Tumgik
ktasakurai · 7 years
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8/7 Luchino Visconti "Rocco e i suoi fratelli"
ネオレアリズモの代表的監督ヴィスコンティの『若者のすべて』を早稲田松竹にて。 60年の作品であるが、同年にヒッチコック『サイコ』、前年にはゴダールの『勝手にしやがれ』という歴史的名作が公開されている。そんな中でこの作品およびイタリアのネオレアリズモを特徴づける「リアリティ」とはなんだろうか。 それぞれの主題についていえば、『サイコ』は明確にミステリー/サスペンスであり、『勝手にしやがれ』は少々微妙ではあるのだが、根本的には映画と観客の間の関係性についての問い直しであるように思える(とりわけゴダールに関しては、ストーリーを追うだけでその意図を把握するのは非常に困難であるといっていいだろう。『勝手にしやがれ』も流れを追うだけでは曖昧な犯罪モノだという印象になってしまう)。一方『若者のすべて』の主題となっているのは家族とそれを取り巻く田舎と都市の対比になっている。作中語られる引っ越しの理由とは、「都会へ出れば状況が何か変わると思った」とのことで、その結果、田舎者のある種の無垢さに起因する問題に直面することになるのである。 ヒッチコックの特色がサスペンスというジャンルのエンターテイメント性の追求、ゴダールは映画論にあるのだとすれば、ヴィスコンティがこの映画で描いたものは身近にある人間模様だということができる。特に作品の中心に添えられた「家族」とは人間が生まれて一番最初に持つことになる他者との関係であり、その不和を通して対置された都市社会のすがたを描き出すのである。 そして映画の中に舞台となる都市ミラノがどのように映っているかというと、とにかく人がたくさん出てくるのだ。近所の人々、ボクシングの観客、仕事仲間などなど…母親ロザリアが周囲からの評判を気にしている一方で、群衆は家族の助けになることはないのである。 終盤三男ロッコから、「家を建てるときに、一番最初に通りかかった人の影に石を投げる」という田舎の風習が語られる。いわゆる地鎮祭に近い習わしで、人の影を生け贄のかわりにするというものだ。そのようにして、田舎では家族以外の人物の影が生け贄を務めることができるのだが、一方都市において生け贄となるのは誰か。冷たい周囲の人々は頼りにならず、家族の中から出すしかないのである。都市社会におけるこのジレンマが作品の核をなしているといっていいだろう。 アンドレ・バザンの「映画とは何か」という本がある(様々な側面から映画の芸術様式としての特色を論じている本で、映画のバイブルといっていいかもしれないくらい。超オススメ)。その中で、ネオレアリズモとアメリカのモダニズム以降の文学作品の近似について書かれている。フォークナーであるとか、スタインベックのジャーナリズム的側面がネオレアリズモ映画にもあるというのである。ジャーナリズムといっても、彼らの小説はそれぞれのスタイルの上に立っているが、ヴィスコンティの映画にもそれは同様で、群像劇的な描き方であるとか、超ロングショットといった彼なりの映画らしい手法を用いてありふれた人々がぶつかる問題について語っている、というのがヴィスコンティのリアリティなのだろう。
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ktasakurai · 7 years
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5/29 doon kanda DJ set+Jesse Kanda ART SHOW@LIQUIDROOM
Arcaとのコラボレーションで知られるアーティストJesse Kandaを迎えたイベントがあると聞き、行ってきた。Kandaの作品の特徴はやはり、人体の欠損、肥大、歪曲だろう。生々しくグロテスクなその造形には人間の肉体そのもの、或いは人間が肉体に求めるものの醜さが現れているように思える。
有機的な歪曲、変形という点でKandaの表現はArcaのそれと通底するものがある。エレクトロニカをいかに機械的でなく聴かせるか、人の手による演奏と交錯させるかという課題は近年floating pointsやJeff Milsのプロジェクト、Donny McCaslinのカルテットなど様々な領域からアプローチがされているが、Arca-Kandaもその1つとして数えていいだろう。
さて、今回のイベントのコンセプトは「クラブ空間の寺院化」であった。フロアに足を踏み入れた途端にふっと香る線香の匂い、各所に置かれた花、そしてお経。イベントは琴とパイプオルガンのような音を奏でるハルモニウムそれぞれのソロで幕を開けたが、これらも宗教的儀礼と結びつくことを考えれば肉体的、即物的快楽とは切り離されたものであることは明白だ。それでは、Kandaの言わんとすることはそういったものの否定なのだろうか。
寺院という場所は当然、禅との深い関係がある。現世的快楽から離れ精神の昇華を目指す場所。前座である琴、ハルモニウム、お経によってわれわれはそこに誘われるわけだが、そこで行われるのは肉体の否定ではなく、座禅を組んだ時の感覚、身体と精神の分離である。一度そのプロセスを経ることによってKandaの作品に現れる「醜い肉体」はより生々しく迫ってくることになる。
Kandaのプロフィールにはヴィジュアルアーティストであり、DJであり、ヴィーガンであると記されている。ヴィーガンは言ってしまえば他の生物と一切切り離されたライフスタイルなわけだが、人類はそうあるべきだという過激な思想の持ち主ならばここまでグロテスクな表現はできるだろうか。もしそうであるなら、私たちが彼の作品を目にした時よりもずっと激しい嫌悪感に彼自身が襲われることだろう。 「醜い肉体」を肯定するわけでも全面的に否定するわけでもなく、その醜さを形にする、というのが彼のアーティストとしての姿勢なのではないだろうか。いわば自然主義的な表現をもって、彼の作品は人間自身の体を客観視することを求めるのである。
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ktasakurai · 7 years
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"DAVID BOWIE is"
あまりに早い大々的な告知から一年、待ちに待ったボウイ大回顧展"DAVID BOWIE is"。ボウイのルーツとSpace Oddity、Starman、アルバムや曲のキービジュアル、Station To Station〜ベルリン期、坂本龍一および北野武へのインタビュー、そして今回の目玉企画"Sound and Vision"という具合の構成で稀代のアーティスト、David Bowieの芸術をたっぷり味わうことができた。 展示室の一番最初は彼の生い立ちからデビューまでを追ったもの。印象的だったのはあるインタビューで、アーティスティックな感性を養うために理解できないようなものを、例えば難解な本や音楽を好きになるまで読み、聴いたと語るところ。ボウイの芸術はある種ビジュアルと設定ありきのもの、という印象があるので(初期のキャリアはジギー・スターダストなどのキャラクターを抜きにしては語れないし、ベルリン期のどこか無機質な、無表情のジャケットはその音楽性に結びついている)、まさに原点を見た、という感じ。 ビジュアルと設定ありき、というのは決してボウイがミュージシャンシップに欠けているところがあるというわけではない。クラウス・ノミを引き連れた"The Man Who Sold The World"のテレビでのパフォーマンスだったり、ハムレットを引用した演出であったり、もちろんジギーやスターマンも、楽曲に収まらないトータル・アートなのだ。こういう見方をするとレジデンツとの共通点も浮かび上がる。もちろん音楽だけ聴いても素晴らしいのだけれど、20世紀を経て録音され再生されるものとなった音楽が、本来表現の場としていたのはステージであると改めて認識させられる。 そして最後にライブ映像を投影し展示と照明の演出がともにそれを彩る企画"Sound and Vision"。"Space Oddity"も"Ziggy Stardust"も"Heroes"も、そして"Lazarus"も、センセーショナルなパフォーマンスの裏には「死」の影がある。それでいてヒロイックに歌う彼の、まさにポストモダン時代のスターと言うべき姿をそこに見た。 以上がざっくりとした感想。恥ずかしながら、実は"Black Star"のリリースまでボウイの作品は素通り状態で、亡くなった後にその偉大さに気づいたのであった。改めて、R.I.P DAVID BOWIE。
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ktasakurai · 7 years
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AGU総文主催「オンガクギョーカイに未来はあるのか?!」
青学総合文化政策学部主催のトークイベントに行ってきました。普段考えていることと少し関わるところもあり、すごく有意義な時間を過ごせた気がしていい気分です。 論点は主に「CDをはじめ音楽販売の未来」「現代におけるライブの価値」「テクノロジー対人間」の3つ。話を聞いて思ったことを少しまとめておきます。 ・音楽販売の未来 CDはどうなるの?ストリーミングが流行ってるけどなくなってしまうの?という方向で話は進んでいたけれども、Chance the Rapperの事例で明らかなようにとっくにストリーミングが音楽の提供形態の中心。無料配信のアルバムがグラミー賞とっちゃうなんてとんでもない時代になってしまっているので、そのへんは疑いの余地はないのでは、と。 Chance the Rapperがどれくらいの収益を上げているかはわからないし、物理的なメディアからデータ一本に変わったことで業界にどれほどの損害をもたらすのかも知らないけれど、この流れはもうどうしようもないんじゃないか、と思う。 一方でそういったストリーミングサービスにはプレイリストなんていう超便利なものも配信されているので、コンセプチュアルな作品としての価値があるアルバムという形態はどうなるのか、一人一人のアーティストのあり方、受け止められ方は変わってしまわないだろうかという不安もある。 CDの衰退をやたらと危惧するのは、それを頑なに守ろうとした日本の音楽業界の方針が間違ってたのではないか?iTunesなんかの切り売り方式の形態はそのお陰か日本ではあまり普及しなかったなあ、という感覚はあるけれど、さすがにストリーミングサービスの普及には歯止めが効かなかったらしい。 加えて、ミュージシャンを芸能事務所が抱えて、というやり方も時代にそぐわない気がする。少し前にくるりの岸田繁がツイッターで軽い騒ぎを起こしていたけれども、そんな風に従来の方針のままではどうしても守ろうとしたアーティストを縛ることになりかねない。 もちろん、活動するのにお金は必要だからどうにかしてそれを得ることは絶対に必要なのだけれど、販売形態の変化に対抗するより受け入れたほうがよっぽど懸命なのでは。収益がどうこうの問題があるのだろうけど、今やるべきはCDを売り続ける方法でなくうまいこと再生数を還元するシステムを構築することなのでは、と思う。 ここ最近レコードが流行って、それに乗じてカセットも売られるようになって…って流れでまたCDが流行りだすかもしれないし(あくまで棚ボタ的発想だけれど)CDという形態が衰退することに関してあまり心配することはないのでは。 ・ライブの価値の変化 実際にアーティストを見て聴いて、ということに価値があるという話には全面的に同意だし、音楽をやる人聴く人がいる以上なくなることはないと思う。 しかし話題に上がったライブの「お祭りイベント化」はやはり非常によくない。 (イベントの締めの言葉として鳥越��んが話していた「人の日常と一体にある音楽」と芸術の形としての音楽は価値も意味も全く異なっている、ということを念頭に置いた上で)小泉さんが話していた通りに、それぞれのアーティストへの関心が低くなり、音楽自体の衰退へと繋がる危険性は否めない。 一言加えさせてもらうと、ライブは表現の場である、ということをもっと大切にしなければいけないし、そういう点で最近の「アーティストは政治や社会に口出しするな」という風潮は大いに間違っている。 じゃあガンガンライブをやろう!というわけにもいかないところが難しいところで、例えばビートルズの"Sgt"はとんでもない本数行なっていたライブのエネルギーをつぎ込んだからこそ完成した作品だと思うのだけれど、上に書いたようにアーティストの表現を大事にするという考え方と表現の場を増やそうという考えはどうにも合致しないところがある。 ・テクノロジー対人間 AIにもいい曲ができちゃう時代なので、アーティストの価値はどうなるのか?というところから始まったこの話題は、最終的に作品を通じて自らを表現できる人間に軍配は上がる、という結論に行き着いた。 電気グルーヴの新作の製作過程は主にGarageBandで行われたという話があるように、プロでも使ってしまうようなソフトが身近にあって今や誰でも曲が作れてしまう時代。そんな中でアーティストと一般人を分けるのは、やはり人物自身と作品を含めた全体としての芸術性なんだと思う。 個人的にアカデミー賞で"Moonlight"が"La La Land"を打ち負かしたことは結構嬉しくて、エンターテイメント性の塊みたいな映画に負けないものが"Moonlight"にはあったんだなあと思わされた。「アーティスト」という言葉の意味を、音楽の持つ価値をもう一度見直してみる段階に来ているのではないだろうか。 それから、音楽の持つ時代性にも話は及んだ。なぜビートルズが今も聴かれているかというと、消費されるものである一ポップスグループからアーティストとしての次元へ跳躍を果たしたこと、そしてそれが歴史の一部として語り継がれるものとなったからだろうし、その芸術性の根底には彼らがビートルズとして活動した時間がしっかりと刻み込まれている。 後世まで聴かれる音楽はそれぞれに高い芸術性を持っているし、もちろん時代性もその重要な要素の一つでもある。至極個人的な見解になるのだけれど、2010年代後半を表現できてるミュージシャンっていないんじゃ?と思うのであれば、ぜひヒップホップやR&B、ジャズを聴いてみてほしい。例えばコモンの16年作"Black America Again"は"Make America great again"を謳った誰かさんの頭を鈍器でぶん殴っているよう。 以上です。話の内容をまとめるでもなく個人の考えを勝手に書き散らしましたがどうかご容赦を。
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ktasakurai · 7 years
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ライブレポ Donny McCaslin Group
ブルーノートにて、2/1の2nd show。自らのグループを率いて来日したのはその日が初めてらしく、さらにはメンバーのJason Lindnerの誕生日という記念すべき日のライブ。昨年のアルバム"Beyond Now"を引っさげて登場という触れ込みだったわけだけれど、やっぱり"★"からの選曲を期待してしまうわけで……結局"Beyond Now"でカバーしているWarszawaすらやってくれませんでした。残念。 それはさておいて、今回のメンバーはエレクトリックなアプローチはもちろん、それぞれに色んな持ち味があって、それがそれぞれの原型を残したまま結びついてこのグループの音楽を形成しているという印象だった。キーボードのJason LindnerはRoxy時代のイーノ御大を思わせるシンセサイザーさばきを見せたと思えばポストクラシカルな雰囲気のピアノを弾いたり、ベースのTim Lefebvreはダンスミュージックのサブベースみたいなベンドをやったり思いっきりロックっぽいフレーズを弾きまくったり、ドラムのMark Guilianaは豪快に叩きまくってるように見えてバンドの演奏に合わせて細かいダイナミクスのコントロールをしていて、そしてその中でDonny McCaslinのサックスが時にエモーショナルに、時にロマンチックに響く。 色んな音楽性のミックスというのはずーっと昔から行われてきたものだけれど、彼らのそれは今までのものとは少し違うな、と思っている。先ほどの「それぞれの原型を残したまま」というのが重要なポイントで、例えばマイルスがいくつかの色を混ぜ合わせて新しい、別の色を作り出したとするならば、彼らは完全に混ぜずに重ねてグラデーションを作っているような感じ。違ったもの同士をどうにかして一つにまとめて…というよりも、大胆にもぶつけてみました、という感じ。(もちろんそれで形にしてしまうのは相当なアレンジ能力の賜物だけれど) グラスパー界隈とかLA界隈もそうだけれど、最近のジャズのクロスオーバーのやり方は、そういった種の新しさを感じる。異なるルーツや感性を持ち、互いの作品に刺激を与えながら進んでいく現代のシーンは、さながらエコール・ド・パリのようだ。
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ktasakurai · 7 years
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ライブレポ Julian Lage Trio
1/31、コットンクラブでのJulian Lage Trioのライブに行ってまいりました。昨年リリースされた"Arclight"とライブ盤を聴いてからの参戦だったのだけれど、その二作を聴いた時とまた少し違った印象を受けたライブでした。
ライブに行く前は、Julian Lageという人はモダンジャズの流儀に重心を置きつつも時に激しくギターをかき鳴らすようなエモーショナルなギタリストだという認識だった。Bill Frisellみたいなテレキャスターのクランチサウンドが"Arclight"ではフィーチャーされていて、好みの音だったのだけれど、正直常に動向を探るほど気に入ったかといえば、そうではなかった。しかし今回のライブの演奏は、"Arclight"からの選曲だったのにも関わらず、前作から一年経たないうちにもう次のステージに進んでしまったのかと思ってしまうほど演奏に変化があった。(過去作をろくに聴き込んでないからこう思っただけかも知れないけれど)
今回の彼の演奏は、先に書いたようなモダンジャズ流儀ではなくて、カントリーやディキシーランドジャズのような古いスタイルを目指したかのようなもので、Bill FrisellがCharles Lloydと組んだ"I Long to See You"を彷彿とさせるスタイルだった。ちなみにそのアルバムではDylanの曲が一曲目に入ってるんだけど、近年の彼の方向性、ジャズやカントリーといったアメリカによるアメリカの音楽を一緒くたにしたような、まさにこれぞアメリカーナという雰囲気が"I Long to See You"、そして今回のライブに共通してあるように思える。
ここ最近のジャズはマイルスの時代を思わせるような勢いで分化を進めているけれども、こういった「アメリカらしさ」に重点を置いた作風もこの先増えて行くのかなあ、Julian Lage、ちゃんとチェックしておかねば、と思った1日でした。
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ktasakurai · 7 years
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Baz Lurhmann監督"The Great Gatsby"
フィッツジェラルドのアレの実写版。調べてみたら今まで何度も実写化されているらしく、そのうちの2013年版。脚本は概ね原作通り(中盤やたらラブコメじみた雰囲気になった時はちょっとヒヤッとしたけれど)で、悪くなかったんじゃないかと思う。好みが分かれるとしたら映像と演出だろうか。 その映像と演出というのが、とにかくド派手アンドド派手といった感じで、音楽もガッツリ4つ打ちだし20年代という設定とあんまりしっくりこないという人もいるかもしれない。衣装もそれっぽいしジャズで踊ってる人もいて、その割になぜこうなった、という具合に。例えばウディアレンのミッドナイトインパリは同じくらいの時代設定にも関わらずその辺はちゃんとしてたから、比べるとウーム、となってしまうのは納得できる。 しかし個人的には、この派手な映像は嫌いではない。というのも、パーティのシーンをやり過ぎなくらいハチャメチャに盛り上げることで、ギャッツビーが犯罪に手を染めてまで得た豊かさに裏付けられた狂乱と、それに隠された狂気が爆発するような終盤の展開との対比を効果的に見せているように思えたからだ。実際、ある修羅場のシーンは原作になかったセリフも追加されてより緊張感を増している。ちなみに劇中何度か「灰の谷」を俯瞰する映像が出てくるんだけど、そこに見える対比もかなり誇張されている。 そんなわけで、古めの原作を思いっきり現代のやり方で映像化したら案外ユニークな仕上がりだった、というのが今回の感想です。本来の設定とちょっと噛み合わない演出があったのも事実なので、設定からまるっと現代風にしてしまったらどうなるんだろうか、まあストーリー上大きく関わってくるところがあるから難しいか。
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ktasakurai · 7 years
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ライブレポ Hermeto Pascoal "Brasil Universo"
御年80になったエルメートパスコアールのライブに行ってきました。バンドメンバーによるおもちゃの合奏(?)に始まり、ほとんどの曲がシームレスに繋がっていく圧倒的な演奏で、その一方誰かのソロの最中になにやらゴニョゴニョ打ち合わせをしたり、演奏中に大声で指示を出したりワインを勧めたりと、目の前で行われるセッションを観ているような感じもして、とてもユニークなライブだった。もちろん持ちネタ(?)もしっかりご披露。 さて、彼はそのいろんな意味で常人離れしたパフォーマンスで知られているわけだが、実際にそれを目の当たりにすると、ただの風変わりなミュージシャンではないんじゃないかと思えてきたので、少しそのことについて書こうと思う。今回連れてきたgrupoの演奏は割と正統派なブラジリアンフュージョン/コンテンポラリージャズだけれども、実際に彼がやっているのはある種の自然賛美なのではないだろうか。 70年代の作品から動物の鳴き声やらなんやらを取り込んでいたり(今回のライブではキューキュー鳴るおもちゃで代用していた)、楽器の音でない音を楽器の音に変換してみたり、ヤカンをぶくぶく吹いて、最後に中の水をかぶるというパフォーマンスをしたり、というこれら全てが 自然とともに演奏する ↓ 自然の音を(自力で)演奏する ↓ 自然と同化する という儀式的なプロセスの中にあるのではないだろうか。 そうした彼の姿勢は、決して現代人を否定するものではない。「ユニバーサル・ミュージック」と称してライブの観客をステージに上げて一緒にセッションするというパフォーマンスを今回もやっていたが、この「ユニバーサル」は何を指しているのだろう。音楽は世界共通のものですよ、というありきたりなものではなくて、これは世界中に、そして人間の中にも遍在する「自然性」のようなものを指して言っているのではないだろうか。パッと見るとおかしなパフォーマンスだが、その世界観の根底には自然への愛と、音楽を通してそれにアクセスしようという彼なりの方法を感じることができる。
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ktasakurai · 7 years
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Arto Lindsay "Cuidado Madame"
アートリンゼイの新作。ブラジル、オルタナティブ、ジャズがごたまぜになったような作風は今回も相変わらず。それぞれの持つ特徴である静謐さやアグレッシブさ、洗練されたアンサンブルが高いレベルで混ざり合っているのが彼の作品の魅力だと個人的には思っている。
多くの曲でアフロブラジリアンなリズムが取り上げられているんだけど、6,Vão queimar ou botando pra dançarではそれをヴィンテージドラムマシンでやってのけるのが面白い。2,Each to eachでもエレクトロニクスによるアプローチが目立つけれど、その一方で11,Pele de pertoは完全アコースティックのボサノヴァ風に仕上がっている。もちろん彼最大の持ち味であるアレも8,Arto vs Artoでがっつり聴ける。しかもグリッチノイズのおまけ付き。
アルバムを通して聴いてみると、去年散々話題になったレディへの新作と近いものがあるように思える。エレクトロニクスとアコースティックな音が、片方の上にもう片方が乗っかるような雰囲気ではなくて、うまーく混ざり合ってアンサンブルを形成しているような感じ。近年ずっとやってきたプロデュース業のおかげだろうか、アレンジに関しては今までの作品よりも複雑かつ、まとまった仕上がりになっている。
去年はアートがプロデュースしたブラジルの作品が結構リリースされていて、さらに自作まで作り上げてしまうところをみると、ここ数年で活動が活発化してるのかな、という雰囲気(一昨年だか3年前だかにベストアルバムも出したねそういえば)また来日公演ありそうだし、今度は行きたいところ。
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