虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅲ
花鳥誌2024年3月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
『年代順虚子俳句全集 第二巻』明治三十九年の項に「四月中の作句と覚ゆるもの」とある中の一句。『ホトトギス』には同年七月号に載る。「さくら狩」は和歌以来の言葉で、いささか俗な「花見」に比べて、雅趣のある言葉だ。「鷹狩」同様、花を求めて歩く意がある。筵を敷いて眺める「花見」が「静」だとすれば、「さくら狩」は能動的な含意を持つ。星野立子はこう解釈する。
桜を見に山に分け入りました。桜の名勝地吉野とか鞍馬でしょうか。山道を辿っていると百姓家か、由ある人の住居か、ある家の垣根が長く続いているあたりに出ました。どのような人が住んでいることかと思いながら通り過ぎました。桜狩というのですから花を見る目的で山路を歩いているのでありましょう。その山人の垣根づたいも一再ならずあったかも知れません。兎に角、山に住んでいる人の家の垣根づたいを過ぎ去ってなお奥の方へ分け入りつつある時の情景であります。
散在する山間の桜なればこその「狩」である。そして、立子がほのめかすように、「山人」という言い方に一種の軽い「謎」があって、家の主人をあれこれ想像する気分も受け取れる。
謡曲の世界を背景に見ようとする向き(清崎敏郎「研究座談会」)があるのは、脇が桜を訪ね、桜にちなんだ精霊のシテが山人の仮の姿で現れるような能を想定したのであろうが、そのような曲はない。「狩」の言葉の持つ雅趣が、そういう踏み込んだ解釈を提示させる事情は理解できる。
中七の「垣根づたひや」という言い回しには、軽い浮かれた感じがあり、そこに山間に「一花所望」とばかり、花を求めて逍遥する気分の楽しさを感じ取ればよい。句全体もア行音が繰り返され、リズムがいい。
なお、1番「美しき人や蚕飼の玉襷」は他者を詠んだ「他」の句。2番「山寺の宝物見るや花の雨」は自分を詠んだ「自」の句。3番「芳草や黒き烏も濃紫」は、「他」、そしてこの句は「自」ということで、虚子は意識して配したか。自他の区別は虚子が親しんだ連句の発想である。四句「や」が入った句が続いた。
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
大正二年二月十一日、三田俳句会で発表されたものである。この句会は岡本癖三酔(廉太郎)が起こしたもの。『ホトトギス』には同年三月号に載る。『贈答句集』の前書には、「大正二年・俳句に復活す」とあって、小説に転じていた虚子のいわゆる「俳壇復帰」を象徴する句として位置付けられてきたが、実態は、陰影に富んでいる。
虚子が遠ざかっている間、河東碧梧桐の活動は旺盛で、俳句の流れは碧梧桐によって、古典的世界を離れ、詰屈な文体に新奇の題材を衒った新傾向俳句が流行していた。周囲からも、当時隆盛の自然主義の影響もあって、俳句はいずれ季題中心の世界から離れると考えられていた。虚子は、当時「負け組」と捉えられていたのである(拙稿「明治末年の俳諧史―池田常太郎『日本俳諧史』をめぐって」『連歌俳諧研究』一三三号)。
しかし実際は、大方の予想に反して虚子が平明にして余韻ある俳句、古典文芸としての俳句を主張し実践することで、後の『ホトトギス』王国を築くに至ったということになる。その時の虚子の戦略は、日露戦争後の不況と青年の「煩悶」を前提に、村上鬼城・飯田蛇笏・原石鼎ら不遇の若者の主観的俳句を拾い上げるとともに、地方の中間層を開拓して俳句の大衆化に向かうという二つの路線を用意していたようだ。作家の発掘と俳句愛好者の「市場」開拓という双方を兼ねる複眼が、虚子の戦略であった、ということになる(拙著『近代俳句の誕生』「Ⅳ 大虚子への道程」)。
掲句へ戻ろう。強くとも、駘蕩たる春風から湧いてくる「闘志」とは、単純な情熱ではないだろう。争いを好まなかったように見えるが、虚子に「比類のない勝負師の魂」を見て取ったのは山本健吉(「俳人虚子」『俳句』昭和三十四年五月)だった。勝ち負けは、彼の脳裏に常にあり、彼に盾ついた者は、たいてい最後に敗れ去り、虚子は黙殺による勝利を、常に収めている。だが、そのような意識は、ほとんど表面に現したことがないのは、自制力が強かったからだ、とも言っている。
後に赤星水竹居の『虚子俳話録』(昭和二十四年)で、虚子はこうも振り返っている。
私は自分の事は結局自分で解決せねばならぬと、いつも考えています。病気の時なんか苦痛をこらえながら、いっそう深くそんな事を感じます。
俳壇復帰の直前、腸を病んで長期にわたり臥せっていたから、この句の成立に関連しては、考えておくべき問題である。こうした我慢強さが、何に由来するかと言えば、健吉の見るところ、それは自身を恃む気持ちの強さによる、ということなのである。
水竹居も健吉も、この粘りと寡黙と忍耐強さを徳川家康のようだと比定している。
なお、掲句と一対の次の句は、隆々とした力強い太い筆勢。特に「春」と「闘」は、力感に溢れ、一句の眼目となっている。
『虚子百句』より虚子揮毫
1 美しき人や蚕飼の玉襷
2 山寺の宝物見るや花の雨
3 芳草や黒き烏も濃紫
4 山人のかきね傳ひやさくら狩
5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
6 葛城の神臠はせ青き踏む
国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし)
1961年京都市生まれ
日本伝統俳句協会常務理事・防���大学校教授。
専攻、江戸文学・近代俳句
著書に
『子規の内なる江戸』(角川学芸出版)
『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会)
『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫)
『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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珠玉の友①
老いを是とせず
死を退け
希求するは涯なき生
古より万人は仙薬を追い求めて蓬莱を探し、ときに現世の果てへ消えていった―――
一、
西に傾く陽の光が弱まり、人がまばらになった市中には濃く長い影が落ちはじめている。伸びた影の先には、天蓋を差し、白衣装に身を窶した一行と、そのうしろから運ばれる真っ赤な龕があった。鳴り続ける鉦鼓と弔いの哭泣を引き連れて干潮の浜へとむかっていく葬列を、静かに見送った。
大清康熙暦二十一年、冬。
冬至も過ぎたこの頃、雪こそ降らないこの国だが、陸を吹き抜ける乾いた海風はさすがに身に染みる冷たさにかわっていた。昨年までいた福州に比べればなんとも生易しい気候ではあるが、それでも四肢の末端はすっかり冷え切り、足袋が欠かせない。いつもより厚手の羽織を重ね着て悴んだ指を𠮟咤して筆を動かし、子弟たちを指導しながら漢文の組み立てなどをしていると、あっという間に昼八つ時を大きく過ぎていた。
「今度は丁越市(テイエツシ)だそうです……絶対おかしいですよ」
「まあ、多少気味は悪いが」
夜詰めをほかの講師に引き受けてもらった己煥は、久米の大門付近で聡伴と落ち合い、ふたりで城下へむけて浮道を歩いていた。このあと城下の近くで朝明と合流し、今夜は漢籍の会読をする予定だ。 数町ほど歩けば座り仕事で冷え切った身体も暖まるだろうと思っていたが、逆に冷え切った夜風が容赦なく吹きつけ歯を鳴らしそうになる。己煥は重ね着をした袖のなかで組んだ己の腕で、辛うじて暖を取っていた。 寒空のもと、ふたりが歩く路肩の松並木のあいだ、その遠く向こうに死者を乗せた朱塗りのそれが目に入ったのはその途中のことである。
夏以来、 城下とその先へ下った四町や港では、先の旅役にかかわった者たちには災厄が降りかかるという噂が巡っていた。来る年に清からの冊封使節を迎え入れる準備に追われる王府は完全に無視を決め込んでいたが、尾ひれがつき這うように官吏たちのあいだで話が広がる様はなんとなく不気味なものである。
「はじめはちょっとした偶然だと思ったんですけど」
偶然、先の旅役に同行した某氏が原因不明の病に臥せった。
偶然、先の旅役で才府を務めた者の室がお産で命を落とした。
偶然、先の旅役で加子(水夫)務めた者が薩州へ向かう途中、大風で流された。
そして昨晩、偶然、先の旅役で五主を務めた丁越市が知人と争った末に死亡した―――
「偶然じゃないか?」
「四人が偶然なわけないじゃないですか!四人なんて片手で数えていられるのもあと少しですよ?己煥様は他人事のようにおっしゃいますけど、私たち一緒に船に乗りましたからね!」
「葬式なんて最低でも月一はどこかの村で出ることだろう」
聡伴は一生懸命恐怖を訴えて喚いてみたが、己煥の反応は今ひとつである。生まれた時分からたびたび生死をさまよっていたと聞くこの御仁にとっては、すべからく平等に訪れるものに対して、何をいまさら、という感じなのだろうか。
「私は帰国以来大きく体を壊したこともないし、朝明は……相変わらずだ。よほど痴情のもつれにでも巻き込まれない限り死にはしないだろう」
「そういう前振りが余計に怖いんですって!」
「―――左様、これから年の瀬にむけて冷え込みますゆえ……調子が良いなど大層なことをおっしゃっておられるとあとが怖いですよ、短命二才様?」
九町ほど歩いた、寺の門前に続く橋の前、唐突に背後から投げかけられた言葉に、聡伴は顔をしかめて勢いよく首をうしろに回した。
―――短命二才、この渾名で己煥を呼ぶ者で碌な奴はいない。
「どこの者だ?」
うっとおしく思った己煥は、ゆっくりと声のほうへ体を向きなおす。すると、己煥らよりも五、六は歳が上のようにみえる、赤帕を巻いて煙管を吹かしている男と、その脇に付き人らしき振袖の若衆がおり、こちらへ近づいてくる。少し体を横に傾けると、隣の聡伴が、赤冠の青年は某氏某家の子息・茂部之子だと耳打ちしてくれた。その家名は三十六姓のうちのひとつで、己煥にも聞き覚えがある―――同籍の士だ。
王府に仕える士は、その出自と住まいから籍を四つに分けられている。
朝明のような王族に縁ある家柄の者が住まうが城下、そこを下った先一帯に広がる四町には聡伴のような中級の士、さらに北側の港町には下級の士、そして四町と北の港のあいだが、己煥らが籍を置いている唐栄の村である。
「貴方より名声は劣りますが、この私も唐栄の出であり進貢使節の一員だったというのに寂しいことをおっしゃいますなぁ」
吐き出された煙草の煙が、この男の周りを取り囲むように漂っている。
己煥は深く息を吸い込ぬよう着物の袖で口元を抑えていたが、次第にあたりの空気も燻されたように乾き、咳き込みそうになる。
「なぁにが”使節の一員”ですか。あなたが心汚く縁を頼って船に乗り込んだことくらい周知の事実ですよ?用があろうがなかろうが失礼させていただきます」
こんなやつと話す必要はありません、と聡伴は己煥をうながして右へ回ろうとした。
「なにか良い薬でもお召しになりましたか?」
「どういうことだ?」
唐突な問いに、立ち去ろうとしていた己煥と聡伴はうっかり足を止めた。
道行く人々がこちらの様子を窺いながら通り過ぎていく。士族の子弟らしき若者が路上で剣呑な雰囲気で言い合いをしているのだ。目立たないはずがない。茂部之子の傍で控えている若衆も困り顔で黙り込んでいる。
「いやぁ、不思議なこともあるものですなぁ。あれほど御身体が弱く上天妃の宮で教鞭を執られるのも稀といわれていた貴方が、今年は講解師に任じられたうえ冠船の諸事まで手伝っているというではないですか」
来年は清から冊封使節が訪れるため王府のありとあらゆる役所がすでに大忙しであるが、海の向こうとの窓口になっている己煥ら三十六氏の官吏はいっとう多忙を極めていた。
「そこの推参な小童は私の縁故を心汚いと宣ったが、短命二才様が口にされたのはとてつもない良薬であらせられるようだ」
なるほど、と己煥は静かにため息をつく。結局はいつものくだらない突っかかりである。一人のときは適当に口を閉ざしてその場をやり過ごすのが常だった。煙たさが治まってきた己煥は、口元から袖を離す。 この先で待たせているであろう朝明のことを思案して腕を組み直した。
「あなたにもそのうち素晴らしい効能を持った薬が見つかりますよ、多歳赤冠殿?」
「このッ……」
ふたりを睨みながらも、無理に口の端を釣り上げ表情を取り繕う様は、なんとも品がなくみえる。あれほど分厚くとぐろを巻いていた紫煙は、今や線香ほどのか細い煙のすじとなって漂いながら、大人しく煙管に納まろうとしていた。
年長の者をためらいなく挑発する聡伴に感心していると、なかなかあらわれない己煥たちに待ちくたびれたのか、朝明が橋を渡りこちらへ下ってくるのがみえる。己煥と聡伴が己のうしろを見やっていることに気がついた茂部之子も、つられてうしろを向いた。
「そうだそうだ。薬なら四町の市のほうが取り揃えが良い。さっさと下って行っちまえ」
軽快な笑みを浮かべた朝明は、手首で軽く追い払うしぐさを見せる。若年にもかかわらず己より官位が高い聡伴や朝明に逆捩じを食らわされる恰好となった茂部之子は、あからさまに唇を噛みしめ吐き捨てる言葉を探していた。側に控えていた若衆は、これ以上この主人の口を開かせまいと、彼に去り際であることを小声で訴えている。
茂部之子が動くよりも先に、朝明は己煥の上腕を軽く掴んで橋のほうへ上がるように導く。思ったより力を入れて組んでいた袖下の両腕を解くのに手間取りながら、己煥は朝明に従った。
「……災いは平等だ」
茂部之子は取り繕ったしたり顔で言い放つ。
「家柄の良い才府も、優秀な五主も、不幸には抗えない。五本目の指を数えるのが貴方がたのうち誰か一人でなければ幸いですな」
「あなたはご自分の心配をなさったほうがよろしいですよ!そろそろ寒さが堪える御老体であらせられますしね!では失礼!」
聡伴は今度こそ足を止めまいと、慌てて朝明と己煥を追いかける。
橋を下った先では、大股で容赦なくひたすら前を歩く朝明に引っ張られて、足をもつれさせた己煥が待ったをかけていた。寺の門前を過ぎたあたりには馬を待たせてくれているのだろう。ここから城下へ少し上がったところに、朝明の別邸がある。
「朝明様!」
ふたりに追いついた聡伴は、時間を取らせてしまったことを朝明に詫びるが、馬に乗りながら垂れ流すのは先程の愚痴であった。
「なんですかあいつ!己煥様が口利きで職位をもらったかのような言い方」
「それなりの位に就けば、私でなくとも下の者からの妬みや嫉妬は誰だってかっている」
身体が弱く、これまでたいして仕事を抱えてこなかった己の名が聞こえるのが面白くない下級官吏が多いのは致し方ないことだろうと己煥は思っている。
「それでも言わせすぎだ。少しは周りを黙らせる努力をしろ」
「なんだお前まで」
「せっかく才能と実績は折り紙付きなんですから、御身体崩されてたときのことなんて気にしなくていいんですよ」
「この調子じゃあ小賢しい出世の競り合いで潰されちまうぞ。とくにお前んところは」
同籍同士の出世争いが著しい唐栄に生まれながらも、己煥はどうも控えめで気が柔い。己と立場が逆であったほうが過ごしやすかったのではないかとすら朝明は思ってしまう。
「己の沈黙は是の証で」
「他の妄言こそが真とされるんだぞ」
お前の将来に係ることなんだから、と朝明は念を押す。
官吏という職は、謹厳実直に仕事をこなすだけでは立身の道は拓けないし、従順で馬鹿正直では勤めをまっとうすることはかなわない。頭だけではなく、気と口もよく回さなければ生き残れないのだ。己煥とてそれがわからないわけではないのだが。
強く言い聞かせてくるふたりに気圧された己煥は、結局のところ、朝明しかわからない程度に頬を膨らませてふたりから目を逸らし、相変わらず黙っておくことしかできなかった。
「ところで朝明様、あの噂は……」
「いいか聡伴、進貢船の員数は二百余名だ。それが全員死んだら龕は出ずっぱりだぜ?」
荼毘のさいに遺体を納めて運ぶ龕は、各村にひとつずつしかない大切な共有物だ。月に何度も葬式を出されてはたまったものではない。
「そりゃあ、まぁそうですけど……あ、お刺身美味しかったです」
すっかり陽が落ちたころに到着した朝明の別邸でふたりに散々窘められ、供される料理に鼓を打っていても、聡伴はどうにも噂が気にかかって仕方がない。腹に流し込んだ汁物の温かさが、少しだけ気を軽くさせた。
「船旅は死に近い。船をおりてもそれの気配はなかなか離れぬだろう」
そして、その心懸かりは吐き出されるにつれて尾ひれを纏い、村を流れ、町へ飛び、やがて大きな噂となる。
屋敷の使用人に獲らせてきたのだという玄翁に、 己煥もありがたく一切れ、箸をつけた。 血色の良い白身は厚めに切りおろされ、ほんの少し加えた酢が身そのものの淡い味を引き立てている。
見目のためにうっすらと残された皮がおびる青い濃淡は、薄明りのなかで鈍く光り、とても美しかった。
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】5箇所目 番外編その2 2021/6/28
見玉不動尊
《 中魚沼郡津南町秋成 》
見玉不動尊(正宝院)
見玉山(みだまさん)正宝院(見玉不動尊)町内の見玉にある、天台宗のお寺です。その由来は、文治元年、壇の浦の合戦で平家が滅びた翌文治二年、平清盛の家臣宮本清左ェ門がお告げによって平家の守護神である不動明王を奉持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院が誕生しました。したがって本尊は不動明王で、像の裏に「清盛内知見」の文字があったと伝えられています。 文政五年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より何をのがれました。その後不動堂も大正三年焼失、大正八年に現在の不動堂が再建されました。本尊・不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています
北方高所の中腹に登る石段七〇段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ二メートル半の金剛力士の仁王門を構えています
本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた、郡内屈指の霊地と言われています。
真夏はクーラーが聞いている部屋のように涼しいため、涼みにくる人が絶えません。
また、地元では隠れたパワースポットとして知られています。
【不動明王】
密教では如来が怒りの姿変じたのを教令輪真(きょうりょうりんしん)と呼び、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)が大日如来(だいにちにょらい)として現れた、その教令輪真が不動明王と説かれています。
その威厳に満ちた姿から、すべての災いを屈服させるといわれ、さらに難行苦行に立ち向かう修行者を守ると信仰されています。
【仁王門】
寺院の門で左右の金剛座に仁王(金剛力士)像が配されているものは、建築様式にかかわらず仁王門といわれています。
【金剛力士(仁王)】
上半身は筋骨隆々とした裸体で、下半身に裳をつけて裾をたくしあげて、手には金剛杵(こんごうしょ)とよばれる仏具をもっている一対の像。
口を開いているものを阿形(あぎょう)、閉じているものを吽形(うんぎょう)と呼び、いずれも発声する時の口の形によります。
密教ではすべての法の始まりを「あ」として、世の中の一切のものを発生させるとし、終りを「うん」として、一切のものの帰着する徳があるといわれています。日本の「五十音」の始めと終りでもあります。
「あ」と発し「うん」とうける「相向守護」ともいわれています。
一般的には威厳のある顔や力強い体格に憧れ、健康を祈る信仰が強く、俗信でちぎった紙を口中で噛んでつばでまるめ、仁王の自分の身体の悪い部分や発達させたい部分に投げつけ、当たるとなおったり、強くなるといわれている。見玉不動尊の仁王にもいたるところに、ちぎった紙が貼り付いています。※現在、投げつけは行っておりません。
また、仁王は健脚を守ると考えられ、大小のわらじが奉納されてます。
【大火渡り護摩(防災招福祈願)】
毎年11月3日に境内で開催される行事です。裸足で火渡りをする山伏の気迫溢れる表情を間近でご覧いただくことができます。
火渡り護摩への一般参加も可能ですが、その際は実行委員の指示に従い、ご参加くださいますようお願いします。
観光時期
通年(期間:4月~12月 冬期:一部閉鎖)
料金
無料
定休日
無休
秋山郷の入口見玉にある天台宗のお寺です。その由来は、文治元年、壇ノ浦の合戦で平家が滅びた翌文治2年、平清盛の家臣宮本清左衛門がお告げによって平家の守護神である不動明王を捧持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院(しょうほういん)が誕生したとされています。
文政5年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より難をのがれました。その後再び大正3年に焼失、大正8年に現在の不動堂が再建されました。本尊不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています。北方高所の中腹に登る石段70段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ2メートル半の金剛力士の仁王門を構えています。本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた霊地と言われています。
なお、この寺の本山は比叡山延暦寺です。
駐車場から歩いて1分、お土産屋を横目に鳥居をくぐり見玉不動尊の聖域へ入ります。
鳥居をくぐった左手が正宝院。見玉不動尊のご利益について住職のありがたいお話を聞きながら御礼受付。正宝院の上には大黒殿がそびえ建ちます。
大黒殿の上にある六地蔵とボケ除け観音
大黒殿の上にあるお願い地蔵
お願い地蔵の写真です お願い地蔵の説明看板です
一般的には威厳のある顔や力強い体格に憧れ、健康を守る信仰が強く、俗信でちぎった紙を口中で噛んでつばでまるめ、仁王の自分の体の悪い部分や発達させたい部分に投げつけ、当たるとなおったり強くなると言われています。仁王は健脚を守ると考えられ、大小のわらじが奉納されています。
上半身は筋骨隆々とした裸体で、下半身に裳をつけて裾をたくしあげて、手には金剛杵(こんごうしょ)と呼ばれる仏具を持っている一対の像、金剛力士像。口が開いているものを阿形(あぎょう)、閉じているものを吽形と呼び、いずれも発声する時の口の形によります。
仁王門をくぐって本堂へ向う。急勾配な70段の石段。途中には「延命水」というご利益の高い水で喉を潤すことができます。
石段と平行して流れる7段の滝。その優雅な姿が癒しの空間を演出してくれます。仁王門の大杉3本は樹齢700年余りの古木で、400~500年前からの杉も幾本かあり、その大杉の間をぬって7つの滝(7段の滝)が冷たい浄水をおしげなく流して、夏も涼しくすこぶる美観です。
本堂脇には、眼病治癒をはじめ、多くの参拝者の願いが書かれた絵馬が並びます。
見玉不動尊の脇にはお土産屋さんもあり、津南町、秋山郷の特産品などここでしか買えない一品を手に入れることができます。
眼病治癒の逸話が残る見玉不動尊にはメグスリの木があります。メグスリの木を煎じたお茶もお土産として販売されており、しぶみの効いたおいしいお茶です。
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