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#むち打ち治療
herbiemikeadamski · 2 years
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 6月7日(火) #先勝(辛卯) 旧暦 5/9 月齢 7.6 上弦 年始から158日目(閏年では159日目)にあたり、年末まであと207日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 昨日は朝から帰りの時刻まで一日中 雨でした☔️日中はデスクワークだし 良いのですが、朝はびしょ濡れ靴下 もシューズも濡れちゃって酷いもん でした⤵️帰りも雨だし折角、干して 乾かした靴下も半乾きのシューズを 履くの、こんな残念な思い嫌です🤚 . 残念と云えば、この頃、毎日のよう に蓮業者からのメールで資材や商品 の納入が遅れるので早目に発注をと お願いする報告が多くなりました⤵️ 昨日、ついには製品の取り止め廃盤 すると、😨エッ!マジスカですよね⤵️⤵️ 早目にご注文を促すのだが無理デショ . 失くなる商品についてアフターやら メンテの事を考えたら買えません💦 しかし、一つの製品に関わる全ての 関連している人達も不要になるって 事を思ったら、どんどん社会が崩壊 して行ってるんだなぁ〜って笑って 居られなくなりました⤵️正にGRが . 着々と進んで居るんだと思うと残念。 と云うより、早く元の社会に戻さな ければなりませんよと怒りが💢💢 1960年〜1980年代の30年間の様 に日本が輝いてた昭和の時代に戻せ ねばなりません🚀よ🤚平成の30 年間は酷い時代でした⤵️令和では . ついに日本が崩壊🇯🇵💥ってな事に ならない様に、マスク😷なんかし て言いなりになってる場合じゃない ですよ🤚日本だけじゃなく様々な 国が同じ目にあってるんです⤵️⤵️ 私の乗ってるイタリアのアディバが アメリカに買い取られるという残念 . な報告も聞きました。真面目に何と かしなくてはなりません🤚昔は政治 なんて興味ないよ💦なんて思って ましたけど、今度の7月の選挙で変え ないと日本の将来は、このままだと 失くなるでしょうね⤵️自国を守れる 強い国に生まれた変わる時が来ました。 . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #浦上四番崩れ(ウラカミヨバンクズレ). 1868年6月7日(金)先負.【明治元年閏4月17日】江戸時代末期から明治時代初期にかけてキリスト教は禁教である事に  明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを摘発し大量に捕縛されて拷問を受けた上に流罪とした事件である。  これは、江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府が国内と特に長崎・浦上でキリシタン弾圧したのである。  これを「浦上四番崩れ」と称した事で、キリスト教信仰の盛んな諸国から激しい非難を受けた。  この頃、別件で政府使節として欧米へ赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断  し、その旨本国に打電通達した。  これにより1873(明治69年にキリシタン禁制は廃止され、1614(慶長19)年の全面禁教以来259年振りにキリスト教信仰が解禁。 . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). 陰陽道(おんみょうどう)の六曜日の一つ。 この日は勝負ごと、訴訟や急用などに運がよいとされ、早い時刻ほど良くとされ、午後は凶になるなどの俗信がある。 . #緑内障を考える日. . #ムダ毛なしの日. . #親大会記念日. . #むち打ち治療の日. . #多摩川スピードウェイ第1回全国自動車競走大会. . #生パスタの日(毎月七日と八日).  生めん類の製造業者の団体である全国製麺協同組合連合会が制定。 . #ジャーナリストの日(#アルゼンチン). . #セッテ・ジューニョ(#マルタ). . #ノルウェー連邦解体記念日. . #ペルー国旗の日. . . ■本日の語句■. #静中の静は真の静にあらず(セイチュウノセイハマコトノセイニアラズ) 【解説】 目まぐるしい活動の中でも「静」を保てる事が、本当の心の在り方である。 苦境の中でも楽しみ喜びを見つけられる事が、本当の心のあり方であるという戒め。 静かなところでしか保てない心の静けさは本当の静けさではない。 . . 1972(昭和47)年6月7日(水)大安. #竹井亮介 (#たけいりょうすけ) 【俳優】 〔神奈川県〕 . . (南流山駅) https://www.instagram.com/p/CeesPeLhRWsGQX7bwuJPNM-iZwMKXnc0mdzUE00/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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chikuri · 4 months
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クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説: まずは約5分に渡るクロエのオープニング・ステートメントから: = = = = = = = = = = 私の名前はクロエ・コール。デトランジショナー*です。別の言い方をするなら、私は自分が間違った体に生まれたと信じていて、そして、私が信頼していた大人たちは私のそんな考えを肯定し、生涯癒えることのない傷を私に残しました。 (*=ホルモン療法や身体整形などの医療行為により性別を変え(トランスし)た後、元の性別に戻ることをデトランスdetrans、その個人をデトランジショナーdetransitionerという) 私は今日、アメリカ史上最大の医療スキャンダルの犠牲者として、皆さんの前でお話しします。皆さんにこの狂乱を終わらせる勇気を持っていただき、私が経験したような苦しみを、脆く危うい状況にあるティーンエイジャーや子どもたち、そして若い大人たちが味わうことのないようにしていただきたいと願っています。 - 12歳の時、私は後に医療チームが性別違和と診断するような経験をし始めました。私は幼くしてやってきた思春期の真っ只中で、自分の身体に起きている変化をとても不快に感じていました。男性から注目されることに怯えていました。今になって思えば、両親に「自分は男の子のような気がする」と言���たのも、思春期が嫌で、この未知の性的な緊張が無くなってほしいという意味だったでしょう。私は姉たちよりも兄たちの方を少し慕っていましたし。 私はダイニングテーブルの上に置手紙をして、自分はトランスジェンダーだと告白しました。両親はすぐに心配し、医療の専門家の助けを借りる必要があると感じたようでした。しかし、それは間違いだったのです。家族全員が即座に、イデオロギーに突き動かされた欺瞞と強要の道を歩むことになりました。 私が受診した一般的な専門家は、両親に「すぐに思春期抑制剤(ブロッカー)を飲ませる必要があります」と言いました。 彼らは両親に簡単な質問をしました:「 死んだ娘さんと生きているトランスジェンダーの息子さん、どちらを選びますか?*」と。 (*=トランス医療における常套句で、子供の主張するジェンダーを肯定しなければその子は自殺してしまうだろう、ならば性別を移行させてやる方が本人のメンタルヘルスも回復し希死念慮もなくなる、という意味) その選択は両親の警戒を解くのに十分でしたし、今考えても両親を責めることはできません。私たち全員が、いわゆるジェンダー肯定治療(ジェンダー・アファーミング・ケア)*の犠牲になった瞬間でした。 (*=欧米で広く支持されてきた療法で、患者の経験��感覚を尊重し本人の主張するジェンダーに寄り添った医療やサポートを行う) - 思春期ブロッカー、そしてテストステロンへと急ピッチで進められ、その結果、更年期障害のようなほてりで学業に集中できなくなりました。今でも関節痛や背中の変な痛みがあります。ブロッカーを使っていたときのほうがずっとひどかったですが。 その1ヵ月後、13歳のときに初めてテストステロン注射を打ちました。不可逆的な身体の変化が引き起こされ、私の声は永遠に深く、顎のラインは鋭く、鼻は長く、骨格は永久に男性のそれになり、喉仏はより目立つようになり、生殖能力は不明となりました。 時々鏡を見ると、まるで自分が怪物のように思えます。 私が二重乳房切除術を受けたのは15歳の時です。医師は切断した乳房にガンがないか検査していましたが、もちろんガンなどなく、私は完全に健康でした。まだ発育途中だった私の体や乳房は、不安な10代の少女として気まずい思いをしたこと以外、何の問題にもさられていませんでした。 私の両胸は摘出され、その組織は焼却されました。合法的に車を運転できる歳ですらなかった。しかし将来の女性としての大きな部分が奪われたのです。母乳で我が子を育てることはもう決してできない。鏡の中の自分を見るのもつらい時があります。今でも性機能障害と闘っています。胸には大きな傷跡があり、より男性的な位置にくるようにと乳首を切除した皮膚移植のため、今日もそこから体液が垂れています。 手術後、学校の成績は落ちるところまで落ちました。 私が経験したこれら全ては、抱えていた根本的な精神衛生上の問題を解決するものではありませんでした。そして、ジェンダーについて理論を持つ医師たちは、私が手術によって漠然と男の子に似たものに変化すれば、私の悩みはすっかり無くなるだろうと考えたのです。 彼らの理論は間違っていました。薬と手術は私の身体を変えましたが、私が女性でありこれからもずっと女性である、という基本的な現実は変わらなかったし、変えることもできなかった。専門医が私の両親に、「死んだ娘か生きているトランスジェンダーの息子を持つことになる」と当初告げたとき、私には自殺願望などありませんでした。私は幸せな子供で、人と違うことで悩んでいただけです。 しかし手術後、16歳の時、私は自殺したいと思うようになりました。今は良くなっていますが、両親はもう少しで、医師から約束された死んだ娘を手に入れるところでした。私の主治医は、彼らが避けたいと言っていた悪夢そのものを作り出すところだったのです。 - 私はアメリカのティーンエイジャーとその家族にどんなメッセージを伝えたいのでしょうか? 私に必要だったのは嘘をつかれることではありませんでした。共感して欲しかった。愛されていると感じることが必要でした。男の子に変身すればすべての問題が解決するという妄想を肯定するのではなく、私の悩みに取り組むセラピーを受ける必要があったんです。 私たちは12歳の子供たちに、「間違った身体に生まれてきた、自分の肉体を拒絶していい、自分の肌に違和感を覚えるのも正当だ」、などと言うのをやめねばなりません。 「どんな服を着るかとか、どんな音楽を聴くかなどを選べるように、思春期だってチョイスであり、どのような思春期を過ごすかは自分で選べるのだ」、なんて子供たちに言うのはやめなければいけないんです。 思春期は大人になるための通過儀礼であり、緩和されるべき病ではありません。 - 今日、私は自宅で家族と19歳の誕生日を祝うはずでした。しかしその代わり、私は選挙で選ばれたあなた方に必死の訴えをしています。 オピオイド危機のような他の医療スキャンダルから教訓を学んでください。医者も人間であり、時には間違っていることもあるのだと認識してください。 私の子供時代は、私たちのネットワークを通じて知り合った何千人ものデトランジショナーたちと同様に台無しにされました。 どうか止めてください。あなただけが止められるんです。この野蛮なエセ医学によって、すでに多くの子供たちが犠牲になっています。どうかこの私の警告が最後のものとなるようにしてください。 ご静聴ありがとうございました。 = = = = = = = = = = - 公聴会でのクロエの証言はどれもショッキングであると同時に、彼女の堂々たる勇姿が人々の胸を打った。中でも子供のトランス治療に賛同した両親の存在についてクロエが声を詰まらせながら語ると、彼女の思慮深さに感動し涙する大人たちであふれた。 13歳から17歳の間に思春期抑制剤、異性間ホルモン剤、二重乳房切除術を受けたとして、カイザー財団病院とパーマネンテ・メディカル・グループを訴えているクロエは、公聴会の中で民主党側が招いた証言者のレイノルズ博士に話しかけた。 トランスジェンダーを自認する子供の母親であり、プロのカウンセラーでもあるミリアム・レイノルズ博士は、委員会の公聴会で「未成年者の性転換治療は必要であり、命を救う」と明言し、彼女の子供も現在ホルモン補充療法を受けているとしている人物である。 以下はクロエからレイノルズ博士への発言: = = = = = = = = = = レイノルズ夫人が我が子のために不安なのは理解しました。これは言っておきたいのですが、私は彼女を憎んでいません。ここにいる誰も彼女を嫌悪したりはしていないと思います。実際、私は彼女の中に自分の母親と父親を見ています。そして、明らかに彼女は子供を心から愛している。それに、彼女はできる限りでベストを尽くしている。ただじゅうぶんな術はなくて…気の毒だと思います。 子供を救いたいと願うすべての親には、最大限の援助とガイダンスがあって然るべきです。 しかしながら、私は、彼女の子供が私と同じ結果になることを望みません。誰であっても性別移行やデトランスを後悔してほしくない。なぜって、それは信じられないほど困難で、他にはない苦痛が伴い、容易なことではないからです。 彼女のお子さんが幸せで満ち足りた青年時代を過ごせるようにと願います。それがたとえどんな形であろうとも。 = = = = = = = = = = - ある日突然、幼い我が子が性別違和を訴え、多くの親たちは狼狽する。メディアや学校や小児科医やママ友まで「トランスキッズは増えているが、それは彼らが自然にカムアウトできる時代になったから。子供たちの真のジェンダーを肯定してあげなければ、彼らは間違った身体に入れられた心の苦痛に耐えきれず、自死を選ぶだろう」と言っているのだから。 日本では欧米で起きている子供たちに蔓延する熱病のようなトランス・ブーム、LGBTQイデオロギーに侵食された科学分野や医療業界、金儲けのために健康な子供たちを切り刻む医師、司法・行政・教育機関が一丸となって親から子供を引き離している実態などがまるで知られていない(にわかには信じ難い話で、まあ無理もないけれど)。 だから、クロエ・コールや他の何千という未成年のデトランジショナーがトランス治療に加担した病院や医療従事者を訴えている、と聞くと、「金目当てだろう、医者のせいにすんな」とか、「厨二病に罹ってバカを言った子供の責任だし、親もどうかしてる」とか、セカンドレイプにも似た被害者への罵詈雑言が飛び交う。 しかしそんな無知で傲慢な彼らのどれほどが、クロエや彼女の家族と同じ状況に立たされた時に後悔のない選択をできるだろう。医者や専門家という職業を信頼していれば尚のことである。 まるで他人事の彼らは、日本でも子供たちへのトランスジェンダリズム啓蒙、保護者からの引き離し(親に内緒で未成年児童をLGBTQユース団体に参加させるなど)、そして思春期抑制剤の推進なども起きていると知っているのだろうか。 画像 - トランスジェンダリズムに基づくトランス医療はエセ医学であり、欧米で今、デトランスした子供や若者たちが訴訟を始めているように、大きな巻き返しが起こって医療スキャンダルとして扱われる日が来る。 そう願って日々発信しています。 (終わり) さらに表示
Xユーザーの🇺🇸 🇯🇵Blahさん: 「クロエ・コールは12歳の時トランスジェンダー医療に引き込まれた犠牲者だが、その苦しみを全身に背負いながら同じ境遇の子供たちを救うため活動している。トランスジェンダリズムの闇にメスを入れるべく開かれた米国下院司法委員会の公聴会で、涙ながらにその全貌を語った。 以下、和訳と解説:… https://t.co/DRd2Vlbwfc」 / X
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kennak · 5 months
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9月21日午前6時に父が亡くなった。 老健からの退所が決まり、週末のみ自宅で過ごすことが決定してからの 我が家はまさに上を下への大騒ぎだった。 家の中までの導線を確保した上で車椅子が通るよう道を整備し、 父が使っていた寝室に入るサイズの介護ベッドを調達して 高齢の母の負担が極力減るようにヘルパーの力を頼りながらの受け入れ生活だったが あれほどの労力をかけて準備したにも関わらず、わずか2ヶ月ほどでピリオドを打った。 コロナ感染からの重症化で一時は命も危ぶまれた父は、奇跡的に回復するも 肺炎により嚥下機能が著しく低下していたため誤嚥性肺炎を繰り返しては再入院し、 「急変した際の延命治療はどうしますか」とその都度医師に聞かれた。 そして3度目の再発で入院し、同じように「どうしますか」と問われた時、 半ば慣れっこになっていた私たちは「回復の希望があるならできるだけのことはやってほしいが 機械の力を借りて心臓を動かすだけの措置なら不要」と回答した。 そしてその翌日、まるで私たちの会話を盗み聞きしていたかのように父は逝った。 今年もケムコ様より東京ゲームショウにお誘いいただいていたのだが 父の容体が安定していないことからギリギリまで返事を待っていただいていた。 (快く待ってくださったケムコ様には本当に感謝しかない。ありがとうございます。) 最初から断ることも考えたが、遠出すれば気分転換になるかもという現実逃避的な思考もあり 引き延ばすだけ引き延ばした挙句に父が選んだ旅立ちの日は9月21日、東京ゲームショウの開幕初日だった。 父についてのエピソードで一番古い記憶を辿ると、幼稚園のクリスマス会になるだろうか。 園児のところにサンタがやってきて菓子を配る恒例の会で私も楽しみにしていたのだが 当日やってきたのはサンタのコスプレをした父で、特に素性を隠すでもなく 大声で私の名前を呼びながら「おおしのびん、今年はワシがサンタじゃ」と菓子を手渡した。 私は幼稚園の年少組にして「サンタは親が演っている」ことを知ってしまったのである。 生粋の目立ちたがりで役職のつくポジションが大好きだった父を見て育ったせいか 私は人一倍自分を表に出すことを避けるようになり、今もこうしてハンドルネームでブログを書いている。 母から「お父さんのようになってはダメよ」と言われて育った私は、 言ってみれば父を反面教師にして出来上がった集合体のようなもので、何から何まで合わない。 合わないのに、成長するにつれて父に似た部分が体のあちこちに、思考の節々に現れては嫌悪した。 今にして思えば、父のようになりたくない、は、父のように何事にもオープンで大らかには生きられない 内向的な自分の劣等感が生んだ、羨望からくる逆恨みだったのかもしれない。 そのことを受け入れ、父の中に幾らかの可愛らしさを見出してからの親子関係は 世間で言うところの仲の良い親子には届いていなかったかもしれないが、そう悪くもなかったと思う。 3度目の入院の知らせは突然だった。 デイサービスから「微熱があり酸素量も少ないため念のため病院に連れていきます」と連絡があり またかと思いながら病院に駆けつけた。 前々回、前回と同じようにしばらく入院して、回復すればまた退院するのだろうとぼんやり考えていたので 入院手続きのために膨大な枚数の用紙に記入しなければならないことの方が気が重かった。 翌朝面会に行くと、父は痰を吸入してもらって楽になったのか静かに眠っていた。 夜中も1、2時間おきに吸入をしていたと聞き、頭の下がる思いがする。 とてもではないが、このケアを自宅ではできなかったろう。 父は私のことはわかっていたようで「会いにきたよ、わかる?」と聞けば小さく頷いていた。 「元気になって、また家に帰ろうな」と声をかけるとまた小さく頷いていて 「この様子なら大丈夫だろう」と少し安堵した。 しかし、翌朝の医師の説明では、心臓の機能が大分弱っているので 肺炎が治るよりも先に心臓が持たないかもしれないと告げられた。 そして、冒頭に書いたように「無理な延命治療は本人も辛かろうし不要。 楽になるための治療なら全力でお願いします」と回答して帰宅した。 その日の深夜、病院から容体がおかしいと電話があり、孫たちも連れて慌てて深夜の病院に 大勢で押しかけると、別室に移動した室内で父はスヤスヤと眠っていた。 「みなさんが到着される直前に急に安定し始めて」とナースは申し訳なさそうに笑ったが 「人騒がせなじいじだ」と悪態をつきながらも皆笑顔だった。 その翌日、またしても深夜に病院から電話があり、同じように大勢で深夜の病院に向かった。 酸素がなかなか上がってこないと昨夜より病室内の空気に緊張感があったが 当の本人��傍目には穏やかに眠っているように見えた。 「こんなことがこれから毎晩続くのかしら」と母が疲労困憊の様子で口にするのを聞きながら 昨日医師に「まぁ、こんな感じで心臓がゆっくり止まってしまうほうが本人は楽だと思いますよ。 本当に眠るように、何も苦しまずに済むので。」と言われたことを思い出していた。 ほどなくして心電図を表示している機械から危険を知らせるアラーム音が鳴り、慌ただしくナースが入ってきた。 「まだいったらだめだよ」「起きてじいじ」「起きないと怒るよ」と孫たちがそれぞれ父に声をかけ 「家に帰ろうよ」と姉が語りかけた後に、それまで黙って見守っていた母が父の手を取って話し始めた。 「じいじ、ねえじいじ、本当に好き放題に生きたわね。 突然商売をすると言い始めて、30年間も私にその店を手伝わせている間に 他所で女を作ったり、こっそり家のお金に手をつけたり。 その人を連れてゴルフに旅行にと遊びまわり、飲み歩いてね。 子育てなんて全部私に任せっきりで、ほとんどしなかったでしょ。 でもねじいじ、私はそれでも、あなたにまだ居て欲しい」 父の左手を両手で包み込み、まるで駄々っ子を宥めるように話しかける母の言葉を聞きながら 「おいおい、こんな男にだけはなるなと刷り込み続けて今更それはないだろう」と思ったりもしたが その言葉を聞いて、つくづく夫婦のことは夫婦にしかわからないのだと思い知らされた。 そして母が話し終えるのを待っていたかのように、9月21日午前6時に父の心臓は動きを止めた。 息を引き取る直前まで、話しかければ反応していたし、ゆっくりと腕を持ち上げたりピースサインも出せていて 「ぎゅっと握ってごらん」と言えば握り返していた父の時間は、本当に呆気なく止まったのだった。 けたたましい機械音さえなければ寝落ちを疑うほど穏やかな最期だった。 入退院を繰り返したとはいえ、何週間も昏睡状態が続いたわけでもなく、 在宅介護開始から2ヶ月、再入院から僅か2日で逝った父は ピンピンコロリとまではいかなくとも、ほどほどコロリぐらいの称号は与えても良い気がする。 面倒を見ていた親族の誰も介護疲れに陥らせず 別れを惜しむ気持ちを十分に残した上で旅立ったことは、家庭を振り返らず仕事に恋に奔放に生きた父が 珍しく見せた父親らしい気遣いと言っていいかもしれない。 週末は自宅で皆に介護されながら、コロナ感染の入院直前に食べるはずだった念願の鰻もちゃんと食し 早朝にも関わらず親族8人が見守る中で逝けたのだから、幸せだったろう。 亡くなる前日の朝、家族がいる手前では気恥ずかしさが勝ってしまい、正直な気持ちを話せないと思った私は ひとりで病院に面会に行き、眠っている父に向かって幼い頃から反抗的な態度を取ってきたことを詫びた。 「できの悪い息子でごめんな」と耳元で話していると、父が一瞬、私の手を握り返してきた、気がした。 あの時間がなければ、私の後悔はもっとずっと大きかったと思う。 テレビで何度も見かけた「9月21日午前6時21分、お亡くなりになりました」という医師の言葉を聞き終えて外に出ると もう空は明るくなり始めており、電話1本で飛んできた葬儀屋と話をしているうちにすっかり陽は昇った。 秋晴れの爽やかな朝だった。 悲しみに浸る暇もなく、数々の段取りが始まった。 実を言うと、2年ぐらい前から「親が亡くなった時にするべきこと」という ハウツーのページをブックマークしていて、折に触れて読み返すのを癖づけていた。 10年以上前の別れでは狼狽してしまい、何もかも人任せにしてしまった反省から いざという時にあたふたせず、冷静に適切な行動とれるための予習をしていたのだ。 親族と親しい方々への連絡、役所への届け出、葬儀の手配など まるで流れ作業のように進んでいって、翌日には通夜、翌々日の葬儀がすんなり決まった。 通夜の翌日、親族の集まった部屋に入ると、皆が見守る中で父が風呂に入れられていた。 旅立ちの前に全身を綺麗にするオプションサービスで、母が頼んでいたらしい。 髪も丁寧に洗い、顔もパック&化粧までしてほとんど韓流スターのようなフルコース。 一部始終を近くで見ていた姉が「私がやって欲しいぐらいのサービスだったわ」と感心していた通り 仕上がった父はこざっぱりして生気を取り戻したように見えた。 昼時になり孫たちが腹が減ったと言うのでGoogleMapで調べてみると 田舎のため近くにはコンビニぐらいしか引き当たらない。 「仕方ないから適当におにぎりでも買ってこようか」と義兄は言ったのだが 騒がしく葬るのが我が家のスタイルだからと、私の提案でデリバリーを頼むことにした。 幸い、配達圏内にカレー屋とピザ屋が引き当たったため Uberと出前館に一軒ずつ注文を出し、数十分後には親族控室はカレーとピザの匂いで充満した。 父の想い出話を肴にワイワイと盛り上がり、「こんなに騒がしい親族の控室はないんじゃないか」と 誰かが口にするほど賑やかな昼食になった。 年を取ってもジャンクフードが大好きだった父は、すぐ横で羨ましく見ていたに違いない。 皆で盛り上がっているところに葬儀屋が入ってきて、一枚の紙を置いていった。 折り鶴の形をした形状記憶用紙で、皆で一言ずつ別れの言葉を書いてお棺に入れるのだという。 「お疲れ様でした」「あちらでは偉そうな振る舞いをしないように」(←私)など各自が書き込み、 最後に全員のメッセージを読んでいると、看護学生をしている姪が書いたと思しき一文が目に留まった。 「きちんと面倒をみてあげられなくてごめんなさい。立派な看護師になってみせます。」 淡々と皆の様子を俯瞰で眺めてきた私は、その一文を読んで初めて涙腺が緩んだ。 父親としては赤点だったが、祖父としては孫達に慕われる良きじいじだったのだ。 父の顔の広さもあって、葬儀場には置き場所に困るほどの花が届き、弔問客で溢れ返った。 コロナ禍ではとても実現できなかったであろうし、やはり父はツイている。 「いよいよお別れの時です。 生前お付き合いのあった方は、どうか前に出てきてお顔を見て差し上げてください。 仏様は亡くなっても私達に多くのことを教えてくださいます。 命の儚さ、尊さ、多くの教えを私達の心に遺して旅立たれるのです。」 お棺を閉じる前のお坊さんの言葉に誘われるように棺の前に立ち、眠っている父の顔を覗き込んでみた。 次々と収められる花に囲まれた父は、加工アプリで装飾し過ぎた写真のようなビジュアルで少しだけ滑稽だった。 そしてその姿を見てフフッと少し笑った後に、訳もわからず涙が流れた。 時間にしてほんの1分ぐらいだったと思うが、どこかの栓が抜けたようにドバドバと流れて自分でも驚いた。 「最後ぐらい泣いてくれ」と、父が私の涙腺(栓)を抜きにきたのかも知れない。 こんな機会でもなければ会うことの無かったであろう、数十年振りの知人や親戚と再会し 様々な思い出話をしていると、この時間も父の置き土産なのだと感じる。 簡略化の進む現代風の葬り方にも良い点はあるが、昔ながらの葬式も、その煩わしさも込みでなかなか良い。 親族用にチャーターした火葬場までの送迎バスに乗り込む際、 片手で骨壷を持ち、片手でスマホを持って自撮りをした。父とのツーショットである。 山の中腹にある火葬場は薄曇りで少し肌寒かったが、待ち時間中はやはり四方山話で盛り上がった。 火葬を終え、小さな骨壷に収まった父と帰宅してから 四十九日までの予定を親族で確認し、それぞれが日常に戻っていった。 数日して何気なくiPhoneの写真フォルダを見ていると、入院時に父と撮った写真が出てきた。 亡くなった9月21日は金曜日、その写真は2日前の19日だったので 写真の上にはまだ『水曜日』と表示されている。 iPhoneの写真は1週間以内なら曜日で表記され、1週間以上が経つと○月○日の表記に変わる。 水曜日という表示に、まだ数日前まで父はこの世にいたのだと気づかされた。 老健に長く入っていたし、それほど頻繁に会っていたわけでもないのに 「もういない」ことが日毎に実感となって、音もなく雪が降り積もるように静かに寂しさが募っていく。 あっという間に四十九日を迎え、近しい親族だけで法要を済ませた。 葬儀の時と同じお坊さんがやってきて、最後にまたひとつ話をしていった。 「四十九日が経ちましたね。 毎日元気にお過ごしでしょうか。 今日はひとつ、時間と命について皆さんに考えていただきたいと思います。 私たちは皆、等しく流れる時間の中で生きています。 亡くなった方の時間はそこで止まり、しかし私達の時間は動き続けます。 時間の止まった方との距離は日々遠くなり、日常で思い出す機会が減ってきたり 悲しみが薄れたりしますが、そんな時こそ、生きていることを自覚していただいたいのです。 今日この場で皆さんと過ごした時間が二度と戻らないのと同じように 時間は先にしか流れないと自覚しながら、1日1日を大切に過ごして下さい。」 私にとって父が良い父でなかったように、父にとって私も良い息子ではなかったろう。 生きているうちにもう少し何とか出来たかもと思わないでもないが、全て���後の祭り。 是枝裕和監督の映画「歩いても歩いても」に出てくる 『人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない。』を、まんまと私も体験してしまった。 先人からの教訓を受け取っていたのに、実践を怠って同じ後悔をして その気持ちをこうして文章に残し、誰かが悔いを残さないようにと祈る。 そうやって、人は生きていくのだ。
四十九日 - 忍之閻魔帳
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takahashicleaning · 2 months
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TEDにて
レジーナ・ハートリー:最高の人材の履歴書が必ずしも理想的でない理由?
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
完璧な履歴書を持つ候補者と、困難を戦い抜いてきた候補者のどちらかを選ぶことになったとき、人事のレジーナ・ハートリーは常に「静かなる闘士」にチャンスを与えると言います。
「公正」の定義は、「公平」の「判断や言動などがかたよっていないこと」に加えて、「正義」の方向に現在進行形で進んでいる事象のこと。
「正義」の定義は、この場合、マイケルサンデルによると、ジョンロールズの格差原理から最下層の便益に合わせて社会を動かすことが正義である!と言っています。
知ってるつもりで思い違いしてること!
公平概念は「ハンデをつけて上限を公平に!」
平等概念をわかりやすく言葉にすると「上限の公平ではなく底上げの平等!」みたいな感じで、これ以上でも以下でも概念が変わるから拡大解釈しないこと。
法人の平等な競争はあまり聞いたことない。公平な競争がしっくりくる。
自身逆境を生き抜いてきたハートリーは、最悪のところから這い上がってきた人には変化し続ける仕事環境を耐え抜ける力があると知っているからです。
彼女はアドバイスします!
「過小評価されている候補者に目を向けてください。彼らの秘密の武器はその情熱と目的意識です。静かなる闘士を採用しましょう」
しかし、産業によっても異なるので絶対ではありませんし、新産業は優遇される可能性は高いかもしれません。
履歴書は、その人物のストーリーを語ります。長年の経験からパッチワークキルトみたいな履歴を持つ人について学んだことがあり、そういう履歴書をすぐには放り出さず、立ち止まってよく検討するようになりました。
半端な仕事の連続は、一貫性の無さや集中力の欠如。気まぐれさを示すかもしれませんが、一方で何かの障害と戦ってきたことを示すのかもしれません。
「闘士」には少なくとも面接してみる価値があります。
断っておきますが、別に「銀のスプーン」に文句があるわけではありません。
「銀のスプーン」とは、たとえば、難関大学に合格し、卒業するには、多くの犠牲と努力が必要です。
大企業にあう適性な人はこれでもよいです。
しかし、すべて成功を前提とした人生を歩んできたとしたら困難にどう対処するのでしょうか?
私が採用したある人は、一流大出の自分には相応しくない仕事があると考えていました。仕事のプロセス理解のために一時的につまらない手作業をさせると彼は辞めてしまいました。
それとは、逆に、敗者の人生を運命付けられたような人が成功を勝ち取っていたとしたらどうでしょう?
ぜひ、自ら意思決定して、そういう「闘士」を面接するようお勧めします。
このように、日々、成長していき、ある日突然、開眼するような人材は、人工知能の社員を雇う際の雇用アルゴリズムでは探せませんよ。
ある履歴書を見てみましょう。この人物は、両親から養子に出されました。大学は中退し、職を転々とし、1年間。インドに滞在しています。その上、彼には読字障害がありま��た。
皆さんだったらそんな人を採用しますか?
彼は、名を「スティーブ・ジョブズ」と言います。
世界で最も成功した起業家(新産業限定ですが・・・)を調査した結果。読字障害を持つ割合が非常に高いことが分かりました。米国では、調査対象となった起業家の35%が読字障害を持っていたのです。
驚くのは、心的外傷後成長の経験者であるこれらの起業家の中には、自分の学習障害は長所になっていて「望ましい欠陥」なのだと考えている人がいることです(最先端の治療技術を十分に受けてからですが・・・)
なお、アメリカでは、心療内科や精神的なメンタルケアの分野は、日本の10、20年先位進んでいます!!
なぜなら、そのお陰で良い聞き手となり、細部に注意を払うようになったからだと。彼らは、自分が逆境にもかかわらず、成功したとは考えていません。今の自分があるのも逆境のお陰だと思っているのです。
彼らは、トラウマや苦難を自己形成の主要な要素として受入れるとともに、そのような経験がなければ、成功に必要な力や根性は身につかなかったかもしれないことを理解しています。
そして、最後に人間関係があります。逆境に打ち勝った人々は、単独で成し遂げているわけではありません。成功への道のりのどこかで彼らは自分の長所を引き出し、自分の成功に投資してくれるエンジェル投資家に出会っています。
どんな時でも頼りにできる人の存在が逆境に打ち勝つ為には必要なのです。
最後に大事なヒントを皆さんにお教えしようと思います。多様性とインクルーシブな実践に取り組む企業(新産業限定ですが・・・)は、「闘士」タイプを支援し、業績も優れている傾向があります。
DiversityInc誌の調査によれば、多様性において上位50社に入る企業は、S&P500を利益率で25%上回るという結果が出ています(アメリカでは)
最初の質問に戻りますが、皆さんはどちらに賭けますか?
「銀のスプーン」か「闘士」か?私は、過小評価されている候補者を選ぶべきだと言いたい。彼らには情熱と目的意識という 隠れた武器があります。
産業によって適性は異なりますが・・・
既存産業以外の人間の限界を遥かに超えるような新産業は、タイマンで面接をして「闘士」を雇いましょう。
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
こういう新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!
(個人的なアイデア)
特に、人材派遣業界に強制適用して事前分配や再分配を行政府は促進させること。
万が一、公人、有名人、俳優、著名人以外の個人情報が無断コピーされたら、データ配当金を回数に応じて、何倍にも増やすことで、法人への罰金として本人が請求できるようにする弱者救済、削除の仕組みも必要。
派遣業界の相場はわからないが、ダニエルカーネマンから年収600万円位で簡単に計算すると時給3000円位が幸福な生活を維持できる分岐点!
今の日経平均株価なら夢ではなく現実で業界イメージ刷新見直しにも?
時給3000円位を目標にして法人単位では異なるから行政府が最低賃金以外の経路で下支えし底上げする現在の政策を維持して
派遣業界の再分配も促進させるとブーストしていいかもしれない
<おすすめサイト>
ダニエル・ピンク :やる気に関する驚きの科学
ダン・アリエリー:人はどれだけ平等な世界を求めているのか?―驚きの実態
デイヴィッド・ブルックス:人間の本質と社会的動物
ゼイナップ・トゥフェックチー:機械知能は人間の道徳性をより重要なものにする!
<提供>
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delorean · 1 year
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KGモーターズさん訪問してきました
今年に入ってやっとブログを書く時間が取れましたw 忘れていた、何もしてないという訳ではなく、むしろ報告する事が溜まって収拾がつかなくなりかけたので、順不同で書いていきます。
先週土曜の2月4日、東広島で活動するスタートアップ「KGモーターズ」に行ってきました。代表者の楠さん(くっすんさん)は有名なYouTuber。「くっすんガレージライフ」というチャンネルを運営し、トヨタ車体の小型EV、コムスの鉛バッテリーをリチウムイオンに交換して走行実験をやったり、中国製EVを購入してバラす様子を公開したりと、さまざまな動画を発信しています。この「やってみる」精神に共感し、以前から注目していました。
そのうち「電気自動車をゼロから作ってみた」というコンセプトで、小型モビリティーに特化した1人乗りのオリジナルEV作りに着手。開発過程も随時YouTubeで公開する手法で盛り上げ、昨年、最初のプロトタイプを東京オートサロンで発表しました。そして今年、さらにバージョンアップした「ミニマムモビリティ」の試作車を1月の東京オートサロン、そして今(2/10〜12)まさに、大阪オートメッセで公開中です。
彼らの何が素晴らしいかというと「原付並の維持費でEVを提供する」というコンセプトの明快さ。改造EVは年々、車検の規制が厳しくなり個人レベルでは作れなくなっています。そこで彼らが着目したのは、660cc並の出力で1人乗りだけど車検不要の「青ナンバー」。この条件で魅力的なマイクロモビリティをどうやって作るかを徹底的に考え、形にしてきたのが「ミニマムモビリティコンセプト」です。前後対象のデザインにして金型を減らすアイデアはシトロエンのamiと同じ。もっと言うと、ジウジアーロ氏デザインのライトバン「スズキ キャリイ」にも通じるかわいさです。いいんじゃないでしょうか。走行テストの様子も動画で配信しています。
お邪魔した時は、大阪オートメッセ出展に向けてライトを丸目に変更中と多忙な時でしたので、改めてお伺いすることにしました。そんな中でもEVデロリアンには興味津々で、作業の手を止めて電池を搭載している部分などを見入っていました。
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EVに注目し、同じ志で活動する仲間として、今後も何か連携できればと思っています。Clubhouseの番組にもゲストで来てもらいたいなぁ。発売に向けて頑張って下さい!
最後に私ごとで恐縮です。年末に突発性難聴が再発し、年明けもしばらく、めまいと吐き気で大変な時期を過ごしましてました。。。更新が滞っていた理由がこれ。点滴を週2回、計12回打つ治療のおかげで、1月中にはほぼ回復しました。皆さん健康には気をつけましょうw
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chouhatsumimi · 3 months
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Words from Nukoduke, vol. 4, part 1
Words in bold are particularly relevant to the story, and words in italics seem like they’d be worth remembering outside the context of the manga. Bold and italic together means they’ve probably appeared somewhere in Nukoduke more than once. Kinda long list but it’s for a whole volume… actually it’s too long for tumblr, so splitting into four parts.
グロッキー, グロッギー groggy 表情筋 ひょうじょうきん mimetic muscles 冷や麦, 冷麦 ひやむぎ thin udon noodles (served chilled) 素 す one's nature, one's feelings, oneself, plain, unadorned, undecorated, unadulterated, au naturel, mere, poor, exceedingly 賑わう にぎわう to be crowded with people, to be bustling with, to prosper, to flourish, to do thriving business / prosperar, florecer, animarse でん粉, 澱粉, 殿粉 でんぷん, デンプン starch / almidón, fécula 様様, 様々 さまさま our gracious (e.g. Queen), honorific that attaches to name of a person or thing that has bestowed grace or favour upon you 不意打ち, 不意討ち ふいうち surprise attack, surprise visit, catching a person off guard / ataque sorpresa 荒療治 あらりょうじ drastic measure or treatment / medida drástica, corte por lo sano 寄り道, 寄道 よりみち dropping in on the way, stopping off at, making a side trip, going the long way round, making a detour / parada, escala 命日 めいにち anniversary of a person's death, monthly return of the date of someone's death / aniversario de la muerte 葛饅頭 くずまんじゅう ball of bean paste covered with a kudzu starch glaze 無垢 むく pure, innocent, spotless, immaculate, unspoiled, pure, unmixed, unadulterated, long kimono made from the same plain-coloured cloth / pureza 踏ん切り ふんぎり determination, decision 暴風域 ぼうふういき storm area (winds of 25mps or more) そよ風, 微風 そよかぜ, びふう gentle breeze, soft wind, breath of air, zephyr / brisa 体育会系 たいいくかいけい sports-minded, sports-oriented 人相 にんそう looks, countenance, facial features, physiognomy / aspecto, facha, pinta 外方 そっぽ the other way / exterior, afuera そっぽを向く, 外方を向く そっぽをむく to turn away, to face away, to ignore, to be uncooperative, to be unconciliatory グサッと, ぐさっと deeply (stab, thrust, etc.), hard 手なずける, 手なづける, 手懐ける てなずける, てなづける to tame, to win over 意地 いじ stubbornness, obstinacy, willpower, pride, disposition, nature, appetite, desire, greed / disposición, espíritu, fuerza de voluntad, obstinación, carácter, firmeza, apetito [this appears again at least once more, vol 6 p53) 鳥目 とりめ night-blindness 引き抜く, 引抜く, 引きぬく ひきぬく to extract, to pull out, to draw out, to uproot, to headhunt, to lure away, to poach, to entice / extraer, arrancar, sacar, extraer, desgarrar, desarraigar, reclutar talentos, reclutar talentos, atraer 替え玉, 替玉 かえだま proxy, ringer, substitute, double, second serving of noodles (to add to previously purchased ramen) / sustituto, doble, testaferro 店番, 見世番 みせばん tending a store, salesperson, sales clerk, shop assistant / tendero, vendedor 正直者 しょうじきもの honest person / persona honesta 正直者が馬鹿を見る しょうじきものがばかをみる honesty doesn't pay, life is unfair 卑怯 ひきょう cowardice, meanness, unfairness / cobardía, mezquindad, injusticia ちょろちょろ, チョロチョロ trickling (of water), flickering (of fire), darting about (e.g. a small animal), scampering about, moving rapidly / moverse de un lado a otro, ir y venir suavemente, fluir un hilo de agua 余談 よだん digression, sequel (of a story) / digresión, acotación
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luncott · 1 month
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脳内お花畑ハッキングADV『MINDHACK』クリアし…
…てません!アーリーアクセスで4章まで公開中!
あのTLに流れてきた指つきがやたらセクシーなゲームだ。最新章までプレイして中々面白かったので簡単にご紹介(1章のバレを含みます)
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人の心のソースコードを書き換えるという末恐ろしい技術を用いて個性豊かな凶悪犯罪者たちの精神をハックし、精神に生まれた「バグ」を消去して人格をキレイキレイする施設とそのドクターのお話です。ひえー!
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施術の流れはまず勝手に患者の精神に接続し、その記憶の内側を一方的に閲覧して診察することから始まります。精神が荒み淀んで凶悪犯罪者になってしまうまでの経緯を知ることになるでしょう。演出が凝ってて引き込まれる!
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あらましを知ったら頭を引っ掻き回され拒絶する患者の声を無視してデバッグを開始。スキャンした心の濁り、叫びをタイピングゲームの要領で打ち消していきます。今治してあげるからね…。
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一通りデバッグが終わったら最後の仕上げ、苦しみ喘ぐ患者の人格ソースコードをお花で書き換えてあげましょう。ここの手つきは必見。
いやあとんでもないことやっとるな、すると粗暴な彼もこの通り…
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たった1度の施術で荒んだ心はどこへやら!ウラヤマシイナー
強制的に対象の心を閲覧し、対話もなく、無害な人格に書き換える。
これでいいのか!?いいんでしょう、凶悪な心の持ち主が無害になるなら…これも一つの贖罪の形…。
人の心は肉体と違い、一度パリンと割れてしまったら元通りに治すことは極めて困難なものです。長い時間をかけて傍から見れば元通りに見えるまでになっても、それっぽく取り繕えているだけが大半。なら根本から書き換えてしまうこの療法は画期的な救い…かもしれません。
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そんなディストピア感マシマシの治療を軸に進む本作は、施術だけでなくストーリーの方も中々穏やかじゃない不穏さが展開中。物語がどこに着地するのか今後の新章が気になるばかりです。
なお現在Steamで3/21まで20%引きのセール中!とにかく嗜虐性たっぷりな描写に抵抗が無ければ…おすすめ!!
隊長好き
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hachirow-duckfield · 4 months
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2023年 加茂野やや大きいのすべて。
みなさんい、サウナ、こんばんはー。
この1年、俺は頑張りました。本気で。そんな想いを込めて、この一年の活動を網羅的に振り返っていこうと思います。
1/14(土)@高円寺HIGH
In Case vol.9
WRENCH、MOZU、computer fight
痛郎さんからお誘いいただいた。吉祥寺NEPOでの、たしかAKUTAGAWA FUNCLUBとのライブの際に声をかけていただいてからの縁で(違ったらすいません)、それからずっと目をかけてもらっている。本当にありがたい。WRENCH、MOZUという90年代オルタナの大先輩たちの共演を前に何かできることはないかと、チャレンジな取り組みとしてライブ用イヤホンをつけて練習や本番に挑んだりしたが、全然意味がない上に変なミスを招きかねないので辞めた。間近で見る菅野さんのドラムがとにかく強烈で、シンプルなフレーズでも音量やキレが自分とは比べ物にならないほど良かった。
2/19(日) @西荻窪FLAT
「毎日何にもすることなくて啓蒙している」
computer fight、the bercedes menz、din remoter、タオル
同時に、suburban bluesのフィジカルリリースも行った。ベルセデス、ディンリモは既知だったが、タオルのライブには度肝を抜かれた。最小限で、なのに必然性に溢れた音の群れ。俺は甚く胸を打たれ、後日の浜松TEHOM参加の際の動機にもなった。
4/22(土) @吉祥寺NEPO
MYFUNERAL INC. presents【TOKYO SWING special】
PANICSMILE、トリプルファイヤー、[O.A] computer fight
今思うと、ありえんくない?というイベントにOAで出演。いまだに後悔しているのは、次の日、職場のしょーもないイベントに参加するためにPANICSMILEの演奏をほとんど拝見できなかったこと。眼前で凄まじい演奏が行われている中、機材を背負ってライブハウスを出た時、自分は何になりたいんだと混乱した。そしてそんな混乱も、船の出航時間が近づくにつれて睡眠への不安に置き換わってしまうのが嫌だった。
この頃は、島での団体活動の長になり(そうしないと団体が無くなる危機だった)、さまざまな人間の要望を聞いては日夜ペンを走らせてイベントの企画などをしていた。もちろん業務外である。本当に辛かった。
そして、ずっと一緒に暮らしていたデグーのたわしが亡くなった。今でも思い出すだけで涙が出てくる。かわいいかわいい、世界一の相棒だった。最後は家族で看取ることができたが、本当はもっと長く一緒にいられたのに、俺のせいで早くいなくなってしまったのではないかと繰り返し自問して、火葬したお骨を持って家に帰る道中は、自分の不甲斐なさに怒りと切なさでいっぱいだった。島で楽しく暮らしているすべての人間が憎かった。
この件がきっかけで、俺は島での団体活動とは一線を引くことにした。たわしが最期にどう思っていたかは定かではないが、幸せに逝けたことを願う。
5/13(土)@静岡県浜松市TEHOM
「ROOMPARTY」
computer fight、やっほー、SUPERMOURNING、タオル
初の遠征ライブ。TEHOMはすごくソリッドな音のする箱で、我々の演奏と相性が良かったと思う。諦念くんはこのライブを「至っていた」と評していて、俺も今でも聴き直しては、当時の体制での内向性や情動、演奏力を再確認している。やっほーさんのライブがめちゃめちゃ面白くて、シンバルキックを3回やって3回失敗していた。楽曲のクオリティーが高くてしっかり聞けるライブだったことも最高だった。鈍行列車で岡山から浜松まで来たらしい。世の中は広いと思った。
5/14(日)@西荻窪FLAT
ハイパーパンチ自主企画ライブ「鋼の拳」@西荻窪FLAT
ハイパーパンチ、ヘクトーよるをまもる
 ハイパーパンチでも、自主企画を打った。このライブではとにかく対バン探しに苦労した。準備って大事。その中でも出演を快諾してもらったヘクトーには感謝している。我々の演奏としてはかなり荒削りではあったものの、楽曲の持つアイデアやユーモア、ポップセンスは披露できたんじゃないかと思う。
5/18(木)@恵比寿BATICA
RINGOOO A GO-GO
Haze / サトビ / Y's CAMP / ハイパーパンチ / HALLEY / PHOEBE
オーディションに出ましょう!ということで参加、特に思い入れはないけど、とにかくPHOEBEがめちゃくちゃ良かった。なんというか信念が見えるライブというか、背景が滲むライブというか。めっちゃいいねー!とダダンダンと話していたら、りんご音楽祭本戦にも出場していて、自分のように嬉しかった。
5/20(土) @調布Cross
mwmw、SleepInside、Uztama、computer fight、カルト3
5/21(日)@落合 soup
EXECUTE
Pot-pourri 、computer fight
島で所用があり、代役で田辺さんにお願いして出演してもらった。
俺はこの頃、バンド活動と、ペットの治療費にお金を注ぎ込んだ結果、貯金を使い果たして、家族に借金をするほどやばい状態だった。この日は島で用事があったというのもあるが。今現在は、借金も返済してなんとかなったが、当時はなかなかに苦しかった。
 この頃、本名くんと実験くんの脱退が決まった。訳あって俺は少し遅れて報告を受けたのだが(これは、本当にちゃん��した理由があって遅れて報告を受けた)、すごく動揺した。受験に落ちたときのような、取り返しのつかない取りこぼしがあったような気持ちになった。2人が辞めて、島で働いていて活動を制限している俺が残っていいのか?と一瞬考えたが、本当に一瞬だった。やめるとか考えられないなぁとぼんやり思うほど、ドラムは、バンドはとても楽しい。みんなおすすめだよ。
そして、畠山くんと喉笛くんが加入した。畠山くんはボーカルの公募に応募してくれて、その他応募してくれた皆様と同様に、諦念くんとスタジオに入って面接(?)がてらセッションを行い、その動画を共有してもらったのだが、佇まいというか、フロントマンとしての素質をあらあらと感じたのを覚えている。おまけにトランペットも吹けるときた。楽器こそ違うが、james chanceの文字が頭によぎった。ほぼ満場一致で畠山くんをお迎えすることになったこの数週間後、彼には住む家がなくなってしまうのだが、それはまた別のお話…。
喉笛くんは、実は俺が島に行ってしまう前にも一度諦念くん喉笛くん俺の3人で歌モノをやるバンドをしましょう!ということでスタジオに入ったことがある。その計画自体は頓挫してしまったのだが。その時にもボーカルを公募して、候補者6名に対して1曲ずつ渡せるようにと、喉笛くんが諦念くんのリフをもとに1日で6曲作ってきたのが印象的だった。喉笛くんのベースは、弾くと殴ると削るのちょうど中間を、ぎゅっと束ねて一本にしたような、途切れることなく押し寄せる現象のような音がする。そして諦念くんと同じくらいピッキングが早い。実験くんの時にストロークで弾いていた楽曲の一部は、喉笛くんのダウンストロークでまた違うテイストになったと思っている。
6/23(金) @秋葉原CLUB GOODMAN
【Fantastic Attack Types. 3】
bossston cruizing mania、LOOLOWNINGEN&THE FAR EAST IDIOTS、computer fight、THE WAMEKI、デーメーテール
新生computer fightの初ライブ。ボスクルのカシマさんとMYFUNERAL.INCのハヤセさんはcomputer fightをとてもよく評価してくれていてありがたい。このライブもメンバー交代前にお声がけ頂いたのだが、ライブまでの間にメンバーが変わってしまったものの、快く参加を受け入れてくれた。結成初期なので当然ではあるのだが、かなり演奏が粗かったのを覚えている。ただ、パフォーマンスという意味では今までのcomputer fightとは打って変わって、引き寄せるものからこちらから引き摺り込むようなテイストに変わった、転換を感じさせるライブだった。
7/23(日)@下北沢SHELTER
突然少年TOUR 秘宝2023
突然少年、computer fight、DJ: theodora katz
畠山くんの前身バンド(?)、pine shop時代からの縁で実現したライブ。未来.EPの発売ツアーの初日という、記念すべき場に呼んでもらった。決まった時は奮えたなぁ、俺は突然少年の火ヲ灯スという曲が大好きで、特に離島で暮らすことになって、船や飛行機で内地に戻り、これからライブだ!という時によく聴いていた。そんなバンドと対バンできるなんて、得難い幸��だ。
話は変わって、この夏は俺の住んでいる離島にはたくさんの友達や家族が来てくれた。しかし、なぜか悉く来訪の日程と俺のライブの日程が被ること被ること!突然少年のライブも、前日から親友の夫婦が島に遊びに来てくれていて、リハギリギリに会場に着く飛行機で内地に帰ったりした。これははっきりと原因があって、俺が友人や家族の皆皆様に「おいでよ!東京の離島!」と宣伝をかけたからである。来年は程々にしようと誓った。
8/27(日)@下北沢THREE
New LP "schedars" Release Party
schedars、SPOILMAN、computer fight
DJ:daizo、ueda、chun chun
こちらはschedarsのボーカル、sioさんからお誘いいただいた。schedarsとcomputer fightは音楽のルーツやフィーリングが重なる部分もあり、諦念くんからも「このライブは絶対出よう!」とグッと来られていた。先日のライブ同様、この日は大学の頃の親友たちを島に招いていたのだが、ライブに間に合わせるために彼らを島においての帰省となってしまい、流石に申し訳なかった。
 schedars、対バンしてみて改めて思ったけどすごいバンドだ。自由度をもってインダストリアルに奏でるギターベースドラムと枠内で狂うサックス、そしてフロントマンとして責任を全うするsioさんのボーカル(この表現で失礼はないか心配である)は、操り人形のように、バレリーナのように、歪んだ引力を持っていた、と思う。
9/9(日)@法政大学市ヶ谷キャンパス外濠校舎地下1階多目的室1
FREE FOR ALL
THE GUAYS、computer fight、5kai
 法政大学の企画団体、YADORANGのお誘いで実現したライブ。久しぶりの大学(というか法政大学は入るのすら初めて)はやや緊張した。そして同時に、大学でのライブは歓迎され招かれた上でアウェーで演奏するものであるということを知った。
9/15 EP「gushagushavinyl」リリース
 新体制での初音源リリースをした。録音は隙を見て行った。振り返ってみると、よく録音まで行けたよな〜と思う。6月にレコーディングした当時は「新体制を世に知らしめるために絶対必要!!」と意気込んでいた。ちなみにこのEPのうち2曲は実験くんが作曲し、ベースで参加している(NGUYHC、思わない)。このほかにも実験くんの作曲曲はいくつかあるが、どれかは秘密。
10/26(木)@下北沢CLUB QUE
“In Case vol.13”
MOZU、computer fight+山崎春美、SPOILMAN
 痛郎さんからのお誘いで実現したライブ。諦念くんから「山崎春美さんのバックで演奏しないかと言われている」と聞いた時、びっくりしたなぁ。バンド加入時に諦念くんから手渡されたガセネタの荒野は彼のバイブルであり、付き合いは浅いながらも彼の信念の一端に触れられたと思った。そんなわけで活動初期は「まあまあ、ビールでも飲んでエンジョイしなよ」の件にあやかって共演者がバコバコ飲酒してるのを指を咥えて眺めてみたり、バンド結成の同期を聞かれた時に「なりゆきで…」などと答えたりしていた。
 俺の頭の中の山崎春美は、過激で過剰、時には全てを時にはインタビュアーを問い詰めてしまうような人だった。スタジオでリハをした時に、扉を開けて山崎春美がスッと入ってきた時は、なんと言うか、抜き身の刃物を構えられたようなピリッとした気持ちになって、勝手に身構えてしまった。実際にお会いした春美さんは、想像より何倍も柔らかい物腰の方だった。…冷静に考えたら、俺の引用する山崎春美は30-40年も前の情報なわけで、今現在も全く同じなはずがない、先述の通り冷静に考えればわかることなのだが、それほどに当時の自分は浮かれていた。もちろん浮かれていたのは俺だけではない。リハーサルでも本番でも、諦念玲奈が今まで見たことのない笑顔でギターを弾いていて、こちらまで嬉しくなってしまった。
 ライブでは、父ちゃんのポーがきこえる、社会復帰(リハビリテーション)の2曲を披露した。コピー自体はガセネタの4曲全て行っていたが、ライブの尺の関係もあり全部はやらなかった。いつか披露できたらいいなーと思う。楽屋や終演後の打ち上げでは、ガセネタの荒野やTACOの話、書物でのみ見聞きした場所の話を本人の口から聞けると言う貴重な体験をした。そしてこの日、現メンバーに交代してから初めて、ライブでガッチリ演奏がハマった。よくパズルのピースがハマったなどと形容されるそれは、まだ途上の我々の中で何かが完成される感覚があったことを意味する。その完成がこの日であったことは、決して偶然ではないと思う。
10/28(土)@吉祥寺NEPO
ハイパーパンチ自主企画「PRO ACTION REPLAY」
ハイパーパンチ、カタカナ、プールと銃口、Mimi cries
 ハイパーパンチ2度目の自主企画。音楽のルーツを同じくする先輩バンドであるカタカナ、ダダンダンの盟友であるジンくんのプールと銃口、大学の先輩後輩で結成されたMimi criesをお呼びして行った。今後活動するにあたって、これまでサポートメンバーに入ってもらっていた農協(chatoe)とセキユウシくん(highty-tighty)から、新たにザッキーとけーさん(ex.the super charm)を招いての活動となった。
ザッキーは大学の後輩で、ベーシストでありメタラーである。俺はメタルに疎いが彼のベースと演奏に対するメンタリティが大好きで、大学の時は快速東京やガガガSPのコピーバンドをした。今年行われた大学軽音サークルでのOBライブでLAST ALLIANCEを披露していたのだが、そこで見せたパフォーマンスが良かったと言うのも、今回お誘いする動機となった。
けーさんは、先述した諦念喉笛やーさんポップスバンド計画に応募してくれた6人のうちの1人である。俺はその歌声に甚く感銘を受けて、何かバンドでお誘いできる場面があったら絶対呼ぼう!と決めていたので、すぐに声をかけた。けーさんがギター以外にどんな楽器をできるかなどは分かっていなかったのだが、歌が500000000点なのでそれ以外は練習すればいけるっしょ!という無責任なお誘いを、快く受けてくれてありがたい。
メンバー交代や新曲の披露と、練習期間も短い中ではあったが、個人的にはめちゃめちゃいいライブができたと思っているが、それは楽曲が素晴らしいと言うことに尽きる。あとは我々のパフォーマンスが良くなればなるほど、もっといいバンドになっちゃうよなぁ!?!?
11/11(土)@桜台POOL
"TOKYO SWIPE“
computer fight 、HAIZAI AUDIO 、HYPER GAL、PICNIC YOU 、Ruins alone、ZVIZMO 、高倉健、DJ :土屋光、SHOP:光るヒナ子
高倉健の企画に出演した。桜台POOLは工場の一部を打ち抜いたようなソリッドな作りで、客席とステージの境目の少ないフロアは、我々の演奏スタイルと合っていた。そして何よりお客さんの盛り上がりが凄まじくて、1バンド目の高倉健から最後の我々まで絶叫と振動、蕩揺が止まらなかった。ギターを弾きながら持ち上げられる諦念玲奈を観れるのはこれが最後だったかもしれない。他の出演者では、吉田達也さんの意味のわからないドラムと、HAIZAI AUDIOさんのパフォーマンスが素晴らしかった。特にHAIZAI AUDIOさんは、日本中のスクラップ置き場と持ち主不在のゲーム部屋を切り貼りして作ったパッチワークをブラウン管のテレビに繋いで、音声だけを無相応にデカいアンプと接続して出しているような、バリバリと響く音楽だった。
computer fight+山崎春美「社会復帰(リハビリテーション)、父ちゃんのポーが聞こえる」ライブ音源リリース
先日のライブを録音した音源を発売した。これはそれ以上でもそれ以下でもない。自分でも良く聞き直すが、1発撮りとは思えないすごいクオリティである、と自画自賛しておく。
12/10(日)@秋葉原CLUB GOODMAN
【Fantastic Attack Types. 6】
bossston cruizing mania、Anderson、H Mountains、左右、SPOILMAN、schedars、酩酊麻痺、computer fight、ギニョルズ、NA/DA
ボスクルのカシマさん、MYFUNERAL.INCのハヤセさんにお誘いいただいた企画。今回も島での業務都合と、ちょっと体調を崩していたこともあって田辺さんにサポートをお願いした。すごくいい対バンだったのでぜひ出たかったのだが…来年はこういう、いいライブをスカしてしまうことは避けるように、なんとか仕事を頑張っていきたいと。
12/24(日)@西荻窪FLAT
computer fight自主企画 終わりなき日常を生きろ
computer fight、TACO (山崎春美+森田潤)
一年の最後を飾る自主企画。1月のライブで(厳密にはもっと前からだが)痛郎さんと共演して山崎春美さんの話を聞き、その後メンバーの変遷を経て、新旧の縁から経験を重ね、10月には憧れの存在と共演することとなった我々が、最後にはTACOとの対バンが実現した。カルト3の疎過くんは「継続することの力を実感した」と呟いていた。ありがとう。
 TACOのライブの直前に、春美さんから自分をガムテープや器具で拘束するようにお願いされ、畠山くんがその役割を担っていた。特にその理由は語られなかった(し、わざわざ聞くのは野暮すぎる)が、パレスチナ問題への提起であることは間違いない。恥ずかしながら、10月の共演以降に改めてパレスチナ問題について本を読んだり、解説動画を見るなどして、改めて勉強し直して、この世の地獄があることを知った。ステージで政治について、世界情勢について、語ることの意味や価値を俺はあまり重く考えてこなかったが、春美さんと共演してからその考えは少しずつ改まっている。というか、今のこの景色は何を意味す��のか?何を表したいのか?を、この一年で、手探りではあるが自分から考え調べるようになったと思う。それはバンドメンバー、特に諦念くんのおかげであり、共演者の皆様のおかげでもある。
 computer fightはこの日のライブで、今年演奏した16曲、新曲2曲の計18曲を披露した。尊敬する先駆者に対して、文字通り今出せる全てを出したつもりだ。45分近くに及ぶ演奏は体の全てを消耗し、past manの直前では腹筋が殴られたかのように痛んだし、終演後は腕は指先から肩の付け根まで全部筋肉痛になった。足の親指の付け根は擦り切れて、脛は夜中の船の中で攣ってしまいうまく寝付けなかった。本当に、いいライブをしたと思う。息をする間もなく、どこ見ればいいのかわからないほど脈打ち痙攣し全てがそこに存在するような素晴らしいライブだった。
俺にとって、演奏とは誠実さが全てで、誠実は後悔しない。準備してきたものを吐き出して、すっからかんになってまた一からやり直す。初めからずっと最後の1曲のように、終わり、終わり、終わりを繰り返す。粉砕機に太い伐採木を繰り返し押し込むように、分厚くつながりのある塊が、俺の演奏を経由して粉々に砕けていく感覚。この誠実を得るために、毎日はかくも苦しく、かくも卑怯で、かくも思い通りにいかなくても、耐え忍び疲弊して摩耗して圧潰されることを受け入れているのだ。それが俺はとても誇らしい。
そして、この日も業務都合でライブが終わった瞬間に船に飛び乗って島に帰るやーさんなのであった。打ち上げで春美さんの話をもっと聞きたかった。トホホ、あたしゃもうイキそうだよ。
以上が2023年の俺の全てだ。この一年、大切な家族を失ってすごく辛かったし、諦念くんとは少なからずギスギスとなった。島と東京を行き来する生活は心身ともにかなり消耗して、体調を崩したことも1度あった(1度で収まっているのがおかしいという説もある)。俺は苦しくなるたびに、andymoriの「愛してやまない音楽を」の一節を思い出す。
「本気になるなら 喧嘩もするし たまに嫌になることもあるだろう」
今年は1年間、バンドに本気だった。来年も引き続き島から本気でドラムを叩きにきます。computer fight、およびハイパーパンチを引き続きよろしくお願いします。
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plasticdreams · 6 months
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そういう意味では、近年、違法薬物なみに疎んじられているタバコだって、生き残り戦術として用いている人はいるはずです。おそらく私もその部類です。思えば、根っからの陰キャで対人恐怖気味の私にとって、精神科医という高負荷接客業は、そもそも能力を超えた仕事なのでしょう。診療――多くの人の視線に曝され、他者の話に自身を差し出し、サンドバッグとして打ちのめされること――の後、タバコの煙幕と口唇愛的自己刺激の世界に逃げ込むひとときは、脆弱な私が自分を取り戻す大切な時間です。
「困った人」は「困っている人」――自己治療と重複障害(松本俊彦) – OHTABOOKSTAND
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ari0921 · 11 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)5月27日(土曜日)
   通巻第7767号  <前日発行>
 デサンティス知事の大統領選出馬表明は大きな空振りだった
  米国の分裂状態こそ、世界の安全保障にとって脅威である
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 順風満帆ではなかった。船出は最初から座礁した。
ロン・デサンティス(フロリダ州知事)の2024年大統領選出馬表明は大きな空振りだった。
 5月26日、ツィッターでイーロン・マスクとともにデサンティス(フロリダ州知事)は型破りの大統領選出馬表明を行った。事前の期待はかなり大きかった。
予約の回線がパンクしたらしく、開始が20分遅れとなった。そのうえ、出馬表明にとくに目新しいスローガンがなく、従来の保守の思想を繰り返しただけで、直後の世論調査はトランプ前大統領との差を縮めるどころか30ポイント以上も開いてしまった。
リベラルなメディアの多くが、『悲惨なスタート』等と書き散らしたが、サンティスが[WOKE]を繰り返し、その反リベラルな政治姿勢を批判したためマイナス面を押し出したに過ぎない。
サンティスは月末から六月初旬にかけてニューハンプシャー、アイオワ、サウスカロライナ州など12カ所を遊説にまわる予定だ。
しかし予備選の緒線地域でも、現時点では盛り上げる空気がない。所詮は「ミニ・トランプ」であり、二人の差違は何かと言えば、サンティスが「若いこと}と「軍隊経験がある」こと、嘗てサンティスの子供がトランプの本を読んでいる映像を流して選挙戦のPRに使うなど熱烈なトランプ支持者だった過去のトランプ便乗経過があり、それなら「次の次」に備えるべきだと諫める声も多い。
インフレ、スタグフレーション、失業、社会保障、銃規制、中絶反対、LGBTなど、とりわけ米国を分裂させているのは『大きな政府』vs「小さな政府』論争に収斂される。
 直近のFOXニュースは久々にヒラリー・クリントンを登場させて「誰もが(バイデンの)老齢を気にしている」と言わせているが、この時の世論調査でバイデンの三大政策にアメリカ人の三分の二が反対していることが分かった。
 すなわち経済政策に不賛成が66%、銃規制と不法移民対策でバイデンの政策に不賛成が67%とでた。
 大統領選挙は24年11月、あと17ヶ月も先であり、これから何が起こるか分からないが現時点でのイッシューにしぼり込むと、第一の争点は中絶問題だろう。第二が大學授業料減免措置、第三が不法移民。ついでインフレ対策、銃規制か? ウクライナ支援は大きな争点にはなっていない。中国に関しても関心はかなり鈍い。
 現在のところ、ウクライナ支援削減は共和党の保守系に限られている。しかしウクライナ戦争が長期化すれば、たぶん来年の予備選の開始までずれ込むとすれば、大きな争点に浮上する可能性はある。
それにしても、これほどバイデン政権は不評なのに、選挙となると、なぜ民主党が強いのか。労働組合の組織力? 若者たちの「なんとなくリベラル」? メディアの左翼偏向。共和党への蔑視?
具体的には身近な雇用、インフレ、そして中絶問題だろう。ファンダメンタルズの強い州では中絶は認められておらず、これが昨年の中間選挙で共和党が予想を裏切って、上院で勝てず、下院で辛勝だった結果を産んだ。共和党有利といわれた選挙区で女性票が土壇場で民主党に流れたからだ。
▲なぜあれほど無定見な民主党が選挙に強いのか?
バイデンが相当な自信をもって二期目の出馬宣言をした背景に大學ローン返済免除プログラムがある。返済のため生活に窮している国民がおよそ4000万人から7000万人。この人たちの多くが民主党に投票するだろう。
米国の大学授業料は高い。そのうえ大學の粗製濫造である。日本も少子化があきらかとなっても新制大学が雨後の竹の子状態だった。
これこそは文科省の最悪の愚策だが、産経新聞(5月24日)の報道に依れば、すでに19の新設大學が入学募集を打ち切った。
全国に私大は598校もある。このうちの284校が定員割れ。経営悪化が急速である。
立志舘(広島)、福岡医療福祉、帰路嶋国際、得上野学園、神戸海星女児学院などが学生募集を停止した。卒業生の就職のためのパスポートである以上、閉校とならず近くの大學に「救済合併」を待つしか無いだろう。
次に争点は不法移民である。
NYから50万人が去って、ブロンクス、クイーンズの人口が減ったが、かわりに65000名の不法移民がNYCに」雪崩れ込んだ。
それこそ一時的にはホテルを借り上げ、ウクライナ近隣諸国の風景と変わらない難民キャンプ、シェルター増設、かれらへの給食やら医療サービル。
じつに140ヶ所のシェルターで一日三食、つれてきた子供たちには学校へ通う手続き、一日に10億円。NYCは24年度の『難民対策予算』を29億ドル(およそ4000億円)と見積もる。
 多くのアメリカ人は不法移民のあまりのおびただしさに悲鳴を上げ、これはバイデンが不法移民の入国を黙認したからだと考えている。失業者の怒りは外国人に職を奪われたという強迫観念に近いものがあり、不法移民の大量の流れ込みを許したバイデン政権に猛烈な批判となる。
ところが、夥しいムスリム、ヒスパニック、黒人、アジア系移民などニューカマーは移民に優しい民主党に投票する。ユダヤ人も民主党贔屓が多い。
治安悪化はリベラルな首長が治めるNY、シカゴ、サンフランシスコで顕著に悪化した。警官を募集しても応募が殆ど無いとうい惨状になった。警官がマニュアル通りに犯人を逮捕しても、それが黒人だとやっかいなことになるので警察機構が弱体化した。
ついに950ドル以下の万引きは見てみないふりをすることになった。麻薬が横行し、殺人、強盗、レイプは珍しくなく、ダウンタウンからは引っ越しが相次いでサンフランシスコの一場はゴーストタウンとなった。
 かつての銃規制やユダヤロビィ教育問題などへの関心は稀釈され、ふくれあがる福祉予算が、国家の健全な財政に大きな障害となっているが、民主党支持者には、自らが受け取る福祉の恩恵、フードスタンプ、生活保護が重要なのであって、国防にカネをかける分を福祉予算委回せという考えに傾きやすい。
 財源をどうするか、民主党は富裕層増税を唱え、共和党はむしろ予算縮小を主張する。だから赤字上限枠の交渉がチキンレースとなって、ひょっとして6月早々に米国はデフォルトをやらかすかも知れない。
 ▲大学は出たけれど。。。。。。。。。。
 デフォルトとなると米国債は売られ、金利は上昇し、失業率は倍加し、600万以上が雇用を失う。株の暴落は続きドル相場はかなり下落するだろう。すでに市場はそれを織り込み済みである。
 かくして米国は分裂している。
だからトランプの当選確率は51%で、確実とは言えないのだ。日本人が漠然と描いてきた、米国の『軍事大国』「守護者』『世界の警察官』などという淡い期待は『過去の遺物』である。
日本が侵略されたら米軍がくると考えている日本人はさすがに少なくなったが、それなら自主防衛力を高めようという主権国家として当たり前の声に耳を傾ける人はまだまだ少ない。
改憲がいつになるのか、すくなくとも岸田政権の政治日程にLGBT法案などという愚策はあっても、改憲への情熱は蒸発したままである。
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tokyomariegold · 8 months
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2023/6/26〜
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6月26日 産業医の先生と保健師さんと面談をして、月頭に診察をして先生を怒らせてしまったことを思い出しながら報告した。
「あなたはショックだったかもしれないけれど、とても良い先生ですね」、「熱中症に気をつけて水分をよく摂ってくださいね」、「血圧はせめて100くらいは欲しいですね」等、あまり変わらない面談時間を過ごして、これって意味あるのかな?と思ってしまう。
でも自分の報告の中で、先生に言われている、今は思考回路までも異常だから入院して治療すれば考え方も変わる、という事に、産業医の先生は興味津々で、少し深掘りして話したら悲しくなってしまった。
今日の面談って意味あるのかな?と思ったり、 1日ごとの充実感の物足りなさを埋めるように、歩いて写真をたくさん撮って歌を歌って帰ったり、 ニュースが怖くて見られなかったり、 友人の妊娠報告におめでとうって言えなかったり、 何度気をつけてもレンジで豆乳を爆発させてしまったり、 昔の自分が撮った写真を見返して安心したり、 最果タヒに救われ過ぎたり、 読めもしないのに触れておきたい本を図書館で借りて満足したりするのって、 治療してしまったら治ってしまうのですか。
写真展の準備を進めるために、装丁を頼むところを比較してみる。とりあえず大型でない展示の写真を注文してみようかな。
面談を終えて席に戻って、不在時間があったにもかかわらず、終業後即座に帰宅してしまい、その罪悪感もあってか泣きそうになりながらあのちゃんの“スマイルあげない”を聴きながらバスに乗っていた。
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6月27日 去年飲んで美味しかったと思って、ずっと探していた冷たい豆乳でつくる枝豆のポタージュを飲んでも、驚くほど美味しさがわからなくなっていた昨晩、なんだかんだインスタントスープを3種類飲んでいた。 それと夜中に炭酸水を飲みたくてキャップを開けようとしたら、ぜんぜん捻り開けられなくて、半分くらい眠りながらタオルを巻いたりしてこじ開けた。 朝になって手のひらや指に水疱があり、?、と思って、よく思い出したらキャップを開ける時に手のひらに豆ができてしまったみたい。 鉄棒の練習をしたときを思い出す。
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暑さと湿度でぼんやりした1日。 返却期限が過ぎていた“私という未知へ向かって”を図書館で返却した。全然読む事なく玄関の棚に置きっぱなしだった。 帰りのバス停で、前の人が、mont-bellと東川町がコラボレーションしたリュックを背負っていた。“写真のまち東川町”とあり、こんな素敵なリュックを背負っている人がこんなところに!と嬉しくなる。
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6月28日 空がゴロゴロとなり始めて全てのお仕事も人付き合いも払い捨てるように職場を飛び出してしまった。 昨日ちゃんと気象情報を見ていたので、朝も昼もお天気だったけれど長靴で出勤した。
上司が違う部署の方へ打ち合わせの予定を入れようと、その方の予定表をみると、毎日の“今日は何の日”が入っていたらしい。今日はパフェの日(とある野球選手がパーフェクトなプレーをした日に因んで)、昨日はちらし寿司の日。職場のみんながアクセスできる予定表に何の日かを入れておいて、たまたまアクセスした人たちを楽しませるエンターテイナー。
最近朝はバスに乗らずに駅から歩いているので密かに推していた朝のバスで会う方々に会えなくなっていたのを、帰りの電車にそのうちの1人の方を見つけて思い出す。夏のワンピースを着ていて可愛かった。
昨日は展示する写真の小さいサイズの仮プリントを注文した!えらい!
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6月29日 明日は一年ぶりに実家へ帰る予定なので少し緊張している。 何もない実家の近くに学生時代お世話になった大学職員さんがコロラドから一時帰国しているのでお会いしたかったけれどちょうど帰国する日らしくすれ違いで今回は会えなかった。 前回はその方に会うために帰省したはず。 長島先生とはお会いできそうなので楽しみ。
何もない実家の近くに会いたい方々がたまたま近くにいたりして、世間の狭さってこうゆうこと?
広い職場をバスで移動して打ち合わせ場所へ向かう道中で、上司と共通の知り合いがまた1人いることが発覚した。 私の大学の先生で、上司のお家の近くにご実家がある方。美術品の壺をもらったり、石の引き取り手の紹介をしたりする仲とのこと。
朝駅を降りて交番の横に降り立ったら、いつも洗車されているパトカーがもういなくて、でも地面がパトカー型に濡れていて、洗車された跡だけが残されていた。 そのまま歩いて職場へ向かって、出勤前にコンビニへ寄って買い物を終えて道へ出ると音楽を聴きながら自転車に乗っていた人が県警に取締られていた。 きっと洗車済みのパトカーだった。
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kennak · 3 months
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警察側の証人から「捏造ですね」という異例の発言が飛び出した、大川原化工機冤罪事件を巡る国賠訴訟。東京地裁(桃崎剛裁判長)は12月27日、検察と警視庁の捜査の違法性を認め、国と東京都にあわせて1億6200万円余りの賠償を命じた。 公安警察の強引な捜査や人質司法の問題を浮き彫りにした事件で、国賠訴訟の原告代理人を務めた高田剛弁護士に話を聞いた(ライター・梶原麻衣子) ●「警察が会社にたくさんやってきたんですが」 ――企業法務の専門家である高田弁護士が、企業が絡むとはいえ刑事事件である大川原化工機の事件に関わることになった理由を教えてください。 10年以上前ですが、一度、大川原化工機の金融系の案件を担当したことがありました。その時のご縁がもとで顧問のような関係性が続いていました。 ある時、突然電話がかかってきて、「警察が会社にたくさんやってきたんですが、どうしたらいいですか」と相談を受けたのです。つまり、警察がガサ入れ(捜索)にやってきたところから関わることになったのです。 ガサ入れ後、大川原化工機の役職員に対する任意の取調べが始まりました。これに対し、大川原化工機側は、自社の製品が生物化学兵器製造に転用できるような性能を持っていない、輸出規制に関する経産省の省令にも違反していないとの自信があり、きちんと話して理解してもらえれば嫌疑は晴れると考えていました。 そこで私も警察には全面的に協力すると方針を決め、大川原化工機にもそうアドバイスしました。大川原化工機側は聴取に全面的に協力し、50人の役職員が延べ300回近く聴取を受けています。 他方で、私は同時並行的に、将来の輸出にかかわる部分の基準作りをするために、経産省と協議を行いました。今問われている事件はともかく、大川原化工機は今後も噴霧乾燥機を扱っていくことになりますから。 しかしその時の経産省の動きがかなり悪く、どうしてこれほど対応が遅れるのか疑問に思っていました。その時は背景が分かりませんでしたが、蓋を開けてみればまさに経産省が訳した輸出規制の文言のあやふやさが事件の発端で、既に警視庁公安部との間で、数カ月にわたる打合せを経て手を握っていたというわけです。 ●人質司法「これほど根深い問題だとは」 ――今回は、警視庁公安部が噴霧乾燥機や細菌兵器の専門家らの「当該の噴霧乾燥機では生物兵器は生成不可能」という証言を捻じ曲げて輸出規制事件に仕立て上げるなど、かなり悪辣な事例だったほか、逮捕して長期勾留し、自白に持ち込もうとする「人質司法」の問題も明るみに出ています。 一般論として「人質司法」の問題は認識してはいましたが、まさか自分がこの問題にかかわり、しかもこれほど根深い問題だと知ることになるとは、思ってもみませんでした。 逮捕されたうちの一人で技術者である相嶋静夫さんは、勾留中に体調不良に見舞われました。保釈を訴えましたが認められないので、勾留執行停止という一時的なもので対応せざるを得ませんでした。最初の勾留執行停止はわずか8時間しかもらえませんでした。その間に大学病院で診察を受けたところ、進行胃がんだと発覚したのです。 そうと分かれば治療を受けなければならないし、その方針を決めるための精密検査も必要です。本来は入院する必要がある状態だということで再度保釈を請求しましたが、これも認められませんでした。裁判所の判断としては「2週間の勾留執行停止で対処すればいいじゃないか」という感覚だったようです。 しかし、勾留執行停止というのは時限的なもので、いわば不安定な状況です。ある大学病院からはアンオフィシャルな形ですが、入院を断られてしまい、別の病院を探さなければならなくなりました。時間に追われて、本来必要な医療を十分受けさせることができないというのは、病院にとっても負担だったのかもしれません。 ――相嶋さんの例は最たるものですが、大川原正明社長、島田順司さん、ともに5度の保釈請求が却下されています。なぜ裁判所は保釈を認めなかったのでしょうか。 私たちも本当に不思議でした。 2020年3月末に起訴されて、4月末から公判前手続きに入っており、公判担当部の裁判官と検察官を交えての話し合いが行われていました。この年の10月の段階で裁判所に「全然保釈されないんですが」と言ったら、公判担当の裁判官が「この件で長期保釈されないのはおかしいと思う」と言ってくれて、その旨を記載した詳細な期日メモを作成してくれました。そこで、その期日メモを添付して改めて保釈請求したのですが、令状部はそれでも保釈を認めませんでした。 ●「食事を床に置かれ、排泄しているところが独房から丸見え」 ――保釈請求却下の理由は、「口裏合わせの恐れがある」からだ、と。 これもおかしな話で、「口裏合わせの可能性」自体が、机上の話でしかないのです。そもそも大川原化工機側は、警視庁公安部による任意の取調べに1年間以上も全面的に協力していて、50名の役職員が自らの認識を供述し、求められた供述調書に署名をしていました。 さらに、大川原社長らの逮捕後、検事自ら、多数の従業員の取調べを行い、検察官面前調書に署名させていました。すなわち、捜査機関は、起訴の時点で大川原化工機の関係者の認識について、必要な証拠化を終えていました。また、この事件では故意や共謀の成否以前に、噴霧乾燥機の殺菌性能という客観的要件が主要な争点となっていました。したがって、保釈による口裏合わせのリスクが現実的にはほとんど問題にならない事件でした。 もっとも、この事件では検察官が証拠請求をした供述調書には、大川原社長や島田さん、大川原化工機の社員らが話してもいない内容が書かれていました。そのため、弁護人としてはそれらの供述調書の証拠請求に同意することはできませんでした。 これを検察官の立場からみれば、弁護人が証拠請求に同意しないため証人として法廷で証言してもらわなければならなくなり、保釈を許すと、大川原社長らが他の役職員に働きかけることで、「証言が汚染される可能性がある」と主張しやすくなります。そしてまた、裁判所としても検察官からそういわれると強く出られなかったのでしょう。 ――驚いたのは、大川原社長ら3名が勾留の時点でほとんど刑務所と同じような扱いを受けていたことです。 外国特派員協会での会見で大川原社長も述べていましたが、食事を床に置かれ、排泄しているところが独房から丸見えになってしまうような施設に勾留されました。今回は2020年3月11日に逮捕されてから、東京拘置所に移る同年7月半ばまで、約4ヶ月間もこうした「代用監獄」に勾留され��いたのです。 警察の手の内にあるこうした施設に閉じ込められ、屈辱的な扱いを受けるという精神的な負荷は、想像を絶します。普段の生活との落差が大きすぎて、心が折れてしまう。しかも、何も悪いことをしていないうえに、警察にもあれだけ協力的に対応していたのですから、その失望感はなおさらです。もしも自分だったらと想像すると、「嘘でも自白すれば解放されるのではないか」と思って「僕がやりました」と言ってしまうかもしれません。 否認するために黙秘を貫く方針を取ったので、それによって勾留が長引いたことは確かです。しかし相手が自白を取りに来ている以上、被疑者は黙秘をするしかないんですね。警察官や検察官はプロですから、とにかくしゃべらせれば、徐々に自白と取れる発言を導き出すことができるという頭で来ています。誤った自白を防ぐには、黙秘するしかないのが現実なのです。 ●「ここまで行政側が“真っ黒”な事件だとは」 ――大川原化工機を巡る事件、国賠訴訟では、信じられないような警察の捜査のずさんさ、無理にでも事件化しようとする強引な姿勢、そして自白ありきの人質司法の実態が明るみになりました。この事件をきっかけに、警察組織、捜査機関が変わることは期待できるのでしょうか。 大川原社長や、島田さんが強く主張しているのがまさにその点で、特に取り調べの透明化です。最初の取り調べの段階で弁護士を立ち会わせるとか、録音録画を双方で行うとか、取り調べを受ける側のメモ取りを許可するなど、これらを認めてほしいと。 取り調べを行う警察側はたくさんの資料や、「専門家」の見解を持参して議論をしてきますが、取り調べを受ける側はメモすら取れません。そのため、取り調べ時の質問にどう答えたかさえ、後から確認できませんし、回答内容が混乱してしまっても無理はありません。その状態で生じた矛盾を突かれているうちに、いつの間にか警察のストーリーに乗せられていた、ということもあり得るでしょう。 本来は弁護士が立ち会うのが一番だと思います。「それは話を誘導しすぎだ」「前と言っていることが違う」などと指摘するだけでも、警察側にとってはプレッシャーになるでしょうから、もう少し節度ある取り調べになるのではないかと思います。 図らずも刑事事件、しかも警視庁公安部主導の外事事件と見なされる事件から国賠訴訟となった本件ですが、率直に言ってここまで警視庁側のやり方が「真っ黒」な事件だとは、当初は思いもよりませんでした。 今回の損害賠償請求では、慰謝料の部分と実費を合わせての5億数千万円という数字を出していますが、会社が受けた営業上の損害については一切、考慮していません。あくまでも実費と慰謝料です。 慰謝料については、相嶋さんにつき1億円、大川原さんらは1人あたり5000万円を請求していますが、日本の裁判実務では高額の慰謝料は認められにくいと思っています。ただ、相嶋さんが勾留中に十分な医療を受けることができずにお亡くなりになったという事実を、裁判所がどう判断するのかに注目しています。 少なくとも、警視庁公安部の捜査幹部の過失は認定を受けることができると期待しています。故意・重過失まで認められるかは分かりませんが、いずれにしましても、注目も集まっている事件ですから、将来の冤罪防止のために踏み込んだ事実認定と評価が述べられるものと思います。 (編注:インタビューは判決前の12月22日に実施しました) ●判決は インタビュー後の12月27日、東京地裁(桃崎剛裁判長)は検察と警視庁の捜査の違法性を認め、国と東京都にあわせて1億6200万円余りの賠償を命じた。 判決後、大川原正明社長は「警視庁、検察庁にはしっかりと検証をしていただいて、できることなら謝罪をしていただきたい」と述べた。また高田弁護士も「警視庁の捜査だけでなく、検事の起訴まで違法と認定された。非常にいい判決だ」との評価を示した。 【取材協力弁護士】 高田 剛 (たかだ・つよし)弁護士 1995年東京大学薬学部卒業。2000年に弁護士登録し、2016年に和田倉門法律事務所を設立。専門は民事・商事訴訟全般、刑事弁護、インターネット関連法務、医薬関係法規の他多数。著書に『取締役・執行役ハンドブック』(商事法務)『論点体系会社法補巻』(第一法規)など。 事務所名 :和田倉門法律事務所 事務所URL:https://wadakura.jp/
食事が床に置かれ、排泄も丸見えの「代用監獄」に閉じ込められる苦痛 大川原化工機事件「人質司法」の闇 - 弁護士ドットコム
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manganjiiji · 9 months
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わたくしの心差しは
しばらく何の文章も書いていないから澱が溜まってしまったと思う。言葉を編集することをしないとだめだ。単語と単語を組み合わせ、文字と文字を高速回転で当てはめては放り出し、頭の中の音に乗せて、どうにかぎりぎり意味がつながるくらいの文章を切り貼りで生成する。見た目にもよいのが佳い。文をつなげてこのように段落にする時には目に入った画面のなかで文字の羅列の詰まりが自分に丁度良い、つまり図像として好ましくなければ書いても意味がない。自分は自分の「文の見た目」の好みを知っているので、それは何を考えずとも感覚で選びとる事ができる。単純に言えば、どこを漢字にし、どこを平仮名にし、どの漢字を使い、どこに句読点を打つか。句読点は読んでいる時の音楽のほうにも関係するので、見た目よりは音に左右されているかもしれない。それでもあまりに句読点がないときは、さすがに見辛いなと思い、入れる。小説でやっている時が一番楽しいが、この日記でやっている時も結構たのしい。見た目と音を自分の好きな文でいつでも再現可能にしておく。ほとんど意味はない。あってもあまり意味がないし。
希死念慮のないただのうつ状態に久しぶりに陥った。とはいえ数時間で回復したと思うのだが。これは肉体疲労がないぶん、薬がよく効いている。この数日仕事を休みっ放しなので、肉体疲労がない。今日はびっくりする事に仕事をさぼった。とくに体調は悪くなかった。仕事に行くことを考えるだけでパニックになり、ただただ行きたくないというだけで休んだ。用意する時間も起きた時間も、仕事に行ける条件は何もかもが完璧だった。私自身だけが全く仕事に行ける状態ではなかった。なんでやねん。兎に角もう、自分にこれが最後だよ(さぼるのは)と言い聞かせて休んだ。とても悲しくなったが、欠勤の連絡を入れたのちパニックは治まって、気づいたら3時間寝ていた。すでに8時間は寝ていたのによく眠れるなあと思った。今「よく眠れる」ということにはっとしてずつーるを確認したら、その時間がちょうど気圧低下していた。なんだ。気圧か。もうそりゃしょうがねえ。今まで偏頭痛が酷くてその影に隠れていたのだが、気圧が下がるとかなり落ち込むしパニックになりやすいし、最終的に寝る。まさに今日のパターンだった。最近、というより、独居になってから、偏頭痛がぱったりと消えた。注射も打っていないが、薬を飲むほどの痛みも、月に2回あるくらいになった。今までは注射を打ってなお、月に10〜15回薬を飲んでいた。注射を継続した効果が出たのか、生家からのストレスから解放されたからなのか、どちらもなのか、分からないが、とてもとても、らく。痛みがないというだけで可処分時間が増える増える。仕事中も痛みがないので目の前のことに集中できる。朝起きて爆発的に痛くて吐きそうという思いもしなくてよくなった。注射の効果だとしたら、全偏頭痛民に勧めたい。エムガルティという1本1万3500円(保険適用済)の注射を。3ヶ月分買って自己注射するので、3ヶ月に1回は4万円近く出費するのだが、基本的に高額医療制度で2万くらい返ってくる。私はこの注射を打つことで再び働けるようになった。
ということで夕方にはふらふらしながら、1メートル歩くのに3秒かけて(体感)セブンイレブンに行った。前回コピー用紙が切れた時にもたもたもたもたして最終的に私が主導権を奪い取って勝手にセットし蓋を閉めた時の店員がまた居て若干気まずかったが、私はその時も今日も別に怒っていた訳ではなく、ごくふつうの客だったため、まあ、見逃してほしい。そしてチョコレートが食べたかった(1年に1回だけ黒いチョコレートが食べたくなる)のだが、無かった。マシュマロも食べたかったのだが、無かった。プリングルスも、無かった。手頃な冷たいコンビニスイーツも、全然なかった。おいおい。全てにおいて「負け」じゃねえか。しかし他のものでどうにか糖分をしこたま、一応シーザーサラダも買って、またふらふらと帰った。そのうちの何割かを食べ、冷蔵庫にしまい、𝕏を見ていて時間が経った。やや回復し皿を洗い、歯磨きをし、爪を塗るまでにいたった。
私はほんとうに「働きたくない」人種だ。小学生のころ、働かなくていいという理由だけで大学教授になりたかった(一生勉強だけしていればいいなんて夢のような仕事だ!)。何よりも勉強というか、紙に字を書くことが好きだったので、勉強だけしていたかった。考えることも好きだし。しかし高校一年でその時は来る。成長期・思春期・うつがセットで襲いかかり、ほとんど睡眠障害になり授業は起きていられず、起きていても何を言われているのか全く分からず、考えることも覚えることもできず、という直面したことのない事態に陥り、勉強は全くできなくなった。(25歳で治療が成功してから、高校の勉強の文系科目は独学で終えた。塾講師として高校生に教えながら。)
本当に働きたくなかった。なんならもう、動きたくなかった。うつで余計に体は動かなくなり、生きること自体がきつくなった。兄は働かない人だったので、兄が許されてなぜ自分は働かなければいけないんだという思いと、兄が働いていないぶん、私が働いてせめて社会に貢献しなければという思いをふたつ抱えていた。とにかく兄のあけた穴の補填に忙しい人生だった。そんなことはあの親たちのもとに生まれた時点で、瑣末なことだが。
それが、19で初めてしたアルバイト、通信販売の受電が、もう、びっくりするくらい自分に合っていて、びっくりするくらい評価され、働くのは異常なほどの緊張をともなうものの(毎回駅のトイレで下痢してから出勤していた)、もしかして…これは…人に褒められるチャンス!ということに気付いた。私は非常に人に褒められたいタイプの人間である。浪人中の12月まで働いて、そのお金で冬期講習に行き、受験した。
大学時代、マクドナルドのアルバイトは、「世界一自分に向いていない職業」だと思っていたが、友人の勧めで始め、本当に向いていなかったし、うつが激化していたので毎日に近く号泣していたが、これも楽しかった。笑顔だけは良いと褒められた。あと、深夜の清掃は褒められた。スピードに追われる、かつ体と頭を同時に動かす仕事が世界で一番苦手なのだが、マクドナルドはまさにそれだった。しかし、それを1年ほど経験したことで(もちろんずっと一番下っ端のクルーだった)、接客だけは自信を持てるようになった。新卒のSEはまったく頭が働かず、精神科行きとなったが、そのおかげで病気が判明し(うつ症状の重い双極性障害2型)、いよいよ書店のアルバイトとしての人生が始まった。これはもう「楽しい」しかなかった。最初の店舗がおそろしくブラックだったため、かなり厳しく躾られ、昭和的な思想でガチガチにされ、ここでも毎日号泣していたが、とにかく楽しかった。掛け持ちの学習塾は、全く仕事という感覚がなく、お金が貰えなくてもボランティアでやりたいくらい本当に楽しかった。緊張感など一秒も感じず、人に教えるのが楽しすぎて夢中になった。ちなみに働きすぎて27の時に大宮駅で倒れた。このようなことを何回か繰り返して今に至る。書店も慣れてくるとだんだんやることがわかってきて、こちらも緊張を感じなくなった。今の店舗は書店ではないが、似たような小売で、系列店舗での経験もあるためそこまでハードルは高くない。ただ肉体への負担がかなり大きい。一秒も休めない。文字通り休憩がないシフトなので、とにかく隙を見て水を飲みに行くしかない。この辺りも慣れてくれば自分のペースが掴めるだろう。初っ端からコロナで5日間欠勤して、かなり体力も落ち、今のところ最悪なスタートを切っている。ただ、諦めずに食らいついていけば、というと大袈裟だし気負いすぎかねないので注意が必要だが、できる範囲で通い続ければ、きっと大丈夫だろう。今度こそ、というか今回は久しぶりに2年程は勤務し続けたい。2年勤続することが、私にとってはかなりのハードルだが、さまざまな症状が改善しているので、今回は行けるのではないかと思っている。まあ、だめでもあまり落ち込まないように。でもなんか、できる気がしています。
2023.8.2
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elle-p · 1 year
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P3 Club Book Junpei Iori short story scan and transcription.
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夢で逢えたら
「まさか······ウソだろ?」
伊織順平は、己の眼前の光景が現実であると、いまだ信じられずにいた。先ほどまで、確かに自分はタルタロスでシャドウと戦っていたはず。それがいまは、なぜかポートアイランド駅前広場の真ん中に、ぼんやりと突っ立っているのだ。しかも、影時間のはずだった時刻は、斜め上に見える陽の傾きから考えると、おそらく午後も早いころへとシフトしている。どう考えても、これは幻覚か何かとしか思えない状況だが、肌に感じる風、オープンカフェから漂うコーヒーの香り、雑踏のざわめきの向こうから聞こえる駅の乗車アナウンス、その全てがにじませる存在感は、とても作り物や錯覚とは思えない。だが、それでも、順平は信じることができなかった。否、それが現実でないことを知っていた。
「い、いや······んなワケねえ······こ、これが現実でのワケないじゃん。だ······だってよぉ!」
なぜなら、その場所にいたのはー。
「······お久しぶり、順平」
「チドリ······チドリ?······チドリぃ!!」
一時は敵として立ち塞がりながら、最期には、ストレガの凶弾に倒れた順平に、己の命を与えて蘇生させた少女。順平にとっては自分の恩人であり、それ以前に、何者にも変えがたく全身全霊で愛した相手だ。一時は、彼女を喪ったことで、生きていく気力すら完全に消えかけて、そして逆に、彼女が自分のために犠牲になったことが、順平に生命力を呼び戻した。
その、喪われたはずのチドリが。
彼の掌から零れ落ちたはずの生命が。
いま、なぜか目の前に居る。
「ホントに······お前なのか?な、なあ、これって幻じゃねえよな?いや······幻でもいい、幻でも······また逢えたんだ!」
「幻なんかじゃないわよ」
「!」
ありえない奇跡を、あっさりと肯定する少女。だが、それに続くチドリの言葉は、順平の予想の軽く斜め上を行っていた。
「幻じゃないけれど······」
「けれど······?」
「ーこれは、夢オチです」
「······························へっ!?」
びしっと人差し指を立て、それまで能面のようだった無表情が一転、口の両端をにかっと持ち上げて宣言するチドリ。ただし、その目は相変わらずの三白眼。理解しがたい展開と、いまだかつて見たことがない彼女の表情に、順平の顔面にどっと脂汗が吹き出す。
風が、ひょう~とふたりの間を吹きぬけた。
「これは······いったいどういうことだ!」
広大なタルタロスエントランスに、桐条美鶴の苛立った声が響き渡る。そんな彼女の焦りを、やんわりと受け止めたのは真田明彦。
「落ち着け、美鶴。それをいま調べているところじゃないか。山岸······どうだ?」
話を振られた山岸風花は、自身を包み込むように召喚していたユノを解放し、ほう、と溜め息をつく。額の汗が、彼女の行っていた作業が、いかに大変だったかを示していた。
「とりあえず、命に別状はないようです。ただ、何というか······一種の象徴化のような現象が起こっているみたいで······。いまのままじゃ、順平くんに対する治療は意味がありません」
「ウソ······どうすんのよっ?象徴化って、死んでるのと同じようなもんなんしょっ!?」
「ゆかりさん、落ち着いて。いまは冷静さを保つことが肝心です。 辛いでしょうが······」
心配に顔を歪める岳羽ゆかり、冷静にと言いつつ不安を隠せない表情のアイギス。彼らの中心には、壊れた人形のように床に倒れた伊織順平と、その順平の頭部に貼り付いたまま凍ったように固まった······シャドウの黒い姿があった。
一現場にいた者の証言によると、対峙した敵は、何の変哲もないマーヤタイプのシャドウに見えた。だが、普通ならシャドウ討伐隊を見ると、あくまで好戦的に襲ってくるシャドウが、ひたすら逃げを打つ様子を見せたのだ。それを面白がった順平が深追いしたところ、突然、反転してきたシャドウに飛び掛られ、そのまま両者ともに、ピクリとも動かなくなったのだとか。
「わからんな······どういうことなんだ?」
「あの······いいでしょうか?」
ギリッと奥歯を噛み締める様子の美鶴に、風花がおそるおそると声をかけた。
「敵意が······ないんです、このシャドウ。それと順平くん······なぜか喜びの感情が······」
「はぁ?何、この馬鹿、この状況で浮かれた夢でも見てるってコト?」
やや気の抜けたような風花の言葉に、場の緊張感がやや薄まる。浮かれた夢ーそれは、ある意味正しく、ある意味、違っていた。
「正確には······夢とは違うわ」
夢オチという言葉を聞いて、顔中に?マークを貼り付けたような順平に、チドリは薄い笑顔を浮かべたままで説明を続けていた。パニックになりかけた順平を落ち着かせるため、いまはふたりで並んで、ポートアイランド駅前の道をのんびりと歩いているところ。硬質に澄んだ冬の空気が、順平の意識を徐々に覚醒させていく。
「よく······わかんねえよ。チドリは、あのとき確かにオレの目の前で······。だから、これが現実じゃねえってことはわかる。だけど、夢でも幻でもねえって、どーいうことだよ?」
折りしも、ふたりが差し掛かったのは月光館学園前の大通り。ちょうど正面に、ギリシャ建築を模したといわれる、高等部校舎の威容がそびえ立つ。そう。あのとき、この高等部校舎の前、チドリは順平の腕の中で、徐々にその体温を失い······ニ度とその目を開けなかった。
そのチドリが、いまは順平の目の前で、かつての彼女からは想像もつかないような柔らかな表情で歩き、その笑顔もくるくると変わる。まるで、普通の女子高校生のように。このチドリは、あのチドリい出し、順平の顔に再びどっと脂汗が浮かぶ。別とは違う。先ほどのイタズラ好きそうな笑顔を思いに不気味だとか恐ろしいとかという印象があるわけではないが、やはり慣れてないというのが大きい。しかしそれでいて、これはやはりチドリ本人でしかありえない。そういう感覚も拭いきれない。それは、しっかりと心と心が繋がった相手だからこそ思える、余人には計り知れない―順平だけの確信だった。
「シャドウが······時空に干渉する能力を持っているってこと、順平知ってる?」
ぽつりと、チドリが目線をそらしたまま問いかけてくる。
「ああ、少しは勉強したからな。確か······シャドウはニュクスとかってヤツを復活させるために生きていて、そのために影時間を作り出したり、タルタロスみてえなでかい塔おっ建てたりしてるんだよな?んで、時間をいじる能力で影時間が、空間をいじる能力でタルタロスができてる······ってん だっけ?」
「そうそう。凄いじゃない、順平」
「へへっ、最近ガッコの成績も上がってるんだぜ。なめんなよ?」
「そっか······頑張ってるんだ。順平、偉いな」
順平の頑張りが、自分のことのように嬉しいといった表情で、また柔らかくチドリは笑う。そこで順平は気づいた。その見たことがない笑顔は、決してあり得ないものではなく、“もしチドリが生きていれば” いずれ見せてくれたはずの表情であるということに。そして、その推測を肯定する言葉が、チドリから発された。
「ここはね、そのシャドウの時空に干渉する能力で生み出された、“もしも” の世界。私が死なずに、そのまま生きていられた世界なの。そうね······SF風に言うなら、パラレルワールドって感じかな?ただ······」
「ただ?」
「本物じゃないの」
「!?」
ほんの少し予感していた、心の底から切望していた言葉と、それに続く期待を裏切る言葉とが、順平を混乱させ、絶句させる。
「あの変わり者のシャドウ······順平に飛び掛ったコはね、たぶん自分の存在に疑問を持っていたの。ひたすらにニュクスに尽くすためだけに生きることに。そして、幸せな未来を引き寄せたいと思った······だけど、1体だけじゃ力が足りなかった。引き寄せたのは、同じように幸せな世界の存在を望んでいた、順平が思い描く世界の、単なる影。コピーといってもいいかも」
「世界の······影?」
「時空のどこかに存在する、もしもの世界を、情報として再構成したのよ。 順平の頭の中に、ね。だから、ここは夢の世界。だけど、同時に現実を忠実に再現した世界でもある」
「ってことは······チ���リも······?」
「そう、私はただの情報体。向こうの世界のチドリの人格や記憶と、順平の中にあるチドリの思い出からできている。もしかしたら、ここを作ったシャドウの知識も持っているかもね」
ふたりは既に、ポロニアンモールの近くにまで来ている。冬の街並みを眺めながら、チドリは少しだけ、空ろな表情を浮かべる。この顔を、順平は知っている。世界を拒絶し、世界から拒絶されていた。あのチドリの表情だ。
「だから······夢オチ、か」
「そう。いずれ影時間が終わって、シャドウが力を行使できなくなれば、この世界は消えてしまうわ。いまいる私も、同時に」
「そっか······」
「そうね······」
そして、無言のまま、ふたりは歩く。それが1分も続かないうちに、ほぼ同時に口を開いた。
「······順平!」
「······チドリ!あ、わ、悪い。先に言えよ」
「ううん、順平から、聞かせて」
「そ、そうか?あ、あのな······向こうの世界でさ、チドリは······幸せ、なのか?」
不安そうに聞く順平に、チドリはこれまで以上に極上の笑みを浮かべて答える。
「もちろん!もう、周りの人がやってられないってくらいにラブラブ」
「ら······ラブラブ?あ、あはは、そうか。そうなんだ······良かった。安心したぜ。 あ、んでチドリは?何、言いかけたんだ?」
「あ······うん。あのね、シャドウが時空に干渉できるって言ったよね。それは······別に特別なことじゃない、生き物にとって」
「え?」
想像していた甘いものとは違うチドリの言葉に、順平は首をひねる。
「時空に干渉する······それは、生きるということ。生きようとする強い意志があれば、避けられない運命すら、変えられる。もしもの世界は、順平、あなたにも引き寄せることができる。それだけ······覚えていて」
真剣なチドリの視線を、順平は真正面から受け止める。彼女が言いたいことが、心に染みるほど理解できた。チドリのように、未来を断ち切られる想いを、二度と誰にも抱かせることがないように、全力で生きる。それが、チドリの願い。そして、同時に順平の願い。
「って、覚えられないだろうけどね」
「はぁ!?おいおい、そりゃねえよ!」
カッコよく心の中で決めポーズをやりかけていたのに、あっさりチドリに否定され、さすがに順平がえらい勢いで反論する。
「だって、ここって一種の影時間だもの。ペルソナ使いの常識、わかってる?」
「いっ!?た、確か記憶の混乱や欠落······ってウソだろっ!?オレ、もうすっかり影時間には慣れて、もう影時間のプロだぜ、プロ!」
「ここは、いつもの影時間とは違うのよ。初めて影時間を体感したのと、条件は同じ」
「そ、そんなぁ······んじゃ、いまチドリと逢ってるって、この記憶も?」
「消えちゃうでしょうね」
「ウソだろ······」
「だから、いまのうち······」
「え?」
身構えるヒマもなかった。状況を把握する間もなく、正面に接近するチドリの顔。寸前で、彼女はふっと大きな目を閉じ。
ちゅっ。
小さく音が鳴る。
唇に残る柔らかい感触。
軽く触れるだけのキスだった。
そして、抱きしめようとしたときには、既にチドリは順平の腕をするりと抜けて、ゆっくりと遠ざかろうとしていた。
「······それでも、覚えていてね、順平。死んでしまった私も、生き延びてあなたと幸せな二年間を過ごした私も、できる限り精一杯生きたわ。だから、順平も······」
チドリの姿とともに、その声も徐々に遠ざかる。別れの時間がー来たのだ。
「ちょ!ま、待ったチドリ!せ、せめて不意打ちじゃないキスを······!!」
そこで、世界は白く白く輝き、消えた。
「って、アホかーっ!!」
「ぐぎゃはぁ!!」
突然、順平の顔面にとてつもない衝撃が走った。それが、ゆかりの靴底だと認識する間もなく、順平は盛大に吹き飛ばされる。
「な、何すんだよ、いきなりっ!!」
「そーれーはー、こっちのセリフだっつーの!この馬鹿順平!やっと目覚ましたかと思ったら、いきなり風花に襲い掛かってくるし!しかも、あの表情!唇とんがらせてチューって感じで······あー、マジキモイ」
「あ、あの、ゆかりちゃん······私は大丈夫だから。み、未だし。じゅ、順平くん大丈夫?」
「まったく······どんなエロい夢見てたのよ?」
「え、エロいって······あれ?夢······確かに見てたよーな······あれ?」
「どーせ、大した夢じゃないでしょ?」
ゆかりの言葉に、うーんとひたすら首をひねる順平。ただ、覚えているのは、ほの温かいような、幸せな感覚。
「ま、なんかいい夢だったんじゃねえかな?」
その能天気な順平の言葉に、安心半分呆れ半分で美鶴が言う。
「とにかく決戦は近い。伊織、気を抜いているヒマはないぞ」
その言葉に、気の抜けた顔をしていた順平の表情が、 傍から見てて驚くほどに引き締まる。
「任せてください!オレ、やりますから!」
それは、迷いが消えた、何か決意を感じさせる表情。順平自身、自分でもわからぬほどの激しい意思が、心の底で熱く静かに燃えている。
「だから······見ててくれるよな、チドリ」
喪失感が大半を占めていた、チドリとの思い出。それがなぜか、いまは温かく心強いものとして、順平の心に刻まれていた。そして。
《······見てるよ、順平》
どこか遠くから、柔らかな笑顔とともに返事が聞こえたような。そんな気がした。
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jaguarmen99 · 1 year
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625 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:20/10/24(土) 10:47:22 ID:???私は生まれた時から心臓が悪くて赤ちゃんの頃に何回か手術してるその後も体が弱くて病気しがちだったためしょっちゅう入退院を繰り返していた私には二歳上の兄と十以上離れた弟がいたけど、両親は私の世話と仕事で大変だったみたいでほとんど弟の世話は兄まかせ今思えば遊びたい盛りに可哀想なんだけど、兄がとても真面目で弟を溺愛してたから当時はその状況に疑問を抱かなかったむしろ私も弟大好きだったから兄ばかり弟と一緒にいられて羨ましいとすら思ってたくらい私が中学生の頃、インフルエンザから肺炎まで拗らせて一時的に入院してたある日、トイレに立って病室に戻った時両親が「私子(私)はいつまで手がかかるんだろう」「弟が大きくなるまでの我慢だろ。その為の子なんだからあの子は」と会話しているのを聞いてしまったそこまで負担をかけてしまっていたのもショックだったけど、可愛い弟を私の世話させる為に生んだという事実に頭が真っ白になった両親が帰ったあと、私はもう生きてても仕方ないから死のうと決意でもこのままだと両親が弟を良いように利用しようとするかもしれない、搾取され続けたら可哀想、いっそ両親もこの手で一緒に……一晩悩んだ結果、私はお隣のベッドの人が部屋を出ていった時に棚に置いてあったナイフを盗んで枕の下に隠した今日両親が来たらそれで二人を、と浅はかな計画を経てて心臓をバクバクさせながら待っていたでもその日お見舞いに来てくれたのは兄と弟だけだった弟は私のベッドに乗ると興奮気味にチューリップを植えた話なんかをして、それで疲れていたのか電池が切れたように寝てしまい、兄はそれをニコニコと見ていた「チューリップは私子の好きなピンクだよ。お姉ちゃんに見せたいんだって」兄の他愛のない話に私が泣きそうになっていたら「だからね、変なこと考えちゃ駄目だ」と私の頭を撫でてくれた多分私があまりに思い詰めた顔をしていたんだと思う何するかまでは分からなくても、良からぬ事を考えてるって察したんだろうね兄が弟を抱っこして帰った後、考え直した私はナイフ落ちてましたよと言ってお隣さんに返したここからがおかしな話なんだけど、それから一月もしない内に両親が死んでしまった二人とも仕事で寝不足のまま運転してて事故り、母はその場で呆気なく、父は数日治療の末亡くなった私は二人を憎むあまり呪い殺してしまったのではと内心パニック両親が亡くなってから入院するほどの体調不良も減って、親戚が集まる度にお父さんお母さんが悪いもの持ってってくれたんだねって言われて凄く居心地が悪かったただこ���はもう十年以上前の事で、実は最近まで両親のことなんて存在すら忘れてた何故今更思い出したかというと弟が近く幼馴染みの子(以下弟嫁)と結婚する事になり、弟嫁の打ち明け話を聞いたからもうずっと家族同然の付き合いだったのに急にマリッジブルー気味になった弟嫁実は彼女は弟を蹴ったり無視するうちの両親が子供心に大嫌いで、いなくなっちゃえば良いのにと思っていたら本当に死んでしまい、それがずっと自分のせいな気がしてならなかったのだとかその後ろめたさをずっと抱えていたようで、こんな酷い事を思う自分は弟に相応しく無いかもと泣き出してしまったその場ではそんなの関係無いし弟の事を大事に思ってくれる弟嫁ちゃんが義妹嬉しいよと慰めといたでも本当はやっぱり両親は色んな人に呪い殺されたんだろうなって思ったよ人を呪わば穴二つと言うから私はろくな死にかたしないかもだけど、せめて弟嫁の悪いものは私が貰っていってあげようと思う
続・妄想的日常
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someones-voice-2021 · 11 months
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#05 中沢レイ
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一日の流れ
朝は6時半くらいに起きて朝ご飯とお弁当をつくります。家は私と息子と私の母の3人暮らしです。息子に持病があって、12時間おきに飲まなきゃいけない薬があるので、彼が寝てようが何してようが飲ませてから出かけます。職場は三重県内の市役所で、移住関係の仕事をしています。非常勤で働いてもうすぐ3年になります。
家から市役所までは車で山道を走って40分ぐらいで、道が混んでいたら小一時間ぐらいかかるときもありますね。仕事は17時15分までで、時間になったらすぐ家に帰ります。以前、息子と二人で暮らしていたときは夕飯のお弁当を買って帰っていましたが、今は母親が夕飯の支度をしてくれているので、それをありがたくいただいています。夕食後はだいたいぼーっとスマホを見たりして、気づくと2時間ぐらい経ってたりします。息子はゲームが好きで、夜はゲームのコアタイムだから私とは全然話をしてくれないんですよ。みんなが思い思いに過ごしているのを確認してからお風呂に入って、寝るのは23時ぐらいです。
市役所の仕事のほかにヨガを教える仕事もしていて、レッスンがあるときは、仕事のあと家に一旦帰って晩ごはんを食べて、借りているレッスン場に出かけます。土曜日はバレエ教室で子どもたちにコンテンポラリーダンスを教えています。ダンスというか、キャッキャ言いながら自由に動いたり、何でも試してみようというクラスですね。日曜は基本的に休みですが、移住の仕事は土日にイベントがあることが多いので、結構出張したりもしています。空いている日は子どもと一緒に過ごそうと、何をするわけじゃないけど、家にいるようにしています。
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生い立ち
生まれは岐阜県岐阜市です。母方の祖父母が縫製業を営んでいて、一家総出で服をつくっていました。両親は朝から晩まで、すごくうるさい工業用ミシンを踏んでいて、家には有名なブランドの布が置いてありました。だけど、私が小学校1、2年生の頃に景気が悪くなったのか、父が仕事を辞めて養鶏場に働きに出るようになりました。それまでは家にずっと親がいたけど、突然鍵っ子になって、弟は泣いていましたね。姉である自分はしっかりしなくちゃと思っていた記憶があります。
中学3年のときに親が頑張って家を建てて、引っ越しをしたんですよ。私は転校もしたんだけど、ある日修学旅行から帰ってきたら両親に「離婚するわ」って言われて。私から見たら仲は悪くなかったんだけど、実際はそうじゃなかったみたいです。せっかく建てた新居も出ることになって、その家は私の叔母さんが住むことになりました。弟は父に、私は母についていくことになったんですが、母の家に引っ越すと中学校を変わらなきゃいけないと言われたので、卒業までは叔母さんのもとで居候をしていました。叔母さんは私のことをかわいがってくれて、叔母さんというよりお姉さんという感じでした。
母は家を留守にしがちだったので、高校からは一人暮らしのような感じでした。家の下がうどん屋さんだったので、母が置いていったお金で天丼の出前を頼んだりしていました。高校3年のときに母が再婚して新しい家族ができましたが、私はもう高校生だし「あなたたちとは関わらないので」と言って、学校もあまり行かずに好きなように過ごしていました。高校卒業後は好きな英語を勉強するために、英語の専門学校に入りました。
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仕事のこと
私が専門学校に入った頃は超バブルの時代で、成績が良い子は���生の薦めで在学中から証券会社とか銀行に就職するんですよ。私も1年の終わりには学校に籍を置きながら商社で働きはじめました。同じころ、音楽をやっている友だちから「岐阜放送っていうラジオ局で話す人を探してるんだけど」と言われて。当時はバイリンガルのDJが流行っていて、私が英語を話せると思って声をかけてくれたんですね。実際はそんなに話せないんだけど、洋楽を聴いていたからそれっぽくは話せるんです(笑)。それでラジオ番組のDJをやることになりました。商社は1年勤めて辞めました。
田舎の放送局だけど案外仕事はありました。レコード会社の人がプロモーションで名古屋に来たときに、そんなに回るところがないから岐阜放送まで来てくれるんですよ。「若くてちょっと変わった子がいる」みたいな感じでいろんな人に良くしてもらって、外タレのアーティストに直接インタビューさせてもらったりもしましたね。でも、DJとかタレントになりたいという気持ちはまったくなかったです。どちらかと言うと裏方や制作をやりたくて、19歳ぐらいから台本や企画書を書いたりしていました。自分の番組では選曲も全部自分でやっていたし、そうした仕事が周囲に伝わって愛知や東京でもDJをやるようになりました。
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踊りのこと ラジオと平行してやっていたのが、幼少期から続けていたダンスです。うちの親は全然そういう素養はなかったんですが、私が幼稚園のころに「バレエをやりたい」と言ったみたいで、母が習わせてくれました。ただ、習っていた先生が怪我をしてバレエをやめることになってしまい、次に入ったのがモダンダンスの教室でした。少しして「これはバレエじゃない」って気づいたんですが、それがかえって良かったんです。というのも、その先生は生徒にお手本を見せないんです。「シュッとなってパッよ」というふうに擬音で振り付けをするので、みんなそれぞれの「シュッとなってパッ」をやるんですね。中学高校と、その先生のもとでダンスを続けました。
あるとき、名古屋で開かれたダンスの大きなコンクールに通訳として参加したんですが、そこで出会ったのが(舞踏家の故・)和栗由紀夫さんです。和栗さんに「お前、踊りやってるのか。うちに遊びにこいよ」と言われて、東京に行ったら板橋にあった和栗さんの家に遊びにいくようになりました。ある日、和栗さんの家に行ったら、ベニヤ板を2枚出してきて、「ここに座って」と言われて。言われたとおり座ったら今度は「右手をこう出してみな。左手は上から出して。これが閉じてさ、開くんだよ」とか言われて。「こうですか?」みたいな。それで「今度舞台やるんだけど出ない?」とくるわけです(笑)。
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それで出演したのが、新宿のパークタワーホールでやった和栗さんの『エローラ〜石の夢』という作品です。その後、和栗さんが主宰していた「好善社」に入るとともに、東京に引っ越してきました。好善社の男の人たちは、それまでダンスをやったことがなくて突然踊りを始めているから、発想がとても面白かったんですよ。そこから結局6、7年は東京に住んでいたと思います。
その後、もう踊りはやめようと思うことがあって、カポエィラに打ち込んでブラジルに行ったりもしました。ダンスの世界は、なんだかんだ言って身体を動かすことが得意な人しか入ってこないけど、カポエィラは、趣味でやってますみたいなお姉さんとか、イケイケの男の子とか、格闘技好きのオタクっぽい子とか、いろんな人がいるんです。一般社会では絶対に仲良くならないような人たちが嬉しそうに一緒にやっているのがすごくいいんですよね。でも、ブラジルにいたとき、テレビから流れてきた音楽に合わせて、やめたつもりの踊りをふと踊っていたときがあって、やっぱり踊りはやめられずにいます。
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妊娠・出産
出産したのは38歳のときです。妊娠がわかったときは、当時結婚していた夫とフランスに住んでいました。日本では私がダンスをやっていると言うと、初対面の人にさえ「いつまでそんなことやってるの」と言われたりしましたが、フランスではまったく逆で、みんな興味を持ってくれました。現地の人たちと仲良くなって一緒に作品をつくったり、小劇場で即興の企画をやったりもしましたが、一方で自分の底が知れた感じもあって、妊娠を機に日本に帰ることに決めました。
出産はだいぶ時間がかかって大変でした。それでも元気に生まれて良かったと思っていたんですが、生まれてからがさらに大変だったんです。とにかく夜まったく寝なくて、ベッドに置いたらどれだけ寝ていても起きて泣いて……。子どもってそんなもんなのかなと思ってたけど、自分も寝れないから信じられないくらい痩せてしまって、布団で寝ていても背骨が痛くなってしまうほどでした。夫は仕事に行ったきりほとんど帰ってこなくて、赤ちゃんと二人暮らしみたいな感じです。しかも、夫の希望で都内からもう少し田舎に引っ越すことになって、それまでは遊びに来てくれた人たちも来れなくなって、本当に孤独になってしまいました。
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それでも息子を地元の幼稚園に入れてなんとか生活していたんですが、2011年の1月末に、幼稚園に息子を迎えにいったら、先生から息子の様子がおかしかったと言われました。確かに、家に帰っても何もしゃべらないし、ご飯も食べないんです。病院に連れていって、インフルエンザの検査をしたりしたけどなんともなくて。食塩水を点滴してもらって、ちょっと良くなったように見えたんですが、次の日にはもっと具合が悪くなってしまって。抱っこしたらびっくりするぐらい重たくて、これはおかしいと思いました。
再度病院に行って尿検査をしたら、測れないぐらいたんぱくが出ていて、大きな病院に行くように言われました。行った先で「これはネフローゼという病気で、治療に長い時間がかかります」と言われて、そのまま入院です。ステロイドを大量投与する治療をはじめたんですが、息子はステロイドを半量に減らしたところで再発してしまい、それから一切ステロイドが効かなくなってしまいました。
これはもう救急車で運ばなければという状態になってしまって、埼玉から東京の世田谷にある成育医療研究センターに救急車で運ばれて入院しました。それが2011年の3月11日です。病院について、しばらくしたらダアーッと揺れて点滴は倒れるわ、壁に亀裂が走るわで大パニックです。しかも原発事故で放射能がどうこう言われていたから、ガラケーで一生懸命情報を調べました。食事も大変で、子どもには病院食が出るけど、自分の食事は出ないからコンビニに行くんだけど食料がないんです。なんとかゲットしたパンひとつで一日過ごすなんてこともありました。
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生きていてほしい
入院して息子の具合は良くなるどころか、同室の子から風邪をもらったのがきっかけで敗血症になってしまいました。ICUに入って人工呼吸器をつけられて、カテーテルを入れられて……まだ小さくて暴れてしまうので、鎮静をかけられて眠らされていました。そんな息子の姿を見たときに、親としてこんなことを言っていいかわからないけど、この子は何ヶ月も苦しんできて、これ以上苦しむなら、楽になって逝ってしまった方がいいのかなとも思いました。
でもあるとき、私が「今日はもう帰るね」と言ったら、小さくイヤイヤしたんです。鎮静をかけられていて目は開かないけど、耳は聞こえていたみたいで。ICUで隣だった女の子も、私からすると寝てるだけに見えるんだけど、その子のお母さんが「この子は嵐が好きなのよ」と言って、嵐の曲をかけると「喜んでる」って嬉しそうにするんですよね。それまで私は、寝たきりの人や重い障がいのある人が生き続けるのってどうなんだろうと正直思っていたんです。
だけど、1ヶ月ぐらい経つと、嬉しそうな感じがするとか、これは嫌なんだなって分かるようになるんです。それで、やっぱり息子には生きててほしいって思うようになりました。なんて言っていいかわからないけど、何もできなくても生きているという事実が目の前にあるだけで、周りの人が安心するというか。息子がイヤイヤする姿を見て「ああ、とにかく頑張るしかないな」って思ったんです。息子の病気をきっかけに、私の考えはすごく変わりました。
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やってみたいこと
治療は長くかかりましたが、幸い息子に合う免疫抑制剤が見つかって、1年くらいかけて普通の暮らしができるぐらいまで回復しました。何かあったときのために、そのまま入院しておくこともできたけど、外に連れていこうと思って思い切って退院させました。その後、息子が4歳になる前に埼玉から三重に移住して、間もなく夫とも離婚しました。 息子は小学校4年生ごろに自閉スペクトラム症の診断を受けて、学校生活も苦労しましたね。小学校1年生からずっと行き渋りで、6年生まで毎日送迎していました。下駄箱でしばらく入れずにいるのですが、なんとか中に入っていくのを確かめてから自宅に戻り、学校からの電話があるといけないので待機していました。中学3年間は完全不登校でしたが、この春から通信制の高校生になりました。
息子が東京で入院していたときは、家と病院が離れていたので、病院の近くにある(ドナルド・)マクドナルド・ハウスという入院患者の家族のための施設で寝泊まりしていました。そこには、地方から出てきて泊まり込みで付き添いをしているお母さんたちがいて、中には子どもが生まれてから10年間そういう暮らしをしている人もいました。みんな自分のことは置き去りで子どもに付き添っているんです。
そういうお母さんたちのために何かできないかと思ったけど、「ダンスしましょう」とは言えないじゃないですか。「ダンスなんてハードルが高いし、そんな気分じゃないわよ」って言われると思うんですよね。でも、みなさんマッサージとかにはお金を払って通っていたので、ヨガだったらやってもらえるかなと思って。これまでも障がい者施設や高齢者施設ではヨガやダンスをやってきましたが、病気の子どもたちに付き添っているお母さんのためのヨガも、いつか実現したいことのひとつです。
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みんなに場をつくりたい
私は踊るのは好きだけど、舞台の真ん中で踊りたいとは案外思っていないんですよ。私が踊りをやるのは「みんなに場をつくりたい」からです。1998年に「オービタルリンク」という即興のイベントをはじめたのも、あらゆるジャンルのパフォーマーが自分の表現を模索しながら、やる側も観る側もジャンルの垣根を超えて出会ってほしいという思いがあったからです。ラジオDJをしていたときも、自分が面白いと思ったら無名の人でもゲストに呼んだりしていましたからね。当時から今にいたるまで、やっていることは変わらないと思います。
今日撮影をしたアトリエ第Q藝術も、大きすぎない���模だからこそ「個人」が見えて好きなんです。劇場が大きくなればなるほど、後ろの方まで届くように表現しようと思って動きが大きくなり、身体の動きだけを見せることになることが多いと思うんです。そうすると結局、どれも同じような作品になってしまうというか。私は、踊りの完成度はどうでもよくて、その人が踊りを通して「本当のこと」を言ってるかどうかを知りたいんです。そういうことが見えるのは、このぐらいの規模の劇場かなと思います。チーフディレクターの早川誠司さんには以前からお世話になっているし、舞踏や演劇関係の友だちもよくここで公演をしているので、私のルーツのような場所でもありますね。
人生って、「あのときあそこに行ってなかったらあの人に出会ってない」とか、そんなことばかりじゃないですか。でも本当に好きなことを続けていたら、絶対にまた元のところに戻ってくるし、ずっと会っていなかった人ともまた会えるんですよね。もっと別の仕事をする機会も、別の人と付き合う機会もあったろうけど、そのときの自分がそれをやりたくて選んだんだしなって。自分は、いつも「こういうことを考えている人がいるなら、こういう場所をつくったらいいんじゃないかな」と思って、場所をつくって人と人をつなげてきたんですよね。さらに、自分の場合はそこに「踊り」がありました。そうしてここまでやってきて、今の自分があると思います。
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(2023年3月26日収録) 取材協力=アトリエ第Q藝術
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