Tumgik
ahougen · 1 year
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久々
少しの間だけとはいえ、放置していたものを再開するのはどことない気まずさを感じる。これは不登校が久々に学校に登校する気まずさに似てないこともない。
とはいえ、何か書けることがあるのかといえば、大抵結論としては
オレラニンゲン。オールオッケー。イエア!
ぐらいにしかならない。
そこから「ラブ&ピース」につながればいいのだが、そんな簡単に人と人が分かり合うことができれば、もっと別の進化を遂げているか、人類はとっくにほかの種族によって滅ぼされていただろう。
まあでもそんなつまらないことを語っていてもなんの味気もない。連綿と繰り返している人類史を彩っていくのが人間のイマジネーションというものだ。
個人的には人間という生物として、もっと次代について考えていきたい気持ちがある。しかし、僕個人がそうあろうとしたところで、現代社会においては個人の生活であったり個人の幸せが重視されている以上、そういった長期的なところに関してはどうしても視界の外側に置かれてしまうようになっている(そもそもそういったことを考えることがこれまでの人類に必要だったのかは知らないが)。
現在を苦しみながらも生きている、彼ら、彼女らのことを、僕には想像もできないほど苦しい体験をしながらも今も生きている人たちのことを、本当に頑張っているし、えらいことだと思っている。それは社会的に上か下かは関係なく、多くの人が潜在的にそういった苦しみ抱えているのかもしれない。あなたかもしれないし、あなたではないのかもしれない。それは僕にはわからない。
そんな日々を頑張って生きている人たちに、僕は「こうあってくれ」ということもできないしいう権利もない。それに、そんなものは正解のないことだ。正解がわかっていれば苦労しない。ただ、それでも心の片隅でだけでもそのことについて考えてみて欲しいと願っている。
あなた方はえらい。僕なんかよりもずっとずっとえらいし頭が良い。だからこそ、(いわれるまでもないだろうが)様々な調和について考えていってもらいたいと思っているし、僕自身も自分の知覚する現実の中でそれを考えていきたい。考え続けていきたい。
未来のことは誰にもわからない。僕という一人の人間には「そうあって欲しい」遠いミライに思いをはせることしかできない。それはとても当たり前のことではあるが、とても悲しいことだと思う。そして、それがもし叶ってしまったときは、それは残酷なことだと思う。他の様々な「そうあって欲しいミライ」が切り捨てられてしまったことになるから。
それでも僕は、心の中で僕自身の「そうあって欲しいミライ」を願っている。
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ahougen · 1 year
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4/1
新年度が始まった。この月になると、「四月は最も残酷な月」という言葉を思い出す。――なんて知的ぶったことを書いてしまうが、まあエイプリルフールだから許してほしい(誰に許されたいのかは自分でもよくわかっていないが)。
さて、今日もまたいい天気だった。絶好の散歩日和だと外に出てみれば、少し前まで満開だった桜の木はだいぶ緑がかっていて、桜の花びらがいっそう楽し気にあたりを舞い踊っていた。冬のこんこんと降る静謐な雪景色も好きだが、視界を覆うような花吹雪もいいものだ。
晴天の青空のもとで空間を彩った美しい花弁は、一しきり宙を踊りまわった後には、しんと大地に腰を下ろし、動物たちに踏み鳴らされながら次第に土気色へと変わっていく。「散り際」という刹那の切なさには胸を打つものがある。ただこの一時、一瞬のあいだだけ目にすることのできるこの躍動の中に、多くの人は美を見出すのだろう。
終わりがあるからこそ美しい。しかし終わりがあることは残酷なこと。だからこそ人は常を求める。その一瞬を写し取りたいがために、言葉を尽くしたり、絵をかいたり、写真を撮ったり。様々な幻想によって補完してきた。
だが、現実には心も体も、社会も常ではあれない。どこかで幻想の私と現実の私との折り合いをつけていかなければいけない。
あーあ、全部嘘だったらよかったのにな。なんて、思ったりしなくもなくもなくはないが、仕方なし。「本当の僕は宇宙飛行士で、今は国際宇宙ステーションで任務をこなしているんだ!」という嘘も今日までにしておこう。エイプリルフールも終わるのだし。
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ahougen · 1 year
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ファンタスティック・プラネット
GYAO!がサービス終了ということで、何か最後に観ておく作品はないかと探していたら、この作品を見つけた。「カルトアニメ」といううわさは聞いていて、いつか観ようと思っていたので、いい機会だと滑り込みで鑑賞してみた。
いや、難しい。
話自体はフランスっぽさを感じさせるもので、個人的にもいろいろと置き換えて考えられたからわかりやすかった。ただ、海外のファンタジー小説の挿絵にありそうな絵がそのまま動いているような狂気的な世界観や、そこで描かれ��いる人間の原始的な野蛮さやドラーグ族の(人間視点での)残忍な描写は、日本アニメに慣れきった身としてはかなりの負荷がかかる。カルトといわれるだけあってたしかに心に残る作品だ。だからこそ、疲れた。
この手の作品について語れる能力を持ち合わせていないので雑な感想だけで終わる。
嫌いではない。が、人におすすめはできない作品。
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ahougen · 1 year
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若気の至り
絶賛若気の至り中の自分。
致し方なし(仕方なくはないが)。こうやって井戸に向かって叫ぶところから始めなければ、自分というやつは前に進むことができないんだと思いこみ、今日もへたくそな文章を書きなぐっている。十年後ぐらいに魚拓としてこれが残っていたら、たぶん自分は恥ずかしさに身もだえて壁に頭を打ち付けることになるだろう。
マジ何やってんだと思いながらも、社交性にステータスを振ってくれなかった神()と、努力値を振ってこなかったかつての自分を恨むしかない。嘘、恨んでない。愛してる。
ここ最近はこれまで以上に膨大な情報を受け取ってる感じがある。義務教育すら(精神的には)半ば放棄していた身だったので、精神じゃなくて脳に負荷がかかっている状態が新鮮だ。精神と脳は切り離せないだろっていうツッコミもありそうだけど、まあこれは感覚的な比喩です。一応。
自分が知らなかった様々なことを学ばせてもらっている。勇気をもらっている。「感謝」という言葉は、受け手によって様々な含みを与えてしまう誤解の多い言葉ではあるけれども、本当にいろいろなことに感謝しかない。
ハイとローを行き来してる感じがするこの日記は果たしてどこに行き着くのだろうか。僕はどこに行くのだろうか。自分でもよくわからない。今はもう、その時々の感情と理性に身を任せるしかない。ライブだ。
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ahougen · 1 year
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マルのおじさん
小学生のころ下校途中によく、犬の散歩をするおじさんに出会っていた。犬はマルという名前の大きな柴犬で、幼い僕たちはそのおじさんを見かけると「マルのおじさん!」といって、おじさんたちを囲んでいた(ただ、僕たちの関心はおじさんというよりも、彼が連れているマルにあって、ほとんどがマルを撫でているだけだったのだが……)。
マルは賢い犬で、幾人もの見知らぬ子どもたちに触られても、決して怖がることも怒ることもせず、時には僕が差し出した手を舐めたりもしてくれたことがあった。彼女(マルはメスなのだ)の毛はごわごわとして硬く、触ってもあまり心地のいいものではなかったのだが、それでも犬を飼っていなかった僕にとっては、その感触がとても特別なもので、生物の暖かみを感じさせてくれる体験として今も思い出すことができる。
子どもだから仕方なかったとは言え、当時の僕たちの態度はかなり身勝手で無遠慮で不躾なものだったと思う。それでも、マルに夢中になって散歩の邪魔をする僕たちを、おじさんはいつも笑いながら受け入れてくれていた。
しかし、それも低学年までの話だ。高学年にもなれば僕たちはテレビゲームやカードゲームに夢中になり、早く友達の家に行って遊ぼうと焦る下校途中に、新しい低学年の子たちに囲まれるおじさんやマルの姿がちらりと視界の端に映るぐらいで、彼らのことはすっかり僕たちの中心からは外れてしまった。中学生、高校生と歳を重ね、環境が変わる中でも、下校途中や部活帰りの生活の片隅にはよく、見知らぬ子どもたちに囲まれる「マルのおじさん」の姿があった。
何時のころからだろう、おじさんの姿を見なくなったのは。
僕が幼いころの話だから、犬の寿命を考えればマルももう生きていないだろう。もしかしたらおじさん自身に何かがあったのかもしれない。実際のところは僕にはわからない。ただ、下校する子どもたちの前に彼が姿を見せなくなったのは確かだ。
僕はおじさんのことを知らない。名前も、何の仕事をしていたのかも、家族構成も、よく知らないままに、僕はおじさんを「マルのおじさん」としてずっと受け入れていた。今では考えられないことだ。なぜ自分はあんなにも見知らぬおじさんに全幅の信頼を寄せることができていたのだろうか。
内容の趣旨は違う気がするがとある記事を読んで、そんな不思議な体験をしていたころの自分をふと思い出した(別におじさんが悪い人だったと思っているわけではないことは一応言っておく)。
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ahougen · 1 year
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桜並木
晴天。
雲一つない空の下、僕は自転車に乗って桜並木のある街道に出かけた。
満開の薄墨桜が並ぶその場所は、多くの家族連れでにぎわっていた。通りに面したクレープ屋にはたくさんの行列ができ、公園にはキッチンカーが止まっていて、その周りを幼い子どもたちがはしゃぎ遊んでいた。普段はほとんど人の通らない通りだというのに、この時期になると不思議と人が集まってくる。桜の花というやつは人を引き寄せる魔力でもあるのだろうか(まあ、僕もそれに誘われた一人なのだが)。
犬の散歩をする家族、友達と一緒に自転車を乗り回す子どもたち、ベビーカーを押しながら歩く若い夫婦。花吹雪舞う通りには、様々な様相の人々が行きかう。僕もその中に紛れ込み、春の陽気にあてられたちょうちょのようにふらふらと桜を眺めながら歩いていた。そんな僕の視界に、ある家族の姿が入った。
桜の木を背景にワイルドな風貌の父ちゃんが自撮り棒片手にピースを決め、その傍らには笑顔を浮かべる奥さんと、少し緊張した面持ちの幼い女の子。両��の間に立つ女の子は、まだ買ったばかりなのだろう、綺麗なピンク色のランドセルを背負っていた。たぶん、小学校への入学前の記念写真ということなんだと思う。
僕が子どものころには誰かがカメラマン役をやるか三脚が必要だった写真撮影も、今では自撮り棒一本とスマホで解決できてしまう。時代は変わったものだ。そういえば、ランドセルも最近ではサブスクサービスを取り入れるメーカーが出てきたのだとか。僕が小学生の頃は6年間使い潰して、終いにはぺらっぺらになったランドセルを背負って学校に通っていたものだが、これからの子どもはそんな体験もしなくなるのかもしれない。
僕が昔見た世界と今の子が見る世界の当り前はかなり変わっているようだ。物質世界はどんどん変化していく。たぶんこれから十年、二十年後に生まれる子どもは、さらに違った当たり前の中���育っていくことになるのだろう。その中で、僕のように自分で歪めてしまった過去に囚われ、宙に浮いたような感覚の中で生きなければいけない子どもたちはどれだけ現れることになるのだろう。彼らはちゃんと、現実を受け止められるようになるのだろうか。自分自身を、しっかりと愛してあげれるのだろうか。
……まあ、考えすぎだ。結局は自分の劣等感をいもしない子どもに投影して、満たされない何かを埋めようとしているだけなんだろう。
未来のことなんてわからない。
ただ、彼らには「現在」を楽しんで生きてくれることを願っている。
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ahougen · 1 year
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タイプ:ワイルド
おっしゃ! 気合根性が大事だと思えてきたし、ヤンキーみたいにワイルドの極み目指してみっか!
という感じではない。まあ、似たような話にはなるのかもしれないが、それでも現実の僕はワイルドさとは無縁の存在なので、またほぼほぼ「言ってるだけ」みたいなことになると思う(そもそも彼らは自分で自分をワイルドとは言わんだろう)。
『タイプ:ワイルド』はポケモンのエンディングテーマである。
ユーチューブでぶらぶら音楽を聴いていたら、ふとこの曲が流れてきた。ポケモンを観ていたころの懐かしさから、この曲はいったい何時のものだったかと調べてみれば、1998~99年なのだとか。完全に世紀末。自分が20世紀の人間であることを改めて自覚した瞬間だった。
当時は幼さゆえに言葉にも疎かったため、音だけで楽しんでいるだけだったのだが(それも音楽の本質なのかもしれないが)、今回は歌詞や曲調とかにも意識を向けながら聴いてみた。
いやあ、強くなりたいね。
今日なんて桜を見に行こうと意気込んでたら陽気にやられて眠り込んでしまったぐらいだし。欲求にあらがえない自分の体ってやつが情けない(その代わりたくさん眠れたからよし)。
内容に関しては、自分のイノセントに語りかけてくる感じがしてすごくよかった。昔はテレビで「昭和歌謡曲特集」なんてやってようものならすぐにチャンネルを変えていたのだが、今になってみるとそういう番組がよく放送されていることの意味もなんとなく分かる気がした。
まーた老人臭い話やってるよ。という話になってしまったが、まあちょっとおセンチになりながらも、俺は日々を生きていくぜ! って感じだ。
ワイルドだろぉ?
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ahougen · 1 year
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映画見たい
このところなんだか感傷的だったり暴走気味だったり、そんな感じのことばかり書いてきた。今回はもう少し男の子的な感性をよみがえらせようと思う。
さて、僕というのは様々な浅瀬をちゃぷちゃぷ泳ぎ回っているようないい加減な奴なのだが、その中でも昔から好きだったものといえばアニメ、ラノベ等々のエンタメコンテンツである。そういったジャンルで最近アツいのは『シン・仮面ライダー』や『グリッドマンユニバース』らしい。
どちらも特撮関係だ。
僕は特撮に関しては無知無知の無知なので、興味はあれどもなかなか劇場に足を進められない(てかそもそもお金がない)。なのでとりあえずどんな感じなのだろうと、ユーチューブで公開されている『シン・仮面ライダー』の冒頭数分の映像を見てみた。
特撮ヒーローってこんな感じなのか! と、ショッキングな始まりにだいぶ驚いた。内容に関してはたった数分の映像で、そもそもがなんの蓄積もないジャンルのために何も語れない。ただただ、すげえ……という言葉しか出なかった。ほんと、すげえしか言えないのでこれ以上の言及はできない。ただ、グリッドマンもそうだけど映画館で観れればきっと迫力があっていいんだろうなあと思った(当たり前の話だが)。
観たい! けど観れない! もどかしい!
就職がんばろ……。
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ahougen · 1 year
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雨、桜
窓を覗けば、しとしとと降り注ぐ雨の中、薄紅色の花を咲かせる桜並木が視界に入る。
ネット上で満開予想を見ると、ちょうど今時分が満開の時期なのだとか。今日明日と天気がすぐれないというのが、なんとももったいない。
そこまで外に出るタイプでもないので、あまり関係のないことではあるのだが、やはり薄暗い中で満開の桜を見るよりも、晴天の青空のもとで桜の花びらが舞い散るさまを眺めてみたいものだ。そのほうが気分が安らぐ。
不思議なものだ。天気なんて普段気にしないのに、桜の季節になると晴れていたほうが良いと感じる。まあ、晴れて日の光を浴びていたほうがビタミンDも作れるのだし健康的である。晴れか曇りかでいえば、生物的にも晴天のほうが惹かれるのかもしれない。ただ、それとは別に、僕は晴天の中で満開の桜並木を歩く幼いころの自分を思い出して、そうあってほしいと願うのかもしれない。
保育園のころに散歩で行った川の桜並木。桜の花びらが舞うなか、タンポポやつめ草が生える堤防を、段ボールに乗ってみんなで滑り降り、友人と手をつないで転げまわったり、つめ草を編んでかんむりを作ってみたり。たぶん、この時期になればどこにでもありふれている素朴な情景を、その中に入っていたころの自分を、僕は思い出してしまう。
この歳になってしまえば、というか小学生になったときにはもうそういうことをやりたいという気持ちにはならなかったのだが、こういった思い出がふっとよぎると、どことなく寂しいような、気恥ずかしいような気持ちが湧きあがる。僕に子どもがいれば(なんて考えるのは気持ちの悪いことではあるのだが)、たぶんきっと「そうあれない」自分を、もっと強く感じることになったのだろう。
別段想像力豊かではないのだが、それでもいろいろなことを考えこんでしまう。過ぎ去った過去も、ありもしない現在も想像してしまえるあたり、人というやつは不思議なものだ。
今は、晴天のなか満開の桜並木の下を歩く自分の姿を考えている。
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ahougen · 1 year
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虚無
コンビニでバイトをしていた時、レジにやってきたおっちゃんに
「マイセン」
と、無愛想に一言いわれたことがある。
僕はそれが何を指す言葉なのかよくわからなくて固まってしまった。
今考えれば、普通に「マイセンってなんですか?」と聞けばよかったのだが、当時の僕はかなりの緊張しいで、いきなりの事態に対してどうにもうまく対処できない人間だったために、硬直して「マイセンとは何か?」と思考をぐるぐる回すことしかできなかった。そんな僕におっちゃんは苛立ったように、「だから、マイセンくれっていってんの!」といった。高圧的な彼の態度にふっと我に返り、僕は心拍数が上がるのを感じながらも、何とか「どういったものでしょうか?」と尋ねた。おっちゃんはそんな僕に、ちっと舌打ちをして「47番」といった。
その番号はタバコのことであり、そこで僕は初めて、『マイセン』が『メビウス』のことを指すのだと知った。会計をすました後、おっちゃんは不機嫌な態度で、別のレジに立つバイト仲間の先輩に「ちゃんと教育しておけよ」と文句をいって去っていった。
その『教育』が何のことを指すのか、僕はよくわからなかった。ただ、ひどく心が疲れるような感覚を味わったのは確かだった。
なんとも馬鹿馬鹿しい話である。
ハタチ少し過ぎたばかりで、タバコも吸わない僕はマイルドセブンのことなんて知らんし、それがメビウスという銘柄に変わっていたことも知るわけがない。そもそもおっちゃんは何年も前に使われなくなったはずの『マイセン』なんて言葉を使わずに、番号をいっておけば余計ないら立ちをせずに済んだことでもある。割と今でも鮮明に思い出すのは、それだけ根に持っているということだろう。とはいえ、このことが『他人と自分との世界の断絶(厨二マインド)』を知るきっかけとなったのも事実だ。
さっき述べた言い訳は、僕視点の一方的な言い訳でしかない。おっちゃん側からすれば「そんなん知らん」だし、仕事帰りで疲れてるときに、店員のおどおどとした態度と無知を見てつい苛立ちをぶつけてしまったのかもしれない。まあでも、それも僕の憶測でしかない。僕の側も「知らん」でしかないのだ。
他人と自分はそれだけ違う体験の中で生きている。こういった世界観のぶつかり合いが起きると人はひどく疲れる。
知らんを「知るか馬鹿野郎!」と知らんまま放っておくのもよいのだろう。しかしそれが行き過ぎれば意地が張っていてよろしくない。それに社会で生きていくうえで、マイセンがメビウスであることを知っておくのも大事なことなのだろうとも思う。そのため、後々の気づきがあるのかもしれないと、なるほど(わからん)と思いながらもいろいろと受け取ってみることにした。
しかしまあ、そういったものを受け止め続ければ、風船に空気を入れ続けると破裂してしまうように、どこかで心がパンクしてしまう。これが人間の限界というものなのだろう(その点ChatGPTはすげえよ。何言っても動じないし)。
そこで最近は無理ぽと思ったらいったん虚無って「気合いだ! 根性だ!」と自分に発破をかけながら再浮上してみるようにしてみた。気合いだの根性だの他人から押し付けられれば迷惑この上ないが(てかパワハラだが)、自分にいってるぶんにはまあいいだろうみたいな感じだ。
虚無は行き過ぎればどっかに行ってしまうが、ほどほどに虚無ってみるのもいいのかもしれない(ちゃんと帰ってこれるかにかかってるけど)。
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ahougen · 1 year
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すっからかん
毎日なんかを書こうと思ってはいるものの、何にも思いうかびやしない。まあ、いつものことなんだが……。
さてさて、なにを語ろうかとヤフーニュースでネタを探してみても、うむ、なんにも語れることがない。はてさてどうしたものか。歪み切っていた内面的な部分はもう出し切ってすっきりできた感じがするし、それをあえて日記のために無理に引き出すのも、それはそれでなんだか違う。明るい話題が自分にとっても一番よかろう。
何を書こうかなあ、と文字数稼ぎばかりの言葉ばかりが浮かんでくるのだが、いい加減何かを語らなければどうにもいかん。
まあ、これは虚無を語っているということなのかもしれない。ノリと勢いに任せてなにかぶっこんだことを言う気分にもなれないし、宙ぶらりんに思考を空転させているのだろう。こんな時もあるさと自分に言い聞かせ、とりあえず何の意味もない言葉を並べ立てる。
これはAIにはできないことなんじゃないだろうか(しらんけど)。
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ahougen · 1 year
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春、
すっかり春の陽気になってきた。
この時期になると花粉が飛び散るわ、こたつのありがたみが薄れるわでなかなか複雑な思いを抱えることになる。今日だって、花粉にやられて目がかゆいし、ポカポカした陽気のせいで眠くなるしでどうにもしんどい。何故これほどまでに体というやつはいうことを聞かないのか。いっそ情報量の少ない二次元の中に入り込みたくもなる。
まあ、そんなクサしていても自分で自分の気持ちを下げるだけである。ほどほどにしておこう。
それに春の陽気が全く嫌いだというわけではない(花粉は嫌いだが)。春の陽気に充てられている人たちを眺めていると、なんだか自分も活力を分けてもらえる気になる。満開の桜の花の下、ブルーシートを広げて酒を片手に顔を赤らめながら騒いでいる人々を見ると、俺もいっちょ桜をつまみに酒をたしなみますか、なんて風流な気持ちは湧かないのだが、春ってやつはいいもんだねえなんて老人めいたことは思ったりするものだ。
さて、世間では野球がアツいらしい。
14年ぶりのWBC制覇、大谷翔平選手MVP! 
なんとまあ華々しいことか。野球はミーハーというか、ダルビッシュ、大谷、ぐらいしか知らないような野郎なのだが、それでもすごいことだというのはわかる。やっぱ大谷は天才だわ。なんてしたり顔も浮かべてしまう(野球ファンからすれば何当たり前のこといっとんじゃであろうが)。
将棋の藤井、野球の大谷。若者の才気あふれる姿というものは良いものだ。自分事のようにうれしくなる。おっしゃ、おっちゃんも頑張りますか! という気にさせてくれる。
この感覚は少し前までは味わえなかったことだ。知識もいいけど、やっぱ気合とか根性とか、そういうマッチョな部分も人間には大事なことなんだなと思った今日この頃。
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ahougen · 1 year
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ライブ感
「越えるべき親父」としてぶってる人を見かければ、なにくそとゲバ棒と火炎瓶を抱えて走り出す前に(それもまた愉快痛快であろうが)、「おっさん、もう歳なんだから、そんな火遊びやめて身体大事にしてくれよ」と解脱したヤンキーみたいなことを思うし、そもそもそんな時代でもないわけで。ゲバ棒抱えてた世代も、家に帰れば母ちゃんから「あんた、いい加減そんなことやってないで就職しなさいよ!」と泣きつかれていたことだろう。
何をわかった気になって、といわれりゃその通りである。まあでも大抵の大人たちが口にしないだけで、世の中若気の至りで満ちている。みんな何かに浮かされて、その時々のライブ感で生きてきた。未来のことがわかれば苦労しない。一時の熱に浮かされて、ふっと我に帰れば「俺、なにやってんだろ……?」と虚しくなる。とはいえまあ、生きなきゃならんし、仕方ないから働くべ。
世の中そんなもんじゃなかろうか。
完全にパト2の「今日日のわけえやつらが~」状態である。みんな冷めきってる。はてさてどうしたもんかといっても何にもわからん。とにかく
『生きねば。』
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ahougen · 1 year
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那須きのこ『空の境界』
中学時代に映画が放映されていて、僕は映像からこの作品を知った。
ufotableが制作した全七章+αなのだが、やはり鬼滅などの人気作の映像化を手掛ける会社だからだろうか、当時からカッコいいアクションシーンが描かれていて、それが今も僕の脳内には強く刻まれている。特に第一章の俯瞰風景において、式が巫条ビルから幽霊を追って隣のビルに飛び移るシーン。あのダイナミズムと超人っぷりには心奪われた(思い出補正は入っているだろうが)。
僕はその後、講談社文庫から出ていた上中下巻の文庫本を買い、それを時間をかけながらも少しずつ読み込んだ。話の内容と描写は映像のほうで補完できていたので、物語自体はそれなりに理解できていたと思う。その当時の僕が心惹かれたのは、やはり何といっても両儀式の『直死の魔眼』であったり、浅上藤乃の『歪曲の魔眼』などといったエキセントリックで中二病的な特別性だった。
作中の彼女たちは、その能力でもって他者を圧倒し、その特別性を読者である僕に強く知らしめた。この過激で刺激的なスパイスは、代り映えのしない平凡でつまらない世界に生きる僕にとって、十分に物語の中に沈殿させる魔力を秘めていた。式や藤乃、蒼崎橙子たちのような超人が現代的な舞台の中で演じてみせた、特異で不可思議なバトルアクションは今なお思い出すたびに僕の幼い部分を刺激する。そして、そんな特異な彼女たちが惹かれる”黒桐幹也”というキャラクターに、自分を重ね合わせてみたものだった。
最近、ふらりと訪ねた本屋でこの本を見つけた(僕はモノに対する執着があまりないタチなので大抵のものを手放してしまう癖がある)。かつての高揚を思い出し、懐かしい気持ちになって僕は再びこの本を購入しなおした。さて、昔の思い出を振り返りながら読み直してみようかと本を開くと、僕はこの作品に対する自分の考え方が全く違っていることに驚いた。
なんていうとなんかめちゃくちゃすごい読解ができるようになったのかと思われるが、作中のキャラクター達を特殊な属性を抜きにして割と等身大として見れるようになっていたというだけの話である。
自虐ネタとしても言うが、ぶっちゃけ「メンヘラ」の話だ。
空虚と狂気、登場するそれぞれのキャラクターはそれぞれに欠落を抱えている。現代社会の中でひどくズレて孤立した感覚を味わう彼女たちは、その精神的な欠落を埋めたいがために、絶対的な「普通」、対極の中間に立つ黒桐幹也というキャラクターに惹かれる。
絶対的で安定した他者に満たしてもらいという飢餓感。自分に自信がない人間は、なにか自分を包み込んでくれるような大きくておおらかな存在にあこがれる。そういった満たされない人々が求めているナニカを、人は「父性」であったり「母性」と評するのだろう。彼女たちは、現代社会においておよそ役に立つことのない異能に悩まされる。社会に包摂されながら、社会から外れた感覚の中にいる異常を抱える彼女たちに対して、黒桐幹也という異性はただただ「普通の人」として接する。恐怖でも、異質でも、異形でも、道具としてでもなく、ただ一人の人間として彼は彼女たちの在り方を受け入れる。普通であれない彼女たちは、そんな黒桐幹也にどうしようもなく惹かれてしまうのだ。
と、ここまで書いてみたものの。この歳になって、一人の男として”黒桐幹也”という青年のキャラクター像を考えると、
「詐欺師なのでは?」
という感想が生まれた。
いや、嘘だ。これはフィクションにおける男性像に対するやっかみみたいなところがある。もっと端的に言えば「こんな男いないし、いたら怖い」という結論に至る。
僕は再読している間、ずっと「こんな安定していて、どんな相手に対してもフラットに接してくれる人がいたらなあ」という、女性キャラ目線で見ていた。しかしまあ、翻って男としての自分の経験から考えればそんな奴はいないという結論に至るわけで、フィクションが生み出すキャラクターの魔法というか麻薬というか。とにかく地に足がついていない存在であるのは間違いないだろう。現実において絶対的な「父性」や「母性」は存在しない。父なる神や聖母マリアは、”黒桐幹也”と同じように人間が生み出した虚像に過ぎない。
それだというのに、現実には満たされない思いを抱えた人々がたくさんいる。これはフィクションではなく真実である。「これだから人の世は……」なんてちょっとした陶酔と厭世をしてみせるのもいいのかもしれない。だが、『空の境界』の舞台となった90年代から30年ほどが経った今、日本は少子化の一途をたどっている。この問題が解決できなければ、これから先こういった満たされない人々がどんどん増えていくことになるだろう。高度経済成長が生み出していた安息からかなりの時が経ち、不況だなんだと言われながらもどこか宙ぶらりんな感覚の中を漂う現在。経済面、精神面、様々な側面で次代に対する閉塞感を抱える日本に必要なこととは何なのだろうか。
マジでどうするんだろうこれ……とちょっとした鬱になった(お前も当事者だろと言われればナンも言えない)。
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ahougen · 1 year
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「知る」と「理解する」
「自分は自分。他人は他人。」なんて言うような、自他を区別するような言葉がある。僕はこういった言葉を昔からたくさん浴びて��た。たぶん、僕と同世代の大抵の子どもはこういった言葉を聞いてきたことだろう。
しかしそうはいっても、子どもの世界は自分と異なる他人を排斥しがちな場所である。そのせいで頭ではわかっているのに、どうしようもなく他人と交われない疎外感を味わい続けることになったのだった。その孤独感は僕を苦しめ続け、大人になってからも職場などで妄想的な一人相撲を延々と続けることになった。様々な場面で、「もしかしたら自分は間違っているのかもしれない」、「自分は何もできない才能のない人間なんだ」という自己否定的な言葉を自分に投げかけ、社会をサバイブすることに対して楽しみよりも苦痛を味わい続けた。
他人と自分は違うと言葉としてわかっているつもりでも、「自分のことをわかってくれる人がいるんじゃないか」という期待と、「誰も自分のことなんかわかってはくれないんだ」という絶望にさいなまれ続けることになった。この散り散りの感情をバランスさせるために、僕は逃避という行動を選び続けるしかなかった。人間の思い込みとはほんとうに恐ろしいものである。
何かのきっかけと、自分の変わろうという意思がなければ人は変われない。
こじらせたナルシシズムのなかで僕は様々な動画や本に救いを求め、様々な人たちの言葉を知った。その人たちの言葉はたいていが同じような話の置き換えでしかなく、いつも満たされない何かを感じていた。今になって思えば、それは僕自身がその人たちからしっかりと学ぼうという姿勢がなかったことによるものだと思う。斜に構えていたのだ。素直に受け取ることができなかった。オタク(クソでか主語)という奴は実に厄介な生き物である。
今振り返ってみれば、実際に会ってはいないとはいえ、様々な人たちに様々なことを学ばせてもらっていた。それらの言葉は僕の中にしっかりと蓄積されていて、今の自分が形成されている。言葉の蓄積とは必要なことなのだと思う。似たような言葉を知り続け、知り続けた先に真理として「理解」の段階が生まれる。それを錯誤ととらえるか、一つの真実と捉えるかは人しだいではあるが、その感覚は自分自身の心を豊かなものに変える。
僕は多くの人に感謝したい。心の底から感謝したい。今まで出会ってきた人たちに対しても、出会わない一方的な関係性の中にいた人たちに対しても。僕は様々な気付きの機会を与えてもらっていた。
ありがとうございます。
本当に、ありがとうございます。
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ahougen · 1 year
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答えはいつもすぐそばにある
人生の答えとは大体平凡な言葉に帰結する。
いや、ちょっと待て。こんな箴言的な話でいいのだろうか。そもそも平凡すぎて語り口がない。何を話せばいいかわからない。平凡な答えとは、平凡すぎて語ることがないのだ。
どうしたものかと思う。そもそも、答えの出ないものを答えた気になっているだけだと言われればその通りだし、未だ人生の途上にいるペーペーがなに言ってんだって話である。善悪の彼岸に行ったような感覚を味わうと、どうしてもなんでもわかった気になってしまう。この安定した全能感のようなものは結構危険なのではと思う。
責任のない場所にいるから、実体験に基づいた感覚を拙い言語に落として放言できるのであって、他者から見れば「何あたりまえのこといっとんじゃこいつは」になるだろう。
だからまあ、もう少し説得力のある言語能力と公共意識を獲得しておかないといけない。言うだけタダでテキトー吹いてしまっても、その先にあるのは承認欲求の暴走だけだ。主観と客観の両方のバランスを維持しながら公言できるように意識していくべきだと学ばなければならない。
自分の答えは自分の答え。他人の答えは他人の答え。なのだから。
ただ、在野が科学的な用語で語るのもおかしな話ではあるし、自分としては自分の人生哲学を自己主張しておきたい気持ちもある。そのあたりは考えどころということだろう。
自分のいろいろなことを解体し過ぎた感じがあって、どうにも社会的にはよろしくないかもしれないと思えてきた。
何に救いを求めるかは人それぞれなのだから、科学否定や宗教否定をするような言葉回しだけは気を付けるよう自分を戒めておこう。
それに、色即是空空即是色なんて言うように、この感覚は一過的なものでしかないだろう。一個人としてあれるからこの状態を維持できているのであって、もっと責任の求められる場所に行けばきっとまた負荷がかかるようになると思う。答えはいつもすぐそばにあるというのに、人間はどうしようもなく苦痛からは逃れられない。
だからこそ、人生は美しいのかもしれない。
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ahougen · 1 year
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思考する時間
たまに自転車に乗っていると、ぶらぶらと辺りを走り回りたくなる。
テキトーに景色を眺めながら、過去のこととか今のこととか未来のこととか、あとはどうでもいい益体のないことを考えている。別に何か結論の出るものを考えているわけではない。本当にどうでもいい事柄ばかり考えているのだ。それは大抵他人のことではなくて自分のこと。
僕はどうしても自分のこと以外見ることができない。社会のことも、仕事仲間のこともよく知らない。別に政治に興味もなければ経済に興味もない。いまのところは、ただ楽しく生きて死ねればいいぐらいに思っている。だが、それはどうやら難しいようで、それなりに楽しく生きていくために、どうしても仕事仲間とそれなりの関係性を作ったり、政治や経済について知っておかなければならないらしい。楽しむために楽しくないことをやる。なんとも馬鹿げた話である。そういうストレスから解消されるために、僕は自転車を走らせるのかもしれない。
昔からそうだった。
小学校の時も中学校の時も、考えたくないからいつも自転車を走らせていた。景色をぼうっと眺めながら自転車を走らせていると、自分がなんだか世界に溶け込んだようになって安心する。一人で部屋の中にいるだけでは、どうにも自分という奴があいまいになってしまう。
ただまあ、これからどんどん年を重ねていくうちに、こういったことをやることは難しくなっていくことだろう。おっさんがぶらぶらと走り回っていればそれだけで怪しい。職質をされることになるかもしれない。それはまあ、ある種社会に溶け込んでいる感はあるが、面倒なことである。
幼少期からのクセみたいなものなのかもしれないが、これからは別の方法でのストレス解消も模索していきたい(最近衝動買いが多い気がするからこれも注意しなくては……)。
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