルよりも年齢は上に見える。深くなろうとしている皺に柔らかな印象を持たせながら、彼女はゆっくりと会釈した。その手には白い綿を実らせている芒のような植物をたっぷりと生けた花瓶を抱いていた。  奥の石造へまっすぐ繋がる群青のカーペットを通らずに、壁に沿って奥までやってきて、柵の手前、端に鎮座する台にその花瓶を置いた。表通りを彩る花々よりも随分と質素だが、静粛な空間に似つかわしい趣深さがある。 「……何か、ご入り用ですか?」  観察するように眺めていたアランに彼女は声をかける。優しく撫でる声をしていて、表情も同じように柔らかい。  それから、既によく知っているのか、エクトルに向けて深々と礼をした。それは目上の者に向けて礼儀を以て対応する姿であった。しかし、頭を下げられたエクトルも深く一礼し、口を開く。 「少し、探しものを。勝手に入り、荒らして申し訳ございません」 「とんでもない。ここは誰にでも門戸を開いていますから。私の目には、何か隈無く目を配っているようにしか見えませんでしたよ」  女性はゆったりと微笑んだ。  彼女はこの教会に常在している司祭であり、サリア・クヴルールと名乗った。秋季祭の間もここに携わり、祈りを捧げているという話だった。床にぎりぎり届かない長さの黒い服装は彼女達の正装なのだろう。  つられるようにアランとエクトルもそれぞれ名乗れば、彼女はエクトルの名はやはり知っている様子であり、存じ上げております、とただ一言穏やかに言った。 「しかし、秋季祭だというのに、湖畔ではなく何故ここに。お手伝いできることであれば、私もお探し致しますよ」  アランとエクトルは一瞬視線を交わし、アランの方から歩み出た。 「ブラッキーを……ポケモンの、ブラッキーを探しているんです。夕べ、この辺りにいたことは解っているんです。もしかして、見かけていませんか」 「ブラッキー……?」  サリアは口許に手を当て、蒼く透いた瞳を丸くした。  手応えを感じ、アランは思わず身を乗り出した。 「知っているんですか?」 「その……はい。皆様が探しているブラッキーかどうかまでは解りませんが、確かに昨晩、ここにおりました」  アランはエクトルを振り返る。エクトルは驚きを顔には出さなかったが、促すようにアランを見て頷いた。  ここにいた、ということは、今はここにいない、という裏返しでもある。しかし、確かな証拠を明らかにすれば、彼へ至る道筋が一つ見えてくる。 「詳しく聞かせてもらっていいですか」  エクトルが言うと、サリアはすぐに了承した。
「秋季祭の前日ということもあり、昨日はこの場所も一日中頻繁に人が出入りしておりました。水神様への感謝と祈りを込め、昨晩は小さなコンサートを催しておりました。キリの皆様は勿論、他所からの方々も来られ、音色に耳を傾けておりました」  弦楽四重奏に独唱を重ねた、こじんまりとした演奏ではあったが、教会全体のすみずみまで音が沁みていく素晴らしい時間であったという。  人々がそれぞれ長椅子に腰掛け、サリアは教会の入り口近くの壁に控えて、演奏を傾聴していた。定期的にこの場に呼ぶ顔なじみの演奏者達が幾重と重ねる音の層は、聴く者を癒やし、そしてどこか哀しみも湛えながら、自然と心に浸透していく。  そうして演奏をしている最中、小さなお客が教会の入り口に立った。誰もが演奏に集中している中、音も無く入ってきたという、美しい身体の獣。  それが、ブラッキーだった。 「はじめは声をあげそうになりました。しかし演奏中でしたので、物音一つ立てるのも憚られて」 「……ブラッキーは、どんな様子でしたか」  アランは尋ねる。 「特に、何もする様子はありませんでしたよ。引き寄せられてきたようにここに入ってきて、……あの辺りですね、私の居た場所の、反対側の、一番端にある柱の物陰に座り込んで、それからは暫く音楽を聴いているように見えました」  サリアは教会の最後方、今アラン達の立つ奥の位置から見て、左側を指した。壁に沿うような柱がいくつか立っており、鳥ポケモンを模したような石造が彫られているが、そのうち、建物のほとんど角にあたる部分にブラッキーは居たのだと言う。  演奏中は奏者の付近のみが照らされ、客席の後ろに向かうほど暗闇は濃くなる。隠れているようで、ブラッキーの放つ小さな光は、よく映えたと言い、些細な動きもよく解ったらしい。しかし、彼は殆ど身じろぎすることなく、静かに長座した。サリアは、きっとあの獣も音楽を聴いているのだと思った。  演奏が終わり教会内全体が点灯すると、ずらずらと人々は教会を後にし始めた。興奮の色濃い中で、隅で黙って蹲る獣に気付く者は誰もいなかった。サリア自身も、教会を訪れた人々に声をかけられたり、演奏者にお礼をしに行っている間は、すっかりブラッキーのことを忘れていた。  演奏者を見送り、教会から人がさっぱり消えて、演奏に震えた心地良さの最中でほっと肩の荷が下りたところ、さてそろそろ教会を閉めようかと見回して、はっと気付いた。あのブラッキーは、どうなったのだろう。 「慌てて見に行ったら、まだ同じところに居たんです」  床に身体を倒し、寛いでいるようにも見えた。眠っているかと思ったが、近付くと、赤い目が動いてサリアを捉えた。無意識に足を止めるような強い視線だった。  その場には、サリアとブラッキーしかおらず、沈黙が続いた。  ブラッキーが野生なのか、人のポケモンなのかは解らない。しかし、サリアは追い出すことも、声をかけることもせず、そっとしておくことにした。どんな獣であれ、ポケモンを労ることは、水神様に祈りを捧げる者として迷いのない行為であった。サリアは裏手に戻り、キリの住民から分け与えられた木の実を持って、ブラッキーから少し離れた地点に置いた。もしかしたら寄ってくるかもしれないと希望を抱いたが、彼はちらと視線を寄越しただけで、やはり動かなかった。  誰も寄せ付けようとせず、ひたすらにその場から動かずにいる姿は、身体を休めているというよりも誰かを待っているかのように見えたと言う。 「ブラッキーは、貴方を待っていたのかもしれません」  おやであるアランを見て、ぽつりとサリアは言った。  アランは甘い言葉に揺れることなく、顔を俯かせ、静かに首を振った。 「解りません。……自信はありません」  その理由を彼女は続けなかったし、サリアやエクトルも深く掘り下げようとはしなかった。アランの言葉に滲む、強い拒絶のような意志を静かに感じ取ったからだった。 「でも、結局その後、ブラッキーはどこかに行ったんですね」 「はい。普段、夜中は閉めるんですが、昨晩は結局一晩中開けていました。夜明け近くになって見に行ってみたら、既に姿は無く」  でも、と続ける。 「置いていた木の実を、一つ食べてましたよ」  サリアは嬉しそうに笑んだ。 「……そうですか」  アランは、優しげな声でただ一言ぽつんと呟いた。  ヤミカラスを襲撃してから、他のポケモンや人を襲うこともなく、完全な拒絶をすることもなく、彼は彷徨っている。たった一匹、慣れぬ土地を渡り、この教会は彼にとってひとときの微睡みの空間となったのかもしれない。  エクトルは沈黙するアランを横目にしながら、考える。仮にサリアの言うように、ブラッキーもアランを求めているのだとすれば、今は擦れ違いを起こしているに過ぎない。会うことさえできれば、元の鞘に収まり、何故今回のような衝動的な事件を起こしたのか、その疑問への追求に集中できるだろう。だが、浮かび上がる懸念事項への警戒を続けるに越したことはない。 「ただ、その後どこに行ったかは解りません。お役に立てず、申し訳ございません」 「そんなことないです。ありがとうございます」  慌てて頭を下げるアランに、サリアは微笑ましさを覚えたようで、にこやかに笑う。 「私はポケモンに詳しくありませんが、草臥れたような様子だったので、時間が経っているとはいえまだこの辺りにいる可能性はあるかと思います。見つかるといいですね」 「はい」  サリアに礼を言い、彼等は教会を後にしたところで、エクトルは不意に呼び止められた。 「……何か?」 「一つだけ。……クラリス様は、ご健勝でいらっしゃいますか」  エクトルは表情を変えず、暫し言葉を選ぶように沈黙してから、顔を上げる。 「元気でいらっしゃいます。先日成人の儀をつつがなく終え、噺人としての責務を全うされておられます」 「ああ、そうですか。安心致しました」  サリアはぱっと喜びを素直に顔に出した。  彼女はエクトルがクラリスの付き人であることを知っているのだ。クラリスの現状を知る者は、クヴルールの中でも限られている。教会を預かる身であるサリアも、大きな枠からすれば末端の身なのだろう。  水神様のご加護を、と手を合わせた彼女の別れの挨拶を受け、外に出れば、天頂に迫ろうとする太陽の光が目を突いた。 「クラリスが、噺人として生きていく。それで、本当に良かったのか、私には解らないんです」  玄関から数歩離れ、サリアを含め周囲に人の気配が無くなったところで、アランは呟いた。独り言のように小さな声だが、エクトルへ向けた言葉でもあった。エクトルはゆっくりとアランを振り返る。 「キリの外に出ることを願っていて、自由を求めていて……最後、クラリスは手紙で、受け入れているように書いていましたけど、それは本当のクラリスの思いだったんでしょうか。私にはそう思えなくて」 「……良い悪いではありません。お嬢様の意志も関係ありません。噺人として水神様に選ばれた、そうと判明した時から、全ては決まっていました」 「でも、何も閉じ込めなくたって。一番大切なのが季節の変わり目なら、それは一年に四回。その間くらい、自由にさせてあげたって、いいじゃないですか」 「噺人は、時と心を水神様に捧げます」  アランはエクトルを見上げる。 「時と心?」 「ええ。生きているその時間。心は、清純でなければ水神様をお言葉を頂くどころか、水神様に辿り着くことすらできないと言われています。だから、噺人は日がな一日、水神様に祈りを捧げ、心を手向ける。そこに余計な感情は要らない、と」 「余計な感情……クラリスが自由を望んだことが、ですか。他の町へ行ったり、誰かを好きになったり、友達を作ったり、キャンプをしたり、ああいうなんでないことを望むのは、余計なんでしょうか」  エクトルの内心にそっと棘が立つ。 「あくまでも、噺人としては、です」 「でも、クラリスにその自由を望ませたのは、エクトルさんじゃないんですか」  エクトルの表情が僅かに歪んだ。 「私が?」  鈍い低音に気圧されるように、アランの目が揺らいだ。 「……はい。クラリスは、外の世界に強い憧れを持っていた。旅の話をよく聞きたがった。旅の話を聞くのが、好きだって。それは、エクトルさんの旅の話を聞いていたから、でしょう?」  流石に強い威圧に怖じ気づいたのか、慎重に言葉を吐いた。対し、エクトルは厳しい視線をアランに刺す。  彼女はエクトルの過去を知っている。ザナトアから聞いたのだろう。どの程度か彼には不明だが、少なくとも、嘗てアーレイスをポケモントレーナーとして旅をしていた事実を知っている。エクトルにとってはとうに遙か昔に追いやって薄ぼやけた記憶。キリに籠っていては感じられない他地方の空気、町、人々、文化。自ら足を運んで見聞が広がる喜び、育成の楽しさ、勝利の達成感、どうしても勝てない苦しみ。縁を切ったはずの家に連れ戻され、顔を突き合わせた、腐敗した狭小な世界に閉じ込められる運命にある憐れで美しい少女。 「エクトルさんだって、できるだけ、クラリスの好きなようにいさせてあげようと」 「クレアライト様」  早口で制す。敢えて呼んだのは、彼女のまことの名だった。アランは眉間を歪める。 「憶測だけで物事をはかるのはおやめください。……お嬢様に旅の話を聞かせたとは、仰る通りです。しかし、私に語るものがそれしかなかっただけ。悩まれた末、お嬢様は自らクヴルール家に戻ることを選ばれました。そうする他なかった」  努めて静閑たる語調ながら、一言一句が刃であった。息を呑むアランの前で、大きな息を吐く。 「それだけが事実です」  ぽつりと、突き放した。  アランは何か言いたげに口を開いたが、すんでで留めた。二の句を告がせるだけの余裕すら潰すエクトルの重圧に、圧し負けた。  と、エクトルは微細な振動を感じ、上着の裾を上げた。ふっと緊張の糸が緩む。モンスターボールを装着できるように設計されたベルトの、最も一番手前に位置したモンスターボールを取り出す。小刻みに震える捕獲器を開放すると、中からネイティオが姿を現した。 「視えたか」  静かに尋ねると、ネイティオは頷いた。 「ネイティオがブラッキーの出現地を視たようです。今は、こちらに集中を」  アランを振り返って言うと、彼女は驚くわけでも喜ぶわけでもなく、覚悟を固めるように首肯した。  常に閉じられた翼が突如開き、ネイティオがゆったりとした動きで飛び上がる。予知した地点へ誘おうというのだろう。天を仰いだところで、アランは目を大きく見開いた。  一陣の冷たい風が吹く。 「待ってください」  向かおうとした一同を制する。驚愕を秘めた栗色の瞳の向いた先に視線が集まる。  上空、正面の屋根の付近を飛んで現れた鳥ポケモンの群れ。白壁に朱色が鮮やかな、ヒノヤコマがぱっと気が付いたように甲高い声を上げ、下降してくる。連れ立つのはピジョンやムックルといった同じ鳥ポケモンで、既に彼女にとっては見慣れた姿であった。ヒノヤコマの背には、なんとフカマルが跨がって手を振っている。則ち、ザナトアの育て屋に集うポケモン達である。 「どうして」  アランの声は明らかに動揺していた。既にポッポレースは始まっているはずだ。レース本番に挑んでいれば、今頃湖畔の上空を疾走しているはずである。特に、ヒノヤコマやピジョンといった進化組はチームを統率する要にあたる。はなから彼等が欠けた状態で出場しているのか、なんらかのアクシデントがあったのか、この場では判別がつかない。  一同がアラン達の正面に集まり、スイッチが入ったかのようにその場は賑やかになる。緊張は嘘だったかのようだ。羽音や鳴き声が彼女達を鼓舞する。エーフィは柔らかく笑んで、アランを見た。  喉がこくりと動き、彼女は唾を呑む。 「手伝ってくれるの?」  信じられないでいるのか、まず問いかけたが、はじめ反応しなかった。しかし、エーフィが通訳をしたように鳴き声を発すると、一様に頷き、頼もしい歓声をあげた。  フカマルがアランの前に出る。ぎゃ、といつもの声を上げて、手を上げた。無邪気な彼を凝視している脇の視線には気付かないで、アランは毒気を抜かれたように微笑んだ。しゃがみこんで小さな青い手を握り、両手で優しく包む。細かな竜の鱗が肌に食い込んでも構わないように、握る手に力が籠る。そして聞き慣れた賑わいを見回した。 「ありがとう、皆」  噛み締めた言葉を絞り出し、アランは立ち上がった。 「行こう。ブラッキーを迎えに」  一斉に翼が広がった。今も行われているであろう、無数の翼を持つ者達が発つ湖畔でのレースに比べればずっと小規模だが、力強い羽ばたきは太陽に向けアラン達を先導する。引力に導かれるまま、彼等は走り出した。 < index >
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mashiroyami · 4 years
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Page 113 : 疑念
 朝日が建物の隙間から差し、遠景の空は透く。  日の出を見る時刻は、車の往来も少なければ、人の出入りも殆ど無い。僅かな足音が妙に響くような静けさを伴っている。  アランは重い足取りで細い道をとぼとぼと歩く。  キリの地理には詳しくないが、探せる範囲はできるだけ足を伸ばした。大通り、湖の周囲、暗い路地も含めて、目を凝らし、呼び続けた。道行く人々の口から彼の噂が流れてくるのではと耳を澄ませ、時には尋ねて、捜索を続けたが、ついに手がかりを掴めなかった。万が一にも殺傷事件を重ねていれば多少なりとも耳に入ってきそうなものだが、アランもザナトアも足取りを追えないでいた。それは不幸中の幸いであると言えるかもしれない。しかし、まだ人目についていないだけで、闇夜に紛れた静寂なるうちに、誰の目にも止まらぬ場所で死体が転がっている可能性はあるのだった。たった一晩の間でそれが明らかになるとも限らない。  爽やかな陽光に照らされるアランの表情は暗かった。太陽に愛されたエーフィの足取りも流石に重い。ふらついた足はぽつんと誰もいない町を歩く。  見つけた電話ボックス。彼女が一人でこの町までやってきてまず入ったものと同じ。おもむろに入り、皺が増えてはじが破れかけているメモ用紙を開いた。以前スバメの足に括り付けられて運ばれた、所狭しと美麗な字が詰められた小さな手紙を、アランは一種の御守りのように持ち歩いている。  指先に触れる金属は冷たい。一つ一つ、番号を押していく。休息をできるだけ味わうように足下で寝転がるエーフィに彩りの無い視線を落としつつ、流れる音が途切れる時を待つ。まだ朝は早い。眠っているかもしれない。だが、遠慮を考えられるほどアランには余裕が残されてはいないのだろう。  やがて切れて、繋がる。 「はい」  彼は名乗らない。聞き慣れた、というにはまだ浅い。けれど今、縋る他ないその声に、アランは湿った吐息をついた。 「エクトルさん」  受話器を強く握りしめた。 「お願いしたいことがあるんです」  声に力は無かった。  そしてアランは、事の顛末を簡潔に説明した。以前から体調を崩していた様子だったブラッキーが、急に昨晩、野生のヤミカラスを襲ったこと。アランの声は一切届かず、彼から攻撃してきたこと。エーフィが身を張って暴走を止めようとしたが、失敗し、キリの町に姿を消したこと。夜を通して探しているが、手がかりすら掴めずにいること。  エクトルは特段動揺する様子も嘆く様子も無く、小さく相槌を打ちながら、アランの話に耳を傾けた。 「ブラッキーを見つけなくちゃならないんです。どこかでまた被害が出る前に」 「捜索を手伝ってほしいということですね」  長い前置きから先手を打たれ、アランは表情を引き締め、短く肯定した。  わかりました、とエクトルは静かに応える。 「まずは合流しましょう。今どこにおられますか?」  アランは逡巡し、宿泊しているホテルの名前を伝えた。現在地から遠くなく、アランが知っているキリに関する位置情報の中で、正確に伝えられるものである。同時に、ザナトアも泊まっている場所であり、縁が切れて久しい二人が出会う可能性が浮かぶのだが、アランはそれについては何も言わず、エクトルも勘付いているのか否か、普段と変わらぬ冷淡な調子で了承した。  電話を切ると、エーフィはたおやかな身体をするりと伸ばし、アランを不安げな顔で見上げた。疲労は隠せないが、立ち止まる余裕は無かった。エーフィもまたブラッキーを深く案じている。昨晩、ヤミカラスを屠る獣に対し、躊躇わずに電光石火で懐へ跳び込んだ彼女は、果たして彼の理性が弾ける可能性に気付いていたのか。今更想像を巡らせたとて、詮無きことだが。 「うん、行こう」  彼女達は並んで歩き始める。朝の陽光は僅かに明るくなっていき、町は青い影を纏い始めていた。  薄い光の中を急ぐと、既にエクトルは指定場所に立っていた。連絡をしてからそう時間は経っていないが、彼はまるでずっと待ち構えていたように、慌ただしい気配など一切感じさせず皺の無い黒いスーツを着こなしている。傍らには、やはりいつも傍に老いているネイティオが静かに鎮座して、まばたきもせずに正面を見つめている。過去と未来を見通すという、両のまなこには曇りが無い。体格のみでも圧倒する気難しげな男と、妙な存在感を放つネイティオの組み合わせは、どこにいても彼等と分かる、異様な雰囲気を作り出す。  性急な足音を耳に入れたのだろう、入り口からずれた壁に沿って立っていたエクトルは視線を動かす。  髪を乱し、息を切らしたアランに向けて、エクトルは黙って会釈する。若々しい肌に出来た隈がここ数日間の心労を克明に示しており、一瞬口を厳しく噤む。しかし、恐らくそう悠長に構えている暇は無いのだと、すぐに察した。 「詳細を聞いてもよろしいですか」  息が整ってきた頃合いを見計らって説明を求めると、重くかさついた口から改めて事のあらすじが語られた。首都を出て以来、ブラッキーの具合が悪かった点、それに卵屋の傍で死んだポッポにも触れる。  悪の波動を直接受けた腹部に自然と手があてられる。痛みはとうに消えている様子だったが、目に見えぬ傷は生々しいだろう。漠然とした不安に気を病むのも無理はない。 「ブラッキーが急に我を忘れて他のポケモンを襲ったことは、今まで無かったんですよね」 「はい」  勿論と言いたげに、アランは語調を強くする。  躊躇無く危機に跳び込む果敢な姿、鋭利な視線の強さは、彼の獣としての好戦的な本能を彷彿させる部分ではあった。しかし同時に、悲哀に寄り添う思慮深さや、一歩周囲から引いて達観している側面を持っており、突発的な暴走、ましてや主人や仲間のポケモン達に危害を加えるなど、正常からはかけ離れた行動だった。人懐っこいエーフィとは対照的に馴れ合いを拒む傾向があるが、情には熱い。  殆ど行動を共にしていないエクトルでも、漠然と彼等の性格や立ち位置は理解している。嘗てキリでもっと賑やかな一行であった時、子供とはいえ、主人に害を成す可能性は無いか、楽しげに時間を過ごす輪の外側から観察していたものだった。そのエクトルにとっても、今回のブラッキーの件は予想できぬものだっただろう。  可能性があるとすれば、もっと根本的な部分に由来する。 「性格や種族によって程度に差はあれど、そもそも、ポケモンには戦闘本能があります」  エクトルは話す。  だから、ポケモン同士を闘わせるポケモンバトルという文化が生まれ、発展してきている。此の国においては、スポーツと似た側面が強いが。相手を直接攻撃するということは、当然一歩間違えれば取り返しのつかない事態に陥る。不思議な生き物達の、未だはっきりとメカニズムの証明されていない技や進化といった神秘は、元来彼等が生き残り、子を残し種を繁栄させていくための潜在能力だ。時には戦い、そして生きるため。時には縄張りを守るため、群れを統率するため。単純に戦闘そのものを好む種もある。そして、生存のためには食事は必須であり、時には相手を喰らう目的で戦うことも、野生の世界ではなんらおかしいことではない。だが、人間に飼われている彼には本来その必要性が無い。たとえ強い敵意識が芽生えたとしても、本能を抑え付ける訓練も十分なされている。性格を考えても不可解な点は多い。  何故急にブラッキーが、理性を手放したのか。 「なんらかの条件が揃って戦闘本能が呼び起こされたと考えるのが自然ではありそうですが、心当たりは」  アランは考え込むように手を唇に当て、暫く黙り込む。 「……ありません」  ぽつりと応え、すぐに顔を上げた。 「原因も気になりますけど、まずは、ブラッキーを見つけたいです。ポッポの時は、一晩明けたら、誰かを襲うような様子はありませんでした。今も、どこかで冷静になっているかもしれません」 「貴方は、ポッポの件もブラッキーによるものだと考えているんですね」  アランは一呼吸を置き、頷く。昨晩は狼狽を隠せなかったが、既に冷静を取り戻していた。 「他に思い当たりませんから。勿論、野生のポケモンによるものという可能性は、捨てきれませんけど」  視線を下げてから、続ける。伸びた前髪に隠れた瞳に、黒い影が蹲っている。 「以前は、ザナトアさんは野生ポケモンを追い払うために用心棒のポケモンを用意していたんですよね」  アランの確認するような言いぶりに対しはじめエクトルは違和感を抱いたが、直後に理解する。彼女は、恐らくザナトアと自分の関係について、知っている。それを知っていて、敢えて尋ねるような口調を使った。  エクトルが答えずにいると、先にアランが口を開いた。 「でも、決して全く野生の対策をしていないわけではないんです。一応、育て屋を囲う柵は健在ですし、周囲には、刺激の強い香りを放つ植物が植えてあります。家にある資料に書いてありました。慣れてしまえば気にならなくなる程度みたいなんですが。林に棲み着いた野生ポケモンだとしても、林から建物は離れているうえ、わざわざ広い草原を渡って卵屋の方まで獲物を取りに来るでしょうか」  アランのポケモンに関する知識は付け焼き刃に等しい。それでも、彼女は考えていたのだった。ポッポの死の真相について。毎晩見張りながら、何も起こらぬ夜を過ごし、観察していた。  ザナトアが言うように、野生に命を奪われる事故は珍しくはないのだろう。しかし、今は育て屋を辞め、人のポケモンには触れず野生ポケモンの保護に尽力するようになった。 「あの付近には小麦畑や野菜畑もあります。卵屋でなくとも、食料はある。勿論、そうとは限らないという可能性があるというのも、解ってるんです。でも、そもそも、ポッポの死体が首だけを抉っていたというのが、おかしい気がして」  だって、と見上げたアランの瞳は、光に照らされてもなお暗がりを広げていた。 「食べるために襲ったのだとすれば、殆んなど食べずに放っておくなんて、変じゃないですか���それに、夜で殆どのポケモンが眠っていたとはいえ、外から敵がやってきて、少しも騒いでいないっていうのも。保護されているとはいえ、あの子達だって野生なのだから、敏感なはずだと思うんです。……見知った気配か、気配を消して近付くだけの賢さがないと」  それでもブラッキーだとは限らない。あくまで可能性の一つに過ぎない。  エクトルは何も言わなかった。正しくは、言えなかった。彼自身は現場を見ていないためでもあるが、アランの思考の流量に、目を見張っていた。ザナトアからすれば呆れたものだったが、ポッポの死に執着している中で、彼女は様々な可能性を浮かび上がらせては、否定し、繋ぎ合わせていたのだろう。  以前アランに再会した時の印象をもう一度彷彿させた。果たしてこんな人間であっただろうか、と。 「だから私は初め、誰かが何らかの理由で意図的にポッポを殺した可能性があると疑ってたんです」  黒の団の関与については、ポッポが死んで明けた朝、エーフィに対して疑念として打ち明けた。 「でも、その意図が全くわからない。……もしかしたら、ザナトアさんを恨んだ誰かの仕業かもしれない。脅迫のような。或いは、全く別かもしれない。でも、そうだとして、あのポッポを選んだのは、どうしてなのか、解らなかった。恨みでポッポを殺したのなら、その人はザナトアさんのことを解っていない。そんなことをしても、あの人は動じないです」 「……そうですね」  たった一匹の命が軽いものとはザナトアは言わないだろう。しかし、一匹が死んだことで、嘆きに囚われてしまうことはない。たとえ長く生活を共にしたポケモンだったとしても平等に扱う。死は必然として訪れる。ザナトアは身に沁みるほど知っているから動じない。 「ブラッキーだとしたら、辻褄が合うんです。私の中でも」  エクトルは目を細める。 「……他を疑ってきた中で、ブラッキーが犯人である可能性は、疑いようがないと言い切れるんですね」 「絶対じゃないですよ。もしかしたら、もう本当のことは解らないかもしれないです。でも、ブラッキーだったら……信じられないけれど、有り得てしまうのかもしれないって。それに、あの日がどうであろうと、ブラッキーが昨晩ヤミカラスを殺したのは事実です」  でも、とアランは不意に微笑んだ。 「だからといって、ブラッキーを見捨てたくはありませんから」  疲弊が滲んだ笑みに、エクトルは言葉を返せない。代わりに小さく首肯し、無言のうちに鞄を探った。  目当ての物はすぐ出てきて、アランに差し出される。大きな手に包まれて手渡されたものをアランは自らの掌で確認し、目を丸くした。  白いポケギアだ。型には彼女にも見覚えがある。旧式で、使い古された浅い傷が残っている。 「これは」 「お嬢様の私物でした。もう必要のないものです。貴方にお譲りします」  アランは言葉を続けられず、無言で操作する。自ら操作するのは初めてだったが、旧式である分構造もシンプルであり、機能もごく限られている。時計と、電話と、ラジオ。登録されている電話番号の一覧にはエクトルの名前のみが鎮座している。 「貰っていいんですか?」 「ええ。いずれ捨てる予定のものですから」  その理由は今更語るものでもない。アランは暫し沈黙した後、疑り深い視線を寄せた。 「これ、発信器がついてたんじゃ……」  エクトルは一瞬言葉に詰まる。 「そんなこと、覚えていらしたんですか。……不要な機能は除いています」  小さな狼狽は強固な面には表れない。アランはじっと見つめ、頷いた。 「ありがとうございます」  そう言って、すぐに取り出せるように上着のポケットに差し込んだ。 「一度、お休みになられてはいかがですか」  先程から妙に過敏な傾向もみられる。青い顔色も見かね、エクトルが慮るように提案すると、力無くアランは首を横に振る。 「少しでも早く、見つけないと」 「しかし……エーフィも疲れているでしょう」  ふとアランは足下を見やる。  陽気とまではいかずとも、いつも穏やかに明るく振る舞うエーフィも、流石に一睡もせずに町を走り回ったのは身に堪えるだろう。元気に動く二叉の尾も、垂れ下がって沈黙している。 「急いては事を仕損じる、と言います」  隣国の諺ですが、とエクトルは補足する。 「いざブラッキーに相対した時、万が一に戦闘となればこちらもそれなりの心積もりでいなければならないでしょう。朝になれば通常ブラッキーは大人しくなります。一度休めて備えるのも一手かと」  アランは納得し難いように口を噤んだが、その間エクトルが町を詮索すると説得して、漸く頷いた。 「駄目ですね」  唐突に零した声音が自棄的であった。 「周りが見えなくて、焦ってばかりで」 「貴方は当事者ですから」  仕方ないでしょう、と言いかけたところを、アランは首を振る。 「大丈夫です。……お言葉に甘えて、少し休みます。何かあったら、連絡してください。すぐに出ます」  エーフィに声をかけ、アランは背後のホテルに戻っていく。エクトル自身も予想はしていたが、宿泊している場所だったようだ。ザナトアとエクトルが邂逅する可能性も零ではなかったが、老婆は最後まで姿を現さなかった。それを果たして彼女は解ったうえでこの場所を指定してきたのか、エクトルは危ない橋を渡っている感覚から脱せない。  あの様子では忠告を無視して捜索に乗り出してもおかしくはなかったが、彼女自身も疲弊は頂点に達していたのか、大人しく���テルの奥へ姿を消していったのを硝子越しに確認し、エクトルは踵を返した。
 周りが見えない、と言う。エクトルからしてみれば彼女は若いというよりも幼く、それは当然のことだと片付けられた。だが、子供だと見くびっていると、思わぬ矛先が向けられることもある。  実際、あんなに冷酷な考えに至る子供だっただろうか、とエクトルは思う。  己が目撃したわけではない凶悪犯が、付き従えてきたポケモンだと断定することに、さほど躊躇は無いように見えた。むしろ、納得していた気配すらある。暴走の理由は解らないと言い淀みながらも、辻褄が合うとは不可解だ。彼女は重要な事項を隠しているのかもしれない。それゆえにブラッキーを疑っているのか。  まだ何も明らかにはなっていない。  エクトルは彼女について何も知らないも同然だ。ほんの少しだけクラリスと過ごしただけの、友達と呼べるのかも断言し難い、あまりに刹那であった夏の終わりの出来事に出会っただけの人間である。それでもエクトルには今の彼女が妙に冷たく感じられるのは、クラリスの境遇に対し強い抵抗感を示した彼女とも、楽しげに料理を囲んで笑っていた彼女とも重ならないからだ。あの訣別の朝、湖上を飛翔しクラリスの名を呼び続けたという熱意が思いがけず鮮烈であった印象でもある。終始凪いで他人を見張っている暗い顔つきをした現在からはかけ離れている。ポケモンの食嗜好と性格を結びつける、エクトルからすれば他愛も無い知識に対して目を輝かせた顔が懐かしい。  そういえば、あの時、彼女は言った。ポケモンが好きなんですね、と。  当時、濁りの無い言葉になんの感情も浮かび上がってはこなかった。 「ネイティオ」  隣に立つ存在を呼びかけると、特徴的な黒目のみが動きエクトルをぎょろりと捉えた。 「未来予知だ。彼女のブラッキーは記憶してるな。探し当てろ」  指示を受け、やや間を置いてからネイティオは頷いた。空白の時間に彼の頭で駆け巡ったのは、記憶の引き出しを一瞬で開いていく音だろう。ネイティオをできるだけ外に置いているのは、できるだけ視界に情報を与え、記憶させるためでもあった。不審な人物の行方を追う際に何度も使ってきた手法だ。クラリスでも知らないことだ。  エクトルはスーツの裾を捲り、腰のベルトに装着したボールを取り出す。紅白でデザインされた一般的なモンスターボールではなく、黒字に緑の円が重なった特殊なボールは、暗闇を生きる獣に対して効果的とされる種である。  まだ夜が明けたばかりの朝。伸びる影は濃く、夜の気配は残滓のように辺りに張り付いている。  隣でネイティオの黒い瞳に赤い光が浮かんだ。かの視界は時を渡る。瞬き一つせずに虚空を見つめ、エクトル達人間には見通すことのない世界を視る。  ポケモンの力は強大だ。不可能を可能にできる、異次元の世界が彼等の中には広がっている。それを全て意のままに操るなど、人間の傲慢に過ぎないだろう。しかし、クヴルールはその傲慢を払いのけ、不可能を可能にした。  人間の科学や想像力は、理想は、ポケモンの底知れぬ力すらねじ伏せるのか。しかし、自然に対する逆行が、良い方へ作用するとは限らない。ブラッキーの暴走に対し、エクトルは不吉な予感がしてならなかった。
 *
 アランがホテルの部屋に戻ると、ザナトアは既に起床し、ラジオをかけながら、身支度を整えているところだった。元々ザナトアの朝は始まるのが早い。普段も殆ど夜明けと共に目覚めて卵屋や広い放牧地に赴いてポケモン達の体調や環境を確認し、墓地を訪れるのが日課なのだった。場所が違えど習慣は身体に染みついている。だから、部屋に戻って一番にザナトアに会うこと自体に関して、アランには動揺は無かっただろう。  手前側のベッドの枕元を、まだ眠っているアメモースが占拠しており、些細なことで布など簡単に傷つけ破ってしまうフカマルは、テーブルに寄りかかって、持参した傷だらけのクッションに身を委ねて寝息を立てている。  ザナトアは開いた扉に立つアランを、驚く素振りもせずに振り返り、収穫は無かったのだとすぐに理解した。 「おかえり」  たった一言、いつも通り、つっけんどんに言うと、アランは頭を垂れた。 「見つからなかったかい」  解りきっていることだが、あえて尋ねる。きっと彼女からは言い出しづらいことだろう。慣れぬ町を深夜もうろつくとは、いくら彼女が旅で昼夜放浪しているとはいえ勧められたものではなかった。反対を押し切ったものの結果を出せなくては、気まずさもあるに違いない。  早朝のニュースを伝えるラジオ音声を背景に、静かな首肯を見て、ザナトアはアランに近付き背中を叩いた。 「今のところニュースにはなっていないようだよ。ブラッキーも今頃頭を冷やしているかもね」  励ますように言葉をかけてみるが、彼女の顔は晴れない。ザナトアは肩を落とす。 「少しおやすみよ。朝になってしまえばいつ探しても変わらないだろうさ」  アランの口元が僅かに緩んだ。師弟揃って似たようなことを言うものだった。 「……のんびりしていてもいいんでしょうか」 「はあ? のんびりしていいなんて誰も言ってないよ。英気を養えって言ってるんだ」  思わず突き放すように言うと、漸くアランの頬が上がる。何かが腑に落ちたようだった。 「そうですね。のんびりはできません」 「そうだよ」  エーフィが我先にとベッドに乗り込むと、つられてアランも布団の上に転がった。瞬く間にまどろみが瞼にのしかかっていくのか、抵抗なく目を閉じた。 『――次のニュースです。またも火災事故です。昨夜未明、アレイシアリス・』  ラジオの音声が唐突に途切れる。ザナトアが電源を切ったためだ。沈黙の朝がむず痒く流していたものだが、眠りゆく者たちには弊害だろう。シャワーも浴びずに真っ先にベッドに倒れ込んだのだから、苦労は想像するまでもない。若さはそれだけで価値がある。多少の無理をしても身体がそう簡単には堪えない。老婆の手元からはとっくの昔に消えてしまったものだ。  空調が効いているとはいえ、秋も深まりつつある暁は冷える。布団もかけずに寝転がって、彼女はそのまま眠りにつこうとしていた。仕方無く、ザナトアは昨日羽織っていた上等な上着を彼女の肩からかけてやる。エーフィには、備え付けのブランケットをかけた。  アメモースに、エーフィに、アラン。一匹欠けてしまった彼女のパーティの侘しさが引き立つ。  窓辺に立ち、薄手のレースカーテンをそっと開ける。広い道路に面した窓辺からは磨かれた硝子を通して、突き抜けるような秋空が天にたたずみ、青い朝が一望できる。外にひとたび足を踏み入れれば、冷めた風が肌を撫でて身を引き締めるだろう。室内にいても容易に想像できるような、澄んだ朝である。  祭当日、ポッポレース本番としては、この上無くお膳立てされた空模様である。  今頃湖は昨日の雨を忘れて波一つ立てずに凪いでいることだろう。普段なら早朝に船を出して漁に励む男らがいるものだが、今日は祝日。季節の変わり目と、祭日に限っては、湖への侵入が暗黙の了解で禁じられている。  時間が立てばみるみる湖畔は人やポケモンで賑わうようになり、湖畔の一角を陣取る自然公園を中心に催しが繰り広げられ、収穫の秋に相応しく食材やその加工品といった出店が所狭しと並ぶ。花をあしらった目にも鮮やかな装飾品も名物の一つだ。明るいうちから大人は酒を呑み、子供は旬の食材を使ったお菓子を貰っては飛び回るように遊ぶ。朝から昼間にかけてポッポレースが開催されて大いに盛り上がり、場外ステージでは小規模ではあるが公式のポケモンバトル大会も行われる。そして夕方には、毎年、美しい夕陽に照らされて輝く湖の傍に集まって、空に向けて風��を飛ばす。その先端には羽や花が添えられ、人によっては誰かへ向けた手紙を付ける。暗くなっても賑やかに夜店が並び、盛大のうちに幕を下ろす。  楽しい祭を快く過ごせない事態になろうとは、ザナトアも予想していなかった。折角渡した駄賃も、残念ながら楽しむのに使うどころではない。  今のアランには、祭を楽しむ余裕など当然ないだろう。ブラッキーが早く見つかればいいのだが、見つかったとしても収集が着くのかは不明である。捜索に加わりたいのは山々だが、外付き合いというのは億劫なものだ。それに、日々訓練に励んでいた野生の子たちを放置するわけにもいかない。  しかし、ブラッキーの消失した夜が明け眠りから覚めて、ザナトアは一つ心に決めたことがあった。戸惑うだろうが、きっと理解してくれるだろう。  窓枠に手を添い、秋の恒例行事を想像する。  あのポッポが飛べなかった舞台、チルタリスやクロバットをはじめとして多くのポケモン達が味わえなかった舞台を、あのちいさき者達が羽ばたく。  その光景は、何にも代え難い。  可能ならば、アランにもその瞬間を見せてやりたかった。  無数の翼が希望を抱いた青空に向かって一気に飛翔する、圧巻の空間を共有させてやりたい。生命が叫ぶ瞬間である。あの瞬間、ザナトアは自分は翼を持たないにも関わらず、彼等に引っ張られるように、生きなければならないという高揚がみぞおちの底から湧いてくるのだ。驚いて泣き出す子供も少なからずいるくらいだが、喜怒哀楽が極端に薄い彼女にはむしろ驚かせるぐらいが丁度良いだろう。  今年もその日が遂にやってきたのだと、感慨に耽っていると、不意に落とした視線の先に、黒スーツの後ろ姿が見えた。あまりに遠く、黒い後頭部からは体格はおろか顔も判別がつかない。隣にはネイティオを従えていた。  それ以上ザナトアの視界に留まる間も無く、次瞬には跡形も無く姿を消した。恐らくは、ネイティオがテレポートを使ったのだろう。  まさかね。  絶縁となった彼に繋がっているというアランと生活をしているから、ここ数年は存在も殆ど頭から抜け落ちていたというのに、妙に思考を過るようになってしまった。そんな偶然がこうして簡単に起きるなら、同じキリに住んでいれば、もっと早く鉢合わせたっておかしくないだろう。  影も形も男の気配が残されていない地上からはすいと目を離し、カーテンを閉め、薄い陽光は遮断された。
 *
 彼方で花火のあがる音がした。三発、空砲のようなからりとした音である。その音をきっかけにしてアランは目が覚めた。つられて、他の二匹も身体を起こした。  まどろむ顔で浸っているうちに、町に住んでいるのであろう鳥ポケモンが硝子の向こうで小さく囀っている。  眠りにつくのは早かったが、深くは眠れていなかった。遠い音で簡単に起きてしまう。しかし、部屋に備え付けられた時計を確認すれば、二時間ほどが経過していた。  結んだままにしていた髪ゴムを取り、少し長くなった髪が垂れる。身だしなみを気にする生活をしていないから、奔放に伸びている。気怠げな所作ではあるが、その下の顔色は、格段に良くなっていた。  机の上に置かれたメモを確認し、ザナトアは先に会場へ向かったと知る。今の花火は祭の始まりを報せる合図だったのだろうか。  ポッポレースは午前中のうちに始まる。ヒノヤコマをはじめとしたザナトアのチームが飛ぶのは第二部。正午には終わるだろう。  メモの隣にはパンが二つ置いてある。ビニール袋に入れられたそれを出して、齧り付く。塩を混ぜ込んだ生地はとっくに冷めていたが、柔らかげな風合いを保っている。流し込むように一つ平らげたら、残りの一つはエーフィとアメモースに分け与えた。それだけではポケモン達は足りないから、持参した固形のポケモンフーズを取り出し、それぞれに食べさせる。  小さな咀嚼音を聞きながら、アランは視線を伏せる。  いつもの存在がいない朝は寂しさが漂う。喪失は突然やってくるものだと、彼女は既に身を以て痛感している。幾度も経験しては、時に驚き、嘆き、受け入れてきた。だが、喪失感に暮れる暇などはない。戸惑いは夜に置いてきたように、顔つきは引き締まっていた。  ザナトアの上着を丁寧に畳んでベッドに置くと、一つ深呼吸をした。  触角を上下させるアメモースを傷だらけのモンスターボールに戻し、鞄にしまいこむ。紺の上着を着直した時、ポケットの固さが気になったように手を入れると、譲り受けたポケギアをまじまじと見つめた。今後二度と会わないかもしれないというクラリスが使っていたという機械は丁寧に扱われており使用感がほとんど無いほどだったが、よく目を凝らすと、薄い傷がはじを静かに抉っていた。 「いける?」  エーフィに向けて言った。アイコンタクトと言葉での簡単な意思確認が交わされる。エーフィも活力が戻ったのだろう、力強く肯いた。 < index >
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mashiroyami · 4 years
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Page 112 : 変移
 育て屋に小さな稲妻の如く起こったポッポの死からおよそ一週間が経ち、粟立った動揺も薄らいできた頃。  アランは今の生活に慣れつつあった。表情は相変わらず堅かったが、乏しかった体力は少しずつ戻り、静かに息をするように過ごしている。漠然とした焦燥は鳴りをひそめ、ザナトアやポケモン達との時間を穏やかに生きていた。  エーフィはザナトアの助手と称しても過言ではなく、彼女に付きっきりでのびのびと暮らし、ふとした隙間を縫ってはブラッキーに駆け寄り何やら話しかけている。対するブラッキーは眠っている時間こそ長いが、時折アランやエーフィに連れられるように外の空気を吸い込んでは、微笑みを浮かべていた。誰にでも懐くフカマルはどこへでも走り回るが、ブラッキーには幾度も威嚇されている。しかしここ最近はブラッキーの方も慣れてきたのか諦めたのか、フカマルに連れ回される様子を見かける。以前リコリスで幼い子供に付きまとわれた頃と姿が重なる。気難しい性格ではあるが、どうにも彼にはそういった、不思議と慕われる性質があるようだった。  一大行事の秋期祭が催される前日。朝は生憎の天気であり、雨が山々を怠く濡らしていた。ラジオから流れてくる天気予報では、昼過ぎには止みやがて晴れ間が見えてくるとのことだが、晴天の吉日と指定された祭日直前としては重い雲行きであった。  薄手のレースカーテンを開けて露わになった窓硝子を、薄い雨水が這っている。透明に描かれる雨の紋様を部屋の中から、フカマルの指がなぞっている。その背後で荷物の準備を一通り終えたアランは、リビングの奥の廊下へと向かう。  木を水で濡らしたような深い色を湛えた廊下の壁には部屋からはみ出た棚が並び、現役時代の資料や本が整然と詰め込まれている。そのおかげで廊下は丁度人ひとり分の幅しかなく、アランとザナトアがすれ違う時にはアランが壁に背中を張り付けてできるだけ道を作り、ザナトアが通り過ぎるのを待つのが通例であった。  ザナトアの私室は廊下を左角に曲がった突き当たりにある。  扉を開けたままにした部屋を覗きこむと、赤紫の上品なスカーフを首に巻いて、灰色のゆったりとしたロングスカートにオフホワイトのシャツを合わせ――襟元を飾る小さなフリルが邪魔のない小洒落た雰囲気を醸し出している――シルク地のような軟らかな黒い生地の上着を羽織っていた。何度も洗って生地が薄くなり、いくつも糸がほつれても放っている普段着とは随分雰囲気が異なって、よそいきを意識している。その服で、小さなスーツケースに細かい荷物を詰めていた。 「服、良いですね」 「ん?」  声をかけられたザナトアは振り返り、顔を顰める。 「そんな世辞はいらないよ」 「お世辞じゃないですよ。スカーフ、似合ってます」  ザナトアは鼻を鳴らす。 「一応、ちゃんとした祭だからね」 「本番は、明日ですよ」 「解ってるさ。むしろ明日はこんなひらひらした服なんて着てられないよ」 「挨拶回りがあるんですっけ」 「そう。面倒臭いもんさね」  大きな溜息と共に、刺々しく呟く。ここ数日、ザナトアはその愚痴を繰り返しアランに零していた。野生ポケモンの保護に必要な経費を市税から貰っているため、定期的に現状や成果を報告する義務があり、役所へ向かい各資料を提出するだの議員に顔を見せるだの云々、そういったこまごまとした仕事が待っているのだという。仕方の無いことではあると理解しているが、気の重さも隠そうともせず、アランはいつも引き攣り気味に苦笑していた。  まあまあ、とアランは軽く宥めながら、ザナトアの傍に歩み寄る。 「荷造り、手伝いましょうか」 「いいよ。もう終わったところだ。後は閉めるだけ」 「閉めますよ」  言いながら、辛うじて抱え込めるような大きさのスーツケースに手をかけ、ファスナーを閉じる。 「あと持つ物はありますか」 「いや、それだけ。あとはリビングにあるリュックに、ポケモン達の飯やらが入ってる」 「分かりました」  持ち手を右手に、アランは鞄を持ち上げる。悪いねえ、と言いつつ、ザナトアが先行してリビングルームに戻っていくと、アランのポケモン達はソファの傍に並んで休んでおり、窓硝子で遊んでいたフカマルはエーフィと話し込んでいた。 「野生のポケモン達は、どうやって連れていくんですか?」  ここにいるポケモン達はモンスターボールに戻せば簡単に町に連れて行ける。しかし���レースに出場する予定のポケモン達は全員が野生であり、ボールという家が無い。 「あの子達は飛んでいくよ、当たり前だろ。こら、上等な服なんだからね、触るな」  おめかしをしたザナトアの洋服に興味津々といったように寄ってきたフカマルがすぐに手を引っ込める。なんにでも手を出したがる彼だが、その細かな鮫肌は彼の意図無しに容易に傷つけることもある。しゅんと項垂れる頭をザナトアは軽く撫でる。  アランとザナトアは後に丘の麓へやってくる往来のバスを使ってキリの中心地へと向かい、選手達は別行動で空路を使う。雨模様であるが、豪雨ならまだしも、しとしとと秋雨らしい勢いであればなんの問題も無いそうで、ヒノヤコマをはじめとする兄貴分が群れを引っ張る。彼等とザナトアの間にはモンスターボールとは違う信頼の糸で繋がっている。湖の傍で落ち合い、簡単にコースの確認をして慣らしてから本番の日を迎える。  出かけるまでにやんだらいいと二人で話していた雨だったが、雨脚が強くなることこそ無いが、やむ気配も無かった。バスの時間も近付いてくる頃には諦めの空気が漂い、おもむろにそれぞれ立ち上がった。 「そうだ」いよいよ出発するという直前に、ザナトアは声をあげた。「あんたに渡したいものがある」  目を瞬かせるアランの前で、ザナトアはリビングの端に鎮座している棚の引き出しから、薄い封筒を取り出した。  差し出されたアランは、緊張した面持ちで封筒を受け取った。白字ではあるが、中身はぼやけていて見えない。真顔で見つめられながら中を覗き込むと、紙幣の端が覗いた。確認してすぐにアランは顔を上げる。 「労働に対価がつくのは当然さね」 「こんなに貰えません」  僅かに狼狽えると、ザナトアは笑う。 「あんたとエーフィの労働に対しては妥当だと思うがね」 「そんなつもりじゃ……」 「貰えるもんは貰っときな。あたしはいつ心変わりするかわかんないよ」  アランは目線を足下に流す。二叉の尾を揺らす獣はゆったりとくつろいでいる。 「嫌なら返しなよ。老人は貧乏なのさ」  ザナトアは右手を差し出す。返すべきかアランは迷いを見せると、すぐに手は下ろされる。 「冗談だよ。それともなんだ、嬉しくないのか?」  少しだけアランは黙って、首を振った。 「嬉しいです」 「正直でいい」  くくっと含み笑いを漏らす。 「あんたは解りづらいね。町に下るんだから、ポケモン達に褒美でもなんでも買ってやったらいいさ。祭は出店もよく並んで、なに、楽しいものだよ」 「……はい」  アランは元の通り封をして、指先で強く封筒を握りしめた。  やまない雨の中、各傘を差し、アランは自分のボストンバッグとポケモン達の世話に必要な道具や餌を詰めたリュックを背負う。ザナトアのスーツケースはエーフィがサイコキネシスで運ぶが、出来る限り濡れないように器用にアランの傘の下で位置を保つ。殆ど手持ち無沙汰のザナトアは、ゆっくりとではあるが、使い込んだ脚で長い丘の階段を下っていく。  水たまりがあちこちに広がり、足下は滑りやすくなっていた。降りていく景色はいつもより灰色がかっており、晴れた日は太陽を照り返して高らかに黄金を放つ小麦畑も、今ばかりはくすんだ色を広げていた。  傘を少しずらして雨雲を仰げば、小さな群れが羽ばたき、横切ろうとしていた。  古い車内はいつも他に客がいないほど閑散たるものだが、この日ばかりは他に数人先客がいた。顔見知りなのだろう、ザナトアがぎこちなく挨拶している隣で、アランは隠れるように目を逸らし、そそくさと座席についた。  見慣れつつあった車窓からの景色に、アランの清閑な横顔が映る。仄暗い瞳はしんと外を眺め、黙り込んでいるうちに見えてきた湖面は、僅かに波が立ち、どこか淀んでいた。 「本当に晴れるんでしょうか」 「晴れるよ」  アランが呟くと、隣からザナトアは即答した。疑いようがないという確信に満ち足りていたが、どこか諦観を含んだ口調だった。 「あたしはずうっとこの町にいるけど、気持ち悪いほどに毎年、晴れるんだよ」  祭の本番は明日だが、数週間前から準備を整えていたキリでは、既に湖畔の自然公園にカラフルなマーケットが並び、食べ物や雑貨が売られていた。伝書ポッポらしき、脚に筒を巻き付けたポッポが雨の中忙しなく空を往来し、地上では傘を指した人々が浮き足だった様子で訪れている。とはいえ、店じまいしているものが殆どであり、閑散とした雰囲気も同時に漂っていた。明日になれば揃って店を出し、楽しむ客で辺りは一層賑わうことだろう。  レースのスタート地点である湖畔からそう遠くない区画にあらかじめ宿をとっていた。毎年使っているとザナトアが話すその宿は、他に馴染んで白壁をしているが、色味や看板の雰囲気は古びており、歴史を外装から物語っていた。受付で簡単な挨拶をする様子も熟れている。いつもより上品な格好をして、お出かけをしている時の声音で話す。ザナトアもザナトアで、この祭を楽しみにしているのかもしれなかった。  チェックインを済ませ、通された部屋に入る。  いつもと違う、丁寧にシーツの張られたベッド。二つ並んだベッドでザナトアは入り口から見て奥を、アランは手前を使うこととなった。 「あんたは、休んでおくかい?」  挨拶回りを控えているのだろうザナトアは、休憩もほどほどにさっさと出かけようとしていた。連れ出してきた若者の方が顔に疲労が滲んでいる。彼女はあのポッポの事件以来、毎晩を卵屋で過ごしていた。元々眠りが浅い日々が続いていたが、満足な休息をとれていなかったところに、山道を下るバスの激しい振動が堪えたようである。  言葉に甘えるように、力無くアランは頷いた。スペアキーを部屋に残し、ザナトアは雨中へと戻っていった。  アランは背中からベッドに沈み込む。日に焼けたようにくすんだ雰囲気はあるものの、清潔案のある壁紙が貼られた天井をしんと眺めているところに、違う音が傍で沈む。エーフィがベッド上に乗って、アランの視界を遮った。蒼白のままかすかに笑み、細い指でライラックの体毛をなぞる。一仕事を済ませた獣は、雨水を吸い込んですっかり濡れていた。 「ちょっと待って」  重い身体を起こし、使い古した薄いタオルを鞄から取り出してしなやかな身体を拭いてくなり、アランの手の動きに委ねる。一通り全身を満遍なく拭き終えたら、自然な順序のように二つのモンスターボールを出した。  アランの引き連れる三匹が勢揃いし、色の悪かったアランの頬に僅かに血色が戻る。  すっかり定位置となった膝元にアメモースがちょこんと座る。 「やっぱり、私達も、外、出ようか」  口元に浮かべるだけの笑みで提案すると、エーフィはいの一番に嬉々として頷いた。 「フカマルに似たね」  からかうように言うと、とうのエーフィは首を傾げた。アメモースはふわりふわりと触角を揺らし、ブラッキーは静かに目を閉じて身震いした。  後ろで小さく結った髪を結び直し、アランはポケモン達を引き連れて外へと出る。祭の前日とはいえ、雨模様。人通りは少ない。左腕でアメモースを抱え、右手で傘を持つ。折角つい先程丁寧に拭いたのに、エーフィはむしろ喜んで秋雨の中に躍り出た。強力な念力を操る才能に恵まれているが故に頼られるばかりだが、責務から解放され、謳歌するようにエーフィは笑った。対するブラッキーは夜に浮かぶ月のように平静な面持ちで、黙ってアランの傍に立つ。角張ったようなぎこちない動きで歩き始め、アランはじっと観察する視線をさりげなく寄越していたが、すぐになんでもなかったように滑らかに隆々と歩く。  宿は少し路地に入ったところを入り口としており、ゆるやかな坂を下り、白い壁の並ぶ石畳の道をまっすぐ進んで広い道に出れば、車の往来も目立つ。左に進めば駅を中心として賑やかな町並みとなり、右に進めば湖に面する。  少しだけ立ち止まったが、導かれるように揃って湖の方へと足先を向けた。  道すがら、祭に向けた最後の準備で玄関先に立つ人々とすれ違った。  建物の入り口にそれぞれかけられたランプから、きらきらと光を反射し雨風にゆれる長い金色の飾りが垂れている。金に限らず、白や赤、青に黄、透いた色まで、様々な顔ぶれである。よく見ればランプもそれぞれで意匠が異なり、角張ったカンテラ型のものもあるが、花をモチーフにした丸く柔らかなデザインも多い。花の種類もそれぞれであり、道を彩る花壇と合わせ、湿った雨中でも華やかであったが、ランプに各自ぶら下がる羽の装飾は雨に濡れて乱れたり縮こまったりしていた。豊作と  とはいえ、生憎の天候では外に出ている人もそう多くはない。白壁が並ぶ町を飾る様はさながらキャンバスに鮮やかな絵を描いているかのようだが、華やかな様相も、雨に包まれれば幾分褪せる。  不揃いな足並みで道を辿る先でのことだった。  雨音に満ちた町には少々不釣り合いに浮く、明るい子供の声がして、俯いていたアランの顔が上向き、立ち止まる。  浮き上がるような真っ赤なレインコートを着た、幼い男児が勢い良く深い水溜まりを踏みつけて、彼の背丈ほどまで飛沫があがった。驚くどころか一際大きな歓声があがって、楽しそうに何度も踏みつけている。拙いダンスをしているかのようだ。  アランが注目しているのは、はしゃぐ少年ではない。その後ろから彼を追いかけてきた、男性の方だ。少年に見覚えは無いが、男には既視感を抱いているだろう。数日前、町に下りてエクトルと密かに会った際に訪れた、喫茶店の店番をしていたアシザワだった。  たっぷりとした水溜まりで遊ぶ少年に、危ないだろ、と笑いながら近付いた。激しく跳びはねる飛沫など気にも留めない様子だ。少年はアシザワがやってくるとようやく興奮がやんだように動きを止めて破顔した。丁寧にコーヒーを淹れていた大きな手が少年に差し伸べられ、それより一回りも二回りも小さな幼い手と繋がった。アシザワの背後から、またアランにとっては初対面の女性がやってくる。優しく微笑む、ほっそりとした女性だった。赤毛のショートカットは、こざっぱりな印象を与える。雨が滴りてらてらと光るエナメル地の赤いフードの下で笑う少年も、同色のふんわりとした巻き毛をしている。  アランのいる場所からは少し距離が離れていて、彼等はアランに気付く気配が無かった。まるで気配を消すようにアランは静かに息をして、小さな家族が横切って角に消えるまでまじまじと見つめる。彼女から声をかけようとはしなかった。  束の間訪れた偶然が本当に消えていっただろう頃合いを見計らって、アランは再び歩き出した。疑問符を顔に浮かべて主を見上げていた獣達もすぐさま追いかける。  吸い込まれていった横道にアランはさりげなく視線を遣ったが、またどこかの道を曲がっていったのか、でこぼことした三人の背中も、あの甲高い声も、小さな幸福を慈しむ春のような空気も、まるごと消えていた。  薄い睫毛が下を向く。少年が踊っていた深い水溜まりに静かに踏み込んだ。目も眩むような小さな波紋が無限に瞬く水面で、いつのまにか既に薄汚れた靴に沿って水玉が跳んだ。躊躇無く踏み抜いていく。一切の雨水も沁みてはいかなかった。  道なりを進み、道路沿いに固められた堤防で止まり、濡れて汚れた白色のコンクリートに構わず、アランは手を乗せた。  波紋が幾重にも湖一面で弾け、風は弱いけれど僅かに波を作っていた。水は黒ずみ、雨で起こされた汚濁が水面までやってきている。  霧雨のような連続的な音。すぐ傍で傘の布地を叩く水音。 全てが水の中に埋もれていくような気配がする。 「……昔ね」  ぽつり、とアランは言う。たもとに並ぶ従者、そして抱きかかえる仲間に向けてか、或いは独り言のように、話し始める。 「ウォルタにいた時、それも、まだずっと小さかった頃、強い土砂降りが降ったの。ウォルタは、海に面していて川がいくつも通った町だから、少し強い雨がしばらく降っただけでも増水して、洪水も起こって、道があっという間に浸水してしまうような町だった。水害と隣り合わせの町だったんだ。その日も、強い雨がずっと降っていた。あの夏はよく夕立が降ったし、ちょうど雨が続いていた頃だった。外がうるさくて、ちょっと怖かったけど、同時になんだかわくわくしてた。いつもと違う雨音に」  故郷を語るのは彼女にしては珍しい。  此度、キリに来てからは勿論、旅を振り返ってもそう多くは語ってこなかった。特に、彼女自身の思い出については。彼女は故郷を愛してはいるが、血生臭い衝撃が過去をまるごと上塗りするだけの暴力性を伴っており、ひとたびその悪夢に呑み込まれると、我慢ならずに身体は拒否反応を起こしていた。  エーフィは堤防に上がり、間近から主人の顔を見やる。表情は至って冷静で、濁る湖面から目を離そうとしない。 「たくさんの川がウォルタには流れているけど、その一つ一つに名前がつけられていて、その中にレト川って川があったんだ。小さくもないけど、大きいわけでもない。幅は、どのくらいだったかな。十メートルくらいになるのかな。深さもそんなになくて、夏になると、橋から跳び込んで遊ぶ子供もいたな。私とセルドもよくそうして遊んだ。勿論、山の川に比べれば町の川は澄んではいないんだけど、泳いで遊べる程度にはきれいだった��だ。跳び込むの、最初は怖いんだけどね、慣れるとそんなこともなくなって。子供って、楽しいこと何度も繰り返すでしょ。ずっと水遊びしてたな。懐かしい」  懐古に浸りながらも、笑むことも、寂しげに憂うこともなく、淡々とアランは話す。 「それで、さっきのね、夏の土砂降りの日、レト川が氾濫したの。私の住んでた、おばさん達の家は遠かったし高台になっていたから大丈夫だったけど、低い場所の周囲の建物はけっこう浸かっちゃって。そんな大変な日に、セルドが、こっそり外に出て行ったの。気になったんだって。いつのまにかいなくなってることに気付いて、なんだか直感したんだよね。きっと、外に行ってるって。川がどうなっているかを見に行ったんだって。そう思ったらいてもたってもいられなくて、急いで探しにいったんだ」  あれはちょっと怖かったな、と続ける。 「川の近くがどうなってるかなんて想像がつかなかったけど、すごい雨だったから、子供心でもある程度察しは付いてたんだと思う。近付きすぎたら大変なことになるかもしれないって。けっこう、必死で探したなあ。長靴の中まで水が入ってきて身体は重たかったけど、見つけるまでは帰れないって。結局、すごい勢いになったレト川の近くで、突っ立ってるセルドを見つけて、ようやく見つけて私も、怒るより安心して、急いで駆け寄ったら、あっちも気付いて、こうやって、二人とも近付いていって」アランは傘を肩と顎で挟み込むように引っかけ、アメモースを抱いたまま両手の人差し指を近付ける。「で、そこにあった大きな水溜まりに、二人して足をとられて、転んじゃったの」すてん、と指先が曲がる。  そこでふと、アランの口許が僅かに緩んだ。 「もともと随分濡れちゃったけど、いよいよ頭からどぶにでも突っ込んだみたいに、びしょびしょで、二人とも涙目になりながら、手を繋いで帰ったっていう、そういう話。おばさんたち、怒ったり笑ったり、忙しい日だった。……よく覚えてる。間近で見た、いつもと違う川。とても澄んでいたのに、土色に濁って、水嵩は何倍にもなって。土砂降りの音と、水流の音が混ざって、あれは怖かったけど、それでもどこかどきどきしてた。……この湖を見てると、色々思い出す。濁っているからかな。雨の勢いは違うのに。それとも、さっきの、あの子を見たせいかな」  偶然見かけた姿。水溜まりにはしゃいで、てらてらと光る小さな赤いレインコート。無邪気な男児を挟んで繋がれた手。曇りの無い家族という形。和やかな空気。灰色に包まれた町が彩られる中、とりわけ彩色豊かにアランの目の前に現れた。  彼女の足は暫く止まり、一つの家族をじっと見つめていた。 「……あの日も」  目を細め、呟く。 「酷い雨だった」  町を閉じ込める霧雨は絶えない。  傘を握り直し、返事を求めぬ話は途切れる。  雨に打たれる湖を見るのは、アランにとって初めてだった。よく晴れていれば遠い向こう岸の町並みや山の稜線まではっきり見えるのだが、今は白い靄に隠されてぼやけてしまっている。  青く、白く、そして黒々とした光景に、アランは身を乗り出し、波発つ水面を目に焼き付けた。 「あ」  アランは声をあげる。  見覚えのある姿が、湖上を飛翔している。一匹ではない。十数匹の群衆である。あの朱い体毛と金色の翼は、ほんの小さくとも鮮烈なまでに湖上に軌跡を描く。引き連れる翼はまたそれぞれの動きをしているが、雨に負けることなく、整然とした隊列を組んでいた。  ザナトアがもう現地での訓練を開始したのだろうか。この雨の中で。  エーフィも、ブラッキーも、アメモースも、アランも、場所を変えても尚美しく逞しく飛び続ける群衆から目を離せなかった。  エーフィが甲高い声をあげた。彼女は群衆を呼んでいた。あるいは応援するように。アランはちらと牽制するような目線を送ったが、しかしすぐに戻した。  気付いたのか。  それまで直線に走っていたヒノヤコマが途中できったゆるやかなカーブを、誰もが慌てることなくなぞるように追いかける。雨水を吸い込んでいるであろう翼はその重みを感じさせず軽やかに羽ばたき、灰色の景色を横切る。そして、少しずつだが、その姿が大きくなってくる。アラン達のいる湖畔へ向かっているのだ。  誰もが固唾を呑んで彼等を見つめる。  正しく述べれば、彼等はアラン達のいる地点より離れた地点の岸までやってきて、留まることなく堤防沿いを飛翔した。やや高度を下げ、翼の動きは最小限に。それぞれで体格も羽ばたきも異なるし、縦に伸びる様は速度の違いを表した。先頭は当然のようにリーダー格であるヒノヤコマ、やや後方にピジョンが並び、スバメやマメパト、ポッポ等小さなポケモンが並び、間にハトーボーが挟まり中継、しんがりを務めるのはもう一匹の雄のピジョンである。全く異なる種族の成す群れの統率は簡単ではないだろうが、彼等は整然としたバランスで隊列を乱さず、まるで一匹の生き物のように飛ぶ。  彼等は明らかにアラン達に気付いているようだ。炎タイプを併せ持ち、天候条件としては弱ってもおかしくはないであろうヒノヤコマが、気合いの一声を上げ、つられて他のポケモン達も一斉に鳴いた。それはアラン達の頭上を飛んでいこうとする瞬きの出来事であった。それぞれの羽ばたきがアラン達の上空で強かにはためいた。アランは首を動かす。声が出てこなかった。彼等はただ見守る他無く、傘を下ろし、飛翔する生命の力強さに惹かれるように身体ごと姿を追った。声は近づき、そして、頭上の空を掠めていって、息を呑む間もなく、瞬く間に通り過ぎていった。共にぐるりと首を動かして、遠のいていく羽音がいつまでも鼓膜を震わせているように、じっと後ろ姿を目で追い続けた。  呆然としていたアランが、いつの間にか傘を離して開いていた掌を、空に向けてかざした。 「やんでる」  ぽつん、ぽつりと、余韻のような雨粒が時折肌を、町を、湖上をほんのかすかに叩いたけれど、そればかりで、空気が弛緩していき、湿った濃厚な雨の匂いのみが充満する。  僅かに騒いだ湖は、変わらず深く藍と墨色を広げているばかりだ。  栗色の瞳は、アメモースを一瞥する。彼の瞳は湖よりもずっと深く純粋な黒を持つが、輝きは秘めることを忘れ、じっと、鳥ポケモンたちの群衆を、その目にも解らなくなる最後まで凝視していた。  アランは、語りかけることなく、抱く腕に頭に埋めるように、彼を背中から包むように抱きしめた。アメモースは、覚束ない声をあげ、影になったアランを振り返ろうとする。長くなった前髪に顔は隠れているけれど、ただ、彼女はそうすることしかできないように、窺い知れない秘めたる心ごとまとめて、アメモースを抱く腕に力を込めた。
 夕陽の沈む頃には完全に雨は止み、厚い雨雲は通り過ぎてちぎれていき、燃え上がるような壮大な黄昏が湖上を彩り、町民や観光客の境無く、多くの人間を感嘆させた。  綿雲の黒い影と、太陽の朱が強烈なコントラストを作り、その背後は鮮烈な黄金から夜の闇へ色を重ねる。夜が近付き生き生きと羽ばたくヤミカラス達が湖を横断する。  光が町を焼き尽くす、まさに夕焼けと称するに相応しい情景である。  雨がやんで、祭の前夜に賑わいを見せ始めた自然公園でアランは湖畔のベンチに腰掛けている。ちょうど座りながら夕陽の沈む一部始終を眺めていられる特等席だが、夕方になるよりずっと前から陣取っていたおかげで独占している。贅沢を噛みしめているようには見えない無感動な表情ではあったが、栗色の双眸もまた強烈な光をじっと反射させ、輝かせ、燃え上がっていた。奥にあるのは光が届かぬほどの深みだったとしても、それを隠すだけの輝かしい瞳であった。  数刻前、ザナトアと合流したが、老婆は今は離れた場所でヒノヤコマ達に囲まれ、なにやら話し込んでいるようだった。一匹一匹撫でながら、身体の具合を直接触って確認している。スカーフはとうにしまっていて、皮を剥いだ分だけ普段の姿に戻っていた。  アランの背後で東の空は薄い群青に染まりかけて、小さな一等星が瞬いている。それを見つけたフカマルはベンチの背もたれから後方へ身を乗り出し、ぎゃ、と指さし、隣に立つエーフィが声を上げ、アランの足下でずぶ濡れの芝生に横になるブラッキーは、無関心のように顔を埋めたまま動かなかった。  膝に乗せたアメモースの背中に、アランは話しかけた。 「祭が終わったら、ザナトアさんに飛行練習の相談をしてみようか」  なんでもないことのように呟くアランの肩は少し硬かったけれど、いつか訪れる瞬間であることは解っていただろう。  言葉を交わすことができずとも、生き物は時に雄弁なまでに意志を語る。目線で、声音で、身体で。 「……あのね」柔らかな声で語りかける。「私、好きだったんだ。アメモースの飛んでいく姿」  多くの言葉は不要だというように、静かに息をつく。 「きっと、また飛べるようになる」 アメモースは逡巡してから、そっと頷いた。  アランは、納得するように同じ動きをして、また前を向いた。  ザナトアはオボンと呼ばれる木の実をみじん切りにしたものを選手達に与えている。林の一角に生っている木の実で、特別手をかけているわけではないが、秋が深くなってくるとたわわに実る。濃密なみずみずしさ故に過剰に食べると下痢を起こすこともありザナトアはたまにしか与えないが、疲労や体力の回復を促すのには最適なのだという。天然に実る薬の味は好評で、忙しなく啄む様子が微笑ましい。  アランは静寂に耳を澄ませるように瞼を閉じる。  何かが上手くいっている。  消失した存在が大きくて、噛み合わなかった歯車がゆっくりとだが修正されて、新しい歯車とも合わさって、世界は安らかに過ぎている。  そんな日々を彼女は夢見ていたはずだ。どこかのびのびと生きていける、傷を癒やせる場所を求めていたはずだった。アメモースは飛べないまま、失われたものはどうしても戻ってこないままで、ポッポの死は謎に埋もれているままだけれど、時間と新たな出会いと、深めていく関係性が喪失を着実に埋めていく。  次に瞳が顔を出した時には、夕陽は湖面に沈んでいた。  アランはザナトアに一声かけて、アメモースを抱いたまま、散歩に出かけることにした。  エーフィとブラッキーの、少なくともいずれかがアランの傍につくことが通例となっていて、今回はエーフィのみ立ち上がった。  静かな夜になろうとしていた。  広い自然公園の一部は明日の祭のため準備が進められている出店や人々の声で賑わっているが、離れていくと、ザナトアと同様明日のレースに向けて調整をしているトレーナーや、家族連れ、若いカップルなど、点々とその姿は見えるものの、雨上がりとあってさほど賑わいも無く、やがて誰も居ない場所まで歩を進めていた。遠い喧噪とはまるで無縁の世界だ。草原の騒ぐ音や、ざわめく湖面の水音、濡れた芝生を踏みしめる音だけが鳴る沈黙を全身で浴びる。  夏を過ぎてしまうと、黄昏時から夜へ転じるのは随分と早くなってしまう。ゆっくりと歩いている間に、足下すら満足に見られないほど辺りは暗闇に満ちていた。  おもむろに立ち止まり、アランは湖を前に、目を見開く。 「すごい」  湖に星が映って、ささやかなきらめきで埋め尽くされる。  あまりにも広々とした湖なので、視界を遮るものが殆ど無い。晴天だった。秋の星が、ちりばめられているというよりも敷き詰められている。夜空に煌めく一つ一つが、目を凝らせば息づいているように僅かに瞬いている。視界を全て埋め尽くす。流星の一つが過ったとしても何一つおかしくはない。宇宙に放り込まれたように浸り、ほんの少し言葉零すことすら躊躇われる時間が暫く続いた。  夜空に決して手は届かない。思い出と同じだ。過去には戻れない。決して届かない。誰の手も一切届かない絶対的な空間だからこそ、時に美しい。  ――エーフィの、声が、した。  まるで尋ねるような、小さな囁きに呼ばれたようにアランはエーフィに視線を移した、その瞬間、ひとつの水滴が、シルクのように短く滑らかな体毛を湿らせた。  ほろほろと、アランの瞳から涙が溢れてくる。  夜の闇に遮られているけれど、感情の機微を読み取るエーフィには、その涙はお見通しだろう。  闇に隠れたまま、アランは涙を流し続けた。凍りついた表情で。  それはまるで、氷が瞳から溶けていくように。 「……」  その涙に漸く気が付いたとでも言うように、アランは頬を伝う熱を指先でなぞった。白い指の腹で、雫が滲む。  彼女の口から温かな息が吐かれて、指が光る。 「私、今、考えてた、」  澄み渡った世界に浸る凍り付いたような静寂を、一つの悲鳴が叩き割った。それが彼女らの耳に届いてしまったのは、やはり静寂によるものだろう。  冷えた背筋で振り返る。 星光に僅かに照らされた草原をずっとまっすぐ歩いていた。聞き違いと流してもおかしくないだろうが、アランの耳はその僅かな違和を掴んでしまった。ただごとではないと直感する短い絶叫を。  涙を忘れ、彼女は走っていた。  緊迫した心臓は時間が経つほどに烈しく脈を刻む。内なる衝動をとても抑えきれない。  夜の散歩は彼女の想像よりも長い距離を稼いでいたようだが、その黒い視界にはあまりにも目���つ蹲る黄色い輪の輝きを捉えて、それが何かを察するまでには、時間を要しなかっただろう。  足を止め、凄まじい勢いで吹き出す汗が、急な走行によるものか緊張による冷や汗によるものか判別がつかない。恐らくはどちらもだった。絶句し、音を立てぬように近付いた。相手は元来慎重な性格であった。物音には誰よりも敏感だった。近付いてくる足音に気付かぬほど鈍い生き物ではない。だが、ここ最近様子が異なっていることは、彼女も知るところであった。  闇に同化する足がヤミカラスを地面に抑え付けている。野生なのか、周囲にトレーナーの姿は無い。僅かな光に照らされた先で、羽が必死に藻掻こうとしているが、完全に上を取られており、既に喉は裂かれており声は出ない。  鋭い歯はその身体に噛み付き、情など一切見せない様子で的確に抉っている。  光る輪が揺れる。  静かだが、激しい動きを的確に夜に印す。  途方に暮れる栗色の瞳はしかし揺るがない。焼き付けようとしているように光の動きを見つめた。夜に照るあの光。暗闇を暗闇としない、月の分身は、炎の代わりになって彼女の暗闇に寄り添い続けた。その光が、獣の動きで弱者を貪る。  硬直している主とは裏腹に、懐から電光石火で彼に跳び込む存在があった。彼と双璧を成す獣は鈍い音を立て相手を突き飛ばした。  息絶え絶えのヤミカラスは地に伏し、その傍にエーフィが駆け寄る。遅れて、向こう側から慌てた様子のフカマルが短い足で必死に走ってきた。  しかし、突き放されたブラッキーに電光石火一つでは多少のダメージを与えることは叶っても、気絶させるほどの威力には到底及ばない。ゆっくりと身体をもたげ、低い唸り声を鳴らし、エーフィを睨み付ける。対するエーフィもヤミカラスから離れ、ブラッキーに相対する。厳しい睨み合いは、彼等に訪れたことのない緊迫を生んだ。二匹とも瞬時に距離を詰める技を会得している。間合いなどあってないようなものである。  二対の獣の間に走る緊張した罅が、明らかとなる。 「やめて!」  懇��する叫びには、悲痛が込め��れていた。  ブラッキーの耳がぴくりと動く。真っ赤な視線が主に向いた時、怨念ともとれるような禍々しい眼光にアランは息を詰める。それは始まりの記憶とも、二度目の記憶とも重なるだろう。我を忘れ血走った獣の赤い眼。決して忘れるはずのない、彼女を縫い付ける殺戮の眼差し。  歯を食いしばり、ブラッキーは足先をアランに向ける。思わず彼女の足が後方へ下がったところを、すかさずエーフィが飛びかかった。  二度目の電光石火。が、同じ技を持ち素早さを高め、何より夜の化身であるブラッキーは、その動きを見切れぬほど鈍い生き物ではなかった。  闇夜にもそれとわかる漆黒の波動が彼を中心に波状に放射される。悪の波動。エーフィには効果的であり、いとも簡単に彼女を宙へ跳ね返し、高い悲鳴があがる。ブラッキーの放つ禍々しい様子に立ち尽くしたフカマルも、為す術無く攻撃を受け、地面を勢いよく転がっていった。間もなくその余波はアラン達にも襲いかかる。生身の人間であるアランがその技を見切り避けられるはずもなく、躊躇無くアメモースごと吹き飛ばした。その瞬間に弾けた、深くどす黒い衝撃。悲鳴をあげる間も無く、低い呻き声が零れた。  腕からアメモースは転がり落ち、地面に倒れ込む。アランは暫く起き上がることすら満足にできず、歪んだ顔で草原からブラッキーを見た。黒い草叢の隙間から窺える、一匹、無数に散らばる星空を背に孤高に立つ獣が、アランを見ている。  直後、彼は空に向かって吠えた。  ひりひりと風は絶叫に震撼する。  困惑に歪んだ彼等を置き去りにして、ブラッキーは走り出した。踵を返したと思えば、脱兎の如く湖から離れていく。 「ブラッキー! 待って!!」  アランが呼ぼうとも全く立ち止まる素振りを見せず、光の輪はやがて黒に塗りつぶされてしまった。  呆然と彼等は残された。  沈黙が永遠に続くかのように、誰もが絶句し状況を飲み込めずにいた。  騒ぎを感じ取ったのか、遅れてやってきたザナトアは、ばらばらに散らばって各々倒れ込んでいる光景に言葉を失う。 「何があったんだい!」  怒りとも混乱ともとれる勢いでザナトアは強い足取りで、まずは一番近くにいたフカマルのもとへ向かう。独特の鱗で覆われたフカマルだが、戦闘訓練を行っておらず非常に打たれ弱い。たった一度の悪の波動を受け、その場で気を失っていた。その短い手の先にある、光に照らされ既に息絶えた存在を認めた瞬間、息を詰めた。 「アラン!」  今度はアランの傍へやってくる。近くでアメモースは蠢き、アランは強力な一撃による痛みを堪えるように、ゆっくりと起き上がる。 「ブラッキーが」  攻撃が直接当たった腹部を抑えながら、辛うじて声が出る。勢いよく咳き込み、呼吸を落ち着かせると、もう一度口を開く。 「ブラッキー、が、ヤミカラスを……!」 「あんたのブラッキーが?」  アランは頷く。 「何故、そんなことが」 「私にも、それは」  アランは震える声を零しながら、首を振る。  勿論、野生ならば弱肉強食は自然の掟だ。ブラッキーという種族とて例外ではない。しかし、彼は野生とは対極に、人に育てられ続けてきたポケモンである。無闇に周囲を攻撃するほど好戦的な性格でもない。あの時、彼は明らかに自我を失っているように見えた。  動揺しきったアランを前に、ザナトアはこれ以上の詮索は無意味だと悟った。それより重要なことがある。ブラッキーを連れ戻さなければならない。 「それで、ブラッキーはどこに行ったんだ」 「分かりません……さっき、向こう側へ走って行ってそのままどこかへ」  ザナトアは一度その場を離れ老眼をこらすが、ブラッキーの気配は全く無い。深い暗闇であるほどあの光の輪は引き立つ。しかしその片鱗すら見当たらない。  背後で、柵にぶつかる音がしてザナトアが振り向く。よろめくアランが息を切らし、柵に寄りかかる。 「追いかけなきゃ……!」 「落ち着きな。夜はブラッキーの独壇場だよ。これほど澄んだ夜で血が騒いだのかもしれない。そうなれば、簡単にはいかない」 「でも、止めないと! もっと被害が出るかもしれない!」 「アラン」 「ザナトアさん」  いつになく動揺したアランは、俯いてザナトアを見られないようだった。 「ポッポを殺したのも、多分」  続けようとしたが、その先を断言するのには躊躇いを見せた。  抉られた首には、誰もが既視感を抱くだろう。あの日の夜、部屋にはいつもより風が吹き込んでいた。万が一にもと黒の団である可能性も彼女は考慮していたが、より近しい、信頼している存在まで疑念が至らなかった。誰も状況を理解できていないだろう。時に激情が垣間見えるが、基は冷静なブラッキーのことである。今までこのような暴走は一度として無かった。しかし、ブラッキーは、明らかに様子が異なっていた。アランはずっと気付いていた。気付いていたが、解らなかった。  闇夜に塗り潰されて判別がつかないが、彼女の顔は蒼白になっていることだろう。一刻も早く、と急く言葉とは裏腹に、足は僅かに震え、竦んでいるようだった。 「今はそんなことを言ってる場合じゃない。しゃんとしな!」  アランははっと顔を上げ、険しい老婆の視線に射止められる。 「動揺するなという方が無理だろうが、トレーナーの揺らぎはポケモンに伝わる」  いいかい、ザナトアは顔を近付ける。 「いくら素早いといえど、そう遠くは行けないだろう。悔しいがあたしはそう身軽には動けない。この付近でフカマルとアメモースと待っていよう。もしかしたら戻ってくるかもしれない。それに人がいるところなら、噂が流れてくるかもしれないからね。ここらを聞いて回ろう。あんたは市内をエーフィと探しな。……場所が悪いね。あっちだったら、ヨルノズク達がいるんだが……仕方が無いさね」  大丈夫、とザナトアはアランの両腕を握る。 「必ず見つけられる。見つけて、ボールに戻すことだけを考えるんだ。何故こうなったかは、一度置け」  老いを感じさせない強力な眼力を、アランは真正面から受け止めた。 「行けるね?」  問われ、アランはまだ隠せない困惑を振り払うように唇を引き締め、黙って頷いた。  ザナトアは力強くアランの身体を叩き、激励する。  捜索は夜通し続いた。  しかしブラッキーは一向に姿を見せず、光の影を誰も見つけることはできなかった。喉が嗄れても尚ブラッキーを呼び続けたアランだったが、努力は虚しく空を切る。エーフィも懸命に鋭敏な感覚を研ぎ澄ませ縦横無尽に町を駆け回り、ザナトアも出来る限り情報収集に励んだが、足取りを掴むには困難を極めた。  殆ど眠れぬ夜を過ごし、朝日が一帯を照らす。穏やかな水面が小さなきらめきを放つ。晴天の吉日と水神が指定したこの日は、まるで誰かに仕組まれていたように雲一つ無い朝から始まる。  キリが沸き立つ、秋を彩る祭の一日が幕を開けた。 < index >
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mashiroyami · 5 years
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Page 111 : 過去と未来
 家宅と放牧場を繋ぐ扉は僅かに開いており、細い風が部屋を循環していた。浅い眠りから覚めたアランは、その風の音で起きたようだった。秋の朝は冷めている。ほんの少し立った鳥肌を包むように上着を羽織り、風の奥のざわめきを追いかけた。まるで誘われるように、夢の中を浮かんでいる顔で、朝陽が照らす現実に足を踏み入れた。卵屋の傍でザナトアをはじめここに住む生き物たちが何かを囲うように蹲っていた。アランは輪の外から覗き込んで、ザナトアが調べるように手を添えているその先を直視する。その小さな身体に飛び散っている乾いた血と、抉られ露出した肉体を見ただけで、瞬時に息絶えていると彼女は理解しただろう。  それは、数週間前に群れから離れ羽に傷を負ったポッポ。ヒノヤコマ達に連れられて少しずつ自分の道を歩もうとしていたポッポ。喉笛が抉られるように千切れており、か弱い首はあらぬ方向に曲がっている。辺りには抵抗を物語るように汚れた羽根が散乱していた。血で固まった羽毛は逆立ったまま先が風に揺れていた。血だまりは既に土に沁み、朝露が濃度を薄めている。草原で息絶えた残骸が朝の日差しを浴びて強調された。  一体、誰が。  僅かに震わせた声。緊張しながら問うたのはアランだった。 「狼狽えるな。よくあることだ」  凜とザナトアは言い放ち、丁寧に亡骸を抱き上げる。小さなザナトアの、小さな腕の中にすっぽりと収まる小鳥は身動き一つしない。出るだけの血はとうに流れきって死後硬直が進んでいた。驚愕とも苦痛ともとれる丸い瞳も僅かに開いた嘴も、揺すろうともそのまま凍ってしまっている。夜風と朝露に曝され冷えた身体は、永久にぬくもりを取り戻すことはない。 「悲しくならないんですか」  平然としているようにも見える老いた横顔に問いかける。 「悲しいさ」ザナトアは即座に答える。「そして虚しい。でも慣れたさね」  皺だらけの手が、死骸に触れた手が、アランの背を静かに叩く。 「墓を作るよ」
 林に足を運び、奥へ進むとその光景は見えてくる。背の高い木々の隙間から入る早朝の木漏れ日がちかちかと揺れている中で、朽ち果てかけた木製のささやかな十字が整然と、しかし尋常ではない数で一面の土に刺さる情景は、薄い霧がかかったように寂然としていた。  ここ一帯の全ての地面を覆い尽くすような無言の墓の群衆。来たばかりのアランは訪れたことのない寂寞の地である。  息を呑み、立ち尽くすアランにザナトアが声をかけ、彼女は我に返った。  アランは連れてきたアメモースを隣に座らせ、二人がかりで、木の根元近くをスコップで掘る。フカマルも黙って土を掻き出す。地面タイプを併せ持つ彼は、土の扱いが上手で、人間よりも勢い良く掘り進めていった。ヒノヤコマや他の鳥ポケモン達は頭上の枝に止まり見守っている。誰かが指示したわけでもなく、示し合わせたように皆押し黙っている。誰もがこの沈黙を破ることは許されなかった。  柔らかい土ではあったが、ポッポ一匹分が入るだけの穴を作るには少々時間を要し、差し入る陽光が輝きを増す中で、やがて十分な穴が出来上がった。  秋の朝は冴え冴えとしているが、一連の動きでアランの額には豆粒のような汗がいくつも浮かんでいた。手の甲で拭い、深い影を含んだ空洞をしんと見下ろす。  黙すポッポを、ザナトアは丁寧な所作で、そっと、穴に入れて、余分に感慨に浸る間伐を与えず、上から掘り起こした分溜まった土を戻していく。さっと、身体が汚れていく。埋もれていく。嘴が見えなくなり、目が隠れ、傷だらけの身体がみるみるうちに土を被り、遂には完全に遮断され、明らかに掘り返したと解るその場所に、他と同様に即席で作った木製の十字を突き刺した。その瞬間の音こそが、訣別だった。  あのポッポはもう地上には存在しない。  目を閉じ、死を弔う。  数秒の後、アランが先に瞼を開いても、ザナトアは祈り続けていた。横顔は決して険しくはなくむしろ一見穏やかのようだが、皺の一つすら不動であり、正しく清閑の一言に尽きた。  木の葉が重なり揺れる音が、風の来訪を示す。呼び起こされるようにザナトアが手を下ろし新しい墓を視界に捉えた後、入れ替わるようにして、隣でフカマルが大声でさめざめと泣き始めた。人間の赤ん坊が泣くように懸命に声をあげて涙し、茂る木々の音のみの静けさである林を震わせた。  全身で悲しむ感性を宥めるように、ザナトアはその頭を撫でる。彼につられるように、天からは別離の挨拶をするような鳥ポケモン達の声が重なり合い、木々の隙間を縫って林の中をずっと響いていった。それはまるで自然が奏でる鎮魂歌のようであった。  アランは表情を凍り付かせたままで、涙は最後まで出てこなかった。  やがてフカマルが泣き止み、時間をかけて激情が落ち着いてきた頃、ザナトアは広がる墓場のほとんど中心に佇む、朽ちかけた大きな十字の前までアランを案内した。大きな、とはいっても、他と比較して多少枝が太いほどであり、特別な違いは殆ど無い。 「これが、どうかしたんですか」  アランからそう尋ねられることを待っていたように、ザナトアは重い口をゆっくりと開いた。 「チルタリスの墓だよ」  言われてすぐアランは目を丸くする。  昨日の今日だ。彼女がわざわざそう伝える意味、示されたチルタリスが一体どういった存在なのか、理解しているだろう。  足下でぺちぺちとその十字架を叩くフカマルを諫め、老婆は肩を落とす。 「フカマルの父親だよ。この子はガブリアスとチルタリスの間に生まれた子だ」 「それ、エクトルさんは、知っているんですか」 「知っているだろうね。知った上でだ、あいつ、ご丁寧に前金と卵と、一緒に何匹かポケモンをここに置いていった」深い息を落とし、苦々しい口調で続ける。「殆どは相棒と言っていいメインパーティの面子だ。訣別とするにはあまりに身勝手だったね。チルタリスはとりわけ悲惨だった。……滅びの歌という技を知っているかい」  アランは首を横に振る。  気丈に振る舞っているようではあるが、ザナトアも感傷に浸っている様子だった。 「長い旋律を三回繰り返し歌い続けると、自分も含め相手も味方も全員戦闘不能になる荒技さ。トレーナー同士のバトルではなかなかお目にかからないが、野生となると危険なもので、見えないところから歌われて手持ちが全滅、遭難してそのまま行方知らず、なんてホラーに使える話もあるような技さね。……チルタリスは、鍛えれば滅びの歌を自然と身につける。あの子は幼い頃から一緒だった主人との長い別離に寂しさを拗らせ心を病み、三日三晩滅びの歌を歌い続け仲間まで道連れにして逝った。あの歌は、たとえ頭が呆けても忘れられないだろうさ」 「……壮絶」  ぽつりと呟くと、ザナトアは頷いた。  膨大に立ち並ぶ十字架に囲まれた中心で、暫し沈黙を味わう。身代わりのように、無言で地面に立つ父親を示す墓の前、先程は叩いていた掌で今度はゆっくりと撫でる子供の姿があった。  自然を彩る小さな生き物たちの声もまた、歌のよう。滅んだ後に咲く、ささやかな花々のような生者達の声と、静��りかえるほどにどこかから幻のように漂う死者達の気配が混ざりあう。ここはそういう場所だった。 「あの夜、ここに住むポケモンも多く死んだ。中には育て屋として預かっていた子もいた。責任を取ろうにも命に代わるものなんてこの世には無い。どうにか落ち着いたけれど、もうブリーダー稼業は続けられないと確信しちゃったね」  そうですか、とアランは零し、周囲に目配せした。  夥しい数の十字架の理由。いくら育て屋として様々な別れを経験しているとはいえ、通常であれば、預けたポケモンはいずれおや元へ引き取られていく運命にある。数十年という、アランにとっては気が遠くなるであろう年月を経ているにしても、夥しいまでの墓はあまりに過剰な死別を物語っていた。 「それで、育て屋を辞めたんですね」 「まあ、跡継ぎもいないから、引き際をどうすべきか少し考え始めていたところだった。……こっちは、クロバットの墓さ」  小さな墓場の巡覧は続く。懐かしい昔話でも語るような口で、ザナトアはアランを促す。数歩左へ向かったところに、似た十字架が立っていた。 「……姿を見ないから、きっと、いないんだろうなとは、思っていました」 「察していたか。そりゃあ、そうかね。あんたは元々そのために来たんだ。会いたかったんだろう」 「まあ……はい」 「残念だったね」 「いえ」首を振り、躊躇いがちにアランは目を伏せる。「……その、記録、見ました。クロバットが頑張って飛ぼうとしていたこと、ザナトアさんが飛ばせようとしていたこと、ちょっとだけですけど、読みました。だから、会えなくても知ってます」 「いつの間に? いじらしいね。で、どう思った」  アランは迷うように言葉を選ぶ時間を使う。 「……驚いていました。あんなに頑張らなければ、もう一度飛ぶことはできないのかって」  ザナトアは懐古を込めてゆっくりと頷く。 「あのクロバットは、少し特別だった。あんなに踏ん張れる子はそういない。クロバットのことが世に知れてからは、同じようなトレーナーがやってきたし、あたしも出来る限りのことはしたけど、飛べるようにはしてやれなかった。……アラン」  改まって呼ばれ、彼女は、ザナトアの顔を見た。真剣な眼差しに射貫かれて、身動きがとれなくなる。 「必ずまた飛べるようになるとは、限らないんだ。それはきちんと言っておきたい」  だから、とザナトアは緊張を解かずに続ける。 「お互いに納得する答えを出して欲しい。あんたはポケモントレーナーだ。あんたが迷えば、ポケモンも迷う。アメモースと、エーフィ、ブラッキーを大事に育ててあげなさい」  そう言って、ザナトアはアランの胸に抱かれているアメモースの肌を撫でた。アメモースは気持ちの良い甘えた声を出し、その手に擦り寄る。死の衝撃を刹那の間忘れさせるだけの平穏が、指先に生まれた。  安らぎの瞬間を前に、アランは冷えた顔つきのまま深く頷き、ゆるやかに触覚を上下に動かすアメモースに視線を落とした。そして、再びクロバットの墓へと戻す。彼女がたったひとつの希望と縋った生き物、羽を失いながらも再び飛翔したという獣の不在を示す、無言の墓前で静かに一礼した。 「……クロバットも、滅びの歌で?」  ザナトアは頷く。 「頑張っていたんだけどね。チルタリスを励まそうともしていたが。あたしも、クロバットも、誰もね、閉ざしてしまったあの子の心に声を届かせることはできなかった」  冷静でいるようだが、ザナトアから滲んでいる自責の念にアランは唇を僅かに締めた。老婆の身体は、たゆたう感傷を重く背負い込み、平時より幾分縮こまっているかのようだった。 「あたしを求めて来てくれた子を助けることができず、たった一匹のポケモンの心を解してやることもできず、多くを死なせた。最も無責任なのは、あたしさ」 「……エクトルさんの責任でもありますよ」 「なんだ、励ましてくれてるつもりかい?」かすかに自嘲の色を滲ませながら、笑いかける。「そうさね。本当に無責任。でもね、今更あいつを責めたって仕方ないのさ。一度くらい墓参りに来いとは思うがね」 「今度会ったら、伝えておきましょうか」 「伝えたところで、来るかどうか。あいつだってキリの人間なら知っているはずだよ。それでも来ないんだ。これが答えさね」軽く首を振り、口許だけで微笑んだ。「余計なことまで喋っちまったね。帰るよ」  踵を返し、折れた腰でゆっくりと帰路を辿り、アランはその歩幅に合わせる。ザナトアの語り口はあくまでもうとうに清算したように淡々としていたけれど、重みを共有した二人の間に会話はなかなか生まれなかった。  林を抜け、影の落とす場所の無い広大な草原へ出る。  水で薄めたような透明感のある朝だった。空には薄く破って散らばめたような雲がぽつぽつと流れている。地上にはほとんど遮るものがないおかげで、随分と広い。どこかから優しい牧歌が流れてきてもおかしくないような、際限なく長閑な場所だった。美しい空の下、ザナトアは眼を細めた。 「いい秋晴れだね」 「はい」 「きっとポッポも、気持ち良く空に飛べるさね」 「……はい。きっと」  濁りの無い目には、小さな羽ばたきが映っているかのようである。誰よりも大きく翼を広げ、誰よりも高いところへと翔る小鳥の姿を見守る目だった。 「……空を飛ぶって、どんな感覚なんでしょうね」  アランがぼそりと呟くと、そうさね、とザナトアは返す。 「あんたは、一度も鳥ポケモンに乗ったことがないのかい」  軽くアランは首を振る。 「ありますよ。一回だけ。でも、その時のこと、あんまり覚えてないんです」 「勿体無いな。あれはなかなか癖になるよ。ま、あたしももう随分やってないがね」 「落ちたら」アランはほんの僅かに間を置いた。「大変なことになりますもんね」 「まだそこまで愚図じゃないよ」  馬鹿にするな、と抵抗するような口調だが、いたって穏やかな笑みを浮かべていた。  薄い雲が涼やかな風にのんびりと吹かれゆく姿を二人して見つめる。 「空って、あんまりに遠いから」  一度言葉を選ぶように口を閉じてから、アランは続ける。 「自分で飛んでいくことができたら、きっと気持ちがいいでしょうね」 「そうさね」  ぽつんぽつんと、泡沫のような会話が生まれては消えていった。アランは鼻からつんと冷たい秋の空気を吸い込む。深く、内側から身体に馴染ませるような味わいをゆっくりと呑み込んで、強ばった拳を僅かにほどいた。 「飛べたらいいのに」  ぽつりとした独り言を、ザナトアはうま���聞き取ることができなかった。  空を仰ぐ深い栗色に、透いた青色がかかっている。頭一つ分以上も違う高低差では、彼女を見上げるザナトアにその瞳は見えない。  ザナトアは何も言わず、そしてアランも沈黙に浸り、やがて誰も合図を出さないうちにどちらからということもなく再び歩き始めた。柔らかく乾いた草原をゆっくりと踏みしめる。腰を折りながらたっぷりとした時間をかけて歩くザナトアにアランは並行し、家に進むごとに、あのポッポが死んでいた卵屋の傍に近付くほどに身を固くした。  その後、ザナトアとフカマルは卵屋に向かいポケモン達の食事を、アランは自宅に戻り遅くなった朝食を用意することとなった。  裏口の傍で、エーフィとブラッキーが待っている。薄く青い日陰で耳を垂れ、寝そべるブラッキーにエーフィは付き添っていた。エーフィが微風に合わせるように尾を揺らし、しかしふと、アランを前にして、その動きを止める。  ザナトアと別れ、一歩、一歩と踏み出すほどに、アランの影から冷気が沸き上がってくるように、伴う気配は強張っている。  ポケモン達と共に帰宅し、後ろ手に扉を閉め、長い溜息を吐いた後、呟いた。 「誰が」  誰がポッポを――殺した。  アランは右手首のブレスレットを握る。 「黒の団なんてことが有り得るかな?」  エーフィに問いかけたが、彼女は肯定も否定もしなかった。 「違うだろうとは思う。発信器はもう無いはずだし」  いや、と呟き、ブレスレットに視線を落とす。 「そうとは限らない、のだとしたら……」  部屋は窓から差し込む、カーテンを通した弱い陽光のみ。手首は深い影の中にあり、囲う小石は淀んでいる。 「……でも、仮に場所が割られていたとしてもこんなまどろっこしい真似をするとは考えられない。……ただ、野生ポケモンが襲ったって話で片付かない予感がする。気味悪いというか……嫌な予感がする。万が一に、黒の団の仕業なのだとしたら、もう、ここには……。……でも……」  返答を期待してはいないように、一人、呟きを止めない。整理をするように、回る思考を口にしてその糸口を導こうとするけれど、最後には、わからない、と締めた。  噛み千切られた首と朝。不吉だった。黒い雨水が硝子窓を這うのを見つめているようだった。この家で新たな日常を過ごす外でも、近付く祭を謳う穏やかな時ばかりが経っているわけではない。現在とは、過去からの地続きの上にある。これから、いつ、何が、誰がその硝子を割り、破片の散らばる闇の中、首を掴みかかってくるか、解らない。  心許ないエーフィの一声に、アランは頷く。 「とにかく、今は用心していよう。何か怪しいことがあったら、すぐに報せて」
 ポッポの死から幕を開けた一日は、始まりこそ劇的だったが、それからは開いた穴を見て見ぬ振りをしているかのように努めて平穏に過ぎていきつつあった。近付くレースを前にヒノヤコマ達は外へ繰り出し、地上のフカマルは草原に棲み着くナゾノクサの群れの傍に立って、友達の堂々たる飛翔を遠景に眺めていた。ザナトアは寝たきりとなっているマメパトに薬を混ぜた餌を、手から啄ませるように与えて、その横でアランは、エーフィのサイコキネシスで下ろした天井の添え木にこびりついた汚れを雑巾で磨いていた。力仕事はすっかりアランが担うようになりつつある。アランは首にかけたタオルで汗を拭い、感嘆の息を吐く。アメモースは邪魔にならぬよう、ザナトアの定位置である椅子に座り、黙々と労働を眺めていた。  じきに夕暮れ時へと進もうという頃合いに休憩を言い渡されたアランは、アメモースを連れてリビングへ戻った。身を入れて励んでいた身体は疲労感を覚え、ソファに勢いよく座りこめばぐったりと目を閉じた。弛緩しゆく身体のほてりに委ねて暫し休んでいたが、数分経った後、ゆっくりと身を起こした。  毎晩眠っているソファにかけられたブランケットの端を揃えて畳み、端に置く。乱雑になった鞄の中を整理しながら、アメモースの薬やガーゼを纏めたポーチを取り出した。  アメモースの、当てられたガーゼを身長に剥いで、隠れていた傷口が露わになる。相変わらずそこにあるべきはずの翅は無いけれど、抜糸された跡は少しずつ埋まっていき、ゼリーのような透明感のある身体には不釣り合いな黒ずみも消えていた。鎮痛剤が奏功しているのか、最近は痛みに表情を歪める様子も少なくなっていた。  フカマルや他のポケモン達が駆け寄ってきて声をかけられれば、嬉しげに返事をして触覚を盛んに動かすようになった。新しい生活に馴染んでいくほど、急速にアメモースは回復しつつある。個体差はあれど、元々ポケモンは人間と比べ自然治癒の速度には目を見張るものがある。彼とて例外ではない。勿論、今の生活がアメモースに良い効果をもたらしていることは間違いなかった。  アランは真新しいガーゼを取り、テープを使って傷口をあてがう。直後、アメモースが穏やかに鳴いた声に、彼女は手を止めた。挨拶のようにたった一言。彼がアランに向けて声を発したのは、久しぶりだった。  フラネで発した悲鳴と、声にならない感情をそのまま表したような銀色の風。あの頃、誰もが混乱の渦中にあった。心も身体も整理がつかないまま旅に飛び出して、模索を続けている。そして、確実に修復されていくものがある。回復と同時に、決断を迫られる時は近付く。  アメモースを抱く時、彼女は背中を自分側に向けさせる事が多い。お互いに顔の見えない位置関係だ。今、ゆっくりとアメモースを回し、互いを正面に見据える。 「迷ってる」  ぽつりとアランが語りかけると、アメモースは不思議そうに表情を覗った。 「もう一度飛ぶことは、そんなに簡単なことじゃないって。時間もかかるし、きっとアメモースにとっては、辛い日々になる。苦しい思いをしてまで、頑張る必要なんてあるのかな。本当に叶うかどうかも分からないのに。傷つくだけかもしれない。ザナトアさんが見てきたポケモン達や、あのポッポのように。それは虚しい」  長い溜息をついた。あのね、と重い口ぶりのままで語りかける。 「アメモースが空を飛べるようになったらいろんなことがうまくいくような気がしていた。心が晴れて、皆が前向きになるような。だけど、違う。願っていただけ。そうなればいいって。ただ、止まってしまったらもう何もできなくなってしまう予感がしたから、その口実にしただけで。……いや、ただ私が、逃げ出したかったから」  一瞬、固く口を噤んだ。 「ひどいことを言ってるな。……ずっと、君のためという建前でいた。勝手にあの人から引き離して連れ回して。……ごめん、アメモース」  アランは静かに頭を垂れた。 「ごめん」  繰り返して、そしてそのまま、暫く動かずにいた。  アメモースが声を発するまで、アランは相手を見ることができなかった。穏やかな声を耳に入れて顔を上げた先で、アメモースの瞳は、笑んでいた。解っているのか、解っていないのか、その判別はつかないけれど、彼はアランに笑いかけていた。  つられるように、アランは口元に微笑みを浮かべた。そして、また彼の名前を呼ぶ。ねえ、アメモース。問いかける時期をずっと探っていたはずなのに、彼女はするりとその言葉を喉から零す。 「君は、飛びたい?」  つぶらに潤う瞳は揺るがずに、現トレーナーの真剣な表情を見つめた。 「痛みが無くなって元気になったら、もう一度飛びたい?」  飛ぶ。  あの空へ。  地を生きる彼女も一瞬だけ夢を見た。大空に向かうことを。  どこまでも蒼く、どこまでも遠く。風を纏い風と共に生きる、あの自由な世界へ。  アメモースは、首を傾げた。戯けたように、あるいはまるきり解らないように傾ける。  まだ決断すべき時では無いのか。彼女自身も迷っている。トレーナーが迷えば、ポケモンも迷う。アランの表情はかすかに曇る。  いつかここを出て行く時がやってくる、それは育て屋に暮らす野生の生き物に限った話ではない。迷い子としてやってきたこの場所、向かうべき道が見つかれば、或いは向かわなければならない道が明らかとなれば、発たなければならない理由があれば、いつかは再び旅立つのだ。
 その晩、深夜の事件の全貌は明らかにならないまま昼行性の生き物たちが眠りにつき、ひっそりと冷たくなった夜にアランはそっとソファから立ち上がった。  今晩は夜空を雲が覆っており、とはいえ湿気は薄く雨は降っていない。差し入る月や星の光が無く、周囲は足下のブラッキーの光の輪のみ、異様に浮き上がっていた。  息を殺し、直接放牧地帯へと繋がる扉に近付き外へと出れば、強い夜風に栗色の髪が吹き上がる。乾いており、やはり雨雲ではないようだ。このあたりは地上からの光も殆ど無い。萎縮するほどの闇に迷い込んだ。  果ての無い暗闇は掴み所が無い。  目が慣れてきて、僅かに見える物の輪郭と耳を頼りに、アランは摺り足で進んでいく。外に置かれた棚や壁を指で伝い、卵屋へと歩みを進める。  緊張を緩めず、開きの悪い扉を開ける。昼間ならポケモン達の声や羽ばたきで充満しているこの小屋も、今は沈黙している。まるで、死に絶えているように。  内壁を辿って一段ずつ大きな螺旋階段を登っていく。  二階まで来れば、生きた気配を嗅ぎ取った。藁に座り込み眠る鳥ポケモン達を一匹一匹確認する。彼女はまだそれぞれを覚えているほどではないが、少なくとも妙な空白は見られない。一晩数えるほどに、一匹居なくなっていく。そんな可能性が無いと言い切れない。  用心深く冷ややかな視線で周囲を見回すアランの視界に、一匹、椅子に隠れて彼女の様子を覗う獣が入った。気付いた直後こそ身構えたが、軟らかな月光に明らかにされれば、すぐに緊張は解かれた。丸い身体は細い椅子に隠れられるほど小さいものではない。  フカマルだ。巨大な口に整然と並ぶ肉食獣の牙は、か弱い小鳥の首ひとつ、容易く噛み砕く力があるだろう。しかし、ポッポは彼の友達だ。ポッポに限らず、ここに住むポケモン達に彼は生まれ持った愛嬌で好かれ、彼自身も仲間に対して溢れんばかりの愛情を向けている。墓前で見せた激しい号泣に嘘の混じりけなどなかった。彼は心優しいドラゴンであり、今もアランに脅える様からは、とても彼が事件の加害者であるとは見えない。  アランは唇の前に人差し指を立て、ドラゴンの隣へと近付く。その間、フカマルは彼女を凝視し、ひとときも目を離さなかった。強い警戒心と恐怖心を抱いているのだ。アランは小さく息を吐き、硬質な肌をゆるやかに撫でた。  大丈夫、と囁く。椅子を挟んで座り込み、壁を辿るように作られた寝床で眠りにつく鳥ポケモン達を仰いだ。  フカマルもまた見張っているのだろうか。新たな被害者が出る予感を払拭できず卵屋に集った同志は、沈黙を頑なに突き通す。  深い藍色の夜に白い光。青い世界に漂う獣の香りと、穏やかな寝息は一晩中続いていった。フカマルは座り込み、うとうとと瞼を閉じては、時折はっと覚める、そんな様子を繰り返した。アランは膝を抱え緊迫し続けたが、ゆるんだ夜の空気に馴染んでいくように、だんだんと肩の力を抜いていった。  その晩は何も無く過ぎていき、卵屋の青は薄らいでいく。有明の優しい眩さが山の向こうから広がり、大きな窓より光が注いだ。意識せぬうちに眠りに落ちたのはアランもフカマルも揃っていて、間近の囀りに瞼を開けばいつも通りの朝に包まれていた。平凡な朝が本当に平凡としてやってきたのだ。  まだ半分も目が開いていないフカマルのとろとろとした足取りに合わせて卵屋を後にしようと階段を降りている途中で、耳に障る扉の音がした。まだ生き物が全て目覚めていない早朝に、その音は強く響いた。ザナトアとアランで目が合った。彼女は一瞬目を丸くしたが、続いて呆れた表情を浮かべた。 「まさか一晩中見張っていたのかい」  階段を最後まで降りたアランはおずおずと頷くと、元気だねえと苦笑した。 「若いってのはいいもんさね。ちゃんと寝なよ」 「大丈夫です。このくらい」 「は。ちょっとは生意気な口も叩けるようになってきたか?」  皮肉交じりな口調で笑う。 「で、夜通し見張った甲斐はあったのかい」 「どうでしょうね。でも、誰も殺されなかったですし」  ね、と足下のフカマルに目配せをする。フカマルは立ちながら微睡んでアランの足に寄りかかっており、意識があるのか無いのか���っきりせぬ様子でぼんやりと���事した。 「物騒なことを言うね」  目を細めたザナトアが怪訝な口ぶりで言う。発言の違和感に気付いていないかのように、アランはどこか平然とした顔つきでいた。  「あのポッポが、明確な意図を持った誰かに殺されたと、そう思っているのかい」  圧力を感じたのか、アランはぐっと息を呑み込んだ。 「……分かりません」  ザナトアは首を左右に振る。 「昨日も言ったかもしれないけれど、良いか悪いかは別としてあたしはこういうことには慣れたんだ。ここは野生との境目があやふやだから、夜に野生ポケモンが忍び込んできて食べられるのは特別な話じゃない。昔は用心棒がいたが、今は止めた。だから、仕方が無いんだよ。あんたがそうも気に病む必要は無い」 「でも」アランの握りしめた拳に力が入る。「野生ポケモンに襲われたとは���限らないじゃないですか」  朝の空気には不釣り合いに、二人の間の空気に小さな火花が散る。 「あの傷は、明らかに自然の傷じゃない。食い千切られた跡ですよね。勿論、野生ポケモンによる可能性もあります。だけど、それ以外の理由だって否定できないでしょう」 「トレーナーが意図的にそうしたと?」  低い声で問われアランは硬直したが、老婆からかかる強い圧力に負けじと深く頷く。 「そうだね。確かに可能性は零じゃない。あんたには衝撃的だったろう。だがね、決めつけて行動するには少々直球すぎる」 「ザナトアさんだって、決めつけていることになっていないですか? よくあること、今回もそうだろうと」 「というより、拘る理由が無いかね。これが客のポケモンだったら死因を確認する必要があるけれど、毎回事件性を考慮していたらきりがない」  冷静に断言するザナトアは揺るがなかった。二人の間で散った火花を察知したのか、寝ぼけ眼のフカマルもはたと気が付き、おろおろと二人の間で視線を往復させる。二の句が継げず、アランは沈黙した。 「ま、冷たい奴だと思うのは勝手だけどね」 「いえ……」 「少し、意外だよ。そこまで動揺しているようには見えなかったから、あんたがそうも入れ込むとは。……考えすぎだよ。ちょっと気分を変えたらいいさね。顔でも洗ってきな」  細い手がアランの腰を叩き、横をすり抜けて老婆は二階へと上がっていく。 「ザナトアさん」  丸まった背中に呼びかける。のっそりと階段を上がっていく歩みを止め、振り返ったなんでもない顔に、アランは唇を噛み締める。 「確かに事故のようなものかもしれないですけど、なんだか嫌な予感がしてならないんです。恐いことが起きてしまわないかって」  数秒間ザナトアは言葉を探し、真顔で口を開いた。 「心当たりでもあるような物言いだね」  芯を捉えるような一言を残して、ザナトアは立ち尽くすアランに背を向けた。 < index >
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mashiroyami · 5 years
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Page 110 : 親子の夢
 卵屋の二階を訪れたザナトアは、古い椅子に腰掛けて身体を休めていた。  年を取るにつれて、不自由な身体だと実感する。肉体を駆使するからこそ余計に痛感するのだ。かつては簡単に踏み出せた数歩すらあまりに鈍く、重く、身体の節々は痛む。視界は霞み、老眼鏡をかけなければ文字を追い辛くなった。幸いにして脳はさほど衰えていないが、不意に足下を掬われ、床に沈み、それから目を見張る速度で老いる例はザナトアも知るところだ。  生き物はいずれ死ぬものであり、生きていれば老いていく必定に縛られている。育て屋稼業を営んできたザナトアは、キャリアの間に数えきれぬ別れを経験してきた。依頼主のもとへ帰って行く別れもあれば、野生に戻っていく別れもあり、そして死別もある。生き延びるほど、別れに対して鈍感になっていく。ポケモンに限らない。狭小な世間では、人付き合いの悪い彼女の耳にも時折届く。誰某が倒れただの、死んだだの、腐った魚が泳いでくるように、或いは静かな波に揺れて打ち上げられてきたように、新鮮味を失った報せとしてやってくる。  老いているという自覚は、思いがけず幼い旅人を家に住まわせてから更に濃厚になった。  風化していくこの家で借り暮らしを始めたアランが、籠を藁で埋めて何度も階段を往復し、或いはポケモン達に餌を与え、或いは床や壁を掃いて磨いて、そういった細々とした仕事を文句の一つ吐かずに淡々とこなしている姿を、多少は感心しながら観察していた。本音を漏らせば、老体には助かってもいる。不慣れ故の手際の悪さは目につくが、吸収が早い点にも身軽な身体にも若さを実感した。ザナトアはもうじき齢七十四。アランとの年の差は殆どちょうど六十年分と知った時は呆気にとられたものだ。孫と言っても通じてしまう。  卵屋の内部はいつもより静かだ。ヒノヤコマを頭とした群れが出かけているところである。親友である幼く飛べないドラゴンは、衰弱を契機とした病で飛べなくなったピジョンと談笑している。その隣で、涼やかにエーフィは横になっていた。  この子達をどこまで世話してやれるのだろう。騒がしいポケモン達を前にふと静けさに襲われた時、ザナトアは一考する。  少なくとも、余程の不幸が無い限りフカマルは遺される立場となる。ドラゴンポケモンの寿命は長い。種族によっては人の一生を超越する。純粋培養といえようか、無邪気でとぼけた明るさをもったまますくすくと育つ彼を見ていると、必然的に彼が経験する別れについて考えざるを得ない。則ち、自身の死後の世界について。  誰かが死んでも、此の世は途切れることなく動いていく。しかし自分の命は自分だけのものではないと知っている。だからフカマルには自分以外のおやが必要だ。野生を経験していないのだから尚更である。ドラゴンポケモンを簡単に野に放てば、生態系が崩れる恐れもある。無論、フカマルに限らない。ここに住むポケモン達、皆まとめて、互いに互いの生命を共有しており、誰かの助けを借りなければ生きられないポケモンもいる。  ふと、顔を上げた。風の流れが変わった。傍でドラゴンが軽快に鳴く。  フカマルが窓に跳び乗り、小さな手を懸命に振っている。つられるように、エーフィが隣へ歩み身を乗り出した。ヒノヤコマや、野生に帰ろうとしているあのポッポを含めた群れが帰ってくるところのようだった。ザナトアは立ち上がり、整然と隊列を成して飛翔する群衆を見つめる。彼等は数日後に控える、湖を舞台にしたレースに出場する面々だ。  秋、晴天の吉日に催されるキリの一大行事である秋季祭で行われる、鳥ポケモンによる湖を舞台としたレース、通称ポッポレースには、いくつかの部門がある。  町を超えて、国土各地のチェックポイントを回り再びこのキリに戻ってくる過酷で長期間を覚悟する部門。こちらは数日を必要とする。一方、湖畔に点在するチェックポイントを全て回り同じ場所へと帰ってくる、数時間で終えるレースは、一定のタイムをクリアした精鋭の参加する部門と、誰でも参加可能な部門とがある。ザナトアの擁する野生ポケモンのグループは後者での参加となる。前者は参加規定としてポッポのみという縛りがあるが、後者は種族を選ばない。形式上順位はつけられるものの、己の肉体を駆使し競うことが目的というよりも、空気感を楽しむ場だ。出場するポケモンが多岐に渡るため、華やかがなんといっても特徴である。家族や友人同士で共に飛ばせたり、衣装を着せたり、背中に別のポケモンや人間を乗せて飛ぶのも許されているような自由なレギュレーションだ。当日の飛び入り参加も可能、飛べさえすれば良いという内容で、珍しいドラゴンポケモンでも出場すれば拍手喝采、注目を浴びる。手に汗握る本気の試合形式とはまた違った趣向で祭を盛り上げる。  とはいえ、混沌とするため事故を招きやすい実情がある。  大小入り交じる見知らぬポケモン達に囲まれると、不安に煽られあらぬ方向へ飛んでいき迷子になる、或いは単純に体力不足等の様々な理由で、棄権するポケモンも出てくる。ザナトアは全員が最後まで飛び続けることを最大の目標とする。そのために、チームで隊列を組み練習を重ねさせた。ただ、ザナトアは特別なことは殆どしていない。飛んでしまえば手を離れる故もあるが、彼女が口を出さずともヒノヤコマやピジョンなどレースの経験者である進化ポケモンが全体をコントロールしてくれている。彼等は血は繋がっていないけれど、皆兄弟のようなものだ。信頼で結ばれた結束は固い。  しかし、このうちの何匹かは恐らくそう遠くない将来にこの卵屋を離れていくだろう。自分の手元から離し本来の居場所へと帰す、それこそが今のザナトアの使命である。  不意に、新入りの獣の尾がぴんと伸びて、喜びの声をあげた。  ほんの少しの挙動だけで解る。主人が帰ってきたのだ。  西日が強くなっている中、長い丘の階段を上がりきったところだ。漸く見慣れてきた栗色の髪を、朝と同じく後ろで一つに結っている。両手に紙袋を抱えて重たげであった。 「手伝いに行っておやり」  エーフィに声をかけると、彼女は頷いて、すぐさま駆け下りていった。惚れ惚れするような滑らかに引き締まった身体を柔軟に伸ばし、主を労うことだろう。  群れが窓の傍で密集し、小鳥達から中へ入っていく。一気に賑やかになり、フカマルが一匹一匹に声をかけていた。このささやかな時間がザナトアにとっては愛おしいものである。  逞しいポケモン達と時間を過ごすほど、別れを意識し、同時に命を貰っていると痛感する。けれど別ればかりが人生ではない。ここが居場所と定住を決めた者もいる。まだこの子たちといたい。痛快な人生、まだ終わらせるには勿体ない。 「お疲れさん。さ、ゆっくりお休みよ」  薄い黄金色をした穀物を餌箱に流し込めば、疲労もなんのその、活気溢れて食い付く鳥ポケモン達に微笑んだ。先導したヒノヤコマ達に声をかける。後で好物の小魚を持ってきてやろう。祭日に向けて、皆順調だ。  フカマルを引き連れて、食事に騒ぐ卵屋を後にする。リビングに戻ってくると、アランが荷物を下ろしているところだった。白い頬に薄らと血色が透いている。アランはザナトアに気付くと、柔和な笑みを浮かべた。  反射的に抱いたのは違和感である。  妙だ。  ザナトアは直感した。  アランは約束通り夕食準備に間に合うように帰宅し、台所では隣に立ち、いつものように料理を手伝う。流石に熟れてきて、ザナトアが何も言わずともフカマルの好みを押さえた餌を用意できるようになったし、自身のポケモン達にもそれぞれに合った食事を用意している。購入品を手早く冷蔵庫にしまえるようになり、食器の収納場所は迷い無く覚えてしまった。  ポケモンに対しては些細な変化にも気を配れる自負があるザナトアだが、人間相手となると疎いことも自覚している。良くも悪くも厳しく、距離を置かれることも多い。自然と人との交流が減り、偏屈に磨きがかかった。しかしそんなザナトアでも、頑なに無表情だったアランが町から帰ってきて急に笑うようになれば、嫌でも勘付く。人形のようだった人間が、本来の形に戻って笑む。それは人としておかしくはないことであるが、違和感を持つのは皮肉である。  散らかった机上に無理矢理空間を作ったような場所で日常通り食事を囲い、アランはぽつぽつと穏やかな色合いで話す。アメモースの抜糸やブラッキーには異常が無かったこと、町はいよいよ祭が近付き浮き足立っていたこと、湖畔の自然公園に巨大なステージが設置されていたこと、町中でポッポレースの広告を見かけたこと。確かに喜ばしい報せもあるが、アメモースは完治したわけではなく、他の問題が解決したわけでもない。大きな変化を与えるほど彼女が祭に興味を持っているかと考えれば、ザナトア自身は疑問を抱いた。過ぎるのは、別の要因がある予感だ。無表情の裏で何を考えているのか読むことの出来ない、端からは底知れない少女にしては、実に明白な変化だった。 「町で何があったんだい」  食器を置き、単刀直入に尋ねた。表情は変わったが、相変わらず食事の進む速度は鈍い。  アランの笑みが消える。ザナトアの問う意味をすぐに理解したかのように。  逡巡するような間を置いて、口を開いた。 「エクトルさんに会いました」  存外あっさりと答えて、ザナトアは不意を打たれたように目を丸くした。 「病院でアメモースとブラッキーを診てもらってから、時間があったので」 「……そうか」  知人に出会い気が紛れたのだろうか。アランは常にどこか緊張し、相手の様子を窺う目つきをしていた。普段は気にもならないが、時折妙に儚げに飛行するポケモン達を眺めていることもあれば、刃先を向けているような非道く冷酷な顔つきをしていることもある。  二人共暫く黙り込んでいたが、長くは続かなかった。ザナトアの方から続ける。 「あの子、元気にしているのかい」 「はい」 「そうかい」細い目が、更に小さくなった。「それなら、別にいいんだけどね」  ザナトアの肩がゆるやかに落ちる。  アランは目を伏せ、手にしていたスプーンを皿に置く。スープなら多少は食べられるので、ここ最近は専らそればかり口にしていた。 「前から思っていたんですけど、ザナトアさんとエクトルさんは、どういう関係なんでしょうか」  耳を疑うように、老婆の眉間に大きな縦皺が寄る。 「知らないのかい」  信じられないとでも言いたげな声音だ。アランが戸惑うように肯くと、大きな溜息が返ってきた。 「呆れた。……いや、あいつにね。今更だよ。語るほどのものでもないけれど」 「昔、お世話になっていたとは聞いています」 「それだけかい?」  できるだけ相手の神経を逆撫でしないよう注意しているかのように、慎重にアランは頷く。 「そうかい。まあ、それだけだがね、しょうがない子だね……あんたも本人に聞いてやればいいのに」 「なんとなく、聞いてはいけないような雰囲気があって」 「これだけ年が経ってもまだ引き摺っているんだろうねえ……あたしのことなんて忘れたものだと思っていたくらいなのに」  解った、と彼女は言う。 「これを食べたら喋ってやるさね。ちょっと長くなるかもしれないがね。だからあんたも今日はそれを食べきってやりな」  ザナトアはパンを千切りながら顎でアランの手元のスープを指した。今日買ってきた野菜をふんだんに使い、細切れの豚肉を放り込み、うんと柔らかくなるまで煮込んでスープに溶けてしまうほどになっているものだ。ミルク仕立てで見た目はシチューにも近いが、濃厚な味付けではない。味が濃いと気分が悪くなってしまうからだった。  黙ってアランは食事を再開した。義務感に駆られるのか、その日は綺麗に平らげてしまった。
 食事を終え、部屋の奥のダイニングテーブルに熱いアールグレイを淹れたカップを二つ並べ、二人は直角の具合にソファに腰掛けた。アランは眠たげに触角を下げたままのアメモースを膝に抱える。  ザナトアは小さく浮かぶ湯気を眺めて、一口軽く含んだ。味わう間も殆ど無く、胸中を熱い塊がするりと落ちていく。  ポケモントレーナーだったんだよ、とザナトアは始め、アランは背筋を伸ばした。 「まだあたしが育て屋の現役だった頃にあの子は遊びに来るようになった。クヴルールの家元だったから実家は町の方だが、親戚がこの辺りに住んでいてね。何の縁か、ここにやってきた。子供は大体ポケモンに憧れるからね。噂でも聞きつけたんだろう。ここには沢山のポケモンがいると。  多くのキリの人間が一家に一匹は鳥ポケモンを持っているように、あの子も一匹ポケモンを持っていた。  今でも覚えているよ。見てほしい、としつこいから仕方なく相手してやったら、モンスターボールから立派なチルタリスを出してきた」  まだ八つか九つか、そのくらいの年齢だったはずだとザナトアは笑う。 「自分で育てたって言うんだ。多少は震えたね。勿論、ほんのちょっとさね。それから流石に嘘だろうと思い直したけど、話を聞くほど、どうやら本当らしい。こっそり野生ポケモンと戦わせたり、本を読んで技を訓練したりね。やけに熱っぽく語るものだからさ、嘘にしちゃ上出来だとね。  その日からあの子はよくここに来るようになった。町からここまでは遠いよ。一日に数回だけ通るバスを使ってさ、チルタリスが人を乗せられるようになってからは、その背中に乗ってね。学校が終わってからここに来て、長期休暇になれば泊まり込んで。ポケモン達とバトルをして、遊んでいた。親がどう言うかあたしは心配だったんだが、どうも事情が複雑で、誰からも咎められることはなかった。あの子の家族は、あの子に無関心だったのさ」  ザナトアはソファを立ち上がり、リビングから廊下へと繋がる扉のすぐ隣にある本棚の前に立ち、一つ取り出した。古びた群青色で、厚みのあるアルバムだった。  ダイニングテーブルに広げられたものを、アランは覗き込んだ。少し焼けて褪せた色が写真の古さを物語った。幼い黒髪の少年と、チルタリス、数多くのポケモン達の日々が記録されている。たまに写る女性は、今よりずっと皺の少ないザナトアだった。カメラを向けられることに慣れていないように、ぎこちなく攣った表情をしている。  少年は満面の笑みを浮かべていた。乳歯が抜けたばかりのように、でこぼことした白い歯並びが印象的である。ページを捲るほど目に見えて身長は伸び、体格は大きくなっていく。顔にも膝小僧にも擦り傷をつくり、絆創膏を貼り付けているのは変わらない。時を進ませたどの写真でも多様な表情を浮かべている。説明が無くとも、少年期のエクトルであると察することができた。基本的には無愛想な今の彼とは正反対の、自由奔放に溌剌とした姿であった。 「悪ガキだったよ、あたしからしてみれば。こちとら仕事だからね、勝手にバトルされると調整が狂うからやめろって言ってるのに聞かないんだから。外が静かになったと思ったら書庫で本を読み漁って床に物が散乱してるし、こうした方がいいああした方がいいって育成に口を出してくるし。子供は黙ってろってね。でもちゃんと聞くと、的を外しているわけではない。あたしも随分教えたね。気に食わないところもあったけどね、楽しいもんだったよ。  ポケモンを持つ子供が皆そういうように、プロのポケモントレーナーになりたい、ポケモンマスターになりたいって話をしていた。あの子は確かに子供だったけど、立派なポケモントレーナーだった。  実際、ちょっとした大会にも参加していてね。キリは地域柄ポケモン関連のイベント事は盛んな方だが、ジュニアじゃ抜きん出ていて話にならなかった。大人相手でも遅れをとらない。その頃になればはっきりと確信したね。あの子には才能がある。こんな田舎町で燻らせるには勿体ないくらい。  あの子が家でよく思われていないのも流石に解っていた。どれだけ結果を出しても気にも留めない奴等なんか見返してやりな、とよく言い聞かせていた。誰よりもあの子のことを解っている気でいた。だから客のトレーナーともバトルの経験を積ませ、首都で開かれるような全国区の大会にも参加させた。あたしが保護者役でね。そこまでいくとレベルが高くなってきてね。バトルが得意な人間なんていくらでもいるんだよ。最初は一回戦で負けた。こんなもんかとちょっと残念だったけど、悔しかったのか更に夢中になって遂には家出してしまってね。流石のあたしもあの子の親戚の元に話をしに行ったんだがね、好きにさせてやれなんていうものだから、腹を括ったというかね……。あの子はあの子で、難しい本を読んで知識を詰め、新しいポケモンも育てて、技を鍛え、毎日戦略を練って、益々のめり込んでいった」  ふとアランに笑いかける。幾分、いつもよりもザナトアの表情は柔らかかった。 「修行の旅まで出たんだよ」  アランは僅かに目を丸くした。 「旅……ですか?」 「そうさ、あんたと同じ。と、あんたは別にトレーナー修業ではなかったか」  ザナトアは続ける。 「危険が伴うから賛否あるがね、西の山脈方面に向かうと手強い野生の根城がごろごろある。それから各地の大会に出て、経験を積んでいった。旅を始めてからは何か合致したように腕を上げていってね、楽しそうだったよ。元々風来坊なところはあったけど、自由な生活が性に合っていたんだろうね。自分の居場所を自分の力で探すのは、とても大変だけれど。立派なことさ。挫折も経験、栄光も経験、ポケモン達と共に成長していった。あたしの楽しみは、チルタリスに乗って帰ってくるあの子の土産話だった。日に焼けて、身体はどんどん大きく逞しくなって、元気な顔を見せてくれることがさ。あたしには子供がいないけど、息子のような存在だった」  流暢な口が、不意に立ち止まる。 「転機は恐らく、クヴルール本家のご息女が生まれた事だね」  静かな口調は、次への展開を不穏に物語った。つまりは、クラリスの影響となる。アランは口元を引き締める。 「規律に厳しいと言われてるクヴルールの人でありながらあの子が自由にできたのは、分家も分家、それも末端の、末っ子の人間だったからだ。そこらのキリの人間とそう変わらない、ただ名字だけクヴルールと貰っている程度。  詳しい経緯は知らない。ただ、あの子が連れ戻されたのは、奇しくもあの子がここらでは誰よりも強いトレーナーだったからだ。そのときには最早誰もが認めざるを得ないほどに。  細かい事情は、あたしだって知らないけどね。要は、お嬢さんのお目付役を頼まれたってことさ。  ポケモントレーナーとしての目標を捨てると、トレーナーはもう辞めると言い出した時は、あたしの方まで目の前が暗くなったね。そこに至る葛藤を今なら想像こそできるが、……いや、それは烏滸がましいだろうね。うん。激しい口論になったものさ。  純粋な自分の望みなら大した問題じゃない。プロの道は甘くないし、途中で諦めるトレーナーは数知れない。あの子もその一人だったというだけ。だけどあの子の場合、その理由はあの家にあった。  あまりにも今更だろう。どれだけ戦果を上げようと家族は殆ど見向きもせず、むしろ邪魔者が離れてせいせいしたというくらいだったのに、トレーナーとして誰が見てもそれなりに形になってきてこれから成熟していこうという時に。家に戻れ、ご息女を護れ。どの面下げて言えるのか、ふざけるのも大概にしろとね。人生の選択に少しばかり自由になりつつあるだろうに、いつの時代を生きているつもりなのかとね。クヴルールを許せなかったし、屈するあの子にも幻滅してしまった。……あの子は本当は、多分ね、寂しがっていたよ。家族に振り向かれないことを。だからポケモンに没頭していたというのも否めない。それを利用したのなら尚更たちが悪い。  結局喧嘩別れになって、それきりさね。あの子とは二十年近く会っていないことになる。凝り固まってたあたしも悪かったと今なら思うけれど、謝るタイミングも無くなってしまったね」  長い溜息をついた。 「エクトルはね、ポケモンが大好きだった」  噛み締めるように、懐かしむように、切実に、語る。 「あたしはこの界隈に身を埋めているから、プロトレーナーの道がどれだけ険しいかは理解しているさ。それでもね。ポケモンは沢山のことをあたし達に教えてくれる。あたしは今でも学んでるよ。彼等を通して得る経験はかけがえのないものになる。旅を勧めたのはあたしだけれど、あの子には世界はキリだけではないと教えたかったって理由もあった。トレーナーとして成功せずとも、ブリーダーでも、うちの手伝いでもいい。なんだって良かったんだ。あの子のポケモンに対する愛情は純粋だった、だからあたしは���の子がポケモンのと共にのびのびと生きてくれるのなら、それ以上に幸せなことはないと思っていた。宝だとすら思っていた。視野が広くて、冷静と情熱を使い分けられる子だった。そして何よりポケモンが好きだった。……自惚れだと、甘いと思うかもしれないけれどね、あの愛情は、正しい使い方をするよう誰かが導いてやらなければならなかった」  あたしには出来なかった、と感傷的に呟く。 「どんな形でもいい。あの家から引き剥がすべきだったと、あたしは今でも信じているし、後悔しているさね」
 ザナトアは彼女の核心にも迫る語り部を続けようとした最中、目頭を強く抑え、頭痛がすると言って、すんなりと幕引きを迎えた。アランはザナトアの骨と薄い肉ほどしかないような細く丸まった小さな身体を支えて、寝室へと連れて行った。やんちゃなフカマルもおとなしくして、ザナトアの傍についている。  寝床のソファに寝そべり毛布にくるまりながら、アランは夜の静寂をじっくりと味わう。  散りばめられた星から星座が生まれるように点と点が結ばれていき、合致する。嘗てエクトルがクラリスに放った言葉もクラリスが自由を求めて起こした行動も、昼間に彼が放った責任という意味合いも、真の根源は彼にあるのだとすれば繋がる。  判断を誤った、とエクトルは言った。  ならば正しい判断とは一体なんなのか。どこから誤っていたのか。どうすれば正しかったのか。  愛情の正しい使い方とはなんなのか。  ザナトアの言うことがもしも正しいのなら、彼は間違いで出来ているのか。間違ったまま生きているのか。正しくない愛情の行き所はどこなのか。そもそも正しさとはなんなのか。  以前キリで、ポケモンを好きだろうと彼女が言うと、彼は返した。そんな時代もあったかもしれない、と。大好きだったものがずっと好きであるだなんて確証はどこにもなくて、ならば、ザナトアの語った純粋な愛情はどう変容したのか。幸福の膨れあがった笑顔を浮かべポケモンに囲まれていた少年は、数多のネイティオの屍を重ねて繁栄を繋げようとした家の渦中に飛び込んでいった人物と同一なのだ。しかし、衰弱したアメモースに憂えた表情を浮かべた男もまた同じ人間である。  結局、暴力的なまでの濁流に巻き込まれれば、ひと一人分の人生など意味を成さないようでもある。アランの口から流れゆく重い吐息が、音も無く広がった。  生き物はずっと同じではいられない。人はいつまでも純粋ではいられない。アランも、アランを取り巻く存在も、皆。  部屋をぼんやりと照らす足下の小さな光が揺れている。暗闇に浮かぶ黄金の輝きがソファの傍にあって、余波のような淡さでアランの視界を僅かに明白にする。僅かな光も、暗闇の中ではしるべのようである。  月光に照らされるアラン自身は、今、無色の顔をしている。ザナトアの話を終始醒めた目で聴いていた。瞼をきつく閉じる。毛布を擦る音、白い月光、紙の匂い、沈黙するラジオ、健やかな寝息、闇夜に抱かれ皆眠る。ひとまぜになって混濁は透き通っていく。  部屋に響く風の音が強い。夜を彩る虫の歌が部屋に差し込む。  どれほどのことがあろうと、時間はやはり等しく生き物を静かに流し、夜を越えて、朝はやってくる。  卵屋の傍で首を千切られたポッポの死体が発見されたのは、朝陽もそよ風も穏やかで、たおやかで、平凡な翌日のことだった。 < index >
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mashiroyami · 5 years
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Page 109 : 口止め
 キリにやってきてから一週間程が経ち、少しずつザナトアの元での生活に慣れ始めていた。  元々ウォルタでは弟と二人で暮らしていた。最低限の家事は手慣れており、家事全般を受け持つようになっていた。  一日目のような重労働は十分に出来ないけれど、決まった時間にポケモン達に餌を与えに向かう。目立つのは鳥ポケモンだけれど、他にもポケモン達が住んでいると知るのに時間はかからなかった。  晴れている日には広大な草原でひなたぼっこをしている陸上ポケモン達。身体を地面に埋めて頭の葉を茂らせ光合成に勤しんでいるナゾノクサはいつの間にかここで群を成している。ここらを住処とはしないが恐らくトレーナーに捨てられて保護したのだという外来種の黒いラッタは他のどんなポケモンよりも美味しそうに餌を頬張る。美味しい牛乳を分けてくれるから重宝しているというミルタンクはキリの農場の主人が亡くなって譲り受けたポケモンだという。  小屋からそう遠くないところには小さな林が茂り、その中に大きな池がある。水ポケモン達の楽園だ。山から引いてきた水が貯められ、トサキントやケイコウオといった魚型のポケモンが優雅に泳ぎ、コアルヒーはこの場所と卵屋を行き来している。同じようにこの周囲を自由に飛び回っているヒノヤコマは、この池に住むハスボーと仲が良いらしくしばしば一緒にいる場面を見かけた。清らかな水で洗練された池の端で暢気に見守るように、いつもヤドンはしっぽを水面からぶらさげている。  餌をばらまけばあっという間に食いついてくる様子をじっくりと眺めながら、アランは額の汗を拭う。秋の日差しは柔らかく吹き抜ける風は軽いが、身体は膨らんだ熱を帯びていた。ポケットに入れっぱなしにしている懐中時計を確認すれば、そろそろ次の予定時刻が迫ろうとしている。  薄い木陰に背中から寝転ぶと、草の匂いがこゆくなり、池から漂う独特の鬱蒼とした香りと混ざる。林の中にぽっかりと作られた人工の池は、そこだけ空洞となったように直接陽が入る。少し離れれば木陰があり、水の放つ涼感が疲弊した身体に沁みるのだ。  木の根本から声がする。アランは起き上がり、座らせていたアメモースを引き寄せ、代わりに自分の背を幹に預けた。  アメモースを出来るだけボールから出してやれと進言したのはザナトアだ。ボールの中はポケモンにとって安寧の空間だが、出来るだけアメモースとアランの接触を増やすことが主な目的だった。  彼等の間にある溝は浅くはない。しかし彼女が今アメモースのトレーナーである限り、溝を抱えていても関わりを断つわけにはいかないのだった。 「今日、エクトルさんにも会おうと思うんだ」  ぽつりと告げると、アメモースは静かに頷く。  もう一時間程したら、湖のほとりまで向かう公共バスが近辺を通る。最大の目的はアメモースを一度病院に連れて行くことだが、ザナトアからはいくらか買い物を頼まれている。そのついでにエクトルと再会する心積もりでいた。  昨晩ザナトアが自室に戻った際に電話をかけた。依然休暇は続いているらしく、都合はつけられるとのことだった。  ザナトアの家で世話になっている旨を話すと、少しだけ驚いた様子だったけれど、それきりだった。そしてザナトアには彼との約束を伝えていない。何事もなく夕食に間に合うようには帰るつもりでいるのだろう。  ざわめく木漏れ日の下で暫し身体を休めてから、アランはゆっくりと立ち上がる。軽くなった餌袋を左手に下げ、右手でアメモースを抱えると、元来た道を戻った。  荷物を倉庫に戻した帰路の途中でザナトアに出会う。傍にはエーフィとフカマル。紺色の頭上にヒノヤコマが乗っていた。数日一緒に過ごすうちに、ヒノヤコマが数あるポケモン達のリーダーで、フカマルは気に入られている弟分という関係性が見えつつあった。 「行くのかい」 「はい」  やや驚いたようなザナトアは、もうそんな時間か、と息を吐く。 「わかった。買ってきてほしいものはメモに書いたよ。机の上に置いてある。よろしく頼んだよ」 「はい。行ってきます」  曇った表情を浮かべるエーフィを宥めるようにアランは頭を優しく撫でる。 「仕事、頑張ってね」  そう言われれば、エーフィは見送る他無いのだった。  ザナトア達に別れを告げ、アランはリビングへと戻り、そのまま奥の廊下へ向かい途中の右の部屋へ入る。脱衣所となったそこでそそくさと着替える。全身が汗ばんでいたが流すほどの時間は無い。旅のために見繕った服をさっさと着込み、パーカーは暑いので腰に巻き上げる。小さな尻尾を作るように首下で結っていた髪を慣れた手つきで直したところで、薄い傷がついた鏡を見据える。緊張した表情を浮かべた少女が、昏い眼で見つめ返していた。  再度リビングへ帰ってくると、先ほどは横たわっていたブラッキーがゆっくりと起き上がる。 「大丈夫?」  声をかけると、黒獣は深く頷いた。  アメモースだけを連れて行くのは心許ない。だが、最近のブラッキーはやはり不調だった。ついでに診てもらえばいいというザナトアの助言を受けて医者の目を通してもらうつもりでいた。  ダイニングテーブルの上に置かれたリストに目を通し、二つのモンスターボールと共に鞄に仕舞う。  裏口から出て、表の方へと家の周囲を沿っていき長い階段を降り始める。一昨日降った長い雨で、気温がまた一段階下がって秋が深まったようだった。丘を彩る草原もゆっくりと褪せていき、正面の小麦畑からは香ばしい匂いが風に乗ってやってくる。  一番下まで降りて、トンネルの方へと歩いてすぐに古びたバス停にぶつかった。錆だらけで、時刻表も目をこらさなければ読めない程日に焼けてしまっていた。  脇にぴったりとついて離れないブラッキーは、今一目だけ窺えばなんの不足も無く凛と立っていた。昼夜問わず横たわる姿とは裏腹に。  予定到着時刻より数分遅れて、二十分ほど待ってやってきたバスに乗り込み、運ば���ていく間車窓からの景色を覇気のない表情で眺めている。途中で乗り込む者も降りる者もおらず、車内はアランと二匹のみのまま町中へと進んでいった。  山道を下っていくと、やがて目が覚めるように視界が広がる。木々を抜けて、穏やかな湖が広がった。波は立っておらず、美しい青色をしていた。水は天候によって表情を変える。静寂に満ちている時もあれば、猛々しく荒れる時もあり、澄んだ色をしている時もあれば、黒く淀んでいる時もある。  駅前のバス停で降りると、そそくさと歩き出す。キリの町は比較的ポケモンとの交流が深いが、ブラッキーに向けられる好奇の視線からは避けられない。抱いているアメモースを庇うように前のめりで歩く。  町の飾り付けは先週訪れた時よりも活気づいている。豊作を祈る秋の祭。水神が指定するという晴天の吉日の催しを、当然のようにキリの民は心待ちにしている。  ザナトアに紹介された診療所はこじんまりとしていたが清潔で、感じの良さがあった。院長でもある獣医はザナトアの知り合いといって納得する、老齢を感じさせる外見だったが、屈託のない笑顔が印象的な人物だった。フラネで診察中に暴れた経験があるので身構えたが、忘れもしないフラネでの早朝の一件以来良くも悪くも取り乱さなくなったアメモースは終始大人しくしていた。傷口は着実に修復へ向かっていて、糸をとってもいいだろうと話された。大袈裟な包帯も外され、ガーゼをテープで固定するだけの簡素なものへと変わった。アメモースにとっても負担は減るだろう。  抜糸はさほど時間がかからないそうであり、その間にブラッキーを預け精密検査を受けさせた。モンスターボールに入れて専用の機械に読み込ませて十数分処理させるらしい。画像検査から生理学的検査まで一括で行える、ポケモンの素質としてモンスターボールに入れることで仮想的に電子化されるからこそできる芸当だが、アランにはその不思議はよく理解できない様子だった。彼女にとって大事なのは、ブラッキーに明らかな変化があるか否かだった。  結論から言えば、身体にはなんの異常も認められなかった。  本当ですか、と僅かに身を乗り出すアランは決して安堵していないようだった。収穫と言うべきかは迷うだろう。気味悪さに似たざらつきが残っているようだった。見えぬ場所で罅が入っているような違和感を拭いきれない。  ただ、抜糸を済ませたアメモースが少し浮かれた顔つきで、いつも垂れ下がっていた触覚がふわりふわりと動いている姿には、思わずアランも情愛を込めるように肌を撫でた。
 診療所を後にして、入り口付近で待っていたスーツ姿の男にすぐに気が付いた。待合室で二匹の処置を待っている間に連絡を入れていたのだった。 「案外、元気そうですね」  出会って早々、エクトルはそう告げた。 「そうですか?」 「以前お会いした際は見るに耐えない雰囲気でしたので」  はは、と苦笑する声がアランから出たが、表情は変わらない。  時刻は十五時を回ったところだ。夕食までには帰る必要があり、ザナトアから頼まれた買い物を済ませなければならない。とはいえ、頼まれているのは主に生鮮食品だ。そう時間はかからない。その旨を伝えると、 「では、お疲れのようですしお茶でも飲みましょうか」  無愛想な顔は変わらないが、落ち着き払った提案を素直にアランは受け取り、並んで歩き出した。 「アメモース、順調のようですね」 「なんとか」  腕の中で微睡んでいる様子は、エクトルと再会した頃の衰弱した状態と比較すれば目覚ましいほどに回復している。  そう、とアランは顔を上げる。 「ザナトアさんを紹介してくださって、ありがとうございました。今日はそのお礼を言いたかったんです」 「そう言えるということは、生活の方も順調でしょうか」 「……大変なことは多いですけど、少し慣れてきました」 「何よりです。失礼ながら、追い返されるだろうと」  アランは首を横に振る。 「皆のおかげなんです。私は全然。怒られるし、うまくいかないことばかりですし」 「追い出されなければ、十分うまくいっている方でしょう」  冷静な口ぶりには、お世辞ではなく実感を込めていた。  駅前近くの喧噪からやや離れて、住宅街に近付くほどに人の気配が少なくなる。低めに建てられた屋根でポッポが鳴いて、よく響く。無意識のうちに、アランの手は強張っていた。 「……キリに来たのは、アメモースをもう一度飛ばせるためだったんですけど」しんと目を伏せた先では、とうのアメモースがいる。「それについてはもう少し考えてみます」 「それがいいですよ」  すんなりと同意した。  アランはすいと顔を上げる。 「随分焦っていらっしゃるようだったので、安心致しました。一度立ち止まるのは、アメモースのためにも、ご自分のためにもなるのでは」  まじまじと見上げながら、少し間をとって、辛うじてアランは小さく頷いた。  会話が途切れ、不揃いな足音で町を進む。  真夏ほどではないとはいえ、日差しにあたれば薄らと汗が滲む。逆に日陰に入れば肌寒さが勝る。気温も徐々に低くなってきた。アランは腰に巻いたパーカーを羽織る。 「アイスクリームという時期でも無くなりましたね」  歩きながらぼんやりとした心地でエクトルは零す。 「あの時、エクトルさんいましたっけ」  エクトルの意図を掬い取ったのか、何気なく彼女は尋ねる。懐かしい思い出を語り出そうとするように。 「いえ。けどお嬢様から事の顛末は話していただいたので。あの時は失礼しました。驚かれたでしょう」 「そうですね……そうだった気もします」 「他に知る場所も殆どありませんから、仕方がありませんが。お嬢様はキリを知らない」 「でも、生まれも育ちもキリですよね」 「お嬢様からクヴルール家の掟については話を聞いていますよね」  高圧的に刺され、アランは口を噤む。 「ここで生まれここで死ぬと定められていても、この町のことを何も知らずに生きていく。皮肉なものです」  まあ、と自嘲気味にエクトルの口許は僅かに上がる。 「私も殆ど知りませんがね。――綺麗な場所ではありませんが、どうぞ」  不意に立ち止まり、道の途中の喫茶店の扉が開けられる。彼自身は身体つきが逞しいが、恭しい礼と滑らかな所作は一つ一つが画になるような美しさがあった。促されたアランは思わず空いた口を締めて、二匹のポケモンをボールに戻すと、緊張した動きで通されるままに中へと入る。  古めかしい店内は奥に細長い造りとなっており、長いカウンターが伸びている。今は客が他にいないようだった。カウンターを挟んだ向こうの棚には、ずらりと並ぶコーヒーの他にワインやカクテルの瓶が立ち並び、夜にはバーに変わるのだろう。まだ酒と縁遠いアランには関係の無い話だが。シックな内装に見とれるように、入り口で立ち止まったまま動かなかった。 「ここで立ち止まられても邪魔になります。奥へお進みください」  後ろから静かに囁かれ、慌てて奥へと進む。カウンターに立つのは外見の妙齢な男で、知人なのか、エクトルを見やるとまず目を丸くして、続けざまに気軽な雰囲気で手を挙げた。  カウンター席の更に奥は小さなスペースがあり、二人掛けのテーブルが二つだけある。いずれも空席だったので適当に右側を陣取ると、店員はにやつきながら、店員は水の入ったグラスを二人に差し出す。 「これはまた随分久しぶりだな。元気か? 油を売っていていい身分になったのか?」 「身分は変わりませんが、少々暇を頂きましたので顔を出すついでにと。クレアライト様、コーヒーはお飲みになれますか」 「えっと」  唐突に尋ねられ惑っていると、店員が笑う。 「なあんだ、子供かと思ったら違うのか、つまらんな。うちのコーヒーは美味いぞお」 「彼の仰ることはお気になさらず。好きなものをお選びください」  けらけらと肩で笑う店員を真顔で無視し、エクトルはメニューを差し出した。整然と並ぶドリンクの数々に目を泳がせながら、ミルクティーを選んだ。茶葉の種類は見当がつかないので、適当にお勧めを貰う。  店員が姿をカウンターの奥に消すと、エクトルは小さく息を吐いた。 「彼に代わって失礼をお詫び申し上げます。軽率な人間ではありますが口は堅いのでその点はご安心ください」 「はあ……」  アランが恐縮していると、エクトルは彼にしては幾分弛緩した雰囲気で水を含んだ。  どことなく緊張しながら室内を軽く見回す。カウンターをはじめ物は深い茶色で統制され、落ち着いたクリーム色をした漆喰の壁と似合っている。お世辞にも広いとは言えない限られたスペースだが、それがかえって隠れ家のような秘密裏な雰囲気を連想させた。細部まで店主の拘りが感じ取られる。ささやかなジャズ音楽が流れ、がらんとしていてもどこか寂しくはない空気感だった。 「お洒落な雰囲気ですね」 「創業者のセンスが良いんです」  ぽつりぽつりと言葉を交わすばかりで、会話はうまく繋がらない。沈黙の時間を多く過ごしているうちに、コーヒーと紅茶が一つずつ運ばれてきた。 「少女趣味だったっけ」  テーブルに置いて、一言。硬直したエクトルが、深い溜息を返す。 「ご冗談でもやめていただけませんか。彼女に失礼です。知り合い以上の何者でもありません」 「知り合いねえ」  アランは探るような目をしている彼の胸元を軽く見やる。白いシャツに黒いベストを羽織り、馴染んでいるような黒い名札には白文字の走り書きでアシザワと記されている。アーレイスでは聞き慣れない音感だった。 「しかし、あのお嬢さんはどうした。お付きがこんな所にいて女子と茶をしばいて噂になっても文句は言えねえな。しかもこの年の差はまずい」 「馬鹿馬鹿しいことを。そんな発想になるのは貴方くらいなものですよ。お嬢様は先日無事ご成人されて、私の役目は終わりました」 「ご成人」彼は目を丸くする。「いつのまにそんな時期になっていたっけか。あんなに可愛らしかった子がねえ、早いもんだ。美人に育ったんだろうなあ」  あっけらかんとした物言いにエクトルは返す言葉も無いように首を振る。 「貴方はそればかりですね。頭の固い他の関係者だったら――」 「あ、なんでも色目で見てると思うなよ。これでも話す相手は選んでるんだ。大体こんな噂話くらいどこでも立つだろうが。それより」  アシザワは前のめりになる。秘密の話でもしようとするような雰囲気だが、彼等の他に人はおらず、少々滑稽だった。 「役目は終わった。つまり、あのお嬢さんのお目付役が終わったってことか?」 「それが何か」  へえ、とアシザワは感心したような表情を浮かべる。 「良かったじゃないか。念願が叶って」  アランは顔を上げる。  正面に座るエクトルは静かにコーヒーに口をつけ、熱の籠もった溜息を吐き出す。 「もういいでしょう」  話を無理矢理切り上げるように一言零す。アシザワは明らかに変容した空気を察したようにアランを一瞥し、頷いた。 「悪い悪い。じゃ、ごゆっくりお過ごしください」  とってつけたように軽く会釈をすると、アシザワは足早にその場を去って行った。  小さな喧噪が終わり、後には気まずい空気が吹きだまりとなって残った。 「口が堅い、を訂正すべきですね」  溜息まじりにエクトルは言い、黒々と香りを浮かばせるコーヒーを飲む。アランもつられるように紅茶を飲んで、その後思い出したようにミルクを入れた。透明な飴色に細い白が混ざり、瞬く間に濁っていく。 「聞きたいことがあれば、答えられる範囲で応じますが」 「……いくつか」 「どうぞ」 「念願が叶ったというのは」  エクトルは思わず口許を緩ませる。誤魔化すような笑い方だった。 「本当に口が軽いことです」 「離れたかったんですか。クラリスから」 「そう簡単な話ではありません。温度差を感じる程度には、彼とも長く会っていません。確かに昔は嫌になったこともありましたが」  エクトルは目を伏せる。 「湖上でお嬢様を呼んでいた、貴方とは真逆ですね」  栗色の瞳が大きくなる。  その名を何度叫んだだろう。寂しさと怒りの混ざった感情を爆発させ、銀の鳥に跨がって、朝の日差しに照らされた湖上で喉が嗄れても呼び続けた。朝に読んだ手紙と、あっけない別れを受け入れられずに無我夢中で走り出した夏の終わりの出来事は、彼女の記憶にもまだ新しいはずである。 「クラリスに聞こえていたんですか」 「いいえ」  間伐入れぬ即答に、アランは押し黙る。 「クヴルールの中心には誰も届かない。あの日お嬢様の耳に入っていたのは風の音のみ。私も後ほど知りました。湖上にエアームドと少女の姿があったと」  一呼吸置く間に流れる沈黙は、重い。 「やはり貴方だったんですね」  確信ではなかったが、彼にとっては確信に等しかったのだろう。エクトルですら今まで真相を知らなかったのなら、クラリスが知るはずもない。  アランは俯き、力無く肯いた。 「……神域に繋がる湖畔を守るように風の壁を施しています。ポケモンの技ですがね。誰も近付けぬように。キリの民は誰もが当たり前に知っていることです」 「そう……初めから届くはずがなかったんですね」  言葉に沈痛なものを感じたエクトルは黙り込み、重々しく肯いた。 「まさか、たったあの二日で、そこまでお嬢様に入れ込む方ができると��考えもしませんでした。申し訳ございません」 「どうして謝るんですか」  決して怒りではない、純粋な疑問をぶつけるようにアランは問いかける。 「私が中途半端にお嬢様を許してしまったがために、無闇に無関係の貴方を危険に曝しました」 「違います。あれは私が勝手にやったことです」 「そう。貴方がご自分でそうされました。想像ができなかった。キリを知らず偶然立ち寄っただけ、それも訳のありそうな旅人なら何を告げたところで深く干渉はしてこないだろうと」  アランは眉根をきつく寄せる。 「何を言いたいんですか」  突き放すように���うと、エクトルは薄く笑った。 「見誤っておりました」  店内の音楽が切れ、本当の沈黙が僅かの間に訪れる。 「噺人は成人すれば完全に外界との関係を断ち、全てを家と水神様に捧げ、自由は許されない。クヴルール家の掟は他言無用。とりわけ未来予知、消耗品のように使い捨てられ続けてきたネイティオの件は禁忌。公となれば、いくらクヴルールとはいえ只では済まないでしょう。愛鳥を掲げる町ですから、尚更。それを他者に教えるなど、いくらキリの民でなくとも許されない。今回の件を他のクヴルールの者が知れば、お嬢様は代用のきかない立場ですので考慮はされるでしょうが、私の首は飛ぶでしょう」  アランは息を詰める。 「つまり、クラリスの元を離れたというのは」 「ああ」エクトルは軽く首を振る。「それとは関係ありません。このことを知る者はクヴルールで私とお嬢様の他にはおりません。先ほども言ったでしょう、役目を終えただけです。もし知られていれば、私は今ここにいませんよ」  平然と言ってのけるが、アランは一瞬言葉を失う。 「そんな恐ろしい口封じをする家なんですか」  直接的には言葉にしていないが、首が飛ぶとは形容でなく、言葉そのものの意味を示すのだというニュアンスを含めているのだとアランは嗅ぎ取っているようだった。  エクトルは短い沈黙を置く。 「程度によりますが。強い力を持てば、手は汚れるものです」  諦観を滲ませ悟ったように呟き、続ける。 「アシザワ……先程の店員に、貴方がお嬢様のご友人だということを伏せたのも念のためです。彼はキリの事情には驚くほど無関心ですがね」 「そんなことも?」 「本来、彼女は外界に関係性を持ってはいけない存在ですから」  また長い沈黙が流れていく。  場を持て余すようにエクトルがコーヒーを飲むのを冷めた表情でアランは見守る。 「口止めをしたいということですか」  エクトルの動きが止まる。 「それならそうと、はっきり言えばいいじゃないですか」 「口止め……そうですね。そう言っても良い」  アランの唇が引き締まった。 「貴方も、暫くキリに留まるつもりなら言葉は選んだ方が良いでしょう。これは警告です」 「だったら」  声が僅かに震えていた。 「初めからクラリスに何も言わせなければ良かったでしょう。外に関係を持つなと言っておきながら、学校に通わせたり……中途半端に許したということは、そもそもクラリスを止めることも出来たということですよね。何を今更」 「言ったでしょう、軽率だったと」  刺すように言い放つ。 「判断を誤ったのは私の責任です。だから出来る限りの協力は致します」 「ザナトアさんを紹介したのも、だからなんですね」  虚を衝かれたエクトルだったが、表情には出さない。ザナトアの存在は、彼にとって苦みのある、できるだけ触れたくない部分ではあった。 「クラリスの約束だけではなく。気が進まなかったけれど協力してくださった理由は、それですか。手は貸すから、余計なことは言うなと」 「一つは、確かに」  アランの唇が僅かに歪む。 「……これも、この時間も、口止めのつもりだと」  言いながら、手元のカップの縁をなぞる。  どこまでも深い黒い視線はあくまで凪いでいた。軽く首を振る。 「あまり警戒を強くされないでください。貴方は私を利用し、何事も無かったように過ごせばいいのです。ただ、一つ覚えておいて頂きたいのは」  強まった語気にアランは身を正す。 「私は貴方の身と、お嬢様の身を案じているのです」  辻褄合わせのように吐き出される言葉達に、アランは表情を変えなかった。  暫しの沈黙の間に、細い指先が持ち手を強く握り、また和らぐ。長い息と共に一口、渦巻いているだろう感情諸共流し込んで、温もった甘みのある吐息が小さく零れた。 「わかりました」  凜と言い放つ。  その直後のことだ。アランの顔が不意に、微笑んだ。  首都で訣別として笑いかけてから、意識していても強ばったまま動かなかった頬が解れた。凍っていた表情が溶けて、ふわりとした綿のように優しい微笑みが咲く。 「わかりました」  繰り返す。言い聞かせるように、或いは強調するように、しかし今度は随分と和らいだ口調だった。同じ言葉でありながら、全く色の異なる声を使っている。 「エクトルさんは、甘い人なんですね」  エクトルの肌が強張る。 「あの子、言ってました。本当は優しい人なんだって。その意味をちゃんと理解した気がします。……クラリスの望みをできるだけ叶えようとしてたんじゃないですか」 「クレアライト様、それは違う」 「エクトルさん」  咄嗟にエクトルは息を呑んだ。  ただ名前を呼ばれただけなのに、今までで最も意志の強い声だとエクトルは思った。有無を言わさず黙り込ませるだけの強い声。 「丁度良かったんです。私、クレアライトは捨ててるんです」 「……はい?」  僅かに動揺するエクトルとは対照的に、にこやかな顔を彼女は崩さない。 「クラリスと友達になり秘密を知ったラーナー・クレアライトはキリに居ない。そんな人間はここにいない――丸く収まりますよね」 「何を……」 「アラン。アラン・オルコット。今はそう名乗っています」静かに頷く。「これで踏ん切りがつきました」  驚きを隠さぬ顔で、エクトルは妙にさっぱりと笑うアランを凝視した。 < index >
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mashiroyami · 5 years
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Page 108 : 虚実
 ラーナーに与えられた最初の仕事は、ポケモン達の寝床の掃除だった。  ザナトアと会話を交わした建物は飼育小屋の一つだ。彼女は卵屋と呼ぶ。蛻の殻となり今や点々と仕事用具が置かれている倉庫と化している一階、そして今は鳥ポケモン達の巨大な巣となっている二階も、嘗てはポケモンの卵で埋まっていたのだという。預けられたポケモンが一晩明けたら卵を抱えていた、というのは珍しくない話であるらしい。役割ががらりと変わってしまっても、名残として名前が残っているのだ。  卵屋の二階で、ザナトアと共にラーナーは仕事にとりかかる。彼等が布団代わりにしているのは藁だ。三段ある棚、ぐるりと一周。ピッチフォークを持たされたものの、使ったことが無いうえ、鎮座する鳥ポケモンをどけさせる必要もあったため、結局腕に抱えた方が早かった。ポケモンの扱いも問題で、簡単に天井に飛び立ってくれる者もいるが、飛べない類は持ち上げなければならないし、運が悪ければ警戒心が強く技を放ってきて、逆に追い払われてしまう有様だった。威力としては弱い風おこしであっても、耐性の無い人間には強力だ。中央に集めた藁を吹き飛ばされて藁に混じった糞も当然撒き散らされ更に汚くなり流石にラーナーは肩を落とした。 「慣れさね」  と言いながら、やはり慣れた手つきでザナトアはピッチフォークを藁に突き刺し、よいしょ、と曲がった腰で藁を一気に持ち上げ、人がぎりぎり抱えられるだけの籠に放り込んだ。既に籠の中は汚れた藁でいっぱいになっていた。 「あんた、それはもういいからこれを持って降りておくれ。フカマル、処理場に案内しな。それで、新しい藁を持ってきておくれ」  漸く三匹目の寝床にラーナーが取りかかろうとした頃にはザナトアは半周分終えていた。頭から爪先まで藁を被ったように汚れたラーナーは既に疲れた表情を浮かべていた。進度の違いを目の当たりにして落ち込むように顔に影を落としたが、何も言わず籠に取り付けられた背負い紐に腕を通し、同じく手伝いをしていたフカマルを見た。  任務を受けたフカマルはぎゃ、と声をあげ、ちまちまと階段を駆け下りた。追いかけようとして、想定以上の重さに立ち上がれなかった。背中に重心を持って行かれ、息を呑んでいる間に尻餅をついた。巨大な岩を背負ったようだった。負けじと前に体重をかけるイメージで背負い込むと、漸く立ち上がれた。気を抜けば背中からひっくり返ってしまいそうだった。 「落ちないよう気を付けな」  ザナトアの注意を背中越しに受け、慎重に階段を降り始める。見かねたようにエーフィが近寄り念力を発動しようとしたところで、ラーナーは首を振った。 「大丈夫。エーフィはザナトアさんを手伝って」  やめろ、のニュアンスが含まれているのを敏感にエーフィは察知する。躊躇しながらも、大人しく引き下がる。ラーナーは肯き、集中した。大きな螺旋階段の先で、フカマルがやや不安げな目でラーナーを見上げている。  一階まで辿り着いた頃には、額から玉の汗が流れ落ち全身で呼吸をしていた。苦しげに息を切らしながら、目に沁みる汗を、袖を捲った腕で拭う。フカマルが傍まで駆け寄り、励ますように声をあげた。 「平気。連れて行って」  言葉とは裏腹に声音は厳しげだ。  ラーナーの速度に合わせて、フカマル達は外へと出る。卵屋を右に出て、石造の壁を沿うように歩く。柔らかな芝を踏みしめ続けていると、長い平屋がいくつか目に入った。その一番手前の一番小柄な建物の中に入ると、入り口を入ってすぐの左をフカマルは指さした。大きな空洞になっており、そこに捨てろ、ということらしい。ラーナーは背負った籠を下ろし、前に倒した。勢いよく藁の固まりが崩れ落ちていく。  軽くなった肩が心地良いのか無事持ってくることができたことに安堵しているのか、ラーナーは大きな息をついた。  息を整えているラーナーの顔を、フカマルが全身で覗き込む。あどけない表情で口が開く。整然と並んだ牙にラーナーは暫し目を奪われたように硬直した。  休息も束の間。ラーナーは振り返り、籠を抱えた。 「戻ろう。新しい藁はどこ?」  フカマルは頷き、ちょうど正面、入り口の右側を指さした。そこには、真新しい藁がまさに山積になっている。  壁に立てかけられたピッチフォークを突き刺し、ザナトアの手つきを思い出しながら、見よう見まねで藁を引っこ抜こうとする。重すぎて持ち上げられない。先の方だけ探るようにしても、彼女のようにうまく乗せられず、斜めに抜けて藁はこぼれ落ちた。 「難しいな」  と思わずこぼした。一つ一つの動作に、時間がかかる。  乾いた穀物の濃厚な香りに、包まれるというよりも呑み込まれながら、籠を満たす。  新しいだけ水分を含んでいないのか、心持ち古いものよりは軽いがその違いは実感としては殆ど薄い。疲労する身体には堪える。全身から汗を噴きだしてきた頃には、次の籠もその次の籠もいっぱいになっていた。 「休みなさい」  流石にザナトアはそう言った。項垂れるラーナーは拒否しようとしたが、強い視線に組み伏せられる。  大きな窓を挟んで、ザナトアは椅子に座り、ラーナーは床に座り込んだ。 「大変な仕事ですね」  新米の述べる、素直な感想だった。 「実際、二番目くらいの重労働だよ」 「一番ではないんですか」 「一番はポケモンの技の育成さね。今となっては、そうさね、これが一番大変かもしれないね。身体には響く」 「これをいつも一人で?」 「そうだね」 「ポケモンに手伝ってもらったり、しないんですか」 「昔はね。皆先に逝っちまったから」  なんでもないことのように言うザナトアの傍で、ラーナーは静かに息を詰めた。 「あたしもいつそうなるか解らないし、この子たちで手一杯だから新しく自分のポケモンを捕まえるのはやめたよ。不便なもんさ」 「フカマルはザナトアさんのポケモンじゃないんですか」 「殆どあたしのポケモンみたいなものだけど、一応預かっているという名目かね」  当のドラゴンは新しく敷かれた藁に座り込んでエーフィと鳥ポケモン達に囲まれながら和気藹々と話し込んでいた。その一角だけ光が当てられたように明るかった。しょうもないことを喋ってるんだろうね、とザナトアは苦笑した。酷使した身体を休めながら和やかなポケモン達を見ていると、空気が僅かに弛緩していく気配があった。 「あんた、親は?」  暫くして、ぽつりと尋ねられてもラーナーは静かな顔をしていた。 「いないです」 「いない?」 「小さい頃に交通事故で。二人とも」  止まり木からムックルが降りてきて団欒の上空で羽ばたく。立ち上がったフカマルがその足を掴もうとするように跳躍したけれども、からかうように上昇され、あっけなく地に落ちた。鳥ポケモン達の笑い声が響く。  ザナトアは瞼を伏せる。 「悪いことを聞いたね」 「いいえ」 「若いから、気になってさ。キリの人でもないんだろう。観光客という雰囲気でもないしね」  僅かな沈黙を挟んで、ぽつりとラーナーは口を開く。 「旅をしてるんです」 「……旅だって?」  怪訝な声が返ってきて、ラーナーは頷く。 「それは、トレーナーの修行の旅ってことかい」 「そういうわけじゃないんですけど。……それ、前の町でも言われました」 「あたしらの界隈じゃ旅と聞くとね。この国じゃメジャーじゃないけど。そうかい。どうりで掴めない子だとは思った」小さな溜息を吐いて、続ける。「でも、じゃあ何故旅なんてしてるんだい」  エーフィが尾を揺らし、軽やかに鳴いた。皆の視線が彼女に集まる。  ラーナーは沈黙を答えとするように、黙り込んだ。  紺色の獣の足が、宙に浮かび、彼の素っ頓狂な声が建物いっぱいに響いた。 「言いたくないなら言わなくていいよ」 「ごめんなさい」 「別に。誰しも隠したい事情はある」  鳥ポケモン達は目を丸くしてフカマルの空中遊泳を凝視した。フカマルは自らの身体を大の字に広げ、最初はおっかなびっくり戦慄いていたが、浮遊感に興奮を覚えたのか、今度は丸い目を輝かせた。 「あのエーフィは、凄いね。訓練しても、あれほどサイコキネシスを自在に扱える使い手はそういない」 「……なんでも出来てしまうんです。心強いです」 「あんたがここにいる間は、借りようかね」  ラーナーはそこで漸くザナトアの横顔を見た。皺だらけの顔に、更に深い笑窪が刻まれる。 「あんたよりは使えそうだよ」 「それは……そうですけど。それより」さり気ない正しい指摘よりも、気にかかったものがある様子だった。「私がここにいる間、って」  だんだんとフカマルの高度が上がっていき、止まり木の鳥ポケモン達も驚いて見守る。しかし、やがてそのうちの一本のあたりで、止まる。ぱちくりと、大きな目が瞬いた。エーフィの額の輝きが、収まった。念力が解ける。 「私、ここにいていいんですか」  自分に施されていた助力が無くなったことへ理解が及ぶ前に、フカマルは落下しようとしたところで咄嗟に止まり木を掴んだ。彼の体重に合わせて、止まり木が弓なりにしなり、同じ木にいたポッポ達は慌ててその場を離れた。今度は甲高い悲鳴があがる。 「おやまあ」  暢気にザナトアはその様子を下から眺める。止まり木は壁をくり抜いた穴にぴったりと通してあり、その穴で両端が引っかかってあって、フカマルの体重にも耐えられるだけの強い木を使っているため折れそうな雰囲気ではないが、空中で足を必死にばたつかせているフカマルの慰めにもならない。  やがて、また彼の身体に念力がかかり、エーフィが涼やかに地上へ下ろしていく。暫くは気付かずに勢いのまま叫び続けてたフカマルは、床に下ろされてから漸く戻ってきた事に気付いた。囲まれたポケモン達がけらけらと笑う中、顔を真っ赤にして地団駄を踏み、エーフィに怒りの声を投げつける。いたずらを仕掛けたエーフィは、笑いながら鳴いている。フカマルの怒りは少しの間収まらなかったけれど、いつの間にか周囲に呑まれて笑い始めた。それどころか、もう一回、とでも言いたげに手を挙げる。 「恐れを知らない子だこと」  ザナトアは呆れる。そういうところがフカマルの長所であることを、彼女は知っている。あの憎めない愛嬌で、ポケモン達の中心にいる。 「さ、遊びは一端終わりだ。フカマル、手伝っておくれ。エーフィも」  言いながらザナトアは立ち上がり、手を叩いた。直後にフカマルは振り返り、少し残念そうな表情を浮かべた。 「あの」 「アメモースが回復するまでここにいたいって言ったのは、あんたの方だろう」  ラーナーが立ち上がり際に声をあげたところですぐにザナトアが被せてきて、彼女は声を引っ込める。 「このエーフィは使える子だ。あんたはアメモースのところに戻りな。リビングでボールに入れて休ませてる」 「でも、手伝いが」 「エーフィだけであんた五人分くらいは働いてくれるよ」 「そこまで……」  言葉を続けようとして、呑み込んだ。一往復だけで激しく消耗したのは確かだ。そもそも、彼女はまともな食事もとれていない、つい昨日は一人気絶した身である。十分に働けるだけの体力は無かった。  エーフィは優しい鳴き声に、青い顔が上がる。  ラーナーの身体が立ち上がり、踵を返した。エーフィの瞳と宝石は柔らかく発光し、すぐに止む。無理矢理に促された主人は、戸惑うように顔だけ振り返るが、やがて諦めたように会釈し、力無く階段を降りていった。
 リビングに戻ると、ブラッキーは変わらず眠り続けていた。  外と繋がる扉を音も立てずに閉め、ラーナーはソファの前のダイニングテーブルに目をやる。目を凝らせば見えるような無数の掠り傷のついたモンスターボールがぽつねんと置かれている。起きたときには気付かなかったものだ。  気怠い身体でボールを手に取り、一人用のソファに浅く座る。そのままラーナーはボールを握り、背もたれに倒れる。柔らかなクッションが反発し、疲労した身体を受け入れる。  ゆったりとした部屋で、時計の針とブラッキーの小さな寝息だけが音として存在している。  ラーナーは掌にすっぽりと収まるボールをじっと見つめた。スイッチを一度押せばボールは肥大し、二度目を押せば中の獣は姿を現す。たったそれだけのことだが、ラーナーは虚ろな色を表情に浮かべ、握り込んだまま動けなくなった。  ブラッキーが以前より長く眠るようになったと、ラーナーは首都を出て以来薄々勘付いている。  本来夜行性のポケモンではあるが、幼いイーブイの頃から人間と過ごしていた影響か、昼間であっても起きていたし、夜は眠っていた。必要であればどんな時刻であっても起き上がり、ラーナーに寄り添った。彼はそういうポケモンだった。ボールに入っていればそれで休息は十分、といったようなポケモンだった。  首都を出て少ししてから、疲れた様子を見せた。鈍い動きを見せ、素直にボールで休んだ。嘗ては、珍しい種族であるが故に注目を恐れてボールに入れていることも多かったが、一人旅になってからは出来るだけどちらか一方はボールから出すようになった。それはエーフィとブラッキーも望んでいるが、エーフィだけがその役割を果たす時間が多かった。  その理由は解らない。  幸いにして首都を出てからは黒の団の強襲を受けず旅を続けている。野生ポケモンはエーフィ一匹いれば対処できる程度だ。  ラーナーはボールを握ったまま、ふらりと立ち上がる。そのまま向かったのは、本棚だった。  リビングに並ぶのは、表の玄関から溢れているファイルの山だ。年代で分けられた上に、アルファベット順に整理されているらしい。試しに一冊引き抜いてみると、十年前のものだった。まだラーナーは物心も殆どついておらず、セルドは赤ん坊、両親も存命している頃だ。一冊につき一人のトレーナーのようで、預かったポケモンについて詳細に記録がされている。食事、バイタル、体調、訓練の内容等。走り書きだが、ラーナーにも辛うじて読める。とはいえ難しくて内容の理解までは至らなかった様子である。ラーナーはポケモンに詳しくはないし、独自の用語なのか専門用語なのか、略語も多用されている。読解困難も無理は無いだろう。  ぱらぱらとめくるが、一般的にとりわけ珍種とされるエーフィやブラッキーは勿論、アメモースも登場しなかった。時間を弄ぶように、何冊か覗いてみる。土地柄か、鳥ポケモンが多い。エアームドを見つけて、思わず手を止めた。技、燕返しの訓練をしていたようだ。百発百中を求められる技は、敏捷性と正確性が求められる。見た目に反して翼は薄いが、鋼の鎧の影響か身体は重く、瞬発的な素早さには恵まれない。試行錯誤を繰り返して日々訓練に挑む記録は、一つの物語のようでもあった。結局、このエアームドが燕返しを取得したとザナトアが断定するまでに、約一ヶ月を要した。早いのか遅いのかラーナーには判断がつかないが、一番苦労するのは技の訓練だと即答したザナトアの言葉が過ぎり、腑に落ちた。  ファイルを元に戻し、本棚全体を眺めた。溢れんばかりに埋め尽くされるこれは、歴史を語る記録。  ラーナーはボールを握る右手に力を込める。  もう一度飛ばせるとは、そう簡単にできることでない。  ザナトアは、そう言った。  結局クロバット以外を飛ばせることはできませんでした。  エクトルは、そう言った。  再び本棚に目を凝らす。上から下へいくほど古くなる。目線をどんどん下げていき、隣の本棚へ移る。  やがて二十五年前の年代にたどり着くと、ラーナーは一冊一冊取り出し、ページをめくり始めた。  つい先日成人したクラリスの生まれる前の出来事。情報は膨大だが、ラーナーには時間があった。  夕陽が沈み出す頃、漸くラーナーは手を止めた。  二十九年前。クロバットの記録。生々しい写真がまず目に入った。  クロバットはアメモースと同じく四枚の羽を持つが、形状は大きく異なる。巨大な二枚の羽が主翼であり、胴体から伸びる小さな二枚羽は補助を担う。このクロバットが失ったのは、あろうことか主翼の方だった。左で、八割を失っている。読めば、経緯はなんと雷だという。激しい暴風雨の最中、不幸にも雷に打たれた。不幸中の幸いか、直撃した主翼は瞬時に焼かれたが命はとりとめた。淡々とした記録は客観的な文章であり、書き手の感情は見えてこなかった。  絶対安静の治療期間を経てから暫く、飛行訓練について詳細が書かれていた。幾度かの義翼の挑戦、失敗。補助翼に、主翼としての働きを担わせる訓練。本来の主翼は右しか無い、それはあまりにもアンバランスであり、嘗てとは逆の使い方をしなければならないとなれば、右利きの人間に自在に左手で文字を書けるよう訓練させる感覚に近い。実際はより困難であったはずだ。ザナト��も試行錯誤を繰り返し、クロバットも途中挫折している。長い空白期間の後、訓練は再開された。  嘗ての補助翼は大きくそして素早く羽ばたく。しかし補助翼では限界がある。残された主翼が大きな風を掴み上昇、瞬時に左右の補助翼がコントロールし、軌道に乗る。一見、滅茶苦茶だった。しかし、それで実際にクロバットは、四枚羽だった頃ほど自在でなくとも、再び空を飛んだ。  冒険記さながらの記録は、華々しさからは程遠く、九割は挫折と苦悩にまみれていた。端から見れば異質なまでの執念だった。  訓練休止期間を含め、十秒間の自力での飛行に四年。十分以上の飛行に至るまでに、そこから更に三年。ファイルは十冊に及んだ。  気の遠くなる年数だった。エアームドの燕返しにかかった一ヶ月���ど、比較してしまえば取るに足らない。  記録はまだ続いていたが、ラーナーは読むのを止めた。ふらつく足取りでソファに戻り、倒れ込んだ。流石のブラッキーも気が付いて、俊敏に起きあがる。  現実を目の当たりにした主人に、ブラッキーの顔が近付く。やつれた顔を見せたラーナーは、どうしよう、と呟いた。 「こんなこと、アメモースにやらせられない」  彼女の顔は相変わらず平坦だった。しかしそこから出てきた声は、潰れたように掠れていた。
 夜が近付いた頃、漸く喧噪が部屋に戻ってきた。  はしゃぐ元気の残っているフカマルとは裏腹に、いつもにこやかで余裕のあるエーフィがリビングに帰ってきて早々絨毯に寝転び疲労にまみれた声を漏らした。 「悪かったねえ。でもおかげで随分助かったよ。今夜はゆっくりお休み」  ザナトアはエーフィの頭から胴体にかけて、ゆっくりと大振りに撫でる。弱々しい声が削られた体力を物語った。  ブラッキーが憐れみに似た視線を送る隣で、横たわっていたラーナーはぼんやりとしたまま起き上がる。アメモースは居ないことに、ザナトアは何も言わなかった。 「そういや、二人分作らなきゃならないのか」  腰に手を当てながら言う。 「そもそもあんた食べられるのかい」  ラーナーを見やる。配慮しているというよりも、呆れたような口振りだった。  青白い顔をゆっくりと上げて、力無く首を振った。 「すみません、遠慮しておきます。だから気にしないでください」 「気にしない、ねえ」  ゆっくりと一人掛けのソファに座り、長い息をついた。深く背中が沈み込んでいる。色濃い疲弊が全身に覆い被さっていた。 「ああ、疲れた」絞り出すような声が、どこか達成感を含んでいた。「少し休んでからだね」  ラーナーは頷き、視線を落とす。すっかり草臥れたエーフィの傍にフカマルが座り込み、会話を交わしている。お互い社交性が高いのか気が合うのか、ラーナーが僅かに見ないうちに親睦を深めたらしい。  扉を閉めてしまうと、音が殆どしなかった。エーフィ達の戯れが強調される。ラーナーとザナトアの緊張した空気の中で浮き彫りになるようだった。 「そういえば」  ザナトアが言う。 「あんた、坊やとはどういう関係だい」 「坊や?」  すぐには見当が付かないのだろう、すぐに聞き返す。 「あの子だよ。エクトル」  ああ、とラーナーは納得したように呟く。  エクトルとザナトアの間には、どんな形をしているかはわからないが、絡み合った関係性がある。彼は、合わせる顔が無いと言っていた。 「キリに来るのは、二度目なんです。この間、夏に、初めて来た時に知り合って、それ以来です」 「夏って、今年の?」 「はい」 「随分近いね」  意外そうに言う。 「クヴルール家の使用人をしてるんじゃなかったかね。そう簡単に知り合えるような立場じゃないと思っていたけど、案外自由にやっているのかね」 「……クヴルール家を、知ってるんですか」 「当たり前じゃないか。……ああ、あんたは余所から来たからよく知らないのか。キリでは最も有名さ。水神様に唯一触れられる一族だからね」  気力の失せているラーナーの目が丸くなる。 「水神様」 「何をそんなに驚いているんだい」  ザナトアはぎこちない苦笑を浮かべる。 「いえ、その……私は、ここの人じゃないから事情をよく知らないんですけど、水神様って、キリの皆さんはよくご存じなんでしょうか」 「ご存じ、なんて大それたことではないけど、水神様の予知を元にキリの生活は回るからね。まあ、余所者からすれば奇異なのは当然か。ここほど神様と距離が近い場所はそう無いだろうさ」 「信じてるんですか、水神様のことを」  老婆は鼻を鳴らす。 「信じるも何もね。熱意は人それぞれだろうけど、誰もが奥底では当たり前のように考えているだろうよ。水神様はいらっしゃる。あたしなんか、信仰は薄い方だけどね」 「そうなんですか」 「そうさ。もっとも、クヴルール家が嫌いなだけだけどね」隠す気の無いさっぱりとした言い方だった。「あんた、こんなことに興味あるのかい」  ラーナーは逡巡するように目を逸らしてから、一つ頷いた。 「そうさね」  少し考え込んでから、ザナトアは再び口を開く。 「町の方では、祭りの準備をしていたろう」 「はい」  建物の間にかかる旗。それぞれの玄関に飾られたランプと花。街道も彩られ、以前彼女が訪れたキリと違って、町は華やかで、浮ついたような空気を醸し出していた。 「秋季の半ば、晴天の吉日。今年は二週間後だね。豊作を祈願し、一年で最も高くなる空へ向けて鳥ポケモンを飛翔させる。その日を定めるのは水神様さね。一年で最も重要な行事の一つさ」 「……そういえば、湖で、前よりもたくさんの鳥ポケモンが飛んでいたような」 「訓練だろうね。ポッポレースが開催されるんだ。祭りの見所の一つさ」  へえ、とラーナーは小さく声を上げる。 「うちからも何匹かは参加させるよ。ゆるいお遊び部門にしか出ないけどね」 「野生ポケモンでも、ですか」 「関係ないさ。元々はトレーナーに飼われていた子もいる。ポケモンには基本的に闘争本能があるから、こういうものに出た方が精気が入ることもある」  あと、と続ける。 「こう見えてボランティアじゃないからね。町から金を貰ってるから、行事にちゃんと出ておかないと色々言われるのさ」  あっけらかんとさらけ出し、笑う。 「さて、随分話したし、そろそろ夕食にしようかね。待ちわびている奴もいることだし」  言いながらザナトアは足下に目を向ける。フカマルがぽかんと口を開けながらザナトアをじっと見ていた。静かな部屋に、わかりやすいほどの空腹の報せがドラゴンの腹から鳴っていた。  その日の夕食はパスタだった。柔らかく茹でられた麺に自家製のホワイトソースがかけられ、軽く焦がしたチーズと刻んだベーコンが添えられる。巨大なベーコンの殆どがポケモン達に切り与えられる。分厚い肉はとりわけフカマルの好物だった。  キッチンの傍のテーブルについていたラーナーは、まじまじとテーブルの上を見る。積み上げられた本に、空のコップがそのままになり、封筒に入ったままの郵便物が適当に追いやられていた。汚れたエーフィやフカマルをそのまま部屋に入れるあたり、ザナトアは少なくとも綺麗好きではないのだろう。  白い深皿にパスタを盛り合わせて持ってきて、ラーナーは密かに眉を潜めた。遠慮した彼女にも、少しだけ用意されたようで、小皿に盛られて差し出された。黙って出された食事と、正面に座るザナトアの間を視線が行き来する。ザナトアが無言でパスタを食べ始めたので、ラーナーも何も言わずにフォークを取った。チーズを絡ませると、細く糸が伸びる。少しだけ巻き込んで、音も立てずに口に入れた。顔色は変わらなかった。飲み込み(えんげ)を躊躇うように長く咀嚼し続ける。 「不味いなら食べなくていい」  同じく黙々と食べていたザナトアが言い放つと、ラーナーは俯き、静かに喉を上下させた。手元の水を飲み下し、息をつく。足下で大好物にありついているフカマルの食べっぷりとは正反対だ。  もう一度フォークに麺を巻き付けようとしたところでザナトアが口を開く。 「食べなくていいと言ってるだろう。無理するんじゃないよ。それよりアメモースにおあげ」  ラーナーは唇を噤み、フォークをテーブルに置いた。そして、脇に置いていたモンスターボールを取り、少し間を空けてアメモースを外に出した。  苦い顔つきで腕の中に収まる。身じろぎもしない。ラーナーは傷跡に触れないよう気を遣いながら、昨日ザナトアが彼に飲ませた栄養剤を含ませる。容器の先端がスポイトになっており、スポイトの先の蓋を開けるだけで飲ませられる簡素な造りとなっている。赤ん坊にミルクを飲ませるかのようにして抱き込めば、一度目は何度か噎せていたが、彼も慣れているようにあっさりと飲み始めた。微少な泡が浮き上がり、蜜柑色の液体が着実に吸い込まれていく。 「痛み止めも飲ませてあげるといい」 「はい」  ザナトアが玄関先でアメモースに栄養剤を飲ませている光景を模しているうちに、飲みきった。ラーナーは席を立ち、ソファに置いている鞄から鎮痛剤を取り出す。ボトルに入っていて、それをスポイトで吸引し飲ませるというものだ。 「元々大人しい子なのかい」  ザナトアが尋ねると、ラーナーは軽く首を振る。 「大人しいとまでは。穏やかではありますけど」  アメモースを膝に抱えたまま、手は薬の準備を進めている。旅の最中で毎日使っていたから、扱い自体は慣れていた。 「……この薬はフラネで貰ったんですけど」 「うん」 「先生に診てもらっている時に、暴れ回ったんです。それまでは大人しかったのに、急に。その次の日の朝も。それきり、今度は怖いくらい静かになったんです」  彼女は手を止める。 「ご飯も満足に食べなくなって、どうしたらいいのか解らないまま。ショックが大きいせいだとか、思い当たる節はあるんですけど」 「ショックというのは、飛べなくなったことかい」  中途半端な間を置いてから、ラーナーは力無く頷く。 「飛ぶことが好きなんです。外に出したら、トレーナーを放ってどこかに飛んでいってしまうようなポケモンでした」 「成る程ね。……翅を失ったのは最近かい」 「今月の初旬に」 「ふうん。まだ新しい傷だね。立ち直れなくても無理は無いさね」 「そうですよね」  淡々と再び手を動かし、スポイトでゆっくりと水薬を吸い込む。 「まあいい機会だ。翅は戻らないが痛みはいずれ引く。ゆっくり休みよ」  アメモースを見ながら、ザナトアは微笑む。自分にかけられたのだとぼんやり察したのか、アメモースはゆっくりと頭をもたげた。  最後の一口まで平らげると、ザナトアは息をついた。 「片付けはあんたがしてくれるかい。適当に伏せておいてくれたらいいからさ」 「わかりました」  ザナトアは椅子から降りて、ラーナーの隣へやってくる。 「シャワーは後で場所を教える。部屋はいくつかあるんだが物置ばかりでね。寝られるような場所はそこのソファが一番ましだが、それでいいかい。ま、野宿よりはマシだろうよ」 「大丈夫です。ありがとうございます」 「じゃあ、あたしは一度ポケモン達の様子を見てくるから」  外へ行こうとしたところをエーフィが立ち上がったがすぐに制する。一人で戻るようだ。  裏口に繋がる扉へ歩いていこうとする途中でふと立ち止まり、そういえば、と声をあげる。 「今更なんだけど、あんた名前は?」  ラーナーはおもむろに振り返る。 「そういえば聞いてなかったと思ってね。あの場きりになるはずだったから聞く必要も無かったし。でも流石に知らないままも不便だろう」  さも当然のことを話すような突っ慳貪な問いに対して、ラーナーは一瞬視線を横に投げる。誰もが気付かぬほどの、ほんの些細な瞬間のことだった。  その間に巡った考えを知るのは、彼女だけだ。 「アランです」  淡々と、変わらぬ口調で言い放つ。  腕の中のアメモースが視線を上げる。エーフィとブラッキーの耳が動いた。ポケモン達の間で走り抜けた静かな動揺を、ザナトアが感じ取っている様子は無い。 「ふうん。男みたいな名前だね」 「おかしいですか?」 「何もそうは言ってないだろう。いい名前なんじゃないかい」軽く笑ってみせた。「じゃ、アラン。残した分はフカマルにでも食べさせておやり。残飯処理が得意なんだ」  そう言い残して、ザナトアは部屋を後にした。  残された沈黙が張り詰めていることに、フカマルは気付いていないように立ち上がり、嬉々としてテーブルの上に残されているラーナーの食べかけのパスタを待ち望んでいるように彼女を見上げた。  他の三匹は明らかに温度の異なる視線を彼女に投げかけている。 「何も言わないで」  三匹に対する返答は十分でない。  ラーナー――アランは、何事もなかったように、スポイトに入った水薬をアメモースの口元へと運んだ。 < index >
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mashiroyami · 5 years
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Page 107 : 迷子たち
 訪問者を部屋に招き入れると、ザナトアは扉を素早く閉め、強い足取りで案内した。老齢を思わせない足腰でさっさと進み、エーフィ達はそれを追う。  玄関から入るとまず横に長いカウンターテーブルがあり、右端の空白が通行口となっている。部屋の壁には棚が並べられ、ファイリングされた資料が所狭しと詰め込まれていた。彼女は育て屋を営んでいた。短期か長期かは客に寄るが、他者のポケモンを預かるにも契約書を始めとして様々な書類が必要となる。夥しい量のそれは、職場を通り過ぎ、生活の居住空間に入ってもずらりと並ぶ。日焼けしたように変色したものも少なくない。長きに渡って職を全うした痕跡が窺われた。  褪せた部屋の香りと、古びた紙の匂い、そして濃い獣の臭い。其々が混ざり合い、育て屋の空気を形成している。新たな臭いを纏った者達は、ある者は興味深げに鼻をひくひくと動かし、ある者は無心で物音立てずに歩き、ある者は慣れぬ浮遊に夢想気分で浸る。  ザナトアはエーフィを促し、リビングルームの奥のソファに彼女を横たわらせた。滑らかな念力に、老婆は内心舌を巻いていた。同時に複数の対象物を操り、異なる動きをさせるには相当の力量が必要だ。にも関わらず、このエーフィは涼しい顔をして、自らの手足のように自在にサイコキネシスを操ってみせる。  血の気を失った顔を薄く開いた目で確認する。呼吸は穏やかだ。ただ眠っているだけのようでもある。  ポケモンに対して言えば多少の医療知識は持っているし備品もある。しかし人間となれば話は別だ。湿布に絆創膏、包帯にガーゼ、それと自身の常用薬ばかり。歳をとれば嫌でも身体は衰える。自分の為の備えならある程度揃っているが、あくまで自分へ向けたものだ。  面倒なことを、と心中で改めてぼやく。苦渋の表情を緩めないザナトアの脇で、フカマルはソファを登ろうと足をかけていた。 「馬鹿、何やってんだい」  小さな手が少女の顔に伸びたところで咄嗟に叱りつけると、フカマルはひっくり返り床に背中から転がった。 「ばれてないとでも思ったかい。無闇にソファを傷つけられても困るよ」  ザナトアは翻り、部屋を出て行く。  見張りがいなくなれば、叱咤にしょぼくれるのも一瞬である。頭をブルブルと振り、性懲りも無くまたラーナーに手を出そうとしたところで、今度は違う叱責が飛び込んできた。  殺意を帯びた声に、流石に萎縮し、悪寒を頼りに振り返った。視線の先で赤い眼差しに串刺しにされる。彼の特性は威嚇ではないけれど、フカマルを怯えさせるには十分だった。硬直する獣を放置し、ブラッキーはその目の前を通り過ぎ、見張りをするようにソファの前を陣どって横たわった。ザナトアが部屋に戻った頃には、その場に座り込んでいる訪問者達と落ち着かずに右往左往しているフカマルとの対比は明らかだった。  呆れた表情を浮かべながら何も言わず、ザナトアはポケモンフーズをたっぷりと盛ったプラスチック容器を両手にポケモン達に足早に近付き、エーフィとブラッキーの前にそれぞれ置く。 「味気ないものだが、腹を空かせているなら食べな。夕食には少し早いけどね」  二対の獣は互いに視線を交わし、ザナトアに向け、最後に足下に移した。ザナトアは気に留める素振りも無く、アメモースを見る。 「あんたはどうだ。まだ食べられそうかい」  逡巡の後、アメモースは力無く頭を横に振る。  警戒心がなかったわけではないが、既に気を許し始めていたエーフィは差し出された食事に真っ先に口をつけた。一つ啄み、やがて決壊したように夢中になって食いついた。その様子を遠目に眺め、ブラッキーは暫し悩んだが、やがてゆっくりと頬張り始めた。  固形物を齧る硬質な音が転がる。  フカマルからは切実な視線が送られている。ザナトアは微かな苦笑を浮かべた。ドラゴンポケモンは基本的に総じて大食漢だ。目前で潔い食べっぷりを見せつけられれば、大きな涎が垂れても仕方が無いだろう。  ザナトアは身を翻し、壁際の台所へ足先を向けた。シンクの下の引き出しを開け、魚肉の缶詰を三個取り出し、エーフィ達に差し出したものより一回り大きな容器に慣れた手つきで中身を掻き出していく。特有の魚臭さが一気にたちこめ、誘われるようにフカマルは彼女の足下に駆け寄り、輝く視線を向けた。  栄養価の高いポケモンフーズを一緒くたに容器に流し入れ、和え物のようにかき混ぜる。殆ど茶色の外見は華やかとは言い難いが、フカマルには十分にご馳走だった。  山盛りの夕食を用意し、ザナトアはまたソファの元に戻っていく。刷り込まれた雛鳥のようにフカマルは彼女の後ろにぴったりと付き、エーフィの傍に置かれた食事に飛びついた。生え揃った逞しい牙の奏でる咀嚼音は豪快だ。しかし、床に撒き散らす様子は無い。ザナトアがしつこく躾てきた証であった。  一息ついたザナトアは、ダイニングテーブルに置かれたラジオをつけて、ラーナーの横たわるものとは違う一人用の小さなソファに腰を落ち着けた。  低音がのびやかに空気を震わせる。響き渡るチェロの旋律に他の弦楽器が伴奏している。電波に乗った音質が妙に心地良く、褪せた部屋に浸透していく。 「もういいのかい」  ザナトアは本を手に取り、半分ほどで食事を止めたブラッキーに声をかける。小さな頷きを追随せず、目を細めただけで、そう、と呟いた。  栞を挟んだところへページをめくろうとしたところで、袖を引かれるように、改めて横たわる少女を見る。  終始、仮面を身につけているような印象だった。  初めから終わりまで、アメモースがこのままでは死ぬとはっきり宣告しても顔色も表情も殆ど変わらなかった。発する声は僅かに震えていた。辛うじて狼狽える様子はあったけれど表面的なもので、ある種の気味悪さを受け取った。  個性豊かなポケモン達を見てきたのと同じように、千差万別のトレーナーと出会ってきた。育て屋に預ける理由は様々だ。覚えさせたい技があり確実な習得のために預ける者もいれば、効率的に能力を伸ばすことを目的とする者もいる。中には捨て子同然に預けてそのまま戻ってこなかった例もある。見極める目はある程度養っている。彼女を無責任だと突き放すことは簡単だ。しかしその一方、ポケモン達、とりわけエーフィとブラッキーが向ける労りが気にかかっていた。 「物好きだね、あんたたちは」  ブラッキーは視線だけ老婆に寄越した。  弦楽器の調べに、歌が乗る。男声のバラードがしっとりと時間をくるめる。 「トレーナーとポケモンはモンスターボールが間にあるから面倒さ。だけどボールの強制力なんて本当は大したことないはずなのさ。生き物だから、お互い相性がある。人同士なら適当にやり過ごせばいいけどね、だけど、何も無理についていかなければいけないわけじゃない。この子に限った話じゃない。子供のトレーナーは総じて未熟なんだ」  ザナトアは浅い溜息をつく。 「子供に限った話じゃない。いつまで経っても駄目なトレーナーはいる。おやとするポケモンが不憫でならない。時折居るよ。たとえば、自分のポケモンに怪我を負わされて激昂し摘み出す奴。出来の悪いポケモンだってね。そりゃあね、ポケモンにも頭の良い奴悪い奴はいる。だけど責任を片方にだけ押し付けて自分を顧みないのは都合が良すぎる。言葉が通じないから誤解しやすいけどね、相手をよく見ていない証拠さね。真摯にしていれば、なんとなく相手の考えることはわかる」  綺麗に平らげたエーフィを見やり、ザナトアは柔和な笑みを浮かべた。その横で 「あたしは事情を知らないけれど、あんたたちが聡いことは分かる。一目見て分かったよ、よく育てられている。……これは勝手な予想だけど、この子、本当はあんたたちのおやではないだろう」  見通しているような鋭さに、ブラッキーの目が丸くなる。  いつのまにか皆ザナトアに注目している。ザナトアがそれぞれに視線を配れば、アメモースの目が揺れた。  この子達は恐らく人間に沢山触れてきたのだろう、とザナトアは思う。触れてきたとは話しかけられてきたということだ。肌を知り、言葉を聞き、感情の機微に触れ、影響を受けている。  目を閉じ、手に取っていた本を戻した。なだらかに終わっていく黄昏を彩る音楽も結末を迎えようとしている。 「あんたたち、このトレーナーのことが好きかい」  ビブラートのかかったヴァイオリンの長い、長い、糸のようなか細い音が、少しずつ収束していく。その末端が消えるか消えないか、あやふやなほどの余韻もまだ響いているような静寂が辺りを満たす。  暫くして、そうかい、とそれだけ声がする。  窓の外では、鮮やかな夕焼けは息を潜め深い藍と混ざる。沈黙する夜の帳が下りようとしていた。
 栗色の薄眼が覗き、最初はぼやけた視界が時間をおいて慣れぬ天井を映す。すぐには理解しようがなかった。頭に痛みが疼いているが、我慢できない程ではない。  気怠く起き上がり、徐に部屋を見渡す。傍には小さなダイニングテーブル、その上に置かれた読みかけの古めかしい本とモンスターボール。更に視線を奥に動かせば、半分ほどが物で埋まったテーブルに台所が見える。そして壁を覆ういくつもの本棚が目を引く。どれも一切の隙間が無く詰められている。ちらかっているわけではないが、どこか雑然としている生活感のある部屋だった。当然、彼女には見覚えの無い内装である。  ソファの足下で、ブラッキーが眠っている。エーフィやアメモースは居ない。他にも姿は無い。壁掛け時計を見れば、正午を過ぎたところ。彼女から向かって右側の窓からは目映い陽光が差し込む。白い光だけが部屋の輪郭を確かにする。真昼のさなかだった。  靴を履き、獣を起こさないように慎重に立ち上がる。普段なら物音に敏感だが、疲労が溜まっているのか、まるで目を覚ます気配が無かった。  リビングルームから、直���外へと出られる扉が部屋の隅に設けられている。頭の高さほどのところに小さな硝子張りの窓が取り付けられていて、そこから覗き込めば、手前側に、高く積みあがった籠やブラシなどが棚に並べられている。その奥には、広大な草原が広がっていた。  引き寄せられるようにドアノブを回せばすんなりと扉は開く。爽やかな青空を示す風が肌を撫でる。  草の重なる音と香りに包まれる。それは自然のざわめきだ。  芝生を踏みしめ、日向へと歩を進める。穏やかな日光は真夏ほど強くはない。近くで音がしたので顔を上げれば、民家の隣から並ぶ木々でポッポが羽を休めていて、木陰の中からラーナーを見つめていた。  俄には信じ難いが、薄い記憶を頼りにすればここがどこなのかを彼女は察しつつあった。  だとすればどこかにこの家の主がいるだろう。  背後を振り返れば、見覚えのある背の高い建物が民家の隣にある。出窓からムックルが二匹飛び出していく。  引き寄せられるようにラーナーは歩みを進め、民家の裏手に回る。壁に沿って歩いていけば、すぐに隣の小屋の入り口に辿り着いた。巨大な円柱のような石造りの建物は、物々しい雰囲気で立ちはだかっている。  淡々と木の扉を後ろ手に叩く。待てども返事は来ない。  慎重に扉を押せば、立て付けが悪いのか、軋むのみだった。試しに引いてみてもびくともしない。もう一度押せば、僅かに動き、鍵がかかっているわけではない様子だった。体重をかけると少しずつ扉が床を引きずり、ようやく開けたと同時に悲鳴のような音が辺りに響いた。  円柱の壁に沿うような円を描く緩やかな螺旋階段。一階は、均一な棚がこれも円形に合わせて設けられているが、何も置かれていなかった。ゆっくりと歩み寄ると埃が溜まっていると分かり、指で掬えば指先が白く濁った。まさにもぬけの殻である。元々何に使われていたかは判断が付かない。螺旋階段は長く、天井は少々高い。棚の上は均等に窓が並べられ、陽の入る明るい部屋造りとなっていた。 「上がってきな」  ぼうっと天井を仰いでいたところに、唐突に声をかけられてラーナーの口元は引き締まった。声は上からした。嗄れた声には心当たりがある。  石造りの階段は一段一段は低く、安定感がある。内側の手すりに手をかけ、踏みしめるように上がっていく。  二階に上がる。外へと大きく開け放たれた窓は、外から見るよりも大きく見えた。  一階部分と違って、そこは賑やいでいた。  壁際に設けられた棚は一階よりも高さがあり、ふかふかの芝に横たわるヤヤコマやピジョンなどの姿が見える。天井にはいくつもの止まり木が直径を描くように重なり、鳥ポケモン達が身を寄せ合うようにして留まっている。独特の獣の臭いが一階よりも充満していて、騒がしい羽音が空気を震わせている。  鳥ポケモンに目を奪われていたラーナーの目前に、紫の獣が飛び込んできて、漸く我に返ったようだ。明るい鳴き声が、不思議と懐かしい。 「エーフィ」  歓迎されたラーナーは名を呼び、エーフィは二又の尾を忙しなく揺らした。 「起きたんだね」  続けざまにかけられた声に、ラーナーはエーフィを撫でる手を止めて視線を上げる。窓際に置いた椅子に座って、ザナトアはラーナーを正面から見据える。  緊張しないはずがない。彼女の記憶では、叱咤と直接地続きになっている。 「まずはポケモン達に感謝するんだね。その子達があんたをうちに連れてきた」  ラーナーは視線を落とす。 「……ありがとう」  素直��零すと、なんでもないとでも言いたげに、エーフィは涼やかな顔で無垢に笑った。 「ありがとうございます」  再びザナトアを見て述べたが、ザナトアは何も言わなかった。窓の淵に降り立ったポッポを撫で、立ち上がる。 「おいき」  突き放すような声音ではない。ポッポは暫しザナトアを見つめる。そこに、ポッポよりも一回り大きな朱色の鳥ポケモンが天井から飛んできて、小鳥の隣に着地する。 「ヒノヤコマ」ザナトアは微笑む。「見ていてあげられるかい」  指名を受けたポケモン、ヒノヤコマは凛とした顔つきで深く頷き、励ますような声をあげた。つられるように、他の小型の鳥ポケモン達が、何匹か降りてきて、窓から羽ばたいていった。ポッポが、引かれるように翼を広げた。不思議と、身体が大きくなったように見える。窓枠を蹴り上げた。そこからはあっという間だった。すぐにヒノヤコマが追随し、空を併走していった。  一部始終を見届けたラーナーは、空をじっと眺望した。 「あのポッポは二週間程前、身体に怪我を負った。近くで倒れていたのをうちの子が見つけた」  静かに語り始めたザナトアもまた空を見つめていた。彼女の目は、小さくなりゆく羽ばたきのみを追う。 「幸い軽傷だったから、自然治癒でまた飛べるようになった。ただ、気の小さい子で、群を外れたことで余計に怖くなったんだろうね。元々まだ幼い。今はまだああして誰かがついていてあげないと。いずれ一匹で飛び出せるようになれば、野生に戻れるかもしれない。ただ、群に戻れるかはやはりわからない。野生に放っても、数日後には無惨な姿で見つかったなんて、珍しい話じゃない」  ラーナーは、老婆に歩み寄る。彼女は再び椅子に座り、隣にやってきたラーナーを仰いだ。 「ここは、そういう、野生からこぼれた子たちの居場所さね」 「……飛べなくなって?」 「そうとは限らない。なんらかの原因で群から追い出された子、親から捨てられた子、あるいはトレーナーから捨てられて、野生に馴染めなかった子。それを再び野生に帰してあげる、あるいは最期まで面倒を見るのが、今のあたしの仕事」  いや、とザナトアは続ける。 「趣味みたいなものかね」 「育て屋は、本当にもうやめたんですね」 「そう言ったろう。とっくに引退した。確かに勘違いしてやってくるトレーナーは未だに他にもいる」  ザナトアはラーナーの表情を観察するが、少しも曇らなかった。何も無いようにも見えた。 「アメモースは、何故翅を」  ラーナーは暫し黙りこんだ。  辺りをちらつく鳴き声に耳を澄ませた。ここにアメモースはいない。ボールで休んでいるのだろう。ラーナーの言葉が当事者に届くことはない。  薄い唇の隙間から、溜め込んだ息が逃げ出していく。 「噛み千切られたんです」淡々と、簡潔にラーナーは言い放った。「激しいバトルの最中に。止められなかった」 「バトル?」 「はい」ラーナーの声音は、変わらなかった。「相手はすぐに逃げていったけれど、こちらもそれどころじゃありませんでしたから。命は幸い助かりましたけど、アメモースは飛べなくなった」 「……確かに、野良バトルでは、そういう事故はあるがね」 「アメモースをもう一度飛ばせるために、ここに来ました。羽を失ったクロバットをもう一度飛ばせたという、ザナトアさんの噂を聞いて」  沈黙に乗り、ラーナーは話を続けた。 「もし、失われたものが戻るのなら、何だってしようと思っていたんです」 「過去形かい」 「今は、よくわからないです」  自棄ともとれる言動だった。それを最後にラーナーは何も言わなくなった。  もう既に視界に飛び立ったポッポ達の姿は見えない。  失敗をすれば二度目を恐れる。立ち直るのに時間を要する場合もある。あのポッポはしかし羽ばたいていった。仲間に付き添われながら、ゆっくりと前を向いている。元の世界に戻っていくために。 「あんたは、アメモースのことをちゃんと見てあげた方がいい」  ザナトアの言葉に、ラーナーの視線が横に流れた。 「トレーナーのひとりよがりだけでは失敗する。まずすべきは、衰弱したあの子を回復させることだ。違うかい」 「……はい」 「そうしてから、あのアメモースが本当に飛びたがっているのか、飛ばせるべきなのかそうでないのか、話し合うんだ。もう一度飛ばせるとは、そう簡単にできることでない」  諦めた方が楽な場合もある、と老婆は言う。 「トレーナーが言うのは簡単さね。何故ならその苦難を味わうことは決して無いから。それでも飛べというのなら、必ず支え続けてやらなければならない。勿論、アメモースの意志が前提になる」  皺の寄った瞼が上向き、部屋で休む鳥ポケモン達を見渡す。  ここには、少なからず飛行を手放した鳥ポケモンが住んでいる。羽を傷つけた者、病んだ者、心に痛みを抱えた者、生まれつき出来ない者。誰もが当たり前に出来ることを、当たり前に出来ない者は存在する。迷い子のように世を足掻き、巡り巡ってここへ寄せられてきたポケモン達だ。 「飛べない鳥ポケモンは手が掛かる。翅を失ったのが事故だとしても、その生涯を背負う責任がおやにはある。それがトレーナーだとあたしは思っている」  ザナトアはラーナーを見る。 「残念だが、育て屋に押し付けて消える輩はいる。あたしには、あんたがその責任を背負っているようにも、飛ばせる覚悟があるようにも見えなかった。だからあの時追い払った」  槍のような言葉を、敢えて彼女は使う。返ってくるのは淡泊な目線ばかりだった。  まるで池に石を投げ入れるばかりのようだった。水面に波紋は広がるけれど、やがて何事も無かったように凪いで元の静けさへと還る。いや、波が立つならまだ実感がある。何も届いていないような予感も過ぎった。栗色の瞳は深みを湛えてザナトアを見つめている。ここにいるのにどこにもいないような、無色透明の気配を纏っている。  それが益々ザナトアの神経を静かに逆撫でた。 「投げやりにするならすぐに出ていきな。年齢は関係無い、責任感の無いトレーナーの頼みを聞くほど暇じゃない」  用意された導線。火がつけば瞬く間に爆ぜるだろう。  エーフィは固唾を呑んで主人を見上げた。緊張を汲み取っているのか、心なしか、周囲の鳥ポケモン達もラーナーの返事を待っているかのように静まっていた。  白い指が右手首に巻かれたブレスレットを撫で、光が当てられれば星のように煌めく石の輝きを遮るようにそのまま掌で包み込んでしまう。 「少し、時間をください」  時間をかけて導きだした返答に、ザナトアは目を細める。 「それはなんの時間だ」 「アメモースが回復するだけの、時間。それと考えたいんです。これからどうしていくべきなのか。ポケモン達のことも、全くわからなくなってしまったから」  だから、と続けて、ラーナーは身体ごとザナトアに向けた。 「アメモースが回復するまで、ここに置かせてくれませんか。お手伝いはします。ザナトアさんとここのポケモン達の関係を、もう少し見ていたいんです」  ザナトアはまっすぐに向けられた視線を受け止めた。  これはまた。ザナトアは驚いたような納得したような心地に浸った。覚悟があるかと問うて、これでは覚悟は無いと宣言したようなものだ。いっそ清々しさすらある。存外図太い性格をしているじゃないか。堪えきれずに苦笑した。 「呆れた。随分大きな迷子が来たもんだ」 < index >
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mashiroyami · 5 years
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Page 106 : 壁の外
 鈍い予兆はありながらも、裏表、白黒ひっくり返るように、不意に意識を手放した彼女にその直前からの記憶は一切無い。意識を手放したという実感も無かった。どのように倒れ込んだのかも、どれほどの時間そうしていたかも。冷たい秋風が肌を撫でる。絵に描いたような穏やかな昼下がりの光景では、何もかもが知らん顔をして、小さな旅人を気に留めなかった。  ただ三匹、孤独な旅路で傍に寄り添っている従者を除いては。  太陽と月に見初められた二匹の獣は、自力でモンスターボールから出る術を心得ている。黒の団との邂逅で破壊された古い物から真新しい物へ住処を変えても彼等の前では意味を成さない。  意志を失った腕から滑り落ち、道路へと転がったアメモースがぽつんと鳴く。呼びかけるように何度か心許ない声をあげるけれど、乱れた髪の被さった顔は、半分地面に伏せ、もう半分、血の気の無いその顔は、まるで反応しない。アメモースは頭と胴体を道に擦り付けるように前へ進もうとするが、三枚の翅は地を這うためには発達していない。その場でもがいているばかりだった。しかし、ふっと身体が急に軽くなる。息が止まる。浮かび上がったのだ。それは、進化して以来彼が当たり前に享受してきた感覚とは異なる。決して自力のものではない。しかし彼はどこか切実に懐かしい、胸の奥が焦がされるような驚きを覚えた。  若い主人の隣に降り立ったエーフィが涼やかな表情で発動したサイコキネシスでアメモースを傍に寄せると、すっかり青白くなった顔を覗き込んだ。意識を失うと、恐ろしいほど強ばっていた表情が弛緩している。苦しみも痛みも切り離している。皮肉なことにこの方が余程年相応の無垢な顔つきだった。試しに砂で汚れた頬を舐めてみるが、少しも動かない。  心細い鳴き声がエーフィの喉から漏れる。  遅れて、黒き三匹目が閃光に包まれて姿を現す。  誰もが、不安な顔つきで彼女を見下ろした。皆、彼女を本来のおやとしない。思いがけぬ離別を経験してきたポケモン達だった。  今度は、と。  三匹でそれぞれどのような想像が脳裏を過ぎったかは定かではない。しかし、彼女が彼等に対し無力であるのと同様に、彼等もまた彼女に対して無力であった。  このような事態に陥るのは初めてではない。まさにキリで殺意のある電撃に襲われ一度、そしてキリから首都にかけた道中でまた一度、そして首都にて屋上から飛び降りた、わらっていた、思い出すのもおぞましい一度。今までと明らかに異なるのは、この場に人間が居ないという点だ。溜息をついて、戸惑いながらも肩を貸した少年はもうどこにも居ない。  周囲を見回してもだだ広い小麦畑があるだけで、古い民家がぽつんぽつんと点在しているだけ。道路のすぐ近くにいる分、道を誰かが通りさえすれば気付かれるだろうが、気配は無かった。  居ても立ってもいられなかったのか、エーフィは階段を登ろうとし、すかさずアメモースが制するように声をあげる。最も間近で一連の流れを見た彼は、現在最有力の助け船が彼女に手を差し伸べる光景を想像できなかったのか、迷いが無かった。  苦渋の表情を浮かべ、エーフィは渋々踵を返し主人のもとに戻る。  倦ね果てたように、三匹はラーナーを囲む。  彼女の周りに薄い膜が張られている。壁に等しい膜。透明で、傷だらけで、目には見えないけれど、すっかり心を閉ざしてしまった証。より明確となった境界線。内部に踏み入れることを決して許さない。踏み入れるのも戸惑われるほどの拒絶だった。それは分け隔てなく、ポケモン達にすら向けられている。  それでも、知っている。深い悲傷に呑まれて壊れかけても、或いは既に壊れてしまっていたとしても、剣難な旅路をたゆまず歩もうとしたことを、傍らに添い続けてきた彼等は知っている。  いつか気付いてくれるだろうか。  いつかまた振り返り笑ってくれるだろうか。  たとえ本当のおやでなくとも、ラーナーこそ、今の彼等の居場所だった。  エーフィは、彼女の身体に自らの身体を寄せる。温めるように懐に身を入れると、瞼を閉じた。  倣うように、ブラッキーは背中に回り、ぴたりと体毛を当てる。  労りに満ちた光景を、アメモースは少し距離を置いて見つめていた。  彼女は一向に目を覚まさない。  風が凪ぎ、西日が強くなり、影が伸び、ブラッキーの光の輪がぼんやりと発光し始め丘が薄いオレンジ色に染まっても、変わらずに。  進行も後退もせぬ時間を過ごしているうちに、アメモースは安息の眠りについていた。他の二匹も、うたた寝に転じようとしていた頃、徐に沈黙は裂かれた。  囚われた籠に手を伸ばしたように、丘の上からやってくる。実を言うと、あちらはずっと上から様子を窺っていたのだ。階段の上と下では随分長い距離が間にあり、ラーナーにばかり気を取られていた従者達は、上の方でささやかに、しかし浮き足立ったポケモン達には一切気付いていなかった。  階段をどたどたと忙しない足取りで小さな存在が降りてくる。紺色と朱色の、細かな鱗で覆われた獣は、一直線に迷いなく彼等のもとへやってくる。  突然の訪問者に、エーフィとブラッキーは咄嗟に立ち上がる。研ぎ澄まされた警戒心の強さは折り紙付きだ。鋭い視線を投げてよこすと、威嚇された小柄な獣はぎょっと身を振るわせ立ち止まった。ついでにやや遅れ、アメモースも何事かと目を覚まして辺りを見回す。  姿を現したのは、幼いドラゴンのようなポケモンだった。  緊張の種を蒔いた小さなドラゴンポケモンは、あどけない顔つきで毒気が無い。闘争本能とでも呼ぶような殺気立った気配は一切合切削ぎ落とされ、豊かな田舎風景に馴染む雰囲気である。それを嗅ぎ取れないほど、エーフィとブラッキーは鈍感ではなかった。とりわけ機微に聡いエーフィは無意識のうちに早々に力を抜いた。何故かと問われれば答えに戸惑うが、憎めない、ぽんやりとした気配を纏っている。有り体に言えば、ゆるかった。それが、一目で解ってしまうようなゆるさなのだ。  やがて、夕焼けの中をまた別の生物がゆったりと飛んでくる。夕陽よりも濃い朱色の体毛が印象的な鳥ポケモンは、ドラゴンポケモンより少し大きい体格だった。後を追う小鳥ポケモン達も野次馬のようにその場にやってくる。ポッポやチルット、ムックルにマメパトとその種類は多岐に渡り、瞬く間に階段下は賑やかになった。  何が起こっているのか理解できない一同は、間の抜けた展開に気圧されながら、ただ一つ主人の元からは離れまいと足下を確かにした。  小さなドラゴンポケモンがそろりと前に出て、階段を大きく逸れて草原を踏み、遠回りするようにラーナー達の周囲をなぞる。抜き足差し足忍び足、と、道路側に回る、その動きに合わせて一同の首が回り、目で追う。注目を浴びるドラゴンポケモンは、ラーナーの顔が見える場所に立つ。それから相手はラーナーに興味を示しているのか、一歩近づこうとしたので、とりわけ警戒心の強いブラッキーが厳しい視線と低い声音で相手を射抜いた。ドラゴンとしての威厳に欠けたその獣は、びくりと足を止め、冷や汗を垂らした。  直後、ぎゃあぎゃあと鳥ポケモン達が騒ぎ出した。今度はエーフィ達がぎょっと目を丸くする番である。  すぐにドラゴンポケモンが地団駄を踏みながらその野次に負けぬ叫びをあげると、高揚した喧噪が水をかけたように冷めるが、消しきれない残像の如き騒々しさが満ちる。沈黙に溶かすように、燃える炎のような羽毛の鳥ポケモンが呆れた声を零した。  意を決したようにドラゴンは一歩、また一歩と近付く。三匹はその様子を固唾を呑んで見守る。そろり、と鞠のような身体を傾け、黒く大きな瞳がラーナーの疲弊した顔を覗く。ぽやんと僅かに開いた大きな口内には、生え揃った牙が整然と並んでいる。体つきは幼いが、牙は立派なものだ。一噛みすれば只では済まず、いとも容易く骨を砕き肉を引きちぎるだけの迫力がある。が、じっと見つめる瞳に悪意は無く、存在するのは穢れを知らぬ無垢な興味に近い。  沈黙に耐えかねたのか、エーフィが鳴く。尋ねるような声音だ。対するドラゴンが返事をする。いくつかの会話がその場になされていくほど、彼等を纏う空気ははより一層温もっていく。  ぎゃ、とドラゴンポケモンが深く、全身で肯いた。  ぱっと表情を華やがせたエーフィは、希望を詰め込んだ笑顔でブラッキーを振り返った。やや不安を拭いきれないのか煮え切らない表情のブラッキーは、アメモースに赤い視線を流す。アメモースは状況を掴み切れていないのか、小首を傾げ瞳を瞬かせた。  事の顛末を見守り、やれやれと、俄にざわつく鳥ポケモン達の中でもリーダー格であろう朱い鳥を筆頭に、ポッポ達は羽ばたき、丘の上へと向かっていく。黄昏時に小さな影が群を成す。ドラゴンポケモンは階段を上がり、ぴょんぴょんと飛び跳ねて明るい声をあげながら彼等を促した。道案内をしようとしているのだろう。  エーフィは紫紺の瞳を輝かせ、念力を発動する。朧気な赤い光に包まれたラーナーとアメモースが同時に浮かび上がり、階段を登る。ドラゴンポケモンは超常現象に驚いたようだったが、エーフィが彼等をつれてこようとしているのだと察し、階段を先に登りだした。エーフィはブラッキーに声をかけ、一足先に道を行く。こうなれば流されるままに流される他無い。深い溜息をついて黒獣は後を追った。  静かな旅は繋ぎ留められていく。  長い石段を軽快な足取りで駆け登っていくポケモン達の小さな行列。夕空は光に当たる粒のような彼等を覗き込んだ。陸では穏やかな風を切り、たおやかな黄金を背に走っていく。空からは鳥ポケモン達が見守り丘の向こうへと吸い込まれていく。先導する陽気なドラゴンは時折振り返りつつ、まっすぐ女主人の家へと向かう。  丘を登りきると、ドラゴンポケモンは放牧帯を囲う柵の下を匍匐前進で潜り抜け、民家の裏へと回る。  遅れて民家の前へ来たエーフィは、念力をゆっくりと解いてラーナーとアメモースをその場に下ろした。ブラッキーと並び暫く待っていると、深い静寂のおかげで家の中の騒がしいドラゴンポケモンの声が外に漏れ出ているのがはっきりと聞こえてきた。  やがて、玄関扉が開く。  ザナトアは気絶しているラーナーとその三匹のポケモン達を見やり、一瞬驚愕の表情を浮かべ、すぐに今度は呆れた息をついた。 「面倒なことを」  苦い顔のザナトアとは裏腹に、その足下からドラゴンポケモンが顔を出し、あどけない溌溂とした表情でエーフィ達に声をかけた。こんな大きな捨て子はいらないよ、とザナトアは毒づきながらも、扉を大きく開いた。 「フカマル、中に連れてきな。その子も一緒だ」 < index >
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mashiroyami · 5 years
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Page 105 : 孤独な旅路の終着点
 嘗て。エクトルの話を借りれば、今から二十数年前に羽の折れたクロバットを再び飛ばせたというザナトア・ブラウンという女性は、ポケモンの育て屋を営んでいたという。過去系であるのは、今彼女がどうしているかをエクトルは知り得ないからだった。首都にて受け取った情報はほんのかけらほどのものであり、ラーナーは彼女と面会する前にいくつか前情報を得た。  一つは、老齢であること。  一つは、気の強い性格であること。  また一つは前述した育て屋の女店主であったということ。文化と称しても過言では無いほどとりわけ鳥ポケモンとの関わりが根強いこの町だが、種族の偏り無く受け入れていたという。 「どの業界も専門性が推奨されるようになって、例えば鳥ポケモンなら鳥ポケモン専門の、炎タイプなら炎タイプの専門のブリーダーやドクターが多く育ちました。トレーナーもある程度幅広いタイプを扱えた方が有利と思いがちですが、特定のタイプを追求して登り詰める方もいらっしゃいますので一概には言えませんね。相性は自然の摂理ですから覆しようがありませんが、その不利をいかにひっくり返すかは腕が問われるので、研究しがいがあると仰る方もおられるようで」  以前乗った車よりも随分小柄で小回りの利く自家用車を運転しながらエクトルは意外にも饒舌に語る。助手席に座るラーナーは、清潔な香りのする車内に緊張しながら耳を傾ける。ラジオも音楽も流れていない車内だが、エクトルの淡々とした声には具合が良かった。が、途中で不意に言葉を止め、小さく咳払いをした。 「話が逸れましたね」  とエクトルは話題を戻す。 「あの方はどんなポケモンでも受け入れますがその分ご苦労もなさっていました。とはいえ、キリに住んでいる分鳥ポケモンに強いのは当然です。クロバットもそう」  右に緩く曲がるカーブを抜けて、トンネルに入る。一気に暗くなり、点々と等間隔で灯る電灯が道標となる。 「飛べなくなった鳥ポケモンは多くの場合が事故によるものなのでその場で死ぬことも珍しくありませんが、生き延びてもその後が容易くないのは解るでしょう。そうした鳥ポケモンも進んで引き取っていました」エクトルは長い息をつく。「そういう、なんでも受け入れてしまうところを利用したトレーナーもいましたが。残念ながら、看取りもせずに預けたまま放置した例も数知れなかったそうなので」  ラーナーは唇を薄く噛む。  トンネルを抜け、太陽光がさっと視界を白く灼いて目を細めた。キリの中心地からは離れ、湖からも距離がある。人気も無く、車窓からの景色は春に蒔いて育ったのであろう小麦畑が広がっている。成熟しつつあり重たくなった実をもたげて、褪せた黄金の波が風にゆったりと揺れている。窓を開けていると、穀物の香りを含んだ風で肺を満たしたくなるような開放感があった。  ザナトア・ブラウンは長い田園風景の向こう側に住居を構えているという。少し不便な場所ですね、とラーナーが言うと、そうですね、とエクトルは溜息混じりに返した。もう齢七十を過ぎているはず、と先程話をしたばかりだった。 「もっと利便の良いところに住んでもいいようにも思いますがね」  ラーナーはエクトルの横顔を見やる。変わらない表情だったが、吐き出される言葉には、ザナトアへの労りが含まれているように思われた。彼とザナトアなる人物の関係性は未だ不透明だが、声の裏には慈愛が染み込んでいるような気がしてならなかった。  本当は優しい人なんですよ、と以前彼について評した彼女の穏やかな横顔を思い返す。とりわけ主君には厳しい皮肉を浴びせ続け、冷たい印象を持たせる言葉を使っていたエクトル。不器用な人間なのだろう。言葉が不必要に尖ってしまう類の。清閑な顔つきを、ラーナーはしみじみと見つめた。  会話が途切れたまま、小高くなった丘の手前で停車する。ラーナーのみ外に出て、開いた窓を隔ててエクトルと顔を突き合わせる。 「本当に会っていかれないんですか」  ラーナーが念を押すように尋ねると、エクトルはすぐに肯いた。 「電話越しで充分です。貴方はアメモースのことだけを考えてください」 「……はい」意志の堅さにラーナーは静かに折れた。「送ってくださって、ありがとうございました」  簡単な別れの言葉を交わすと、車は再び動き出す。以前乗せられた車よりも幾分小回りの利く車体は、その場で滑らかにUターンすると、背を向けてラーナーから離れていった。距離が伸びる程に、不安が増幅していき締め付けてくるのを感じた。  殆ど障害物の無い平地を走る車が随分と遠くまで行ったところで、ラーナーは丘を振り返る。斜面に沿って緩やかな階段が用意されているが、首をかなりの角度まで上げてようやく上が見えるような、長い石段だった。ラーナーでも思わず辟易する程なのに、高齢の主人ともなれば外に出るだけでも大変では無いだろうかと、会ったこともない人物を案じた。  意を決して階段を上がり始める。長い旅路で歩き慣れているラーナーではあったが、終わりの遠い段差の連続には蓄積した疲労が響く。疲労だけではなく、まともな食事をとれず空腹が続いていることも確実に身体を傷つけていた。中腹で既に足を止めたくなるような息切れに見舞われる。それでも引力に寄せられるように、太股から足下にかけて鈍い痛みがまとわりついてくるのを堪えながら、漸く頂点に辿り着くと、広い放牧地帯に目を奪われた。  ラーナーの胸の高さほどまである柵が稜線に沿って並んでおり、広大な土地を囲っている。からりとした秋の快晴の下では空気が澄んでいて、遙か遠景の山の連なりまではっきりと分かった。高い秋の空と、彩度を抑えた緑の景色が視界いっぱいに広がり、長い階段の先で開けた景色に暫しラーナーは見惚れてしまう。  足下に視線を移せば、階段の傍から、罅割れの目立つ煉瓦道が草原の中に埋もれている。十メートル程の隔たりの先で、石造りの古い一軒家が建っていた。その建物は一階建てで低い屋根をしているが、その奥にもいくつか建物が連なっていた。その中の一軒の、二階の窓から、ポッポが顔を覗かせて来訪者を不思議そうに見つめている。  風の音ばかりが鳴っている中、呼吸を整え、胸に静かな高鳴りを潜ませて芝生に埋もれた道を歩く。建物にはすぐに着き、茶褐色の扉の前に立つ。見回せば、扉の傍に鈴がかけてある。文字通り呼び鈴だろう。意を決して鈴から垂れ下がった糸を揺らすと、その小ささからは予想だにしない大きな音が響いて、胸の奥が縮んだ。  唐突な鈴の音の影響で、辺りが静まりかえったような錯覚に襲われた。  返事も物音も無い。留守だろうか。  一分経ったか経たないかという頃合いに、再度鳴らそうかと手を伸ばしたところで、突然錠の開く音がした。  背筋を正し、開かれた扉の隙間を見下ろす。見下ろしたのは、相手がラーナーよりも頭一つ分ほど背が低いからだ。  腰の少し曲がった老婆は真っ白な髪を短く切り揃え、首にはペンダントのように老眼鏡を提げている。皺の中に埋まったような細い瞳を更に細くして、ラーナーを凝視する。鋭い視線の的になったラーナーは萎縮しながら挨拶をすると、老婆は軽く鼻を鳴らした。 「あんたがあいつの言ってたアメモースのトレーナーかい?」  きびきびとした第一声で、ラーナーの肌はひりついた。  あいつとエクトルが等号で繋がると気付くのには僅かに時間を要した。厳密に言えばアメモースのおやトレーナーではないのだが、細かな諸事情はこの際必要無く、ラーナーはおずおずと肯いた。  独居だという話であり、名乗るまでもなく、ザナトア・ブラウンその人だろうと察しがついた。  この人が、とラーナーは思う。  この老婆を求めて、たった一人、首都を出て旅を続けてきたのだ。 「あの」 「もうこの仕事は辞めたって話は知ってんだろ。あんた、いい度胸してるね」  隠されることもない声の棘が痛く、ラーナーは二の句を継ぐことができない。嫌悪感を露わにした老婆は溜息を吐き、後ろ手に扉を閉める。 「で。あの坊やは来ていないのか」 「坊や?」 「あいつだよ。エクトルさ」  そういえば、幼少期に世話になったのだと話をしていた。ラーナーからしてみればエクトルは立派な大人だが、そのエクトルを簡単に坊や呼ばわりしてみせるザナトアに面食らう。 「来てません」 「は。礼儀の一つくらい覚えたはずだろうに。仕方が無いね」  吐き捨てると、腰に手を当ててラーナーを強烈な視線で見つめる。 「本来なら門前払いさね。だけど、あいつに免じて話は聞いてやる」 「ありがとう、ございます」  圧倒されながら辛うじて礼を述べるが、老婆は腕を組んでまるで気を許す隙を与えなかった。単純なやりにくさに戸惑いながら、急かされるようにラーナーはアメモースの入ったボールを取り出した。  腕を丸め、胸に向かってボールを開く。腕の中に閃光が照射され、質量が瞬時にもたれかかってくる。自慢の触角を垂らして草臥れた様子のアメモースが姿を現し、ザナトアの乾いた眉間に更に細かな皺が刻まれた。 「この、翅が一枚欠けてしまって」 「そんなことは見れば分かる。随分衰弱してるじゃないか」  皺だらけの手がアメモースに伸び、素早いが程良い強さで身体のあちこちを触れる。 「熱は無いね」  窪んだような黒い目を開かせ、首から下がった老眼鏡をかけると、茶褐色の瞳をじっと凝らす。  腕を下ろし、ラーナーに視線が移る。明らかに不信が満ちていた。 「なんだい、話にならないよ。栄養不足かね。ちゃんと食事をさせてやってるのか。こんな状態まで放っておくとは何事だい」  向けられたのが矛先だとすぐに理解し、ラーナーの白い顔色が更に青褪めた。波風を立たせたくはないが、狼狽える様子は余計に相手の神経を逆撫でする。 「すいません……」 「なんで謝るんだ。そうじゃない。ここまで弱らせた理由を聞いているのさ。飛べなくなったポケモンは確かに総じて弱るけどね、トレーナーがいるとなれば話は別さね」 「それは」  ラーナーは続けようとしたが、言葉が出てこなかった。  飛べなくなったアメモース、拒絶を示すアメモース。食事を喉に通そうとせず、焦りを感じなかったわけではなかったが、強制はできなかった。どうしたらいいのか解らなかった。以前足を痛め一時は入院という大事にまで発展しそうになった火馬に対して少年が何をしていたのか、う���く思い出せなかった。  痛み、翅の喪失、主人との離別、ラーナーのトレーナーとしての未熟さ、アメモースが病む理由はいくつも思い浮かぶが、説明できる気はしなかった。これまで何度も味わってきた感覚だ。無闇に他人に曝せる内容ではなく、そして真に理解されることもない。  しかし紛れもなく、殺されようとして、死に目を見た。  事故でも、野生同士の争いでもなく、明確な悪意を以て下された暴力だった。彼女は現場を目にしたわけではないが、眼を逸らしたくなるような傷跡が全てを物語ったし、容易に想像が出来る程には血にも暴力にも直面してきた。血生臭い凄惨な出来事を、ラーナーは口にするのをどうしても躊躇った。  思考が混濁して、端から見れば不審だっただろう。ザナトアは鼻を鳴らし、家の中に戻る。  扉の閉められた音で我に返る。見捨てられたのか。取り残されたラーナーは途方に暮れたが、さほど時間を待たずに老婆は戻ってきた。手には掌に収まる大きさの半透明のチューブが握られている。中身の液体は夕陽を薄めたような色をしている。 「栄養剤だ。飲みな」  蓋を開け、アメモースの口元に寄せた。  アメモースは弱った黒い双眸を行き来させる。老婆と、チューブの先端との間を。ザナトアの表情は厳しいものだった。 「飲みなさい。このままだと死ぬよ」  生々しい言葉にラーナーの背筋が冷えた。  ザナトアの迫力に押されたのか、言葉を理解したのか、アメモースはやがて諦めたように先端を啣えた。皺だらけの手がゆっくりとチューブを押し、栄養剤が流し込まれていく。  途中で、堰を切ったように激しく噎せた。不安に駆られたラーナーを横目に、慣れているのだろうザナトアは一度休息を挟むと、同じ行為を繰り返した。  長いようにも短いようにも感じられる奇妙な緊迫した時間だった。ザナトアは根気強く、何度も一呼吸をつかせながら、最後の一滴に至るまでアメモースに飲ませた。その一部始終を、ラーナーは固唾を呑んで見守る他無かった。  空になったチューブを灰色の上着のポケットに突っ込むと、アメモースはすっかり脱力し、ザナトアは長い溜息をついた。 「本来ならここで保護すべきところだ」  アメモースに注力されていた視線が、再びラーナーへと移る。それにはアメモースには向けられていなかった感情が苛烈なまでに存在している。怒りだ。怖じ気付く程の混じりけの無い怒気。 「解っていたかい。この子はこのままにしていたら死んでいたよ。冗談じゃなくてね」  胸の奥が震える。  絶句するラーナーは辛うじて首を横に振るしかなかった。  重苦しい沈黙が軒下に保たれる。八方塞がりで、逃げ場所がどこにも無い。 「忘れた頃に連絡をとってくるくらいだから、どんなものかと思えば」苦々しさを滲ませる。「飛ばせるなんて以ての外だ。こんな状態にさせるトレーナーのポケモンの面倒を見るなんて御免だよ。帰りな」  下された決定に、目の前が暗くなった。懇願する暇を与えるつもりも無いのだろう、ザナトアは玄関扉を開いていた。待って、と多少なりとも呼び止めることはできたろうに、ラーナーはそれをしなかった。正しくは、出来なかった。放心したように動けず、目の前で力強く扉が閉められた音をあっさりと聞き届けた。  潜んでいた風の音と草原の波の音が再び耳に飛び込んできて、長い静寂が訪れたのだと察した。  ほろほろと、硬直した心が瓦解して砂がこぼれていくような感覚がした。  飛べるようになったら。  飛べるようになりさえすれば、うまくいくような気がしていた。疼いている齟齬も、晴れない心も、ポケモン達とのぎこちなさも、まるでとんとん拍子になめらかに解決すると、淡い幻想を抱いていた。  やっぱり、とラーナーは暗い表情で呟いた。  見下ろした先、足下で蟻が真新しい靴を這い上がるのをぼんやりと見つめる。茂った雑草の中に埋もれる煉瓦は濃厚な影の下で罅割れて、少し足に力を入れると亀裂が広がりそうだった。  アメモースのことだけを考えてください。エクトルは別れ際にラーナーにそう短く伝えた。彼はどこまで見抜いていたのだろう。アメモースを一目見た直後、可哀想に、と彼は零し、頑なに難しい顔を崩さなかった。単純に翅が無い点だけを指した言葉ではなかったのかもしれない。彼は何を考えているのか掴み所の無い面がある。ザナトアは初見の一瞬で看破した。今、誰よりも長くアメモースの傍にいるラーナーでも気付かなかったことを。  本当に、気付かなかった?  生臭い問いかけが自らに降りかかる。視界がぼやけ、眩暈を覚えた。崩れ落ちそうになったところを辛うじて踏み留まった、その踏ん張りも判別がつかない。  力無く踵を返す。  それから後のことを、ラーナーはうまく記憶できていない。  ぼんやりとした表情でアメモースを抱いたまま、どうやってあの長い階段を下っていったのか。景色が、空が美しい薄蒼を帯びていたような、雲が細かったような茂っていたような、山の緑が濃かったような薄らいでいたような、眼下に広がる穂の黄金が優しかったような、すべての草一本一本の影が濃厚だったようなささやかだったような、光が淡かったような眩しかったような、全てが曖昧であった。  眼の醒めるような冷えた秋風が髪を大きく揺らした時には、登るのに苦労した長い階段を殆ど下っていた。足を止め、強風に煽られる小麦畑を見た。  アメモースを抱く力が、弱くなる。  殺そうとしていた。  それが意図せぬところでも、いなくなってしまったら、彼女の手から離れたら、そうしたら楽になる。それは確信として胸にあった。それならば、果たして無自覚だと断言できるか。  離したかったんだろう。  違う。  疎ましかったんだろう。  違う。  邪魔だったんだろう。  違う。  己の内側でひしめく、黒く濁るまでに混ざり合った感情では、自問自答のどちらが本心か区別がつかない。  胃の奥が、きりきりと、薄ら痛む。震える息を吐き出すのと同時にゆっくりとしゃがみ、耐えかねたように階段に座り込むと、自然とアメモースをより包み込む形になる。何故だか無性に笑いが込み上げてきた。本当のおやか離してまで、アメモースを再び羽ばたかせるために、助けるためにここまで来たはずなのに、いつのまにかアメモースを殺そうとしていた。こんな自嘲する他無い出来事がどこにあろう。しかし彼女の表情は微動だにせず、伸びた髪の下で影になった無表情のまま、心の中で嗤いながら、しにたいとそよかぜのような囁きを漏らせば、身体は鈍く熱をもった。  ほどなくして、破れたように意識は暗闇に堕ちた。 < index >
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mashiroyami · 5 years
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Page 104 : 不在
 方角を頼りにして近道のために選んだ荒い林の中を潜り抜け、秋の陽に照らされて凪いでいる湖の表面を木々の隙間から見た時、ラーナーの胸に宿ったのは傷に沁みるような懐かしさだった。奥底からこみ上げてきてくると、まるでここが一つの故郷のような錯覚を覚えた。湖畔の町に滞在したのはほんの僅かだったというのに、何故だろう。或いは、安堵を勘違いしているのかもしれない。首都から歩き続けて辿り着くまでの道のりは長かった。はっきりとした目的地が、しかも既に見覚えのある場所であるというのは、真夏から地続きの旅の中で初めての経験だった。それは彼女が想像していたよりも大きな喜びを与えた。自ら決め、歩き出した旅で初めて辿り着��うとして辿り着いた場所。ここで味わったことを忘れたわけではないし、それもまた胸を痛めるけれど、今は達成感が上回った。  ゴールを目前にして、身体の倦怠感や痛みが和らいでいくのが分かり、足取りが自然と軽くなる。  湖の際をなぞる道はコンクリートで固められていて、その道をぼんやりとどこか夢心地のような感覚で辿る。エーフィが軽やかな動きで剥き出しの防波堤に跳び上がり、湖からほど近い境目を悠々とラーナーに合わせて歩き始めた。  風が無い。今日は天候も比較的良く、水面はとても静かだ。遠い向こう岸の小さな町並みも薄らと輪郭を視認できる。湖畔の町と銘打たれたこの町だが、湖畔という意味ではこの湖を囲う全ての町に当てはまるはずだ。それでもこのキリがその名を持つのは、最も繁栄しているからか、或いは、水神とやらの存在によるものか、もっと別の理由か。  けれどラーナーにとってはこの町こそが湖畔の町に値することは間違いない。  時折自動車が横切っていき、静寂を裂いていく。  長い舗装路を辿っていくと、背の低い白壁の家並みに入ってきて、いよいよ嘗て降り立った風景と重なる。昼間の日差しが白を余計に強調するけれど、その目映さは夏の頃とは異なった。町全体が馴染んだような、ぼやけたような、或いは枯れたような気配が漂っている。  しかし、すぐに以前訪れた時とは明らかな違いに気付く。  建物と建物の間、窓と窓を繋ぐように小さく色とりどりの旗がいくつも吊り下がっており、町を彩っていた。ポッポやムックルといった小型の鳥ポケモンがその旗の紐で足を休めては、飛び立って大きく揺らしていく。各住居の玄関口も掌大程のランプが秋の花と共に飾られている。夜になればランプの灯がともって、夜道を温かく柔らかな光が照らすだろう。  まるで祭りが催されているかのようだ。  町の静かな騒がしさを物珍しい目で眺めながら、ラーナーは道すがらに見つけた電話ボックスに入った。黒い公衆電話に小銭を投下し、鞄の中でいつ���間にかくしゃくしゃに潰れてしまっていた一枚の手紙を丁寧に開いた。その中に記された電話番号を、間違えないように慎重に入力する。耳元でコール音が鳴るたびに、緊張で心臓の鼓動が早まっていった。五度目で目を閉じ、耳を傾ける。彼女の記した番号が間違っているとは到底思えなかった。だが、日中なのだ、電話に出られる状況でなくともおかしくはない。  時間をずらしてかけ直すべきか。七度目のコール音まで粘って受話器を置こうと耳から離す直前で、不自然に音が途切れた。  息を詰めて受話器を耳に押しつけた。薄い雑音が微弱に鼓膜を振動させる。電話が繋がっているが、相手からの声は無い。 「もしもし」勇気を出して震えるような弱々しい声を出してみる。「クレアライトです。ラーナー・クレアライトです」  祈るように受話器を握る手に汗が滲む。 「エクトルさんですか」  返答は無い。  寡黙で最低限のことだけ口にするような人物であるとは把握している。とはいえ反応がこうも一切無いと、ミスの無いようダイヤルを押したつもりでも自信が萎んでいく。  向こうで布を擦るような音がした。 『お久しぶりです』  冷ややかな低い声音には聞き覚えがある。威圧感をも与えるだけの不思議な迫力。それだけで、間違いなく本人だと確信し、一気に以前のこの町での記憶が走り抜ける。  安堵と緊張が同時に喉を通り抜けていって、生唾を呑んだ。 『この電話番号は、お嬢様に教わりましたか』 「あ……はい」  刺々しい口調に気圧されながら返答すると、受話器越しに溜息が聞こえてくる。 『解りました。それで、用件は』  感慨に耽る暇も他愛も無い談笑をする隙も無い。ラーナーもそれに乗じた。もう一枚手にしている、首都を出る間際に青年から貰ったメモに視線を落とす。つらつらと整った字体で書かれた手紙とは打って変わり、お世辞にも綺麗とは言えない走り書きの、まさにメモという言葉が当てはまるものだ。 「ザナトア・ブラウンという方を知っていますか」  返ってきたのは長い静寂であった。  僅かな溜息の後、返答が来る。 『存じ上げておりますが』  釣り餌に獲物が引っかかったような感覚に、ラーナーの胸が高鳴った。 「本当ですか」 『ええ、キリではそれなりに有名ですから』 「その人に会いたいんです」 『え』  珍しく狼狽の気配が露呈し、前のめりになりそうになったラーナーも瞬時にそれを察知した。 『……何故ですか』  冷静さを取り戻した声で尋ねられ、一呼吸を置く。 「昔、羽を失くしたクロバットをもう一度飛ばせることができたと聞きました。だから、会いたいんです。アメモースが、一枚翅が折れてしまって、飛べなくなったんです。もう一度飛ばせてあげたいんです」 『アメモース?』  疑うような声音。彼は鋭い人間だ。ラーナーの手持ちがエーフィとブラッキーのみであることを覚えているのなら、多少の違和感を覚えてもおかしくはない。しかし、事情を説明するのに今は時間も覚悟も足りていない。 「また追って説明します。とにかく、できるなら、その人に会わせてほしいんです」 『会うこと自体は、出来なくもないでしょうが』どこか歯切れの悪い口調だった。『承諾されないかと』 「どうして」  受話器を強く握りしめ、耳を澄ませる。  唯一の希望、ただそれだけを求めてここまで来たのだ。そう簡単には手放せない。 『……私も詳しくは存じませんが、羽を失くしたポケモンを再度飛ばせることに成功したのは、そのクロバットだけだったはずです。今、彼女がどうされているかは分かりませんが、恐らくもう手を引いているかと』  ラーナーは思わず足下で二又の尾を揺らしているエーフィに目配せした。  長い電子音が割り込んできた。通話終了が近いと報せる合図だ。ラーナーは片手で小銭を探る。 『ひとまず会って話しませんか。事情があるようですし、私も慎重になりたい用件なので』 「はい」 『今はキリにおられるので?』 「はい。キリの、駅に向かったら分かりやすいですか」 『いえ、以前お嬢様とおられた湖沿いの自然公園があったでしょう。あそこで落ち合いましょう。場所は覚えていますか』  自信があったわけではないが、湖畔に向かえば見つかるだろう。肯定し、すぐに会うとのことで約束をとりつけた。 「時間は大丈夫なんですか」  今更ではあるが、唐突にも関わらず妙にフットワークが軽いのが気にかかった。 『……ええ。以前より自由がきくようになりましたから』  皮肉めいたような言葉だった。  自分の旅の形が変わったように、周囲も変わっているのかもしれない。そんな火花のような予感を嗅ぎ取って、ラーナーは何も言えなくなった。 『それにこの番号にかけてきたら、すぐに駆けつけるよう言われておりましたので』 「……クラリスに?」 『はい。では後ほど』  そこで通話は途切れた。  ゆっくりと受話器を置き、ラーナーは長い息を吐く。  息の苦しくなる電話だった。目的も果たせるかどうか、雲行きが怪しい。しかし糸が完全に切れたわけではない。  鞄にメモをしまい、アメモースの入ったボールを見やる。フラネで飛行を試み失敗して以来、アメモースは諦めたように動かなくなった。暴れ回る気配も無く、無気力がそのまま生き物の形を成しているかのように、いつボールから出しても暗い表情を浮かべている。  飛べるようになったら、とラーナーは思う。そうしたら何かがきちんと噛み合って、うまくいくような予感がするのだ。  電話ボックスを出て、湖畔へと足先を向ける。元の道を辿り再び湖を前にし、自然公園に歩みを進めた。  殆ど車道しかない道を進んでいくと、やがて整備された白い歩道へと出る。雄大な湖を眺めながら散歩のできる贅沢な遊歩道帯だ。ここも心なしか人が多い。道に等間隔に備えられた街灯に、町中で見かけた情景と同じように花が添えられている。道に沿って一列に並んだ花壇に、成熟しようとしている稲穂のような植物がお辞儀をして茂っているのも印象的だ。車道と逆側に目線を移せば、ポッポが点々と湖上を飛び回り、水面と空の成す青い景色を眺めている人達が並んでいる。時間の流れ方が少しだけ遅れているような長閑な雰囲気が町全体をくるんでいる。  遊歩道の先に見覚えのある広大な芝生が一面に広がる自然公園へと辿り着いた。  のんびりと浮き足立った町の中で、周囲を見張るような目つきのネイティオを隣に据え、黒スーツを着こなしてだんまりとベンチに座り込み、小型のノートパソコンを打ち込んでいる彼は異質だった。座り込んでいても、体格の良さが背中越しに伝わる。派手ではないが、存在感があるのだ。  あの人はもう居ないのだ。男の背中を遠目に見つけたラーナーは改めて思いを致す。白く塗られた柵に寄りかかって明るい話も暗い話も交わしたあの人は。あの人達は。  ネイティオの首が不自然なほどぐるりと回り、大きな瞳に捉えられたラーナーは硬直する。いち早く感知したネイティオに気が付き、エクトルはパソコンを畳み振り返った。  現れたラーナーとエーフィを確認して、会釈をする。手本のような綺麗な所作だ。 「まさか戻ってこられるとは思っていませんでした」  出会って早々の言葉にしては棘があるようだが、以前と変わらない無表情を浮かべている。私もです、とラーナーは力無く流した。  居場所を迷っていたところに、促され、ラーナーは隣に浅く座る。居心地の悪さに腰から頭まで痺れるようで、背筋を伸ばす。その間にエクトルは鞄にパソコンをしまった。 「お仕事中にごめんなさい」 「いえ、休暇中なので」 「休暇?」  目を丸くしたラーナーは改めてエクトルを観察するが、群青のネクタイを形良く締め、皺も殆ど無いスーツをしんと伸びた姿勢で着て、嘗てキリで出会った時と印象は変わらない。その外見に休暇という弛緩した雰囲気はまるで感じ取られなかった。 「纏まった休みなんて随分取っていないので、結局仕事をしておりますがね」  他にやることもないですし、と付け足した。 「そういうものなんですか」 「さあ。私が欠けているだけです」  欠けている、という自虐の含まれた言葉にラーナーは口を噤む。それから、欠けている、と心の中で反芻した。  ぎこちない空気が流れている脇で、エーフィはネイティオの隣に歩いていき、二匹は目を見合わせる。ネイティオの表情は彫像のように変化が無い一方、エーフィは腰を下ろして尾を揺らし二人の様子を見守る。 「本題に移りましょう。アメモースは今居ますか」 「はい」  ラーナーは膝に鞄を乗せると、アメモースの入った紅白を取り出し、開閉スイッチを押す。閃光と共に同じ地点にアメモースが姿を現す。包帯を巻かれ翅を一枚失ったアメモースは触角を垂らし、やつれた様子で光を失った瞳をエクトルに向けた。  負傷したアメモースを前にエクトルの表情は静かに曇る。 「可哀想に」  口元で呟き、手を組む。 「……確かにあのクロバットは飛べるようになりました。飛べなくなった鳥ポケモンは珍しい話じゃありませんから、それ以来貴方と同じように彼女の腕を求めてキリの内外からトレーナーが訪ねてきました。けれど、結局クロバット以外を飛ばせることはできませんでした」 「それで、今も」 「今のことは分かりませんが、もう随分前から受け入れなくなったはずです」 「そう、なんですか」発する言葉が堅くなる。「あの、クロバットの話っていつのことなんですか」  暫し考え込む横顔に、望郷に似た雰囲気が滲んだ。 「二十……五、六年程前でしょうか。お嬢様が生まれる前ですから」  思わぬ過去の話にラーナーはたじろいだ。当然、彼女も生を受けていない頃のことになる。同時に、平然と語る目の前にいる人物が急に一回りも大きな人間に見えた。 「そんなに前の話だったんですか」 「ええ。なので余計に驚いたということもあります。噂がまだ残っているとは」  一瞥する視線に非難や憐れみの色が滲んでいるような気がして、ラーナーは肩を狭めた。 「自分で調べたわけじゃないんです。知り合いが教えてくれて、それに縋ってきてしまって」 「そうですか」 「でも、アメモースを飛ばせてやりたいのは、本当なんです」  口調に力を込める。  当事者は理解しているのかしていないのか、彼女の膝で黙り込んでいる。弱り切ったその様子を横目で見やり、エクトルは沈黙した。 「正直なところ」苦言を呈するように続ける。「私自身はあまり気が進みませんが」言葉に迷い、選び抜いたものを慎重に発しているような口ぶりだった。「希望を託したくなるトレーナーの気持ちもあるでしょう」  ラーナーが視線を上げると、相変わらずエクトルは難しい顔つきをしていた。 「私は事情がありその方とは会えませんが、話はしておきます。うまくいくかは分かりません。後は貴方次第です」  徒労に終わることも覚悟していたところに、僅かな光が差し込んだようだった。可能性は残されている。芯から広がる安堵に腰が抜けてしまいそうになり、ほっとエーフィに視線を投げると、相手も微笑んでいた。 「ありがとうございます」  声を絞り出すと、エクトルは首を振った。 「大したことではありません」 「いいえ、本当に有り難いです。危うく、何のためにここに来たのか、水の泡になるところだったので」 「頼りにするのは構いませんが、後先は考えた方がいいですよ」  直球な意見にラーナーは面食らい、そうですよね、と弱々しく返した。 「それに安心するにはまだ早いです。私の話を聞いていただけるとも限りません」 「エクトルさんのお知り合い、なんですか?」  彼の眉間が僅かに歪む。 「何故」 「なんとなく、そうなのかなって」  気分を害しただろうかと萎縮したが、次の瞬間には彼の表情は元通りになっていた。 「……昔お世話になっていた時がありました。ですが、もう長らく会っていません」  ネイティオを見やり、指に力を籠めた。 「あちらはもう私の顔なんて見たくはないでしょうし、私も合わせる顔がありませんから」  含みを持たせた言葉が気にかかる。  ザナトアという人物と彼の間に存在しているのであろうただならぬ気配に、これ以上踏み込んではいけない過去を想像させた。 「……なんだか」ラーナーは顔色を窺う。「元気が無いですか」  エクトルは細い漆黒の目を少しだけ丸くして、鼻で笑った。 「失礼。話しすぎると良くないですね」 「何があったんですか」 「特には。お嬢様の元を離れたというだけです」  水流のようにさらりと打ち明けられた事実は、ラーナーに与える衝撃の大きさとしては充分だった。  絶句したラーナーを振り返る男の淡々とした表情からは、感情が見えてこない。 「貴方こそ、以前より弱っていらっしゃるように見受けられます。あの二人の少年はどうされましたか。アメモースも貴方のポケモンではなかったはず。別行動をされているので?」  ラーナーはぐっと喉の奥を引き締める。  痛いところを躊躇無く突いてくるが、当然の事項だろう。出会った時から違和感を抱いていたに違いない。彼女たちを知る誰かからいつか必ずこの質問が来ることなど、とっくに理解している。  エクトルはラーナーを観察するが、彼女の顔色は何一つ変わらなかった。晴れも曇りもなく、寸分も変化の無い表情で口を開く。 「あの二人は今首都にいます��元々、一人で旅をするはずだったんです。漸く本来の形になった、ただそれだけなんです」  呪文のように言い切り、黙り込んだ。そうですか、と呟いたエクトルもそれ以上は追随しなかった。  深く尋ねられるほどお互いに親密な関係でもない。この短期間の変化についてそれぞれで疑問を抱いたまま、しかし干渉しなかった。少なくともラーナーにはそれをするだけの力が残されていなかった。欠けている、エクトルの発した言葉を再び思い返す。欠けたのは彼だけではない。ここにいる誰しもが、きっとどこか欠けている。 < index >
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